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『資本論』第3部第5篇の研究

2019年9月15日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-5)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【22】パラグラフからである。


【22】

 (われわれがここで利潤というときには,それはいつでも平均利潤のことである。というのは,いろいろな偏倚は,個別的利潤の偏倚であろうとさまざまの生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値分配が,個別資本家のあいだであろうと,さまざまの生産部面の資本家たちのあいだでであろうと,いろいろに変動することは--,われわれにとってここではまったくどうでもよいことだからである。このことは,総じて当面の研究において固持されなければならない。)

  ①〔異文〕「を云[々する]〔v[om]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「個別的〔individuell〕」← 「個々の〔einzeln〕」〉 (290頁)

 〈(ここで私たちが利潤という場合には、それはいつでも平均利潤のことです。というのは、いろいろな偏倚は、個別的利潤の偏倚であろうとさまざまな生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値の分配が、個別資本家のあいだであろうと、さまざまな生産部面の資本家のあいだであろうと、いろいろに変動することは--、私たちにとってはここではまったくどうでもよいことだからです。このことは、総じて当面の研究においては固持されなければなりません。)〉

 【このパラグラフは全体が丸カッコに入っている。だから当面の問題とは多少違ったものという意図がマルクスにはあるのであろう。事実、ここでは利潤というのは、平均利潤を意味するということは当面の研究においては固持されるべきだということが確認されているわけである。これはその一つ前のパラグラフで〈すでに見たように,利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき,平均利潤と利子との差額,利潤の他の部分は,利子に対立する形態に,企業利得という形態に,転化する〉と述べられていたことに関連して、書かれているように思える。ここでは〈平均利潤と利子との差額〉とわざわざ〈平均利潤〉という用語を使っているが、しかし当面の研究では、われわれが「利潤」という場合は、「平均利潤」あるいはその率としては、「一般的利潤率」を意味するのだということである。そしてこうしたことは第22章該当部分の冒頭でも述べられていたことである。】


【23】

 ところで,利子純利潤Nettoprofit〕a)であって,これは,再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと,資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと,とにかく資本所有そのものがもたらすところのものである。しかし,後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも,彼が機能資本家であるかぎりでのことではなく,彼が貨幣資本家〔monied Capitalist〕であり,自分の資本をmonied Capital,利子生み資本として,機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手〔lender〕であるかぎりでのことである。貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように,資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提である。すなわち,貨幣は,生産手段へのその転化能力によって,つねに不払労働を支配〔commandiren〕し,したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させる。だから,利子はただ,価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働〔であって〕,現実の生産過程では生産手段の姿態をとる--が,自立的な力〔Macht〕として,生きた労働能力(労働力)に対立しており,不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ,ということの表現でしかないのである。とはいえ,他方,利子という形態では,賃労働にたいするこのような対立は消えてしまっている。というのは,利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく,機能するかぎりでの資本に対立しているのだからであり,貸付資本家はそのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて,再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのであり,他方では,まさに資本主義的生産様式の基礎の上では,賃労働者は生産手段とはなんのかかわりもない(彼らから収奪されて〔expropriirt〕いる)のだからである。利子生み資本は,機能としての資本にたいする所有としての資本である。ところが,資本は,それが[451]機能しないかぎり,労働者を搾取せず,また労働に対立しないのである。/

  ①〔異文〕「再生産過程」← 「生産過程」
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「資本がそれの所有者に」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「自分自身への貸[し手]〔V[erleiher]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「……〔資本としての〕貨幣の定在は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「恒常的な」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「絶えざる」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「同様に」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「転化能力」← 「転化」
  ⑩〔異文〕「絶えざる……である」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「一部分を……に」という書きかけが消されている。
  ⑫〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「すなわち……価値」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「生[きた]……の自立的に……として」という書きかけが消され,さらに「生きた労働の自立的な力に対立するものとして」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「のであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「の表現でしかない」← 「を表現する」
  ⑰〔異文〕「賃労働にたいする」← 「他人の労働にたいする」
  ⑱〔異文〕「利子生み資本は」← 「利子は」〉 (290-292頁)

 〈ところで、利子は、純利潤です。これは、再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと、資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと、とにかく資本所有そのものがもたらすところのものです。しかし、後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも、彼が機能資本家であるかぎりのことではなく、彼が貨幣資本家であり、自分の資本をmoneyed capital、利子生み資本として、機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手である限りでのことです。
 貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように、資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提です。つまり、貨幣は、生産手段へのその転化能力によって、つねに不払労働を支配し、したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させます。だから、利子はただ、価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働であって、現実の生産過程では生産手段の形態をとる--が、自立的な力として、生きた労働能力(労働力)に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのです。また、価値がこのような力であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ、ということの表現でしかないのです。
 とはいえ、他方、利子という形態では、賃労働にたいするこのよう対立は消えてしまっています。というのは、利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく、機能する限りでの資本に対立しているのだからです。貸付資本家は、そのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて、再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのです。他方では、まさに資本主義的生産様式の基礎の上では、賃労働者は、生産手段を収奪されているのですから、それとはなんのかかわりもないからです。利子生み資本は、機能としての資本に対する所有としての資本です。ところが、資本というのは、それが機能しない限り、労働者を搾取せず、また労働に対立しないのです。〉

 【ここでは利子は資本所有そのものがもたらすものだということ、利子生み資本の定在、すなわち資本としての貨幣の定在は資本主義的生産過程の恒常的な前提であり、それは生産手段への転化能力によって、不払労働を支配する力をあたえ、剰余価値の生産を可能ならしめる。だから利子は、自立的な力として、生きた労働に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現なのだが、しかし利子という形態では、こうした賃労働にたいする対立は消えてしまっている。というのは利子生み資本は賃労働に対立するのではなく、機能資本に対立するのであり、賃労働者は機能資本家に対立しているのだからである。つまり利子は、剰余価値の生産を前提しているのだが、しかし生産過程からは切り離されたものとして、資本の所有そのものがもたらすものとして現れており、だから資本と賃労働との対立は直接的には、利子や利子生み資本との関係のなかでは現れないということが指摘されている。これが全体の展開のなかでどういう意義と位置づけをもっているのかは後に考えることにしよう。】


【24】

 |306下|〔原注〕a)ラムジは利子を「純利潤net profit〕」と①②呼んでいる。③(同前〔『富の分配に関する一論』,エディンバラ,1836年〕,193ページ。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔異文〕「企業利潤〔profit of enterprise〕」から区別し,また」という書きかけが消されている。
  ② 訂正〕「呼んでいる」--草稿では「区別している」と書かれている。すぐ上の異文注を見よ。
  ③〔異文〕「(同前,193ページ。)」--書き加えられている。〉 (292-293頁)

 〈ラムジは利子を、「純利潤」と呼んでいます。〉

 【ラムジか利子を「純利潤」と呼んでいるというのは、以前、第22章該当個所で〈ラムジは利子率純利潤の率と呼んでいる〉 (231頁)という一文があったことを思い出させる。】


【25】

 〈/306上/他方,企業利得は,賃労働にたいして対立物をなしているのではなく,ただ利子にたいして対立物をなしているだけである。〉 (293頁)

 〈他方、企業利得は、賃労働に対して対立物をなしているのではなく、ただ利子に対して対立物をなしているだけです。〉

 【前のパラグラフでは、利子は賃労働に対立していないことが指摘されていたが、ここでは利子に対立する企業利得も賃労働に対立していないとの指摘がある。】


【26】

 〈第1に,平均利潤を与えられたものとして前提すれば,企業利得の率は,労賃によってではなく利子率によって規定されている。企業利得の高低は利子率に比例する。b)|〉 (293頁)

 〈第1に、平均利潤を与えられたものとして前提しますと、企業利得の率は、労賃によってではなく利子率によって規定されています。企業利得の高低は利子率に反比例するのです。〉

 【これは企業利得が賃労働にたいして対立物をなしているのではなく、利子に対してだけ対立物をなしているだけだ、という根拠を、まず第1に、として挙げているものである。それは企業利得の高低は利子率に反比例するのであって、賃労働に規定されているのではないというのである。もちろん、剰余価値が労賃と反比例の関係にあることは明らかだが、しかしそれが利潤となり、さらにその分割された形態である企業利得となると、それは直接には利子に対してだけ対立物として関係するものになるというわけである。】


【27】

 〈/306下/〔原注〕b)ラムジ「企業の利潤が資本の純利潤によって定まるのであって,後者が前者によって定まるのではない。」(同前,214ページ。〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.5,S.1798.10-11)を見よ。〔MEGA II/3.5のこの箇所には,ラムジの以下の文が引用されている。〕〉 (293頁)

 【これは利子が企業利得の対立物としてあることの一例としてラムジの言明が紹介されている。彼は企業の利潤(企業利得)は、純利潤(利子)によって定まるのであって、その逆ではない、と述べている。注解では61-63草稿を参照せよ、とあるので一応、それも見ておこう。

  純利潤(利子)の率については、R 〔ラムジ〕は次のように言っている、この率は、「一部には総利潤の率により、また一部には総利潤が利子と産業利潤とに分かれる割合によって定まる。この割合は、資本の貸し手と借り手との競争によって定まる。この競争は、実現が期待される総利潤の率によって影響されはするが、これによって完全に調整されるわけではない。そして、競争がただこの原因だけによって調整されるのではないというわけは、一方では、なんら生産的に充用する目的なしに借りる人々がたくさんいるからであり、他方では、国内の貸付可能な全資本の割合は総利潤のなんらかの変動にかかわりなく、その国の富とともに変動するからである。(206、207ページ)「企業の利潤は資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではない。」(204ページ)〉 (草稿集⑧429頁)】


【28】

 |307上|第2に,機能資本家は,企業利得にたいする自分の権原(請求権)を,したがって企業利得そのものを,自分の資本所有から引き出すのではなく,資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのであり,そしてこのことは,彼が借りた資本で操作し,したがって利子と企業利得とが二人の別な人格のものになる場合には,直接に存在する対立として現われる。企業利得は,再生産過程での資本の機能から発生する。つまり,彼がこの機能を,生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと,媒介するために行なう操作,活動によって,発生する。機能資本の代表者だということは,けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではない。資本主義的生産様式の基礎の上では,資本家は生産過程をも流通過程をも指揮〔dirigiren〕する。生産的労働の搾取は,彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,労働を要費する。だから,彼にとっては彼の企業利得は,利子に対立して,資本所有にはかかわりのないものとして,むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として,現われるのである。そこで,彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してくる〔sich entwickeln〕。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身労賃であり,労働監督賃金wages of superintendence of labour〕であり,普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜかと言えば,1)その労働が複雑労働だからであり,2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。彼の資本家としての機能は,剰余価値すなわち剰余労働,最も経済的な諸条件のもとで,生産することにあるということは,資本家がこの機能をしないでたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに,企業利得は,彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる,という対立のために,完全に忘れられる。利潤つまり剰余価値が[452]分かれる二つの部分の対立的な形態のために,両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ,また,剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在諸条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのである。現実の過程では機能資本家は,賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており,貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,機能資本家によって代表されたものとして,労働の搾取に参加している。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としてのみ,能動的資本家は,労働者を自分のために労働させるという,またはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行なうことができるということ,このことは,再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために,忘れられるのである。じっさい,利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では,労働にたいする連関〔Beziehung〕,それにたいする関係〔Verhältniß〕はなにも表現されてはいない。なぜならば,この関係は,ただ,労働と利潤とのあいだに,またはむしろこれらの二つの部分の合計であり全体であり,統一体〔Einheit〕としての剰余価値とのあいだに,存在するだけだからである。利潤が分割される割合,また,この分割がそのもとで行なわれる別々の権原は利潤を前提し,その定在を前提する。それゆえ,もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば,彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのであるが,これは労働者にとっては,資本家がそのうちの一部分を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と,まったく同じことである。こうして,二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が,ひそかに,利潤の,つまり分割されるべきものの存在根拠に,あとでどのように分割されるかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に,転化してしまうのである。利子は企業利得に対立し,企業利得は利子に対立し,つまり両者は互いに対立し合っているが,しかし労働には対立していないということからは,次のことが出てくる。--企業利得・プラス・利子,すなわち利潤,さらには剰余価値は,なににもとついているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが,利潤は,それのこのような分割がなされる前に,あるいはなされうる前に,生産されるのである。十十)|

  ①〔異文〕「したがって企業利得そのものを,」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本がただ……さいのその怠惰な形態に対立する」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「だということ」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「生産的」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「……の結果として」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「頭」Hirnkasten←Hirnschädel
  ⑧〔異文〕「取得[する]〔anzueign[en]〕」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「対立的な形態」← 「対立」
  ⑩〔異文〕「機能〔資本家〕が……ときには」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「したがって,資本の労働者たちにたいして……として」と書いたのち,このうちの「資本の」を「資本が」と書きかえ,そのあとこれらのすべてを消している。
  ⑫〔異文〕「資本の」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「もち[ろん]〔natu[rlich]〕……想定する」という書きかけが消され,さらに「もちろん,利潤の生産そのものへの連関を,また,それの発生原因との目に見える関連をもたずに,それ〔利潤〕を前提する」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「つまり資本が……」という書きかけが消され,さらに「同じ資本が……」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「あとで」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「,また,資本がどのようにしてこれ(剰余価値)を……」という書きかけが消されている。
  ⑰〔異文〕「剰余価値の」← 「ものの」
  ⑱〔異文〕「まったく……もとづいていない」という書きかけが消されている。
  ⑲〔異文〕手稿ではここに,++)という標識がつけられた追補が続いている。〔本書本巻〕297ページ9行-301ページ4行を見よ。|〉 (293-297頁)

  このパラグラフも長いので、便宜的に番号を打って箇条書き的に平易に書き直してみよう。

 〈(1)第2に、機能資本家は、企業利得にたいする自分の権原(請求権)を、したがって企業利得そのものを、自分の資本所有から引き出すのではなく、資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのです。そしてこのことは、彼が借りた資本で操作し、したがって利子と企業利得とが二つの人格のものになる場合には、直接に存在する対立として現れます。
  (2)企業利得は、再生産過程での資本の機能から発生します。つまり、彼がこの機能を、生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと、媒介するために行う操作、活動によって、発生するのです。機能資本の代表者だということは、けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではありません。資本主義的生産様式の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮します。生産的労働の搾取は、彼がやるにしても、彼の名で他人にやらせるにしても、労働を要費します。だから、彼にとっては彼の企業利得は、利子に対立して、資本所有とはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として、現れるのです。
  (3)そこで、彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してきます。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身が労賃であり、労働監督賃金であり、普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である、というような観念です。
  (4)なぜそれが高いかというと、1)その労働が複雑労働だからであり、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからです。
  (5)彼の資本家としての機能は、剰余価値すなわち剰余労働を、最も経済的な諸条件のもとで、生産することにあるということは、次のことによって完全に忘れ去られます。すなわち、資本家がこの機能をしないでとるたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに、企業利得は、彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる、という対立のためにです。
  (6)利潤つまり剰余価値が分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ、また、剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのです。
  (7)現実の過程では機能資本家は、賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており、貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものとして、労働の搾取に参加しています。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としての、能動的資本家は、労働者を自分のために労働させるということ、あるいはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行うことができるということ、こうしたことは、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために、忘れられるのです。
  (8)じっさい、利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働にたいする連関、それに対する関係は何も表現されてはいません。なぜならば、この関係は、ただ、労働と利潤とのあいだに、またはむしろこれらの二つの部分(利子と企業利得)の合計であり全体であり、統一体としての剰余価値とのあいだに、存在するだけだからです。利潤が分割される割合、また、この分割がそのもとで行われる別々の権原は利潤を前提し、その定在を前提します。それゆえ、もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば、彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのですが、しかしこのことは労働者にとってはまったく無関係であり、それは資本家がそのうちの一部を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と、まったく同じことです。
  (9)こうして、二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が、ひそかに、利潤の、つまり分割されるべきものの存在根拠に、あとでどのように分割されるのかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に、転化してしまうのです。
  (10)利子は企業利得に対立し、企業利得は利子に対立し、つまり両者は互いに対立し合っていますが、労働には対立していないということからは、次のことが出てきます。--企業利得・プラス・利子、すなわち利潤は、さらには剰余価値は、なににもとづいているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが、利潤は、そのこのような分割がなされる前に、あるいはなされうる前に、生産されるのです。〉

 【このパラグラフは企業利得は賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているだけだということの説明の第2の理由である。第1には、企業利得の率は、労賃によってではなく、利子率によって規定されていることがその理由としてあげられていた。
  今回は、企業利得そのものが機能資本家の機能そのもの、その労働に支払われるものとして、労働監督賃金として現れることから、それ自体が賃労働として現れるからだということが理由としてあげられている。
  しかしこのパラグラフは長く、それ以外のこともいろいろと言われている。それを順序よくその概要をまとめてみることにしよう。
  まず(1)では、企業利得が利子に対立すること、だから機能資本家は、怠惰なたんなる所有がもたらすものに対立して、企業利得を資本の機能から引き出すことが確認されている。
  次に(2)では、企業利得が資本の機能から発生するということは、それが産業資本であろうと商業資本であろうと、それを行う活動や操作によって発生すること、そしてそのためには、彼がそれをやるにしろ、彼の名で他人にやらせるにせよ、労働を必要とし、だから企業利得はその対価として現れてくることが確認されている。
  (3)では、そうしたことから機能資本家の頭に反映する観念が説明されている。つまり企業利得というのは、賃労働に対立する他人の不払労働からなっているどころか、それ自身が労賃なのだ、ただ監督賃金として、他の労賃より高いだけだ、というものである。ここでマルクスが、こうした観念を、ただ企業利得と利子との対立が、機能資本家の頭に発生する観念として説明していることに注意されなければならない。だからそれを企業利得そのものが監督賃金に転化するとか、あるいはマネージャーが手にする監督賃金は利潤ではなく、労賃の一形態だ、などいう主張は、結局、こうした観念を現実と取り違えているということである。
  (4)ここでは上記のような観念が発生する理由が述べられている。1)その労働が複雑労働だから、だからその賃金も普通の賃金より高いのは当然だということ、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだから、だからその賃金が他の一般の労働者の賃金より高いのは当然だ、という理由である。
  (5)機能資本家の機能というのは、つまり彼の労働の内容というのは、労働者を効率的に搾取して、剰余価値すなわち剰余労働を搾り取ることだ、ということが、資本家がこの機能をしないで、たんなる資本所有者であっても利子を得るということや、あるいは彼が自分が機能する場合の資本の非所有者であっても、企業利得を得るということの、こうした対立によって、そうしたことが完全に忘れ去られるのだと指摘されている。
  (6)利潤(剰余価値)の分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられる。また剰余価値の分割は剰余価値の性質や起源やその存在根拠を少しも変えることができないということが忘れ去られる、と指摘されている。この部分も極めて重要である。剰余価値がどのように分割され、対立した形態をとろうと、それらが剰余価値にその源泉をもっているということそのものは決して変わることはないのだということである。だからマネージャーの監督賃金が一般の労働者の賃金とますます変わらないように低くなろうと、それが剰余価値を源泉としていること自体は何も変わらないのである。
  (7)ここでは現実の過程が論じられている。つまり機能資本家は、賃労働者に対して他人の所有としての資本を代表していること、そして貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものして、労働の搾取に参加しているということである。これも極めて重要なことである。しかしこうした現実は実際は覆い隠されているわけである。つまり機能資本家は、労働者に対立する生産手段の代表者として、自分のために労働者を労働させるということ、あるいはそれによって生産手段を資本として機能させることができるということが、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外でのたんなる資本所有にたいして対立しているということによって、忘れ去られるのだ、と説明されている。
  (8)剰余価値がとる二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働に対する連関、関係は何も表現されていないことが指摘されている。というのは労働あるいは労賃と直接関係するのは剰余価値全体だからである。剰余価値、あるいは利潤が分割されるその割合や、それが如何なる権原にもとづくものであるか、というようなことは労働にとっては無関係だからである。
  (9)こうして二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割の根拠が、いつのまにか、利潤そのものの存在根拠になってしまうわけである。
  (10)つまり企業利得・プラス・利子が利潤である。さらには剰余価値は何にもとづいているか。すなわち企業利得と利子にもとづいている、というように。しかしいうまでもなく、利潤は、このような分割がされる以前に、それ自体が生産されていなければならないのである。
  とまあ、こうしたことが述べられているわけである。】


【29】

 |307下|++)利子生み資本がそういうものとして実証されるのは,ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて,利子を一部分とするある超過分が生産されるかぎりでのことである。とはいえ,このことは,利子生み資本には,利子が,あるいは利子を生むということが,過程にはかかわりなしに,属性として生え込んでいるということをなくしてしまうものではない。労働能力もまた,たしかに,ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ,価値を創造するというそれの力を実証する。このことは,労働能力はそれ自体として,能力として,価値創造活動なのであって,そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなくむしろ過程に前提されているのだということを,排除するものではない。そのようなものとして,労働能力は買われるのである。それを働[453]かせることなしにそれを買うこともできる。資本にしてもそうである。借り手〔borrower〕がそれを資本として使うかどうか,つまり,価値を創造するというそれに固有な属性を過程で実証するかどうかは,借り手の勝手である。彼が代価を支払うのは,どちらの場合にも,この商品に即自的に,可能性から見て含まれている剰余価値にたいしてなのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている。
  ②〔異文〕「るかぎりでの」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「生え込んでいる」eingewachsen←eingewachsen ist
  ④〔異文〕「……という能力〔Vermögen〕」という書きかけが消されている。〉 (297-298頁)

 〈利子生み資本がそういうものとして、つまりそれが貸し出されることによって、利潤の一部を利子として取得するということが、実証されるのは、ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて、利子を一部分とするある超過分(つまり剰余価値)が生産される限りでのことです。しかしこのことは、利子生み資本には、利子が生え込んでいるということをなくしてしまうわけではありません。労働能力もまた、たしかに、ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ、価値を創造するというその力を実証します。しかしそのことは、労働能力はそれ自体として、能力として、価値創造活動なのであって、そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなく、むしろ過程に前提されているのだということを、排除しないのと同じです。労働能力は、そのようなものとして買われるのだからです。だからそれを働かせることなしにそれを買うこともできるわけです。同じことは資本についてもいえます。借り手がそれを資本として使うかどうか、つまり価値を創造するというそれに固有の属性を過程で実証するかどうかは、借り手の勝手です。彼が代価を支払うのは、どちらの場合にも、この商品に即時的に、つまり可能性からみて含まれている剰余価値にたいしてなのです。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフに関連して、それを補足する形で後で書き継がれたもののようである。
  先のパラグラフでは、企業利得が賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているという第2の理由として、企業利得そのものが、生産的資本の機能から発生するために、それ自体が労働監督賃金として現れてくること、だからそれは賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働になってくるのだ、というものであった。
  今回のパラグラフでは、それに関連して、利子というものは利子生み資本に生え込んでいるものとして現れてくることが指摘されている。本来は利子生み資本は生産的に前貸しされて、剰余価値を創造するという独特の使用価値をもつ商品として、その売り渡しの価格として利子が対価として支払われるのであるが、しかし利子は、実際にその利子生み資本が剰余価値を生み出す形で投下されなくても、支払われるものとしてあるということである。これは労働が、現実に労働過程のなかで実証する過程で、価値あるいは剰余価値を生み出すのであるが、しかしそれが販売される時点では、それはただ前提されたものとして、たんなる可能性でしかないこと、しかし労働力はそうした可能性を持つものとして買われるという例を持ち出して、それと利子生み資本とは同じなのだとしている。だから利子生み資本に利子を支払うのは、それが可能性からみて、剰余価値を創造しうるからであり、可能性から見ての剰余価値に対する支払なのだ、ということである。

  注解によると、〈このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている〉とある。しかしそれがどの部分を指すのかいま一つハッキリしない。ここでは二つの部分を指摘しているが、それは恐らく、一つの文章のなかに、長い挿入文があるので、その挿入部分を省略したものを該当するものとして紹介しているのであろうと思われる。そうした判断のもとに、紹介すると、次のような一文ではないかと思われる。

  〈確かに、利子生み資本がそのものとして実証されるのは、ただ、……{この部分に{ }で括られた長い挿入文がある}……貸された貨幣が現実に資本に転化させられて剰余を生産しこの剰余の一部分が利子となるかぎりでのことである。とはいえ、このことは、利子生み資本には、過程からは独立に、利子と利子生みとが属性として固着している、ということを解消するものではない。それは、綿花の有用な属性を実証するためには綿花が紡がれるかどうかして利用されなければならないということが、綿花の綿花としての使用価値を解消しないのと同様である。だから、資本は、利子を創造するというその力を、ただそれが生産過程にはいることによってのみ、[示すのである]。だが、労働能力もまた、価値を創造するというその力を、ただそれが過程のなかで労働として働かされ実現されるときにのみ、実証する。このことは、労働能力それ自体が、能力として、価値創造活動であって、そのようなものとして過程によってはじめて生成するのではなく、過程にたいしてはむしろ前提されている、ということを排除しはしない。労働能力はそのものとして買われる。それを買ってもそれに労働をさせずにおくこともできる。(たとえば、劇場支配人が俳優を買うとしても、それは彼に演技をさせるためではなく、彼の演技を競争相手の劇場から奪い取るためだということがある。)労働能力を買う人が、自分が代価を支払うその属性を、価値を創造するというその属性を、利用するかどうかということは、売り手にも売られた商品にもなんの関係もないのであって、ちょうど、資本を買う人がそれを資本として利用するかどうか、つまり、価値を創造するというそれに固有な属性を過程のなかで働かせるかどうか、ということと同様である。彼が代価を支払うものは、どちらの場合にもそれ自体として、可能性から見て、買われる商品の本性から見て、一方の場合には労働能力に含まれており他方の場合には資本に含まれている剰余価値と、それ自身の価値を維持する能力とである。それだからこそ、自分の資本で仕事をする資本家も、剰余価値の一部分を、利子とみなすのである。すなわち、資本が、生産過程から独立していながら、それを生産過程に持ちこんだために、生産過程から出てくるところの剰余価値とみなすのである。〉 (草稿集⑦460-462頁)】

  (続く)

2019年9月 8日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【18】パラグラフからである。


【18】

 第3に,生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業をするかということは,彼に貨幣資本家〔monied Capitalist〕の階級が特殊的種類の資本家として対立し,monied Capitalが資本の一つの自立的形態として対立し,利子がこの独自な資本に対応する自立的な剰余価値形態として対立するという事情を少しも変えるものではない。質的に見れば,利子は剰余価値であって,この剰余価値は資本のたんなる所有が提供するのであり,資本の所有者は再生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体Capital an sich〕がもたらすのであり,したがって資本がそれの過程から分離されていながらもたらすのである。量的には,利潤のうち利子を形成する部分は生産的資本そのものに関連してではなくmonied Capitalに関連して現われるのであって,剰余価値のこの部分の率,すなわち利子率または利子歩合はこの関係を確立するのである。というのは,第1に,利子率は--それが一般的利潤率に依存するにもかかわらず--自立的に規定されるからであり,また第2に,利子率は,商品の市場価格と同様に,捕捉できない利潤率とは反対に,確定した,一様な,明白な,つねに与えられている割合として現われるからである。もしもいっさいの資本が生産的資本家の手中にあるならば,利子率も,だからまた利子も存在しないであろう。総利潤の量的な分割がとる自立的な形態が,質的な分割を生みだすのである。生産的資本家が自分を貨幣資本家〔monied capitalist〕と比べてみれば,彼を後者から区別するものは,ただ企業利得だけである。すなわち,総利潤のうち,⑤⑥利子率によって経験的に与えられた大きさとして現われる平均利子を越える超過分としての,それだけである。他方,彼が自分を自分の資本でではなく借りた資本で事業をする生産的資本家と比べてみれば,彼はただ貨幣資本家monied Capitalist〕として後者と区別されるだけである。というのは,後者は利子を払ってしまうのではなく自分のふところに入れるのだからである。どちらの面からも,彼にとっては,総利潤のうちで利子と区別される部分は企業利得として現われるのであり,利子そのものは,資本がそれ自体としてもたらすところの,したがってまた,かりに資本が生産的に充用され||305上|なくてもそれがもたらすであろう剰余価値として現われるのである。そして,個別資本家にとっては,このことは実際上正しい。彼の資本が投下の出発点でmonied Capitalとして存在していようと,彼がそれをこれからやっとmonied capitalに転化させなければならないものであろうと,彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか,それとも生産的資本として自分で増殖するかは,彼の勝手である。若干の俗流経済学者たちがやっているように,一般的にそうだと考えるならば,しかもそれを利潤の根拠としてあげるならば,それはもちろんばかげたことである。[449]大量の資本は--貨幣として存在する資本を別とすればすべての資本は--,生産手段の形態で存在するのであって,生産手段を買ってそれを資本として価値増殖する人びとがいないのに総資本をmonied Capitalに転化するということは,もちろん無意味である。これよりももっとひどく無意味なのは,資本主義的生産様式の基礎の上では,資本は,生産的資本として機能しなくても,すなわち利子がたんにその一部分でしかない剰余価値を創造しなくても,利子を生むはずだということ,つまり,資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するはずだということである。もしも資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmonied Capitalに転化させようとするならば,その結果は,ただ,貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と利子率のひどい低落だけであって,この低落はたちまち〔資本家の〕一部分を,それの利子で食っていくことができないようにし,したがって彼らに生産的資本家に逆戻りせざるをえなくさせるであろう。しかし,いま述べたように,個別資本家にとってはこれは事実である。それゆえ,必然的に彼は,自分の資本で事業をする場合でも,自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を,過程を無視して,自分の資本そのものCapitals als solches〕の所産とみなすのであり,また,利子として自立化させられたこの部分に対立させて,総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのである。a)/

  ①〔異文〕「自分の資本の所有者〔Eigner〕である生産的資本家が自分を貨幣資本家〔monied Capitalist〕と比べてみれば」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「monied Capital」← 「可能性から見ての資本Capital der Möglichkeit nach〕」
  ③〔異文〕「補捉できない」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「確定していて……のかたちで〔in festen und〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「平均的」と書き加えたのち,これを消している。
  ⑥〔異文〕「利子率によって経験的に与えられた大きさとして現われる」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「彼が自分の資本をmo[nied Capital]に……できる」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「それを買う」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「総資本をmonied Capita1に転化する」← 「資本の総転化」
  ⑪〔異文〕「利子がたんにその一部分でしかない」--書き加えられている。
  ⑫〔異文〕「しなくても〔ohne〕」--この語を使わない表現を書きかけたが,消している。
  ⑬〔異文〕「貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と」--書き加えられている。〉 (284-287頁)

 〈第3に、生産的資本家の階級に貨幣資本家の階級が特殊的種類の資本家として対立し、moneyed capitalが資本の一つの自立的形態として産業資本に対立し、利子がこの独自な資本に対応する剰余価値の形態として、産業資本の利潤に対立するという事情は、個別の生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業するかということとは何の関係もありません。
 質的にみれば、利子は剰余価値です。ただしこの剰余価値は資本のたんなる所有が提供するものであり、資本の所有者は再生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体がもたらすものとしてそれを取得するのです。だから利子は資本がその生産過程から分離されていながらもたらすものなのです。
 量的には、利潤のうち利子を形成する部分は生産的資本そのものに関連してではなくmoneyed capitalに関連して現れます。だからこの剰余価値のこの部分の率は、つまり利子率や利子歩合は、moneyed capitalとの関係を確立するのです。というのは、第1に、利子率は--それが一般的利潤率に依存するにもかかわらず--自立的に規定されるからです。第2に、利子率は、商品の市場価格と同様に、補足できない利潤率とは反対に、確定した、一様な、明白な、つねに与えられている割合として現れるからです。
 もしいっさいの資本が生産的資本家の手中にあるのでしたら、利子率も、だからまた利子も存在しないでしょう。総利潤の量的な分割がとる自立的な形態(=利子)が、質的な分割を生み出すのです。生産的資本家が自分を貨幣資本家と比べてみれば、彼を後者から区別するものは、ただ企業利得だけです。つまり総利潤のうち、利子率によって経験的に与えられた大きさとして現れる平均利子を越える超過分としての、それだけです。他方、彼が自分を自分の資本でではなく借りた資本で事業をする生産的資本家と比べてみれば、彼はただ貨幣資本家(moneyed capital)として後者と区別されるだけです。というのは、彼は利子を払ってしまうのではなく自分のふところに入れるのだからです。どちらの面からも、彼にとっては、総利潤のうち利子と区別される部分は企業利得として現れるのであり、利子そのものは、資本がそれ自体としてもたらすところのもの、したがってまた、かりに資本が生産的に充用されなくてもそれがもたらすであろう剰余価値として現れるのです。
 そして個別資本家にとっては、このことは実際上正しいのです。彼の資本が投下の出発点でmoneyed capitalとして存在していようと、彼がそれをこれからやっとmoneyed capitalに転化させなければならないものであろうと、彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか、それとも生産的資本として自分で増殖するかは、彼の勝手だからです。
 もちろん、若干の俗流経済学者たちがやっているように、一般的にそうだと考えるならば、しかもそれを(つまりmoneyed capitalを)利潤の根拠としてあげるならば、それはもちろんばかげたことでしょう。大量の資本は--貨幣として存在する資本を別とすればすべての資本は--、生産手段の形で存在するのであって、生産手段を買ってそれを資本として価値増殖する人々がいないのに総資本をmoneyed capitalに転化するということは、まったく無意味です。
 これよりもっとひどく無意味なのは、資本主義的生産様式の基礎の上では、資本は、生産的資本として機能しなくても、すなわち利子生み資本がたんにその一部分でしかない剰余価値を創造しなくても、利子を生むはずだということ、つまり、資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するはずだという戯言です。
 もしも資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmoneyed capitalに転化させようとするならば、その結果は、ただ、貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と利子率のひどい低落だけであって、この低落はたちまち彼らの資本の一部分をその利子で食っていけなくさせるであろうし、だから彼らに生産的資本家に逆戻りせざるを得なくさせるでしょう。
 しかし、いま述べましたように、個別資本家にとってはこれは、つまり彼の資本を何によって増殖するかは、彼の勝手だということは、事実です。だから、必然的に彼は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、過程を無視して、自分の資本そのものの所産とみなすのであり、また、利子として自立化させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのです。〉

 【このパラグラフは第3の理由が述べられているのだが、パラグラフ全体は、なかなかその展開が分かりにくい。マルクスは何を中心にこの第3の理由として述べているのか、それをしっかり確認することが必要であろう。
 まず冒頭の部分はややわかりにくい。〈生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業をするかということは,彼に貨幣資本家〔monied Capitalist〕の階級が特殊的種類の資本家として対立し,monied Capitalが資本の一つの自立的形態として対立し,利子がこの独自な資本に対応する自立的な剰余価値形態として対立するという事情を少しも変えるものではない〉という部分は、しかしその後半部分の展開をみると、どうやら個別の生産的資本家にとっては、資本家階級が二つの対立した形態に分裂しているという事情は、彼が自分の資本で事業をするかそれとも借りた資本で事業をするかという事情には影響はないのだ、ということのようである。
 そのあと〈質的にみれば〉云々と〈量的には〉云々、と対比させて書いているが、しかしここでの質的・量的の考察は、量的分割が質的分割に転回するということとは関連はなさそうである。
 まず質的には、利子は剰余価値であり、それは資本のたんなる所有がもたらすものだということ、だからそれは生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体がもたらすのであり、だから過程から分離されていながらもたらすものだとの指摘がある。これは利子というものを質的に考察したものだというわけである。それは剰余価値だが、資本の所有そのものがもたらすものであり、だから生産過程から分離されていながらもたらされるものだというわけである。これが利子の質的側面である。
 量的には、利子は生産的資本そのものに関連してではなく、moneyed capitalに関連して現れるという。確かにmoneyed capitalの大小に利子の大小は規定されている。また利子率や利子歩合は、moneyed capitalとしての元本を基準に計算される。だから利子はmoneyed capitalに付随するものとして、〈この関係を確立する〉。ここで〈この関係〉をどう理解するのかはやや分かりにくいが、まあ利子とmoneyed capitalとの関係ということであろうか。そして〈というのは〉と続いている。だから、このあとの第1に、第2にと述べていることは、その前の量的に言えることとして述べている、利子とmoneyed capitalとの関係を確立するということに関連して述べていると考えるべきであろう。量的には利子はmoneyed capitalに関連して現れ、それによって利子とmoneyed capitalとの関連が確立される、というのは第1に、利子率は、一般的利潤率に直接には依存せず、自立的に規定されるからであり、第2に、利子率は、捕捉できない利潤率とは反対に、確定した、一様な、明白な、つねに与えられた割合として現れるからだというのである。ここでは利子率は利潤率と対比させる形でその特徴が述べられている。つまり質的には利子は剰余価値であり、生産的資本家が生産する利潤に依存しているが、しかしそれは生産過程から分離されたまま資本それ自体がもたらすものとしてあるのであり、量的には、生産的資本とは関係なしに、ただmoneyed capitalとの関係のなかだけで現れる。そして利子率や利子歩合は、こうした利子がmoneyed capitalとだけ関連したものとして現れる関係を確定するのだというわけである。そしてその根拠として、第1に利子率は、一般的利潤率に依存しているにもかかわらず、直接には、自立的に規定されるからであり、 第2に利潤率のように捕捉し難いものとしてではなく、確定したものとして現れるからだというわけである。
 次に、自分の資本で事業を行う生産的資本家と借りた資本で事業を行う生産的資本家との区別を論じ、そこから利子が資本がそれ自体としてもたらすものと観念されることが論証されている。
 まずいっさいの資本が生産的資本家の手中にあれば、そもそも利子率も、利子も存在しないことは明らかである。だから総利潤が量的に分割されるのは、事業をする生産的資本家が借りた資本で事業を行う場合であり、利子が自立的な形態をとっている場合である。その場合は総利潤は量的に分割され、それは利子と企業利得という質的分割をもたらすわけである。だから生産的資本家が自分を貨幣資本家と比べるなら、後者を前者と区別するものは企業利得だけである。他方、自分の資本で事業をする生産的資本家が、借りた資本で事業をする生産的資本家と自分を区別するのは、ただ貨幣資本家としてである。なぜなら、彼は利子を支払ってしまうのではなく、それを貨幣資本家として自分自身の懐に入れるからである。だから彼にとっては、どちらの面からも、総利潤のうち利子と区別される部分は企業利得として現れ、利子そのものは、資本がそれ自体としてもたらすところのもの、だからかりに資本が生産的に充用されなくてもそれをもたらすであろう剰余価値として現れるのだと指摘されている。
 そしてこうした観念は、個別資本家にとっては実際上正しいものとして現れるわけである。彼は彼の資本が出発点でmoneyed capitalとして存在していようと、そうではなくこれからmoneyed capitalに転化させなければならないものであろうと、彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか、それとも生産的資本として自分で事業に投下して増殖するかは、彼の勝手である。
 以下、しかし個別資本にとってはそうであっても、総資本の立場からはそうは言えないということが述べられている。実際上は、大量の資本は生産的資本として生産手段の形態にあり、生産的に投下されて価値増殖をするからこそ、moneyed capitalも利子をもたらすわけである。だからすべての資本をmoneyed capitalとして投下するなどということはありえない。資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するなどという馬鹿げたことになりかねない。
 もし資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmoneyed capitalに転化させるなら、その結果は、ただ貨幣に転化させるべき彼らの資本のひどい減価とひどい利子率の低下であって、それはたちまち彼らの一部分を利子で食っていけなくし、生産的資本家に逆戻りをせざるをえなくさせるであろう、というわけである。
 しかしこうしたことは個別資本家にとっては、彼の資本をどういう形で投下するかは彼の勝手というのは事実だということを否定するわけではない。だから彼は自分の資本で事業に投下する場合も、自分の資本そのものの所産である利子と、その利子に対立させて、総利潤のうち利子を越える部分を企業利得として考えるわけである。
 結局、この第3の理由として言われていることは、このパラグラフの最後に結論的に言われていることであろう。つまり個別の資本家にとっては、彼の資本をmoneyed capitalとして投下するか、それとも生産的な事業に投下するは、勝手であり、だから彼がたとえ自分の資本で事業を行う場合でも、まずは彼の資本を資本それ自体として利子をもたらすものと観念し、次に総利潤のうち利子を越える超過分を企業利得とみなすのだということである。こうしことからも量的な分割が、質的な分割に転回することがいえるのだということである。それが第3の理由である。】


【19】

 |305下|〔原注〕a) 利子企業利得との対立についての浅薄な観念は次のとおり。--
①②「利潤,イコール,貯蓄の生産的充用にたいする報償。正当に利潤と呼ばれるものは,この生産的充用のあいだの監督superintendenceのための活動agency〕にたいする報償である。」(『ウェストミンスター・レヴュー』,1826年1月,107ページ以下。)つまり,ここでは利子は,貨幣等々が資本として充用されることにたいする報償であり,したがって,資本としての資本から発生するのであって,この資本は,資本としてのその属性にたいして報償を受けるのである。これに反して産業利潤は,「この生産的充用のあいだの」,すなわち生産過程そのものでの,資本としての資本の機能にたいするものである。〔原注a)終わり〕|

  ①〔注解〕[次の書への書評]「『機械などの使用が労働階級の幸福に及ぼす影響』,ロンドン,1824年。」所収:『ウェストミンスター・レヴュー』,第5巻,1826年1月-4月,第9号,第4論説,101-130ページ。--筆者はたぶんウィリアム・エリスである。(MEGA IV/7,S.35を見よ。〔MEGA IV/7のこのページには,マルクスの「ロンドン・ノート」のノートⅠの冒頭に書かれた文献リストが収められており,そこには,「1826年1月のための『ウェストミンスター・レヴュー』:機械の影響に関する論評(ウィリアム・エリス氏執筆)」という記載がある。〕)
  ②〔注解〕『ウェストミンスター・レヴュー』では次のようになっている。--「誤解を避けるために,われわれはここで,われわれが利潤という語のなかに含意させているものを説明するにあたって,いくつか注意をしておきたい。ある個人が彼自身の貯蓄を生産的に充用する場合,彼が手に入れる利潤のなかに含まれるのは,彼の資本が彼の特定の事業で受けたかもしれない危険にたいする十分な引当金を控除したあと,彼の時間と技能とにたいする報酬であり,この報酬が監督のための活動と呼ばれうるのである。そして,彼の貯蓄の生産的使用にたいする報酬,それが利子と呼ばれるものである。この報酬全体をわれわれは総利潤と呼ぶことができる。」
  ③〔訂正〕「107」--草稿では「167」と書かれている。〉 (287-288頁)

 〈利子と企業利得との対立についての浅薄な観念は次の通りです。
 「利潤,イコール,貯蓄の生産的充用にたいする報償。正当に利潤と呼ばれるものは,この生産的充用のあいだの監督〔superintendence〕のための活動〔agency〕にたいする報償である。」(『ウェストミンスター・レヴュー』,1826年1月,③107ページ以下。)
 つまり、ここでは利子は、貨幣等々が資本として充用されることにたいする報償と考えられており、だから、資本としての資本から発生するのであって、この資本は、資本としてのその属性にたいして報償を受けとるわけです。これに反して産業利潤は、「この生産的充用のあいだの」、すなわち生産過程そのものでの、資本としての機能に対するものであると考えられています。〉

 【これは原注であり、利子と企業利得との対立についての浅薄な観念の一例としてあげられている。ただ引用文はマルクスによる摘要であり、実際の『ウェストミンスター・レヴュー』の一文の方がおもしろいように思える。そこでは企業利得を〈彼の時間と技能とにたいする報酬〉だとし、〈この報酬が監督のための活動と呼ばれうる〉としている。つまりそれは資本の機能に対して支払われる報酬であり、その機能とは監督のための活動だというわけである。そして他方の利子については〈彼の貯蓄の生産的使用にたいする報酬,それが利子と呼ばれるもの〉だとしている。そして〈この報酬全体をわれわれは総利潤と呼ぶ〉ともしている。】


【20】

 〈/305上/第4に。|〉 (288頁)

 【このパラグラフはマルクスが第4に、と利潤の量的分割が質的分割に転回する第4の理由として書き出そうとして、中断したままになっているものである。大谷氏は訳注で次のように説明している。

  〈エンゲルス版では「第4に。」のあとに「{草稿では空所}」と記されている。草稿では,305ページの上半部に書かれた「第4に。」というこの行のあと,上の原注a)が書かれている下半部とのあいだが約1/3ページの空白となっている。「第4に。」の内容をあとで埋めるために空けておいたのであろう。〉 (288頁)】


 【21】

  |306上|つまり,以上で明らかになったように,利潤のうち機能資本家が借入資本のたんなる所有者に支払わなければならない部分は,利潤のうちの,借入資本であろうとなかろうといっさいの資本そのものCapital als solches〕が利子という名のもとにもたらす部分にとっての自立的形態に転化するのである。この部分がどれだけの大きさになるかは,平均利子率の高さにかかっている。この部分の起源は,もはやただ,機能資本家は,彼が自分の資本の所有者であるかぎり,利子率を規定する競争に加わらない(少なくとも積極的には加わらない)ということに現われているだけである。利潤にたいして別々の権原をもっている二人の人格のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が,こうして,質的な分割になるのであって,この分割が資本および利潤そのものの性質から生じているように見えるのである。というのは,すでに見たように,利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき,平均利潤と利子との差額,利潤の他の部分は,利子に対立する形態に,企業利得という形態に,転化するのだからである。この二つの形態,利子企業利得とは,--ただそれらの対立のうちに存在するだけである。[450]だから,それらは両方とも,剰余価値に関連しているのではなく,ただ別の範疇,項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけであって,むしろそれらどうしが互いに関連しているのである。利潤の一方の部分が利子に転化するので,他方の部分が企業利得の形態で現われるのである。

  ①〔異文〕「利子が……たんなる部分から」という書きかけが消されている
  ②〔異文〕「機能資本家が」← 「所[有者]が〔Eigent[hümer]〕」
  ③〔異文〕「利子という名のもとに」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「いっさいの」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「利子という名のもとに」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「すなわち,資本そのものがまた,……の場合にさえも,もたらすかのように見える部分に」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「この部分の起源は,ただ,……から見て,現われているだけである。」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「,利潤の他の部分」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「対立する」gegensätzlich←entgegenge[setzte]
  ⑩〔異文〕「に」← 「のもとで」
  ⑪〔異文〕「しかし,……ところでは」という書きかけが消されている。〉 (288-290頁)

 〈以上で明らかになりましたように、利潤のうち機能資本家が借入資本のたんなる所有者に支払わなければならない部分は、利潤のうちの、借入資本であろうとなかろうといっさいの資本がそれ自体として利子という名のもとにもたらす部分であるという自立的形態になるのです。この部分がどれだけの大きさになるかは、平均利子率の高さにかかっています。この部分の起源は、もはやただ、機能資本家は、彼が自分の資本の所有者である限り、利子率を規定する競争に加わらない(少なくとも積極的には加わらない)ということに現れているだけです。
  利潤に対して別々の権原をもっている二つの人格のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が、こうして、質的な分割になるのです。この分割が資本および利潤そのものの性質から生じているように見えるのです。というのは、すでに見ましたように、利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき、平均利潤と利子との差額、利潤の他の部分は、利子に対立する形態、企業利得という形態に、転化するからです。この二つの形態は、利子と企業利得とは、ただそれらの対立のうちに存在するだけです。だから、それらは両方とも、剰余価値に関連しているのではなく、ただ別々の範疇、項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけになり、むしろそれらどうしが互いに関連していることになるのです。すなわち利潤の一方が利子に転化するから、他方の部分が企業利得の形態として現れるのです。〉

 【このパラグラフは、これまで第1に、第2に、第3に、と述べてきたことを受けて、それをまとめるものといえる。もう一度、それぞれの項目について全体をまとめて見ておこう。
 まず【15】パラグラフで、〈なぜ,利子企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が,借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると,そのような分割としての総利潤の分割が,総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか,ということの理由は,いまでは非常に簡単に明らかになる〉と述べ、--

   第一に、〈生産的資本家の多数が,さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという,また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は,時期によって変動するという,簡単な経験的事情からもすでに〔でてくる〉と言われている。
   第二に、〈どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は,どのようにして総利潤の一部分は一般的にgenerally利子として骨化し自立化するか,という研究に帰着する〉と述べ、それは〈歴史的には,資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から,利子生み資本は完成した伝来の形態として存在する〉からであり、だから通俗的観念では〈利子生み資本が,資本そのもの〔Capital als solches〕……と見なされ〉、〈貸し付けられた資本は,それが現実に資本として使用されようとされまいと,利子を生むという事情は,この資本形態の自立性の観念を強固にする〉からだ、というものであった。
   第三に、〈個別資本家にとっては,……彼の資本が投下の出発点で,……彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか,それとも生産的資本として自分で増殖するかは,彼の勝手である〉からだ、というものである。もちろん、総資本からみれば、それは必ずしも真実ではないが、個別資本家の立場からはそれは事実なわけである。〈それゆえ,必然的に彼は,自分の資本で事業をする場合でも,自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を,過程を無視して,自分の資本そのものCapitals als solches〕の所産とみなすのであり,また,利子として自立化させられたこの部分に対立させて,総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのである〉。

  こうした理由から、利子というのは、借り入れ資本であろうがなかろうが、いっさいの資本そのものが利子という名で手にするものという自立的形態に転化するので、利潤のうちのそれを超過する部分は企業利得として現れるのだということである。そこからそれらが生産的資本が生み出す剰余価値に関連したものというより、二つの範疇に固定された剰余価値の諸部分、あるいは二つの項目の剰余価値の諸部分というだけになるとしている。つまり利子を差し引いた超過分が、企業利得になるという、通常のありふれた観念である。】

 (続く)

2019年9月 4日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-3)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


 前回の続き【13】パラグラフからである。


【13】

 しかし,ひとたび,借り入れた資本を用いて事業をする〔act〕かぎりでの生産的資本家にとって,また,自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家〔monied capitalist〕にとって,同じ資本にたいして,したがってまたその資本によって生みだされる利潤にたいして別々の権原をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんに量的な分割が,質的な分割に転回し,その結果,一方の部分である利子が,一つの規定における資本の,それ自体として〔an u. für sich〕帰属する果実として現われ,他方の部分は,反対の一規定における資本の独自な果実として,だからまた企業利得として,現われ,一方は資本所有のたんなる果実として現われ,他方は,たんに資本を用いて機能すること,過程進行することProcessiren〕の果実として,過程進行中の資本としての過程進行中の資本の〔d.processirenden Capitals als processirenden〕果実として,または生産的資本家が行なう諸機能の果実として現われれば,このように,粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し,自立化するということが,総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるをえない。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと,あるいは,貨幣資本家〔monied Capitalist〕が所有する資本が彼自身によって充用されようとされまいと,そうである。どの資本の利潤も,したがってまた資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も,二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に,すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子企業利得とに,分かれる,または,分解されるのである。自分の資本で事業をする資本家も,借りた資本で事業をする資本家と同じように,自分の総利潤を,所有者としての自分,自分自身への資本の自分自身の貸し手〔lender〕としての自分に帰属する利子と,機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割する。この分割(質的な分割としての)にとっては,資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは,どうでもよいことになる。資本の充用者は,自分の資本で事業をする場合にも,二人の人格に,すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに,分裂し,そして彼の資本そのものが,それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において,資本所有,すなわちそれ自体としてan sich利子をもたらす,生産過程の外にある資本と,過程を進行するもの〔processirend〕として企業利得をもたらす,生産過程のなかにある資本とに分裂するのである。

  ①〔異文〕「生産的資本にとって」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「反対の一規定」← 「もう一つの規定」
  ④〔異文〕「違っ[た]〔versch[iednen]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「資本家としての」という書きかけが消されている。〉 (279-280頁)

 〈しかし、ひとたび、借り入れた資本を用いて事業をするかぎりでの生産的資本家にとって、また自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家にとって、同じ資本に対して、よってまたその資本によって生み出される利潤に対して別々の権限をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんなる量的な分割が、質的な分割に転回し、その結果、一方の部分である利子が、一つの規定における資本の、それ自体として帰属する果実として現れ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、だからまた企業利得として現れたわけです。一方は資本所有のたんなる果実として現れ、他方は、たんに資本を用いて機能すること、過程進行することの果実として、過程進行中の資本の果実として、また生産的資本家が行う諸機能の果実として現れたわけです。
  このように、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化するということが、総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ません。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと、あるいは、貨幣資本家が所有する資本が彼自身によって充用さようとされまいと、そうなってくるのです。どの資本の利潤も、したがってまた諸資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も、二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれが特殊的な諸法則によって規定される利子と企業利得とに、分かれます。または、分割されるのです。
  自分の資本で事業をする資本家も、借りた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、所有者としての自分、つまり自分自身への資本の自分自身への貸し手としての自分に帰属する利子と、機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割します。だからこの質的な分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになります。資本の充用者は、自分の資本で事業をする場合にも、二人の人格に、すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに、分裂し、そして彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において、資本所有、すなわちそれ自体として利子をもたらす、生産過程の外にある資本と、過程を進行するものとしての企業利得をもたらす、生産過程のなかにある資本とに分裂するのです。〉

 【ここではこの質的な分割が骨化し、自立化することが指摘されている。そしてそれがそうなれば、その事態は総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ないのだと指摘されている。だからそうなると例え生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであるかどうかということとは関係なしに、すべての資本が生産する利潤は利子と企業利得とに分割されることになる。だからまた自分の資本で事業を行う資本家自身も、二人の人格に分裂する。一つは自分の資本を自分に貸し付ける自分自身と、それを借りて事業を行う自分自身とに分かれるわけである。だから彼は得られた利潤を、一つは貸し付けた自分自身の所有の果実として、利子として受け取り、他方は過程を進行する自分自身、機能する自分自身に所属するものとしての企業利得を取得するのだというわけである。】


【14】

 [447]だから利子は,それが産業家が他人の資本で事業をする場合にだけ「たまたま」生じるような,生産にとってはどうでもよい,総利潤の分割としては現われることはない,というほどにまで固定化する。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ,彼の利潤利子企業利得とに分かれるのであり,だからこれと同時に,産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく,たんに量的な分割が質的な分割になる。それは,ただ,違った人格に分配される利潤の二つの分けまえであるだけではなく,利潤の二つの特殊的範疇なのであって,この二つの範疇はそれぞれ資本にたいして違った関係にあるのであり,つまり資本の違った規定性に関係しているのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1493.11-23)から,変更を加えて,取られている。〉 (280-281頁)

  〈だから利子は、それが産業家が他人の資本で事業する場合にだけ「たまたま」生じるような、生産にとってはどうでもよい、総利潤の分割として現れることはないほどにまで固定化します。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ、彼の利潤は利子と企業利得とに分かれるのであり、だからこれと同時に、産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく、たんなる量的な分割が質的な分割になります。それはただ、違った人格に分配される利潤の二つの分け前であるだけではなく、利潤の二つの特殊的範疇なのであって、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるのです。つまり資本の違った規定性に関係しているのです。〉

  【ここでも固定化が進む事態が指摘されている。利子と企業利得は利潤の二つの特殊的範疇であり、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるということ、違った規定性に関係しているというわけである。つまり利子は本来は借り入れた貨幣資本への支払を意味するわけであるが、利子範疇が固定すると、それが借り入れられたものかどうかに関係なく、ただ一方の資本の規定性にもとづいてそれが生じてくるように見えるわけである。だから自己資本で事業を行う生産的資本家は、その資本を二つの規定性にもとづいたものとして考え、一つは利子生み資本との規定性によって利子を計算し、他方は生産的資本として企業利得を計算するということになるわけである。これらは同じ資本の二つの規定性であり、しかも一方は(利子生み資本というものは)ただ仮象でしかないものである。しかしそれが一定額の貨幣額であるなら、それはその貨幣額ということそれ自体として利子を生むものと観念されるのであり、だからそれを生産的な事業に投下しても、それが生み出す利潤は、利子と企業利得とに分かれるわけである。
  ところで、この部分はMEGAの注解によれば、61-63草稿から変更を加えて取られているということである。該当する部分をその前後も含めて紹介しておこう。

  〈このような、利潤の利子産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、まったく別なものとして示されている。
  利子が表わしているのは、剰余価値の一部分である。利潤のうちの、単なる、特殊な名目のもとに取り出された、分けまえである。資本の単なる所有者のものになる、彼によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、この二つの部分に、転化した姿を与えるところの、質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて固定する。すなわち、利子は、ただ産業家が他人の資本で仕事をする場合にかぎって「たまたま」行なわれる、生産には無関係な分割としては現われない、ということにおいてである。産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利子産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすでに質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに資本および資本主義的生産そのものの本性から生ずる質的な分割として、固定されるのである。単に利潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当がではなく、利潤の二つの特殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規定にたいして関係をもつのである。この独立化は、以前に述べた諸理由は別としても、次のような理由によってますます容易に固定する。というのは、利子生み資本は、歴史的形態としては産業資本以前に出現し、また産業資本と並んでその古い形態のままで存続し、そして産業資本によってその発展の過程ではじめてそれ自身の一つの特殊な形態として資本主義的生産のもとに包摂されるからである。
  それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦468-469頁)】


【15】

 〈なぜ,利子企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が,借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると,そのような分割としての総利潤の分割が,総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか,ということの理由は,いまでは非常に簡単に明らかになる。|〉 (281頁)

  〈なぜ、利子と企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が、借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると、そのような分割としての総利潤の分割が、総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか、ということは、その理由はいまでは非常に簡単に明らかです。〉

 【このパラグラフは次のパラグラフで、これまで述べてきたことを箇条書き的にまとめるための枕詞である。だからこれまで述べてきたことによって、総利潤の量的な分割が、生産的資本家にとって、利子と企業利得という質的な分割になると、それが総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になる理由を、これからもう一度確認しておこうというわけである。】


【16】

 |304上|このことは〔以下のことから〕でてくる。--
  第1に,生産的資本家の多数が,さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという,また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は,時期によって変動するという,簡単な経験的事情からもすでに〔でてくる〕。

  ①〔異文〕「さまざまの割合で」という書きかけが消されている〉 (282頁)

 〈このこと(つまり借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤の量的な分割が質的な分割に転回すると、その質的な分割が、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ)は、以下のことから出てきます。
 第1に、生産的資本家の多数が、さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという、また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は、時期によって変動するという、簡単な経験的事情からもすでに、このことは出てくるのです。〉

 【ここからこれまで述べてきたことを、さらに箇条書き的に番号を打って、述べているように思える。マルクスがここで論証しようとしていることは、平易な書き下し文でも述べたように、「借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤が利子とその超過分という二つのものに量的に分割すると、それは利子と企業利得というその源泉を異にするものであるかのようなものに、すなわち質的な分割に転回する、そしてその質的な分割が骨化し、自立化して、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ」はどうしてなのか、という問題である。
 そしてその理由として第一にあげられるのは、生産的資本の多くが、さまざまな割合で自己資本と借入資本とで事業を行い、しかもその二つの資本の割合は時期によって変動するという簡単な経験的な事実からもすでにそういうことが言えるのだ、というわけである。つまりそうした質的な分割は、経験的にも実際の多くの生産的資本家にとっては一つの事実だということである。だからそれは総資本家階級にとってのものにもなるのだということであろうか。】


【17】

 第2に,総利潤の一部分が利子という形態に転化することが,総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのである。後者は,ただ,利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかない。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は,どのようにして総利潤の一部分は一般的にgenerally利子として骨化し自立化するか,という研究に帰着するのである。ところが,歴史的には,資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から,利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子資本が生みだした剰余価値の完成した形態として--存在する。だからこそ,いまなお通俗観念〔Volksvorstellung〕ではmonied Capital,利子生み資本が,資本そのもの〔Capital als solches〕,「とりわけすぐれた意味での」資本〔Capital κατ’έξοχήν〕と見なされることになる。だからこそ,他方では,利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのである。貸し付けられた資本は,それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれないが--,利子を生むという事情は,この資本形態の自立性の観念を強固にする。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤にたいして,また利子生み資本が[448]生産的資本にたいして自立性をもって現われる,ということの最良の証拠は,利子は総利潤のたんなる部分であることが,18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって,また彼のあとにヒュームによって)ということであり,また,およそこのような発見が必要だったということである。

  ①〔異文〕「分化する〔sich differenziren〕」← 「分かたれる〔sich vertheilen〕」
  ②〔異文〕「ずっと〔1ange〕」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「完成した伝来の」← 「完成した」
  ④〔異文〕「貸し付けられた」← 「借りられた」
  ⑤〔異文〕「生[産的]〔prod[uctiv]〕」という書きかけが消されている。
  ⑥〔注解〕〔ジョウジフ・マッシー〕『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論……』,ロンドン,1750年〔,49ページ〕。
  ⑦〔異文〕「彼の後に」--書き加えられている。
  ⑧〔注解〕デイヴィド・ヒューム『利子について』。所収:『種々の主題についての小論および論文集』,第1巻,ロンドン,1764年〔,329-336ページ〕。〔田中敏弘訳「利子について」。所収:『ヒューム経済論集』,『初期イギリス経済学古典選書』8,東京大学出版会,1967年,71-80ページ。〕〉 (282-284頁)
 
  〈第2に、総利潤の一部分が利子という形態に転化することが、総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのです。後者は、ただ、利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかないのです。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は、どのようにして総利潤の一部分は一般的に利子として骨化し自立化するか、という研究に帰着するのです。ところが、歴史的には、資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から、利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子は資本が生み出した剰余価値の完成した形態として--存在します。だからこそ、いまなお通俗的観念ではmoneyed capital、すなわち利子生み資本が、資本そのもの、「とりわけすぐれた意味での」資本と見なされることになるのです。だからこそ、他方では、利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのです。貸し付けられた資本は、それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれませんが--、利子を生むという事情は、この資本形態の自立性の観念を強固にします。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤に対して、また利子生み資本が生産的資本に対して自立性をもって現れる、ということの最良の証拠は、利子は総利潤のたんなる部分であることが、18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって、またあとにヒュームによって)ということです。またこのような発見が必要だったということもそうでしょう。〉

 【ここでは総利潤の利子と企業利得という二つの部分への質的な分割とその固定化はどうして生じるのかという問題は、どうして総利潤の一部分が利子として骨化し自立化するのかという問題に帰着する、と指摘されている。というのは利子というのは生産的資本家にとっては生産以前に前提されたものであり、彼らにとっては一つの前提であるからである。そうした利子がすでに一つの範疇として骨化して、自立化しているからこそ、彼らの生産した総利潤は利子とその超過分とに分裂し、それが利子と企業利得という二つの範疇へと骨化し自立化するのだからである。そして利子がそれ自体として自立化した存在として現れるということは、利子生み資本そのものが資本主義的生産様式以前にすでに存在していたことからもわかるのだとしている。そもそも利子が総利利潤から分割されたものだということそのものが当初はわからなかったのであり、つまりそれだけ利子範疇は一つの自立した存在をもっていたのであり、しかもそれが支払われるのは、必ずしも生産的投資のためではなく、単に消費等々のために借りられた場合も、利子は支払われる必要があったわけだから、利子は利潤とは無関係であるように歴史的には存在していたわけである。だから利子が利潤の分割されたものだということ自体が18世紀の半ばにようやく発見されたのであり、こうした発見が必要だったということそのものが、利子の骨化と自立性を示しているのだということである。つまり利子の骨化と自立性というのは資本主義的生産様式以前からそれらが存在したこと、しかもそれは必ずしも生産された利潤から支払われるものとして存在したわけではなかったこと、だから資本主義的生産様式のもとで利子が利潤の一部が分割されたものだということそのものが一つの発見であったということ、こうしたことから利子範疇の骨化と自立化という事実が、利子と企業利得という二つの範疇の自立性の根拠であり、それが総資本家階級にとってのものになる理由だというわけである。】

  (以下、「第3」の項目は次回に続きます。)

 

2019年8月30日 (金)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【9】パラグラフからである。


【9】

 〈/301上/そこで生じるのは次のような疑問である。総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか? 言い換えれば,自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家もまた自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて,そういうものとして別個に計算するのは,どうしてなのか? したがってさらに進んで言えば,いっさいの資本が,借りたものであろうとなかろうと,利子生み資本として,総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは,どうしてなのか?〉 (272頁)

 〈そこで生じるのは次のような疑問です。純利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割が質的な分割に転回するということは、どうして起こるのでしょうか? 言い換えれば、自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家も、借り入れた資本を充用する資本家と同様、自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて、そういうものとして別個に計算するのは、どうしてなのでしょうか? さらに進んで言えば、いっさいの資本が、借りたものであろうとなかろうと、利子生み資本として、総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは、どうしてなのでしょうか?〉

  【ここでは「総利潤〔gross profit〕」という用語が出てくるが、ややわかりにくい。最初に出てくる「総利潤」をエンゲルスは「純利潤〔Nettoprofit〕」に変えているが、これはこの方が適切だろうと思う。利子を除いた部分を純利潤というのはわかるが、それを総利潤というのではわけがわからないからである。次に出てくる「総利潤〔gross Profit〕」の場合は、そのままでいいような気がする(エンゲルスはgross ProfitをBruttoprofit(粗利潤)に変えている)。この部分の訳者注で大谷氏は〈マルクスはこの部分でgross Profitという語をしばしば用いているが,エンゲルスはこれをBruttoprofitと訳している。〉(272頁)と指摘している。総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れるというのであるから、これは総利潤を純利潤と利子に分割することを意味するだろうからである。最後に出てくる「総利潤」については、エンゲルスは「純利潤」としているのだが、大谷氏もそれを適切なものとしているのだが、果たしてどうであろうか。むしろこの場合は「総利潤」でよいのではないかと思うのである。この場合は、前貸資本全体が例え借り入れたものであろうとそうでなかろうと、全体を借り入れたものと見なして、つまり利子生み資本の貸し付けと見なして、それが生み出した総利潤を、純利潤(産業利潤)と利子とに分割するということであるから、総利潤を生み出す資本としての自分自身から区別して、利子を計算するということでいいのではないだろうか。ただまあ、ややこしいことはややこしい。
 ところでこのパラグラフは、〈そこで生じるのは次のような疑問である〉という一文で始まっている。これは果たして大谷氏が指摘するように、われわれのパラグラフ番号でいえば【3】パラグラフを受けたものと考えるのが適切であろうか。むしろ( )に括られた【5】~【7】パラグラフを受けたものと考えてよいのではないだろうか。というのはこれらのパラグラフで問題になっているのは、借入資本も自己資本も資本として機能するかぎりでは、それ以外の処分は不可能であり、常にそれは資本として機能させておく必要があるという点では同じであり、だからもし利子率がゼロに近くなればなるほど、両者はほとんど同等の位置に置かれるのだと述べていたポウズンキトの主張を肯定して、それを批判するトゥクを批判していたのだからである。つまり借入資本と自己資本とは資本として機能する限りでは同じだと述べていたのだから、今回のパラグラフではどうして自己資本で生産する資本家も、それをわざわざ借入資本として計算して産業利潤と利子とに分割するのか、という疑問を提示しているわけである。量的分割がどうして質的分割をもたらすのか、という疑問である。もちろん、それに答えようというのが以下の論述であろう。】


【10】

 だれでもわかるように,利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない。たとえば,何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成し,その後,法律的に確定された取決めに従って互いに利潤を分配し合う。また,他の産業資本家たちは,自分の事業を個別的に,共同事業者なしで営んでいる。さて,このあとのほうの資本家たちは,彼らの利潤を二つの部類に分けて一部分を個人利潤として計算し他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって,それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である。だから,この場合には,量的な分割が質的な分割に[444]転回することはない。分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれないのである。

  ①〔異文〕「利潤の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「偶然的な」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「彼らの……を分ける」という書きかけが消されている。〉 (272-273頁)

  〈誰でもわかることですが、利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するわけではありません。例えば、何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成して、その後、法律的に確定された取り決めに従って互いに利潤を分配し合うのに対して、他の産業資本家たちは、自分の事業を個別的に、共同事業者なしで、営んでいる場合、このあとのほうの資本家たちは、彼らの利潤を二つの部類にわけて一部分を個人利潤として計算し、他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって、それは、借りた資本だけで事業をする生産的資本家が、利潤の一部分を、借りたのではない彼の資本に対する利子として計算しないのと同じです。分割が行われるのは、たまたま所有者が複数の法律上の人格からなっている場合であって、そうでない場合には分割は、行われないのです。〉

  【このパラグラフはややわかりにくい。まず最初に、マルクスは〈利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない〉と書き、〈たとえば〉と書き出している。そして共同事業関係を結んで事業を行った生産的資本家たちは、一定の法的な取り決めにしたがって、利潤を分配するが、つまり利潤の量的分割が行われるが、しかしそれが質的に転回して、例えば共同事業関係をむすばないで個別に事業を行う資本家も、彼の個別の事業の利潤と、存在しない共同事業者の利潤というような利潤の分割をしないことをみれば分かると述べている。つまりこの場合は利潤の量的分割は質的な分割に転回しないと言いたいわけである。もし最初の共同事業関係にもとづく利潤の量的分割が、質的分割に転回するなら、個別で事業を行う資本家も、彼のあげた利潤を存在しない共同事業家の分と分けて考えることになるが、そんな馬鹿なことはしないだろうというわけである。
  ただそれに続けて述べていることがいま一つ分かりにくい。〈それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である〉というのであるが、ここで〈それは〉というのは、その直前の〈存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしない〉ということを指していると思える。つまり借りた資本だけで事業をする資本家は、当然、その借りた資本に対する利子として彼は利潤の一部を計算するのであって、最初から存在しない借りたのではない資本に対する利子として計算しないように、もともと存在しない共同事業関係者のための利潤として計算しないだろうということではないか。
  そして結論として〈分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれない〉のだというものである。】


【11】

 この疑問に答えるためには,われわれはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ちどまらなければならない。すなわち,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とが,たんに,法律上別な人格としてだけではなく,再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として,または,その手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行なう人格として,現実に相対しているという想定から出発しなければならない。一方は資本を貸すだけであり,他方はそれを生産的に充用するのである。|

  〔異文〕「同じ」--書き加えられている。〉 (273頁)

  〈この疑問に答えるためには、私たちはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ち止まらなければなりません。つまり貨幣資本家と生産的資本家とが、たんに、法律上の別々の人格としてだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、あるいは、それぞれの手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行う人格として、現実に相対しているという想定から出発しなければならないのです。一方は資本を貸すだけであり、他方はそれを生産的に充用するのです。〉

  【〈この疑問〉というのは、一つは〈総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか?〉ということであり、それと関連して、どうして〈利潤のすべての偶然的な量的な分割が……質的な分割に転回するのではない〉のかという疑問でもある。
 そしてマルクスは、それがどうしなのかを理解するためには、もう一度、利子が形成される出発点に立ち止まる必要があると指摘し、貨幣資本家と生産的資本家とを、たんに法律上の違いだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、互いに相対している現実から出発する必要があるとしているわけである。一方が資本を貸すだけ、他方はそれを借りて生産的に充用するだけ、という現実である。】


【12】

 |302上|借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては,総利潤は二つの部分に分かれる。すなわち,彼が貸し手〔Verleiher(lender)〕に支払わなければならない利子と,総利潤・マイナス・利子,すなわち,利潤のうち彼自身の分けまえをなす,総利潤のうちの利子を越える超過分とに分かれる。一般的利潤率が与えられていれば,あとのほうの部分は利子率によって規定されている。利子率が与えられていれば,一般的利潤率によって規定されている。さらにまた,総利潤,つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも,機能資本家のものになる部分は利子によって規定されている。というのは,利子は(特別な法的な取決めを別とすれば)一般的利子率によって確定されていて,生産過程が始まる前から,したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から,先取りされるのであり,前提されているからである。これまで見てきたように,資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり,より詳しく規定すれば利潤である。ところが,借りた資本で事業をする資本家にとっては,資本の生産物は利潤ではなく,利潤・マイナス・利子であり,利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。だから,利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に,機能するかぎりでの資本の生産物として現われる(彼にとっては現実にそうである)のであり,そして彼は,ただ機能している資本としての資本だけを代表するのである。彼が資本の人格化であるのは,資本が機能しているかぎりでのことである。資本が機能しているのは,それが産業や商業で生産的に投下され,それを用いてその充用者が,彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行なうかぎりでのことである。だから,彼が総利潤〔gross profit〕,粗利潤〔Rohprofit〕のうちから貸し手〔lender〕に支払ってしまわなければならない利子に対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとる。あるいは,それを,この両方を包括するドイツ語の表現で名づければ,企業利得Unternehmungsgewinn〕という姿態をとるのである。もし粗利潤が平均利潤に等しければ,この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されている。もし粗利潤が[445]平均利潤から偏倚する場合には, それと平均利潤マイナス利子との差額は,ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ,ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ,こうしたあらゆる市況によって規定されているのである。ところで,すでに見たように,利潤の率は,生産過程そのもののなかで,ただ剰余価値によって左右されるだけではなく,そのほかにも多くの事情によって,たとえば,生産手段を買うときの価格,平均的方法よりも生産的な方法,不変資本の節約,等々によって左右される。また,生産価格のことは別として,資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか,総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは,特殊的市況にかかっており,また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっている,等々。しかし,いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化する。そして,この量的な分割そのものは,なにが分配されるか,能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか,また,その資本が機能資本として,すなわち能動的資本家としての彼の機能によって,彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか,によって定まるのだから,ますますもってそれは質的な分割に転化するのである。機能資本家は,想定されている場合では資本非所有者である。逆に。資本の所有は彼に対立して,貸し手〔lender〕によって,貨幣資本家〔monied capitalist〕によって代表されている。だからまた,彼が貨幣資本家〔monied capitalist〕に支払う利子は,粗利潤のうちの,資本所有そのものに帰属する部分として現われるのである。これに対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,企業利得として現われるのであって,この利得は,もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行なう諸操作や諸機能から,したがって,彼が企業者として産業や商業で行なう諸機能によって発生するのである。だから,彼にたいして利子は,資本所有の,再生産過程を捨象した資本それ自体Capital an sich〕の,「働かず」機能していないかぎりでの資本の,たんなる果実として,現われる。他方,彼にとって企業利得は,資本それ自体Capital an sich〕の果実,資本所有の果実としてではなく,彼が資本を用いて行なう諸機能の果実として,資本の過程進行Processiren〕の果実として現われるのであり,この過程進行は,彼にとって,貨幣資本家〔monied capitalist〕に対立して,貨幣資本家〔monied capitalist〕の非活動,生産過程への不介入に対立して,彼自身の活動として現われるのである。このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ,すなわち,利子資本それ自体Capital an sich〕の||303上|果実,生産過程を度外視した資本所有の果実であり,企業利得は,過程進行中の〔processirend〕資本の果実であり,したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--[446]この質的な分割は,けっして一方での貨幣資本家〔monied Capitalist〕の,他方での生産的資本家の,たんに主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。というのは,利子は貨幣資本家〔monied capitalist〕の手に,すなわち資本のたんなる所有者であり,したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手〔lender〕の手に流れ込み,企業利得ただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからである。

  ①〔異文〕「・マイナス・」← 「一」〔減算記号〕
  ②〔異文〕「価値量」← 「額」
  ③〔異文〕「確定されていて,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「として」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「この企業利得は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「もろもろの偶然によって規[定され]〔bestim[mt]〕」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「……率から」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「……は別として」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「個別資本家は……できる」という書きかけが消され,さらに「ある特殊的な……できる」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「この資本を用いて」--書き加えられている。
  ⑪〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。〉  (273-278頁)

 このパラグラフはかなり長いので、内容的にわかる限りで、便宜的に番号を打って、幾つかのパラグラフにわけて、平易に書き下ろしてみよう。

 〈(1)借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれます。つまり、彼が貸し手に支払わなければならない利子と、総利潤・マイナス・利子、すなわち、利潤のうち彼自身の分け前をなす、総利潤のうち利子を越える超過分とにです。一般的利潤率が与えられていれば、あとの方の部分は利子率によって規定されています。利子率が与えられていれば、一般利潤率によってそれは規定されています。さらにまた、総利潤、つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも、機能資本家のものになる部分は利子によって規定されています。というのは、利子は、特別な法的な取り決めを別とすれば、一般的利子率によってすでに確定されていて、生産過程が始まる前から、したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から、先取りされているのであり、前提されているのだからです。
 (2)これまで見てきましたように、資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤です。ところが借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分です。だから、利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に、機能する限りでの資本の生産物として現れるのです。(彼にとっては現実にそうなのです)。そして彼は、ただ機能している資本としての資本だけを代表します。彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことです。資本が機能しているのは、それが産業や商業で生産的に投下され、それを用いて充用者が、すなわち彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行う限りのことです。だから、彼が総利潤、あるいは粗利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、利潤のうちの彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのです。あるいは、それを、この両方を包括するドイツ語の表現でいえば、企業利得という姿態をとるのです。
 (3)もし粗利潤が平均利潤に等しければ、この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されています。もし粗利潤が平均利潤から偏倚する場合には、粗利潤と平均利潤マイナス利子との差額は、ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ、ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ、こうしたあらゆる市況によって規定されています。
 (4)ところで、すでに見ましたように、利潤の率は、生産過程そのもののなかで、ただ剰余価値によって左右されるのではなく、そのほかにも多くの事情によって左右されます。例えば、生産手段を買うときの価格、平均的方法よりも生産的な方法、不変資本の節約、等々。また、生産価格のことは別として、資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか、あるいは総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは、特殊的市況にかかっており、また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっています、等々。
 (5)しかし、いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化します。そして、この量的な分割そのものは、何が分配されるか、能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか、また、その資本が機能資本として、すなわち能動的資本家としての彼の機能によって、彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか、によって定まるのですから、ますますもってそれは質的な分割に転化するのです。
 (6)機能資本家は、想定されている場合では資本の非所有者です。逆に、資本の所有は彼に対立して、貸し手によって、貨幣資本家によって代表されています。だからまた、彼が貨幣資本家に支払う利子は、粗利潤のうちの、資本所有そのものに帰属する部分として現れるのです。これに対立して、利潤のうち彼のものになる部分は、企業利得として現れるのです。だからこの利得は、もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行う諸操作や諸機能から、したがって、彼が企業者として産業や商業で行う諸機能によって発生するのです。だから、彼に対して利子は、資本所有の、再生産過程を捨象した資本それ自体の、「働かず」機能していないかぎりでの資本の、たんなる果実として、現れるのです。他方、彼にとって企業利得は、資本それ自体の果実、資本所有の果実としてではなく、彼が資本を用いて行う諸機能の果実として、資本の過程進行の果実として現れるのです。この過程進行は、彼にとって、貨幣資本家に対立して、貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入に対立して、彼自身の活動として現れるのです。
 (7)このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ、すなわち、利子は資本それ自体の果実、生産過程を度外視した果実であり、企業利得は、過程進行中の資本の果実であり、したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--この質的な分割は、けっして一方での貨幣資本家の、他方での生産的資本家の単に主観的な見方ではありません。それは客観的な事実にもとづいています。というのは、利子は貨幣資本家の手に、すなわち資本のたんなる所有者であり、したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込み、企業利得はただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからです。〉

  【このパラグラフは長いのであるが、総利潤の量的な分割が質的な分割に転回することを論証している重要な部分である。それをマルクスはどのような展開によってやっているのかをわかるように、幾つかの部分にわけて番号を打って見たわけである。
 まず(1)の部分では、マルクスは借りた資本で事業を行う生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれる、と直接的な事実を確認している。ここでマルクスは、「生産的資本家たちにとって」を問題にしていることがまず確認される必要がある。つまり質的な分割は、あくまで生産的資本家にとって生じてくる事態なのである。彼が手にするのは総利潤のうち利子を越える超過分である。つまり彼にとっては利子は生産過程の始まる前からあらかじめ差し引かれなければならないものとしてあるということである。利子は、生産過程が始まる前から、利潤が得られる前から、利潤から差し引かれるべきものとして、先取りされているのであり、前提なのである。それが確認されている。
 (2)次に、こうしたことから借り入れた資本で生産する資本家にとっては、彼の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利潤のうちのこの部分は必然的に、彼にとっては、彼が生産的資本家として機能する限りでの資本の生産物として現れるのだと指摘している。そして彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことであり、資本が機能しているのは、それが産業や商業に生産的に投下されて、その充用者である彼が、それに必要な諸操作を行う限りで、彼は資本家であり、資本の人格化なのである。だから彼が総利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのだというわけである。そしてこの両者をあわせた用語として、企業利得という姿態をとると指摘している。
 要するに利子生み資本の貸し手に支払われる利子というのは、利潤の分割されたものであるが、それはその分割された利潤の残りの部分を手にする資本家、生産的資本家たちにとっては、彼らが生産を開始する以前にすでに先取りされているものであり、一つの前提であること、だから彼らが手にするもの(企業利得)は、彼らの生産的活動の果実として現象し、それに対して、利子は不活動の果実、たんなる資本所有の果実として現象するのだということである。利子が利潤を分割して、利子と純利潤(企業利得)とに分かれるのはたんなる量的な分割であるが、それが生産的過程に対する二人の資本家の異なる振る舞いから生じていることから、質的な分割に転回するわけであ。つまり利潤という同じものがただ単に量的に分割されたものにすぎないのに、一方は資本所有の果実として、他方は生産的活動の果実として、それらがまったく異なる源泉から生まれるような仮象が生じているのである。それが質的な分割とマルクスが述べている内容である。
 (3)の部分は企業利得の大きさというのは、利潤率が与えられていれば、利子率によって規定されているのだが、しかし利子率が与えられていれば、結局、その資本の特殊な利潤の状況に左右され、いろいろな特殊的な市況によって規定されているということから、それがますます利子と質的に区別された、利子とは別個の条件に依存するように見えるということを示しているのであろう。
 (4)の部分も企業利得が、それに固有のさまざまな条件に左右されることを指摘している。つまり生産的資本家の努力や狡猾さにかかっていることから、その源泉は利子とはますます質的に区別されたものとして現れるというわけである。
 (5)こうしたことから粗利潤の量的な分割は質的な分割に転化するのだと指摘している。
 (6)次の部分は、われわれの想定では機能資本家は、資本の非所有者であるので、資本の所有は彼に対立して現れ、利子は資本所有そのもの果実として現れること、そしてそれに対して、企業利得は資本それ自体の果実、資本の進行過程の果実として現れると指摘している。そしてそれに対して利子は、彼にとっては貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入の果実として現れるのだとしている。
 (7)最後に、マルクスはこうした質的な分割は、確かに生産的資本家の立場から見てきたが、しかしそれは彼らの主観的な見方などではなく、客観的な事実にもとづいたものなのだと述べている。というのは、利子は貨幣資本家の手に、資本のたんなる所有者であり、生産過程以前にその外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込むものとして前提されており、企業利得はただ彼が機能する資本家として彼のものになるのだからだというわけである。
 以上がこのパラグラフで総利潤の量的な分割が質的な分割に転回するという事実のマルクスの論証である。】

  (以下、続く)

2019年8月18日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-1)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第23章「利子と企業者利得」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [441]/300上/3)〔利子と企業利得。監督賃金〕

  ①〔訂正〕「3)」--草稿では「4)」と書かれている。〉 (267頁)

  【表題だけなので、平易な書き下ろしは省略する。この部分は草稿では、ただ「4)」と番号が打たれているだけである。ただしこの「4)」は「3)」の誤記であろうと大谷氏は推測している。大谷氏がどうしてマルクスが番号を打ち間違ったのかについてもその理由を推測しているが、その紹介は不要であろう。総じてマルクスはこの第5章(篇)部分については読み返しながら手入れをするということをほとんどしていないのだそうである。だからこの誤記も訂正されずにそのままになっているわけである。マルクス自身は、次の項目をやはり「5)」と誤って番号を打っているが、そのあとの「5)信用。架空資本」と自ら表題を書いた段階では、番号そのものは正しいものになっている。だからマルクス自身は誤記を自覚していたということであろう。本来ならこうした誤記はその時点で訂正されるはずだが、マルクス自身は原稿を読み返して手を入れるという作業をほとんどしていないので、こうしたことになっているのだというのである。なお〈〔利子と企業利得。監督賃金〕〉という表題は大谷氏によってつけられたものである。】


【2】

 利子はもともと,利潤すなわち剰余価値(資本によって取得された不払労働)のうちの,機能資本家つまり産業家または商人が,自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり,資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分にほかならないものとして現われるのであり,そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである。もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば,そのような利潤の分割は生じない。利潤はそっくり彼のものである。じっさい,資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり,彼らは利子率,rate of interestを規定する競争には参加しないのであって,すでにこの点にも,利子の諸範疇--これらはなんらかの利子率の規定なしにはありえない--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されて[442]いるのである。

 ①〔異文〕「を充用する」← 「で仕事をする」
  ②〔異文〕「かぎり」← 「ときに」
  ③〔異文〕「資本の所有者つまり貸し手」← 「彼が充用する資本の所有者」
  ④〔異文〕「支払ってしまわなければならない」← 「支払わなければならない」
  ⑤〔異文〕「彼はまった[く〕…… のままである〔bleibt ga[nz]〕」--という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「所有者たち」← 「所有者」
  ⑦〔異文〕「この点からも」という書きかけが消されている。〉 (267-268頁)

 〈利子というのはもともと、機能資本家つまり産業家または商人が、自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり、彼が取得した利潤つまり剰余価値のうち、資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるのです。そしてもともとそれにほかならないのです。また実際にどこまでもそれにほかならないものなのです。
 もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば、そのような利潤の分割は生じません。利潤はそっくり彼のものです。そして実際、資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり、彼らは利子率を規定する競争には参加しないのです。そしてすでにこの点にも、利子の諸範疇--つまりこれらは何らかの利子率の規定なしにはありえないのですが--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されているのです。〉

 【ここでは前回の「2)」で確認したことが再び確認されている。つまり利子というのは利潤の分割したものだということである。ここでマルクスは利子は利潤のうち資本の貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れると述べている。この「現れる」というのは特徴的である。それはまさに表象として直接捉えられるものなのである。それは何かの分析や考察にもとづいてその本質が解明されるというようなものではなく、資本を借りて生産した機能資本家にとってはそれは彼らが得た利潤からの控除として直接現れているものだということである。マルクスは〈そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである〉と敢えて念を押している。こうした念押しは、やはり利子諸範疇というのは、あくまでも生産過程にとっては外的なものであり、そうしたものにとどまるのだ、と言いたいのであろう。だからまたそうした資本を借りずに、自分の資本で生産する資本家は利潤を分割する必要はなく、利潤をそっくり自分のものにできる。だからまた彼らは利子率を規定する競争に参加することもない。そしてこうしたことが利子の諸範疇が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることを示しているのだというのである。ここで「利子の諸範疇」ということばが出てくる。それらは利子率の規定なしにはありえないとも説明されている。要するに貨幣信用にかかわる諸範疇ということであろう。つまり貨幣の貸し借りに関連するものは、すべて生産的資本それ自体の運動には外的なものなのだというのである。この理解、あるいは観点は、マルクスにとっては一貫しており重要である。】


【3】

 利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capitalの使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」a) じっさい,ただ貨幣資本家〔monied capitalist〕と産業資本家とへの資本家の分離だけが,利潤の一部分を利子に転化させるのであり,そもそもこの範疇をつくりだすのである。そして,ただこの二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。/

  ①〔異文〕「分離」← 「分裂」
  ②〔異文〕「利潤を」という書きかけが消されている。〉 (268頁)

 〈「利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capita1の使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」 実際、ただ貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離だけが、利潤の一部分を利子に転化させ、この範疇を作り出すのです。そして、この二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率を作り出すのです。〉

 【ここでは上のパラグラフ(【2】)で述べていることを、ほぼそのまま論じているトゥクの一文を紹介して、貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離が利潤の一部を利子に転化させ、こうした範疇--この範疇はというのは先のパラグラフに出てくる「利子の諸範疇」のことであろう--をつくりだすと指摘されている。下線による強調はトゥクのそれとは異なっているからマルクスのものであろう。ここでは「貨幣資本家」に対して「産業資本家」が対置されている。「所有資本家」に対しては「機能資本家」が対応している。また「産業資本家」は、先のパラグラフでは〈機能資本家つまり産業家または商人〉と述べているのだから、必ずしも産業家だけではなく商人も入るのであろう。要するに「再生産的資本」あるいは「再生産過程内の資本家」などとあとでも言われているものである。】


【4】

 |300下|〔原注〕a) Th.トゥク物価史』,第2巻,ロンドン,1838年,355,356ページ〔藤塚知義訳『トゥック物価史』,第2巻,東洋経済新報社,1979年,330-331ページ〕〔原注a)終わり〕。/

  ①〔訂正〕「ロンドン,1838年」--草稿では「(ニューマーチ編,ロンドン,1857年)と書かれている。マルクスは,1858年のロンドン抜粋ノートから取り入れるさいに誤ってこのように書いた。〉 (268頁)

 【このパラグラフは先の引用の典拠を示すだけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この『物価史』からの引用はその一部を省略して行われているが、全体を参考のために紹介しておこう。

 〈利子率とは,一定額の貨幣資本(monied capital)の使用にたいして,1年とかあるいはそれより長期または短期の期間について,貸手が満足して受け取り,借手が満足して支払う比例額であると--その収入の収得のための労苦とか,約定された時期に利子や元本が期限どおり償還されるかどうかについての危険とかは考慮にいれないで--定義できるであろう。貨幣資本の所有者がその貸付にたいしてこの率以上に受け取るものはすべて,危険あるいは労苦にたいする報酬という見地から考察されるべきものである。
 この見地からいえば,利子率資本の純利潤をはかる尺度である。資本の使用によって生ずる利得のうちこれ〈純利潤〉を超えるものはすべて,これとは別個の項目のもとに,危険にたいする・あるいは労苦や熟練にたいする・あるいは位置や環境の利益にたいする・代償に分解される。資本の所有者がこれを実際に再生産に使用するときは,彼は,借手の数にたいするその割合が利子率の決定に参加するところの資本家の部類には入らない。利子率になんらか直接の影響を与えるのは,その所有者が自分の貨幣を自ら積極的に使用することを欲せずあるいは使用することができないという部類の資本だけである。〉(330-331頁)下線はトゥクによる強調】


【5】

 /300上/(資本が再生産過程で機能しているかぎり--その資本が産業資本家のものであり,したがって彼はそれをどんな貸し手にであれ返済するという制約が存在しないものと前提しても--,彼が私的個人として自由に処分できるのは,ただ彼が収入として支出することのできる利潤だけである。彼の資本が資本として機能しているかぎり,それは再生産過程に属している。彼はその資本の所有者ではあるが,しかし,この所有は,彼がそれを資本として労働の搾取に使用しているかぎり,別の仕方で彼がそれを処分することを許さないのである。貨幣資本家〔monied capitalist〕の場合もまったく同じことである。彼の資本が貸し出されている--したがってまたmonied Capitalとして働いている--あいだは,それは彼の手に利子を,つまり利潤の一部分をもってくるが,しかし彼は元本を自由に処分することはできない。こういうことは,彼が資本をたとえば1年(またはもっと長い期間)貸し付けて,それにたいしてある期間ごとに利子は受け取るが,資本の返済returnは受けないという場合に,現われる。しかし,返済〔return〕があってもこのことに違いはない。彼は資本を返してもらうが,しかし,自分のためにそれに資本(ここではmonied capital)の働きをさせようとするかぎり,彼は絶えず繰り返しそれを貸し付けなければならない。それが彼の手のなかにあるときには,それは利子を生まず,だからまた資本として働かない。そして,それが利子を生み,資本として働いているかぎり,それは彼の手のなかにはない。ここから,資本を永||301上|久に〔à perpétuité〕貸し付けておくという可能性も生じるのである。それゆえ,トゥクが次のように言っているのは,まったく間違いである。彼は言う。--

  ①〔異文〕「資本としては」という書きかけが消されている。〉 (269-270頁)

 〈(資本が再生産過程で機能しているかぎり、彼が私的個人として自由に処分できるのは、ただ彼が収入として支出することができる利潤だけです。これは例えその資本が産業資本家のもので、だから彼はそれをどんな貸し手にであれ返済しなければならないという制約がないばあいでもそうなのです。彼の資本が資本として機能しているかぎり、それは再生産過程に属しています。だから彼はその資本の所有者ではあるが、しかし、この所有は、彼がそれを資本として労働の搾取に利用しているかぎり、別の仕方でそれを処分することを許さないものです。貨幣資本家〔moneyed capitalist〕の場合もまったく同じことです。彼の資本が貸し出されているあいだは、それがmoneyed capitalとして働いているわけですが、そのあいだは、それは彼の手に利子を、つまり利潤の一部分をもってくるが、しかし彼は元本を自由に処分することはできません。こういうことは、彼が資本を例えば1年間(またはもっと長い期間)貸し付けて、それに対してある期間ごとに利子は受け取るが、資本の返済は受けないという場合に、現れます。しかし、返済があってもこのことに違いはないのです。彼は資本を返してもらいますが、しかし、自分のためにそれに資本(ここでは当然moneyed capitalとしてのそれですが)の働きをさせようとするかぎり、彼は絶えず繰り返してそれを貸し付けなければなりません。それが彼の手のなかにあるときには、それは利子を生まず、だから資本として働かないのです。そして、それが利子を生み、資本として働いているかぎりは、それは彼の手のなかにないのです。ここから、資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じるのです。それゆえ、トゥクが次のように言っているのは、まったく間違っています。彼は言います。--〉

 【このパラグラフの冒頭には「(」がついている。この締めの括弧(「)」)はわれわれのパラグラフ番号では【7】の最後にある。だからそれに付けられた原注である【8】パラグラフも含めて全体が丸カッコに入っているわけである。この点について大谷氏はこの括弧をエンゲルスは編集の段階で削除しているが、それは不適であると次のように述べている。

 〈これに対応する「)」は,本書本巻271ページ20行にある。なお,マルクスは草稿で通常,なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分を角括弧でくくっている(本稿では{}で示している)が,エンゲルスはこの角括弧を大部分単純に削除している。そのために,草稿では文脈が明瞭であるところが,エンゲルス版ではわかりにくくなっている場合がかなりある。ここでは角括弧でなくてパーレンであるが,やはり明らかに,前後から区別されるべき部分である。この部分を除いて読めば,この部分の直後の,「そこで生じるのは次のような疑問である」という文で始まるパラグラフのつながりが明瞭になる。〉 (269頁)

 つまりここでは資本が機能しているあいだは、資本家はそれを処分することはできないということから、同じことは貨幣資本家についても言いうることだと指摘し、それが返済されるまでは自由に処分できないのは当然であるが、それだけではなく、例え返済されたとしても、それが自分のために資本として働かせるためには、常に貸し付けて、moneyed capitalとして働かせていなければならず、それが働いているかぎりでは、彼はそれを自由に処分はできないと指摘し、そこから資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じると指摘している。この資本を永久に貸し付けるというのは、例えば株式を購入する場合は、それは永久に貸し付けるに等しく、配当を利子とし受け取ることになるし、あるいは永久公債のようなものもそうしたものであろう。その場合は利子は年金のように定期的に貨幣利得をもたらすものとして現れるわけである。そうした可能性をここでは論じているわけであるが、確かにこうした問題は本題からすればややずれた問題であろうと思う。だからマルクスは全体を括弧で括ったのであろう。】


【6】

 ボウズンキト氏(『金属通貨,紙券通貨,信用通貨』)の考察によれば(73ページ)--
 「かりに利子率が1%のような低率に引き下げられるとすれば,借入資本も自己資本とほとんど同等の位置にon a per置かれることになるであろう。」〉 (270頁)

 【このパラグラフは、少しややこしいが、前のパラグラフからの続きを考えるなら、恐らくトゥクの言っていることなのだから、最初の部分はその要約であり、鍵括弧の部分はトゥクがボウズンキトの著書から引用している部分の重引であろう。だから平易な書き下しは不要と考えた。ボウズンキトは利子率が低率なら借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれると指摘しているのにたいして、トゥクはそれは間違いだというわけである。それが次のパラグラフで引用されている一文だが、それをマルクスは批判しているわけである。だからマルクスはむしろボウズンキトの主張の方が正しいと考えているのであろう。いずれにせよ最後まで見て、それを判断しよう。】


【7】

 これにたいしてトゥクは次のような評注をつけている。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,[443]ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a) かりに利子がゼロだとすれば,資本を借りた生産的資本家も,自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だon a par〕ということになるであろう。すなわち,両方とも同じ平均利潤を取り込むであろう。そして,借入資本であろうと所有資本であろうと,資本が資本として働くのは,ただ,それが利潤を生産するかぎりだけのことである。返済〔repayment〕という条件は少しもこのことを変えはしないであろう。利子率がゼロに近づけば近づくほど,つまりたとえば1%にでも下がれば,ますます借入資本は所有資本と同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。monied capitalをmonied capitalとして存在させようとするかぎり,それは絶えず繰り返して貸し出されなければならない。しかも現行の利子率,たとえば1%の率で,しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならない。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり,借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は,ただ,一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ,一方はP(利潤)を全部取り込むが,他方はP-Z(利子)を取り込む,ということだけである。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き,したがってますます二つの資本は同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。一方は資本を返済してまたあらためて借り入れ〔leihen〕なければならない。しかし,他方も,彼の資本を機能させようとするかぎり,やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸しなければならないのであって,それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできない。)/

  ①〔異文〕「たえず繰り返し」--書き加えられている。〉 (270-272頁)

 〈これに対して、トゥクは次のような評注をつけています。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a)
 しかし仮に利子がゼロだとすれば、資本を借りた生産的資本家も、自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だということになるでしょう。つまり、両方とも同じ平均利潤を取り込むでしょう。そして、借入資本であろうと所有資本であろうと、資本が資本として働くのは、ただ、それが利潤を生産するかぎりだけのことです。返済という条件は少しもこのことを変えはしないでしょう。利子率がゼロに近づけば近づくほど、例えば1%にでも下がれば、ますます借入資本は所有資本と同等な位置に置かれることになります。moneyed capitalをmoneyed capitalとして存在させようとするかぎり、それは絶えず繰り返して貸し出されなければなりません。しかも現行の利子率、例えば1%の率で、しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならないのです。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり、借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は、ただ、一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ、一方はP(利潤)を全部取り込むが、他方はP-Z(利子)を取り込む、ということだけです。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き、したがって二つの資本は同等な位置に置かれることになります。確かに一方は資本を返済してまたあらためて借り入れなければなりません。しかし、他方も、彼の資本を機能させようとするかぎりは、やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸ししなければならないのであって、それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできないのです。)〉

 【ここではボウズンキトが、利子率が1%のような低いものになれば、借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれるというのに対して、トゥクは、返済という条件があるではないか、それを彼は見落としたのか、それともそれは大したことはないと考えているのかと批判しているのにたいして、明らかにマルクスはボウズンキトの方が正しく、トゥクの方が間違っていると述べている。これは一見するとどうしてなのか、と思うのだが、マルクスがここで言いたいことは、資本にとっては利潤を生産することがもっとも重要なことであるが、それはだからその資本が貸付資本であるか自己資本であるかということは、外的なことなのだということなのである。確かに借入資本の場合は利子の支払があるので、その点が自己資本の場合と異なるが、しかしその利子率がゼロに近くなればなるほど、利潤の生産ということから見れば、だから両者は同等な位置に置かれるというのである。トゥクは資本にとってそれが借り入れかそうでないかということ、だから貸し付けや返済ということは、資本の生産過程における運動にとっては外的なものだという理解がないとマルクスは批判しているわけである。その意味では、この丸カッコに括られた部分も、【2】パラグラフでマルクスが利子の諸範疇は生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであると述べていたことと関連して述べられているわけであるから、それほど全体の議論から外れたものとはいえないであろう。だからまたマルクスも大谷氏が指摘しているように、〈なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分〉というほどではないから、角括弧ではなく、丸カッコで括ったのではないだろうか。】

【8】

 〈|301下|〔原注〕a)Th,トゥク通貨原理の研究,云々』,ロンドン,1844年(第2版),80ページ〔前出玉野井訳『通貨原理の研究』,139ページ〕。〔原注a)終わり〕|〉 (272頁)

 【これはトゥクからの引用の出典を示しているだけだから、とくに解説は不要であろう。】

   (以下、続く)

2019年8月 8日 (木)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

 

  前回の続き第【47】パラグラフからである。


【47】

 〈/300上/{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}{第2に,債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になる。}{第3に,債務権原の相殺が貨幣の代わりをする。}/

  ①〔異文〕改行して書いた「第1に」という書きかけが消されている。/〉 (250-251頁)

 〈以上のことから、次のようなことが明らかになる。
  第一に、信用の一証明、あるいは一形態。私たちが知っているように、貨幣が購買手段とてではなく支払手段として機能する場合には、商品は譲渡されるがその価値はあとからはじめて実現されます。もし商品が売られてからはじめて支払がなされるとすれば、販売は購買の結果として現れるのではなくて、販売によって購買が実現されるのです。そして、販売が購買の手段になるのです。
  第二に、債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になります。
  第三に、債務権原の相殺が貨幣の代わりをします。〉

 【このパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクスがついでに関連して、書いたものかもしれない。大谷氏はこのパラグラフについて次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では,このすぐまえに,「以上のところから,次のことが明らかになる。〔Es ergiebt sich aus dem Bisherigen Folgendes:〕」と書き,改行してその下に「第1に。〔Erstens:〕」と書いたのちに,この両方を消している。この「第1に」は,すぐあとの「第2に」に対応するものであろう。MEGAはこの異文を記載していない。なお,このパラグラフへのMEGAの異文での,消されている「第1に」は,この「第1に」とは別に,このパラグラフの次行に書かれているものである。つまり,このパラグラフの直前に「第1に」という消されている行があり,さらにこのパラグラフの直後にもう一度,「第1に」という消されている行があるのである。
  エンゲルス版では,このパラグラフのまえに,区切りを示す横線が引かれている。そしてこのパラグラフの最初に,「(あとの仕上げのための覚え書)」と書き入れている。〉 (251頁)

  こうしたマルクスの記述のあとをみると、「第1に」には、〈{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}全体が含まれるようである。最初に考えたのは、〈信用の一証明形態〉として、第一に、第二に、第三に、と続くと思えたのであるが、どうもそうでないらしい。
  また、この〈信用の一証明形態〉についても、大谷氏は次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では「信用の一証明Ein Beweis d.Credits〕」のうちのBeweis d.の上に,挿入記号なしにFormと書かれている。MEGAはこれをBeweisformと読み,EinをEineに変更している(草稿ではEinのままになっている)。だから,このFormの書き加えは,「信用の一証明〔Ein Beweis d.Credits〕」に「信用の一形態〔Eine Form d.Credits〕」を並記した,と見ることも可能であろう。〉 (251頁)

  これは大谷氏のように、並記したと理解する方が正しいような気がする。そもそも「一証明形態」などという用語を読んだ時にすぐに?(ハテナ)と疑問に感じたからである。証明の形態などというのは一体何を言いたいのかと思わざるを得ない。むしろ信用の一つの証明、あるいは信用の一つの形態としてまず第一が論じられ、そのあと第二と第三の問題が論じられていると理解する方がすんなりと理解できるのである。
  しかしこのパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクス自身も最初、〈以上のところから,次のことが明らかになる〉と書き出したものの、それを消しているということはことさらこれまでの展開と関連づけてこのパラグラフの内容を書いたとは言えないと考えたからであろう。マルクス自身はそうした展開としてこれを書いたわけではないのである。ただこれまで書いてきたことと関連して、思いついたことをメモしたという程度のものと理解すべきではないかと思う。】

  以上で「2)」(エンゲルス版第22章該当個所)の草稿のテキストは終わりである。だからもう一度、全体を見渡して、マルクスがこの「2)」をどのように展開しているのかを見ていくことにしよう。

 

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エンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」(草稿では「2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。」)全体の構成

 

  この「2)」全体の構成を考えるために、全体を幾つかの部分にわけて、便宜的に番号を打って、それぞれのテーマを書き出してみよう。

  (1) まず表題を確認しておこう。

  〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  これはマルクス自身によって書かれている。つまりここでは三つのことが考察されることが示されている。(1)利潤の分割。(2)利子率。(3)利子の自然的な率である。ここで(2)と(3)がどのように違うのか、それを区別する意義は何か、そうしたことも問題であろう。

  (2) 【2】--ここではこれから考察する対象についての限定、前提が語られている。

  (3) 【3】~【13】--ここではまず〈われわれのこれまでの前提によれば〉とこれまで考察してきた「1)」(第21章該当部分)を前提すれば、利子は利潤のうちの機能資本家から貨幣資本家に支払われる一部分であるというもっとも直接的な表象にもとづいて利子の規定が行われ、そこからだから利子の最高限界として現れるのは利潤そのものだ、といきなり利子の量的考察に入っている。そしてマッシーからの抜粋を本文として紹介して、こうした利子の規定は、当時のエコノミスト達にとっても表象としてつかまれていたものであることを示唆している。そして利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界とみなされるべきとし、利子は平均利潤に関連づけて説明すべきという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察するとしている。そして一般的利潤率を100と与えられた大きさとして仮定するなら利子の変動は機能資本家の手に残るものと反比例するが、しかし両者はまったく違った事情によって変動することを指摘する。

  (4) 【14】--ここに〈Nb.〉で始まる一つのパラグラフが挿入される。そして〈利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉という自己了解の事項が書かれている。

  (5) 【15】~【22】--ここから産業循環の諸局面に応じて利子率がどのように変化するかが論じられている。そしてそれに幾つかの原注がつけられ、補足的な説明も本文として加えられている。

 (6) 【23】~【29】--ここではまず〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉というテーマが掲げられている。そしてそうした問題として(1)、(2)、(3)と番号を打って抜粋が紹介されているように見えるのだが、しかしテキストの考察でも紹介したが、【34】パラグラフにある(3)は必ずしも同じ問題を論じているとは言いがたい。だからこの(3)はとりあえずは無視して、われわれは論じることにしたい。そうするとこの傾向として語られているのは、一つは金利生活者の増大、もう一つは信用システムの発展である。こうした結果、貸付可能な貨幣資本の増大が生じ、利子率は低落する傾向があるということである。

 (7) 【30】~【33】--この部分は大変長い【30】パラグラフとそれにつけられた原注からなっている。【30】パラグラフでは、まず利子の平均率とか中位的な率というようなものはどんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。だから利子の自然率というようなものは、利潤の自然な率とか賃金の自然な率というような意味では存在しないと指摘する。だから貸付可能な資本の供給とそれに対する需要のみが利子率を規定するのだということである。そしてどうして利子率の限界を一般的な法則から展開できないのか、というとそれは利子の性質のうちにあるとしている。貸付資本も資本であるが、それが現実に資本として機能するのは、一度だけであり、生産資本においてであること、だからその結果として生産された利潤に対する要求権をもつ二人の人物がそれをどのように分けるのかは経験的な事実でしかないからだというのである。そこから質的な分割が、剰余価値の純粋に量的な分割から出てくると結論づける。あとはこれのパラグラフにつけられた原注が続くだけである。

 (8) 【34】~【35】--この部分は、冒頭に「(3)」と番号が打たれ、スチュアートの『経済学原理』からの抜粋があり、一見すると(6)の続きのように思えるのだが、すでに述べたように、論じられている問題が必ずしも同じとは言い難いものである。ここではマルクスは貨幣の価格、すなわち利子率は大きな固定性と大きい一様性をもっているということを肯定的に引用している。そしてこの利子率の固定性と一様性は、あとの展開でも言及されているから、この抜粋部分はまったくどうでもよいものとは言い難いのである。

 (9) 【36】~【46】--ここでは利子率と利潤率(一般的利潤率)との違い、両者の比較検討を通じて、利子率の性質を明らかにし、また同時に利潤率(一般的利潤率)の性質をも明らかにすることが課題とされているように思える。

  (10) 【47】--この最後の部分は、これまでの展開を踏まえて、思いついたことをメモ書きしたもののように思える。だから全体の論旨とは必ずしも関連させて考える必要はないように思える。

  このように全体を見渡すと、いろいろなことが論じらているのであるが、もう少し対象を絞って論じられている重要な項目を挙げてみよう。

  (1) 利子は利潤の分割されたものであり、よって究極的には利潤によって規定されていること、そうした利子の規定は、直接的なものであり、一般的に表象として、当時の経済人や経済実務家、あるいはブルジョア的な理論家によっても捉えられてきたこと。

  (2) 産業循環の諸局面で利子率の変動があること。マルクスは産業循環の諸局面として、沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々をあげているが、利子率は最初の沈静状態では低く、活気増大でもやはり信用はしっかりしており、商品資本の実現とそれが貨幣資本として循環してくることも順調だから、貨幣資本(moneyed capital)への需要がそれほど多くないために低いままである。繁栄に至って、ようやく利子率は徐々に高まり、過剰生産に至って、諸資本は低下した一般的利潤率を利潤量の絶対的増大によって補おうとして加速度的な蓄積と拡大を行うために、貨幣資本(moneyed capital)への強い需要が生じ利子率は高くなる。そして恐慌時には、今度は産業は行き詰まるが、諸資本は諸支払への必要から支払手段の融通を銀行に求め(また支払い手段としての銀行券の退蔵も生まれるから)、利子率は異常に高騰する。そしてまた沈静に至り経済活動は不活発になるがゆえに、利子率も低下する等々である。

  (3) 利子率はどんな法則によっても全然規定できないものである。それは利子の性質にもとづいている。貨幣資本も資本であり、それが貸し出される機能資本も資本である。しかし資本が資本として利潤を生むのは後者の局面だけである。だから利潤を二つの資本家によって分け合う必要があるが、これはただ経験的にやるしかやりようがない。だから利子率は何か法則的に決まってくるというようなものではないのである。ここでは需給の一致は何も意味しない。貨幣資本(moneyed capital)の供給者と需要者による競争がそれを決定するのである。競争そのものが決定するということは、それによって規定されるものは、それ自体として偶然的であり、純粋に経験的であるということ意味する。

  (4) 利子率と一般的利潤率との違いと両者のそれぞれの性質。利子率は貨幣資本(moneyed capital)の需要と供給とによって、貨幣資本家と機能資本家とが相対することによって、その時々に経験的に捉えられる事実であり、確定されたものとして、あまねく一様であり、固定的であるが、一般的利潤率はもっと複雑な過程を経て形成されるものである。それは諸商品の市場価格が生産価格へ平均化される過程を通して、諸資本がある部面から他の部面へと移動することによって、あるいは追加資本の配分が変化することによって、総剰余価値をそれぞれの資本の大きさに応じて按分比されて分割されるように、諸資本が互いに競争する結果として決まってくるものであり、それは諸資本の現実の運動の背後で形成され、けっして経験的にとらえられるものではない。それが経験的に知られるのは資本にとっての利潤の最低限界として意識されるときだけである。

  まあ、ざっとこうしたことが論じられている。ここでは全体としては利子率というものの性質があまねく明らかにされているということができる。

 では全体の流れとして、マルクスはどのように問題を展開しようとしているのであろうか。
 まずマルクスは利子とは何かを直接的な表象として捉え、それは当時の経済実務家たちによっても把握されていたものであることを指摘する。つまり利子とは何か、それは利潤から分割されたものだというのは、直接的な表象としても把握できることなのである。
 そこからマルクスは次ぎに利子率の変化を現実の経済過程のなかに見ている。最初は分析の前提として産業循環のあいだに利子率が通る円環については、産業循環の叙述を前提することはできないといいながら、しかしここで産業循環の諸局面で利子率はどのように変化するかを見ているのである。しかしこれは必ずしも産業循環の考察を踏まえたものというより、そうした産業循環の諸局面における利子率の変化をただ辿っているということに過ぎない。つまりそれぞれの局面に対する利子率の対応を見ているだけで、なぜそうなのかについては一切論じていないといえる。
 そしてこうしてみたように産業循環の諸局面に対応して利子率が変化することを見るなら、利子率は何らかの法則にもとづいてそのように変化しているのかという問題に次ぎにマルクスは移行しているわけである。そしてマルクスは、利子率にはそうした法則性というようなものは何もないのだと喝破している。そしてそれは利子の性質そのものにもとづくものだというのである。そして利子率というのは結局は競争そのものによってただ経験的に決まってくるだけだとしている。
 このように利子率の特性を明らかにしたあと,マルクスはこうした点で利子率は一般的利潤率とは違うということを指摘して、両者を比較・検討して、それぞれの特性をさらに明らかにしようとしている。利子率とは異なり、一般的利潤率は法則的に決まってくるものだとマルクスは考えているわけである。
 だいたい以上が、この章でマルクスが展開しているものである。

  とりあえず以上で「2)」の部分の解読は終了しよう。次回からは第23章該当部分の草稿の解読に取りかかることにする。

2019年8月 4日 (日)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【40】パラグラフからである。


【40】

 中位の利子率は,どの国でも,かなり長い期間について,不変の大きさとして現われる。なぜならば,一般的利潤率は--特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらず,といっても一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのではあるが--ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして,一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率〔d.average rate〕または普通の利子率common rate of interest〕)の多少とも不変な性格に現われるのである。

  ①〔異文〕「相対的な」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「多少とも」--書き加えられている。〉 (243頁)

 〈中位の利子率は、どの国でも、かなり長い期間について、不変の大きさとして現れます。なぜなら、一般的利潤率はただかなり長い期間に変動するだけだからです。もちろん、特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらずにです。といってもそうした特殊的利潤率の変動は、一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのですが。そして一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率または普通の利子率)の多少とも不変な性格に現れるのです。〉

 【先のパラグラフでは利子率の「固定性」に疑問を呈したが、ここでは中位の利子率の固定性が言われている。中位の利子率、あるいは平均利子率については、【20】パラグラフで次のように言われていた。

(利子の平均率を見いだすためには,1)回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。) 〉 (228頁)

  つまりマルクスがここで問題にしている中位の利子率(平均利子率)というのは、一つの産業循環を通して平均した利子率のことを意味しているのである。確かにこうしたものなら一定の固定性を持っていることは明らかであろう。一つの回転循環のあいだにおいて、一般的利潤率は傾向的に低下するが、それ自体は、恐慌時を除いては、急激に変化するようなものではない。そうしたことが平均利子率の多少とも不変な性格として現れるのだ、というわけである。】


【41】

 しかし,絶えず動揺する利子の市場率について言えば,それは,商品の市場価格と同様に,各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられている。なぜならば,貨幣市場〔money market〕ではすべての貸付可能な資本〔loanable capital〕がつねに総量として機能資本に対立しており,したがって,一方では貸付可能な資本〔loanable Capital〕の供給の割合,他方ではそれにたいする需要が,そのつどの利子の市場価格を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは,信用制度の発達とそれに結びついたその集積とが貸付可能な資本〔1oanable Capital〕に一般的社会的な性格を与えるようになるからである。これに反して,一般的利潤率はいつでもただ傾向として,特殊的諸利潤率の均等化の運動として,存在するだけである。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動である--とは,ここでは,利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって,利潤が平均〔1evel〕よりも高い[439]部面に④資本を投じていくということである。あるいはまた,追加資本〔additional Capital〕がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということである。それは,それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動である。

  ①〔異文〕「市場率について」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「すべての」alles←das gesammte
  ③〔異文〕「,……〔全体〕として〔als das〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「追加」と書いたのち,消している。〉(243-244頁)

 〈しかし、絶えず動揺する利子の市場率についていえば、それは商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられています。なぜなら、貨幣市場では、すべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、その都度の利子の市場価格を決定するからです。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに結びついた利子生み資本の集積とが貸付可能な資本に一般的社会的な性格を与えるようになるからです。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、特殊的諸利潤率の均等化の運動として、存在するだけです。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動ですが--とは、ここでは、利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって、利潤が平均より高い部面に資本を投じていくということです。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということです。それは、それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動です。〉

 【先のパラグラフでは中位の利子率(平均利子率)というものの固定性が一般的利潤率の変動の緩慢さの表現であるという指摘があったが、今度は、一転してむしろ両者の違いが指摘されている。
  つまり利子の市場率は絶えず動揺するが、しかしそれぞれの各瞬間にはある固定的な大きさとして常に与えられている。しかし一般的利潤率というのは、そうではなく、ただ一つの傾向として存在するだけだというのである。利子の市場率が、各瞬間には一定の固定的な率として決まってくるというのは、貸付可能な資本が一つの総量として、機能資本家に対立して、その需要と供給によって決定されるからである。信用制度の発展とそれに結びついた貸付可能な資本の集積とがそれに一般的社会的な性格を与えることになるとも指摘されている。
  一般的利潤率が特殊的利潤率の均等化の運動として、一つの傾向として存在しているだけだ、という指摘も重要である。またここでの一般的利潤率を形成する資本家たちの競争についても詳しい説明がある。それは特殊的利潤率がかなりながいあいだ平均よりも低い部面から資本家たちが資本を引き揚げて、高い部面へと投じていく運動のことであり、あるいは追加資本がこれらの部面に配分される割合が違ってくるということだ、つまりそれらのいろいろな部面への資本の供給が変動することだ、という説明がある。】


【42】

 すでに見たように,利子生み資本は,商品とは絶対的に違った範疇であるにもかかわらず,独特な種類の商品Waare sui generis〕となるのであって,それゆえに利子は,〔すなわち〕これはまたこれで〔商品の〕価格とはまったく違っている利子生み資本の価格は,商品の場合にその市場価格がそうであるように,需要と供給によってそのつど確定されるのである。それだから,それ〔利子〕の市場率は,絶えず変動する〔variiren〕にもかかわらず,商品のそのつどの市場価格とまったく同様に,つねに確定した一様なものとして現われる。貨幣資本家たち〔monied Capitalisten〕はこの商品を供給し,機能資本家たちはそれを買い,それにたいする需要を形成するのである。このようなことは,一般的利潤率への均等化の場合には生じない。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合,それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視する),その均等化は,生産の拡大または縮小によって,すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって,均等化が生じるのであり,この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介される。そのようにして引き起こされる,諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって,一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的諸利潤率の偏倚は修正される。この過程は,利子生み資本とはちがって,生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現われないし,またけっしてそういうように現われることはできない。この過程が現われるかぎりでは,それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化とのうちに現われるだけであって,平均利潤の確定として現われるのではない。一般的利潤率は,実際には,総資本が生産する剰余価値によって,生産的資本の価値にたいするこの剰余価値の割合によって,そして競争によって,といってもここでは,ただ,特殊的生産諸部面に投下された資本がそれそれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争によって,規定されている--つまり一般的利潤率は,実際には,需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った,それよりもずっと複雑な諸原因からその規定を汲み出す〔--〕のであり,したがって,一般的利潤率は,けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではない。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は,それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないもの〔matter of guessing〕である。しかし,それらの利潤率が現われるかぎりでは,現わ[449]れるものはそれらの利潤率の一様性ではなくて多様性なの||300上|である。ところが,一般的利潤率そのものは,ただ利潤の最低限界〔Minimum limit〕として現われるだけで,現実の利潤率の経験的な姿態としては現われないのである。

  ①〔異文〕「一般的利潤率への均等化の場合には」←「……の確定の場合には〔bei der Festsetzung der〕」
  ②〔異文〕「縮小」Verkürzung←Contrac[tion]
  ③〔異文〕「そのようにして引き起こされる,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「特殊的諸利潤率は絶え[ず]」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「修正される〔rectificirt」」 ←「縮小される〔reducirt〕」
  ⑥〔異文〕「や商業資本」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「市場価格の」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「る。そしてこれは,ただ……ような,絶えざる過程である。」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「平均利潤の確定として現われるのではない」--書き加えられている。
  ⑩〔異文〕「……規定されているのではない」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「生産的」--書き加えられている
  ⑫〔異文〕「ここでは,」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「の経験的な姿態」--書き加えられている。〉 (244-246頁)

 〈すでに見ましたように、利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇です。にもかかわらず、それは独特な商品となるのです。だから利子は、これはこれで商品の価格とはまったく違っているのですが、利子生み資本の価格となり、商品の場合にその市場価格がそうであるように、需要と供給によってそのつど確定されるのです。だから、それらの利子の市場率は、絶えず変動するにもかかわらず、商品のそのつどの市場価格とおなじように、つねに確定した一様なものとして現れるのです。
  貨幣資本家たちはこの商品を供給し、機能資本家たちはそれを買い、それに対する需要を形成するのです。
  しかしこのようなことは一般的利潤率への均等化の場合には生じません。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合、それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視します)、その均等化は、生産の拡大または縮小によって、すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって、均等化が生じます。この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介されます。そのようにして引き起こされる、諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって、一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的利潤率の偏倚は修正されるのです(つまりそれらは生産価格で販売することによって平均利潤を得るようになるわけです)。この過程は、利子生み資本とは違って、生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現れないし、またけっしてそういうように現れることはできません。この過程が現れるかぎりでは、それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化ということのうちに現れるだけで、平均利潤の確定として現れるのではないのです。一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する剰余価値によって、そして競争によって、規定されています。もっともここで競争によって、というのは特殊的生産諸部面に投下された資本がそれぞれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争を意味しますが。--つまり一般的利潤率は、実際には、需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った、それよりずっと複雑な諸原因からその規定をくみ出すのです。だから一般的利潤率は、けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではないのです。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は、それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないものです。しかし、それらの利潤率が現れるかぎりでは、現れるものはそれらの利潤率の一様性ではなく多様性なのです。ところが、一般的利潤率そのものは、ただ利潤の最低限界として現れるだけで、現実の利潤率の経験的な姿態としては現れないのです。〉

 【このパラグラフは結構長いものにとなっている。しかし全体としては一般的利潤率の性格を明らかにするところに主眼があるように思える。
 それを明らかにするために、まずマルクスは利子生み資本の場合を取り上げる。それは商品とは絶対に違った範疇なのに、商品となるのであり、だから利子も商品の価格とはまったく違ったものであるのに、利子生み資本の価格になることを指摘し、商品の市場価格がそうであるように、利子生み資本の価格である利子も、そのつどの需要と供給によって確定された、一様なものとして現れる。貨幣資本家たちがこの商品(利子生み資本)を供給し、機能資本家たちがそれを買い、需要を形成する、と。ここまではいわば一般利潤率を論じるための、その比較のための考察である。
 だからそこからマルクスは話を一転させて、一般的利潤率への均等化の場合には、こうしたことは生じないと論を転じている。ここで「こうしたこと」とは何を指すのかというと、(1)一つは貨幣資本家が利子生み資本を供給し、機能資本家がその需要を形成するいうようなことである。(2)あるいはそうした過程を経て、利子率が一様なものとして確定されるというようなことである。こうしたことが一般利潤率の均等化では生じないとマルクスは指摘するわけである。
 (1)だからまず一般利潤率の均等化の場合はそれはどのようにして生じるかが説明される。その均等化は、ある部面の商品の価格が生産価格よりも高ければ、その部面の生産が拡大され、低ければ縮小されるということを通じて、商品の供給が調整されて、その部面の商品の市場価格が生産価格へ均等化されることによってである。このことによって、その部面の特殊的利潤率の平均利潤率あるいは一般的利潤率からの偏倚が修正されるわけである。だからこの過程は、利子生み資本のように貨幣資本家と機能資本家という二つの資本家が対峙して、一方が売り手、他方が買い手として現れるようなものではない。この過程は、ただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化というかたちで現れるだけである。
 (2)よってこのことから言えることは、一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する総剰余価値を、生産的資本の、それぞれの相対的大きさに比例して配分を受け取るというような競争によって、形成され規定されているのである。だから一般的利潤率というのは、その需要と供給によって規定される利子とは違って、それよりずっと複雑な諸原因から規定されているわけである。だからこそ、一般的利潤率は、利子率のような一様で明白なかたちで与えられるような事実ではないのである。それぞれの生産部面の特殊的利潤率も、そのかぎりでは推測の域を出ないものではあるが、しかしそれらの利潤率は一つの経験的な事実としては多様ものとして現れてくる。しかし一般的利潤率の場合は、そうした現実の経験的姿態としては現れないのである。それは諸資本にとって現れてくる場合は、利潤の最低限界としてに過ぎない、とまあざっとこういうことが述べられているわけである。
 ここで注目すべきは、マルクスは一般的利潤率は「現れる」ことそのものを否定していないことである。それは「現れる」ということは何らかの形で資本家たちによって経験的・感覚的につかまえられるわけである。それはどういう場合かをマルクスは述べている。それは利潤の最低限界としてだ、というのである。つまり資本家たちにとって一般的利潤率は自分たちの獲得しなければならない最低限界の利潤率として意識されているということである。もちろん、部分的にはそれよりも低い利潤率で生産する資本家も存在するだろうし、それよりも高い利潤率で生産する資本家もあるだろうが、しかしそれは資本家たちが彼らの生産を維持しつづけるために必要最低限の利潤率として意識されるというのである。そうでないと彼らはその生産を積極的に続ける動機がなくなるわけである。】


【43】

 このような利子率利潤率との相違を強調するにあたっては,われわれ自身二つの事情を無視している。すなわち,1)利子生み資本と伝統的に受け継がれた一般的利子率との歴史的先在,2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は,利潤率〔に及ぼす影響〕に比べればずっと大きいということ,この二つである。xx)/

  ①〔異文〕「一般[的]〔allgemei[nen]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「直接的」--書き加え.られている。
  ③〔異文〕改行して書かれた「これまで述べたところから次のことが明らかになる。第1に」という書きかけが消されている。〉 (246-247頁)

 〈このような利子率と利潤率との相違を強調するにあっては、私たちは二つの事情を無視しています。すなわち、1)利子生み資本そのものが歴史的に資本主義に先行する存在であったことや、一般的利子率もその意味では歴史的に伝統的に受け継がれたものが先行していたという事情です。2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は、それが利潤率に及ぼす影響と比べればずっと大きいということです。この二つが無視されているのです。〉

 【このパラグラフでは、これまで利子率と一般的利潤率との相違を論じてきたことについて、一つの前提を論じておくべきとマルクスが考えたのであろうか。一つは利子生み資本そのものが資本主義以前のはるか昔から存在したものであったこと、そしてそのために一つの伝統的な一般的利子率というようなものも存在していたという事情を無視しているというわけである。もう一つは世界市場の影響の無視である。とくに利子率への影響は、本当は利潤率へのその影響に比べればずっと大きいのだが、そうしたこともわれわれは無視して論じてきたのだというのである。】


【44】

 /300下/xx)①②2%とか3%とか5%とかをあげるということは,1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係になる。平均利潤は,直接に与えられたものとしては現われないで,矛盾する諸変動の平均結果として現われる。利子率はそうではない。利子率は,その一般性においては毎日確定されている事実であって,この事実は,産業資本や商業資本にとっては,彼らの操作のさいの計算上の前提および項目〔item〕として役立ちさえもするものなのである。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも,取引所報告が,あれこれの資本についてではなく,貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのである。

  ①〔異文〕挿入されたこのパラグラフは手稿のこのページの末尾に書かれており,xx)によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフの以下の部分は,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1461.5-19,35-38 und l462.40-1464.2)から取られている。〉 (247-248頁)

 〈2%とか3%とか5%とかの利子をあげるということは、1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係です。しかし平均利潤は、直接に与えられたものとしては現れないで、矛盾する諸変動の平均結果として現れます。利子率はそうではありません。利子率は、その一般性においては毎日確定されている事実であって、この事実は、産業資本や商業資本にとっては、彼らの操作のさいの計算上の前提および項目として役立ちさえもするものです。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも、取引所報告が、あれこれの資本についてではなく、貨幣市場にある資本、つまり貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのです。〉

 【このパラグラフは、そしてそれは【46】パラグラフまで続くのだが、【43】パラグラフの最後に「xx」なる記号を付けて関連づけられて、書かれたもののようである。これは草稿の300原頁の下段の途中から始まっている。MEGAの注記によれば300頁の末尾に書かれているということである(末尾に書かれているにしては、やや長いのだが)。ということは、マルクスは明らかに300頁の下段に原注を書くスペースを開けた上で、補足を書いているということである。そして原注は書かれなかったわけである。
 このパラグラフはその関連づけられた【43】パラグラフそのものが、その前に展開してきた利子率と利潤率との相違を強調した記述に対して、いわばその前提をなすものとしてわれわれの論述の限定を論じたという、やや補足的な記述であるのに対して、それに関連して論じられたものであり、利子率と平均利潤率の相違をさらに論じたものになっている。つまり利子率というのは、その一般性において毎日確定されている事実であり、その正確さは気象報告の気圧や温度を記録する正確さをも上回るほどのものである。しかし平均利潤率というのは、直接与えられたものとしては現れないで矛盾する諸変動の平均的な結果として現れるだけである。利子率の場合は、産業資本や商業資本にとっては、彼らが運動する上での前提であり、計算上の項目として常に意識しているものである。しかし平均利潤率というのは、彼らがより高い利潤を求めて運動する結果として、その彼らの一連の競争の背後に形成されるものであり、直接的なものとして彼らが意識できるようなものではないのである。彼らがそれを意識するのは、常に自分があげる利潤率が平均的なそれよりも低いもの、彼らにとってはもはや生産を維持するにカツカツの利潤率として意識されるものである。だから彼らにとっては最低限界としてのそれなのである。】


【45】

 〈貨幣市場ではただ貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers)とが相対するだけである。商品は同じ形態を,すなわち貨幣という形態をとっている。資本がそれぞれ特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてとるすべての特殊的姿態は,ここでは消えてしまっている。資本は,ここでは,自立的な交換価値の,貨幣の,無差別な,自分自身と同一な姿態で存在する。特殊的諸部面の競争はここではなくなる。すべての部面が貨幣の借り手Geldleiher〕としてみなひとまとめにされており,また資本も,すべての部面にたいして,その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対している。資本はここでは,生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われるのである。(?) 他方,貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。すなわち,その姿態で貨幣資本は共同的な要素として,その特殊的な充用にはかかわりなしに,それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに,資本家階級のあいだに,配分されるのである。そのうえに,大工業の発展につれてますます貨幣資本は,それが市場に現われるかぎりでは,個別資本家,すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によって代表されるのではなくて,集中され組織されて,現実の生産とはまったく違った仕方で,①社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現われるのである。したがって,需要の形態から見れ[441]ば,この資本には一階級の重みが相対しており,同様に供給から見ても,この資本は,大量にまとまったen masse〕貸付可能な資本として〔現われる〕のである。

  ①〔異文〕「社会的」--書き加えられている。〉 (248-249頁)

 〈貨幣市場では、ただ貸し手と借り手とが相対するだけです。ここでは商品は同じ形態を、つまり貨幣という形態をとっています。資本がそれぞれの特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてそのすべての特殊的姿態は、ここでは消えてしまっています。資本は、ここでは、自立的な交換価値の、貨幣の、無差別な、自分自身と同一な姿態で存在します。特殊的諸部面の競争はここではなくなります。すべての部面が貨幣の借り手としてみなひとまとめにされており、また利子生み資本も、すべての部面にたいして、その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対しています。利子生み資本はここでは、階級の共同的な資本として、生産部面のあいだの運動と競争とのなかでだけあらわれるところのものとして、現実の重みに従って、資本への需要のなかで現れるのです。(?)
 他方、貨幣市場での貨幣資本(moneyed capital)は、現実には次のような姿態を持っています。すなわち、その姿態で貨幣資本(moneyed capital)は共同的な要素として、その特殊的な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分されるのです。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現れるかぎりでは、個別資本家、つまり市場にある資本のあれこれの断片の所有者にとって代表されるのではなくて、集中され組織されて、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現れるのです。だから、需要の面から見れば、この資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給の面から見ても、この資本は、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるのです。〉

 【これは【42】パラグラフで利子率と比較しての一般利潤率の特徴が述べられていたが、それに関連して、この両者の相違の強調には一定の限られた前提があるという【43】パラグラフに関連して、展開されているものである。そしてその関連したものとしては、今度は【44】パラグラフも今回の【45】パラグラフもむしろ利子率の特徴が述べられているように思える。
  今回のパラグラフでは、貨幣市場では貸し手と借り手が相対するだけで、その背後にある事情はそこでは消えてしまっていることが指摘されている。だからそこでは貨幣資本は社会的資本を代表する銀行業者によって統制されたものとして、需要の形態では一階級の重みが相対し、供給からみれば、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるわけである。】


【46】

 以上は,なぜ一般的利潤率は,固定した利子率と並んで,消えかかるまぼろしのようなものとして現われるのか,ということのいくつかの理由である。この利子率は,その大きさから見ればたしかに変動しはするが,しかしこのことは,それがすべての借り手にとって一様に変動し,それゆえにまた借り手にたいしてつねに,固定した与えられたものとして相対することを妨げないのであって,それは,ちょうど,貨幣の価値変動が,すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同様である。商品の市場価格が毎日変動しても,このことは市場価格が日々値付けされることを妨げないが,利子率も同様であって,それは同様に規則正しく貨幣の価格として値付けされるのである。なぜならば,ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからであり,したがってその価格の確定は①他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからであり,したがって利子率はつねに一般的利子率として,これこれの貨幣にたいしてこれこれとして,現われるからであるが,これにたいして,利潤率は,同じ部面のなかでも,また諸商品の市場価格が同じでも,違っていることがありうるのである。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って〔違いうる〕。というのは,特殊的利潤率は,商品の市場価格によって決まるのではなく,市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからである。)そして,利潤率はさまざまの部面のなかで,ただ不断の変動,諸過程によってのみ均等化されるのである。〔「xx)」による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕「他の」--書き加えられている。〉 (249-250頁)

 〈以上、私たちは一般利潤率は、どうして固定した利子率とは違って、消えかかるまぼろしのようものとして現れるのか、ということの幾つかの理由を見てきました。確かに利子率は、その大きさはいろいろと変動はしますが、しかしこのことは、すべての借り手にとって一様に変動し、それゆえにまた借り手に対してつねに、固定した与えられたものとして相対することを妨げないのです。それはちょうど、貨幣の価値の変動が、すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同じです。商品の市場価格が日々変動したとしても、このことは市場価格が日々値付けされることを妨げません。同じように利子率も、日々変動しますが、そのことは規則正しく貨幣の価格としてそれが値付けされることを妨げないのです。というのは、ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからです。だからその価格の確定は、他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからです。だから利子率はつねに一般的利子率として、これこれの貨幣にたいしてはこれこれとして現れます。
  これに対して、利潤率は、同じ部面のなかでも、また諸商品の市場価格が同じであっても、違っていることがありえます。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って利潤率は違いうるのです。というのは、特殊的利潤率は、商品の市場価格によって決まるのではなく、市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからです。)そして、利潤率のさまざまな部面のなかで、ただ不断の変動、諸過程によってのみ均等化されるのです。〉

 【これも追記部分の最後の部分であるが、ここでは利子率は日々変動しても、つねに一定の率として確定され、一様に固定的に貨幣の借り手に相対していること、しかし利潤率はそうではなく、それは例え市場価格が同じ場合でも、あるいは同じ商品を生産する部面でも違う場合がありうること、そしてそうした利潤率がさまざまな部面のなかでの不断の変動や諸過程を通じて均等化されることが指摘されている。】

  (続く)

2019年8月 2日 (金)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


  前回の続き第【34】パラグラフからである。


【34】

 〈[437]/298上/3)「商品の価格は絶えざる変動のなかにある。商品にはすべてそれぞれ特殊的な用途がある。貨幣はどんな目的にも役立つ。商品は,同じ種類のものでも,品質が違っている。正貨numéraire〕はいつでも同じ価値をもっているか,もっているはずである。それだから,われわれが利子という言葉で表わす貨幣の価格は,他のどんな物の価格よりも大きい固定性大きい一様性とをもちうることになるのである。」c)以上は,わが友ステューアト。/〉  (240頁)

 【このパラグラフは本文であるが、ほぼ引用文だけなので、平易な書き下し文は省略した。これは冒頭に「3)」とあることから類推するに、これまでの1)と2)との関連で言うなら、利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある第三の理由として挙げられているのだろうと考えることができる。だからこれまでの理由をもう一度、おさらいをしておくと。
  1)は金利生活者の増大であった。それが大きくなれば貨幣の貸し手も大きくなるということから、富裕な国では利子率は低下する傾向があるとされていた。
  2)は信用システムの発展。それによってあらゆる社会のあらゆる階級の貨幣貯蓄が集積されるから。貸付可能な貨幣資本の増大によって利子率は低下する傾向が生じるということであった。
  そしてさらなる理由として3)なのである。しかしここでは利子率が低下する傾向というよりも、むしろ利子率の固定性が言われているように思える。ステューアトは貨幣の価格と商品の価格とを同じようなものとして比較しているが、もちろん、これは正しくない。また彼が貨幣の価格は大きい固定性と大きい一様性をもつというが、そもそも他の一般の商品の価格と比較していることそのものが正しいとはいえないし、利子率が固定性もつというのも正しいとはいえず、一様性をもつということそのものはよいとしても、その理由としているものも正しいとは言い難い。いずれせよ、この「3)」はこれまでの「1)」や「2)」とは違ったものといわざるをえない。大谷氏は訳者注で次のように述べている。

  〈この「3)」は,形式的には,既出の「1)」および「2)」に続くものと見るほかはないのであるが,「1)」および「2)」は「利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落する傾向」についてのものであったのにたいして,この「3)」は,利子率の一様性,固定性,確定性について述べようとしているのであって,内容的には,「1)」および「2)」に続くものではないように思われる。エンゲルス版でこの「3)」を削除しているのもそのためであろう。〉 (240頁)

  だからわれわれもとりあえずはこの「3)」については、正確な解釈は保留しておこう。
  ついでにマルクスはこの引用の最後に〈以上は,わが友ステューアト〉と書いている。エンゲルスは編集の段階でこの部分を削除しているが、これはマルクス特有の皮肉なのであろうか。それともステューアトへの親しみを表現したものなのであろうか。この点、『資本論辞典』によれば「マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる」とある。これを見るかぎりではステュアートを積極的に評価していたといえるだろう。だからこの一文は親愛の情を表したものと考えてもよいように思えるのだが……。しかしこの判断も保留しておこう。

  以下、ついでに参考のために『資本論辞典』のステュアートの項目を紹介しておこう(ただし、最初の経歴などの部分はカット)。
 
 〈ステュアート ジェイムズ Sir James Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……(中略)……
 彼の主著《経済学原理》は,その当時の時論として,また商業資本家あるいは産業資本家の日常的経験を理論化するにとどまっていた重金主義,あるいは重商主義の理論を体系化して,はじめて経済学をつくりあげた地位を占めている,《原理》は一方では,生産様式の歴史的差異に注目した特徴をもつとともに,他方では,時代に制約されて‘重金主義または重商主義の科学的再生産'それらの'合理的表現'にとどまっている.すなわち,彼は,生産様式の歴史的差異を労働の諸形態にもとめ,近代資本主義社会の特徴を,交換価値を生む労働と規定し,このような労働形態は労働者たちが生産手段や生活手段にたいする所有権を失い,これらのものが労働者にあらざるひとつの財産としてその労働者に対立することによっで発生すること,ことに農業におけるそれが,工業における資本主義的生産の前提条件であることをあきらかにした.そしてこのような観点から労働の古代的および中世的形態に対立する労働の近代的形態をあきらかにした.マルクスは,ステュアートのこの側面での経済学への寄与を‘資本の把握のための彼の功績は,一定階級の所有物としての生産諸条件と労働力とのあいだの分離過程が,どのようにしておこなわれるかをしめした点にある' (MWI-9;青木1-48)と高く評価している.しかし彼の交換価値の規定は,明瞭でなく,労働時間による規定のほかに,賃銀・原料も一役演じており,価値と素材内容との分離が完全におこなわれていない.そしてこのことは,価値・剰余価値の発生を生産過程の分析を通じておこなうことを妨げた.彼は,剰余価値を流通過程=交換から,すなわち,資本家がその商品を価値を超えた価格で販売するところから生ずる,という重商主義的見解にとどまっていた.ただしこの通俗的見解は,このような交換から生ずる剰余価値は,なお富の積極的増加であると解釈していたが,ステュアートは,それは商品の販売者の側における利得が購買者の側における損失によって相殺されるために,相対的利潤にすぎず,なんら富の積極的な増加を意味するものでないと解釈した.このことは,当時の支配的な通俗的見解を批判し,それから一歩抜けでていることを示している.他方,ステュアートはこのような相対的利潤のほかに,なにびとにも損失とならず,社会全体にとって,ひとつの価値増加となるような積極的な剰余価値の存在を認めていた.しかしステュアートはこのような剰余価値の性質をそれ以上は研究しなかった.マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる.ステュアートはまた,貨幣の分析においては,‘観念的度量単位説'をとり,その空想的見解はマルクスによって批判されているが,しかし同時に,流通界にある貨幣の数量が商品の価格によって規定されるものであるか,それとも商品の価格が流通貨幣の数量によって規定されるかという問題をはじめて提出し,そして貨幣の‘種々なる本質的な形態規定と貨幣流通に関する一般的法則を発見した'功績もあわせて強調されている.(大野精三郎)〉(505頁) 】


【35】

 /298下/〔原注〕c)経済学原理』,フランス語訳。第4巻,1789年,27ページ〔小林昇監訳『J.ステユアート 経済の原理--第3・第4・第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,230ページ〕。〔原注c)終わり〕/

  ① 〔注解〕ジェイムズ・ステユーアト『経済学原理… … 』,第4巻パリ,1789年。〉 (240頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで引用されたステューアトの一文の典拠を示すだけなので、とくに解説も不要であろう。ただ少し気づいたことだが、小林昇訳や『資本論辞典』では「ステュアート」となっているが、本書では「ステューアト」になっている。どっちが本来の呼び方に近いのであろうか。】


【36】

 /298上/これまでに述べたことから,利子の自然的な率というものがないということは明らかである。しかし一方で,ただ総利潤〔gross profit〕を二人の資本所持者のあいだに違った名目で分けることだけが問題なのだから,(絶えず変動する利子の市場率〔fluctuating market rates of interest〕とは区別される)中位の利子率または利子の平均率average rate of interest〕は,一般的利潤率とは反対に,その限界〔limits〕をどんな一般的法則によっても確定できないものであるのにたいして,〔他方では〕逆に,利子率は,中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと,一般的利潤率とはまったく違って,一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる。利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である。

  ①〔異文〕 「ただ……だけ」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「反対に」← 「異なって」〉 (241頁)

 〈これまで述べたことから、利子の自然的な率というようなものはないということは明らかです。しかし利子率を一般的利潤率と比較しますと、一方では、ただ総利潤を二人の資本所持者のあいだで違った名目で分けることだけが問題なのですから、絶えず変動する利子の市場率とは区別される、中位の利子率または利子の平均率は、一般的利潤率とは反対に、その限界をどんな一般的法則によっても確定できないものです。また他方では、逆に、利子率は、中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと、一般利潤率とはまったく違って、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるのです。利潤率に対する利子率の関係は、ここでは、商品の価値に対する市場価格の関係と同様です。〉

 【このパラグラフは〈これまでに述べたことから〉という文言から始まる。しかしここで〈これまでに〉というのはどこからどこまでを指しているのであろうか。展開からするなら、マルクスが【23】パラグラフで〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉と述べて、「1)」、「2)」、「3)」と展開して、それを受けたものになっているから、そうした記述を指しているように思えなくもない。しかし内容的にはいま一つ納得できない。そしてそうした目で見ると、【30】パラグラフからは問題がさらに展開されて深められているような気がするのである。われわれは【34】パラグラフに「3)」と番号が打たれているために、どうしてもこの「1)」~「3)」が一続きのものと考えざるを得ないのであるが、しかし「1)」、「2)」と「3)」は明らかに同じ問題を論じているとはいえないのである。だから【23】パラグラフで提起された問題は、「1)」、「2)」で終わっており、だから「3)」を無視すれば(だから【34】、【35】パラグラフをないものとすれば)、むしろ全体の展開ははっきりしてくるように思える。そしてそうした展開として考えれば、【30】パラグラフからは新しい問題が論じられ、それはこの【36】パラグラフに繋がっていると考えることができるのである。
  このパラグラフそのものは平易な書き下ろしで容易に理解できる。ただ最後にマルクスが述べていること〈利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である〉というのはどういうことを言いたいのであろうか。これは利子率というのは、その平均率であろうがその都度の市場率であうが、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるが、一般的利潤率は決してそうしたものとしては現れないという関係を見ているわけである。そしてそれは価値の市場価格との関係と同じだと述べているわけである。価値も一見してその大きさといったものは明らかなものとしては現れない。それは本質的なものであって、われわれの目に見えないものである。同じように、利潤率も決して一定の率として見えているようなものではない。とくに一般的利潤率というものは諸資本の競争によって形成されるが、それはさまざまな資本家が直接目にできるものではない。しかし商品の市場価格というものは、常に一定量のものとして、値札として表れ、一見して明瞭なものである。こうした関係をマルクスは同じと見ているわけである。】


【37】

 [438]利子率利潤率によって規定されているかぎりでは,それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって,特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率がどうであれ,それらによって規定されているのではなく,まして個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらない。d) それだからこそ,一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである。といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではないのであるが。|

  ①〔異文〕「独自な」--書き加えられている。〉 (241-242頁)

 〈利子率が利潤率によって規定されているかぎりでは、それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊的産業部門で行われている独自な諸利潤率がどうであれ、それらによって規定されているのではありません。ましてや個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらないのです。それだからこそ、一般的利潤率は、実際に経験的な事実として、ふたたび平均利子率のかたちで現れるのです。といっても、後者は決して前者の純粋な、また確実な表現ではないのですが。〉

 【先のパラグラフからは利子率の特性を一般的利潤率との比較によって明らかにしようとしているように思える。ここでは利子率が利潤率によって規定されているという場合には、それは一般的利潤率によって規定されているのであって、それ以外の利潤率によってではないことが言われている。
  ただそれを受けて言われていることはいま少し検討が必要なように思える。マルクスは上記の指摘をしたあと、それを受けて〈それだからこそ〉と述べて、〈一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである〉と述べている。〈ふたたび……現われる〉というのもいま一つよく分からないのあるが、これは一体どういうことをマルクスは言いたのであろうか。
  〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉などは少なくともそれぞれの資本家たちには経験的な事実としてとらえられるものであろう。一般的利潤率はそうしたものが諸資本の競争によってそれらを平均するものとして形成されるものである。だから一般的利潤率というのは、直接には経験的に捉えることのできないものである。それは特殊な産業部門の独自な利潤率や個別資本の超過利潤という個々別々の特殊な利潤率を平均したものとして一般的なのである。だからそれは本質的なものとして内在的なものであり、経験的な事実としてとらえることはできない。それに対して利子率というのは直接的なものである。利子率が究極的には一般的利潤率に規定されているというのはこれまでにも述べられてきた。一般的利潤率というのは資本主義的生産が発展すれば傾向的に低落するのであるが、同じように利子率も資本主義的生産が高度に発展している国々では低くなる傾向があった。だから利子率はそのかぎりでは一般的利潤率を目に見えるかたちで、経験的な事実として、表現しているものなのだ、とマルクスは述べているわけである。そうした一般的利潤率の表現としての利子率というものは、〈実際に経験的な事実〉として存在しており、そうしたものとしては、〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉がそうであったのと同じだから、だからそれは〈ふたたび……現われる〉ものとマルクスは述べているわけである。もっとも、マルクスは最後に〈といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではない〉とも断ってはいる。】


【38】

 /298下/〔原注〕d)「とはいえ,このような利潤分割の規則rule〕は,それぞれの貸し手や借り手に個々に適用されるべきではなく,貸し手と借り手とに一般的に適用されるべきである。……著しく大きい利得や小さい利得は,巧妙さへの報酬かまたは知識の不足の結果であって,貸し手にはおよそかかわりのないことである。というのは,彼らは一方によって損をするのではないのだから,他方によって得をする必要もないからである。同じ事業に携わる個々の人びとについて述べたことは,事業のいろいろな種類にもあてはまる。もしある事業部門に携わる商人や事業家が,自分たちの借りたものを使って,同じ国の他の商人や事業家があげる普通の利潤よりもたくさん儲けるならば,その特別な儲けは,それを得るのには普通の巧妙さと知識だけで足りたとしても,彼らのものであって,彼らに貨幣を提供した貸し手のものではない。……というのは,貸し手は,普通の利子率の支払いも許さないような悪条件のもとでなにか事業部門を営むために自分たちの貨幣を貸したのではなかったであろうし,したがってまた,自分たちの貨幣からどんな利益が引き出されたとしても,普通の利子率よりも多くを受け取るべきではないからである。」(マッシー,同前,50-51ページ。)〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用のうち,〔7行目の〕「事業のいろいろな種類にもあてはまる。」までは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.22-28)から取られている。〉 (242頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで利子率が一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊な産業部門の諸利潤率や個別の超過利潤等々によって規定されいるのではないというところにつけられた原注であり、マッシーからの抜粋なので、平易な書き下しは省略した。この抜粋では、利子率は個別の事業者の個々の儲けによって規定されているのではないというマッシーの言明であり、マルクスはそれを肯定的に抜粋・紹介している。一部は61-63草稿からとられているらしいから、その本文を見ておくことにしよう。この部分はすでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介したので、それを再録しておこう(但し今回再録するにあたり、MEGAの注解等は煩雑になるので省略)。

 〈利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)〉 (草稿集⑨363-364頁)】


【39】

 〈|299上|借り手〔borrowers〕が差し出す担保〔securities〕の種類によって, 利子率そのものが絶えず違っているということは,たしかに正しい。しかし,これらの種類については,利子率は一様である。だから,このような相違は利子率の固定した一様な姿態をそこなうものではないのである。〉 (242-243頁)

 〈借り手が差し出す担保の種類によって、利子率そのものが絶えず違っているということは、確かに正しい。しかし、これらの種類ごとについては、やはり利子率は一様です。だから、こうした相違そのものは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないのです。〉

 【これは利子率というのは〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉と述べてたことに対して、考えられる異論に対して、前もって反論を加えるというもののようである。つまり担保の違いによって利子率も違うではないか、だから利子率は一様だというのはおかしい、という反論に対して、マルクスは確かに担保の違いによって利子率も違うというのは正しいが、しかしその担保の種類ごとに決まってくる利子率というのは、そのかぎりでは一様なのだと反論している。だからこのことは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないし、それに異論を唱える根拠にはならないと言いたいのである。
 ただここでマルクスは〈利子率の固定した一様な姿態〉と述べているが、その前にも紹介したように、利子率が〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉というのはいいものの、それが〈固定した〉ものというのは果たしてどうなのであろうか。利子率がたとえその平均率であっても、利子生み資本の需給によって変化するし、その需給こそが利子率を規定するものだから、それが固定したものというのは言い難いように思えるのである。だからこの〈利子率の固定した一様な姿態〉というのは、利子率というのは、その時その時に、ある決まった数値として一様に明瞭に決まってくる状態を表していると考えるべきではないだろうか。】

 (続く)

 

2019年7月27日 (土)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続く)

 

  前回の続き第【30】パラグラフからである。


【30】

 /297上/絶えず変動する市場率とは区別される,一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない。g) 需要と供給との一致--平均利潤率を与えられたものとして前提して--はここでは全然なにも意味してはいない。ほかの場合にこの定式を頼りとするときには(そしてそのような場合,そうするのは実際にも正しいのであるが),それは,競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界,または限界を画する大きさ〔the regulating limits,or the limiting magnitudes〕)を見いだすための定式なのである。ことに,競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から[436]発展する諸観念やにとらわれている人びとにとって,競争のなかで表われる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念--たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえ--に到達するための定式なのである。それは,競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法である。平均利子率の場合はそうではない。||298上|貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers〕とのあいだの中位の競争関係が,なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか,あるいは,なぜそれ〔中位の競争関係〕が彼に,総利潤gross profitにたいするこの一定の百分比的分けまえを,総利潤〔gross profit〕のうちの20%とか50%とか,等々を与えることになるのか,その理由は全然ないのである。競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである。a) 通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告(タイトルは調べること)のなかでなによりもおもしろいのは,イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句,たとえば,⑨⑩貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか,「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたってpermanently〕両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっているのを聞くことである。b) 慣習,法律的伝統,等々が中位の利子率の規定に関係がある{この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりはそうである}のは,競争そのものがそれに関係があるのと同様である。それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである。{中位[437]の利子率は,利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも,適法に認められなければならない。}ところで,さらに,なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界〔limits〕を一般的な諸法則から展開することはできないのか,と問う人があるならば,その答えは単純に利子の性質のうちにある。利子はただ平均利潤の一部分でしかない。同じ資本が二重の規定で現われるのである。すなわち,貸し手〔lenders〕の手のなかで貸付可能な資本〔1oanable Captial〕として現われ,機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現われるのである。しかし,それが機能するのはただ一度だけであり,それ自身で利潤を生みだすのはただ一度だけである。それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。この利潤にたいする要求権をもつこの二人の人物がこれをどのように分けるかは,それ自体としては,一つの会社事業をもつさまざまの出資者が共同利潤の百分比的分けまえについて折り合いをつける場合と同じく,純粋に経験的な事実である。本質的に利潤率の規定の基礎となっている,剰余価値と労賃とのあいだの分割では,二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界づけ合っている。そして,それらの質的な区別から,生産された価値の量的な分割が出てくるのである。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということは,あとでわかるであろう。利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。いますぐに見るように,逆に,質的な分割が,剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのである。/

  ①〔異文〕「絶えず変動する市場率とは区別される」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「さえ〔selbst〕」と書き加えたが,これを消している。
  ③〔異文〕「発展する」← 「形成される」
  ④〔異文〕「とらわれている人びとに」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「総利潤のうちの」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「ア・プリオリに」という書きかけが消されている。
  ⑦〔注解〕「通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告」--『銀行法特別委員会報告…… 。1857年7月30日』,--『銀行法特別委員会報告…… 。1858年7月1日』。
  ⑧〔異文〕「月並みな文句,たとえば,」← 「……のような月並みな文句〔solche Gemeinplätze〕」
  ⑨〔注解〕マルクスがここで関説しているのは,『銀行法特別委員会報告……。1857年7月30日』でのサミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言(359-360ページ)である。
  ⑩〔注解〕「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3855号]……資本の使用にたいする価格は,他のどんな商品の価格もそれの供給と需要との変動によって定まるのと同じようにして,決められるべきものです。」
  ⑪〔注解〕「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3866号]私は,高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできないと思います。」
  ⑫〔注解〕「競争の項目」--〔MEGA II/4.2の〕178ページ18-25行への注解を見よ。〔この注解では次のように書かれている。--『経済学批判要綱』は「資本」という部のためのマルクスのプランを含んでおり,それは次の四つの篇に編制されるべきものだった:資本一般,競争,信用,株式資本(MEGA II/1.1の187ページおよび199ページを見よ)。--エンゲルスあてのマルクスの手紙,1858年4月2日。--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』をも見よ。所収:MEGA II/2,S.99,長年にわたる自己了解過程の中心にあったのは,一方では第1篇であり,純粋な姿態における価値および剰余価値についてのこの篇の論述は最終的には『資本論』に結実した。他方では平均利潤および生産価格の理論であって,『1861-1863年草稿』でのこの理論の仕上げは,なにをおいても,「資本一般」と資本の「現実の〔real〕」運動--競争と信用--とのあいだの徹底した分離をマルクスに放棄させることになった。この運動のうちの基本的な事柄は主著〔『資本論』〕に取り入れられ,それより具体的な事柄は,主著とは別のもろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった。これらの特殊研究は書かれなかった。〕
  ⑬〔異文〕「〔……の〕一〔部分〕としての〔als eines〕」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「資本は二重に現われる」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「百分比的分けまえについて折り合いをつける」← 「百分比的分けまえへと分割する」
  ⑰〔異文〕「本質的に」--書き加えられている。
  ⑱〔異文〕「二つのまったく違った要素が……っている〔kommen zwei ganz verschiedne Elemente〕」という書きかけが消されている。〉 (233-238頁)

 〈(1)絶えず変動する市場率とは区別される、一国で支配的な利子(率)の中位的な率または平均率は、どんな法則によっても全然規定することのできないものです。利子の自然的な率というものは、例えば利潤の自然的な率または賃金の自然的な率が存在するというようなこういう仕方では、存在しないのです。平均利潤率が与えられたものと前提すれば、貨幣の貸し手と借り手とのあいだにおける需要と供給との一致というものは、ここでは全然なにも意味しないのです。
  (2)他の場合、こうした需給の一致という定式を頼りにするのは、それはそれで正しいのですが、それは、競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界、または限界を画する大きさ)を見いだすための定式なのです。ことに、競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から発展する諸観念やにとらわれている人々にとって、競争のなかで表れる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念に到達するための定式なのです。もっともその結果が、たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえです。それは、競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法なのです。
  (3)しかし平均利子率の場合はそうではないのです。貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係が、なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか、その理由は全然ないのです。同じことですが、なぜその中位の競争関係が彼に、総利潤にたいするこの一定の百分比的分け前を、総利潤のうちの20%とか50%とか、等々を与えることになるのかについても、その理由は全然ないのです。
  (4)競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的であって、ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのです。
  (5)通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告のなかでなによりもおもしろいのは、イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者や職業的理論家たちが、次のような月並みな文句をしゃべりまくっていることを聞くことです。例えば「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっていることです。
  (6)習慣や法律的伝統、等々が中位の利子率の規定に関係があるのは、競争そのものがそれに関係あるのと同様です。この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりではそうなのです。しかしだからこそ、この問題の考察は、競争の項目で行われるべきことです。{そして実際問題として、中位の利子率は、利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも、適法に認められなければならないのです。}
  (7)ところで、もしさらに、なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な諸法則から展開することはできないのか、と問う人があるならば、単純にそれは利子の性質のうちにあると答えなければなりません。利子はただ平均利潤の一部でしかありません。ここでは同じ資本が二重の規定で現れるのです。すなわち、貸し手のなかで貸付可能な資本として現れ、機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現れます。しかし、それが機能するのはただ一度だけです。それ自身が利潤を生み出すのもただ一度だけです。そして生産過程そのものでは、資本は貸付可能な資本としては何の役割も演じないのです。利潤にたいする要求権を持つこの二人の人物がこれをどのように分けるかは、それ自体としては、一つの会社事業をもつさまざまな出資者が共同的利潤の百分比的分け前について折り合いをつける場合と同じく、純粋に経験的な事実なのです。
  (8)本質的に利潤率の規定の基礎となっている、剰余価値と労賃とのあいだの分割では、二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界付けあっています。そして、それらの質的な区別から、生産された価値の量的な分割が出てくるのです。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということはあとでわかるでしょう。しかし利子の場合にはこのようなことはなにも生じないのです。いますぐ見ますように、逆に、質的な分割が、剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのです。 〉

 【このパラグラフは非常に長いのであるが、内容的には幾つかにわけることができそうである。平易な書き下し文ではそうした意図のもとに改行を入れておいた。それぞれの部分に番号を打って、その内容を吟味しておこう。
  (1)まずここでは一国の支配的な利子の中位的な平均率というようなものは、どんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。そしてこの点で、利潤の自然率とか賃金の自然率というようなものと同じような意味で利子の自然率というようなものは存在しないのだと主張されている。つまりここでは需要と供給の一致というようものは全然なにも意味していないというのである。
  (2)そしてこの需給の一致というものは、他の場合は、われわれが競争に作用されないで、むしろ競争を規定する原則を見いだすために必要な定式なのであり、そうした競争のなかでさまざまな諸観念に捕らわれている人たちに、その内的な関連を示すための、あるいはそうしたものに到達するための方法でもあるという説明がある。
  (3)しかし平均利子率の場合には、まったくそうした定式は意味がないと指摘する。つまり貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係というものが、利子が何%になるとか、あるいは利潤のうちの何%を利子として支払う必要があるということを規制するわけではないと述べている
  (4)次ぎにこれは一般的な形で、競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的なものだ、との指摘がある。だからそれを何か必然的なものとして説明するのは、ただ衒学的な馬鹿話か妄想だけだ、と。
  (5)次はやや話は変わって、そうした実際に衒学的な馬鹿話の例として、議会報告の紹介がされている。
  (6)ここでは習慣や法律的な伝統などが、中位の利子率の規定に関係することがあるという場合について述べている。これは例えば法律上の係争事件で、損害賠償金の計算の時に、一定の利子率にもとづいて計算する必要があるが、そうした利子率のことであろう。しかしこうした問題は競争の項目で考察されるべきだと指摘されている。
  (7)ここからはどうして平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な法則から展開することはできないのか、その理由が説明されている。それはまず利子の性質のうちにその理由があるとされている。利子は平均利潤の一部でしかないこと、しかし同じ資本が二重の規定として現れること、一つは貸付資本、もう一つは産業資本あるいは商業資本である。
しかしそれは実際に利潤を生むのはただ一度だけであり、それが生産過程にあるときである。しかし生産過程にあるときには、貸付可能な資本としては何の役割も演じないこと、だからこの生産される利潤にたいする要求権をもつ二人の人物がこれをどのように分けるかは、純粋に経験的な事実なのだと説明されている。
  (8)次ぎに、ここでは利潤率の規定は、剰余価値と労賃とに、生産された価値が分割されることから決まるが、この分割はまったく違った要素として互いに限界付けあっていること。つまり質的な区別から、その量的な分割が出てくるのだが(そしてそれは地代と利潤との分割にもいいうるが)、利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。むしろ質的な分割が、量的な分割から出てくるとの指摘がある。

  ところで注解⑫は「競争の項目」についての長い説明がある。この注解そのものは別の注解を見よという指示だけだが、大谷氏によるその参照指示された注解の長い紹介がある。
  この注解の主旨は、要するにここでマルクスが〈それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである〉と述べている「競争の項目」とは、最終的には『資本論』が対象としたものとは別に考えられていた、〈もろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった〉ものを指しているのだ、ということである。
  それを説明するために『経済学批判要綱』当時のプランからその変遷を説明して、最終的には当初のプランの「資本一般」が「資本の一般的分析」(『資本論』)へと変遷する過程で、「資本一般」と区別されていた「競争」「信用」「株式資本」などの一部は、「資本の一般的分析」(『資本論』)の中に取り入れられ、それ以外ものはそれぞれの特殊研究として保留されたということである。こうしたプランの変遷過程については大谷氏によって何度も考察されているが、それは佐藤金三郎氏が最初に主張されたことだと大谷氏も指摘している。そこで参考のために大谷氏の生前最後の著書となった『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』に所収された「第13章 書評・佐藤金三郎著『『資本論』研究序説』」から関連する部分を紹介しておこう。

  〈第1部冒頭の「「経済学批判」体系と『資本論』」(1954年)は,『経済学批判要綱』の考証的検討を通じて「プラン問題」に独自の見解を示して論議のその後の流れにきわめて大きな影響を与え,また『資本論』形成史研究と呼ばれる領域を新たに切り開いたものであった。それまでほぼ通説であった久留間鮫造氏に代表される『資本論』=「資本一般」説にたいして,著者の新見解は,『資本論』は依然として「資本一般」ではあるが,「資本一般」の内容は著しく拡充され,「競争」・「信用」・「土地所有」・「賃労働」の諸考察は,「資本一般」としての『資本論』に取り入れられたそれらの基本規定と,『資本論』の外に残されているそれらの「特殊研究」とに「両極分解」した,というものであった。
  著者はその後も研究を重ね,最後のシンポジウム報告(1987年)でその到達点を公開した。そこでは著者は,「両極分解」説を維持したうえで,『資本論』を「資本一般」だとしていた点については,『要綱』ののち「資本一般」の意味がしだいに変わっていった結果,この概念そのものが使われなくなったとし,『資本論』は「資本の一般的分析」と特徴づけられるべきだ,と述べている。当初プランで「資本の一般的分析」に当たるのは,第1篇「資本一般」だけではない。第1部「資本」全体,さらに3大階級の経済的基礎の分析が完了するはずの前半3部もそう見ることができる。だから著者はここで,「『資本論』は「資本一般」ではないと言ったほうがいい」と言い切ったのである。こうしてプラン問題について著者が最後に到達したのは,事実上,当初の「経済学批判」体系は,「競争」~ 「賃労働」の諸項目の「両極分解」を経て,「資本の一般的分析」としての『資本論』に終わった,というプラン「変更説」であった。
  評者(大谷--引用者)はこの結論に同意する。そのうえで,著者のこの結論の含意は,さらに次のように明示されるべきだと考える。すなわち,当初の「資本一般」とは,「多数の諸資本」を捨象した「一つの資本」,「国民的資本」,「社会的資本」という,分析対象の一般性の規定であって,その分析ののちに「多数の諸資本」を前提した諸分析がなされてはじめて「資本の一般的分析」として完了しうるはずのものであったが,それにたいして,「資本の一般的分析」とは,資本の「特殊的分析」・「特殊研究」にたいするもの,すなわち分析・研究の一般性の規定であって,『資本論』は「資本の一般的分析」として完結すべき性格のものであった,ということである。(以下、略)〉(567-568頁)】


【31】

 〈[435]/297下/〔原注〕g)すでにマッシーもこの点については十分に正当に次のように言っている。--「この場合にだれかが疑問とするかもしれないただ一つのことは,これらの利潤のどれだけの割合が正当に借り手のものであり,どれだけが貸し手のものであるかという問題である。そして,これを決定するには,一般の借り手と貸し手との意見によるほかにはなんの方法もない。なぜならば,正も不正も,この点では,ただ一般的な同意が正とし不正とするものでしかないからである。」(同前,49ページ。)〔原注g)終わり〕|〉 (238頁)

  【これは原注であるが、ほぼマッシーからの抜粋なので、平易な書き下し文は不要であろう。これは〈一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない〉という部分に対する原注であり、同じことはすでにマッシーによって指摘されているというものである。】


【32】

 [436]298下|〔原注〕a)たとえば,オプダイク,アルント,等々を見よ。--G.オプダイク経済学に関する一論』,ニューヨーク,1851年,は,5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとする,極度に失敗した試みをやっている。それよりもはるかに素朴なのは,『独占精神と共産主義とに対立する自然的国民経済,云々』,ハーナウ,1845年,のなかでのカール・アルント氏である。そこには次のようなことが書いてある。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことか!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」(同上,124,125ページ。)これは,「森林起源的利子率」と名づけられるのに値いする。そして,その発見者はここに引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「畜犬税の哲学者」の名にも値いさせているのである[420.421ページ]。〔原注a)終わり〕

  ①〔注解〕マルクスはここで,ジョージ・オプダイクの著書『経済学に関する一論』,86-87ページでの次の章句をほのめかしているのかもしれない。--「ある個人が貨幣を他人に貸し付けるとき,よく知られていることであるが,彼はそれのサーヴィスまたは使用にたいして,利子と呼ばれる報酬を受け取る。この報酬は,通常,貸し付けられた額にたいする年率で3%から9%のあいだ--ときとして異常な事情がこの率を短期間のあいだこれらの限度を越えさせることもあるが--のどこかにある。だから,その中間点は約6%である。だが,租税や損失の危険にたいしてさらに1%を差し引けば,貨幣の形態にある資本の平均的な純収入として,年率5%が残る。さて,貨幣と,生産的資本のその他のあらゆる形態とは,それらの所有者たちによって随意に,互いに等しい諸部分が交換されることができるし,また交換されているので,このことから,年率5%は,あらゆる種類の生産的資本の中間的純収入だ,ということになる。また生産的資本と土地とは等しい諸部分が相互に交換されるのだから,このことから,土地の純年間収入はほぼ5%だ,ということになる。」
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1502.23-27)から取られている。〉 (238-239頁)

 〈衒学または妄想だけが偶然的なものを何か必然的なものとして説明しようとする例としてあげることができるのは、たとえば、オプダイク、アルント等々です。オプダイクは5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとして、極度に失敗した試みをしています。それよりはるかに素朴なのは、アルント氏の次のような説明です。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことでしょう!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」これは「森林起源的利子率」と名づけられるのに値するものです。そしてその発見者はここの引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「蓄犬税の哲学者」の名にも値させているのです。〉

 【これは〈競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである〉という一文につけらた原注である。つまり〈衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができる〉例としてオプダイク、とくにアルントの主張を滑稽なものとして紹介している。
  オプダイクについては、注解①が詳しくその主張を紹介している。
  アルントについて、最後にマルクスが〈「畜犬税の哲学者」〉と紹介している文言について、大谷氏は訳者注で、次のように説明している。

  〈「「畜犬税の哲学者」」--アルントはその著書の420-421ページで,犬は,放たれていると人間の交通の余地を狭くし,吠えたり噛んだりすることで公衆を困らせ,狂犬となって人間生活を脅かし,そのエサの消費で人間の食物を制限するのだから,有用な目的なしに犬を飼う人びとに畜犬税を課すのが道理である,と書いている。マルクスはこれを皮肉っているのである。〉 (239頁)

  なお注解②によれば、このアルントについての抜粋は61-63草稿からとられているということだから、その原文も見ておこう(しかしMEGAの注解等は省略)。

  〈「われわれの科学」を「用心深く」発展させるこの同じ人(アルントのこと--引用者)は、次のようなおもしろい発見をしている。
 「財貨生産の自然的な行程では、利子率を--まったく開拓された国々において--ある程度まで調整するべく定められているように見えるただ一つの現象がある。--それは、ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によって増加する割合であって--この生長は、まったくその交換価値にはかかわりなしに(樹木の生長を「交換価値にかかわりなしに」調整するとは、なんとこっけいなことだろう!) 3%ないし4%の割合で行なわれる。--だから、これによれば {というのは、たとえ樹木の交換価値がどんなにその生長によって定まろうとも、その生長はその「交換価値にはかかわりがない」のだから!} 現在それ(利子率)が貨幣の最も豊富な国々で到達している高さよりも低く下がることは、期待できないであろう。」(同前、124、125ページ)
  これは「森林から発生した利子率」と名づけるに値する。そして、その発見者は、はこに引用した「われわれの科学」に関する著作のなかで「畜犬税」の哲学者としても世の注目を浴びたのである。〉 (草稿集⑦483頁)】


【33】

 〈〔原注〕b)イングランド銀行は,バンク・レートbankrate〕を,(もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらであるとはいえ),地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりする。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論,云々』,113ページ。)〔原注b)終わり〕/〉 (239-240頁)

 〈イングランド銀行は、バンク・レートを、もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらではありますが、地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりします。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕〉

 【これは〈イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句〉や〈きまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっている〉という一文につけらた原注である。本文では議会報告の〈サミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言〉が取り上げられていたが、しかし現実の利子率、つまりイングランド銀行のバンクレートそのものは、貨幣市場での支配的な利子率を顧慮しながらも、地金の流出入によって上下させていることを指摘し、これによって利子率の変動を予想しての割引投機が、ロンドンの巨頭たちの取り引きの半分を占めるようになったというヘンリ・ロイの一文が紹介されている。
  イングランド銀行が地金の流出入に応じてバンクレートを上下させたというのは、1844年のピール銀行条例によって、1400万ポンド以上のイングランド銀行券の発行については同銀行の地金保有高に応じて発行するように発行高の上限が制限されたからである。同行の銀行部は他の市中銀行と同じように貸し付け業務を行っていたが、当時の貸し付け業務の主要な内容は、手形の割引業務であり、その割引率を規定するのがバンクレートである。だから銀行業者たちは民間業者が持ち込む手形の割引率をどうするかについて、その時々の利子率の変動を見越して投機的な取り引きを行い、将来利子率が下がると予想すれば、今の相対的に高い利率での割引数を増やし、その反対であれば、今の低い利率での割引を控えようとする等々の操作を行い、それで儲けようとしたということである。そうした投機による取り引きが、取り引きの半分を占めるほどになったというわけである。しかしそれが投機の対象になることを考えても、利子率の変動に何か一定の法則性があるわけではないということである。】

 (続く)

2019年7月25日 (木)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【23】パラグラフからである。


【23】

 〈/297上/利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向。--〉 (229頁)

 〈利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落するという傾向について見ていこう。〉

 【ここからまた話は変わっている。【15】パラグラフで産業循環の回転に応じて利子はどのように変化するかが論じられていたが、ここからは利子率は利潤率の変動とはかかわりなしに低落する傾向があるという指摘から始まっている。そして次のパラグラフからは「1)」と番号を打ってラムジからの抜粋を行っている。】


【24】

 1)「生産的投下のためよりほかには資本が借り入れられることはけっしてないとさえ想定しても,なお,総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動するということもありうる。②というのは,一国民がますます富を発展させるのにつれて,自分たちの父祖の労働によってファンドを与えられてただその利子だけで生活ができるような人びとの一階級が発生し,しかもますますそれが大きくなるならである。また,青年期や壮年期には積極的に事業に参加しても,隠退してからは,蓄積した金額の利子で静かに晩年を送ろうとする人びとも多い。これら二つの部類の人々は,国富の増大につれてふえていく傾向がある。なぜならば,はじめから相当な資本で始める人びとは,わずかな資本で始める人びとよりもいっそうたやすく独立の財産をつくりあげることができるからである。それゆえ,古くて[435]豊かな国ぐにでは,新しくできた貧しい国ぐにでよりも,国民資本のうち自分で充用しようとしない人びとに属する部分が,社会の総生産的資本にたいしてより大きい割合をなしているのである。イギリスでは金利生活者〔rentiers〕の階級の人数がなんと多いではないか! 金利生活者rentiers〕の階級が大きくなるのにつれて,資本の貸し手の階級も大きくなる。というのは,この二つの階級は同じものだからである。この原因からだけでも,利子は古い国ぐにでは下落する傾向をもたなければならないであろう。」d)/

  ①〔注解〕この引用は,ラムジでは次のようになっている。--「しかし,資本は生産的充用以外の目的ではけっして借りられたことがない,と想定すべきだとした場合でさえも,総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動しうるということは大いにありうることだ,と私は思う。なぜなら,一国の富の発展が進むにつれて,自分たちの先祖の労働によってただその利子だけで相当な暮らしを余裕をもってやっていけるようなファンドをあり余るほど十分に所有する人びとの一階級が発生して,ますます増大していくからである。また,若年および壮年期には事業で活発に働いて,引退してからは,自分自身が蓄積した金額の利子によって晩年を静かに送るという人びとも,たくさんいる。この階級も前のほうの階級も,その国の富が増大するにつれて増大する傾向がある。なぜなら,かなりの資材で仕事を始める人びとは,わずかばかりのもので始める人びとよりも早く,独立しやすいからである。それゆえ,古くて富んでいる国ぐにでは,新たに植民されたより貧しい諸地域に比べて,全国の資本のうちそれを自分で充用する労を取ろうとしない人びとに属する額が,社会の全生産資材にたいしてより大きい割合を占めるのである。イギリスでは,ほとんどだれもがなにかの仕事に携わっているアメリカでよりも,フランス人の言う金利生活者rentiers〕の階級は人口中に占めるその人数の割合がなんと大きいことか! 金利生活者rentiers〕の階級が大きくなるにつれて,資本の貸し手の階級も大きくなる。なぜなら,それらは一つで同じものだからである。したがって,このような原因から,利子は,古い国ぐにでは低落するという傾向をもたざるをえないのである。……」--この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.1797.24-41)から取られている。
  ②〔異文〕「ある国では,また……のあ[いだ]では〔zw[ischen]〕」という書きかけが消されている。〉 (230-231頁)

 【このパラグラフは本文であるが、「1)」という項目以外すべて抜粋なので、平易な書き下しは省略する。この「1)」は、【26】パラグラフの「2)」、および【33】パラグラフの「3)」に対応している。そしてそれらを踏まえて【35】パラグラフ以下の展開があるように思えるが、しかしそれは実際に検討してみてまた判断することにしよう。
  ここでは利潤率がそれほど変わらなくても利子率は低下する傾向があることの理由として、ラムジは次のような理由を挙げている。
  (1)自分たちの祖先の築いた財産をもとにその利子だけで生活できるような一階級が発生し、ますます増大するから。
  (2)若いときは事業で一財産を築き、年取ってからはその財産の利子だけで生活する人々が多くなるから。
  (3)この二つの部類の人々は、国富の増大につれて増えていく傾向がある。
  (4)よって古くて豊かな国では、新しくできた貧しい国でよりも、金利生活者の階級が多くなる。
  (5)こうした金利生活者が多いということは、資本の貸し手の階級も多いということである。
  (6)こうしたことから古い国々では利子は下落する傾向がある。
  まあざっとこうしたことが述べられているのであるが、これをマルクスは肯定的に引用していることは明らかである。少なくとも利子が利潤率にかかわりなしに低落する傾向がある理由の一つと考えているわけである。】


【25】

 〈/297下/〔原注〕d)ラムジ,同前〔『富の分配に関する一論』,エディンバラ,1836年〕,201ページ以下。〔原注d)終わり〕/〉 (231頁)

 【これは先の本文として抜粋したものの典拠を示すだけなので、平易な書き下しは不要であろう。MEGAの注解ではこのラムジからの抜粋は61-63草稿から取ってきているということなので、その原文を見ておくことにしよう。かなり長くなるが、前後も含めて抜粋しておこう。マルクスがラムジをどの程度評価しているかが分かる(但しMEGAによる注解ではラムジの著書ではこうなっていると原文が示されているが、それは省略する)。

  一般利潤率の低下に関しては、ラムジは、リカードウと同様に、A・スミスに反論している。
  彼はA・スミスに反対して次のように言っている。「資本家的企業者たちの競争は、確かに、特に水準よりも高くなっている利潤を平準化することができるであろう。{この平準化は、一般的利潤率の形成を説明するには、けっして十分ではない。}しかし、この通常の水準そのものが引き下げられるということは、まちがいである。」(179/180ページ。)「原料であろうと製品であろうと、どの商品でも、その価格が生産者間の競争のために下がるということはありうるとしても、このことが利潤に影響することはけっしてありえないであろう。どの資本家的企業者も自分の生産物をより少ない貨幣と引き換えに売るであろうが、他方、それに応じて、彼が費用を支出するどの物品も、それが固定資本に属しようと流動資本に属しようと、彼にとってはより少ない額の費用で足りるであろう。」(180/181ページ) 同様にマルサスに反対して。「利潤が消費者によって支払われるという考えは、確かに非常にばかげている。消費者とはだれなのか? それは地主か、資本家か、雇い主か、労働者か、そのほか給料などを受け取る人々かでなければならない。」(183ページ)「総利潤の一般的な率に影響することができる唯一の競争は、資本家的企業者と労働者とのあいだの競争である。」(206ページ) このすぐ前の文章のなかではリカードウの命題が正しいものに還元されている。利潤率は資本と労働との競争によることなく低下することもありうるが、しかし、利潤率がそのために下がるというととがありうる唯一の競争は、この競争である。だが、ラムジ自身も、なぜ一般的利潤率は低下への傾向をもつのかという理由は、なにも示してはくれない。彼が言っている唯一のこと--そして正しいこと--は、利子率は一国における総利潤の率にはまったくかかわりなしに、しかも次のようにして、下がることがありうる、ということである。「われわれ自身が、資本は生産的充用以外の目的では借り入れられたことがない、と想定しても、それでもなお、総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動するということは可能である。なぜならば、一国の富の発展が進むにつれて、自分たちの先祖の労働{搾取、盗奪}によってただその利子だけで暮らしてゆけるような財産を所有する人々の一階級が発生して、ますます増大してゆくからである。また、若年および壮年期には積極的に事業で働いて、引退してからは、自分自身が蓄積した金額の利子によって晩年を静かに送るという人々も、たくさんある。この二つの階級は、その国の富が増大するにつれて増大する傾向がある。なぜならば、かなりの資財で仕事を始める人々は、わずかばかりのもので始める人々よりも早く、独立しやすいからである。それゆえ、古くて富んでいる国々では、新たに植民された貧しい国々に比べて、全国の資本のうちそれを自分で充用しようとしない人々に属する額が、社会の全生産資財にたいしてより大きい割合を占めるのである。イギリスでは金利生活者の階級がなんと大人数であることか! 金利生活者の階級が大きくなるにつれて、資本を貸す人々の階級も大きくなる。なぜならば、それらは一つで同じものだからである。このような原因だけからも、利子は、古い国々では低落するという傾向をもたざるをえないであろう。」(201ページ以下。)〉 (草稿集⑧427-428頁)

  このようにマルクスはラムジからの抜粋について〈彼が言っている唯一のこと--そして正しいこと--は、利子率は一国における総利潤の率にはまったくかかわりなしに、しかも次のようにして、下がることがありうる、ということである〉と述べていることから明らかなように、ラムジのこうした理由の説明は正しいと判断しているわけである。】


【26】

 〈/297上/2)信用システムの発展,また,それだから社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄〔money savings〕を産業家や商業家が(銀行業者〔bankers〕の媒介によって)ますます多く利用できるようになるということ,また,この貯蓄〔savings〕の集積が進んで,それが貨幣資本として働くことができるような量になるということによって。(あとを見よ。) 〉 (231頁)

 〈利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある理由として考えられる第二のものとしては、2)信用システムの発展です。また、それにもとづいて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業家や商業家が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということです。またそうした貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということによってです。(この問題についてはあとで見ます。)〉

 【ここではもう一つの理由として、信用システムの発展があげられている。そうなると社会のあらゆる階級のあらゆの貨幣貯蓄が銀行を介して、産業家や商業家によってますます利用できるようになるというわけである。またそうした個別的にはわずかな貨幣貯蓄でも銀行によって集積されることによって、貨幣資本として前貸しできる量に達することができるようになる、こうしたことから余すことなく社会の貨幣貯蓄は貨幣資本として動員されるようになるというわけである。だから利子率はそうした理由からも低下する傾向があるわけである。】


【27】

 ラムジは利子率純利潤の率と呼んでいるのであるが,この利子率の規定について,彼は次のように言っている。利子率は,「一部は総利潤の率によって定まり,また一部は総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる。この割合は資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない。e)競争はただこの原因だけによって規制されるのではないというのは,一方では,生産的な投資をする意図はなにもないのに借りる人も多いからであり,他方では,貸付可能な国民的資本の全体の大きさは,総利潤のなんらかの変動にかかわりなく,その国の富の変動につれて変動するからである。」f)/

  ①〔注解〕この引用は,ラムジでは次のようになっている。「これらのものの率は,一部には総利潤の率により(というのは,全体が増大するか減少するときには,全体の各部分も同じく増大するか減少するのだからである),一部には総利潤が資本の利潤と企業の利潤とに〔into profits of capital and those of enterprise〕分かれる割合によって定まる。この割合は,これはまたこれで,資本の貸し手と提供すべき優良な担保をもつすべての借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現が期待される総利潤の率によって,完全に調整されるのではないにしても,影響を受ける。そして,競争がこの原因だけによって調整されるのではないというわけは,一方では,どんな生産的に充用する目的もなしに借りる人びとがたくさんいるからであり,他方では,国内の貸付可能な全資本〔the whole national capital to be lent〕の割合は,総利潤のどんな変動にもかかわりなく,その国の富とともに変動するからである。」--この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.5,S.1798.1-10)から取られている。〉 (231-232頁)

 〈ラムジは利子率を純利潤の率と呼んでいますが、この利子率の規定について、次のように言っています。利子率は、「一部は総利潤の率によって定まり,また一部は総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる。この割合は資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない。競争はただこの原因だけによって規制されるのではないというのは,一方では,生産的な投資をする意図はなにもないのに借りる人も多いからであり,他方では,貸付可能な国民的資本の全体の大きさは,総利潤のなんらかの変動にかかわりなく,その国の富の変動につれて変動するからである。」〉

 【このパラグラフはほぼラムジからの引用であるが、最初はマルクス自身の文章なので、一応、平易な書き下しをしておいた。
  このパラグラフは、ラムジが利子率について正確な理解を持っていたことを紹介しているように思える。彼はまず利子率は総利潤率によって規制されることをはっきりととらえている。〈というのは,全体が増大するか減少するときには,全体の各部分も同じく増大するか減少するのだからである〉とその規制の内容も明確に理解していることを示している。そしてさらに利子率は〈総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる〉こと、そしてこの割合は〈資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる〉とも明確にのべている。さらにこうした貸し手と借り手とのあいだの競争は総利潤の率によって影響はされるが、それだけによって規制されるわけではないとして、生産的に投資する意図はなにもないのに借りる人も多いからであり、貸付可能な国民的資本全体の大きさも、総利潤の変動とはかかわりなく変動するからだとしている。
  このパラグラフそのものは必ずしもその前の【26】パラグラフに関連して述べられているとはいえないように思える。】


【28】

 /297下/〔原注〕e)利子率は全体としては平均利潤率によって規定されているのではあるが,異常なブームが低い利子率と結びついていることも非常にしばしばありうる。たとえば鉄道ブーム。利子率(バンク・レート)は,1844年10月16日に,やっと3%に引き上げられた。〔原注e)終わり〕/

  ①〔異文〕「利子率」← 「利子」〉 (232-233頁)

 〈利子率は全体としては平均利潤率によって規定されていますが、異常なブームが低い利子率と結びついていることも非常にしばしばありえます。たとえば鉄道ブーム。この場合は、利子率(バンク・レート)は、1844年10月16日に、やっと3%に引き上げられたのでした。〉

 【この原注は、ラムジの引用文のなかの〈資本の貸し手と借り手とのあいだの競争〉は〈実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない〉という部分につけられた原注である。つまり総利潤の率に影響されるが、それだけによって規制されるわけではない一つの実例として、マルクスは鉄道ブームを挙げているわけである。鉄道ブームは低い利子率と結びついて生じたとマルクスは指摘している。低い利子率は鉄道株の高騰を招き、その高騰を目当てに投機が盛んに行われてブームとなったわけである。
  ここで鉄道ブームについて詳述する必要は必ずしもないが、『恐慌史研究』(鈴木鴻一郎編、日本評論社1973.7.25)に詳しい説明があるので、少しだけ引用しておこう。

  〈すでに(18)45年の1月初から、既存路線の株式ばかりでなく新たに設立された暫定登録会社の仮株券が圧倒的な人気を博し始めていたが、2月頃までの状況は、前年以来の鉄道熱の継続とみうる性格のものだったことが知られている。鉄道株市場が急速に投機的な色彩を強めたのは三月以降のことであって「小金を貯めた年配の男女、あらゆる種類のトレード・メン、年金生活者、専門的職業人、貿易商、地方の田紳達」あるいは「召使、下僕、執事から有爵の老嬢や教会の高僧までのすべての階層とすべての職業」にわたる多数の投資家達が、たんなる高配当の期待だけでなく、株式の転売による利得の可能性をめざして、市場に殺到し始めたのである。『エコノミスト』がいち早く注目しているように、じゅうらい証券投資の慣行をまったく持たなかったこれら中小の投資家が大量に登場し始めた点は、その資金調達源としての規模を別とすれば、イギリス資本市場にとって画期的な新事態をなすものだったといわなければならない。以前には1〜2日ですんでいた定期取引の決済に1週間を要するほどの、取引所内部における大膨張が見られたばかりでなく、取引所外部のコーヒー店その他で多数の非加盟ブローカーを交えた売買契約がとり行なわれることとなったのであって、シティにおける熱狂の異常な様相にかんする記述については、枚挙にいとまがない。しかも雑多な投資家が全国各地に登場したことから容易に推測されるように、ロンドン以外の地方証券取引所がこのブームを契機にして急激な勃興を見て、「1万ないし2万以上の人口を有するほとんどすべての町に株式ブローカーの常設機関が出現した」といわれるほどとなったのである。なかでもリヴァプール・マンチェスター・リーズ・ブリストル、さらにはグラスゴー・エディンバラ・ダブリン等の取引所における鉄道株式投資は、ロンドンにまさるともおとらぬ規模をもっていたことが確認されている。〉(185頁)
  (ここで「仮株券」というのは、鉄道建設の計画段階のもので、将来株式の払い込みを約定する手続きをしただけで発行されるもので、後に計画が法的認可を受けたあと、本株券への転換を約束したものである。しかしにも関わらず、計画がまだ政府の認可を受けられるかどうかも分からない段階で、これにプレミアがついて売買されたのである。--引用者)

  ただマルクスは〈利子率(バンク・レート)は,1844年10月16日に,やっと3%に引き上げられた〉と述べているが、上記の著書に掲載されている統計表(290頁)によるとバンクレートは1841年5月から1842年2月までは5%、同5月から1844年8月までは4%、同11月から1845年11月まで2.5%となっている。】


【29】

 /297下/〔原注〕f)ラムジ,同前(206,207ページ。)〔原注f)終わり〕/

  ①〔注解〕ジョージ・ラムジ『富の分配に関する一論』,エディンバラ,ロンドン,1836年。〉 (233頁)

 【これも【27】パラグラフにおけるラムジからの引用の典拠を示すだけなので、平易な書き下しは省略した。【27】パラグラフの注解によれば、この部分も61-63草稿から採られているということである。実は、これは先に紹介したものの続きの部分である。だから、それも見ておくことにしよう(但し、今回も、ラムジの原文などMEGAや訳者によって付けられている注の類は煩雑になり、あまりにも引用が長くなりすぎるので、省略する)。

  純利潤(利子)の率については、R 〔ラムジ〕は次のように言っている、この率は、「一部には総利潤の率により、また一部には総利潤が利子と産業利潤とに分かれる割合によって定まる。この割合は、資本の貸し手と借り手との競争によって定まる。この競争は、実現が期待される総利潤の率によって影響されはするが、これによって完全に調整されるわけではない。そして、競争がただこの原因だけによって調整されるのではないというわけは、一方では、なんら生産的に充用する目的なしに借りる人々がたくさんいるからであり、他方では、国内の貸付可能な全資本の割合は総利潤のなんらかの変動にかかわりなくその国の富とともに変動するからである。」(206、207ページ)企業の利潤は資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではない。」(204ページ〉 (草稿集⑧429頁)

  この最後の部分で、ラムジが言っていることも注目に値する。つまり企業の利潤は利子によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではないというのである。企業にとっては利子は所与であって、総利潤から利子が控除されたものが、企業の利潤をなすという関係もラムジによって正確にとらえられていることが分かる。】

 (続く)

 

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