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2021年2月 6日 (土)

「所有」とは何か

「所有」とは何か

 

【はじめに】

 この「マルクス研究会通信」では、一定のテーマにもとづいて系統的に研究したノートを紹介してきたのであるが、ここではそうした分類以外のものを紹介していきたいと考えている。これはいろいろな機会に作成したノートを読み返した時にたまたま見つけ出したものや、どこかのセミナーで報告するために書いたレジュメ類や、あるいは毎日書いている日誌にその時々に思いついたことや気づいたものを書きつけたもの、あるいは友人や仲間とのメーリングリストのなかで議論になったものなど、いろいろな機会に論じた理論的な問題を、それぞれの内容にあった表題をつけて紹介していくものである。もちろん、公開するにはそれなりの意義があると私自身が判断したものであることは言うまでもない。

 

§§「所有とは何か」§§

 (最初に紹介するものは、友人のT氏へのメールに添付したものである。これを書いた当時、私は白内障を患い、ほとんど文字が読めず、さまざまな拡大鏡を使って、何とかぼんやり読めるという状態だった。その後、白内障の手術を行い、今は老眼鏡をかけるだけで読めるようになっている。)

 TさんからA氏の大学院時代の論文が送られてきた。所有法則の回転を論じたものだが、さすがに学者になるだけのものだと思うものである。ただ、今は無理をして読むのは止めて、モニターに拡大して少しずつ読んでいるので、すぐには評価を下すことは出来ない。有井氏の所有論に大きく影響されたものと言える。所有を単に法的関係としてだけで理解することが果たして正しいのかは少し疑問がある。というのはマルクスが「諸形態」で論じている限りでは、必ずしもそういう風には読めないからである。ただ『批判』序言では、マルクスは所有諸関係を生産諸関係の法的表現と説明しており、その限りでは確かに所有諸関係というのは生産諸関係の法的表現なのであり、イデオロギー的諸関係の一つと考えることが出来るのである。しかしここでは諸形態などに依拠して(と言っても諸形態を今は読み返すことも出来ず、ただ以前読んだ記憶にもとづいてなのだが)、そもそも所有とは何かについて少し論じておきたい。

 所有というのは、そもそも何かと言えば、それは個人が対象に対して自分のものとして関わることをいうのである。しかしそれは個人が社会的存在であることを前提している。というのは、例えばロビンソンクルーソのように、孤島に一人だけいるような人間なら、そもそも彼を取り巻く島の自然に対して、いちいち「自分のもの」として関係する必要はないからである。彼が島の自然に対して「自分のもの」として関わる必要があるのは、彼以外に島の自然に対して「自分のもの」として関わる人がある場合にのみ言いうることなのである。彼以外にそうした人物がいないなら、彼はそうしたことを意識せずとも、彼が手を伸ばした自然は彼のものであり、彼のものとして関わることになるであろう。彼がそれが彼のもの、つまり彼の所有するものとして意識するのは、彼以外にそれを自分のものとして関わる他の人があって始めて言いうることなのである。
 ところがそもそも人間というのは、孤島に流れ着いたクルーソーは論外として、社会的な存在である。ある個人がこの世界に存在するためには、彼が神でない限りは、彼を生み出した二人の人間(男女)を前提しなければならない。つまり彼は生まれながら一定の人間集団を前提してこの世に生を得るのである。だから彼が自然に対して「自分のもの」として関わるということは、彼が所属する社会組織がそれを承認することを前提する。彼の所属する社会組織が彼iに対象にたいして「自分のもの」として関わることを認め、他の人が同じものを「自分のもの」としてかかわり、彼を排除しないことを認めることを前提にしているのである。あるいは彼の所属する社会組織そのものが、自然を我が物として関わっているが故に、彼もその自然に対して「自分のもの」として関わることができ、同時に、同じ組織に所属する他の人々もそれらに対して「自分もの」として関わることを互いに承認し合っている関係なのかも知れない。つまり「共有」である。その場合は彼は個人的にだけでなく、同時に社会的にも自然に関係し合っており、その場合は彼等自身の関係が直接社会的な関係なのである。(原始的な共同体社会)

 人間は社会的存在であるからと言って、人間の社会的関係が、彼ら自身の関係であるとは限らない。むしろ人間の社会的関係が、個々の構成員自身の関係として彼らの自覚的な統制のもとに置かれている場合というのは、極めて限られた人間社会の初期の歴史段階に過ぎない。それ以降は、彼らの社会的関係は、彼ら自身の関係でありながら、彼らの関係ではないようなものへと、彼らから疎外された、一つの自立した関係として立ち現れてくる。そうすると個々人は私的な存在になり、彼ら自身の社会的関係は、一つの公的・政治的関係として彼らから切り離され、特定の諸個人や集団によって代表され、むしろ彼らを抑圧・支配する関係として、すなわち敵対的な関係として立ち現われてくる。そうした公的関係を人格的に代表するものが、すなわち支配者として立ち現れ、彼らは被支配者として位置づけられることになる。こうした私人と公人とへの社会的関係の分裂こそ、私的所有発生の根拠なのである。つまり私人と公人とへの分裂がなく、両者が統一している段階では、所有も統一して現われる。それは個人的であると同時に社会的でもある所有として現われるのである。しかし私人と公人とへの分裂とともに、所有も分裂し、私的所有と公的所有とに分裂する。もっとも最初の私的所有は、ただ単に彼らが公的所有から疎外されているという形で現われ、公的なものを公人としての立場で占有する者にのみ、それを私有するという意味での私的所有が現われるのみであろう。個々人は公的所有から疎外されて、ただ疎外された(つまりすでにかれらのものではない)、ただ共同で占有するだけの存在になっている。だからこの場合は彼らはむしろ所有一般から疎外され、ただ占有しうるのみとも言える(アジア的生産様式)。

 人間は彼らの生活を維持し再生産するために、自然に働きかけて有用物を生産し取得しなければならず、その彼らの生産において社会的関係を取り結ぶ。彼らの社会的関係が直接的である場合、彼らはそれらを彼ら自身の意識的な統制のもとにおき、彼ら自身の関係として取り結ぶことが出来る。しかしこれは限られた初期の歴史的段階のみである。彼らの社会的関係が彼ら自身から切り離されていくならば、彼ら自身の社会的関係は彼ら自身の関係でありながら、彼ら自身のものではなく、彼らから切り離され、彼らから自立した関係として、彼らに敵対し支配する関係として立ち現れてくる。
 この人格的に依存した関係、支配・被支配の直接的な関係が、同時に彼らの生産関係としても現れる。

 彼らが生産における社会的関係を直接取り結ぶことが出来ないなら、彼らは彼らが生産した物を互いに交換することによって、彼らの社会的関係を物の関係として取り結ぶことになる。こうして物に備わる新しい社会的属性が、すなわち物象的関係なのである。生産物はそれ自体としては一つの加工された自然物でしかない。金は一つの金属の固まりに過ぎない。それは一定の社会的属性を帯びることによって、貨幣になる。金貨をロビンソンの島や月の世界にもっていくと、たんなる金属の固まりになる。つまり貨幣という社会的属性は、一定の社会を前提して始めて物に備わる属性なのである。
 だから商品や貨幣という物に備わっている社会的属性は、人間の社会的関係が物の関係として現われているものである。「人格の物化(物象化)」。それを物象関係という。そしてこうした商品や貨幣の物象の運動に規定されて、人間自身に備わる属性がまた出てくる。すなわち商品所持者(あるいは商人)や貨幣所持者(高利貸し)等々である。こうした物象的関係に規定された人格的規定性やその諸関係(資本家と賃労働者など)を「物(物象)の人格化」という。

 A氏(ということは有井氏もということだが)は、「所有」を単なる「意思関係」と見るのだが、果たしてそれは正しいであろうか。すでに述べたように、それは決してある個人の意思だけが問題なのではない。個人が対象に対して「自分のもの」として関わる限りにおいて、それは確かにその個人の対象に対する意思関係には違いない。しかしそれだけで「所有」関係が成立するわけではないのである。彼の対象に対する「自分のもの」として関わる関係が彼が所属する社会組織において承認されて始めてそれは「所有」関係になるのである。だからそれは決して単に個人の「意思関係」だけではなく、社会的規範関係において承認された意思関係なのである。だから彼の所有が「どういう」所有であるかは、彼が所属する社会組織がどういうものであり、彼がその社会組織のなかでどういう位置関係にあるかによって決まってくる。
 所有というのは、対象に対して「自分のもの」として関わることであるが、しかしそのことはその対象を排他的に「自分のもの」にすることを意味するわけではない。彼が対象に対して「自分のもの」として関わると同時に、他の人に対して排他的に関わるためには、彼自身が、つまり「自分」が他の人と排他的関係にあることを前提する。つまり他の人々とすでに排他的な関係にあるからこそ、その個人が対象に対して「自分のもの」として関わると、その関係が同時に排他的関係ともなるのである。
 もし彼が社会組織の他の構成員と直接的な社会的関係を取り結ぶ関係にあるなら、彼は対象に対して「自分もの」として関係しながら、同時にその自分自身が関係する他の人々とその対象を彼が取り結ぶ社会的関係のもとで「自分のもの」として彼が関わっていることを自覚しており、だから「自分もの」であると同時に、「他の人々のもの」でもあることを自覚している。
 「自分のもの」として関わる対象が、個人的に消費する対象の場合は、それはあくまで個人が消費するのであって、それを同時に他の人も消費するなどということは、消費する対象にもよるが、物理的には不可能な場合もある(衣食住のうち食などはそうであろう)。だからそうした場合は「個人的であると同時に社会的である」などということはそれこそデューリング流の「朦朧」概念であるかに見える。しかしそうではない。個人的消費は確かに個人的行為ではあるが、しかしそのことはその行為が排他的であることを決して意味するわけではない。というのは彼の個人的消費そのものが決して排他的な個人的行為ではなく、個人的行為であるとともに同時に一つの社会的行為でもあるからである。なぜなら、それは社会的な彼自身を再生産する行為であり、ひいては彼が所属する社会組織そのものを維持し再生産する社会的行為そのものだからである。だから彼は個人的に対象を消費する場合でも決して社会的であることを止めるわけではない。彼の個人的消費や享楽や欲望そのものもそれらは社会的であることを決して止めないのである。彼は対象を自分の欲望を満たすために自分のものにし消費するが、しかしそれは社会的な彼自身を維持し再生産することでもあることを自覚しており、だからその行為そのものを社会的な物質代謝の法則に則ったもっとも合理的な形で自覚的に行うのである(このブルジョア社会における排他的な個人的消費がさまざまな浪費や無駄をともなっていることを想起せよ!)。

 A氏は、「所有関係」を単に商品所有者間の関係としてのみ抽象し、だから所有関係は商品という物象の運動に規定された人格の意思関係に他ならないという。しかしこれは所有の極めて限定された規定であろう。所有一般の規定としては不十分ではないだろうか。(2017年10月20日起筆)