無料ブログはココログ

林(紘義)理論批判

2016年7月17日 (日)

林理論批判(44)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§--続き

 (今回は、前回、林氏の記事の検討の途中で切れていたものの、続きである。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 どうも、ついつい、横道に逸れがちになるが、われわれは、マルクスから謙虚に学ぶことを続けよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券

 (2)現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。

 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。

 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを表しているわけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を表しているとされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が表しているものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろうか。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるのかも知れない。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、現実資本に対する所有権を持っていると考えることができるのかもしれない。(3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている。

 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を表したり、現実の資本、または前貸された貨幣額を表したりしているのだが、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、という含意なのである。

 そしてその次に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということを具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに販売され、さらにBはCに販売した場合、A、Bは権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させたと書かれているが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)に転化させたということであろう。そしてCは彼の貨幣資本(利子生み資本)を《株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである》とされている。つまりCにおいては、株式はたんなる剰余価値に対する所有権原でしかないとマルクスは考えているわけである。

 《(1)国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖を不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》/(5)貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である》(大谷訳27-29頁)

 このパラグラフは長いので、われわれは便宜的にそれを五つの部分に分けて考えるために、「/」を挿入して、それぞれの部分に番号を記した。それにもとづいて考えていくことにしよう。

 まず(1)の部分である。マルクスは架空資本の自立的な運動を、考察しようとしているのであるが、その書き出しを《国債証券であろうと株式であろうと》と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかなのである。ところが、林氏は国債(彼はそれを「債券」などと一般化して論じるのであるが)と株式とでは違うのだということをことさら強調している。そればかりか林氏は国債の場合は架空資本ではないとさえ主張するわけである。こうした主張を聞けば、誰しも、林氏が本当に『資本論』を読んでいるのかどうかを疑うであろう。セミナー当日、私は林氏に対して、「『資本論』をキッチリ読んで下さい」と言ったのであるが、林氏は、そうした私の発言そのものを不穏当なものとして糾弾しているぐらいだから(恐れ多くも林陛下に何ということを言うのか! というわけである)、恐らくそのあとも『資本論』を一つもまじめに検討などせずに、あの『海つばめ』の関西セミナーの報告を書いているのであろう(もし彼が私のいうとおりに『資本論』を読み直し、そして誠実さのカケラでもあるならあのような記事を平気で書けないハズである。『資本論』を一番しっかり勉強していないのは、実は、林氏本人なのである!)。だからこそ「債券」などというブルジョア経済学的な用語を平気で使い、国債(債券)と株式は違うなどと馬鹿げた主張を展開することになっているわけである。国債と株式とが異なることは誰でも分かっていることである。しかし今問題になっているのは、自立的な運動をする架空資本として両者は同じものと考えることができるかどうかなのである。とにかく林氏に言及すると、ついつい横道に逸れてしまうので、これぐらいにして、マルクスの一文の検討を続けよう。

 (1)《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。

 これを読むと、マルクスは国債も株式も《所有権原》を表しており、その《価値》が《自立的な運動》を行なうと考えている。もちろん、ここで「価値」というのは、それまでマルクスが述べてきた「架空資本」としての「資本価値」のことである。その自立的な運動が《それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》というのは、《それらを権原たらしめている》というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面価格があり、その額面が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間利息を請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも《現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として《それらの価格は独特な運動および決まり方をする》のだという。ここで《現実の資本を形成しているかのような外観》というわけだから、それらは決して《現実の資本を形成して》いないのに、《形成しているかのような外観》、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は本当の意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。これは利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を購入する貨幣資本家は彼は彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し借りが商品としての貨幣の売買という外観を得るのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 (2)《それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。

 ここには《市場価値》と《名目価値》という用語が使われている。ここで《市場価値》をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは第10章で《市場価値》について次のように述べていた。

 《これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の商品の価値の平均価値という意味である。しかしマルクスは同時に《最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって》とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここではわれわれにとって重要なのは、《市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである》というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている《市場価値》は《市場価格》の中心をなすものという意味での《市場価値》という意味と考えることができる。つまり国債や株式が実際に売買される価格(市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、《市場価値》というのは、そうした日々変動する《市場価格》を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。だからそれらの《市場価値》も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心にした市場価格でそれらは売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。

 さて、以上のようにわれわれはマルクスが『資本論』(の草稿)で述べている内容を詳しく見てきたのであるが、次にわれわれが確認しなければならないのは、こうしたマルクスが『資本論』で述べていることを林氏は果たして正しく理解しているのか、ということである。もし林氏がそうした内容を正しく理解しているのなら、そうした林氏に対して、「『資本論』をしっかり読み直せ」と言った私の発言は、確かに「よくない」(「通信」No.38に紹介されている京都支部の意見)ものであり、ただ「暴言」としか言いようがないものであったであろう。

 もし私の「『資本論』をもう一度良く読み直して下さい」という発言が「よくない」(京都支部の意見)というのなら、それは次のような場合であろう。つまり私の発言は、われわれはマルクスの『資本論』から謙虚に学ぶことを共通の前提にしているのであるが、一部の人たちは、マルクスがどう言っているかといったことはどうでも良いことだと考えているということである。つまりここには両者に共通の前提がそもそもないということである。確かにこうした前提のもとでなら、私の発言は「よくない」というか、無意味なものとなるであろう。京都支部は恐らくそういう前提に立っているのであろう。彼らは自分自身で『資本論』をもう一度確かめた上で、なおかつ私の発言が「よくない」と思っているのであろうか。もしそうなら、そうしたこととしか考えることはできないわけである。
 
 林氏があんな無茶苦茶なことを『海つばめ』で書いているのに、全国の会員からは誰一人として、それは『資本論』でマルクスが論じていることと違うではないか、という会員の声は現われない。一体、彼らは『資本論』を何のために読んでいるのか。一体、支部の学習会として『資本論』を3巻の終わり近くまで勉強しているところもあるのに、彼らは何を勉強したのであろうか。『資本論』を真剣に学んだのなら、林氏の言っていることが間違っていることぐらいはすぐに分かるはずである。にも関わらず誰も一言も何も言わない。言えないのであろうか。こうした同志会の現状はまったく不健康であり、正常とは言い難い。林天皇のお言葉は絶対であり、それに逆らうことは「よくない」(京都支部)とでも考えているのであろうか。馬鹿げた話である。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (以上で、この記事を批判する文章は終わっている。恐らくここまで書いて、こんな調子で『資本論』の草稿を読みながら、その内容を確認して行くぐらいなら、そもそも最初から第29章該当部分の草稿の詳しい解読をまずやってからにした方がよいのではないか、と考えて、記事の批判は後回しにして、草稿の解読の方に軸足を移したのであろうと思う。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【資料】

●『海つばめ』1110号(2009.12.13) 【三面トップ】
恐慌とその歴史について
関西労働者セミナーの議論

 十一月二十八、二十九日、首都圏についで関西でも、「恐慌とその歴史を探る」という同じテーマで労働者セミナーが開催された。もちろん、首都圏と同じ傾向の議論もあったが、またそれとは別の問題や、首都圏では全く論じられなかった問題も討論の中で突き出された。ここでは、主として首都圏とは違った議論を紹介しよう。
◆社会関係から説く視点弱く
 最初の平岡報告――産業資本が勃興してきた時代、資本主義の自由競争の時代の恐慌――については、首都圏セミナーと同様に、産業資本が社会の主要な(あるいは支配的な)契機もしくは内容として展開してきたという視点がなく、“生産力主義的”な偏向があり、恐慌の説明として説得的でなかったということが基本的な批判点として出された。
 資本主義的恐慌は資本の本性と密接に関係しているのであって、単に生産力の発展とか一般的競争の激化ということだけの問題ではない。例えば、資本は「自己増殖する価値」であり、蓄積のための蓄積、生産のための生産を――つまり労働を搾取し、剰余価値を、より大きな剰余価値を獲得するための、たえず増大する資本の蓄積を――本性とするのであって、その本性は「貿易や投機」とか、「市場を開拓する歴史」ということとはいささか違った次元に属するだろう。
 またレジュメの始めで、イギリスにおいて最初に資本主義が発展したことの説明として、それが綿工業と結び付いており、イギリスが海外から綿花を手に入れやすい条件を幸運にも持っており、その点で他国よりも有利な地位にあったからである、と主張し、またこれは首都圏でも疑問としてだされたが、「つまり恐慌を克服するために市場を開拓する歴史を繰り広げてきたが、それはより大きな過剰生産、そして恐慌を引き起こす結果に終始した」と主張したことについても、「ローザ主義ではないか」という批判が出された。
 イギリスにおいて産業資本主義が勃興したのは、単に綿花を取得することが他国よりも容易だったとか、産業革命が行われ、生産力が発展したということではない、あるいはむしろ産業革命にせよ、急速な生産力の発展にせよ、それはまた他面ではイギリスにおいて急速な資本主義的発展が開始されたから、その結果でもあるのであって、実際には、資本の蓄積の進行や資本の原始的蓄積の問題、あるいは一五世紀から延々一九世紀の始めまでも続いた――断続的ではあれ――囲い込み運動(エンクロジャー)など、封建的な生産関係の解体が進んだという歴史的な過程こそむしろ重要な歴史的契機であったが、こうした社会関係の問題はほとんど論じられていないのであるが、それは恐慌を一貫して社会関係の進化と発展の問題として論じ、取り扱おうとする視点が弱いことと関連しているように見える。
 また、報告者の見解では、資本主義は植民地や“外延的な”市場が存在する限りで発展することができ、それが行き詰まった時点で瓦解するかに取れる叙述があり、それが恐慌論と結び付けられているかだが、それはローザらの帝国主義の理論とどれだけ違うのか、という疑問も提起された。
◆宇野学派的“タイプ論”に純化
 独占資本主義への過渡期、もしくは独占資本の時代の恐慌を報告した田口報告に対してもいくつかの疑問もしくは批判が出された。
 田口は、東京でのセミナーの批判を受けて、「追加」のレジュメを提出し、独占資本と恐慌との関係について、独占資本主義は一方では生産力をかつてないほどに急速に発展させるとしながら、他方では、新しい特徴が現われるとして次のように論じた。
「だが同時に、生産力の発展を阻害する要因も現れる。独占の地位にある企業は、たえず生産力を発展させて特別利潤を追求するという動機を弱める。独占資本は、独占価格の維持と独占利潤の安定的確保を目指し、飛躍的な生産力発展による生産物の急激な増加と生産物の価値の低下、そして投下固定資本の価値の社会的磨滅などが起これば、これらは独占企業にとって、利潤を低下させる限り利潤増加という目的と反することになる。
 独占資本は、企業は、相互の激しい競争によって生み出される過剰生産能力を、さらに激しい販売競争によって相互に切り捨て合うよりも、生産協定(シンジケート)によって過剰設備を遊休化し、また新技術のそれ以上の利用を阻止し、価格協定(カルテル)によって、独占価格による安定的利潤を得ようとする。
 こうして独占の下では、かつての生産力の飛躍的発展から一転して、投資の一斉抑制、蓄積された利潤の貸付資本形態での温存〔これはどういう意味か、なぜ「貸付資本形態での温存」か。何を説明しようというのか――林〕、新技術の非利用、新たな資本の独占的部門への参入阻止などが、特定の時期の独占の政策として行われる。過剰生産の重圧のものでの停滞の持続への傾向――これらは独占資本主義のもとでの蓄積の諸特徴である」
 しかしこうした独占資本主義に固有な諸特徴は、この時代の特徴として位置付けられ、深められるのではなく、独占資本のもとでも生産力は急速に発展するという見解と同列のものとして並列され、さらに宇野学派的な「独占資本段階はタイプ論」という観念と結合されて、停滞的な特徴を示すのは英仏、発展的特徴を示すのは米独であり、しかも独占資本の段階として特徴的な資本主義は米独であると言われたので、全体として何を言いたいのか分からない、矛盾し、混乱したものとなっている、という批判をこうむることになった。
 報告者の理屈によると、米独こそが独占資本主義段階を代表する資本主義国家であり、そこでは大資本間の競争がより貫徹し、高度な独占が成立し、そして生産力も発展し、資本主義として繁栄し、また鋭い恐慌に見舞われるというのだが、それでは、資本主義一般の生命力を語っていることにはなっても、資本主義の独占段階の特徴を積極的に展開しているとは到底いえないのではないか。
 他方、英仏は停滞し、頽廃した資本主義の特徴を表わすが、それは独占資本主義を代表するものではないというのだから、何を言っているのか、論理的な整合性はどこにあのか、という疑問が提起されるのもやむを得なかった。
 そしてまた、恐慌と固定資本の関係も再度議論された。問題とされたのは、首都圏でも槍玉にあげられた、次の文章である(一部は『海つばめ』前号でも引用したが、全文は以下のようなものであった)。
 「資本主義の発展が鉄鋼業を中心とするようになったことは、不況を長期化する大きな要因となった。
 鉄鋼業は投資額でも経営規模でも、以前の工業の主体であった綿工業を凌駕して大工業部門となった。この発展は大型高炉やベッセマーなどの新技術の導入によって実現したが、そのために固定資本が巨大化したことは資本の自由な移動を制限し、景気変動の形態に変化を与えることになった。
 すなわち綿工業など軽工業の場合は、好況時の需要増大に応じて生産は漸次的に拡大され、したがって不況期における需要減退による資本破壊も好況期に稼働してきた固定資本にたいして生じる。
 しかし巨大な固定資本を要する鉄鋼業など重工業ではこれとは異なった傾向をもつ。溶鉱炉などの建設には二、三年の期間を要し、そのため好況期の需要増大に対して対応は遅れる。好況期の需要増大に基づいて生産設備が拡大したころには、景気が不況に転じるなら新設備によって一挙に増大した生産は、不況期に減退した需要に対して供給を著しく過剰にし、不況期による固定資本更新は弱められ、景気回復はおくらされる。
 資本の移動の困難は価格低落を持続化させ、不況を長期化する傾向をもつことになる」
 こうした理論に対しては、不況の問題が生産力主義的に、技術的に(卑俗に)論じられていること、そしてそれと関連して固定資本は「自由に移動」できないと主張されていることなど俗流的な議論であると批判された。
 そして、報告者はこうした理屈は宇野学派が唱えているものだと紹介したが、会場から、宇野学派以前に、ヒルファーディングの「金融資本論」の中に同じような見解があるという指摘がなされた。宇野学派の俗論の多くがヒルファーディングに依拠していることからして、これもその口の一つということだろう。宇野学派だから、ヒルファーディングだからと悪いとはいわないが、彼らの理論が固有のドグマや卑俗さ、俗流さに深く侵されているということは、我々がこれまで散々に語ってきたことである。“ヒルファーディング的な”(つまり宇野学派的な)、あるいは“スターリン主義的な”、いわゆる“学界”ではびこっている(はびこってきた)観念に対して、批判的に接近しないで安易に追随することは問題であろう。
 そこにこそ、独占資本の段階と恐慌という重要なテーマに、報告者がなかなか接近できなかった根本問題があるのではないか。
 まとめのような形で、最後に司会者から、独占段階の資本主義を特徴づけるなら、米独というより、むしろ英仏の方をこそ重視すべきではないか(報告者は独占は英仏には現われていないかに言うが、そんなことはない)、そしてその場合には海外への資本輸出(投下)なども注視されるべきだが、それも正しくは提起されていないという発言があった。
◆現代資本主義と恐慌の問題は未解決?
 三番目のテーマにあっては、二九年の世界大恐慌と、その後の資本主義――第二次世界大戦後から現代までも含めた――をいかに評価するか、という極めて重大な点で議論が行われたが、なかなか“結論”といったものに議論が収斂して行かなかったが、それはまた現代が混乱と矛盾を含んだものとして展開中であって、歴史が、簡単に、割り切った解答を提供していないということもあったであろう。
 二九年の大恐慌については、それがいかにして勃発したかという点については、東京のセミナーと同様に、報告は極めて不十分で、明確ではないという批判が多かった。例えば、レジュメの次のような説明が問われることになった。
「27年の後退のあとは、国内の寡占競争の激化、さらにはヨーロッパ工業の復興による世界市場での競争の激化を背景に、鉱工業企業はコスト切り下げのため設備投資を拡大した。そしてこの時期の景気拡大は、20年代末の株式ブームに引っ張られて進められた面も強かった。20年代には一般に大企業は償却資金と留保利潤を合わせた自己金融によって、設備投資だけでなく運転資金の多くをまかなうことができた。こうした自己金融の進展の中で、銀行の事業貸出は停滞し、好況下での資金形成の増加は金融の緩慢を促し、証券市場の活況を招いた。……28年以降は、株式投資信託が急速に普及したこともあり、一部の企業では投資資金の調達のために株式を発行するようになり、株式ブームは実体経済を離れて独走するに至った。……しかし社会的再生産過程から遊離した株式ブームは、早晩崩壊せざるを得なかった」
 二九年の大恐慌のこうした説明もしくは特徴づけは現象的であるばかりではない、経過や内容としても正確ではないのであって、例えば、「自己金融」が一般的になったから、「証券市場の活況を招いた」という説明自体、因果関係や意味が不明であり、一体誰がこんなことを主張しているのかが問われることになったが、報告者によれば宇野学派の学者の理屈であるということであった。
 ここでは、20年代にアメリカで生産力の発展があったから(株式ブームもあった)とかいうだけでは大恐慌の説明として余りに一面的だ、第一次世界大戦においても生産力の大きな発展があったのではないか、それは無関係なのか、また戦後の世界の体制とか諸関係や、世界市場という側面からも検討する必要はないのか、等々の疑問も出された。
 大きな議論になったのは、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という報告者の命題については、東京のセミナーにつづいて大阪でも疑問や批判が相次いで、必要なことはニューディールが歴史や現実の中でいかなる役割を果たしたのか、どんな歴史的な意義をもったかであるということが確認された。
 また報告者はこの命題は事実であるとがんばるが、しかしこの命題は事実しても正しいのか、ということが問われた。ニューディールをやっている間に、生産が大恐慌の前の水準まで回復しなかったということだけが言えるだけであって、五まで落ちこんだのが七や八まで回復した時期もあったし、そもそもニューディールは第二次大戦の中に消え去ったというのだから、回復しなかったか、し得なかったかが言えるわけがないではないか。大戦が起こらなかったら、ずっと恐慌が続いた、つまり慢性恐慌こそが現実的だったということか、という疑問も出されたし、ニューディールをどう理解するかにもよるが(革命後のロシアのネップさえも、新経済政策つまりニューディールある云々)、ヒトラーが三三年に権力を握った後採用した政策はニューディールと言えるのか言えないのか、ヒトラーのやり方は(それも仮に「ニューディール」と言えるとするなら)恐慌も失業問題も表面的には「克服した」と言えるのだから、ニューディールは「恐慌を克服しなかった」という命題は成り立たなくなるではないか、等々の批判的意見も出された。
 管理通貨制度が一般化し、またドルさえも金とのつながりを絶って、国家独占資本主義的政策(ケインズ主義的政策)が採用された戦後の資本主義についても、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という命題と関係して議論が及び、戦後もまた過剰生産は「整理」されることなく延々と持ち越され、自由主義段階の資本主義のように自然に破壊されることもなく、また独占資本主義の時代のように(?)戦争によっても廃棄されないで来ている、そしてバブルは信用バブルというような形でしか発生しない、とするなら、今後はまた戦争しかないのではないかという“超悲観論”を持ち出す人も出たりして、戦後の資本主義と恐慌一般という問題が議論された。
 戦後の何度かの不況を産業恐慌と言えるかどうかはさておくとして、現在進行中の不況についても、それは産業恐慌であるという論者もいれば、そこまでは言えないと反論する者もいるといった具合で、産業恐慌が現在も存在するのか(勃発するのか)、それともそれは国家独占資本主義の体制の中では“消えて”しまったのか(「景気循環」は存在するにしても)、という点では、セミナーの中では全体としての確認(合意)は生まれなかったと言えようか。今後の資本主義の運動と経過を見るしかないということであろうが、中国経済の今後が焦点となるという点では、多くの論者も一致しているように見えた。
◆サブプライムの信用メカニズム
 最後の金融恐慌のテーマについては、関西では、サブプライムの「証券化」のメカニズムについて突然に論争が始まったが、それはもちろん、この新しい信用形態の根本的な理解にかかわっていた。
 問題を提起した論者は、マルクスが『資本論』で、資本主義ではすべての収入が利子率によって還元(“資本還元”)され、擬制的価値を持つと言っている、サブプライムの「証券化(商品化)」にもこの理論を適用すべきである、証券化された商品の「価格」もまたローンからの収入(返済金)によって決定されると理解すべきだ、という理屈を持ち出したのであった。
 しかしマルクスのこの理論は、株価とか地価などを“法則的に”、つまり概念的に規定するために述べられているものであって、どんな「収入」にも適用されるのものではない(マルクスは、すべての収入は利子率で資本還元されて擬制的価値を持ち得ると言っているだけで、すべての擬制資本はある収入を利子率で資本還元されたものだと主張しているわけではない)、とりわけサブプライムの証券化の場合には適用できるはずもない、論者はマルクスの言葉は知っているが、しかしその正しい意味を理解しているとは言えない、という報告者の立場との間に鋭い対立が生じた。
 そもそも、《あれこれの収入が利子率で資本還元されて「価値」を持つ》というのは、こういうことである。
 例えば、ある土地を貸し付けることから五万円の収入(地代)があると前提して、その土地の価格が問題となるとき、それがそのときの利子率(一%と想定する)で資本還元されて(五万円÷〇・〇一)五〇〇万円の「価値」(土地価格)を持つと想定されることを言う。こうした場合に、一定の収入は発達した資本主義的生産様式のもとでは、擬制的な価値を獲得し、売買されるのである。これは、五〇〇万円を貨幣資本(利子生み資本)として投資した場合、五万円の利子所得(収入)が得られるが故に、五万円の収入をもたらすもの(社会的関係)は五〇〇万円の「価値」をもつものとして社会的に通用することができるということである。
 株の価格もまた同様であって、株価は額面価格の何倍かの「価値(価格)」で売買されるのだが、それは例えば、額面五〇万円の株の配当が五円だったとすると、この五円の配当が一%の利子率で資本還元されて五〇〇万円の「時価」を持つようになるということである。五〇万円の額面価格は、当初の払い込み金として、現実資本の「案分比例的な」権利として実際的な意味をもつのだが、五〇〇万円の“価格”(実際の“株価”)は純粋に擬制的なものにすぎない。
 もっとも株券にしろ、債券にせよ、それは実質資本とは別の証券にすぎないという意味では、すべて擬制資本であって、銀行などがそれをどんなに大量に保持していたとしても、それは実質的な資本を保有しているということとは全く別である。
 もちろん、配当が五万円の五〇万円の株券は、利子率一%のときに、正確に計算され、予想される五〇〇万円(五÷〇・〇一=五〇〇)の株価になるのではなく、他のあれこれの要因によっていくらでも騰貴して行き得るだろう、しかしバブルははじけるのであり、暴騰した株価は“法則的な”レベルに引き戻されるのである(一九八九年末には、ほとんど四万円もあった平均株価は暴落し、二〇年もたった今においても、一万円以下の低い水準で低迷している、等々)。
 しかし利子率による「収入の資本還元」のこうした理論を「すべての収入」という言葉だけに幻惑されて、その本当の意味を理解しないで、債券とか、労働者と資本の関係とか、ありとあらゆる関係に適用できると考えるのは全くナンセンスであろう。
 例えば、債券に適用しようとすると、一〇〇万円債券の利子一万円を、一%の利子率で資本還元して、債券の価格が一〇〇万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。
 債券の利子率を一%にするから同義反復になるのだ、五%等々にしてみよと言っても、債券の利子率は平均的な利子率によって基本的に規定されているのだから、恣意的に五%にすることはできないし、またそうしても何の意味もないだろう。
 それに、債券の利子率を仮に五%として、それを一%の利子率で資本還元すれば一〇〇万円でなくて五〇〇万円になると主張してみても、実際の債券は五〇〇万円にまで騰貴するはずもなく、依然として一〇〇万円なのだから、こんな「資本還元」の理論など、債券の場合には何の意味もないことは自明であろう(もちろん、債券価格も騰貴や下落を繰り返すのであり、あるいは投機的に暴騰する――したがってまた暴落する――ときもあるが、しかしそれはまた別の問題である)。
 労働者の賃金もまた一定の「収入」だが、それを(仮に、三百万円として)一%の利子率で資本還元して、労働者の「価値」は三億円だとか言うことにどんな実際的な意味があるのか(ブルジョア理論家たちなら、何かももっともらしい理屈をでっちあげるかもしれないが)。これは果たして、労働力の価値ではないとしても、労働者自身の価値ということになるのか(すなわち労働者自身が奴隷がそうだったように売買されるとして)。しかし労働者自身は資本主義のもとでは売買されないのだから、こんな関係について語ることもつまらないおしやべりにしかなり得ないであろう。
 債券について言えば、その「価値」は債権、債務の関係を表示しているのであって、その限り実際的な経済的関係の反映であって、額面と離れて何倍、何十倍もの「価値」(株価)を持つ株券とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもないのである。
 報告者は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーターによる債券の発行であって(つまりオリジネーターは債務を負うのであって、それは返済、つまり債券の償却がなされなくてはならないのである)、それは国家が国債を発行するのと同じであり、ただ国債が税金によって償却される(国家の債務が返済される)ことを前提とされていると同様に、オリジネーターの発行する債券は、オリジネーターが手にするサブプライムローンからの返済金によって償却されることが前提されているのだと説明したが(もちろん、国家が税金を担保に債券を発行する場合と、オリジネーターがローンの返済金を担保に債券を発行する場合の、技術的、実際的な違い等々を考慮すべきではあるが)、しかし必ずしもその意味が理解されなかったようである。
 論者は、「マルクスの理論に基づいて」、住宅ローン金融会社(あるいは一般的に言われる、オリジネーター)が行うサブプライムの「証券化」とは、オリジネーターの「収入」を資本還元するという形で行われ、したがってまたその「価格」は、オリジネーターの収入(住宅ローンからの「収入」つまり返済金)を利子率で資本還元したものである、と事実上主張したのだが、しかし実際に、証券化商品の価格がそうしたものとして設定されているということを示すことはできなかった。論者が主張したのは、マルクスの「すべての収入は資本還元される」というマルクスの片言隻語から、ここでもそのように理解すべきである、ということだけであった。
 実際にはオリジネーター(ノンバンクの金融機関など)がやったのは住宅ローンという債権(同じ発音だが、債券ではない。報告者はレジュメでは、前者をdebt、後者をbondと読んで区別したりもした。全くやっかいで、人をまどわす関係や用語ではあるが)を“流動化”することであり、そのために住宅ローンをいわば「担保」にして(返済=債券償却の原資にして)、新しく債券を発行すること(つまり平たく言えば、オリジネーターが借金すること)であり、そのことがサブプライムの証券化ということの内容であった。
 論者は、この関係を、現実からではなく、マルクスの言葉(間違って、ドグマとして理解されたマルクスの言葉)から出発することによって、わけのわからないものにしてしまったのである。
 論者の理論によれば、住宅ローンの返済金(貸し付け金プラス利子)を利子率で資本還元したものが「証券化された商品」の価格ということになるが、そうだとすると、この価格は(利子率を一%とすれば)住宅ローンの返済金の数十倍にも百倍にもなり得るだろうが、そんなばかげたことがあり得るはずもないのである。
 報告者はオリジネーターが証券化して「売り出す」商品は債券であるとレジュメでも特に強調し、その「価格」は借入金を現しているとことさら説明したのたが、こうしたサブプライムの“証券化”のメカニズムが全く理解されておらず、代わりにマルクスの言葉がドグマとして持ち出され、それによって現実が裁断され、理解されなくてはならないとされたのである。
 ここでは、証券化とは(株式化等々ではなくて)債券化であり、その「価格」は(簡単のために利子を考慮しないとすれば)、借入金の大きさを表現するのであって、その大きさが「いかに決定されたか」などという問題意識そのものがナンセンスである、というのは、どれくらいの金額を(どれくらいの利子率で)貸借するかということは、当事者同士の必要(借りる方)と余裕(貸す方)の相互関係にかかわるだけだからである。
 証券化商品の「価格」(債務の大きさ)は、住宅ローンの返済金に依存しているのである、つまりオリジネーターの債務は、住宅ローンの返済金によって清算され、債券が償却されることが前提されているのであって、それは国債の償却(国による返済)が、国家の収入、つまり税金によってなされることが前提されているのと同様である。
 だから、証券化商品(債券)の「価格」と住宅ローンの返済金の大きさは基本的に対応することが想定されているのであって――もちろん、現実に大きな違いが生じることはあり得る、例えば、日本国家の借金(国債発行高)は国家の税収と全く対応しておらず、極端にアンバランスになっている等々。しかしその理由や意味などについて詳しく論じるのは、ここでの課題ではない――、論者が言うように、最初から一対百などというものになるはずもないのである。そんなばかげた(超リスキーな――というより、投資自身が全く回収され得ないような)有価証券を一体誰が(どんな投資家や銀行や機関投資家らが)買う(“投資”する)であろうか。
(林)

2016年7月 9日 (土)

林理論批判(43)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§

 (二回に分けて紹介した『海つばめ』1111号の林氏の記事を批判する一文の最初のところでは、次のように書いていました。

 〈その前の1110号に対しても、亀仙人は何の反応も示さなかったのを、あるいはいぶかしく思っている方もあろうかと思う。実は、私は直ちに反論を書きはじめたのであるが、この際だからと第29章の草稿部分の詳細な解説を行なおうと思い、やりはじめたのはよいが、それにえらく時間がかかり、まだ終わっていないのである。だからやむを得ず沈黙を余儀なくされている次第なのである。〉

 これを見ると1111号の前の1110号に対する批判も少なくとも書き出したものがあることが分かります。そこでアチコチ捜してみたら、やはりあることはありました。それは未発表だから、当然、不十分な内容ですし、その途中で第29章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかる切っ掛けになったものですから、恐らくこれまで発表したものといろいろと重複するところがあるかも知れないのですが、しかしこの際だから、これも公表することにしました。それが以下のものです。なお、今回も1110号の林氏の記事を資料として添付するために、長くなるので二回に分けて紹介することにします。)

●無理解なのはどっちなのか?

 今から振り返って考えてみるに、そもそも最初に若干の誤解があったような気がする。林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明した。それに対して、私はそうした過程をマルクスがいうところの資本還元として理論的にはとらえることができるのではないかと発言したのである。

 私自身としては、林氏の国債を例に上げた説明そのものは首肯しながら、そうした過程を理論的には資本還元としてとらえることができると主張したつもりだったのである。ところが林氏はどうやら私の主張は自説を批判するものと捉えたような気がするのである。そしてムキになって反論してきたような気がする。だからここに若干の誤解があったわけである。

 そうした誤解が生じた原因は、もちろん、その一部は、私自身の説明の不十分さにもあったと思うが、その後の議論のなかですぐにその主要な理由は明らかとなった。つまり林氏自身の資本還元の理解があいまいで一面的であったからである。私は国債のケースがそうであるようにそれらは資本還元として捉えることができると主張したつもりだったが、どうやら林氏自身は資本還元というのは、地代と土地の価格の関係のようなものには妥当するが、国債のような国の借金の場合には妥当しないと考えていたようなのである。だから私の主張は国債を例に上げた自分の説明に対する対案、あるいは批判と受けとめたのではないかと思えるのである。

 だから結局、議論は最初から横道に逸れてしまい、そもそも資本還元をどのように理解するかなどというようなところに行ってしまったわけである。私自身は資本還元をどう理解するかなどいうことで議論になるとは思っても見なかったわけである(そもそもマルクス自身が国債を例に上げて資本還元を説明しているのだから。国債が架空資本として独自の運動をしていることなど、当然、共通の理解にあるものと思っていた)。だから、そんなことは当然了解済みだと思って自説を主張したつもりだったのだが、その肝心の資本還元の理解そのものがあいまいで一致しないのだから、そこから議論が始まったのは、ある意味ではやむをえなかったのかも知れない。私は議論のなかで国債も株式も証券として売買されるということは、資本還元されて架空資本として自立した運動をすることなのだと説明したつもりなのだが、そこらあたりが林氏にはどうも理解できなかったようなのである。

 だから東三河のS氏がわざわざエンゲルス版の第3部第5篇第29章に該当する草稿部分の大谷氏の翻訳を読んで、マルクス自身も国債を例に上げながら、資本還元について説明していることを紹介して、私の主張の正しさを論拠づけてくれたが、林氏は頑に自説に固執し、「マルクスが全体として何を論じているのか、論旨を掴まないと、そんなことは俄には受け入れられない」というような主旨の発言をして、自分の資本還元の理解のあいまいさや誤りを反省するのではなく、反対に問題を誤魔化し、居直ったのである。

 だから私はそれ以上議論をやってもしょうがないと思い、「『資本論』をもう一度きっちり読んで欲しい」というような発言をして議論を打ち切ったのである。だから私が『資本論』をしっかり読みおなせと言ったのは、人が親切に『資本論』を読み聞かせてその誤りを指摘しているのに、自説の誤りを反省もせずに、居直った林氏に対してであって、セミナーの参加者全員に対してでは決してない。セミナー参加者全員に対して、マルクスを読んでいないと議論に参加すべきではないなどと一体誰が言ったというのであろうか(こんなことはその場に居た人なら誰でも分かっていることである。しかしその場にいない会員にはそこらあたりは分からないから、「通信」であのように書かれると、亀仙人というのはとんでもないことをいうやつだということになるわけである。そしてそうした効果を林氏は狙ってあのように書いているわけだ。何という不誠実でねじ曲がった根性であろうか。何という卑劣でいやらしい人物であろうか!)。「通信」では、あたかも私がセミナー参加者全員に対して、エラそうに「『資本論』をもっと読め」とか「マルクス主義を全部読まなければ会員になれない、議論にも参加できない」などと述べたかに書かれているが、これは林氏が相手を攻撃する時の常套手段なのだ。常に相手の主張をねじ曲げ、問題をすり替えてでなければ、相手を攻撃できない状態になってしまっているのである。何とも情け無いことではあるが、これが同志会の(林氏の)現実である。

 だからこの問題については、議論そのものが最初から本題から横道に外れてしまい、結局、肝心のサブプライム・ローンの証券化を如何に理論的に理解すべきかという議論はまったくできていないのである。私の説明もまったく舌足らずに終わってしまっている。だからもう一度、私自身の主張も含めて問題を論じてみるのも意義があるかも知れない。今回、『海つばめ』にセミナーの報告として、林氏は自説をもう一度論じているので、それを取り上げて、私の主張をそれに対置してみよう。そうすれば誰が自身のあいまいな理解のもとに誤解して、誤った自説に固執したかが分かるであろう。

                                                                 ◇

 われわれは順序として、まずマルクスが資本還元として述べている問題を正確に理解するところから始めるべきであろう。これは「『資本論』を読み直せ」と発言した手前からも、是非とも必要な作業でもある。われわれはもう一度、第3部第29章を初めから勉強し直すつもりで、マルクスから謙虚に学ぶことにしよう(以下、マルクスからの引用は、すべて大谷訳の草稿からで頁数は『経済志林』の頁数である)。

 マルクスは第29章に該当する部分の草稿(IIの番号を打った部分)で、最初に《こんどは, 銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である》(9頁)と書いたあと、すぐにその考察には入らず、最初は第28章で論じた問題を再び取り上げて論じたあと、本題に移っている。

 そこでは銀行資本を二つの視点から論じている。一つは《実物的な構成部分》とか《現実の構成部分》と述べているものであり、もう一つは《銀行業者自身の投下資本》と銀行業者の《銀行業資本または借入資本》という視点である。後者はいわゆる貸借対照表で表される自己資本(左側)と借入資本(右側)に対応している。そして前者の視点による構成部分の区別は、後者の区別には関わりのないものだというのがマルクスが述べていることである。

 まず前者の《実物的な構成部分》なるものを見ると、それは二つに大別されて、(1)現金と(2)有価証券に分けられている。そして有価証券は、さらに二つに分けられ、一つは「手形」であり、もう一つは「その他の有価証券」であるが、ここには《公的有価証券、例えばコンソル、国庫証券、等々、およびその他の有価証券、例えばあらゆる種類の株式》と書かれ、《場合によっては不動産抵当証券》と書かれている。そして《要するに利子生み証券であって、手形とは本質的に区別されるもの》と述べている(15頁)

 つまり国債や株式などをひとまとめに、マルクスは《利子生み証券》としていることにわれわれは注目する必要がある(「コンソル」というのはイギリスの代表的な国債のことである。「旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった」『平凡社大百科事典』より)。というのは、「国債」や「株式」などをひっくるめて《要するに利子生み証券であって》と述べていることは、銀行はそれらを利子生み資本(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の投資対象として(つまり利子を得る目的で)保持しているということを意味するからである。だから、これらをすでに一つの架空資本として取り扱っていることなのである。だからこうした銀行資本を構成する内容を確認することは決してどうでもよいことではないのである。
 そしてマルクスは、《銀行資本は、それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて, さらに,銀行業者自身の投下資本〔d..invested Capital des Bankersselbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capita1〕または借入資本)とに分かれる》(16頁)と述べている。そして発券銀行の場合には、借入の側にさらに銀行券が加わるが、さしあたりは預金や銀行券はあとでじっくり論じるために、さしあたりは考慮の外におくと述べている。そして次のように述べている。《とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d,banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである》(16頁)。つまり銀行資本の実物的な構成部分の区別は、それらが貸借対照表の右側にあるか、左側にあるか、つまり自己資本なのか、それとも預金なのかという区別によっては、なにも変わらないということである。
 そしてマルクスは、すぐにいわゆる「資本還元」の問題の説明に移っている。ということは、マルクスがそれまでに明らかにした銀行業者の資本の現実の構成部分である貨幣、手形、有価証券の順序とは逆に、有価証券、手形、貨幣の順に、その説明を開始するのである。すなわち、次のように始めている。

 《利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。》(18頁)
 《(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》(21-22頁)

 (ここで二つ目の引用は、実は頁数をみて頂ければ分かるが、草稿のもう少し後でマルクスが書いている一文であるが、マルクスは全体を丸カッコで括っており、エンゲルスは、最初の引用文とくっつけて一つのパラグラフにしているものである。マルクスがどうしてこの一文を丸カッコで括ったのかはよく分からないが、エンゲルスはそれは別のところに持っていくべきと考えて、マルクスは括ったと考えて、この最初の引用文のあとにくっつけたと考えることができる。われわれはこのエンゲルスの措置は適切であると考えるので、この二つの引用文をとりあえず、並べて紹介しておくことにしたい。)

 さて、ここではマルクスは、利子生み資本が範疇として確定すると、一つの転倒した現象が生じることを指摘している。それは単にわれわれの頭のなかで生じている観念的な転倒というだけではなく、現実の経済的な過程のなかで生じている転倒でもあることに注意が必要である(なぜなら、幻想的な資本価値を「市場価値」とする価格によってそれらの架空資本は現実に売買されているのであるから)。マルクスは《確定していて規則的な貨幣収入》であれば、《それが資本から生じるものであろうとなかろうと、どれでも、ある資本の「利子」として現われるようになる》《どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》と述べている。だからわれわれが第21章以降で学んだように、利子生み資本が産業資本家や商業資本家(機能資本家)に貸し出され、その資本の生み出した利潤(剰余価値)が機能資本家の取得する「企業利得」と、利子生み資本を貸し出した貨幣資本家の取得する「利子」とに分割されたのであるが、そうした意味での「利子」ではない場合でも、あたかもそうした「資本」の生み出す「利子」であるかに現象するというのである。だから例えば「消費者ローン」や「国債」のような、その貸付金が個人や政府の消費によって使い果たされて、剰余価値を生み出すために投資されるわけではない場合でも、それらはあたかも剰余価値を産み、その一部を「利子」としてもたらす「資本」であるかに現象するのだということなのである。だからまずすべての《確定していて規則的な貨幣収入》が「利子」とみなされ、それに伴ってその「利子」をもたらす「資本」が見出されるのだ、というわけである。「資本」があって、その「資本」の生み出したものとしての「利子」があるのではなく、「利子」があって「資本」があるという一つの転倒現象が生じているわけである。

 そしてマルクスは、《事柄は簡単である》と具体例を示して説明している。

 《平均利子率を〈年〉5% としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば、毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。》(18-19頁、下線はマルクス、赤字は引用者)。

 (まずこのマルクスの一文のうち、赤字にした部分は、大谷氏の注記によると、エンゲルスは「という場合を除けば」と訂正したのだが、大谷氏は〈この部分は、「という前提のもとでも」とであるべきところではないかとも思われる〉〔20頁〕と述べている。しかしマルクスの文章を素直に読めば、《この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と読めるわけである。このあとマルクスは《労働能力が国債というこの資本に対比して考察される》場合を例として上げており、この場合は《労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない》と指摘している。つまり譲渡可能《という前提のもとで以外》のケースと考えられるわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と述べていると解釈できるわけである。だからこの場合は、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たない)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになる。)

 そしてマルクスは続けて《例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう》(19頁)と「国債」と「労賃」を例に上げて説明を続けている。そして国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースであることもまた明らかであろう。だから国債が資本還元された架空資本ではないかにいう林氏の主張は、少なくとも『資本論』のこの部分を読んでいないか、読んだが記憶があいまいであったことを示しているわけである。だから「『資本論』をもう一度読み直せ」という私の発言は、その場の状況にそぐわない何か不当なものなどではまったくなく、当然なものといえるわけである。

 では「国債」の場合について、マルクスはどのように説明しているのか、それを見ることにしよう。

 《国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。}この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100 ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5% の請求権を与える。第3に,彼はこの100 ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5% であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},A はこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100 ポンド・スターリングで〈Bに〉売ることができる。というのは,買い手〈のB〉にとっては,100 ポンド・スターリングを〈年〉5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。》(19頁、下線はマルクス)

 マルクスは国債について、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である、(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える、(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、という条件について述べている。そして特に最後の譲渡可能ということについて、それは買い手にとっては、100ポンド・スターリングを年5%で貸し出しすのと同じだからだ、と述べている。マルクスは国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしている。というのはそれは産業資本や商業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。

 だからマルクスは続けて、《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子〈(利子)〉として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である》(20頁)と述べているわけである。ここで《幻想的なもの》というのは、それは本来は「資本」として貸し付けられたものではないのに、「資本」として観念されるからであり、また「資本」の生み出した「利子」として観念されるからである。それが《架空資本》と言われる理由を、マルクスは《それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しないということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである》(20-21頁)と述べている。だからそれが《架空資本》と言われるのは、単にその貸し付けられた金額が政府によって費消されてしまって無くなってしまっているというだけでなく、あくまでも資本として投下されたものではないのに、資本として投下されたものと看做されるところに「架空資本」の「架空」性があることが分かるのである。この点で、林氏はマルクスが「架空資本」として述べている意味を十分に理解しているとは言い難いであろう。

 《最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。 》(21頁)

 今度は、国債を最初に買ったAにとっても年々の租税から彼のものになる部分は「利子」を表すとしてしている(その前は「年貢」と書いていた)。しかしその利子は高利貸の貸し付けが利子を取り立てるのと同じだと指摘している。というのは、その貸し付けはただ消費のために使われるだけで資本として投資するためのものではないからである。ところがAが国債をBに売る場合、Bは彼の私的な立場から見ると、それは利子生み資本の投下と意識するわけである。しかし、実際の内容は、一つも変わっていない。だから国債が次々と売買されても、そうした現実の関係そのものは変わらないのである。しかしにもかかわらず、こうした架空資本は《それ自身の運動をもっている》のだというわけである。その運動とはどういうものか、それを次に見ることになるのであるが、しかし、マルクスはそれにすぐに行く前に、もう一つの資本還元の例として労賃の場合を検討している。

 《ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,〈1年間の〉労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀〈の後半〉には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。ただ,ここでは,この〈無思想な〉考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer)」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に〈自分の労働によって〉補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。》(22-23頁)

 このパラグラフはマルクスが先に、《例として,一方で国債、他方では労賃をとって見よう》と述べていた、もう一つの《労賃》が問題になっている。同時に、先に《国債という資本は純粋に架空な資本であ》るが、しかし《この架空資本はそれ自身の運動をもっている》と書いていたのに対して、この《労賃》の場合は、「資本」とみなされる労働能力は譲渡できないことから、決して国債のような《それ自身の運動もっている》とはいえないケースであり、だから《それ自身の運動》を考察する前に、まずそうした《それ自身の運動をもって》いないものを、まず検討しておく、という役割も持っているようにも思える。

 ここでは《利子生み資本一般がすべての狂った形態の母》であることが指摘され、《債務が銀行業者の観念では商品として現われるように、国債という資本ではマイナスが資本として現われる》と述べている。ここで《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》という部分に、大谷氏は次のような解説をつけている。

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉(23頁)

 ここで書いていることはそのとおりであるが、ただ〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉というのは、果たしてどうであろうか。一般にはそうした観念はないのではないだろうか。というのは、預金にはそうした意味での貨幣市場は存在しないからである。また当座預金のような場合はそもそも利子がつかないのが一般的であり、だから価格のない貨幣商品ということになりかねず、だから預金者が預金する場合、自分が所有する貨幣を銀行に商品として販売するとは必ずしも観念しないのではないかと思っている。ただマルクスが《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》と述べているのは、大谷氏がいうように〈この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われる〉ということであろう。こういう国債に対比して、《労働能力が……考察されることがありうる》とマルクスは述べている。ここでは労働能力が考察されることがありうると述べているだけであることに注意が必要である。それは単に考えられるというだけに過ぎないわけである。しかもこのケースでは、国債とは異なり、(1)労働者はこの「利子」を手に入れるために働かなければならず、(2)その労働能力という資本価値を譲渡して換金できない、そればかりか労働力の価値を上回る剰余価値をその買い手に補填してやる必要があることを指摘して、だから労働能力の場合には、国債とは自ずから異なることを指摘しているのである。

 以上、架空資本について二つの例を考察して、その概念を明らかにしたあと、マルクスは、今度は、架空資本の独自の運動を考察しようとしているように思える。

 《架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5% の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。》(25頁)

 ここでは架空資本の独自の運動として、まず架空資本の形成が資本還元と呼ばれること、すべての規則的な収入が、平均利子率によって、資本がその利子率で貸し出されればもたらすであろう利子(収益)として計算されることが確認されている。そしてその具体例として、年間収入が100ポンド・スターリングで利子率が5%なら、想像された資本価値は2000ポンド・スターリングになるとされ、《この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる》と述べている。つまり2000ポンド・スターリングというのは、年々100ポンド・スターリングの収益を取得する権原と考えられ、そうした資本価値だとみなされるということである。つまり2000ポンド・スターリングというのは自己増殖する資本価値として年々100ポンド・スターリングという果実をもたらすものという幻想的な観念にもとづいて生じているものだというわけである。だからこの場合、年々100ポンド・スターリングの規則的な収入が、何によってもたらされるのかは問われていないことに注意が必要である。林氏は「債券」とそれ以外の例えば「株式」等とでは問題が異なるかに述べている(後者については資本還元は言いうるが、前者については言えないと主張しているかである)、が、明らかにマルクスが論じていることをはき違えているとしか思えないのである。次の一文を見れば、すぐにそれは分かるであろう。

 《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》(26-27頁)

 このように、マルクスは株式のように国債とは違って、純粋に幻想的な資本を表していない場合でも、その資本還元された資本価値は純粋に幻想的であると述べている。つまりこの限りでは株式も国債も同じだと述べているわけである。

 ところで林氏は「債券」なるものを何か特別なもののように論じている。しかしマルクスは「債券」なる用語は使っていない(マルエン全集の事項索引でも引っ掛からないし、『資本論辞典』にも項目としてない)。これはブルジョア経済学の用語ではないか(『平凡社大百科事典』には次のような説明がある。「公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体のいかんを問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。発行主体による分類のほか,担保の有無により,担保付社債と無担保社債,債券上の権利者の表示の有無により,記名債券と無記名債券(日本では,実際上すべて無記名債券である),募集地域の内外により,内債と外債(外貨表示の外債を外貨債という。」)。『平凡社大百科辞典』の説明を読むと、「債券」というのは、要するに社債のようなものであり、国債も入るようである。しかし、マルクスが「有価証券」を二つにわけて、一つは「手形」、もう一つは「その他の有価証券」に分けているうちの、後者を意味すると考えることができる。とするなら、それは要するに「利子生み証券」であり、マルクスの場合は、そこには国債や株式、そしてときには荷札証券も入るとされているものである。

 ところが林氏は、マルクスに反対して、国債と株式を一緒くたに論じるのはおかしいと反論するわけである。マルクスが「その他の有価証券」としてひとまとめにしている国債と株式を、林氏は区別して、前者は「債券」であり、後者はそうではない、というわけである。そして架空資本は後者にのみ言いうるのであって、前者には言えないとのたまうわけである。しかしマルクス自身は、国債も架空資本になるとわざわざ国債を例にあげて説明しているのだから、林氏が少なくとも『資本論』とは違った見解を展開していることだけは明らかであろう。そもそも「債券」なる用語を持ち出して、何か特別なものであるかに論じている林氏は、果たしてブルジョア経済学にどっぷり浸かって、それに取り込まれてしまっているのでなければ幸いである。

 それはとにかく、われわれはマルクスの説明をもっと詳しく検討しなければならない。

債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 まずマルクスは国債は債務証書と同じであり、債務証書、すなわち有価証券と述べている。もちろん、借用書もそのかぎりでは債務証書であり、すべての債務証書が、有価証券というわけではない。借用書がそのまま譲渡されて、有価証券として売買されるわけではないからである。しかし有価証券の多くは債権・債務関係を証する証書であることは明らかなのである。またマルクスはこれを見る限りでは、株式も《債務証書--有価証券》と考えていると捉えることができる。株式の場合は国債の場合とは違って、純粋に幻想的な資本を表しているわけではないのだが、しかしその証券の資本価値を問う限りでは、純粋に幻想的であるとしているのである。つまり国債も株式も証券の資本価値としては同じように純粋に幻想的であること、だから両者は架空資本としては同じことだと述べているのである。

 ところが我らが林御大将は、国債と株式とは違うと、頑にこの両者の相違に拘っているのである。確かに両者には違いがある。マルクスは国債の方が有価証券としては、「純粋に幻想的な資本を表している」と考えているのに対して、株式の場合はそうではないと考えている(しかし資本価値としては両者ともに同じように純粋に幻想的であると考えている)。ところが林氏は「債券」(林氏は国債もその一種だと考えている)の場合は、むしろ反対に「実際的な経済的関係の反映であって」、その点で「株式とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもない」と考えているわけである。つまり林氏に言わせると、国債の方が「実際的な経済的関係の反映」であって、株式はそれに対して幻想的であり、両者はだから同列には論じられないと主張しているわけである。これはマルクスの主張とはある意味では正反対の主張である。果たして林氏が正しいのか、それともマルクスが正しいのか、それが問題である。少なくともハッキリしているのは、林氏はマルクスの主張を理解していないし、マルクスの主張に反することを、ブルジョア経済学に染まった自身の見解として、勝手気ままに論じているということである。

 林氏はいつのまにか「マルクス主義者」ではなく、「林主義者」になり、自身の主張(ブルジョア経済学に影響されたそれ)こそが絶対であって、「マルクスがどう言っているか」などというようなことを言い出すやつは教条主義者だとのたまうようになってしまった。林氏も、マルクスが死んだ歳よりも、はるかに年齢を重ねたから、すでに自分はマルクスを超えたと錯覚しているのであろうか。そしてマルクスから謙虚に学ぶ姿勢を捨てて、マルクスより自分の方がエライと考えているようなのである。こうした人物がマルクスから真剣に学ぶ姿勢を無くすのはある意味では当然であろう。林氏がブルジョア経済学的な世迷いごとに耽るなら、それは彼の勝手である。しかしそれは「マルクス主義の旗」を降ろしてからやるべきではないだろうか。

 (以上、途中ですが、一旦、切ります。以下は次回に。)

2016年7月 3日 (日)

林理論批判(42)

§§§重要なことは『資本論』の正しい理解--現実の誤った解釈にマルクスの主張をねじ曲げて当てはめるのは避けよ--現実を分析し、考察するのは大切だが§§§--(続き)

 (今回は前回(41)が林紘義氏の記事の途中で切れていたものの続きになります。今回は林氏の『海つばめ』1111号の記事をそのまま資料として添付します)

 さらに林氏は次のように続けている。

 〈債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、10年ものの国債でも同じだが)。〉

 一体、誰が「債務証書一般」を問題にしているのか、借用書も債務証書であるが、誰も借用書を商品として売買はしないのである。また約束手形もその意味では債務証書一般に入るかも知れないが、手形は有価証券ではあるが、その他の有価証券とは本質的に異なるものとして、マルクス自身は、架空資本の範疇には入れていないことはすでに見た(この両者がなぜ本質的に異なるのかといえば、前者は再生産過程内の信用--商業信用--にもとづいたものであるが、後者は再生産過程外の信用--貨幣信用--にもとづいているからである。もっとも同じ手形でも銀行によってすでに割り引かれて銀行の手元にあるものは、すでにその他の有価証券の部類に入り、架空なものである)。
 林氏は、社債を例に説明しているが、社債も当然「その他の有価証券」に分類され、だから架空資本として売買されていることは明らかなのである。林氏の説明はすべて間違っている。例えば次のように述べている。

 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉

 しかし社債の利子は確定利子率によるものである(例えば普通社債の場合、ウィキペディアでは「発行額、運用期間(償還日)、利率は発行時に定められている。これらは途中で変更されることはない 」と説明されている)。だからその時々の市場利子率でそれらは資本還元されれば、社債の額面とは異なる市場価値が形成されるのである。実際の社債はその市場価値を中心に社債のその時々の需給に応じた価格で売買されるが、しかしそれらの市場価格は市場価値によって規制され、それを中心に動くのである。だから社債も“立派な”架空資本である。確かに社債の場合は株式と同じように、その借り入れられた貨幣は、実際の事業に投資され利潤を生むと考えられる(だからこの点では林氏の理解とは異なり、社債は国債とは違って株式に近いわけである*)。しかし実際の貨幣そのものは、事業に投資されて無くなってしまっているのに、あたかも債務証書である社債そのものは、一つの資本価値を持つものとして一人歩きして売買されるのであり、そうした意味での資本価値を、マルクスは純粋に幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。林氏が何も理解していないことは、これらの説明をみても明らかであろう。

 公正を期するために、*の部分について次のように林氏も言っていることは紹介しておこう。

 〈というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。〉

 ここで林氏が〈債権者によって〉と言っているのは、恐らく〈債務者によって〉の間違いであろう。つまりこの場合は事業者(産業資本)は債務者だからである。しかしこんなことを言っても、架空資本について何も述べたことにならないことを林氏は何も理解していないのである。だから次のような馬鹿げた主張も出てくる。

 〈この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。〉

 しかしマルクス自身は、株式について次のように述べている(だから社債を株式のケースと類似させたり、国債や社債と株式とを区別して論じている林氏にとってもこのマルクスの述べていることは重要である)。

 債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。》 (26頁)

 ここでマルクスが、《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合》として述べているのは、そのあとすぐに株式について説明しているように株式を前提して述べているのである。しかしご覧のようにマルクスは株式についても《これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である》と述べており、その点では国債と区別していないのである。なぜなら、国債として借り出された貨幣が国家によって消尽されてしまって無くなっているのと同じように、株式に投資された貨幣も現実資本に転換されて消尽されてしまっているからである。だからそういう意味でも国債がそうであるのと同じように、株式もあたかもそれ自身が一つの資本価値を持っているかの現象は、純粋に幻想的なのだとマルクスは述べているのである(もちろん、それが架空資本であるのは一つの転倒が生じていることが根本なのである。つまり株式が資本価値として一定の市場価値をもつ場合、その市場価値は、実際に利潤を生むために現実資本として前貸された貨幣額を表しているのではないからである。その資本価値は、ただ配当を利子率で資本還元されたものに過ぎず、だからそれは純粋に幻想的なものだからなのである)。だからこの点でも、架空資本という点では国債と株式とには何の区別もないのである。しかし他方で、マルクスは確かに《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも》と述べているように、国債はただマイナスがプラスと見えているだけであるのに対して、株式は現実資本の所有権原を表しており、その限りでは両者には区別がある。しかし架空資本としては、つまりそれらが資本価値として、あたかも何らかの「資本」=「利子生み資本」として一定の価値(市場価値)を持っているかに現象する場合には、どちらも《純粋に幻想的である》という点では同じなのである。だから、株式を「擬制資本」として「架空資本」とは何か別ものであるかに範疇分けしている人たちは、こうしたマルクスの架空資本の理論を十分理解しているとは言えないのである。そして林氏もそうした俗説に影響されているわけである。

 だから林氏が次のように主張しているのも間違っているのである。

 〈マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(222頁)〉

 しかし林氏はこうした現実資本を表示する株式も《資本価値としては純粋に幻想である》とマルクスが述べている理由をしっかり考えていないのである。だからこんな間違った理解が生じることになる。マルクスは林氏が引用しているあとで、次のように述べている。

 《しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》 (26-7頁)

 だから額面100万円の株式を持っていても、彼は決して100万円の貨幣額を持っているのではない。その貨幣は実際には現実に投下されてしまっているのである。だから株式はその資本によって実現される剰余価値に対する所有権原を表すだけだとマルクスは述べている。これは国債が租税の一部を取得する権原を表しているのとその限りでは同じである。そしてマルクスは次のように説明を続けている。

 《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。》 (27-8頁)云々。

 だからマルクスは架空資本の自立的な運動を説明する場合は、国債も株式も同じものとして説明しているのである。例えば、この引用文の続きでも、次のように述べている。

 《しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。〈というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。〉貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。》 (28-29頁)

 ご覧のとおり、ここでもマルクスは株式と国債を一緒に《これらの有価証券》として論じて、それが国債であろうが株式であろうが《そのようなことにかかわりなく起こる》と、それらの有価証券の価格の運動を説明しているのである。林氏は、架空資本の自立的な運動を、マルクスは国債と株式とを同じものとして説明しているのは、どうしてなのかを十分に考えてみるべきであったろう。

§3

 ここでは林氏は「労働力」の例を持ち出して、次のように述べている。

 〈労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。〉

 しかし最初にも言ったように、私は労働力を例に上げて、架空資本を説明したことも資本還元を説明したこともないのである。それは林氏のでっち上げであり、問題のすり替えである。労働力の例が本来の架空資本の話とは別であることは、そもそもマルクスが銀行資本の現実の構成部分について説明しているという全体の流れを知っているなら、当然のことなのである。労働力が、利子生み資本の投下対象として銀行資本を構成するハズがないからである。
 林氏は労働力の例は、〈「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべき〉と述べることによって、だから国債や社債の場合も労働力と同じなのだと言いたいかである。だから国債や社債の場合は、〈地価とか株価といったものと同列に論じるべきではない〉というわけである。しかし労働力と国債や社債とには決定的な違いがある。それについてはマルクスは次のように述べている。

 《ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。》 (大谷訳22-23頁)

 つまり架空資本というのは、規則的な貨幣利得を利子率で資本還元して得られる資本価値によってそれを手放し、彼はその利子生み資本の返済を受けることができるが、しかし、労働力の場合、例え彼の賃金を資本還元して、一定の資本価値を計算できたとしても、その資本価値にもとづいてそれを販売して、それを利子生み資本の返済として受けとることはできないとマルクスは指摘しているのである。むしろ彼の労働力の年価値は彼の年間平均労賃だが、彼はそれ以上の価値を、つまり剰余価値を彼の労働力の買い手(つまり資本家)に与えることを強制されるわけである。つまり労働力の例は利子生み資本が生み出すさまざまな馬鹿げた転倒した観念のうち、そのもっとも極端なものとしてマルクスは説明しているだけであって、それによって架空資本を説明しているわけではないのである。
 そして何度も言うが、マルクス自身は、銀行資本の現実の構成部分の一つである有価証券について、その架空資本としての性格や資本還元という独特な運動を説明しているのである。だからこそ、マルクスは国債も株式も《その他の有価証券》として一緒に論じているのであって、それらを労働力の例と同じに考えることはとんでもないことなのである。そしてこうした文脈のなかでのマルクスの説明が分かっているなら、資本還元について、林氏のような〈むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう〉などという主張も出てくるはずがないのである。何で銀行資本の現実の構成部分として、地代や地価が出てくるのか、それが場違いなことは明らかではないか。林氏はマルクスが論じているものをきちんと理解していないことは、これをみても明らかなのである。こんな粗雑な『資本論』の読み方をしていたのでは、何も理解できないのも当然と言わねばならない。

§4

 林氏が次のようにいうのは、まったくの誹謗中傷の類である。

 〈そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。〉

 しかし一体、誰が〈マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならない〉と言ったのであろうか。マルクスの理論は現実を分析し考察する武器ではないのか。何の理論もなしに現実に立ち向かっても、林氏のようにただ現象を現象のまま撫で回すしかないのである。理論的武器もなしにどうして現実を科学的に考察するというのであろうか。もちろん、その理論も、林氏のような一知半解な理解ではどうしようもないことは事実ではあるが。林氏は私がサブプライムローンの問題について、何の具体的な事実も知らずに、現実を一つも調べもせずに論じていると思っている。現実を分析しているのは自分だけだと思い上がっているのである。しかし少なくとも私もそれなりに関連文献を手当たり次第に調べて、事実資料を収集し、それらを分析し、考察した上で論じているつもりなのである。サブプライム・ローンの証券化の具体的な過程について、林氏が論じているよりももっと詳しい事実経過や歴史過程も知識としては知ってはいたが、そんなことをくどくどと論じてもしょうがないから何も言わなかっただけのことである。自分だけが現実を分析しているなどと思うのは自惚れも甚だしいのである。

 〈私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。〉

 何度もいうが、こうした林氏の証券化の説明を私は批判したのではないのである。それが、そもそも「証券化」と言われるように、単なる債務証書が、国債の場合と同じように有価証券として売買されることなのである。だからこそ私は、それはマルクスが論じている架空資本であり、資本還元されて独自の運動をしているものと理解すべきと主張したのである。それが林氏にはまったく分かっていないのである。

 〈そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。〉

 こうした理解もおかしなものである。オリジネーターが住宅ローン債権を証券化して販売するということは、ローン債権を担保に証券を発行して売り出すことである。だからそれが資本還元されて、架空資本になるなら、その有価証券を購入した人は、その有価証券の定期的な確定利息を市場利子率で資本還元して架空資本の市場価値を求めることになるのである。だからこの場合の「規則的な収入」は、資産担保証券の確定利息であり、それを架空資本として売買するのは、それらを利子生み資本の投資対象として購入する機関投資家やヘッジファンドなのである。彼らはそれらを投機的な対象として売買してキャピタルゲインを得ようとしたのである。

 〈そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないしされるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。〉

 一体、どこの誰が〈マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立て〉たのか、馬鹿げた議論である。そうした虚偽の“事実”をでっち上げて、相手を攻撃する手法こそ、スターリニズムそのものではないのか。私は、林氏の資本還元の理解が間違っているから、もう一度『資本論』を読み直したらどうですか、言っただけの話であって、セミナー参加者全体に対して「『資本論』を読め」などと言うハズもないのである。こんなスターリニスト的なヤクザな議論の仕方は胸くそが悪くてまじめに相手にするのも嫌である。

§「架空資本」の概念なしに現代の金融現象は科学的には解明できない

 しかしいずれせよ、今日のサブプライム・ローンに始まる金融危機の諸現象は、マルクスの架空資本の理論なしには科学的に解明することは不可能だと私は考えている。
 現行の『資本論』の第3部第25章の表題「信用と架空資本」は、草稿のこの部分に「5.信用。架空資本」とマルクスが自身がつけたものを、エンゲルスが少し手を入れて第25章の表題にしたものである。しかし実際の現行の25章では架空資本について本格的には何も論じていない。実はこの草稿にある表題は、大谷禎之介氏の研究によれば、マルクス自身が「5」と番号を打った部分全体の表題であり、それは現行の第25~35章全体をカバーするというのである。つまりマルクスは現行の25~35章全体のテーマとして「信用。架空資本」を考えていたのである。そこでは21~24章でその概念が解明された「利子生み資本」が、信用制度のもとで運動する諸形態を考察することが課題とされている。そしてマルクスが利子生み資本の運動諸形態でもっとも重要と考えたのは、だから「架空資本」としてのそれなのである。それは現実資本の蓄積から相対的に一人歩きして現実資本の何倍何十倍もの規模で膨れ上がる金融諸現象を解明するためのキーワードなのである。それが実際に理論的に追究されているのは、現行版の30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」である。そこでは、マルクス自身が「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しあっているのか、また一国に存在している貨幣の量とそれは如何なる関係にあるのかというテーマが追究されている。マルクス自身はこの課題を十分に果たさずに終わっている(それはある程度はやむを得なかったのである。というのはこの問題は第2部第3章(篇)における社会的総資本における拡大再生産の現実的諸条件を貨幣流通による媒介の下に解明して、始めてその考察の基礎が与えられるようなテーマだからである。しかしマルクスが第3部の草稿を書いていたときには、当然、まだ拡大再生産は手つかずの状態だったのである。だから『資本論』の最終草稿である第2部の第8稿では、マルクスは同じ問題を追究し、その解決の基礎を与えているのである)。マルクスはそこで何を明らかにしようとしたのかと言えば、まさに現代のバブル現象そのものの理論的解明なのである(そして35章はその破綻の不可避なことを論証するのに充てられている)。デリバティブとか、さまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れている、今日のような現実資本を何倍も何十倍も上回り自立的に運動している架空な貨幣資本の運動を如何に科学的に解明するかという問題(少なくともその解明のための理論的基礎)こそ、マルクスが追究しているものなのである。29章はまさにそうした課題を担う30~32章の前提として「架空資本」の概念が解明されているところなのである。その意味では29章は現代の金融諸現象を解明する上でもっとも基礎的な理論をわれわれが身につけることができるところと言うことができるであろう。
 だから現代のさまざまな金融現象を科学的に解明するためには、マルクスが明らかにしている「架空資本」の概念抜きにはできないと私は考えているのである。その意味では、架空資本そのものを理論的にシャットアウトした林氏は、今日の金融諸現象を科学的に解明する手段を自ら閉ざしたとしか言いようがないのである。そうなると、あとはただ現象を現象のままに敍述することしか林氏には残されていない。しかしそれはマルクスがいうところの俗流経済学の道でしかないのである。  (了)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【資料】

●『海つばめ』1111号(2009.12.27) 【三面トップ】

 

重要なことは現実の正しい理解
マルクスの“当てはめ”避けよ
『資本論』を読み、学ぶことは大切だが

 関西の労働者セミナーにおいて、私の報告の一部分(サブプライム・ローンの“証券化”の概念)について、一つの論争が突発した。すなわち私の報告は、サブプライム証券化について、そのメカニズムについて、明確に述べていないということであった。その批判はいいとして――というのは、私の報告がサブプライム証券化問題の細部にいたるまで明確かつ的確に述べておらず、不十分な面があったと言うなら、それは否定すべくもないから――、しかし問題は、批判する論者が、私がマルクスの次のような概念を適用していないから、それに基づいて、サブプライム証券化を明らかにしていないから、といった立場から発言したことであった。私はマルクスのあれこれの言葉によって、あるいはあれこれの概念の“適用”(しかも間違った理解による)によって、現実を裁断したり、解釈したりするやり方に賛成することは決してできなかった。この問題はセミナーのときにおいては、突然に提出された問題であり、それに伴って発生した議論だったということもあって、参加者の多くにも何が問題になっているのか、どう理解したらいいのか必ずしも明確にならなかった面も残ったので、ここで簡単に論じさせていただくことにする。もちろん、これはサブプライム問題の一番基礎的な信用関係を、そのメカニズムを正しく理解する、という重要な課題と密接に関係を持っているのではあるが。
◆ 1
 批判者が持ち出したのは、マルクスの次の一文であり、これは参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもしたのであった。
「空資本の形成は資本化と呼ばれる。すべて規則的に反復される収入は、平均利子率で貸出される。たとえば、年収入は一〇〇ポンド、利子率は五%とすれば、一〇〇ポンドは、二〇〇〇ポンドの年利子となるであろう。そこでこの二〇〇〇ポンドが、年額一〇〇ポンドにたいする法律上の所有名義の資本価値とみなされる。そこで、この所有名義を買う者にとっては、この一〇〇ポンドの年収入は、実際に彼の投下資本の五%の利子を表わす。かくして、資本の現実の価値増殖過程との一切の関連は、最後の痕跡に至るまで消え失せて、自己自身によって自己を価値増殖する自動体としての資本の観念が確立される」(『資本論』三巻二九章、「銀行資本の構成部分」、岩波文庫七分冊二二二頁)
 サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。
 批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや、説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。
◆ 2
 しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され、取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。
 マルクスは当該個所で、「国債」について、次のように述べている。
「国家は借入資本にたいする一定量の利子を、年々その債権者に支払わねばならない。このばあいには債権者は、その債務者に解約通告をなすことができず、ただ債券を、その所有名義を、売ることができるだけである。資本そのものは、国家によって支出され、食いつくされている」(同二一九頁)
 マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。
 しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。
 この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。
 債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、一〇年ものの国債でも同じだが)。
 一〇〇万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。「収入の利子率による資本還元」という場合は、当然のこととして、利子率はすでに前提されているのであって、それはマルクスが次のように言っていることからも明らかである。
「利子付資本という形態は、いかなる確定的常則的貨幣収入も、それが資本から生ずると否とを問わず、一資本の利子として現われる、ということを伴う。まず貨幣所得が利子に転化され、次に利子とともに、この所得の源泉である資本も見出される。同様に、利子付資本とともに、すべての価値額が、収入として支出されないかぎり、資本として現われる。すなわち、それが産み出しうる可能的または現実的利子に対する元本(Principal)として現われる」(同二一八頁)
 マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)
◆ 3
 またマルクスは「労働力」についても書いているが、しかしそれは、一七世紀のペティの偏見として、あるいはマルクスの時代の一つの妄想として、批判的に取り上げているだけであって、労働力という「収入」を利子率で資本還元した「価値」もしくは資本一般の理論の説明としてではない。むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう。マルクスが引用する、労賃の「資本還元」とは、フォン・レーデンの次のような文章である。
「労働者は資本価値をもち、それは、彼の一年間の稼ぎ高の貨幣価値を、利子収益とみなすことによって見出すことができる。……平均日賃金率を四%をもって資本化すれば、農業男子労働者一人の平均価値は、ドイツ=オーストリア一五〇〇ターレル、プロイセン一五〇〇、イングランド三七五〇、フランス二〇〇〇、奥地ロシア七五〇ターレルとなる」(同二二一頁)
 そしてマルクス自身が、こうした観念は、奴隷制においては、奴隷が売買される場合には、一つの実質的な意味を持ちえるとしても、資本主義的生産様式においては全く無意味な、ばかげた観念に過ぎないと断じているのだから(二二一頁参照)、この例を持ち出して、資本主義のもとでは「すべての収入は利子率で資本還元されて価値もしくは資本」を持つ(したがって、サブプライム問題にもこの理論を適用して分析せよ)、といった主張が的外れであるのは余りに明らかではあるように思われる。
 労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。
◆ 4
 そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。
 私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。
 そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。
 そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないし、されるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。我々はセクトではないし、セクトを目指すものでもないことを確認しなくてはならない。
(林)

2016年6月25日 (土)

林理論批判(41)

【お断り】

 実は、亀仙人のパソコンがこの6月初めに突然壊れてしまいました。外付けのハードディスクへのパックアップをさぼっていたために、残っているデータで一番最近のものは2015年の8月6日以前のものです。つまりそれ以降に新しく作成したデータはすべて失われたようです。それ以降、書きためたものも今となってはあきらめるしかありません。データというものは失われてしまうと、そもそも何と何が失われたかも分からないものなのです(恐らく後で何かのきっかけにあのデータもないのかと気づくのかも知れませんが)。少なくとも去年の8月以降作成した資料集(さまざまな文献からの抜き書きや図書館で借りた本をスキャンしてPDF化したものや、幾つかの大学のサイトにある紀要などからダウンロードした論文のPDF等々)はすべて駄目になりました。それがどれくらいあったのかも今となってはわかりません(私は、毎日数分から十数分だけ使って、宇野弘蔵著作集を第1巻から何年もかけて読んでおり、今は第6巻の3分の2あたりを読んでいますが、これらも第1巻からすべて読む前にスキャンしてPDF化して、読みながら本の空欄に書き込んだメモを参考に、後で批判を書くときに簡単に引用できるようにしてあったのですが、これらも第1巻以外はすべてなくなりました。しかしこの場合は、幸いなことに、以前、すでにPDF化したものを友人が欲しいというので、宅ファイル便で送ったことがあり、恐らくそれを友人から送り返してもらえると思うので、何とか復活はできると期待しています。しかし宇野理論批判をこのブログで連載できるかどうかのハッキリした見通しは今は立ちません)。もちろん、このブログにこれまでアップした元データ類も去年の8月以降のものはすべて失われ、新たにアップするために書いていた下書き類もすべて失くしました。ブログのために考えていたプラン等々を書いたメモ類も同様です。友人と交わしたメールやアドレスのデータ類もすべて失くしました。しかしこれも幸いと言うべきなのですが、このブログのアップを知らせるメールを送るアドレス類は、以前、すぐにBCC欄にコピー&ペーストできるように、毎日書いている日誌の一番最初に一覧として書いていたので、それが去年の日誌にあることが分かり(去年の8月6日までの日誌は残っていた!)、それを使って「アップ情報」を配信できることもわかりました。
 とにかく、失われたもののあまりの大きさに茫然自失し、いまさら後悔してもどうしようもないのに、しかしなかなかそう簡単には割り切ることもできず、鬱状態にさえなりましたが、しかし、ようやくこんな状態を何時までも続けていてもしょうがないと思えようになりました。新しいパソコンを購入し古いオアシスのソフトを無理やりWindows10にインストールし、親指シフトのキーボードも繋げるように工夫して、何とかものを書く環境を整えつつあります。
 幸い外付けのハードディスクにバックアップしてあった古いデータ類は残っていますので、それを使って、とりあえず、この「林理論批判」のシリーズに使えそうなものを捜し出して、見つけたものからアップしていこうと思えるようになりました。これをきっかけになんとか立ち直りたいと考えています。
 だからこれからこのシリーズでアップするものは、すべてかなり古いものになりますし、とにかく見つけ次第なので、まとまりのないものになるかも知れません。その点は、ご容赦ねがいます。またアップするに値すると思えるものがなくなれば、このシリーズは終えることにします。

 今回紹介するのは、『海つばめ』1111号(2009.12.27)の林紘義氏の記事《【三面トップ】重要なことは現実の正しい理解――マルクスの“当てはめ”避けよ――『資本論』を読み、学ぶことは大切だが》の批判です。この記事が書かれた事情については、以前、『資本論』第3部第29章の草稿の検討を紹介するシリーズの第一回目(『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-1))に書いたのでそれを参照して下さい。そこでも〈その後、林氏は自説を擁護して『海つばめ』No.1110とNo.1111で自らの主張を展開したのであるが、亀仙人は林氏の『資本論』の理解は間違っていると主張したのである(この『海つばめ』の記事に対する批判は、別途連載している「林理論批判」のなかで紹介することにしよう)〉と書いています。今回は、その批判になります。なお、林氏の当該論文も参考のために資料として付けておきます。ただ資料も加えますと、あまりにも長くなりすぎますので、二回に分けて掲載します。

                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

§§§重要なことは『資本論』の正しい理解--現実の誤った解釈にマルクスの主張をねじ曲げて当てはめるのは避けよ--現実を分析し、考察するのは大切だが§§§

 『海つばめ』1111号(2009.12.27)で林氏は関西セミナーでの議論を再び蒸し返している(その表題は「重要なことは現実の正しい理解――マルクスの“当てはめ”避けよ――『資本論』を読み、学ぶことは大切だが」というものである)。止せばよいのに深追いしていよいよ墓穴を掘っている。その前の1110号に対しても、亀仙人は何の反応も示さなかったのを、あるいはいぶかしく思っている方もあろうかと思う。実は、私は直ちに反論を書きはじめたのであるが、この際だからと第29章の草稿部分の詳細な解説を行なおうと思い、やりはじめたのはよいが、それにえらく時間がかかり、まだ終わっていないのである。だからやむを得ず沈黙を余儀なくされている次第なのである(この現在取り組んでいる第29章該当部分の草稿の段落ごとの解読は、まだかなり時間を要するが、それはそれとして取り組んで、最終的には林氏の主張の批判とは切り離して、別の機会に披露できるかも知れないとは思っている*)。

 注*これについては、このブログで連載している『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究のなかで公開している。

 しかし、今回、どうやら林氏は私の“助言”にもとづいて(?)、『資本論』を読んで記事を書いているようである。しかし『資本論』を読んだのはよいのだが、『資本論』を読んでも、それを正しく理解していないとどうしようもないことが今回明らかになった。ただ『資本論』を自分の俗説に沿ってねじ曲げて理解しようとするなら、こんな『資本論』の読み方は読まない方がましというものである(こうした『資本論』の読み方は不破哲三の得意とするところであり、だから林氏にこの点では不破を批判する資格はない)。

 よって、ここでは急遽、林氏の今回の記事での『資本論』の読み方が、マルクスの理論を正しく理解したものなのかどうかを検討しておこうと思っている。29章該当部分の草稿の詳しい解読は、だから当面はお預けである。

 ここでは、事実と異なる点や、林氏が『資本論』を引用して解説している部分について、実際に、マルクスの草稿に当たってマルクス自身が述べていることを確認して、林氏の説明が果たして正しいのかどうかを検証するというやり方で論じていくことにする。(なお読みやすくするために、林氏の記事からの引用は太字で、『資本論』の草稿からの引用は青太字で紹介する。また林氏とセミナーで論争の相手になった亀仙人は実名で書かれていたが、すべて亀仙人に書き換えた。)

§1

 まず林氏は、「批判者が持ち出した」云々と書いている。ここにまず誤解があるのである。亀仙人が主張したことは、林氏の国債を例にした証券化の説明を「批判する」ためのものではなく、むしろそれを肯定して、それを理論的に解明するためにはマルクスの述べている資本還元による架空資本の運動の理論が必要であると言いたかったのである。
 林氏が誤解したのは、もちろん、私の説明が不十分な面もあったからでもあるが、その本当の理由は、議論のなかで明らかになった。すなわち、肝心の林氏自身の資本還元の理解がまったく不十分だった(というより間違っていた)からなのである。私は国債も商品として売買されることによって、資本還元されて架空資本として自立的な運動を行なうとの理解のもとに林氏の説明を擁護して自説を述べたつもりなのである。ところが、林氏は資本還元というのは地代と土地の価格の関係には言えても、国債には妥当しないという誤った理解にあったから、私の主張をあたかも自説--国債を例に上げた証券化の説明--に対する批判と受けとめたのであった。そもそもの行き違いの出発点はここにあったのである。
 だからセミナーでは、そもそもマルクスが述べている資本還元をどう理解するかというような議論になってしまい、肝心の証券化を理論的に如何に捉えるべきかという問題そのものはまったく議論せずに終わっているのである。私自身は資本還元をどう理解するかなどということが問題になるなどとは思ってもみなかったのである。しかし議論のなかで林氏の『資本論』の理解そのものが間違っていることが分かったから、だから私は「『資本論』をもう一度良く読んで下さい」と言って議論を打ち切るしか無かったのである。肝心の資本還元や架空資本の理解そのものが間違っていたのでは、話にならないからである。だからサブプライ問題や、その証券化を理論的に如何に捉えるかというような問題は、ほとんど議論はなされていないと私自身は思っている。

 それに林氏は「批判者が持ち出し」「参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもした」として引用している部分は、事実とは異なるのではないかと思う。実際、セミナー当日、読み上げたのは、東三河支部(当時)のS氏であるから、ハッキリしたことは同氏に聞くしかないが、S氏が読んだのは、確かマルクスが国債を例に資本還元を説明している部分ではなかったかと思うのである。つまりS氏は亀仙人が国債も資本還元されて架空資本として自立的な運動を行なうと主張していることを擁護して、『資本論』(確か大谷氏が訳した草稿ではなかったかと思うが)を読み上げてくれたのであるから、林氏があげている部分とは若干違うと思うのである。しかしそれはまあとりあえずはよいとしよう。

 さらに林氏は次のように書いている。

 〈サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。〉

 しかしこれはウソであることは、すぐに以下の論述で分かる。〈十分に知っている〉どころか、その理解がまったく間違っているから、〈この概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない〉ことがすぐに分かるのである。

 また次のような主張は事実をねじ曲げている。

 〈批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。〉

 亀仙人は確かに〈マルクスがこの概念を説明したときに、国債……に言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる〉と主張したのであるが、決して〈労働賃金〉にも言及しているから、とその理由を上げたことはないのである。これは相手の言ってもしないことを言っているとして批判する、林氏が、相手を攻撃するときの常套手段の一つである。

§2

 林氏はもっともらしく次のように書いている。

 〈しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。〉

 確かに国債はその発行する国や時代によってそれぞれ条件が異なることは当然であろう。もし具体的にはどんな国債があるのかを知りたいなら、日銀のホームページでも見れば、どんな国債があるか丁寧に教えている。しかしそんなことが何か問題なのであろうか。実際、林氏はいろいろ言っているものの、永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであること(償還期限があっても、その期限が来る前に債権者は債務者に解約を通告することができないという点では同じであること)を認めざるをえないのであり、結局、同じであることを認めているのである。ではどうして、もっともらしく何かマルクスが言っている国債と現在の日本で発行されている国債とは違うものであるかに言っているのかというと、あたかもマルクスが国債を例に資本還元を説明しているのは、マルクスの時代に固有のものであって、現在日本で発行されている国債には妥当しないかに言いたいのである。しかし、林氏はそうした説明に成功しているかというとそうではない。しかしそういうことをほのめかして、自身の〝国債は資本還元できない〝という誤った主張をなんとか誤魔化そうとしているのである。しかしそんなことは成功するハズもない。なぜなら、国債は国債であって、その種類は日銀がいうように「その発行目的、根拠法、償還年限、発行方式、利払方式などによりさまざまに分類され」るが、しかし国家の債務という基本的な内容は同じだからである。

 次に林氏は次のように続けている。

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。〉

 林氏はエンゲルス版しか読んでないから、分からないのである。もし草稿を読んでいたなら(林氏は大谷氏から抜き刷りを送られているハズである)、マルクスが実際には次のように書いていることを知るであろう(『経済志林』に掲載された大谷訳からの引用)。

 《銀行資本〔Bankcapital〕は, 1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式( 〕),要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔morgages〕も)》である。》 (『経済志林』63巻1号15頁)

 これを見れば分かるように、マルクスは《公的有価証券、例えばコンソル》と述べている。だからマルクスが国債という場合はコンソル公債を指していることは明らかなのである。林氏が草稿を読んでいたら、あのようには書かなかったであろう。
 ところで、草稿のこの部分の詳しい解説は今回はやらないが、ここでマルクスが「その他の有価証券」の中にコンソル(国債)や株式と同時に《場合によってはまた不動産抵当証券》をあげていることは注目されてよい。これはいわゆるモーゲージと言われるものであり、サブプライムローンの証券化で問題になった資産担保証券(ABS)の一種と言ってもよいようなものなのである(もちろん時代背景は異なるが)。
 またマルクスは銀行資本の《実物的な構成部分》として「現金」、「手形」と「その他の有価証券」とに分け、「その他の有価証券」を「公的有価証券」と「その他の有価証券,例えばあらゆる種類の株式」を上げ、そして手形と区別されるその他の有価証券全体をひっくるめて「要するに利子生み証券」と述べている。つまり「利子生み証券」としては国債も株式も同じものとして論じているのである。別のところでマルクスは《銀行業者の資本の現実の構成部分--貨幣、手形、有価証券》(16頁)とも述べており、そしてそのあと、マルクスはそれぞれをこれとは逆の順序で説明しているのである。つまり最初は有価証券の説明から入り、そしてそこで架空資本と資本還元の説明を行なっているのである。だからマルクスは国債や株式を例にあげてそれらを説明しているのである(そのあと簡単ではあるが、手形の説明に移り、さらに貨幣については預金と関連させて説明している)。そのなかでは確かに賃労働も例にあげて説明しているのであるが、しかしそれは本来の「その他の有価証券」、すなわち「利子生み証券」の説明とは異なることは、こうしたマルクスの一連の敍述の流れを見てもすぐに分かるのである。
 ついでに言えば、林氏はコンソル公債が「永久国債」であることを何か特別に問題であるかに述べているが、『平凡社大百科辞典』によると、コンソル公債も「1923年以降議会の承認で償還可能とされていたが,政府にとっては市価が安いため額面償還の利点はなく,低利率のため借換えの必要もなかったから,事実上典型的な永久公債となって存続した」と説明されており、「永久国債」というのは「事実上」の問題なのである。
 それに永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが、それらを購入した貨幣資本家は、いつでも必要なときに、それらを転売して、彼が前貸した貨幣資本(利子生み資本)を回収する(返済を受ける)ことができるのであり、だから架空資本としては、それが永久国債であるかそうでないかということによっては何の区別も生じないのである。こんなことに何か本質的な問題があるかに考えていることこそ、林氏が架空資本の何たるかが何も分かっていないことを自ら暴露しているのである。
 さらについでに言えば、株式も永久国債と同じように、本源的にそれに投資したものにとっては、一定期限がくれば返済されるというような性格のものではない。にも関わらず彼はその株式を他に転売することによって、彼が前貸した貨幣資本(利子生み資本)を回収する(返済を受ける)ことが出来るのであり、だから最初から他人から株式を購入する人は、彼の貨幣を利子生み資本として前貸しするのである。だから株式も架空資本としては利子生み資本の投資対象なのであり、その点では国債や社債などとまったく同じなのである。

 さて林氏は、次のように説明を続けている。

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉

 実際、マルクスはどのように説明しているのかをわれわれは見ることにしよう。
まずマルクスは《利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである》(18頁)と述べ、さらに《事柄は簡単である》と具体例を示して説明して次のように述べている。《平均利子率を〈年〉5% としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば、毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける》(18-19頁、下線は引用者)。そして《例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう》として、国債について次のように続けて説明しているのである。

 《国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。}この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100 ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5% の請求権を与える。第3に,彼はこの100 ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5% であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},A はこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100 ポンド・スターリングで〈Bに〉売ることができる。というのは,買い手〈のB〉にとっては,100 ポンド・スターリングを〈年〉5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。》 (19頁、下線はマルクス)

 だからこのマルクスの一連の説明を読めば、どうして林氏のような解釈が出てくるのか不可解至極なのである。ただ自説の間違った理解に強引にマルクスの一文を解釈しようとしているとしか思えない。
 マルクスは、利子生み資本という形態に伴って、一つの転倒した現象が生じることを指摘している。それは単にわれわれの頭のなかで生じている観念的な転倒というだけではなく、現実の経済的な過程のなかで生じている転倒でもあることに注意が必要である(なぜなら、幻想的な資本価値を「市場価値」としてそれらは「市場価格」によって、現実に商品として売買されて自立的な運動をするからである)。マルクスは《確定していて規則的な貨幣収入》であれば、《それが資本から生じるものであろうとなかろうと、どれでも、ある資本の「利子」として現われるようになる》と述べている。だからわれわれが第21章以降で学んだように、利子生み資本が産業資本(機能資本家)に貸し出され、その資本の生み出した「利潤」が機能資本家の取得する「企業利得」と、利子生み資本を貸し出した貨幣資本家の取得する「利子」とに分割されたような意味での「利子」ではない場合でも、あたかもそうした「資本」の生み出す「利子」であるかに現象するというのである。だから例えば「消費者ローン」や「国債」のような、その貸付金が個人や政府の消費によって使い果たされて、利潤を生み出すために前貸しされるわけではない場合でも、それらはあたかも利潤を生み、その一部を「利子」としてもたらす「資本」であるかに現象するのだということなのである。だからまずすべての《確定していて規則的な貨幣収入》が「利子」とみなされ、それに伴ってその「利子」をもたらす「資本」が見出されるのだ、というわけである。「資本」があって、その「資本」の生み出したものとしての「利子」があるのではなく、「利子」があって「資本」があるという一つの転倒現象が生じているわけである。「架空資本」や「資本還元」を理解する上で、それらをこうした転倒現象として理解することは極めて重要なのである。林氏にはそれがまったく欠けているのである。だから林氏には「架空資本」や「資本還元」の何たるかがまったく分かっていないのである。

 マルクスは国債について、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である、(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える、(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、という条件について述べている。そして特に最後の譲渡可能ということについて、それは買い手にとっては、100ポンド・スターリングを年5%で貸し出すのと同じだからだ、と述べている。マルクスは国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしている。というのはそれは産業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにはあるからである。
 だからマルクスは、上記の文章に続けて、《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子〈(利子)〉として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である》(20頁)と述べているわけである。

 ところで林氏はさらに次のようにも述べている。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉

 こうした説明もまったく『資本論』をそのまま素直に読むのではなく、ねじ曲げた読み方でしかないことは明らかであろう。林氏は明らかに意図的に『資本論』におけるマルクスの説明を歪めて理解ようとしている。こんな誤った『資本論』の解説を『海つばめ』の読者にやって恥ずかしくないのであろうか。すでに一部紹介したように、マルクス自身は次のように述べているのである。

 《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない ということばかりではない。それはそもそもけっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者A にとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。》 (20-21頁)

 これをどう読めば、〈収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではない〉と読めるのであろうか。悪しき意図なしには、そのようには読めないハズである。
 しかもマルクスは、わざわざ国債が架空資本である理由を、《それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しないということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのでありしかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである》と書いているのに、どうして林氏のように〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などと読めるのであろうか。これほどの悪どいねじ曲げた読み方は、さすがの不破もやらないであろう。マルクスが国債が架空資本である理由として述べているのは、明らかに後者の理由が主要なものであることは、それまでの一連の敍述からみても明らかである。にも関わらず、林氏はそれを意図的に無視して前者の理由だけを上げているのである。
 マルクスが言っているのは次のようなことである。国債が架空資本であるのは、本来それは「資本」として貸し付けられたものではないのに、「資本」として観念されるからであり、またその「利子」が「資本」の生み出した「利子」として観念されるからである,と。だからそれが《架空資本》と言われるのは、単にその貸し付けられた金額が政府によって費消されてしまって無くなってしまっているというだけではなく、あくまでも資本として投下されたものではないのに、資本として投下されたものと看做されるという転倒現象が生じているからであり、そこにこそ「架空資本」の「架空」性の本質があるということなのである。林氏がマルクスがいうところの「架空資本」をまったく理解していないことだけは明らかであろう。

 また林氏は国債を〈 “純粋の”空資本〉などと言って、〈“純粋”ではない架空資本〉もあるかにほのめかしている。つまり株式の場合はそういう場合だと暗に匂わせているのである(そしてマルクスが資本還元について述べているのは株式〔と地価〕の場合だけだと林氏は言いたいらしい)。しかしそんな理解は間違っていることはこのあとすぐに論証されるであろう。少し先走って、結論を言っておけば、マルクスは「資本価値」としては国債も株式も同じように《純粋に幻想的である》と述べているが、しかしにも拘らず、それらは自立的な運動を持っているのだと述べているのである。だからこの点では国債も株式もまったく同じものとしてマルクス自身は論じているのである。それはすぐに分かるであろう。

(以下、林氏の論文の途中であるが、批判の続きは次回に)

2016年3月23日 (水)

林理論批判(40)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.17)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(6)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は最終回、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討の後半である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”)の続き

 田口は「過去の労働」は大事であって、それによってのみ社会主義建設が可能だと叫ぶのだが――これが田口の根底的な、そして自らの見解に固執する理論的、“心理的”動機であるが――、しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって――、その点では「過去の労働」は全くどうでもいいものとして現われ、また存在するのである。生産手段は確かに「過去の労働」の結果であり、その成果であるが、しかし新しい富はただ生産的労働の結果としてのみあるし、あり得るのであって、「過去の労働」の成果が、そこに「入り込む」などというのは、何か道徳的な意味でしか意義を持たないのである、つまりただ「心の問題」にすぎない。田口は「過去の労働」を、つまり「資本」(田口は「資本」ではなく、生産手段――というより労働手段つまり機械――だと言うのだろうが)をたたえ、持ち上げるのではなく、現実の労働にこそ注意と関心を払い、それをこそ評価すべきであろう、というのは我々は「過去の労働」によって支配されるのではなく、現実の労働によってのみ、社会的、個人的な生活の全体を保障し、維持していくのだからである。機械はあくまで「機械」つまり道具の発展した形態にすぎない、つまり我々の労働を助け、その生産力を高めるものにすぎない。

 【ここで林氏は〈しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって〉と述べているが、林氏にとってはどうやら〈解放された労働〉とは、〈「価値として対象化される」労働〉であるらしい。つまり相変わらず、それは商品の価値として対象化されるような労働なのである。何とも混乱した書き方であろうか。
 林氏は将来の社会では、生産手段が労働者を支配し、規制するのではなく、労働者が生産手段をただ道具として利用するだけだ、という関係を強調する。それはよい。しかし、生産手段、つまり過去の労働が、現在の労働、生きている労働を支配するのは、生産手段が資本として存在しているからであるということを忘れている。将来の社会でも生産手段は過去の労働の産物だが、しかしそれらは決して資本として労働者に対峙しているわけではない。生産手段は確かに将来の社会においても、共同社会の個々の構成員にとって、依然として自分たちの生活を維持し、再生産するに必要な客観的・物質的条件であり、対象である。それらは多くは--つまりまったく自然から直接採集する以外のものは--過去の労働の産物である。しかしそれらは社会の構成員の共同労働の産物であり、故に彼らによって共有されているものなのである。つまりそれらは彼らが共同して生産し、自分のものとして彼らの意識と統制の下にあるものなのである。だからそれらが彼らの過去の労働の産物だからといっても、それらが彼らを支配し、統制するものとして立ち現れてくるわけではない。林氏は、資本主義社会では、過去の労働の産物である生産諸手段が資本として、生きた労働に対峙する現実から、だから過去の労働は、あらゆる社会でも生きている労働を支配するものであるに思い込んでしまっているのである。しかしロビンソンの生活を考えてみれば明らかなように、ロビンソンの過去の労働の産物が、ロビンソンを支配するわけではない。要するに、林氏は、資本主義的生産の現実を永遠のものとして考えているから、そのように思ってしまっているのである。だからだれが資本の物神崇拝に陥っているかは明らかではないか。歴史的に限定した特定の社会形態に固有の関係から生じているものと、その基底にあって、あらゆる社会形態から独立し、それらに共通な一般的条件とを区別することが、林氏には、出来ていないのである。資本主義的生産に固有の問題を永遠のものとして見なしているからこそ、林氏の頭の中には、過去の労働=資本、という方程式が成り立っており、だから資本の否定はイコール過去の労働の否定となり、何とかして過去の労働を葬り去りたい、だから過去の労働は、どうでもよいものとして思い込もう、これが林氏の考えの根底にあるものであろう。】

 ある一つの共同体はかつて年々一トンのコメを生産できたにすぎないが、機械や肥料などを利用することによって三トンを生産することができるようになったとしよう。直接に農業生産に従事する期間(時間)は四ヵ月、つまり従来の三分の一に減り、残りの八ヵ月は機械の製造や肥料の生産に従事したとする。コメを直接に生産する労働は減少したが、コメを生産するための総労働は同じであり、ただその労働の生産性は三倍になったにすぎない。まさにこれこそ機械や肥料を利用することの意義であるが、しかし両方とも、同じ総労働が総量のコメに対象化されているという点ではどんな違いもない。同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もないのである。田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである。

 【ここでは林氏は共同体の話に移っているが、しかし、依然として「価値(価格)」が問題になるらしい。しかし、どうして価値や価格によって対象化された労働を表示する必要があるのか、それらは商品になるわけではないのだから、直接、労働時間で表示しても何の差し障りもないはずではないか。もっとも、とりあえず、われわれも、こうした馬鹿げた林氏の想定の上に立って、考察してみるのではあるが。
 林氏の上げている例は、このようにあまり感心なものではないが、とにかくわれわれもその例に沿って考えてみよう。林氏は機械と肥料を使った農業生産では、3トンの米に年々の総労働が対象化されているとする。つまりそれは米を直接生産する労働である4カ月と機械や肥料を生産した8カ月分の合わせて、12カ月分の労働ということであろう。ということは、この場合の米の「価値」というのは、米を直接生産した4カ月労働の追加労働分と、その米を生産するために、利用した過去の労働の産物である機械や肥料に対象化された8カ月分の労働を合わせたものであることは明らかである。林氏は、米を生産する労働をまず最初4カ月として、残った8カ月を機械や肥料を生産するのに使うなどというが、そもそも機械や肥料を米を作ったあとで生産するということは、その生産した機械や肥料は、その前の米の生産には利用できない事実を忘れている。もちろん、米生産に従事するのは4カ月だが、しかしそれは飛び飛びで従事するわけだから、その開いた時間を使って機械や肥料を生産すればよいではないかというかも知れないが、しかしいずれにしても、機械や肥料は、米生産労働のための生産諸手段である。だから生産諸手段は米生産労働の前に存在しないと、生産諸手段にはならないのである。労働対象や労働手段は、それらを使ったり、対象にして労働する生きた労働にとっては、前提されたものである。つまりその前に存在していなければならないのである。こんなことは子供でも分かる道理である。つまり4カ月で米3トン生産するためには、その前にすでに生産されている機械や肥料を前提しなければならないという子供でも分かる事実を、林氏は、忘れているのである。だからもし単純明快に考えようとするなら、それらは去年の生産物として考えるべきなのである。つまり過去の労働の産物なのだ。それがあるからこそ、共同体の構成員は、最初から米を機械や肥料を使って生産し、4カ月の労働で3トンもの米を生産できたのである。そして残りの8カ月で生産した機械や肥料は、来年度の米生産に利用すると想定すればよいのである。このように想定したからといって、米生産する共同体の構成員は、生産手段である機械や肥料に支配されたり、それらによって統制さるわけではない。それらは林氏の想定に立っても--林氏は3トンの米には12カ月分の労働が対象化されていると想定しているのだから--、その米の「価値」には機械や肥料の生産に支出された8カ月分の労働も計算に入っているのであり、だから機械や肥料に対象化された労働時間--つまり林氏の想定によれば、その「価値」--が関係することは明らかである。
 林氏は〈同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もない〉というのであるが、これは生産力には生産手段の価値は無関係だということであって、当たり前のことなのである。しかしそのことは、それに続いて田口氏の主張として論じていることを正当化するわけでは決してない。
 つまり〈田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである〉などと述べている。しかしそれでは林氏にお伺いするが、林氏のいう〈三分の二の今期の労働〉というのは、一体何に支出されたのであろうか。もしそれも米の生産に支出されたのだとするなら、生産される米は3トンではなく、9トンになるのではないのか。それにそれが機械や肥料の生産に支出されたのでないとするなら、一体、機械や肥料はどのようにして生産されうるのか、それともそれらは「生産手段が自動的に生産手段を生み出す」という林氏お得意の主張にもとづくものだとでもいうのであろうか。つまり林氏は最初は機械や肥料に支出された労働(8カ月)も含めて、米に対象化された総労働を12カ月としたのである。つまりこの時点で、林氏は機械や肥料に支出された労働も米に対象化されている総労働の一部だということを認めているのである。だから直接的な農業労働(4カ月)の過程で、生産物である米にそれらの生産諸手段に対象化されている労働も移転・保存されるのだと林氏自身も考えているのである。そうでない限り、米に対象化された総労働を12月とすることはできない筈なのである。そうした想定を林氏はすっかり忘れて、田口氏の主張とする〈コメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたもの〉というものに対して、〈三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張する〉ことになると批判しているわけである。自分が言っていることが自分自身の想定と矛盾していることが分かっていないのである。何とも馬鹿げた話である。こんな無茶苦茶な理屈を相手に論争することの不毛さと徒労に、誰もが匙を投げるのは止むを得ない。】

 田口は、機械や肥料に「対象化」されている労働は「過去の労働」(これを、昨年の労働、と理解して)であるにしても、それは今年の機械や肥料を作る労働と“質量ともに”――実際にそう言えるかはさておくとして――同じだから、従って結果としては、林が言うのと同様になる、と言うこともできるかもしれない。
 しかしそれなら、今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていくということであるが、何のために、そんなわけのわからないことを言わなくてはならないのか。去年と今年の労働の生産性はすでに違っているだろうということからも、田口の言うことは途方もない不合理にしか思われない。それに労働(時間)について議論しているときに、それを「後送りする」などということは、労働(時間)を「価値」として、つまり「資本」として扱っているからであると言うしかないではないか。田口ははたして「労働」を年々後送りすることができるかどうかを反省すべきであろう、というのは労働(時間)そのものは「価値」でも「資本」でもなく“社会的な”実体であって、“モノ”としての資本と違って「後送り」できるはずもないからである。

 【混乱した林氏の頭では、自分はまともなことを言っているつもりなのであろうが、ただ混乱しかない。まず〈今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていく〉というが、〈生産的労働〉というのは具体的有用労働を意味することを忘れている。だからそれが〈「価値」として「移転され」〉るなどというのは混乱の極みである。そしてマルクスの再生産表式を前提するなら、今年度の生産で生産的に消費される生産手段だけではなく、今年度の労働者や資本家によって消費される生活手段も、すべて前年度の生産(つまり過去の労働)の成果であり、一方は、今年度の部門 I と部門IIの生産手段として充用され、他方は労働者と資本家によって今年度一年間で消費されるのである。前年度の生産物である生産手段や消費手段が今年度において消費された(一方は生産的消費、他方は個人的消費)からと言って、労働が先送りされたなどと誰も言わないのである。ここで問題になっているのはあくまでも生産物に対象化された労働についてである。そんなことは当たり前のことであろう。】

 そもそも、田口は「過去の労働」について大騒ぎして語るが、その「過去の労働」とはいかなるものなのか。今年の「生きた労働」に対するのは、「昨年の労働」なのか、それとも「昨年までの総労働」なのか。

【再生産過程の考察で通常の想定されるのは、「過去の労働」というのは前年以前の労働のことである。固定資本をも想定するなら移転・保存されるのは前年の労働に限らないからである。もし不変資本として固定資本を捨象して流動不変資本だけを想定するなら、「過去の労働」というのは前年の労働を意味するし、「生きた労働」というのは「今年度の労働」のことである。】

 「昨年の労働」に限るなら、それは単なる「昨年の労働」であって、「過去の労働」ではないし、それが「今年の労働」であっても同じことである、だから田口は、「過去の労働」を「昨年の労働」と言い変えることはできない(言い替えたところで何の意味もない)、他方、「過去の総労働」だなどというなら、それを規定することはできない、「過去の総労働」が凝縮したものだ、などという規定がナンセンスなのは一目瞭然である、とするなら、田口は「過去の労働」とは永遠の昔から一定量の労働が延々と受け継がれ、「移転」させられてきた、とでも説くしかないが、しかしそんなものを想定すること自体に、どんな意味があるというのか(資本価値だというなら、それなりの意義はあり得るだろう。しかしその場合、田口は社会的な実体を、本物の物質的実体とみなしていないのか、つまり物神崇拝意識に骨まで汚染されていないのか)。

【混乱した頭脳には、自分の混乱を自覚できないのも無理はないが、すでに指摘したように、問題は社会的な総再生産過程を前提して論じていることがまず言われなければならない。そうした想定を取り外すなら、今まさに流動状態にあるものこそ「生きた労働」であり(それは生産物に対象化されるごとに過去の労働となる)、それを使って生産するすべての生産手段は、すべて「過去の労働」の産物である。しかし社会的総再生産過程を想定して問題を論じるなら、われわれは年一回転する生産を想定することになる。そこでは前年以前に支出された労働が「過去の労働」であり、今年度に支出される労働が「生きた労働」である。また固定資本を想定するのか、それともそれは捨象して考えるのかということもあらかじめ考えなければならない(しかしこれについてはすでに述べた)。すべてこうしたことを抜きに林氏は論じており、混乱した頭脳ではそれで十分なのかもしれないが、科学的に厳密に論じるなら、そうした想定がまず言われる必要があるのである。】

 機械等々の労働手段は現実であって、それが生産の前提であることは自明のことであるが、しかし労働手段自体が労働手段を自動的に作り出すわけではない、ただ労働手段は、現実の生産的労働、社会的に支出される生産的労働にとって、その生産力を規定するのであって、生産的労働自体に取って代わらないし、代わることはできないのである。田口は何を血迷ってか――あるいは私の前記の見解を“逆手に取った”つもりか――、社会の生産する「価値」は、だから「過去の労働」の生産力と、「生きた労働」の合計である、などとまたまた“口をすべらす”のだが(しかしこの発言は、急いで撤回せざるを得なかった)、しかし「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの(一つの大きさの「価値」、つまり一つの生産的労働)にできるはずもないことを“忘れる”のである。

 【こうした馬鹿げた議論も、こまかく詮索する意味はほとんどないのであるが、まあ、しょうがないからコメントを入れておこう。何度もいうが〈労働手段自体が労働手段を自動的に作り出す〉という主張は、生産手段をすべて「過去の労働」の産物と考える林氏のドクマから不可避に出てくるものであって、決して田口氏が主張していることではない。それに労働の生産力を規定しているのは、決して労働手段だけではない。〈労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている〉(23a54頁)のである。〈「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの〉云々も、田口氏の主張などと言っているが、そんなものは眉唾であり、誹謗中傷の類でしかないであろう。】

 実際、「過去の労働」とは、単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である。商品資本は生産手段の価値表現であるとともに、それに加えて、生活手段の価値表現である、そして後者もまた、ある期間の再生産の後には、全く同じ物質的存在として、また価値存在として再生されているのであり、その意味では、資本にとっては、単に不変資本部分だけでなく、可変資本部分も(つまり労働者が消費する生活手段も)、ブルジョアが消費する生活手段も、すべてみな立派に「価値移転」されている、とさえ言えるのではないのか。

 【まず林氏は「不変資本」、「可変資本」などと述べているが、そもそもこれらはマルクスによって簡略化された用語である。つまりそれらは正確には「不変資本部分」、「可変資本部分」と言われるべきものなのである。つまりそれは資本の生産過程では、生産の客観的条件をなすものを資本の不変資本部分とし、主体的な条件を資本の可変資本部分というのである。だからもし資本が貨幣形態を取っているなら、不変資本部分とは、その貨幣資本のうち生産手段の購入に投じられることを予定しているものに対していうのであり、可変資本部分というのは労働力の購入に充てられる部分をいうのである。そして商品資本としては、その価値構成として、不変資本部分、可変資本部分ということになる。だから資本であるということと、それが「過去の労働」の産物であるか、「現在の労働」の産物であるかというととは直接に関連しているわけではない。すなわち「過去の労働」だから、それは〈単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である〉などというのは間違っている。なぜなら、商品資本としては、確かにそれらはすべて対象化された労働の産物であり、その限りでは「過去の労働」の産物だが、生産資本としては、今まさに流動化しつつある労働力(だから現在の「生きた労働」)そのものも、資本の生産過程の一契機であり、資本の運動だからである。また〈商品資本の循環においてみ〉るということは、資本の循環をW’-G’-W…P…W’として見るということである。ここで「…P…」は生産過程を意味し、だから上記のように、その過程は生きた労働の過程でもあるのである。だから商品資本の循環としてみたら、価値の移転だけがなさたものとなる、というのは全く間違っている。価値としても、生産過程において、生きた労働によって再生産されるからである(そうでなければそもそも剰余価値は生まれない)。さらには生活手段がイコール可変資本部分なのではない。これはそもそも「可変資本」の概念を知らない者のいうことである。資本家にはそもそも不変資本や可変資本の概念そのものがないのであるが、だから彼らには、ただ生産手段や労働力の購入に投じた費用(コスト)がそのまま利潤を伴って彼の商品資本の価値として再現するように見えるのであるが、しかしそれを根拠にすべての商品の価値は「価値移転」されたものだと主張するなら、それはただ自分自身をブルジョア的な立場に置き、彼らの意識を根拠に、自説を立てるに過ぎないであろう。もっとも俗流主義者には相応しい主張ではあるだろうが。】

 資本にとっては、不変資本部分だけでなく、一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」として現象するのだが、そんな現象に目を奪われてしまう情けない人がいくらでもいるというわけである(そんな人々が労働者でないことだけは確かであろう、もっともこの真実を理解するのは別に労働者に限ったことでないにしても)。

 【しがし一体、誰が〈一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」〉だと主張したのであろうか。それは不変資本や可変資本の概念も分からず、だからまたその区別も分からない林氏自身ではないのか。不変資本や可変資本という概念は、生産過程に投じられた資本の価値として見ると、一方の価値(生産手段の購入に投じられた価値)が「不変」であるのに対して、他方の価値(労働力の購入に投じられた価値)が「可変」(増殖するもの)であることから規定されたものである。資本家にはこの区別が分かろう筈はないのである。それに資本家が彼の投じた資本はただ「移転」されるだけだと考えるのなら、そもそも利潤はどこから生まれるのか。どうして彼は彼の雇った労働者の労働を厳しく環視し、長時間や過酷な労働を強いる必要があるのか。ただ労働力を買った資本が「移転」するだけだと考えるなら、労働者の労働には無関心でもよいのではないか。】

 田口は不変資本部分(“再生産表式”で言えば、第一部門つまり生産手段部門)の「価値」は移転されてきたものだ、という。しかし、そんなことを言ったら、社会主義における「価値規定」がいかに可能なのか。我々は機械や原材料の労働時間もまた、その年に生産される生産物に必要な労働時間としてたちどころに見て取ることができるが、資本価値として存在し、「移転されてきた」価値の労働時間をいかにして確認し、知ることができるのか。

 【何度もいうが、部門 I の生産物(生産手段)の価値が、すべて〈移転されきたものだ〉などと田口氏が主張するはずもない。それは林氏自身のドクマであり、その間違った主張をただ相手になすり付けているだけである。】

 私が提起する、この問題はマルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないことである(どこかで似たようなことを言っているかもしれないが、一つのテーマとして論じていないように思われる、というのは、社会主義を「価値規定」と関連させて、いくらかでも具体的な形で述べることはマルクスの主要な問題意識、あるいは関心事項ではなかったからである)、だからこそ、「マルクスはそんなことを言っていない」とか、「マルクスは違ったように言っている」とか言って揚げ足を取っているだけではなく――そんなことは全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない――、私とは別の回答を示すべきであろう。

 【〈社会主義を「価値規定」と関連させて〉論じるという意味を、資本主義の経済的な諸法則を、社会的な生産を規制する一般的な諸法則の歴史的に独特な形態として捉えるという意味として考えるなら、マルクスは『資本論』のさまざまなところでそれを論じているのである。われわれが今日において問題にできる「社会主義」というのは、われわれが今現実に対象にできる資本主義的生産様式そのもののなかに、その一般的契機として、あるいはそれが将来の社会の萌芽を示す限りにおいて問題にできるにだけである。だから『資本論』ではそのようにしか論じられていないのである。そうしたわれわれが置かれている歴史的な客観的な条件を無視して、社会主義について〈具体的な形で述べること〉ができると妄想している林氏こそ、およそマルクス主義者として失格であることだけは確かなのである。われわれは、まさにそうした林氏の妄想そのものが〈全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない〉と主張するのである。われわれが林氏がいうところの〈社会主義の“概念”〉なるものが、〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たと自称されるだけで、その内容たるや、まったく空疎なわけの分からないものでしかないことをすでに確認してきたところである。こんなしょうもないことをゴチャゴチャいうことに一体どんな意味があるのかと誰しも思っていることではないだろうか。ただ林氏本人だけが、何か自分は立派なことを、画期的な理論を開陳しているのだと思い込んでいるだけなのである。こんな馬鹿話に付き合わされる会員こそ哀れである。】

 そんな諸君が、回答も出さず、「過去の労働」もまた現実の社会的再生産の「価値」の中に入り込み(有用的労働によって「移転」され)、そしてまた生産手段を生産する労働も「価値を生む」というだけなら、そしてそれに加えて、しかし「それでは二重計算になるのは確かだ、その矛盾は分からない」、その矛盾を回避するには、生産手段を生産する労働は存在しないものとするしかない(あるいは存在しても、「価値」としては対象化されない)、などとぼやくだけなら、それは、自らの論理的破綻を自ら白状することではないのか。

 【これはもうまともな文章にさえなっていない。ただ林氏が自身の妄想のなかで朦朧と彷徨っているだけの文章である。】

 実際、生産的労働が一方では具体的有用労働としては存在するが、抽象的な労働としては存在しないし、規定され得ない、などと言っていいのか、そんなことで一体どんな「労働価値説」か、またどんな社会主義社会が想定され得るのか。スターリン主義者たちが、社会主義を具体的にイメージできなかったこと、したがってまた社会主義的生産関係を作り出すことができなかったことは――そのほんのわずかな試みさえもしなかったことは――決して偶然ではないだろう、もっとも我々は、彼らがソ連や中国で社会主義を建設できなかったことを、こうした意識や論理の問題に還元しないし、するものでないことは、我々の「国家資本主義」の論理(ソ連論、中国論)を検討し、理解していられる人々にはよく分かっていることであり、自明の前提であるだろうが。

 【これもまともな検討に値しない文章である。林氏が「生産的労働」とは何かも知らないことだけは確かである。〈社会主義を具体的にイメージでき〉ると考えることそのものが非科学的であるということを、マルクス主義者なら分からないければならないのである。】

 社会主義の“理想”は回復されなくてはならず、その内容が――「搾取の廃絶」と「労働の解放」という課題が――明らかにされなくてはならないのである。

 【この限りでは異論はないが、しかし林氏がやっていることは、そうしたものに答えることになっていない。むしろその課題を貶めることでしかない。】

 「搾取労働の廃絶」ということは分かりやすいが、「労働の解放」の意味は若干説明がいる。このことの意味するものは、人間労働が「価値」という形態を取らない、そうした“物象的な”形態――これは“物化”した形態、モノに“対象化”された形態ということと、同じ意味でここでは用いているのだが――、すなわち商品や貨幣や資本等々の形態では現われない、現われる必要はない、ということである(生産物や金や機械等々は、それ自体決して「価値」でも「貨幣」でも「資本」でもない)。商品や貨幣や資本は結局は「価値」――その「実体」、つまり内容は「人間労働」である――であり、その諸形態である、そして労働が「価値」の諸形態をとるということが――そしてその大きさが「価値」の大きさとして、商品や貨幣や資本の「価値」の大きさとして現象し、貨幣や資本に転化し、人間を逆に支配することが――、労働者の疎外の――人類全体の疎外の――根底にあるのである、つまり「労働の解放」とは、《労働が「価値」の形態を取り、労働の継続が、その大きさが、「価値」の大きさとして(価格表現として)、商品や貨幣や資本の大きさとして現われる》ことの廃棄であり、人間の労働(時間)が人間の労働(時間)として、そのままの形で存在し、位置付けられ、確認されることである。

 【確かにこの部分は〈若干説明がいる〉。ここでは林氏は「労働の解放」というのは、労働が疎外された形態を克服することだと述べているが、肝心のことが語られていない。つまり労働が疎外されているのは、労働が私的なものとして存在していることの一結果だということ、だからその克服は労働が直接社会的な関係を取り戻すことだということが語られていないのである。だからこそ社会主義とは労働の私的性格を止揚して直接社会的なものとして位置づけることにあるのである。これこそが林氏がいうところの〈社会主義の真実〉なのである。その肝心のことが分かっていないし、語られていないのである。】

 「搾取の廃絶」や「労働の解放」という労働者の理想は、宗教家が描く天国や楽園の華やかで、きらめくようなイメージとは違って、いくらか地味で、散文的であるかもしれないが、人類のこの地上において実現可能な、また実現すべき現実的な世界(社会)であって――仮に、そこに「永遠の生命」とか、「蜜とミルクが自然に流れ出て来る」とかいった空想の余地は少ないとしても――、人類の本当の、そして永遠の解放であり、その出発点である。
 我々がこの小論で述べてきたことが、この百年余り――あるいは、それ以前も――、何も語られて来なかった、むしろその反対ことこそ強調されてきたからといって、我々の言葉が真実ではない、ということには決してならない。ソ連や中国の「国家資本主義」の人格化としての、その体制の代弁者、弁護者としての“スターリン主義者”たちが、そして、なさけない“ブルジョア”に転落したも同然の共産党が、社会主義の真実を語るはずもないのである、語ることができるはずもないのである。

 【だから林氏の語る〈社会主義の真実〉なるものも、殘念ながら、われわれは眉に唾をつけてお伺いしなければならない。そもそもマルクスを軽んずるものに、〈社会主義の真実〉やマルクス主義を語る資格はないのである。】

(林 紘義)

【●最後に

 林氏は、その内容からは明らかにマルクスの理論に対する批判を展開しながら、公然とは「マルクス批判」を掲げず、表面上は、依然としてマルクス主義者であるかに振る舞おうとしている。しかし、その化けの皮は隱しようがないほど明らかになりつつある。「有用労働による価値移転」についても、〈言葉としてはマルクスが「価値移転論」を語っていることは林も認めているのですから、それを繰り返しても意味がありません〉(通信No.15)などと述べて、会員がマルクスに依拠して林氏に反論しようすることを事前に封じようとするわけである。しかし、林氏はマルクスが「言葉として……語っている」ことを認めているというが、しかし、その「言葉」を林氏は如何に理解しているかであって、会員は林氏の理解は間違っていると批判しているのである。そしてマルクスが言っていることはこういうことであり、林氏の理解はおよそマルクスの述べていることとは違ったものであると批判しているのではないのか。単にマルクスから引用して事足れり、としているような批判は少なくとも会員の批判のなかに見ることはできない。林氏こそ、マルクス批判を繰り返しながら、公然と「マルクスは間違っている」と批判することができず、姑息な方法で逃げ隠れしながら、マルクス批判を展開しているだけではないのか。
 〈林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などとも主張しているが、要するに、林氏は「再生産表式」という言葉そのものは、『資本論』のどこを捜してもないと言いたいのである。確かに言葉としては「再生産表式」という用語そのものはないかも知れないが、しかし、「単純再生産の表式」という言葉そのものはマルクスも使っており、社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることは明らかなのである。それを「再生産表式」と言ったからといって、何も問題は無いし、間違いとは言えないであろう。問題は、マルクスが社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることについて、林氏はどのように評価しているのかということではないのか。言葉として「再生産表式」という用語をマルクスが使っているかどうか、というような問題ではないのである。言葉としては、マルクス自身は『資本論』のなかで「再生産表式」という用語を使っていないということを、まるで鬼の首でも取ったかのように、だから〈いわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などというのは、それこそマルクスの一言一句を金科玉条のように持ち出すことの裏返しではないのか。マルクスが使っていないから、だからそれは無い、などと結論するのは実に馬鹿げたことではないか。一体、林氏はいつから“マルクス絶対主義者”になったのか。
 いずれにせよ、林氏は公然とマルクス批判派に転換したのである。もはや林氏や彼を支持する人たちは、マルクス主義の旗をさっさと降ろすべきではないか。少なくないかつてのマル系学者たちが、晩年になってマルクス批判派に転ずる風景はよく見られることである。最近も山本二三丸がマルクスの理論は間違っていた、それを正しいと自分は教えてきたが、申し訳ないことをした、等々と懺悔を行っていることを知ったが、それ以外にも多くのマル系学者が似たりよったりの立場に移行しあつつある。林氏もその意味では、同じ穴の狢であろう。“晩節を汚す”という言葉があるが、まさに林氏にも当てはまる。】

(完)

 (次回以降は未定である。この連載を継続するかどうかも含めて少し考えたい。)

2016年3月16日 (水)

林理論批判(39)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.16)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(5)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第5回目、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討である。この項目は若干長くなってしまったので、二回に分けて紹介することにする。今回はその前半部分である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”(記事の中見出しをそのまま紹介

 いわゆるマルクスの「再生産表式」は、それが歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った、単純な「再生産表式」として位置付けられる限り、年間の総労働は九〇〇〇(もちろん、この単位は労働時間であろうと、労働日であろうと、万労働日であろうと構わない。日本の現状にいくらかで近いものを想定するなら、万労働日が一番イメージを得るにはいいかもしれない)、その内六〇〇〇は生産手段(機械や原材料)の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段(食料など生活していくために必要な消費資料、つまり「衣食住」)の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる、だが、それを、第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら理論的迷路に迷い込むだけであろうし、そんなドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示しているなどと言えないことは余りに明らかであろう。

 【ここではまず「いわゆる」という文言が先に来る。これはまあ「……と言われている」というぐらいの意味であろうか。しかも「マルクスの」と問題が限定されている。そして〈「再生産表式」は〉と来る(再生産表式が鍵括弧に入っていることに注意)。何しろ林氏によれば、「再生産表式」などといったものはないのであって、それはスターリニスト達のたわごとでしかないのだから、こういった表現になっているわけである。
 ところがその科学的な概念も意義も認めない林氏が、マルクスの単純再生産表式を前提して論じようとしているわけである。しかも〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じようとしている。しかし歴史的な形態を捨象して尚且つ論じるだけの意義があるなら、それは科学的な概念として意味のあることを認めることではないのか。これまでの林氏の自身の主張とそこらあたりはどのように整合するのであろうか。それとも林氏が自身も自分が批判するスターリニストの仲間に入ったということであろうか。まずそこらあたりをハッキリさてから、「マルクスの単純再生産」について論じるべきではないのか。
 しかしまあ、そこらあたりの疑念は横において、林氏のいうことを聞いてみよう。
 林氏はいう。
 〈年間の総労働は九〇〇〇……、その内六〇〇〇は生産手段……の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段……の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる〉。
 しかしすでにここに間違いがある。まず表式から歴史的形態を捨象した場合、表式は年間の総生産物とそれに対象化されている労働時間を表すものと考えるべきである。総生産物に対象化されている総労働時間は9000だが、しかしそれは〈年間の総労働〉では決してない。生産手段に対象化されている労働時間6000も、決してその〈生産のために支出された労働〉を表すものでも、生活手段に対象化されている3000も、やはりその〈確保のために支出された労働を意味する〉わけではないのである。ここにすでに林氏の混乱の元がある。〈年間の総労働〉を問うなら、それはやはり3000でしかなく、それが部門 I (生産手段の生産)で2000、部門II(生活手段の生産)で1000が支出されたのである。
 だから〈第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり(何で、こんなところに「価値」が出てくるのか、「価値形態」は剥ぎ取ったのではないのか?--引用者)、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら〉というような文言もまったく混乱したものでしかない。こんな混乱したことを主張している人はいないし、それは林氏だけが自身の混乱を自覚せずにそれこそ言い散らしている妄言でしかない。一体、誰が、第Ⅰ部門の生産物に対象化されている労働はすべて「過去の労働」だなどと言っているのであろうか。それは生産手段=資本=「過去の労働」というブルジョア的な観念に取りつかれている林氏だけが言ってきたことなのである。それはまさに林氏自身の〈ドグマ〉でしかなく、誰もそんな〈ドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示して〉などいないのである。】

 「再生産表式」は、それを合理的に見るなら、ただ年々の総労働の三分の二が生産手段のために、三分の一が消費手段のために支出されるということを示すにすぎないのだが――もちろんこうしたことが、この「再生産表式」の課題であり、意義であるかどうかということとは別である――、しかしこうした見解を認めること自体が大変であって、重大な、そして牢固として根を張った異論が、異議が持ち出されるのであり、持ち出されてきた――なお悪いことに、とりわけ労働者の闘いの中に――持ち込まれ、押し付けられてきたのである。
 その異議とは、六〇〇〇の生産手段は今年度の労働によって生産され、生み出されたものではなく、「過去の労働」によって、つまり前年までの労働によって生み出されたものであって、「有用的労働」なるものによって「移転されてきた」のだ、といったものである。

 【まず林氏が〈年々の総労働〉という場合、先にみたように、それは9000を意味すると考えているのだが、それはすでに間違っていることは指摘した。それは正しくは3000であり、そうすれば確かにこの場合も、〈三分の二(つまり2000であるが、林氏はそれを6000と考えている)が生産手段のために、三分の一(1000であるが、それを林氏は3000と間違って考えている)が消費手段のために支出される〉というのは正しい。
 しかし何度もいうが、林氏が〈異議〉として紹介しているような主張は、それこそ林氏が勝手に作り上げた〈ドクマ〉でしかないのである。正しくは6000の生産手段の使用価値は確かに〈今年度の労働によって生産され、生み出されたもの〉であるが、しかしそれに対象化されている労働6000は、すべて今年度に支出されて対象化されたものではなく、そのうち4000は今年度の生産過程で生産的に消費された生産手段(生産手段のための生産手段)に、過去に支出されて対象化されていたものでしかなく、今年度に新たに対象化された労働は2000に過ぎないのである。もちろん、この場合も、〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じるなら、対象化された労働時間の移転や保存といったことは問題にはならないであろう。すべての労働が直接社会的に関連づけられているなら、一連の労働はすべて最終生産物の生産に必要な労働として、ただそれらが加算されるだけでよいからである。それはあらゆる生産の社会的形態にも関係のない、だからすべての社会的形態の中に貫いている自然法則だからである。】

 田口は、「過去の労働」なくしては、つまり生産手段なくしては、現在の生産はない、と強調した。しかしそのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のことではないのか。生産手段とは不変資本のことであって、田口は実際には、資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫んでいるのと同様なところに帰着しないのか。

 【この文章は(「も」というべきか)無茶苦茶である。まずここでも〈「過去の労働」=生産手段という自身のドクマを前提に論じている混乱が指摘できる。ただもしこの一文を〈「過去の労働」なくしては、……現在の生産はない〉というものとして捉えるなら、それを誰も否定できないであろう。われわれの現代の文明は過去の多くの人たちの労働の成果を引き継いできた結果でもあることは誰も否定できないからである。その意味では〈現在の生産〉も、過去の労働によって支えられていることは間違いない。しかしもちろん、〈そのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のこと〉である。「価値移転」は何度もいうが労働生産物が価値という社会的属性を纏わなければならない社会、商品生産の社会(資本主義社会)に固有のものだからである。しかしということは「価値移転」という経済法則が、社会的な物質代謝を規制している自然法則の、歴史的な形態であることをも意味するわけである。つまり価値移転論を否定する林氏の誤りをも示しているわけだ。生産手段、消費手段というのは、生産物の使用価値にかかわるカテゴリーである。だからそれは如何なる社会形態にも関わりのないものである。確かに資本主義的生産では生産手段は不変資本という形態規定性を受け取るが、だからといってどんな社会でも生産手段が不変資本であるわけではない。田口氏が〈資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫ん〉だとするなら(そんな当たり前のことをことさら田口氏が叫んだとは思えないが)、しかしそれはしごく当然のことではないのか。そこにはどんな間違いもない。】

 生産手段――とりわけ固定資本として存在する、大規模な機械等々――なくして現在の社会はあり得ないとしても、現在の社会に富を、生活手段をもたらすのは、現実の労働であって、「過去の労働」でないのは自明のことで、生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりするのではない。生産手段は生活手段を生み出すためにのみ存在し、発展した人類社会においては不可欠の契機であるとしても、人類はそれ自体を消費するわけではない、というのは、人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではないし、そんなことができないのは誰でも知っていることだからである。

 【ここにも生産手段=過去の労働、生活手段=生きた労働という林氏のいつものドクマがあるが、実はこうしたドクマから、〈生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりする〉という主張も出てくるのである。なぜなら、生産手段に対象化されている労働はすべて「過去の労働」ということになれば、生産手段を生産する生きた労働(現在の労働)といったものはなく、ただ生産手段はすべて過去の労働がそのまま移転されたものだということになり、だから生産手段はそのまま新しい生産手段を生み出すのだということにならざるをえないからである。林氏は〈現在の社会〉の〈富〉は〈生活手段〉だけだと考えているようだが、しかし生産手段も社会の富であることは明らかである。それらをわれわれは過去の労働の成果として引き継ぎながら、現在の労働にもとづいて再生産しながら、それらを享受しているわけである。林氏は〈消費〉と言えば個人的消費だけしか知らないようだが、われわれは生産手段も立派に生産的に〈消費〉するのである。〈人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではない〉などという下らない“真理”をもっともらしく言っても何の意味もない。】

 そしてまた、生産手段も、つまり生活手段を生産するための機械や原材料も、また年々生産的労働によって再生産されなくてはならないこと、もし再生産されないなら、機械も原材料もたちまち使い古され、耐用期限が切れて腐食し、あるいは破損し、機能不全になってしまうことほどに明瞭なことがあるであろうか。

 【これも一体、誰の批判として主張しているつもりなのか知らないが、当たり前のことをことさらいうことに何の意味があるのか。】

 田口は「過去の労働」なくして、現在の我々の生活も生存もないと強調するが、実際には、現在の労働なくして、現在の我々の生活の再生産も我々の生命の存続もないのであって、「過去の労働」なるものが、生産手段等々が自動的に、それをもたらしてくれるわけではない。

 【これも馬鹿げた話しであるが、林氏は「過去の労働」が、過去には「現在の労働(生きた労働」だったということを知らないのであろうか。過去の労働が、そのときには生きた労働だったからこそ、その労働が生産手段も生活手段をも生み出したのである。こんな当たり前のことも分からないか。それに生産的労働の結果としての生産物からみれば、それを生み出した労働はすべて過去の労働である。】

 そしてこのブルジョア社会では、「過去の労働」が資本として、不変資本として存在する限り、田口は資本なくして、労働者の、人類の生存も生活もないと叫んでいるのと同じではないのか。これはまさに資本に対する「物神崇拝」であり、資本を神として祭り上げることではないのか、資本への崇拝と、したがってまた永遠の屈従を説くことと同じではないのか。現実の生産的労働者とその労働を軽視し、他方では「死んだ労働」つまり資本を持ち上げるとは、何と破廉恥なことであろうか。

 【なんという馬鹿げた世迷いごとであろうか。林氏は、このブルジョア社会では「過去の労働」が資本として、不変資本として存在するから、過去の労働の必要を主張する田口氏は資本に対する「物神崇拝」者だという。しかし、それをいうなら、「現在の労働」もやはり資本として、すなわち可変資本として存在しているのだから、「現在の労働」を強調する林氏も、やはり資本に対する「物神崇拝者」でなくてなんであろうか。そもそも「過去の労働」であるか、「現在の労働」(生きた労働)であるか、ということはその社会的な生産諸形態とはまったく関係のない問題である。すでに述べたように、それは物質的な生産過程に共通する一般的な条件であり、性格である。例えばすでに述べたように、ロビンソンの労働の場合も、木を切る伐採労働は、その木を加工して材木を作る製材労働にとっては「過去の労働」であり、それに対して製材労働は「生きた労働」なのである。こんな子供でも分かることが林氏にはどうやら分かっていないのである。何ともアホらしい幼稚なマルクス主義者があったものである。例えばマルクスは次のように述べている。

 〈第一の割合は、技術的な基礎にもとづくものであって、生産力の一定の発展段階の上では与えられたものとみなしてよいのである。一定量の生産物をたとえば一日に生産するためには、したがって――そのなかに含まれていることではあるが――一定量の生産手段すなわち機械や原料などを動かして生産的に消費するためには、一定数の労働者で表わされる一定量の労働力が必要である。一定量の生産手段には一定数の労働者が対応し、したがって、すでに生産手段に対象化されている一定量の労働には一定量の生きている労働が対応する。この割合は、生産部面が違えば、またときには同じ産業のなかでも部門が違えば、非常に違っている。といっても、偶然的には、非常に遠く離れた産業部門のあいだでも全然同じだったりほとんど同じだったりすることもありうるのであるが。
 この割合は、資本の技術的構成をなしていて、資本の有機的構成の本来の基礎である。〉(『資本論』全集25b185頁)

 つまりここではマルクスは、資本の有機的構成の物質的基礎である技術的構成について述べている。有機的構成は不変資本と可変資本の価値の割合であり、それは資本主義的な形態規定の問題である。しかし、技術的構成は、価値ではなく、生産手段に対象化された過去の労働に対する生きている労働の割合なのである。こうした物質的な条件は、その生産の社会的形態の基礎にあるものだとマルクスは語っている。だからそれはその限りでは社会形態によって変化するものではあるが、それ自体は独立した契機なのである。
 対象化された過去の労働と生きている現在の労働との区別が出来ない林氏は、だから資本の有機的構成の説明も出来ないことになるわけである。だからまた林氏は、〈利潤率の進行的低下の法則、すなわち、生きている労働によって動かされる対象化された労働の量に比べて取得される剰余労働が相対的に減少して行くという法則〉(25b272頁)をも否定することになっているわけである。
 少々長くなるかも知れないが、これに関連するものをマルクスから引用しておこう。林氏にとってはマルクスがどのように論じているかはどうでもよいことだが、しかし、少なくとも同志会の会員なら、マルクスのいうことに耳を傾け、そして自分でそのマルクスの主張をもう一度確認するぐらいの努力は払うだろうからである。

 〈商品の価値は、その商品にはいって行く過去の労働時間も生きている労働の時間も含めての総労働時間によって規定されている。労働の生産性が高くなるということは、生きている労働の割合が減って過去の労働の割合がふえるということ、といってもその結果は商品に含まれている労働の総量が減ることになるということ、つまり過去の労働がふえる以上に生きている労働が減るということにほかならない。商品の価値に具体化されている過去の労働――不変資本部分――は、一部分は固定資本の損耗分から、一部分は全体としてその商品のなかにはいった流動不変資本――原料と補助材料――から成っている。原料や補助材料から生ずる価値部分は、労働の生産性〔の増大〕につれて減少せざるをえない。なぜならば、この生産性は、このような素材に関しては、まさにそれらの価値が下がっているということに現われるのだからである。これに反して、不変資本の固定部分に非常に大きな増加が生じ、したがってまたその価値のうち損耗によって商品に移される部分もまた非常に増大するということこそは、まさに労働の生産力の増大の特徴なのである。ところで、ある新しい生産方法が現実に生産性を高くするものだという実を示すためには、その生産方法が固定資本の損耗分として個々の商品に移す追加価値部分が、生きている労働の減少によって節約される控除価値部分よりも小さくなければならない。一言でいえば、この生産方法は商品の価値を減らさなければならない。たとえ、個々の場合に見られるように、固定資本の追加損耗部分のほかに、より多量またはより高価な原料や補助材料のための追加価値部分が商品の価値形成にはいるとしても、もちろんこの生産方法は商品の価値を減らさなければならない。生きている労働の減少から生ずる価値減少がすべての価値追加を埋め合わせる以上のものでなければならない。
 だから、商品にはいる総労働量がこのように減少するということは、どんな社会的諸条件のもとで生産が行なわれるかにかかわりなく、労働の生産力の増大の本質的な標識であるように見える。生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会では、それどころか単純な商品生産にあってさえも、労働の生産性はやはり無条件的にこの尺度で計られるであろう。〉(25b326-7頁)

 ここでマルクスは商品に入っていく過去の労働時間と生きている労働時間を合わせた総労働時間が減少するということは、どんな社会的条件のもとで生産が行われるかに関わりなく、だから生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会--すなわち将来の社会主義社会--でも、労働の生産性はやはり無条件にこの尺度で計られるだろうと述べていることに注意が必要である。つまりマルクスは過去の労働時間と生きている労働時間という区別は将来の社会主義社会でも、労働の生産性を計る尺度として重要であることを指摘しているのである。「過去の労働」といったものが社会主義では無意味になるかに論じている林氏(というより資本主義でも無意味と主張しているのだが)が、社会主義の概念など語る資格もないことは明らかであろう。

 〈過去の労働の生産物、過去の労働そのものが、ここではそれ自体として現在または未来の生きている剰余労働の一片をはらんでいるのである。ところが、だれでも知っているように、じつは過去の労働の生産物の価値の維持は、そしてそのかぎりではまたこの価値の再生産も、ただ、それらの生産物と生きている労働との接触の結果でしかないのであり、また第二に、過去の労働の生産物が生きている剰余労働に命令するということが続くのは、まさにただ、資本関係、すなわち、過去の労働が生きている労働にたいして独立に優勢に相対しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけのことなのである。〉(25b501頁)

 〈ある炭坑が、ある製鉄所に石炭を供給して、この製鉄所から、生産手段として炭坑経営にはいる鉄を受け取るとすれば、石炭はこの鉄の価値額だけ資本と交換され、そして相互的に鉄がそれ自身の価値額だけ資本として石炭と交換されるのである。どちらも、(使用価値から見れば)新しい労働の生産物である、といってもこの労働が現存の労働手段をもって生産したものではあるが。だが、年々の労働の生産物の価値は、年々の〔新たにつけ加えられる〕労働の生産物ではない。それは、むしろ、生産手段に対象化されていた過去の労働の価値を補填するのである。したがって、総生産物のうち、この価値に等しい部分は、年々の労働の生産物の一部分ではなくて、過去の労働の再生産なのである。〉(『学説史』26 I 210頁)

 〈年々の総生産物の交換価値には、生きている労働すなわち今年中に充用された生きている労働がはいってくるだけではなく、過去の労働すなわち過ぎ去った年の労働の生産物もまたはいってくる。生きている形態での労働だけでなく、対象化された形態での労働も。〉(同上300頁)

 〈経済学者たちは過去の労働を資本と同一視するので--過去の労働というのはここでは生産物に実現されている具体的な労働の意味でのそれであるとともに社会的労働、物質化された労働時間の意味でのそれでもある--、資本をたたえる詩人としての彼らにあっては、生産の対象的な要素の重要性を主張し、主体的な要素、すなわち生きている直接的な労働に比べて対象的な要素の意義を過大評価するということは、自明なのである。労働は、彼らにとっては、それが資本になり、自分自身に相対し、労働の受動形がその能動形に相対するとき、はじめて十分な労働になる。したがって、生産物は生産者に対して規定的であり、対象は主体にたいして、実現された労働は実現されつつある労働にたいして、規定的である。すべてのこれらの把握では、過去の労働は、それに包摂される生きている労働の単に対象的な契機としては現われず、むしろ逆である。それは、生きている労働の力の要素としては現われず、この労働を支配する力として現われる。労働と労働条件との関係が転倒されていて、労働者が諸条件を充用するのではなく、諸条件が労働者を充用するという、この独自な社会約形態、すなわち資本主義的形態を、技術的にも正当化するために、経済学者たちは労働の対象的な契機に労働そのものに比して不当な重要性を与えている。そして、それだからこそ、ホジスキンは、逆に、この対象的な契機--つまりいっさいの実現された富--は生きている生産過程に比べればまったく重要性のない、じっさいただ生産過程の契機として価値があるだけで、それだけとしては価値のないものである、ということを主張するのである。そこで、彼の場合には、労働の過去形がその現在形にたいしてもっている価値をいくらか過小評価していることになる--といっても、これは経済学的な呪物崇拝にたいしては当然なのであるが。もし資本主義的生産において--したがってまたその理論的表現としての経済学において--過去の労働がただ労働そのものによってつくりだされた土台などとしてのみ現われるとすれば、このような論争問題は存在しえないであろう。このような問題が存在するのは、ただ、資本主義的生産の現実においてもその理論においても、実現された労働が自分自身すなわち生きている労働にたいする対立物として現われるからにほかならない。それは、宗教的にとらわれた思考過程において思考の産物が思考そのものにたいする支配権を単に要求するだけでなく、それを行使するのと、まったく同様である。〉(『学説史』26III360-1頁)

 〈資本の諸成分の変動について重要なことは、相対的により多くの労働者が直接的生活手段の生産よりも原料や機械の生産のほうに従事しているということではない。これはただ分業でしかない。そうではなくて、重要なのは、生産物が過去の労働を補填しなければならない(すなわち不変資本を補填しなければならない)割合と、それが生きている労働に支払わなければならない割合とである。資本主義的生産の規模が大きくなればなるほど--つまり蓄積される資本が大きくなればなるほど--、生産物の価値のますます大きな分けまえを機械や原料が占め、機械や原料の生産に充用される資本はこの分けまえに帰する。だから、生産物のますます大きな部分が、現物のままでか、または不変資本の生産者たちが互いにその諸部分を交換することによって、再び生産に供されなければならない。生産物のうち生産に属する部分の割合はますます大きくなり、生きている新たにつけ加えられる労働を代表する部分は相対的にますます小さくなる。もちろん、諸商品、諸使用価値で表わされれば、この部分は増大する。なぜなら、前述の事実は労働の生産性の増大と同義だからである。だが、この部分のうち労働者のものになる部分はなお相対的にますます減少する。そして、この同じ過程は労働人口の不断の相対的過剰を生み出すのである。〉(『学説史』26III-473-4頁)

 「過去の労働」と「生きている労働」との区別がマルクスにとってどれほど重要な意味を持っているかが、これまでの引用をつぶさに検討すれば、分かるであろう。マルクスから謙虚に学ぶ姿勢を打ち捨て、傲慢な独りよがりに陥っている林氏には、いつまで経っても分からないであろうが、少なくともマルクス主義を標榜する同志会の会員であるなら、マルクスから謙虚に且つ真摯に学ぶ姿勢までも失いたくないものである。】

 (以下、続く。次回は後半部分を紹介)

2016年3月 7日 (月)

林理論批判(38)

林 紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.15)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(4)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第4回目、三つ目の項目〈◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか〉の批判的検討である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字【 】に入れてある。

◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか(これは論文の表題をそのまま紹介

 では、なぜ私が示したような簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し、理解することができなかったのだろうか(なぜ、革命後のソ連社会も中国社会もして来なかったのだろうか――もちろん、こういう問題提起をするのは、その社会的、階級的条件や背景を説こうということではなく、理論的な契機としてのみ議論しようということだが、一般的な形では、ロシア革命の直後には、社会主義における「分配」は労働によるものである、ということは理論的に完璧に承認されていたし、また実践的にも「戦時共産主義」の時代には形式的に実行に移されもしたのである。もちろん、「戦時共産主義」の“実験”は、小商品生産が支配的だったという歴史的条件の中で挫折し、ネップの時代に移って行ったし、行かざるを得なかった。

 【ここで林氏は〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たというのだが、私の理解力の不足によるのか、まったくそれがよく分からないのである。林氏は〈すべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)〉などとも述べていたのだが、何一つ簡潔にも、われわれが簡単に理解できるようにも、説明はこれまでなされて来なかったのである。本人は簡単に示した積もりなのかも知れないが、これまでこの論文を読んできた私自身としてはまったく理解不能である。林氏が〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たというものを、念のためにもう一度おさらいしておくと、次のようなものであった。
 まず消費手段として自動車が例に上げられ、それを生産する労働者は100万人、50日働日で100万台の自動車を生産。総労働日5000万、これだと一人の労働者が一台の自動車を手にすることになるが、しかし労働者は50労働日で自動車一台を手にできない。というのは自動車の生産のためには機械や鉄鋼などの生産手段が必要だから。機械(千台)には100万人で50労働日、鉄鋼(100万トン)も100万人50労働日が必要、合計1億労働日、だから社会が自動車生産に必要とするのは合計300万人が50労働日で1億5000万労働日。ここで林氏は次のように書いている。
 〈
かくして自動車100万台の生産のためには、合計300万人で50日が必要であったのであって、単に100万人だけではなかった。かくして、一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった(150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である)。
 この部分を検討した時にも指摘したが、林氏はここで計算間違いをしているが、まあそれはお愛嬌としておこう。しかしわれわれが首をかしげざるを得ないのは、ここまでで、林氏が〈
簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たということで述べていることは、要するに自動車の生産のためには、それを直接生産する労働だけではなく、その生産の過程で必要とする生産手段の生産も必要であり、それらの生産に費やされた労働時間も自動車の生産に必要な労働時間として考えなければならないということだけである。だから自動車を直接生産する労働者が例え50労働日で1台の自動車を生産したからといって、彼はその50労働日と引き替えに自動車1台を手にすることはできないということでしかない。しかしこれがどうして社会主義の概念なのか皆目分からないのである。こんなことがこれまで誰も指摘して来なかったなどということはありえないのである。ここでロシア革命時の「戦時共産主義」を持ち出すのもおかしな話である。
 そもそも林氏は自動車の生産のためには、それを直接生産する労働だけではなく、自動車の生産に必要な生産手段の生産に費やされた労働も考慮する必要があり、それも含めて自動車を生産するに必要な労働時間である、と主張するのであるが、しかし林氏はそのためには重要な前提があることを知っているのであろうか。つまりこういうことを言うためには、鉄鋼や機械などを生産する労働と、自動車を直接生産する労働の社会的な関係が明確でなければならないということである。確かに社会主義を前提するなら、それらの労働は直接社会的に結びついたものとして最初から支出されるから、自動車の生産に必要な労働はそれらの合計として簡単に計算できる。しかし資本主義的生産においては、それは決して直接的な社会的関係としては現われないのである。それらの労働の社会的な関係はただ価値関係として現われるしかない。鉄鋼や機械は商品として自動車資本に購入されて初めて、それらは自動車生産に従事する労働力と結びついて自動車を生産することができるのである。そしてその場合には、鉄鋼や機械に費やされた労働は自動車の生産に必要な労働しては、ただそれらの価値が自動車を生産する労働過程で移転・保存されるという形で、生産物である自動車の価値として結実して初めて、その自動車の価値は、その生産に社会的に必要な労働を表すものだとわれわれは捉えることができるのである。そしてその生産過程における生産手段の価値を移転する労働は、まさに鉄鋼を機械を使って加工して自動車という使用価値を生み出す具体的な有用労働以外の何ものでもない(なぜなら、その自動車生産の労働の抽象的人間労働の契機はただ新たな価値を生み出すだけだから)。つまり「有用労働による価値移転論」を排斥する林氏にはとうてい説明のつかない話なのである。つまり上記のような林氏の説明は、まさに有用労働による価値移転論を批判する自身の主張と真っ向から矛盾しているのである。それに気付いていないのは、林氏が混乱したただの俗物に成り下がってしまっているからに他ならない。】


 問題の根底は、自動車に「対象化」される労働をいかに計算するかで、「価値移転」論にとらわれているかぎりでは決して合理的な回答を見出すことができなかった、ということである。機械やエネルギーや鉄に「対象化」されている労働を合理的に確定できず、そんなことをやれば全くの循環論の迷路に迷い込むように見えたし、事実迷い込んだからである。

 【先にみた混乱した林氏の頭では、自分が矛盾したことを、ここでも主張していることが何も分かっていないのであろう。先の林氏の社会主義の〈簡潔で明瞭な〉説明では、鉄鋼や機械の生産に必要な労働を〈両方で1億労働日である〉とそれこそ簡単に仮定していたが、ここではそれらの〈労働を合理的に確定で〉きないと主張している。もし林氏がそのように考えるのなら、そもそも先の〈社会主義の“概念”〉の説明の時にもそんなに簡単に仮定するのはおかしいのではないのか。確かに資本主義社会では〈機械やエネルギーや鉄に「対象化」されている労働を合理的に確定でき〉ないが、それはそれらの労働が直接にはただ私的に支出されたものであって、直接には社会的に必要なものかどうか分からないからである。だからそれらに対象化された労働はそれらが商品の価値として交換されることによって、その社会的な関係を実現しなければならず、価値の移転というのはまさにそうした社会的関係を表すものなのである。つまり〈「価移転」論に〉立脚しないかぎり、〈自動車に「対象化」される労働〉についても〈決して合理的な回答を見出すことができな〉いのである。林氏は少なくとも価値移転論が問題になるのは商品生産社会(資本主義社会)においてのみであること、だから社会主義を前提するなら、そもそも価値移転論などもまったく問題にならないということも知らねばならない。それらが林氏においては全く混乱してしまっているのである。】

 例えば、鉄を取り上げて見よう。生活手段を生産するための鉄の価値は、「価値移転論」では一義的に規定できるようには思われなかった。というのは、それは鉄を生産するために支出される直接の労働、「生きた」労働と、鉄を生産するための生産手段の生産のために消費された「過去の労働」の合計だが、この「過去の労働」がいくらの労働であるかは、また順々に遡っていく以外に規定することができなかったのである。

 【これは別に「価値移転論」に固有の問題ではないだろ。生産手段に支出された労働が、それを使って生産物を生産したなら、その生産に必要な労働の一部になるということは、生産の社会形態に関係のない自然法則である。価値移転が問題になるのは、それらの諸労働が生産物の価値として現われてくる商品生産に固有の問題であるが、それはそうした自然法則が商品生産の社会に現われてくる独特の形態だからに他ならない。】

 いわゆる「再生産表式」の理解には、基本的に、二つのものがある。
 一つは、生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったものである。この場合には、生産手段を生産するために支出された労働は、存在しないとするか、価値として「対象化」されないという結論になる、つまり使用価値は生産するが、価値は生産しない労働ということになる。この論理を擁護した田口は、ジレンマを克服しようとしてできず、結局二重の価値計算をするか――一方で移転した来た価値、他方では生産的労働の対象化された価値として、二倍に計算する――、それを回避するために、生産手段を生産する労働は使用価値を生産するが、価値を生産しないとするか、どちらかしかなかった。

 【〈「再生産表式」の理解〉の一つとして、ここでは〈生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったもの〉というとんでもない〈理解〉が示されている。これは田口氏の主張として林氏は理解しているらしいが、しかしわれわれは田口氏の主張のどこにもそんな理解は見ることはできないのである。それは林氏自身が間違った再生産表式の理解にもとづいて、勝手にでっち上げたものではないのか。
 例えばマルクスの単純再生産の表式を想定してみよう。そうすると林氏のいう一つの〈
理解〉なるものは、第一部門の総商品資本の価値6000が、すべて〈それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない〉ということになる。しかしそんなことを田口氏が主張したことはわれわれは知らないのである。われわれの理解するところでは、それは第I部門の生産に必要な生産手段の価値(前年以前の部門 I の労働によって形成された)と今年度の労働(だから生きた労働)によって新たに追加された価値2000との合計なのである。4000の生産手段の価値は、生きた労働の具体的契機によって、生産物に移転・保存されたのである。田口氏の理解もまさにこれ以外ではない。林氏がマルクスの再生産表式について何も理解していないか、まったく混乱した理解しか持っていないことだけは明らかである。その混乱を、ただ論争相手の主張だとして押しつけているだけである。】

 あるいは田口は私との論争の中で「口をすべらした」のだが、自らの論理的ジレンマを回避しようとして、年々労働者は生産手段までも実際には生産(再生産)しないのだ(そのまま移転される?)、といったことまで主張したのであった。

 【これはただ林氏と田口氏との〈論争の中で「口をすべらした」〉ものとして紹介されているのみでわれわれとしては確かめようがないが、少なくともこれまで田口氏の主張にもとづいて考えれば、こんなことを田口氏が主張するはずがないことだけは確かである。】

 しかし年々生産的に消費される生産手段が、再生産されない、そのために生産的労働が支出されないなどということは、実際としてあり得ないこと、世迷言に過ぎないのを理解するのに、ほとんど“経済学”も、マルクス主義(とりわけ労働価値説)も、『資本論』も知る必要さえないだろう(生産手段を生産する労働者なら、大憤慨すること請け合いである。そんな“理論”を持ち出した途端、労働者から即座に見捨てられること請け合いである)。“価値移転論者”がこんなことを「口ばしる」ようになったということほどに、彼らの実際的、理論的破綻を暴露しているものはないように思われる。

 【馬鹿げた主張をでっち上げ、論争相手の主張として押しつけるなら、それを批判するのも確かに容易であろう。しかしそんな論争なるものには何の価値もないのである。】

 機械が生産に用いられるなら、それは固定資本して、一定の期間(例えば、一年)といった期間は、使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは言うまでもないが、それは機械(固定資本)が「再生産されない」などと言うことはあり得るはずもないこと、それらは「更新期間」を持つのであって、例えば、十年使用されるなら、その使用価値も(もちろん、価値も)失うのであって、新しい機械に取って代わられなくてはならないことほどに自明のことがあろうか。田口は年々、機械そのものは更新されない――再生産されない――ということから、機械の永遠性を説くのだろうか、だがそんな理論は機械による機械の生産を説くと同様であって、まさに極限のブルジョア意識――価値移転論に加えて、資本移転論(生産手段とは、資本の社会では不変資本であるのだから)――ではないのか(確かに、現代ではロボットによる、つまり機械による機械の生産が現実的であるかに見える、そしてこの現象から、機械の機械による“自動生産”を、つまり人間の生産的労働によるものではない機械や食料などの生産を説くこともでき、かくして労働生産物は労働生産物ではないと言い張ることも可能かもしれないが、しかし田口は本気でそんな主張をするのであろか、できるのであろうか、そんなものは人間社会はロボット社会に、ロボットの支配する社会に転化するといったような、SF小説や漫画の世界の話ではないのか)。

 【林氏は固定資本として機械を例に上げ、〈一定の期間(例えば、一年)といった期間は、使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは言うまでもない〉という。しかし他方で林氏は固定資本の〈「更新期間」〉を〈十年〉としているのだから、補修や修繕等の費用を無視するなら、〈使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは〉は一年ではなく、十年ではないのか。だからある特定の固定資本(機械)だけを取り出すなら、それは10年後に再生産されて現物で補填されればよいのである。しかし今問題になっているのは、社会的総再生産の話である。だから社会的総再生産を問題にするなら、機械も年々その寿命が尽きて更新が必要なものが必ず一定数あるから、だからその更新期間が来たものを年々補填するためには、やはり機械も年々その補填に必要なものが再生産される必要があるのである。機械などの固定資本が再生産される必要がないなどと田口氏が主張する筈もない。これも林氏のまったくのでっち上げであろう。田口氏の主張を〈SF小説や漫画の世界の話〉のようにいうのは侮辱以外の何ものでもない。相手の主張を勝手にねじ曲げて、それを小馬鹿にして、“批判”したつもりになっている、こんなデタラメな人間を誰が信用できるだろうか。】

 森は、労働者は生産手段を生産しないではない、やはりすると言うのだが、生産手段の価値は移転されたものだとするなら、その生産されるという生産手段は、ただ生活手段部門の労働と交換される限りでのもの、生産手段全体のごく一部のものに当てはまるにすぎない。それは価値としては、少しも新しく生まれたものではなく、また素材的にも、つまり生産手段としても一部分のものにすぎない。

 【この森氏の主張として林氏が説明しているものも、何とも分けの分からないものである。林氏の混乱は〈生産手段の価値は移転されたものだ〉と決めつけることにある。しかし同じ生産手段と言っても、部門 I で今年度に生産された生産手段と、部門 I で今年度の生産で使用された生産手段との二つがあることが理解されなけれはならない。今年度に生産された生産手段の価値(6000)は、移転された価値(4000)と今年度に新たに追加された価値(2000)との合計なのある。確かに今年度の生産で使用された生産手段の価値(4000)は過去の(前年の)労働の産物であり、前年の総生産物価値の構成からみるなら、それは前年の部門Ⅰの労働の具体的契機で〈移転されたもの〉である。それが今年度で再び部門Ⅰの生産手段として補填されるわけだ。だから〈生産手段の価値は移転されたものだとするなら〉と前提する場合、それが今年度の生産過程で消費される生産手段について述べているのか(それなら正しい)、それとも今年度の生産の結果としての生産手段について述べているのか(それなら間違っている)をハッキリさせていうべきなのである。それを林氏はわざとがどうかはわからないが常にあいまいにしているのである。林氏は〈生産手段の価値は移転されたものだとするなら、その生産されるという生産手段は、ただ生活手段部門の労働と交換される限りでのもの、生産手段全体のごく一部のものに当てはまるにすぎない〉などとも述べている。もし今年度に生産された生産手段の価値(6000)のうち、移転された部分(4000)をいうのなら、それは部門 I の生産手段として補填される部分であって、その限りでは確かに今年度に生産された〈生産手段全体の一部のものに当てはまる〉というのはその通りだが、それは再び部門 I の生産手段として役立つ部分であって、部門IIの、つまり〈生活手段部門の労働と交換される限りでのもの〉ではないのである。確かに〈それは価値としては、少しも新しく生まれたものではなく、また素材的にも、つまり生産手段としても一部分のものにすぎない〉というなら、それはその通りである。しかしそれは部門Ⅰの生産手段としてそうだということである。とにかく林氏の再生産表式の理解は混乱しており、チンプンカンプンである。】

 田口にしろ、森にしろ、「価値移転論」に立って、どんな社会主義を建設し、可能にするというのか、生産手段を生産する労働を除外して、いかにして総労働を組織することができるのか、そんなドグマを振りまいて社会主義の概念をどうしようというのか、そしてこんな理論は、生産的労働者の多くの部分を“侮辱”し、ないがしろにすることでなくて何であろうか。

 【何度もいうが、「価値移転」が問題になるのは、少なくとも労働生産物が、価値という社会的属性をまとわなければならない社会、つまり労働が直接には私的なものでありながら、社会的な関係をとり結ばなければならない社会、すなわち商品生産社会(資本主義社会)に固有のものである。もし社会主義を前提するなら、そもそも価値といったものは存在する筈もないし、またすでに何度も指摘してきたが、生産物に対象化された労働の「移転」といったことさえまったく問題にもならないのである。すべての労働が直接社会的に関連づけられて支出されるということはそういうことなのである。】

 「有用的労働による価値移転論」は何か“科学的な”理論として主張されるなら間違いであって、それはむしろ資本による資本の生産を、あるいは「自己運動(さらに自己増殖)する価値」としての資本の概念であり、資本の運動の外面にとらわれた卑俗な観念であって、マルクスがある場所で、そんな風に資本の概念規定をしているからといって――もちろん、あいまいな形で、現象をとりあえず説明する観念として――、それをドグマに仕立てあげていいということにならない。例えば、「資本とは自己増殖する価値である」等々が本当の意味での資本概念であると取り違え(マルクスも言い、そのように規定さえしている云々)、強調することは途方もないことであろう(かつて宇野学派のつわものども――大学時代、私と同じクラスだった服部信司など――が、この資本概念をとりわけ愛好し、強調したのは果たして偶然であろうか)。

 【ここでは聞き捨てならないことが言われている。林氏はマルクスが「有用的労働による価値移転」について述べているところを何処だと思っているのであろうか。それは『資本論』第1部第6章である。その表題は「不変資本と可変資本」である。つまり不変資本と可変資本という用語を説明し、概念規定を与えているところでそれはなされているのである。そしてこの不変資本と可変資本というカテゴリーは、マルクス自身が古典派経済学の混乱を批判して、新たな科学的なカテゴリーとして導き出したものなのである。林氏はそうした『資本論』の説明を〈資本の運動の外面にとらわれた卑俗な観念〉だというのである。これはマルクス主義に対する冒涜であり、およそマルクス経済学を語る資格すらないといわざるを得ない。
 ついでに例えとして上げられている〈
「資本とは自己増殖する価値である」等々が本当の意味での資本概念〉でないといった主張もまったく混乱しており、では、林氏はそうした資本の規定に対して、どんな科学的な正しい規定を与えるのかと問えば、まったく何も与えることができないのである。しかしこの問題は別のところでも、マルクスから引用して論じたので、ここではこれ以上は不要であろう。】

 田口は機械など生産手段は実際には機能している間は再生産されず、前期から引き続いて働いているから、生産手段の価値はその期間に支出された労働とは関係なく、前期から「移転」してきたものだとでも判断したのだろうか。しかし機械がその期間に償却(廃棄)されないで機能し続けていたとしても、機械は消耗された部分だけ、再生産されているのである(理論的にそうであり、また結局は現実としてもそうである)。

 【ここで林氏は〈機械は消耗された部分だけ、再生産されているのである(理論的にそうであり、また結局は現実としてもそうである)〉などと述べているが、必ずしも正しいとは言えない。というのは林氏のように言いうるのは社会の総再生産を前提するなら言えることであって、個別の機械だけを取り上げるなら、消耗した部分(つまり価値としては生産物に移転された部分)は、ただ商品の価値が実現されたあと、その部分だけが将来の償却のための資金として貨幣形態で蓄蔵されるだけである。】

 ただ資本にとっては、生産手段を再生産する過程は、資本価値の再生産であり、それ以外ではないのであって、ブルジョアにとっては「価値移転」として現象するのである。資本にとっては不変資本は「過去の労働」である、つまりあくまで資本であって、また資本として維持されなくてはならないのである、まさに資本とは、「価値体」として、「自己を維持し、さらに増殖する」社会的実体としてのみ資本だからである。

 【林氏は〈資本にとって〉というが、どうして資本にとって生産手段を再生産する過程が、ただの「価値移転」として現象するのであろうか。それなら部門 I の資本家は利潤(剰余価値)を目標に生産しないかである。彼らは生産手段の再生産の過程でも、利潤を得るのであって、その彼らが、ただ生産手段の価値が移転するだけで満足するはずがない。一体、林氏は何を問題にしているのか。また〈資本にとっては不変資本は「過去の労働」である〉というが、そもそも資本家には不変資本の概念がないのである(それはマルクスによって初めて与えられた科学的な概念なのだ!)。彼らには彼らが機械や原料等を購入するために投じる資本からも利潤が生まれると考えるのであって(なぜなら、彼らの手にする利潤は彼らが費やしたコスト全体に平均利潤率をかけたものなのだから、彼らには費用価格全体から利潤が生みだされるように見える)、だから彼らの意識にとってはそれらは決して「不変」な資本ではない。〈資本とは、「価値体」として、「自己を維持し、さらに増殖する」社会的実体としてのみ資本だ〉というような認識は決してブルジョアのものではない。】

 一社会が生産する「総価値」は、ただその期間に支出された総労働の「対象化」してのみ「総価値」であって、「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」ではない。そんな風に理解するのは根底から「労働価値説」に矛盾し、背くこと、自ら矛盾や迷路に入り込むことであろう。というのは、そんな風に主張することは、年々の総労働の総計について語りながら、年々の「生きた労働」と、今年度以前の「死んだ労働」の合計として描くこと、理解することになるからである。そんなたわ言を並べていて、どんな社会主義を説くことができるというのであろうか。スターリン主義者(共産党の無学な連中)が決して合理的なものとして(すなわち“労働価値説”に基づいて、そしてまた資本の体制の根底的な批判と否定の上に)、社会主義を、その単純明確な概念を労働者に提示し、説明できなかったことは決して偶然ではないのである。

 【ここには微妙な誤魔化しがある。〈一社会が生産する「総価値」〉として林氏は何を考えているのであろうか。マルクスの単純再生産の表式を想定するなら、〈一社会が生産する「総価値」〉とは3000である。そしてもしそのように考えるのであれば、確かにそれは〈ただその期間に支出された総労働の「対象化」してのみ「総価値」であって、「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」ではない〉というのは正しい。但し、〈一社会が生産する「総価値」〉を「一社会が生産する総生産物の価値」(つまり9000)とするなら、それは〈「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」で〉ある。もしそれを否定するなら、林氏こそ〈根底から「労働価値説」に矛盾し、背くこと、自ら矛盾や迷路に入り込むことで〉しかないであろう。つまり林氏はわざとかどうか知らないが、どっちにでもとれるような表現をして問題を誤魔化しているのである。スターリン主義者云々はどうでも良い話である。】

 結果から見れば、生産手段部分の価値は新しく生み出されたのでなく、資本価値が、つまり「過去の労働」が“移転”したものと考えても同じことであり、社会の年間の生産物価値は①資本価値と、②「生きた労働」つまり生活手段のために支出された労働の合計であり、そして生活手段に支出された労働は資本家的な意味での(あるいは、個別資本の運動に表れる)「生きた労働」である(その総計はおおよそ、“ブルジョア経済学”もしくはケインズ経済学などの言うところの「国民所得」である)。

 【われわれはマルクスの表式にもとづいて厳密に考えることにしよう。〈社会の年間の生産物価値〉とは社会の総商品資本(総生産物)の価値、すなわち9000を意味する。そのうちの〈生産手段部分の価値〉というのは、部門 I では総商品資本の価値6000のうちの4000であり、部門IIでは総商品資本の価値3000のうちの2000である。これらは別に〈結果から見〉る見ないに関わらず、〈「過去の労働」が“移転”したもの〉であり、〈と考えても同じこと〉などという必要はない。だから〈社会の年間の生産物価値〉9000は、生産手段の価値が移転した部分(6000)と〈「生きた労働」〉によって新たに追加された価値(3000)の合計である。しかしそのことは決して〈「生きた労働」〉イコール〈生活手段のために支出された労働〉なのではない。なぜなら、生産手段の生産のためにも生きた労働が支出されているからである。そうでなければそもそも生産手段は生産されないであろう。林氏こそ、ここでは先に田口氏の主張だとでっち上げていた主張そのものを自身の主張として繰り返していることになる。すなわち〈生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったものである。この場合には、生産手段を生産するために支出された労働は、存在しないとするか、価値として「対象化」されないという結論になる、つまり使用価値は生産するが、価値は生産しない労働ということになる〉という主張である。あるいは田口氏が〈「口をすべらした」〉とかいう〈年々労働者は生産手段までも実際には生産(再生産)しないのだ〉といった主張である。なぜなら、林氏は年間の〈生きた労働〉はすべて〈生活手段のために支出された労働〉だと考えているのだからである。だから生産手段の生産のためには生きた労働は支出されず、だから生産手段の生産では、価値は生産しないということになるからである。つまり先に田口氏の主張だとしてでっち上げていたものは、本当は林氏自身の混乱した主張だったというわけである。思わぬところでボロが出たわけである。】

 しかし一面では、生産手段もまた再生産され、したがってまたその価値も再生産されているのである、つまり資本価値もまたこの意味では再生産されているのであって、その価値は空中から生まれたものではないし、使用価値(生産手段)だけが再生産されて、その価値は再生産されず、「過去の労働」が“移転”してきたものだ、などと考えるのはばかげており、不合理そのものであろう。

 【おやおや、どうやら林氏も先の主張では少しはマズイと思ったようである。だから〈しかし一面では〉と、先の間違いを慌てて補修しようというわけである。しかしどうして〈一面〉では、そうなるのか、何一つ説明されていない。しかも厳密に吟味すれば、この一文の破綻もたちまち暴露される。まず林氏は〈生産手段もまた再生産され、したがってまたその価値も再生産されている〉などというが、生産手段が〈再生産され〉るというのは、生産手段の使用価値について言いうることである。しかし使用価値が再生産されるからといって、その価値のすべてが「再生産され」るとは限らないのである。部門 I の生産手段について考えてみよう。6000の価値ある生産手段の使用価値が一年間の労働によって再生産され、それは翌年度の部門 I と部門IIの生産手段として現物補填される。しかし6000の生産手段の価値は決してすべてが再生産されたものではない。確かに部門 I の4000の価値ある生産手段も、その使用価値が生産的に消費されるとともに、価値も無くすのであるが、しかしその使用価値は新しい生産物を生産するために消費されるのであって(いうまでもなく、生産手段を生産的に消費するのは部門 I の労働の具体的有用的契機による)、だからその失われた価値は、新たな生産物の価値へと移転・保存されるわけである。だからこの部分の価値4000は決して「再生産」されたものではないのである。部門 I で再生産されるのは、ただ労働者の生きた労働が対象化された2000の価値のみである。林氏は慌てて先の主張を補修して、辻褄をあわせたつもりかも知れないが、少なくとも先の主張と、今回の主張とはまったく対立したものでしかなく、ただその二つを並べただけである。しかもどちらも細かく詮議すれば、たちまちその間違いが露呈するという代物でしかないわけである。とにかくこんな混乱に付き合わされる会員こそ不幸ではある。】

 (次回は第四項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉を取り上げる。)

2016年2月24日 (水)

林理論批判(37)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.14)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(3)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第3回目、前回中断した項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中から始まる。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆2、社会主義の“概念”)の途中から

 自動車生産の労働者の年間労働日を200労働日とすると、年間労働日の枠内で形式的には自動車を手にすることができるが、実質的には無理である、というのは、この労働者は年間に150労働日で、他の生活手段――「衣食住」に代表されるような、あるいはその他諸々の生活に便宜や楽しみを与えるような生活手段――も必要とするからであり、それ結果、自動車のために割くことができる労働日は50日しかないからである。かくして彼は三年の「年賦」等々で自動車を手にすることができるにすぎない。

 【ここで林氏は将来の社会主義でも〈三年の「年賦」〉なるものがあると想定している(もっとも断っておくが、林氏は一つも社会主義社会を想定するとは述べていないのであり、ただ〈社会主義の「分配方式」……は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる〉として論を展開しているだけである)。そもそも年賦というのは、なんであろうか。辞書を引いてみよう。

 〈1.ねん‐ぷ【年賦】-日本国語大辞典
〔名〕負債額または納税額などを毎年一定額ずつ分割して支払っていくこと。また、その弁済方法。年払い。年歩。年分(ねんぶん)。年割。*浮世草子・西鶴織留〔1694〕二・一「一万八千貫目の借銀、十年切りの年 ...〉

 つまりこれは自動車ローンと同じである。将来の社会主義の労働者は、自動車を信用で購入し(これはわざと間違った表現を使ったのである。本来なら「入手し」とすべき)、それを3年払いの分割方式で支払っていくと林氏は想定しているのである。しかしそのためには信用制度が社会主義でもあると想定しなければならない。こんなバカな話はない。
 社会主義を想定するなら、正しい理解は次のようでなければならない。労働者は彼が年間社会に与えた200労働日のうち日常の生活手段に必要なものを150労働日と交換して、50労働日を権利として保有(留保)できるだけである。そしてそれが3年間分溜まった結果、つまり彼が保有する権利が150労働日に達したので、そこで初めて彼は自動車を手にすることかできるのである。社会主義ではこのように考えるべきである。彼は社会に必要な労働を与える以前に、事前にまず消費手段を得た上で、年割りで徐々に必要な労働を返済していくというような信用取り引きは、社会主義はでは想定できないし、すべきではない。】

 200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――、各人の自由な日であって、休息でも芸術活動でも科学的研究でも、あるいはスポーツでも、ボランティア活動でも、何をしても自由であろう。

 【ここで林氏はまた奇妙なことを書いている。〈200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――〉? どうして〈百数十日〉なのであろう? 〈一年は365日〉だったら、〈200労働日以外〉は165日しかないのは明らかではないか。どうしてここで〈百数十日〉と書く必要があるのであろう。あるいは林氏は閏年の場合も想定したのであろうか。それとも200労働日の残りの165日すべては自由な日ではなく、そのうちの幾日かは強制的に社会活動に支出されるべきとでも考えているのであろうか。確かに自由な日は〈何をしても自由〉であろうが、しかし、林氏は重要なことを忘れている。将来の社会主義社会やあるいはより高度な共産主義の社会では、全面的に発達した個人の育成と形成こそが社会の最大の目標になるということをである。各人はその労働においてと同じように自由な時間をも使って各人の個性を全面的に発展させることに費やすであろう。そしてその全面的に発達した個人が、生産過程に入って行ければ、それはまたより高度な生産力として発現して、ますます自由な時間を拡大するであろう、ということぐらいは言ってもよいのではないだろうか。

 しかしそれにしても、林氏はそもそも次のように言ってなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。
 したがってこの部分を埋め、明らかにすることは決定的に重要であり、労働者が勝ち取ろうとしている――勝ち取らなくてはならない――社会の、具体的で明瞭な観念を持つことは、つまり自らの闘いの目的であり、理想でもある社会の根底の性格や内容やその意味を正確かつ明瞭に理解することは、労働者の階級的闘いを弱めないで強めるであろう。〉

 そして〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである〉として、これまでの展開がなされているのである。そこで林氏にお聞きするが、〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すこと〉は、一体、どうなってしまったのか。さらにそれと〈提出される社会主義の具体的な観念〉とはどういう関係にあるのか。さっぱりこれでは分からないではないか。】

 また一日の(一労働日の)労働時間について言えば、それは八時間かもしれないし、我々がかつて選挙で謳ったように四時間でもいいし――我々が、そのイメージを選挙で押し出したのは、現在の労働生産力を前提にした場合でさえ、そしてすでに余計なものになった資本の階級や膨大な寄生的な人口や非生産的労働が一掃されるなら、つまり搾取労働が廃絶されるなら、四時間労働で十分であり、現在の平均的な物質的生活水準を維持するのは容易だと判断したからであった、つまり現在の資本による過酷な搾取体制を暴露するためであったが――、あるいは二時間労働でさえ夢ではないだろう。

 【四時間とか二時間とか勝手な数値を並べているが、何の科学的な根拠も示さずに、ただ直感だけで論じるのは無責任ではないだろうか。八時間ではなく、四時間で十分だというなら、それなりの根拠を示すべきではないだろうか。それに〈現在の平均的な物質的生活水準〉などを持ち出しているが、しかし日本の物質的生活のかなりの部分は、後進諸国の労働者の犠牲の上に成り立っているという反省も必要ではないのだろうか。】

 もちろん、平均的な労働時間が四時間であっても、ある労働者がもう少し物質的な豊かさのある生活を望むなら、四時間でなく六時間働くことも可能であって、それを妨げる理由や難しいことは何もない。例えば、彼が一年で自動車を持ちたいと、一日四時間の代わりに十二時間働いたとしても、誰もそれを妨げる権利を持たないだろう。

 【しかし、そうであろうか。林氏は社会主義ではすべての労働は直接に社会的に結びつけられており、それぞれの個人の恣意に任されているわけではないことを知らない。もちろん、各人が自覚的且つ意識的に自らの労働を支出するのであるから、最初から、一労働日を人よりも多い目に支出することを申し出ても、他の人々がそれを認めるなら、可能であろう。しかしその場合も、他の人々との社会的な関係が問われるのであり、決して個人の恣意のままに可能なわけではない。すべての労働が直接社会的に結びついているということは、単に質だけではなく、量的においてもそうである。だから個々人がまったく恣意的に働きたいだけ働けばよいというようなことでは決してないのである。それらは社会を構成する個々人が互いの労働を意識的且つ合理的に統制するなかで互いに承認し合うことによって初めて可能となるであろう。林氏が想定しているのは、労働力の売買は、少なくとも表面上は個々人の「自由」であるという、ブルジョア社会そのものではないのか。】

 生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である。そもそも科学や文化や芸術が、「学者」(いわゆる“専門家ばか”、“学者ばか”)や“文化人”や“知識人”などの“専門家”――大体において、資本によって買収され、養われている連中、事実上、資本の陣営に属する、不道徳で、品のない連中――に独占され、「任されている」、この階級社会の現実が――きわめてゆがんだ、ますます荒廃し、空疎化していく現実が――粉砕され、一掃されなくてはならないのだが、労働時間の短縮はすべての人がこうした活動に参加しうる条件を提供するだろうからである。そして、生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう。

 【ここで言われいることも、当たり前のことのように思えるが、詳細に検討していくと、色々と問題が出てくる。まず林氏は〈生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である〉と述べている。そして現在の社会においては、科学や文化や芸術が専門家に独占されていることを批判している。とするなら、林氏は現在の社会では科学や文化や芸術が、特定の専門家と称する人たちに独占されているのは、生産力が未発展で、労働時間が短縮されていないからだと考えているのであろうか。そんなバカな話はないのである。どんなに生産力が発展し、必要労働時間が短縮されたとしても、資本主義的生産を前提するなら、それは剰余労働時間が増えるだけであり、労働者の労働時間が短縮されることにはならない。こんなことは当たり前ではないか。ところが林氏はこうした資本・賃労働の関係、搾取と被搾取の関係を問題にせずに、ただ生産力の発展が、直接労働時間の短縮と関連しているかに理解しているのである。科学や文化や芸術が専門家に独占されているのは、労働者が賃労働者だからではないのか。こうした敵対的な生産関係を廃絶することこそがまず必要であり、そうすれば、生産力の発展は、直接、労働時間の短縮として現れるであろう。こうした関係を林氏は述べていない。
 それに〈生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう〉などとも述べている。しかし、〈生産と分配の自然な……法則〉とは何か? ロビンソンの社会にも貫徹しているような法則なのか。それなら、それは一般的な条件としてはブルジョア社会にも貫徹しているのである。問題はそれが貫徹されるかどうかではなく、それが貫徹される歴史的形態を克服することこそが必要なのである。】

 社会主義社会においても、分配(消費)だけでなく、生産もまた「価値規定」によって制約され、規定されることも明らかである、というのは例えば、社会が年々、鉄一億トンを、自動車五百万台を、あるいはコメ一千万トンを必要とするなら、その生産がその生産に必要な――社会的に必要な――労働日(労働時間)によって決定されるだろうからである。資本主義社会との違いは、鉄や自動車やコメの生産に社会的に必要な労働(時間)が、生産物との直接の関係において明示され、価値の形態を取らないこと(その必要がないこと)、したがってまた資本の再生産としては現われないこと、であるにすぎない。

 【ここで林氏は社会主義社会の「生産」について述べているが、それが規定的なものとして論じているのではないことに注意が必要である。彼はあくまでも社会主義の概念の根底は分配方式にあると考えているからである。】

 生産する人々を結び付ける契機は、直接に人々の社会関係として明示され、確認されており、「価値の関係」として、したがってまた「市場経済」の形態として現われないのである。

 【〈直接に人々の社会関係として明示され、確認されており〉というが、人々が生産の客観的・物質的な条件にもとづいて、自覚的・意識的に取り結ぶのである。だから人々が自覚的に結びつく彼らの社会的な関係それ自体が、すなわち生産関係なのであって、そうした社会的な結びつき(社会そのもの)とは別に、彼らから独立して彼らを規制するような生産的諸関係といったもの--つまりマルクスが「経済的土台」と述べているようなもの--はすでにないという理解こそが必要である。】

 こうした計算は実際的に、つまり現実として全く容易になされ得るのであり、まさにマルクスが述べたように、余りに「簡単にして明瞭なこと」であって、誰でも簡単に確認できることである(ありがたい、「市場経済」による、あるいは「市場」に群れ集い、商品の価格について交渉したり、商品を取捨選択したりする何千万、何億という人々の自然発生的な行動、不破哲三らの愚物がブルジョアたちと一緒になって、その“効能”や“効率”や“大きな役割”をわめき立てている、人々の無自覚的な行動や活動、市場の“自由競争”など一切なくても、である)。
 かくして、こうした社会関係が実現されるなら、それは、労働の搾取はもちろん、労働の疎外も、つまり人間労働が“対象化”され、「価値」として、“モノ”(商品、貨幣、資本等々)として現象することは無くなるということ、つまり「労働の解放」であり、その出発点である。かくして「搾取の廃絶」と「労働の解放」が、“社会主義”の課題が、その真実の内容が、究極的かつ根底的に実現され、勝ち取られ得るのである。

 【ここで林氏は〈人間労働が“対象化”され〉と対象化に“ ”を付けている。労働の対象化というのは、価値形成労働に固有の問題なのであろうか。生産物に労働が支出され、生産物の生産に支出された労働が堆積しているというのは、どんな社会でも同じではないだろうか。それは確かにその生産物の生産にどれだけの労働が必要かということで問題はハッキリしているが、しかし、生産物そのものにそうした支出された労働の痕跡があることもあるのである。マルクスは『資本論』第二版のための「補足と改訂」で次のように述べている。

 〈どの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが,その労働は無差別な人間的労働ではなくて,織布や紡績などであって,これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく,むしろいろいろな自然素材と結びついている〉(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』No.5-65頁)

 つまり生産物の物的存在は、その自然素材とそれにどのような人間の手が加わって生産物になっているかの痕跡を示しているとマルクスは述べているのである。この限りでは、労働は生産物に対象化され、そこに堆積された形で存在していると言っても必ずしも間違いとは言えないかも知れない。】

 もちろん、このことは資本の支配を打倒し、一掃した後に出現するのであって、先ではない。こうした関係は、つまり人類の「地上の楽園」は、ただ資本の支配を廃絶する結果であって、その前提ではない。

 【〈「地上の楽園」〉などという言葉は、北朝鮮の帰国運動の時に言われたもので、今では忌まわしいイメージしかない。われわれは地上の楽園を目指して活動しているのか、バカバカしい。】

 社会主義社会においては、マルクスが『ゴータ綱領』で言った、労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉は、上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない(「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが)。このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合(商品生産に従事する生産者が、純粋の自己生産者であると想定して――この場合は、商品生産者は自動車に50労働日を費やしたなら、その労働日に相当する生産物を、別の商品生産者と交換することができる、つまり「等量労働交換」がこうした直接的な形で現象するだろうが)と、資本主義的生産の場合との区別として現われる、しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である。

 【林氏は、マルクスが『ゴータ綱領批判』で言っている、労働者が「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という意味を説明して、〈上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない〉というのだが、これは果たして適切な例といえるだろうか。少なくとも自動車生産者が、自らその生産に従事した自動車を手にするのなら、マルクスがいうような〈同じ労働量を別の形で返してもらう〉ことにはなっていないではないか。自動車を生産するために費やした労働をただその同じ労働が対象化されたものとして生産物を受け取っただけに過ぎないわけだから。いずれにせよ、マルクスの指摘していることを自動車を例に説明することはあまり適切とはいえないのではないだろうか。
 しかもその後に丸括弧をつけて、〈「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが〉とも書いている。とすると、先に述べたこと、つまり〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と〈「価値移転論者」〉は考えるというのであろうか。なぜ、〈「価値移転論者」〉だとそう考えるのかの説明はなく、皆目分からない。生産手段の価値は移転すると考える人たちのことをもし仮に、林氏がいう〈「価値移転論者」〉だとすると、彼らは自動車の生産のためには、機械や鋼材などの生産手段に費やされた労働も考慮に入れるべきだと主張するのではないのか。だから自動車生産に直接支出された労働だけが、自動車の生産に必要な労働だけではなく、その生産の過程で「移転・保存」された価値(労働)も自動車生産に必要な労働として考えるべきだというのが、林氏のいう〈「価値移転論者」〉の主張ではないのか。それならどうして彼らが〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と主張することが論理的に導き出されるのであろうか。まったくわからない主張である。
 また林氏は〈このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別として現われる〉とも述べている。ここで〈このこと〉というのがいま一つ分かりにくいが、どうやら林氏は、〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別〉としで、前者には分業がなく、後者には分業があると考えているようである。しがしロビンソンの場合でも、彼は自身の労働をさまざまな形態で支出しなければならないのであって、例え一つの財産(テーブル)を形成する場合でも、彼の労働は、例えば木の伐採労働として、あるいは材木を作る製材労働として、あるいはテーブルを作る木工労働として支出されなければならず、ましても彼の一年間の生活をささえ維持するためには、彼は彼の年間労働を合理的にさまざな分野に支出しなければならない。だからこそロビンソンの労働には「価値規定の内容」と同じものがあるとマルクスは述べているのではないのか。林氏は〈しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である〉とも述べている。「価値の規定」というのは何なのか。マルクスは「価値の本質的規定」と述べている。あるいは「価値規定の内容」とも述べているが、「価値の規定」というのなら、抽象的人間労働が商品に対象化され凝固しているということであって、これは商品生産に固有のものである。だからこんなものがロビンソンの労働にある筈がない。ロビンソンの労働生産物は商品ではないからである。

 一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。

 【確かにここには林氏の〈認識〉の〈決定的〉な誤り、というより「混乱」が暴露されている。林氏はどうやら、生産され終わって最終的に生産物になっているものと、いまだ完成生産物とはならずに、生産過程に留まっているものとの区別が分からないらしい。一方は、すでに使用価値をもち、それを生産的に消費可能であるが、他方は、いまだ使用価値は持たず、だから生産的に消費することはできない。子供でも分かるこの当たり前のことが、錯乱状態にある林氏にはどうやら見分けが付かないようになっているらしいのである。というのは、林氏は自動車を生産するための諸手段、例えば鉄鋼や機械に支出された労働日が過去の労働であることは〈一見して、……見える〉ような仮象であるかに述べているからである。しかし、鉄鋼や機械に支出された労働が過去の労働であることは、何もただそのように見えるだけの仮象などではなく、それは客観的な物理的な事実である。生産諸手段は、それを使って生産しようとしている生きた労働に対して、過去の労働の産物として対峙することは物理的にも自明な客観的事実である。これは何か錯覚というような問題ではない。それは、ロビンソンであろうが、単純商品であろうが、資本主義的生産であろうが、生産諸形態には関わりのない物質的な生産過程の問題である(あるいはそれらのすべてに共通する物質的生産の一般的条件である)。
 林氏は、すでに完成された生産物である鉄鋼や機械に支出された労働と同じ(量的に同じ)労働が、自動車生産の労働過程と〈“同時並行的”〉に行われていることを指摘する。確かにそのように想定するなら、そうであろう。しかし、それはそのことをそのように想定しているからそうなのであって、それは必ずしも同じで無ければならないわけではない。機械が常にまったく物理的にも同じものとして再生産されなければならない理由はないのであって、より生産性の高いものとして、あるいはより少ない労働力によって再生産される可能性はあり得るのである。それは生産の拡大部分だけではなく、再生産部分においても可能であろう。すでに述べたように、そもそも自動車生産の過程で、生産手段として役立つ鉄鋼や機械とそれと同時並行して生産される鉄鋼や機械が、物理的に同じでないことは子供でも分かる事実である。
 例えば再生産のある年度の生産を考えてみよう。{もちろん、われわれはその再生産を資本主義的な再生産として想定する必要はない。将来の社会主義でも同じであり、だからそれはロビンソンの生活においても同じなのである。物を作るということは、物質的な過程であり、だからそれは社会形態から独立した過程だからである。マルクスも次のように述べている。

 〈労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。〉(全集25b1129頁)

 そして林氏が考察している内容は、まさに労働過程をこうした過程として考察しているだけである。だからこうしたことは〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合〉と〈資本主義的生産の場合〉とには何の違いもないのである。それは物質的な生産過程の問題だからである。}林氏は次の事実を忘れている。自動車を生産するための鉄鋼や機械は、その自動車生産の過程と例え同時並行して鉄鋼や機械が生産されていたとしても、そのいまだ生産過程にある鉄鋼や機械を使って、自動車を生産することは出来ないということをである。こんなことは子供でも分かることである。自動車の生産と、鉄鋼や機械の生産が同時並行して行われるためには、自動車を生産する諸手段である鉄鋼や機械は、その前にすでに生産されていなければならないことは子供でも分かることである。製作中の鉄鋼や機械を使うことは出来ないのは観念や空想の世界で遊ぶしか能のない人でないなら誰でも分かる。とするなら、自動車を生産しようとする人は、鉄鋼や機械が生産されてから、それらを使って生産する、あるいはすでに以前に過去の労働によって生産されたそれらの諸手段を使って生産するしかないのである。これはロビンソンが家具を作るために、まず木を伐り(伐採労働)、それを材木にした(製材労働)あとで、初めて、その材木を使って、家具を作る(木工労働)ことが出来るのであって、これを彼は決して同時並行して出来ないのと同じである。あるいはロビンソンの伐採労働は、伐採された木を、材木に加工する生きた労働である製材労働から見れば、過去の労働であるこは明らかである。そしてその材木を使って家具を作るロビンソンの生きた木工労働からみれば、材木の生産に支出された伐採労働や製材労働は、やはり過去の労働なのである。こんなことは仰々しく確認するまでもないほど明らかなことである。もしロビンソンが一人だけでなく、兄弟三人が孤島で生活しているとしても、そして一人が木を伐り、もう一人が材木を作り、そして最後の一人が家具を作る労働にそれぞれが従事して、同時平行して労働をしたとしても、最後の一人が家具を作るためには、材木が作られてからであり、彼が使う材木は、少なくとも彼が家具を作る過程と同時並行して作られる材木ではなく、その前に作られた材木であることは物理的な真理である。作っている材木を使って家具はできないのである。切っている木を使って、材木を作れないのとそれは同じである。それらは一連の分業の過程であって、だからこそそれらの労働は関連し合っているのである。こんな単純な事実も林氏の混乱した頭では、どうやら分からなくなってしまっているらしいのである。何とも不可解な混乱した頭脳ではある。
 次に林氏は、さらに混乱して次のようにいう。

 〈しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。〉

 林氏は、もちろん、単純再生産を想定している。だからわれわれもマルクスの単純再生産の表式を例に考えよう。

部門 I  4000c+1000v+1000m=6000
部門II  2000c+ 500v+ 500m=3000

 ここでは当然、4000や1000という数値は価値を表している。しかし、われわれはこれを直接労働時間を表すと考えてみよう。つまり年間の総生産物には9000労働日が支出されている。生産手段には6000労働日、消費手段には3000労働日である。年間に支出される総労働日は3000である。鉄鋼や機械は部門 I で生産され、自動車は部門IIで生産される、と仮定しよう。今、社会の総生産をこの鉄鋼や機械の生産と自動車生産で代表させよう。しかし鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産諸手段がやはり必要であり、だからそうした部門も部門 I に想定されなければならない(そうでないと、機械や鉄鋼は再生産されない)。つまり鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産手段(鉄鉱石やその他部品類)が必要だが、それらはその年度の初めには4000労働日の生産物の一部として部門 I に配分されている。部門 I では、それらを使って、一方では鉄鋼や機械を生産し、他方ではやはり鉄鋼や機械を生産するための生産諸手段(鉄鋼石や部品類等)を再生産するわけである。その結果、年度の末には、2000労働日が支出された鉄鋼や機械と4000労働日が支出された鉄鋼や機械を生産するに必要な諸手段が生産物として生産されている。他方、部門IIの自動車生産部門では、年度のはじめに、自動車生産に必要な生産手段として2000労働日の生産物である鉄鋼や機械の配分を受け、それに1000労働日を追加して、年度の末には3000労働日の自動車を生産物として完成するのである。
 このようにここでは林氏がいうように、自動車を生産する労働も、機械や鉄鋼を生産する労働も、鉄鉱石その他を生産する労働も、一年間の労働としては“同時並行的”に行われており、生産手段(機械、鉄鋼、鉄鉱石その他)を生産する労働も〈総労働日(3000)の三分の二(2000)を占め〉〈年々の総労働日の一部であり、一環である〉が、しかしそれはマルクスが想定しているように前年に生産された生産手段の価値(対象化された労働)6000が、今年度の生産過程において移転・保存されるという理解なくして説明できないことなのである。いずれにせよ、林氏はマルクスの再生産表式をまったく理解していないか、その理解において混乱の淵に落ち込んでしまっているとしか言いようがないのである。

 もちろん、我々が社会主義社会においても、「価値の規定」を社会的生産と分配の根底に置くということは、不破が言うように、生産と分配を「価値の関係」(商品の交換価値の関係)のままに、その支配のもとに放置しておくといったこと――これは事実上、資本主義的生産関係を受け継ぎ、継続するということに帰着するのだが――とは全く別であって、単に社会的な生産と分配が、労働時間によって規定されるということにすぎない。個人的な労働が直接に社会的な労働として現われるなら、どうしてそれが「価値の関係」として現われ、媒介されなくてはならないのか。資本の支配を一掃した労働者階級は、そんな“愚行”もしくは“余計なこと”をやらないだろうし、またそんな必要性を全く認めないだろう。

 (これで項目〈◆2、社会主義の“概念”〉は終り、次回は項目〈◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか〉を紹介の予定。)

2016年2月17日 (水)

林理論批判(36)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.13)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。これは林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第2回目で、前回の続きである。林氏の論文はそのまま紹介し、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(2)

◆2、社会主義の“概念”

 提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである。それはすべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)。

  【林氏はここで矛盾したことを述べている。「社会主義の具体的な観念」は、「ごく簡単なもの」で、それは「例えばE=mc2」のようなものだというのである。しかし物質とエネルギーとの転換の法則であるE=mc2というのは確かに「ごく簡単なもの」だが、しかし決して「具体的な観念」というようなものではない。それだけでわれわれは物質とエネルギーとの転換についての具体的な観念を持つことはできないのである。

 〈具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直感や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現われ、出発点としては現われないのである。〉(マルクスの「経済学の方法」、全集13巻627-8頁)

 だから林氏も社会主義の具体的な観念や概念について語るなら、それを理論的に展開しようとするなら、そうしたものとして展開する必要があるわけである。林氏の言う「社会主義の具体的な観念」なるものは、その限りでは決して具体的ではなく、確かに単純なものなのかも知れないが、それだけに内容のない抽象的なものでしかないであろう。林氏は、何か一つの具体的な例を挙げれば、具体的に説明したつもりなのかもしれないが、しかし、そこで語られる内容は抽象的なものなのである。例えばロビンソンの孤島での生活の場合とそれは同じである。確かにそれはロビンソンという一人の人間の孤島での生活だから具体的なものであるが、しかしそのなかで語られている内容は、現実の社会的な生産から考えるなら、極めて抽象的なものでしかないのである。】

 社会主義における「分配方式」――というのは、これこそが社会主義の概念の根底をなすべきなのだが――は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる。

 【林氏は、ここで「分配方式」が社会主義の概念の根底をなすべきだと述べている。しかし果たしてそうか。マルクスは『経済学批判要綱』序説で、分配は生産の所産だと述べている。これは決して資本主義社会に固有の問題ではなく、あらゆる社会に共通の契機としてマルクスは論じているのである。だからそれは社会主義社会においても同じであろう。社会主義の分配方式は、社会主義の生産方式に規定されているのである。生産があるからこそ、分配があるのであって、決して逆ではない。とするなら、「概念の根底」はむしろ「生産方式」においてこそ明らかにされるべきではないのか。確かに社会主義では資本主義でのように、「生産のための生産」が問題にはならない。抽象的な富である価値(利潤)ではなく、使用価値が生産の直接の目的になる。しかしそのことは社会主義では分配がすべてを規定するということではない。分配は生産の所産だというのは社会主義社会でも同じなのである。この問題は、この間の林氏の一連の論文の誤り--それこそスターリニストたちと共有している誤り--を根底的に規定する問題なので、詳しく論じてみよう。まずマルクスは、先の序説で次の様に述べている。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。この条件や前提は最初は天然のものとして現われるかもしれない。生産過程そのものによってそれらは天然のものから歴史的なものに転化される。そして、ある時代にとってはそれらが生産の自然的前提として現われるとすれば、別のある時代にとってはそれらは生産の歴史的結果だったのである。生産そのもののなかでそれらは絶えず変化させられる。たとえば機械の応用は諸生産用具の分配も生産物の分配も変化させた。近代的大土地所有は、それ自身、近代商業と近代工業との結果でもあれば、農業への近代工業の応用の結果でもある。
 これまでに提出された問題は、すべて結局は次のような問題に帰着する。すなわち、一般的歴史的諸関係は生産のなかにはいってどのような作用を及ぼすか、また、歴史的運動一般にたいする生産の関係はどうか、という問題である。問題は、明らかに、生産そのものの論究と説明とに属する。
 しかし、これらの問題は、これまで出してきたような平凡なかたちでならば、同様に簡単にかたづけることができる。およそ征服では三つの場合が可能である。征服民族が被征服民族を征服民族自身の生産様式に従わせるか(たとえば今世紀のアイルランドにおけるイギリス人、部分的にはインドにおけるイギリス人)、また征服民族が旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納だけで満足するか(たとえばトルコ人やローマ人)、または相互作用がおこなわれて、それによって一つの新しいもの、一つの総合が生ずるか(部分的にはゲルマン人による征服の場合)である。これらのすべての場合に生産様式は、征服民族のものであろうと、被征服民族のものであろうと、両者の融合から生ずるものであろうと、そこに現われる新たな分配にとって規定的である。この分配は、新たな生産時代にとっては前提として現われるとはいえ、このようにそれ自身がまた生産の所産なのであり、ただたんに歴史的生産一般のではなく特定の歴史的生産の所産なのである。
 たとえば、モンゴル人がロシアを荒らしたとき、彼らは彼らの生産に適応して、すなわち広大な無住の地帯を主要条件とする放牧に適応して、行動した。未開のゲルマン人にとっては農奴による農耕が伝来の生産であり、農村での孤立した生活が伝来の生活だったのであるが、彼らがローマの諸州をこのような条件に従わせることは、ローマの諸州におこなわれていた土地所有の集中が古い農業関係をすでにまったくくつがえしていたために、いっそう容易にできたのである。
 ある時代にはただ略奪だけで生活したものだというのが、在来の一つの考え方である。しかし、略奪ができるためには、略奪されるなにかが、したがって生産が、そこになけれぽならない。そして、略奪の仕方はそれ自身また生産の仕方によって規定されている。たとえば、株式投機をやる国民〔stockjobbing nation〕を牛飼いに従事する国民と同じように略奪することはできないのである。
 奴隷の場合には生産用具が直接に略奪される。しかし、その場合には、略奪された奴隷を使う国の生産が、奴隷労働をゆるすように編制されていなければならないか、または(南アメリカなどでのように)奴隷に適合した生産様式がつくりだされなけれぽならないのである。
 法律は、ある生産用具、たとえば土地を、ある家族の所有として永久化することができる。このような法律が経済的意義をもつのは、ただ、たとえばイギリスでのように大土地所有が社会的生産と調和している場合だけである。フランスでは、大土地所有があったにもかかわらず、小規模農業が営まれていた。したがってまた大土地所有が革命によって細分されたわけでもある。しかし、たとえば法律によって土地細分が永久化される場合は、どうであろうか?このような法律があっても、所有はふたたび集中される。法律が分配関係の維持に及ぼす影響、またそれによって生産にあたえる作用は、特別に規定されなけれぽならない。〉(全集13巻623-5頁)

 そもそも社会主義で諸個人が社会に与えた労働時間にもとづいて、それと同じ労働時間が費やされた消費手段を、社会の保管庫から引き出し、それによって、自分が支出した労働と等量の別の形態の労働とを交換できるのは、あるいはこのようにそれぞれの生産物に支出された労働量が労働時間によって絶対的に表し秤量できるのは、社会主義における生産が、直接社会化された諸個人によって担われ、社会の物質代謝が意識的・合理的に統制・管理されて行われているからである。社会主義の生産がまさにそうしたものだからこそ、社会主義の分配は、直接、各人の支出した労働時間によって計り、行うことが可能となるのである。だから社会主義の概念の根底を問うなら、やはりわれわれは分配ではなく、生産が直接社会化された諸個人によって、自由な人々が自覚的に、且つ、意識的に行うものであるということにこそ見いだすべきであろう。社会主義の概念の根底を分配に求める林氏の社会主義論は一つの俗論でしかないであろう。
 もう一つ『資本論』からも引用しておこう。

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)
 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉(同1128頁)

 あるいは林氏はゴータ綱領批判では、マルクスがもっぱら分配を問題にしているから、分配方式が社会主義の概念の根底になるべきだと考えたのかも知れない。しかし、ゴータ綱領批判で、マルクスが分配をもっぱら問題にしているのは、それがゴータ綱領の次の一文に対する批判として論じているからなのである。

 〈三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。」〉(全集19巻18頁)

 つまり〈「公正な分配」とはなにか?〉という問いから始まって、マルクスは林氏が引用している部分も展開しているのである。だからマルクスは、林氏が引用した部分よりもっとあとで次の様につけ加えることを忘れていない。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉(同21-22頁)

 ここでマルクスが述べているように〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであ〉るのである。林氏は、社会主義の概念の根底を明らかにすると称して、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方〉に熱中しているが、それはまさにここでマルクスが批判している俗流社会主義に林氏が陥っていることを示している。林氏はゴータ綱領批判を最後まで読むべきだったであろう。あるいは少なくとも彼が引用した部分の前後をもう少し拡大して読むべきだったのである。そうすればこうした馬鹿げた間違いに陥らなかったのである。しかし、マルクスを相対化しようとする林氏にとっては、この場合もマルクスが何を言っているか、などということはどうでもよい事かもしれない。これは『資本論』の研究を「学者のお遊び」などと蔑み、真剣な研究を軽んずれば、結局は、自分自身が俗流主義に陥るという典型例として銘記すべきことである。

 林氏が「○○の概念」という言葉を多用する場合には、われわれは眉に唾をつけて注意して読まなければならない。というのは、林氏が「○○の概念」という場合、往々にして、その「○○の概念」なるものが何なのか、それによって林氏は何を考えているのか、さっぱり分からない場合が多いからである。ただ「○○の概念」という言葉だけが一人歩きして、それが一体何なのかということについては林氏自身による説明がほとんどないのが常だからである。例えば、これはかなり以前の話になるが、林氏が富塚の拡大再生産論を批判した時もそうであった。林氏は、富塚の主張に対して、「拡大再生産の概念」が欠けているとか、「拡大再生産の概念」を理解することが重要なのだ等々と批判を展開したのであるが、しかし、いくら読んでも、では、林氏自身はその「拡大再生産の概念」をどのように捉えているのかということが一向に明らかにならないのである。ただ「拡大再生産の概念」が重要であり、それを明確に捉えることが肝心だ、富塚にはそれがない、等々ということが強調されているだけで、林氏自身が「拡大再生産の概念」なるものとして何を考えているのかが、いくら読んでも分からないという、おかしな論文であったのである。こうしたことは、林氏の論文の一つの特徴になっており、決して、林氏自身は、「○○の概念」というのは、こういうことだ、それを彼らは理解していないのだ、と明確には語らないのである。
 そして今回の場合「社会主義の概念」なるものが、論じられている。しかし、林氏が語る「社会主義の概念」なるものは、一体、どういうものなのかが一つも明確ではないのである。それは「具体的で」「簡単で」「単純な」ものだという説明はあるが、しかし、そうしたものとして読んでいるものには何一つ明確には理解されないというおかしな論文なのである。それが具体的で、簡単で、単純なものなら、当然、林氏の論文を読んでいるものは、すぐに林氏が「社会主義の概念」として語っている内容が分かりそうなものであるが、しかし、いくら読んでも、林氏が「社会主義の概念」として語っているものは何なのかがいま一つ明確に捉えられないわけである。しかし、林氏はそれは「具体的で」「単純で」「簡単だ」なとと主張しているものだから、そんな簡単なものも分からないのか、と言われそうで、なかなか正面切って質問もできない雰囲気をつくりだしているわけである。これが果たして意図的なものかどうかはともかく。少なくとも林氏本人にそれが明確であるなら、それを読む人も明確にそれを理解することが可能であろう。それがいくら読んでも、読んだ人には分からないということは、要するに書いている本人も分からずに、ただ「社会主義の概念」なる言葉を強調しているだけに過ぎないということでしかないのである。
 例えば林氏は将来の社会の分配方式を問題にしているが、しかし、ではそれが「社会主義の概念」なのかというと、そうではなく、「社会主義の概念の根底」なのだそうである。
「社会主義の概念」とその「根底」とはどう違うのかもいま一つハッキリしないが、そもそも林氏は次のように問いかけていなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。〉

 つまり林氏は〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示す〉と主張していたのである。しかし、林氏がやっていることは、ただ一人の労働者が自動車を生産するというケースでしかない。確かに自動車の生産は、ロビンソンの孤島では出来ないことであり、資本の社会を想定しているといえば、そうかも知れないが、しかし自動車の生産そのものは物質的な生産であって、決して資本関係の下でそれをやるかどうかということとは別問題である。林氏が〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであ〉ると言う場合、それは単に物質的的生産として高度に発達した資本主義的生産の生産物を例として取り上げるということだけではなく、資本・賃労働の関係を前提し、だから商品生産も前提するということなのである。ところが林氏がやっていることは、ただ自動車生産という具体例を上げてはいるものの、その生産に必要な労働を直接労働時間で表示して論じているわけである。しかし、もし資本主義的生産を前提するなら、労働時間によって、その生産物に支出された労働を直接計測することは出来ない筈なのである。林氏が自動車生産の例を持ち出し、その生産に必要な労働を、直接労働時間で表示して考察しているということ自体、すでに林氏は〈資本の社会を前提に〉論じていないということなのである。こうして自分が言っていることと、やっていることが矛盾しているということすら林氏には分かっていないのであろう。「○○につける薬はない」というしかない。】

 我々は我々が消費する「消費手段」(消費資料、生活資料など名前は何でもいいが)――これは言うまでもなく、「生産手段」に対する概念である――を、乗用車を例に論じて見よう。主要な穀物、例えば、米や麦を取り上げても同じだが、このブルジョア社会においては、典型的な工業生産物の場合の方がより問題をはっきりさせてくれるだろう。

 【このように、林氏は〈しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである〉と述べていた内容というのは、ただ穀物ではなく、乗用車を例に論じるということなのである。しかし乗用車を例にとれば、資本関係を前提にしたことはならないのである。それはただ物質的生産として一つの例をとり上げたに過ぎない。問題は資本関係を前提にして、果たして社会主義の概念なるものが明らかになるのか、という形で提起されているのだ。】

 自動車を生産する労働者は100万人、50日働いて、100万台の自動車を生産するとする(この場合、総労働日は5000万である)。一人の労働者なら一台である。しかしこの労働者は自らの50労働日と交換に、一台の自動車を手にすることができるであろうか。

 【林氏は、ここで自動車生産だけを取り上げて、いわばそれを社会全体の生産を象徴させているようであるが、しかしそれだけで果たして社会全体の生産を象徴させることは可能であろうか。林氏は労働者を100万人と想定するが、しかし、単に自動車生産だけを具体例として取り上げるなら、別に100万人ではなく、1人で十分ではないか。なぜなら、その次に問題にしているのは、一人の労働者がどれだけの労働日と自動車とを交換できるかを問題にしているのだからである。なぜ、わざわざ100万人と想定する必要があったのか。】

 しかし実際には、自動車が完成されるためには、自動車を直接に生産するために支出された労働日の他に、自動車を生産するために用いられた生産手段――機械などの労働手段や鉄鋼などの原材料(労働対象)――の生産のための労働が必要である。それぞれ労働手段と労働対象を機械と鉄鋼で代表させよう。

 【ということは、林氏は自動車生産だけではなく、機械の生産や鉄鋼の生産も本来は問題にしなければならないのではないのか。しかもそれらもまた生産手段を必要とするのであって、だから、それらの生産手段の生産も想定しなければならない、等々。つまり林氏は、際限も無くさまざまな生産分野を想定しなければならなくなる。それをやっていないのは、ただ林氏が問題をごまかしているからである。それに林氏は、それぞれの生産手段に支出された労働を直接労働時間で計算しているが、しかし〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会〉を想定しながら、どうして生産手段に支出された労働を労働時間で計測できるのか。それらは資本の支配する社会を想定すれば、ただ自動車生産資本は商品として購入することが出来るだけであり、だからそれらは価値(価格)の大きさによって、それぞれに支出された社会的な労働量を把握できるのみである。だから林氏は、すでに資本の支配する社会を想定していないということである。つまり、この時点で、林氏は自ら提起した問題からすでに逸脱しているのである。林氏は、ただそれを自覚していないだけである。】

 機械(千台でも何でもいいが)の生産ためには、100万人で50日を要したとし、また鉄鋼(100万トンでも何でもいいが)の生産のためにも同じく100万人の労働者の50労働日が必要だったとしよう。両方で1億労働日である。これに前記の5000万労働日を加えれば、この社会が自動車100万台を生産するに必要な総労働は1億5千万労働日となる。

 【いうまでもなく、〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会……を前提〉するなら、こんなことは不可能である。もし資本の支配する社会を前提するなら、林氏はまず機械や鉄鋼の価値を問題にしなければならないからである。どうして、それらの価値を問わないのか。そうすれば、自動車の価値は、機械や鉄鋼の価値と自動車の生産のために直接支出された労働によって追加された価値の合計であり、だから機械や鉄鋼の価値は、自動車を生産する労働の具体的有用労働によって自動車の価値として保存され移転されたとしなければならないであろう。林氏は〈資本の社会を前提〉するといいながら、直接労働時間を労働量の尺度にして計算している。だからまた機械の生産に支出された労働と鉄鋼の生産に支出された労働とも自動車生産の労働が直接に社会的に結びついていることを想定しているわけである。そうでなければ、機械や鉄鋼の生産に支出された労働と自動車の生産のために直接支出された労働とを合計することなど出来ない話なのである。それらは直接社会的結びつけられていることが前提されることがまず必要なのであり、そうした想定なしに、そうした労働時間の合計など出来ない話なのである。ところが林氏自身は、そうしたことにはまったく無頓着である。それぞれの労働がどうして、直接、労働時間として合計できるのかという問題意識すらないのである。これではそもそも社会主義の概念など語る資格すらないと言わざるを得ないではないか。】

 かくして自動車100万台の生産のためには、合計300万人で50日が必要であったのであって、単に100万人だけではなかった。かくして、一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった(150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である)。

 【ここで林氏は〈一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった〉と述べているが、これはおかしい。問題は自動車1台の生産のために支出された労働は150労働日だと言えば、それでよいのである。一人の労働者が1台の自動車を生産するのではないからである。問題は自動車1台の生産にどれだけの労働が支出されたかであって、それが分かれば、個々人は、自分が社会に与えた労働時間が150労働日に達すれば、自動車1台を手にすることができるのである。それにそもそも林氏は〈150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である〉などと間違ったことを書いているが、15000万労働日÷300万人=50労働日/1人であって、150労働日ではない。50労働日/1人というのは、直接、間接に自動車の生産に関与した労働者300万人が、それぞれ一人当たり50労働日を支出したことを意味するに過ぎない。林氏が150労働日として計算したのは、15000万労働日÷100万台=150労働日/1台のことであり、つまり1台あたりどれだけの労働日を必要としたかを求めているのである。】

 (論文の二つ目の項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中であるが、この部分のコメントは長すぎるので、ここで中断する。残りは次回。)

2016年2月10日 (水)

林理論批判(35)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.12)

 このシリーズはこれで終えると何回も言いながら、相変わらず続けるのは心苦しいが、とにかくノート類はきちっと整理されているわけではなく、いろいろと捜していると関連するものが出てくるのだから、申し訳ないが続けさせていただく。
 今回から紹介するものは、すでに林理論批判としては32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。これは林氏の論文そのものに直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。先に紹介した批判文では、最初に次のような断りを入れていた。

 〈われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。〉

 つまり先の批判文では〈主要且つ重要な問題点と思える課題に絞っ〉たのであるが、今回紹介するものは、記事に直接批判を書き入れるという形式をとっているわけである。ただ前もってお断りしておかねばならないのは、これは先に紹介した批判文を書くための準備資料であり、素材そのものであるから、当然、前回の批判文と重複する内容が出てくることはご容赦願わねばならない。また林氏の論文をそのまま紹介しながら、そこに私の批判を書き入れるという形式をとっているために(それが一目で分かるように私の批判文は太字にした)、全体としては大変長いものになってしまうが、しかし林氏の論文を読んでいない人(あるいは忘れてしまっている人)には、それはそれで面白いのではないかと思った次第である。何回かに分けて紹介する。今回はその第一回目である。

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)---(1)

 この小論の核心は、「有用的労働による“価値”移転論」――長い間、私が“スターリン主義”として、つまりブルジョア的理論の一種として問題にしてきた俗論――を批判し、止揚するためのものでもある、というのは、このことなくしては、来たるべき社会主義社会の真実の、そして具体的で、生き生きとした概念が不可能であると思うからである。社会主義の真の理論は、労働者にとって基本的であり、決定的に重要なものである、仮に社会主義の獲得が、根底的には、理論や「意識」やその獲得に属する問題ではなく、労働者階級の歴史的、社会的な実践の問題、具体的な行動の問題であるにしても、である。この小論の趣旨は、私が当初中途半端で、誤解を招くような形で提出したこともあって、田口や森らの会員からさえ“きつい”批判、「止めるべきだ」といった忠告を受けて来たものと、根底では同じである。

◆1、問題の所在

 マルクスはすでに『資本論』の冒頭のところで、商品価値を分析した後、孤島におけるロビンソンの生活を引いて、共同体社会においても「価値の規定」――商品の交換価値の関係ではなくて――がまだ重要な意義を持つことを次のように述べている。
「本来彼は控え目な男ではあったが、それでとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。道具を作り、家具を製造し、駱駝を馴らし、漁〔すなど〕りをし、猟をしなければならない」、「ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここでは極めて単純であり、明白であって、……特別に精神を緊張させることなく理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている」(『資本論』岩波文庫第一分冊146~7頁)。

 【ここで林氏は〈ロビンソンの生活を引いて、共同体社会においても「価値の規定」―……がまだ重要な意義を持つことを次のように述べている〉というが、しかし、ロビンソンの生活をそのように捉えるのは果たしてどうであろうか。ロビンソンの生活そのものは、必ずしも「共同体社会」を直接想定したものではない。むしろあらゆる社会形態から独立した、故にあらゆる社会に共通な物質代謝の一般的な条件として、マルクスは考察しているのである。私は『資本論』のこの部分について次のような指摘を行ったことがある(第39回「『資本論』を読む会」の報告(その1))。

 〈古典派経済学の取り上げるロビンソン物語とマルクスの論じているロビンソン物語とには、歴然たる相違があります。古典派経済学の場合は、歴史の出発点として孤立した個人の狩猟や漁労を取り上げながら、その中に直接、交換価値や資本、利潤等を持ち込んで論じています。マルクスがリカードのロビンソン物語について、〈そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている〉と批判しているようにです。しかし、マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。

 マルクスは労働過程がそうした抽象的なものとして論じる理由を次のように述べています。

 〈使用価値または財貨の生産は、資本家のために資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えはしない。したがって、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態からも独立に考察されなければならない。〉(全集版233頁)

 そしてそうした考察の最後に、その意義を次のように述べています。

 〈われわれがその単純で抽象的な諸要素において叙述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、したがってこの生活のどんな形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものである。それゆえ、われわれは、労働者を他の労働者たちとの関係において叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材があれば、それで十分であった。小麦を味わってみてもだれがそれを栽培したのかわからないのと同様、この過程を見ても、どのような条件のもとでそれが行なわれるのか、奴隷監督の残忍なムチのもとでか、資本家の心配げなまなざしのもとでなのか、それともキンキナトゥスが数ユゲルム〔1ユルゲム=約25アール〕の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか、はわからない。〉(241-2頁)

 ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、・・・・人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。〉

 つまりロビンソンの生活は、そうした抽象的な物質代謝の一般的な条件としては、「共同体社会」にも妥当するといえるのである。だから「価値の一切の本質的な規定」、すなわち「価値規定の内容」というのは、そもそもそうしたものなのである。ここでマルクスは「価値の一切の本質的な規定」と、「一切の」と述べているのは、すでにその前に「価値規定の内容」として三つの契機を上げていたからである。因みに、初版では、このロビンソンの生活の考察(現行版第12パラグラフ)と将来の連合体社会の考察(同第15パラグラフ)は、使用価値と価値規定の内容には、神秘的なものは何もない、具体的な例証として、そのパラグラフに直接続く形で論じられていたものなのである。】

 
 そして同様なことは、『ゴータ綱領批判』の中でも明確に述べられているし、『反デューリング論』でも強調されている。
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなく、反対に今ようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだ帯びている。したがって、個々の生産者は、彼が社会に与えたものと正確に同じものを――控除をおこなったうえで――返してもらう。彼が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。例えば、社会的労働日は労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は、社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。彼はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を供付したという証明書を社会からうけとり、この証明書をもって消費資料の社会的貯蔵から等しい部分の労働を要するものをひきだす。彼は自分が一つの形で社会に与えたものと同じ労働量を別の形で返してもらうのである。
 ここでは明らかに、商品交換が等価と等価の交換であるかぎりで、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式はかわっている。なぜなら、変化した事情のもとでは、だれも自分の労働のほかは何ものも与えることができないから、また他方では、個人的消費資料のほかには何ものも個人の所有に移りえないから、である。しかし、個人的消費資料が個々の生産者のあいだに分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい労働と交換されるのである」(『ゴータ綱領批判』、国民文庫43~4頁)

 【林氏は〈そして同様なことは、『ゴータ綱領批判』の中でも明確に述べられている〉というが、しかし、ゴータ綱領批判の林氏が引用している部分で主に問題になっているのは、分配の問題である。だからその限りでは決して、「同様なこと」とは言えないのである。】

「社会が自ら生産手段を掌握し、生産のために直接に社会的に結合して、その生産手段を使用するようになったそのときから、各人の労働は、その特殊な有用性がどんなにさまざまであっても、はじめから直接に社会的労働となる。そうなれば、ある生産物に含まれる社会的労働の量を、まず回り道をして確かめるには及ばない。平均的にどれだけの社会的労働が必要かということは、日々の経験が直接に示してくれる。蒸気機関一台、最近の収穫期の小麦一ヘクトリットル、一定の品質の布一〇〇平方メートルに、どれだけの労働時間が含まれているかを、簡単に計算することができる。だから、そのときになれば生産物に投入された労働量が社会には直接にまた絶対的に分かっているのに、その後もあいかわらず、以前に便法としてやむをえなかった、たんなる相対的な、動揺的な、不十分な尺度で、すなわちある第三の生産物(価格、つまり価値=労働時間の貨幣による表現―林〕でそれを表現し、それの自然的な、十全な、絶対的尺度である時間で表現しないなどということは、社会にとって思いもよらないことである」(『反デューリング』、国民文庫2、543~4頁、第三篇4、分配)

 【この『反デュー』からの引用文は確かに「第3編4、分配」からの引用であるが、しかし内容そのものは、必ずしも分配を論じていない。将来の社会では、生産物に支出された労働量を、直接、労働時間で表現するということを述べているだけである。】

 だが実際には、マルクス主義と結び付いた社会主義運動が世界中に広がり、広汎な大衆的な基盤を持ちえた時代さえ存在したというのに、ロシアなどではマルクス主義的な労働者の党派が政権を掌握した経験さえあったというのに、マルクスが「単純であり、明白だ」と喝破した社会主義の観念は決して、これまでずっと――つまり百年、あるいは第二インターの時代も含めれば百二十年余もの間――、そのようなものとして提示され、説かれたことはないのであり、現在も説かれていないのである。もちろん、こうした事情には、社会主義運動における日和見主義や修正主義や“スターリン主義”の支配と影響力のためであって、現在でも不破哲三といったブルジョア的俗物は、社会主義においても「市場経済」による、その支配と規制による、生産と分配の必要性と必然性を説き、「市場経済」における、人々の自然発生的な商品の交換や「価格」運動による規制や効力なくしては、社会的な生産や分配は、つまり社会主義は不可能であるとわめいている。
 つまり不破は、「市場経済」を、つまりこのブルジョア社会を途方もなく美化し、肯定し、持ち上げるのであり、社会的な生産や消費に調和をもたらす、その重大にして、すばらしい「市場経済」(すなわち資本主義社会)の機能や効能を賛嘆し、持ち上げて、それをなくしたら社会の経済とその関係はめちゃめちゃになってしまう、といった妄言を――スターリンに学んだのか、ハイエクに教えてもらったのかは知らないが、ブルジョアたちが言いはやしているのと全く同様の、資本の支配とその社会への賛歌と帰依の信条を――得意げに並べ立てている(拙著、『不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』、105頁以下、とりわけ115~6頁を参照されたい)。まさに“スターリン主義者”としての不潔な本性暴露というところであろう。
 マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。

 【すでに指摘したように、マルクスは決して〈共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明〉したわけではない。確かに第15パラグラフでは、ロビンソン個人の関係が、共同体の関係として再現するとは述べているが、だからと言って、共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えたのではないのである。すでに述べた様に、ロビンソンの関係は、あらゆる社会に共通の関係であるから、共同体においてもそれは個人と自然との関係ではないが、社会と自然との関係として再現すると述べているのである。ロビンソン個人の関係が、そうした一般的なものであるからこそ、それはその限りでは〈単純商品社会〉(そんな社会があるとしての話だが、林氏は大塚史学を批判していたが、いつのまにか同じ立場に立っているのであろうか)であろうが、資本主義社会であろうが、封建社会であろうが、貫いているのである。ただ封建社会や資本主義社会では、そうした一般的なものが歴史的な形態をとっているわけである。この関係は、マルクスがクーゲルマンに宛てた手紙のなかで、次の様に述べているのと合致する。

  《この男にできる最大限の譲歩とは、およそ価値なるものを想定するならば、私の結論を認めざるを得ない、と認めることなのです。かわいそうにこの男には、もし私の本に「価値」にかんする章が一章もないとしても、私がやってみせた現実の諸関係の分析が、現実の価値諸関係の証明と実証を含むことになるという点がわからないのです。価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についても、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたぼってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働,の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。だから最初から、この法則に矛盾するように見える諸現象を「説明」しようとすれぽ、科学以前の科学を持ち出さなければならないことになるでしょう。リカードの誤りはまさに、彼が価値について論じている第一章で、まず逐一明らかにしなければならない、ありとあらゆる範疇を、与えられたものとして前提し、これらの範疇が価値法則に適合していることを証明しようとしたことにあるのです。
 それはそうなのですが、他方、あなたが想定されたとおりなのでして、学説史が証明しているところでは、価値関係の理解は、あるいはかなりはっきりしていたり、あまりはっきりしていなかったり、またあるいは妄想で飾りたてられ気味だったり、科学的にかなり明確であったりはしていても、けっきょくはいつも同じでした。思考過程そのものが諸関係のなかから生まれ出て来る、つまりそれ自体ひとつの自然過程なのですから、物事をじっさいに把握する思考はいつも同じであるほかないわけで、その違いは発展の成熟、だからまた思考を行なう器官の発達の成熟の度合に応じて段階的なものでしかないのです。それ以外はいっさいばか話です。》(全集32巻454-5頁、下線はマルクスによる強調)

 林氏は、〈しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである〉と述べている。つまり資本の社会を前提に、ロビンソンの孤島での生活と同じような「単純であり、簡単である」ような関係を、明瞭に、具体的に示すのだというのだが、それは果たして可能であろうか。資本関係を捨象せずして、それをそのまま前提した上でなら、そうしたことは恐らく不可能であろう。資本関係を前提するなら、マルクスがやったように、資本主義的生産様式そのものを科学的に解明する以外にないのであって、それを「単純であり、簡単である」ような関係に還元しようとするなら、すでにそれは資本関係を捨象しているから、それが出来るのだ、ということを林氏は果たして理解してこのように述べているのであろうか。】

 したがってこの部分を埋め、明らかにすることは決定的に重要であり、労働者が勝ち取ろうとしている――勝ち取らなくてはならない――社会の、具体的で明瞭な観念を持つことは、つまり自らの闘いの目的であり、理想でもある社会の根底の性格や内容やその意味を正確かつ明瞭に理解することは、労働者の階級的闘いを弱めないで強めるであろう。労働者は天国や彼岸の世界に理想郷を妄想するのではなく――そんなことは、無知で愚昧な坊主や宗教家、低俗な“哲学者”たちに任せておけばいい――、現実の資本主義の中に、自らの解放の条件を見出すのであり、資本の支配を一掃することで、それを実現するのである。

 【ここで林氏が述べていることは、もっともらしく聞こえるが、必ずしも正しいとは言えない。というのは、その前に林氏が述べていたことは、ただあらゆる社会に共通な一般的な契機でしかないからである。つまり極めて抽象的な内容なのだ。しかしわれわれが資本主義的生産様式のなかに見いだす、形成されつつある将来の社会の萌芽というものは、そうした抽象的な内容ではないし、あってはならないであろう。それこそもっと具体的なものとして、資本主義的生産様式は歴史的に将来の社会の萌芽、つまりその潜在的な内容を産み出しているのである。それはマルクスが『資本論』のアチコチで指摘していることでもある。例えば、株式会社の発展によって生み出されている諸関係を、マルクスは将来の社会への過渡だと述べていることを思い出してみればよい。だから資本主義的の生産の中に将来の社会の契機を見いだそうとするなら、もっと資本主義的生産様式そのものの内的諸関係に分け入って考察する必要があるのであり、林氏が上記のように述べているような一般的な内容に還元するだけでは、そうしたことはいまだ語ることはできないのである。】

 (以下、続く)