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林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート

2017年8月31日 (木)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(4)

社会主義でも「抽象的人間労働」は意義を持つ?

 以下、ノートからの紹介を続ける。(★印の表題は本書のもの)

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★三、価値の形態をとる労働の特殊歴史的な性格
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   〈もし初めから自覚的に社会的労働として支出されるなら、その労働は決して"価値"の形態をとらないし、とる必要はないのである。貨幣は、こうした資本主義のもとにおける、人間の社会的労働の矛盾の表現であり、結果である。〉(18頁)

 これは別に問題があるから引用したのではなく、こうした認識があるのに、林氏は社会主義における分配問題になるとこうした問題意識がなくなるのは何故なのかと思ったのである。

 〈ここで注意されるべきは、抽象的人間労働を超歴史的カテゴリーと考えてはならないということである。つまり“価値”という歴史的カテゴリーにたいして、抽象的労働は人間社会一般に共通な超歴史的なカテゴリーと思われる。しかし実際には、それもまたすぐれて歴史的なカテゴリーである。このことは、例えば、一般にこれまでの共同体では、労働が価値の形をとらず、したがってまた、抽象的入間労働としては現われなかったことからも明らかであろう。〉(19頁)
 〈誰のものでもない、何を生産するのでもない、単なる労働力の支出としての労働。これこそ、一方で個々人の人格的独立と平等を語るとともに、他方で個々人の徹底的な社会的相互依存を語っているのである。各人の労働は、社会的必要を満たすものを生産するかぎり、抽象的労働として全く平等で、どんな差別、区別もないのである!まさに資本主義の(商品生産社会の)現実の中にこの関係を(事実を)発見したとき、近代の社会王義はその本当の自覚的基礎を獲得し、科学的社会主義に転化した、というべきだろう。価値の"実体"としての抽象的人間労働は、まさに人類史の決定的な段階を、つまり社会主義が現実的なものになったことを明らかしたのであり、それ自体、決して超歴史的カテゴリーといったものではない。もしそんな風に考えるなら、現代の社会主義、すなわち科学的社会主義はその一切の現実的基盤を失うだろう。〉(20頁)

 今の私は抽象的人間労働を超歴史的カテゴリーではないという林氏の主張には賛同できる。しかしその理由は異なる(私自身の考えは後に述べる)。
 林氏は『要綱』の序説から引用しているが、その引用のなかでマルクスは〈こうしてもつとも単純な抽象は、近代の経済学がその一番初めにかかげており、しかも、すべての社会形態にあてはまるきわめて古い関係を表現しているのではあるが、やはりこうした抽象としては、ただもっとも近代的な社会のカテゴリーとしてだけしか、実際にも正しいものとしては現われないのである〉〈労働のこの例が適切に示していることは、もっとも抽象的な諸カテゴリーでさえ--その抽象性のために--すべての時代にたいしてあてはまるにもかかわらず、なおこういう抽象という規定性の点で、それ自身やはり歴史的な諸関係の産物であるということ、そしてそれが完全にあてはまるのは、ただ歴史的な諸関係にたいしてだけであり、かつその内部においてだけだということである〉と述べている。これは自体は、抽象的なカテゴリーはその意味では歴史貫通的なものであることを認めているとも読める。しかしそうした抽象性として実際に現われるのは近代的な社会的カテゴリーとしてしか現実性を持たないと言っているだけではないのか。つまりマルクスが述べていることと林氏の主張していることには微妙な違いがあるように思えるのである。

 〈「単なる労働」、抽象的な一般的労働はまさに資本主義的生産こそが生み出し、発展させて来た「歴史的カテゴリー」であり、それが社会主義社会で意義をもつからといって、超歴史的なカテゴリーであるというわけではない--マルクスはこう語っているのだ。〉(21頁)

 果たしてマルクスは、林氏がいうようなことを言っているといえるのかどうか、それは疑問である。少なくともマルクスは〈それが社会主義社会で意義をもつからといって、超歴史的なカテゴリーであるというわけではない〉などとは述べていない。マルクスが言っているのは、単なる労働のようなもっとも簡単なカテゴリーでも、その抽象性においては、確かにあらゆる歴史に妥当するものではあるが(その限りでは歴史貫通的な性格を持つが)、しかしそれが歴史的に十全な妥当性において現れてくるのは、ブルジョア社会を待ってであるということである。労働をこのような抽象性において捉えることそのものが一つの歴史的な産物なのだということである。もし抽象的なカテゴリーとしての労働をこうした意味で歴史的なものだというなら正しい。しかしそれは抽象的な労働がその抽象性ゆえにあらゆる歴史において妥当するという一面を無視してよいというものではない。それを敢えて無視して抽象的な労働をただ歴史的なものとしてのみ捉えようとするところに林氏の恣意性を感じざるえない。

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 〈さてここで、資本主義社会における(商品を生産する)労働の特殊な性格は分かったが、しかし社会主義社会ではどうなのか、という疑問が当然出てくるだろう。
 まさに、それが問題である!社会主義社会では、人間の労働は抽象的労働であるという規定性を脱却するのであろうか。
 決してそんなことはない!確かに社会主義社会では、すでに人間労働は直接に杜会的なものになり、従って価値の形態、貨幣の形態を取らないだろう。だが商品生産の中で与えられた人間労働のこの側面は、社会主義社会の中でも廃棄されないばかりか、むしろそれはある意味でいっそう重要な意義を獲得する。
 価値の形態をとる労働は、抽象的な人間的労働である。そして社会王義社会においても、労働はやはり抽象的な労働として、社会的であろう。マルクスが「価値規定の内容は残る」といった所以である。ただ、資本主義との違いは、社会主義社会では、資本主義と違って、具体的有用労働と抽象的労働とは切り離されず、対立的な形をとらないということ、したがって価値という〃物象的な"かたちをとらない、ということである。
 抽象的人間労働とは、人間が社会的消費対象を生産するかぎり、その労働は無差別であり、平等であることを表現しており、従ってこの社会のすべての人々が平等であり、自由であることの社会的な根拠をなしている。社会主義社会では、"価値"というブルジョア的形態を脱ぎすてるとはいえ、この内容は新しい社会でも保持される、否、人々(労働者)の「特殊な社会的労働」への自覚こそ、社会主義の大前提であり、出発点である。これは、マルクスがi価値規定の内容」と呼んだものであり、社会的生産の計画でも、個々人への分配においても、この概念は本質的な役割を演じ、決定的な意義を持つようになるのである。
 我々は、資本主義社会で、労働が価値(さらには貨幣)という歴史的形態で現わされるようになったことの巨大な意義を確認しなければならない。それは、極端にいえば、世界中の人々の労働が一般的・抽象的人間労働として、世界的な意味を持つ〃社会性"として登場し、人々が世界的に結び付いたことの(この結び付きがますます発展してきたことの)表現である。
 確かに、社会主義では、人々の労働は直接的に社会的労働として現われ、そのかぎり「抽象的一般的労働」という規定は背景に退く、もしくは直接の意義を失うかである。だが、それは、具体的、有用的労働と抽象的、一般的労働の対立、矛盾が廃棄されるということであって、"近代的"労働の規定である、抽象的、人間的労働の規定が廃棄されるということではない。そんなことは、現実的に不可能である。むしろ反対に、人間労働のこの規定は、社会主義においてこそ真実の意義を獲得する、とさえ言えるのである(というのは、その限界のあるブルジョア的規定性を脱ぎすてるのだから)。〉
(25-26頁)   

 ここには幾つかの混乱がある。林氏は抽象的人間労働というのは、「価値規定の内容」を意味すると考えている。しかしこれは本当だろうか。実は私も以前はそう考えていたのである。しかしマルクス自身は明確に区別していたことを最近理解するようになった。まずマルクスが「価値規定の内容」として述べている部分を引用してみよう。

 〈だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事働でなければならなかった・といっても発展段階の相違によっ一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。〉 (全集版96-97頁)

 このように、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものの中には「抽象的人間労働」という言葉は出て来ない。抽象的人間労働は価値の実体ではあるが、マルクスが述べているのは、価値の実体の基礎にあるものなのである。マルクスは他方で「価値量の規定の根底にあるもの」とも述べているが、つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べているのは、「価値の規定」そのものではなく、その「根底にあるもの」なのである。価値の規定ならば、それば抽象的人間労働の凝固であり、価値の大きさは、社会的に必要な労働時間ということになる。しかし、マルクスが述べているのはそういうことではない。マルクスが述べているのは、抽象的人間労働の基礎にあるものであり、それはその形態がどのように違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、だからこのような機能は価値の実体である抽象的人間労働の「基礎にあるもの」であり、あるいはその「根底にあるもの」ものなのである。それをマルクスは「価値規定の内容」として述べているのである。それは〈いろいろな有用労働または生産活動がどんな、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だ〉というものである。あるいは〈価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである〉というのである。もう一つ〈人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ〉というものである。

 こうした「価値規定の内容」を林氏は正しく理解しているとは言い難い。だからまた社会主義では労働は直接社会的なものになると言いながらその内容を正確につかみ取っていないのである。社会主義社会では、価値の実体である抽象的人間労働が意義をもつわけではない(価値が歴史的な産物であるように、その実体である「抽象的人間労働」も歴史的な産物なのだ)。社会主義で意義をもつのは、その価値の実体の根底にある生理学的な意味での人間労働力の支出とその継続時間だけである。ここらあたりはなかなか難しいが林氏には分かっていないし、私も少し前までは分かっていなかった。だから実はあまりエラそうなことはいえない。

 {もっともマルクスも『資本論』第3巻では「価値規定」そのものが社会主義で意義をもつかに述べているところもある。しかし、マルクス自身、第3巻を書いていた時はまだそこらあたりはハッキリしていなかったかも知れないのである。というのはマルクスは『資本論』の初版では、まだ「価値規定の内容」とは言わずに「それ自体として観察された価値規定」と述べているからである。もっともマルクスにとっては両者は同じものとして捉えられていたのかも知れないが。ただマルクスが初版に手を入れて第二版を出版する準備として作成した「補足と改定」を見ると、第二節の「商品に現われる労働の二重性」の最後のパラグラフは次のような変遷を経ている。
 まず第二版の最後のパラグラフは次のようになっている。

 〈すぺての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉(全集版63頁)

 次は「補足と改定」から

 〈[A]
[5] p.13)すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。他面では,目的を規定された形態でのすべての力の支出である。労働力が支出されるこの特殊な形態あるいはあり方は,商品の使用価値を,つまり一定の有用効果をもたらす。それとは反対に,商品価値は,次の事を述べているにすぎない。すなわち,この物は人間的労働力の支出以外のなにものも現わしてはおらず,この支出の量はそれの価値の大きさに現わされている,ということである。
  [B]
 すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。生産物の価値は,その生産物が支出された労働力すなわち人間的労働そのもの以外のなにものも現わしてはいないということ,そしてその支出の量はその価値の大きさに表わされている,ということを意味しているのである。他面において,労働力は何らかの規定された形態において支出される,すなわち何らかの方法で使われた,そして特殊な,目的を規定された生産的行為としてのみ労働力は使用価値をすなわち有用効果を生み出す。
  [C]
 [すべての労働は]一面では,人間的労働力一般の支出,したがって抽象的人間的労働である。そして,抽象的人間的労働というこの属性において労働は価値を形成する。他面において,すべての労働は何らかの特殊な目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり,そしてそのような具体的有用労働として労働は商品の使用価値を生産するのである。〉(小黒訳上57-58頁)

 つまりマルクス自身にとっても、初版から第二版への過程で、このような推考によって、むしろ問題が厳密化され明確になっていったと思えるのである。これは「価値体」と「価値物」との区別と関連についても同じことがいえるような気がする。だから現行の第3巻の上記のような記述があるからといって、こうしたマルクスが最終的に到達した問題意識を否定する根拠にはならないのである。}

 私はこの第二版の最後のパラグラフと関連させて、価値規定の内容について、電子書籍《『資本論』第1章・第2章詳解》のなかで、次のように解説した。(以下、電子書籍から)。

 【 (イ)したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。 (ロ)それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。 (ハ)と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。 (ニ)第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。 (ホ)どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。 (ヘ)最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 (イ) だから商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。

 (ロ) では、それは商品の価値から生じているのでしょうか。しかしまた、商品の価値規定の内容を見る限りでは、そこから生じているともいえないのです。

 (ハ) というのは、商品の価値規定の内容というのは、第一に、有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間有機体の諸機能だという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

  ここで注意が必要なのは、マルクスが「価値規定の内容」として語っているものには、「価値の実体」と言われる「抽象的人間労働の凝固」という言葉がないことです。だから「価値規定の内容」というのは「価値の実体」とはまた違って、その基礎にあるものだということです。

 (ニ)、(ホ) 次に価値規定の内容として問題になるのは、価値の大きさの基礎にあるもの、すなわち先の生理学的な労働力の支出の継続時間、またはその労働の量については、労働の質とは感覚的に区別されるものです。

  ここでも注意深く吟味してみる必要があるのは、マルクスは「価値の大きさ」そのものを問題にしているのではなく、「価値の大きさの基礎にあるもの」を問題にしているということです。価値の大きさは商品の生産に社会的に必要な労働時間ですが、そうしたものを直接問題にしているのではなく、その「基礎にあるもの」なのです。それはマルクスが「価値規定の内容」として抽象的人間労働を問題とせず、さまざまな具体的な形態が規定された人間労働力の支出というものが、その具体的形態が如何なるものであろうと、人間有機体の諸機能であり、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出なのだとして捉えていることに対応しています。

  以前、第2節の最後のパラグラフを分析したときに、このパラグラフがシンメトリーの構成になっていることと、三層の構造を持っていることを指摘しました。それをもう一度思い出してみましょう。まず、第2節の最後のパラグラフを紹介します。

   《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

  このパラグラフの構成を図示したものも紹介しておきます。
Photo
  つまりマルクスは「商品価値を形成する」労働を分析して、「生理学的意味での人間労働力の支出」というものと「同等な人間労働または抽象的人間労働」という属性とを区別しているということです。同じように「使用価値を生産する」労働についても、「特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出」ということと、「具体的有用労働」という属性とが区別されています。

  だから今ここで、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものでいえるのは、「価値を形成する」労働のうち、まさに最初の層、つまり「生理学的意味での人間労働力の支出」とその継続時間なのだということです。第二層、つまり価値の実体である「同等な人間労働または抽象的人間労働」の凝固と社会的に必要な人間労働の継続時間ではないということに注意が必要なのです。多くのマルクス経済学者は「抽象的人間労働」と「生理学的な意味での人間労働力の支出」を同じものとして扱っていますが、マルクス自身はこれらを明確に区別していることに注意が必要なのです。

 (ヘ) そして最後に、人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、彼らの労働も社会的な形態を受け取るということはあたりまえのことであり、彼の労働が社会的な形態を持っているということ自体には何の神秘的なものもないのです。

 ここでは〈価値規定の内容〉という言葉が出てきます。マルクスはこの内容を三つの部分からなると考えているようです。では、それは第1節のどういう内容に照応しているのでしょうか。

 (1)まず価値規定、つまり価値の規定というのは、次のような第一節の一文を指すのではないでしょうか。

 〈そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。
 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。
 したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。〉

  これが「価値規定」です。しかし、ここでマルクスが問題にしているのは、こうした「価値規定」そのものではなく、その基礎にあるものとだということです。それが「価値規定の内容」なのです。

 (2) 次は量的な価値規定について、

 〈では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。……
 したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。〉

  この場合も、しかしマルクスがここで問題にしているのは価値の量的規定そのものではなく、「その基礎にあるもの」なのだということが重要です。

 (3)次は、価値を形成する労働の社会的性格についてです。

 〈商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。〉 
 〈したがって、われわれは次のことを見てきた--どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。〉

  しかしこうした労働の社会的形態は、商品を生産するという様式において取り結ぶ社会的形態であるということが理解されなければなりません。価値規定の内容としてマルクスが述べているのは、そうしたもののさらに一般化されたものだということです。

 報告者のレジュメでは、以前、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.23(1998/11/5)からの紹介がありました。だからそれも少し紹介しておきましょう。

  《ここではマルクスは「価値規定の内容」とは、労働を基礎とする人間のどんな社会にも妥当するような、もっとも基本的なものだと述べているように思えます。だからそれは資本主義以前の社会はもちろん、将来の社会、つまり社会主義、共産主義の社会においても存在するものだということでもあります。だからこうしたものには何の神秘的なものもないのだということだと思います。このようなマルクスの考えは、それ以外の文献でも色々と述べられています。今、その主なものを紹介しておきましょう。

 例えばマルクスは1868年7月11日付けの「クーゲルマンへの手紙」で次のように書いています。

 〈価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。〉(国民文庫版87~9頁)

 (中略)つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べていることは、いわばこの手紙でマルクスが「自然法則」として述べていることと同義であって、だから商品生産社会において「それらの法則が貫徹される形態」こそが、まさに「生産物の交換価値」であり、それが「労働生産物の謎的性格」をもたらすのだ、ということではないでしょうか。

 もう一つ紹介しましょう。「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」では次のような一文が見られます。

 〈さて、ロートベルトゥスが--私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう--すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、--交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから--彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格--労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの--を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。〉 (全集・376~7頁)

 こうしたマルクスの論述は、それ以外の諸文献でも見ることができます。ここで重要なのは、マルクスはこうした「価値規定の内容」は、確かにあらゆる社会に存在するものではあるが、しかしそれは「価値」がそうであるとは言っていないということです。むしろ「価値」はその「特定の歴史的形態にすぎない」と述べています。(以下略)》

 ところで、初版本文では、このパラグラフに続いて、現行版では12パラグラフに来るロビンソンの例と15パラグラフに来る共同社会の例の二つのパラグラフが続いています。つまりこの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないということを説明する例として、ロビンソンの孤島での生活や将来の共同社会の例が展開されているのです。この現行版の二つのパラグラフは、当然、後に問題になるわけですが、初版本文の展開の意義を確認するために、若干先取りして、その内容を少しだけ検討しておきましょう。

 まずロビンソンの島の生活においては、〈ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快〉だと指摘しながら、〈それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている〉とも述べられています。つまりそれらが価値規定の内容を意味することが示唆されているのです。

 また〈共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的にさて、一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体〉については、〈ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない〉と指摘され、やはり〈人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である〉と述べられています。つまり先に「クーゲルマンへの手紙」や「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」でも指摘されていましたが、それらはあらゆる社会に共通な内容をもったものであり、こうした関係には何の神秘的な性格もないと言うわけです。

 そして初版本文では、こうした二つのパラグラフによる価値規定の内容の具体的な例の検討を行ったあと、それを受けて、次のパラグラフで〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか? 〉と続いているのです(しかしその後の展開は現行版とは若干異なります。その検討は次回以降にしたいと思います)。】(電子書籍からの紹介終わり)

 「抽象的人間労働」というのは、マルクスによって「同等な人間労働」とも言い換えられているが、それは商品生産の社会において、諸労働生産物に個々バラバラに支出された私的諸労働が、諸商品の交換を通じて同等な人間労働に還元されたものであり、同等な人間労働または抽象的人間労働として、労働生産物の価値対象性として結実しているものである。だからそれは商品を生産する社会に固有のものなのである。だからそういうものが社会主義でも意義を持つかに主張する林氏の主張は明らかに間違っている。社会主義ではそうしたものの根底にあるもの(価値規定の内容)こそが意義を持つのである。

2017年7月19日 (水)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(3)

貨幣概念の欠如

 この連載も長らく中断したままであったが、とにかく私自身のノートの紹介なのだから、ボチボチ再会しようかと思う。

 今回からは、いよいよ本文に入っていく。以下に掲げた表題は林氏の著書から直接引用したものである。今後も、林氏の著書の進展にしたがって、その章や節や項目をそのまま紹介し、その中で疑問に思ったことや自身の考えを、一定の問題意識のもとに表題を付けて(今回は「貨幣概念の欠如」という表題を付けた)、対置するという形でこのノートは書いていくことになる。それではノートを再開しよう。

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§§第一部 "金本位制"から"管理通貨"へ

§第一章 商品生産と貨幣の必然性

 ★一、現代の"貨幣"

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 まず林氏は次のように書き出している。

 〈国際通貨について知るためには、まず貨幣とは何かを理解しなければならない。
 貨幣とは一体何であろうか、そして貨幣を必然化するもの--生産関係--は何であろうか。いまではこの問いに答えるのは、かつてより一層難しくなっている。というのは、かつては、貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたからである。
 今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる。
 かつての貨幣は、それ自体価値を持つ定在であり、決して単なる機能的な存在ではなかった。しかし今の“貨幣"は、それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺらである。それはあたかも、純粋に機能的な存在であるかのものとして立ち現れる。〉(12頁)

 ここで林氏は〈国際通貨について知るためには、まず貨幣とは何かを理解しなければならない〉と述べ、〈貨幣とは一体何であろうか〉という問いを発している。つまり貨幣とは何かということは貨幣の概念を問うているわけである。しかし、もし林氏が貨幣の概念が何かを知りたいなら、われわれは『資本論』を研究すべきだと答えるだろう。なぜなら、『資本論』の冒頭篇において、マルクスは余すことなく「貨幣とは何か」という疑問に答えているからである。
 ところがどうしたことか、林氏は〈いまではこの問いに答えるのは、かつてより一層難しくなっている〉と言い、〈というのは、かつては、貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたからである〉とその理由を述べている。これだとマルクスが『資本論』で貨幣の概念を明らかにできたのは、〈貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたから〉だとでも言うのであろうか。しかしそれは本当ではない。すでに述べたように、マルクスの生きていた時代においても、信用制度が発達していたスコットランドではすでに流通から金貨幣は姿を消していたし、イングランドでも1797年から1821年まではイングランド銀行は銀行券の兌換を停止していたからである。つまり林氏がいうようにそれは〈それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺら〉だったわけだ。しかしマルクスはこうした歴史的現実を踏まえながらも、なおかつ、貨幣の概念を明らかにしているのである。そしてそれを見ればわかるように、マルクスは、まず商品とは何かを解明して、商品の価値形態の発展を跡づけて商品の貨幣への発展の必然性を明らかにして、貨幣の概念を解明し、展開している。それは決して、現実に金貨幣が流通しているから解明できたというようなものでは決してないのである。
 林氏が今日の問題として指摘するようなことは、単なる現象的な変化でしかないのであり、そうしたものが貨幣の概念そのものに何か根本的な変化をもたらすようなものでは決してないのである。私はすでに林氏は現代の通貨の現象的な変化に惑わされ、囚われすぎて、本質を忘れていると指摘したが、やはりここでもわれわれはそれを指摘しなければならない。
 そもそも林氏には貨幣の概念が無いのではないかと疑わざるを得ない。というのは林氏は〈今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる〉と述べているからである。ここで私は「のみ」というところに注意を促すために下線を引いたが、これは極めて重要な問題だからである。林氏は今日では貨幣は、ただ通貨としてのみ存在していると考えているらしいからである。しかし『資本論』から貨幣の概念を学んだわれわれは、貨幣は単に通貨、つまり流通手段や支払手段だけではなく、まず持って商品の価値を尺度するという機能において貨幣であり、さらには蓄蔵貨幣や世界貨幣という機能も持っていることを知っているからである。つまり林氏は「通貨」のみを認めて、貨幣の存在を否定するのであるが、ということは価値の尺度機能や蓄蔵貨幣の定在がまったく目に入っていないことを示している。
 林氏は現実の商品流通から金貨幣の姿がなくなり、それに代わって〈それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺらである〉銀行券を見いだす。そしてその現実に幻惑されてしまっているのである。しかし現実の商品流通においては、他方で、依然として金そのものの売買は行われており、また世界各国の中央銀行には金が依然として蓄蔵されている現実があるのである(*)。ところがこうした現実は林氏の視野にはまったく入っていないのである。

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 *因みに、ウィキペディアで「金」という項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91)を見ると、次のような各国の金保有量が紹介されている。

【主要各国の保有量
アメリカ合衆国[16]:8134トン(外貨準備に占める割合は78.2 %)
ドイツ:3413トン(同66.3 %)
フランス:2541トン(同59.4 %)
イタリア:2452トン(同68.1 %)
スイス:1064トン(同39.8 %)
日本:765トン(同2.1 %)
オランダ:621トン(同61.2 %)
中華人民共和国:600トン(同1 %)
インド:358トン(同3.3 %)】
 またこの一覧につけられた注16には〈1999年5月の上院銀行委員会で、当時の FRB 議長であったグリーンスパンは「金(ゴールド)の、売却はいたしません。ゴールドは究極の通貨だからです」と述べている〉と紹介されている。

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  ところで林氏はここでは〈今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる〉という。ここで〈機能的な存在〉とは何であろうか。〈かつての貨幣は、それ自体価値を持つ定在であり、決して単なる機能的な存在ではなかった〉とも言われている。しかし金鋳貨は、〈それ自体価値を持つ定在であ〉ったが、しかしそれは流通手段としての貨幣の機能が、独自のかたちをとったものではないのか。つまり〈機能的な存在〉ではなかっただろうか。事実、マルクスは『経済学批判』で次のように述べている。

 〈金は流通手段としてのその機能では、独自なかたちをとり、それは鋳貨となる。〉(全集13巻87頁)

 つまりマルクスによれば金鋳貨も〈機能的な存在〉なのである。だから〈機能的な存在〉であるかどうかということは、〈それ自体価値を持つ定在であ〉るかどうかということとは無関係である。確かに紙幣は〈純粋に機能的な存在である〉といえなくもない。それは鋳貨の流通手段としての機能にもとづく仮象性や瞬過性から生じてくるものだからである。

 林氏はまた次のようにも書いている。

 〈貨幣は資本主義社会にとって決定的であるが、しかし現在の資本主義においては、貨幣は現実の流通の中に現れない--ここには大きな、新しい矛盾が、従ってまた解決されるべき重大な一理論問題がある〉(12頁)

 しかし何度も言うが、金貨幣が流通から姿を消し、何らかの代理物に置き換えられるということは、すでにマルクスの時代にも見られたのであり、マルクスによってその根拠は余すところなく理論的に解明されているのである。だからそこには何らの〈新しい矛盾〉など無い。しかしそこには、確かに理論的に解明すべき一問題があることは認めることができる。そうでなければ、そもそも林氏もこうした混迷に陥ることはなかっただろうからである。しかしこれも何度も言うが、『資本論』をしっかり研究しさえすれば、〈新しい矛盾〉に見えるものが何らの〈矛盾〉でもなく、また〈解決されるべき重大な一理論問題がある〉ように思えるものも実はすでにマルクスによって解明されていることを知るであろう。

2015年6月 9日 (火)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(2)

 林 紘義 著 『変容し解体する資本主義』 批判ノートNo.2

《序にかえて》 (続き)

 〔二〕

 ここでは「国際通貨体制」の問題についての著者の基本的な観点、立場が述べられている。だから当然、それを問題にする限りにおいて、それらの誤りを基本的に明らかにして行かなければならない。著者は次のようにはじめている。

 〈現在では、すでに戦後構築されたままのIMF体制(International Monetary Fund “国際通貨基金"の体制)は過去のものである。ドルと金との結びつきは断たれたままであり、また「固定平価」の制度は「変動相場制」--それが実際にどんなに"管理"されていようとも--に移ってしまっている。〉(2頁)

 このように著者はIMF体制は過去のものだ、なぜなら〈ドルと金との結びつきは断たれたまま〉だからとどうやら考えているらしい。〈ドルと金との結びつき〉というのはいわゆるIMF体制のドルと金との交換を前提にした固定相場制のことを考えているらしい、それが1971年の金・ドル交換停止によって、〈結びつきは断たれた〉というのである。確かにこれはブルジョア経済学者だけでなくマルクス経済学者などにも一般に普及している認識ではある。しかしわれわれは、こうした理解そのものを疑って行くべきなのである。こうした理解は、そもそも金本位制というものが、どういうものかをほとんど理解していないことを意味している。だからまたIMF体制の「固定相場制」というものの意味もまったく理解できていないのである。
 金本位制というのは、例えば「ドル」や「円」という国民服をまとった通貨が、それぞれの国家によって法貨と定められ、度量標準が、例えば1ドルは何グラムの金を代理すると決められていることを意味している。だから1ドル札を中央銀行に持っていくと、それに相当する金貨と交換されるわけである。これをもってどうやら林氏は(もちろん、林氏に限らず多くのブルジョア及びマルクス経済学者も同じなのであるが)、ドルは金と結びついていると捉えているらしいのである。だからその法的な度量標準がなくなると〈結びつきは断たれた〉と考えるわけである。しかしこれこそ根本的に間違っているのである。ドル札がどれだけの金量を代理し代表しているのかは、決して、時の政府が決めることでも決められることでもないのである。こうした根本的なことが分かっていないから、さまざまな間違いが生じているのである。
 では1ドル札がどれだけの金量を代理しているのかを時の政府が決められないとするなら、一体、誰がそれを決めるのであろうか。それは誰も決めることはできないのである。なぜなら、それはその時々の商品流通の現実が決めるのだからである。商品の流通があって初めて貨幣の流通もあるという原理原則にこの場合もわれわれはしっかり立っていなければならないのである。この場合にもやはり問われるのは『資本論』冒頭の商品論・貨幣論のしっかりした理解である。しかし、詳しい理論的な説明はまたそれをする機会があるだろうから、後に譲ろうと思う。ただ、時の政府が決めた度量標準が、時代の進展とともに商品流通の現実に強制されて常に変遷し変化してきた歴史的事実、そうした各国の貨幣史・通貨史を思い浮かべれば、直感的にもそうしたことが理解できるであろう。 

 次のような認識もやはり一面的であり、間違っているとしか言いようがない。

 〈我々は“金本位制"を否定して「管理通貨制度」に移行していくこと("通貨"がますます金から切断されていくこと)、そしてまた「固定平価制」から「変動相場制」に移っていくことは、資本主義の(あるいは資本主義において不可避である"貨幣"の)進化等々では全くなく、資本主義世界全体の矛盾と混沌の深化であり、資本主義が全体として頽廃し、解体に向かっていく一契機、一過程である、と評価する。〉(3頁)

 金本位制から「管理通貨制」すなわち、兌換制から不換制に移っていくことは決して、〈"通貨"がますます金から切断されていくこと〉を意味しない。そもそも通貨が金を代理せずして、どうして通貨として通用することができるであろうか。こんな基本的な認識すら無いのは本当に驚きでしかない。それぞれの国民服をまとった通貨が、法的・制度的に金との関連、つまり度量基準が決められているということと、通貨が実際に金を代理するということとはまったく別の話であるということが分かっていないのである。法的・制度的に通貨がどれほどの金と関連づけられていようが、実際の通貨がその商品流通の現実のなかで流通必要金量のどれだけを代理するかということとはまったく別の問題なのである。後者こそが通貨の代表する金量を決定づけることであって、前者はただそれを追認することでしかない。だから法的・制度的に通貨と金との関連づけがなくなったとしても、現実の商品流通のなかで通貨が何らかの流通必要金量を代理している客観的事実そのものは何一つ変わらないのである。なぜなら、通貨が何らかの金量を代理するということは貨幣の流通法則なのであって、こうした法則を法的・制度的に無くすことは、商品経済そのものを克服する以外には、絶対にできないことだからである。
 だから金との関連が制度的にきめられたものが歴史的にどのように変遷したとしても、それをもって〈資本主義世界全体の矛盾と混沌の深化であり、資本主義が全体として頽廃し、解体に向かっていく一契機、一過程である〉などと評価することもまったく間違っている。金本位制から「管理通貨制」へ、つまり兌換制から不換制への移行は、生産の社会的な結びつきがより深まる中で、信用制度がますます発展してきた一結果であり、その限りでは〈資本主義の(あるいは資本主義において不可避である"貨幣"の)進化〉といえるものである。これはマルクスが生きていた当時においても、イングランドより信用制度が発展していたスコットランドでは、すでに流通から金は姿を消していたことを見ても明らかなのである。マルクスはこうした金が流通から姿を消している現状について、次のようにその資本主義的発展の条件を分析している。

 〈いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。〉(「貴金属と為替相場」(『資本論』第3部第35章)の草稿について」大谷禎之介訳118頁)

 つまり金属貨幣に代わって何らかの代理物が通用し、しかも法的・制度的にも両者の関連が明瞭ではなくなるということは、それだけ生産の社会的な性格が発展して、それに対する信頼がますます深まり、信用がますます貨幣の地位を押し退けて奪ってしまった一結果に過ぎないのである。しかしそのことは、いうまでもないことであるが、決して貨幣そのものを無くすことでは全くない。金が貨幣として存在しているということは、資本主義的生産においては、〈生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情〉、〈富の社会的な形態が富の外にある一つの物として存在するという事情〉(同上119頁)にもとづいているからであり、それは資本主義が資本主義であるかぎり、「現代の」資本主義であろうと同じだからである。

 次のようなとらえ方も間違っている。

 〈実際、結果的に見て、アメリカはより寄生的で帝国主義的な政策、より利己的な政策を拡大するためにこそ、ドルと金の交換を停止し、また変動相場制に移っていった、と言えなくもないのだ。世界のリーダーのアメリカがこんなにも無責任で利己的であったとするなら、1971年以降、現代の資本主義、世界の資本主義が全く放恣の体制、「後は野となれ山となれ」式の無責任と利己主義の体制に変質して行ったとしても、何の不思議があろうか。そしてまさにこうした徹底的に"無責任"と放恣の体制、したがってまたバブルと"カジノ"の体制こそ、世界資本主義の解体を根底的に、深く準備してきたのである。〉(3-4頁)

 そもそも〈「後は野となれ山となれ」式の無責任と利己主義の体制〉というのは、資本主義的生産様式に一般的なものではないのか。何か世界資本主義がアメリカの金・ドル交換停止以降、それまでの秩序だった“道徳的な”体制から、まったく放恣で無責任な体制へ移行したという理解こそ、まったく資本主義批判、歴史的批判を単なる道徳的批判にすり替えることであり、それこそまったく恣意的な歴史理解ではないだろうか。ドルが金との交換を停止した後もいわゆる「基軸通貨」として通用している現実を如何に理解するのかが問題であろう。それが理論的に解明できるなら、こうした評価は全くの的外れなものであることが分かるであろう。これについても多くの混乱した主張が見られるのであるが、それはそもそもIMF体制そのものの理論的な理解そのものに問題があったからでもある。しかしそれについてもここで展開してしまうのは早計に過ぎるので、それはまた別の機会において論じることにしよう。

 次のような説明も一体、その内実をどれだけ理解した上で述べているのか不可解である。

 〈今(一九九六年の春)、世界中に実に七千億(約八十兆円)ものドル債務が累積している。このうちの半分はアメリカ以外のブルジョア国家が保有しており、アメリカの"国際協調"の呼びかけに応じ、自制的に振る舞うかもしれないが、しかし残りの半分は、投機的利益を求めて世界中の"資本市場"を駆けめぐっている"不安定な"カネであり、いわゆる“投機家"--広い意味での--の手中にある。そして、いったんドル危機が発展するなら、彼らがドルの投げ売りでも何でもしてくるであろうこと、そうなればドル体制がたちまち崩壊の危機に直面するだろうことは明らかである。ドル体制は「累卵の危うき」にあるのだ。実際この事実は、資本主義世界の崩壊と解体を示唆し、予告していないであろうか!〉(4頁)

 ここで〈ドル債務〉と言われているが、これは一体何であろうか。林氏はどういうものを想像してこのように述べているのであろうか。アメリカ財務省が発行した公債(国債)を考えているのであろうか。〈ドルの投げ売り〉というが、〈ドル為替〉の投げ売りと米国債の投げ売りと同じと考えているのか。いずれにせよ林氏は漠然とした認識をもとに直感的に情緒的に問題を論じており、極めて無責任でいい加減なものとしか言いようがない。しかしこれらの詳しい批判的検討も、本文の当該箇所の批判的検討のなかで行うことにしよう。(続く)

2015年6月 4日 (木)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(1)

                林 紘義 著 『変容し解体する資本主義』 批判ノートNo.1

  ここでは、最初から本の項目ごとに検討して行く。(この本の紹介はここと、ここを参照)

《序にかえて》

〔一〕

 この本は社会主義労働者党(以下、社労党)の機関誌『労働と解放』に連載したものを一冊にしたものだが、この連載の狙いについて、著者は次のように書いている。

 〈この連載の課題は、現代資本主義の貨幣制度ともいえる“管理通貨制度"をいかに理解し、評価するかであった〉(1頁)

 そしてこの〈“管理通貨制度"をいかに理解し、評価するか〉がどれほど重要かについて、次のようにも述べている。

 〈現代の資本主義の特徴も、様々な面からとらえることができる。例えば、独占資本主義あるいは国家独占資本主義と規定することもできれば、帝国主義段階の資本主義と言うこともできよう。しかしいかように規定するにしても、現代資本主義の根本的な特徴--唯一とまでは言えなくても、その最も顕著なものの一つ--として、貨幣面における変化すなわち通貨が金属貨幣ではなくて紙幣もしくは事実上紙幣化した中央銀行券になっているということ、つまり“管理通貨制度"をあげることができるだろう。この著書が取り扱うのも、まさにこのことである。
 現代資本主義の顕著な現象であるインフレにしても、バブルにしても、企業の頽廃にしても、あるいは財政崩壊にしても、ドル支配の解体や変転きわまりない為替相場の問題にしても、さらには「恐慌が止揚された」かに見えることも、"福祉国家"の幻想さえも、すべて貨幣が金属貨幣とのつながりを断った"通貨"に進化してきているという"貨幣的"事実を抜きにしては、いくらかでもまともに評価することも、考察することもできないのだ。この意味において、"管理通貨制度"を論じることは、現代資本主義にとって本質的なものを論じることでもある。〉(1頁)

 確かに著者の指摘することはその限りでは正しいかである。しかし、著者はその「変化」にあまりにも幻惑されすぎているような気もする。この本のタイトルが「変容し」となっているが、現代の資本主義は「変容し」てしまったというのが、著者の大きな問題意識なのである。しかし、現代資本主義も資本主義としてはその本質は何も変わっていないという認識こそ重要なのである。著者は〈貨幣面における変化〉の表面的な部分に目を奪われてしまっている。しかし、例えば『資本論』の冒頭で解明されている商品や貨幣の諸法則などは現代資本主義においてもまったく同じように貫いているという認識が如何に重要かについて著者は恐らく誤ったとらえ方をしているのであろう。これは『資本論』を徹底的に理解することなくして得られないものであり、その限りでは著者の『資本論』理解が浅かったとしか言いようがない。にもかかわらず著者は自分の『資本論』理解が十分だなどと自己過信に陥ってしまっている。しかし、それはおいおい分かってくることである。

 ところで著者はこの「変容」を過大評価しながら、次のようにも述べている。

 〈もちろん、これが単純な“進化"でないことは明らかであろう。ケインズは、この資本主義の変容とその意義を確認した最初のブルジョアの一人であり、彼はこの変容こそ資本主義の前進であり、その安定と繁栄を保障すると信じた、しかし我々は、この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるものであって、資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせているのだ、と主張するのである。〉(1-2頁)

 ケインズは、ブルジョア経済学者であるから資本主義が変わったことを肯定的に捉えるのはしようがない。しかし、林氏が単に〈この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるものであって、資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせているのだ、と主張する〉というのではやはり一面的といわざるを得ない。「変容」を過大視するという点では両者は同じ立場に立っている。
 まず林氏に言わねばならないのは、〈資本主義の頽廃と解体の深化〉というが、資本主義的生産というのは常に矛盾を持って運動するものであり、その痙攣(=恐慌)の度毎に〈資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせ〉るものでもあるという認識がまず必要だということである。レーニンが帝国主義を最高に発達した最後の資本主義であるかに述べたことから、こうした大げさな表現がマルクス主義者で一般化したが、しかし、それはスターリニズム的な形式張った大仰な言い回しというものである。資本主義的生産様式は、さまざまな矛盾を暴露するごとに確かに新しい社会への移行を自ら示唆するものであるが、しかし、それはすでにマルクスの時代においてもそうなのであって、何も現代資本主義だけの問題ではないのである。そうしたことはマルクスによってすでに『資本論』のなかで十二分に明らかにされている。マルクスは資本主義的生産様式をより深く解明することは、その生成と発展と消滅とをトータルに明らかにすることであり、よって常にそれは次の新しい生産様式の萌芽を示すものでもあると指摘している。『経済学批判要綱』には次のような一文がある。

 〈他方--これはわれわれにとってはるかに重要なことであるが--、われわれの方法は、歴史的考察が入って来なければならない諸地点を、言い換えれば、生産過程のたんに歴史的な姿態にすぎないブルジョア経済が自己を超えてそれ以前の歴史的な生産諸様式を指し示すにいたる諸地点を、示している。だから、ブルジョア経済の諸法則を展開するためには、生産諸関係の現実の歴史を記述する必要はない。とはいえ、この生産諸関係を、それ自体歴史的に生成した諸関係として正しく観察し演繹するならば、それはつねに、この体制の背後にある過去を指し示すような、最初の諸方程式--例えてみれば自然科学における経験的諸数値のようなもの--に到達するのである。とすれば、これらの示唆は、現在あるものを正しく把握することとあいまって、過去の理解--これは一つの独立した仕事であって、これにもいずれは取り組みたいものだが--への鍵をも提供してくれる。同様にしてこの正しい考察は、他方で、生産諸関係の現在の姿態の止揚--それゆえ未来の予示、生成していく運動--が示唆されるにいたる諸地点に到達する。一方では前ブルジョア的諸段階が、たんに歴史的な、すなわちすでに止揚された諸前提として現われ、他方では今日の生産諸条件が、自己自身を止揚する諸条件として、それゆえまた、新たな社会状態のための歴史的な諸前提を措定する諸条件として現われるのである。〉(『経済学批判要綱』草稿集②100-1頁、下線はマルクスによる強調)

 しかしだからこそ、それは資本主義的生産様式の歴史的発展や意義を確認することと決して矛盾することではない。林氏はケインズが〈この変容こそ資本主義の前進であり、その安定と繁栄を保障すると信じた〉ことに対比して、〈この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるもの〉との自身の認識を示しているが、しかし、やはりどちらも一面的なのである。戦前にはじまるいわゆる“管理通貨制度”もやはり資本主義的生産様式の一層の発展の一段階を示しているのであって、決して「頽廃や解体」だけを示しているわけではない。例えば、戦後のいわゆるIMF体制というものは世界的な信用システムが確立したことを示しているのであるが、それは資本主義的生産が世界的にもより一層緊密になり、生産の社会化を世界的にも一層深めた一結果でもあるのである。だからそれが「頽廃や解体」だけを示すものだというのは一面的であるばかりか、現代資本主義に対する誤った認識に導くものでしかないであろう。世界的に資本主義がより一層の社会化を深めたということは、同時にそれは世界社会主義の諸条件をより一層押し進めたということと同義なのであり、その限りでは〈資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせている〉といってもあながち間違いとは言えないわけである。資本主義的生産様式はこのように発展のうちにその崩壊や移行の契機を示すのであって、一方は発展と進歩だけを、他方は頽廃と解体だけを見るのではやはりどちらも一面的の誹りを免れないのである。

 「序」というのは、著者の基本的な立場が示されている場合が多い。この林氏の著書でも、やはりそのようである。林氏は〈現代の特徴が貨幣が腐っていくことにある〉と述べている。〈腐っていく〉というのは何とも情緒的な特徴付けであるが、要するに金という確かな裏付けを失った貨幣のことをこのように述べているのであろう。しかし、こうした認識は決して正しいものではないのである。しかし、それもまたおいおい彼の主張を批判的に検討するなかで明らかになっていくことでもあるだろう。
 次のような一文にも著者の基本的立場が、よってまた根本的な誤りが明瞭に現れている。

 〈現代の資本主義が国家による経済の"管理"もしくは経済への"介入"を重要な契機としていることは誰でも知っていることであるが、しかしその最も中心的な環をなすものこそ、貨幣の"管理"であろう。貨幣を管理することによって初めて現代ブルジョアジーは、経済全体をいくらかでも規制し、統制する手段を手に入れることかできたのだ。この意味で、管理通貨制度を検討することは、とりもなおさず、現代資本主義にとって本質的なものを検討するということでもあり、その矛盾を深く、根底的に理解するということでもあろう。〉(2頁)

 こうした理解が何故根本的に間違っているのかは、それは『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をしっかり勉強した人なら直ちにわかるはずである。林氏は現代の資本主義においては、貨幣が管理されていると理解している。〈貨幣を管理することによって初めて現代ブルジョアジーは、経済全体をいくらかでも規制し、統制する手段を手に入れることかできた〉のだという。だから〈この意味で、管理通貨制度を検討することは、とりもなおさず、現代資本主義にとって本質的なものを検討するということでもあり、その矛盾を深く、根底的に理解するということでもあろう〉というのである。ここで注意が必要なのは、この場合の「管理通貨制度」には“ ”が付いていないことである。その前までは“ ”が付いていた。つまり通貨を管理するということに一定の疑問を持っていることをその“ ”は示していたと私は理解していたのであるが、しかしここでは“ ”は外され、それは文字通り「管理通貨制度」であり、通貨は管理されていると林氏自身は理解していることを、この“ ”がない管理通貨制度の言葉は示しているのである。
 もちろん、ここで「通貨」概念が混乱して使用されていることを前もって指摘しなければならないのであるが--そして通貨概念の混乱はブルジョア経済学者だけではなく多くのマルクス経済学者についても言いうることなのだが--、その問題はここでは詳述は避けることにする。とりあえず厳密な規定を与えておくと、通貨というのは貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能のことをいうのである(広義の流通手段ともいう)。〔通貨概念の混乱については、とりあえず、以前書いた「第30回『資本論』を読む会の報告」を参照。〕そして通貨をこうした意味に限定して理解するなら、そうした通貨を管理できるなどというのは途方もない理解なのである。これは『資本論』の貨幣論に対する無理解を暴露するもの以外の何ものでもない。マルクスは次のように述べている。

 〈貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである〉(『資本論』第1部全集23a152頁)

 林氏がここでマルクスが指摘しているような転倒した観念にとりつかれていることは明白である。林氏には貨幣が諸商品を流通させているように見える。だから貨幣を管理することが経済全体を統制・管理することに繋がると考えているわけである。しかしこれは一つの錯覚であり、誤った貨幣論に立つものである。マルクスもいうように、貨幣の運動は商品の運動(流通)の結果であって、決してその原因ではない。だから貨幣の管理などということは不可事なのである。それが何を意味するのかも分からずに、多くの経済学者は(ブルジョア経済学者だけでなくマルクス経済学者も含めて)、通貨の管理についておしゃべりしているのである。しかし通貨の流通は商品流通の現実に規定されているのであって、決して逆ではないのである。だからもし通貨を管理しようとするなら、商品流通そのものを管理しなければならない。そしてそれが何を意味するかは明らかである。すなわち今日の社会は商品の生産と流通によって社会の物質代謝が行われている。だから商品流通を管理するということは社会的な物質代謝そのものを管理することなるである。しかし、もしそんなことができるのなら、そもそも生産物は商品にはならず、価値といったわけのわからないものも存在せず、よって当然、貨幣そのものも不要になるのであって、「貨幣の管理」など問題にもならないことは明らかではないか。
 このように林氏の誤りは根本的であり、決定的である。そしてそれは『資本論』に対する無理解を暴露している。しかし本人は『資本論』をしっかり理解していると自惚れている。だから彼はこれまで『資本論』に対する徹底した研究を怠ってきたのであり、その研究を踏まえて自分を批判するものに対しては、「マルクス絶対主義者」なる恐ろしげなレッテルを貼って威嚇し批判を封じてきたのである。だから「林紘義批判」というのは、結局は、林紘義という人物がとれほど『資本論』を理解していないかを暴露する作業になるし、ならざるを得ないのである。