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現代貨幣論研究

2016年10月17日 (月)

現代貨幣論研究(11)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討(3)

 さて、前回のように大谷氏が引用した一文を解読したので、次は大谷氏のこの引用文の解説を検討することにしよう。まず大谷氏は次のようにこの引用文を解説している。

 〈まず,Aが5000ポンド・スターリングの小切手を振り出したとき,5000ポンド・スターリングの預金はAにとって「可能的な貨幣〔money potentialiter〕」として機能する,と言われている。ここで「可能的」というのは,小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の「貨幣としての機能」とは,この預金でBの商品の価格を実現する機能,すなわち流通手段の機能にほかならない。〉 (361頁)

 この大谷氏の一文は簡単には理解可能ではない。大谷氏は預金は流通手段として機能したというのであるが、果たしてそれは正しいであろうか。AがBから商品を現金(金、または法貨としての銀行券、要するに通貨)で支払うなら、その現金は流通手段として機能したといいうるであろう。しかしAが支払うのは小切手である。小切手とは何か、マルクスも述べているように〈貨幣への請求権〉である。つまりAはBから商品を購入したが、すぐに現金では支払わずに、支払を約束する証書を渡したにすぎない。つまりここではAとBは信用取引をやったのである。Aは債務者であり、B債権者である。だからこれらの一連の取り引きは、支払手段としての貨幣の機能にもとづいている。大谷氏にはこの根本的な認識が欠けているように思えるのだが、果たしてどうであろうか。

 だからわれわれは、少し横道に逸れるが、支払手段としての貨幣の機能についてもう一度確認しておこう。マルクスは『経済学批判』で次のように述べている。若干長くなるが、原点に帰るという意味で、われわれはキッチリ理解しなければならない。

 〈売り手(われわれの例ではB--引用者、以下同)は商品を実際に譲渡し、またそれの価格を実現するが、この実現はそれ自身、さしあたってこれまたただ観念的なものにすぎない(われわれの例では、小切手という形での実現である--同)。彼は商品をその価格で売ったのであるが、この価絡はそののちのある確定された時点ではじめて実現される。売り手は現在の商品の占有者として売るのに、買い手(われわれの例ではA)は将来の貨幣の代表者として買うのである。売り手(B)の側では、商品は価格として現実に実現されないのに、使用価値として現実に譲渡される。買い手(A)の側では、貨幣は交換価値として現実に譲渡されないのに、商品の使用価値のかたちで現実に実現される。まえには(流通手段としての貨幣の機能の時には--同)価値章標が貨幣を象徴的に代表したのに、ここでは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とを呼び起こしたように、いまは買い手(A)の人格的象徴性が商品占有者間の法律的強制力ある私的契約を呼び起こすのである。〉 (草稿集③365頁)
 〈売り手(B)と買い手(A)は、債権者と債務者になる。〉 (同366頁)
 〈だから、商品が現存し貨幣がただ代表されているにすぎない変化した形態のW-Gでは、貨幣はまず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される。だが価格は契約上測られた交換価値としては、ただ売り手B)の頭のなかに実在するだけでなく、同時に買い手(A)の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、ただ自分の将来の定在の影を自分の前に投じているだけであるとはいえ、購買手段として機能する。すなわち、貨幣は商品をその場所から、つまり売り手(B)の手から買い手(A)の手へと引き出す。契約履行の期限が来れば、貨幣は流通に入っていく。というのは、貨幣は位置を変換して、過去の買い手(A)の手から過去の売り手(B)の手に移って行くからである。だが貨幣は、流通手段または購買手段として流通に入るのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、それがそこにある以前のことであり、貨幣が現われるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。それはむしろ、商品にとっての唯一の適合的な等価物として、交換価値の絶対的定在として、交換過程の最後の言葉として、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての特定の機能における貨幣として流通に入るのである。〉 (同)

 ここではマルクスは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表すると述べている。つまり買い手(A)は貨幣の支払約束をするのである。買い手の支払約束が売り手からの商品の譲渡をもたらしたのである。売り手は買い手に信用を与え、売り手は債権者、買い手は債務者になった。買い手の支払約束は〈法律的強制力ある私的契約〉にもとづいている。この場合、Aが支払約束の証書として手形を振り出すか、あるいは自身の取引銀行の小切手を振り出すとしても、それらが支払手段としての貨幣の機能にもとづいているという点では同じである。大谷氏に欠けているのは、まさにこの認識である。
 マルクスは第25章該当部分の草稿でも次のように述べていた。

 〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。(『経済学批判』)。商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。〉 (大谷本第2巻159頁)

 われわれが検討しているAとBとの間にも債務者と債権者との関係が成立していることは明らかである。Bは支払約束にもとづいて、Aに商品を譲渡し、Aは自身の銀行にある預金からの支払を約束して小切手を振り出し商品を入手した。だから小切手もその意味では手形と同様の支払約束なのである。ただそれは約束手形と違うのは、債務者である商品購買者に代わって、支払うのが銀行であるにすぎない。つまり商業信用に、この場合は貨幣信用が絡み合っているわけである。しかしそれが信用関係であることは断るまでもないであろう。大谷氏はこうした信用関係を見ていないように思われる。大谷氏は〈小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうる〉というが、しかし商品の譲渡を引き出した(つまり購買手段として機能した)のは、Aが支払約束をした時点、すなわち小切手を振り出した時点であろう。この場合、〈商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られ〉たのだからである。預金が引き落とされるのは、Bが小切手を銀行に持参して現金の支払を求めた時であるが、それはすでに商品が売り渡された後である。だからこそ、この場合は、貨幣は支払手段として流通に入るのである。いずれにせよこれらの一連の取り引きは支払手段としての貨幣の機能から生じていることなのである。だから大谷氏が預金が流通手段として機能したなどというのは明らかに間違いである。マルクス自身はそんなことは何も言っていないのである。

 次に大谷氏は解説を次のように続けている。

 〈次に,Aが「取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取り引き銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである」と言われている。この小切手交換の結果,Bの取引業者のもとでBの預金が5000ポンド増加し,Aの取引業者のもとでAの預金が5000ポンド減少した。マルクスは,Aが預金した貨幣は「第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人〔すなわちB〕の手で」,「第2には,A自身の手で」,貨幣機能を果たした,と言う。すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う。すなわち,Bが小切手を受けとったときにはまだ「可能的な貨幣」であったAの預金5000ポンドがいまやBのもとで現実の貨幣になった,と言うのである。これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉 (同書361-362頁)

 ご覧のとおり大谷氏の理解はわれわれとまったく違ったものになっている。大谷氏は〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉を説明して、〈〔すなわちB〕〉と述べている。しかしBは決して貨幣を受け取るのではない。彼はただAの振り出した小切手を受け取っただけである。しかも彼はそれを自分の取引銀行に預金したのだから、Bは〈現実の貨幣〉を受け取ることは決してないのである(BがAの振り出した小切手をAの取引銀行に提示して支払を受けるなら、Bは貨幣を受け取るであろうが)。そもそもここには現実の貨幣そのものはまったく出てこないケースをマルクスは問題にしているのである。だからマルクスが〈第一に〉と述べている〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉というのは、決してBではない。もしBであるのなら、どうしてマルクスは〈預金した貨幣を受け取ったBの手で〉と書かなかったのであろうか。続けてマルクスは〈第2には,A自身の手で〉と述べているのだから、そしてここではAとBとの取り引きが問題になっているのだから、当然、Bと書いたであろう。だからこの場合、〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉とマルクスが敢えて書いたのは、その〈〉というのはBではなく、Aの取引銀行からその預金された貨幣の貸し出しを受けた〈〉なのである。そしてその場合は、その貨幣はその貸し出しを受けた人の手で〈現実の貨幣として〉機能するわけである。
 大谷氏は〈すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う〉と述べているが、しかしBの5000ポンドの商品価格の実現は、現実の貨幣なしに行われたのである。Bの商品価格の実現は、最初はAの振り出した小切手という形で実現し、さらにBがそれを取引銀行に預金し、AとBのそれぞれの取引銀行間で債権の相殺が行われ、預金の振替が行われた時点で最終的な実現が完了するのである。だからBの商品価値の最終的な実現は、貨幣の支払手段としての機能にもとづいて、商品の譲渡のあとに行われたのである。それはマルクスが第2の機能として述べていることにもとづいている。

 続く大谷氏の説明もチンプンカンプンである。すなわち次のように述べている。

 〈これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。〉

 Aの預金は確かにAにとっては債権である(銀行にとっては債務)。しかしAはその預金に当てて、小切手を切り、Bに手渡したのである。だからAの債権は、今ではBの持つものになっている。すなわちBの債権である。Bは自分の商品を小切手と引き換えに手渡した。その限りではBはAに信用を与えた。AはBに負った債務を自身の銀行に対する債権で支払ったのである。BはそのAの振り出した小切手、すなわち彼にとっては債権(つまり貨幣への請求権)を自分の取引銀行に預金した。だから小切手は今はBの取引銀行の手にある。だからBの取引銀行はAの取引銀行に対する債権を、すなわち貨幣への請求権を持つことになる。しかし他方でAの取引銀行は、Bの取引銀行の支払義務を負った債権を持っていたので(もちろん、この債権はAともBとも無関係のもので、Aの取引銀行はそれを別の機会に入手したとこの場合は想定されているのである)、それを手形交換所でBの取引銀行の持つ、Aの振り出した自行の支払義務のある小切手と交換する。こうして、両者は互いに相手に対する債権を交換して相殺したのである。だからマルクスは〈債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である〉と言っているのである。
 〈Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、Bの取引銀行業者が持つ、Aが振り出した小切手のことである。それに対して〈この銀行業者(=Aの取引銀行業者--引用者)がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、この場合、AともBとも無関係の別の何らかの取り引きの結果持つことになったものなのである(例えば、Aの取引銀行と取引のあるCが、Bの取引銀行と取引のあるDに信用で5000ポンドの商品を販売し、Dが自身の取引銀行〔Bの取引銀行でもある〕にある自分の預金に当てて小切手を振り出して、Cに手渡し、Cがその小切手を自分の取引銀行〔つまりAの取引銀行でもある〕に預金した結果、Aの取引銀行が持っている〈Bの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉、つまりDの振り出した小切手などが考えられる。そしてこの場合、預金の振替は、Aの取引銀行はAの預金から5000ポンドを消し、その分だけCの預金に5000ポンドを書き加え、Bの取引銀行はDの預金から5000ポンドを消して、Bの預金に書き加えるという操作のことをいう。振替は、それぞれの銀行内で行われるのである)。
 だからこの場合、大谷氏がいうように、〈Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる〉などということではまったくない。大谷氏は〈Aのもつ債権〉というが、それはAの小切手としてすでにBの取引銀行業者の手にあることに気づいていない。だから〈Bの取引銀行業者の債権〉などとも述べているのだが、それは何を意味するのかも十分考え抜いていないのである。それは一体何なのか。Bの取引銀行業者の持っている債権のことか、それならそれはAの振り出した小切手のことであり、それは〈Aが自分の取引銀行業者に持っている債権〉のことである。だからもしそういう意味なら、大谷氏の述べていることは、〈Aのもつ債権とAのもつ債権との相殺が行われる〉などという無意味な同義反復を述べていることになる。

 大谷氏はマルクスが〈Aが自分の取引銀行業者に持ってる債権〉と述べていることを、〈Aのもつ債権〉と言い換えているが、それが今ではその預金を目当てに振り出した小切手としてBの取引銀行業者の手にあることが分かっていない。そしてマルクスが〈この銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉と述べていることを、〈Bの取引銀行業者の債権〉と簡単に言い換えたつもりなのかもしれないが、しかしマルクスが述べているのは、〈この銀行業者〉,つまりAの取引銀行業者がBの取引銀行業者に対して持っている債権なのだから、それはBの取引銀行業者にとっては債務なのである(それはBの取引銀行業者が持っているAの振り出した小切手が、Aの取引銀行業者にとっては債務なのに対応している)。だから〈Bの取引銀行業者の債務〉という方が本当は正しい。いずれにせよ大谷氏の説明ではチンプンカンプンなのである。

 さらに大谷氏の混乱は続く。

 〈にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉

 しかしこうした預金の振り替えによる相殺をマルクスは決して預金が流通手段として機能したなどとは説明してないことを、われわれは第29章該当個所の草稿(われわれが解読のために便宜的に打ったパラグラフ番号では【28】)の解読のなかで確認した。マルクスは次のように述べていたのである。

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉。

 ここではマルクスは明確に〈預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけである。だから預金は決して流通手段として機能するのではない。むしろそれらは貨幣の支払手段としての機能にもとづいた操作なのである。こんな誤った理解をしているから、大谷氏はブルジョア的な用語である「預金通貨」といったものを肯定し、彼らに追随することになってしまっているのである。

 ところで大谷氏の解説は以上で終わったわけではない。さらに次のように念を押している。

 〈マルクスはこのように,小切手による商品の購買のさいに小切手の金額が預金から引き落とされたときに,預金が貨幣として,流通手段として機能した,と言うのである。小切手が流通手段として機能するのではなく,預金が流通手段として機能するのである。これを,預金通貨として機能する,と言い換えることも許されるであろう。マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかったが,「III)」のここでの彼の記述からは,彼が,預金の通貨機能を認めていたことを明瞭に読み取ることができるのである。〉 (同書362頁、但し下線は大谷氏による傍点による強調個所)

 われわれが確認してきたように、マルクス自身は一言も預金が〈流通手段として機能した〉とは述べていない。にも関わらず大谷氏は、マルクスの言っていないことを、マルクスが〈言う〉と主張しているのである。こんな大谷氏だからこそ、〈マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかった〉ことを認めざる得ないにも関わらず、マルクスは〈預金の通貨機能を認めていた〉とも強弁するのである。マルクスに対する自分の無理解をよそに、勝手な解釈を押しつけて、それがマルクスの主張だと言い張るなら、そんな大谷氏にエンゲルスを批判する資格はないと言わざるを得ない。

 もう一度確認しよう。マルクスは確かに〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉と述べている。一方では、Aの預金はすぐにその取引銀行によって利子生み資本として貸し出され、その借手のもとで現実の貨幣として機能するからであり、他方ではそれはAとBとの信用取り引きの振替決済に利用されるからである。この場合の取り引きは貨幣の支払手段としての機能にもとづいているのである。〈貨幣機能〉と言ってもいろいろあるというものである。価値尺度や計算貨幣としての機能や、流通手段としての機能等々。しかし流通手段としての機能は鋳貨機能であり、預金がそうしたものでないことは明らかである。預金が債権として果たす役割は、マルクスはそれを〈ただ債権の相殺によってのみ〉と述べているように、貨幣の支払手段としての機能にもとづいたものなのである。なぜなら、マルクスが〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした〉と述べていたように、債権者と債務者という関係は、貨幣の支払手段としての機能から形成されるものだからである。ここには貨幣の流通手段としての機能などないのだ。こうした基本的なことが大谷氏に理解されていないことはただただ驚きでしかない。

 以下の引用文は、先に見た第29章該当個所の草稿の解読のなかで、私のT氏へのメールの中で引用しているものであるが、大谷氏も「信用による貨幣の節約」を説明するなかで引用している一文でもある。マルクスは次のように述べている。

 〈たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くことにもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払いの集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ二つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。〉 (大谷本365頁)

 このようにマルクスは振替という方法は、〈完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている〉と述べている。また〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである〉と、手形と小切手とを振替決済を行う信用用具として同等に取り扱っている。こうしたマルクスの主張を踏まえれば、大谷氏の主張がどれほどマルクスのものとかけ離れた奇妙なものになっているかが分かるであろう。大谷氏はマルクスが貨幣の〈節約が最高の形態で現われる〉と述べているものを、そのこと自体を「通貨」というのであり、そうなれば、マルクスが指摘している貨幣(通貨)の節約の意味がまったくなくなってしまうことになる。こうした矛盾に気づかないのはただただ不思議としか言いようがない。ブルジョア的なものに影響されていなければ幸いではあるが……。

 ついでに大谷氏が補足的に述べていることも検討しておこう。次のように述べている。

 〈なお,上の例では,AがBに小切手を振り出すのはAがBから商品を買ったものと仮定したので,預金は狭義の流通手段として機能したということになっているが,AがBに小切手で債務を支払ったのだとすれば,預金は支払手段として機能することになる。しかし,支払手段は広義の流通手段に含まれるので,預金は広義の流通手段として機能したと言いうる。「預金通貨」における「通貨」の機能は広義の流通手段なのである。〉 (362頁)

 Bの商品が現金と引き換えではなく、Aの振り出した小切手、すなわち〈書面での……支払約束と引き換えに売られ〉たのは、BがAに信用を与えたからである。つまりこの取り引きは信用取り引きなのであり、AはBに対する債務者であり、BはAに対する債権者である。Bがその小切手をAの取り引き銀行に持参して現金の支払を受けて、初めてBの商品価値は最終的に実現するのである。Bが小切手を受け取った時点では、Bの商品価値は小切手という形での実現でしかない。だからそれは最終的な実現ではないのである。それはAがBから商品の譲渡を受けて、〈書面での一定期日の支払約束〉である手形を振り出した場合と基本的には同じなのである。手形も小切手も諸支払を決済するための信用諸用具の一つである。大谷氏はこうした貨幣の支払手段としての機能から生じている信用関係をまったく見ていないのである。

(以上)

2016年10月14日 (金)

現代貨幣論研究(10)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討 (2)

◎大谷氏の説明の批判的検討

 それでは大谷氏の説明を検討して行こう。
 まず大谷氏は、信用による貨幣の節約について、マルクスはエンゲルス版の第27章部分で箇条書き的にまとめていることを指摘している。だからわれわれもそのマルクスの草稿を見てみることにしよう(マルクスは改行をせずに書いているが、われわれは分かりやすくするために改行を入れて整理して紹介しよう)。

 〈II)流通費の節減。

 A) 一つの主要流通費は,自己価値であるかぎりでの貨幣そのものである。信用によって三つの仕方で節約される。

 a)取引の大きな一部分で貨幣が全然用いられないことによって。
 b)金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって。(これは,部分的には,c)で述べるべきことと一致する。すなわち,一面では加速は技術的〔technisch〕である。すなわち,実体的な〔real〕商品流通が,あるいは事業取引の量が変わらないのに,より少ない総量の銀行券が同じ役だちをするのである。このことは銀行制度の技術と関連している。他面では,信用は商品変態の速度を速め,したがってまた貨幣流通の速度を速める。)
 c)金貨幣が紙券で置き換えられること。

 B) 信用によって,流通または商品変態の,さらには資本の商品変態のさまざまの段階が速められること(したがって再生産過程一般が速められること)。{他面では信用は,購買と販売という行為をかなり長いあいだ分離しておくことを許し,したがってまた投機の基礎として役だつ。} 準備ファンドの縮小。これは二つの面から考察することができる。A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減として。/〉(大谷新著第2巻287-288頁)

 ここで項目的に挙げているものを、マルクスは「III)」では具体的に述べていると大谷氏は指摘している。そしてそれぞれの項目ごとに、「III)」から関連する部分を引用・紹介している。それはかなり長い引用になっているが、ここで詳しく紹介することは割愛したい(興味のある方は各自同書を検討していただきたい)。われわれにとって当面の問題として興味深いのは、そのあと大谷氏が〈預金が果たす貨幣機能〉について触れている問題である。大谷氏は次の一文を紹介し、その内容を解説している。まず大谷氏が抜粋している一文を紹介しておこう。

 〈「5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる(彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〔)〕。そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣として機能する。しかしいずれにせよ,彼はそれだけ自分の預金をなくすわけである。彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸し付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払いを受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払いを受けるのである。彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。」(MEGAII/42,S.588-589;本書本巻521-523ページ。)〉(大谷新著第3巻360-361頁、ただし下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)

 大谷氏のこの引用文に対する解説を検討する前に、我々としてはまずこの一文をしっかり解読してみよう。この一文を読んで気づくのは、われわれが先に確認のために紹介した第29章該当部分の草稿からの引用文と同じことを、ここでもマルクスが述べているように思えることである。今回、マルクスが〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉として述べている内容は、先に見た【28】パラグラフで〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じように思えるのだが、果たしてどうであろうか。それを検討してみよう。

 【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことは、もう一度確認のために、但し今回の引用文と比較するために具体例を同じにして述べてみると、Aが預金した5000ポンドはすぐに銀行から利子生み資本として貸し出されて、銀行にはただ帳簿上の記録があるだけだが、しかし、その帳簿上の記録がもう一つの役割(つまり諸支払を相殺するという役割)を演じるのだというものであった。つまりここで〈二重の役割〉というのは、5000ポンドは現実の貨幣としては銀行によって利子生み資本として貸し出されてしまうこと、つまり利子生み資本としての役割である。もう一つはその現実の5000ポンドのいわば“脱け殻”にすぎないのだが、銀行の帳簿上の記録が諸支払を相殺する役割をも果たすということであった。

 しかし今回の引用文では、そこらあたりがやや分かりにくいものになっている。今回もAが預金した5000ポンドはすぐに貸し出されるとマルクスは想定しているように思える。だからもしAが自分の預金を引き出したとしてもそれは彼が預金した5000ポンドではなく、他の誰かが預金した5000ポンドだろうとも述べていることからもそのことが分かる。つまり今回もAの5000ポンドの預金は現実の貨幣としては、すぐに銀行から貸し出されて、利子生み資本としての役割を演じることは想定されているのである。しかしそのことをここではマルクスは必ずしも強調しているわけではないようにも思える(だから後に見るように、大谷氏はそれを見落としたのであろう)。そういうことから、ここでマルクスが〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉として述べている内容は、必ずしも【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたものと同じとはいえないような印象を受けるのである。だからこそ、我々としては、今回の引用文をさらに詳しく吟味してみなければならない。われわれは問題を厳密に吟味し、整理するために、問題ごとに箇条書き的に検討を進めることにしよう。

 (1) まずマルクスは〈5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる〉と述べ、〈そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣として機能する〉と述べている。そしてそれは〈彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〉とも述べている。しかしそもそもAが預金した5000ポンドはすぐに銀行によって貸し出されてすでに銀行にはないのである。彼は小切手を振り出すことはできるが、しかし小切手は決して現金ではない。それはそれを受け取ったBにとっては貨幣へのたんなる請求権でしかなく、AからいうならBに対する支払約束でしかない。だからこの場合は、AはBから信用を受けているのである。そして銀行がBの持参した小切手に現金を支払えば、その時点でAの預金はなくなり、AのBに対する債務は決済されたことになる。しかしその時点で銀行が支払う現金5000ポンドはAの預金したものとは限らず、恐らく他人の預金したものであろう。マルクスが〈可能的な貨幣として機能する〉と述べていることの実際の内容はこうしたものであろう。

 (2) 次にマルクスは〈彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸し付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払いを受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払いを受けるのである〉とも書いている。つまり預金は、その預金者が必要な時はいつでも現金で引き出せるものである。だからその限りでは預金は〈可能的な貨幣〉といえる。つまりAにとっては準備状態にある貨幣である。だから預金としてある段階では、貨幣としてはあくまでも可能的なものであり、実際に引き出された時点では、その預金は失われ、引き出された現金こそが貨幣としての機能を果たすわけである。これは当たり前の話である。だからこれを預金の貨幣的機能と敢えていうなら、それは蓄蔵貨幣としての機能であろう。

 (3)上記の議論を受けて、次にマルクスは次のように述べている。

 〈彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。〉

 ここで問題なのは〈第一には〉としてのべている〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉とは誰のことかということである。Bが受け取るのは小切手だからBでないことは確かである。とするなら、やはりそれは〈Aが預金した貨幣を〉Aの取引銀行がすぐに利子生み資本として貸し出した〈〉でしかない。それまでの叙述では、マルクスはこのAの預金した5000ポンドが銀行によって利子生み資本としてすぐに貸し出されるということについてはあまり論じていないが、しかし、それ以外には考えようがないであろう。だからこの限りでは、やはりここでマルクスが〈二度貨幣機能を果〉すとのべているのは、【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じ内容を述べていると考えられる。というのはここで〈第2には,A自身の手で〉と述べているのは、そのあとに続く文章で〈第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である〉と述べていることを見ても、その前で述べていたこと、すなわち〈彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換する〉場合のことであることは明らかだからである。

 (4) だから引き続く文章もその内容は明らかである。

 〈この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉

 ここでマルクスが〈現実の貨幣として〉と述べているのは、Aの預金5000ポンドが銀行によってすぐに利子生み資本として貸し出されて、そこで〈現実の貨幣として〉演じる働きのことである。そして〈貨幣への請求権として,働く〉というのは、マルクスが〈第2の機能〉と述べていることであろう。ここで〈それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣〉という説明は、要するにA自身が自分の預金を引き出すということであろう(Aの引き出した預金は実際には〈他人の現預金〉である)。Aの預金はA自身がいつでも現金を引き出せるという意味では、Aにとっても貨幣の請求権としてある。だからここで述べているのは、そういう場合ではないケースということであろう。そしてその場合は〈ただ債権の相殺によってのみ〉働くというのは、われわれにとっては【28】パラグラフの一文の分析でも明らかである。

 だから結論として言えるのは、今回の引用文でマルクスが預金は〈二度貨幣機能を果す〉と述べていることは、【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じ内容を述べているのだということである。

 そこでこの両者を比較するために図式化してもう一度整理して書いてみよう。

●《【28】パラグラフの記述》=預金そのものは二重の役割を演じる〉

 ①〈一方ではそれは,……利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。〉
 ②〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する。〉

●《今回の引用文の記述》=〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉

 ①〈第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で〉この場合、預金は〈現実の貨幣として……働く〉。ここでマルクスが〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉と述べているのは、銀行から利子生み資本として貸し出されたAの預金5000ポンドを受け取った人のことである。
 ②〈第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。〉この場合、預金は〈貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉

(続く)

2016年10月13日 (木)

現代貨幣論研究(9)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討(1)

【はじめに】

 今年(2016年)の6月、大谷禎之介氏は『マルクスの利子生み資本論』全4巻(桜井書店)を上梓された。氏がながい年月をかけて研究され、『経済誌林』に発表されてきた『資本論』第3部第5章(現行版では第5篇)の草稿の一連の研究をまとめられたものである。
 私自身はそれをいま研究途中であり、いずれはそれに対する何らかのまとまったものを発表したいとは思っているが、しかし、それは膨大な研究成果であり、なかなか一筋縄では行かないものでもある。だからとりあえず、いわば“つまみ食い”的に問題を取り上げてみようと思いついた。今回は、現代貨幣論研究の連載に関連するテーマを取り上げてみよう。
 同書の第3巻はエンゲルス版の第3部第28章、第29章、第30-32章に該当する草稿を取り扱ったものである。それ以外にも関連するさまざまな論考が「補注」や「補論」とし付属している(例えば第30-32章の解説の「3 若干の基本的タームについて」の「(7)産業循環」の項目につけられた「補注 第3部第1稿第3章での利潤率傾向的低下の法則とその貫徹形態との解明」などは今回新たに執筆されたもののように思われる)。
 ここではその同じ第30-32章の解説の中の「4 マルクスは「III)」でなにを明らかにしているか」という項目の「(6)信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能」を取り上げたい。
 この部分はいわゆる「預金通貨」に関連する問題を取り扱っている。以前にも、いろいろな機会に大谷氏が「預金通貨」概念を本来はマルクスも科学的なタームとして認めていたのに、エンゲルスは意図的にその部分を削除しているとして、「預金通貨」はマルクス経済学としても有効なものだとして、それを擁護していることは度々指摘し、批判してきた。ここではそれがある意味まとまった形で、マルクスの草稿に依拠する形で論じられており、果たしてそうした大谷氏の草稿の読み方は正しいのかどうかを検討したいと思うのである。

◎ 第29章該当部分の草稿における「預金」

 大谷氏の当該論文を批判的に検討する前に、その準備作業として、マルクス自身の主張を理解しておこう。以前、第29章該当部分の草稿の解読において、マルクスが「預金」ついて論じている部分を解説したものを確認のために紹介しておきたい。そこでも「預金通貨」について批判的に検討したからである。すでに読まれた方には重複することになるが、その場合は飛ばして読んでいただきたい。それは次のようなものであった(但し、今回再掲するに当たり、当面の問題、つまり「預金通貨」に関連する部分だけに絞って、それ以外のものは削除したので、もし全体をお読みいただくなら、ここを参照していただきたい。)

【28】

 〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。〉

 このパラグラフは、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連が考察されたが、それを踏まえ、【27】パラグラフで「準備金」が考察されたのに対応させて、【28】パラグラフでは「預金」が考察の対象になっているものである。そしてこの部分は現代的な問題でもあるいわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連してくるのである。

 (前半部分の考察は略)

 その次からは預金の機能が考察されており、極めて重要である。

 預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。〉

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金は銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。

 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。
 実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から人手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。
(「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)10-11頁)

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりでは、それは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。

 しかし、今回の【28】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。

 (1) まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。

 (2) 次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。

 (3) bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。

 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。

 《諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。》(『資本論』第1部全集版180頁)。

 この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。

 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。

 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから類推したに過ぎません。】

 実は、このメールそのものはもっと長いのであるが、後半部分はカットしたのである。その部分で論じている問題はなかなか難しく私自身にもよく分からないところがあるからである。

 もう一つT氏に対するメールを紹介しておこう。

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 〈{通貨〔currency〕の速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払でこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとついており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency)の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉(「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について、165-6頁)

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【28】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣は、ただ観念的な計算貨幣あるいは価値尺度として機能したに過ぎない)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

(続く)

2016年7月24日 (日)

現代貨幣論研究(8)

     §§2011年のセミナーのレジュメを読んで§§

 (以下のものは、たまたまこのブログで連載している「林理論批判」にアップするのに適当なものがないか、昔のノート類を捜している時に見つけたものです。内容を読むと、必ずしも林氏のセミナーのレジュメに沿ってその内容を批判するというより、「現代の貨幣(通貨)」をいかに理解すべきかという問題に対する自分自身のその時の考えを、レジュメを読んだ感想として綴ったものでした。だからむしろテーマとしては「林理論批判」より、「現代貨幣論研究」の方が良いだろうと考えて、このシリーズとして公開することにしました。

 因みに、文書のなかで言及している2011年のセミナーのレジュメの表題は、林紘義氏のものは「中国の資本主義的発展と“元” 問題」、田口騏一郎氏のものは「衰退するアメリカ資本主義--揺らぐアメリカの覇権」というものでした。

 なお、「林理論批判」として昔書いたものを発表してきましたが、このあと発表できるものとしては、かなり手を入れなければならないようなものばかりのようなので、それほど手間をかけるだけの意欲も意義も見いだせないので、当面は、休止することにします。)

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 林紘義氏や田口騏一郎氏のセミナーのレジュメを読むと、相変わらずの間違った理論を前提にしたものであることがわかる。しかし私はそれを批判するだけの理論的な構築を今の段階では出来ていないから、明確な批判は出来ないのである。要するに戦後の不換制下の資本主義の体制を如何にとらえるかということと関連している。金は実際の商品流通の過程から姿を消すわけだが、金は果たして貨幣として依然として通用しているのか、あるいはそうではなくなったのかという問題である。林氏は、結局、金は貨幣として通用していないという現実から出発し、通貨は政府によって管理されていると理解することになる。
 しかしこれはそもそも商品の価値とは何かという問題と密接に関連しているように思えるのである。つまり金を貨幣ではないとする理解は、結局は、労働価値説を否定することに帰着すると私は考えている。しかしそれを明確に論証するだけのものが今の私自身に構築されているわけではないので、その批判がなかなか難しいわけである。

 商品の価値とは、社会の物質代謝を維持するために、社会が自由にできる総労働をそれぞれの与えられた生産力にもとづいて必要な諸分野に配分するべき指標と言うことができる。それは実際には諸商品の交換関係を通じて客観的な法則として自己を貫徹しているような性格のものなのである。だから商品の価値そのものは直接には目に見えるわけではない。それは法則であり、その法則にもとづく一つの社会的実体なのである。自然の諸法則も見えないという点では同じである。それはさまざまな物体を介して自己を現わすのである。例えば重力の法則は、石ころを放り投げると、それが放物線を描くという形で自己を現わしてくる。諸商品の価値もこうした社会の生産関係のなかに貫く法則なのであり、それは諸商品の交換関係を通じて自己を現わすものなのである。そしてそれを人間の目に見えるように現わしているのが貨幣なのである。だから例え金が実際の流通から姿を消したからといって、この法則がなくなるということはありえない。諸商品に価格が付けられており、商品に値札がついていないと、われわれがそれを商品としてとらえることができないという現実は何一つ変わっていない。マルクスは商品に値札が付いているのはどうしてなのかを、その冒頭の商品論で解明したのであるが、ここで解明されている商品の単純な価値形態から展開されて、最終的に到達した貨幣形態、すなわち価格形態というものは、その限りでは金が実際の商品流通の過程から姿を消したからといってなくなるような性格のものではなく、それは商品が商品である限り、そしてそれに値札が貼っている限り、それらの諸商品が売買されて、交換されている現実の中に貫いている法則なのであり、そういう意味での物象的な過程であり、社会的実体なのである。だからこうした意味での貨幣がなくなるなどということはありえないのである。だからわれわれは不換制下のもとでも商品には値札が付いており、そこには「○○円」という値段が記されていることを知っている。これはまさにその商品の価値が尺度されて価格として現わされている現実を物語っているのである。とするなら、マルクスが冒頭の商品論や貨幣論で解明した諸法則がそこに貫いていることを、それは教えているのである。

 実際に、流通過程に金が貨幣として通用している現実が例えあったとしても、金が鋳貨形態をとると、すでに価値を尺度するものとしての金は直接的なものではなく、ある内在的な社会的実体であることをわれわれにも見える形で現わしてくる。例えば実際に流通している金鋳貨に含まれる金量は、流通における摩滅等で、それが流通手段として機能する前提である価値を尺度する金量とは違ってくるからである。だからこの段階で商品の価値を尺度する金量というのは、ある内在的な社会的実体でしかないのである。それは現実に流通している金量そのものではない。しかし金がもっている価値、つまりそれを生産するに必要な社会的な労働そのものが、この場合、商品の価値を尺度する社会的実体としての内在的な金量を規定していることは明らかであり、だからこの限りでは実在する商品金の内在的な価値そのものが問われていることは依然として同じなのである。金そのものは鋳貨として流通している一方で、実際に地金形態でも、商品として売買されており、金の市場価格というものは常に存在したのである。そして金の市場価格は、明らかに現物としての金そのものが商品として売買されていることから生じている。もちろん、その売買の実体の多くは、決して商品としての金の売買ではないこともわれわれは確認しておく必要がある。つまり金が何らかの工業用の生産材料として売買される場合は、確かにそれは商品としての金の売買であるが、しかしそれが例えば海外への支払の決済のために地金を輸出する必要から購買されたなら、それはただ鋳貨形態を地金形態に転換したに過ぎないだけだからである。あるいは蓄蔵するために、金を購入するなら、それは流通形態を蓄蔵形態に転換したに過ぎない場合も同じである。それらの場合は金の商品としての売買は一つの仮象でしかない。しかし、いずれにせよ実際の金の現物が取り引きされるわけである。こうした金の現物が売買される市場が、兌換制の下であろうが、不換制の下においてであろうが、常に存在したことをわれわれは確認しておく必要がある。つまり金の現物が売買されるというのは、そのときの鋳貨なり、あるいはその代理物(例えば紙幣や銀行券)などが、実際の金との関係をその限りでは常に持つし、持たねばならないということであり、鋳貨やその代理物が、実際に代表している金量がその場合には問われているのであり、金の売買という仮象において現われているのだということである。だから金鋳貨であっても、それが実際の金地金との交換において、それが名目的に代表する金量とは違った評価をされることになる。というのは、ここでは流通手段としての金鋳貨が問題なのではなく(それが流通手段として機能している限りは完全量目との貨幣として機能するが)、それが含有する金量そのものが問われており、地金としてしか評価されないからである。だから如何なる社会においても(といっても当然、原始共同体や社会主義社会は除いてであるが)実際の金の現物が取り引きされる金の市場価格こそが、その時々の通貨が--それが金鋳貨であろうが、紙幣であろうが、銀行券であろうが--、どれだけの金量を代理しているのかを常に表しているものなのである。だから例え金鋳貨が流通している場合においても、金の市場価格があまりにも上がりすぎ、その高価格が維持されるならば、法的な度量標準そのものが、それに合うように変更されるような事態が歴史的には生じてきたわけである。

 こうした社会的実体としての貨幣金の存在を前提すれば(つまり法則的に前提される貨幣だ)、そしてそれの何らかの代理物がどれだけの金量を代理しているかは、実際の、金の市場価格がそれを現わしていると捉えるなら、その代理物が制度として金との兌換を保障されているか否かということは、それ自体は実際の通貨(厳密な意味での)の流通にとっては何ら本質的なものではないということが分かってくる。いずれにしても、諸商品の価値は、社会的な実体である貨幣金で尺度されるのである。ただその尺度される過程そのものは、直接的ではないことから、それはなかなか分からないのであるが、しかし、実際には、金鋳貨が流通している場合でも、本当は諸商品が金によって尺度される過程そのものは目には見えていないのである。それは商品交換当事者の背後でなされている客観的な法則的な過程だからである。われわれには直接的には、諸商品には価格が付けられ(値札が貼り付けられ)、そして貨幣金を代理するもの(銀行券等)で、それらが実際に流通させられている現実を知るだけである。もし金鋳貨がそれらの媒介を行っている場合ですら金鋳貨はただ流通に必要な金量を一つの象徴として代理しているに過ぎないのである。そうした実体を知れば、その代理物が兌換銀行券か不換銀行券かということは本質的なものではないことがわかるであろう。

 さて、このようにそれぞれの国内において諸商品の価値を尺度する貨幣金が社会的実体として存在すること、そしてそれがどれだけの価値を内在しており、また実際に流通している貨幣代理物が、実際には流通に必要な金量をどれだけ代理しているのかは、それぞれの国内における金の市場価格がそれを表していることを認めるなら、戦後のいわゆる「管理通貨制度」というものの認識もわれわれは根本的に改める必要があるということがわかってくる。例えば戦後の一時期、制度としてとられてきた1ドル=360円という固定相場制というものの認識もわれわれは変える必要があるのである。

 ただそれを論じる前に、確認しておくべきことがもう一つある。つまり「通貨」の厳密な意味である。「通貨」はさまざまな形で混乱して理解されてきている。「通貨」とは、物質代謝を媒介する貨幣であり、不換制下のもとにおける今日では、日本銀行券(一万円、千円等のお札)と硬貨(100円、500円、10円等)に限定して理解しないといけない。例えば「預金通貨」という言葉があるが、しかし預金は決して通貨ではない。また手形や小切手等の有価証券の類も決して「通貨」ではないのである。だから当然、為替と通貨も同じではないことに注意が必要である。
 国際的な取り引きにおいて、為替はほとんど通貨と同義として論じられている場合が多い。だから国際的な取り引きにおける為替と通貨との区別と関連を理解することは殊更重要なのである。
 通貨は貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能を果たすものであり(広い意味での流通手段)、そうしたものに限定する必要がある。預金もその振替によって支払を決済するから支払手段と捉えられる場合があるが、しかしこれは実際には、預金が通貨として、つまり支払手段として、流通するのではなく、反対に通貨が節約される相殺の過程であると理解する必要があるのである。だから預金通貨というのは概念としては成立しないのである。また小切手や手形、為替等々も諸支払の相殺を行うための信用諸用具であり、むしろ通貨の節約手段として理解すべきである。もちろん、最終的に相殺が成立しないなら、現金、つまり通貨が流通するケースがないとはいえないが、しかし、今日の信用制度が発達した社会では、実際にはほとんどのケースは預金の振替によって相殺されているのである。だから為替は(内国為替も外国為替も)、信用用具の一つであり、通貨を代理してそれを節約するものではあっても、決して通貨と同じではないことに特に注意が必要である。

 そして通貨がそうしたものであるなら、当然、それはそれぞれの国内では国民服をまとっている(例えばドル札や円札がそれである)。だからそれらが国境を越える場合には国民服を脱ぎ捨てて地金形態にもどる必要がある。しかし今日のように信用制度が世界的にも発達した社会においては、地金が国際的にもやりとりされるわけではない。ではどうするのか。地金形態にもどる代わりに、今日では、それらの国民的通貨は、それぞれの国内における金の市場価格に還元されることになる。金の市場価格に還元されるということは、それぞれの国民通貨が実際にその時々に代表している金量に還元されるということである。そしてその上で、今日では、それらの国際的な諸支払は、すべて国際的な預金の振替決済によって、決済されているのである。

 しかしそれを論じる前に、話をもとに戻そう。それぞれの国の通貨はだからそれぞれの国の国内の商品市場の現実において、その「価値」、つまりそれがどれだけの社会的実体としての貨幣金を代理しているのかが決まってくるということがまず押さえられていなければならない。{もちろん、ここでわれわれは「社会的実体としての貨幣金」と述べたが、しかしそれはそれぞれの金市場で売買されている金と何か別のものなのではないこと、それはあくまでも諸商品の価値を尺度する機能を持つものとしては社会的な実体でしかないと述べているだけであることにも注意が必要である。マルクスも商品の価値を尺度するためには観念的な金で十分であると述べているが、同時に、その金は現物の金として流通過程で実際にうろついている必要があるとも述べている。われわれが社会的な実体としての貨幣金と述べているのは、そうした観念的な金のことを、つまり法則的に貫いているものとしての貨幣金のことを指して言っているのであるが、しかし、まただからこそ、それは実際にその国内の金市場で売買されている金の現物の存在を前提しているのであり、それなくてはまた諸商品の価値を尺度する観念的な金の存在もありえないのである。}それは例えば固定相場制をとっていようとも、何か海外の、例えばアメリカのドルによって円が規制され、規定されているわけではないのである。これは例えば、独自の通貨をもたずに、アメリカのドル札そのものを通貨として使っている国、例えばエクアドル(?)であっても、やはり同じなのである。その国内で実際に流通しているドル札がどれだけの金量を代理するかは、決してアメリカによってではなく、そのエクアドル国内の商品流通の現実によって規定されているのである。

 厳密な意味での通貨の「価値」(それが代理する金量)は、その国内の商品市場の現実によって、つまりその国の物質代謝の現実によって規定されているということを踏まえることが肝心なのである。まず商品流通という現実、物質代謝の現実があって、それによって受動的な貨幣があるという原則をここでもわれわれは思い出す必要がある。

 そしてわれわれは、例えば1ドル=360円の固定相場制を例にあげて、考えてみよう。しかし例として考える場合、360円は半端なので、簡単化のために1ドル=400円の固定相場であると仮定しよう。
 まず、不換銀行券である日本銀行券がどれだけの「価値」(もちろん、この場合は内在的なものではなく、それが代理する金量という意味である)を持つかということは、決して、ドルとの固定相場によって規定されているのではない。それは日本国内の商品市場の現実によって決まってくるのであり、規定されているのである。そしてそれを実際にわれわれが知りうるのは、つまり一万円札がどれだけの金量を代理しているのかを知りうるのは、日本国内における金の市場価格以外にはないのである。つまり円がドルとどういう固定相場にあり、そのドルが金とどのように法的に度量基準が決められているかということは何の関係もないということをわれわれは知る必要があるのである。例えば、そのときの金の市場価格が1グラム=400円としよう。そうすると、この場合1万円札は、25グラムの金量を代理しているわけである。
 もし1ドル=400円の相場が、両国の通貨の代理している金量の比率に合致しているなら、アメリカにおいても金の市場価格は、1グラム=1ドルである。しかしこの場合も忘れてならないのは、1ドルが1グラムの金量を代理しているというのは、あくまでもアメリカの国内の商品市場の現実によって規定されているのであり、アメリカ国内における金の市場価格が金1グラム=1ドルになっているというだけのことなのである。それぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかは、それぞれの国内の事情によって決まるのであって、両国が固定相場制をとっていようが変動相場制をとっていようが、そんなこととは無関係に決まってくるということがまず第一に押さえておかなければならないことなのである。

 その次に確認しなければならないのは、為替相場というのは、決してそのまま両国の通貨の平価(両国の通貨の「価値」(代表する金量)の比率)と同じではないということである。為替というのは、すでに述べたように、有価証券の一種であり、それ自体は、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介させることによって、現金を輸送せずに決済するための信用用具であり、だからそれらは最終的には預金の振替によって決済され、だから基本的には諸支払の相殺を行うための諸用具である手形や小切手等と同じものなのである。一昔前までは、国際的な諸支払の相殺が最終的に交換尻が会わない場合、金の現送が行われたのであるが、しかし、今日のように信用制度が国際的にも発達している社会においては、実際に、金が現送されるケースはほとんどなく、国際的にも預金の振替による決済が日常的に行われている。
 またそれらが有価証券であるということがわかれば、その売買は、利子生み資本の運動であり、再生産過程の外部の信用にもとづいている貨幣の運動であることもわかる(つまり直接には物質代謝を媒介しているわけではない)。それらは銀行が介在していることからも分かるように、貨幣信用にもとづくものであり、それらが商品の売買を媒介しているからといって、決して直接的な商業信用、つまり再生産過程内の信用ではないのである(商業信用と貨幣信用が絡んでいるとはいえるであろう)。またそれらが利子生み資本の運動であることを理解するなら、為替の需給によってその価格は上下するということ、そしてその上下には原則として限度がないということもわれわれは知らなければならない。
 ただ兌換制度のもとでは、金の現送点を越えて、為替の相場は上下しないが、しかしそれは実際の為替の売買とその価格が為替の需給だけによって規定されていることを否定するものではないのである。金が現送されるか否かは、為替の価格によって規定されており、そして金が現送されることによって、為替の需給に変化が生じ、その結果、それが為替の価格に反作用を及ぼすに過ぎないのである。だからそれは為替の売買とは直接には関係のないところの話に過ぎないのである。それは金の輸出を禁止すれば、たちまち為替相場はそうした現送点を越えて上下することを見れば明らかである。
 だから為替相場そのものは、あくまでも為替の需給によって決まってくるのであって、通貨の価値(代表する金量)とは直接には関係がないのである。ただ通貨の価値は為替の需給を左右する一つの要因であるにすぎない。しかし為替の需給を左右する要因は他にも色々とあるのであり(貿易の収支もその一つである)、だから通貨の価値はその一つであるにすぎないのである。そして重要なことは、通貨の価値が為替の需給を左右する要因であるということは、決してその逆が真であることを意味しない。つまり為替相場自体は決して通貨の価値を規定することはないということである。この原則さえ踏まえていれば、例えば固定相場制をとっているからといって、日本の円の価値(代表する金量)がドルによって規定されるなどということは決してありえないのである。ドルが金にリンクされているから、円もその固定相場によって、間接的に金にリンクしている、などという主張が一時期いわれたが、こうした主張の誤りは明らかであろう。確かに制度的にはそういうことがいえたとしても、別に円は固定相場を介せずとも、国内の商品市場の現実において常に金とリンクしている(つまり金量を代理している)ということが分かっていないために、こうした馬鹿げた主張が言われたのである。つまり国内的には制度的には円は金との度量基準が決められていないから、だから円は金との関係がないと即断してしまったわけである。しかし法的に基準がないからといって、円が如何なる場合も何らかの金量を代理していないこということは決してありえないということが分かっていないのである。もし円が金量を代理しなければ、そもそも通貨として通用しないからである。

 だから固定相場制について言うと、それは次のような事態を意味している。要するに、日本の政府は1ドル=400円という為替相場を上下何%かのラインを維持するように、為替の需給を調整する義務を負うということである。これ以外の何の意味もない。これは政策的にはどんな意味があるかを少し検討してみよう。今、簡単化のために、商品の輸出入はすべてドル建てで行うこととする。つまりドル為替で売買されるわけである。

 具体例に考察する前に、やはりドル建てという場合の意味を考えておく必要がある。これはドルが度量標準になることである。例えば日本の輸出業者が自動車をアメリカに輸出する場合、当然、その自動車の価値を表さなければならない。つまり尺度する必要がある。それをやるのは当然、金による。しかしその金は直接的なものとして現われて来ないし、実際、輸出業者は金を意識することなくそれをやるのである。しかし彼はそれをどうやるかというと、自動車の価値をドルで表すわけだが、そのドルというのは、アメリカの通貨であり、その「価値」、つまり代表する金量はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているわけである。つまり日本の輸出業者が自分が輸出する自動車をドル建てでその価値を表そうとするなら、彼はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているドルの代表する金量にもとづいて、自動車の価値を尺度し、その金量をドルで表示することになる。もちろん、アメリカの国内のドルを代表する金量といっても、その金も観念的なものであり、金としては日本の国内の金と同じである。だから問題はようするに商品の価値を尺度する観念的な金を度量する基準が、アメリカ国内の商品市場の現実によって決まってくるものによって、日本の商品の価値を表示するということにすぎない。つまり自動車の価値をドルで表示する。1万ドルだとしよう。輸出業者は自動車を輸出するために船積みを行い、その船荷証券と一緒にアメリカの輸入元にドル為替を切って、それへの署名を要求する。こうして輸出業者はドル為替を入手するわけだが、それを取り引き銀行に持ち寄って預金するのだが、その預金はもちろん円預金だから、そのときの為替相場によって換算されて円預金になる。日本の銀行はそのドル為替を東京の為替市場に交換に出す。アメリカからの小麦の輸入業者は輸入代金を支払うためにドル為替を必要としていたら、それを購入するであろう。ここに為替の売買が成立する。これ自体はあくまでもドル為替という有価証券の売買であって、決して通貨の交換ではない。しかしドル為替を輸出業者は円で購入するのである。だから当然、そこではドルと円とがどれだけの金量を代表しているかが、問われることになる。しかし為替の売買そのものは、こうしたドルと円が代表する金量が基準にはなってはいるが、しがし当事者はそれを意識することなく、ただ直接には為替の需給によってその価格が決まってくるのであり、当事者もそれを直接意識して売買するだけである。だからもちろんいうまでもないが、ここでは決して通貨そのものが交換されているのではない。確かにドル為替を円で購入するためには、ドルと円がそれぞれどれだけの金量を代表しているのかが、問われるし、それを基準に売買当事者は考える場合がないとはいえないが、しかしそのことはドル札と円札を交換する両替とは本質的に違ったことである。もし人がドル札と円札の交換比率を正しく知りたいなら、アメリカ国内における金の市場価格と日本国内における金の市場価格を比較し、その割合に応じて円とドルとの交換比率を決める必要がある(しかしいうまでもないが、実際の金の市場価格そのものもやはりその時々の金の需給の変動によっても変動するのではあるが)。為替の売買においてもこの金の市場価格比が基準になっていることはなっているが、しかし為替の価格そのものは、直接にはその時々の為替の需給によって上下するのである。そして銀行などが行っている両替はその時々の為替相場にもとづいて行っている。だからそれらは実際の両国の通貨の交換比率にもとづいたものとはいえない場合もあるであろう。

 ところで日本の小麦の輸入業者は円で購入したドル為替を輸入代金としてアメリカに輸送する。アメリカの小麦の輸出業者はそのドル為替を自分の取り引き銀行に預金する。この場合はドル為替にもとづくのだから、当然、ドル預金である。その取り引き銀行はアメリカ国内の手形交換所にそのドル為替を持ち込む。そのドル為替には当然、そのドルの支払を行う銀行が記されている(つまり最初に日本から自動車を輸入した業者の取り引き銀行名である)。だからそのドル為替を買い取る義務が、自動車の輸入業者の取り引き銀行にはあるわけである。しかしその取り引き銀行がアメリカの小麦の輸出業者の取り引き銀行が買い取る義務のある為替をもしもっていれば、そしてそれの支払期日や金額が一致すれば、それらは交換所で交換されるだけで相殺されるであろう(その場合はこの両取り引き銀行内における預金の振替で決済されて終わる)。しかし、もし交換所での交換尻が合わなければ、それぞれの取り引き銀行がもっている連邦準備銀行(FRB)の当座預金間での振替によって決済されるのである。つまりドル為替はいずれにしても、そのドル為替 に最終的な支払義務を負う、アメリカの銀行がバックにあるということを前提しており、だからそれらは最終的にはアメリカの手形交換所に持ち込まれて、交換され、そしてその交換所での交換によって相殺されてしまう分については、それぞれの銀行内における預金の振替によって、相殺され、そして交換所での交換で交換尻の合わない分については、最終的にはアメリカの各銀行がFRBにもっている当座預金間の振替によって最終的な決済が行われているのである。

 そしてこれこそがドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれていることの実際の内容なのである。「基軸通貨」とか「管理通貨体制」とか「国際通貨体制」などと、「通貨」という用語が使われていることから、あたかもドル札というアメリカ国内で流通している通貨そのものが国際間でも流通しているかの錯覚があるのであるが、これらはすべて間違いである。映画の007の世界でもない限り、アタッシュケースに入れられたドル札が、麻薬の密売や武器の密売で購買手段として機能するようなことは、実際の貿易においては絶対にないのである。だからここには大きな錯覚というか、間違いがある。輪転機をフル回転してアメリカは世界中から商品を買いまくっている、などと田口氏も書いているが、こんなことが現実にあるわけではない。あるいは田口氏も林氏もドルが国際通貨として、国際的な流通手段や支払手段、蓄蔵貨幣として機能するなどとも書いているが、これらはすべて大きな錯覚であり、間違いなのである。すでに書いたように、ドルが基軸通貨であるというのは、国際的な商品の売買で、商品の価値を尺度するときにドルが計算貨幣として機能しているというだけの話である。計算貨幣のためには、実際の貨幣が必要なのではない。例えば国の予算を組む場合に、90兆円の予算を机上で組んだからといって、90兆円の現ナマを机に積み上げるアホがどこにもいないように、計算貨幣というのは、そうしたものなのである。ドルが世界中で商品の売買の基軸になっているということの意味は、それらの商品が「なんぼや」という問いに、「○○ドルや」と答えているというだけの話しである。そしてドル札ではなく、ドル為替が切られるのである。ドル為替において、実際にドルの支払約束をするのは、あるいはできるのは、直接にはアメリカ国内の市中銀行である。だからドル為替を切るためには、アメリカの市中銀行と何らかの取り引きのある業者が介在していない限り、そもそもドル為替そのものが国際的な商品取り引きで流通しないのである。先に上げた例で説明すると、この場合、日本の自動車の輸出業者がドル為替を切ったのであるが、しかしそのドル為替の支払約束をするのは、アメリカの自動車を輸入する業者の取り引き銀行(アメリカの市中銀行)なのである。だからそのドル為替は、最終的にはアメリカに送られて、アメリカ国内の手形交換所で交換されることになるのである。もちろん、日本の自動車の輸出業者が、直接、為替を送るのではない。彼はそれを自分の取り引き銀行(日本の)に預金するだけである。それはそのときの為替相場にもとづいて、円預金として記帳されるであろう。その日本の取り引き銀行は東京の為替市場に、そのドル為替を売りに出す(もちろん、以前、実際に為替の売買をやる銀行や業者は決められていたが、電子化された今日では相対取り引きも実際には行われているらしい)。するとわれわれの例では、アメリカから小麦を輸入する業者がその輸入代金の支払のために、ドル為替を必要としているなら、それを買うわけである。もちろん、この場合も輸入業者が直接買うわけではない。その日本の取り引き銀行が輸入代金の支払を代行するために、買うわけである。そしてそのドル為替がアメリカに郵送されるわけである。そうするとアメリカの自動車の輸入業者の口座から、小麦の輸出業者の口座に預金が振替られて、日本とアメリカの支払が相殺され、決済されることになるわけである。これは実際に行われている国際的な取り引きの実態であり、ドルが「基軸通貨」として機能しているということの実際の内容なのである。だからドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれるが、それは直接には「通貨」や「通貨の体制」というより、世界的な決済システムの問題、世界的な信用システムの問題なのである。国際的な決済がアメリカのメガバンクが中心になって行われており、最終的にはアメリカの中央銀行=FRBにあるメガバンクの当座預金間の振替によってなされているということなのである。そしてこのことの意味は、このFRBが世界の信用システムの軸点になっているということでもある。「国際通貨体制」というのは、こうしたアメリカの中央銀行を中心とした世界的な信用システムの体制のことである。だからこれらはドル札という「通貨」とは直接にはまったく関係がないし、ドル札などは国際的にはまったく流通していないのである。最終的にはFRBの当座預金間の振替が行われてすべての支払は決済され、相殺されているわけである。現金が出てくる余地はまったくない。だからその間、ドルはただ計算貨幣として機能しているだけなのである。流通手段としても支払手段としても機能していないし、もちろん、蓄蔵貨幣としても機能していない。そもそもドルが蓄蔵貨幣として機能するというのは、ドル札をタンス預金という形で(あるいは引き出しにしまい込むという形で)蓄蔵することを意味するのである。ドル札を銀行に持ち込んで預金した場合、確かに預金者にとって、それは蓄蔵貨幣として機能しているように見えるかも知れないが、しかしその預金された現金は、決して銀行に留まっていないのである。だからそれは蓄蔵貨幣ではない。ましてや国際的にはそもそもドル札が流通していないし、だれもそれを貯め込むこともできないのである。もちろん、国際的な麻薬密売組織や武器の密売組織などの場合は別ではあろうが。

 林レジュメでは、元の国際化ということが言われているが、もしそれが現実になるとするなら、同じような国際的な決済システムが、中国人民銀行を信用の軸点として、形成されるということでなければならないのである。しかし林レジュメでは、そんなことがまったく分からずに、論じられている。それが証拠に、ユーロ圏とドル圏が同じようなものとして論じられていたりするし、戦前のブロック化と同じような意味合いで論じられたりしている。しかしこれらはすべて無概念の産物であり、くだらないおしゃべり以上ではない。むしろ混乱や間違った観念を振りまいているものでしかないのである。

 こんな馬鹿げたことがセミナーのレジュメに堂々と書かれて、その間違いが、誰によっても指摘されないでまかり通っている同志会の現実というのは、果たしてどう評価したらよいのであろうか。そしてその間違いを指摘する人がいると、彼は林教祖様から、罵られ、罵倒され、攻撃されるわけである。だから誰一人として、「王様は裸だ」という人がなくなってしまっているのが、同志会の今の現実ではないのか。これが一つの頽廃でなくて、何であろうか。

2015年7月 1日 (水)

現代貨幣論研究(7)

            『海つばめ』1008号、平岡正行論文「インフレとは何か」批判

 前回の現代貨幣論研究(6)で言及したので、ついでだから、『海つばめ』1008号(2006.1.15)の平岡論文の批判も紹介しておこう。これはこの論文が出されたそのときに批判的メモとして書いたものであり、ほとんど手を加えずにそのまま紹介することにする。その一部は、前回、すでに紹介したのであるが、今回は、そのノートの全文を紹介することになる。
 (なお平岡氏の論文は、一般の読者には今では容易に見ることが困難と思えるので、今回は、その全文を付録として付けておく)。

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 平岡正行氏が『海つばめ』1008号で「インフレとは何か」と題して、主に田口騏一郎氏を批判している。詳しい検討はやめるが(それだけの価値を認めないから)、簡単にコメントしておきたい。
 まず平岡氏は田口氏が「金本位制のもとでもインフレが起こる」と述べたことに噛みついている。確かに田口氏の言い方は説明不足だし、このことで何を言いたいのかはやや分かりづらい。しかし悪意を持って田口氏の論文を読まないなら、田口氏の言いたいことは分からないこともない。
 要するに問題は「金本位制」という言葉で何を含意しているかである。どちらも「金本位制」とは何かを説明せずに論じている点では共通している。しかし両者は「金本位制」ということで含意している内容がどうやら違うように思えるのである。
 田口氏の場合は、「金本位制」ということで、恐らく金が貨幣となっており、金の一定量を基準に度量標準が決まっているという程度のものとして考えているように思える(他方、平岡氏は「金本位制」をほぼ「金兌換制」と同義と考えている)。こうしたことから田口氏はマルクスも述べているというのであろう。確かにマルクスが紙幣流通の独自の法則について語っている場合、彼は金鋳貨を前提に論じており、流通必要金量を前提している。その上で、紙幣の代表する金量の減少による名目的な価格の騰貴を説明しているのである。だから田口氏は恐らくマルクスは金が貨幣として存在し、金による価格の度量標準を前提した上で、紙幣の流通から価格の名目的騰貴(インフレという用語は使っていないが)説明しているではないかということを、「金本位制でもインフレは起こる」といったのであろう。善意に解釈すればこのように理解できる。しかし悪意を持てば、これは次のような批判になる。すなわち平岡氏は次のように批判している。
 平岡氏はまず田口氏の論文から次の一文を一部カットして引用する。

 「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である。……インフレとはなにかを明らかにするためには、貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない。こうしたことが明らかになってはじめてインフレとはなにかについて明らかにすることができる」

 そして次のようにこの一文について批判するのである。

 〈つまり、金本位制のもとでのインフレの関係を明らかにすることが、インフレとはなにかについて原理的に明らかにすることになり、その結果から、インフレとは貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準の問題だというのである。〉

 しかしこれは林紘義氏流のねじ曲げた解釈というべきではないだろうか。では平岡氏に聞くが、平岡氏は、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能を前提せずにインフレを説明するというのであろうか? やれるものならやってみるが良い。それが出来るなら、ここでの放言を認めようではないか。田口氏が言っているのはただそういうことでしかない。田口氏は「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である」と述べている。この田口氏の言い方を見ても、氏が「金本位制」で何を含意しているかが窺い知れる。要するにそれは金が貨幣となっており、金の一定量によって度量標準が決められているというぐらいの意味しか持たせていないのである。それに田口氏は「インフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴」であると問題は流通手段としての貨幣の機能に関わる問題であることをハッキリ捉えている。ただ田口氏がいわんとすることは、そうした流通手段としての貨幣の機能からインフレを説明するためには、「貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない」と述べているだけである。つまり流通手段の機能から紙幣流通の独自の法則の結果として、価格の名目的な騰貴を説明するためには、そもそも貨幣の価値尺度機能や度量標準の機能が前提されなければならず、それらがまず説明されなければならないというに過ぎないのである。だからもしこの田口氏のこの言明を否定するなら、平岡氏は貨幣の価値尺度機能や度量標準の機能を抜きに、インフレを説明しなければならないことになるのである。出来るものならやってみるが良い。
 平岡氏も次のように述べている。

 〈マルクスは紙幣流通の法則について、その流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴することについて述べている。これがインフレの概念を示していることは田口氏も言うとおりであるが、しかし、マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった。ところが今や、金本位制からははるかに離れ、紙幣化する不換銀行券が流通するという、まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか。〉

 まずここでは平岡氏もマルクスの「紙幣流通の特殊な法則」による物価の騰貴の説明が「インフレの概念を示している」ことを認めるのである。ところが平岡氏はどうやらこれだけでは満足しないようである。では平岡氏はそれに代わるインフレの概念をどのように説明するのかというと、皆目この論文でもやっていない(出来ない)のである(これは林氏においてもまったくおなじであるが、それは別途問題にしよう)。ところがこのマルクスの「インフレの概念」の説明をただ紹介しているだけの田口氏に噛みつくことだけは出来ると考えているのである。大したものではある(この大それた思い込みはただ林氏が田口氏を批判しているから“安心”してそれに追随しているだけでないなら幸いである)。マルクスに対してはまともに批判はできないが、しかしマルクスの説明をただ紹介しているだけの田口氏対しては批判できると思っている(これは林氏においても然り)。しかしもしそういう批判なら、つまりマルクスの説明を是としながら、なおかつ田口氏を批判するというなら、それはただ田口氏のマルクスの「インフレの概念」の説明の紹介は正確ではない、マルクスの説明を間違って紹介しているというような批判でしかないはずである。しかし林氏の批判はもちろん、平岡氏の批判も決してそうしたものではない。田口氏の論文はあくまでもマルクスの「インフレの概念」の解説を試みたものであろう。それを批判するなら、正しい解説を対置するのが批判の正しいやり方というものであろう。
 また平岡氏はここで「マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった」とも述べている。つまり平岡氏もマルクスの説明は「金本位制」のもとでのものであるということを認めているのである。ただ平岡氏は「一時的にその制約を停止した」と述べている。しかしそれは何を意味するのか、もともとマルクスが論じている紙幣は「国家の強制通用力によって流通に投げ込まれる紙幣」であり、だから不換券であることは明らかである。マルクスもそれが一旦流通に投げ込まれれば、自分から流通に出てくることはないとも述べている。しかしそれが例え不換券であっても、流通過程では金を代表していることは明らかである。金を代表するということは前提されており、だからこそそれは流通手段として機能するのである。
 そもそも平岡氏は〈その(紙幣の--引用者)流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴する〉と述べている。ということは同じ不換券でも流通必要量以内の発行であれば、「金本位制」のもとでの発行だが、それが流通必要量を超えるととたんに金本位制は「その制約を停止する」のだそうである。ここでいう「金本位制の制約」とは何かを平岡氏は説明すべきであろう。そしてそれは「停止」したり「発動したり」できるものなのであろうか。もしそれが「兌換」と同義というなら、そもそも紙幣は最初から不換券なのである。だから最初からそれは「制約を停止された」ものとして存在しているのではないのか、つまりそれは平岡氏の考えを前提すれば、最初から金本位制ではないとも言えるのではないのか。
 さて上記の引用の最後で平岡氏は〈まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか〉という。しかしそうであるなら、マルクスが紙幣流通の特殊法則として述べていることを前提に、その法則の貫徹として今日のインフレも説明されるべきであろう。問題はそれが「常態化」している歴史的条件とその法則の今日における変容を明らかにすることである。それはマルクスの紙幣流通の独自の法則を前提にしてのみ説明可能なものではないのか。だからこそ田口氏はまずマルクスのその法則の解説を試みたのではないのか、田口氏の論文の意義もそこにあるのではないのか。そもそも平岡氏がこのようにいうなら、それを自分でやって見るべきであろう。
 ところで平岡氏は林氏が現代の通貨の価値尺度機能や度量標準機能についてこれを否定する主張を行っている(明確に否定せずにあいまい模糊とさせているところが林氏のズルイところなのだが)ことにも批判を向けている。平岡氏は一見すると〈しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない〉と述べて、これらを認めているかのようである。しかしすぐに次のようにも述べてこれを否定する。〈しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか〉。これを見るともともとは〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題〉であって、概念の問題ではないかのようである。しかしそれらは現実の経済過程の問題であるからこそ、概念的に説明可能なものであり、概念的説明によってこそ科学的に説明できるのである。そしてマルクスはそれをしているのである。だから現代において〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能〉が〈その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題〉であって、「現実の経済過程の問題」ではないというのは、問題の混乱以外の何ものでもない。もしそれは概念であるなら、その概念から現実の過程を説明してこそそれは概念たりうるのであり、現実の過程と結びつかない概念などは概念とは言えないのである。本質は現象するしせざるを得ない。現象しない本質などは本質とは言えない。実際問題として現代の通貨が諸商品の価値を価格として表現していることは歴然たる事実である(われわれは商品が「○○円」という値札をつけて店頭にならんでいることを日常の事実として知っている)、また度量標準によって比較可能になっていることも現実の過程ではないのか(100万円の自動車は100円の歯ブラシの1万倍の値段である)、そしてそれを説明するのに、〈「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能〉を前提せずして、どのように説明可能なのか、考えなくても明らかであろう。それは現実の経済過程と結びついているからこそそれは概念(本質的関係)なのだ。それを説明することが今日のわれわれの理論的課題なのである。「概念」だといって棚上げすることによっては何も説明できない。平岡氏のように〈したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか〉というなら、それは科学を放棄するに等しいであろう。
 もし平岡氏がそうした「抽象的な概念」を抜きに「現代社会における現実的な問題」であるインフレを「解明」できるというならやって貰いたい。それができるなら話は簡単である。しかしそもそも「インフレとは何か」というこの平岡氏の論文の表題に掲げた問題一つとってもこの論文では何一つ説明されていないのではないか。平岡氏はインフレについてどんな規定も与えていない。マルクスによる「インフレの概念の説明」は認めているようである。しかし平岡氏の独自の「現代社会における現実的な問題」としてのインフレについて何の説明もないし、どんな規定もないのである。
*     *     *     *     *
 ついでだから、平岡氏が肯定しているように思える(これはあからさまに行っていないが論文の基調はそのように読めないこともない)林紘義氏のインフレの規定について一言いっておこう。林氏は『プロメ』48号の「現代資本主義とインフレの問題を探る」で次のように述べている。

 〈「通貨」の減価として規定されて初めて、インフレはインフレとして、その概念に適応したものになるのではないのか〉(113頁)

 これがどうやら林氏の現代のインフレの規定であり、「概念」らしい。なんともお粗末なものではある。なぜなら、林氏はこの論文のもとになった学習会のレジュメでは、次のように述べていたからである。

 〈インフレがインフレであるためには、物価上昇が通貨膨張によって媒介されなくてはならない。つまり、「価格の度量標準の引き下げ」(俗に言えば「通貨の減価」)にまで立ち到っていなければならない。〉

 つまりこの説明によれば、「通貨の減価」というのは「俗に言えば」という但し書きによる説明であり、いわば通俗的な説明なのである(ところでこのレジュメの一文は『プロメ』の論文では〈インフレがインフレであるためには、物価上昇が通貨膨張によって媒介されなくてはならない。つまり、「通貨の減価」にまで立ち到っていなければならない〉と書かれ、レジュメで「俗に言えば」という補足的な説明が本文に来ている。これはいうまでもなく、田口氏の論文に対する批判との整合性を考えてのことであろう。しかしご都合主義的であり、姑息な辻褄合わせではある)。
 しかしそうであるなら、つまり「通貨の減価」が通俗的な説明であるというなら、どうしてインフレの科学的な概念的規定がそれをもってできたと言いうるのであろうか。まさかいくら林氏でも、レジュメ段階では通俗的だったが、論文にする段階では科学的になったのだとは言わないであろう。
 林氏がレジュメではどうして〈「通貨」の減価〉を通俗的な説明だといったかというと、ここで「通貨」という場合、それは林氏によれば、「紙幣化しつつある銀行券」を意味しているからである。つまりそれ自体には何の価値もないものでしかない。にも関わらずその「減価」が言われているからである。「価値」のないものが「減価」するのは概念矛盾も甚だしい。だからそれはあくまでも通俗的な説明だというのである。科学的には「紙幣化しつつある銀行券」が流通過程で代表する金量の減少という意味である。これが本当は科学的な説明なのである。そしてそれは度量標準の切り下げと実際上は同じ意味をもつとマルクスは説明しているのである(もちろん念のために言っておくと、法的・制度的な切り下げと流通過程における実際上の代表金量の減少とは決して同じではない)。しかしこの科学的な説明を林氏は、田口氏の論文を批判する手前、否定したい。だから林氏はその通俗的な説明に今度はしがみつくしかないのである。
 そもそも貨幣は諸商品の価値を表現するが、自身の価値をそれによっては表現するわけではない。貨幣の価値は貨幣と交換される諸商品列(使用価値)によって表現されているというのがマルクスの説明である。ということは、もし林氏のいう〈「通貨」の減価〉というものをただ機能だけに限って考えるなら(というのはそもそも通貨には価値はないと林氏はいうからである)、その「通貨」によってその価値が表現されている(尺度されてる)[といっても林氏は現代の通貨の価値尺機能を認めないのだからこうしたことも説明不可能になるのだが]諸商品全体(その使用価値全体)によって表現されている(尺度されれている)のである。とするならその「減価」とは何か、通貨によって表現されている(尺度されている)諸商品の使用価値量が減ることであろう。つまり1000円という「通貨」がそれまでは10個のリンゴの価値を表現していた(尺度していた)とするなら、10個が9個にも8個にもなるということである。要するにこれは物価の上昇をただ現象的になぞったことを意味するに過ぎない。これが林氏よれば、〈インフレはインフレとして、その概念に適応したものになる〉というのである。それなら、現代のインフレとは、通貨と交換される諸商品量が減ることと言っているのと同じである。これのどこが「概念」なのかといわざるをえない。こんなものはただ現象を言っているだけであり、ブルジョア経済学者でさえ言わないであろう。これではほとんど何も言っていないのに等しいのである。
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 結局、平岡氏も林氏も、マルクスの貨幣論にもとづき、紙幣流通の独自の法則からインフレを説明しようという田口氏の試みを否定しているのである。平岡氏は一方でそれらを「概念」としては認めても、現実の経済過程の解明には役に立たない、むしろ混乱を持ち込むものだとまでいう。林氏もマルクスの貨幣論を現代のインフレの解明に適用するのは「奇妙に見える」のだという。
 要するに両者に共通するのは、マルクスの『資本論』、その「貨幣論」は現代のインフレを解明し、説明するのには役立たないと宣言していることである。だからこそ彼らはマルクスの貨幣論にもとづいて、マルクスが明らかにしている紙幣流通の独自の法則による商品価格の名目的な騰貴の説明を、「インフレの基礎理論」として紹介、解説しようとする田口論文の意義を否定するのである。つまり二人ともマルクスの『資本論』から現代のインフレを説明するのは間違いだと言っているのだ。現代のインフレを説明するのにマルクスの『資本論』はすでに古くさいのだと実際上は言っているのだ。なぜなら、マルクスの理論は金が貨幣として通用していた時代のものであるが、〈今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である〉からだという。だからそんなものはすでに古くさいのであり、ただ混乱を持ち込むだけだと彼らは実際上主張しているのである。
 あれほど『資本論』研究の必要を強調し、『資本論』第一章を繰り返し学習せよと主張した林氏が(そしてそれに賛成した平岡氏が)いまや『資本論』の否定者として現れている(少なくとも「現代の現実の経済過程」の解明には役立たないという)。もっとも同志会への移行時に林氏はこうしたことを口走ったものの、いまでは主張した本人自身はすっかり忘れてしまっているようではあるが。しかし何という変わりようであることか、何と驚くべきことであろうか。
 しかし彼らが『資本論』の否定者として現れるなら、われわれはその断固たる擁護者として現れるし、現れなければならない。

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【付録】

【三面トップ】インフレとは何か--田口氏の問題意識に疑問--田口・林論争に寄せて

 インフレをめぐる、田口、林両氏の論争について考えてみたい。田口氏は、『海つばめ』1002号において、「インフレは金本位制のもとでも起こりうる」とし、林氏もそれを肯定しているかのように述べている。そして、マルクスもまたこうした主張をしているかに述べている。はたしてこれは正しいであろうか。これが私の疑問の出発点であった。以下、論争をもとにインフレについて考えてみたい。

◆田口氏の議論の出発点

 田口氏は次のように言う。
「林氏は、インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なものであるという。もちろんそのように言うことはできるだろう。流通手段が自立化し、貨幣との関連を断ち切られているような時代にあっては流通手段の“減価”は容易となるからである。しかし、林氏もことわっているように、インフレは金本位制のもとでも起こりうる。事実、マルクスはインフレという言葉を使用してはいないにしても、アメリカの南北戦争時代のグリーン・バックスの発行によるインフレ現象について述べている。また一九二〇年代のドイツの有名なインフレもそうであった。もともと私の問題意識は『インフレとはなにか』について原理的に明らかにするということにあった。副題に『マルクスから学ぶ』としたのはこうした意図を含んだものであった」(『海つばめ』1002号)
 この一文に田口氏のインフレ問題を論じる出発点があるように思われるし、同時に、ここに誤りがあるのではないか、というのが私の意見である。
 田口氏は、「インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なもの」ということについて、「もちろんそのように言うことはできるだろう」と肯定するかのように述べているが、しかし、実際にはそれに反対している。というのは、そのすぐ後に展開されている文章を見れば明らかである。
 つまり、「インフレとはなにか」という原理的なものを明らかにするには、インフレは金本位制が廃止されている時代に特有なものではなく、「金本位制のもとでも起こりうる」ものなのだから、むしろそこでの関係を明らかにしなければ、「原理的に明らかに」したことにはならない、というのが田口氏の問題意識であるように思われる。
 しかし、金本位制のもとでのインフレを検討することが、インフレについて原理的に明らかにするものなのであろうか。それに、そもそも金本位制のもとでインフレは起こりうるのだろうか。もし、起こらないとすれば、田口氏の検討は的外れの検討ということになる。私は、田口氏がインフレの原理的なものをこうした検討の仕方に求めたから、インフレは貨幣の価値尺度機能の問題だという“迷路”に迷い込んだのではないかと考える。
 事実、田口氏は先の引用に続いて次のように述べている。
 「金本位制のもとでのインフレ現象とは、流通手段の代表する金量の減少による価格の騰貴である。……インフレとはなにかを明らかにするためには、貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準とはなにかについて述べなくてはならない。こうしたことが明らかになってはじめてインフレとはなにかについて明らかにすることができる」
 つまり、金本位制のもとでのインフレの関係を明らかにすることが、インフレとはなにかについて原理的に明らかにすることになり、その結果から、インフレとは貨幣の価値尺度機能、価格の度量標準の問題だというのである。

◆金本位制のもとでのインフレ?

 では、金本位制のもとでのインフレという問題について考えてみよう。
 田口氏は、林氏もまた、インフレは金本位制のもとでも起こりうると言っているかに述べているが、林氏の「海つばめ」1001号の主張は次のようなものである。「(インフレは)金本位制の廃絶を必ずしも必要としないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の『管理通貨制度』のもとにおいて一般的に発展するのである」
 つまり、林氏が「金本位制の廃絶は必ずしも必要としない」としているのは、金本位制が廃絶されないまでも、その機能が一時的に停止された時代にはインフレがあり得たということであり、金本位制が機能しているもとでインフレが起こるといったこととは別のことを述べていると、私には思われる。金本位制が機能した状況のもとでもインフレは起こるという田口氏の強い観念が、林氏の見解をゆがめてしまっているのではないか。
 そしてまた田口氏は、金本位制のもとでもインフレが起こることの証明として二つの歴史的事例を示している。しかし、この二つの例も、金本位制が機能しているとは言えない、つまり金本位制ではない状況のもとでのインフレなのである。
 最初は、田口氏が、マルクスもまた金本位制のもとでのインフレを認めていたかに述べ、引き合いに出している「アメリカの南北戦争時代のグリーン・バックスの発行によるインフレ現象」である。
 グリーンバックスとは南北戦争中の一八六二年二月制定の法貨法にもとづいて発行された裏面が緑色の合衆国紙幣のことで、戦費調達のためのものであった。この紙幣は、三次にわたる法貨法のもとで最大発行額四億五千万ドルに達し、インフレの原因となったのである。
 しかしこれが金本位制のもとでの事かというと、事情は異なる。
 米国の中央銀行としては、一七九一年の第一次と、一八一六年の第二次合衆国銀行が存在したが、一八三六年に消滅してしまい、一九一三年に連邦準備制度ができるまで不在であった。したがって、連邦政府はこの不在の間、紙幣を発行せず、グリーンバックスはあくまで例外であった。一般に流通していたのは州が認可した州法銀行券で、一八六三年の全国銀行法の成立以降は、国法銀行(五万ドル以上の資本を持つ銀行が認められた)の発行する国法銀行券(全国どこでも通用する統一的な紙幣)に代わっていった。
 グリーンバックス紙幣が発行されたのはこうした時代のことであり、「第3次法貨法の規定によりその国債への転換が拒否され、グリーンバックス紙幣は不換紙幣化したが、正貨兌換再開=通貨の収縮を支持する東部の銀行家・商人・綿工業者などと、通貨の膨張を要求するペンシルヴェニアの鉄鋼業者を中心とする下から展開しつつあった産業資本家や西部・南部の農民とのあいだの激しい抗争をへて、一八七五年に制定された正貨兌換再開法によって一八七九年一月一日より金との一対一での兌換が実現するという大変特異な収束の経過をたどることとなった」(大月『経済学辞典』)といわれるように、不換紙幣化していたからこそインフレを招いたのであり、金本位制のもとでのインフレとは言えないのである。ちなみに、一八七九年からの金との兌換によって米国は実質的な金本位制に入ったと言われ、正式に金本位制を採用するのは一九〇〇年になってからのことである。
 次に、第二の例である「一九二〇年代のドイツの有名なインフレ」について見てみよう。
 ドイツは一八七一年に成立し、二年後の一八七三年七月九日に金本位制採用を公布している。しかしここでもまた戦費調達のために、一九一四年八月四日、戦時金融立法によって銀行券の兌換義務はなくなり、金本位制から一時離れることになったのである。
 「『ライヒス・バンク(ドイツの中央銀行―平岡)は、もし三ヵ月より遅くない満期であるとするならば、国庫証券を割り引く権限を与えられ、そしてこれらの国庫証券を同行の法定準備の一部として使用することを公認された。これらの証書は、国庫のサインだけをもつものであったが、こうした同行の準備金に関して商業手形と同等にされた。この条項は、戦時中のライヒス・バンクの割引政策における基礎的な変化を特徴づけている。そして、発券に対するその効果は、強調しすぎることはありえない。』『銀行法の新しい改正は、国庫以外の他の保証人の追加的な裏書を廃止した。だからライヒスは、自己宛を意味するところの国庫宛に証書を振り出すことができ、ついでこの証券を同行で割り引くことができた。』ここにみるように、ライヒス・バンクの割引する銀行適格手形が、国庫手形からさらに短期の国庫証券(単名手形)に拡大されて、それが発券準備金に組み入れられたことは(金兌換停止)、中央銀行の発券・短期信用原則にたいする根本的な変化を示す」(生川栄治『ドイツ金融史論』・有斐閣)といった状況のもとで、大量の不換銀行券が発行され、インフレを引き起こしたのであって、これもまた、金本位制のもとでのインフレとは言えないのである。
 そもそも、金という価値を持った貨幣だけが流通する社会においては、流通必要金量を超えて貨幣が流通するわけではない。それは田口氏も認めるところである。それがなぜ、金本位制のもと、つまり金との兌換を義務づけられた紙幣や銀行券が流通するとインフレになると言えるのか。金との兌換という制限によって、それらが必要流通金量を超えようとしても制約を受けることになるのではないのか。もし、金本位制のもとでも恣意的に紙幣量をコントロールできるというのなら、いくらでもその量を自由に操って経済をうまく運営できるとする貨幣数量説論者の立場に限りなく近づくことになるのではないか。これが田口氏の見解に対する私の疑問である。

◆田口氏の見解の誤り

 京都で、インフレについての田口・林論争を検討したときに、田口氏の見解は正しくないが、林氏の批判(「海つばめ」1001号)も「貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や『価格の度量標準』機能を問題とすること自体、奇妙に見える」と言うのは言い過ぎだ、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能は現代ではないと言えるのか、といった意見が出され、議論となった。他の会員からも同様の質問も出ているようなので、これについての私の考えを述べながら、さらに田口氏の見解を検討していこう。
 「貨幣の価値尺度機能」という場合の「貨幣」は労働生産物たる商品である。そうであるからこそ、他の諸商品に等置されることができ、価値尺度として機能するのである。逆にいえば、価値尺度機能はある商品(例えば「金」)を貨幣たらしめる機能であって、諸商品の価値表現に材料を提供する機能である。
 一方、商品の価値を貨幣として機能している商品であらわしたものが価格であるが、価値尺度たる商品が金であるとすると、諸商品の価値の大きさは金の分量で表現されることになり、種々の分量を比較するためには一定の度量単位を、例えば「純金の量目二分(七百五十ミリグラム)をもって価格の単位と為しこれを円と称す」という具合に定め、この純金七百五十ミリグラムという度量単位を十進一位を持って分割・統合した度量標準が定められた。つまり「価格の度量標準」機能とは、金属貨幣で測られた同じ名称の大きさとして諸商品が互いに関係しあうことである。
 今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である。しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない。商品の価値の大きさは社会的必要労働時間によって決まるが、商品は他の商品との交換によってしかその価値を表現することはできず、したがって、商品社会においては諸商品の価値を表現するために、ある商品を貨幣というものにして価値尺度機能を果たすしかないからである。
 ただし、価格の度量標準について言えば、紙幣化した不換銀行券が流通している現在においては、円が金何グラムを表しているかは固定的ではない。この限りでは価格の度量標準そのものがなくなったかである。しかし、諸商品が金貨幣で測られた同じ名称の大きさとして互いに関係しあうという、その機能については依然として維持されていると考える。
 しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか。
 したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか。
 マルクスは紙幣流通の法則について、その流通量が流通必要金量以内であれば一般的な貨幣流通の法則と同じであるが、紙幣は金貨幣のような制限を持たずに、流通必要金量以上に流通に投げ込まれるから、そこでは紙幣流通の特殊な法則があらわれ物価が騰貴することについて述べている。これがインフレの概念を示していることは田口氏も言うとおりであるが、しかし、マルクスの時代には、まだ金本位制が基本的には貫かれており、こうした特殊法則は一時的にその制約を停止したときの問題でしかなかった。ところが今や、金本位制からははるかに離れ、紙幣化する不換銀行券が流通するという、まさにマルクスが紙幣流通の特殊法則について述べたような状況が常態化しているのである。とするなら、インフレはこうした「特殊法則」が常態化している状況の問題として解明されなければならないのではないのか。
 私はインフレ問題を検討する中で、田口氏の見解に近い見解に出くわした。それは、「新しいインフレーションが古典的インフレーションにどれほど似ていないものであろうとも、それが物価の名目的騰貴の一種であるかぎり、その本質は、つねに、貨幣の価格標準の視角から解明されなければならないであろう」という岡橋保(『現代インフレーション論批判』日本評論社)の見解である。
 岡橋は「インフレーションの本質は価格標準の切り下げにもとづく物価の名目的騰貴」という立場をとるのであるが、これを強調するあまり、次のような誤った方向に進んでいる。
 彼は「インフレーションの現象形態は、金貨流通のばあいと、紙幣の専一的流通、あるいはこんにちのように兌換の停止された銀行券の専一的流通のもとにおけるばあいとでは、いちじるしく相違している」と一見その違いを強調しているように思えるのであるが、しかし、それは現象形態が相違しているということを述べているのであって、本質においてはなんら変わらないという立場をとっている。つまり、「商品の展開された一般的価値形態=貨幣形態が確立しておりさえすれば、単純商品流通の段階であれ、自由資本主義あるいは国家独占資本主義の段階であれ、価格標準の切り下げによる物価の名目的騰貴はかならずおこる」「インフレーションの本質であるところの価格標準の切り下げにもとづく物価の名目的騰貴そのことには、なんらのかわりもないからである」(前掲書、50~51頁)というのである。
 金本位制の時代も紙幣の時代も、そして不換銀行券の場合も、すべて、インフレの本質は価格標準の切り下げによる物価上昇だから同じであり、それぞれその現象形態が違うだけだというのである。はたして田口氏の見解はこうした岡橋の見解に迷い込みはしないであろうか(田口氏が金本位制のもとでのインフレにその原理をもとめたことは偶然であったのか)。
 岡橋の場合は「紙幣の過剰発行にもとづく価格標準の事実上の切り下げからおこる物価の名目的騰貴を、特に紙幣インフレーションあるいはインフレーションと呼んで、次に述べる価格標準の法律的切り下げによる物価の名目的騰貴を、平価の切り下げと名づけ、紙幣インフレーションと平価の切り下げとを区別し、両者のあいだになんらか本質的な区別でもあるかのように強調する論者もあるが、それはまちがっている」(同50頁)とさえ言い切るのである。
 田口氏はインフレの場合は「事実上の」という言葉をつけて、同じ価格の度量標準の切り下げによる物価上昇であっても、インフレと法的な切り下げとを区別していると林氏に反論したのであるが、インフレの本質を「価格の度量標準の切り下げによる物価上昇」とすれば、岡橋の方がある意味徹底しているのである。そしてわれわれは、岡橋のような誤った見解に迷い込まないためにも、インフレの本質をこうした点に求めることはまちがっていると考えるのである。
 岡橋は、「(われわれは)口では価格標準視角を云々しながらも、結果的には、これを放棄してしまった人たちを問題にする。これらの人たちは、インフレーション騰貴の名目性を価格標準の切り下げ、あるいはそれと同じ事態のなかに求めながらも、インフレーションと為替相場や金の市場価格との関係の一面だけしか見ようとしなかったり、あるいはそれを無視ないしは否定する。このような理論的偏向は、兌換停止下の銀行券を不換紙幣と同一視するその本質観のうちに、すでに、予見されたのであるが、さらに、兌換停止下の銀行券流通における貨幣流通の諸法則の支配を拒否することによって決定的なものとなった。こうして、こんにちの多彩なインフレーション論の氾濫が生じたのであるが、この理論的偏向は、じつは、価格標準の事実上の切り下げと法律上の切り下げ(平価切下げ)との区別のなかに起因している。しかもそれは、ヨリ根本的には、マルクスや、ことに、エンゲルスの銀貨幣の事例における誤りに発しているようにみえる」とさえ断言している。
 田口氏はこうした岡崎の見解にどう反論するのであろうか。
(二〇〇六・一・九)
(平岡正行)

2015年6月25日 (木)

現代貨幣論研究(6)

           『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をどのように位置づけるのか

 以前、インフレーションを特集した『プロメテウス』(以下、『プロメ』と略)No.48をめぐって林紘義--田口騏一郎両氏の間で論争があった時に(この論争は「現代貨幣論」を研究するうえでなかなか興味深いものであり、われわれも今後も恐らく何度も取り上げる機会があるかも知れない)、平岡正行氏はその論争を取り上げて『海つばめ』1008号に「インフレとは何か」という論文を発表した。その論文は林氏の主張を概ね肯定しながら、田口氏の主張を批判するものであった(その論文そのものの批判はここでは取り上げない)。そこで彼は「田口氏の見解の誤り」という小項目の冒頭、次のように書き出している。

 〈京都で、インフレについての田口・林論争を検討したときに、田口氏の見解は正しくないが、林氏の批判(「海つばめ」1001号)も「貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や『価格の度量標準』機能を問題とすること自体、奇妙に見える」と言うのは言い過ぎだ、貨幣の価値尺度機能や価格の度量標準機能は現代ではないと言えるのか、といった意見が出され、議論となった。他の会員からも同様の質問も出ているようなので、これについての私の考えを述べながら、さらに田口氏の見解を検討していこう。〉

 ここで林氏の主張を「言い過ぎだ」としたのは恐らく平岡氏であろう。だから彼は『資本論』の冒頭の分析を踏まえて、次のようにいうのである。

 〈今日においては、金貨幣はおろか兌換銀行券すら実際には問題にならないような(つまり機能していない)時代である。しかし私は、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものがなくなったとは考えてはいない。〉

 このように平岡氏は一見すると、林氏を批判して『資本論』の冒頭の分析を肯定しているように言いながら、しかし続けて次のようにも言うのである。

 〈しかしながら、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能そのものはなくなっていないとはいっても、金貨幣が現実に流通しているわけではなく、紙幣化した不換銀行券だけが流通している時代であり、「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能も現実の経済過程の問題というよりも、その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題といえるのではないだろうか。
 したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか。〉

 つまり平岡氏は、『資本論』の冒頭で明らかにされている貨幣の諸法則は否定しようもないが、しかしそれは〈インフレといった現代社会における現実的な問題を解明〉するためには役に立たず、そういう問題から現代的な問題を解明しようとすると〈余計に混乱することにな〉るというのである。つまり平岡氏は一見すると林氏とは違って『資本論』の冒頭で分析されている貨幣の諸法則の正しさを認めているように見える。しかし金貨幣が流通していないのだから(よってそれは機能していないと彼は即断するのだが)そんなものは役には立たないというのであり、これでは、結局、林氏と何も変わっていない。林氏は1001号の『プロメ』No.48を紹介する記事で田口会員の主張を批判して次のように書いていたのである。

 〈そもそもインフレとは、貨幣が流通手段の機能において自立化し、ついには紙券化し、その結果として流通において減価する現象である。金本位制の廃絶を必ずしも前提はしないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の「管理通貨制度」のもとにおいて一般的に発展するのである。つまり、貨幣が廃絶され、一般的に紙券に取って代わられている時代を前提とするのである。
 そんな貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える。〉

 同じような主張は『プロメ』No.48の猪俣の為替インフレ論を批判した論文の中にもみられる。

 〈金本位制を前提にするなら、為替相場が一定の限界--「金現送点」の狭い範囲内--を超えて変動することは決してない。他方、金本位制が崩壊するなら、それはすでに金が貨幣として現実に存在せず、ほとんど機能していないということだから--その役割は潜在的に貫かれるかもしれないが--,そもそも貨幣の価値尺度の機能とか、計算貨幣としての役割とかを“まともに”論じること自体がナンセンスに思われる。価値と価格との関係が混沌としたものとなり、不明となり、常に変動するものになるからこそ、つまり貨幣の価値尺度の機能とか計算貨幣の機能などが働かないからこそ、通貨の兌換停止、金本位制の崩壊は資本主義的生産を根底からゆさぶる動揺であり、その解体の始まりを意味するのである。商品の価格もまた形式的なもの、"無概念”となる。〉(75頁)

 ここでは林氏は、不換制下では商品の価格そのものが無概念になるとまで述べている。しかし林氏がどう言おうと、戦後の不換制下のいわゆる「管理通貨制度」が開始されて(「管理通貨制」への移行そのものはすでに戦前から始まっているのだが)、すでに半世紀以上にもなる。戦後の日本の“高度経済成長”は、まぎれもなくこうした通貨体制のもとでなし遂げられたのではないのか。林氏がいくら〈通貨の兌換停止、金本位制の崩壊は資本主義的生産を根底からゆさぶる動揺であり、その解体の始まりを意味する〉などと述べてみても、そうした指摘はまさに戦後の歴史そのものによって否定されている。つまり林氏の主張の理論的破綻は歴史的な事実によって実証されてしまっているのである。

 要するに、二人とも『資本論』の冒頭で分析されている貨幣論については、それは抽象的には正しいが、しかし現実の経済過程を説明するのには訳に立たないという点では一致するわけである。だから表題に掲げた《『資本論』の冒頭の商品論・貨幣論をどのように位置づけるのか》という問題は極めて重要な論点なのである。
 私は平岡論文を検討したときに、この部分について次のように批判した。(以下は私自身のノートから。このノートそのものを発表する機会はまたあるかも知れないが)

 〈現代において《「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能》が《その機能を前提として成り立っている社会における概念の問題》であって、《現実の経済過程の問題》ではないというのは、問題の混乱以外の何ものでもない。もしそれらが概念であるなら、その概念から現実の過程を説明してこそそれは概念たりうるのであり、現実の過程と結びつかない概念などは概念とは言えないのである。本質は現象するしせざるを得ない。現象しない本質などは本質とは言えない。実際問題として現代の通貨が諸商品の価値を価格として表現していることは歴然たる事実である(われわれは商品が「○○円」という値札をつけて店頭にならんでいることを日常の事実として知っている)、また度量標準によって比較可能になっていることも現実の過程ではないのか(100万円の自動車は100円の歯ブラシの1万倍の値段である)、そしてそれを説明するのに、《「貨幣の価値尺度機能」や「価格の度量標準」機能》を前提せずして、どのように説明可能なのか、考えなくても明らかであろう。それらは現実の経済過程と結びついているからこそそれらは概念(本質的関係)なのだ。それを説明することが今日のわれわれの理論的課題なのである。「概念」だといって棚上げすることによっては何も説明できない。平岡氏のように《したがってこの抽象的な概念をもとに、インフレといった現代社会における現実的な問題を解明しようとしても問題の所在が明らかにならず、余計に混乱することになっているのではないだろうか》というのなら、それは科学を放棄するに等しいであろう。
 もし平岡氏がそうした《抽象的な概念》を抜きに《現代社会における現実的な問題》であるインフレを《解明》できるというならやって貰いたい。それができるなら話は簡単である。しかしそもそも「インフレとは何か」というこの平岡氏の論文の表題に掲げた問題一つとっても、この論文では何一つ説明されていないではないか。平岡氏はインフレについてどんな規定も与えていない。マルクスによる《インフレの概念の説明》は認めているようである。しかし平岡氏の独自の《現代社会における現実的な問題》としてのインフレについては何の説明もないし、どんな規定も与えていないのである。〉

 このようにこの問題は『資本論』の冒頭の商品をどう考えるかという問題と密接に関連している。以前、セミナーでこの問題を私が取り上げた時(エンゲルスの経済理論を批判した時)、林氏は私に対して「宇野学派的だ」などというレッテルを張って批判したが(なぜレッテル張りだというかというと、私の見解がどういう点で宇野派的なのかの論証が何一つ無かったから)、林氏自身は恐らく冒頭の商品を、エンゲルスと同じように、歴史的な商品、つまり資本主義以前の、まだ資本主義へと発展する以前の商品と同じと考えているのであろう。あるいは少なくとも金貨幣が実際に流通している一時代前の資本主義社会における商品や貨幣を分析・解明したものだというようなあいまいな理解なのであろう。だから金貨幣がすでに流通から姿を消した〈現代社会における現実的な問題〉の解明には役立にたたない(平岡)とか、〈貨幣が実際上存在しない社会において〉は、それが存在していた時代の、つまり『資本論』の冒頭で問題にされているような〈貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える〉〈貨幣の価値尺度の機能とか、計算貨幣としての役割とかを“まともに”論じること自体がナンセンス〉(林)というわけである。

 私は先のエンゲルスの経済理論を批判的に取り上げたセミナーで(そのときのレジュメと報告はここここを参照)、冒頭の商品を、現実の資本主義社会における商品から資本関係を捨象して取り出した、その意味では抽象的なものであるが、しかし現実の資本主義社会においてはこうした単純な商品や貨幣は、社会の表面に現象しており、われわれが直接目にすることのできる具体物としても存在しているのだ、と指摘した。例えば私たちが日常的にスーパーで目にする商品が、すわなちそれである。またそれをお金を出して購入する行為もそうしたものである。これらは単純な商品と貨幣との関係であり、その限りでは単純流通の問題なのである。実際、われわれは店頭に並んでいる諸商品がどういう経路を辿って、だからまたその身にどれだけ複雑な関係を纏ってそこに並んでいるのかということは、直接には分からない。つまりそれらはそうした複雑な諸関係、資本家的な諸関係をその背後に隠した形で現象しているわけである。だからわれわれが店頭の商品をそのあるがままに表象するなら、それはすでに本来は資本家的商品であるのに、そこから資本関係を捨象した形で、すなわちその意味では抽象物としてそれらを捉えていることになるのである。そしてこうした関係は、金貨幣が実際に流通から姿を消した今日の資本主義的生産様式においてもまったく同じなのである。つまり『資本論』の冒頭で分析されている商品論や貨幣論は、今日の、あるいは現代の「管理通貨制」と言われている不換制下の資本主義の現実においても、そのなかに法則として貫いているものを考察したものなのである。

 宇野弘蔵の批判をするのがここでの課題ではないが(それをやるならまた別の連載としてとりあげたい)、林氏が私の主張を「宇野学派的だ」などというレッテルを貼って批判したので、敢えて、この問題と関連させて少し論じておこう。宇野の「原理論」というのは、彼の説明によれば「純粋の資本主義」を想定して、その分析から得られるものであり、それはカテゴリーが自己を展開するようなものとして論じられるべきものらしい。この「純粋の資本主義」というのは、歴史的には18世紀から19世紀の半ばのいわゆる「自由主義の時代」において、資本主義が傾向的にそのような純粋な形で現われてきたものを、さらに純化して得られるものらしい。しかしこうした理解は、マルクスの方法を真似ているようでまったく違ったものなのである。
 確かにマルクスも当時のイギリスの資本主義社会を資本主義的生産様式が典型的に発展したものとして分析の対象にしていることは誰もが知っている。しかしマルクスの場合は、決して「純粋の資本主義」といったものを想定して、それを分析しているのではない。マルクスの場合は、分析の対象はあくまでも当時の具体的なイギリス資本主義の現実なのである(それが常に主体として前提されていなければならない、とマルクスは述べている)。ただマルクスはそのイギリス資本主義の現実の中に貫く法則を一般的な形で取り出しているのである。だからそれが法則としては純粋な形で捉えられるのもある意味では当然なのである。だからまたその法則は資本主義がどのように表面的には変容しようともそれが資本主義であるかぎりでは、その中に一般的に貫いているような性格のものでもあるのである。これは自然法則とその意味ではまったく同じである。例えば重力の法則を実験や観察で明らかにしたのは、一昔前のガリレオが生きていた時代の現実においてであったであろうが、しかしその法則が今の世の中にも貫いていることを誰も疑わないであろう。資本主義的生産様式の諸法則も、法則という限りではまったく同じなのである。

 マルクスは、われわれがいま丁度のこのブログ上で解説している『資本論』の第3部第5篇第28章該当部分の草稿(28-10を参照)の中で次のように述べている。

 〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,2つの部面のどちらでであろうと,またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能的の反復《の回数》,同時に行なわれる売買,支払の総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量,通貨(currency)の総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者 または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。

 つまり『資本論』の冒頭で分析されている抽象的な商品や貨幣の諸法則というのは、それにどんなに複雑な規定性が加わろうとまったく変わらずその中に貫いているということである。マルクスはここでは貨幣の流通の総量について論じているが、しかしそれは貨幣のさまざまな抽象的な諸機能(例えば価値尺度の機能や度量標準の機能等々)についてもまったく同じことが言えるのである。だから現代資本主義のようないわゆる「管理通貨制度」のもとにおいてもそれらはまったく同じように貫いているのである。それらは資本主義的生産様式の諸法則を一般的な形で取り出し叙述したものなのだから、資本主義が資本主義である限りはその中に貫いているのはある意味では当然なのである。
 しかし、こうしたことが林氏や平岡氏には分からないのである。彼らは目の前の現代資本主義の変容した現象に囚われて、『資本論』の冒頭の商品論や貨幣論では、現実を説明することはできない、それは金が実際に流通していた一昔前の現実を説明することはできても、すでに「変容」してしまった現代資本主義の現実を説明するには古くさく用をなさないと考えるのである。
 このように、現代資本主義を解明していくためにも、『資本論』の冒頭の商品論や貨幣論をどのように位置づけるかということは極めて重要なことがわかるであろう。そこで間違うと林氏や平岡氏のようなとんでもない混迷に陥ってしまうことになるのである。

 林氏が私の冒頭の商品のとらえ方を「宇野学派的だ」と批判したことと関連して、もう少し論じておこう。私は先に紹介したように、冒頭の商品は、『資本論』の冒頭でマルクス自身によって説明されているように、「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富」の「基本形態」としての商品であり、第1章では、とりあえず、その商品が現実のブルジョア社会の表面に現われているものをそのまま観察・分析するのであり、それは資本家的商品から資本家的な関係をとりあえずは捨象して得られる、その限りでは抽象的なものだとしたのである。しかしこうしたとらえ方を、どうやら林氏は「宇野学派的だ」と考えたようなのである。
 確かに宇野も冒頭の商品をマルクスの『資本論』の冒頭の一句を引用して、資本家的商品から抽象したものだと捉えている。しかし、宇野が「経済原論」の中で語っている内容は決してそうしたものではないのである。彼は冒頭の商品は資本関係を捨象した抽象的なものだということから、それが労働生産物であることや、資本主義的生産様式を前提することまでも捨象してしまうのである。そこから、彼が最初に考察の対象にする商品というのは、資本主義以前の古代社会における商品としてマルクスが語っているような、さまざまな自然的な社会構成体の隙間に棲息するような商品関係を想定したものなのである。それが彼が商品や貨幣、さらには資本までをも、まずは「流通形態」として論じなければならないとする理由なのである。なぜなら、それらはまだ商品形態が生産を捉える以前のものであり、ただ流通のなかで形態規定を与えられるものに過ぎないからである。その流通形態としての商品や貨幣が発展して、労働力までをも商品化することによって、初めて商品形態は生産過程を自らかのものに取り込むことになり、そうして初めて商品形態は社会的な物質代謝(宇野のいう原理)を司るものとなり、商品の価値もその実体を持つことになるのだというのが、宇野の主張なのである。だから宇野が冒頭の商品として論じているものには価値の実体規定はないし、ただ流通形態の規定性があるだけなのである。こうした考えから、宇野は『資本論』第1章の第1節・第2節を不要なものとするのであり、第3節の価値形態も不十分なものとするのである。
 まあ、宇野の主張の批判はまた別途やる機会があればそこでやるとして、とにかく宇野が『資本論』の冒頭の商品を資本家的な商品であり、それがブルジョア社会の表面に現われているものを、ただそれ自体として観察・分析しているものだと捉えているなどということは決してできないのであり、むしろ宇野のやっていることは、エンゲルスと同じように資本主義以前の商品、いまだ生産を捉えることができず流通から形態規定を与えられているだけの商品であるということである。たがら林氏が私の主張を「宇野学派的だ」などとレッテルを貼って批判したのは、ただマルクスの方法に対する無理解だけではなく、宇野の主張そのものをも十分には理解せずに,一知半解な認識のもとにただレッテルを貼っているだけに過ぎないということである。

2015年6月18日 (木)

現代貨幣論研究(5)

                             金廃貨論者(林紘義)にとって不都合な事実

 林紘義氏は、以前、インフレーションを特集した『プロメテウス』第48号を紹介した記事(『海つばめ』1001号4面)の中で、田口騏一郎氏が、「インフレとは何か――マルクスの理論に学ぶ」という巻頭論文で、「インフレとは価格の度量標準の事実上の切り下げによる物価上昇」であると規定したことを批判して、次のように書いた。

 〈そもそもインフレとは、貨幣が流通手段の機能において自立化し、ついには紙券化し、その結果として流通において減価する現象である。金本位制の廃絶を必ずしも前提はしないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の「管理通貨制度」のもとにおいて一般的に発展するのである。つまり、貨幣が廃絶され、一般的に紙券に取って代わられている時代を前提とするのである。
 そんな貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える。〉
 〈20世紀も後半、資本主義の矛盾が異常に深化してきた結果として、貨幣はすでに流通から姿を消したのであり、そのかぎり“正常に”機能する条件を失っているのである。だからこそ、インフレといった“非正常な”事態がしばしば――あるいはほとんど恒常的に――生まれ、発展するのである。
 現代資本主義とは、この限り、“非正常”が正常とも常態ともなった資本主義、まさに崩壊し、死滅しつつある資本主義であり、そのことはいわゆる世界中に腐敗をまき散らす“ドル支配”にも、諸国家の通貨の絶えざる減価の中にも、あるいは国家の無政府的な財政・信用政策も――したがって、財政や国家信用の解体状況にも――余りにはっきり現われているのである。
 そんな時に、商品の価格表現に関するいわば“技術的な”理屈を持ち出すのは、いずれにせよ、ひどく矮小で、ピントはずれにしか見えないのである(もちろん、「価格」の科学的な意味を説明し、しかも現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味でなら、貨幣に価値尺度機能や度量標準機能について語るなら、それなりの意義もないことはない。しかしそれは、積極的にインフレを規定し、説明することとは別の課題としてなされるべきであろう)。
 それに、いま一体、円が金の何グラムを表し、それが何グラムになったからインフレが何%進んだ、などと言えるのか、いかにしてそれを確定できるのか。
 もちろん、金市場から逆算すれば、円は金のいくばくに値すると言うことはできるかもしれない、しかしそんなことをして、どんな意味があるというのであろうか。そんなことをしてインフレを説くなら、“金価格”ではなく、他の任意の商品の価格を持ち出しても全く同じことであろう。〉(『海つばめ』1001号)

 林氏の理解では、金本位制が崩壊するということは、金がもはや貨幣ではなくなることであり、〈貨幣が廃絶〉されたことを意味するらしい。これを読めば、私だけではなく、誰が読んでも、林氏は金廃貨論者だと断じるだろう。
 もっとも私は先には林氏は「おどおどとした臆病で姑息な金廃貨論者」だとも指摘した(現代貨幣論研究(4)参照)。それは今回も確認することができる。例えば『資本論』で明らかにされている商品の価格表現を、現代資本主義にあっては単なる〈“技術的な”理屈〉でしかないとする一方で、それでは少し言い過ぎだと考えてか、括弧に入れて〈もちろん、「価格」の科学的な意味を説明し、しかも現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味でなら、……それなりの意義もないことはない〉などとも付け加えている。つまり一方で否定しながら、他方ではそれを肯定して、あいまい模糊としたものにして誤魔化す、これが姑息な林氏の常套手段なのである。
 もっとも今回の括弧入りの説明文は、一見すると『資本論』の貨幣論を肯定しているかに見えるが、しかしよくよく読むと必ずしもそうではないことにも気付く。確かに今回も一見すると『資本論』の価格理論は〈「価格」の科学的な意味を説明〉するものであるかに述べているように思わせてはいる。しかしよく読むと、それはあくまでも〈現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味で〉なら、と限定付きであり、それに限るなら〈それなりの意義もないことはない〉という婉曲な言い回しなのである。つまり『資本論』の価格理論が「科学的」だと認めているわけ決してないのである。なぜなら、もしそれが本当に科学的だというなら、それが資本主義的生産様式のなかに深く貫く法則を解明したものだというなら、どうしてそれでもって現代資本主義の商品の価格表現を説明できないであろうか。〈現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない〉というなら(林氏は別のところでは現代資本主義では商品の価格は無害念になるとまで述べているのだが)、それはそもそも『資本論』の価格理論では現代資本主義における商品の価格の説明は不可能だということであり、だから『資本論』の価格理論などは科学にも値しないということでしかない。そしてこれこそ林氏の本音なのである。しかしそれをアケスケに林氏は語ることはしない(出来ない)のである。何とも姑息で卑怯な金廃貨論者ではある。

 ところで林氏が現代の資本主義においてはもはや金は貨幣ではなく、〈貨幣は廃絶〉された、と主張する根拠として述べているのは、〈貨幣はすでに流通から姿を消した〉からだという。つまり林氏にとっては貨幣イコール流通手段なのである。だから流通手段として商品流通から姿を消した金は、もはや貨幣ではないというのである。だからまた貨幣の価値尺度機能や度量標準機能も怪しげなわけのわからないものにならざるをえないわけである。だから商品の価格というものも無概念になる。
 しかしこれは何度もいうが、貨幣を古典派経済学のレベルで捉えることでしかない。『資本論』の第1章を何度も繰り返し研究せよと人に説教を垂れる御仁の『資本論』理解というのはこの程度のものなのである。何とも人をバカにした話ではないか。
 
 林氏は次のようにも述べている。

 〈もちろん、金市場から逆算すれば、円は金のいくばくに値すると言うことはできるかもしれない、しかしそんなことをして、どんな意味があるというのであろうか。そんなことをしてインフレを説くなら、“金価格”ではなく、他の任意の商品の価格を持ち出しても全く同じことであろう。〉

 林氏には金の円価格やドル価格こそが、商品流通の現実に規定されて、円札やドル札がどれだけの金を代理しているのかを示しているものであることが分かっていない。林氏には金の購入も、他の商品、例えばリンゴやパソコンの購入とおなじに見えるのである。しかしこれもすでに述べたが、こうした理解はただ目におえる現象に囚われ、直接的な表象として捉えられる仮象に騙されているのである。考えてもみたまえ、金の購入者はそれを何らかの工業材料として購入する人はともかく、多くの人はそれを消費するために購入するのではない。それを確かな貨幣財産として彼らは購入するのである。だから金の購入というのは一つの仮象なのである。それは決して商品の売買ではない。それは流通貨幣を本源的な蓄蔵貨幣に転換しているのである。しかしまた、まさにこうした金の売買という仮象こそ、金が依然として貨幣であることをわれわれに示しているのである。

 ところで林氏の主張を直接批判をするのが今問題なのではない。林氏が金廃貨論者であることをとにかく確認するために上記の説明が必要だったのである。問題は、《金廃貨論者(林紘義)にとって不都合な事実》とした表題の内容である。

 実は最近興味深い記事を目にした。それは欧州各国の中央銀行が大がかりな金の移送を進めているという記事である。その全文を次に示しておこう。

 〈欧州各国の中央銀行が大がかりな金の移送を進めている。安全資産といわれる金を自国外の機関に任せて保管する現状を見直す。5月にはオーストリア中銀が英国から持ち帰る意向を表明した。ユーロへの不信感やテロに対する警戒心に世界情勢の変調が重なるなか、金塊が飛行機に乗って相次ぎ“帰国”する。
 ニューヨーク連銀の地下には各国中銀から預かった金塊が積まれる。丈夫な保管庫には2012年時点で53万本の金塊があった。重さは約6700トン。世界の年間個人総消費量の2倍超に当たる。映画「ダイ・ハード3」ではテロリストがここから金塊を強奪するエピソードが描かれている。
 昨年10月末、米連邦準備理事会(FRB)の元議長、グリーンスパン氏がニューヨークで講演した。同じ頃に終了したFRBの量的緩和について「有効需要を喚起できなかった」と評したうえで「金は政策的に保有する価値がある」と語った。
 翌11月、ニューヨーク連銀の保管庫から50トン近くの金塊が引き出されていた。09年以降、ほとんど動きがなかった保管庫の金塊は14年から減りだした。これまでにドイツが85トン、オランダが122トンを回収したことが明らかになっている。
 ドイツは20年末までにニューヨークから計300トンを運ぶ。保安上、移送の詳細は非公表だが、ニューヨークからだと空路になる。飛行機で運べる金は多くても1度で3トンが限界だ。100回以上にわたって大西洋上を金塊が飛ぶことになる。
 280トンの金を保有するオーストリア。このうち英国で管理する110トンを持ち帰る。各国は移送の事実こそ明かすが、明確な真意は語らない。
 スイスでは昨年11月に金の保有を巡り国民投票が実施された。(1)中銀保有の金を売却しない(2)国外保管の金をスイスへ移す――などが問われた。結局、否決されたが、発端はユーロへの不信感だった。同国はユーロを導入していないが、外貨準備に組み込む。
 金移送ブームについて金融・貴金属アナリストの亀井幸一郎氏は「ユーロの先行きが不透明な状況のなか各国は金を自ら管理しようとしている」と話す。
 日本ユニコムの菊川弘之主席アナリストは「貿易が増えている中国との関係も影響している」と政治的な思惑についても言及する。亀井氏も「(世界が)多極化するなか、米国への依存を解消しようとしているのでは」とつけ加える。
 他国に預ける潜在的なリスクはもう一つある。過激派組織「イスラム国」(IS)を巡る緊張だ。01年の米同時テロでは崩落した世界貿易センタービルの地下に8トンの金塊が保管されていた。当時のニューヨーク商品取引所が準備する金だった。
 全量が無事に回収された今では「有事の金」を語る出来事だが、預ける側からすれば国外のテロで、映画のように金を失うわけにはいかない。
 日本はどうか。日銀は765トンの金を保有する。現在の価値で約3兆6千億円。保安上、保管場所を明らかにしていないが、国内で管理されているといわれる。〉(2015/6/10 23:45日本経済新聞 電子版)

 各国の中央銀行が他国に預けてある金の現物を自国に移そうというのは、それこそが彼らの最後の拠り所であり、自国の信用制度の軸点だと考えるからであろう。こうしたことは信用制度が世界的に発展している現代資本主義においてもまったく変わっていないのである。そしてこれこそ、金が依然として価値の唯一の絶対的な定在であることを何よりも示している。現代資本主義においては「貨幣(金)は廃絶された」と主張する林氏はこの現実を如何に説明するのであろうか。

 マルクスはそれを次のように説明している。

 〈だが,金銀はなにによって富の他の諸姿態から区別されるのか? その価値の大きさによってではない。というのも,これは金銀に物質化されている労働の分量によって規定されているのだからである。そうではなくて,富の社会的な性格の自立した化身,表現として区別される。この社会的な定在は,社会的な富の現実の諸要素と並んで,その外部に,彼岸(Jeneseits) として,物として,物象として,商品として,現われるのである。生産が円滑に進んでいるあいだは,このことは忘れられている。いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。ところが,信用がゆらげば--そしてそういう局面は近代産業の循環のうちにつねに必然的に出現する--,今度は,いっさいの実物の富が現実に貨幣に,金銀に転化されなければならなくなる。だが,この気遣いじみた要求はシステムそのものから必然的に生え出てくるのであり, しかも、この巨額の要求と比べられる金銀のすべては, [イングランド〕銀行の地下室にある数百万でしかない。3) つまり,地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情が、富の社会的な形態が富の外にある一つのとして存在するという事情が,きわめてどぎつく現われてくるのである。これはじっさい,ブルジョア的システムがそれ以前の諸システムと, これらのシステムが商品取引と私的交換とにもとづいているかぎりでは,共通にもっていることである。しかしそれは,ブルジョア的システムのなかで最も明確に,そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形態で現われる。なぜならば,1)ブルジョア的システムでは,直接的使用価値のための生産は最も完全に止揚されており, したがって富は,ただ,生産と流通との絡み合いとして表現される社会的な過程として存在するだけだからであり, 2)信用システムが発展するにつれてブルジョア的システムは,富とそれの運動とのこの金属的制限を,物的かつ幻想的な制限を,たえず止揚しようと努めながら,またたえず繰り返してこの制限に頭をぶつけるのだからである。〉(《「貴金属と為替相場Jcr資本論』第3部第35章)の草稿について》大谷訳118-119頁、下線はマルクスによる強調)
 
 〈生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情、富の社会的な形態が富の外にある一つのとして存在するという事情〉そのものは現代資本主義においても何一つ変わっていないことは誰もが認めることであろう。だから現代資本主義も金属的な制限を決して止揚しているわけではないのである。この現実を見ることができず、ただ現象だけに囚われている金廃貨論者だけが馬鹿げた幻想に浸ることができるだけである。世界の中央銀行が自国の金にしがみつかねばならないほど世界的な信用システムは動揺の時代を迎えつつあるということでもある。これこそ金廃貨論者にとって不都合が現実があるだろうか。今回は引用ばかりで申し訳ないが、こうした紹介も意味のないことではないと信じる。

2015年6月10日 (水)

現代貨幣論研究(4)

                 友人への手紙(メール)

  (以下の文書は、2008年にアメリカ発の世界的な金融恐慌が発生するという状況を受けて、急遽開かれたマルクス主義同志会の関西セミナーの直後に、亀仙人が同じく参加した友人に宛てて書いたメールという形式で、このブログの「現代貨幣論研究」のテーマに合わせて書いて、アップしようとしたものの、当時は、まだ同志会の会員だった手前、公然と、同志会の代表を批判する文書を公表することがためらわれ、掲載を見送ったものです。しかし同志会を離れた今は,公表をためらう理由もなくなったので、それをそのまま復活・掲載しておくことにしました。執筆は2008.12.3。)

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 先日、私はあるセミナーに参加する機会があった。それは今日の世界的な金融危機をテーマに取り上げたものであったが、そこでの議論について、同じく参加した友人とメールで少し話し合う機会があった。その内容の一部が、丁度、この「現代貨幣論研究」のテーマに合致するので、その部分を紹介しておこうと思う。以下は、私が友人に送ったメールである。

 Kさん

 Kさんは報告者の林(紘義)氏にインフレをどのように捉えているのかよく分からないと質問されていました。(注:林氏がそのとき報告したレジュメのタイトルは「ドル帝国主義と世界インフレへの道--再び三度激動の時代へと進む世界資本主義」というものでした。) しかし林氏はまともに答えませんでした(「答えられない」というのが本当なのですが)。Kさんの疑問は当然のことだと思いました。というのは林氏にはインフレの概念がないからです。というよりインフレの科学的な概念を投げ捨ててしまっているからです。

 林氏がインフレの概念を投げ捨てたのは、『資本論』の貨幣論を事実上投げ捨てているからです。林氏は隠れた金廃貨論者なのです(というよりおどおどとした臆病で姑息な廃貨論者なのです)。しかし林氏が“臆病な”金廃貨論者であるのは、ある意味では当然なのです。金廃貨論を唱えることは、労働価値説を放棄し、マルクス主義を投げ捨てることに通じるからです。そんなことを大胆に“マルクス主義”同志会の代表を名乘る林氏が主張できるはずはないでしょう。

 社会主義労働者党を解党してマルクス主義同志会というグループに強引に移行を押し進めた時に、林氏は、労働価値説の重要性を強調し、『資本論』の第一章を繰り返し学習するよう説教したことをご記憶でしょう。ところが、その張本人が、コッソリと自分では労働価値説を投げ捨て、『資本論』の貨幣論を“抽象物”として棚上げしてしまっているのですから、これは全国の同志に対する裏切り行為以外の何ものでもないのです。だから林氏は、それを“公然”と語ることができないのです。

 もっとも林氏もセミナーでは、「金は“潜勢的”には貨幣だ」などとも言っていました(「“潜勢的”というのは、私(亀仙人)との違いを示すためにいうのだが」という補足説明もわざわざ付け加えていましたね)。これはどういうことかというと、国家が破滅し、円やドルの銀行券が信用を失えば、あるいはドル圏や円圏という形で世界市場がブロック化すれば、金が流通しはじめる可能性や国際的な決済に金が輸出入される可能性まで否定できないと考えているからです。だから「“潜勢的”には貨幣だ」などという折衷的な立場をとって誤魔化そうとしているのです。しかしそんな折衷的な立場では誤魔化しは効きません。なぜなら、そういうことは国家が破綻しないかぎりは、金は貨幣ではないということでもあるからです。つまり林氏は、そうした折衷的立場で、実際は、現代の資本主義においては、自分は金廃貨論の立場に立つのだ、それが正しいと考えているのだ、ということを表明していることになるからです。

 林氏がこうした金廃貨論の立場にたつのは、『資本論』の貨幣論を不十分にしか理解していないからです。『資本論』の第一編(第一章ではなく)を何度も繰り返し学習しなければならないのは、実は林氏本人なのです。

 林氏は「金は流通していないから貨幣ではない」などと言いました。しかしこれは貨幣を古典派経済学のレベルで捉えることです。リカードは貨幣を流通手段としてのみ理解していたから、金の輸出入と流通貨幣の増減とを直接結びつけ、貨幣数量説の立場をとりました。林氏の理解はこれ以上ではありません。

 確かに金は通貨(つまり広い意味での流通手段)としては流通していません。しかし、蓄蔵貨幣としては“立派に”通用しているのです。セミナーでも言いましたが、金を購入する人は決して金を消費するために購入するわけではありません(もちろん金を工業材料として購入する場合は話は別ですが)。だからそれは単なる商品の購入とは違うのです。それは実際は、流通貨幣を蓄蔵形態(本源的な)に転換しているのです。だから金は蓄蔵貨幣としては今日でも立派に通用していることは明らかなのです。そしてそのことは金は依然として貨幣であることを示しているのです。

 実際、金貨が流通していた古い時代においても、鋳造価格(これは国王が決めた)と一緒に金には市場価格がありました。金本位制の時代でも、銀行券の度量基準(これは国家が決めた)とともに金の市場価格があったのです。そして常に金の市場価格こそが実際の金の価格標準を示していたのです。だから鋳造価格は、時代の変遷とともに変化し、最初はポンドは銀の重量単位と一致していたのが、やがてそれは重量単位とは分離して行ったのです。また、戦争などで、銀行券を増発し、金の市場価格が高くなりすぎると、あるいは金の海外への一方的流出が生じると、時の政府は金本位制を停止せざるをえなかったのです。

 だから今日でも金の円価格、あるいは金のドル価格(それらの逆数)こそが円やドルの度量基準を表しているのです。例えば、今、金1グラムは2500円ほどしています。ということは、1万円札は4グラムの金量を代理しているのです。だから1万円の腕時計の価値は、金4グラムに相当するのです。だからわれわれが『資本論』で学んだ貨幣論は決して“抽象物”でもなんでもなくて、われわれの目の前の現実そのものなのです。

 もちろん、金価格は、今日の不換制のもとでは常に変動していますが、しかし金本位制のもとでも変動という点では同じなのです。ただ本位制下では兌換制によってその変動が法定の度量基準に常に戻される力が作用するのに対して、不換制下ではそれが働かないということにすぎません。しかしそのことは度量基準がないことを決して意味しないし(変動するということは、無いということと同じではありません)、ましてや流通必要金量の概念も意味がなくなったなどということではないのです。こうしたことが林氏には理解できていないのです。だからインフレも概念的に捉えることができない(というよりそれを放棄した)のです。

 林氏はセミナーで、「『資本論』の貨幣論は抽象的には正しいが現実を説明するには役に立たない」などと言いました(以前、機関紙『海つばめ』の記事で平岡正行氏も同じようなことを言っていましたが、あれは林氏の意見をどうやら受け売りしたようですね)。あるいはまた、「『資本論』の貨幣論は現代の通貨を無概念化しないためには必要だが(私は『資本論』の貨幣論はそんな便宜的なものか、とも批判しました)、現実の通貨を論じるために持ち出すべきものではない」などとも言いました。

 しかし考えてもみて下さい。現代の通貨を『資本論』の貨幣論から説明できず、『資本論』の貨幣論を“抽象物”に棚上げして、どうして今日の通貨を概念的に捉えることができるでしょうか。『資本論』の貨幣論から今日の通貨を(円やドルを)論理的に展開して説明してこそ、それらを概念として捉えたといえるのであって、一方を“抽象物”に祭り上げ、現実を説明するのには役に立たない、むしろ混乱させるだけだ、などという人が、今日の通貨を概念的に捉えることなどできるはずは無いのです。

 だから林氏の最近の「現代通貨論」や「インフレ論」もすべて無概念なのです。ただ現象を現象のままに敍述する、いわゆる俗流的立場に立つしかないのです。最近の林氏の論文やレジュメはその点では酷い代物にますますなっています。

 まあ、書きだせば切りがないので、これぐらいでやめますが、こうした調子ですから、もし私が『海つばめ』に投稿するとなると、大論争が持ち上がらざるをえません。だから当面は“音無しの構え”でいるつもりなのです。

 もう一つ、セミナーでも指摘しましたが、林氏のレジュメは、「通貨」と「貨幣資本〔moneyed Capita〕」との混同も依然として酷いものだったのですが、これについてはまた別の機会があれば論じたいと思います。

 それでは、これぐらいで失礼します。

2008年8月 3日 (日)

現代貨幣論研究(3)

§§§『季刊・経済理論』第45巻第2号(2008年7月)の特集評論(続き)§§§

 彼らが知らないか、あるいは知らないふりをしているのは次のような事実である。歴史上、商品交換が始まり貨幣がそれを媒介するようになってからは、諸商品の交換に必要な何らかの一定量の貨幣が流通に存在したということである。それは誰もまたどんな国家も恣意的に決めるような性格のものではなく、現実の商品交換そのものなかで決まってくるものなのである。だから商品交換の行われている社会では、その一国のなかで商品交換を行うために必要な流通必要貨幣量というものは客観的に決まってきたということである。歴代のさまざまな権力者や国家が、やることができたのはただその客観的に商品生産とその交換によって決まってくる流通に必要な貨幣量に対して、それを代理する何らかの手段や制度を人為的に作ることによってそこに介入することだけである。彼らは決して商品生産とその交換を強制的に止めさせることをやらない限り、それらの交換に必要な一定の貨幣量が流通に存在しなければならないという客観的な現実そのものを決して変えることはできなかったのである。そしてそれは国家が近代国家になり、社会が資本主義社会になっても何一つ変わらなかった。国家がやれたことは、社会の物質代謝を司る商品生産とその交換という客観的な過程とその交換に必要な一定の流通貨幣量という現実に対して、ただ何らかの貨幣制度を人為的につくり、その流通必要量にあった何らかの国家や権力者が人為的にあるいは恣意的に作った代理物をその客観的な流通必要貨幣量の代わり滑り込ませることができたにすぎないのである。商品生産とその交換を媒介するに必要な一国内の流通必要量そのものを彼らは決して変えることはできなかったのである。例えば明治政府はそれまで流通していた小判や朱銀に変わって太政官札を滑り込ませようとしたり、あるいは不換の銀行券を滑り込ませようとしたが、しかし何を流通に投げ込もうと、それらが代理する客観的な流通必要貨幣量というのもの自体を恣意的に変化させることはできなかったのである。彼らは客観的に存在している貨幣の流通必要量を代理する何らかの人為的手段をそれに代わって流通に投げ込むことができただけなのである。

 そして今日の政府と日銀にも同じことがいえるのである。日銀が貨幣を作っているのではない。毎日毎日労働者が働き、商品が生産され、それが交換される現実がまずある。それがなければ社会は一日一秒たりとも存続できない客観的な物質代謝の現実である。それは社会が生産する商品の価値とその貨幣表現である価格総額、そしてそれが流通する場合に必要な貨幣量というのものは誰が何と言おうとそれ自体として客観的に決まっているのである。日銀はただそれに対応した銀行券を発行して流通に投げ込むだけにすぎないのである。それがどういう手続きを経て流通に投げ込まれるかといったことは本質的なことではない。そうした手続きそのものが何か貨幣を作るのではないからである。貨幣そのものは現実に生産される商品とその交換という客観的な過程そのものによって、その必要量は決まっているのであり、もし日銀が銀行券をそこに投げ込まなければそれとは異なる別の何ものかがそれを代理しなければならないのであり、必ず代理されるような性格のものなのである。あるいはもし銀行券以外の代理物がなければ、金そのものが登場するであろう。それは誰も干渉することのできない客観的な法則であり、商品生産とその交換を止めない限り客観的に歴然として貫く法則なのである。日銀はただその法則的に決まってくる客観的貨幣量に代理するものを流通に投げ込んでいるだけにすぎない。  日本銀行券の流通高はここ数年は80兆円前後で推移しているが、この80兆円というのは日銀が恣意的に決めることは決してできないのである。彼らにできることは、ただ古くなった銀行券を回収してそれを新しいものに換えて、その流通必要高をただ維持することだけである。だから日銀が貨幣を作っているのではなく、貨幣は現実に存在しているのである。ただ日銀は現実に存在している貨幣に代わるものを、それとすり替えて、流通に滑り込ませているだけなのである。

 日銀が貨幣を作っていないということは、もし日銀が日銀券を明日から発行しない、流通しているものも回収すると例え決めたとしても、商品生産とその交換が中止されない限り--そしてもしそれが中止されるなら、われわれの社会の物質代謝が停止することであり、だからその社会を構成するわれわれ自身が死滅することを意味するのだが--、日銀券に代わる何らかのものが--そしてなにもなければ当然金が--貨幣として流通しはじめるしはじめなければならないような性格のものなのである。

 要するに吉田氏らには「貨幣の概念」がそもそも無いのである。彼らも学者として当然、マルクスの『資本論』や『経済学批判』を一通りは読んだだろうが、しかし彼らにはそれは金貨が流通していた一昔前の古くさい現実を説明することはできても、現代の資本主義社会を説明するようなものには思えなかったのである。

 しかし彼らが気付かなかったのは、金貨が例え流通していたとしても、その「金貨」とマルクスが『資本論』で考察している「貨幣」とは決して同じではないということである。貨幣とは一般的な等価形態が金という商品に固着したものをいうのだが、しかしそれは決して金貨と同じではない。金貨はすでに鋳貨であり、流通手段である。彼らは貨幣の概念を理解しなかったから、それらの抽象的な諸機能もまったく理解しなかったし、貨幣と「通貨」(広義の流通手段)とをゴッチャにして平気なのである。もっとも彼らは「預金通貨」などを持ち出すところをみると、「通貨」の概念すらあやふやであることを自ら暴露しているのではあるが。

 マルクスが『資本論』の冒頭で考察している「商品論」や「貨幣論」は決して一昔前の古くさくなった理論などでは決してない。それはまさに現代の資本主義の現実そのものを深く分析しているものなのである。『資本論』の冒頭で明らかにされている諸法則は、まさに現代の資本主義のなかに深く貫いている法則でもあるのである。それが彼らには分かっていない。しかしそれをここですぐに開陳してしまえば、この連載は終わってしまうので、それは徐々に明らかにするとして、とりあえず、この特集記事の検討は終えよう。

現代貨幣論研究(2)

§§§『季刊・経済理論』第45巻第2号(2008年7月)の特集評論§§§

 『季刊・経済理論』第45巻第2号が「現代の貨幣・信用論争」を特集している。「現代貨幣論研究」を一つの課題にしている以上、これを検討せざるをえない。というわけで、大枚2100円も払って買う羽目に。貧乏人にとっては、大変な出費であるがしようがない。

 特集論文は以下の4つである。

 まず最初に大友敏明氏が「特集にあたって」を書いている。しかしこれはまあどうでもいいだろう。
 ●「貨幣・中央銀行・国家の関連」(楊枝嗣朗)
 ●「内生的貨幣供給論と信用創造」(吉田 暁)
 ●《「貨幣貸付資本と現実資本」論、その現代的意義--MEGA版(手稿)によって--》(小林賢齊)
 ●「金融資本主導下の貨幣的均衡--現代資本主義分析におけるボスト・ケインズ派とマルクス派」(野下保利)

 最初の楊枝氏のものに関しては、ほとんど期待はしていなかった。同氏の論文は『佐賀大学経済論集』掲載のものはほとんどが公開されており(http://portal.dl.saga-u.ac.jp/)、検討させて頂く機会があったが、まあ学ぶべきものが何も無かったからである。同氏の学問的立場は、ご自身はどう思われているのか分からないが、すでにマルクス経済学からかなり遠いところにある。今回も大して変わらない、だからこれは無視することにした。

 私が一番期待したのは、小林氏のものである。ただそれは題名だけを見てということもあったが、この4人のなかでマルクス経済学者として、まあまあまともな学者の一人ではないかと期待するところもあったからである。しかし残念ながら期待外れだった。
 確かに同氏はマルクスの草稿を丹念に読み、その要点を纏めておられる。しかしマルクスが現行の第3部第5篇第30-32章「貨幣資本と現実資本(I・II・III)」で、「信用という事柄全体で唯一困難な問題(die einzig schwierigen Fragen)」として考察している「二つの問題」、すなわち「第一に、貨幣貸付資本(monied Capital)の相対的増大または減少は、一言でいえば、その一時的またはより継続的蓄積は、生産的資本の蓄積に対してどのような関係にあるのか? そして第二に、それ[貨幣貸付資本]は何らかの形態で一国に現存する貨幣の量の大きさに対してどのような関係にあるのか?」(これはマルクスによって再提示された定式化で代表させた)について、同氏は「マルクスは『2つの問題』の考察によって何を解明しようとしていたのであろうか。その狙いは何処にあったのであろうか」と問題提起をしながら、その答えとして、オーヴァーストーンの「『誤った貨幣理論』を根底的に批判しようとした」のだとするのは、あまりにも問題の矮小化ではないのかと思ったのである。こんな評価ではがっかりである。
 現代資本主義においても、実体経済とかけ離れた信用の膨張と金融の肥大化は顕著であるが、マルクスはこうした資本主義に特徴的な傾向を「比類なく困難な問題」(大谷禎之介氏の訳)として定式化し、それを解明する基礎を与えようとしたのではないのだろうか? 私にはそのように思われるのだが。
 また同氏が、マルクスがこの第3部の草稿を書いたあと、十数年後に『資本論』の最後の草稿として書いた第2部第8草稿について何も触れていないのはおかしいのではないだろうか。「貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積」が「どのような関係にあるのか?」を問うなら、それはまず第2部の社会的総資本の「蓄積または拡大再生産」論でその関連が解明されていなければならないハズである。しかしマルクスが第3部第5篇のこの部分を考察していたときには、まだ第2部の「蓄積または拡大再生産」論はまった手つかずだった。だから当然、マルクスのこの部分(第3部第30-32章該当部分)には再生産論的視点は皆無なのである。
 しかしマルクスはそうした欠陥を第8草稿で見事に解決しているのではないのか、潜勢的貨幣資本の蓄蔵と現実の資本蓄積との内的関係をマルクスは見事に解いているのである。だから少なくとも「貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積」について、その基礎的な関係、すなわち「貨幣資本」が蓄積のための剰余価値の実現形態である限りにおいて、それらがどういう関係にあるのかは解明されているのである。もちろん第3部の当該箇所で考察されている「蓄積される貨幣資本」というのは、そうした「潜勢的追加的貨幣資本」に限定されたものではなく、「貸付可能な貨幣資本一般」であり、「架空な貨幣資本」も含まれることは明らかである。しかし現実資本の蓄積と潜勢的貨幣資本の蓄蔵との密接な関連を解明すれば、あとはそれ以外の「架空な貨幣資本」との関連も自ずから明らかになるハズではないだろうか。だからもしマルクスが第8草稿の「蓄積または拡大再生産」の考察を踏まえて、第3部第30-32章該当部分の考察を再び行う機会があったなら、もっと違った考察がなされただろうことが期待できたと思うのである。そうした第2部第8草稿との関連をもっと追究し明らかにすべきだったのでは無かったのかと思った次第である。これが一番期待外れであった。

 吉田暁氏のものについては、まったく期待はしていなかった。同氏の立場も決してマルクス経済学のものとはいえないと以前から思っていたからである。実際、今回の論文もそうしたものである。しかし同氏のものは単刀直入で分かりやすい。だからむしろ同氏の論考を批判的に検討する方がより実りが大きいと判断した次第である。われわれにとって必要なのは「現代の貨幣」を理論的に究明していくことであり、それに資するということがすべての価値判断の中心に置かれるべきだからである。そこで同氏の主張をここでは主に検討することにしたい。
 吉田氏の所説は「内生的貨幣供給論」というものらしい。それは要するに現象を現象のままに敍述するということ以上ではない。マルクス経済学ではこうした立場を表現するのにもっとも相応しいものとして「俗流経済学」という名称を与えることにしているが、同氏の立場はまさにこれである。少し同氏の主張を検討してみよう、そうすればたちまち納得が行くであろう。

 吉田氏は書いている。

 〈西川元彦は「貨幣がまずあってそれが貸借されるのでなく、逆に貸借関係から貨幣が生まれてくる」と述べたが、内生的貨幣供給論の本質を示す明言である。〉

 確かに明言(迷言?)である。
 いま一人の事業主があって、彼は100万円の貨幣を必要とする。彼は銀行に行って、100万円の借金を申し込む。すると銀行は彼の名義で預金を開設し、そこに100万円と記帳する。こうして貨幣は発生した(この場合は預金通貨)。事業主は必要なら100万円を現金で、つまり日本銀行券で引き出すこともできる。これが貨幣の発生である。そもそも日銀券は日本銀行が輪転機を回して印刷して始めてこの世に出てくるのであって、だから貨幣が生まれるのは日銀の輪転機からである(正確には日銀の注文によって独立行政法人国立印刷局が製造し日銀に納めているのだそうであるが)。そしてその輪転機を回させるのは、市中銀行における貸借関係が起点なのだ。まず市中銀行から預金者が預金を現金で引き出すことによって,現金(日銀券)に対する需要が発生し、市中銀行は日銀の当座預金から必要な額の現金を引き出し、それを預金者に支払うわけである。そしてもし日本銀行において日銀券が不足すれば日銀は輪転機を回すであろう。だから市中銀行における「貸借関係から貨幣が生まれてくる」のである。
 しかしこれはただ現象を現象のまま記述しただけである。理論もクソもない。こんなものが「内生的貨幣供給論」とか言って何か立派な“理論”であるかに持て囃されるのだから何ともお粗末な話ではある。
 彼は貸借関係の前に貨幣はないという。しかし事業主が100万円の借金を申し込むとき、この「100万円」というのは果たして何なのか? 貨幣を前提せずして、どうして「100万円」という一定の貨幣額、その名称が出てくるのか。
 それにもしここに一人の労働者がいるとしよう。彼は事業主に雇用されて、一カ月働いた。彼の賃金15万円は彼の口座に振り込まれたとしよう。彼はそれを銀行から現金で引き出すとする。この場合、労働者は別に銀行から金を借りたわけではない。労働者の口座の増えた預金額は確かに労働者の銀行に対する債権であり、まあ労働者が銀行に貸したといえばいえなくもない。しかし少なくともここでは労働者が銀行に金を貸したから貨幣が発生したのではない。そうではなく労働者が自分の労働力商品を資本家に販売したから、その対価として貨幣を入手したのである。つまりこの場合は貨幣は労働力商品という商品の運動(売買)の結果でしかない。
 マルクスは貨幣を商品の交換関係から説明している。そして貨幣があるから商品の流通が生じるのではなく、商品の流通があるから貨幣があるのだと論じている。これが正しい立場である。ところが吉田氏の立場は貨幣の発生を説明するのに、肝心の商品の話は一つもでて来ない。しかも彼は「貸借関係があって貨幣が生まれる」などというが貸借関係には貨幣を前提するという基本的なことすら分かっていないのである。少なくとも「100万円」という貸借関係には「100万円」という観念的な貨幣がなければ計算も記帳もできないし、そもそもこうした貸借関係も生じようがない。いや貨幣ではなく、直接商品の貸借だというのか、しかしその場合もその商品の価値を尺度して「○○円」の商品の貸借として記帳しなければならず、そのためには貨幣は計算貨幣として機能しているのである。いずれにせよ貨幣は前提されているのだ。こうした基本的なことすら氏には分かっていないのである。大した“理論家”ではある。(以下、次回へ続く)

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