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『資本論』研究

2009年1月20日 (火)

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その3)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その3)

 

 鍵括弧で括られた部分の解読

 そしてマルクスは鍵カッコをつけて、そのあと「ここで次のことを指摘しておかなければならない」と前書きして、以下、論じることになる。だからこの鍵カッコでは当然、資本主義社会における攪乱に関連した問題であると予測できる。しかしとりあえず、マルクスの文章にそって、その内容を次に見て行くことにしよう。

 この鍵カッコの部分の文章には、その間にさらにマルカッコを入れたりして、さまざまな挿入文がある。それらをすべてカットすると、次のような一文の続きが見える。

 《鉄道のようなそうした大規模な企業は一定分量の力を労働市場から引き上げるのであるが、この力は強壮な男が充用される農業などのような特定の部門からのみ出てきうる。潜在的な労働者の一部分または公然とした予備軍が吸収される。労働市場の、これまで雇用事情のよかった諸部分でさえ影響を受ける。それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る。資本主義的生産様式における矛盾。商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向。さらに次の矛盾。資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる。なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。けれども、ここでの話のいっさいが次の篇ではじめて問題になることである。》さらに次の矛盾」以下は、マルクスの筆跡の判読が難しいこともあり、nieと読むかnurと読むかによって、訳文が違ってくる。だからその判読そのものも大きな論争点になっている。エンゲルスはnieと判読し、市原氏も同じ理解である。しかし、ここではその論争そのものは取り上げずに、大谷氏の訳--nurと読む場合--を仮に挿入してみることにする)。

 このようにマルクス自身が入れた挿入文をすべてとりあえず捨象してみると、これは一連の文章であることが分かる。その後半部分だけをエンゲルスは切り離して注にしたのであるが、まず確認できるのはこうしたエンゲルスの措置は適切とは言えないということである。  この一連の文章で、マルクスが問題にしているのは、鉄道建設のような大規模な企業は労働力を労働市場から吸収し、労働市場を圧迫させて、賃金を全体として騰貴させるが、そのこと自体、資本主義的生産の矛盾であると述べているように思える。というのはこれは第三巻で明らかになるが、労賃の騰貴は絶対的な過剰生産を引き寄せるからであり、資本主義的生産の矛盾を極度に高めるからである。それは直接、資本の利潤率の突然の低下をもたらし、崩落を招く。  だからマルクスはこうしたことを頭に入れながら、資本主義的生産の矛盾の二つの契機を指摘している。この二つは相互に関連している。

 (1)まず最初は「商品の買い手としての労働者は市場にとって重要である。彼らの商品の売り手としては、それを最低限に制限する傾向」というものである。  この矛盾は、その直前で言っていることと当然関連している。つまりマルクスは鉄道などの大規模な投資が行われると労働力が生産に吸収され、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。つまり全労働者階級は最大の賃金大量を受け取るのだが、まさにそのときこそが資本主義的生産様式の矛盾は暴露されるのだ、というのがマルクスが言いたいことなのである。総賃金大量を受け取った全労働者階級は、彼らに商品を売りつける資本にとっては重要だが、しかし資本にとっては労働者の賃金を最低限にとどめておくことは死活的な条件である。その最低限が騰貴するということは、すなわち資本がその生産の死活的な条件を失うことを意味するからである。(なおこれに関連して、マルクスはエンゲルスが注にした部分の直前で、「それゆえ賃金の騰貴。だから今や、騰貴の最低限と可変資本の大量、つまり総賃金大量を、全労働者階級が受け取る」と述べている。この部分の訳も大谷氏の訳とは若干の相違があるが、この市原氏の訳の方が分かりやすいような気がする。ここでマルクスが「騰貴の最低限」と述べている意味が今一つよく分からなかった。富塚氏は「最低限」は「最高限」の誤植ではないかと述べているが、しかしこれは「最低限」でいいと思う。「騰貴の最低限」というのは、「騰貴した最低限」の意味、つまり「最低限の騰貴」「最低限が騰貴してしまう」という意味と考えて良いと思う。つまり資本は賃金を常に最低限にする傾向があり、またそれが資本にとって死活的な条件なのだが、その最低限が騰貴してしまうわけである。マルクスの言いたいのはそういうことではないかと思う)。  (2)だからマルクスは、次の矛盾として、「資本主義的生産がそのすべての力能を発揮する諸時期は過剰生産の時期であることが明らかとなる」と続けていると考えられる。過剰生産とは、それ以上の拡張を行っても、利潤率がこれまでどおりかあるいはそれ以下しか得られないことを意味するからである。「可変資本の大量」が資本の利潤率を押し下げること、これこそ絶対的過剰生産以外の何ものでもない。

 「なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにおいて充用されうることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界を画され制限されている等々だからである。」

 この一文は明らかに過剰生産の時期であることの理由を述べていることは明らかである。しかしこれは絶対的過剰生産に資本が陥り、それが生産をストップさせてしまう理由として、マルクスは述べていると考えるべきであろう。すなわち次のように.……

 なぜなら、資本が生産を行うことが出来るのは、それによって剰余価値が生産されるだけでなく、それが実現できるかぎりにおいてだからである。だから剰余価値が生産されても、それが"正常な"利潤を得る価格で実現しないなら、生産はストップするし、だからこそそれは過剰生産の"過剰"なる意味なのである。そして商品資本の実現、つまり商品の販売は、社会の絶対的な消費欲求によって規定されているのではなくて、社会の大多数の成員が貧乏のままであらざるをえないような消費欲求によって規定されているのだから、剰余価値の実現はたちまち限界を露呈せざるを得ないのである。しかし資本主義的生産が個人的消費と如何に絡み合っているか、あるいは資本主義的生産の力能が剰余価値の生産とその実現とに如何に制約されているかということは第三篇(再生産過程の実体的諸条件の考察)で明らかになることである。    もう一つ自分自身で完全に了解したというわけではないが、一応の回答としておこう。

 結局、マルクスはかぎカッコで括った部分で何を書き留めておきたかったのか、なぜ、それをかぎカッコで括って書いておく必要があると思ったのかを考えてみるに、その直前で、マルクスは回転期間の長い資本の場合、再生産過程に攪乱が生じざるをえないことを考察してきた。特に労働力に対する強い需要が生じて、賃金の騰貴によって、可変資本部分が膨れ上がることを見てきたのである。それでマルクスはこの労働力を強力に引きつける回転期間の長い大規模な生産ということに関連して、第三部で論じる予定の絶対的過剰生産にこれは関連していることを想定して、かぎカッコでそれに関するメモ書きをしたと言えるだろう(またもう一つ考えられる理由としては、この問題が「恐慌」に関連するものだからといえるかも知れない。市原氏によれば、マルクスは第二部の諸草稿では「恐慌」に関連した部分をすべて鍵括弧で括っているとのことだからである)。  だからマルクスがかぎカッコで述べていることは、主に、鉄道建設のような大規規模な投資が行われると、労働力に対する需要が高まり、それが他の部門にも影響して、全体として労賃が騰貴し、可変資本部分が膨らんで、資本が行き詰まるという事態なのである。  だからマルクスにとっては、決して不破氏や富塚氏などがいうような「生産と消費の矛盾」といったことに主眼があるのではないことが分かる。マルクスにとってかぎカッコのなかで論じたかったのは、生産規模の大きなものは、全体として労賃を引き上げるという事実に関連して、絶対的過剰生産への示唆をここで与えることだったのである。そしてその意味では、久留間鮫造氏がエンゲルスが注釈にしたところでマルクスが問題にしているのは第3部第3篇第15章に関連すると考えたのは正しかったのである。ただ、久留間氏は、だからマルクスが《次の篇》と述べているのは、第3部を指すのだと考えたのだが、それは正しくなっかたわけである。というのは、すでに考察してきたことから分かるように、マルクスが《次の篇》と書いているのは、そうした絶対的過剰生産を論じるためにも必要不可欠な前提として、資本の蓄積が生産される剰余価値とどのように関連しているのか、また労働力や彼らの個人的消費が再生産過程において現実にどのように関連し合っているのかを考察する必要があるが、それらは《次の篇》、すなわち第2部第3篇で行なう予定だということだったからである。  われわれはこの部分が第II稿で書かれたことに留意する必要がある。つまりマルクスはすでに第3部の主要草稿を書き上げているのである。つまり第3部で絶対的過剰生産についてすでに論じた上で、それを踏まえて、この草稿を書いているということである。  そこでは資本は利潤率の傾向的低下を利潤量の絶対的拡大によって補おうとして蓄積衝動に駆り立てられ、他方で、諸資本の集中と集積が加速されることが論じられていた。つまり生産規模はますます大規模になっていくのである。そうした大規模な資本投資が、それだけ回転期間も長くなり、よって労働力に対する強い需要が生じること、そしてそれが労賃の一般的騰貴をもたらし、可変資本大量を招くこと、そうすれば利潤率の突然の低落、すなわち絶対的過剰生産に陥るわけである。  だからマルクスはそれについてかぎカッコで論じておく必要を感じたのであろう。またマルクスにとっては第三部で述べたそうした絶対的過剰生産は、まだ再生産過程を踏まえたものではなかったのだが、しかし、資本の生産が剰余価値の生産やその実現とに如何に制約し合っているか、また個人的消費とも深く内的に関連しているかは、まさに社会的な総再生産過程の考察を行う第2部第3篇の課題であることを指摘して、このメモ書きを終えていると考えるべきであろう。

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その2)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その2)

(以下は、(その1)の「鍵括弧に括る前の部分でマルクスは何を論じているか」の続きである。)

 

 そしていよいよ問題の「第二に」である。われわれはここからは市原氏の訳した草稿にもとづいて考察するが、これまでの連続性を考えて、草稿では I 、IIとなっているものを、現行版と同じA、Bで考えることにする。

 まずマルクスは第二の区別は、第一の区別と関連しているとする。(ここには「労働者は……彼の手のなかで流通手段に転化した貨幣資本で支払い」というやや概念的にあいまいな表現がある--というのは、労働者の手のなかにあるのは「流通手段に転化した貨幣資本」ではなく、彼の労働力の価値が転化したものだから--がこれはまあ置いておこう)。まずマルクスはBの場合の考察を行っている。つまり回転期間が1年間と長い場合である。この場合は、AもBも労働者は貨幣を支出して、生活手段を購入するが、Bの場合はその一年間に彼が市場に投じた価値生産物の貨幣形態ではないことに注目している。それに対してAの場合は、それを供給するのだと。これ自体は第一の区別と基本的には変わらない。ただ問題は第一の区別では、貨幣形態に注目していたが、今回は生産物に注目している。  だからBの場合、そこで働く労働力のための生活手段や、Bで充用される労働手段(固定資本)や生産材料などが引き上げられ、その代わりに貨幣で等価が市場に投げ入れられる。しかしその一年間には、市場から引き上げた生産資本の実在的要素を補填するためのどんな生産物も市場に投げ込まない。

 これは、共産主義社会を考えるなら、社会は一年かそれ以上長期間にわたって生産手段も生活手段もその他のどんな有用効果も供給しないのに年間生産物のなかから労働や生産手段や生活手段を引き上げる事業部門(たとえは鉄道建設)に、どれだけの労働や生産手段や生活手段を振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないということである。  ここで共産主義社会においては問題が如何に捉えられねばならないかという考察が突然挿入されるが、これはどうしてであろうか? それは問題が生産物であり、それに支出された労働ということだから、それ自体は資本主義的生産に固有の問題ではないからである。だからマルクスは、それがよりはっきり理解できるケースとして、共産主義社会でも、そうしたことは考慮に入れられなければならない問題であることとして、ここでは指摘しているのであろう。もちろん、このこと自体は別に共産主義社会だけではなく、あらゆる社会にも通ずる問題であることはいうまでもない(先資本主義時代において、しばしば專制国家によって行われた大規模土木工事などはそれに該当するであろう)。  さらに、共産主義社会との対比は、そうした問題が、資本主義社会では、絶えず大きな攪乱をもたらす要因になるということがより鮮明に理解できるからでもある。つまりこの共産主義との対比は、そのあとに考察される、こうした回転期間の長い資本投資が資本主義社会では常に社会的な攪乱要因になることを際立たせるためでもあるのであろう。

 そして以下は、その攪乱の内容が論じられている。

 (1)まず貨幣市場が圧迫される。第一の区別で確認されたように、回転期間が長いと、大きな前貸貨幣資本が必要になり、だからまず大きな貨幣資本への需要が高まり、貨幣市場が圧迫されるわけである。  (2)次は生産資本への圧迫である(マルクスはすぐに丸カッコに入れて、労働市場についても論じているが、これは別途考えるべきであろう)。社会の生産資本がつねに市場から引き上げられ、それと引換えに貨幣だけが市場に投げ込まれるから、支払能力ある需要が増大する。しかもそれ自身何の供給も作り出さない。  (3)労働市場でも相対的圧迫が生じる。大量の潜在的過剰人口が、すでに就業している部分さえも、新たな事業部門に引き寄せる。  (4)よって、生活諸手段の価格も生産材料の価格も騰貴する。(そのうえこのような時期には思惑が行われ資本の大移動が起こる。ボロ儲けする連中もでてきて、彼らの浪費がまた強力な消費需要となり市場に影響を及ぼす)。  (5)食料品の高騰は、農業生産への刺激になるが、即座の増産が不可能なために輸入が増え、それが過剰輸入に繋がる。  (6)製造業や鉱山業など生産が急速に増加されうる産業部門では、諸価格の騰貴が突然の拡張を引き起し、そのあと崩壊する。

 以上が、マルクスが鍵カッコで括る前までに述べていることである。つまり第二の区別として論じている内容は、基本的には第一の区別が貨幣資本(貨幣)の前貸量に回転期間の長短が及ぼす影響だったのに対して、第二の区別というのは、生産される生産物に注目し、回転期間が短いと、自分自身の生産物で生産を繰り返すことができるが、回転期間が長いと一定期間、社会から生産物をただ吸い上げるだけになり、それに見合う生産物も有用効果も何も与えないことになり、それは社会の再生産というもっと基礎的な自然法則にとっても重要な意味をもつこと、だから共産主義社会でも、社会はそうした部門へどれだけの労働や生産物を一方的に支出することが可能かを前もって計算しておく必要があるのだが、資本主義社会では、そうしたことは前もってするわけではないから、それは常に社会の攪乱要因になることが指摘されているのである。そしてその攪乱が回転期間の長いことによって、どのような要因のもとに生じるかをいくつかの観点から指摘している。

いわゆる「注釈32問題」について--市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと(その1)

 

いわゆる「注釈32問題」について

-市原健志氏の第二部第二稿の当該部分の翻訳を読んで気付いたこと

(その1)

 市原健志氏は「『資本論』に関する若干の新事実について--草稿を調査して--」(『商学論纂』28-5・6/1987/3)という論考で、エンゲルスによって「注釈32」(これは『資本論』現行版の第2部「資本の流通過程」第17章「可変資本の回転」第3節「社会的に見た可変資本の回転」にある注釈である。全集版387頁参照)とされた部分(これはマルクスが鍵カッコで括っている最後の部分に該当する)のあたりの草稿を調査し、マルクスが鍵カッコで括った少し前のあたりから、エンゲルスの編集の手が多く加わっていることを指摘し、その部分の草稿を翻訳されている。その論考を検討して気付いた点を書いておくことにする。

 いうまでもなく、この注釈32の解釈については、故久留間鮫造氏と富塚良三氏との論争、またそれを引き継いだ形で、大谷禎之介氏と富塚氏との論争が長く行なわれてきた。その争点のうちの一部は草稿の調査が進むなかで、解決されたともいえるが、しかし、マルクスの草稿の筆跡の判読が困難なこともあって、エンゲルスが注釈とした部分の一字をnieと読むか、nurと読むべきかという論争として、新たな論点も生じ、今日においても依然として続いており(しかもこの論争に大村泉氏らいわゆる「仙台グループ」の一部も参戦して)、いまだ決着がついていないともいえる問題である。だからここで披露する私見も、とりあえずのものと理解願いたい。

 鍵括弧に括る前の部分でマルクスは何を論じているか

 われわれは、市原氏の翻訳にもとづいて、マルクスが鍵括弧で括る前の部分で、何を論じてきたのかを読み解くことから始めよう。こうした場合、私がいつもやっているように、マルクスの文章を自分なりに解釈したものを、平易に書き直すという形で、やって行きたい。

 マルクスのこの部分は現行版でもかなり長い一つのパラグラフになっている。このパラグラフは「第二に」という文言から始まっているように、マルクスは直前で「第一に」として、小さい三つのパラグラフの中で述べていることに対応している。

 ではその「第一に」として述べていることは、どういうことであろうか。

 マルクスは今回の部分でもそうだが、A、B(草稿では I 、II)なる二つの資本を例にあげて論じている。この二つの資本を例にあげて考察するのは、実は今回の問題のパラグラフが入っている「第16章 可変資本の回転」「第3節 社会的に見た可変資本の回転」だけではなくて、「第1節 剰余価値の年率」の途中から始まっているのである。マルクスがA、B二つの資本をどのように仮定しているかをマルクス自身の文章で(しかしわれわれは現行版しか検討できないので、現行版によってであるが)確認しておこう。それは以下の文章である。

 《500ポンドの可変資本が一年に10回転し、一年のうちに5000ポンドの剰余価値を生産し、したがってそれにとって剰余価値の年率は1000%であるとして、この資本を資本Aと呼ぶことにしよう。  もう一つの5000ポンドの可変資本Bは、まる一年間(すなわちここでは50週間)にわたって前貸しされ、したがって一年にただ一回だけ回転すると仮定しよう。さらに、一年の終わりには生産物がその完成と同じ日に代価を支払われ、したがって、生産物が転化した貨幣資本がその同じ日に還流するとしよう。そうすれば、この場合には流通期間はゼロであり、回転期間は労働期間に等しく、すなわち一年である。前の場合と同じに、労働過程には毎週100ポンドの可変資本があり、したがって50週間では5000ポンドの可変資本がそこにある。また、[363]剰余価値率は前と同じで100%、すなわち労働日の長さは同じでその半分が剰余労働から成っているとしよう。五週問をとって見れば、投下された可変資本は500ポンド、剰余価値率は100%、したがって五週間に生産される剰余価値量は500ポンドである。この場合に搾取される労働力の量も労働力の搾取度も、ここでの前提によれば、資本Aの場合と正確に同じである。  100ポンドの投下可変資本が毎週100ポンドの剰余価値を生み、したがって50週間では50×100=5000ポンドの投下資本が5000ポンドの剰余価値を生む。一年問に生産される剰余価値の量は前の場合と同じで5000ポンドであるが、剰余価値の年率はまったく違っている。それは、一年間に生産された剰余価値を前貸可変資本で割ったものに等しく、5000m/500vであるが、前に資本Aの場合にはそれは1000%だったのである。  資本Aの場合にも資本Bの場合にも、われわれは毎週1OOポンドの可変資本を支出してきた。価値増殖度または剰余価値率もやはり同じで100%である。可変資本の大きさも同じで、100ポンドである。同じ量の労働力が搾取され、搾取の大きさも程度もどちらの場合にも同じであり、労働日の長さは同じで、それが必要労働と剰余労働とに等分されている。一年間に充用される可変資本総額は同じ大きさで5000ポンドであり、同じ量の労働を動かして、同額の二つの資本によって動かされる労働力から同じ量の剰余価値5000ポンドを引き出す。それにもかかわらず、AとBとの剰余価値の年率には900%の差があるのである。(363-4頁)

 さて、マルクスは第三節の冒頭、しばらく問題を社会的な立場から見ることにしよう」と書いている。そしてマルクスは、まず、次の三つのことを確認している。

 (1)AでもBでも、そこで雇用される労働者数は同じであり、また彼らが年間に支出する労働量も同じであること、つまり社会的には、それだけの労働力はAとBによって差し押さえられており、したがって社会はそれを他のことに支出することはできない。  (2)AでもBでも労働者が年間に受け取る賃金の量は同じであり、だから彼らが社会から生活手段を引き上げる量も同じである。  (3)AでもBでも、労働者たちは毎週支払いを受け、だから彼らは毎週同じだけの生活手段を引き上げるのであり、そのかわりに毎週同じだけの貨幣等価を流通に投げ入れる。

 ここでマルクスが確認している三つの事実は、何を言いたいのであろうか。

 (1)AとBという二つの資本が労働力を購入し、そこから引き出す労働や、また彼らに支払う賃金も同じなのに、Aはそれを500ポンドという資本で行い、Bはその10倍の5000ポンドという資本で行う。彼らは社会の労働力を一定の部署に固定し、拘束する"権利"をそれによって得ているわけだが、しかしそのために必要な資本量は大きく異なるわけである。  (2)また彼らが雇用する労働者が消費する生活手段の量もまったく同じなのに、しかし社会的には、けっして同じではないこと、なぜなら、Aがもし生活手段を生産する資本なら、Aは一年間に彼が雇用する労働者が消費する生活手段を生み出し、それを消費させることができるのに、Bはたとえ同じ生活手段生産部門の資本であっても、自分の雇用する労働者が消費する生活手段を社会に与えることは少なくともその一年間の間にはできない。  (3)さらに彼らが雇用する労働者が流通に投じる貨幣量も同じなのに、しかし実際にはそれに使われる貨幣量は大きく違っている。つまりAは500ポンドなのにBは5000ポンドである。Aはその500ポンドを繰り返し使い、Bはたった一回しか使えないからである。

 こうした違いは、もちろんAとBとの資本の具体的な生産過程と生産物の諸条件から出てくるのだが(流通期間はゼロとする)、しかし両者は資本の運動や効率という点でも、また社会に与える影響という点でも大きく違っている。そうした違いが社会的にはどういう意味を持ってくるのか、それをマルクスは検討しようとしているかに思われる。

 さで、マルクスは以上の三つのことを確認したあと、「しかし、ここから区別がはじまる」として「第一に」と続けている。だからこの「第一に」「第二に」「第三に」とマルクスが考察しているのは、AとBとの社会的に見た「区別」であることが分かる。

 マルクスが「第一に」として考察しているのは、次の事実である。

 (1)AもBも労働者が受け取る貨幣は彼がすでに資本家に与えた価値に対する支払であるが、Aの場合は、労働者が受け取る貨幣は、少なくとも第二回目の回転以降は、自分自分が生産した価値の貨幣形態であるが、Bの場合はそうではなく、二年目からやっとそうなるに過ぎない。  (2)だからAの場合は、資本家は回転期間が短ければ短いほど、労働者を自身の生産物で働かせることができ、それだけ少ない費用で(可変資本額で)、大きな剰余価値量を引き出すことができる。  (3)だから生産規模が一定なら、回転期間の短さに比例して、前貸可変資本、よって流動資本一般の絶対量が小さくなり、剰余価値の年率(年間の総剰余価値量/前貸可変資本量)は大きくなる。だから与えられた前貸資本量では、再生産期間が短くなると、生産規模が大きくなり、剰余価値率が同じなら剰余価値の絶対量も大きくなる。例えば500ポンドの可変資本なら、年10回転するなら、生産規模は5000ポンドとなり、剰余価値率が100%なら5000ポンドの剰余価値量を得るのに、もし同じ可変資本量で年1回転なら、それがいずれも500ポンドに留まる。  (4)だからこれまでの考察で分かったことは、回転期間の相違に応じて、同じ生産的流動資本と労働とを同じ搾取度のもとで働かせても、必要な前貸貨幣資本はさまざまな大きさになるということである。つまり年間4000ポンドの流動不変資本と1000ポンドの可変資本を100%の剰余価値率で働かせる場合、一方が年10回転する回転期間でそれをやるなら、400ポンドの不変資本と100ポンドの可変資本、すなわち500ポンドの前貸貨幣資本でよいが、年1回転なら、結局、その10倍の5000ポンドの貨幣資本が必要である。

 結局、この「第一に」として述べていることは、年間の生産規模が同じでも、回転期間が長いと、前貸貨幣資本量が大きくなり、それが短いと小さくて済むという、貨幣資本の前貸量が回転期間の長短によって増減する事実を述べていると言える。以上は現行版によって考察したが、市原氏によると、この部分はエンゲルスの手は入っているが、論旨にはそれほど影響のない程度だとのことである。

2008年7月15日 (火)

『資本論』第2部第20章第4節の不可解な部分について

『資本論』第2部第20章第4節の不可解な部分について

 『資本論』第2部第3篇第20章「単純再生産」第4節「部門IIのなかでの転換、必要生活手段と奢侈手段」の第24パラグラフ(これはパラグラフのとり方によって違ってくる)から26パラグラフにかけ、理解出来ない部分がある。まずその部分を全文を全集版から引用しておこう(引用文の最後の二つのパラグラフが皆目分からない?)。

 《本来の労働手段だけではなく原料や補助材料なども、そのかなり大きな部門がどちらかの部門でも同種のものである。しかし、総生産物I(v+m)の色々な価値部分の転換について言えば、この分割は全くどうでもよいであろう。前記の 800Ivも200Ivも次のようにして実現される。すなわち、労賃が消費手段1000IIcに支出され、したがって、労賃として前貸しされた貨幣資本が帰ってくるときに資本家的生産者Iの間に平等に分配され、彼らの出資に比例して彼らの前貸可変資本が再び貨幣で補填されるということによって、実現されるのである。他方、1000Imの実現について言えば、ここでも資本家たちは平等に(彼らのmの大きさに比例して)IIcの残り半分の全体=1000 のうちから、消費手段での 600IIa と 400IIb とを引き出すであろう。したがって、IIaの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 480(五分の三)と 400c(IIb)からの 320(五分の二)との合計 800 であり、
IIbの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 120(五分の三)と 400c(IIb)からの 80(五分の二)との合計 200 であり、
総計は 1000 である。》(全集版の500-1頁)

 この部分のマルクスの敍述には不可解な部分がある。確かに、マルクスが24パラグラフで前提しているように、総生産物I(v+m)がIIの亜部門abどちらでも使用可能な生産手段からなるとして、その区別の必要がないと仮定すれば、確かに24パラグラフで述べていることはその限りで妥当である。

 すなわち800Ivと200IIvは、Iの労働者が1000IIcに支出し、その貨幣がIの資本家たちにそれぞれが可変資本として前貸した分だけ貨幣形態で回収されることになる。

 さらにまた1000Imについては、その5分の3、600Imを必要消費手段に、また5分の2、400Imを奢侈手段に支出するとするなら、600cII(a)と400cII(b)とをそれぞれ実現し、貨幣はそれを支出した資本家たちに帰ってくる、等々。

 しかし問題なのは、24パラグラフの最後から26パラグラフにかけて論じていることである。一体、マルクスはここで何を言いたいのか、皆目分からない。

 マルクスは《IIaの不変資本を補填するもの》として、《600c(IIa)からの480(5分の3)と400c(IIb)からの320(5分の2)との合計800》と書いているが、IIaの不変資本は1600cであり、これでは補填は成立しない。また《IIbの不変資本を補填するもの》として《600c(IIa)からの120(5分の3)と400c(IIb)からの80(5分の2)との合計200》で総計1000と書いているがこれも数値が合わない。数値が合わないだけでなく不合理である。

 この部分は次のようにいうべきではないだろうか。

 IIa(1600c)の不変資本を補填するものは、I(800v+200v)の1000と1000Imのうち必要消費手段に支出される600Im(5分の3)との合計1600
 IIb(400c)の不変資本を補填するものは、1000Imのうち奢侈手段に支出される400Im(5分の2)、すなわち400である、と。

 このようにこの部分については、不可解なので、もう一度、以前の単純再生産の表式をIIの亜部門の条件を入れて書いてみて、独自の考察を加えてみることにする。

 I 4000c+1000v+1000m
     [a) 800v+ 800m]
      [b) 200v+ 200m]

 II 2000c+500v+500m
  [a)1600c+400v+400m]
  [b) 400c+100v+100m]

 さて、ここで2000I(v+m)は生産手段の現物形態で存在するが、それが交換される2000IIcがabの亜部門に分けられることによって、消費手段の生産手段I(800v+800m)と奢侈手段の生産手段I(200v+200m)とに分かれる。もちろん2000I(v+m)は本来の労働手段だけでなく、原料や補助材料など、かなりの部分がそのどちらの亜部門でも使用可能であろう。しかしわれわれはそれを便宜上、明確に区別されるものと仮定しよう、そうすると資本家Iも必要消費手段の生産手段を生産する部門Iaと、奢侈手段の生産手段を生産する部門Ibに分かれることになる。そうした場合、総生産物I(v+m)のそれぞれの価値部分の転換は如何になされるのであろうか。

 例えば800Ivと200Ivは次のように実現される。

 IaとIbの資本家はそれぞれの労働者にIaは800ポンド、Ibは200ポンドの賃金を支払い、それぞれの労働者は彼らの労賃1000ポンドを支出してIIaの1600cのうち1000IIc(a)の消費手段を購入する。IIaの資本家はその売上金1000ポンドのうち800ポンドでIaの800vの生産手段を購入し、さらに残りの200ポンドでIaの800mのうち200mの生産手段を購入する。すると資本家Iaは彼が労働者に支払った800ポンドを回収し、さらに800mのうち200mを販売し、200ポンドの貨幣を手に入れることになる。しかし資本家Ibの200vは依然として実現できず、よって彼が労働者に支払った200ポンドはまだ回収できていないことになる。

 そこで今度は1000mI(800m+200m)の実現について考えてみよう。

 すでにIaは彼の800mのうち200mを販売し、貨幣で200ポンドを持っている。彼は800mのうち480m(5分の3)を必要生活手段に、320m(5分の2)を奢侈手段に当てる。だから彼はすでに持っている200ポンドに手持ちの貨幣280ポンド加えて合計480ポンドでIIaから必要生活手段を購入する。するとIIaの資本家はすでにIの労働者に1000cを販売しているので、残りの600cのうち480cを資本家Iaに販売したことになる。彼はその480ポンドで今度はIaの残りの600mのうち480mを購入する。すると資本家Iaは先に支払った480ポンドを回収する。彼はさらにそのうち320ポンドを使って、資本家IIbから奢侈手段を購入する。すると資本家IIbは彼の400cのうち320cを実現する。彼はその売上金320ポンドで資本家Ibの200vと200mのうち120mを購入する。すると資本家Ibにはようやく彼が彼の労働者に前貸した可変資本200が貨幣形態で還流し、さらに彼の200mのうち、120mが売れたことになる。資本家Ibも200mのうち120m(5分の3)を必要生活手段に、80m(5分の2)を奢侈手段に当てる。だから彼は120mの売上金で資本家IIaから必要生活手段を購入する。すると資本家IIaはIの労働者に販売した分(1000c)と資本家Iaに販売した分(480c)、そして最後に資本家Ibに販売した分(120c)とで合計、彼の不変資本分1600cをすべて実現したことになる。

 さてまだ資本家Ibの200mのうち80mが残っている。これは資本家Ibの奢侈手段の購入に当てる分であるから、資本家Ibは手許の金80ポンドで資本IIbの400cのうち残っている80cを購入する。すると資本家IIbはすでに資本家Iaに販売した320cと合わせて、合計400cをすべて実現したことになる。彼は80cの売り上げ金80ポンドで、今度は資本家Ibの80mの奢侈手段の生産手段を購入して彼の不変資本をすべて現物形態で補填する。こうして資本家Ibには彼が最初に奢侈手段の購入に投じた貨幣80ポンドが戻ってくることになる。

 以上のような複雑な過程をへて、I(800v+200v)とI(800m+200m)は実現されることになる。

 さて、上記の不可解な部分は、しかしあくまでもエンゲルス版にもとづいたものである。だからこの部分はマルクスの草稿ではどうなっているのかを少し調べる必要がある。もちろん、第2部のエンゲルス版の元になった諸草稿はまだ刊行されていないが、この第20章に関しては市原健志氏の研究がある(《『資本論』第2部第3篇第19・20章と第2部第8稿(上・下)》『商學論纂』第29巻第2・3号)。それを参考に調べてみた。まずエンゲルス版の問題部分を引用し、エンゲルスによる修正部分を[ ]に入れ、そのあとにマルクスの草稿の記述を【 】で加えておいた。

■『資本論』第2部第20章第4節エンゲルス版24~26パラグラフとマルクスの草稿

 《本来の労働手段だけではなく原料や補助材料なども、そのかなり大きな部門がどちらかの部門でも同種のものである。しかし、総生産物I(v+m)の色々な価値部分の転換について言えば、この分割は全くどうでもよいであろう[前記の]【エンゲルスの加筆】800Ivも200Ivも次のようにして実現される。すなわち、労賃が[消費手段]【エンゲルスの加筆】1000IIcに支出され、したがって、労賃として前貸しされた貨幣資本が帰ってくるときに資本家的生産者Iの間に平等に分配され、彼らの出資に比例して彼らの前貸可変資本が再び貨幣で補填されるということによって、実現されるのである。[他方、1000Imの実現について言えば、ここでも資本家たちは平等に(彼らのmの大きさに比例して)IIcの残り半分の全体=1000 のうちから、消費手段での600IIaと400IIbとを引き出すであろう。したがって、IIaの不変資本を補填するものは]他方、この資本家たちは釣り合いをもって(彼らのmの大きさに比例して)、600(IIa)と400(IIb)とを引き出すであろう。】
 [600c(IIa)からの 480(五分の三)と400c(IIb)からの320(五分の二)との合計800であり、
 IIbの不変資本を補填するものは
 600c(IIa)からの 120(五分の三)と400c(IIb)からの 80(五分の二)との合計200であり、
総計は 1000 である。]

【すなわち、
 IIa=600c(II)(a)から480とcII(b)から320=800
                             合計=1000
 IIb)=600c(II)(a)から120とcII(b)から80=200

 このようにマルクスの草稿そのものにはまったく不合理な点はない。だからエンゲルスは恐らくマルクスの草稿の内容を理解できなかったのであろう。エンゲルスの修正箇所を取り除き、マルクスの草稿部分だけを取り出してみると、次のようになる。

 《他方、この資本家たちは釣り合いをもって(彼らのmの大きさに比例して)、600(IIa)と400(IIb)とを引き出すであろう。
 すなわち、
IIa=600c(II)(a)から480とcII(b)から320=800
                             合計=1000
IIb)=600c(II)(a)から120とcII(b)から80=200

 ここでやや首をかしげるのはマルクスが「IIa」と「IIb)」と書いているぐらいで(ただこれも草稿を調べた市原氏の見間違いの可能性がないとはいえない)、ここは本来なら「Ia」「Ib」が適当であろう。そうすれば、マルクスが述べていることは、極めて明確であり、それは次のようなことなのである。
 
 《他方、Iの資本家たちの剰余価値部分I(800m+200m)は、それぞれ釣り合いをもって(すなわち彼らのmの大きさ、すなわちIaは800m、Ibは200mに応じて)、600(IIa)と400(IIb)から、それぞれ必要生活手段と奢侈手段とを引き出すであろう。すなわわち
 資本家Iの必要生活手段の生産手段を生産する資本家(つまりIa)は剰余価値800mのうち5分の3(480m)を必要生活手段に支出する、すなわち600c(II)(a)のうち480c(II)(a)と補填し合う、さらにその5分の2(320m)を奢侈手段に支出する、すなわち400c(II)(b)のうち320c(II)(b)と補填し合う、合計800。
 また資本家Iの奢侈手段の生産手段を生産する資本家(つまりIb)は剰余価値200mのうちやはり5分の3(120m)を必要生活手段に支出する、よって600c(II)(a)のうち120cと補填し合う、さらにその5分の2(80m)を奢侈手段に支出する、よってと400cII(b)のうち80cと補填し合う、合計200、よって総合計1000。》
 
 このようにマルクス自身は明確に語っていたのである。ただエンゲルスにはそれが分からず変な修正をしたために、皆目意味不明な内容になってしまっていたのである。