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林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート

2015年6月 9日 (火)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(2)

 林 紘義 著 『変容し解体する資本主義』 批判ノートNo.2

《序にかえて》 (続き)

 〔二〕

 ここでは「国際通貨体制」の問題についての著者の基本的な観点、立場が述べられている。だから当然、それを問題にする限りにおいて、それらの誤りを基本的に明らかにして行かなければならない。著者は次のようにはじめている。

 〈現在では、すでに戦後構築されたままのIMF体制(International Monetary Fund “国際通貨基金"の体制)は過去のものである。ドルと金との結びつきは断たれたままであり、また「固定平価」の制度は「変動相場制」--それが実際にどんなに"管理"されていようとも--に移ってしまっている。〉(2頁)

 このように著者はIMF体制は過去のものだ、なぜなら〈ドルと金との結びつきは断たれたまま〉だからとどうやら考えているらしい。〈ドルと金との結びつき〉というのはいわゆるIMF体制のドルと金との交換を前提にした固定相場制のことを考えているらしい、それが1971年の金・ドル交換停止によって、〈結びつきは断たれた〉というのである。確かにこれはブルジョア経済学者だけでなくマルクス経済学者などにも一般に普及している認識ではある。しかしわれわれは、こうした理解そのものを疑って行くべきなのである。こうした理解は、そもそも金本位制というものが、どういうものかをほとんど理解していないことを意味している。だからまたIMF体制の「固定相場制」というものの意味もまったく理解できていないのである。
 金本位制というのは、例えば「ドル」や「円」という国民服をまとった通貨が、それぞれの国家によって法貨と定められ、度量標準が、例えば1ドルは何グラムの金を代理すると決められていることを意味している。だから1ドル札を中央銀行に持っていくと、それに相当する金貨と交換されるわけである。これをもってどうやら林氏は(もちろん、林氏に限らず多くのブルジョア及びマルクス経済学者も同じなのであるが)、ドルは金と結びついていると捉えているらしいのである。だからその法的な度量標準がなくなると〈結びつきは断たれた〉と考えるわけである。しかしこれこそ根本的に間違っているのである。ドル札がどれだけの金量を代理し代表しているのかは、決して、時の政府が決めることでも決められることでもないのである。こうした根本的なことが分かっていないから、さまざまな間違いが生じているのである。
 では1ドル札がどれだけの金量を代理しているのかを時の政府が決められないとするなら、一体、誰がそれを決めるのであろうか。それは誰も決めることはできないのである。なぜなら、それはその時々の商品流通の現実が決めるのだからである。商品の流通があって初めて貨幣の流通もあるという原理原則にこの場合もわれわれはしっかり立っていなければならないのである。この場合にもやはり問われるのは『資本論』冒頭の商品論・貨幣論のしっかりした理解である。しかし、詳しい理論的な説明はまたそれをする機会があるだろうから、後に譲ろうと思う。ただ、時の政府が決めた度量標準が、時代の進展とともに商品流通の現実に強制されて常に変遷し変化してきた歴史的事実、そうした各国の貨幣史・通貨史を思い浮かべれば、直感的にもそうしたことが理解できるであろう。 

 次のような認識もやはり一面的であり、間違っているとしか言いようがない。

 〈我々は“金本位制"を否定して「管理通貨制度」に移行していくこと("通貨"がますます金から切断されていくこと)、そしてまた「固定平価制」から「変動相場制」に移っていくことは、資本主義の(あるいは資本主義において不可避である"貨幣"の)進化等々では全くなく、資本主義世界全体の矛盾と混沌の深化であり、資本主義が全体として頽廃し、解体に向かっていく一契機、一過程である、と評価する。〉(3頁)

 金本位制から「管理通貨制」すなわち、兌換制から不換制に移っていくことは決して、〈"通貨"がますます金から切断されていくこと〉を意味しない。そもそも通貨が金を代理せずして、どうして通貨として通用することができるであろうか。こんな基本的な認識すら無いのは本当に驚きでしかない。それぞれの国民服をまとった通貨が、法的・制度的に金との関連、つまり度量基準が決められているということと、通貨が実際に金を代理するということとはまったく別の話であるということが分かっていないのである。法的・制度的に通貨がどれほどの金と関連づけられていようが、実際の通貨がその商品流通の現実のなかで流通必要金量のどれだけを代理するかということとはまったく別の問題なのである。後者こそが通貨の代表する金量を決定づけることであって、前者はただそれを追認することでしかない。だから法的・制度的に通貨と金との関連づけがなくなったとしても、現実の商品流通のなかで通貨が何らかの流通必要金量を代理している客観的事実そのものは何一つ変わらないのである。なぜなら、通貨が何らかの金量を代理するということは貨幣の流通法則なのであって、こうした法則を法的・制度的に無くすことは、商品経済そのものを克服する以外には、絶対にできないことだからである。
 だから金との関連が制度的にきめられたものが歴史的にどのように変遷したとしても、それをもって〈資本主義世界全体の矛盾と混沌の深化であり、資本主義が全体として頽廃し、解体に向かっていく一契機、一過程である〉などと評価することもまったく間違っている。金本位制から「管理通貨制」へ、つまり兌換制から不換制への移行は、生産の社会的な結びつきがより深まる中で、信用制度がますます発展してきた一結果であり、その限りでは〈資本主義の(あるいは資本主義において不可避である"貨幣"の)進化〉といえるものである。これはマルクスが生きていた当時においても、イングランドより信用制度が発展していたスコットランドでは、すでに流通から金は姿を消していたことを見ても明らかなのである。マルクスはこうした金が流通から姿を消している現状について、次のようにその資本主義的発展の条件を分析している。

 〈いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。〉(「貴金属と為替相場」(『資本論』第3部第35章)の草稿について」大谷禎之介訳118頁)

 つまり金属貨幣に代わって何らかの代理物が通用し、しかも法的・制度的にも両者の関連が明瞭ではなくなるということは、それだけ生産の社会的な性格が発展して、それに対する信頼がますます深まり、信用がますます貨幣の地位を押し退けて奪ってしまった一結果に過ぎないのである。しかしそのことは、いうまでもないことであるが、決して貨幣そのものを無くすことでは全くない。金が貨幣として存在しているということは、資本主義的生産においては、〈生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情〉、〈富の社会的な形態が富の外にある一つの物として存在するという事情〉(同上119頁)にもとづいているからであり、それは資本主義が資本主義であるかぎり、「現代の」資本主義であろうと同じだからである。

 次のようなとらえ方も間違っている。

 〈実際、結果的に見て、アメリカはより寄生的で帝国主義的な政策、より利己的な政策を拡大するためにこそ、ドルと金の交換を停止し、また変動相場制に移っていった、と言えなくもないのだ。世界のリーダーのアメリカがこんなにも無責任で利己的であったとするなら、1971年以降、現代の資本主義、世界の資本主義が全く放恣の体制、「後は野となれ山となれ」式の無責任と利己主義の体制に変質して行ったとしても、何の不思議があろうか。そしてまさにこうした徹底的に"無責任"と放恣の体制、したがってまたバブルと"カジノ"の体制こそ、世界資本主義の解体を根底的に、深く準備してきたのである。〉(3-4頁)

 そもそも〈「後は野となれ山となれ」式の無責任と利己主義の体制〉というのは、資本主義的生産様式に一般的なものではないのか。何か世界資本主義がアメリカの金・ドル交換停止以降、それまでの秩序だった“道徳的な”体制から、まったく放恣で無責任な体制へ移行したという理解こそ、まったく資本主義批判、歴史的批判を単なる道徳的批判にすり替えることであり、それこそまったく恣意的な歴史理解ではないだろうか。ドルが金との交換を停止した後もいわゆる「基軸通貨」として通用している現実を如何に理解するのかが問題であろう。それが理論的に解明できるなら、こうした評価は全くの的外れなものであることが分かるであろう。これについても多くの混乱した主張が見られるのであるが、それはそもそもIMF体制そのものの理論的な理解そのものに問題があったからでもある。しかしそれについてもここで展開してしまうのは早計に過ぎるので、それはまた別の機会において論じることにしよう。

 次のような説明も一体、その内実をどれだけ理解した上で述べているのか不可解である。

 〈今(一九九六年の春)、世界中に実に七千億(約八十兆円)ものドル債務が累積している。このうちの半分はアメリカ以外のブルジョア国家が保有しており、アメリカの"国際協調"の呼びかけに応じ、自制的に振る舞うかもしれないが、しかし残りの半分は、投機的利益を求めて世界中の"資本市場"を駆けめぐっている"不安定な"カネであり、いわゆる“投機家"--広い意味での--の手中にある。そして、いったんドル危機が発展するなら、彼らがドルの投げ売りでも何でもしてくるであろうこと、そうなればドル体制がたちまち崩壊の危機に直面するだろうことは明らかである。ドル体制は「累卵の危うき」にあるのだ。実際この事実は、資本主義世界の崩壊と解体を示唆し、予告していないであろうか!〉(4頁)

 ここで〈ドル債務〉と言われているが、これは一体何であろうか。林氏はどういうものを想像してこのように述べているのであろうか。アメリカ財務省が発行した公債(国債)を考えているのであろうか。〈ドルの投げ売り〉というが、〈ドル為替〉の投げ売りと米国債の投げ売りと同じと考えているのか。いずれにせよ林氏は漠然とした認識をもとに直感的に情緒的に問題を論じており、極めて無責任でいい加減なものとしか言いようがない。しかしこれらの詳しい批判的検討も、本文の当該箇所の批判的検討のなかで行うことにしよう。(続く)

2015年6月 4日 (木)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(1)

                林 紘義 著 『変容し解体する資本主義』 批判ノートNo.1

  ここでは、最初から本の項目ごとに検討して行く。(この本の紹介はここと、ここを参照)

《序にかえて》

〔一〕

 この本は社会主義労働者党(以下、社労党)の機関誌『労働と解放』に連載したものを一冊にしたものだが、この連載の狙いについて、著者は次のように書いている。

 〈この連載の課題は、現代資本主義の貨幣制度ともいえる“管理通貨制度"をいかに理解し、評価するかであった〉(1頁)

 そしてこの〈“管理通貨制度"をいかに理解し、評価するか〉がどれほど重要かについて、次のようにも述べている。

 〈現代の資本主義の特徴も、様々な面からとらえることができる。例えば、独占資本主義あるいは国家独占資本主義と規定することもできれば、帝国主義段階の資本主義と言うこともできよう。しかしいかように規定するにしても、現代資本主義の根本的な特徴--唯一とまでは言えなくても、その最も顕著なものの一つ--として、貨幣面における変化すなわち通貨が金属貨幣ではなくて紙幣もしくは事実上紙幣化した中央銀行券になっているということ、つまり“管理通貨制度"をあげることができるだろう。この著書が取り扱うのも、まさにこのことである。
 現代資本主義の顕著な現象であるインフレにしても、バブルにしても、企業の頽廃にしても、あるいは財政崩壊にしても、ドル支配の解体や変転きわまりない為替相場の問題にしても、さらには「恐慌が止揚された」かに見えることも、"福祉国家"の幻想さえも、すべて貨幣が金属貨幣とのつながりを断った"通貨"に進化してきているという"貨幣的"事実を抜きにしては、いくらかでもまともに評価することも、考察することもできないのだ。この意味において、"管理通貨制度"を論じることは、現代資本主義にとって本質的なものを論じることでもある。〉(1頁)

 確かに著者の指摘することはその限りでは正しいかである。しかし、著者はその「変化」にあまりにも幻惑されすぎているような気もする。この本のタイトルが「変容し」となっているが、現代の資本主義は「変容し」てしまったというのが、著者の大きな問題意識なのである。しかし、現代資本主義も資本主義としてはその本質は何も変わっていないという認識こそ重要なのである。著者は〈貨幣面における変化〉の表面的な部分に目を奪われてしまっている。しかし、例えば『資本論』の冒頭で解明されている商品や貨幣の諸法則などは現代資本主義においてもまったく同じように貫いているという認識が如何に重要かについて著者は恐らく誤ったとらえ方をしているのであろう。これは『資本論』を徹底的に理解することなくして得られないものであり、その限りでは著者の『資本論』理解が浅かったとしか言いようがない。にもかかわらず著者は自分の『資本論』理解が十分だなどと自己過信に陥ってしまっている。しかし、それはおいおい分かってくることである。

 ところで著者はこの「変容」を過大評価しながら、次のようにも述べている。

 〈もちろん、これが単純な“進化"でないことは明らかであろう。ケインズは、この資本主義の変容とその意義を確認した最初のブルジョアの一人であり、彼はこの変容こそ資本主義の前進であり、その安定と繁栄を保障すると信じた、しかし我々は、この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるものであって、資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせているのだ、と主張するのである。〉(1-2頁)

 ケインズは、ブルジョア経済学者であるから資本主義が変わったことを肯定的に捉えるのはしようがない。しかし、林氏が単に〈この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるものであって、資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせているのだ、と主張する〉というのではやはり一面的といわざるを得ない。「変容」を過大視するという点では両者は同じ立場に立っている。
 まず林氏に言わねばならないのは、〈資本主義の頽廃と解体の深化〉というが、資本主義的生産というのは常に矛盾を持って運動するものであり、その痙攣(=恐慌)の度毎に〈資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせ〉るものでもあるという認識がまず必要だということである。レーニンが帝国主義を最高に発達した最後の資本主義であるかに述べたことから、こうした大げさな表現がマルクス主義者で一般化したが、しかし、それはスターリニズム的な形式張った大仰な言い回しというものである。資本主義的生産様式は、さまざまな矛盾を暴露するごとに確かに新しい社会への移行を自ら示唆するものであるが、しかし、それはすでにマルクスの時代においてもそうなのであって、何も現代資本主義だけの問題ではないのである。そうしたことはマルクスによってすでに『資本論』のなかで十二分に明らかにされている。マルクスは資本主義的生産様式をより深く解明することは、その生成と発展と消滅とをトータルに明らかにすることであり、よって常にそれは次の新しい生産様式の萌芽を示すものでもあると指摘している。『経済学批判要綱』には次のような一文がある。

 〈他方--これはわれわれにとってはるかに重要なことであるが--、われわれの方法は、歴史的考察が入って来なければならない諸地点を、言い換えれば、生産過程のたんに歴史的な姿態にすぎないブルジョア経済が自己を超えてそれ以前の歴史的な生産諸様式を指し示すにいたる諸地点を、示している。だから、ブルジョア経済の諸法則を展開するためには、生産諸関係の現実の歴史を記述する必要はない。とはいえ、この生産諸関係を、それ自体歴史的に生成した諸関係として正しく観察し演繹するならば、それはつねに、この体制の背後にある過去を指し示すような、最初の諸方程式--例えてみれば自然科学における経験的諸数値のようなもの--に到達するのである。とすれば、これらの示唆は、現在あるものを正しく把握することとあいまって、過去の理解--これは一つの独立した仕事であって、これにもいずれは取り組みたいものだが--への鍵をも提供してくれる。同様にしてこの正しい考察は、他方で、生産諸関係の現在の姿態の止揚--それゆえ未来の予示、生成していく運動--が示唆されるにいたる諸地点に到達する。一方では前ブルジョア的諸段階が、たんに歴史的な、すなわちすでに止揚された諸前提として現われ、他方では今日の生産諸条件が、自己自身を止揚する諸条件として、それゆえまた、新たな社会状態のための歴史的な諸前提を措定する諸条件として現われるのである。〉(『経済学批判要綱』草稿集②100-1頁、下線はマルクスによる強調)

 しかしだからこそ、それは資本主義的生産様式の歴史的発展や意義を確認することと決して矛盾することではない。林氏はケインズが〈この変容こそ資本主義の前進であり、その安定と繁栄を保障すると信じた〉ことに対比して、〈この変容こそ、まさに資本主義の頽廃と解体の深化を教えるもの〉との自身の認識を示しているが、しかし、やはりどちらも一面的なのである。戦前にはじまるいわゆる“管理通貨制度”もやはり資本主義的生産様式の一層の発展の一段階を示しているのであって、決して「頽廃や解体」だけを示しているわけではない。例えば、戦後のいわゆるIMF体制というものは世界的な信用システムが確立したことを示しているのであるが、それは資本主義的生産が世界的にもより一層緊密になり、生産の社会化を世界的にも一層深めた一結果でもあるのである。だからそれが「頽廃や解体」だけを示すものだというのは一面的であるばかりか、現代資本主義に対する誤った認識に導くものでしかないであろう。世界的に資本主義がより一層の社会化を深めたということは、同時にそれは世界社会主義の諸条件をより一層押し進めたということと同義なのであり、その限りでは〈資本主義が資本主義以外の他の制度に移行していくこと--行かなければならないこと--を告げ知らせている〉といってもあながち間違いとは言えないわけである。資本主義的生産様式はこのように発展のうちにその崩壊や移行の契機を示すのであって、一方は発展と進歩だけを、他方は頽廃と解体だけを見るのではやはりどちらも一面的の誹りを免れないのである。

 「序」というのは、著者の基本的な立場が示されている場合が多い。この林氏の著書でも、やはりそのようである。林氏は〈現代の特徴が貨幣が腐っていくことにある〉と述べている。〈腐っていく〉というのは何とも情緒的な特徴付けであるが、要するに金という確かな裏付けを失った貨幣のことをこのように述べているのであろう。しかし、こうした認識は決して正しいものではないのである。しかし、それもまたおいおい彼の主張を批判的に検討するなかで明らかになっていくことでもあるだろう。
 次のような一文にも著者の基本的立場が、よってまた根本的な誤りが明瞭に現れている。

 〈現代の資本主義が国家による経済の"管理"もしくは経済への"介入"を重要な契機としていることは誰でも知っていることであるが、しかしその最も中心的な環をなすものこそ、貨幣の"管理"であろう。貨幣を管理することによって初めて現代ブルジョアジーは、経済全体をいくらかでも規制し、統制する手段を手に入れることかできたのだ。この意味で、管理通貨制度を検討することは、とりもなおさず、現代資本主義にとって本質的なものを検討するということでもあり、その矛盾を深く、根底的に理解するということでもあろう。〉(2頁)

 こうした理解が何故根本的に間違っているのかは、それは『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をしっかり勉強した人なら直ちにわかるはずである。林氏は現代の資本主義においては、貨幣が管理されていると理解している。〈貨幣を管理することによって初めて現代ブルジョアジーは、経済全体をいくらかでも規制し、統制する手段を手に入れることかできた〉のだという。だから〈この意味で、管理通貨制度を検討することは、とりもなおさず、現代資本主義にとって本質的なものを検討するということでもあり、その矛盾を深く、根底的に理解するということでもあろう〉というのである。ここで注意が必要なのは、この場合の「管理通貨制度」には“ ”が付いていないことである。その前までは“ ”が付いていた。つまり通貨を管理するということに一定の疑問を持っていることをその“ ”は示していたと私は理解していたのであるが、しかしここでは“ ”は外され、それは文字通り「管理通貨制度」であり、通貨は管理されていると林氏自身は理解していることを、この“ ”がない管理通貨制度の言葉は示しているのである。
 もちろん、ここで「通貨」概念が混乱して使用されていることを前もって指摘しなければならないのであるが--そして通貨概念の混乱はブルジョア経済学者だけではなく多くのマルクス経済学者についても言いうることなのだが--、その問題はここでは詳述は避けることにする。とりあえず厳密な規定を与えておくと、通貨というのは貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能のことをいうのである(広義の流通手段ともいう)。〔通貨概念の混乱については、とりあえず、以前書いた「第30回『資本論』を読む会の報告」を参照。〕そして通貨をこうした意味に限定して理解するなら、そうした通貨を管理できるなどというのは途方もない理解なのである。これは『資本論』の貨幣論に対する無理解を暴露するもの以外の何ものでもない。マルクスは次のように述べている。

 〈貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである〉(『資本論』第1部全集23a152頁)

 林氏がここでマルクスが指摘しているような転倒した観念にとりつかれていることは明白である。林氏には貨幣が諸商品を流通させているように見える。だから貨幣を管理することが経済全体を統制・管理することに繋がると考えているわけである。しかしこれは一つの錯覚であり、誤った貨幣論に立つものである。マルクスもいうように、貨幣の運動は商品の運動(流通)の結果であって、決してその原因ではない。だから貨幣の管理などということは不可事なのである。それが何を意味するのかも分からずに、多くの経済学者は(ブルジョア経済学者だけでなくマルクス経済学者も含めて)、通貨の管理についておしゃべりしているのである。しかし通貨の流通は商品流通の現実に規定されているのであって、決して逆ではないのである。だからもし通貨を管理しようとするなら、商品流通そのものを管理しなければならない。そしてそれが何を意味するかは明らかである。すなわち今日の社会は商品の生産と流通によって社会の物質代謝が行われている。だから商品流通を管理するということは社会的な物質代謝そのものを管理することなるである。しかし、もしそんなことができるのなら、そもそも生産物は商品にはならず、価値といったわけのわからないものも存在せず、よって当然、貨幣そのものも不要になるのであって、「貨幣の管理」など問題にもならないことは明らかではないか。
 このように林氏の誤りは根本的であり、決定的である。そしてそれは『資本論』に対する無理解を暴露している。しかし本人は『資本論』をしっかり理解していると自惚れている。だから彼はこれまで『資本論』に対する徹底した研究を怠ってきたのであり、その研究を踏まえて自分を批判するものに対しては、「マルクス絶対主義者」なる恐ろしげなレッテルを貼って威嚇し批判を封じてきたのである。だから「林紘義批判」というのは、結局は、林紘義という人物がとれほど『資本論』を理解していないかを暴露する作業になるし、ならざるを得ないのである。