無料ブログはココログ

『資本論』第3部第5篇の研究

2020年1月21日 (火)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-5)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【12】

 〈/314上/①②③114)資本とは,永続し116)増大する価値としてのその生来の質--スコラ学の隠れた質--によって自分自身を再生産する価値である,という観念は,錬金術師たちの空想も遠く及ばない作り話的なドクター・プライスの思いつきを生みださせたが,その思いつきをピットは本気で信用して,減債基金に関する彼の法律のなかで彼の120)財政の支柱にした。

 ①〔注解〕ここから,草稿315ページの終わり〔本書本巻357ページ1行目〕までは,変更を加えて,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.5,S.1746.12-1749.39)から取られている。
 ②〔注解〕複利についてのプライスの見解の以下の評価はすでに『経済学批判要綱』のなかにある(MEGA II/1.2,S.707.3-35を見よ)。マルクスはそこからこの部分を『1861-1863年草稿』のノートXVIIIに取った(MEGA II/3 .5,S,1746-1747を見よ)。
  ③〔注解〕国家の負債の増大に対応するために,イギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット)は,1786年にいわゆる国債償却基金(sinking fund)を導入した。年々の国家収入の一定額が国債証書の償還に充てられた。しかし,フランスとの戦争(1793-1802年)のあいだに,国債は,さまざまな国に支出される補助金や貸付のためにさらに増加した。それは銀行の為替相場を悪化させ,1797年には,イングランド銀行を銀行券回収義務から解除する法律が制定された。--マルクスは,ピットの国債償却基金について『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』,1856年5月7日付の5318号に掲載された論文『ディズレイリ氏の予算』のなかで詳細に論じている。

  114)ここから,本書本巻357ページ1行目までは,『1861-1863年草稿』のノートXVIIIの最初のところに書かれた部分(草稿1066-1068ページ,MEGA II/3.5,S.1746-1749。編集者によって「複利」という表題がつけられている)とほぼ一致している。以下の注記ではその部分との相違も記載しておく。この部分の最初にあるプライスについての記述に,MEGAは次のような「注解」をつけている。「マルクスは,ノートXIVで複利を論じたさいに,「プライスの幻想には,収入とその諸源泉とに関する項目〔Abschnitt〕のなかで立ち返ること」と書いている(〔MEGA II/3.4,〕1372ページを見よ)。ここではじめて,彼はそれに立ち返っており,『要綱』(MEGA II/1.2,S.707)から,わずかな言葉上の変更を加えて,複利についてのプライスの見解の自分の評価を取り入れている。」(MEGA II/3.4,S,3026.)じっさい,本書本巻347ページ16行目までは,『要綱』のその箇所に,ほとんどそのままのかたちで見ることができる。なお『1861-1863年草稿』では,冒頭に「複利に関する事柄についてはさらに次のことを--」と書かれている。
  116)『1861-1863年草稿』ではここに「年々」と書かれている。
  120)「財政〔Finanzwirthschaft〕」--『要綱』でも,『1861-1863年草稿』でも,「財政の知恵〔Finanzweisheit〕」となっていた。もしかすると,本草稿に転記するさい,『1861-1863年草稿』のweisheitをwirthschaftと読み誤ったのかもしれない。〉 (342-343頁)

 〈資本とは、永続し増大する価値としてのその生来の質--つまりスコラ学者のいう隠れた質--によって自分自身を再生産する価値である、という観念は、錬金術師たちの空想も遠く及ばない作り話的なドクター・プライスの思いつきを生み出させましたが、その思いつきをピットは本気で信用して、減債基金に関する彼の法律のなかで彼の財政の支柱にしたのでした。〉

 【ルターに変わって、ここからは、自己増殖する価値という資本の幻想から、複利計算によって天文学的な増殖をもらたすと主張したドクター・プライスの思いつきが取り上げられている。ここに出てくる〈減債基金〉というのは、次のようなものらしい。

  〈債券の償還にそなえて,債券を発行しているうちから一定の金額を積立てるもの。……一般には公債を毎年確実に償還するための基金としての国債整理基金特別会計がある。毎年度一般会計および特別会計からこの特別会計へ一定額の資金を繰入れ,それをもとにして国債の償還,利払い,その他経費をまかなっている。 〉 (ブリタニカ国際大百科事典)

  つまり国債の発行額から一定額を将来の償還のために積み立てる基金ということらしい。マルクスは後に紹介するニューヨーク・デイリー・トリビューンの記事「ディズレーリ氏の予算」のなかで〈ディズレーリ氏の予算の重大な特徴は、人為的な減債基金の操作を中止することにある。この減債基金は、ロシアとの戦争のとき生じた負債にさいして、サー・コーンウォル・ルイスがふたたび採用したたいへんな財政上のごまかしである。生粋のイギリスの減債基金は、一世代全体の知力を朦朧(モウロウ)とさせ、また次の世代でもその核心を見ぬくことができないような奇怪なまやかしのひとつである。1771年にリチャード・プライス博士は『据置支払についての考察』のなかで、複利と減債基金との秘密をはじめて世間に明らかにした〉(全集第12巻425-426頁)と述べている。ディズレーリ自身は、財政上のごまかしである減債基金を中止したらしいのだが、この記事のなかでマルクスはプライスの幻想について紹介しているのである。これはマルクス自身がこの草稿のなかでも引用しているものなので、後に紹介するが、そのプライスからの紹介に続けて、マルクスは次のようにそれを批判している。

  〈この空想的な計画は、公債支払の資金をつくるために二週間だけ飲食を控えることをスペイン全国民に提案したという、セルバンテスの小説のひとつに出てくるばか者の財政計画よりはどちらかといえばまずいものだが、それでもピットの空想力を魅了した。彼が、1786年に500万ポンドという一定額を割り当てて、毎年「まちがいなく」この目的に支払われるべき減債基金をつくったのは、明らかにこれ〔プライスの計画〕を基礎とするものであった。この制度は、1825年に下院で国の真正の〔bons fide〕歳入剰余金だけを国債の支払に充当するという決議が通過した時まで維持された。この奇妙な減債基金のために公債制度全体が大混乱に陥ってしまった。必要からなされた借入れと気ばらしのためになされた借入れ、負債を増大させることになる借入れと負債の支払にあてる借入れとの区別は、まったくごちゃごちゃになってしまった。利子と複利、負債と償還がはてしなくつづいて、人々の目の前を通りすぎ、コンソル公債と公債証書、債券と国庫証券、利子のない資本と資本のない利子と、走馬灯のようにつぎからつぎと出てくるので、どんなに理解力の確かな人間でも、まごついてしまうほどだった。プライス博士の原理は、国家は金を単利で借りて複利でふやせ、ということにあった。連合王国は、実際には10億ポンドの負債をつくったが、名目上はそのうちおよそ6億ポンドを受け取っただけで、右の額のうち3億9000万ポンドは、負債の支払にではなく減債基金の維持にあてられた。証券業者と投機業者の黄金時代を画するこのすばらしい制度を、パーマストン内閣の大蔵大臣は、もう一度ジョン・プルの肩に背負わせようと企てたが、ディズレーリ氏はそれにとどめの一撃〔coup de giâce〕をあたえたのだ。〉 (同426-427頁)

  どうやら発行された国債のなかから500万ポンドを減債基金に割り当て、その500万ポンドを複利で運用すれば、どんな将来の国債の償還もやすやすと可能になるというのが、プライスの提案のようである。ピットはまんまとその空想に乗っかって減債基金を作ったらしい。そしてそれがほぼ40年ほど続いたらしいが、しかしそのために公債制度全体が大混乱に陥ったということである。
  ところで、MEGAの注解①によれば、これ以下の部分(われわれのパラグラフ番号では【30】パラグラフまで)は、61-63草稿からそのまま採用されたもののようである。また大谷氏も訳注114)で、同様の指摘を行い、61-63草稿にあるMEGAの注解の内容を紹介している。そこには〈「マルクスは,ノートXIVで複利を論じたさいに,「プライスの幻想には,収入とその諸源泉とに関する項目〔Abschnitt〕のなかで立ち返ること」と書いている(〔MEGA II/3.4,〕1372ページを見よ)。〉とのことである。そこでその部分を見てみると次のようなものになっている。

  〈資本の量が増加する場合に、もし資本の価値--すなわち資本の利子、すなわち資本が支配し取得する剰余労働が減少しないならば、複利は--幾何級数的に増加するであろう。そして、これは、貨幣で計算すれば(プライスを見よ)不可能な蓄積(蓄積の率)を前提するのとまったく同様に、その真の要索に分解されれば、労働を、単に剰余労働だけではなく、必要労働をも、資本に「帰属するべき」ものとして飲みこむことになるであろう。(プライスの幻想には収入とその諸源泉とに関する篇(アプシュニット)のなかで立ち返ること。)〉 (草稿集⑦291頁)

  マルクスは『経済学批判要綱』の段階から、プライスの複利の幻想について注目しているが、それは資本が自己増殖する価値としての特質をそれ自身のなかに持っている(生え込んでいる)という幻想をもっとも典型的に示すものだと考えたからであろう。と同時に、それが労働者の剰余労働のみならず必要労働までをも資本に「帰属する」ものとして飲み込もうという資本の飽くなき本性をも示すものだと考えたからのようである。ここで〈で立ち返る〉としたのを、注解は、〈ここではじめて,彼はそれに立ち返っており,『要綱』(MEGA II/1.2,S.707)から,わずかな言葉上の変更を加えて,複利についてのプライスの見解の自分の評価を取り入れている。」(MEGA II/3.4,S,3026.)〉と指摘している。つまり61-63草稿にあるものも、実は『要綱』にあるものをそのまま採用したものだというのである。だからわれわれはまず『要綱』にある該当部分から見ていくことにしよう。

 〈資本とは、自己自身を再生産するような本質--生来の質によって永続し[自己]増殖するような価値--であるという観念は、プライス博士の、もろもろの途方もない思いつきをもたらしたのだが、これらの思いつきは錬金術師たちの幻想をはるかに凌駕するものであって、ピットはそれらを本気で信じ込み、減償基金に関する彼の諸法律(ローダデイルを見よ)のなかで彼の財政的知恵の支柱としたのであった。以下は、この男〔プライス〕からの若干の適切な抜粋である。〉  (草稿集②734頁)

  これが61-63草稿では次のようになる。

  〈資本とは--多年存続し年々増大する価値としてのその固有の資質によって--自分自身を再生産する存在であるという観念は、錬金術師たちの空想も遠く及ばない作り話的なドクター・プライスの思いつきまで生みだしてきた。その思いつきをピットは本気で信用して、国債償却基金〔sinking fund〕に関する彼の諸法律のなかで彼の財政論の支柱にしたのである。〉  (草稿集⑧329頁)

  そしてそれが今回の『資本論』の草稿の本文になったわけである。ほぼ内容的には変わらないものになっている。しかしほぼ同じような文言を何度も書き写したところに、マルクスのビットの空想に対する思い入れが現われているのかも知れない。
  なお『要綱』では〈ローダデイル〉について、次のような注解をつけている。

  〈マルクスは、1845年のブリュッセル抜粋ノートの一冊で、ローダデイルの著書『公共的富の性質と起源……に関する研究』、パリ、1808年、の仏訳から、詳細な抜粋を行なった。とくに詳しい抜粋(抜粋ノートの13ページ)がなされているのは、同書の173-205ページ、であって、そこでは、イギリスの首相ウィリアム・ピット(小ピット)の国債償還基金の形成のための措置(1786年および1792年)が批判的に扱われている。この措置は、このあとの本文で取り上げられている、リチャド・プライス博士の複利計算を基礎としているものである。〉  (草稿集②734頁)

  なお今回のMEGAの注解③はほぼ61-63草稿にある注解(1)(草稿集⑧329頁)をそのまま書き写したものであるが(若干違うところもある)、草稿集の注解には〈マルクスは,ピットの国債償却基金について『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』,1856年5月7日付の5318号に掲載された論文『ディズレイリ氏の予算』のなかで詳細に論じている。〉という部分には、この記事が掲載されている〈〔『全集』第12巻、445-449ページ〕〉という補足説明がつけ加わっている。】


【13】

 「複利を生む貨幣ははじめはゆっくり増えていく。しかし,増える率はだんだん速くなっていくので,ある期間がたてば,どんな想像力でもあざ笑うような速さになる。われわれの救世主が生まれたときに5%の複利で貸し出された1ペニーは,いままでに,すべて純金から成っている1億5千万個の地球に含まれているよりももっと大きな額に増大しているであろう。しかし,単利で貸し出されたとすれば,同じ期間にたった7シリング4[1/4]ペンスにしか増えていないであろう。今日までわが国の政府は,これらの方法のうちの前者よりも後者によって貨幣を利用する〔improve money〕ことを選んできたのである。」b)/

  ①〔注解〕「含まれている」--草稿では「得られている〔obtained〕」と書かれているが,プライスでは「含まれている〔contained〕」となっている。〔『要綱』でも『1861-1863年草稿』でもcontainedとなっている。明らかにマルクスの誤記なので,テキストを訂正しておく。エンゲルス版も「含まれている〔enthalten〕」としている。〕〉 (343-344頁)

 【これ自体はプライスの著書からの抜粋だけなので、平易な書き下しは省略した。計算上だけなら、複利にすれば天文学的な数値にまで加速度的に増加するということである。61-63草稿も引用文としてはまったく同じであるが、原注で触れている内容が少し加わっている。『要綱』もプライスの著書からの引用部分はまったく同じである。そして61-63草稿にも引き継がれるものがすでに『要綱』においても書かれている。61-63草稿ではそれにさらに書き加えが追加され、それが今回の『資本論』の草稿では、そのまま引き継がれているわけである。われわれはとりあえず、後のパラグラフ(【15】、【16】、【17】、【18】)で取り上げられている部分も含めて、『要綱』の関連する部分をすべて抜粋しておくことにしよう。そうすれば、それが61-63草稿ではどのように引き継がれ、またそれが今回の『資本論』の草稿ではどうなっているか、その推移が分かるであろう。

  〈「復利を生む貨幣ははじめはゆっくりと増大する。しかし、増大の率が継続的に加速されるので、それはいつかはあらゆる想像力をもあざ笑うような速さになる。1ペニーが、われわれの救世主が生まれたときに5%の複利で貸し出されていたなら、それはいままでに、すぺて純金から成っている1億5000万個の地球に含まれているよりも大きな額に増大していたことであろう。しかし、単利で貸し出されていたのなら、それは同じ期間に、7シリング4[1/2]ペンスにしかなっていなかったであろう。今日までわが国の政府は、これらの方法のうちの前者よりも後者のしかたで貨幣を利用することを選んできたのである。」(リチャド・プライス『国債問題について公衆に訴える』、第2版、ロンドン、1772年、18、19〔ぺージ〕。)(彼の機知はこうである。--政府は単利で借り、借りた貨幣を複利で貸し出すべきだ。)その著『生残年金……に関する考察』、ロンドン、1772年、のなかで、彼はもっと空高く飛んでいる。--「われわれの救世主が生まれたときに6%の複利で貸し出された1シリングは、……太陽系全体を、土星の軌道がもつのと同じ直径をもつ一つの球にした場合に包含できるであろうよりも、もっと多くの金額に増大していたであろう。」(同前、XIII-XIVページ、注。)「だから国家がどんな困難に陥る必要もないのである。というのは、国家は、最小の貯蓄で最大の債務を、国家の利益が要求しうるかぎりのわずかの期間で皆済できるのだからである。」(XIII-XIVぺージ。)けなげなプライスは、幾何級数から生じる巨大な量に簡単に眩惑されてしまった。彼は資本を、労働の再生産の諸条件を顧慮することなく、自動的に動くもの、自分自身を増大させるたんなる数とみなしたので、資本の増大の法則を、かの(上述を見よ)定式のなかに発見したと信じることができたのである。ピットは、1792年に、減債基金にあてる金額の増額を提案した演説のなかで、プライス博士のまやかし(S=C(1+i)n乗)をすっかり真に受けている。〉  (草稿集②734-735頁)

  同じ部分の引用は、先に紹介した『ニューヨーク・デイリ・トリビューン』,1856年5月7日付の5318号に掲載された論文「ディズレイリ氏の予算」のなかも出てくる。記事ではそれ以外にも引用が続けられているので、それもついでに紹介しておこう。

  〈彼(プライス--引用者)は言う。
  「複利を生む貨幣は、はじめは徐々に増加する。だが、その増加率はたえず加速されるから、ある期間後にはあらゆる想像を絶するほどの速度に達する。キリスト降誕のとき1ペニーが5分の複利で貸し出されたとすれば、それは今日ではすでに、金無垢でできた1億5000万個の地球のなかにふくまれるよりも大きな金額にまで増加しているだろう。だが、この1ペニーが単利で貸し出されたとすれば、同じ期間に7シリング4ペンス半にしかなっていないであろう。今日までわが政府は、第一の方法よりむしろ第二の方法を選んで、金を活用してきた。」「国家はけっして困ることはない。というのは、国家は、貯蓄がどんなに少額でも、国家の利益が要求する短期間内にどんな多額の負債でも支払うことができるからである。この計画によれば、国家が払わなければならない利子がどれほどかということはとるにたりないことである。なぜなら、利子が高ければ高いほど、それだけ早くかような基金によって元金を支払うことができるからである。」
  そこで、プライスは次のような提案をした。すなわち、「毎年ある金額を積み立て、それを、これによって償還されるすべての金額の利子といっしょにして、公債の返済に必ず充当すること、言いかえれば、減債基金を設定すること。」〉 (全集第12巻426頁)

  この後に、先に紹介したマルクスの批判が続くのである。】


【14】

 /314下/〔原注〕b)リチャド・プライス国債問題について公衆に訴える』,ロンドン,1772年,第2版122)彼の素朴な機知はこうである,--「要は,貨幣を単利で借りて,複利で利用することだ。〔It is borrowing money at simple interest,in order to improve it at compound interest.〕」(R.ハミルトン大ブリテンの国債の起源と発達云々に関する研究』,第2版,エディンバラ,1814年,133ページ。)これによれば,およそ借金は私人にとっても最も確実な致富手段であろう。しかし,もし私がたとえば100ポンド・スターリングを年利5%で借りるとすれば,私は年末には5%を支払わなければならないのであって,かりにこの借りが1億年続くとしても,そのあいだ私は毎年末にはいつでもただ100ポンド・スターリングだけしか貸すことができないのであり,やはり毎年末には5%を支払わなければならないのである。このやり方では,私はいつまでたっても100ポンド・スターリングを借りることによって105ポンド・スターリングを貸すことができるようにはならない。しかも,いったいなにからこの5%を支払うのか? 借金によってであり,あるいはもし国家なら,租税によってである。しかし,産業資本家が借りる場合には,彼は,利潤がたとえば15%ならば,5%を利子として支払い,5%を食い尽くし--といっても彼の食い物の質は収入につれて成長するのであるが--,5%を資本化しなければならない。だから,つねに5%の利子を支払っていくためにも,すでに15%の利潤が前提されているのである。もしこの過程が続けば,可変資本が不変資本に対立して減少し,したがって利潤が下落するがゆえに,利潤率は,たとえば15%から10%に下がる。ところが,プライスは,5%の利子が15%の利潤率を前提することをすっかり忘れてしまって,この利潤率が資本の蓄積といっしょに続くものとしているのである。貨幣が複利で還流するためには,彼は現実の蓄積過程にはまったくなんの関係もないのであって,ただ貨幣を貸し出すことにだけ関係があるのである。どこから,ということは,彼にとってはまったくどうでもよい。というのは,このことは利子生み資本の生来の質なのだからである。〔原注b)終わり〕/

  ①〔異文〕「の利子」--書き加えられている。

  122)「彼の素朴な機知はこうである」--、『1861-1863年草稿』では,「(彼の機知〔は次の通り〕--政府は,単利で借りて,借りた貨幣を複利で投下すべきだというのだ。)」となっている。このうちの「投下する〔auslegen〕」は,『要綱』では「貸し出す〔ausborgen〕」となっていた。なお,本注のこれ以下の部分は『要綱』にも『1861-1863年草稿』にもない。〉 (344-345頁)

 〈プライスの素朴な機知は次のようなものです。
 「要は,貨幣を単利で借りて,複利で利用することだ。」(R.ハミルトン『大ブリテンの国債の起源と発達云々に関する研究』,第2版,エディンバラ,1814年,133ページ。)
  これによれば、およそ借金は私人にとって最も確実な致富の手段でしょう。しかし、もし私が例えば100ポンド・スターリングを年利5%で借りるとすれば、私は年末には5%を支払わなければならないのであって、かりにこの借りが1億年続くとしても、そのあいだは私は毎年末にはいつでもただ100ポンド・スターリングだけしか貸すことができないのであり、やはり毎年末には5%を支払わなければならないのです。このやり方では、私はいつまでたっても100ポンド・スターリングを借りることによって105ポンド・スターリングを貸すことができるようになりません。しかも、いったいなにからこの5%を支払うのか? 借金によってであり、あるいはもし国家なら、租税によってです。しかし、産業資本家が借りる場合には、彼は、利潤がたとえば15%ならば、5%を利子として支払い、5%を食いつくし--といっても彼の食い物の質は収入につれて成長しますが--、5%を資本化しなければなりません。だから、つねに5%の利子を支払っていくためにも、すでに15%の利潤が前提されているのです。もしこの過程が続けば、可変資本が不変資本に対立して減少し、したがって利潤が下落するが故に、利潤率は、たとえば15%から10%に下がります。ところが、プライスは、5%の利子が15%の利潤率を前提することをすっかり忘れてしまって、この利潤率が資本の蓄積といっしょに続くものとしているのです。貨幣が複利で還流するためには、彼は現実の蓄積過程にはまったくなんの関係もないのであって、ただ貨幣を貸し出すことだけに関係があるのです。どこから、ということは、彼にとってはまったくどでもよいことです。というのは、このことは利子の生来の質なのですから。〉

 【これは先の本文での引用に対する原注であり、プライスの抜粋の典拠を示すものである。そのあとのプライスの素朴な機知について述べている部分は、先に紹介した『要綱』にすでにあったものである。それに続く、マルクスによるプライスの機知に対する批判部分は、大谷氏の訳注122)によれば、〈本注のこれ以下の部分は『要綱』にも『1861-1863年草稿』にもない〉とのことである。だからこの部分は、この草稿ではじめて書き加えられたものであろう。
  ではこのマルクスの批判は果たして的を射たものといえるであろうか。利子には利潤が前提され、そのためには資本の蓄積が前提されること、こうしたことがプライスにはまったく分かっておらず、ただ彼は利子の生来の質にもとづいて、そうしたことには頓着せず、ただ表面的な机上の計算だけをやっているだけだ、というのがマルクスの批判の要点であろうが、それが果たしてうまく説得的に説かれているのかということである。
  マルクスは、〈しかし,もし私がたとえば100ポンド・スターリングを年利5%で借りるとすれば,私は年末には5%を支払わなければならないのであって,かりにこの借りが1億年続くとしても,そのあいだ私は毎年末にはいつでもただ100ポンド・スターリングだけしか貸すことができないのであり,やはり毎年末には5%を支払わなければならないのである。このやり方では,私はいつまでたっても100ポンド・スターリングを借りることによって105ポンド・スターリングを貸すことができるようにはならない〉という。しかし今、マルクスの例と同じ100ポンド・スターリングを単利で借りて、複利で貸す場合を考えてみよう。マルクスは借りた100ポンド・スターリングの返済だけを問題にするが、それを複利で貸し出すことについては何も論じていない。100ポンド・スターリングを複利で貸すなら年末にはそれは105ポンド・スターリングになる。彼はそれを返済してもらうわけではなく、複利で貸すということはそのまま貸し続けることを前提する。だから彼は第二年度には105を5%の利率で貸すわけである。しかし彼は他方で借りた100に対して、年末には5を利子として支払う必要がある。彼はやはり借りた100を返済せずに借り続けるということでは同じである。ただ利子の5を何から支払うかは確かに問題だが、これも単利で借りるとしよう。複利で貸した105ポンドは第2の年末には105+105×0.05になる。しかし彼は他方で105を単利で借りたことになるから同じ年末には引き続き100を単利で借りると同時に、105の利子105×0.05もやはり単利で借りる必要がある。ということは彼はこの時点で、彼の借り額と貸し額との差額として5ポンドのプラスになっているのではないだろうか(〔105+105×0.05〕-〔100+105×0.05〕=5)。つまりあくまで計算上ではあるが、この限りでは致富が成就しているわけである。しかしいうまでもなく、複利で貸してそれが累進的に増大していくためには、貸し続ける必要があり、貸し続けるかぎりは彼には一銭も入ってこない。つまり彼が得たとする富もただの机上の計算上のものでしかない。しかし一年目に彼が貸した金額と借りた金額に5ポンドの差額が生じ、さらに第2年目以降にはその差額そのものが加速度的に増大していくとするなら、例えば10年に限って複利で貸し、その間に必要な運用費用(100と利子分)をすべて単利で借り受けることができたとするなら、彼は最終的には、例え計算上のものでしかなく、よって空想上のものでしかないとしても、かなりの致富をなし遂げることであろう。しかし彼に単利で貸し続ける人があるとも思えないし、複利で10年ものあいだ借り続ける人もまたないであろう。また例えあったとしても、借受人が10年後に返済に応じられるなんの補償もない。むしろ返済の時点で破産するのが落ちであろう。いずれにせよ利子を返済するためにはそれ以上の利潤が生産されていることが前提されているのだからである。
  しかしマルクスの議論では複利で貸すということについてはまったく無視している。それがやや疑問である。マルクスは〈このやり方では,私はいつまでたっても100ポンド・スターリングを借りることによって105ポンド・スターリングを貸すことができるようにはならない〉というのだが、それはマルクスが単利で借りた100ポンド・スターリングの返済だけを問題にしているからである。そもそも彼が単利で100ポンド・スターリングを借りたのは、それを複利で貸し付けて運用するためであることが忘れられている。なぜなら、彼が複利でそれを貸し付けたのなら、第二年度には彼は105ポンドを貸し付けることになるのだからである。だから〈105ポンド・スターリングを貸すことができるようにはならない〉とは言えないのである。ただ100ポンド・スターリングの返済をせずに、ただ単利の利子だけを支払い同じ100ポンド・スターリングを単利で借り続けられるということが前提されている(もちろん利子を支払うといってもその利子分もまた別に単利で借りることが前提されているのだが)。だからマルクスのこの論証はその限りではそれほど成功しているようには見えない。
  むしろマルクスの批判の要点はその後半部分にあるといえる。つまり5%の利子を支払うためには15%の利潤が前提されるということである。しかしプライスは〈5%の利子が15%の利潤率を前提することをすっかり忘れてしまって〉いるということ。〈貨幣が複利で還流するためには,彼は現実の蓄積過程にはまったくなんの関係もないのであって,ただ貨幣を貸し出すことにだけ関係がある〉と考えているということ。そして彼がこういった関係をどうでもよいものとして扱っているのは、確かにその限りでは〈利子生み資本の生来の質なのだ〉ということである。】


【15】

 [465]/314上/彼はその著『生残年金についての考察,云々』,ロンドン,144)①1782年,のなかではもっと空高く飛んでいる。「われわれの救世主が生まれた年に〔」〕145)(というのだから,たぶんエルサレムの聖堂のなかで)〔「〕6%の複利で貸された1シリングは,全太陽系を土星の軌道の直径に等しい直径をもつ一つの球にした場合に包含できるであろうよりも,もっと大きい金額に増大しているであろう。」c)「だからといって国家が財政困難の状態にある必要はけっしてない。というのは国家は,最小の貯蓄で最大の負債を,国家の利益が要求しうるかぎりの短い期間で皆済できるのだからである。」d)146)なんというけっこうな,イギリス国債への理論的手引きであろう!/

  ①〔注解〕「1782年」--1782年の版は見つからなかった。マルクスが使ったのは明らかに1772年刊行の第2版であり,この第2版からの抜粋が「ロンドン・ノート1850-1853年」のなかに見られる。マルクスは,すでにこのなかで,誤って1782年の版を指示している。1783年に第4版が刊行された。

  144)「1782年」--エンゲルスの1894年版でもこうなっていたが,現行版では「1772年」に訂正されている。この誤りは,『要綱』から『1861-1863年草稿』に書き写すさいに生じたものだった。
  145)「(というのだから,たぶんエルサレムの聖堂のなかで)」--これは『要綱』にも『1861-1863年草稿』にもない。
  146)「なんというけっこうな,イギリス国債への理論的手引きであろう!」--『1861-1863年草稿』では,「ここから,なんというけっこうな諸原理が信心深いピットにとって明らかになったことであろう!」となっている。『要綱』にはこの部分はない。〉 (345-346頁)

 〈彼はその著『生残年金についての考察、云々』では、もっと空高く飛んでいます。「6%の複利で貸された1シリングは,全太陽系を土星の軌道の直径に等しい直径をもつ一つの球にした場合に包含できるであろうよりも,もっと大きい金額に増大しているであろう。」「だからといって国家が財政困難の状態にある必要はけっしてない。というのは国家は,最小の貯蓄で最大の負債を,国家の利益が要求しうるかぎりの短い期間で皆済できるのだからである。」なんというけっこうな、イギリス国債への理論的手引きでしょう! 〉

 【このパラグラフもほぼ抜粋からなっており、特に解読も必要はないであろう。
  大谷訳注146)でも指摘されているように、『要綱』では、〈なんというけっこうな,イギリス国債への理論的手引きであろう!〉という部分はなく、すぐに次の【17】パラグラフが続いている。
   しかしそれにしても、こうした空想的な複利による運用で、国債の償還基金(減債基金)を形成しようというピットの計画が、40年近くも続いたということ自体が驚きである。そのために公債制度がむちゃくちゃになってしまったというのが先に紹介したマルクスの『ニューヨーク・デイリ・トリビューン』の記事における指摘であるが。】


【16】

 〈/314下/〔原注〕C)同前。[XIII注。]  -+
                          | ①148)ノートで確かめること。
   〔原注〕d)同前,[XIII/XIV,]136ページ。-+    〔原注c)およびd)終わり〕/

  ①〔注解〕「ノートで確かめること。」--マルクスが考えているのは「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートXVIのことで,彼はこのノートから抜粋を取り入れた。MEGA II/42,S.464.21-465.20への注解〔本書本巻343ページの注解② 〕を見よ。

  148)「ノートで確かめること〔Nachzusehen im Hefte〕。」--MEGAのテキストでは,編集者が,注c)にあたるところに「XIII,Note」(これはプライスの原典ページの正しい指示である),注d)にあたるところに「XIII/XIV」(プライスの原典では,『1861-1863年草稿』でのマルクスの記載のとおり,xivページである)とページを補っているが,手稿では,注d)にあたるところに「p.136」とあるだけである。おそらくマルクスは,このc)とd)との原典ページを,彼がプライスから最初に抜粋した「ロンドン・ノート」のノートXVI(MEGA IV/10に所収予定)によって確かめたうえで,ここに書き込む必要があると考えたのであろう。なお,『要綱』以来の「p.136」(『要綱』のテキストでの「p.XIII-XIV」は手稿での「XIV,p.136」を編集者が訂正したものである)というページ番号がなにのページ番号なのか,不明である(『要綱』の編集者がこれを削ったのも,現行版で削っているのもそのためであろう)。ひょっとすると,ハミルトンの『大ブリテンの国債の起源と発達云々に関する研究』のページ番号だったのかもしれない。〉 (346-347頁)

 【これは原注のc) 、d)についていずれも〈同前〉とあるということは、b)と同じということだから〈リチャド・プライス国債問題について公衆に訴える』,ロンドン,1772年,第2版〉からの抜粋だということであろう。〈[XIII注。] 〉、〈[XIII/XIV,]136ページ〉については、大谷氏の訳注が参考になる。そこでは『要綱』との相違も説明されている。これ自体は抜粋の典拠を示すものだから、特に解読が必要なものでもない。 】


【17】

 /314上/プライスは,幾何級数から生じる150)巨大な数に簡単に眩惑されてしまったのである。彼は資本を,151)再生産と労働との諸条件を顧慮することなく,152)自動的に動く自動機構〔a self acting automaton〕とみなし,たんなる自己増殖する数とみなした(マルサスが人間を幾何級数的に増えるものとみなしたのとまったく同様に)ので,資本の増大の諸法則をS=c(1+i)(n乗)という定式において発見したと妄想することができたのである。このSは資本・プラス・複利の合計,cは前貸資本,iは利子率(100の可除部分),nはこの過程が続く年数である。

  ①〔注解〕「マルサスが人間を幾何級数的に増えるものとみなした」--[トマス・ロバト・]マルサス『人口の原理に関する一論……』,ロンドン,1798年,25-26ページ〔高野岩三郎・大内兵衛訳『初版人口の原理』,岩波文庫,1935年,37ページ〕。

  150)「巨大な数〔the enormous numbers〕」→ 「数の巨大さ」--『要綱』および『1861-1863年草稿』では,「数」は「量〔quantities〕」となっている。
  151)「再生産と労働との諸条件〔the conditions of reproduction and labour〕」--『要綱』でも『1861-1863年草稿』でも,「労働の再生産の諸条件〔the conditions of reproduction of labour〕」となっている。
  152)「自動的に動く自動機構〔a self acting automaton〕」--『要綱』でも『1861-1863年草稿』でも,「自動的に動くもの〔a self-acting thing〕」となっている。〉 (347頁)

 〈プライスは、幾何級数から生じる巨大な数に簡単に幻惑されてしまったのです。彼は資本を、再生産と労働との諸条件を顧慮することなく、自動的に動く自動機構とみなし、たんなる自己増殖する数とみなしたのです。マルサスが人間を幾何級数的に増えるものとみなしたのとまったく同様に。だから資本の増大の諸法則をS=c(1+i)(n乗)という定式において発見したと妄想することができたのです。このSは資本・プラス・複利の合計,cは前貸資本,iは利子率(100の可除部分),nはこの過程が続く年数です。〉

 【この部分はほぼ先に紹介した『要綱』の抜粋部分と一致している。マルサスの部分が書き加えられ、S=c(1+i)(n乗)という定式の説明も加えられている。

  因みにインターネットでは複利計算について、次のような例題を紹介していた。

  〈複利計算の公式 b=a(1+r)n乗 を使って年利率 r を計算。
例題  100万円を10年間運用して150万円にしたい。運用利率は年利何%にすればよいか。
解答  100(1+r)10乗=150を解けばよい。これを r について解くと,
r=(150/100 )1/10乗−1≃0.041
つまり,年利 4.1%で運用すればよい。〉

  これだと100万円は複利で年率4%ぐらいで運用すれば、10年で1.5倍になるということのようである。】


【18】

 〈①ピットは,1792年に,減債基金に充てる金額の増額を提案した演説のなかで,ドクター・プライスのごまかしをすっかり真に受けている。

  ①〔注解〕「……ウィリアム・ピット閣下の演説」,ロンドン,1792年。--ピットの演説は,ジェイムズ・メイトランド・ローダデイルの著書『公の富の性質と起源……』,パリ,1808年,176-178ページに,その要点が収録されている。--減債基金(sinking fund)を設けるというピットの計画は,政府の収入超過から資金を得ることを見込んでいた。この計画は,その諸源泉と総額の高さとを確定していた。1786年にこの計画は法律として成立した。減債基金は「整理基金〔consoildated fund〕」と呼ばれた。〉 (347-348頁)

 〈ピットは、1792年に,減債基金に充てる金額の増額を提案した演説のなかで,ドクター・プライスのごまかしをすっかり真に受けています。〉

 【この一文も先に紹介した『要綱』の抜粋文のなかに含まれている。
  『要綱』にはもう一つ次のようなプライスとピットに言及したものがある。

  〈40ターレルに対象化された9労働時間と12時間の生きた労働時間との交換によって新利得がつくりだされるのではなく、つまりこの12時間という部分にたいして25%の剰余価値がつくりだされるのではなく、総資本が一様に10%増加したのだ--60の10%は6、40の10%は4である--という錯覚にもとづいたものが、悪名高いプライス博士の複利計算であり、これが天賦の才をもつ〔heaven bron〕ピットにその減債基金制度〔sinking fund〕というばかげたことをやらせる機縁となった。剰余利得と--絶対的かつ相対的な--剰余労働時間との同一性によって、資本の蓄積〔Accumulation〕にとっての質的限界が措定される。その質的限界とは、労働日〔Arbeitstag〕、すなわち24時間のなかで労働者の労働力能が働くことのできる時間--生産力発展の度合い--と、同時的労働日〔gleichzeitige Arbeitstage〕の数などを表わす人口である。ところが、剰余利得がたんに利子として--すなわち、資本がなにか絵空事の手品〔sleight of hand〕でも使って増加する割合としてだけとらえられるならば、この限界は量的なものでしかなく、そのばあい、なぜ資本は利子を1日ごとにふたたび資本として自分自身に組み入れて、無限幾何級数的に自分の利子から利子をつくりだしていかないのかということは、どうにもわかりようがないのである。経済学者たちはプライスのいうような利子増加は不可能だということを経験から知ったが、そこに含まれている大失策を発見しはしなかった。〉 (草稿集①479頁)

  ここではプライスへの批判として、利子がそこから分割される利潤、つまりのその原資とする剰余労働時間(剰余価値)には、労働日(生産力の発展度合い)と人口数という質的限界が存在すること、しかし、それが利子生み資本の質にとらわれると、利子が利子を生むという、ただ量的割合としてだけでみることになり、そこには限界がなくなるのだ、それがプライスの幻想だと指摘しているように思われる。
  なお上記の一文のなかの〈悪名高いプライス博士の複利計算〉の部分にMEGAの注解(3)がついているのでそれも紹介しておこう。

  〈(3)〔注解〕1851年の抜粋ノート第16冊のなかで抜粋されている、リチャード・プライスの以下の著作のことが、念頭におかれている。
  『国債問題について、公衆に訴える』(第2版、ロンドン、1772年)および『生残年金、寡婦および老齢者年金案、生命保険価額算定法ならびに国債についての考察』(第2版、ロンドン、1772年)。
  マルクスは、1851年の抜粋ノート第6冊のなかで、ロバト・ハミルトンの著書『グレイト・ブリテンの国債の発生および発達、国債の償却および現状、それの管理に関する研究』(第2版、エディンバラ、1814年)から抜粋をつくった。この技粋ノートの36ページで、マルクスは、ハミルトンの書物から次の要約を引用した。
  「偉大なプライス博士の知恵とは、きわめてたわいないものだ、それは、つまり、貨幣を単利で借りて、それを複利で増やすということなのだ(133ページ)。」〉 (同479-480頁)】


  (次回に続く)

 

2020年1月12日 (日)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-4)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【10】

 〈99)このように,利子が物としての貨幣資本に生え込んでいること(ここでは資本による剰余価値の産出がこういうものとして現われる),これこそが,ルターを忙しく,高利にたいして素朴にがみがみ言わせているものである。ルターは,定めた期日に返済されないために,自分でも支払いをしなければならない貸し手にとって出費が生じる場合とか,あるいは(かりに貨幣が適時に返済されたとすれば)買うこと(たとえば畑などを)によって貸し手があげることができたはずの利潤が借り手の咎(トガ)によって失われたような場合には,利子を要求してもよいということを述べたあとで,次のように続けている。--⑥109)「私があなたにそれ(100グルデン)を貸したとき,あなたは,110)私がこちらでは支払いができず,あちらでは買うことができず,したがって両方で損をしなければならないという双子の損害Schadewacht〕を私に与えている。これが,111)生じた損害と逃げた利得damni emergentis et lucri cessantisという二重の差損duplex interesse〕と呼ばれるのである。……ハンスが100グルデンを貸して損害を受けたのでその損害の正当な賠償を求めるということを聞くと,彼らは飛び込んできて,どの100グルデンにもこのような二重の損害zween Schadewacht〕,すなわち支払いのための出費としそこなった畑の購入という損害をかぶせるのである。それは,ちょうど,100[464]グルデンには自然にこのような二重の損失zween Schadewachtが生え込んでいるかのようである。こうして,100グルデンがあれば,彼らはこれを貸して,それにたいして,彼らがこうむってもいないこの二重の損害zween Schadewachtを計算するのである。……それゆえ,だれがあなたに加えたのでもなく,したがって証明も計算もできないあなたの偽りの損害を隣人の貨幣で償うあなたこそは,高利貸なのである。このような損害を法律家たちは,真実のではない架空の損害non verum,sed fantasticum interesse〕と呼んでいる。各人が自分に加えられたと想像する損害……。それゆえ,私が支払うことも買うこともできなかったという損害が||314上|生じるかもしれない,と言ってもむだである。それは,偶然事を必然事にしEx contingente necessarium〕,存在しないものを存在しなければならないものにし,不確実なものをまったく確実にすることである。このような高利はわずかな年月で世界を食い尽くすのではないだろうか? ……貸し手の意志によらないで彼をおそった偶然の不幸ならば,彼はその償いをうけなければならない。しかし,商業では逆であり正反対であって,そこでは,貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ,こうしてなんの心配も危険も損害もなしに他の人びとの労働によって,生活し,金持になり,自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に座していて私の100グルデンに国中で私のために稼がせ,しかもそれが貸した貨幣であるために,なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保するとすれば,友よ,だれかこれを望まない人があるだろうか?」a)/

  ①〔異文〕「物としての」--書き加えられている。
  ②〔訂正〕「生え込んでいることEingewachsensein〕」--草稿では「生え込むこと〔Eingewachsen〕」と書かれている。1894年のエンゲルス版にならって訂正した。
  ③〔異文〕「非常に」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「(たとえば畑などを)」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「利子を要求しても」← 「利子が支払われても」
  ⑥〔注解〕マルクスは,ルターから抜粋するさい,つねにルターの表記法を使うことはしないで,高地ドイツ語の正書法も使っている。--『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4.S.1534.28-1535.16)から取られている。
  ⑦〔注解〕「(100グルデン)」--この挿入はマルクスによるもの。
  ⑧〔注解〕「Schadewacht」--高利を意味する古い呼称。
  ⑨〔注解〕以下の部分は,ルターの原文では,次のようになっている。--「私が支払うことも買うこともできないので損害が生じるかもしれない。むしろ言い換えれば,損害が生じているであろう,と言ってもだめであろう。」

  99)1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「このように利子がじかに資本に生え込んでいることに反対する,ルターの素朴な論争。」(MEGA II/3.4,S.1522.)
  109)以下の引用は,マルティン・ルターの『牧師諸氏へ,高利に反対して……』,ヴィッテンベルク,1540年,からのものであるが,『1861-1863年草稿』のノートXVの「収入とその諸源泉」のなかに,「損害賠償としての利子〔Zins als Schadenersatz〕」という表題のもとに同書からのかなり長い引用(MEGA II/3.4,S.1534-1537)があり,その前半に,ここで引用されている部分が含まれている。なお,ルターからの後出の引用(本書本巻353-354ページ)も,その後半から取られている。
  110)「私がこちらでは支払ができず,あちらでは買うことができず,したがって両方で損をしなければならないという双子の損害〔einen Zwilling aus dem Schadewacht〕」--「支払ができない」ことから生じる損害については,これより前のところでマルクスが「借り手自身が支払ができなかったために生じた裁判費用等々のこと」という説明を与えている。「買うことができない」ことから生じる損害とは,買いたいものを買うことを断念しなければならないことから損害が生じるということである。貨幣を貸した結果,貸し手にこのような二重の損害が生じたというのである。   
  ここで,『1861-1863年草稿』の『資本論草稿集』での訳語にならって「損害」としたSchadewachtは,GrimmのDeutsches Wörterbuchでは,Schade(Schade(=Schaden)にはかつては「利子」という意味もあった)のWacht(監視)というところからきた,「ある高利貸の名として」使われた語だ,とされている。ルターのここでの用法は,その原義を完全には失わないながらも,もっと一般的な概念として,だから普通名詞として使われている。このあとで二度,solche zween Schadewacht(そのような二重の損害)と言い換えているこの「双子の損害」を,ルターがそのあとでさらに二度zween Schadenと呼んでいることからもわかるように,ここでは事実上,SchadewachtはSchadeとほとんど同じ意味で使われているのである。
  111)「生じた損害と逃げた利得damni emergentis et lucri cessantisという二重の差損duplex interesse〕」--ルターはこの前のところで,「あなたが元金もSchade〔前注に述べたように,Schadeには「損害」の意味のほかに「利子」の意味があったが,ここではその両者の意味が込められている〕もいっさいを私に返済するのが,理性からも自然の法からも正当である。……このようなSchadewachtを法律書はラテン語でInteresseと呼んでいる。」と書いていた。このlnteresseおよび「生じた損害と逃げた利得damni emergentise et lucri cessantis〕」については,次の記述を参照されたい。--「ローマの法律家やその考えを継承した初期の教会法学者たちは,差額という意味をもつinteresseをusura(利子)とは質的に異なるものと考えていた。usuraは貸付金に対する特別な支払いとして禁止されたが,interesseのほうは,何らかの契約で被害を受けた側の損害賠償(金)という意味で許された。すなわち,なにか補償的なものとされたのである。今日理解されている意味での,すなわち,貸付金に対して当然に支払われるべきものとしてのinteresse(利子)は,14世紀の若干の教会法学者や神学者たちによって,きわめて徐々にdamnum emergens(蒙った損害の賠償)とか,lucrum cessans(失われた利益)という名前で弁護されるようになった。この新しい変化は,主としてイタリアの諸都市で営まれた金融業務を正当化する必要から起こった。interest正式認可への第一歩は1516年,ラテラノ公会議における教皇レオ10世の大教書であった。この大教書はmontes pietatis(敬虔の山)という公共の質屋を認可し,そこにおいて低利の利子が課せられることを容認した。」(ルター『商業と高利』,魚住昌良訳,『世界の名著』第18巻「ルター」,中央公論社,1969年,所収。同書369ページの訳者による注。)〉 (339-342頁)

 〈このように、利子が物としての貨幣資本に生え込んでいます(つまりここでは資本による剰余価値の産出がこういうものとして現われるのです)。これこそが、ルターを忙しく、高利に対して素朴にがみがみ言わせているものなのです。ルターは、定めた期日に返済されないために、自分でも支払をしなければならない貸し手にとって出費が生じる場合とか、あるいは(かりに貨幣が適時に返済されたとすれば)買うこと(例えば畑などを)によって貸し手があげることができたはずの利潤が借り手の咎によって失われたような場合には、利子を要求してもよいということを述べたあとで、次のように続けています。--「私があなたにそれ(100グルデン)を貸したとき,あなたは,私がこちらでは支払いができず,あちらでは買うことができず,したがって両方で損をしなければならないという双子の損害を私に与えている。これが,生じた損害と逃げた利得という二重の差損と呼ばれるのである。……ハンスが100グルデンを貸して損害を受けたのでその損害の正当な賠償を求めるということを聞くと,彼らは飛び込んできて,どの100グルデンにもこのような二重の損害,すなわち支払いのための出費としそこなった畑の購入という損害をかぶせるのである。それは,ちょうど,100グルデンには自然にこのような二重の損失が生え込んでいるかのようである。こうして,100グルデンがあれば,彼らはこれを貸して,それにたいして,彼らがこうむってもいないこの二重の損害を計算するのである。……それゆえ,だれがあなたに加えたのでもなく,したがって証明も計算もできないあなたの偽りの損害を隣人の貨幣で償うあなたこそは,高利貸なのである。このような損害を法律家たちは,真実のではない架空の損害と呼んでいる。各人が自分に加えられたと想像する損害……。それゆえ,私が支払うことも買うこともできなかったという損害が生じるかもしれない,と言ってもむだである。それは,偶然事を必然事にし,存在しないものを存在しなければならないものにし,不確実なものをまったく確実にすることである。このような高利はわずかな年月で世界を食い尽くすのではないだろうか? ……貸し手の意志によらないで彼をおそった偶然の不幸ならば,彼はその償いをうけなければならない。しかし,商業では逆であり正反対であって,そこでは,貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ,こうしてなんの心配も危険も損害もなしに他の人びとの労働によって,生活し,金持になり,自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に座していて私の100グルデンに国中で私のために稼がせ,しかもそれが貸した貨幣であるために,なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保するとすれば,友よ,だれかこれを望まない人があるだろうか?」〉

 【ここからは、資本物神のまばゆいばかりの神秘化がどのような形で反映しているかを紹介することに話は転じているようである。そしてその最初はルターの高利批判である。このパラグラフはほぼルターからの引用が占めているので、引用部分はそのまま紹介するだけにした。
  ルターは貨幣資本に利子が生え込んでいる現実を批判する。但し彼も貸し手が期日通りに返済されないことによって生じた損失や、あるいは期日通りに返済されたなら得られたであろう儲けが、返済が遅れたことによって失われた場合に限り、その補償として利子の支払を認めるわけである。
  ここでルターの主張していることはそのままではなかなか分かりづらい。大谷氏は訳注で解説をしてくれているので、それを参照しながら、ルターのいわんとすることを解釈してみよう。まずルターが〈私があなたにそれ(100グルデン)を貸したとき,あなたは,110)私がこちらでは支払いができず,あちらでは買うことができず,したがって両方で損をしなければならないという双子の損害を私に与えている〉という部分について、大谷氏は訳注で次のように解説している。

  〈110)「私がこちらでは支払ができず,あちらでは買うことができず,したがって両方で損をしなければならないという双子の損害〔einen Zwilling aus dem Schadewacht〕」--「支払ができない」ことから生じる損害については,これより前のところでマルクスが「借り手自身が支払ができなかったために生じた裁判費用等々のこと」という説明を与えている。「買うことができない」ことから生じる損害とは,買いたいものを買うことを断念しなければならないことから損害が生じるということである。貨幣を貸した結果,貸し手にこのような二重の損害が生じたというのである。   
  ここで,『1861-1863年草稿』の『資本論草稿集』での訳語にならって「損害」としたSchadewachtは,GrimmのDeutsches Wörterbuchでは,Schade(Schade(=Schaden)にはかつては「利子」という意味もあった)のWacht(監視)というところからきた,「ある高利貸の名として」使われた語だ,とされている。ルターのここでの用法は,その原義を完全には失わないながらも,もっと一般的な概念として,だから普通名詞として使われている。このあとで二度,solche zween Schadewacht(そのような二重の損害)と言い換えているこの「双子の損害」を,ルターがそのあとでさらに二度zween Schadenと呼んでいることからもわかるように,ここでは事実上,SchadewachtはSchadeとほとんど同じ意味で使われているのである。〉 (340頁)

  要するに、100グルデンを貸した場合、それが期日どおりに返済されなかったために、本来はその100グルデンで支払ができたのにそれが出来なかったために裁判費用がかかったとか、あるいはその100グルデンがあれば買えたであろう畑で上げる利潤が得られなかったという二重の損害が生じているということのようである。

  次の一文〈これが,111)生じた損害と逃げた利得damni emergentis et lucri cessantisという二重の差損duplex interesse〕と呼ばれるのである〉にも訳注があるので、それを見よう。

  〈111)「生じた損害と逃げた利得damni emergentis et lucri cessantisという二重の差損duplex interesse〕」--ルターはこの前のところで,「あなたが元金もSchade〔前注に述べたように,Schadeには「損害」の意味のほかに「利子」の意味があったが,ここではその両者の意味が込められている〕もいっさいを私に返済するのが,理性からも自然の法からも正当である。……このようなSchadewachtを法律書はラテン語でInteresseと呼んでいる。」と書いていた。このlnteresseおよび「生じた損害と逃げた利得damni emergentise et lucri cessantis〕」については,次の記述を参照されたい。--「ローマの法律家やその考えを継承した初期の教会法学者たちは,差額という意味をもつinteresseをusura(利子)とは質的に異なるものと考えていた。usuraは貸付金に対する特別な支払いとして禁止されたが,interesseのほうは,何らかの契約で被害を受けた側の損害賠償(金)という意味で許された。すなわち,なにか補償的なものとされたのである。今日理解されている意味での,すなわち,貸付金に対して当然に支払われるべきものとしてのinteresse(利子)は,14世紀の若干の教会法学者や神学者たちによって,きわめて徐々にdamnum emergens(蒙った損害の賠償)とか,lucrum cessans(失われた利益)という名前で弁護されるようになった。この新しい変化は,主としてイタリアの諸都市で営まれた金融業務を正当化する必要から起こった。interest正式認可への第一歩は1516年,ラテラノ公会議における教皇レオ10世の大教書であった。この大教書はmontes pietatis(敬虔の山)という公共の質屋を認可し,そこにおいて低利の利子が課せられることを容認した。」(ルター『商業と高利』,魚住昌良訳,『世界の名著』第18巻「ルター」,中央公論社,1969年,所収。同書369ページの訳者による注。)〉 (340-341頁)

 要するに、キリスト教の宗教的な教義が支配していた中世では、高利は「罪悪」であって、「教会法によって」禁止されていたが(だから高利貸しはユダヤ教徒がもっぱら担った)、しかし商業の発達と金融業の発達に応じて、利子を認めざるを得なくなってくる現実がある。そこで利子を生じた損害に対する補償として認めるという口実を考え出して容認するようになっていったということである。ルターも一方では生じた損害と逃げた利得という二重の差損は認めながら、しかしそれを口実として、生じてもいないのに差損をでっち上げている現実を批判しているわけである。そしてその内容は、〈ハンスが100グルデンを貸して損害を受けたのでその損害の正当な賠償を求めるということを聞くと,彼らは飛び込んできて,どの100グルデンにもこのような二重の損害,すなわち支払いのための出費としそこなった畑の購入という損害をかぶせるのである。それは,ちょうど,100グルデンには自然にこのような二重の損失が生え込んでいるかのようである〉と述べているように、まさにマルクスが〈利子が物としての貨幣資本に生え込んでいる〉と資本物神の最高の完成形態として述べていることを、ルターはそのまま直接的に表現しているわけである。そうした点でマルクスはルターを評価し紹介している。ルターが〈貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ,こうしてなんの心配も危険も損害もなしに他の人びとの労働によって,生活し,金持になり,自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に座していて私の100グルデンに国中で私のために稼がせ,しかもそれが貸した貨幣であるために,なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保する〉と述べるとき、それはマルクスが〈貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,または再生産過程のなかにありさえすれば(それが,産業利潤とは別に,所有者としての機能資本家のために利子をもたらすかぎりでは),それが寝ていようと起きていようと,家にいようと旅をしていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える〉と指摘していたことと重なる。

 それ以外の訳者注も見ておこう。

  〈99)1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「このように利子がじかに資本に生え込んでいることに反対する,ルターの素朴な論争。」(MEGA II/3.4,S.1522.)〉 (339頁)

  これは独立したパラグラフをそのまま紹介したものである。このパラグラフの冒頭にMEGAの注解があり、〈ルターの論争についての立ち入った詳論は、本書、1527-1537ページ〔本訳書、524-537ページ〕を見よ〉という指示がある。該当個所では1540年のルターの著書『牧師諸氏へ、高利に反して、戒め』、1555年の『富者と貧者ラザロについての福音書にたいする説教』からの抜粋とマルクスのそれに対する考察がある。ルターの著書からの抜粋文まで含めてすべて紹介すると膨大になるために、マルクスがそれぞれの抜粋のあとに書いている一文だけを、抜き出してみよう(MEGAによる注解等もすべて省略する。それだけでもかなりの分量になる。しかし興味深い内容ではある)。

  高利利子生み資本(マルクスのつけた表題--引用者)
  (ルターからの抜粋--略)
  II、『富者と貧者ラザロについての福音書にたいする説教』、ヴィッテンべルク1555年(マルクスのつけた表題--引用者)
 (ルターからの抜粋--略)
 ルターがここでわれわれに言っているのは、なにによって高利資本が成立するか、ということである。すなわち、市民(小市民および農民)、騎土、貴族、君主の破滅によって成立するということである。一方では、城外市民や農民や同職組合員の剰余労働とさらに労働条件とが高利資本の手に流れてくる。これらの者は、簡単に言えば、小商品生産者であって、たとえば自分の商品を貨幣に転化させる前に支払をするために貨幣を必要としたり、自分の労働条件のあるものをすでに自分で買っていたりするのである。他方では、高利資本が取り上げる地代の所有者から、である。つまり、浪費的で享楽的な富者から、である。高利が二つのことをひき起こすかぎりでは、すなわち、第一には一般に独立な貨幣財産を形成するということを、第二には労働条件をわがものにする、すなわち古い労働条件の所有者たちを破滅させるということを、ひき起こすかぎりでは、高利は、産業資本のための諸前提の形成における強力な一手段--生産者からの生産手段の分離における強力な一能因--である。商人とまったく同様に。そして、この両者に共通なのは、独立な貨幣財産を形成するということである。すなわち、年々の剰余労働の、また労働条件の、さらにまた年間労働の蓄積の、一部分を、貨幣請求権の形で自分の手のなかに蓄積するということである。現実に彼らの手のなかに存在する貨幣は、一部は年間の蓄積貨幣および年々蓄積される蓄蔵貨幣の、一部は流通中の資本の、一小部分をなしているにすぎない。彼らが貨幣財産を形成するということは、一部は年間生産の、一部は年間収入の、一大部分が彼らの手にはいって、しかも現物でではなくて転化した貨幣形態で支払われているということである。それゆえ、貨幣が現実に通貨として流通しておらず、運動していないかぎりでは、それは彼らの手のなかに蓄積されているのである。一部は彼らの手のなかには流通貨幣の貯蔵器もあるのであるが、さらにより多く彼らの手のなかにあって蓄積されているのは、生産にたいする請求権、といっても貨幣に転化した商品にたいする請求権としての、つまり貨幣請求権としてのそれである。一方では封建的な富と所有との破壊者としての高利。他方では小市民的、小農民的生産の、要するに生産者がなお彼の生産手段の所有者として現われているようなあらゆる形態の、破壊者としての高利。
  資本主義的生産にあっては労働者は諸生産条件の非所有者である。彼が耕作する畑の所有者でもなければ、彼が労働するのに用いる用具の所有者でもない。しかし、このような諸生産条件の疎外には、ここでは生産様式そのものにおける現実の変化が対応している。用具は機械になる、労働者は工場で労働する、等々。この生産様式そのものは、もはや、このような、小所有と結びついた諸生産用具の分散を許さないのであって、それは、労働者そのものの分散を許さないのと同じである。資本主議的生産では、高利はもはや諸生産条件を労働者から、生産者から、分離することはできない。なぜならば、それらはすでに分離されているからである。
  高利が財産を、特に貨幣財産の形態で、集中するのは、ただ、生産手段が分散している場合、したがって労働者が多かれ少なかれ独立に、小農民や同職組合員(小商人)などとして、生産を行なっている場合である。農民または手工業者としては、この農民は農奴であることも農奴でないこともあろうし、この手工業者は同職組合員であることも非組合員であることもあろう。彼はこの場合には剰余労働中の隷農でさえ勝手に処分できる部分を取得するだけではなく、あるいはまた自由な農民などの場合のように全剰余労働を取得するだけではなく、生産用具をも自分のものにするのであって、この生産用具の名目上の所有者もやはり農民、等々であり、これにたいして彼は生産そのものにおいて所有者としてふるまうのである。この高利は、この基礎に、この生産様式に基づいているのであって、高利はこれを改変するのではなく、寄生虫としてこれに食いつき、これを悲惨にするのである。高利はこの生産様式から吸い取り、これを衰弱させて、再生産がますますひどい条件のもとで行なわれるようにする。それだからこそ、まさに古代の諸関係のもとでは高利にたいする民衆の憎悪が広がっていたのであって、そこではこのような生産規定性--自分の生産条件にたいする生産者の所有、が同時に政治的諸関係や市民の独立性の基礎だったのである。労働者がもはや生産条件をもたなくなれば、そうではなくなる。それと同時に高利の力はなくなる。他方、奴隷制が行なわれるかぎり、または剰余労働が封建領主やその家臣に食い尽くされて、これらが高利に従属する〔かぎり〕、生産様式は同じままで、ただいっそう苛酷になるだけである。債務を負った奴隷保有者や封建領主は、彼自身が吸い取られるので、いっそう多くを吸い取る。または、彼はついに高利貸に席を譲り、高利貸自身が土地所有者などになったりする。ちょうど古代ローマの騎士〔eques〕などの場合のように。搾取を多かれ少なかれ政治的な権力手段としていた古い搾取者に代わって、金銭に貪欲な粗野な成り上がり者が現われる。だが、生産様式そのものは改変されないのである。
  すべての前資本主義的生産様式において高利貸はただ政治的にのみ革命的に作用する。というのは、高利貸は、政治的編制の強固な基礎、すなわち同じ形態でのその不断の再生産の基礎をなしている諸所有形態を破壊し没落させるからである。集中的にも、といってもただ古い生産様式の基礎の上でのことであるが、集中的にも高利貸は作用し、これによって社会は、奴隷や農奴などや彼らの新たな主人のほかに、民衆に分解する。アジア的諸形態にあっては、高利は、経済的退廃と政治的腐朽以外のものをひき起こすことなしに、だがまた現実に分解することもなしに、長く存続することができる。資本主義的生産のための他の諸条件--自由な労働、世界市場、古い社会関係の分解、ある段階への労働の発展、諸科学の発展、等々--が存在する時代にはじめて高利は新たな生産様式の形成手段の一つとして現われる。同時に、封建領主の、すなわち反ブルジョア的要素の支柱の、没落。また、小工業や小農業などの没落。要するに、資本としての労働条件の集中の手段。
  高利貸や商人などが「貨幣財産」をもつということは、商品および貨幣として現われるかぎりでの国民の財産が彼らの手のなかに集積されるということにほかならない。
  資本主義的生産は、高利貸自身が生産者にならないかぎり、最初は高利と戦わなければならない。資本主義的生産が確立されれば、古い生産様式の存続に結びついていた、剰余労働にたいする高利の支配は、すでになくなっている。産業資本家は直接に剰余を利潤として収得する。彼はまたすでに生産条件をも一部分は自分のものにしていて、年々の蓄積の一部分は直接に彼によって取得される。この瞬間から、ことに産業的および商業的財産が発展するようになると、高利貸すなわち金貸業者は、単に、分業によって産業資本家から分離されているとはいえ産業資本に従属する人となる。

  III、『牧師諸氏へ、高利に反対して、戒め』、ヴィッテンベルク154O年(ぺージづけなし)
  取引(売買)と貸付。(ルターはプルドンのようにこの形態の相違にだまされてはいない!)
  (ルターからの抜粋--略)
  {前述のことからは、ルターの時代には高利が非常に増加していたと同時にすでに「サーヴィス」(セー・バスティア)として弁護されていた、ということがわかる。すでに、「各人は互いに役だち合う」という競争の表現または調和の表現が現われている。
  古代世界では、より良い時代には、高利は禁止されていた。(すなわち利子は許されていなかった。)もっとのちには法律によって。非常に優勢に。理論的にはつねに(アリストテレスにおけるように)、利子はそれ自体として悪い、という見解。
  キリスト教的中世には「罪悪」であって「教会法によって」禁止されていた。
  近代ルター。なおカトリック的・異教的表現。非常に広がりつつある。(一部は政府に貨幣が必要なため。商工業の発達、生産物の貨幣化の必要。)しかし、すでに利子のブルジョア的正当化が主張される。
  オランダ、最初の高利弁護論。そこではまた高利がはじめて近代化され、生産資本または商業資本に従属させられる。
  イングランド。17世紀。攻撃はもはや高利そのものにではなく、利子の大きさに、信用にたいする利子の圧倒的な割合に、向けられる。信用形態を創造することの衝動。強制的な諸規定。
  18世紀べンサム。自由な高利が資本主義的生産の要素として承認される。}

損害賠償としての利子(恐らくMEGAの編集者のつけた表題--引用者)
(ルターからの長い抜粋--略)
  最高にみごとで、同時に一方では古風な高利の、他方では資本一般の性格を適切に表現している言葉、「架空の損害〔Interesse Phantasticum〕」、貨幣や商品に「自然に根づいた損害」、一般的な有益な文句、「他の人々と同じ」ではない高利貸の「信心深」そうな様子、奪われるのに与えるかのような外観、引き入れられるのに出て行かせるかのような外観、等々!〉】  (草稿集⑦524-537頁)


【11】

 〈|314下|〔原注〕a) M.ルター牧師諸氏へ,高利に反対して,云々』,ヴィッテンベルク,1540年。〔原注a)終わり〕/〉 (342頁)

  【これは上記のルターからの引用の出典を示すだけであり、特に解説も不要であろう。なおこの『牧師諸氏へ,高利に反対して,戒め』からの抜粋は61-63草稿(s.1532-1536)に見ることができる(草稿集⑦529-536頁)。先に紹介した抜粋文では省略したのであるが、今度は、引用されているルターの一文を61-63草稿から抜粋してみよう。

  〈私はあなたにそれを貸した。そのために、あなたは、私がこちらでは支払ができずあちらでは買うことができず、したがって両方で損をしなければならないという二重の損害を私に与えている。つまり、起きた損害と逃げた利得という二重の損失というものである。……ハンスが100グルデンを貸して損害を受けたのでその損害の正当な賠償を要求する、ということを聞くと、彼らはとびこんできて、どの100グルデンについてもこのような二重の損失、すなわち支払のための失費と買いそこなった庭という損失の賠償を要求する。それは、ちょうど、100グルデンには自然にこのような二重の損失が根づいているかのようであるこうして、100グルデンがあれば、彼らはそれを貸して、それにたいして、彼らが受けてもいないこのような二重の損害を計算するのである。……それゆえ、だれがあなたに加えたのでもなく、したがって証明も計算もできないあなたの虚構の損害を隣人の貨幣で償うあなたこそは、高利貸なのである。このような、損害を法律家たちは、真実のではない架空の損害と呼んでいる。各人が自分に加えられたと想像する損害……。それゆえ私が支払うことも買うこともできなかったので損害が生ずるかもしれない、と言ってもだめであろう。それは、偶然事を必然事にし、存在しないものを存在しなければならないものにし、不確実なものを確実なものにすることである。このような高利は短い年月のあいだに世界を食い尽くすのではないだろうか〔?〕……貸し主の意志によらないで彼を襲った偶然の不幸ならば、彼はその償いを受けなければならない。しかし、商業では逆であり正反対であって、そこでは、貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ、こうして、なんの心配も危険も損害もなしに他の人々の労働によって生活し、金持ちになり、自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に坐していて私の100グルデンに国じゅうで私のために稼がせ、しかも、それが貸した貨幣であるために、なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保するとすれば、愛する友よ、だれかこれを望まない人があるだろうか? 〉 (草稿集⑦533-534頁)】

  (以下、続く。)

2019年12月26日 (木)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-3)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【7】

 〈moneyed Capitalにおいてはじめて資本は商品になったのであって,この商品の自分自身を増殖するという質は,そのつどの利子率で値づけされた確定価格をもっているのである。〉 (336頁)

 〈利子生み資本(moneyed Capital)においてはじめて資本は商品になったのです。この商品の自分自身を増殖するという質(使用価値)は、その都度の利子率で値付けされた確定された価格をもっているのです。〉

 【このパラグラフからやや問題が変わっているような感じがする。ここでは利子生み資本においてはじめて資本は商品になったという指摘がある。この点は、宇野弘蔵の批判するところであるが、宇野は国債や株式のような架空資本になってはじめて資本は商品になるのだというのであり、貨幣の貸し出しの段階ではまだ資本が商品になったとはいえないというのであるが、こうした宇野の主張の間違いをここで指摘する必要はないであろう。それはまた別途必要ならやることにしよう。いずにせよ、われわれは、マルクス自身は、利子生み資本(moneyed capital)において、はじめて資本は商品になったのであり、その価格は利子率によって確定的に値付けされたものとしてあると考えていることを確認しておこう。】


【8】

 〈79)利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれに関係のない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を [463]前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を,主体として,売ることのできる物として,得るのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっているのである。じつに貨幣こそは,そこではもろもろの使用価値としてのもろもろの商品の区別が消え去っており,したがってまたこれらの商品やその存在諸条件から成っているもろもろの生産的資本の区別も消え去っている形態,資本が〔es〕自立的な交換価値として存在する形態なのである。資本の訓実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われる。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣資本としてこの形態にある資本に固有なことなのである。

①〔注解〕「トーコス〔τόκος〕」--生み出されたもの,利子。

  79)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「それゆえ,利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれにかかわりのない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を得たのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっており,資本は自立的な交換価値のたんなる定在として,自立化された価値として存在するのである。資本の実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われ,それゆえ貨幣資本の,すなわち資本の過程から分離された資本の,たんなる所有者に属するものとして現われる。G_W_GはここではG_Gになり,しかも,資本の形態がここでは無区別な貨幣形態であるように--じつに貨幣こそは,使用価値としての諸商品の相違が消え去っている形態であり,したがってまた,これらの商品の存在条件から成っている生産的諸資本の相違,生産的諸資本の特殊的な形態そのものも消え去っている形態である--,この資本が生み出す剰余価値も,つまり剰余貨幣も,なにがそれになるのか,またはなにがそれであるのかを問わず,貨幣額そのものの大きさで測られた特定の率において現われるのである。利子が5%〔ならば〕,資本としての100は105である。このように〔それは〕,自己を増殖する価値の,または貨幣を創造する貨幣の,まったく明白な形態〔である〕。同時に,まったく無思想な形態〔である〕。不可解な,神秘化された形態〔である〕。資本の展開では,われわれはG_W_Gから出発したが,G_G'はこのG_W_Gの結果でしかなかった。いまやわれわれは,G_G'を主体として見いだす。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣というこの純粋な形態にある資本に固有なことなのである。われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。」(MEGA II/34,S.1464.)〉  (336-338頁)

 〈利子生み資本として、しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において、資本は、その純粋な物神形態G_G'を、主体として、売ることの出来る物として、得るのです。(ここではわれわれに関係のない他の利子生み資本諸形態--例えば国債とか株式などの諸形態--はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものです。)
  利子生み資本において、資本がはじめて商品になると言いうるのは、それは、第1には、資本が絶えず貨幣として存在することによってです。この貨幣という形態では、資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっています。じつに貨幣こそは、そこではもろもろの使用価値としてのもろもろの商品の区別が消え去っており、したがってまたこれらの商品やその存在諸条件からなっているもろもろの生産的資本の区別も消え去っている形態であり、資本が自立的な交換価値として存在している形態なのです。資本の実体的な過程では、貨幣形態は、すぐに消えてしまう形態です。しかし貨幣市場では、資本はつねにこの形態で存在するのです。
  第2に、資本によって生み出される剰余価値も、ふたたび貨幣の形態にあって、資本そのものに属するものとして現われます。成長が樹木に固有であるように、貨幣を生むことが貨幣資本としてこの形態にある資本に固有のことになるのです。〉
 
 【先のパラグラフから利子生み資本(moneyed capital)において、資本がはじめて商品になるのは、資本物神がもっとも最高の段階まで出来上がっているからだということを説明することに話が転じているようである。つまりまさに宇野の主張を批判するものともいえる。しかもマルクスはここで〈われわれに関係のない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するもの〉だと述べている。つまり宇野がはじめて資本が商品になるという国債や株式などの架空な有価証券の類は、それらは確かに今日では資本市場を構成するものではあるが、しかしそれは貨幣市場で貨幣が商品として売買されるという利子生み資本を前提したものなのだとマルクスは指摘しているのである。そしてマルクスは、利子生み資本では、資本はその純粋な資本物神の形態にあり、主体として、売ることのできる物として、存在しているからこそ、それは商品になるのだとここでは指摘しているわけである。そしてその理由として、マルクスは二つのことを挙げている。一つは資本が貨幣の形態であるということである。それは資本の実体的な過程が消えてしまった存在形態にあるからである。第2に、資本が生み出す剰余価値も、貨幣が貨幣を生むという形態で存在しているからだと述べている。生長が樹木に固有であるように、貨幣資本は貨幣を生むことが固有なものとして存在しているからだというのである。つまりmoneyed capitalというのは、その貨幣形態で資本の実体的な区別が消えてしまった一般的な形態にあり、しかもそれ自体が同じ一般的な貨幣形態としての剰余価値を生むものとしてあるから、だからそれは主体として、売ることのできる物として、存在できるのだとマルクスは指摘しているわけである。これはまさしく利子生み資本ではまだ資本は商品になったとはいえないと主張する宇野に対する反論といえるだろう。

  この部分には、かなり長い大谷氏の訳注がある。

  〈79)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「それゆえ,利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれにかかわりのない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を得たのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっており,資本は自立的な交換価値のたんなる定在として,自立化された価値として存在するのである。資本の実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われ,それゆえ貨幣資本の,すなわち資本の過程から分離された資本の,たんなる所有者に属するものとして現われる。G_W_GはここではG_Gになり,しかも,資本の形態がここでは無区別な貨幣形態であるように--じつに貨幣こそは,使用価値としての諸商品の相違が消え去っている形態であり,したがってまた,これらの商品の存在条件から成っている生産的諸資本の相違,生産的諸資本の特殊的な形態そのものも消え去っている形態である--,この資本が生み出す剰余価値も,つまり剰余貨幣も,なにがそれになるのか,またはなにがそれであるのかを問わず,貨幣額そのものの大きさで測られた特定の率において現われるのである。利子が5%〔ならば〕,資本としての100は105である。このように〔それは〕,自己を増殖する価値の,または貨幣を創造する貨幣の,まったく明白な形態〔である〕。同時に,まったく無思想な形態〔である〕。不可解な,神秘化された形態〔である〕。資本の展開では,われわれはG_W_Gから出発したが,G_G'はこのG_W_Gの結果でしかなかった。いまやわれわれは,G_G'を主体として見いだす。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣というこの純粋な形態にある資本に固有なことなのである。われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。」(MEGA II/34,S.1464.)〉 (336-337頁)

  これは一つのパラグラフ全体をそのまま抜粋したものである。これを読むとマルクスは、今回のパラグラフを、この61-63草稿のパラグラフをかなり圧縮してではあるが、そこから纏めたものであることがよく分かる。だからまたこの61-63草稿の一文は、今回のパラグラフを理解する上で重要な意味を持っているといえるだろう。

  ここでマルクスは方法論的に興味深いことを次のように述べている。

  〈われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。〉

  つまり資本関係の物象化・外面化というのは、われわれが貨幣市場で見いだす直接的な現象なのであり、われわれにとって奇妙なものとして見えたものなのである。今ではその奇妙なものとして見えたものが、実は何なのかが説明され、しかもそれが何故にそうした奇妙な姿をもってわれわれに見えているかも説明されたと言うわけである。この部分は『資本論』の草稿では採用されていないが、マルクスの方法を理解する上で重要な部分といえる。】


【9】

 〈90)利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなる,というようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,または再生産過程のなかにありさえすれば(それが,産業利潤とは別に,所有者としての機能資本家のために利子をもたらすかぎりでは),それが寝ていようと起きていようと,家にいようと旅をしていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。こうして,98)利子生み貨幣資本では{そしてすべて資本はその価値表現から見れば貨幣資本であり,言い換えれば,いまでは貨幣資本の表現として意義をもつ},貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されているのである。

①〔訂正〕「1000」--草稿では「1100」と書かれている。
②〔注解〕「いまでは胸に恋を抱いている」--ゲーテの『ファウスト悲劇第1部』,「ライプツィヒのアウエルバハ酒場」での一節〔池内紀訳『ファウスト第1部』,集英社,1999年,99-100ページ〕の言い換え。

  90)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなるというようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,--または生産過程のなかにありさえすれば(すなわち,それが,利潤とは別に,産業家のために利子をもたらすかぎりでは)--,それが寝ていようと起きていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。」(MEGA II/3.4,S,1521-1522.)
  98)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み貨幣資本では,貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されている。」(MEGA II/34S.1522.)〉  (338-339頁)

 〈利子生み資本では、資本の運動がG_G'という形で短いものに宿約されています。媒介過程は省略されています。だから例えば1000という資本は、それ自体としては1000ですが、ある期間のうちに1100に転化する一つの物として、固定されています。それはちょうど、葡萄酒を穴蔵に入れておけば、ある期間ののちにはその使用価値もよくなる、というようなものです。資本はいまでは物ですが、しかし、物として資本なのです。貨幣はいまでは胸に恋を抱いています。貨幣が貸し付けられさえすれば、または再生産過程のなかにありさえすれば、つまりそれが産業利潤とは別に、所有者としての機能資本家のために利子をもたらす限りでは、それが寝ていようと起きていようと、家にいようと旅をしていようと、夜であろうと昼であろうと、それには利子が生えるのです。こうして、利子生み貨幣資本では(そしてすべての資本はその価値表現から見れば貨幣資本であり、言い換えれば、いまでは貨幣資本の表現として意義を持ちます)、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されているのです。〉

 【ここでは利子生み資本では資本そのものが物になり、しかも一定期間には子を生む物になっているという資本物神の究極の姿が述べられている。だからこれは貨幣蓄蔵者の願望が実現しているのだというのである。すべての貨幣額が資本として意識され、よってある期間が経てば利子を生む物として意識される。だから自分の資本で生産する産業家は、彼の得る利潤とは別に、所有資本家としての彼のために利子をも得るわけである。こうした現実こそ、あらゆる貨幣は資本として利子を得るものだ、という意識が一般化していることを示しているわけである。それをマルクスは貨幣はいまでは胸に恋を抱いているとロマンチックに述べている。

  この部分の大谷氏の訳注を見てみよう。
 
  〈90)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなるというようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,--または生産過程のなかにありさえすれば(すなわち,それが,利潤とは別に,産業家のために利子をもたらすかぎりでは)--,それが寝ていようと起きていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。」(MEGAII/3.4,S,1521-1522.)〉 (338頁)

  これは61-63草稿の一つのパラグラフ全体を抜粋したものであるが、マルクスはここからほぼそのまま抜き書きして『資本論』の草稿としたことが分かる。ここでは『資本論』の草稿として採用する上で、省略された部分を書き出してみると次のようになる。

  〈だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。〉

  この一文も宇野を批判する上では重要であろう。それ以外では、部分的にマルクスは書き直しているが、それほど問題とする必要はないように思える。

  次の訳注。

  〈98)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み貨幣資本では,貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されている。」(MEGAII/34S.1522.)〉 (339頁)

  これは短いが一つの独立したパラグラフとして書かれている。その前後のパラグラフとも直接的な関連はなさそうにみえる。】


  (次回に続く。)

2019年12月23日 (月)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-2)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【3】

 G_G'。--ここに見られるのは,資本の本源的な出発点である貨幣であり,また,両極G_G'に短縮された定式G_W_G',より多くの貨幣をつくりだす貨幣である(つまり,G_G+ΔG)。それは,一つの無意味な要約に収縮させられた,資本の本源的かつ一般的な定式である(短縮された定式)。29)それは,完成した資本,生産過程と流通過程との統一,したがって一定の期間に一定の剰余価値を生むものである。利子生み資本の形態では,これが直接に,生産過程および流通過程の媒介なしに現われている。商人資本では,利潤は交換exchange〕から出てくる{だからまた,収奪利潤}ように見え,したがっていずれにせよ,からではなくて社会的な関係から出てくるように見える35)資本および利子では,資本が,利子の,自分自身の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。37)物(貨幣,商品,価値)がいまでは物として資本であり,また資本はたんなる物として現われ,生産過程および流通過[462]程の総結果が,物に内在する属性として現われる。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。それゆえ,43)利子生み資本では,この自動的なautomatisch物神,自分自身を増殖する価値,貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物の(貨幣の)それ自身にたいする関係として完成されているのである。

  ①〔注解〕「収奪利潤〔profit upon expropriation〕」--前パラグラフへの注解③を見よ。

  29)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「これこそは,完成した資本--これによれば資本は生産過程と流通過程との統一〔である〕,したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすものである。利子生み資本の形態では,この規定が,生産過程および流通過程の媒介なしに,残っているだけである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)
  35)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。一「とにかく,資本および利子では,資本が,利子の,自分の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として完成されている,ということだけは明らかである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)
  37)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「だが,いずれにせよこの形態は,それ自体として見るならば(じっさいには,貨幣は周期的に,労働を搾取し,剰余価値を生む手段として譲渡されるのである),物がいまでは物として現われ,また資本がたんなる物として現われ,資本主義的生産過程および流通過程の総結果が,物に内在する属性として現われる,という形態である。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。」(MEGA II/3.4,S.1455.)
  43)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,この自動的な物神,自分自身を価値増殖する価値,貨幣をもたらす貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物(貨幣,商品)のそれ自身にたいする関係として完成されているのである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)〉  (332-334頁)

 〈G-G'。--ここに見られるのは、資本の本源的な出発点である貨幣であり、また、資本の定式G-W…P…W'-G'を、その両極G-G'に短縮したものです。つまりこれは直接的にはより多くの貨幣をつくりだす貨幣を意味しています。つまりG+ΔG。それは一つの無意味な要約に収縮されたものですが、資本の本源的かつ一般的な定式なのです(短縮された定式)。それは、むしろ完成された資本、つまり生産過程と流通過程とが統一されたもの、したがって資本の循環がわれわれに語ったように、一定の期間に一定の剰余価値を生むということをあらわしています。利子生み資本の形態では、これが直接に、生産過程および流通過程の媒介なしに現れているのです。商人資本では、利潤は交換から出てくる(だから収奪利潤)ように見え、したがっていずれにせよ、物からではなく社会的な関係から出てくるように見えます。資本および利子では、資本そのものが、利子の、自分自身の増加の、神秘的かつ自己創造的な源泉として現れているのです。物(貨幣、商品、価値)がいまでは物として、そのまま資本です。資本はたんなる物として現れ、生産過程および流通過程の総結果が、物に内在する属性として現れています。そして、貨幣を貨幣として支出しようとするか、それとも資本として賃貸ししようとするかは、貨幣の所持者、すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいです。それゆえ、利子生み資本では、この自動的な物神、自分自身を増殖する価値、貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのです。この形態ではもはやその(つまり利子=剰余価値の)発生の痕跡を少しも帯びてはいないのです。社会的関係が、物の(貨幣の)それ自身にかんする関係として完成されているのです。〉
              
 【ここでは、利子生み資本はG-G'の定式が示すように、Gが直接ΔGを生むという形で、つまり直接自己を増殖する貨幣(価値)として示されている。剰余価値ΔGが創造される実際の媒介過程(資本の生産過程と流通過程)が捨象された直接的なものとして現れている。物としての資本が価値(貨幣=資本=物)を生むという、つまり物が物を生むという物神崇拝が完成されているわけである。

   大谷氏が訳注で紹介している61-63草稿の箇所について見ておくことにしよう。

  〈29)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「これこそは,完成した資本--これによれば資本は生産過程と流通過程との統一〔である〕,したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすものである。利子生み資本の形態では,この規定が,生産過程および流通過程の媒介なしに,残っているだけである。」(MEGAII/3.4,S.1454.)〉 (332頁)

  この一文は、利子生み資本では無媒介に自己を増殖する価値として現れていることを、商人資本と比較しながら論じた文章のなかの一文である。だからその前と後のパラグラフも含めて抜粋しておこう。(大谷氏の引用個所は【  】で示す。)

  資本が流通過程で現われるかぎりでは、ということは普通の見方にたいしては特にただこの操作だけを任された資本種類としての商人資本において現われるのであるが、そのかぎりでは利潤は一般的な詐取という漠然とした観念をいくらかは伴っている。もっと詳しく言えば、商人は産業資本家から、あるいはまた消費者からも、詐取するのであって、ちょうど産業資本家が労働者から詐取したり生産者たちどうしが互いに詐取し合ったりするようなものだ、というわけである。いずれにせよ、利潤はこの場合には交換から説明される。つまり、社会的関係からであって、物からではない。
  これに反して、利子生み資本では呪物は完成されている。【これこそは、できあがった資本--したがって生産過程と流通過程との統一--であり、したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすのである。利子生み資本という形態には、ただこの規定が、生産過程および流通過程という媒介なしに、残っているだけである。】資本と利潤では、まだその過去への回想がある。といっても、利潤と剰余価値との相違によって、すべての資本の一様な利潤--一般的利潤率--によって、資本はすでに非常に暗くされ、暗い物になり神秘になるのではあるが。
  利子生み資本ではこの自動的な呪物、自分自身を価値増殖する価値、貨幣をつくる貨幣は完成されていて、それはもはやその発生の痕跡をとどめてはいない。社会的な関係は、物(貨幣、商品)のそれ自身にたいする関係として完成されている。〉 (草稿集⑦406-407頁)

 次の訳注。

  〈35)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「とにかく,資本および利子では,資本が,利子の,自分の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として完成されている,ということだけは明らかである。」(MEGA II/3.4、S.1454.)〉 (333頁)

  この一文は先に紹介した草稿集⑦からの抜粋に直接続くパラグラフに含まれている。そのパラグラフ全体を紹介しよう。(【  】は大谷氏が抜粋した部分。)

  〈利子およびそれの利潤にたいする関係についてのこれ以上の研究は、ここに属すべきものではない。利潤がどんな割合で産業利潤と利子とに分かれるかという研究も同様である。【とにかく、資本と利子では資本が利子の、自分の増殖の、神秘的で自己創造的な源泉として完成されている、ということだけは明らかである。】だから、この形態では資本は観念にとっても特別に存在するのである。それは特にすぐれた資本である。〉  (草稿集⑦407頁)

 次の訳注。

  〈37)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「だが,いずれにせよこの形態は,それ自体として見るならば(じっさいには,貨幣は周期的に,労働を搾取し,剰余価値を生む手段として譲渡されるのである),物がいまでは物として現われ,また資本がたんなる物として現われ,資本主義的生産過程および流通過程の総結果が,物に内在する属性として現われる,という形態である。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。」(MEGA II/3.4,S.1455.)〉  (333頁)

  これについてはそれに続くパラグラフを紹介した方がよいかもしれない。

  〈ここには元本としての資本が果実〔fructus〕としての自分自身にたいしてもつ関係があり、そして資本の生む利潤は資本自身の価値で計られるのであって、しかもその価値はこの過程によって失われないのである。(資本の本性にふさわしいこととして。) それゆえ、表面的な批判が、ちょうどそれが商品の存在を欲していながら貨幣に挑戦するのとまったく同様に、今やその改革者的な知恵をもって利子生み資本に立ち向かい、現実の資本主義的生産には手を触れることなしにただその諸結果の一つだけを攻撃するのはなぜなのか、ということは明らかである。このような、資本主義的生産の立場からの利子生み資本にたいする攻撃は、今日では「社会主義」として膨れ上がっているのであるが、それはさらに資本そのものの発展契機としてたとえば一七世紀にも見いだされるのであって、そのとき産業資本家は、まず第一に、当時はまだ自分よりも優勢だった古風な高利貸に対抗して自分を主張しなければならなかったのである。
  資本の、利子生み資本としての完全な物化転倒倒錯状態--といってもそこにはただ資本主義的生産の内的な性質、その倒錯状態が最も明瞭な形態で現われているだけなのだが--、それは「複利」を生むものとしての資本であって、そこでは資本は一個のモロク神として現われるのであって、このモロク神は、全世界を自分のための当然の犠牲として要求するとはいえ、奇異な運命〔fatum〕のために、彼の本性そのものから生ずる彼の正当な要求がけっして充たされることなく絶えず妨害されるのを見るのである。〉  (草稿集⑦408-409頁)

 次の訳注。

  〈43)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,この自動的な物神,自分自身を価値増殖する価値,貨幣をもたらす貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物(貨幣,商品)のそれ自身にたいする関係として完成されているのである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)〉  (333頁)

  この一文については、29)に関連して紹介したもの(草稿集⑦406-407頁)の中に含まれていた。】


【4】

 〈49)貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は可能的に〔δυνάμει〕,このような自己を増殖する価値として存在するのであり,そのようなものとして貸し付けられる(これがこの独特な商品にとっての販売の形式なのである)。57)価値を創造するということ,利子を生むということが貨幣の属性であるのは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を売るのである。そしてさらにそれ以上である。すでに見たように,現実に機能する資本そのものが,機能資本としてではなく,資本それ自体として(moneyed capita1として)利子を生むのだ,というように現われるのである。

  49)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられる。〔それは〕商品,だがまさにこの属性によって商品としての商品から区別され,したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔なのである〕。」(MEGA II/3.4,S.1457.)
  57)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「価値を創造するということ,利子を生むということがそれら〔貨幣または商品〕の内在的な属性であることは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を産業資本家に売るのである。」(MEGA II/3.4,S.1459.)〉  (334-335頁)

 〈貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただ、この転化の無内容な形態だけが現れています。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造するということになります。貨幣は可能的に、このように自己を増殖する価値として存在するのであり、そのようなものとして貸し付けられるのです。これがこの独特な商品にとっての販売の形式なのです。価値を創造するということ、利子を生むということが貨幣の属性であるのは、梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じです。そして、このような利子を生む物として、貨幣の貸し手は自分の貨幣を売るのです。そしてさらにそれ以上です。すでに見たように、現実に機能する資本そのものが、機能資本としてではなく、資本それ自体として、つまりmoneyed capitalとして、利子を生むのだ、というように現れるのです。〉

 【ここでも利子生み資本の概念そのものが資本物神の完成されたものだという説明がなされている。つまり貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられるのだが、それによって利子を生むということが貨幣の属性になり、だから現実に機能する資本そのものが、貸し付けられた資本でなくても、機能資本としてではなく、moneyed capitalとして利子を生むものとして現れてくるというわけである。

 ここでも大谷氏の訳注を見ておこう。

  〈49)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられる。〔それは〕商品,だがまさにこの属性によって商品としての商品から区別され,したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔なのである〕。」(MEGA II/3.4,S.1457.)〉 (334頁)

  これに関しては、この引用文が含まれるパラグラフ全体を紹介しておこう(大谷氏の引用箇所は【  】で括ってある)。

  〈資本の現実の生産過程における貨幣のどの場所変換も、貨幣の労働への転化であれ、完成商品の貨幣への転化(生産行為の結び)であれ、貨幣の商品への再転化(生産過程の更新、再生産の再開)であれ、再生産の一契機を表わしている。貨幣の場所変換は、貨幣が資本として貸される場合には、つまり資本に転化させられるのではなくて資本として流通にはいる場合には、一方の手から他方の手へ同じ貨幣の引き渡し以外のなにものをも表わしてはいない。所有権は引き続き貸し主の手にあるが、占有は産業資本家の手に移っている。しかし、貸し手にとっては、貨幣の資本への転化は、彼がそれを貨幣として支出せずに資本として支出する瞬間から、すなわちそれを産業資本家の手に渡す瞬間から、始まるのである。(彼がそれを産業家にではなく浪費家に貸しても、あるいはまた家賃を支払うことができない労働者に貸しても、それが彼にとって資本であることに変わりはない。質屋の歴史のすべて。)確かに、他方の人はそれを資本に転化させる。しかし、それは、貸し手と借り手とのあいだで行なわれる操作とは別のところで行なわれる操作である。貸し手と借り手とのあいだの操作ではこの媒介は消え去っており、目には見えず、直接にそのなかに含まれてはいない。【貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただその無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、すなわちそれ自身に含まれているよりも大きな交換価値を創造するという使用価値となる。貨幣は自分を価値増殖する価値として貸される。商品〔として〕、だが、まさにこの属性によって商品としての商品から区別され、したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔として〕、貸される。】〉  (草稿集⑦410-411頁)

  次の訳注

  〈57)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「価値を創造するということ,利子を生むということがそれら〔貨幣または商品〕の内在的な属性であることは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を産業資本家に売るのである。」〈MEGAII/3.4S.1459、)〉  (334頁)

  これはかなり長いパラグラフの途中の文章を抜粋したものである。だからそのパラグラフ全体を抜き書きしておこう(【  】は大谷氏の抜粋部分)。

  〈利潤とは区別されたものとしての利子は--単なる資本所有の価値を表わしている。すなわち、貨幣(価値額、商品、どんな形態にあってもかまわない)それ自体の所有を資本の所有となし、したがって商品または貨幣それ自体をば自分を価値増殖する価値となしている。労働条件が資本であるのは、もちろん、ただそれらが労働者にたいして彼の非所有として、したがってまた他人の所有として機能するかぎりでのことである。しかし、それらがそのようなものとして機能するのは、ただ労働にたいする対立においてのみである。労働にたいするこれらの条件の対立的な定在がこれらの条件の所有者を資本家となし、そして彼の所有するこれらの条件を資本となすのである。ところが、貨幣資本家Aの手のなかでは、資本は、それを資本となすところのこのような対立的な性格をもってはいないのであり、したがってまた貨幣所有を資本所有として現われさせはしないのである。貨幣または商品がそれによって資本となるところの現実の形態規定は消え去っている。貨幣〔資本家〕Aはけっして労働者に相対しているのではなく、ただ別の一資本家Bに相対しているだけである。AがBに売るものは、実際には貨幣の「使用」である。すなわち、貨幣が生産的資本に転化させられれば生みだすであろう諸作用である。だが、使用は、実際には、彼が直接に売るものではない。私が商品を売るならば、私は一定の使用価値を売るのである。私が商品で貨幣を買うならば、私は貨幣が商品の転化形態としてもっている機能的使用価値を買うのである。私は商品の使用価値をその交換価値とともに売るのでもなければ、貨幣の特殊な使用価値を貨幣そのものとともに買うのでもない。だが、貨幣としては貨幣は--それが貨幣の貸し主の手のなかでは行なわない資本としての転化および機能よりまえには--、それが商品(貨幣の素材的実体たる金銀)としてもっているかまたは商品の転化形態たる貨幣としてもっている使用価値よりほかには、どんな使用価値ももってはいない。実際、貨幣の貸し手が産業資本家に売るもの--この取引で起こることは、ただ、前者が後者に特定の期間を限って貨幣の所有を引き渡すということだけである。彼は一定期間その所有権を手放し、それとともに産業資本家は一定期間の所有を買ったのである。それだから、彼の貨幣は、それが手放されるまえに、資本として現われるのであり、貨幣または商品の単なる所有が--資本主義的生産過程から分離されて--資本として現われるのである。それが譲渡されてからはじめて資本として実証されるということは、少しも事柄を変えないのであって、ちょうど、綿花が紡績業者に譲渡されてからはじめて綿花の使用価値が実証されるということが綿花の使用価値を変えないのと同じであり、あるいはまた、肉の使用価値は肉が肉屋の店から消費者のテーブルの上に移ってからはじめて実証されるのと同じである。それゆえ、貨幣は、それが消費のために支出されないときに、商品は、それが再び所有者の消費に役だつのではないときに、それらの所有者を資本家となすのであり、それ自体として--資本主義的生産過程から切り離されて、また、それらが「生産的」資本に転化する前に--資本なのである。すなわち、それ自身を価値増殖し、維持し、増大させる価値なのである。【価値を創造すること、利子を生むことがそれらの内在的属性であることは、梨の実を結ぶことが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして、このような利子を生む物として、貨幣の貸し手は彼の貨幣を産業資本家に売るのである。】それが自分を維持するから、それが自分を維持する価値だから、産業資本家は任意に契約された期間ののちにはそれを返すことができるのである。それが年々一定の剰余価値、利子を創造するので、またはむしろどの期間にもそれには価値が生えるので、産業資本家もこの剰余価値を年々またはその他契約によって定められた各期間に貸し主に支払うことができるのである。貨幣は資本としては賃労働とまったく同様に毎日剰余価値を生む。利子はただ利潤のうちの特別な名称のもとに固定された一部分にすぎないのであるが、この利子が、ここでは、生産過程から切り離された資本そのものに、したがって資本の単なる所有に、貨幣および商品の所有に[起因するもの]として現われるのであり、労働との対立を与えるので、このような所有に資本主義的所有の性格を与えるところの諸関係から切り離されて単なる資本所有に、したがって資本に固有な、独特な剰余価値創造物に[起因するもの]として現われるのである。他方、産業利潤は、逆に、借り手が彼の生産的な資本充用によって(または別の言い表わし方では、彼の資本家としての労働によって--つまり資本家としての機能がここでは労働だとされ、じつに賃労働とさえも同一視されるのであるが、それというのも、現実に生産過程で機能する産業資本家は、実際に、所有の機能から切り離されて生産過程の外にくっつけられている怠惰で無為な貨幣の貸し手にたいして活動的な生産能因として現われ労働者として現われるからである)、すなわち労働者たちを搾取することによって、借入資本を用いて手に入れる単なる付加分として現われるのである。〉  (草稿集⑦414-416頁)】


【5】

 〈65)次のこともねじ曲げられる。--利子は利潤の一部,すなわち機能資本が労働者から搾り取る剰余価値の,一部でしかないのに,いまでは反対に,利子が資本の本来の果実,本源的な果実として現われ,利潤はいまでは企業利得という形態に転化して,たんに生産過程および流通過程でつけ加わるだけの附属品,付加物として現われる。72)ここでは資本の物神姿態と資本物神の観念とが完成している。73)われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。利子を生む姿態は,資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿態である。自分自身の価値を増殖するという,貨幣の,商品の能力--最もまばゆい形態での資本神秘化。|

  65)「次のこともねじ曲げられる。〔Es verdreht sich auch dies:〕」--岡崎訳では「これもまたねじ曲げられる」,長谷部訳では「このこともねじ歪められる」とされているが,diesはこれに続く部分を指すものと考えられる。
  72)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「この形態では,いっさいの媒介が消え去っており,資本の物神姿態は,資本物神の観念と同様に,完成している。」(MEGA II/3.4,S.1460.)
  73)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。」(MEGA II/3.4,S.1460.)〉 (335-336頁)

 〈次のこともねじ曲げられます。利子は利潤の一部分、すなわち機能資本が労働者から搾り取る剰余価値の、一部分でしかないのに、いまでは反対に、利子が資本の本来の果実、本源的な果実として現われます。他方で、利潤はいまでは企業利得という形態に転化して、たんに生産過程および流通過程でつけ加わるだけの付属品、付加物として現われるのです。ここでは資本の物神姿態と資本物神の観念とが完成しています。私たちがG-G'で見るのは、資本の無概念的な形態、最高の展相における、生産諸関係の転倒と物象化です。利子を生む姿態は、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿態です。自分自身の価値を増殖するという、貨幣の、商品の能力--もっともまばゆい形態での資本の神秘化です。〉

 【利子においては、それが利潤の一部、機能資本が労働者から搾り取った剰余価値の一部分だということがわからなくなるだけではなく、逆に、利子こそが資本の本来の果実であり、本源的なものであるかに現われてくる。そして利潤は企業利得として単なる付属品や付加物として現われてくる。こうした資本諸関係の転倒と物象化が明らかにされている。自分自身を増殖するのが、貨幣や商品自身の能力として現われるわけである。

  以下、大谷氏の訳注について。

  〈65)「次のこともねじ曲げられる。〔Es verdreht sich auch dies:〕」--岡崎訳では「これもまたねじ曲げられる」,長谷部訳では「このこともねじ歪められる」とされているが,diesはこれに続く部分を指すものと考えられる。〉 (335頁)

  因みに、新日本出版社の新書版や上製版では次のようになっている。

 〈次のこともまた、歪曲されている。……〉 (新書版・第10分冊665頁、上製版・第3巻a665頁)

 つまりこの限りでは、大谷氏の説に沿った翻訳になっているわけである。次の訳注。

  〈72)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「この形態では,いっさいの媒介が消え去っており,資本の物神姿態は,資本物神の観念と同様に,完成している。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (335頁)

  この一文は、すでに紹介したものの一部分である。そこでは私はマルクスが法律的所有と経済的所有とを区別して論じていることに注目して、興味深い指摘として紹介したのであるが、今回の大谷氏の抜粋文はその直前でマルクスが述べている部分である。すでに紹介したものであるが、もう一度、紹介しておこう(【  】は大谷氏が抜粋している部分)。

  〈こうして、利潤ではなくて、利子が、資本そのものから、したがって単なる資本所有から流出する資本の価値創造物として現われ、したがって、資本によって独自に創造される収入として現われる。それだから、それは俗流経済学者たちによってもこの形態で把握されるのである。【この形態では、いっさいの媒介は消え去っており、そして資本の呪物姿態資本呪物の観念とともに完成している。】この姿態が必然的に生まれるのは、資本の法律的所有がその経済的所有から切り離されて、利潤の一部分の取得が、利子という名のもとに、生産過程からまったく切り離された資本それ自体または資本所有者のもとに流れこむということによってである。〉  (草稿集⑦416-417頁)

  次の訳注。

  〈73)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (335頁)

  この一文も実は、先に紹介したパラグラフに続くパラグラフの中の一文なのである。上記の抜粋文に続くパラグラフを紹介しておこう(【  】は大谷氏の抜粋部分)。

  〈資本を価値の、価値創造の、独立な源泉として説明しようとする俗流経済学者にとっては、当然、この形態は、掘出し物であって、この形態では利潤の源泉はもはや判別できなくなっていて、資本主義的な過程の結果が--この過程から切り離されて--独立な定在を得ている。G-W-G'にはまだ媒介が含まれている。【G-G'において、われわれは、資本の無概念的な形態、生産関係の最高度の転倒と物化とをもつのである。】〉  (草稿集⑦417頁)

  大谷氏と翻訳がやや違っている。大谷氏が〈最高の展相〔Potenz〕における〉と訳している部分は、草稿集ではただ〈最高度の〉と訳されているだけである。いずれにせよG-G'という定式は、利潤の源泉はもはや何の痕跡もみられず、資本の生産関係の転倒と物象化が最高の段階にまで仕上げられているということであろう。】

【6】

 |313上|78)資本を価値,価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては,もちろんこの形態はお誂え向きであって,この形態では,利潤の源泉はもはや認識できなくなっており,資本主義的生産過程の結果が--過程そのものからは切り離されて--自立的な定在を得ているのである。

 78)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「資本を価値,価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては,もちろんこの形態はお読え向きであって,この形態では,利潤の源泉はもはや認識できなくなっており,資本主義的過程の結果が--過程からは切り離されて--自立的な定在を得ているのである。」(MEGAII/3,4,S.1460.)〉 (336頁)

 〈資本を価値、価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては、もちろんこの形態はお誂え向きです。というのは、この形態では、利潤の源泉はもはや認識できなくなっており、資本主義的生産過程の結果が、過程そのものから切り離されて、自立的な定在を得ているからです。〉

 【こうした資本関係の転倒と物象化は、利潤を資本全体から説明しようとする俗流経済学にとっては好都合である。利潤が剰余労働の産物であることはまったく見えなくなっており、利子は物として資本から生え出てくるように見えるのだから、利潤は資本全体から、だから不変資本部分(生産手段)からも生み出されるのだという彼らの主張を裏付けるように見えるからである。

  この部分の大谷氏の訳注78)については、すでに紹介した(訳注73)のところで)。こうして見ると、マルクスがこの草稿を書く上で、大谷氏が指摘するように、以前書いた61-63草稿を横において、そのあちこちからほぼそのまま抜き書きして切り貼りするような形で書き上げていることがよく分かるのである。】

(次回に続く。)

 

2019年12月13日 (金)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-1)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読


    今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [461]|312上|4) 利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化。

 ①〔訂正〕「4)」--草稿では「5)」と書かれている。〉 (329頁)

  【この表題はマルクス自身によるものである。マルクスは番号を打ち間違っている。大谷氏は、今回の草稿の特徴を次のように述べている。

  〈マルクスが本稿部分を執筆するときに『1861-1863年草稿』によったその依存の程度はきわめて大きく,しかもそれは,第5章のこれ以前の三つの節に比べてはるかに高い。大きく利用されたのは,第1に,『1861-1863年草稿』のノートXVのなかの「収入とその諸源泉」(MEGA編集者が与えたこの表題が不適切であることには本書本巻の74-75ページで触れた)の部分である。マルクスは,ノートで50ページを超えるこの部分の全体を見返しながら本章収録部分を執筆したのであり,とくに,第2パラグラフは,「収入とその諸源泉」のなかに散在する7箇所の記述を,大きく手を加えることをしないままで一つに集めたものとなっている。第2に,本章収録部分の約3分の1を占める,プライスとミュラーとについての記述は,『1861-1863年草稿』のノートXVIIIに,「資本主義的生産における貨幣の還流運動」を中断して書かれた「複利」に関するまとまった記述によっている。そのほか,この二つの部分以外に『1861-1863年草稿』から取られたものが若干あり,この草稿ではじめて書き下ろされたと見なすことができる箇所はわずかである。〉 (326頁)

  だから大谷氏は、61-63草稿の関連する該当個所を訳者注のなかで紹介している。それらについては、われわれもやはり61-63草稿そのものに帰って、それを確認した上で、それらの抜粋部分と関連するものも含めて紹介し、検討していくことにしたい。だからその必要からも、これまでは大谷氏の訳者注については、ほぼエンゲルスの編集上の手入れを指摘するものであったために、煩雑を避けるために、すべてテキスト上には反映させてこなかったのであるが、今回は、エンゲルスの編集上の手入れを指摘するものは同じ扱いにするが、それ以外のものについては、特に大谷氏が61-63草稿の参考箇所を示しているものについては、テキスト上にもそれを残すことにした。15)とか20)のように片側括弧付きの数字がそれである。エンゲルスの編集の内容を指摘するものについては引き続き省略したので、片側括弧付きの数字が連続したものでないのはそのためである。ただ18)はエンゲルスの編集の手入れを示したものであるが、この場合は、エンゲルスの訂正は正しいものと思われる(マルクスが間違っている)ので、反映させた。
  そうした事情もあって、61-63草稿等からの抜粋が長々と続くことになって、大変読みにくくなってしまった。これは私自身のノートという性格からくるものであり、ご堪忍頂きたい。】


【2】

 〈①3)利子生み資本において,資本関係はその最も外面的で最も物神的な形態に到達する。ここでは,われわれは,G_G',より多くの貨幣を生む貨幣,自分自身を増殖する価値を,これらの極を媒介する過程なしにもつのである。商人資本,G_W_G'では,少なくとも資本主義的運動の一般的な形態がある。といっても,この形態は純粋に流通部面にとどまっており,したがって利潤も収奪利潤〔Profit upon expropriation〕として現われるのであるが。いずれにせよ,この形態は一つの過程を,反対の段階の統一を,だからまた,商品の買いと売りという二つの反対の段階に分かれる運動を,表わしている。15)このことは,G_G',すなわち利子生み資本の形態では消えてしまっている。たとえば,1000ポンド・スターリングが貨幣資本家〔monied Capitalist〕によって貸し出され,利子率が5%だとすれば,1000ポンド・スターリングという価値は,資本としては18)1050ポンド・スターリング(=C+C/i,ここでCは資本であり,iは利子率である)である。20)1000ポンド・スターリングの価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な量ではないのである。それは,量関係であり,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。そして,すでに見たように,すべての生産的資本家にとっては,彼らが自分の資本で機能しようと借りた資本で機能しようと,資本そのものが,このような直接に自分を増殖する価値として,24)現れるのである。

  ①〔注解〕ここから本書339ページ3行目までは,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1451.1-1464.34)から取られている。
  ②〔異文〕「……における媒介なしに」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」--〔MEGA II/4.2の〕320ページ5行への注解を見よ。〔この注解は次のとおり。--「「譲渡利潤〔Profit upon alienation〕」--マルクスはこの表現をジェイムズ・ステユーアトから取った。『1861-1863年草稿』でマルクスは「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」という概念も使った。--MEGA II/3.2,S.334.12-13 und 345.28を見よ。〕

  3)〔大谷氏による訳者注--以下説明は省略〕この一文については『1861-1863年草稿』の次の諸記述を参照されたい。
  【資本の純粋な物神形態】「利子生み資本において--利子と利潤〔すなわち企業利得〕とへの利潤の分裂において--,資本はその最も物的な形態を,純粋な物神形態を受け取ったのであり,剰余価値の本性がまったく失われてしまったことが示されているのである。ここでは資本が--物としての資本が--,価値の自立的な源泉として現われる… …。」(MEGA II/3.4,S.1497.)
  【物神崇拝の完成】「剰余価値のこの二つの形態〔利子と産業利潤(企業利得)〕においては,資本の本性が,つまり資本の本質および資本主義的生産の性格が,完全に消し去られているだけではなく,反対物に転倒されている。しかし,諸物象の主体化,諸主体の物象化,原因と結果との転倒,宗教的な取り違え〔quid pro quo〕,資本の純粋な形態G_G'が,無意味に,いっさいの媒介なしに,表示され表現されるかぎりでは,資本の性格および姿態もまた完成されている。同様に,諸関係の骨化も,この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物象にたいする人間たちの関係として表示することも,商品の単純な神秘化と貨幣のすでにより複雑化された神秘化とにおけるのとはまったく違った仕方でつくりあげられている。化体は,物神崇拝は,完成されている。」(MEGA II/3.4,S.1494.)
  【資本関係の外面化】「非合理的なものは,地代の形態においては,資本そのものの関係がそれを表現しているようには,表明されていない,または形象化〔gestalten〕されていない。……利子生み資本についてはそうではない。ここで問題なのは,資本に疎遠な関係ではなくて,資本関係そのものであり,資本主義的生産から生じる,またこの生産に独自な,資本そのものの本質を表現する関係であり,資本が資本として現われるような資本の姿態である。利潤は,過程進行中の資本にたいする連関を,剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする連関を依然として含んでいる。利子生み資本においては,利潤におけるのとは違って,剰余価値の姿態は疎外されて異様なものになっており,直接にその単純な姿態を,したがってまたその実体とその発生原因とを認識させなくなっている。利子では,むしろ明示的に,この疎外された形態が本質的なものとして定立されており,現存するものとして表明されている。それは,剰余価値の真の本性に対立するものとして--自立化され,固定されている。利子生み資本においては,労働にたいする資本の関係は消し去られているのである。」(MEGA II/3.4,S.1489-1490.)
  【資本の絶対的な外面化の形態】「一方で,利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿態では,利潤がへてくる多くの転化,媒介が消し去られており,認識できなくなっており,したがってまた資本の本性もそうなっているとすれば,また,この姿態に最後の一筆を加えるその同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ,したがって利潤を剰余価値の一つの特殊的形態--この形態は,地代が土地に連関させられるのとまったく同様に,素材的に弁別される生産用具としての資本に連関させられる--にする,ということによって,この最後の姿態がさらにいっそう固定されるとすれば,他方では,数多くの目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿態が,さらにいっそう外面化された形態に,あるいはむしろ,絶対的な外面化の形態に到達するのは,利子生み資本において,利潤と利子との分裂において,資本の単純な姿態としての,つまり資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿態としての利子生み資本においてである。それにおいては,一方では資本の絶対的な形態,つまりG_G'が表現されている。〔つまり〕自己を増殖する価値〔である〕。他方では,純粋な商業資本ではまだ存在している中間項が,つまりG_W_G'〔の〕Wが脱落した。それは,ただ,Gの自分自身にたいする関係,Gが自分自身で測られるという関係にすぎない。それは,過程の外に--過程の前提として,しかも,それがこの過程の結果であり,ただこの過程のなかでのみ,ただこの過程によってのみ資本だという,そのような過程の前提として--明示的に取りだされ,分離された資本である。」(MEGA II/3.4,S.1487.)
  15)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「G_W_G'にはまだ媒介が含まれている。G_G'では,われわれは資本の無概念的な形態,生産関係の最高の展相における〔in der höchsten Potenz〕転倒および物象化をもつのである。」(MEGA II/3.4,S.1460.)
  18)〔E〕「1050ポンド・スターリング(=C+C/i,ここでCは資本であり,iは利子率である)」→ 「C+Cz'--このCは資本でありz'は利子率つまりここでは5%=5/100=1/20である--であって,1000+1000×1/20=1050ポンド・スターリング」
  20)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「1000ポンド・スターリングの価値のある商品の価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な数〔Zahl〕ではない。それは単純な商品ではなくて,力能を高められた〔potenzirt〕商品である。単純な量ではなくて,量関係である。それは,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。」(MEGA II/3.4,S.1476.)
  24)「現われる」--草稿では,stellt sichとなっているが,エンゲルス版でのようにstellt sich…darとあるべきところであり,darの単純な書き落としであろう。MEGA版では編集者がdarを補っている。〉 (329-332頁)

 〈利子生み資本において、資本関係はその最も外面的で物神的な形態に到達します。ここではわれわれはG_G'、つまりより多くの貨幣を生む貨幣、自分自身を増殖する価値を、これらの両極を媒介する過程なしに持つのです。商人資本のG_W_G'では、少なくとも資本主義的運動の一般的な形態があります。といっても、この形態は純粋に流通部面にとどまっており、したがって利潤も収奪利潤として現れるのですが。いずれにせよ、この形態は一つの過程を、反対の段階の統一を、だからまた、商品の買いと売りという二つの反対の段階に分かれる運動を、表しています。こうしたことはG_G'、つまり利子生み資本の形態では消えてしまっています。例えば、1000ポンド・スターリングが貨幣資本家によって貸し出され、利子率が5%だとすれば、1000ポンド・スターリングの価値は、資本としては1050ポンド・スターリングになります。つまり資本はけっして単純な量ではないのです。それは、量関係であり、剰余価値としての自分自身にたいする元本、与えられた価値という関係です。そして、すでに見たように、すべての生産的資本家にとっては、彼らが自分の資本で機能しようと借りた資本で機能しようと、資本そのものが、このような直接に自分を増殖する価値として、現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本においては、資本はそのもっとも外面的な関係に達していると指摘されている。すなわち自己増殖する価値としての資本がまったく過程を捨象した形であらわされているわけである。G_G'というのは、われわれが『資本論』第1部第4章で貨幣の資本への移行において最初に現れた資本の最も表面的で直接的な姿であった。つまり自己増殖する価値としての貨幣が、すなわち資本なのである。それがこの利子生み資本の形態において再現されているわけである。

  大谷氏はこの部分を理解するためとして、注3)において、61-63草稿からそれぞれ表題をつけて四つの抜粋を紹介している。それをわれわれも見て行くことしよう。

 〈3)この一文については『1861-1863年草稿』の次の諸記述を参照されたい。
 【資本の純粋な物神形態】「利子生み資本において--利子と利潤〔すなわち企業利得〕とへの利潤の分裂において--,資本はその最も物的な形態を,純粋な物神形態を受け取ったのであり,剰余価値の本性がまったく失われてしまったことが示されているのである。ここでは資本が--物としての資本が--,価値の自立的な源泉として現われる……。」(MEGA II/3.4,S.1497.)〉

  この大谷氏の抜粋は、抜粋された内容そのものは確かに、このパラグラフに関連しているが、しかし前後でマルクスが論じていることは必ずしも関連していない。というのはマルクスはこのあと次のように続けているからである。

  (資本は--引用者)地代における土地や労賃(一部は本来の労賃、一部は産業利潤)における労働と同じように、価値創造者として現われる。確かに、労賃や利子や地代を支払わなければならないのは、やはり商品の価格である。だが、商品の価格がそれらのものを支払うのは、商品のなかにはいる土地が地代を、商品のなかにはいる資本が利子を、商品のなかにはいる労働が労賃を、創造するからである。〔これらのものが〕これらの価値部分を創造し、これらの価値部分が、それぞれの所有者または代表者、すなわち土地所有者、資本家、労働者(賃金労働者と産業家)のもとに流れこむのである。だから、一方では諸商品の価格が労賃、地代、利子を規定し、他方では利子、地代、労賃という価格が諸商品の価格を規定するということも、この立場に立てば、理論にとって矛盾ではないのであり、または、もしそれが矛盾であっても、それは同時に現実の運動の矛盾、悪循環なのである。〉草稿集⑦474-475頁)

  ごらんの通り、マルクスは資本-利子、土地-地代、労働-労賃、という三位一体について述べており、スミスの商品の価格の構成説や分解説の根拠を説明しているのである。
  ここで注目すべきは、マルクスは労賃のなかに〈一部は本来の労賃、一部は産業利潤〉と書き、〈労働者(賃金労働者と産業家)〉と書いていることである。というのは、大谷氏が抜粋しているその直前で、マルクスは第23章とほぼ同じように機能資本家が、一方で利子が資本の社会的規定性を吸い上げるために、資本の生産過程は単なる労働過程になり、機能資本家はたんなる機能者になり、さらには賃労働者になるとし、企業利得は監督賃金になること、生産過程は資本の搾取過程ではなくなり、搾取するものも搾取されるものも労働者としては同じになると論じていたからである。
  つまりこの大谷氏が紹介している上記のマルクスの一文は、マネージャー等の監督賃金は産業利潤からなり、彼らは労働者にはなるが、その本質は産業家だと考えていることを示しているのである。しかし産業利潤という性格も、産業資本家という性格も利子によって社会的関係が吸収されてしまうために、監督賃金や産業労働者になり、剰余価値の本性そのものがまったく失われ、物としての資本が価値の自立的な源泉として現われてくるのだと述べているわけである。だから物としての資本だけではなく、物としての土地も労賃と同様に価値の源泉として現われ、三位一体の定式が生まれてくると続くわけである。

  〈【物神崇拝の完成】「剰余価値のこの二つの形態〔利子と産業利潤(企業利得)〕においては,資本の本性が,つまり資本の本質および資本主義的生産の性格が,完全に消し去られているだけではなく,反対物に転倒されている。しかし,諸物象の主体化,諸主体の物象化,原因と結果との転倒,宗教的な取り違え〔quid pro quo〕,資本の純粋な形態G_G'が,無意味に,いっさいの媒介なしに,表示され表現されるかぎりでは,資本の性格および姿態もまた完成されている。同様に,諸関係の骨化も,この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物象にたいする人間たちの関係として表示することも,商品の単純な神秘化と貨幣のすでにより複雑化された神秘化とにおけるのとはまったく違った仕方でつくりあげられている。化体は,物神崇拝は,完成されている。」(MEGA II/3.4,S.1494.)〉

  この大谷氏の抜粋は、利潤の量的な分割が、質的な分割に転回するという文脈のなかで書かれている。その一つ前のパラグラフを抜粋してみよう。

   〈それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦469頁)

  また大谷氏が抜粋している、その直後のパラグラフも紹介しておこう。

  〈こうして、利子それ自体は、まさに、社会的対立と変態とにおける労働条件の資本としての定在を、労働に対立し労働を支配する人的な諸力として表わしている。利子は、主体の活動にたいする関係における労働条件の疎外された性格を要約している。利子は、資本の所有または単なる資本所有を、他人の労働の生産物を他人の労働にたいする支配力としてわがものにするための手段として表示する。しかし、利子は資本のこの性格を、生産過程そのものの外で資本が受け取るものであってけっしてこの生産過程そのものの独自な規定の結果ではないものとして、表示する。利子は資本を、労働にたいする対立においてではなく、逆に、労働にたいする関係なしに、単なる資本家対資本家の関係として、表示する。つまり、労働そのものにたいする資本の関係には外的で無関係な規定として、表示する。資本家たちのあいだでの利潤の分配は、労働者としての労働者にとってはどうでもよいことである。だから、利子にあっては、資本の対立的な性格が自分に一つの特殊な表現を与えるところのこの利潤姿態にあっては、それは、この対立がまったく消し去られていて明瞭に捨象されているところの表現を自分に与えるのである。利子が一般に--貨幣や諸商品などのそれら自身の価値を増殖する能力とは別に、剰余価値をそれらのものから発生するものとして、それらのものの自然的果実として、表示するかぎりでは、したがって極端な形態における資本神秘化の単なる表現であるかぎりでは、--利子が一般に社会的関係としての社会的関係を表示するかぎりでは、利子が表わすものは単に資本家どうしの関係にすぎないのであって、けっして資本と労働との関係ではないのである。〉 (草稿集⑦469-470頁)

  見られるように、これらの一文はすでに第23章該当部分で見たものと合致した内容になっている。

 【資本関係の外面化】「非合理的なものは,地代の形態においては,資本そのものの関係がそれを表現しているようには,表明されていない,または形象化〔gestalten〕されていない。……利子生み資本についてはそうではない。ここで問題なのは,資本に疎遠な関係ではなくて,資本関係そのものであり,資本主義的生産から生じる,またこの生産に独自な,資本そのものの本質を表現する関係であり,資本が資本として現われるような資本の姿態である。利潤は,過程進行中の資本にたいする連関を,剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする連関を依然として含んでいる。利子生み資本においては,利潤におけるのとは違って,剰余価値の姿態は疎外されて異様なものになっており,直接にその単純な姿態を,したがってまたその実体とその発生原因とを認識させなくなっている。利子では,むしろ明示的に,この疎外された形態が本質的なものとして定立されており,現存するものとして表明されている。それは,剰余価値の真の本性に対立するものとして--自立化され,固定されている。利子生み資本においては,労働にたいする資本の関係は消し去られているのである。」(MEGAII/3.4,S.1489-1490.)

 この一文はかなり長いパラグラフの途中から抜き出されている。しかもその抜粋の仕方はややおかしいし、一部省略されている。大谷氏の引用の仕方では続き具合がよく分からなくなっている。大谷氏が引用している冒頭部分の直前の文章と大谷氏が〈……〉として省略した部分も含めて全体を紹介しておこう。大谷氏の抜粋部分は【  】で示す。

 〈地代--、および土地-地代という関係は、利子、資本-利子〔という関係〕よりもずっと不可思議な形態として現われることがありうる。しかし、【非合理的なものは、地代という形態では、資本そのものの関係がそれを表現しているようには、表明されていない。または、形成されていない。】土地そのものが生産的(使用価値に関して)であり、生きている生産力(使用価値に関して、または使用価値の産出のために)でさえあるので、場合によっては、迷信的に使用価値と交換価値とが混同され、物が生産物に含まれる労働の独自に社会的な形態と混同されることがありうる。その場合には非合理性はその原因をそれ自身のうちに見いだす。というのは、地代そのもの〔sui generis〕は資本主義的過程そのものとはなんの関係もないからである。もう一つの場合には「啓蒙された」経済学は、地代が労働にも資本にも関係がないという理由から、地代が一般に剰余価値の一形態であることを否定することができ、地代は単なる価格付加で土地所有者は土地所有の独占によってこの価格付加をすることができるのだと説明することができる。【利子生み資本はそうではない。ここで問題にされるのは、資本に無縁な関係ではなくて、資本関係そのものであり、資本主義的生産から生ずる、この生産に独自な、資本そのものの本質を表わす関係であり、資本が資本として現われるところの資本の姿である。利潤は、過程進行中の資本にたいする関係を、剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする関係を、やはりまだ含んでいる。利子生み資本においては、利潤におけるのとは違って、剰余価値の姿は疎外されて異種的になっており、直接にその単純な姿を、したがってまたその実体と発生原因とを認識させなくなっている。利子ではむしろ明瞭にこの疎外された形態が本質的なものとして定立されており、現存しており、表明されている。それは、剰余価値の真の本性に対立するものとして--独立化され、固定されている。利子生み資本では労働にたいする資本の関係は消し去られている。】〉(草稿集⑦462頁)

 このように続き具合が分かれば、大谷氏による抜粋の冒頭、マルクスが〈非合理的なもの〉と言っている意味が分かるであろう。地代には不可思議なものはあるが、資本関係のような非合理的なものとしては表明されていない、利子生み資本では、資本関係そのものによって、その非合理性が際立っているのだというわけである。

  【資本の絶対的な外面化の形態】「一方で,利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿態では,利潤がへてくる多くの転化,媒介が消し去られており,認識できなくなっており,したがってまた資本の本性もそうなっているとすれば,また,この姿態に最後の一筆を加えるその同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ,したがって利潤を剰余価値の一つの特殊的形態--この形態は,地代が土地に連関させられるのとまったく同様に,素材的に弁別される生産用具としての資本に連関させられる--にする,ということによって,この最後の姿態がさらにいっそう固定されるとすれば,他方では,数多くの目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿態が,さらにいっそう外面化された形態に,あるいはむしろ,絶対的な外面化の形態に到達するのは,利子生み資本において,利潤と利子との分裂において,資本の単純な姿態としての,つまり資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿態としての利子生み資本においてである。それにおいては,一方では資本の絶対的な形態,つまりG_G'が表現されている。〔つまり〕自己を増殖する価値〔である〕。他方では,純粋な商業資本ではまだ存在している中間項が,つまりG_W_G’〔の〕Wが脱落した。それは,ただ,Gの自分自身にたいする関係,Gが自分自身で測られるという関係にすぎない。それは,過程の外に--過程の前提として,しかも,それがこの過程の結果であり,ただこの過程のなかでのみ,ただこの過程によってのみ資本だという,そのような過程の前提として--明示的に取りだされ,分離された資本である。」(MEGAII/3.4,S.1487.)〉 (329-330頁)

  この一文は、その前で大谷氏が〈【資本関係の外面化】〉と題して抜粋していた文章も含まれる長いパラグラフの冒頭の部分である。出来うるなら、この長いパラグラフ全体(草稿集⑦459~464頁)を検討すべきだと考える。そこには当面している問題以外にも極めて興味深い指摘もある。よって長くなるが参考資料として紹介しておこう(しかしMEGAの注解等は省略する)。【  】で括った部分は大谷氏によって紹介された部分である。

  〈【利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿では、利潤が経てくるいろいろな転化や媒介が消し去られて認識できなくなっており、したがってまた資本の本性もそうなっているならば、また、この姿に最後の仕上げを与えるのと同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ、したがって利潤を剰余価値の特殊な一形態となし、この形態は、ちょうど地代が土地に関係させられるのとまったく同様に、素材的に特殊な生産手段としての資本に関係させられるということによって、この最後の姿がさらにいっそう固定されるならば、そのとき、一団の目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿は、利子生み資本において、利潤と利子との分裂において、資本の単純な姿--資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿--としての利子生み資本において、さらにいっそう外面化された形態に、またはむしろ絶対的な外面化の形態に、到達するのである。一方では、利子生み資本では資本の絶対的な形態、G-G'、自分を価値増殖する価値が表現されている。他方では、純粋な商業資本、G-W-G'ではまだ存在している中間項Wがなくなっている。それは、ただ、Gの自分自身にたいする関係であり、Gが自分自身で計られるという関係である。それは、過程の外に--過程の前提として、といってもそれはこの過程の結果であり、ただこの過程のなかでのみ、ただこの過程によってのみ、資本なのであるが--明言的に取り出され、分離された資本である。】確かに、利子生み資本がそのものとして実証されるのは、ただ、{利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって、貨幣が「浪費者」に貸される場合、すなわち消費のために貸される場合がそれであるが、この場合は〔ここでは〕無視することにする。とはいえ、同じ場合は、支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる。どちらの場合にもそれは貨幣として貸されるのであって、資本として貸されるのではないが、その所有者にとっては単なる貸すという行為によって資本となる。第二の場合、すなわち割引やさしあたりは売れない商品を担保としての貸付〔の場合には〕、それは、資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものでありうる。この転化過程の促進が--その一般的本質から見た信用におけるように--再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本である。これに反して、それがただ債務の支払に役だつだけで、再生産過程を促進することなく、おそらくはそれを不可能にするかまたは狭めるかするかぎりでは、それは単なる支払手段であり、借り手にとってはただ貨幣であるだけであって、貸し手にとっては実際に資本の過程からは独立な資本である。この場合には利子は、収奪に基づく利潤のように、資本主義的生産--剰余価値の生産--そのものからは独立な事実である。貨幣のこの二つの形態、商品を消費するための商品の購買手段としてのそれと債務の支払手段としてのそれとにあっては、利子は、収奪に基づく利潤とまったく同様に、資本主義的生産において再生産されるものだとはいえ資本主義的生産からは独立な、以前の生産様式に属する利子形態である。貨幣(または商品)が生産過程の外でも資本であることができ、資本として売られることができるということ、そして、こういうことは、貨幣が資本に転化させられないでただ貨幣として役だつにすぎないようなより古い諸形態にあっても起こりうるということは、資本主義的生産の本性にあることなのである。利子生み資本の第三の古い形態は、資本主義的生産がまだ存在していないで、利潤が利子の形で取りこまれ、資本家が単なる高利貸として現われる、ということに基づいている。これには次のことが含まれる。1、生産者はまだ独立に彼の生産手段を用いて労働しており、生産手段はまだ彼とともに労働してはいない(この生産手段に奴隷が属する場合でもそうであって、奴隷はここでは家畜と同様に一つの特殊な経済的範疇をなしてはいないか、またはせいぜい素材的な相違、すなわち口をきかない道具と感情をもち物を言う道具という相違があるだけである)ということ。2、生産手段はただ名目的にだけ彼のものであるということ、すなわち、彼は、なんらかの偶然のために、自分の商品を売ることによって生産手段を再生産することはできないということ。それだからこそ、利子生み資本のこれらの形態は、商品流通があり貨幣が流通しているすべての社会形態で見られるのであって、そこで行なわれているものが奴隷労働であるか農奴労働であるか自由な労働であるかを問わないのである。最後にあげた形態では生産者は彼の剰余労働を資本家に利子の形で支払うのであって、それだから利子は利潤を含んでいるのである。ここでは全資本主義的生産が、その利点なしに、すなわち、労働の社会的諸形態とそこから生ずる労働の生産力との発展なしに、存在する。これは、農民のもとで非常に優勢な形態であるが、農民といっても、すでに彼らの生活手段や生産用具の一部分を商品として買わなければならず、したがって彼らとは別にすでに都市工業が存在するのであり、彼らはさらに租税や地代を貨幣で支払うなどしなければならないのである。} 貸された貨幣が現実に資本に転化させられて剰余を生産しこの剰余の一部分が利子となるかぎりでのことである。とはいえ、このことは、利子生み資本には、過程からは独立に、利子と利子生みとが属性として固着している、ということを解消するものではない。それは、綿花の有用な属性を実証するためには綿花が紡がれるかどうかして利用されなければならないということが、綿花の綿花としての使用価値を解消しないのと同様である。だから、資本は、利子を創造するというその力を、ただそれが生産過程にはいることによってのみ、[示すのである]。だが、労働能力もまた、価値を創造するというその力を、ただそれが過程のなかで労働として働かされ実現されるときにのみ、実証する。このことは、労働能力それ自体が、能力として、価値創造活動であって、そのようなものとして過程によってはじめて生成するのではなく、過程にたいしてはむしろ前提されている、ということを排除しはしない。労働能力はそのものとして買われる。それを買ってもそれに労働をさせずにおくこともできる。(たとえば、劇場支配人が俳優を買うとしても、それは彼に演技をさせるためではなく、彼の演技を競争相手の劇場から奪い取るためだということがある。)労働能力を買う人が、自分が代価を支払うその属性を、価値を創造するというその属性を、利用するかどうかということは、売り手にも売られた商品にもなんの関係もないのであって、ちょうど、資本を買う人がそれを資本として利用するかどうか、つまり、価値を創造するというそれに固有な属性を過程のなかで働かせるかどうか、ということと同様である。彼が代価を支払うものは、どちらの場合にもそれ自体として、可能性から見て、買われる商品の本性から見て、一方の場合には労働能力に含まれており他方の場合には資本に含まれている剰余価値と、それ自身の価値を維持する能力とである。それだからこそ、自分の資本で仕事をする資本家も、剰余価値の一部分を、利子とみなすのである。すなわち、資本が、生産過程から独立していながら、それを生産過程に持ちこんだために、生産過程から出てくるところの剰余価値とみなすのである。地代--、および土地-地代という関係は、利子、資本-利子〔という関係〕よりもずっと不可思議な形態として現われることがありうる。しかし、【非合理的なものは、地代という形態では、資本そのものの関係がそれを表現しているようには、表明されていない。または、形成されていない。】土地そのものが生産的(使用価値に関して)であり、生きている生産力(使用価値に関して、または使用価値の産出のために)でさえあるので、場合によっては、迷信的に使用価値と交換価値とが混同され、物が生産物に含まれる労働の独自に社会的な形態と混同されることがありうる。その場合には非合理性はその原因をそれ自身のうちに見いだす。というのは、地代そのもの〔sui generis〕は資本主義的過程そのものとはなんの関係もないからである。もう一つの場合には「啓蒙された」経済学は、地代が労働にも資本にも関係がないという理由から、地代が一般に剰余価値の一形態であることを否定することができ、地代は単なる価格付加で土地所有者は土地所有の独占によってこの価格付加をすることができるのだと説明することができる。【利子生み資本はそうではない。ここで問題にされるのは、資本に無縁な関係ではなくて、資本関係そのものであり、資本主義的生産から生ずる、この生産に独自な、資本そのものの本質を表わす関係であり、資本が資本として現われるところの資本の姿である。利潤は、過程進行中の資本にたいする関係を、剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする関係を、やはりまだ含んでいる。利子生み資本においては、利潤におけるのとは違って、剰余価値の姿は疎外されて異種的になっており、直接にその単純な姿を、したがってまたその実体と発生原因とを認識させなくなっている。利子ではむしろ明瞭にこの疎外された形態が本質的なものとして定立されており、現存しており、表明されている。それは、剰余価値の真の本性に対立するものとして--独立化され、固定されている。利子生み資本では労働にたいする資本の関係は消し去られている。実際には利子は利潤を前提しており、利潤の一部分でしかない。そして、どのように剰余価値が利子と利潤とのあいだに、種類の違う資本家たちのあいだに、分かれるかということは、実際賃金労働者にとってはまったくどうでもよいのである。利子は明瞭に資本の所産として、分離されて、独立に、資本主義的過程そのものの外に、定立されている。それは資本としての資本に帰属する。それは生産過程にはいって行き、それゆえにそこから出てくる。資本は利子をはらんでいる。資本は利子を生産過程から取り出すのではなくて、それをそのなかに持ちこむのである。利潤のうち利子を越える超過分、資本がはじめて生産過程から受け取り、機能資本としてはじめて生産する剰余価値量は、それだから、即自的資本対自的資本資本としての資本に帰属する価値創造物としての利子とは対比的に、産業利潤(企業者利潤、生産過程が強調されるか流通過程が強調されるかに従って産業的または商業的)としての特殊な姿を受け取るのである。こうして、剰余価値の源泉をいくらかは思い出させる剰余価値の最後の形態もまた、単に疎外された形態においてのみではなく、それとは正反対に考えられた形態において区別され把握されるのであり、したがってまた、ついには資本と剰余価値との本性も、資本主義的生産一般の本性も、まったく神秘化されてしまうのである。利子に対立する産業利潤は、過程外の資本に対立する過程内の資本を、所有としての資本に対立する過程としての資本を、表わしており、したがってまた、資本の単なる人格化としての、資本の単なる所有者としての資本家に対立する機能資本家としての、稼動中の資本の代表者としての資本家を表わしている。こうして、彼は、資本家としての自分自身にたいして、労働する資本家として現われ、したがってまたさらに、単なる所有者としての自分にたいして、労働者として現われる。したがって、過程にたいする剰余価値の関係がなお固持されるかぎりでは、それはまさに、剰余価値の概念そのものが否定されるような形で現われ、行なわれるのである。産業利潤は労働に分解されるとはいえ、他人の、支払われない労働にではなく、賃労働に、資本家のための労賃に、分解されるのであって、これによって資本家は賃金労働者といっしょに一つの範疇に属するのであるが、およそ労賃には非常な相違があるので、ただ、より高い支払を受ける種類の賃労働者に属するだけである。〉 (草稿集⑦459-464頁)

 ここでは私自身のただ個人的な問題意識から興味深いと思った点を指摘しておこう。
  (1)〈利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって、貨幣が「浪費者」に貸される場合、すなわち消費のために貸される場合がそれであるが、この場合は〔ここでは〕無視することにする。とはいえ、同じ場合は、支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる。どちらの場合にもそれは貨幣として貸されるのであって、資本として貸されるのではないが、その所有者にとっては単なる貸すという行為によって資本となる
  ここで興味深いのは、浪費者に貸される場合や支払いをするために貸される貨幣は、貸主にとっては利子生み資本である(だから一定期間後には利子をつけて返済される必要がある)が、資本として貸されるのではない、それはどちらも貨幣として貸されるのだ、と述べていることである。
  これはいわゆる「流通手段の前貸か資本の前貸か」という論争問題に関連して興味深い指摘ではないだろうか。特に支払いするために貸される貨幣は、資本として貸されるのではなく、貨幣として貸されるのだ、ということをどのように理解するかが問題であろう。
  例えば資本の循環を考えた場合、G-W…P…W'-G'で最初のG-Wを資本は信用で行い、あとでW'-G'で回収したGで返済する約束する(そういう手形を切る)。ところが何らかの事情でW'-G'の実現が遅れ、その間に、最初のG-Wのさいに手渡した手形の満期が来たので、その支払いのために、繋ぎの資金として銀行から貸し付けを受ける場合、この場合は資本家はW'-G'で回収したGを今度は銀行に返済することになる。この銀行による貸付は当然銀行にとっては利子生み資本であるが、それは単なる支払いのための貸し付けだから、先のマルクスの説明からいうなら、資本の貸付ではなく単なる貨幣の貸し付けになるといえるが果してどうであろうか、という問題である。
  もしこれが資本の貸し付けではなく、単なる貨幣の貸し付けだというなら、同じ過程を想定してG-WのGを先の場合は資本家は信用取り引きで行なったのであるが、そのGを銀行からの貸し付けで調達したとしよう、この場合も資本家はW'-G'で還流したGを銀行に返済するのである。この最初に銀行から借りたGは、当然、単なる貨幣の貸し付けではなく、資本の貸し付けであろう。しかし貸し付けたGはどちらも資本の循環の始発のGであることに違いはないのではないか、どうして一方は単なる貨幣の貸し付けになり、他方は資本の貸し付けになるのか、という問題である。
  しかしわれわれはマルクスがその前に〈利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって〉と述べていることを忘れてはいけない。つまりマルクスが〈支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる〉というの場合、そこで貸された貨幣に対して支払われる利子は剰余価値を表していない場合のことを述べているということである。「支払い」といっても何のための支払いかが問題なのである。先にわれわれが例として紹介した場合は、どちらも銀行から借りた貨幣を返済する時に支払われる利子は剰余価値から支払われることは明らかであり、だからマルクスが上記の抜粋文で述べているケースに合致するとは言えないのではないか、という問題もある。いずれにせよ、ここで結論を出すことは避けておこう。
  (2)〈第二の場合、すなわち割引やさしあたりは売れない商品を担保としての貸付〔の場合には〕、それは、資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものでありうる。この転化過程の促進が--その一般的本質から見た信用におけるように--再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本である
  これも同じ問題意識であるが、ここでは手形割引や売れない商品を担保にした貸し付けの場合は、資本の貸し付けだと述べていることが興味深い。それは〈資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものであり〉、〈転化過程の促進が……再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本〉だというのである。ということは(1)で見た場合の最初のG-Wの過程で切った手形を銀行で割り引いてもらい支払いのための現金を先取りする場合は、確かに支払いのための貨幣の貸し付けだが、資本の流通過程を促進するためのものだから資本の貸し付けととらえるべきということになる。果たしてどうであろうか。
  (3)〈これに反して、それがただ債務の支払に役だつだけで、再生産過程を促進することなく、おそらくはそれを不可能にするかまたは狭めるかするかぎりでは、それは単なる支払手段であり、借り手にとってはただ貨幣であるだけであって、貸し手にとっては実際に資本の過程からは独立な資本である。この場合には利子は、収奪に基づく利潤のように、資本主義的生産--剰余価値の生産--そのものからは独立な事実である
  この場合はどういうケースを想定しているのであろうか。資本家の事業が実際には事実上破綻しており、そのためにただ債務だけが残った場合、その債務を支払うための貨幣の貸し付けは、ただ単なる支払い手段であり、そこから得られる利子も、ただ資本家が事業を停止して、自分の資産を投げ打って得たものであり、だから収奪にもとづく利潤のような資本主義的生産から独立した事実だということであろうか。
  以上、個人的な興味で書いてみたが、それ以外にもなかなか面白い部分があるが、あまりにも横道に逸れそうなので、これぐらいにしておこう。

  次に大谷氏の訳注15を紹介しておこう。

  〈15)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。「G_W_G’にはまだ媒介が含まれている。G_G'では,われわれは資本の無概念的な形態,生産関係の最高の展相における〔in der höchsten Potenz〕転倒および物象化をもつのである。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (331頁)

  この抜粋そのものには何も付け加える必要ないが、マルクスは大谷氏が抜粋している一つの前のパラグラフで次のような興味深いことを述べている。

  〈こうして、利潤ではなくて、利子が、資本そのものから、したがって単なる資本所有から流出する資本の価値創造物として現われ、したがって、資本によって独自に創造される収入として現われる。それだから、それは俗流経済学者たちによってもこの形態で把握されるのである。この形態では、いっさいの媒介は消え去っており、そして資本の呪物姿態資本呪物の観念とともに完成している。この姿態が必然的に生まれるのは、資本の法律的所有がその経済的所有から切り離されて、利潤の一部分の取得が、利子という名のもとに、生産過程からまったく切り離された資本それ自体または資本所有者のもとに流れこむということによってである。〉 (草稿集⑦416-417頁)

  ここで私が注目したのは、マルクスは貨幣資本家あるいは所有資本家の所有というのは、法律的所有であり、それに対して機能資本家は経済的所有者だと考えていると思えることである。株式会社では、所有資本家は株主に代表され、それに対して株式会社の経営者は機能資本家であるとされていても、それには有力な反論があった。というのは株式会社の経営者には会社の所有権はないのだから、彼らは会社を支配することはできないのではないか、という疑問があったからである。しかし確かに彼らには法律的所有権はないが、しかしマルクスのこの記述によれば、彼らは経済的所有者であり、よってまた支配権を有しているとも考えることができる。つまり株式の所有者は資本の法律的所有者であるが、経済的な所有者とは言い難いこと、それ対して株式企業の一般に経営者といわれる人たちは、法律的所有者ではないが会社(資本)の経済的所有者であり、それにもとづいて労働者を支配し、搾取して利潤を生み出しているわけである。だから経済的所有とは現物資本の実際的な所有者であり支配者なのであり、それに対して株主やその社団法人は、株式会社の法律的所有者でしかないということである。

  次の大谷氏の訳注をみよう。

  〈20)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「1000ポンド・スターリングの価値のある商品の価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な数〔Zahl〕ではない。それは単純な商品ではなくて,力能を高められた〔potenzirt〕商品である。単純な量ではなくて,量関係である。それは,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。」(MEGAII/34,S.1476.)〉 (331頁)

 これは結構長いパラグラフの途中の文章を抜き書きしたものである。だからパラグラフ全体を抜粋しておこう。(大谷氏が抜き書きしている部分を【  】で括っておいた。)

 〈さらに言っておきたい別の事情は、貨幣を借りた産業資本家にとっては利子は費用のなかにはいる、ということである。この費用は、ここでは、前貸しされた価値を意味するものである。たとえば1000ポンドの資本は、1000ポンドの価値の商品としてではなく、資本として彼の生産にはいる。だから、1000ポンドの資本の利子が年間10%だとすれば、それは1100の価値として年生産物のなかにはいる。だから、ここでは次のことがはっきり現われている。すなわち、この価値額(およびそれを表わす諸商品〉は生産過程のなかではじめて資本になるのではなく、資本として生産過程の前提をなしており、したがって単なる資本としてのそれに帰属する剰余価値をすでに体内にもっているのである。借り入れた資本で仕事をする産業資本家にとっては、利子または資本としての資本は彼の費用のなかにはいるのであって、それが資本であるのは、ただ、それが剰余価値を生む(したがってたとえば1000の商品としてのそれが資本としては1100に値する、すなわち1000+[1000/10’],C+C/Xに値する)かぎりでのことである(*)。利子が生産物のなかに現われるかぎりでは、これは確かに単なる商品として計算された前貸資本の価値を越える超過分ではあろうが、しかし資本として計算された商品の価値を越えるものではないであろう。彼はこの剰余価値を支払わなければならないのであって、これは彼の前貸に属し、商品を生産するために彼が行なった支出に属するのである。自分の資本で仕事をする産業資本家はどうかと言えば、彼は資本にたいする利子を自分自身に支払わなければならないのであって、これを前貸しされたものとみなすのである。実際、彼が前貸ししたものは、ただたとえば1000ポンドの価値ある資本だけではなく、資本としての1000ポンドの価値なのであって、この価値は、利子が五%ならば、1050ポンドなのである。これはまた彼にとってはけっして無用な反省でもない。なぜなら、この1000ポンドは、もしそれを彼が生産的に使用しないで貸し出すとすれば、彼に資本として1050をもたらすであろうからである。だから、彼がこの1000ポンドを資本として自分自身に前貸しするかぎりでは、彼は自分に1050ポンドを前貸しするのである。人はだれかに頼って損失を償わなければならないが、自分自身によってそうするであろう! 【1000ポンドの価値のある商品の価値は資本としては1050ポンドである。すなわち、資本はけっして単純な数ではない。それは単純な商品ではなくて自乗された商品である。単純な大きさではなくて大きさの関係である。それは、剰余価値としての自分自身にたいする、元本としての、与えられた価値としての関係である。Cの価値はC(1+[1/n])1(1年を表す)またはC+[C/X]である(**)。等式 a(のx乗)=n においてxが単純な計算方法では把握または展開できないのと同じように、自乗された商品、自乗された貨幣、資本も展開できないのである。利子においては、利潤の、資本によって生産された剰余価値の、一部分が、資本家によって前貸しされたものとして現われるのであるが、それとまったく同様に、農業生産にあっては、もう一つの部分、地代がそういうものとして現われる。それがこの場合には異様に非合理に見えることがより少ないのは、地代がここでは土地の年価格として現われ、こうして土地が商品として生産に関与するからである。「土地の価格」には確かに資本の価格におけるよりも大きな非合理性があるとはいえ、この形態そのものにそれがあるのではない。なぜならば、土地はここではある商品の使用価値として現われ、地代はその商品の価格として現われるからである。(非合理性は、労働の生産物ではないもの--土地--が価格を、したがって貨幣で表わされた価値を、したがってまた価値をもつものとされ、したがって対象化された社会的労働とみなされる、ということにある。) つまり、外的な形態から見れば、どの商品の場合とも同じに、使用価値および交換価値としての二重の表現であり、交換価値は、観念的に価格として、使用価値としての商品が絶対にそうではないものとして、表現されている。これに反して、1000ポンドが1050ポンドに等しいという表現、または50ポンドが1000ポンドの年価格だという表現では、同じものが同じものに、交換価値が交換価値に関係させられているのであって、交換価値がそれ自身とは別なものとしてそれ自身の価格であるとされ、言い換えれば交換価値そのものが貨幣で表現されているのである。〉 (草稿集⑦444-446頁)
 (*)読者から、草稿集のテキストの〈すなわち 1000+[1000/10],C+C/Xに値する〉という部分は、〈1000+[1000×10/100],C+C×[X/100]に 値する〉に訂正すべきで「マルクスの式は間違っている」という指摘があった。ただこれはマルクスの草稿であり、草稿集の編集者の訂正もないことから、そのまま掲載し、掲載者の注(*)として、その指摘を紹介することにした。
  (**) 同様に、〈C(1+[1/n])1(1年を表す)またはC+[C/X] 〉の部分は〈C(1+[n/100])1 (1年を表す)またはC+[C×X/100] 〉に訂正すべき、「マルクスの式は間違っている」との指摘があった。 

  なお注解③によれば、〈収奪利潤Profit upon expropriation〉という語について、〈〔MEGAII/4.2の〕320ページ5行への注解を見よ〉とある。そしてその注解については、次のような紹介がある。

 〈この注解は次のとおり。--「「譲渡利潤〔Profit upon alienation〕」--マルクスはこの表現をジェイムズ・ステユーアトから取った。『1861-1863年草稿』でマルクスは「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」という概念も使った。--MEGAII/3.2,S.334.12-13 und 345.28を見よ。〉

 このように61-63草稿の参照箇所も指示されているので、それらも見ておくことにしよう。

 最初の参考箇所では、マルクスはステュアートの『経済学原理』の一文を引用して次のように述べている。

  〈したがって、この譲渡に基づく利潤は、商品の価格がその実質価値よりも大きいということ、または、商品がその価値よりも高く売られるということ、から生ずるのである。一方の側における利得は、この場合、つねに他方の側における損失を伴う。全体の資財にたいする追加は少しも生じない。利潤すなわち剰余価値は、相対的なものであって、「当事者たちのあいだにおける富の均衡の動揺」に解消される。ステュアート自身は、このようにして剰余価値を説明することができるという考えをしりぞけている。「当事者たちのあいだにおける富の均衡の動揺」についての彼の理論は、それが剰余価値そのものの性質と源泉とにはほとんどふれていないにしても、いろいろな諸階級への、利潤、利子、地代といういろいろな諸項目への、剰余価値の分配を考察するさいに重要であることには変わりがない。〉 (草稿集⑤7-8頁)

 後者の参照箇所では、重農学派の位置づけに関連して次のように述べている。

 〈重農主義体系のその他の人々、とくにテュルゴーの場合には、この外観は完全に消え去り、重農主義体系は、封建社会の枠のなかに浸透して行く新しい資本主義社会として現れる。したがって、これは、封建制度から抜けだしつつある時期のプルジョア社会に対応している。それゆえ、出発点は、主として農業の行なわれている国フランスであり、主として工業、商業および海運の行なわれている国イギリスではない。このイギリスでは、当然、生産物が一般的な社会的な労働の表現--貨幣--としてはじめて価値を受け取り商品になるところの流通に目が向けられる。それゆえ、価値の形態ではなく、価値の大きさと価値増殖が問題であるかぎり、ここでは、譲渡に基づく利潤profit upon expropriation〕、すなわちステュアートが描写した相対的利潤が手近にあるものである。だが、生産部面そのものにおける剰余価値の創造が証明されるべきだとすれば、さしあたり、剰余価値が流通とは独立に現われる労働部門、農業に、引き戻されなければならない。それゆえ、この第一歩は、主として農業が行なわれている国で踏みだされることになったのである。重農学派に類似の考えは、断片的には彼らより前の古い著述家たちに、たとえば部分的にはフランス自体においてポアギュベールに、見いだされる。重農学派によってはじめて、その考えは画期的な体系となる。〉 (同19-20頁)

  これらはまあ紹介するだけでよいであろう。】

  (以下、続く)

 

2019年11月 6日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 今回は、全体のまとめと補完である。

 われわれはまず全体の展開を探るために、とりあえず、順序に沿って、その主な内容を確認していくことから始めよう。

(1)【2】~【8】利子とは何か
  まずマルクスは利子とはそもそも何かという問題から始めている。それは借りた資本で生産する機能資本家が利潤のうち貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるということを確認している。だから借入資本ではなく自分の資本で生産する資本家の場合は、利子率を規定する競争には参加しない。この点でも利子諸範疇は生産的資本それ自体にとっては外的なものであることを示しているというのである。そしてこうしたことは経済学者や経済実務家にとって直接目にすることであることを示すために、トゥックの一文を紹介している。
  次にマルクスは(  )に入れてではあるが、資本は生産過程で機能しているかぎりは、それは再生産過程に属していて、それを別の形で処分することはできないが、それは貨幣資本(monied capital)についても同じことが言えると指摘する。つまりそれは利子を得るためには、常に貸し付けておかなければならないというわけである。その意味では利子率が非常に低い場合は、借入資本も自己資本とほとんど同じ位置に置かれるとしたボウズンキトの主張を肯定し、それを批判したトゥクを批判している。

(2)【9】~【12】総利潤のたんなる量的分割がどうして質的分割に転回するのか
  総利潤の利子と企業利得とへの純粋に量的な分割が、どうして質的な分割に転回するのか、とマルクスは問題を提起し、利子というのは借入資本で生産する生産的資本家にとっては、総利潤(粗利潤)から前もって支払ってしまわなければならないものとして現れ、だからそのあと残る利潤は、彼の機能する限りでの生産物として現れる。そしてこの両者はまったく異なる事情によって規定されているかのように見える。なぜなら利子は平均利子率によって与えられており、生産的資本家にとっては所与のものとして現れ、他方の企業利得は彼自身の機能資本家としての機能によって規定されている。つまり後者は商品の市況や不変資本の節約やあるいは彼自身のずるさの大小にもかかっている。だからこの二つはまったく違った源泉から生じているかに見えるわけである。だから純粋な利潤の量的な分割は、質的な分割に転回するのである。これは何か資本家の主観的な見方というようなものではなく、客観的な事実にもとづいているのである、と説明している。

(3)【13】~【21】質的分割の骨化
  そしてこうして生じた質的分割は、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化する。そうなると生産的資本家によって充用される資本が例え借入資本ではなくても、彼は自分の総利潤を、所有者としての自分に帰属するものとしての利子と、機能資本家としての自分に帰属するものとしての企業利得とに分割するようになる。利子と企業利得とへの分割が、総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのである。それは以下のような理由による。
  第1に、生産的資本家の多数が、さまざまな割合で自己資本と借入資本とで事業をし、その割合が時期によって常に変動するという経験的事実。
  第2にどのようにして総利潤が利子と企業利得とに分化するかというのは、どのようにして総利潤の一部分が利子として骨化し自立化するかという問題に帰着するが、利子は歴史的には資本主義的生産様式とそれに対応する利潤の観念が存在するずっと前から、利子生み資本の伝来の形態のもたらすものとして存在していたからだ。
  第3に、質的には利子は剰余価値であるが、量的にはmonied capitalに関連して現れる。そして利子率がこの関係を確立する。というのは利子率は一般利潤率に依存するが(つまり剰余価値に依存するが)、それ自体として自立的に規定されるからである。利潤率が補足できない存在であるのとは対照的に、利子率は、商品の市場価格とおなじように、確定した、一様な、明白な、常に与えられている割合として現れるからである。そしてそれに対して企業利得は、こうした経験的に与えられる利子を越える超過分として与えられるのである。
  ようするに利子が借り入れ資本であろうがなかろうが、いっさいの資本そのものが利子という名で手にするものという自立的形態に転化するので、利潤のうちのそれを超過する部分は企業利得として現れるのだということである。そこからそれらが生産的資本が生み出す剰余価値に関連したものというより、二つの範疇に固定された剰余価値の諸部分、あるいは二つの項目の剰余価値の諸部分ということだけになる。つまり利子を差し引いた超過分が、企業利得になるという、通常のありふれた観念が生じるのである。

(4)【22】~【24】利子という形態では賃労働に対する対立は消えている
  利子は資本所有そのものがもたらすものだということ、利子生み資本の定在、すなわち資本としての貨幣の定在は資本主義的生産過程の恒常的な前提であり、それは生産手段への転化能力によって、不払労働を支配する力をあたえ、剰余価値の生産を可能ならしめる。だから利子は、自立的な力として、生きた労働に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現なのだが、しかし利子という形態では、こうした賃労働にたいする対立は消えてしまっている。というのは利子生み資本は賃労働に対立するのではなく、機能資本に対立するのであり、賃労働者は機能資本家に対立しているのだからである。

(5)【25】~【29】企業利得は賃労働にではなく利子に対立している。労働監督賃金。
  他方では利子に対立する企業利得も実は賃労働に対立していない。というのは企業利得は利子にだけ対立しているのだからである。なぜなら、第1に、企業利得の高低は利子率に反比例するから。もちろん剰余価値が労賃と反比例の関係にあることは明らかだが、しかしそれが利潤となり、さらにその分割された形態である企業利得となると、それは直接には利子に対してだけ対立物として関係するようになるからである。第2に、企業利得そのものが機能資本家の機能そのもの、その労働に支払われるものとして、つまり労働監督賃金として現れるからである。だから企業利得は、賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働として現れるのである。

(6)【30】~【34】労働監督賃金
  利子が資本-利子という表現においてすでにその特別な存在様式を受け取っていることに対応して、企業利得は、資本の社会的規定性から分離されて、ただ生産過程から生じるものとして現れる。しかし資本から分離されれば生産過程は労働過程一般である。だから産業資本家は、資本の担い手として機能するものですらなく、資本を度外視した機能者であり、労働過程一般の単なる担い手、つまり労働者、賃労働者になる。こうして利子という形態は、資本の社会的規定性を吸い上げてしまい、利潤の他方の部分に、企業利得という、さらに進んで監督賃金という質的な形態を与える。資本家が資本家として果たさなければならない、そしてまた労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する特殊な機能が、たんなる労働諸機能として表される。剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなくて、彼が単に労働をするからであり、だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価として現れる。資本の搾取過程は、たんなる労働過程として現れるので、搾取する労働も搾取される労働も労働としては同じだということになってしまう。
  労働監督賃金という観念はそのよりどころを次のことに見いだす。すなわち、実際には、利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、あるいは逆に、労賃の一部分が利潤の不可欠な構成部分として現れるからである。そして労働監督賃金が純粋に自立して現れると、利潤とも、企業利得とも完全に分離して、ジェネラル・マネジャーの賃金として現れる。

(7)【35】~【49】監督・指揮労働の二重性
  監督および指揮の労働は、直接的生産過程が結合した過程の姿態をとっているところでは必ず発生する。しかしこの労働は二重の性質のものである。一面では、それは多数の個人の協力によって行われる労働では必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する意志に表されねばならないことから生まれる。だからこれはどんな結合的生産様式でも行われなければならない生産的労働である。
  多面では監督労働は、直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで必然的に発生する。だからそれは資本主義的生産様式にも内在的なものである。なぜならそこでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからである(このあとマルクスはこの対立的性質の監督労働について、古代の奴隷制や中世の封建制の下での諸例を上げて説明している。またこうした対立から生じる監督・指揮労働をこの対立的関係そのものを正当化する理由として描き出す擁護論の批判を行っている)。
 資本主義的生産様式の基礎上では、監督・指揮労働の二重性は、不可分に結び合わされ、混ぜ合わされている。

(9) 【50】~【54】協同組合工場と株式企業におけるマネジャー。資本家の生産過程からの消滅
  労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも、マネジャーの監督賃金は、利潤からまったく分離されて現れる。協同組合企業では、監督労働の対立的な性格は消えている。株式企業では、単なるマネジャーが、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行うことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう。
  このことは資本家の労働というのは、それが他人の労働を搾取するという機能の別名ではないかぎりでは、つまりそれが労働、流通、等々の社会的形態から生じるかぎりでは、資本とはかかわりがないこと、もし資本主義的外皮を破ってしまえば、資本とは関わりがないものとして現れるということを意味している。
  しかし資本主義的生産様式の基礎上ではこの対立的な性格そのものは無くすことはできない。そして実際、マネジャーの監督賃金は取得した他人の労働の量と正確に同じであり、この搾取のための資本家にとっての骨折りの程度、あるいはそれを代行するマネジャーの骨折りの程度によって決まってくるのではない。

(10) 【55】~【57】企業利得と監督賃金との混同
  企業利得と監督賃金との混同は、もともと資本家の利潤を資本家自身の労賃として説明しようとしてきた資本の弁護論的な意図のもとに発展させられた。しかし、監督賃金が、一方では商業マネジャーや産業マネジャーからなる一階級が発展し、またすべての賃金と同様にその一定の水準と市場価格を見いだすようになり、そして他のすべての賃金と同じように、生産力の発展とともにすべての熟練労働の賃金と同様に下がってくると、弁護論者たちにとって不愉快な事態に直面することになった。すなわち協同組合や株式企業の発展につれて、企業利得と監督賃金との混同の最後の口実が失われ、資本家の手にする企業利得は、明瞭に不払い労働の取得として現れてくる。

(11) 【58】~【59】監督賃金による新手のいかさま
  資本主義的生産の基礎の上では、監督賃金をもってする新手のいかさまが発展する。というのは、現実のマネジャー以外にもさまさまなただ名ばかりの重役が現れるからである。彼らは一人でさまざまな企業の重役として名を連ね、監督賃金の名目で、株主から自分の儲けを巻き上げている。

  まあ、以上がこの部分(マルクスが間違って「4)」と番号を打った部分、エンゲルス版の第23章)のざっとした内容である。全体のまとめはこれぐらいにしておこう。

  次にこの部分で取り扱われている監督・指揮労働と労働監督賃金という問題について、少し考えをまとめてみたい。監督・指揮労働の二重性そのものは『資本論』第1巻でも出てくるものである。今回の場合も、マルクスは監督・指揮労働を、一面では結合労働から必然的に生じるものとして説明し、その限りでは生産的労働だと述べている。だからこの面では、監督・指揮労働は価値形成労働であり、他の賃労働と同じ側面を持っているわけである。
  他方で、それは対立的な生産様式から必然的に生まれてくるものだとも説明している。そしてこの面ではそれは搾取するための労働であり、だから監督労働は剰余価値から支払われるとしているのである。
  だから資本主義的生産様式のもとでは、監督・指揮労働のこの二つの性質は、結合した形で現れ、混ぜ合わせられて現れてくると述べているのだから、監督・指揮労働の賃金も、やはり二つの側面を持ったものとして現れてくると考えるべきであろう。すなわち、それは生産的労働の側面では、価値を形成し、よってまた剰余価値をも生み出すのであり、その限りでは他の賃労働と同じ、労働力の価値の実現形態としての賃金という側面を持つのである。
  しかし他方の対立的関係から必然的に生じる監督・指揮労働という面では、それは搾取する労働であり、よってそれに支払われる監督労働の賃金は、その搾取の程度に照応するとマルクスは述べている。つまりそれは剰余価値から支払われるのである。資本主義的生産様式における労働監督賃金にはこうした二つの要素が含まれていると考えるべきであろう。しかし同時に、われわれは監督労働にかこつけて、新手のいかさまが生まれてくるというマルクスの指摘にも注意する必要がある。つまり現代の株式企業の重役連中は大なり小なりこうした新手のいかさま達なのであり、彼らは資本家としての本性を監督・指揮の名のもとに隠して、資本家としての企業利得を監督賃金の名目で手にするのである。だから彼らの給与は賃金ではなく、企業利得と考えるべきであろう。
  問題は協同組合企業や株式企業の発展によって、生産過程から資本家が消滅し、生産過程にはただ機能者だけが存在するようになるとマルクスが指摘していることである。そうなるとこの場合の監督賃金は果たしてどうなるのかということになる。協同組合の場合は、対立的性格がなくなるのだから、それは生産的労働の側面だけで評価され、よってその賃金は他の一般の労働者のそれと基本的には変わらないと考えるべきだが、しかしブルジョア的株式企業においては、資本主義的外皮は依然として存在しており、よってそこでの監督・指揮労働には対立的な関係から必然的に生じる契機があることは間違いない。よって、彼らの手にする監督賃金には、彼らの搾取のための労働、その搾取の程度に応じた報償、つまり剰余価値からの支払があることは明らかであろう。ただそれが生産過程に直接結びついたものであればあるほど、生産的労働の側面が強くなり、よってまた直接生産者を監督・指揮するマネジャーの賃金は、他の一般の労働者とそれほどの相違もなくなるのもまた事実である。そして重役になればなるほど彼らは直接の生産過程からますます離れて、ただ対立的な関係に規定されるか、あるいは資本主義的関係そのものから生じるさまざまな資本機能の担い手としての役割の比重がますます増えるのであり、それに応じて彼らの賃金(給与)は剰余価値からの支払、よって企業利得という性格が強まると考えるべきであろう。
 結合的生産様式から必然的に生まれてくる監督・指揮労働というのは、直接的生産過程が結合した過程の姿態をとっているところで必然的に発生するとマルクスは述べている。つまりそれは例えば工場などの直接的な生産過程において、多数の個人の協力によって行われる労働において必然的に過程の関連と統一が一つの指揮する意志によって表される必要から生じるのである。だから現実に例えば工場を監督する職長や工場長のような職種には妥当するが、それ以外の現場を指揮することのほどんどない管理職などには、こうした生産的労働としての側面はほとんどないと考えるべきであろう。またマルクスは労働、流通、等々の社会的形態から生じるかぎりでは、それは資本とは関わりのないものとして現れるとも述べている。流通におけるそうした過程を担う労働というのは、例えば製品を輸送する労働や、製品を保管し管理する労働等が入るであろう。こうした労働もそれらを監督・指揮する労働が必要な場合は、やはりその監督・指揮労働も生産的労働であろう。こうして見た場合、マルクスがいうところの結合的生産様式から必然的に発生する監督・指揮労働というものは極めて限られたものと考える必要があるのではないだろうか。
 それに対して、対立的な関係から必然的に発生する監督・指揮労働というのは、今日の株式会社ではかなり幅広く存在するのではないだろうか。そもそも流通に携わる商業労働の多くは不生産的であり、当然、それを監督・指揮する労働も、けっして生産的とはいえないであろう。いわゆるサラリーマンの労働の多くはほぼこうした不生産的な労働であり、よってそれらを監督・指揮する労働(管理職の労働)もまた不生産的であり、彼らの賃金は利潤、あるいはそこからの分け前に依存している。さらには株式会社の重役連中のほとんどは、監督賃金の名で利潤のうちから株主への配当を横取りし、かすめ取る新手のいかさまであり、彼らの手にする給与は、本質的には企業利得と考えるべきであろう。


◎〔補完〕大谷氏の第23章部分の考察の紹介

  最後に、この章を終わるにあたり、その補完として、大谷氏が新本の第23章該当部分の草稿の翻訳を紹介する前に、この部分の草稿について自身の考察を行なっているので、それを紹介することにしたい。そこには翻訳者だからこそ分かる詳細な草稿の情報が入っており、それはそれで草稿を理解する上で、役立つのではないかと思うからである。ただこの部分は私自身のノートをほぼそのまま紹介することになる。

  大谷氏はその前文で〈草稿の訳文にはいる前に,草稿のこの部分で重要な意味をもっているにもかかわらずエンゲルス版では見えにくくなっている三つのキー概念について,簡単な整理をしておいた。〉(253頁)と述べている。そして三つのキー概念として、〔1 「マネジャー」と「監督指揮労働」と「労働監督賃金」〕という項目を立てている。

  そこで大谷氏は草稿ではエンゲルス版よりはるかに統一的な像が得られるように感じられると次のようにその理由を述べている。

  〈第23章部分で内容的にきわめて重要な事柄の一つに,資本主義的生産の発展そのものによって「指揮労働が資本所有から分離して街頭をさまようまで」になり,「残るのは機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう」という事態の指摘,言い換えれば,資本主義的生産そのものが,「労働監督賃金としての企業利得という観念」の現実的根拠=口実を掘り崩していくことの指摘がある。この点についてマルクスが何度も繰り返して使っているキー概念は,そのような「機能者」たる,現行版での表現での「管理者 〔Dirigent〕」,彼が行なう「労働」,そしてそれにたいする「賃金」,この三つであるが,草稿によると,これらの概念について,エンゲルス版でよりもはるかに統一的な像が得られるように感じられるのである。
 草稿でマルクスは,きわめて多くの語を英語で記している。エンゲルスは,彼の編集原則から,それらのほとんどをドイツ語に置き換えなければならなかった。もちろん彼はこの作業を恣意的に行なったわけではない。……けれどもエンゲルスは,機械的に一つの英語の語句に一つのドイツ語の語句を対応させるということをせず,文脈に応じて適切な訳語を選択した。その結果,草稿では同じ語が使われているところで,いくつかの異なった表現が見られることになり,マルクス自身がそのような言い換えをしているかのような外見が生じている。
 この外見は,内容上の理解に本質的な障害をもたらすものではないが,草稿でのマルクスの用語法にはある種の一貫性があり,それに注目することによって事柄をより直截にとらえることができるように思われるので,さきの三つのキー概念について,ここで,草稿とエンゲルス版との対応を概括的に見ておくことにしたい。〉 (254頁)

●マネジャーについて

  〈(1)まず第1に,エンゲルス版でDirigentとなっている語が,草稿では一貫して英語でmanagerと書かれていることが注目される。現在,現代企業におけるmanagerの経済学的規定が問題になっているが,マルクスは,すでにスミスがこの特殊な「労働者」を発見していることに注意を促したうえで,これを一貫してmanagerと呼んでいたのである。しかも彼は,後出の引用②に見られるように,アリストテレスにおける「エピトロポス」および封建フランスのregisseurと並べて,当時のイギリスでの「マネジャー」をあげ,それらの全部を一括してmanagerと呼んでいる。このことからわかるのは,マルクスがこの表現を,たんに当時のイギリスのいわゆる「マネジャー」にとどまらず,「監督労働」に従事する特殊な「労働者」一般を概括するのに適切なものと見ていたということである。〉 (255頁)

 以下、大谷氏はこの用語を含む文章をすべて拾って紹介しているのであるが、それは後の段落ごとの解読と重複するところがあると思えるので、ここでは摘要を省略する。ただ気づいたことをメモ書きするだけにとどめよう。
 ここでは大谷氏は第23章部分だけではなく、第27章部分からも一つだけ抜粋しているが、とりあえず問題になるのは、このマネージャーに支払われる賃金が果たして利潤からの控除なのか、それとも他の労働力と同様にその労働力の価値に対する対価なのかということである。マルクスは〈利潤からは完全に分離して、熟練労働にたいする労賃というかたちをとることもある〉とか〈利潤からまったく分離されて現れてくる〉等々と述べている。これを果たして如何に理解するかである。もともとは利潤だったのが、そこから分離されて、労賃という仮象をとるということなのか、それともそれはそもそも利潤ではなくなって、労働力の価値に対する対価であり、ただそれが熟練労働に対するものだというだけなのか。それが問題なのである。そこらあたりは大谷氏の引用を詳細に検討してもいま一つマルクスの意図は読み取りきれないところがあるように思える。しかしこの問題については段落ごとの解読のなかでも吟味検討していくことにしたい。

●「監督労働」、「指揮労働」、「監督および指揮労働」、「監督および指揮」

 大谷氏の説明を抜粋しておこう。

〈マルクスは本章部分では(引用は別として),「監督」にあたる語としては,5箇所でOberaufsichtを使っているほかは,その他の19箇所のすべてでsuperintendenceを使っている。「指揮」には,1箇所でLeitung,4箇所でdirectionをあてている(このほか「監督者」にAufseherをあてているところが2箇所ある)。さらに具体的に見ると,4箇所で「監督労働」labour of superintendence,2箇所で「監督および指揮の労働」labour of superintendence und direction,2箇所で「指揮労働」labour of directionと言っており,1箇所ある「監督および指揮の労働〔Arbeit der Oberaufsicht und Leitung〕」および3箇所ある「監督労働〔Arbeit der Oberaufsicht〕」というドイツ語の表現は,それぞれlabour of superintendence und directionおよびlabour of superintendenceに完全に対応するものであると考えることができる。要するに,マルクスはここでは,マネジャーが行なう労働にたいして,labour of superintendence und directionという特徴づけを行なっているのである。〉 (258頁)

  これに対してエンゲルスは英語表現をすべてドイツ語に書き換えるのではなく、場所によって異なった訳語をあてていると指摘している。

●「労働監督賃金」、「監督賃金」

〈(3)最後に,そのような「労働」にたいする「賃金」であるが,これにたいしては,「労働監督賃金〔wages of superintendence of labour〕」が2箇所,「監督賃金〔wages of superintendence〕」が9箇所で用いられている。この「監督〔superintendence〕」とはもちろん「労働の監督」にほかならないから,「監督賃金」は,労働を監督するという労働にたいする賃金,つまり「労働監督賃金」の短縮形にすぎない。エンゲルスはこれらにたいして,最初に「労働監督賃金〔wages of superintendence of labour〕」が出てくるところで,「監督賃金〔すなわち英語で言う〕wages of superintendence of labour」としたのち,5箇所でAufsichtslohn,5箇所でVerwaltungslohn,1箇所でAufsichts-oder Verwaltungslohn(監督賃金または管理賃金)としている。〉 (259頁)

●大谷氏のまとめ

〈以上を概括すると,マルクスは1abour of superintendence and directionを行なう者をmanagerという語で言い表わし,彼が受け取る賃金をwages of superintendence of labourと表現していた,と言うことができる。これらとは異なるいくつかの表現があるにしても,それらはほとんどすべてこの三つの基本的概念の言い換えにすぎず,そこには,マルクスが弁別すべきニュアンスを込めて使い分けた形跡はまったくないと言えるように思われる。〉 (259頁)

〔2 Kommandoという語について〕

〈Commando(commandiren)という語は,一般的には,「指揮」と言っても,Direktion(dirigieren)ないしLeitungよりもはるかに強い意味をもっている。すなわち「支配」の契機を含んでいるのである。
……
  要点は,commandは,なんらかのauthorityによって,すなわちなんらかの力によって絶対的に指揮・支配することを意味し,したがってここでは,なにを,どうすることを命令するのかという,指揮の内容には力点がないのにたいして,directのほうは,なにを使ってどのようにやるべきかを命令することそれ自体を意味し,したがってここでは,なんのauthorityによって,なぜ命令できるのかというところには力点がない,ということである。〉 (260頁)

〔3 労働監督賃金についてのA.スミスの見解〕

  ここではマルクスがスミスが正しく見つけ出したとしているマネジャーの賃金というのは利潤の別名だということを紹介している。

〔4 草稿の当該部分の項目番号について〕

  ここではこの第23章該当部分に、マルクス自身は「4)」と項目番号を打っただけで何の表題も書いていないが、この番号そのものは誤記だったということと、しかし「5)信用。架空資本」、「6)先ブルジョア的なもの」というところでは番号が正しいものになっているのがどうしてか、という問題について大谷氏は一定の推定を行っている。つまり5)では正しい番号になっているのに、どうしてその前の誤記を訂正しなかったのか、ということについて、大谷氏は、〈マルクスはこの第5章では推敲らしいこと(読み返しながら手入れをすること)をほとんどしていないことが想起されるべきであろう。〉(264頁)と指摘している。抜粋ノートの場合は何度も読み返し、抜粋ノートの抜粋ノートまで作っているほどなのに、本文の草稿は一度書いたらそのまま読み返しも手入れもしていないというのは驚くべきことである。

〔5 「3)」における「利子および企業利得」の考察の要点〕

  ここでは大谷氏の『図解・社会経済学』からこの章の内容を示すものを紹介しているが詳しくは省略する。また注1)では有井行夫の『株式会社の正当性と所有理論』を参考文献として次のように紹介している。

  〈1)資本のシステムは,株式会社という自己の新たな形態を生みだし,そこで自己の本性をみずからさらけ出すようになること,これがここでの指摘のかなめである。本書第2巻第7章で見る,エンゲルス版第27章に使われた草稿部分では,さらに進んで,株式会社でのこのさらけ出しが資本のシステムの行方にとってもつ意味が明らかにされる。これらの論点をきわめて厳密に,また全面的に解明したのは,有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』(青木書店,1991年,新版;桜井書店,2011年)である。〉  (266頁、下線は大谷氏よる傍点による強調)

  この有井氏の著書は読んだことがあるが、ノートを録っていないからか、ただ難解な代物だったという印象があるだけで、まったく何も残っていない。一度キッチリ取り組む必要があるのかも知れない。

  以上で大谷氏の考察のノートの紹介は終わりである。

 (完)

2019年10月30日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-10)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【55】パラグラフからである。


【55】

 /311上/企業利得と監督賃金wages of superintendence〕との混同は,もともとは,利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じた。それはさらに,利潤を,[460]剰余価値として--不払労働として--ではなく,資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって,発展させられた。これにたいしては,ついで社会主義者たちの側から,利潤を,理論的にこれが利潤だと称されたものに,すなわちたんなる監督賃金wages of superintendence〕に,実際に縮小すべきだという要求が出された。そしてこの賃金が一方では,多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて,他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになると,b)それが他方では,独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて,すべての熟練労働の賃金と同様に下がってくると,c) この要求は,理論的なごまかしにたいしてまったく不愉快に相対するようになった。しかし,労働者の側での協同組合の発展,ブルジョアジーの側での株式企業の発展につれて,企業利得と監督賃金〔wages of superintendence〕との混同の最後の口実も足場を取られてしまって,利潤は,実際にも--理論的にはこのことは否定できないものだったのであるが--たんなる剰余価値(なんの等価も支払われていない価値,実現された不払労働)として,現われてきたのであり,こうして,機能資本家は労働を現実に搾取し,そして,彼の搾取の果実は,彼が借りた資本で事業をする場合には,利子と,企業利得すなわち利潤のうち利子を越える超過分とに,分かれる,ということが現われてきたのである。d)|

  ①〔異文〕「もちろん……から」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「対立的な形態から」← 「対立から」
  ③〔異文〕「独自に発展した」← 「この独自な」
  ④〔異文〕「実際に……〔現われて〕きた〔stellte sich praktisch〕」という書きかけが消されている。〔stellte sich...darと書こうとしたのであろう。〕〉 (320-321頁)

 〈企業利得と監督賃金との混同は、もともとは、利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じました。それはさらに、利潤を、剰余価値としてではなく、つまり不払労働としてではなく、資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって、発展させられたのです。これにたいしては、ついで社会主義者たちの側から、それなら利潤を、彼らの言う理論にもと づく利潤と称するものに、すなわちたんなる監督賃金に、実際に縮小すべきだという要求がなされました。そしてこの監督賃金が、一方では、多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて、他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになり、他方では、独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて、すべての熟練労働の賃金と同様に監督賃金も下がってくると、こうした社会主義者の要求は、資本家の弁護論者たちにとってますます不愉快なものになっていったのです。
 しかし、労働者の側での協同組合の発展、あるいはブルジョアジーの側での株式企業の発展につれて、企業利得と監督賃金との混同の最後の口実も足場を取られてしまって、利潤は、実際にも、もちろん理論的にはこのことは否定できないものだったのですが、たんなる剰余価値(なんの等価も支払われていない価値、実現された不払労働)として、現れてきたのです。こうして、機能資本家は労働を現実に搾取し、そして、彼の搾取の果実は、彼が借りた資本で事業をする場合には、利子と、企業利得すなわち利潤のうち利子を越える超過分とに、分かれる、ということが現れてきたのです。〉

 【このパラグラフもやや分かりにくい。だから細かく見て行こう。まず〈企業利得と監督賃金wages of superintendence〕との混同は,もともとは,利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じた〉というのは、利子を越える超過分というのは、企業利得ということであろう。だからこの一文は企業利得と監督賃金との混同は、利子と企業利得とに利潤が分割され、両者が対立的な形態をとることから生じたということであろう。この対立から貨幣資本家(所有資本家)と機能資本家との対立が生まれてくるわけである。企業利得と監督賃金との混同は、当然、利潤が機能資本家にとって企業利得という形態をとらなければ、そもそもその混同も生じようがないのだから、これは当たり前のことを言っているといえなくもない。ただマルクスは〈企業利得と監督賃金との混同〉と述べている。つまり企業利得と監督賃金とは異なる、ということがまず前提としてあり、にもかかわらず両者は混同されるということである。あるいは企業利得なのに、あたかも監督賃金であるかにごまかして説明されるという事実を述べているわけである。もちろん、こうした背景には企業利得は、機能資本家が所有資本家に対立して、彼ら自身が資本の機能を果たすための「労働」をするという外観が生じるところから出てきている。そこから機能資本家の労働に対する対価という観念が生じるわけである。そして機能資本家の労働(機能)とは、労働者を監督・指揮して剰余労働を搾取することである。だから彼らの取得する企業利得は、あたかも彼らの労働、すなわち監督・指揮労働に対する賃金として現れてくるわけである。だから彼らは彼らの取得する企業利得を監督賃金だと説明して正当化し、両者を意図的に混同しようとするわけである。
 そして〈それはさらに,利潤を,剰余価値として--不払労働として--ではなく,資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって,発展させられた〉とある。もともと利潤というのは資本家の労賃だというのが資本の弁護論者たちの主張であり、そうした弁護論に、こうした利子と企業利得との分裂は、ますますその根拠を与えて、企業利得と監督賃金との混同をますます発展させられたということであろう。
 しかしこうした主張に対して、社会主義者たちは、それなら彼らのいう監督賃金を、もっと実際の賃金の水準に縮小すべきではないのかと批判したわけである。そして、商業マネージャーや産業マネジャーからなる一つの階級が発展し、彼らの賃金が一定の水準と市場価格を見いだし、労働力の生産費を低下させる一般的発展につれて、熟練労働の賃金も下がってくると、ますますこうした社会主義者の要求を正当化させる状況、資本家にとっては不愉快な状況が、生じてきたわけである。
 さらには協同組合工場の発展や株式企業の発展によって、企業利得と監督賃金との混同の最後の足場も取られてしまったと指摘されている。つまり監督賃金は、明確に機能者として生産過程で監督・指揮を行う労働者に支払われ、資本家は明らかに生産過程に足場をなくし、生産過程には不要な存在になったが故に、彼らの手にする所得は、明確に不払労働の搾取にもとづくものであることも明確になり、だから企業利得と監督賃金との混同もできない状況が生じてきたのだということである。
  このパラグラフの理解としては、これで何とか納得が行くが、しかしすんなり行かない何かが残る気がする。というのは、ここでは企業利得は利潤の分割したものであり、不払労働の取得ということが隠しようもないほど理論的にも実際的にも明確になってくるのだ、というのであるが、ということは少なくとも企業利得を取得する機能資本家が、監督・指揮労働を担う人物とは別に存在することを想定している。つまり企業利得と監督賃金との混同ができないということは、企業利得が企業利得として、また剰余価値からの分割分として明確に存在していることを意味している。
  しかしわれわれは【50】パラグラフでは、〈たんなるマネジャーが,機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的なreal機能を行なうことによって,残るのはただ機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう〉と論じていたことを覚えている。つまり機能資本家は生産過程から消えたという話だったのである。
  ところが今回のパラグラフでは、にも関わらず企業利得を取得する機能資本家は依然とし存在し、ただ彼らの取得するものを監督賃金だと言って誤魔化し、正当化するような意図的な混同は、理論的にも実際的にもできなくなったのだと言われるのである。
  ということは【50】パラグラフで〈資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう〉と言われていたのは、あくまでも直接的な生産過程のなかにはもやはそこで監督・指揮を担う資本家なるものは、その機能をマネージャーに委嘱することによって不必要になるだけで、しかし生産過程を直接監督・指揮するのではないが、その生産過程を資本の生産過程たらしめる資本家(機能資本家)は、依然として存在しているのであり、彼らは企業全体を資本の統一体として統括する存在としてあり、ただ彼らの取得するものは、まさに利潤の分割された企業利得であり、不払労働の取得するものであることは隠しようもないのであり、それまでも監督賃金だなどという誤魔化しはもはや許されるような状況ではなくなったということであろうか。
  ここらあたりはなかなか明確に書かれているわけではないので、ハッキリしないのであるが、とりあえず、こうした理解でこのパラグラフは終えることにしよう。】


【56】

 /311下/〔原注〕b) ホヂスキン「親方も彼らの職人と同じに労働者である。この性格からすれば彼らの利害は,彼らの職人の利害とまったく同じである。しかし,彼らはまた資本家または資本家の代理人でもあるのであって,この点では彼らの利害は,職人の利害と決定的に反対である。」(27ページ〔安川悦子訳『労働擁護論』,『世界の思想』5,河出書房新社,1966年,381ページ〕。)「この国の職人たち〔journeymen mechanics〕のあいだでの教育の普及は,特殊な知識をもつ人びとの数をふやすことによって,ほとんどすべての親方や雇い主の労働や熟練の価値を,毎日減らしている。」(30ページ〔同前訳,386ページ〕。)『資本の要求にたいする労働の防衛,云々』,ロンドン,1825年。〔原注b)終わり〕

  ①〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/34S1449.29-36)から取られている。〉 (321-322頁)

 【これは原注であり、ほぼ抜粋からなっているので、平易な書き直しは省略した。これは上のパラグラフの〈そしてこの賃金が一方では,多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて,他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになると〉という部分につけられた原注bである。
 まず最初の引用は、親方というのはマルクスがいうところの〈商業マネジャーや産業マネジャー〉ということであろう。彼らも同じ労働者だとしている。そしてこの点では職人(労働者)と利害は一致しているが、しかし同時に彼らは資本家であるかあるいはその代理人でもあるとしている。そしてこの点で利害は対立し反対だとしているわけである。そしてその次の引用では、職人(つまり労働者)のあいだの教育の普及は、特殊な知識をもつ人々の数を増やし、親方や雇い主の労働や熟練の価値を、毎日減らしていると書かれている。だからこの原注でマルクスが注目しているのは、恐らく後半部分の〈教育の普及は,特殊な知識をもつ人びとの数をふやすことによって,ほとんどすべての親方や雇い主の労働や熟練の価値を,毎日減らしている〉というところではないだろうか。つまり監督賃金が多くのマネージャーが存在するようになり、一般の労働者の賃金と同じように、一定の水準と市場価格を見いだすようになるということの例証としてホヂスキンが紹介されていると考えることができる。

  MEGAの注解によるとこの引用は61-63草稿から取られているというので、その原文を見ておくことにしよう。今回はMEGAの原注も併せて紹介しておく。

  最後にホジスキンは資本関係について次のように言っている。
  「(1)(2)親方も彼らの職人と同様に労働者である。この資格においては彼らの利害は彼らの雇い人の利害とまったく同じである。しかし、彼らはまた資本家でもあるか、または資本家の代理人でもあるのであって、この点では彼らの利害は彼らの労働者の利害とは決定的に相反している。」(同前、27頁〔鈴木訳、72頁〕。)「この国の技術職人のあいだでの教育の広範な普及は、特有な知識をもつ人々の数をふやすことによって、ほとんどすべての親方や雇い主の労働や技能の価値を日に日に低下させている。」(30頁〔鈴木訳、78頁〕)

  (1)〔異文〕マルクスはこのパラグラフの二つの引用文に三本の斜線でバッテンのしるしをつけている。これらの斜線は使用済みしるしかそれとも抹消線か、それを明確に確定することはできない。〔本訳書の原本の1450頁と1453頁とのあいだには、ノート第15冊の890頁の縮刷複写が揺入されていて、編集者による右の三本の斜線の実際を知ることができる。〕
  (2)〔異文〕以下の二つの引用文は「引用ノート」の76頁のなかにある。〉  (草稿集⑦401頁)

  この部分に斜線が引かれていたということは、今回の『資本論』の草稿に利用したからであろう。】


【57】

 〔原注〕c)ミル(J.St)『経済学原理』,第2版,ロンドン,1849年,第1巻,①479ページ。「因習的な障害の一般的な緩和や教育の便宜の増加は,不熟練労働者の賃金を引き上げるのではなく,熟練労働者の賃金を引き下げる傾向がある。」〔末永茂喜訳『経済学原理』,岩波文庫,(2),1960年,368ページ〕〔原注c)終わり〕

  ①〔訂正〕「479」--草稿では「463」と書かれている。〉 (322頁)

 【これも平易な書き下しは不要であろう。これは〈独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて,すべての熟練労働の賃金と同様に下がってくる〉という部分につけられた原注cである。ここでは一般的な教育の普及は、不熟練労働の賃金を引き上げるのではなく、熟練労働の賃金を引き下げる傾向があると指摘されている。これも原注b)と同様、例証としての引用であろう。】


【58】

 〈〔原注〕d) 資本主義的生産の基礎の上では,監督賃金wages of superintendence〕をもってする新手のいかさまが発展する。というのは,現実のマネジヤーのほかにも,たくさんの重役が現われるのであって,彼らは実際には,監督superintendence〕を,株主から巻き上げて自分の儲けにするためのたんなる口実にするからである。これについては,〔デイヴィド・モーリア・エヴァンズ〕『ザ・シティ,またはロンドン実業界の生理学取引所やコーヒー店でのスケッチ』,ロンドン,1845年,のなかにおもしろい話が出ている。〉 (322-323頁)

 〈資本主義的発展の基礎の上では、監督賃金をもってする新手のいかさまが発展します。というのは、現実のマネジャーのほかにも、たんさんの重役が現れるのであって、彼らは実際には、儲けを株主から巻き上げて自分たちの儲けにするために、監督を口実にするからです。これについては、〔デイヴィド・モーリア・エヴァンズ〕『ザ・シティ,またはロンドン実業界の生理学。取引所やコーヒー店でのスケッチ』,ロンドン,1845年,のなかにおもしろい話が出ています。〉

 【これは原注であるが、マルクス自身の文章として書かれており、この原注は、第23章該当部分の草稿の最後まで続いている。だから抜粋部分はそのままに、平易な書き下し文をつけておいた。
 ここでは資本主義的発展の基礎上では、監督賃金をもってする新手ないかさまが発展してくると指摘している。要するに、株式企業では、実際に監督・指揮する現実のマネジャー以外にも、さまざまな重役が登場し、しかも彼らは株主から儲けを横取りするために、自分たちも監督という仕事に携わっていることを口実にするからだというのである。そしてそれに関する面白い話があると次のパラグラフに続けている。】


【59】

 銀行家や商人が,八つも九つもの違った会社の役員会〔Direction〕に参加することによって,どんなに儲けるかは,次の例を見ればわかるであろう。「ティモシー・エイブラハム・カーティス氏が破産したとき,破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項に800-900ポンド・スターリングの年収が記載されていた。カーティス氏はイングランド銀行や東インド会社の役員会〔Courts〕に加わっていた〔be associated mit〕ので,株式公開会社〔public company〕にとっては,彼に重役室〔board room〕でお勤めをしてもらうことはまったく好都合だと考えられたのである。」(同前,82ページ。)「重役〔Directors〕の椅子は,毎週の役員会議に出席するだけで,少なくとも1ポンド・スターリングを生むのである。」(同前,81ページ。)破産裁判所の審理が示しているところでは,この監督賃金wages of superintendence〕は,これらの名目上の重役たち〔Directoren〕によって行なわれる現実の監督〔superintendence〕に反比例している。〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕「破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項にunder the head of directoryships〕800-900ポンド・スターリングの年収」--『ザ・シティ……』では次のようになっている。--「あの紳士が破産をしたとき,破産裁判所は彼が重役職から入手した所得のサンプルを提示したが,それはけっしてわずかな額ではなかった。われわれが記憶しているかぎりでは,この項にあげられていた彼の年収は800-900ポンド・スターリングであった。」
  ②〔注解〕ここでマルクスが言及しているのは,『タイムズ』紙の「破産裁判所」の項に定期的に(たいてい毎日)掲載される,個々の商会,会社などが破産するまでの状況の調査である。〉 (323-324頁)

 〈銀行家や商人が、八つも九つもの違った会社の役員会に参加することによって、どんなに儲けるかは、次の例を見れば分かります。「ティモシー・エイブラハム・カーティス氏が破産したとき,破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項に800-900ポンド・スターリングの年収が記載されていた。カーティス氏はイングランド銀行や東インド会社の役員会に加わっていたので,株式公開会社にとっては,彼に重役室でお勤めをしてもらうことはまったく好都合だと考えられたのである。」(同前,82ページ。)「重役の椅子は,毎週の役員会議に出席するだけで,少なくとも1ポンド・スターリングを生むのである。」(同前,81ページ。)破産裁判所の審理が示しているところでは、この監督賃金は、これらの名目上の重役たちによって行われる現実の監督に反比例しているのです。〉

 【さまざまな会社の重役をかねる銀行家や商人は、監督賃金の名目で、莫大な年収を得ていたということである。だからマルクスは彼らが実際に現実の監督をやることが少なければ少ないほど、つまりその監督がただ名目上のものであれあるほど、彼らの監督賃金なるものは大きく、反比例しているのだと指摘しているわけである。この場合の重役たちの監督賃金というのは明らかに企業利得なのであり、それを彼らは監督賃金の名目で受け取り、株主への配当から横取りするのだというわけである。】

 以上でテキストは終わっている。われわれはもう一度全体を振り返って、この部分でマルクスが何をどのように論じ展開しているのかについて考えてみよう。

  (しかしそれは次回に回すことにする。)

 

2019年10月26日 (土)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-9)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【50】パラグラフからである。


【50】

 /310上/監督賃金wages of superintendence〕は(商業マネジャーにとっても産業マネジャーにとっても),||311上|労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも,利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現われるb)。監督賃金wages of superintendence〕の利潤からの分離は,他の場合には偶然的に現われるが,ここでは恒常的である。協同組合工場の場合には監督労働labour of superintendence〕の対立的な性格はなくなっている。というのは,マネジャーは労働者たちから支払われるのであって,労働者たちに対立して資本を代表するのではないからである。株式企業一[459]般--信用制度とともに発展する--は,機能としてのこの監督労働1abour of superintendence〕を,自己資本であろうと借入資本であろうと資本の占有Besitz〕からますます分離していく傾向がある。それは,ブルジョア社会の発展につれて,たとえば裁判官,行政官,等々の機能が,封建時代にこれらの機能を自分に結びつけていた土地所有から分離していくのとまったく同様である。しかし,一方では,たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕に機能資本家が相対する(また信用制度とともに,このmonied capitalそのものが社会的な性格を受け取り,そしてそれの直接的所有者以外の他の諸人格から貸されるようになる)ことによって,他方では,借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどんな権原によっても資本を占有〔besitzen〕していないたんなるマネジャーが,機能資本家としての機能資本家に属する⑥すべての実質的なreal機能を行なうことによって,残るのはただ機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまうのである。/

  ①〔注解〕「協同組合工場」--カール・マルクス『国際労働者協会創立宣言』〈暫定宣言〉(MEGA I/20,S.10/ll〔MEW16,S.11-12〕)を見よ。
  ②〔異文〕「アソシエーションに〔もとづく〕すべての〔企業〕では」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「ますます」mehr und mehr←immer mehr
  ④〔異文〕「占[有]〔Bes[itz]〕から」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕に機能資本家が」← 「たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕が機能資本家に」← 「たんなる所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕が機能資本家に」
  ⑥〔異文〕「すべての」alle←der die〉 (314-315頁)

 〈商業マネジャーや産業マネジャーにおいては、彼らの監督賃金は、労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも、利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現れてきます。監督賃金の利潤からの分離は、それ以外の場合は偶然的に現れるだけですが、この二つのマネジャーの場合には恒常的です。協同組合工場の場合には監督労働の対立的な性格はなくなっています。というのは、マネジャーは労働者たちから支払われるのであって、労働者たちに対立して資本を代表するのではないからです。信用制度とともに発展する株式企業一般では、機能としてのこの監督労働を、自己資本であろうと借入資本であろうと資本の占有からますます分離していく傾向があります。それはブルジョア社会の発展につれて、例えば裁判官、行政官、等々の機能が、封建時代にこれらの機能を自分に結びつけていた土地所有から分離していくのとまったく同じです。しかし一方では、たんなる資本の所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対して、そして信用制度の発展とともに、このmoneyed capitalそのものが社会的性格を受け取り、その直接所有者以外の他の諸人格(銀行等)からそれが貸されるようになることによって、他方では、借り入れによってであろうがそれ以外の方法によってであろうが、どんな権原によっても資本の占有者ではない単なるマネジャーが、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行うことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまうのです。〉

 【ここで大谷氏は「Besitz」や「besitzen」を「占有」と訳している。当初は、この翻訳は果たして適切なのかと疑問を持った。因みに全集版の『資本論』では前者を「所有」、後者を「所有者」と訳しており、こちらの方が適切ではないかと思われたのである。
 しかし今回の翻訳文の元になった『経済志林』に掲載された研究論文には、この「Besitz」について次のような訳者注が付けられていた。

 〈13)「占有〔Besitz〕」--ここでのBesitzを「占有」と訳すべきか,それとも「所有」と訳すべきかについては,議論のありうるところである。しかし,草稿の本稿相当部分では「所有(Eigentum〕」という語は頻出するのにたいして,Besitzないしbesitzen という語は,この前に1箇所, Besitzer des Geldes(「貨幣の所持者」と訳してある)という表現があったほかは,このパラグラフに出てくる2箇所だけであり,しかもここではとくに「資本の占有」に下線がつけられていることから見て, Eigentumと区別してわざわざBesitz と書いたのではないかと推測される。この語をどのように理解するかは,かなり重要かつ微妙であるので,ここでは注意を喚起する意味で,あえて「占有」としておく。しかし,この語を純法律的な概念として理解することには問題があろう。なお,ここでのBesitzは,長谷部訳では「占有」,岡崎訳では「所有」となっている。第21-24章相当部分で,ここ以外にBesitzが出てくるのは,次の箇所だけである(Besitzerはほかにもある)「……つまり,それが彼に引き渡されるのは,資本として,すなわち,運動の中で自分を維持し,機能し終えたのちにその最初の引渡人の手に,ここでは貨幣所持者〔Geldbesitzer〕の手に帰ってくる価値としてである。つまり,ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ,その所有者の占有〔Besitz〕から機能資本家の占有〔Besitz〕に移るのであって,支払われてしまうのでも売られるのでもなしただ貸し付けられる,ただ貸されるだけの価値としてである。」(第1稿,S.289;拙稿「「利子生み資本」(『資本論』第3部第21章)の草稿について」,『経済志林』,第56巻第3号,1988年,35ページ。太字--引用者。)〉 (「「利子と企業者利得」(『資本論』第3部第23章)の草稿について」『経済志林』第57巻第1号1989年)

  この訳者注は今回の新本では無くなっているのであるが、やはりこの注は必要だったのではないかと思う。というのは当初の誤訳ではないか、という私の考えを改めさせ、再考せざるを得なかったのは、この訳者注によるからである。
  大谷氏は〈この語を純法律的な概念として理解することには問題があろう〉と書いているが、ここでマルクスが〈資本の占有Besitz〕〉と述べているのは、明らかに大谷氏が第21章該当個所から引用・紹介している〈機能資本家の占有〔Besitz〕〉を意味していると思える。つまり利子生み資本がそれを所有する貨幣資本家の占有から、機能資本家の占有に一時的に移された結果としての「占有」である。機能資本家はその利子生み資本の所有者になるのではない。一時的な占有者になるだけである。そして今問題になっているのは、その機能資本家の占有からも監督労働がますます分離していく傾向なのである。機能資本家が利子生み資本を占有するということは、それを〈資本として,すなわち,運動の中で自分を維持し,機能〉させて増殖させるためである。それが機能資本家が利子生み資本を占有することの内容なのである。しかし監督労働は、そうした資本の占有からもますます分離していく傾向をもつとマルクスはここでは述べているのである。そしてその分離が完成したマネージャーにおいては、資本の占有からは完全に分離し、如何なる権原によっても資本を占有していないとしているのである。にも関わらず、マネージャーは、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行なうことになるから、資本家は余計な人格になって生産過程から消え失せるというわけである。
  これが最終的なこのパラグラフの私の理解である。しかしその前には、大谷氏の誤訳と決めつけて、次のような批判文を書いていた。参考のために恥を忍んでそれを紹介しておこう。

  以下、《 》の部分は最初のノートである。

  《ここで大谷氏は「Besitz」や「besitzen」を「占有」と訳しているが、果たして適切なのかは疑問である。因みに全集版の『資本論』では前者を「所有」、後者を「所有者」と訳しており、こちらの方が適切と思われるので、書き下し文ではそのようにした(しかし今回その部分は訂正した)。というのは機能資本家は資本を所有していないが占有していることは明らかだからである。それは資本の機能者がその機能を果たすためには不可欠な契機である。労働者も生産手段を所有していないが、彼が労働する場合にはそれらを占有して行うのである。労働力が生産過程で生産諸手段と結びつくということは、労働を担う労働者がその労働の過程で、労働対象や労働手段を占有せずして行うことは不可能である。これは労働過程そのものを振り返れば明らかである。マルクスは〈使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである〉(全集23a233頁)と述べて、労働過程を次のように説明していた。

 〈労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然〔天性〕を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。……労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。しかも、それは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。〉 (全集23a頁)

 そして人間が労働するということは、自然のなかから労働対象を取り出しそれを加工することであり、そのために使う労働手段は彼の手足の延長である。だから人間が労働するためには、少なくとも労働の対象や手段を占有せずして不可能なことである。しかしそれを彼が所有しているかどうかは彼が如何なる社会関係の下にあるかによるのである。
 大谷氏はあきらかに所有と占有の意味で混乱しているような気がする。
 ここでは株式企業におけるマネジャーは機能資本家の機能をすべて担うことによって、資本家は余計なものになって生産過程から消えるとしているのである。では資本・賃労働の対立的な性格も消えるというのであろうか。確かにそれは資本所有を代表する利子によってその対立的関係が吸収され、しかも資本の生産過程の彼方においてそれを利子は代表するのであるからその限りではそう言いうる。そしてその結果、直接的な生産過程では、ただ単なる労働過程一般を担う労働者だけになってしまう。そしてその労働過程の一般的な機能である監督・指揮労働の担い手であるマネジャーは、だから利潤から完全に分離してしまうとマルクスはいうのである。
 しかしブルジョア的株式会社においてもやはり資本主義的な関係がなくなるわけではない。あるいは、協同組合工場においても、それをとりまくブルジョア的関係と無縁でいられるわけでもない。だからそれらにおいても資本関係は依然として存在するし影響を与えていると考えねばならない。労働者が搾取されている限り、その労働者を搾取する労働という機能は、監督・指揮労働のなかから消え去ることはないであろう。だからその限りでは、機能資本家の機能を代行するマネジャーが資本の人格的担い手であることには違いはないわけである。
 ただここには資本の所有と機能とが分離し、所有資本家である貨幣資本家に機能資本家が相対するという過程がまずある。そしてさらに信用制度と株式企業の発展とともに、機能資本家そのものが、さらに資本家と単なる機能者とに分裂して、資本家という存在そのものが生産過程から無くなるとマルクスは述べているのである。だから残っているのは単なる機能者だけだという。だからマネジャーは機能資本家ではなく、単なる機能者なのであるが、しかし彼らは機能資本家の機能を代行するのだから、その限りでは資本機能の人格的担い手であることをやめないのである。ただ生産過程そのもののなかでは彼らが資本機能の担い手であるということそのものは生産的活動を合理的に行う上では不必要なものである。しかしこうした株式会社でも、労働者の労働が疎外されたものであることまでもなくなるわけではない。彼らは相変わらず生産手段に支配されているのだから、彼らを支配・統制する対立的な管理・指揮労働の契機がなくなるわけではない。その意味ではマネジャーの対立的な性格は依然として残っているわけである。ただそこらあたりはマルクスによって指摘され、強調されているわけではない。ここらあたりはもっと緻密に考えぬく余地がありそうに思える。》

  以上が最初のノートである。マネージャーが「資本の占有」からも完全に分離しながら、しかし機能資本家の機能資本家としての機能を実質的にすべて担うようになる、という点はなかなか微妙であり、理解が困難なところがある。ここらあたりはマネージャーの賃金が企業利得からも完全に分離して、単なる賃金になるということと表裏一体となっていると思うのだが、なかなか微妙なところがあり、難しいところのように思える。

 ところで、MEGAの注解では「協同組合工場」について、マルクスの『国際労働者協会創立宣言』(全集16,S.11-12)を参照するように指示があるので、われわれもそれを見ておくことにしよう。

 〈しかし、所有の経済学にたいする労働の経済学のいっそう大きな勝利が、まだそのあとに待ちかまえていた。われわれが言うのは、協同組合運動のこと、とくに少数の大胆な「働き手」が外部の援助をうけずに自力で創立した協同組合工場のことである。これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく評価しても評価しすぎることはない。それは、議論ではなくて行為によって、次のことを示した。すなわち、近代科学の要請におうじて大規模にいとなまれる生産は、働き手の階級を雇用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それが果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段として独占されるにはおよばないということ、賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合労働に席をゆずって消滅すべき運命にあるということ、これである。イギリスで協同組合制度の種子を播いたのは、ロバート・オーエンであった。大陸で労働者が試みた諸実験は、事実上、1848年に--発明されたのではなくて--声高く宣言された諸理論から生まれた実践的な帰結であった。〉 (全集16巻9-10頁)

 このあとマルクスは協同労働がどんなにすぐれていようと、それが部分的なときおりの狭い範囲にとどまるなら、大衆を解放することは決してできないこと、だから労働者階級は政治権力を獲得することが偉大な義務となったのだと指摘し、そしてそのための条件をも労働者階級はもちあわせていること、すなわち彼らは多数なのだ、しかしその多数は団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいうこと、だから世界の労働者は兄弟のきずなで結ばれ、このきずなに励まされ、彼らの解放闘争を互いにしっかり支持し合わなければならないと呼びかけている。万国のプロレタリアート 団結せよ! と。】


【51】

 [458]/310下/〔原注〕b)①②資本主義的生産それ自身が,指揮労働〔labour of direction〕がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。だから,この指揮労働〔labour of direction〕が資本家によって行なわれることは無用になった。音楽指揮者〔Musikdirektor〕がオーケストラの楽器の所有者であることは少しも必要ではないし,彼が他の楽士たちの「賃金」になにかのかかわりをもつということも指揮者〔Dirigent〕としての彼の機能には属しない。協同組合工場は,資本家が生産の機能者としては余計になったということを証明しているが,それは,資本家自身が,最高の完成に達すれば,地主を余計だと思うのと同様である。資本家の労働が,資本主義的な過程としての過程から生じるものでなく,したがって資本とともにおのずからなくなるものでないかぎりでは,それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは,つまり,それが労働,流通,等々の社会的形態から生じるかぎりでは,この労働は資本とはかかわりがないのであって,それは,ちょうどこれらの形態そのものが,資本主義的な外被を破ってしまえば,資本とはかかわりがないのとまったく同様である。この労働は,資本家的労働として,資本家の機能として必要だ,と言うならば,その意味するところは,資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離し解放して考えることができない,ということにほかならない。貨幣資本家〔monied Capitalist〕にたいしては生産的資本家は労働者ではあるが,しかし資本家としての,すなわち他人の労働の搾取者としての,労働者である。この労働の賃金wages dieser labour〕は,取得した〔appropriated〕他人の労働の量と正確に同じであり,言い換えればそれは,直接に搾取の程度によって定まるのであって,この搾取のために資本家にとって必要な骨折りの程度degree of exertion〕によって,そして彼がジェネラル・マネジャーにたいして(その骨折りthe exertion〕にたいして)代償として支払いをするかもしれない,その骨折りの程度によって定まるのではないのである。〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕ここから,「この労働は,資本家的労働として,資本家の機能として必要だ,と言うならば,その意味するところは,資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離し解放して考えることができない,ということにほかならない。」という文までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1496.38-1497.20)から,変更を加えて,取られている。
  ②〔異文〕「協同組合工場は,資本が……ということを証明している」という書きかけが消されている。〉 (316-318頁)

 〈〔原注〕b)資本主義的生産それ自身が、指揮労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにしました。だから、この指揮労働が資本家によって行われることは無用になったのです。音楽指揮者がオーケストラの楽器の所有者であることは少しも必要ではありませんし、彼が他の楽士たちの「賃金」になにかかかわりをもつということも指揮者としての彼の機能には属しません。協同組合工場は、資本家が生産の機能者としては余計になったということを証明していますが、それは、資本家自身が、最高の完成に達すれば、地主を余計だと思うのと同じなのです。資本家の労働が、資本主義的な過程としての過程から生じるものではなく、したがって資本とともにおのずからなくなるものではないかぎりでは、それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは、つまり、それが労働、流通、等々の社会的形態から生じる限りでは、この労働は資本とはかかわりがないのです。それはちょうど、これらの形態そのものが、資本主義的な外皮を破ってしまえば、資本とはかかわりがないのとまったく同じなのです。この労働は、資本家的労働として、資本家の機能として必要だ、と言うのでしたら、その意味するところは、資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離して解放して考えることができない、ということにほかなりません。
  貨幣資本家にたいしては生産的資本家は労働者ですが、しかし資本家としての、すなわち他人の労働の搾取者としての、労働者です。だからこの労働の賃金は、取得した他人の労働の量と正確に同じです。言い換えればそれは、直接に搾取の程度によって定まるのであって、この搾取のために資本家にとって必要な骨折りの程度によって、そして彼がジェネラル・マネジャーにたいして(その骨折りにたいして)代償として支払をするかもしれない、その骨折りの程度によって定まるのではないのです。〉

 【これは前パラグラフの〈監督賃金wages of superintendence〕は(商業マネジャーにとっても産業マネジャーにとっても),労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも,利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現われる〉という部分につけられた原注bである。この原注は大きくは二つの部分に分かれるように思える。今書き下した文ではその部分に改行を入れてみた。改行より前の部分では、機能資本家の諸機能が実質的に労働者によって担われることによって、機能資本家は単なる機能者だけになって、資本家は生産過程から消えるということの追加的な説明になっている。つまりこの機能者の機能というのは、資本の対立的な性格を取り除いた場合の労働や流通、等々の社会的形態だけから生じる機能であり、だからそれらは資本とはかかわりがないのだと説明されている。ただその説明がやや入り組んでいて文章的にややこしいので、少し細かく見て行くことにしよう。
  まず最初の部分はそれほどややこしくはない。資本主義的生産それ自身が指揮労働を資本の所有から分離してしまったので、これを資本家が担う必要がなくなった。つまり生産過過程において資本家は無用になった。これは協同組合工場で証明されている、というものである。これ自体は分かりやすい。ただ次の説明がややこしい。
  まずマルクスは①〈資本家の労働が,資本主義的な過程としての過程から生じるものでなく〉と述べている。資本家の労働が資本主義的な過程(ここに強調の下線が引かれている)としての過程から生じるものではない、というのは資本主義的な対立的関係から不可避に生じてくるようなものでないなら、ということであろう。次に②〈したがって資本とともにおのずからなくなるものでないかぎりでは〉というのは、資本関係がなくなればそれと同時になくなるような性格のものでないなら、つまり資本関係に固有の対立的な関係から生じるようなものでないなら、ということであろう。③〈それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは〉というのも同じ主旨であり、資本の対立的性格から生じる機能を担うような性格の労働でないかぎりでは、という意味である。④〈つまり,それが労働,流通,等々の社会的形態から生じるかぎりでは〉というのは、今度は一転して、そうした資本関係から生じるものではなくて、労働や流通そのものの社会的形態から生じるような労働であるなら、ということであろう。⑤〈この労働は資本とはかかわりがないのであって〉。つまりそうした資本の対立的な関係から生じるものではなく、生産や流通の社会的形態そのものから生じるような労働は資本とは関わりはないというのである。⑥〈それは,ちょうどこれらの形態そのものが,資本主義的な外被を破ってしまえば,資本とはかかわりがないのとまったく同様である〉。ようするに資本主義的な外皮を破ってしまえば、というのは資本主義的生産を克服して新しい社会的な生産様式になれば、ということであろう。そうすればそうした生産や流通の社会的形態そのものから生じる労働は資本と関係がないように、資本主義的生産のなかでもそうした将来の社会的生産の物質的な条件が萌芽として形成されているということであろう。だから必要なのは資本主義的生産のなかで形成されてきた将来の社会的生産の諸契機を資本主義的外皮を打ち破って解放することだ、というわけである。俗物どもはこうした関係を理解できないともいう。
 しかし他方で、改行以下の部分では一転して、貨幣資本家に対しては機能資本家は労働者になるが、しかし他人の労働の搾取者としての労働者だと説明する。だから彼らの賃金は彼らが搾取した程度によって定まるのであって、彼自身の骨折りの程度によるのではない、としているのである。〈この労働の賃金wages dieser labour〕は,取得した〔appropriated〕他人の労働の量と正確に同じであり,言い換えればそれは,直接に搾取の程度によって定まる〉というのは、彼らの賃金は労働者から搾り取った剰余価値の量に正確に同じだと述べていることになる。つまりここでは監督労働賃金は剰余価値と一致するというのであるが、もちろん利子などを差し引いたものと考えなければならないのはいうまでもない。少なくともここでは監督労働の賃金を企業利得と同じもの、つまり利潤の分割されたものだとの判断が下されている。つまりここでは一転して、機能資本家の労働者としての現れそのものは、彼の対立的な性格そのものが無くなることを意味せず、よって彼らの賃金は彼が搾取した労働の量に正確に同じだということ、つまり剰余労働から支払われることが指摘されているのである。
 一見すると前半部分で述べていることと、後半部分で述べていることは矛盾しているように思えなくもない。しかしマルクスが言いたい事は次のようなことではないだろうか。要するに、協同組合工場や株式企業においては労働の社会的な結合が一層発展し、その全体を指揮する労働も一労働者によって、生産過程そのものの必要に応じた形でなされるようになるが、しかしそれが依然として資本家的な対立的な外皮のもとになされている現実は決してなくなるわけではない、ということである。われわれはこうした資本主義的生産様式のもとで発展した生産過程や流通過程の社会的な形態そのものと、その資本主義的な形態とを区別して、前者を後者から解放する必要があることを知るべきだということであろう。

 ところでMEGAの注解によれば、この前半の部分は61-63草稿からとられているらしいので、そのもとの文章を見てみる事にしよう。

 〈資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者〔Captain of industry〕として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。人間が自分自身の自然や外部の自然や他の人間にたいする自分の関係を宗教的な形態で独立化して、そのためにこれらの観念によって支配されるようになれば、人間は聖職者たち彼らの労働とを必要とする。しかし、意識の宗教的形態や意識の諸関係の削減とともに、聖職者のこの労働も社会的生産過程にはいることはなくなる。聖職者とともに聖職者の労働もなくなり、同様に、資本家とともに、彼が資本家として行なうかまたは他の者に行なわせる労働もなくなる。(奴隷制の例を引用文によって詳論すること。)ところで、利潤を監督労働の賃金として労賃に帰着させるこの弁護論は、方向を変えて弁護論者たちに立ち向かうことになる。というのは、イギリスの社会主義者たちは今や正当にも次のように答えたからである。では、君たちは今後はただ普通の支配人の賃金だけを受け取るべきだ。君たちの産業利潤は、名目上ではなく事実上、労働の監督または管理の賃金に帰着させられるべきだ。(もちろん、この愚論とたわごとには、そのあらゆる矛盾をぬきにして相手になることはできない。たとえば、産業利潤は、利子にたいしてであれ、地代にたいしてであれ、逆に上がり下がりする。ところが、労働の監督、すなわち資本家が現実に行なう一定量の労働は、そんなことには関係がないし、労賃の低落にも関係がない。すなわち、この種の労賃は、現実の労賃に逆比例して(というのは、利潤率が剰余価値率によって制約されるかぎりでのことであるが、すべての生産条件が不変のままであるかぎり利潤率はもっぱら剰余価値率によって制約される)上がり下がりするのである。だが、このような「小対立」は弁護論者的俗物の頭のなかでの同一性を解消させはしない。資本家が行なう労働は、彼の支払う労賃が少なかろうと多かろうと、労働者たちの受ける支払が高かろうと低かろうと、絶対に同じままである。それは、一労働日にたいして支払われる労貨が労働そのものの量を変えないのとまったく同様である。それどころではない。というのは、労働者は賃金が高ければより激しく労働するからである。これに反して、資本家の労働は確定した要素であって、それは彼が管理するべき労働量によって質的にも量的にも確定されており、この量にたいする賃金によって定められるのではない。彼が彼の労働を強化することができないのは、労働者が工場で自分の前にあるよりも多くの綿花を加工することができないのと同様である。)そして、さらに彼ら〔イギリスの社会主義者たち〕は次のように言う。管理職は、監督労働は、今ではすべての他の労働能力と同様に市場で買うことができるし、相対的に同様に安価に生産することができ、したがって買うこともできる。管理労働が、自分の資本のであれ他人の資本のであれ資本所有から完全に分離されて、街頭をうろついているということは、資本主義的生産そのものが成就したことである。この管理労働が資本家たちによって行なわれるということは、まったく無用になった。それは、資本から分離されて、産業資本家や貨幣資本家からの見せかけの分離においてではなく、産業経営者などから分離され、あらゆる種類の資本家から分離されて、現実に存在している。最良の証拠は、労働者たち自身によって設立された協同組合工場である。これらの工場は、生産上の機能者としての資本家が労働者たちにとってよけいなものになったのは、ちょうど、資本家自身にとって地主の機能がブルジョア的生産にはよけいなものとして現われるのと同様だ、ということの証拠を提供している。第二に、資本家の労働が、資本主義的過程としての過程から生じ、したがって資本がなくなればおのずからなくなる、というものでないかぎり、それが、他人の労働を搾取するという機能の名称でないかぎり、それが協業や分業などという労働の社会的形態から生ずるのでないかぎり、それは、資本主義的な外皮を脱ぎ去れば、この形態そのものとまったく同様に資本からは独立している。この労働が資本主義的労働として、資本家の機能として、必要だ、と言うことは、次のこと以外のなにごとをも意味してはいない。すなわち、俗物は、資本のふところのなかで発展した労働の社会的生産力や社会的性格を、この資本主義的な形態から、それらの諸契機の疎外、対立、矛盾の形態から、それらの転倒や混同〔quid pro quo〕から、切り離して考えることはできない、ということがそれである。そして、まさにこれこそは、われわれが主張するところなのである。〉 (草稿集⑦472-474頁)

  この抜粋した一文には細かく見ていくとやや納得いかない部分も散見できるが(特に前半部分)、しかし今は61-63草稿そのものを解読することが課題ではないので、詳しい検討はやらないことにする。】


【52】

 [459]/311上/イギリスの協同組合工場の公開の収支計算書によって見れば,これらの工場は私的工場主よりも場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず,その利潤--他の労働者の賃金とまったく同じに投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金wages d. managers〕を引き去ったあとの利潤--は平均利潤よりも大きかった。前に(第3部第1章)見たように,剰余価値を与えられたものと前提すれば,利潤率は,剰余価値にはかかわりのない事情から上昇下落しうるのであって,利潤がより高かったことの原因は,これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった。しかし,ここで興味を引くのは,ここでは平均利潤(=利子・プラス・企業利得)が,実際に,そして明瞭に,監督賃金wages of superintendence〕には全然かかわりのない大きさとして現われているという事情だけである。ここでは利潤が平均利潤よりも大きかったので,企業利得も他の場合よりも大きかったのである。

  ①〔注解〕「イギリスの協同組合工場の公開の収支計算書」--マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。
  ②〔異文〕「これらの工場によって実現された」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「いくらか高い」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「利潤」← 「利潤率」← 「利潤」
  ⑤〔異文〕「私有[工場]での」という書きかけが消されている。
  ⑥〔注解〕「前に(第3部第1章)見たように」--MEGA II/4.2,S.94-118〔MEW25S,80-98〕を見よ。
  ⑦〔異文〕「しかし,……なので」という書きかけが消され,さらに「そのように通常のままだった企業利得が」という書きかけが消されている。〉 (318-319頁)

 〈イギリスの協同組合工場の公開された収支計算書によって見ると、これらの工場は私的な工場主よりも、場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず、その利潤は平均利潤より大きかったのです。その利潤というのは、他の労働者の賃金とまったく同じ投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金を引き去ったあとのものです。前に(第3部第1章)見たように、剰余価値を与えられたものと前提するならば、利潤率は、剰余価値にはかかわりのない事情からも上昇下落しえます。これらのイギリスの協同組合でも計算書によれば、利潤がより高かったことの原因は、不変資本の充用上の節約がより大きかったからということでした。しかしここで興味深いことは、平均利潤(=利子・プラス・企業利得)が、実際に、そして明瞭に、監督賃金には全然かかわりのない大きさとして現れているという事情だけです。ここでは利潤が平均利潤よりも大きかったので、企業利得も他の場合より大きかったのです。〉

 【ここでは協同組合工場では、場合によってはほかよりもずっと高い利子を払っても、利潤が大きかったという事実を指摘し、それはマネジャーの賃金が他の労働者と同じ投下可変資本の一部をなしているからだ、つまりここではマネージャーの賃金は、その生産的な価値形成の要素としてのみ見られ、資本主義的な対立的契機から生まれる監督・指揮労働を担うという側面(この側面からはその賃金は剰余価値から支払われ、その場合は他の一般の労働者より高額の複雑労働に対する賃金として現象する)がないが故に、他の私的工場主の場合より利潤(この場合は恐らく企業利得であろうが)が大きかったのだと言いたいのだと思うが、しかしそれが今一つ明瞭にはなっていない。とにかく細かく見ていけば見ていくほど、ややこしくなって混乱してくるような文章なのである。だからここでは、以下、疑問とすることを箇条書き的に書き出してみることにする。

  (1)まず最初の利潤の説明で、〈利潤--他の労働者の賃金とまったく同じに投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金wages d. managers〕を引き去ったあとの利潤〉とあるのであるが、そもそも利潤というのは総商品価値から不変資本部分と可変資本部分をとりさったもの、すなわち剰余価値の転化したものである。だからわざわざこうした説明をするということは、本来はマネージャーの賃金は投下可変資本の一部ではなく、剰余価値からも支払われるべきものだが、しかし協同組合工場ではそれは投下可変資本の一部分を形成しているのだと言いたいがためであろうか。そしてだから残された剰余価値のうち企業の取り分である利子を除いた部分(企業利得)は、本来ならそこから支払われる企業主に支払われる賃金部分(マネージャーの賃金)が不要になるために、他の私的企業よりも大きいのだと言いたいのであろうか。
  (2)そしてこれが〈平均利潤よりも大きかった〉とあるのであるが、そもそも平均利潤を考察している第3部第2篇では、利潤はまだ利子には分裂していないのであり、だから当然、平均利潤より大きいか小さいかは利子を除いた利潤ではなく、利子も加えた総利潤でなければならないが、しかし上記の比較は、〈ずっと高い利子を支払ったにもかかわらず〉と書かれており、つまり高い利子を支払ったあとに残ったものを較べてもというニュアンスで書かれている。もし利子を支払って残ったものというなら、それは企業利得であろう。それが平均的なものより大きかったというなら、それはその限りでは整合性があるが、それなら〈平均利潤よりも大きかった〉というのはおかしなことになる。もうそういう意味なら、「平均的な企業利得より大きかった」というべきであろう。
  (3)次に第3部第1章の例であるが、剰余価値を与えられたものと前提して、変化しうるのは利潤率である。利潤率というのは(m/[c+v])であるが、ここで不変資本の価値を小さくすることによって(それが不変資本充用上の節約である)、利潤率を高くすることが可能だということである。ところが、マルクスは〈利潤がより高かったことの原因は,これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった〉と書いている。つまり利潤率ではなく利潤そのものが大きかったというのである。しかし剰余価値は与えられたものと前提しているなら、利潤も同じと考えるべきであろう。変化するのは率なのだからである。そしてマルクスは問題にしているのは利潤率ではなくて、その前の例をみても、その後の部分をみても、明らかに利潤(あるいは企業利得)そのものの大小なのである。だから第3部第1章の例はこの場合は相応しくないといえるのであるがどうであろうか。恐らくエンゲルスはそうしたことも考えて、この部分を削除したのであろう。
  (4)エンゲルスは〈これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった〉という部分の〈これらのどの場合にも〉をその前にある〈これらの工場は私的工場主よりも場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず,その利潤……は平均利潤よりも大きかった〉を直接受けたものとして、イギリスの協同組合工場のどの場合にもと理解して、そのように書いている。しかし果たしてマルクスの草稿を読む限りでは、そのように読めるのであろうか疑問である。平易な書き下し文はエンゲルスの解釈にもとづいて書いたが、しかしここもそれほど簡単には言い得ないような気がする。
 (5)エンゲルスは協同組合工場の収支計算書について、これは〈せいぜい1864年までのものである〉とわざわざ注記している。つまりマルクスが注目している事実は、ある限られたものであり、一般的なものとして論じることはできないと暗に示唆しているわけである。だからマルクスがこうした事実に注目して、その根拠がマネージャーの賃金が協同組合工場では投下可変資本の一部分を形成しているからだなどというのは必ずしも確かな裏付けがあるとは言えないのかもしれない。いずれにせよ、このパラグラフそのものは、いま一つはっきりしたものとは言い難い文章なのである。】


【53】

 同じ事実は,いくつかのブルジョア的株式企業,たとえば株式銀行でも見られる。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払った,等々。a)/

  ①〔注解〕「ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払った」--マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。〉 (319頁)

 〈同じ事実は、いくつかのブルジョア的株式企業、例えば株式銀行でも見られます。例えば、ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払いました,等々。〉

 【ここでマルクスが〈同じ事実〉と述べているのは、協同組合工場で生じている事実のことであろう。ただ今回の場合は、利潤あるいは企業利得の大きさについてではなく、株式の年間配当の高さを挙げている。恐らくマルクスはブルジョア的株式企業では、利潤のほとんどは株式の配当になると考えているのではないだろうか。つまり企業利得が、ほぼ監督賃金として他の一般の労働者の賃金と同じ可変資本の一部分を構成するだけだから、企業の利潤は、すべて利子として現象するといいたいのかも知れない。だから株式企業の配当の高さは、それを示しているのだ、と。
 しかし果たして年間配当が高いのは、株式企業におけるマネージャーの賃金が投下可変資本の一部分を形成して、剰余価値部分から支払われないからだと言えるのかどうかはこれだけではよく分からないのである。今回の場合は、明らかにブルジョア的株式企業であり、そこでの監督・指揮労働には明らかに対立的な性格から生じるものが含まれている。だからそれらの監督・指揮労働の賃金には、これまでのマルクスの説明では、剰余価値からも支払われる部分も含まれるのではないだろうか。もっともマルクスが例にあげているのは銀行であり、剰余価値を生み出すわけではなく、ただその分け前を得るだけにすぎないのではあるが。
 いずれにせよ、この例が、ただちに協同組合工場の例と〈同じ事実〉を示すものだといえるのかどうかは今一つハッキリしない。マルクスは、ある時には、マネジャーの賃金は他の労働者の賃金と同じであるかに言いながら、別のところではそれは剰余価値から支払われると述べたりしている。だからこのあたりはもう一度全体を見渡して再吟味し精査してみる必要がありそうである。】


【54】

 |311下|〔原注〕a)この利潤のうちから,しかし,マネジャ一の賃金,等々のほかに,預金者に支払われる利子が出て行く。高い利潤は,ここでは,預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明される。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクでは1863年に払込資本は1,000,000ポンド・スターリング,預金は14,540,275ポンド・スターリングだった。ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンでは(1863年に)払込資本は600,000ポンド・スターリング,預金は12,384,173ポンド・スターリングだった,等々。〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。〉 (319-320頁)

 〈この利潤のうちから、しかし、マネージャーの賃金、等々のほかに、預金者に支払われる利子が出て行きます。高い利潤は、ここでは預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明されます。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクでは1863年に払込資本は1,000,000ポンド・スターリング,預金は14,540,275ポンド・スターリングだった。ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンでは(1863年に)払込資本は600,000ポンド・スターリング,預金は12,384,173ポンド・スターリングだった,等々。〉

 【ここでマルクスは〈この利潤〉と述べているが、今一つよく分からない。というのは【53】パラグラフでは〈年間配当〉が問題になっているだけで、〈利潤〉が問題になっているわけではないからである。もっとも配当率はその時々の企業の業績によって決められるが、それは株主の払い込み資本に対する割合を示している。つまり配当率が高いということは、その元になる利潤が高かったということであろう。だから〈この利潤〉というのは、恐らく上記の銀行の総利潤ということであろう。そしてマルクスはここから〈マネジャ一の賃金〉と〈預金者に支払われる利子〉が差し引かれるとしている。しかしこれもやはり疑問である。なぜなら、後にマルクスは銀行の利潤というのは集めた預金に支払う利子よりも高い利子で貸し付けて、その差額を彼らは利潤として取得するのだと述べているからである。つまり銀行の利潤というのは預金者へ支払う利子をすでに差し引いたものなのである。だから利潤からまた利子を差し引くというのは疑問なのである。またここではマネージャーの賃金も差し引くとしている、とするならその前の協同組合工場とは事情が違うわけである。だから〈同じ事実は,いくつかのブルジョア的株式企業,たとえば株式銀行でも見られる〉という冒頭の一文はおかしなことになってくる。協同組合工場ではマネージャーの賃金は投下可変資本の一部を形成しているとマルクスは指摘して、だから彼らの賃金は利潤から支払われるのではない、だから協同組合工場では他の私的企業より利潤が大きいのだと言っていたからである(これは恐らくマルクスが言いたいことだろうと私が考えたことだが)。だからこれだとまったく〈同じ事実〉とは言えないわけである。
  次に問題なのは、〈高い利潤は,ここでは,預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明される〉という部分である。これは株式銀行への出資金(つまり払込資本)は、銀行が運用する貨幣資本(moneyed capital)に占める割合が少なく、その運用資金の多くは預金によって行われているということである。
  だからここから類推するに、マルクスは恐らく次のように考えたのではないだろうか。銀行の運用資金(moneyed capital)には、一つは払い込み資本があり、もう一つは預金がある。銀行はそれらを同じmoneyed capitalとして運用する、そして運用益としての利子を得るわけである。それが銀行の売り上げだが、しかしそこから必要経費を差し引かねばならない。払い込み資本に対しては、配当率にもとづいて配当分を、運用された預金に対しては、その利子分を、それぞれ差し引く必要がある。しかし配当率は預金の利子率よりも高いのが一般的だから、運用資本(moneyed capital)のうち預金の占める割合が高ければ高いほど、運用益から差し引く経費は少なくて済み、よって利潤は高くなるということではないだろうか。
  だからマルクスが〈この利潤のうちから〉と言っているのは、ほぼ運用益のことを意味しているよう気がする。そこから必要経費として、マルクスは〈マネジャ一の賃金,等々のほかに,預金者に支払われる利子が出て行く〉と述べているが、ここに配当が入っていないのは奇妙だが〈等々〉が入っているからそこに含まれていると考えることもできる。少なくとも運用益から〈マネジャ一の賃金〉が支払われるということは彼らの賃金は他の一般の行員(労働者)の賃金とは区別されたものだという認識があるということであろうか。しかしそれだと協同組合企業と〈同じ事実〉とはいえないことになる。どうもここらあたりのマルクスの論証はちぐはぐになっていて、あやふやとしか言いようがない。】

  (続く)

2019年10月17日 (木)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-8)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【35】パラグラフからである。


【35】

 監督および指揮の労働は,直接的生産過程が社会的に結合した〔combinirt〕過程の姿態をとっていて,自立した生産者たちの孤立した労働としては現われないところでは,どこでも必ず発生する。a) しかし,この労働は二重の性質のものである。一面では,およそ,多数の個人の協力によって行なわれる労働では,必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する〔commandirend〕意志に表わされ,また,ちょうどオーケストラの指揮者〔Direktor〕の場合のように,部分労働に関するのではなく作業場の総過程に関する諸機能に表わされる。これは,どんな結合的生産様式〔combinirte Productionsweise〕でも行なわれなければならないような生産的労働である。/

  ①〔異文〕「ところでは,どこでも」← 「すべての形態のもとでは」← 「諸形態のもとでは」
  ②〔異文〕「この労働は」という書きかけが消され,さらに「それは……労働である」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「統一は」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように,」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「さらに……」という書きかけが消され,さらに「さらに,生産手段の管理〔management〕のいっさいが……に属する」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「すべての社会……でも」という書きかけが消され,さらに「すべての社会的……でも」という書きかけが消されている。〉 (304-305頁)

 〈監督や指揮の労働は、直接的生産過程が社会的に結合した過程の姿をとっていて、自立した生産者たちの孤立した労働としては現れないところでは、どこでも必ず発生します。しかし、この労働は二重の性質のものです。一面では、およそ、多数の個人の協力によって行われる労働では、必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する意志に表され、ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように、部分労働に関するのではなく作業場の総過程にかんする諸機能に表されます。これは、どんな結合的生産様式でも行われなければならないような生産的労働です。〉

 【ここでは監督や指揮の労働そのものが問題にされる。そしてこの労働は二重の性質をもっているとして、ここではその一面として、労働が結合労働して行われるあらゆる生産様式に一般的に必然的に生じる労働であって、それはオーケストラの指揮者が演じるのと同じ機能から生じているのだとしているわけである。だからそれによって指揮される他の直接的な生産的労働と同じように生産的労働なのだとの指摘もある。だから監督・指揮労働は直接的な生産過程で物質的な労働を担うわけではなく、ただ一般的な精神的な労働を担うだけだとしても、それは生産的労働の一環であり、だからまた価値を形成する労働でもあるのである。
  マルクスは『学説史』のなかでスミスの主張としてではあるが、次のように論じている。

   第一に、A・スミスは、当然に、売ることができ交換することができる商品に固定され実現される労働のうちに、物質的生産において直接に消費されるすべての知的労働を含めている。すなわち、直接的な手工労働者または機械工だけでなく、監督、技師、支配人、事務員など、要するに、一定の物質的生産部面において、一定の商品を生産するために必要な全人員の労働、つまりその労働の協力(協業)が商品の製造に必要な全人員の労働を含めている。事実上、彼らは、不変資本にその総労働をつけ加え、この額だけ生産物の価値を高めるのである。〉 (全集第26巻Ⅰ 176頁)】


【36】

 |308下|〔原注〕a)監督superintendence〕は,ここでは(農民所有者〔peasant proprietor〕の場合には)まったくなくてもよい。」(J.E,ケアンズ奴隷力』,ロンドン,1862年,48[,49]ページ。)〔原注a)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用での括弧〔パーレン〕をつけた挿入はマルクスによるもの。
  ②〔注解〕「なくてもよい」--草稿ではcompensed withとなっているが,ケアンズの原文ではdispenced withである。〉 (305頁)

 【これは〈監督および指揮の労働は,直接的生産過程が社会的に結合した〔combinirt〕過程の姿態をとっていて,自立した生産者たちの孤立した労働としては現われないところでは,どこでも必ず発生する〉という部分につけられた原注「a)」である。引用だけなので平易な書き下しは省いた。この引用では、監督は不要だと述べていることが紹介されているのであるが、〈ここでは(農民所有者〔peasant proprietor〕の場合には)〉とあるように、農奴のような個々別々に分散した労働の場合には、それら全体を管理し指揮する労働は不要だと述べていると考えられる。】


【37】

 /308上/他面では{商業的部門はまったく別として}このような監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕は,直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで,必然的に発生する。この対立が大きければ大きいほど,この監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕は||309上|それだけ大きな役割を演じる。それゆえ,それは奴隷制度のもとでその最高限に達する。a) しかしそれは必然的に,資本主義的生産様式にも内在的なものである。ここでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからである。それは,ちょうど,専制国家では政府が行なう監督〔Oberaufsicht〕や全面的干渉の労働が二つのものを,すなわちすべての共同体組織〔Gemeinwesen〕の性質から生じる一般的事務の遂行と,民衆にたいする政府の対立から生じる独自な諸機能との両方と,そのうちに含んでいるようなものである。/

  ①〔異文〕「geht」という書きかけが消され,さらに「ist」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「それゆえ,」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「も」--書き加えられている。〉 (305-306頁)

 〈他面では、ただ商業的部門はまったく別ですが、このような監督労働は、直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで、必然的に発生します。この対立が大きければ大きいほど、この監督労働はそれだけ大きな役割を演じます。それゆえに、それは奴隷制度のもとでその最高限に達します。しかしそれは必然的に、資本主義的生産様式にも内在的なものです。ここでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからです。
  それは、ちょうど、専制国家では政府が行う監督や全面的干渉の労働が二つのものを、つまりすべての共同体組織の性質から生じる一般的事務の遂行と、民衆に対する政府の対立から生じる独自な諸機能との両方と、そのうちに含んでいるようなものです。〉

 【このパラグラフの前半部分(改行によってそれを示した)では二重の性質を持つ監督・指揮の労働のもう一つの側面が語られている。つまりそれは直接生産者と生産手段の所有者という対立したすべての生産様式に必然的に発生するものだということである。だからそれは奴隷制度のもとでその最高限に達するのだととも指摘されている。
  このように、先のパラグラフ(【35】)も含めて、ここではマルクスは監督・指揮労働の二重性を、資本主義的生産様式に限定せずに、それ自体はもっと普遍性を持ったものであることを指摘している。つまり結合的生産様式と対立的な生産関係において行なわれる労働であれば、それらは不可避に監督・指揮労働を必要とし、またそれは二重の性質を持つようになるのだとしている。
 改行の後の部分では、こうした監督・指揮の労働の二重の性質というものは、専制国家の政府の行う監督や全面的な干渉の労働が二つの性質をもっているのと同じだと述べている。ここで注目すべきは、マルクスは国家というのは、例えそれが専制国家であろうと、一方で共同体組織の性質から生じる一般的事務の遂行という側面をもっていることを指摘していることである。これはマルクスの国家論を考える上で重要な視点であろう。国家は階級対立の産物であるとか、支配階級の暴力的支配の道具に過ぎないなどという評価は、その限りでは一面的なものと言えるだろう。
  ところで、ここでは監督労働を、これまで論じてきた利子と企業利得とへの利潤の量的分割が質的分割に転化する問題との関連においてではなく、すでに指摘したように、労働過程そのものとその対立的な社会的関係から説明している。だからこれ自体は、すでに『資本論』第1部で論じられたことでもあるのである。今、その部分を参考のために紹介しておこう。

  〈同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。
  すべての比較的大規模な直接に社会的また共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。
  まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に従業する労働者の数の増大につれて彼らの抵抗も大きくなり、したがってまたこの抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に大きくなる。資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなく、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって必然的にされているのである。同様に、賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適当な使用を監督することの必要も増大する。さらにまた、賃金労働者の協業は、ただ単に、彼らを同時に充用する資本の作用である。彼らの諸機能の関連も生産的全体としての彼らの統一も、彼らの外にあるのであり、彼らを集めてひとまとめにしておく資本のうちにあるのである。それゆえ、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意志の力として、彼らに相対するのである。
  それゆえ、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特有な諸形態を展開する。資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産の開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maitres)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとづく植民地農場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費〔faux frais de production〕に数える。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能とを同一視する。資本家は、産業の指揮者だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことである。〉  (全集第23巻a434-436頁)】


【38】

 |309下|〔原注〕a)「労働〔work〕の性質が,労働者〔workman〕を(すなわち奴隷を)広い場所に分散させることを必要とするならば,監督者〔overseer〕の数は,したがってまたこの監督supervisionに必要な労働の費用は,それに比例して増大するであろう。」(ケアンズ,同前,44ページ。)〔原注a)終わり〕/

 ①〔注解〕パーレンでくくられた挿入はマルクスによるもの。〉 (306頁)

  【これは監督労働の他の側面として、直接的生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで必然的に出てくるものだとして説明して、〈それゆえ,それは奴隷制度のもとでその最高限に達する〉という一文につけられた原注である。奴隷を分散させて労働させるなら、それを監督する監督者の数を、それだけ必要とし、よってそのための費用は比例して増大するという事実を指摘している。
  この場合、最初に述べられていた結合的生産様式から不可避に生じる監督労働の側面はほとんどなく、ただ対立的な生産様式から必然的に生じる側面だけが現れていると考えることもできるかもしれない。つまり奴隷労働が結合労働の姿態をとっておらず、ただ分散的に行われる場合でも、対立的な生産様式から必然的に生じる監督労働は不可欠になり、しかも分散的であるがゆえにその労働の費用は大きくなるというわけである。】


【39】

 〈/309上/奴隷制度を目の前に見ている古代の著述家たちにあっては,実際的にそうであったように,理論のなかで監督[456]労働labour of superintendence〕の両面が不可分に結びついているのが見いだされるのであって,それは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合とまったく同様である。他方,すぐ次に一つの例で示すことであるが,現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である。|〉 (306頁)

 〈奴隷制度を目の前に見ていた古代の著述家たちにあっては、実際そうであったように、理論のなかでは監督労働の両面が不可分に結びついているのが見いだされます。それは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合とまったく同じです。他方、すぐ次に一つの例で示しますが、現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは、現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同じです。〉

 【こうした監督や指揮の労働の二重の性質は、しかしそれぞれの対立した生産様式を前提して、それを擁護しようという理論家や経済学者たちには、その区別ができず、ただそれらの二つの性質は不可分に結びついたものとしてしか理解できていないことが指摘されている。以下、数パラグラフではその具体例が示されるのであるが、ここでは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合もまったく同じであって、現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働を奴隷制度の根拠として弁護したように、現代の経済学者たちもそれを、つまり監督労働を賃労働制度の根拠として正当化しようとするのだ、と述べている。
  ここで〈現代の奴隷制度の弁護論者たち〉とあるが、これは当初、〈古代の奴隷制度の弁護論者たち〉としたほうが、前後の文脈から適当ではないかと考えた。というのは、次のパラグラフには〈カルタゴの著述家マゴ〉の諸書なるものが出てくるように、当時にも奴隷制度を弁護する理論家がいたわけだからである。
 しかしこの部分はエンゲルス版では〈近代的奴隷制度の弁護諭者たち〉となっている。つまり〈現代の〉というのは〈弁護者たち〉にかかるのではなく、〈奴隷制度〉を修飾する語なのである。〈近代的奴隷制度〉というのは、マルクスの時代やそれ以前の時代からのアメリカ大陸の奴隷制度を指していると思われる。そうであれば、またこの一文は違ったニュアンスになる。アメリカ大陸の奴隷制度を擁護する弁護論者たちは監督労働を奴隷制度の根拠として弁護したように、現代の経済学者たちも、監督労働を賃労働制度の根拠として正当化しているということであろうか。これはこのあと(【45】パラグラフ)にでてくるオコナの演説をみるとそれがよく分かる。
 ついでに当初疑問とした翻訳上の問題も紹介しておこう。〈現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である〉という一文に出てくる〈根拠として弁護する〉とか〈根拠として正当化しようとする〉という言い方は果たして正しい翻訳といえるのであろうかと考えたのである。というのは、これだと近代的奴隷制度が監督労働を根拠に成立していると主張することにならないか、あるいは賃労働制度も監督労働を根拠に成立していると主張することにならないか、そしてその上で監督労働を擁護したり正当化するというようになるわけである。だからここで〈根拠として〉と訳されているのは、むしろ「理由に」というぐらいに理解すべきではないだろうかと考えたのである。そして先の一文は次のように内容的には理解すべきだと考えた。
 「近代的奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度を理由に弁護したように、現代の経済学者たちも監督労働を賃労働制度を理由に正当化しようとするのである。
 しかしこれはすでに紹介したが、【45】パラグラフのオコナの演説をみると、マルクスが〈監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし〉(310頁)たと述べているように、彼は監督労働を根拠に奴隷制度を正当化しているのであり、テキストの翻訳は、マルクスの意図をその限りでは正確に表しているのではないかと考えるようになったのである。】


【40】

 カトーの時代農場管理人〔Vilicus。〕--
  「農場奴隷経済〔Gutssklavenwirthschaft〕(familia rustica)の頂点には管理人〔Wirthschafter〕(vilicus, von villa)が立っていて,受け払いや売買を行ない,主人の指図を受け取り,主人が不在のときには命令も処罰もする。……管理人はもちろん他の奴隷よりも自由だった。マゴの諸書は,彼に結婚や産児や財産所有を許すことをすすめ,カトーは彼を女管理人と結婚させることをすすめた。管理人だけは,行状がよければ主人から自由を与えられる見込があったであろう。その他の点では全員が一つの共同世帯をなしていた。……どの奴隷も,管理人自身も,自分の必要品を主人の計算で或る期間ごとに固定された率で支給され,それで暮らして行かなければならなかった。……その量は労働を基準にしていたので,たとえば,奴隷よりも軽い労働をする管理人は,奴隷よりもわずかな量を受け取った。」b)/

  ①〔注解〕「農場奴隷経済〔Gutssklavenwirthschaft〕」--モムゼンでは「農場奴隷制〔Gutssclavenschaft〕」となっている。
  ②〔注解〕「マゴの諸書」--カルタゴで隆盛をきわめた奴隷制を基礎とする農業についての,とりわけプランテーションについての,カルタゴの著述家マゴの著作。この著作の成立時期はわかっていない。この著作は,類似の構造をもったローマの農業に適合的だったので,紀元前146年のカルタゴの滅亡後まもなく,ローマの元老院の決定にもとづいてラテン語に翻訳された。この著作から伝存しているのはばらばらのもろもろの断片だけである。
  ③〔注解〕「すすめた」--草稿ではrathenとなっているが,モムゼンではriethenである。〉 (306-307頁)

 【このパラグラフは〈カトーの時代農場管理人〔Vilicus。〕--〉という一文以外は抜粋文なので平易な書き下しは省いた。カトーの時代については、ウィキペディアで調べてみると、次のように説明されていた。

 〈カトーもしくはカト(Cato)は、古代ローマのポルキウス氏族に属するプレブス系の家族名。ポエニ戦争の時期に活躍したマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)とストア派を信奉したマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)が特によく知られている。ポエニ戦争とは、共和政ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。ポエニとは、ラテン語でフェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)を意味する。紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。〉

 つまりカトーの時代というのは、紀元前3世紀から同2世紀の頃を指すと考えられる。その当時のローマの農業奴隷制経済において、管理人(彼も奴隷だった)がどういう扱いを受けていたかが書かれているわけである。彼は主人(奴隷所有者)の指図を受け、彼に代わって命令や処罰もした。彼らは他の奴隷より自由だった。彼らは結婚(同じ女奴隷の管理人との)や産児や財産所有が許される場合もあり、行状がよければ自由を与えられる可能性もあったとされている。しかし彼らも奴隷であることには変わりはなく、管理人も奴隷も全員が一つの共同世帯をなしていたし、むしろ管理人は他の奴隷よりも軽い仕事をしているということで、他の奴隷よりわずかな量を受け取って暮らして行かなければならなかったとしている。】


【41】

 /309下/〔原注〕b)モムゼンローマ史』,第1巻,第2版,1856年,809-810ページ。〔原注b)終わり〕/

  ①〔訂正〕「809-810」--草稿では「808-810」と書かれている。〉 (307頁)

 【これは先の引用の出典を示しているだけである。(モムゼンの『ローマ史』については、名古屋大学出版会から『ローマの歴史』4巻本として抄訳が出ているが、調べていない。)】

【42】

 /309上/アリストテレス:“όγάο δεπότης ούκ έν τώ κτάσθαι τούς δούλους, άλλ’έν τώ  χοήσθαι δουλοις "(というのは,主人(資本家)が主人としての実を示すのは,奴隷の獲得{賃労働を買う力〔Macht〕を与える資本所有}においてではなく,奴隷の利用{生産過程での賃労働者の使用}においてだからである。)“έστι δέ  αύτη ή έπιστήυη ούδέν μέγα  έχουσα σεμνόν”(だが,この知識は重大なものでも高尚なものでもない。)“ά γάο τόν δουλον έπίσται δεί ποιείν  δεί ταύτα έπιτάττειν(すなわち,奴隷が仕方を心得ていなければならないこと,主人はそれを命令することを心得ているべきである。)διό  όσος έξουσία μή αύτούς κακοπαθεν,έπίτοπος λαμβάνει ταύτην,αύτοί δέ πολιτεύονται ήφιλοσούσιν.”(それゆえ,主人が自分で骨を折る必要がない場合には監督者Aufseher〕がこの名誉を引き受けるのであって,主人自身は国務に従事したり哲学したりするのである。)c)/

  ①〔注解〕マルクスは,すでに1858年の一冊のロンドン・ノート〔Exzerpte zur politischen ökonomie.Sommer1858.Original:IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.B 46;MEGA IV/15(未刊)所収予定〕でアリストテレスの『政治学』(De republica)からの抜粋を行なったが,そののちあらためてこの著作の第1部を「ノートVII」,ロンドン,1859-1863年〔Heft VII."Political Economy Criticism of".Begonnen am 28、Februar 1859 bis Mai 1863.Original:IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.A 49 u,B 91a;MEGA IV/15(未刊)所収予定〕の抜粋部分のなかで抜粋した(238-241ページ)。この抜粋にマルクスが使ったのは,アドルフ・シュタールの2か国語版,ライプツィヒ,1839年である。シュタールのギリシア語のテキストは,イマヌエル・ベッカー編の標準版(ベルリン,1831年:オックスフォード,1837年)とはごくわずかしか異なっていない。通常マルクスは,原典テキストを1行または数行抜粋し,それからそのあとそれぞれにシュタールのドイツ語訳をつけた。彼はときとしてテキストを要約して短縮し,また部分的には原典のテキストを置き換えたりした。シュタールは自分の章番号およびパラグラフ番号をつけたが,また,ベッカーの章番号をも欄外につけている。マルクスは,引用することを容易にするために自分の抜粋ノートにこれらの番号を取り入れた。
  ②〔注解〕このパラグラフでの引用は,アリストテレス『政治学』1,7,11,シュタール版,1,2,13,を解釈して要約したものである。
  ③〔異文〕「賃労働」← 「労働」〉 (307-309頁)

  〈アリストテレス:というのは、主人(資本家)が主人としての実を示すのは、奴隷の獲得(つまり資本主義的生産様式においては、賃労働を買う力を与える資本所有)においてではなく、奴隷の利用(つまり同じく資本主義的生産様式では生産過程での賃労働の使用)においてですから。しかし、この知識は重大なものでも高尚なものでもありません。すなわち、奴隷が仕方を心得ていなければならないこと、主人はそれを命令することを心得ているべきです。それゆえ、主人が自分で骨を折る必要がない場合には監督者がこの名誉を引き受けるのであって、主人自身は国務に従事したり哲学したりするのです。〉

 【これはアリストテレスの『政治学』からの抜粋のようであるが、注解によればマルクスはそれを要約しているということなので、敢えて平易な書き下しをしてみた。テキストではギリシャ語が使われており、そのあとに恐らくマルクス自身の要約と考えられる文章が括弧のなかに書かれている。ギリシャ語の部分を再現するのは難渋した。ギリシャ語の素養はまったくないし、大谷氏が使っている活字には見つからないものがあったからである。だからギリシャ語の部分は完全とは言い難いことをお断りしておく。
  さて、マルクスはアリストテレスが「主人」と書いているところに括弧で「資本家」と書き加え、「奴隷の獲得」という一文にも同じように、「賃労働を買う力を与える資本所有」と書き、「奴隷の利用」にも「生産過程での賃労働者の使用」と書いている。つまりアリストテレスが奴隷制度について述べていることを資本主義的生産に引き較べて論じているわけである。ただそのあとのアリストテレスを要約した一文には、マルクス自身による書き込みはない。しかし敢えて、その内容を資本主義的生産に引きつけて書いてみると次のようになるのかもしれない。「賃労働者は仕事の内容を心得ていなければならないが、資本家は彼らにそれを命令することを心得なければならない。しかし資本家が自分で骨を折る必要がない場合には、それを管理人に委ねるのであり、管理人はその名誉を引き受けるのである。そして資本家はただ国務に従事したり、哲学することによって(?)、自らが社会的な生産においては余計なものであることを証明するわけである。ただついでに付け加えておくと、マルクスは後に〈とはいえ,だからといって,生産的資本家たちが〔「〕国務や哲学に従事」しているわけではないのであるが〉(312-313頁)とも述べている。】


【43】

 /309下/〔原注〕c)アリスト〔テレス〕『政治学』,ベッカー編,第1巻,第7章〔山本光雄訳『政治学』,『アリストテレス全集』15,岩波書店,1969年,19ページ〕。〔原注c) 終わり〕|

  ①〔注解〕アリスト〔テレス〕『政治学。全8巻』および『経済学』。(政治学。)オックスフォード,1837年。(イマーヌエル・ベッカー編『著作集』第10巻。)--アリストテレスについての前パラグラフへの注解①をも見よ。〉 (309頁)

  【このパラグラフも上記のアリストテレスからの抜粋の典拠を示すだけのものである。
   参考のために『アリストテレス全集』第15巻から該当部分(政治学第1巻第7章)の全文を紹介しておこう。

 〈しかしまた以上のことから、或る人々の言っているように、主人の支配と政治家の支配とが同一であることも、凡ての支配が互いに同じであることも、決してないということも明らかである。何故なら後者は自然によって自由である者たちの支配であるのに、前者は自然によって奴隷である者たちの支配であり、また家政術は独裁政治讐あるのに(何故なら凡ての家は一人のものによって支配されるからである)。国政術〔政治家の術〕は自由で互いに等しき者たちの支配であるからである。むろん、主人は知識をもっているから、それで主人と言われるのではなくて、彼が主人たるの性質をもっているから、そう言われるのである、奴隷も、自由人もやはり同様である。しかし、主人の知識も、奴隷の知識もそれぞれあるであろう、そして奴隷の知識というのは、シュラクサイにいた人が教えていたようなものに他ならぬであろう(何故なら、あの地では或る人が報酬をとって、奴隷たちに日常の奉公の仕事を教えるのを常としていたからである)。そしてこのような仕事の学習はもっと広きにわたることもできょう、例えば料理術とかその他こういう種類の高級な奉公の仕事などが学ばれるべきであろう。何故なら奴隷が異なるに応じて仕事も違い、或る奴隷のは他にくらべてより一層尊重すべき仕事であり、また或る奴隷のはより一層生活に欠き得ない仕事であって、諺にも言うように「奴隷の前に奴隷あり主人の前に主人あり」であるからである。だから、ともかくかような知識は凡て奴隷のもつべきものであるが、しかし主人のは奴隷たちの使用を教える知識なのである。何故なら主人の主人たる所以は奴隷を獲得することのうちにあるのではなくて、奴隷を使用することのうちにあるからである。しかしその知識は大したものでもなければ、感心するほどのものでもない。何故なら奴隷が如何にしてなすべきかを知らなければならぬ仕事を、主人はただ如何に命令すべきかを知っているだけでよいからである。それゆえに自分みずから骨折るに及ぼぬ人はみな、支配人にこの役をまかせ、自分自身は国の政治に与かるか、学問にふけるかするのである。しかし奴隷を獲得する術、もちろん私の言うのは正しく獲得する術のことだが、それは先の二つの術〔すなわち主人の術や奴隷の術〕とは別なものである、何故なら、それは一種の戦争術、あるいは狩猟術だからである。ともかく、以上で奴隷と主人については規定されたとしよう。〉(18-19頁、岩波書店1969年)】

 

【44】

 〈/309上/支配Herrschaft〕は,政治の領域でと同じように,経済の領域でも支配者たち(権力者たち)に支配することの諸機能Functionen des Herrschens〕を課するということ,--この諸機能は経済の領域では,(農場管理人〔vilicus〕が行なう売買のほかに)労働能力を消費することを心得ていることに関連している--,このことを[457]アリストテレスはそっけない言葉で述べてから,さらに付け加えて,この監督労働labour of superintendence〕はたいしたことでもない,それゆえに主人は,十分な資力ができさえすれば,このような骨折りをする「名誉」を監督者〔Aufseher〕に任せてしまう,と言っているのである。|〉 (309頁)

 

 〈支配は、政治の領域でと同じように、経済の領域でも支配者たち(権力者たち)に支配することの諸機能を課すということ、このことをアリストテレスはそっけない言葉で述べています。この諸機能は経済の領域では、農場管理人が行う売買のほかには、労働能力を消費することを心得ていることに関連しています。アリストテレスは、それに加えて、この監督労働はたいしたことでもないが故に、主人(奴隷所有者)は、十分な資力ができさえすれば、そうした骨折りをする「名誉」を監督者に任せてしまう、と言っているのです。〉

 【この一文はアリストテレスの先の引用を直接受けて、それを解説する形で書かれている。支配するということは、政治の領域でも経済の領域でも、支配者たちに支配するという諸機能を課すということ、ただこの支配する諸機能である監督労働はたいしたことでもないこと、だから彼らは十分な資力ができれば、その名誉を監督者に任せてしまうのだ、とアリストテレスは言っている、とマルクスは指摘しているわけである。
 つまり監督・指揮労働の他の側面である対立的な生産様式において、支配者の支配するという諸機能は確かに一つの機能であり、その限りでは労働であるが、しかしそれ自体はたいしたものでなく、だからそれらは支配者が十分な資力を持つようになれば、その支配する機能を監督者に任せてしまうのだとアリストテレスの炯眼は指摘しているとマルクスは見ているわけである。】


【45】

 |310上|すべての結合した〔combinirt〕社会的労働の性質から生じる特殊的機能ではなくて,生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立--奴隷制度のもとでのように労働能力が労働者そのものといっしょに買われるのであろうと,労働者自身が自分の労働能力を売るのであってしたがって彼の生産過程が同時に資本による彼の労働の消費過程として現われるのであろうと--から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだすこと,このことは,1859年12月19日ニューヨークの一集会で,合衆国における奴隷制の一擁護者によって,すなわちオコナなる弁護士によって(「南部に正義を」という旗じるしのもとで)行なわれたのにまさるものはない。「さて,皆さん」,彼は盛んな拍手のなかで言った。「黒人が奴隷というこの状態に委ねられているのは,自然によってなのであります。黒人には体力があり,労働をするだけの力があります。ところが,この体力を創造した自然は,統御するgovern〕ための知能をも,労働しようとする意志をも,彼に与えることを拒んだのであります。(拍手)黒人にはこのどちらも与えられていないのであります! そして彼に労働の意志を与えなかったその自然自身が,この意志を強制する主人を彼に授けたのであり,彼が暮らしてこれた〔in which he was capable of living〕風土〔Clima〕のなかで,彼自身のためにも彼を統御する主人のためにも彼を有用な召使いにする主人を授けたのであります。私は,黒人を自然によっておかれた状態のままにしておくということ,彼に自分を統御する主人を与えるということ,これはけっして不正なことではない,と断言します。……また,黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,--このことも,いささかたりとも彼の権利を奪うものではないのであります。」

  ①〔異文〕「ア[メリカ]」という書きかけが消されている。
  ②〔注解〕チャールズ・オコナ[1859年12月20日の合衆国救済大集会での演説]所収:『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』第5822号,1859年12月20日付,5ページ第6欄,および,8ページ第1欄。〔MEGAはこの引用への注解で,『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』によってオコナの演説の「原文」を掲げているが,それはマルクスによる引用とはあちこちで違っている。しかし,マルクスの引用でのそれらの箇所はいずれもマルクスが原文をわざわざ変更する必要があったとは考えられない。この演説は「ノートVII」(ロンドン,1859-1863年)に他人の筆跡で抜粋されているとのことであり(MEGAでは未刊),この抜粋が別の掲載紙からのものであった可能性がある。〕〉 (309-311頁)

 〈すべての結合した社会的労働の性質から生じる特殊的機能ではなくて、生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立--この対立が奴隷制度のもとでのように労働能力が労働者そのものといっしょに買われるのであろうと、労働者自身が自分の労働能力を売るのであって、したがって彼の生産過程が同時に資本による彼の労働の消費過程として現れるのであろうと--から生じる機能である限りでの、監督および指揮の労働を、こうした、直接的生産者の従属から生じる機能を、この関係そのものの正当化理由として描き出し、直接生産者の搾取、すなわち彼の不払労働の取得を、資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描き出すこと、このことは、1859年12月19日にニューヨークの一集会で、合衆国の奴隷制の一擁護者によって、すなわちオコナなる弁護士によって(「南部に正義を」という旗印のもとで)行われたものに勝るものはありません。
  「さて、皆さん」、彼は盛んな拍手のなかで言いました。「黒人が奴隷というこの状態に委ねられているのは,自然によってなのであります。黒人には体力があり,労働をするだけの力があります。ところが,この体力を創造した自然は,統御する〔govern〕ための知能をも,労働しようとする意志をも,彼に与えることを拒んだのであります。(拍手)黒人にはこのどちらも与えられていないのであります! そして彼に労働の意志を与えなかったその自然自身が,この意志を強制する主人を彼に授けたのであり,彼が暮らしてこれた〔in which he was capable of living〕風土〔Clima〕のなかで,彼自身のためにも彼を統御する主人のためにも彼を有用な召使いにする主人を授けたのであります。私は,黒人を自然によっておかれた状態のままにしておくということ,彼に自分を統御する主人を与えるということ,これはけっして不正なことではない,と断言します。……また,黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,--このことも,いささかたりとも彼の権利を奪うものではないのであります。」〉

 【後半のオコナの演説部分は引用なので、そのまま紹介した。このパラグラフ自体はとくに問題とするところはないかも知れないが、【39】パラグラフとの関連で、もう一度、マルクスの説明を詳しく検討してみよう。
  マルクスは〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立……から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,……この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだすこと〉と述べている。ここで〈この関係そのものの正当化理由として描きだし〉という場合の〈この関係〉というのは、〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立〉にもとづく生産関係のことであり、奴隷制度や賃労働制度のことと考えるべきであろう。つまり対立的関係から生じる監督・指揮労働を、こうした対立的な関係そのものの正当化理由として描いているとマルクスは述べていると考えることができる。だから【39】パラグラフで〈現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である〉と述べていることは、監督労働を、奴隷制度や賃労働制度そのものの正当化理由として持ち出し、またそれによって監督労働そのものを擁護するということと考えられるのである。
  実際、オコナの演説の内容を見てみると、彼は奴隷は体力があるが、それを統御する知能や意志もない、自然がそれを与えるのを拒んだ、しかし自然は同時に、この意志を強制する主人を彼に与えたのだ、だから黒人をいまの奴隷のまましておき、彼に自分を統御する主人を与えるということは、決して不正ではない、というのである。マルクスは〈黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,〉という部分に下線を引いているが、黒人を支配し強制する、そのおかえしとして黒人は労働しなければならず、そして黒人がその労働によって社会にとって有用となるのだから、その代償を主人に提供させることは、黒人の権利を奪うものではない、などと厚顔な理屈を述べている。つまりオコナによれば、黒人は自分にはない知能をもつ主人の強制や監督・指揮があってこそ、その労働によって社会に有用なものとなっているのだから、その代償として主人に儲けを提供するのは当然だ、ということになるわけである。つまり監督・指揮労働によって奴隷制度そのものを正当化しているといえるわけである。
  ついでに指摘しておくと、先のパラグラフでは〈この監督労働labour of superintendence〕はたいしたことでもない,それゆえに主人は,十分な資力ができさえすれば,このような骨折りをする「名誉」を監督者〔Aufseher〕に任せてしまう〉とアリストテレスは言っていると指摘されていた。つまりオコナが黒人奴隷に欠けていて、故に自然が主人にそれを与えたというものは、その意味では〈たいしたことでもない〉のであり、だから主人が自らそれを担うのではなく、南部諸州の農園でも恐らくその機能は奴隷の一部かあるいは雇われの貧乏白人に任されたのではないか。つまりその意味ではオコナがいうところの主人の正当化理由もまったく当てにはならないということでもある。】


【46】

 第1に,賃労働者は,奴隷と同様に,自分に労働をさせ自分を統御する〔governiren〕ために,主人〔master〕をもたなければならない。そして,この支配・隷属関係を前提すれば,賃労働者が,彼自身の労賃を生産したうえに,監督賃金wages of superintendence〕,すなわち自分を支配し監督する労働にたいする代償を生産することを強制され,「彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること」を強制されるということは,当然のことなのである!

  ①〔異文〕「奴隷が」という書きかけが消されている。|〉 (311-312頁)

 〈このオコナの理屈を奴隷と同様に賃労働にも当てはめて考えてみますと、第1に、賃労働者は、奴隷と同様に、自分に労働をさせて自分を統御するために、主人を持たねばなりません。そして、この支配・隷属関係を前提しますと、賃労働者が、彼自身の労賃を生産したうえに、監督賃金、すなわち自分を支配し監督する労働にたいする代償をも生産することを強制され、「彼を統御するため、また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能に対する正当な代償を主人に提供させること」を強制されるということは、当然のことになるわけです。〉

 【ここでは〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立……から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだ〉したオコナの主張をそのまま賃労働と資本との関係に置き換えて、マルクスは論じている。
  ここで気づくのは、マルクスは賃労働者は、自分自身の労賃を生産したうえに、自分たちを支配し監督する労働にたいする代償を生産することを強制されるとしていることである。つまりこうした監督賃金は賃労働者の必要労働を越える部分、すなわち剰余労働から支払われると述べていることになる。その意味では、それは監督および指揮という機能を果すことに対する、つまりその労働に対する対価ではないということになる。そしてその限りでは監督・指揮労働は賃労働とはいえないことになる。これは以前の利子と企業利得とへの利潤の分割との関連で出てきた、労働監督賃金と観念されるものは企業利得の転化したものであり、その限りでは利潤の分割されたものにその源泉をもっているという理解とその限りでは整合する。
 なおここではマルクスは〈第1に,〉と書き出しているが、「第2に、」以降は見当たらない。】


【47】

 資本の対立的性格から,資本の労働支配から発生するかぎりでの,(だからまた,対立にもとづくすべての生産[458]様式と資本主義的生産様式とに共通であるかぎりでの),監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕は,資本主義的生産様式の基礎上では,すべての結合した〔combinirt〕社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ,混ぜ合わされている。そのようなエピトロポスέπίτροπος〕,あるいはマネジャー,あるいは(封建時代のフランスでそう呼ばれた)レジスール〔regisseur〕の労賃は,このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば,利潤からは完全に分離して,熟練労働〔skilled labour〕にたいする労賃というかたちをとることもある。とはいえ,だからといって,生産的資本家たちが〔「〕国務や哲学に従事」しているわけではないのであるが。

  ①〔注解〕「エピトロポスギリシャ語〕」--監督者,管理人。〉 (312-313頁)

 〈資本の対立的性格から、資本の労働支配から発生するかぎりでの、(だからまた、対立にもとづくすべての生産様式と資本主義的生産様式とに共通であるかぎりでの)、監督および指揮の労働は、資本主義的生産様式の基礎上では、すべての結合した社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ、混ぜ合わされています。そのようなエピトロポス(ローマの監督者、管理者)、あるいはマネジャー、あるいは(封建時代のフランスでそうよばれた)レジスールの労賃は、このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば、利潤からは完全に分離して、熟練労働にたいする労賃というかたちをとるとこともあります。とはいえ、だからといって、生産的資本家が「国務や哲学に従事」しているわけではないのですが。〉

 【ここではまず最初に、対立的性格からうまれる、監督および指揮の労働は、資本主義的生産様式の基礎上では、結合した社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ、混ぜ合わされていることが指摘されている。
  次にマルクスは、こうした対立的性格から生じる監督・指揮労働というのは、すべての対立的生産様式に共通のものであるとも述べ、だからそれをローマ時代のエピトロポスや封建時代のフランスでよばれたレジスールという名称をわざわざ挙げている。
  そして最後に、こうした監督・指揮労働は事業規模が大きくなれば、利潤から完全に分離して、熟練労働に対する労賃というかたちをとることもあると述べている。これは【32】パラグラフで、〈労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得〉が、〈純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われるのは〉〈ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるのに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金wages d.general manager〕においてである〉と述べていたことに該当する。
  そしてそもそも〈この点についてさらに立入る〉として始められたのが、【35】パラグラフからの〈監督および指揮の労働〉の二重性の考察の分析からなのである。その意味では、ようやくマルクスが〈さらに立入る〉とした〈この点〉がこれから問題になるともいうことができる。
  資本主義的生産様式の基礎上では、対立的な性格から生じるかぎりでの監督・指揮労働と、結合的な社会的労働から発生する監督・指揮労働とが不可分にからまって現われている。だから彼らの手にする労賃は、一方で対立的性格から生まれる剰余価値の一部分であるといえるのと同時に、結合労働から生まれる生産的な監督・指揮労働に対する労働賃金、つまり労働力に対する対価という側面も合わせてもっているともいえるであろう。だから彼らの労賃は熟練労働に対する労賃というかたちをとるが、そこには労働力に対する対価という側面と、剰余価値の一部を資本から与えられるという側面の二つの、二重の要素があるのではないだろうか。そしてこの二重の要素は、マネジャーの職掌がより上級で高給取りか、より下級か平並みかによってその比重は違ってくるともいえる。もっともここらあたりはもう少しマルクスの展開をあとづけてから考える必要があるとは思うので、とりあえず結論は留保しておこう。】


【48】

 〈①(産業資本家たちではなくて)産業マネジャーたち〔d.industrielen managers〕こそ「われらが工場制度の魂」であるa)とは,すでにユア氏が言っていることである。事業の商業的部分について言えば,商業利潤の性質は前の章で論じたので,ここで述べることは不必要である。/

  ①〔異文〕「(産業資本家たちではなくて)」--書き加えられている。
  ②〔注解〕ユアでは次のようになっている。--「おそらく,工場主の商業的観点を補佐するのにふさわしい見識,知識,廉潔さをもち,産業の専門家として工場主の利益のために尽くす,多数の工場マネジャー〔directeurs de factories〕が存在するであろう。実務に携わるこれらの人びとこそ,われらが工場制度の魂なのである。」〉 (313頁)

 〈産業資本家たちではなくて、産業マネジャーこそ「われらが工場制度の魂」であるとは、すでにユア氏が言っていることです。事業の商業的部分について言えば、商業利潤の性質は前の章で論じたので、ここで述べることは不要です。〉

 【このパラグラフは前パラグラフで〈このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば,利潤からは完全に分離して,熟練労働〔skilled labour〕にたいする労賃というかたちをとることもある〉と述べていたことを直接受ける形で〈(産業資本家たちではなくて)産業マネジャーたち〉のことを論じているわけである。ただここでは産業マネジャーについて、ユアが言っていることを紹介しているだけである。ただユア自身は、産業マネジャーは〈工場主の商業的観点を補佐するのにふさわしい見識,知識,廉潔さ〉を持った人物でもあるとしているが、マルクス自身は〈産業の専門家として工場主の利益のために尽くす,多数の工場マネジャー〔directeurs de factories〕が存在する〉というところに注目しているように思える。だから補足的に〈事業の商業的部分について言えば,商業利潤の性質は前の章で論じたので,ここで述べることは不必要である〉と述べているのであろう。マルクスの文章だけを読んでいれば、なぜ、ここで急に〈事業の商業的部分〉が問題になるのか不明であるが、ユアの当該部分の主張を踏まえればそれがよく分かる。
 要するに、マルクスが注目しているのは、産業マネジャーこそ工場制度の魂だとユアが指摘していることである。彼らこそ産業に精通し、そこで労働を監督し指揮を担当して、工場制度を工場制度たらしめている者たちだというわけである。その限りでは産業マネージャーは工場制度になくてはならないものであり、生産的な労働を担っていると言えるわけである。】


【49】

 |310下|〔原注〕a) A.ユア,医学博士,『工場哲学』,パリ,1836年,第1巻,68ページ。そこでは,工場主たちのこのピンダロス(同ページ,およびそれ以降)は同時に工場主たちに,彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えている。〔原注a)終わり〕/

①〔注解〕ユアでは次のようになっている。--「この種の教育は,もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが,それが間違いであることは,経験が証明している。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S,2036.1-13 und 2162.24-25)を見よ。
②〔異文〕「……までさえも……ない〔nicht soviel〕」という書きかけが消されている。〉 (313-314頁)

 〈そこでは、工場主たちのこのピンダロスは同時に工場主たちに、彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えています。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフのユアの〈「われらが工場制度の魂」である〉という一文につけられた原注であり、その典拠を示すものであるが、同時にマルクス自身の補足的な文章が付け加えられているので、一応、書き下し文をつけておいた。指摘するまでもないが、ここでマルクスが〈そこでは〉と述べているのは、ユアの著書『工場哲学』では、という意味である。その著書で、ユアは、工場主たちは自分たちが使ってる機構、つまり工場制度については、まったく無知であることを証明している、というのである。
  MEGAの注解では61-63草稿を参照せよとあるので、とりあえずそれを見ておくことにしよう(MEGAの注解等は略)。

 ユア氏自身、「イギリスの工場主は、どんなに知識があっても」、彼らは、「事業の生産活動の領域については、商業活動の領域ほどには」(66ページ)明るくないことを認めている。
 67ページの同所でユアは、「すぐれた機械の構造」について工場主が「無知」であることを語っている。(67ページ。)(そのため彼らは「支配人」に依存する。)ちなみにいえば、これらの「支配人」は、工場の「所有主と異なり、ユアのことばによれば、「われらが工場制度の魂」(68ページ)である。
 さきほどは、ユアは、工場労働者は応用されている機械学や物理学の本質に深い洞察を得る、とわれわれに語ったのであるが、今度、工場主について語るところでは、「この種の教育は、もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが、それがまちがいであることは、経験が証明している」(68ページ)と告げるのである。
 彼は、「工場主の商業的な観点」(67ページ)(技術的な観点と対立する)(六七ページ)について、非常に正確に語っている。〉 (草稿集⑨226-227頁)

 この61-63草稿を見ると、MEGAの注釈は〈工場主たちのこのピンダロス(同ページ,およびそれ以降)は同時に工場主たちに,彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えている〉部分に対して、〈この種の教育は,もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが,それが間違いであることは,経験が証明している。」〉という部分を〈ユアでは次のようになっている〉として紹介しているのであるが、しかしむしろユアの主張で紹介すべきはマルクスが〈イギリスの工場主は、どんなに知識があっても」、彼らは、「事業の生産活動の領域については、商業活動の領域ほどには」(66ページ)明るくない〉という部分か、あるいは〈67ページの同所でユアは、「すぐれた機械の構造」について工場主が「無知」であることを語っている〉と述べている部分を紹介すべきではないだろうか。
 なお〈ピンダロス〉については、草稿集⑨の人名検索では次のような説明がある。

 〈ピンダロス(ピンダ ル) Pindaros(Pindar) (前520ごろ~前446ごろ)ギリシアの叙情詩人〉(草稿集⑨90-91頁)

  そして次のような一文がある。

 〈では、工場制度の抒情詩人ピンダロスのユア氏(『工場哲学』)が語る機械制作業場の本質をみるとしよう。〉 (草稿集⑨219頁)

 この後者の引用文から類推できるのは、マルクスが〈工場主たちのこのピンダロス〉と述べているのはユア自身のことを少し皮肉を込めて指していると考えることができる。】

  (続く)

 

2019年10月 5日 (土)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-7)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【31】パラグラフからである。


【31】

 |308上|ここで資本家の意識のなかでは,以前に(第3部第2章で)示唆した,平均利潤への均等化におけるもろもろの補償理由の場合とまったく同じことが行なわれる。剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が,資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて,利潤そのものの発生根拠Entstehungsgründe〕にされ,その(主観的な)正当化理由Rechtfertigungsgründe〕にされるのである。

  ①〔注解〕「以前に(第3部第2章で)」--MEGA II/4.2,S、278.25-281.6〔MEW25,S,218-220〕を見よ。〉 (301頁)

 〈ここで資本家の意識のなかでは、以前に(第3部第2章で)示唆したように、平均利潤への均等化におけるもろもろの補償理由の場合とまったく同じことが行われます。剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が、資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて、利潤そのものの発生根拠にされ、その(主観的な)正当化理由にされるのです。〉

 【〈ここで〉というのは、機能資本家の機能が資本の性格を捨象されて、たんなる機能者になり、賃労働になるということ、そこから搾取する労働も搾取される労働も、労働として同じだと主張されることになるわけである。こうした状態において、資本の意識のなかで、ねじ曲げられて、それが利潤の分岐したものということが忘れられ、搾取する労働に対する正当な賃金であるという、正当化の主張が現れてくるということであろう。
 マルクスは第3部第2章の補償理由について述べているので、われわもそれをもう一度、振り返ってみよう。(全集第25巻a261-264)
 マルクスが「補償理由」として述べていることは、資本主義的生産が発展すると一般的利潤率が形成され、商品の市場価格はその価値にではなく、生産価格に規定されるようになる。これは資本家たちが総利潤をそれぞれの資本の大きさに比例して分け合うということである。そこから資本家たちの間ではさまざまな打算が行われるようになる。回転が比較的遅いために利潤が逃げていく資本はそれを埋め合わせるように価格を設定するとか、危険が高い資本にはその保険費用を価格に上乗せするとか、等々。こうしたことから、彼らは、そうした補償理由が可能なのは、ただ単に、共同の獲物である総剰余価値にたいしてそれぞれの資本に比例して同等な大きさの請求権をもっているということによることを忘れ、〈彼らにとっては、むしろ、利潤の補償理由は、総剰余価値の分けまえを平均するのではなくて利潤そのものを創造するように見えるのである。というのは、利潤は、ただ単に、なにかある動機によって商品の費用価格につけ加えられるものから生ずるように見えるからである。〉(全集第25巻a264頁)。マルクスが〈剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が,資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて,利潤そのものの発生根拠Entstehungsgründe〕にされ,その(主観的な)正当化理由Rechtfertigungsgründe〕にされる〉と述べているのは、こうしたことである。
 そしてそうした補償理由と同じことが、今回(労働監督賃金)の場合もまったく同じように行われるのだということである。それは次のパラグラフから説明される。】


【32】

 労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得という観念は利子にたいする企業利得の対立から生じるのであるが,この観念はそれ以上のよりどころを次のことのうちに見いだす。すなわち,実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし,また現実に区分されてもいるということ,またはむしろ逆に,労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では,利潤の不可欠な構成部分として現われるということがそれである。この部分が純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われるのは,すでにA.スミスが正しく見つけだしたように,ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるのに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金wages d.generalmanager〕においてである。

  ①〔注解〕アダム・スミス『諸国民の富……』,パリ,1802年,第1巻,94-97ページ(Adam Smith,"An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations",Cannan-Edition,vol.1,London 1950,pp,50-51.大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,Ⅰ,岩波書店,1969年,132-133ページ〕。--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.2,S,370-373)を見よ。
 ②〔異文〕「それらの……の結果……の事業部門」という書きかけが消されている。〉 (301-302頁)

 〈労働監督賃金としての企業利得という観念は、利子に対する企業利得の対立から生じるのですが、この観念はそれ以上のよりどころを次のことのうちに見いだします。すなわち、実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、また現実に区分されてもいること、またむしろ逆に、労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では、利潤の不可欠な構成部分として現れるということがそれなのです。この部分が純粋に、自立して、一方では利潤(利子と企業利得との合計としての)から、他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分からも完全に分離されて現れるのは、すでにA.スミスが正しく見つけだしたように、ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金においてです。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフで説明されている一般的利潤率にもとづく生産価格における補償理由と同じことが、今回の場合も行われるのだ、ということの説明と思われるのであるが、いま一つよくわからない。そもそも補償理由というのは、総利潤(総剰余価値)を資本の大きさに比例して分け合うことから、さまざまな補償理由をあげて、その分け前を分配し合うことから来るのであるが、それが資本家たちには補償理由そのものが利潤を創造するように思えるということであった。
 同じことが行われるのだから、利潤が分割されて利子と企業利得になるのだが、それらが本来は利潤の分割されたものということが忘れられ、利子と企業利得が利潤を構成するものと考えられるようになるわけである。そして同じことは、企業利得が労働監督賃金になり、さらにはマネージャーの賃金になると、それらが利潤が分割されたものということそのものが忘れ去られ、それぞれが独自の起源から生じるかのように観念され、特に労働監督賃金やマネージャーの賃金では、それらの労働そのものが賃金をもたらす理由であるかに観念されるということであろう。そしてそれが彼らが利潤の一部分として企業利得を手にすることの正当化に利用されるということであろう。とにかく、もう少し詳しく、このパラグラフの展開を順序立てて吟味してみよう。
 (1)まずマルクスは労働監督賃金という観念を問題にする。そしてこの労働監督賃金というのは利子に対立する企業利得から生じることを確認している。ここでマルクスは〈労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得という観念〉を問題にしているが、これは労働監督賃金というのは企業利得がそれに転化した観念だということであり、だから労働監督賃金そのものは企業利得、つまり利潤の分割された一部分だということを確認しているようにも思える。
 (2)しかしこの労働監督賃金という観念は、それ以上のよりどころを見いだすのだという。つまりこれは利子と分割されて企業利得になり、しかも資本の対立的な性格は利子に吸い上げられて、単なる機能者の労働に対する対価という意味で労働監督賃金になったのであるが、それ以上のよりどころということであろう。だからそれはそれが本来は企業利得、すなわち利子と同様に利潤の一部分であるという本質が覆い隠されるだけではなく、あたかも労働の対価であるかの観念が生じるのであるが、さらにそうした観念そのものをより強固にする理由が見いだされるようになる、ということであろう。
 そしてそれは①実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、また現実に区分されてもいるというのである。これは一体どういう事態を述べているのであろうか。特定の資本家は利潤の一部分を削って労賃として支払う場合もあることを述べているのであろうか。確かに中小零細業者などでは、資本家たる親方は、労賃を支払うために、自らの収入を削ってまで間に合わせることがないとはいえないが、果たしてそういうことをマルクスは述べているのであろうか。ここらあたりはいま一つよく分からない。②むしろ逆に、労賃の一部分は資本主義的生産の基礎の上では、利潤の不可欠な構成部分として現れる、という理由もあげられている。この場合は、「逆に」とあるから、先の場合とは逆で、労働者の賃金の一部が資本家に盗まれて(だから労働者は労働力の価値以下の賃金を強いられて)、その一部が利潤として取り込まれるということであろう。確かにこうしたことは資本主義的生産の基礎の上ではよくあることではある。
 要するに、ここでマルクスがいわんとしていることは、労賃と利潤とは現実のなかでは、相互に削り取られて一方の一部分となる場合があるということを言っているようである。つまり利潤と賃金といってもその境目は現実にはあやふやであるということであろう。
  だから資本家が自分が自分自身に支払う給与を自分の労働に対する正当な対価であり、賃金なのだ、と主張することを可能にしているということであろうか。
 次に〈この部分が純粋に,自立して〉とある、〈この部分〉が何を指しているのかいま一つよくわからない。その直前の〈労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では,利潤の不可欠な構成部分として現われるという〉部分なのであろうか。しかしそれだとそのあとに続く文章とは繋がらないような気がする。ここはやはり労働監督賃金と観念される企業利得の〈この部分〉ということであろう。つまり労働監督賃金が、さらに純粋に自立して、利潤とも、あるいは企業利得とも完全に分離して現れてくるのは、ジェネラル・マネジャーの賃金だということのようである。つまり労働監督賃金が〈純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われる〉ということである。〈純粋に,自立して,また……利潤とも企業利得とも完全に分離されて現われる〉というのは、利潤やその一部分である企業利得とも、つまり不払い労働を取得するという利潤としての性格をますます薄め、純粋に労働に対する対価としての、労賃としての性格を自立的に示すようになったもののことであり、それがジェネラル・マネジャーの賃金だということであろう。マルクスは、ジェネラル・マネジャーの賃金をそのようなものとして捉えているように思える。企業利得が労働監督賃金として観念されるのは、利子がそもそも資本の対立的な性格をすべて生産過程の彼方へと吸い取ってしまい、機能資本家を単なる機能者にしてしまったからである。つまり単なる労働過程一般の担い手にして、ただ資本家の労働を監督・指揮するという特別な労働を担うだけのものにしたからであり、だから労働監督賃金も、他の一般の労働者の賃金と同じ範疇に属するものになったのだということであった。しかしそうした労働監督賃金もやはり利潤から分割された企業利得の転化したものであり、そのかぎりでは企業利得という機能資本家の取得するものの転化したものという観念を引きずっていた。しかしジェネラル・マネジャーになるとそうしたものからも純粋に自立して完全に分離したものとして現れ、そのかぎりではほかの労働者の賃金と同一のものとして現れているのだ、ということのようである。ここらあたりはやや微妙であるが、とりあえず、そのように解釈しておこう。
 ただこれだけではまだ先のパラグラフで述べていた補償理由との関連がいま一つはっきりとはしないのではあるが。
  もう一度復習しよう。補償理由との関連で考えると、まず剰余価値の分配に規定的に入り込む補償理由というのは、資本家たちが自分の資本の大きさに比例した利潤(平均利潤)を得るために持ち出すさまざまな理由が、あたかも彼らの利潤そのものを生み出しているかに考えるということであった。同じように、総利潤が分割されて、利子と企業利得とになるが、しかしそれらは利潤のまったく異なる範疇になり、まったく違った根拠から生じているかのように観念されるようになる。そして企業利得が労働監督賃金と観念され、さらにそれが利潤からも企業利得からも純粋に自立して完全に分離されたものになると、ジャネラル・マネジャーの賃金として現われ、そうなるとそれは純然たる正当な労働に対する対価として、すなわち労働賃金として観念されるようになるのだということであった。だから本来は利潤の分割されたものが転化したものであったのに、そうした本質はまったく忘れ去られ、それは他の一般の労働者の賃金と変わらない単なる労賃であって、労働に対するまったく正当な対価であると、正当化されるようになるということであろうか。
  ここらあたりはなかなか難しい感じがする。補償理由というのは、あたかも生産価格があれこれの理由を付けて形成されるように資本家たちには思え、それが総利潤を各自の資本の大きさに応じてに配分するものであるという本質が忘れられ、そうしたさまざまな理由そのものが利潤の源泉であるかに思われることであった。こうした補償理由が企業利得が労働監督賃金として観念される場合にも生じているとマルクスは指摘しているわけである。そうした理屈からするなら、労働監督賃金もやはり利潤の分割された企業利得の転化したものだが、しかしそうした出自は忘れられ、あたかも監督・指揮する労働そのものがそれをもたらしているかの観念が生じ、資本家たちが企業利得を取得するのを正当化するものとして利用されているということになる。
  しかしマルクスはそれ以上のことを述べているようにも思えるのである。労働監督賃金がジェネラル・マネジャーの賃金になると、それがさらに純粋に自立化し、完全に利潤からも企業利得からも分離して立ち現れてくるというのである。つまりジェネラル・マネジャーの賃金においては、すでにその出自としての利潤のかけらもないとどうやらマルクスは捉えているようなのである。ここらあたりは難しいところであるが、とりあえず、そのような理解のもとに前に進めることにしよう。

 なお、〈A.スミスが正しく見つけだしたように〉という部分につけられたMEGAの注解ではスミスの『諸国民の富……』の参照箇所と関連して61-63草稿の参照箇所が指示されている。それもついでに見ておくことにしよう。

 まず『諸国民の富』から

 〈〔利潤は単なる監督や指揮の賃金ではない。〕資材の利潤というものは、特定部類の労働、つまり監督し指揮する労働の賃金に対する別名にすぎない、と考える人があるかも知れない。けれども、利潤は、労働の賃銀とはまったく異なるものであり、それとは全然異なる諸原理によって規定されているのであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛苦または創意とはなんの比例ももたないものである。利潤は、使用される資財の価値によって全部的に規定され、この資財の大きさに比例して大ともなり小ともなるのである。たとえば、ある特定の地方における製造業の資財のふつうの年々の利潤が一割とし、そこに二つの異なる製造業があって、そのおのおのに20人の職人が各年額15ポンドの率で使用されている、つまり、おのおのの製造場では年額300ポンドだけ経費がかかる、と仮定しよう。さらに、前者の製造場で年々に仕上げられる粗悪な原料はわずか700ポンドしかかからないのに、後者の製造場でそうされる比較的良質の原料は7000ポンドもかかる、と仮定しておこう。このばあい、年々に使用される資本(capital)は、前者ではわずか1000ポンドにしかならないにもかかわらず、後者で使用されるそれは7300ポンドになるであろう。それゆえ、一割という率では、前者の企業家はわずか約100ポンドの年利潤しか予期しないのに、後者の企業家は約730ポンドを予期するであろう。ところが、たとえかれらの利潤にはこれほど大差があるにしても、監督し指揮するというかれらの労働は、いずれもまったく同一またはほとんどまったく同一であろう。多くの大事業においては、この程度の労働のほとんど全部は、主任書記かなにかに委託されている。この主任書記の賃銀は、監督し指揮するというこの労働の価値を適切に表現している。この賃銀をきめるには、かれの労働や熟練ばかりではなく、かれに対しておかれている信任についても多少の考慮がふつう払われているにもかかわらず、かれの賃銀は、かれがその運営を監督する資本に対してけっして規則的な比例をたもたないのであって、しかもこの資本の所有者は、このようにしてほとんどいっさいの労働を免除されているにもかかわらず、なお自分の利潤は自分の資本に対して規則的な比例をたもつはずだ、ということを予期するのである。それゆえ、諸商品の価格においては、資財の利潤は、労働の賃銀とはまったく異なる構成部分をなし、まったく異なる諸原理によって規定されているのである。〉 (岩波文庫187-188頁、一部誤植を訂正)

  ここでスミスは利潤は単なる監督・指揮する労働の賃金の別名にすぎない、という考えを否定し、利潤は資本の大きさに比例して変化するが、指揮・監督する主任書記の賃金は資本の大きさとは比例的な関係をもっていないことを理由にあげている。だから〈利潤は、労働の賃銀とはまったく異なる構成部分をなし、まったく異なる諸原理によって規定されている〉とするのである。だからスミスは監督・指揮する労働の賃金は、利潤とはまったく異なるものであり、だから利潤を監督・指揮する労働に対する賃金だといいくるめることは出来ないのだと述べているわけである。
  マルクスは〈A.スミスが正しく見つけだした〉と述べているが、それは主任書記(マルクスはそれをジェネラル・マネジャーとしている)の賃金は利潤とはまったく違ったものとして現われているということをスミスは正しく見つけだしているということであろう。つまり労働監督賃金が総利潤からも企業利得からも完全に分離して現われるのは、ジャネラル・マネジャーの賃金においてだが、それをスミスは正しくも見いだしていると言いたいのであろう。

 次は『61-63草稿』の参照箇所を見てみよう。

 〈A・スミスは、このように利潤を他人の不払労働の取得に還元したあと、すぐに続けて言う。「資材の利潤は、特殊な種類の労働、つまり監督または指揮という労働の賃金にたいする別名にほかならない、と言う人がいるかもしれない。」(97ページ〔大内・松川訳、(1)、187ページ〕。)そして彼は、監督労働についてのこのまちがった見解を否定する。われわれは、このことには、のちに別の一章で立ち返ることとする。ここで強調しておくべき重要なことは、A・スミスが、利潤の源泉に関する彼の見解と、こうした弁護論的見解との対立を、実に正確に知っており、強調しており、強く力説している、ということだけである。〉 (草稿集⑤69-70頁)

  ここではマルクスはまずスミスが〈利潤を他人の不払労働の取得に還元し〉ているとしている。つまりその限りではスミスは利潤の源泉を正しく言い表しているわけである。そしてそのうえで、スミスは、先の『国富論』からの抜粋にあったように、利潤は特殊な種類の労働、監督または指揮という労働の賃金の別名に過ぎないという主張を否定しているわけである。そしてマルクスがここで〈彼は、監督労働についてのこのまちがった見解を否定する〉というのは、利潤とは監督労働の賃金の別名だという、不払労働の取得を正当化する主張を正しくも間違いだとして否定していると述べているわけである。そしてマルクスは〈A・スミスが、利潤の源泉に関する彼の見解と、こうした弁護論的見解との対立を、実に正確に知っており、強調しており、強く力説している〉というのは、利潤は不払労働の取得であるという彼の正しい見解と、利潤は資本家が行なう監督・指揮の労働に対する正当な賃金だとする利潤を正当化する弁護論的見解とを明確に区別し、対立させ、強調して力説しているということである。
   前回(【30】パラグラフ)紹介した61-63草稿からの長い抜粋のなかで、マルクスは〈資本家がここでは彼の支配人と同一視されることは、すでにスミスが言っているとおりである〉(草稿集⑦471頁)と指摘していた。つまりマルクスはここでは機能資本家と、その機能の一部を担いながらも、しかしその資本家的な性格を抽象されたものとして純粋に現われてきている支配人(ジャネラル・マネジャー)とを区別し、資本家と支配人とは同一視できない、後者が受けとる労賃には他の一般の労働者(搾取される労働)の受け取る労賃と同じ内容が含まれていると考えているわけである。

 なおここでマルクスは〈われわれは、このことには、のちに別の一章で立ち返ることとする〉と書いているが、そこにはMEGAの編集者による注解があり、次のように書かれている。

  〈(3)〔注解〕ノート第15冊、910-919ページ(MEGA 第2部第3巻第4分冊〔『剰余価値学説史』、『全集』第26巻第3分冊、472-488頁〕)およびノート第18冊、1099-1102ページ(MEGA、第2部第3巻第5分冊〔『剰余価値学説史』、『全集」第26巻第3分冊、345-352頁〕)を見よ。 〉

  ついでだから、その部分も参考のために見てみることにしよう。ここで紹介されているノート第15冊の頁数はマルクスが付けた草稿の原頁のようである(MEGAの頁ではない)。ここでは全集版の『剰余価値学説史』の原頁で指示されているものも参照しながら、検討することにしよう。

 まず最初の〈『全集』第26巻第3分冊、472-488頁〉というのは、〈〔四 剰余価値の本質--剰余労働--からの剰余価値の諸転化形態のいっそうの分離。「資本家の労賃」としての産業利潤〕〉という編集者が付けた小項目全体が参照個所になっており、全集版では622-642頁、つまり20頁もある。これを参照個所としてすべて紹介するのは無理なので、今問題になっている部分と関連するもので重要と思われる部分だけを紹介することにしよう。
  この部分は、極めて多くのことが語られている。そしてその一部分(後半部分)は、すでに前回、【30】パラグラフの考察のなかで、そのテキストが61-63草稿から変更を加えて取られているとするMEGAの注解にもとづいて、草稿集⑦から該当する部分を広く紹介したが、その抜粋・紹介した一部分が含まれている(『学説史』の上記の部分は以前紹介した草稿集⑦の452-472頁分がほぼ入っている。しかし以前紹介した抜粋文の後半部分は含まれていない)。ここでは以前紹介したものと重複するが、それを恐れず、次の一文だけを紹介しておこう。

  〈他方、この利子という形態は、利潤の他方の部分に、産業利潤という質的な形態を与える。すなわち、資本家としてのではなく労働者(産業従事者)としての産業資本家の労働にたいする労賃という形態を与える。資本家が資本家として労働過程で行なわなければならないところの、そしてまさに労働者とは区別された彼にこそ属するところの、特殊な諸機能は、単なる労働機能として示される。彼が剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼、資本家もまた、労働するからである。……(中略)……こうして、剰余価値の一部分が利子において搾取過程から完全に分離されるとすれば、他方の部分は--産業利潤において--その正反対物として、他人の労働の取得ではなく自分の労働の価値創造物として、示されるのである。だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物、実行された労働の等価なのである。資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立は、搾取過程の彼方に、この疎外の現実の行為の彼方にあるので、いっさいの対立的な性格はこの過程そのものからは遠ざけられている。それだから、現実の搾取、すなわち、対立的な性格がそれにおいて実現されはじめて現実に示されるところのものは、まさにその反対物として、労働の素材的に特殊な仕方ではあるが労働の同じ社会的規定--賃労働--に属するものとして、現われるのである。労働という同じ範疇に。搾取する労働がここでは搾取される労働と同一視されているのである。
  このような、利潤の一部分の産業利潤への転化は、われわれが見るように、他の部分の利子への転化から生ずる。一方の部分には資本の社会的な形態--それが所有であるということ--がかかわりをもつ。他方の部分には資本の経済的機能、労働過程における資本の機能がかかわりをもつ、といっても、この機能は、資本がこの機能を行なうさいの社会的な形態、対立的な形態からは解放され抽象されている。さらにこれがいろいろな小賢しい理由によってどんなに正当化されるかは、利潤を監督労働だとする弁護論的な説明についてさらに詳しく見られるべきである。資本家がここでは彼の支配人と同一視されることは、すでにスミスが言っているとおりである。もちろん、いくらかは賃金がはいっている(支配人がこの賃金をもらっていない場合)。資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者(Captain of industry)として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。〉  (草稿集⑦470-472頁)

  ここでマルクスは〈もちろん、いくらかは賃金がはいっている(支配人がこの賃金をもらっていない場合)〉と述べている。つまり資本家が取得する企業利得は、いうまでもなく利潤の分割されたものでしかないが、しかしいくらかは労賃も含まれることを認めているわけである。ただそれは普通は支配人が受け取ってしまっているものなのだが、もしそれを受け取るような支配人がいないとするなら、企業利得としての労働監督賃金にはいくらかの賃金がはいっているのだというのである。以下、その理由が述べられている。
  これは後に詳しく考察されるのであるが、生産過程で労働を管理し指揮する労働は、労働過程における一般的な機能を果すものとして、その限りでは生産的であり、価値を形成する労働であり、その限りでは他の搾取される労働がそうであるのと同じ契機があるというのである。だからこうした管理・指揮労働は〈賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働〉なのである。ジェネラル・マネジャー(支配人)が存在すれば、そうした機能は彼らによって担われるというのがマルクスの理解のようである。

  次に〈ノート第18冊、1099-1102ページ〉というのは草稿集⑧426-438頁に該当する。〈『全集」第26巻第3分冊、345-352頁〕〉というのは、〈〔三 総利潤の純利潤と企業者利潤とへの分割に関するラムジの所説。彼の見解における弁護論的要素〕〉という編集者が付けた小項目全体がほぼ参照個所になっており、全集版では459-469頁、つまり10頁分になっている。これもすべて紹介する必要はないと思われるので、今問題になっている部分に関連すると思える部分だけを紹介しよう。
  ここではラムジの主張を批判的に検討しているが、マルクスはまず〈だいたいにおいて、ラムジが産業利潤について言っていることは(ことにまた監督労働について言っていることも)、この労作のなかで提出されたもののうち最も合理的なものである〉(463頁)と述べている。そして次のように続けている。

  〈労働の搾取は労働を必要とする。産業資本家の行なう労働が単に資本と労働との対立によって必要にされているにすぎないかぎり、それは彼の使用する監督係(産業下士官) の費用にはいるもので、すでに賃金の範疇に算入されているのであって、ちょうど、奴隷監督や彼の鞭のために必要な費用が奴隷所有者の生産費の費用に算入されているようなものである。これらの費用は、商業上の費用の大部分とまったく同様に、資本主義的生産の空費に属する。一般的利潤率が問題になる場合には、資本家たちにとって彼ら自身の競争や彼らが互いにだまし合う試みのために必要になる労働は考察のなかにはいらない。同様に、一方の産業資本家が他方の産業資本家とは違って彼の労働者たちから最少の空費で最大量の剰余労働を引き出し、この引き出した剰余労働を流通過程で実現することができるというその技能の大小、その空費の多少も、考察のなかにはいらない。これらの事柄の考察は諸資本の競争の考察に属する。この考察は、一般に、最大可能量の剰余労働を自分のほうにひったくるための資本家たちの競争や彼らの労働を取り扱うものであり、ただこの剰余労働のいろいろな個人資本家たちのあいだへの分配を問題にするだけで、その源泉もその一般的な大きさも問題にしはしないのである。
  そこで、監督労働として残るのは、ただ、何人かの個人の分業や協業を組織するという一般的な機能だけである。このような労働は比較的大きな資本主義的企業では総支配人の賃金によって完全に代表されている。それは一般的利潤率からはすでに引き去られている。その最良の実例を与えるものは、イギリスの労働者の協同組合工場である。というのは、これらの工場は、比較的高い利子を支払っているにもかかわらず、平均よりも大きな利潤を与えているからである。たとえ、総支配人の賃金、それはもちろんこの種の労働の市場価格によって規定されているのであるが、この賃金は引き去られているにしても、である。自分たち自身の総支配人でもあるような産業資本家たちは、生産費の一項目を省き、自分たち自身に賃金を支払うのであり、したがって平均利潤率よりも高い利潤率を得るのである。もし明日にもこのような弁護論者たちの言い草が言質にとられて、産業資本家の利潤が管理監督賃金に制限されるとすれば、明後日は資本主義的生産はおしまいになり、他人の剰余労働の取得もこの剰余労働の資本への転化もおしまいになるであろう。〉 (全集第26巻第3分冊463-464頁)

  ここで注目すべきは、マルクスは〈一般的利潤率が問題になる場合には、資本家たちにとって彼ら自身の競争や彼らが互いにだまし合う試みのために必要になる労働は考察のなかにはいらない。同様に、一方の産業資本家が他方の産業資本家とは違って彼の労働者たちから最少の空費で最大量の剰余労働を引き出し、この引き出した剰余労働を流通過程で実現することができるというその技能の大小、その空費の多少も、考察のなかにはいらない〉と一般的利潤率が問題になる場合と、彼らにとって空費でしかない支配人への支払いを最低限にして如何にして最大限の剰余労働を引き出すかという問題とを対照的に論じ、これらの費用は一般的利潤率の水準そのものを問題にするときには問題にならないが、しかしそれらは諸資本の競争の考察に属する問題であり、そこでは〈最大可能量の剰余労働を自分のほうにひったくるための資本家たちの競争や彼らの労働を取り扱う〉のだとしている。これは剰余価値を取り合うための補償理由が、剰余価値そのものの根拠にされる前パラグラフで論じていたことと関連しているような気がする。
  そして支配人などの管理・監督労働から、剰余価値を最大限引き寄せるという機能を問題にしないなら、〈そこで、監督労働として残るのは、ただ、何人かの個人の分業や協業を組織するという一般的な機能だけである〉と述べていることも重要である。これは協業から不可避に発生する指揮・監督労働のことであり、もし産業資本家の利潤が彼らの賃金に制限されるなら、資本主義そのものはおしまいになる、とも述べている。】


【33】

 〈この点についてさらに立入るまえに,なお次のことを述べておかなければならない。〉 (302頁)

  【これは平易に書き下す必要もないと判断してそれは省略した。ここで〈この点に〉というのは、ジェネラル・マネジャーの賃金では、より純粋に自立化が現れて、利潤や企業利得とも完全に分離したものとして現れてくるという〈〉であろう。そして〈次のこと〉というのは、その直後の【34】パラグラフのことを指すと考えられる。だから【35】パラグラフからは〈この点についてさらに立入る〉ことになると考えられる。】

【34】

 かりに,一つの特殊的種類の資本家が利子だけで生活し,現実の再生産過程の外部にとどまっているということによって,利子生み資本が資本の一つの特殊的形態という自立的姿態を受け取る,ということがなかったならば,利子率はないであろう。すなわち,利潤の一部が利子という形態のもとで量的な規定性と固定した大きさとを受け取ることはないであろう。また,もっぱら量的な分離として発生することを以前に示したあの質的な区別が,この量的な規定性とともに発展することはないであろう。利潤のうちの,資本所有--すなわち,対象的富の,労働にたいするたんなる対立--のたんなる価値実現〔Verwerthung〕としての一部分を測る,そのための基準はないであろう。それゆえ,利潤が二つの部分に分離することはないであろうし,だからまた,この二つの部分が互いに対立して,利子および企業利得という自立的姿態をとることもないであろう。けれども,この二つの部分が互いに対立して骨化し自立[455]化することによって,現実の事態〔Sachverhältniß〕が観念のなかで歪められる〔sich umdrehen〕。利潤(これ自身がすでに剰余価値の転化された形態である)が,前提された統一体Einheit〕として,利子と企業利得とに分れていく不払労働の総額として現われるのではなくて,利子と企業利得とが,加算の結果として利潤,粗利潤を形成する,自立した量として現われる。いまでは自立的に見られたこの二つの部分のどちらにあっても,剰余価値への連関は,だからまた賃労働にたいする資本の現実的関係は,拭い去られているので,利潤そのものにあっても,それがたんなる加算として表わされるという意味で〔so weit〕,すなわち自立的に規定された,また外見上それに前提された,それ以前に与えられていたこれらの量の,あとから得られた和として表わされるという意味で〔so weit〕,同じことが言えるのである。

  ①〔異文〕「種類」←「階級」
  ②〔異文〕「同時に……ない」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「資本の一つの特殊的形態という」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「受け取る」erhielte←wtrde〔…erhalten〕
  ⑤〔異文〕「,粗利潤」--書き加えられている。〉 (302-304頁)

 〈もしかりに、一つの特殊な種類の資本家が利子だけで生活し、現実の再生産過程の外部にとどまっているということによって、利子生み資本が資本の一つの特殊な形態として自立的姿態をとることがなかったなら、利子率もないでしょう。つまり、利潤の一部分が利子という形態のもとで量的な規定性と固定した大きさとを受け取ることはないでしょう。そしてまた、もっぱら量的な分離として発生することを以前に示したあの質的な区別が、この量的な規定性とともに発展することもないでしょう。利潤のうちの、資本所有--すなわち、対象的富の、労働にたいするたんなる対立--のたんなる価値実現としての一部分を測る、そのための基準はないでしょう。それゆえ、利潤が二つの部分が互いに対立して、利子および企業利得という自立的姿態をとることもないでしょう。
 けれども、この二つの部分が互いに対立して骨化し自立することによって、現実の事態が観念のなかで歪められます。利潤(これ自身がすでに剰余価値の転化された形態です)が、前提された統一体として、利子と企業利得とに分かれていく不払労働の総額として現れるのではなくて、利子と企業利得とが、加算の結果として利潤、粗利潤を形成する、つまりそれが自立した量として現れるのです。いまでは自立的に見られたこの二つの部分のどちらにあっても、剰余価値への連関は、だからまた賃労働にたいする資本の現実的関係は、拭い去られているので、利潤そのものにあっても、それがたんなる加算として表されるという意味で、すなわち自立的に規定された、また外見上それに前提された、それ以前に与えられていたこれらの量の、あとから得られた和として表されるという意味で、同じことが言えるのです。〉

 【このパラグラフは二つの部分に分けることができる。前半部分はもし利子やそれを生む利子生み資本がなければ、当然、利子と企業利得という量的分割もなければ質的分割も生じないことが確認されている。
 しかし現実には、そうした分割が生じているわけで、その場合には、それによってそうした事態が観念のなかで歪められて来るとしている。つまり本来は利潤が分割したものとして利子と企業利得とがあるのに、それぞれが自立化し骨化することによって、利潤そのものがそれらの和として捉えられるようになるというのである。そして利子や企業利得の自立した姿態においてはもはや賃労働との対立は消し去られているように、こうしたものの和として捉えられる利潤においても、もはや賃労働との対立は消し去られているのだというわけである。
 この部分は労働監督賃金がマネージャーの賃金になると利潤だけではなく、そこら分離された企業利得からも完全に分離されて現れると論じていた【32】パラグラフを受けて、それをさらに展開しようとする前に、すなわち〈この点についてさらに立入るまえに,なお次のことを述べておかなければならない〉として述べられている。どうしてこのパラグラフを補足的に述べておく必要があるとマルクスは考えたのかはいま一つよく分からないが、少し考えてみよう。
  まず前半部分ではもし利子がないと仮定するなら、利潤が利子と企業利得とに分割することはないし、こうした量的分割が質的な分割に転化することもないだろうというのだが、どうしてこうしたことを--ある意味では当然とも思えることを--確認する必要があるのかということがいま一つ不明である。
  われわれは利子と企業利得の量的分割が質的分割に転化し、骨化し、企業利得が労働監督賃金として観念され、さらにはジェネラル・マネジャー(支配人)の賃金になると利潤や企業利得とも完全に分離されて、普通の労働者の賃金と変わらないものになるということをみてきたのであるが、しかしそもそも監督・指揮する労働というのは、利子を前提しなければならないというようなものではないのである。これは引き続くパラグラフ以下で問題になるのであるが、そうした問題に移る前に、あるいは、利子がなければこれまでわれわれが考察してきたようなこともない、ということを敢えて確認しているのかも知れない。これは自信がないが……。
  後半部分では、しかし現実に利子と企業利得とへの利潤の量的な分割が質的な分割へと固定され、そうすることによって、ただでさえ利潤はすでに剰余価値の転化したものとしては、その源泉たる剰余価値(不払労働)をみえなくさせているものだが、しかしこうした質的分割の固定化は、利子と企業利得が異なる利潤の範疇として捉えられ、利潤そのものがこの両者の和として考えられるようになり、より一層剰余価値との関連が見えなくされているということが確認されている。これはまあこのとおりだし、何の文句もつける必要もないが、どうしてそれをここで確認する必要があるのかがいま一つハッキリしないので、どうもスッキリしないのである。しかしそれはともかく、〈この点についてさらに立入る〉という次のパラグラフからの展開を期待することにしよう。】

 (以下、続く)

 

より以前の記事一覧