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『資本論』第3部第5篇の研究

2022年8月18日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-17)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-17)



【関連資料】

 

   最初に約束した林 紘義氏の『海つばめ』掲載の二つの記事を関連資料としてつけておきます。


●『海つばめ』1110号(2009.12.13)から

【三面トップ】
恐慌とその歴史について
関西労働者セミナーの議論

 十一月二十八、二十九日、首都圏についで関西でも、「恐慌とその歴史を探る」という同じテーマで労働者セミナーが開催された。もちろん、首都圏と同じ傾向の議論もあったが、またそれとは別の問題や、首都圏では全く論じられなかった問題も討論の中で突き出された。ここでは、主として首都圏とは違った議論を紹介しよう。
◆社会関係から説く視点弱く
 最初の平岡報告――産業資本が勃興してきた時代、資本主義の自由競争の時代の恐慌――については、首都圏セミナーと同様に、産業資本が社会の主要な(あるいは支配的な)契機もしくは内容として展開してきたという視点がなく、“生産力主義的”な偏向があり、恐慌の説明として説得的でなかったということが基本的な批判点として出された。
 資本主義的恐慌は資本の本性と密接に関係しているのであって、単に生産力の発展とか一般的競争の激化ということだけの問題ではない。例えば、資本は「自己増殖する価値」であり、蓄積のための蓄積、生産のための生産を――つまり労働を搾取し、剰余価値を、より大きな剰余価値を獲得するための、たえず増大する資本の蓄積を――本性とするのであって、その本性は「貿易や投機」とか、「市場を開拓する歴史」ということとはいささか違った次元に属するだろう。
 またレジュメの始めで、イギリスにおいて最初に資本主義が発展したことの説明として、それが綿工業と結び付いており、イギリスが海外から綿花を手に入れやすい条件を幸運にも持っており、その点で他国よりも有利な地位にあったからである、と主張し、またこれは首都圏でも疑問としてだされたが、「つまり恐慌を克服するために市場を開拓する歴史を繰り広げてきたが、それはより大きな過剰生産、そして恐慌を引き起こす結果に終始した」と主張したことについても、「ローザ主義ではないか」という批判が出された。
 イギリスにおいて産業資本主義が勃興したのは、単に綿花を取得することが他国よりも容易だったとか、産業革命が行われ、生産力が発展したということではない、あるいはむしろ産業革命にせよ、急速な生産力の発展にせよ、それはまた他面ではイギリスにおいて急速な資本主義的発展が開始されたから、その結果でもあるのであって、実際には、資本の蓄積の進行や資本の原始的蓄積の問題、あるいは一五世紀から延々一九世紀の始めまでも続いた――断続的ではあれ――囲い込み運動(エンクロジャー)など、封建的な生産関係の解体が進んだという歴史的な過程こそむしろ重要な歴史的契機であったが、こうした社会関係の問題はほとんど論じられていないのであるが、それは恐慌を一貫して社会関係の進化と発展の問題として論じ、取り扱おうとする視点が弱いことと関連しているように見える。
 また、報告者の見解では、資本主義は植民地や“外延的な”市場が存在する限りで発展することができ、それが行き詰まった時点で瓦解するかに取れる叙述があり、それが恐慌論と結び付けられているかだが、それはローザらの帝国主義の理論とどれだけ違うのか、という疑問も提起された。
◆宇野学派的“タイプ論”に純化
 独占資本主義への過渡期、もしくは独占資本の時代の恐慌を報告した田口報告に対してもいくつかの疑問もしくは批判が出された。
 田口は、東京でのセミナーの批判を受けて、「追加」のレジュメを提出し、独占資本と恐慌との関係について、独占資本主義は一方では生産力をかつてないほどに急速に発展させるとしながら、他方では、新しい特徴が現われるとして次のように論じた。
「だが同時に、生産力の発展を阻害する要因も現れる。独占の地位にある企業は、たえず生産力を発展させて特別利潤を追求するという動機を弱める。独占資本は、独占価格の維持と独占利潤の安定的確保を目指し、飛躍的な生産力発展による生産物の急激な増加と生産物の価値の低下、そして投下固定資本の価値の社会的磨滅などが起これば、これらは独占企業にとって、利潤を低下させる限り利潤増加という目的と反することになる。
 独占資本は、企業は、相互の激しい競争によって生み出される過剰生産能力を、さらに激しい販売競争によって相互に切り捨て合うよりも、生産協定(シンジケート)によって過剰設備を遊休化し、また新技術のそれ以上の利用を阻止し、価格協定(カルテル)によって、独占価格による安定的利潤を得ようとする。
 こうして独占の下では、かつての生産力の飛躍的発展から一転して、投資の一斉抑制、蓄積された利潤の貸付資本形態での温存〔これはどういう意味か、なぜ「貸付資本形態での温存」か。何を説明しようというのか――林〕、新技術の非利用、新たな資本の独占的部門への参入阻止などが、特定の時期の独占の政策として行われる。過剰生産の重圧のものでの停滞の持続への傾向――これらは独占資本主義のもとでの蓄積の諸特徴である」
 しかしこうした独占資本主義に固有な諸特徴は、この時代の特徴として位置付けられ、深められるのではなく、独占資本のもとでも生産力は急速に発展するという見解と同列のものとして並列され、さらに宇野学派的な「独占資本段階はタイプ論」という観念と結合されて、停滞的な特徴を示すのは英仏、発展的特徴を示すのは米独であり、しかも独占資本の段階として特徴的な資本主義は米独であると言われたので、全体として何を言いたいのか分からない、矛盾し、混乱したものとなっている、という批判をこうむることになった。
 報告者の理屈によると、米独こそが独占資本主義段階を代表する資本主義国家であり、そこでは大資本間の競争がより貫徹し、高度な独占が成立し、そして生産力も発展し、資本主義として繁栄し、また鋭い恐慌に見舞われるというのだが、それでは、資本主義一般の生命力を語っていることにはなっても、資本主義の独占段階の特徴を積極的に展開しているとは到底いえないのではないか。
 他方、英仏は停滞し、頽廃した資本主義の特徴を表わすが、それは独占資本主義を代表するものではないというのだから、何を言っているのか、論理的な整合性はどこにあのか、という疑問が提起されるのもやむを得なかった。
 そしてまた、恐慌と固定資本の関係も再度議論された。問題とされたのは、首都圏でも槍玉にあげられた、次の文章である(一部は『海つばめ』前号でも引用したが、全文は以下のようなものであった)。
 「資本主義の発展が鉄鋼業を中心とするようになったことは、不況を長期化する大きな要因となった。
 鉄鋼業は投資額でも経営規模でも、以前の工業の主体であった綿工業を凌駕して大工業部門となった。この発展は大型高炉やベッセマーなどの新技術の導入によって実現したが、そのために固定資本が巨大化したことは資本の自由な移動を制限し、景気変動の形態に変化を与えることになった。
 すなわち綿工業など軽工業の場合は、好況時の需要増大に応じて生産は漸次的に拡大され、したがって不況期における需要減退による資本破壊も好況期に稼働してきた固定資本にたいして生じる。
 しかし巨大な固定資本を要する鉄鋼業など重工業ではこれとは異なった傾向をもつ。溶鉱炉などの建設には二、三年の期間を要し、そのため好況期の需要増大に対して対応は遅れる。好況期の需要増大に基づいて生産設備が拡大したころには、景気が不況に転じるなら新設備によって一挙に増大した生産は、不況期に減退した需要に対して供給を著しく過剰にし、不況期による固定資本更新は弱められ、景気回復はおくらされる。
 資本の移動の困難は価格低落を持続化させ、不況を長期化する傾向をもつことになる」
 こうした理論に対しては、不況の問題が生産力主義的に、技術的に(卑俗に)論じられていること、そしてそれと関連して固定資本は「自由に移動」できないと主張されていることなど俗流的な議論であると批判された。
 そして、報告者はこうした理屈は宇野学派が唱えているものだと紹介したが、会場から、宇野学派以前に、ヒルファーディングの「金融資本論」の中に同じような見解があるという指摘がなされた。宇野学派の俗論の多くがヒルファーディングに依拠していることからして、これもその口の一つということだろう。宇野学派だから、ヒルファーディングだからと悪いとはいわないが、彼らの理論が固有のドグマや卑俗さ、俗流さに深く侵されているということは、我々がこれまで散々に語ってきたことである。“ヒルファーディング的な”(つまり宇野学派的な)、あるいは“スターリン主義的な”、いわゆる“学界”ではびこっている(はびこってきた)観念に対して、批判的に接近しないで安易に追随することは問題であろう。
 そこにこそ、独占資本の段階と恐慌という重要なテーマに、報告者がなかなか接近できなかった根本問題があるのではないか。
 まとめのような形で、最後に司会者から、独占段階の資本主義を特徴づけるなら、米独というより、むしろ英仏の方をこそ重視すべきではないか(報告者は独占は英仏には現われていないかに言うが、そんなことはない)、そしてその場合には海外への資本輸出(投下)なども注視されるべきだが、それも正しくは提起されていないという発言があった。
◆現代資本主義と恐慌の問題は未解決?
 三番目のテーマにあっては、二九年の世界大恐慌と、その後の資本主義――第二次世界大戦後から現代までも含めた――をいかに評価するか、という極めて重大な点で議論が行われたが、なかなか“結論”といったものに議論が収斂して行かなかったが、それはまた現代が混乱と矛盾を含んだものとして展開中であって、歴史が、簡単に、割り切った解答を提供していないということもあったであろう。
 二九年の大恐慌については、それがいかにして勃発したかという点については、東京のセミナーと同様に、報告は極めて不十分で、明確ではないという批判が多かった。例えば、レジュメの次のような説明が問われることになった。
「27年の後退のあとは、国内の寡占競争の激化、さらにはヨーロッパ工業の復興による世界市場での競争の激化を背景に、鉱工業企業はコスト切り下げのため設備投資を拡大した。そしてこの時期の景気拡大は、20年代末の株式ブームに引っ張られて進められた面も強かった。20年代には一般に大企業は償却資金と留保利潤を合わせた自己金融によって、設備投資だけでなく運転資金の多くをまかなうことができた。こうした自己金融の進展の中で、銀行の事業貸出は停滞し、好況下での資金形成の増加は金融の緩慢を促し、証券市場の活況を招いた。……28年以降は、株式投資信託が急速に普及したこともあり、一部の企業では投資資金の調達のために株式を発行するようになり、株式ブームは実体経済を離れて独走するに至った。……しかし社会的再生産過程から遊離した株式ブームは、早晩崩壊せざるを得なかった」
 二九年の大恐慌のこうした説明もしくは特徴づけは現象的であるばかりではない、経過や内容としても正確ではないのであって、例えば、「自己金融」が一般的になったから、「証券市場の活況を招いた」という説明自体、因果関係や意味が不明であり、一体誰がこんなことを主張しているのかが問われることになったが、報告者によれば宇野学派の学者の理屈であるということであった。
 ここでは、20年代にアメリカで生産力の発展があったから(株式ブームもあった)とかいうだけでは大恐慌の説明として余りに一面的だ、第一次世界大戦においても生産力の大きな発展があったのではないか、それは無関係なのか、また戦後の世界の体制とか諸関係や、世界市場という側面からも検討する必要はないのか、等々の疑問も出された。
 大きな議論になったのは、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という報告者の命題については、東京のセミナーにつづいて大阪でも疑問や批判が相次いで、必要なことはニューディールが歴史や現実の中でいかなる役割を果たしたのか、どんな歴史的な意義をもったかであるということが確認された。
 また報告者はこの命題は事実であるとがんばるが、しかしこの命題は事実しても正しいのか、ということが問われた。ニューディールをやっている間に、生産が大恐慌の前の水準まで回復しなかったということだけが言えるだけであって、五まで落ちこんだのが七や八まで回復した時期もあったし、そもそもニューディールは第二次大戦の中に消え去ったというのだから、回復しなかったか、し得なかったかが言えるわけがないではないか。大戦が起こらなかったら、ずっと恐慌が続いた、つまり慢性恐慌こそが現実的だったということか、という疑問も出されたし、ニューディールをどう理解するかにもよるが(革命後のロシアのネップさえも、新経済政策つまりニューディールある云々)、ヒトラーが三三年に権力を握った後採用した政策はニューディールと言えるのか言えないのか、ヒトラーのやり方は(それも仮に「ニューディール」と言えるとするなら)恐慌も失業問題も表面的には「克服した」と言えるのだから、ニューディールは「恐慌を克服しなかった」という命題は成り立たなくなるではないか、等々の批判的意見も出された。
 管理通貨制度が一般化し、またドルさえも金とのつながりを絶って、国家独占資本主義的政策(ケインズ主義的政策)が採用された戦後の資本主義についても、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という命題と関係して議論が及び、戦後もまた過剰生産は「整理」されることなく延々と持ち越され、自由主義段階の資本主義のように自然に破壊されることもなく、また独占資本主義の時代のように(?)戦争によっても廃棄されないで来ている、そしてバブルは信用バブルというような形でしか発生しない、とするなら、今後はまた戦争しかないのではないかという“超悲観論”を持ち出す人も出たりして、戦後の資本主義と恐慌一般という問題が議論された。
 戦後の何度かの不況を産業恐慌と言えるかどうかはさておくとして、現在進行中の不況についても、それは産業恐慌であるという論者もいれば、そこまでは言えないと反論する者もいるといった具合で、産業恐慌が現在も存在するのか(勃発するのか)、それともそれは国家独占資本主義の体制の中では“消えて”しまったのか(「景気循環」は存在するにしても)、という点では、セミナーの中では全体としての確認(合意)は生まれなかったと言えようか。今後の資本主義の運動と経過を見るしかないということであろうが、中国経済の今後が焦点となるという点では、多くの論者も一致しているように見えた。
◆サブプライムの信用メカニズム
 最後の金融恐慌のテーマについては、関西では、サブプライムの「証券化」のメカニズムについて突然に論争が始まったが、それはもちろん、この新しい信用形態の根本的な理解にかかわっていた。
 問題を提起した論者は、マルクスが『資本論』で、資本主義ではすべての収入が利子率によって還元(“資本還元”)され、擬制的価値を持つと言っている、サブプライムの「証券化(商品化)」にもこの理論を適用すべきである、証券化された商品の「価格」もまたローンからの収入(返済金)によって決定されると理解すべきだ、という理屈を持ち出したのであった。
 しかしマルクスのこの理論は、株価とか地価などを“法則的に”、つまり概念的に規定するために述べられているものであって、どんな「収入」にも適用されるのものではない(マルクスは、すべての収入は利子率で資本還元されて擬制的価値を持ち得ると言っているだけで、すべての擬制資本はある収入を利子率で資本還元されたものだと主張しているわけではない)、とりわけサブプライムの証券化の場合には適用できるはずもない、論者はマルクスの言葉は知っているが、しかしその正しい意味を理解しているとは言えない、という報告者の立場との間に鋭い対立が生じた。
 そもそも、《あれこれの収入が利子率で資本還元されて「価値」を持つ》というのは、こういうことである。
 例えば、ある土地を貸し付けることから五万円の収入(地代)があると前提して、その土地の価格が問題となるとき、それがそのときの利子率(一%と想定する)で資本還元されて(五万円÷〇・〇一)五〇〇万円の「価値」(土地価格)を持つと想定されることを言う。こうした場合に、一定の収入は発達した資本主義的生産様式のもとでは、擬制的な価値を獲得し、売買されるのである。これは、五〇〇万円を貨幣資本(利子生み資本)として投資した場合、五万円の利子所得(収入)が得られるが故に、五万円の収入をもたらすもの(社会的関係)は五〇〇万円の「価値」をもつものとして社会的に通用することができるということである。
 株の価格もまた同様であって、株価は額面価格の何倍かの「価値(価格)」で売買されるのだが、それは例えば、額面五〇万円の株の配当が五円だったとすると、この五円の配当が一%の利子率で資本還元されて五〇〇万円の「時価」を持つようになるということである。五〇万円の額面価格は、当初の払い込み金として、現実資本の「案分比例的な」権利として実際的な意味をもつのだが、五〇〇万円の“価格”(実際の“株価”)は純粋に擬制的なものにすぎない。
 もっとも株券にしろ、債券にせよ、それは実質資本とは別の証券にすぎないという意味では、すべて擬制資本であって、銀行などがそれをどんなに大量に保持していたとしても、それは実質的な資本を保有しているということとは全く別である。
 もちろん、配当が五万円の五〇万円の株券は、利子率一%のときに、正確に計算され、予想される五〇〇万円(五÷〇・〇一=五〇〇)の株価になるのではなく、他のあれこれの要因によっていくらでも騰貴して行き得るだろう、しかしバブルははじけるのであり、暴騰した株価は“法則的な”レベルに引き戻されるのである(一九八九年末には、ほとんど四万円もあった平均株価は暴落し、二〇年もたった今においても、一万円以下の低い水準で低迷している、等々)。
 しかし利子率による「収入の資本還元」のこうした理論を「すべての収入」という言葉だけに幻惑されて、その本当の意味を理解しないで、債券とか、労働者と資本の関係とか、ありとあらゆる関係に適用できると考えるのは全くナンセンスであろう。
 例えば、債券に適用しようとすると、一〇〇万円債券の利子一万円を、一%の利子率で資本還元して、債券の価格が一〇〇万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。
 債券の利子率を一%にするから同義反復になるのだ、五%等々にしてみよと言っても、債券の利子率は平均的な利子率によって基本的に規定されているのだから、恣意的に五%にすることはできないし、またそうしても何の意味もないだろう。
 それに、債券の利子率を仮に五%として、それを一%の利子率で資本還元すれば一〇〇万円でなくて五〇〇万円になると主張してみても、実際の債券は五〇〇万円にまで騰貴するはずもなく、依然として一〇〇万円なのだから、こんな「資本還元」の理論など、債券の場合には何の意味もないことは自明であろう(もちろん、債券価格も騰貴や下落を繰り返すのであり、あるいは投機的に暴騰する――したがってまた暴落する――ときもあるが、しかしそれはまた別の問題である)。
 労働者の賃金もまた一定の「収入」だが、それを(仮に、三百万円として)一%の利子率で資本還元して、労働者の「価値」は三億円だとか言うことにどんな実際的な意味があるのか(ブルジョア理論家たちなら、何かももっともらしい理屈をでっちあげるかもしれないが)。これは果たして、労働力の価値ではないとしても、労働者自身の価値ということになるのか(すなわち労働者自身が奴隷がそうだったように売買されるとして)。しかし労働者自身は資本主義のもとでは売買されないのだから、こんな関係について語ることもつまらないおしやべりにしかなり得ないであろう。
 債券について言えば、その「価値」は債権、債務の関係を表示しているのであって、その限り実際的な経済的関係の反映であって、額面と離れて何倍、何十倍もの「価値」(株価)を持つ株券とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもないのである。
 報告者は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーターによる債券の発行であって(つまりオリジネーターは債務を負うのであって、それは返済、つまり債券の償却がなされなくてはならないのである)、それは国家が国債を発行するのと同じであり、ただ国債が税金によって償却される(国家の債務が返済される)ことを前提とされていると同様に、オリジネーターの発行する債券は、オリジネーターが手にするサブプライムローンからの返済金によって償却されることが前提されているのだと説明したが(もちろん、国家が税金を担保に債券を発行する場合と、オリジネーターがローンの返済金を担保に債券を発行する場合の、技術的、実際的な違い等々を考慮すべきではあるが)、しかし必ずしもその意味が理解されなかったようである。
 論者は、「マルクスの理論に基づいて」、住宅ローン金融会社(あるいは一般的に言われる、オリジネーター)が行うサブプライムの「証券化」とは、オリジネーターの「収入」を資本還元するという形で行われ、したがってまたその「価格」は、オリジネーターの収入(住宅ローンからの「収入」つまり返済金)を利子率で資本還元したものである、と事実上主張したのだが、しかし実際に、証券化商品の価格がそうしたものとして設定されているということを示すことはできなかった。論者が主張したのは、マルクスの「すべての収入は資本還元される」というマルクスの片言隻語から、ここでもそのように理解すべきである、ということだけであった。
 実際にはオリジネーター(ノンバンクの金融機関など)がやったのは住宅ローンという債権(同じ発音だが、債券ではない。報告者はレジュメでは、前者をdebt、後者をbondと読んで区別したりもした。全くやっかいで、人をまどわす関係や用語ではあるが)を“流動化”することであり、そのために住宅ローンをいわば「担保」にして(返済=債券償却の原資にして)、新しく債券を発行すること(つまり平たく言えば、オリジネーターが借金すること)であり、そのことがサブプライムの証券化ということの内容であった。
 論者は、この関係を、現実からではなく、マルクスの言葉(間違って、ドグマとして理解されたマルクスの言葉)から出発することによって、わけのわからないものにしてしまったのである。
 論者の理論によれば、住宅ローンの返済金(貸し付け金プラス利子)を利子率で資本還元したものが「証券化された商品」の価格ということになるが、そうだとすると、この価格は(利子率を一%とすれば)住宅ローンの返済金の数十倍にも百倍にもなり得るだろうが、そんなばかげたことがあり得るはずもないのである。
 報告者はオリジネーターが証券化して「売り出す」商品は債券であるとレジュメでも特に強調し、その「価格」は借入金を現しているとことさら説明したのたが、こうしたサブプライムの“証券化”のメカニズムが全く理解されておらず、代わりにマルクスの言葉がドグマとして持ち出され、それによって現実が裁断され、理解されなくてはならないとされたのである。
 ここでは、証券化とは(株式化等々ではなくて)債券化であり、その「価格」は(簡単のために利子を考慮しないとすれば)、借入金の大きさを表現するのであって、その大きさが「いかに決定されたか」などという問題意識そのものがナンセンスである、というのは、どれくらいの金額を(どれくらいの利子率で)貸借するかということは、当事者同士の必要(借りる方)と余裕(貸す方)の相互関係にかかわるだけだからである。
 証券化商品の「価格」(債務の大きさ)は、住宅ローンの返済金に依存しているのである、つまりオリジネーターの債務は、住宅ローンの返済金によって清算され、債券が償却されることが前提されているのであって、それは国債の償却(国による返済)が、国家の収入、つまり税金によってなされることが前提されているのと同様である。
 だから、証券化商品(債券)の「価格」と住宅ローンの返済金の大きさは基本的に対応することが想定されているのであって――もちろん、現実に大きな違いが生じることはあり得る、例えば、日本国家の借金(国債発行高)は国家の税収と全く対応しておらず、極端にアンバランスになっている等々。しかしその理由や意味などについて詳しく論じるのは、ここでの課題ではない――、論者が言うように、最初から一対百などというものになるはずもないのである。そんなばかげた(超リスキーな――というより、投資自身が全く回収され得ないような)有価証券を一体誰が(どんな投資家や銀行や機関投資家らが)買う(“投資”する)であろうか。
(林)

●『海つばめ』1111号(2009.12.27)から

【三面トップ】
重要なことは現実の正しい理解
マルクスの“当てはめ”避けよ
『資本論』を読み、学ぶことは大切だが

 関西の労働者セミナーにおいて、私の報告の一部分(サブプライム・ローンの“証券化”の概念)について、一つの論争が突発した。すなわち私の報告は、サブプライム証券化について、そのメカニズムについて、明確に述べていないということであった。その批判はいいとして――というのは、私の報告がサブプライム証券化問題の細部にいたるまで明確かつ的確に述べておらず、不十分な面があったと言うなら、それは否定すべくもないから――、しかし問題は、批判する論者が、私がマルクスの次のような概念を適用していないから、それに基づいて、サブプライム証券化を明らかにしていないから、といった立場から発言したことであった。私はマルクスのあれこれの言葉によって、あるいはあれこれの概念の“適用”(しかも間違った理解による)によって、現実を裁断したり、解釈したりするやり方に賛成することは決してできなかった。この問題はセミナーのときにおいては、突然に提出された問題であり、それに伴って発生した議論だったということもあって、参加者の多くにも何が問題になっているのか、どう理解したらいいのか必ずしも明確にならなかった面も残ったので、ここで簡単に論じさせていただくことにする。もちろん、これはサブプライム問題の一番基礎的な信用関係を、そのメカニズムを正しく理解する、という重要な課題と密接に関係を持っているのではあるが。
◆ 1
 批判者が持ち出したのは、マルクスの次の一文であり、これは参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもしたのであった。
「空資本の形成は資本化と呼ばれる。すべて規則的に反復される収入は、平均利子率で貸出される。たとえば、年収入は一〇〇ポンド、利子率は五%とすれば、一〇〇ポンドは、二〇〇〇ポンドの年利子となるであろう。そこでこの二〇〇〇ポンドが、年額一〇〇ポンドにたいする法律上の所有名義の資本価値とみなされる。そこで、この所有名義を買う者にとっては、この一〇〇ポンドの年収入は、実際に彼の投下資本の五%の利子を表わす。かくして、資本の現実の価値増殖過程との一切の関連は、最後の痕跡に至るまで消え失せて、自己自身によって自己を価値増殖する自動体としての資本の観念が確立される」(『資本論』三巻二九章、「銀行資本の構成部分」、岩波文庫七分冊二二二頁)
 サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。
 批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや、説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。
◆ 2
 しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され、取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。
 マルクスは当該個所で、「国債」について、次のように述べている。
「国家は借入資本にたいする一定量の利子を、年々その債権者に支払わねばならない。このばあいには債権者は、その債務者に解約通告をなすことができず、ただ債券を、その所有名義を、売ることができるだけである。資本そのものは、国家によって支出され、食いつくされている」(同二一九頁)
 マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。
 しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。
 この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。
 債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、一〇年ものの国債でも同じだが)。
 一〇〇万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。「収入の利子率による資本還元」という場合は、当然のこととして、利子率はすでに前提されているのであって、それはマルクスが次のように言っていることからも明らかである。
「利子付資本という形態は、いかなる確定的常則的貨幣収入も、それが資本から生ずると否とを問わず、一資本の利子として現われる、ということを伴う。まず貨幣所得が利子に転化され、次に利子とともに、この所得の源泉である資本も見出される。同様に、利子付資本とともに、すべての価値額が、収入として支出されないかぎり、資本として現われる。すなわち、それが産み出しうる可能的または現実的利子に対する元本(Principal)として現われる」(同二一八頁)
 マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)
◆ 3
 またマルクスは「労働力」についても書いているが、しかしそれは、一七世紀のペティの偏見として、あるいはマルクスの時代の一つの妄想として、批判的に取り上げているだけであって、労働力という「収入」を利子率で資本還元した「価値」もしくは資本一般の理論の説明としてではない。むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう。マルクスが引用する、労賃の「資本還元」とは、フォン・レーデンの次のような文章である。
「労働者は資本価値をもち、それは、彼の一年間の稼ぎ高の貨幣価値を、利子収益とみなすことによって見出すことができる。……平均日賃金率を四%をもって資本化すれば、農業男子労働者一人の平均価値は、ドイツ=オーストリア一五〇〇ターレル、プロイセン一五〇〇、イングランド三七五〇、フランス二〇〇〇、奥地ロシア七五〇ターレルとなる」(同二二一頁)
 そしてマルクス自身が、こうした観念は、奴隷制においては、奴隷が売買される場合には、一つの実質的な意味を持ちえるとしても、資本主義的生産様式においては全く無意味な、ばかげた観念に過ぎないと断じているのだから(二二一頁参照)、この例を持ち出して、資本主義のもとでは「すべての収入は利子率で資本還元されて価値もしくは資本」を持つ(したがって、サブプライム問題にもこの理論を適用して分析せよ)、といった主張が的外れであるのは余りに明らかではあるように思われる。
 労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。
◆ 4
 そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。
 私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。
 そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。
 そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないし、されるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。我々はセクトではないし、セクトを目指すものでもないことを確認しなくてはならない。
(林)

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   (次の「第30-32章該当部分の草稿(「III)」)の解読」は、諸般の事情ですぐにはとりかかれません。何年かかるか分かりませんが、気長にお待ちください。)

 

2022年8月11日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-16)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-16)


    第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)のまとめ


 ◎各パラグラフごとの課題を確認しておく

 全体の展開や構成を考えるために、まず各パラグラフの内容を確認することから始めよう。

【1】マルクスによる「Ⅱ)」という項目番号と大谷氏による〈〔monied capitalの諸形態とそれらの架空性〕〉という表題のみ。

【2】今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉と第28章該当部分(「Ⅰ)」)から話を転換する文言が書かれている。

【3】【8】 (第28章該当部分のまとめと補足が書かれているので、第28章該当部分の考察で検討。今回は省略)。

【9】銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉として、まず〈1)現金(金または銀行券),2)有価証券〉に分け、後者をさらに〈商業的有価証券(手形〉と〈その他の有価証券〉に分けている。
   そして〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる〉としている。
   そして前者の〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらない〉と、前者の構成部分は後者の区別の如何には関わらないことが述べられている。

【10】 ここから架空資本の説明に入っている。このパラグラフはその一般的な説明である。〈利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われる〉と、範疇としての利子生み資本の確立とともに生じる「資本-利子」の関係が、さらに転倒して「利子-資本」の関係が生じることが指摘されている。そして〈まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである〉と「架空資本」の説明が行われている。

【11】 ここから架空資本の具体的な説明に入るが、マルクスはそれを〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げている〈貨幣,手形,有価証券〉の最後の〈有価証券〉から始めて、次に〈手形〉、そして最後に〈貨幣〉の順序で検討していく。
   ここでは具体例として500£の資本は貸し付けられれば毎年25£の利子を生むが、そこから25£の年収入があれば、その源泉がなんであろうと、それは500£の資本の利子とみなされることになる。後者のあるとみなされる500£の資本こそ「架空資本」である。
   その例として、マルクスはその源泉が譲渡可能な形態としては国債を、譲渡できないものとしては労賃を例にとる。
   そして国債について〈国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉と説明している。

【12】 架空資本としての国債の説明の続きである。〈国家の支払いを子(利子)として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉と説明されている。そして〈この架空資本はそれ自身の運動をもっている〉との指摘がある。

【13】 このパラグラフは全体が丸カッコに入っており、エンゲルスは【10】パラグラフのあとに挿入しているが、ほぼ内容的には同じことを述べており、適切な措置であろう。

【14】ここからはマルクスが【11】パラグラフで国債と労賃を例にあげると述べていた、労賃の考察に入るが、それは架空資本の説明というより〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であ〉り、〈労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される〉という観念は、その狂った形態の極端な例だとして紹介されている。だからこれ自体は架空資本そのものの説明とは言えないことに注意が必要である。

【15】 原注a)典拠を示すだけ。

【16】 原注b)「資本還元」という用語が引用文中に見られる。

【17】 ここから架空資本の運動について論じている。〈架空資本の形成は資本還元Capitalisiren〕と呼ばれる〉。つまり現実の構成部分としての国債や株式の額面価格とは離れて架空資本としての国債や株式は運動する。すなわち利子や配当をその時の市場利子率で資本還元して計算される価格でそれらは取り引きされる。〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。

【18】 ここでは〈債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合〉、すなわち〈株式〉を例に挙げて説明している。株式は〈現実の資本を表わしている〉。〈しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない〉。〈それはただ後者の形態で存在するだけ〉、だから結局、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである〉。

【19】 ここでは国債と株式が架空資本として同じものとしてその運動が説明されている。すなわち〈これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである〉。市場価値はそれらの名目価値とは違った規定を与えられる。
   まず株式の市場価値は、配当率の変化によって、次に市場利子率の変化によって変わる、さらにそれは投機的でもある。というのは将来の収入によってそれは規定されているからである。
  国債の場合は、市場利子率の変化によって、確定利息が資本還元されて計算される市場価値も変化する。
  貨幣市場の逼迫期(恐慌時)には、これらの架空資本は二重に下がる。一つは利子率が上がるからであり、もう一つは現金を得るためにこれらの有価証券が大量に販売されるからである。

【20】 これらの架空資本としての有価証券の下落や増価は、それらの現実の資本の運動に関わりがない限りでは、一国民の富の大きさそのものとしては、減価や増価の前もあとも全く同じである。〈国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである〉。

【21】 原注a)モリスの議会証言の典拠を示すだけ。

【22】 このパラグラフと次のパラグラフは以上に説明した架空資本としての有価証券(国債・株式)の説明の締めくくりである。〈すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される

【23】 このパラグラフも締めくくりの続き。〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。

【24】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げていた〈貨幣,手形,有価証券〉のうち、架空資本の形成とその運動を、これまでは〈有価証券〉にもとづいて説明し(それが【11】~【23】に該当)、そしてその次の〈手形〉をこのパラグラフで説明している。
   マルクスはまず〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉と指摘し、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉としている。つまり割引した手形は銀行業者にとっては利子生み証券だということである。その限りではその他の有価証券である国債や株式と同じということである。

【25】原注a)ソーントンからの引用。

【26】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉の最後の部分、すなわち〈貨幣〉の説明に入る。〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。しかし、それをマルクスは預金に対する貨幣準備として説明している。

【27】原注b)ステュアートの引用。

【28】ここから〈銀行の準備ファンド〉の説明になっている。それは資本主義的生産が発達している国では、平均的には蓄蔵貨幣として存在する貨幣の量を表現しているが、しかしその一部分は、紙券から、自己価値ではない金にたいする単なる支払指図からなっていることが指摘されている。ここでマルクスが〈銀行の準備ファンド〉と述べているものは、銀行の帳簿上その準備ファンドとして計上されているものを指している。だから〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉。つまり準備ファンドの一部分は紙券である有価証券(国債、株式等)からなっているからそれらは例えば株式のように〈現実の資本の価値からは離れて調整され〉、国債の場合も〈同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現される〉からである。しかもそれらの架空な貨幣資本は、公衆の預託からなっていることも指摘されている。

【29】ここからは【9】パラグラフで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていた〈預金〉が、ここで論じられている。
   まずマルクスは〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べている。そして預金は準備として手中におく以外は、すぐに利子生み資本として貸し付けられることが指摘されている。
   そして〈預金そのものは二重の役割を演じる〉とし、一つは利子生み資本として貸し出され、もう一つは帳簿上の記録として、それらは信用勘定を互いに相殺し合う限りで諸支払の決済に役立つことが指摘されている。後者はいわゆる「預金通貨」に関連している。

【30】このパラグラフからは「Ⅱ)」全体のまとめになっている。〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉。その例として、マルクスは預金を挙げている。つまり預金のうち準備として手元に残される以外は、すべて帳簿上のものでしかないが、しかしその帳簿上の預金が銀行業者にとって資本として機能することが指摘されている。

【31】このパラグラフは、【30】パラグラフで〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べていたことの、具体例としてまずスミスからの引用があり、同一の貨幣片が〈貸付と購買のそれぞれ〉の役割を果たし、〈同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができる〉という指摘がなされている。

【32】このパラグラフは【31】パラグラフのスミスの引用文に対するマルクスによる解説である。〈同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉。

【33】スミスが貸付一般について言っていることは、預金についても言いうるという指摘がある。すなわち〈同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができる〉。

【34】このパラグラフは『通貨理論論評……』からの引用からなっている。途中、マルクスによる挿入文がある。『論評』は〈あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである〉とし、〈こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうる〉というものである。これは帳簿上の預金について述べたものである。マルクスの挿入文は一つの貨幣額が何倍もの預金になるためには、それが現実の商品の購買によって媒介されていることが必要であることを指摘している。そうでなければ同じ預金額がただその所有名義を変更しただけになり、預金額そのものには変化は生じない。

【35】このパラグラフも「Ⅱ)」の締めくくりの続きであり、準備ファンドも幻想的なものになることが指摘されている。〈この信用システムでは,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのであるが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える

【36】このパラグラフは【35】パラグラフで準備ファンドも〈幻想の産物に転化する〉と指摘されていたが、それが具体的な例を持って説明されている。一つは私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)の準備ファンドに集約されること。そしてイングランド銀行の準備ファンドも発券部の金地金と銀行部の銀行券とに二重化し、銀行部の準備ファンドの増減によって信用がゆらぎ、時には破綻することもありうることが指摘されている。

【37】ここでは預金とその準備ファンドとの不安定な関係がより極端に現れているビル・ブローカーたちのケースが取り上げられている。彼らは〈少しも現金準備なしで巨額の取引を行なった〉こと、だから恐慌時には巨額の負債をかかえて倒産したことが議会証言を引用する形で論じられている。


 ◎ 第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」全体の構成と展開


  ここでは気づいたことを箇条書き的に書いておこう。

  (1) マルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉として、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めている。
   ところが、大谷氏や小林氏は、マルクスは貸借対照表(バランス・シート)を前提に論じているのだというのである。というのは、マルクスが〈実物的なreal構成部分〉として挙げている諸項目が貸借対照表の「資産」の項目とほぼ同じだからという理由である。
   だから彼らはマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の〔wirklich〕構成部分〉とか〈これらの実在的(real)諸成分〉と述べている場合の〈real〉や〈wirklich〉の意味を深く検討もしていないのである。
   マルクスはなぜ〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の構成をその〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めているのか? それはそれらが実際には、銀行業者の帳簿上では、「架空資本」や「架空なもの」になっていることを展開するためである。
   例えば国債や株式などの有価証券は、それ自体としては、つまり実物的なものとしては、「架空なもの」ではあっても「架空資本」なのではない。大谷氏や小林氏は、国債や株式などの有価証券の、それ自体としての存在(これはそれらの額面額と考えてもよい)と架空資本としての国債や株式(これはそれらが売買されている資本価値、すなわち市場価値のことである)との区別があいまいであり、両者を混同して論じているのであるが、そうした混乱もこうしたマルクスの展開を見誤ったことから来ているのである。
   マルクスが貸借対照表を前提に論じているという彼らの主張は、第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)でマルクスが銀行学派たちがいう「資本」というのは、結局は銀行業者の帳簿上の立場から、自身の「資本」の持ち出しに帰着するものを、「資本の貸付」と論じているだけのものであるとして、「銀行業者の資本(banking capital)」もそうした意味で使っていたのだが、それを大谷氏や小林氏はそれは本来は預金あるいは借入資本を意味するものであるのに、マルクスは間違っており、混乱しているかに論じていたことと繋がっている。マルクスは銀行学派の立場は、ただ銀行業者のブルジョア的な帳簿上の立場と同じだと批判しているのである。それなのにそのマルクスが第29章該当部分の草稿では、同じブルジョア的な簿記表記の一つである貸借対照表に依拠して論じているのだなどというのだから、彼らの主張がまったく噴飯ものなのは明らかであろう。

  (2)そのあとマルクスは架空資本の説明に移っているが、それをマルクスは利子生み資本との関連で説明している。ところが大谷氏も小林氏もそうした関連には無関心である。彼らはただ規則的な貨幣利得を資本還元したものとして架空資本を説明して事足れりとしているだけである。小林氏などはマルクスが架空資本の概念とその運動を説明している部分の解説はまったくすっ飛ばして省略してしまっているありさまである。
   しかしマルクスは第21~24章で利子生み資本の概念を明らかにし、特に第24章では利子生み資本によって資本関係は最も物神的な形態に到達していることが指摘され、すべての貨幣が資本として、物として観念され、だからそれには不可避に利子が生え出てくるという観念が生まれてくることが指摘されていた。つまり「資本-利子」の観念である。だから貸し付けられる貨幣が、本来の資本として生産的に投資され剰余価値を形成してその一部を利子としてもたらすのでない場合も、つまりただ浪費のために貸し出された貨幣も「資本」として観念され、だからそれは当然「利子」を生むものとして要求されるわけである。
   ところがこうした「資本-利子」の物神的な関係がさらに発展して、その関係が転倒した「利子-資本」の関係が生まれてくる。すなわち規則的な貨幣利得が「利子」とみなされ、だからそれを「生む」「資本」が想像されるというわけである。しかし後者はまったくの空想の産物でしかなく、だからそれをマルクスは「架空資本」と規定しているのである。これが架空資本の概念である。そしてそうなれば、ますます「利子」をもたらす源泉が何なのかがまったく分からないことになるわけである。
   大谷氏や小林氏が「架空資本」を説明するために持ち出している「資本還元」は、当時のブルジョア経済学者たちが使っていた用語であり、マルクスが「架空資本」の独自の運動として、架空資本の資本価値を計算するやり方として説明しているものである。

  (3)マルクスはその他の有価証券のうち国債や株式を例に挙げて「架空資本」の概念とその独自の運動形態を説明しているが、割り引かれた手形や準備ファンドとして存在する有価証券などについては、必ずしも「架空資本」とは述べずに、「架空なもの」になるとか、それらの「架空性」について述べているだけである。つまり「架空資本」は独自の運動形態を持っているが、銀行の帳簿上に記載される利子生み証券としての割引手形や準備ファンドとしての有価証券などは、架空なものであるが、架空資本とは述べていないことに注意が必要である。
   同じように、マルクスは利子生み資本や信用制度の発展につれて、同一の資本が、あるいは同一の債権にすぎないものが、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れることによって、すべての資本が2倍にも、あるときには3倍にもなることを指摘しているが、これらも〈純粋に架空なもの〉(【30】パラグラフ)とは述べているが、「架空資本」とは述べていない。
   また預金も、その大半(準備として銀行業者の手許に残されるもの以外)は、すぐに利子生み資本として貸し出されて銀行の金庫の中には存在せず、ただ帳簿上の記録として存在するものになる。だから預金が銀行の帳簿上では膨大な額になるが、そのほとんどが「架空なもの」あるいは「幻想の産物」になることが指摘されているが、それらを「架空資本」とは述べていない。
   さらに準備ファンドについてもその大部分が紙券からなっており、やはり「幻想の産物」とは述べているが「架空資本」とは述べていないこと等々である。

  (4)それ以外にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)でマルクスが述べている重要な問題を指摘しておこう。

    ①マルクスは預金の二重の役割について述べ、一つはすぐに利子生み資本として貸し出されるが、もう一つは帳簿上の記録として、信用勘定を相殺する限りで、諸支払の決済の手段として機能することが指摘されている。この機能を持って大谷氏らは「預金通貨」の概念をマルクスも肯定的に論じていたのに、エンゲルスはそれを意図的に削除しているかに論じているが、マルクス自身は決して預金の振替決済の機能を「通貨」などとは述べていないし、むしろそれを通貨を節約する方法の一つとして述べていること。
  
   ②私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)に集中され、ブルジョア社会の準備ファンドが、イングランド銀行の準備ファンドに帰結することが指摘されている。さらに1844年の銀行法によってイングランド銀行の準備ファンドも、発券部の地金と銀行部の銀行券とに二重化することも指摘されている。そしてそのために一層イングランド銀行の信用の軸点としての役割に不安定さを付け加えたことも指摘されている。

  (5)最後にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の全体の構成を見てみることにしよう。

   ① 【2】パラグラフでそれまでの第28章該当部分の銀行学派の批判から問題を転じて、〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉としている。

   ②【9】パラグラフで、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認し、それらは銀行業者の手でどのように表されるかには関係ないことが指摘されている。つまりここではマルクスは銀行業者の資本をその素材的な内容から確認して、それが銀行業者の帳簿上では架空な資本にあるいは架空なものになることを見ようとしているわけである。

   ③【10】~【21】パラグラフ、マルクスは「架空資本」の概念を明らかにして、その実物の存在(額面の価格)とは離れて表される独自の運動(市場で取引される資本価値あるいは市場価格)を説明している。

   ④【22】・【23】パラグラフ、それまで検討してきた有価証券の一つのまとめを行っている。

   ⑤【24】【25】パラグラフ、ここでは〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの〈手形〉の考察が行われている。

   ⑥【26】【27】パラグラフ、〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの最後の部分である〈貨幣〉が取り上げられているが、それを預金に対する貨幣準備として問題にしている。

   ⑦【28】パラグラフ、銀行の準備ファンドのほとんどが「架空なもの」であることが指摘されている。

   ⑧【29】パラグラフ、預金が問題になっている。

   ⑨【30】~【37】パラグラフ、利子生み資本と信用制度の発展によって、同一の資本が、あるいは同一の債権が、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れ、同じ資本が何倍にもなることによって、それらのほとんどが幻想の産物になっていることが指摘されている。

   以上が、第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の構成である。

 マルクスは、この第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)で明らかにしようとしたのは、銀行業者たちが帳簿上で取り扱っている資本のほとんどは架空なものだということである。それを端的に論じているのは、【30】パラグラフの〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉という一文である。
   第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)で、マルクスは、銀行学派たちが通貨学派を批判するために、「通貨」と区別して持ち出している「資本」というのは、利子生み資本という正しい概念においてではなく、ただ銀行業者たちが帳簿上彼らの信用だけで貸し付けたものを「通貨」とし、それが銀行に還流してきて、彼らの「資本」の持ち出しに結果したものを「資本の貸付」に転化したと述べているが、銀行学派たちの「資本」というのは、こうした意味でしかないこと、つまり銀行業者たちにとっての「資本」というのが彼らの「資本」の意味でしかないことを暴露したのであるが、その銀行業者たちが帳簿上取り扱っている「資本」というのは、実はまったく架空なものでしかないことを今度は明らかにしたというわけである。
   マルクスは続いて第30-32章該当部分(「Ⅲ)」)で、銀行業者の手で膨大に蓄積された貨幣資本(Geldcapital)が、現実の生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのかを明らかにしようとしているのであるが、だから第29章該当部分(「Ⅱ)」)はその前提をなすものということができるであろう。

   以上で、大谷氏が〈第29章の草稿、それとエンゲルス版との相違〉と題して紹介しているマルクスの草稿の解読は終えることにする。このあと最初に約束した林紘義氏の『海つばめ』掲載論文を関連資料として紹介する。

  (関連資料は次回に。)

 

2022年8月 4日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-15)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-15)


 
(以下は、【36】パラグラフの続きです。)

   小林氏は『マルクス「信用論」の解明』の〈第12章「銀行業者の資本」の「架空性」〉の〈第4節 「準備ファンド」の「架空性」〉のなかで、今回のパラグラフを取り上げている。まず次のように書き出している。

  〈ところで,「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」--は,市中銀行と中央銀行との間についてもいえる,とマルクスは言う。それを彼は次のように表現する。「この信用制度(Creditsystem)の下では,すべてのもの[資本]が2倍化され,3倍化され,そして単なる幻影物(Hirngespinst)に転化するように,それはまた,人がやっと何か確かなものを掴んだと信じている『準備ファンド』にも,妥当する1)」と。
 その第1は,1844/45年のピール銀行法の下で,中央銀行制度が次第に確立され,信用=銀行制度が重層化していくことによって,市中銀行の「貨幣準備」(支払準備金)が,「手許現金(Cash in Hand)」(正貨およびイングランド銀行券)と「イングランド銀行預け金(Cash at Bank of England)」とに二重化2)し,市中銀行の金準備が次第にイングランド銀行に集中していく点である。--「単一準備金制度」(one single banking reserve 3);a one-reserve system of banking 4))の確立5)。その第2は,同じくピール銀行法の下でイングランド銀行に集中化されたこの「単一の」「準備ファンド[まで]も,再び「二重化』される6)」--という点である。〉 (420-421頁)

   (1)まず著者は〈「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」〉というが、マルクスは果たして〈「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係〉に限定して述べていたのであろうか。少なくともマルクス自身の一文のなかには「市中銀行」という文言は出てこない。だからまたマルクスの一文では、明確に市中銀行と公衆との間と市中銀行と中央銀行との間との関係を区別して論じているとは言い難い。少なくともこれは小林氏の勝手な理解であろう。
   (2)また著者は〈貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」〉というが、しかし預金が預金された現金とその帳簿上の記録とに分かれて二重の役割を果たすということを、「請求権化」と述べるのはどうであろうか。そしてまたそのことが、〈「同じ資本の2倍化・3倍化」〉したというのも、必ずしも正確とは言い難い。なぜなら、預金された同じ現金が利子生み資本として貸し出され、何度も預金として還流することによって帳簿上の預金として〈2倍化・3倍化〉すると言いたいのであろうが、しかし積み重なった帳簿上の預金は、同じ現金が利子生み資本として何度も貸し出されて、何らかの商品の価値を実現するという媒介を経て、積み重なるのであって、そうした媒介を抜きには、簡単に〈「同じ資本の2倍化・3倍化」〉とは言えないのからである。少なくともマルクスが述べているものを正しく伝えているとは言い難い。
   (3)著者は中央銀行制度が次第に確立されたこと、それに伴って市中銀行の準備ファンドが手元現金と中央銀行預け金(当座預金)とに二重化し、蓄蔵貨幣としての金が中央銀行に集中することを指摘し、さらに中央銀行としてのイングランド銀行の準備ファンドも二重化すると述べている。しかしマルクス自身は、後者のイングランド銀行の準備ファンドの二重化については述べているが、市中銀行の準備の二重化については必ずしも述べているわけではない。むしろ市中銀行の準備ファンドが、イングランド銀行に預金として集中されることによって、それが縮小され、その限りで市中銀行の帳簿上の準備ファンドが架空化するということをマルクスは述べているのである。また著者がいうように例え市中銀行の準備ファンドがイングランド銀行への預金と手元準備とに二重化するということがあったとしても、そのことはイングランド銀行の準備ファンドが二重化するということとは、まったく違った問題である。後者は、銀行法によって、イングランド銀行が発券部と銀行部の二つの部局に分かれ、その結果、準備ファンドも分かれたことを言っているのである。だから二重化と言ってもまったく異なる事象である。

   そして著者は上記の抜粋にもとづいて、第1の点と第2の点について論じているのであるが、それらもほぼ第36パラグラフにそったものである。しかしそのなかには首を傾げるものもないわけではない。まず第1の点については次のように述べている。

  第1の点についてマルクスは,「商業的窮境』(1847-8年)から,モリス氏(元イングランド銀行総裁)の証言(第3639号,第3642号)--「私営銀行業者達の準備金(reserves)は預金の形態でイングランド銀行の手にある」ので,「金流出の第1の影響はただイングランド銀行に対してだけのように見えるが,しかしそれはイングランド銀行に彼らが持っている準備金の一部の引出し(withdrawal)と同じぐらい銀行業者達の準備金に作用するであろうに」--を引用して,「結局,実際の『準備ファンド』はイングランド銀行の『準備ファンド』に帰着する7)」と結論する。〉 (421頁)

    これはほぼ第36パラグラフの引用部分の紹介だけである。次に、第2の点についは次のように述べている。

  第2の点については,マルクスは以下のように説明する。即ち,イングランド銀行「銀行部の「準備ファンド』は,イングランド銀行が発行を法的に許されている銀行券の,流通にある銀行券[イングランド銀行の外にある銀行券]を超える,超過に等しい。[そして]銀行券[発行]の法的な最高限度は,14百万[ポンド](それに対しては地金準備(Bullionreserve)をなんら必要とせず,国家のイングランド銀行への債務に等しい)プラス地金準備(Bullionvorrath)に等しい銀行券」である。そこでマルクスは,例えばとして,次の数字を挙げる。「地金準備が14百万ポンドであれば,28百万ポンドの銀行券を発行し,その内の22百万ポンドが流通していれば(マルクス自身は例としては2000万ポンド・スターリングをあげている--引用者),銀行部の準備ファンドは8[6]百万ポンドに等しい(この書き方もおかしい、マルクスが実際にあげている数字によれば800万である--引用者)。この8[6]百万[ポンド]の銀行券は,(法的に(gesetzlich))イングランド銀行がこれを自由にし得る銀行営業資本(banking Capital)8)であり,そして同時に預金にとっての「準備ファンド』である。さてもし金準備(Goldvorrath)を,例えば,6[4]百万[ポンド]だけ(マルクスは600万という数字をあげている--引用者)減少させる(それに対しては同額の銀行券が廃棄されなければならない)金流出が生じるならば,銀行部の準備金は8[6]百万[ポンド]から2百万[ポンド]にまで低下するであろう(würde)。9)」だから,一方,イングランド銀行は利子率を大いに引上げるが,他方,イングランド銀行への預金者達--銀行業者その他--にとっては,彼らのイングランド銀行への「貸越金」に対する「支払準備」が大いに減少することになる。したがって仮に,イングランド銀行への預金者であるロンドンの4大株式銀行がその預金を引上げるならば,「流通銀行券の兌換の保証として,地金部(Bullion Department)[発券部]に数百万[ポンドの準備金](例えば1847年には8百万[ポンド])が横たわっていても,銀行部はそれだけで破産し得る。10)」このようにイングランド銀行の「準備ファンド」も「二重化」し,「これもまた幻想的(illusorisch)11)」つまり「架空化」するのである,と。〉 (421-423頁)

   これも第36パラグラフの引用部分に続くのマルクスの一文の紹介だけに見えるが、気づいたことを二点だけ指摘しておこう。

   (1)まず著者はマルクスが銀行部の準備について、〈この8[6]百万[ポンド]の銀行券は,(法的に(gesetzlich))イングランド銀行がこれを自由にし得る銀行営業資本(banking Capital)8)であり,そして同時に預金にとっての「準備ファンド』である。〉と述べていることについて、〈銀行営業資本(banking Capital)8)〉に注8)を付けて、次のように述べている。

  〈8)1844年銀行法の下では,イングランド銀行が貸出に用い得るのが「銀行部(banking department)」にあるこの「準備金」であるが,だからと言ってそれをbanking capitalと呼ぶことはできないであろう。「銀行営業資本(banking capital)」という言葉の用い方としては不適切である。前章第4節を参照されたい。〉 (426頁)

   これは恐らく著者が次のように述べていたことを思い浮かべているのであろう。

  〈上述のように銀行が貸出しに用いるのは「銀行営業資本(banking capital)」であって,その主たる部分は,ギルバートやウィルソンが指摘しているように,銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」である。そしてイングランド銀行券が「通貨」として「流通」している限り,それは預金と共に貸借対照表の「借方」に計上されてくるのであって17),したがって,この事例のようにBによる同行への預金を通じた銀行券の還流は,結局,同行にとっては,債務の1つの形態(銀行券)から,債務のいま1つの形態(預金)への,債務の形態変化に過ぎないのではなかろうか?〉 (396頁)

  つまり銀行営業資本というのは銀行が貸出に用いるものを指していうのであり、その限りでは銀行部の準備がそうであるのは明らかだから、それを銀行営業資本(banking capital)と呼ぶことになんの問題もない。ところが著者は〈だからと言ってそれをbanking capitalと呼ぶことはできないであろう。「銀行営業資本(banking capital)」という言葉の用い方としては不適切である〉というのである。要するに、著者が問題にするのはそのあとで書いていることであろう。すなわち〈その主たる部分は,ギルバートやウィルソンが指摘しているように,銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」〉でなければならないと言いたいのであろう。つまりイングランド銀行の銀行部の準備は、〈銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した〉ものとは言い難いのだから、こうした〈言葉の用い方としては不適切〉だと言いたいのである。
   しかしそもそもこうしたギルバートやウィルソンの文言をそのまま鵜呑みにしていることについてはすでに私はその間違いを何度か指摘したが、しかし問題はここではそれだけではない。マルクスがここで問題にしているのは利子生み資本だということが著者には分かっていないことである。利子生み資本としてはそれがどのように調達されたかなどということは何の関係もないからであ。だから銀行部の準備はイングランド銀行が利子生み資本として貸付に運用することが可能なものなのだから、その意味では「銀行営業資本(bank capital)」と呼んでも何の問題もないのである。

   (2)もう一点指摘しておくと、著者は〈このようにイングランド銀行の「準備ファンド」も「二重化」し,「これもまた幻想的(illusorisch)11)」つまり「架空化」するのである〉と述べているが、これは恐らくマルクスが【36】パラグラフの最期に〈しかしこのことも、これはまたこれで幻想的である〉(大谷本第3巻191頁)と述べていることの説明のつもりであろう。つまりマルクスが〈このこと〉と述べていることを〈イングランド銀行の「準備ファンド」〉を指していると理解しているわけである。そしてこの限りでは私の理解と一致している。】


【37】

  /[340a]上/285)[+]預金および準備ファンドについて--ビル・ブローカー287)「とはいえ,銀行業者自身が直接に必要としない{預金の}大きな部分がビル・ブローカーの手に渡り,彼らは見返りとして銀行業者に,銀行業者による前貸額にたいする担保として,自分たちがすでにロンドンやこの国のさまざまの部分の人々のために割引した商業手形を与える。ビル・ブローカーは銀行業者にたいしてこの当座借り〔money at call〕の支払の義務を負っている。そしてこのような取引が大きな金額になっていることは,293)イングランド銀行の現総裁ニーヴ氏が,その証言のなかで次のように言っているほどである。「わたくしどもは,あるブローカーが500万もっていたことを知っておりますし,また,もう一人は800万から1000万をもっていたと推定する根拠をもっています。ある一人は400万,もう一人は350万,第3の一人は800万以上をもっていました。私が言っているのは,ブローカーに預託された預金のことです。』(『1844年……の銀行法の効果を調査するために任命された下院特別委員会〔銀行法特別委員会〕からの報告』,1857-58年。[〔前付ⅴページ,〕第8項。]) (1858年印刷。)「(ロンドンの)ビル・ブローカーたちは……少しも現金準備なしで巨額の取引を行なった。彼らは,支払期日がくる自分の手形が減少することをあてにしていたか,あるいは窮地に陥ったときには,保有割引手形を担保にしてイングランド銀行から前貸を受けるという自分の力をあてにしていたのである。」(同上。[〔前付viiiページ,〕第17項。])300)「ロンドンにある二つのビル・ブローカー商会は1847年に支払を停止した。その後両方とも取引を再開した。両商会は1857年にもふたたび停止した。一つの商会の負債は1847年には概数で2,683,000ポンド・スターリングで,そのときの資本は180,000ポンド・スターリングだった。1857年にはその負債は5,300,000ポンド・スターリングだったが,資本のほうは……おそらく1847年当時の額の4分のlよりも多くはなかった。もう一つの商会の負債は,どちらの停止期にも300万から400万で,資本は45,000ポンド・スターリングを超えていなかった。」(同前報告,〔前付xxxiページ,〕第52項。)/

  ①〔注解〕「(ロンドンの)」--マルクスによる挿入。
  ②〔異文〕「+00」という書きかけが消されている。

  285)〔E〕前パラグラフへの異文注⑯に記載されているマルクスの指示にしたがって,草稿の[340a]ページの該当部分をここにもってきた。エンゲルス版でも同じ処理が行なわれている。
  287)『銀行法特別委員会報告』からのこの引用は,1865年8/9月から1866年2月にかけて作成された抜粋ノートから取られている(IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.B98,S.250-251.MEGA IV/18に収録予定)。
  293)〔E〕「イングランド銀行」--マルクスが引用している原文ではthe Bank(草稿ではBk)であって,これがイングランド銀行を指すことは明らかであるが,エンゲルス版では,そのドイツ語訳のdie Bankのあとにvon Englandという語を補足して,そのことをさらに明確にしている。
  300)『銀行法特別委員会報告』からのこの引用は,1865年8/9月から1866年2月にかけて作成された抜粋ノートから取られている(IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign,B 98,S.258,MEGA lV/18に収録予定)。〉(192-193頁)

  【このパラグラフは、抜粋のための表題と考えられる〈預金および準備ファンドについて--ビル・ブローカー〉以外は、すべて引用なので、平易な書き下し文は省略する。
  まずこのパラグラフの草稿での状態について確認しておこう。大谷氏は訳注285)に次のように書いている。
 
  〈285)〔E〕前パラグラフへの異文注⑯に記載されているマルクスの指示にしたがって,草稿の[340a]ページの該当部分をここにもってきた。エンゲルス版でも同じ処理が行なわれている。〉 (192頁)

   ここで指摘されている〈前パラグラフへの異文注⑯〉をもう一度確認のために紹介しておこう。

  〈⑯〔異文〕マルクスはこの〔339〕ページの末尾にあとから「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示を記した。実際に340aページに+というしるしがあるので,そこの本文をここにもってきておく。〔草稿の340ページの次のページにはページづけがない。MEGAは[340a]というページ番号をつけている。〉 (192頁)

   つまりこのパラグラフの冒頭にある〈/[340a]上/〉という340aというページ番号はマルクス自身のものではなく(マルクス自身は頁付けをしなかった)、MEGAの編集部がつけたものということである.しかもマルクス自身はこの頁は、339頁の〈2ページあと〉の頁だと考えている。しかしそこには頁付けがないので、MEGAが340a頁としたということである。ということはマルクスの草稿には340頁があることになるが、そこでは次の「Ⅲ)」が開始されているのである。大谷氏の草稿の紹介では次のようになっている。

  〈|340上|Ⅲ)〔moneied Capitalとreal capital〕〉 (大谷本第3巻411頁)

 つまりマルクスの草稿では先の339頁の冒頭から【31】パラグラフを書き始めて、【36】パラグラフで339頁を書き終え、そのあとすぐに340頁の冒頭から「Ⅲ)」が始まっているのである。ただマルクスは339頁の【36】パラグラフの末尾に〈この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。〉という指示書きを書いたのである。ではその2頁あとつまり341頁には、しかし大谷氏の説明ではページづけがないのだそうである。ところが大谷氏の【37】パラグラフには〈/[340a]上/〉という印がある。この340aがMEGAが付けた頁数というのが分かったが、〈/   上/〉というのはどういうことであろうか。これは340a頁にも上下の区別があり、しかも【37】パラグラフはその途中から始まっていることを示している。では340a頁上段の冒頭は何が書かれているのか、それは「Ⅲ)」の本文である【9】パラグラフが書かれており、だからその次に〈+というしるし〉があって【37】パラグラフが書かれているのである。そしてさらに340a頁上段には「Ⅲ)」の本文である【10】パラグラフが続き、それで340a頁上段は終わっている。340a頁の下段は「Ⅲ)」の【4】パラグラフの本文につけられた原注a)の【5】パラグラフが始まり、【10】パラグラフの本文につけられた原注a)の【11】パラグラフがそれに続いている(ただしこの原注a)は次の341頁の下方にまで続いている)。なお341頁上段は「Ⅲ)」の本文である【15】パラグラフから始まっている。とりあえず、この【37】パラグラフが草稿のそういう状態で書かれていることを確認しておこう。
   さらにもう一つ重要な問題がある。もう一度先の【36】パラグラフの最後の部分を抜き出してみよう。

  〈しかしこのことも,これはまたこれで幻想的である

   ここでマルクスが〈このこと〉と書いているものは何のことかが問題であった。ところがマルクス自身はこの一文のあとに〈「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示〉を書いているのである。つまりここで〈この点についての続き〉というのは、その直前の〈しかしこのことも,これはまたこれで幻想的である〉ということを指していると考えられなくもない。ということは今回の【37】パラグラフの内容はマルクスが〈このこと〉と書いているものは何なのかを考えるヒントをわれわれに与えているとも考えることができるのではないだろうか。と、まあ、以上のことを確認して、ではその実際の内容について考えていくことにしよう。

 ここではビル・ブローカーが自分が割引した手形を担保にロンドンの銀行業者から〈当座借り〔money at call〉を受けることが述べられている。この当座借りというのを、小林氏は後に検討するが〈コール・マネー〉と訳している。コール・マネーというのは、金融機関同士の間で融通し合う貨幣のことで、短期のものである。ビル・ブローカーたちは、割引した手形を担保に銀行からコール・マネーを受け取る。彼らはそのようにして、銀行から借り出した貨幣で手形を割引して、その割引した手形を担保にまた銀行から借り出し、さらにその借り出した貨幣で手形を割引するということを繰り返して、利ざやや手数料を稼ぐのであろう。そしてそうした結果、彼らの銀行に対する返済の義務のある債務額が途方もないものになっているということである。彼らはわずかの元手で、こうした取り引きを行っており、だから一旦破産すると膨大な負債が残されるというわけである。彼らが実際に持っている資本(元手)というのはその負債額の100分の1程度だということが指摘されている。だから彼らは膨大な貨幣資本(moneyed Capital)を日常的に扱っているが、しかしそのほとんどは〈現金準備なし)で行われているものであり、その限りでは架空なものだったとマルクスの言いたいのではないだろうか。
   つまりマルクスはここでは預金とそのための準備ファンドとの関係について、ビル・ブローカーにおいては、その預金総額、彼らが顧客から預託された総額(彼らの負債総額)に比べて、その準備金というのは一般の銀行業者たちに比べるとさらに極端に少ない事実を指摘しているわけである。
   先の【36】パラグラフは、私営銀行業者たちの準備ファンドは、中央銀行に預金されて、
しかも必要最低限まで縮小されている。つまりそれぞれの私営銀行業者たちが持っている膨大な帳簿上の預金額に対して、その準備ファンドというのは、相対的に少ないのであるが、それがさらに中央銀行に集中されることによって、さらにそれが縮小されている事実を述べていたわけである。そして今回の【37】パラグラフでは、ビル・ブローカーにおいては、そうした預金額と準備ファンドとの関係は、より極端な関係になっていることが指摘されていることになる。つまり【37】パラグラフは、【36】パラグラフで述べていることのより極端な関係を示している例として挙げられていると考えられるのである。

   だから【36】パラグラフの〈このこと〉について大谷氏は〈「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう〉と述べていたのであるが、【37】パラグラフとの関連で考えるなら、それは預金とその準備ファンドとの関係について、マルクスは述べていたと考えるべきであろう。つまりその前で〈1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法281)を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),銀行部が破産することがありうるのである〉と書いているように、銀行部にはたった200万ポンドの準備ファンドしかない時に、もし4大株式銀行の預金だけでも、それを引き揚げられたら、たちまち銀行部は破産するだろうということであった。つまり膨大な預金額に対してその準備ファンドが限りなく縮小されている事実を指摘していたのである。そして実際、そのことによってビル・ブローカーたちの場合は恐慌時には大きな負債を残して破産したのである。だからマルクスが〈このこと〉と述べているのは、やはりイングランド銀行の準備ファンドそのものも幻想的であるということではないだろうか。

   大谷氏はこのパラグラフそのものについては直接言及していないが、このパラグラフがエンゲルス版の第29章該当部分の草稿の最後の部分であることから、大谷氏が第29章該当部分全体を次のように締めくくっていることを紹介しておこう。

  〈第29章相当部分でのマルクスの考察はここで基本的に終わっているが,以上述べたところから,マルクスがここで明らかにしようとしたのは銀行資本の架空性であることが確認されるであろう。そのさい,この架空性はさまざまの異なった観点からなされていた。第1に,「いわゆる利子生み証券」=いわゆる擬制資本の架空性。第2に,そのなかでもとくに,国債のように資本そのものがまったく幻想的なものと,第3に,株式のように資本価値が架空であるものとが区別される。第4には,銀行が保有する紙券は--他行の銀行券を含めて--自己価値でないという意味で架空であること,第5に,無準備となっている預金はすべて架空資本となっていること,第6に,準備ファンドでさえ「幻想的」であること。そして最後に,預金と準備ファンドとのところでより一般的に言われていたように,利子生み資本と信用制度との発展につれて,同じ資本が何倍にもなって現われるのであって,この貨幣資本の大部分は架空のものであること。この最後の点では,架空性は銀行資本のみについてではなく,信用制度下のmonied capita1一般について言われているわけである。〉 (大谷本第2巻72頁)

  ここでは気になることを簡単に箇条書き的に書いておくだけにする。

   (1)すでに何度も指摘したが、「いわゆる利子生み証券」を「いわゆる擬制資本」と言い換えているが、これについては何故にこうした言い換えが必要なのかはわからないこと。それについて大谷氏自身は何の明確な説明もしていないこと。ただ通俗的な使い方を肯定し、踏襲しているだけのように思えることである。
   (2)国債と株式について、その区別を架空資本の〈異なった観点からなされてい〉るもののように述べているが、しかしそれは正しくマルクスの考察を読み取ったものとは言い難いこと。むしろマルクスは現実の構成部分としてみれば国債と株式には違いがあるが、しかし架空資本としては同じだと述べているのである。
   (3)先に大谷氏は紙券を他行の銀行券と捉えていたが、しかしここでは紙券をそれに限定せず、他行の銀行券を含めたものとどうやら考えているように思えるが、しかしマルクス自身は「他行の銀行券」などについては何も述べていないということ。
   (4)そして何よりも重要なのは、規則的な貨幣収入が資本還元されて幻想的な貨幣資本(利子生み資本)の利子として見做されることに、架空資本の架空資本としての根拠があり、架空資本の概念が成立するということが、これではまったく捉えられていないし、指摘されてもいないということである。こうしたバラバラの寄せ集めでは架空資本の概念は決して明らかにはならないのである。
   (5)またマルクスが「架空資本」と述べているものと「架空なもの」あるいは「架空性」「架空化」と述べているものとは違うという理解が必要である。大谷氏にはそれがない。架空資本はその独自の運動形態を持っているが、「架空なもの」は必ずしもそうではない。

   小林氏は大谷氏とは違い、わざわざ先の第12章のなかで〈第5節 預金と支払準備金とビル・ブローカー〉と題する一節を設けている。
  小林氏はこの【37】パラグラフは、【36】パラグラフまでで述べていた準備ファンドの架空化の〈いわば「補遺」〉(428頁)だとして、次のようにその概要を紹介している。

  〈即ち,「しかしながら,銀行業者達自身が直接必要としない〔預金の〕大きな部分は,ビル・ブローカー達の手に移り,代りに彼らは銀行業者に,ロンドンおよびこの国の種々な地域の人々のために彼らが既に割引いた商業手形を,銀行業者によって前払いされた金額に対する担保として渡す。ビル・ブローカーはこのコール・マネーの返済に責任を負っている」が,その金額は巨額に上っているとして,さらにマルクスは「銀行法特別委員会(1858年)」におけるニーヴ氏(イングランド銀行総裁)の証言をそこに引用する。それによると,ビル・ブローカーへの前貸し額は350万から800~1000万ポンドにも及び,しかも「(ロンドンの)ビル・ブローカー達は,彼らの手形が満期になって流れていくことを当てにするか,窮地の場合には割引手形を担保にイングランド銀行から前貸を獲得する力を当てにして,彼らの巨額の取引を全く現金準備なしで(without any cash reserve)営んでいる。」そして「そのうちの2社は1847年に支払停止となり,その後取引を再開したが,1857年には再び支払停止[となる]。」しかも例えば,そのうちの「1商会は1847年には,資本金180,000ポンドで,負債は2,683,000[ポンド]であったが,1857年には,資本金は恐らく1847年の1/4を越えないのに,負債は5,300,000ポンドであった…2)」,と。〉 (428頁)

   これは【37】パラグラフの概要を紹介しているだけであるが、著者はそれに続けて次のように書いている。

  〈ところで,この預金と支払準備金とビル・ブローカーとの関係については,手稿「混乱:続き」の前段部分3)での,ビル・ブローカーであるオーヴァレンド・ガーニー商会のチャップマンに対する『銀行法特別委員会報告書(1857年)』における質疑・応答の引用とそれに対するコメントの形で詳細に示されている。その点に関しても,既に本書第6章において考察してきたところであるが4),ここでその若干を再録しておこう。〉 (428頁)

   そして著者は、「混乱;続き」からの抜粋をながながと行っている。しかしそれをそのまますべて紹介することはやめておく。そのあと、それらのアチコチから細切れに引用したものの纏めらしきものを書いているので、それを紹介しておこう。

  〈以上からでも,預金と支払準備金とビル・ブローカーとの関係を次のように要約することができるであろう。即ち,銀行業者は「過剰のマネー」をロンドンのビル・ブローカーに「コール・マネー」として貸出し,この短期貸付が,大蔵省証券などへの有価証券投資と共に,地方銀行業者の「資産」の中で広義の準備金(「現金と余剰金8)」)の一部を占めていく。そしてビル・ブローカーは「準備金なしで」,この「コール・マネー」で手形を割引き,この割引手形を地方銀行業者に担保として渡し,彼等が「窮地」に陥った時には--即ち逼迫期には--,イングランド銀行に援助を求める。しかし「第1級の商業手形」でも割引かれないような事態ともなれば,銀行業者はその準備金を「2倍」に増大しようとし,「利子など」を得るよりも貸出しを手控えてしまう。「負債」が「王国の鋳貨」で一齊に支払を求められたなら,「信用貨幣制度から金貨幣制度への急変」が生じ,国内でパニックが発生する。というのは,銀行業者達は「支払準備金」をさしあたっては「最低限」に押さえており,ビル・ブローカーは無準備であり,イングランド銀行もその金準備のうち,世界市場貨幣としての蓄蔵貨幣部分は「最小限に減らし」ており,その僅かな金準備が実質的には「同時に」国内の銀行券の兌換準備としても機能しなければならず,市中の銀行業者達の準備であるイングランド銀行への彼等の預金の支払準備は,銀行部にあるイングランド銀行券での準備だけとされているからである,と。〉 (431頁)

   これはこのまま参考として紹介するだけにしておく。特に異論を挟むほどのものはないからである。】

   以上で第29章該当部分の草稿のテキストの解読は終わりである。このあと大谷氏は〔補注〕を書いているが、それは【4】パラグラフ(われわれはそれを第28章該当部分に属するものとして【53-2】として考察)の〈この銀行業者経済学者は、かつて啓蒙経済学が、「貨幣」は資本ではないのだ、と念入りに教え込もうとしたのと同じ入念さで、じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capital.“κατ'εξoχην”〕なのだ、と教え込むことになっている〉という一文に出てくる〈“κατ'εξoχην〉というギリシャ文字をマルクスはどのように使ったか、と問題提起して、草稿のなかの諸例を挙げておくというもので、特に検討するほどのものとは思えないので、その検討はやめておく。あとは全体の纏めを行うことにしよう。

  (全体の纏めは次回に。)

 

2022年7月28日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-14)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-14)



  (以下は、【34】パラグラフの解読の続きです。)

  大谷氏は訳注245)で同じ引用が第25章該当部分の原注2)として引用されていることを指摘し、同訳注246)で、『通貨理論論評……』の原文を英文で紹介している。しかし大谷本第2巻の原注2)の注解では『通貨理論論評』の原文が邦訳されて紹介されているので、それを参考のために紹介しておこう(【   】で囲った部分はマルクスが省略している部分である)。

  〈① 〔注解〕『通貨理論論評』の原文では次のように書かれている。「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日は払い出されてBへの預金になるというのは,疑問の余地なく本当のことである。それはその翌日にはBから払い出されてCへの預金になるかもしれない。そしてCからふたたび払い出されてDへの預金になるかもしれない,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金金額になることがありうる。それゆえに,連合王国にあるすべての預金の10分の9が,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されている預金の記録以外には存在しない,ということもありうるのである。【そして,そのようなことが生じうることの証拠としては,次の事実よりも強力な証拠はない。すなわち,】スコットランドの銀行では,通貨は平均して300万ポンド・スターリングを越えたことがないのに,預金は2700万ポンド・スターリングだった,という事実である。【……それにもかかわらず,いま想定してみたような不慮の事態--連合王国のすべての預金が同時に引き出されること,だからまたおよそ起こりえないこと--以外は,預金者のすべてがどんなときにも享受している連合王国の預金の額まで,貨幣を無条件に使えることにごくわずかの程度にさえ影響することはないであろう。そして,】この単純な理由で,一連の移転によって無限の金額の預金にまで自己自身を増やすことの例として挙げた同じ1000ポンド・スターリングが逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日あなたがある小売商人にたいするあなたの債務を決済するのに用いられたその同じ100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商入の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えうるどんな預金額でも決済することができるのである。」〉 (大谷本第2巻187-188頁)

 小林氏もこの部分を翻訳引用している。参考のために紹介しておこう。

  〈そして「A.スミスが貸付について一般的に述べていることは,預金……についても妥当する9)」として,マルクスは同一貨幣片によるその何倍もの預金の形成と,その預金による債務決済についての,次の匿名の著書からの引用を掲げ,「銀行業者の資本」の主要部分を占めている預金の「架空な」実態を示そうとする。即ち,「あなたが今日A行に預金する1000ポンド[の銀行券]が,明日再発行され(reissued)[銀行券で引出され],そしてB行で預金を形成する*ということは疑いもなく真実である。その翌日にB行から再発行されて,それ(1000ポンドの銀行券)はC行で預金を形成するかもしれない,……等々無限に。貨幣での同じ1000ポンドが,一連の移転によって,このように絶対的に無限の預金額に自らを倍加しうること[も疑いもなく真実である。]それゆえ連合王国における全預金の10分の9が銀行業者達の帳簿におけるそれら記録--彼らはそれぞれそれら[帳簿上の記録]に責任をもたなければならないが--の他には存在しないかもしれないということは可能である。〈このような蓋然性についての次の事実以上により有力な証拠は加えられ得ないであろう,即ち〉平均的には3百万スターリングを決して越えることのない通貨をもってしても(with a currency,which…),スコットランドの銀行の預金は27(seven-and-twenty)百万スターリングと見積もられているという事実である。〈もしもグレート・ブリテンとアイルランドの全預金者が同時的な衝動に駆られ,彼らの預金の払戻を請求するために,一斉にそして同じ時に[銀行に]やって来たとすれば,請求は応じられえないであろう。… 〉/〈にもかかわらず,示唆されている全くの偶発事--連合王国における全預金の同時的引出し,そしてそれゆえ1つの不可能事--は,各預金者によって何時でも享受される,彼の預金額までの,貨幣の絶対的支配にはほんの少しも影響を及ぼさないであろうに。そして〉この単純な理由から,一連の移転によって自分自身を無限の預金額に倍化することの例として挙げられていた同じ1000ポンドが,もしその行程を送り返されるならば,同じ容易さで等しく無限な額を相殺する(cancel)であろうに。あなたがそれをもって今日1事業家(trades man)に対する負債を相殺する同じ100ポンドが,明日は商人(merchant)に対する彼の負債を相殺し,その翌日にはその商人が銀行に対するその商人の負債を相殺する,等々が無限に続く。そこで同じ100ポンドが手から手に,銀行から銀行へと渉ってゆき,そして考えられうるいかなる預金をも相殺する10)」,と。〉 (415-416頁)

   なお注10)によれば〈引用文の括弧〈  〉の中は,マルクスが省略している箇所である。また引用文中の最後に挙げられている数字例について,マルクスは「同じ1000ポンド」としているが,「同じ100ポンド」の誤りである。なお文中の*印は,著者(小林)が付したものである。〉(417頁)ということである。

   このように小林氏の引用ではマルクスの挿入文が省略されている。だからそれをそのあと次のように紹介している。

  〈またマルクスは手稿の「Ⅱ)」で,『通貨理論評論』のこの同じ箇所を引用するにあたって,引用文中*印を付した箇所--「……B行で預金を形成する*……」--の後に,括弧〔  〕に入れて,次の解釈を挿入している。「このことは次の2つのケースでのみ可能である。[①]預金者が1000ポンドをB行に預金するために,A行からそれを引出すか。その場合1000ポンドによって1つの預金だけが想定されていれば,いまやA行に代ってB行に[預金するということになる。][②]あるいは,A行が例えば手形の割引,またはA行宛に振出された小切手等の支払に(単に1000ポンドの預金者[自身]によってというのではない),1000ポンド[の銀行券]を発行するか。そしてその場合には,受取人〔手形を割引く場合ならば,1つの購買によってかあるいは第3者への支払によって媒介される。なぜなら誰も受領した貨幣を預金するために割引くことはしないからである〕は,1000ポンドを再び別の銀行に預金する[ということになる]12)」,と。〉 (417頁)

   マルクスの挿入文をただ紹介しているだけであるが、われわれは大谷氏の翻訳文を知っているから分かるが、それがないとなかなか分かりづらい文章である。これらはただ紹介するだけである。というのは小林氏自身もこれらについて自身の見解をほとんど述べていないからである。
   このあと小林氏は〈手稿「Ⅲ):続き」後段での「架空性」論〉へと論を進めているが、これは大谷氏の著書では、〈第30-32章の草稿〉で問題になる部分であり、だからわれわれとしては、その検討が課題となるところで問題にしたいと思う。】


【35】

  〈この信用システムでは,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのであるが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える。〉 (187頁)

   これも短い文章であるが、平易な書き下し文を書いておく。

  〈この信用が支配する社会では,すべてものが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのですが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言えるのです。〉

  【すでに銀行の準備ファンドの架空性については、【28】パラグラフで論じている。ここからはそれがイングランド銀行券(中央銀行)に集中されること、しかもそれも架空なものになっていることを指摘することが課題であるように思える。今回のパラグラフは、次の【36】パラグラフの前ぶりとも言える。しかしとりあえず、このパラグラフの内容を簡単に確認しておこう。ここではまず二つのことが指摘されている。

 (1)一つは〈この信用システム〔Creditsystem〕では,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化する〉ということ。
 (2)次に〈人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える〉ということ、つまりそれらもやはり〈幻想の産物に転化する〉ということである。
   こうしたことを確認して、次のパラグラフに移ることにしよう。

   ただその前に、この部分の小林氏の翻訳を紹介しておこう。氏は独特の解釈のもとに次のように紹介している。

  〈ところで,「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」--は,市中銀行と中央銀行との間についてもいえる,とマルクスは言う。それを彼は次のように表現する。「この信用制度(Creditsystem)の下では,すべてのもの[資本]が2倍化され,3倍化され,そして単なる幻影物(Hirngespinst)に転化するように,それはまた,人がやっと何か確かなものを掴んだと信じている『準備ファンド』にも,妥当する1)」と。〉 (420頁)

   このように小林氏も今回のパラグラフからは中央銀行の準備ファンドの架空性についてマルクスは論じようとしていると捉えている。そしてそのあと小林氏は次の【36】パラグラフの内容を紹介しながら自身の主張を展開しているのであるが、それについては次のパラグラフの解読のなかで検討していくことにしよう。今回はただ氏のこのパラグラフの翻訳文を紹介するだけにする。】


【36】

  モリス(253)イングランド銀行総裁)。--「254)私営銀行業者たちの準備預金の形態でイングランド銀行の手のなかにあります。①256)流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えますが,しかしそれはまた,私営銀行業者たちの準備にも影響を及ぼすでしょう。というのは,それは,彼らがイングランド銀行のなかにもっている準備の一部分の引き出しなのだからです。まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう。」(『商業的窮境』,1847-48年。〔第3639号および第3642号。〕)だから,結局,現実の「準備ファンド」はイングランド銀行の「準備ファンド」に帰着するのである。261)しかし同行では,この準備ファンドがこれまた「二重化」される。銀行部の「準備ファンド」は,イコール,同行が発行の権限をもっている銀行券〔のうちの〕流通のなかにある銀行券を越える超過分,である。銀行券の法定最高限度は,イコール,1400万〔ポンド・スターリング〕 (これには地金準備は不要であって,イコール,同行に対する国家の債務である)・プラス268)・同行の地金保有高である。だから,もしこの保有高がたとえばイコール1400ポンド・スターリングならば,同行は2800万ポンド・スターリングの銀行券を発行するのであって,もしそのうち2000万が流通しているなら,銀行部の準備ファンドはイコール800万である。この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕であり,また同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもある。ところで,地金の流出が生じて,そのために金保有高がたとえば600万だけ減少するとすれば(その代わりに同額の銀行券が廃棄されなければならない),銀行部の準備は800万から200万に減少するであろう。一方では,同行はその利子率を大幅に引き上げるであろう。他方では,同行に預金していた銀行業者{およびその他の預金者}は,同行にたいする彼ら自身の貸し勘定のための準備ファンドが非常に減少していることを知るであろう。1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法281)を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),[529]銀行部が破産することがありうるのである。しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である。|

  ①〔注解〕「流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えます」--『〔商業的窮境〕……第1報告』では,「流出の作用は,最初は,イングランド銀行への作用のよう見えます」,となっている。
  ②〔注解〕「まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう」--『〔商業的窮境〕……第1報告』では,「金の流出は国中いたるところのすべての銀行業者の準備に影響するでしょう」,となっている。
  ③〔異文〕「同行は〔……〕〔発〕行する〔Die Bank giebt〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「最高限度」← 「発[行高]」
  ⑤〔異文〕「1400」← 「1200」
  ⑥〔異文〕「2800」← 「2600」
  ⑦〔異文〕「2200」← 「2000」〔MEGAでは,異文目録にこのような異文を記載し,テキストでは「2200」としている。しかしここは,エンゲルス版でのように「2000」とあるべきところである。〕
  ⑧〔異文〕「800」← 「600」
  ⑨〔異文〕「800」← 「600」
  ⑩〔異文〕「600」← 「400」
  ⑪〔異文〕「800」← 「600」
  ⑫〔異文〕「一方では」という書きかけが消され,さらに「もちろん地金輸出者たちは白分の銀行業者のもとにある預金にあてて〔……〕振り出す」という書きかけが消されている。〔そのあとであらためて「一方では」と書いた。〕
  ⑬「注解〕「1844年の銀行法」--〔MEGA II/4 .2の〕473ページ32行への注解を見よ。〔ここで指示されている注解では,「この銀行法について,エンゲルスは次のように書いている」として,エンゲルス版「第34章 通貨原理と1844年のイギリスの銀行立法」のなかでエンゲルスがこの銀行法について書き込んだ部分を引用している。エンゲルスによるこの書き込みは,本書第2巻213-215ページの「補注 1844年の銀行立法についてのエンゲルスの解説」に収めてある。〕
  ⑭〔異文〕「1847年」← 「1848年」
  ⑮〔異文〕「1847年には」← 「当時は」
  ⑯〔異文〕マルクスはこの〔339〕ページの末尾にあとから「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示を記した。実際に340aページに+というしるしがあるので,そこの本文をここにもってきておく。〔草稿の340ページの次のページにはページづけがない。MEGAは[340a]というページ番号をつけている。〕

  253)「イングランド銀行」--MEGAでは強調されていない。見落としであろう。
  254)『商業的窮境』では次のとおり。--「第3639号。〔ウィルスン〕私が言っているのは1844年以前の時期のことです。私営銀行業者たちの準備はイングランド銀行が預金のかたちで保有していますね。〔モリス〕そうです。」
  256)『商業的窮境』では次のとおり。--「第3642号。〔ウィルスン〕それでは,金流出が生じたなら,それがまず第1に作用するのは,もっぱら,イングランド銀行の準備にたいしてなのではありませんか。なぜなら,私営銀行業者の準備が引き出されれば,この業者はイングランド銀行に行って,イングランド銀行から自分の預金の一部分を引き出さなければならないからです。ですから,金輸出の全影響はまず第1にイングランド銀行への影響として現われるでしょう?〔モリス〕それはイングランド銀行への影響として現われるでしょう。しかしまたそれは,彼らがイングランド銀行にもっている準備の一部分の引き出しなのですから,銀行業者たちの準備にも作用することになるでしょう。〔プレスコト〕それはすべての地方の全銀行業者ならびにロンドンの銀行業者の準備に作用するでしょう。」
  261)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。
  「こういうことがその後さらに進んでいるということは,1892年12月15日付の『デイリ・ニューズ』紙所載の公報に見られる,1892年11月のロンドンの15大銀行の,次のような銀行準備勘定に示されている。
          銀行名                 負債   現金準備    百分比
                             
シテイ                        £ 9317629 £ 746551  8.01
キャピタル・アンド・カウンティーズ          〃11392744 〃1307483 11.47
インペリア                     〃 3987400 〃 447157 11.21
ロイズ                       〃23800937  〃2966806 12.46
ロンドン・アンド・ウェストミンスター        〃24671559  〃3818885 15.50
ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン        〃 5570268 〃 812353 13.58
ロンドン・ジョイント・ストック           〃12127993  〃1288977 10.62
ロンドン・アンド・ミッドランド           〃 8814499 〃1127280 12.79
ロンドン・アンド・カウンティ            〃37111035  〃3600374  9.70
ナショナル                     〃11163829  〃1426225 12.77
ナショナル・プロヴィンシアル            〃41907384  〃4614780 11.01
パーズ・アンド・ジ・アライアンス          〃12794489  〃1532707 11.93
プレスコット・アンド・カンパニー          〃 4041058 〃 538517 13.07
ユニオン・オブ・ロンドン              〃15502618  〃2300084 14.84
ウィリアムズ・ディーコン・アンド・マンチェスター 〃10452381  〃1317628 12.60
---------------------------------------
  計                       £232655823 £27845807 11.97

  この約2800万の準備のうち,どんなに少なく見積もっても,2500万はイングランド銀行に預金されており,せいぜい300万が現金で15の銀行自身の金庫のなかにある。ところが,イングランド銀行の銀行部の現金準備は,同じ1892年11月には1600万に達したことは一度もなかったのである!--F.エンゲルス」
  上の表の数字は1894年版でのものである。MEW版では,「百分比」の数字のうちインペリアルのそれが「ll.22」に,ロンドン・アンド・サウス・ウェスタンのそれが「14.58」に,パーズ・アンド・ジ・アライアンスのそれが「11.98」に,それぞれ修正されている。これは,出所である1892年12月15日付の『デイリ・ニューズ』紙所載の公報によって訂正した数字であった。
  268)草稿では,ここに,不要の「銀行券=」という記載がある。
  281)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記しないで,彼による次の脚注がつけられている(1894年のエンゲルス版では,エンゲルスによるものであることがわかるようになっていなかった)。--「1844年の銀行法の停止は,イングランド銀行が自己の手中にある金蓄蔵貨幣による保証を顧慮しないで任意の額の銀行券を発行することを許すものである。つまり任意の額の紙製の架空貨幣資本を創造し,これで諸銀行や手形ブローカーに前貸をし,またこれらの手を経て商業に前貸をすることを許すのである。」なお,現行版では,{  }で囲むことによって挿入であることが示されているが,末尾にエンゲルスのイニシアルはつけられていない。
  284)「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう。〉 (187-192頁)

   このパラグラフは前半は議会証言からなっているが、途中からマルクスの文章が最後まで続いているので、議会証言の部分はそのままにして、マルクスの文章を平易に書き下してみよう。

  モリス(イングランド銀行総裁)。--「私営銀行業者たちの準備預金の形態でイングランド銀行の手のなかにあります。流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えますが,しかしそれはまた,私営銀行業者たちの準備にも影響を及ぼすでしょう。というのは,それは,彼らがイングランド銀行のなかにもっている準備の一部分の引き出しなのだからです。まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう。」(『商業的窮境』,1847-48年。〔第3639号および第3642号。〕)

   だから,私営銀行業者たちの準備はイングランド銀行の手のなかにあるわけだから,結局は,すべての現実の「準備ファンド」はイングランド銀行の「準備ファンド」に帰着するということです。
   しかしイングランド銀行では,この準備ファンドがこれまた「二重化」されます。すなわち一つは銀行部の準備ファンドとして、もう一つは発券部の準備ファンド(地金)としてです。
   まず銀行部の「準備ファンド」は,同行が発行の権限をもっている銀行券のうちの流通のなかにある銀行券を越える超過分になります。
   例えば銀行券の法定発行限度額は,1400万ポンド・スターリング(これには地金準備は不要であって,国債を担保にしたものです。すなわち同行に対する国家の債務です)に同行の地金保有高がプラスされたものです。だから,もしこの地金保有高がたとえば1400万ポンド・スターリングならば,同行は2800万ポンド・スターリングの銀行券を発行することになるのです。そして,もしそのうち2000万が流通しているのでしたら,銀行部の準備ファンドは800万ということになります。この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕というわけです。それは同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもあります。
   ところで,地金の流出が生じて,そのために発券部の地金保有高がたとえば600万だけ減少するとしますと、その分だけ同行の銀行券が廃棄されなければなりません。そうすると流通している銀行券の2000万に変化がないとすれば、銀行部の準備は800万から200万に減少するでしょう。だから同行は、一方では,貸出利率を大幅に引き上げることになります。他方では,同行に預金していた銀行業者{およびその他の預金者}は,同行にたいする彼ら自身の貸し勘定のための準備ファンドが非常に減少していることを知ることになります。
   1857年の恐慌時に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法を停止する「政府書簡」を政府に要求しなければ,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどかしました。しかしもしそれをやられたなら,銀行部は破産していたでしょう。だから,1847年のように(この恐慌時にも「政府書簡」が出されるという予告があっただけで、信用が回復して切り抜けられたのですが),流通銀行券の兌換性の保証として発券部には800万ポンド・スターリングの地金がありながら,銀行部が破産寸前まで行くことがありうるのです。だからイングランド銀行の準備ファンドも、やはり幻想的なものなのです。〉

 【ここでは、マルクスは準備ファンドが幻想の産物に転化することについて、次の二つのことを指摘しているように思える。

  (1)一つは私営銀行業者たちの準備ファンドはイングランド銀行の手にあるのであって、だから私営銀行業者の手にはないということである。この限りで私営銀行業者たちの帳簿に記されている準備ファンドはもはや幻想化しているといえる。
  われわれはすでに第28章該当部分の草稿のなかで、マルクスが次のよう論じていたことを確認している。

  〈{なお,私はすでに以前に,国際的な支払のための準備ファンドとして集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておいた。〔}〕もっとも,次のことによって紛糾の種がはいりこんでくる。すなわち,この準備ファンドが同時に銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つということによって,すなわち,私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能,つまり支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンドとしての,通貨〔currency〕の準備ファンドとしての,最後に世界貨幣の準備ファンドとしての,蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,さらにそのうえに,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに,1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである。〉 (大谷本第3巻129-131頁)

   つまりここでマルクスが指摘しているように〈1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中〉とともに〈2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〉が生じるのであり、その限りでは地方の私営銀行業者たちの準備ファンドは、彼らがバラバラにそれを持っていたものと比べると、イングランド銀行に集中されたものは極めて小さくなっているのであり、その限りでは当初の準備ファンド全体(つまり私営銀行業者たちのそれぞれの帳簿上で準備ファンドとなっている部分)そのものは幻想化していると言えるであろう。

  (2) 次に私営銀行業者たちの準備ファンドを集中し、代表しているイングランド銀行の準備ファンドそのものが今度は二重化することが指摘されている。
   1844年のピール銀行条例によってイングランド銀行は、発券部と銀行部という二つの部局に分割された。それによってイングランド銀行の準備ファンドも二重化することになったのである。
   一つは発券部の準備ファンドである。これは同行の保有する地金であり、これがそもそも一国のすなわちイングランドの現実的な準備ファンドなのである。もちろん部分的には銀行部にも若干の金・銀鋳貨の準備があるし、地方の私営銀行業者たちもそれぞれ多少の鋳貨を準備し、私人が所蔵する蓄蔵貨幣もあるが、しかし一国の現実の準備ファンドとしては、中央銀行の金庫中に眠る地金によって形成されているのである。この地金は国際的な諸支払いの準備であり、同時に同行の発行する銀行券の兌換保証でもある。上記のマルクスの一文で〈信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられる〉と述べているが、これが発券部の準備ファンドの機能の一つである。
   発券部は条例によって、流通に必要な最低限として1400万ポンドの銀行券を無準備で(国債などを担保に)発行することができる(だからこの部分は同行に対する国家の債務であるとマルクスは指摘している)。そしてそれにプラスして、その時の地金準備高に等しい銀行券の追加発行が可能であるとしている。しかしそもそも銀行券というのは銀行の信用だけにもとづいて発行される支払い約束証書(つまり手形)である。だからここで担保としての国債や地金というものは、ただ信用の限度を表すものでしかないわけである。
   マルクスはもし地金が1400万ポンドであるとしたら、発券部は2800万ポンドの銀行券を発行することになり、そのうち実際に流通しているものを2000万ポンドと想定するなら、残りの800万ポンドが銀行部の準備ファンドになると述べている。
   つまりこれがイングランド銀行のもう一つの部局である銀行部の準備ファンドなのである。
   ただイングランド銀行の準備ファンドが、このように発券部と銀行部の二つの準備ファンドになったということそのものが、すでに一つの〈幻想の産物〉になったことを意味している。なぜなら、現実の準備ファンドとしては発券部の地金としてしか存在していないのに、発行された銀行券の一部が銀行部の準備ファンドになっているからである。だから全体としてはイングランド銀行の準備ファンドはその時点ですでに一部は幻想的なものになったといえるであろう。
   さらに上記のマルクスの例で考えてみると、社会の準備ファンドを集中しているイングランド銀行の準備ファンド全体は帳簿上合計1400万ポンドの地金+800万ボンドの銀行券=2200万ポンドとなる。それに対して実際に流通している銀行券は2000万ポンドである。
   ところが、発券部の地金の一部が国外に流出してその地金保有高が1400万から600万減少して800万になり、発券部の銀行券の発行限度額もその分だけ減って、2800万から2200万になる。だからもし流通している銀行券2000万に変化がないとすれば、銀行部の準備ファンドは200万になり、極めて少なくなってしまう。この時点でのイングランド銀行の準備ファンド全体は、発券部の準備800万+銀行部の準備200万=1000万である。確かに現実の準備ファンドは1400万から800万に減少したが、しかしこの限りではイングランド銀行の準備ファンドは、まだまだ十分だといえる。
   しかしマルクスが準備ファンドの諸機能として述べている上記の説明のなかで、〈支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンド〉と〈通貨〔currency〕の準備ファンド〉、そして〈預金にたいする保証として役立つ〉ものは、銀行部の準備ファンドの役割なのである。それ以外の銀行券の〈兌換保証ファンド〉と〈世界貨幣の準備ファンド〉は、発券部の準備ファンドが担うことになる。つまりこのようにイングランド銀行の準備ファンドが二重化することによって、本来準備ファンドが果たさねばならない機能も二重化し、分裂することになるのである。
 そしてマルクスが〈蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに,1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである〉と指摘していることがまさに生じていることが分かる。
   すなわち発券部の地金流出という〈国外への流出〉が国内の準備ファンドを減らすことに結びつき、預金の準備ファンド(これは銀行部の準備ファンドが担う)の減少という事態をもたらし、深刻な信用不安を生じさせることになるのである。
   イングランド銀行としての準備ファンドはいまだ1000万ポンド(地金800万+銀行券200万)と十分にあるにも関わらず、しかし信用システムの中軸としての役割を果たす準備ファンドはたった200万ポンドでしかなくなる、という事態を生じさせている。その意味ではイングランド銀行の準備ファンドもこの限りでは幻想的なものになっているといえるであろう。

   大谷氏は〈しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である〉という最後の一文の〈このこと〉に訳者注284)を付け、次のように述べている。

   〈284)「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう。〉 (191頁)

   この是非を考えるために、その前のマルクスの記述を見てみることにしよう。

  〈1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),銀行部が破産することがありうるのである。しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である。〉

   もし大谷氏の指摘するように〈このこと〉が〈発券部にある地金が流通銀行券の免換性の保証となっている,ということ〉であるなら、〈しかし〉ではなく「だから」となるべきではないだろうか。そもそもここでマルクスが問題にしているのは、私営銀行業者たちの帳簿上の準備ファンドが中央銀行に集中されることによって幻想的なものになることと、その集中されたイングランド銀行の準備ファンドも帳簿上では幻想的なものになることを指摘することではないだろうか。イングランド銀行の準備ファンドは、1844年の銀行条例以降によって二重化する。現実の準備ファンドは、発券部にある地金である。しかし帳簿上では、その準備ファンドは、銀行部の準備ファンドも含めたものになるわけである。しかも預金の準備保証になるのは、銀行部の準備ファンドであり、それが地金流出によって減少して信用不安を引き起こすのである。だから私はここでマルクスが〈このこと〉と書いているのは、それまでの叙述を受けたものと考えて、〈だからイングランド銀行の準備ファンドも、やはり幻想的なものなのです〉と平易な書き下し文では書いたのである。
   また大谷氏は大谷本第2巻の〈8 「架空資本」の意味〉において、このパラグラフについて次のように解説している。

  〈一つは,私営銀行の準備ファンドは中央銀行への預金となっているが,中央銀行ではこれまた無準備の債務となっていること,一つには,1844年の銀行法によるイングランド銀行の二部門分割によって「準備ファンド」がこれはまたこれで「二重化」されるが,「これはまたこれで幻想的である」(MEGA II/42,S.528-529;本書第3巻189-191ページ)ということ,この二つの架空性が示されている。〉 (大谷本第2巻71-72頁)

   私営銀行の準備ファンドが中央銀行に預金されるが、その預金そのものは中央銀行で〈無準備の債務となっていること〉に大谷氏は準備ファンドの架空性を見ているのであるが、果たして私営銀行の中央銀行への預金が無準備になっているといえるのかどうかである。それが言えるためには、中央銀行に集中された準備ファンドが必要最小限に縮小されることが言われる必要があるのではないか。
   またここではイングランド銀行の準備ファンドが二部門分割によって「二重化」されることそのものが、〈「これはまたこれで幻想的である」〉とマルクスの一文を引いて説明されているが、これはこの限りでは極めて大雑把といわざるを得ない。

  (【36】パラグラフの途中ですが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

2022年7月21日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-13)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-13)



【31】

 |339上|アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている。--
 「とはいえ,金融界〔monied interest〕にあってさえも,貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない。それらの資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう。すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである。たとえば,AがWに1000ポンド・スターリングを貸し付け,WがこれですぐにBから1000ポンド・スターリングに値する財貨を買う。B自身はこの貨幣を必要としないので,彼は同一の諸貨幣片をXに貸し付け,XはこれですぐにCから1000ポンド・スターリングに値する別の財貨を買う。同じやり方で,また同じ理由からCはその貨幣をYに貸し付け,YはまたそれでDから財貨を買う。このようにして,鋳貨であれ紙幣であれ,同一の諸貨幣片がわずかな日数のあいだに,別々の三つの貸付と別々の三つの購買との用具として役立つことがあるのであって,これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しいのである。A,B,Cという3人の金持ち〔monied men〕がW,X、Yという3人の借り手に譲渡したものは,これらの購買を行なう力である。この力こそ,貸付の価値でもあれば効用でもある。この三人の金持ちが貸付ける資本〔stock〕は,それで買うことができる財貨の価値に等しく,これらの購買に用いられる貨幣の価値の3倍の大きさである。それにもかかわらず,これらの貸付はすべてまったく完全に[527]保証されているであろう。というのも,それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用されるのだからである。こういうわけで同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである。」 (『諸国民の富』,第2篇第4章。)

  ①〔注解〕アダム・スミス『諸国民の富』,アバディーン,ロンドン,1848年,236ページ〔大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,岩波書店,1,1969年,551-552ページ〕。〉 (182-183頁)

  【このパラグラフは本文であるが、ほとんどがスミスからの引用なので、平易な書き下し文は省略する。ただ確認すべきは、マルクスが〈アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている〉と述べていることである。つまり〈貨幣が資本貸付で演じる役割〉、すなわち貨幣が利子生み資本として貸し付けられる場合に演じる役割を、マルクスはスミスの一文の中に見ているということである。
   スミスがここで〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉と述べているのは、スミスが流通を消費者と商人との間の流通と、商人と商人との間の流通に分け、後者で流通する貨幣を資本の移転を媒介するものとして「資本」と呼んでいたのに対応している。つまりそうした流通とは別に〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉商人と商人との間の流通だけではなく、この場合にも〈貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない〉と言いたいのである。
   そしてスミスはしかし金融界における〈資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう〉と述べ、〈すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである〉として具体的な例を挙げて説明している。

  われわれはスミスの具体例を挙げた一文を理解するために、その例を整理して図示してみよう。

①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 同じ貨幣片が別々の三つの貸付(①③⑤)と購買(②④⑥)に役立った。そしてスミスはここから〈これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しい〉という。しかし、考えてみよう。社会的には価値としては最初の1000£の貨幣(これは最終的にDが自身の商品を売って所持することになる)とB、C、Dが持っていた(つまり彼らが何らかの形で社会的に生み出したであろう)財貨の価値、すなわち3000£である。つまり社会的には価値としては4000£存在したことになる。AはWの支払約束証書を持っているとする。同じようにBもXのCもYのそれぞれ1000£の支払約束(債務証書)を持っている。彼らはそれを自分自身の財産と考えるであろう。つまりここには社会的に見て、3000£の債権が存在している。つまり社会的には1000£の貨幣、3000£の商品価値、3000£の債権が存在したことになる。ただ最終的には購買された商品が消費されてしまったとすれば、一連の過程の終わりには、3000£の商品価値はすでに無く、残っているのは、1000ポンドの貨幣と3000ポンドの債権(あるいは債務)だけである。ここでA、B、C、Dは何かの形でにせよ、社会的にみて4000ポンドの価値を所持していた人たちである。それに対してW、X、Yは社会的には何の価値も持たず、ただ一方的に消費するだけの人として現れている。勿論、彼らには最終的には3000ポンドの債務が残ったのであるが。貨幣1000ポンドは、結局は、AからDに移ったことになる。つまりDは1000ポンドの商品の代わりに1000ポンドの貨幣を持つことになった。それに対してA、B、Cはそれぞれ1000ポンドの貨幣あるいは商品の代わりにそれぞれ1000£、合計3000£の債権を持つことになっている。ただここで財貨を買うW、X、Yはそれらを不変資本として購入するとスミスは仮定している。というのは〈それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用される〉としているからである。そしてスミスの結論は次のようになっている。〈こういうわけで,同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである〉このようにスミスは貸付の用具として役立つと述べてはいるものの、しかし、そこに必ず購買を入れていることに注意が必要である。つまりただ1000£の貨幣がAからBへ貸し付けられ、そのBからさらにCに、CからさらにDへと貸し付けられるというような貸付を想定していないということである。これでは同じ貨幣額がただ貸し付けられただけで、これは結局は、Aの貨幣がDに貸し付けられたことを意味するだけだからである。両者以外のB、Cは一方の債務を他方の債権で相殺されて、結局、何もないことになっている。スミスは同じ貨幣片が何倍もの貸し付けや、返済に利用されるとしているが、しかし、それはそれらの貸し付けや返済が、それぞれ別々の価値の貸し付けであり、返済であることを正当にも想定しているわけである。】


【32】

 同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる。というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである。売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が②③貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。

  ①〔異文〕「この移転〔transfer〕は」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「最初の」という書きかけが消されている。
  ③〔訂正〕「貸し手」--草稿では「買い手」となっている。エンゲルスによる1894年版に従って訂正。〉 (183-184頁)

  このパラグラフはマルクス自身の文章であるから、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈私たちが『資本論』の冒頭篇の商品の単純流通で見ましたように、同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができました。つまりさまざまな商品の価値の実現形態になりえたのです。だから,まさにそのことによって,同一の貨幣片が、自身の商品を販売してその実現形態である貨幣を貸し付けるなら、それはいくつもの貸付を行なうことができることになります。
  購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移しますが,しかし貸付は,購買によって媒介されることなく,一方の手から他方の手へ貨幣を移転することになります。
  売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしています。だから利子生み資本が範疇として確立した今日では、どの価値も資本価値として表現されるのですから,商品を販売して得た貨幣はいくつもの資本価値を表わすのです。だからさまざまな貸付として現れるということは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の単純流通における命題の別の表現でしかないのです。
  単純流通は、資本の流通においては、貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのです。
  ただし貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではありません。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにあるのです。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのです。
  かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけです。
  だから貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのです。〉

  【このパラグラフは、先のスミスからの引用にもとづいて、マルクス自身が書いたものと思われる。しかし詳しく見ていくとなかなか理解が容易なものではないことが分かる。何がよく分からないのか、詳しく箇条書き的に書き出してみよう。

  (1)まず〈同ーの貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができる〉というのは、誰でも分かることである。しかし〈まさにそのことによって,同ーの貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉というのであるが、どうして最初のことを根拠に後者のことが言いうるのかいま一つよく分からないのである。確かに上記のスミスからの引用文では、貸し付けと購買が交互に行われることが述べられているが、それは何を意味するのかということである。
 これは次のようなことを意味しているのではないだろうか。同一の貨幣片がいくつもの購買を行うということは、同一の貨幣片がさまざまな商品の価値の実現形態になるということである。つまり同一の貨幣片ではあるが、それが実現した商品の価値はすべて異なる商品であり、その限りでは新たな価値の貨幣形態なのである。だからある商品の価値を実現した貨幣、つまり商品Aを販売して入手された貨幣は、商品Aの価値の実現形態であり、その貨幣をXに貸し付けるということは、商品Aの価値の実現形態を貸し付けるということである。商品Aの所持者にとってAの価値の実現形態である貨幣は、彼が社会に与えた一定の商品価値に相当する別の商品を社会から引き出す権限を有していることを表している。もし彼がそれをXに貸し付けるとするなら、それはその権限をXに貸し出し、その限りではその代行を委ねることを意味するのである。XはAに代わって、その権限を行使することになる(だからまたXは別の機会に、その権限をAに返済する義務も生じている。Aは自分の権限をすぐには行使せずに、Xに委ねるのであるが、そのことはAはその権限を放棄したことを意味するのではなく、それを保留しているだけで、その権限は返済された段階で、Aによって行使することは可能になるが、Aに返済された権限は、Xに限らず別の誰かの権限を、Xが借りて、Aに返済したものかも知れないのだが、いずれにせよAはその権限を元に戻すことになる)。つまりこのように貨幣の貸し付けというのは、本来はその貨幣の所持者が持っている権限(社会の富や労働に対する請求権)を第三者に貸し付けることなのである。これは社会的総再生産過程を考えれば、その重要性が分かる。つまり同じ貨幣片が次々といくつもの貸し付けを行うことが出来るのは、その貨幣片がさまざまな商品の対価としてさまざまな権限を表しているからであり、そうでなければならないということなのである。だからこそ、マルクスは〈まさにそのことによって〉と述べているわけである。そしてここから次のような疑問を解くカギも見いだされるような気もする。

  (2)すなわち次にマルクスは〈というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである〉というのであるが、〈というのは〉ということは、先の一文のようにいえるのは、とその根拠を示そうとしているように思える。ただ、果たして上記のことが、先のことの根拠として言いうるのかがいま一つよく分からないのである。
   少し考えてみよう。ここで言われていることは、明らかに購買と対比しての貸付の特徴を述べていることである。すなわち購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのだが、しかしその貨幣片は別々の商品価値の実現形態だということである。購買では貨幣は次々と商品の販売者の手に渡っていくが、しかしその価値が表す商品価値の実現形態としては商品の数だけ異なっている。もちろん貨幣価値としてはまったく同質で無区別であるが、しかし貸付は、それも確かに一方の手から他方の手への貨幣の移転であるが、しかしそれは別々の商品価値の実現形態ではなく、同一の商品価値の実現形態に過ぎないということである。つまり購買では次々と人の手を移っていく貨幣の価値は、それぞれ社会的に見れば、別々の商品価値として新たに形成された価値であり、だから貨幣が人の手に移っただけ、社会的にはその数だけの商品の価値が形成されたことを表しているのであるが、しかし貸付の場合は、そうではなくそれがどんなに多くの人の手を経たとしても社会的にはまったく同じ価値のただの移転に過ぎず、社会的に新たな価値の形成を意味しないわけである。

  (3)だから以下の文章もこれまでの考察で容易に理解できることになる。

 〈売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。〉

 これ自体は貨幣は単純流通では単純な抽象的な規定であり、資本(貨幣資本)というのは、それが資本の流通として資本関係のなかで受け取る形態規定であることを考えれば何の問題もない。そもそも単純流通の単なる貨幣や商品は、資本の流通の過程における商品資本や貨幣資本を、それらの資本関係を捨象して得られたものである。もちろん単純流通そのものが資本主義的生産の社会の表面に直接に現象しているという特異性があり、われわれが直接目にする表象そのものがそうした資本関係を捨象した単純流通なのであるが。だから商品を売って入手した貨幣が彼にとって、資本価値を表すなら、彼が売った商品もまた商品資本であったということになる。
   だからここで重要なのは〈どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わす〉というように、今日では貨幣は、それはそのまま資本を表すものと考えるのだが、しかしそれは貨幣が次々と購買によって人の手に移っていくことの別の表現であり、それはそれぞれが自分が持っている商品資本の貨幣としての実現形態、つまり貨幣資本を持っているということに過ぎない、というわけである。
 ただその次に述べてることがいま一つよく分からない。〈貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである〉というのだが、流通手段として役立つだけなら、それは現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶという表現は正確ではないからである。流通手段は特定の商品価値を貨幣に転化し、その貨幣を別の商品の購入に支出する、つまりW-G-Wを媒介するということてある。しかしこれは決して、現実の商品を一方の手から他方の手に運ぶわけではない。確かにある特定の商品はその価値を実現して、貨幣になる代わりに、その現実の商品の使用価値を購買者の手に渡す、このかぎりでは貨幣は一方の手から他方の手に商品を運んだと言えなくもない。しかし価値としては販売者は商品として持っていた価値を、ただ貨幣価値に転化したに過ぎず、彼は決して商品価値を手放すわけではなく、だからそれを人の手から他方の手に運ぶことはしないのである。だから「現実の資本」ということでマルクスは何を考えているのかということであろう。「現実の」というのはドイツ語ではrealかも知れないが、それはだから恐らく使用価値に関連したものと理解すべきであろう。

  (4)次は貸付である。

 〈貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は3つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。〉

 この一文はこれまでの考察にもとづけば基本的にはすでに解明しているといえる。貸付では、同じ価値をただ持ち手を変えているだけで、社会的にみても価値の増加や形成は何もないということである。それに対して一つの貨幣片が次々と商品を実現していくならば、その回数だけ、社会的には新た価値の実現形態なのであり、社会的にはそれだけ新しい価値が生み出されたことを意味しているわけである。貸付の場合は、その貸し付けられる貨幣が次々と人の手に渡っていったとしても、それは同じ資本を表すだけである。だからこの最後で言われているように、〈貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである〉。その点、スミスの引用文は購買と貸付を交互に行う例を上げている点で、正しい理解に立っていると言えるであろう。】


【33】

 A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言えるのであって,預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのである。

  ①〔異文〕「特殊的な」← 「きまった〔bestimmt〕」〉 (184頁)

 短い文章ではあるが、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈上記の引用のなかで、A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言い得ます。というのは,預金というのは,じっさいには,ただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかないからです。
 だからスミスの例を見てもお分かりのように、同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのです。〉

  【マルクスは〈A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言える〉と言っているので、われわれは、スミスの例を整理したものをまず再掲し、それを預金の場合に書き換えて比較することにしよう。まず、まずスミスの例〔Ⅰ〕は次のようであった。

〔Ⅰ〕
①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに1000£を貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに1000£を貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに1000£を貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 次にこれを銀行への預金が介在するケース〔Ⅱ〕に書き替えてみよう。

〔Ⅱ〕
①A(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Aが銀行に1000£を預金
①’銀行(1000£)-(貸付)→W(1000£)銀行が預金された1000£をWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Bが銀行に1000£を預金
③’銀行(1000£)-(貸付)-X(1000£)銀行が預金された1000£をXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Cが銀行に1000£を預金
⑤’銀行(1000£)-(貸付)-Y(1000£) 銀行が預金された1000£をYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 この両者を比較して分かることは、〔Ⅱ〕では、〔Ⅰ〕と同じように、A、B、C、Dがそれぞれ持っている1000£は、彼らが何らかの形で社会的に生み出した商品価値の実現形態であり、社会的には新たに生み出された価値である。それを今回は彼らはすべて銀行に預金するとしている(但しDの場合はそれは想定されていないのだが)。〔Ⅰ〕では、それらはWXYにそれぞれ貸し付けられたのであるが、〔Ⅱ〕ではその貸付に銀行が介在して行われたということであり、〔Ⅰ〕の場合、ABCDは何らかの貸付を示す債務証書を持っていたのが、〔Ⅱ〕ではそれは銀行預金の形で持っていることになっている。銀行は社会的に貸付資本を集中し、それを必要な資本に貸し付けているわけである。つまり銀行は貸し手に対しては、借り手を集中して代表し、借り手に対しては、貸し手を集中して代表する。社会的には4000£の価値が形成され(但し1000£は貨幣形態として)、そのうち3000£が消費され(1000£は貨幣形態で止まる)、預金は3000£形成された。他方、銀行にはWXYに対する合計3000£の債権が発生している。これは銀行にとって3000£の預金が彼にとっては債務であることに対応しているわけである。

   このパラグラフを含めた部分について大谷氏は次のように解説している(実際には【31】【32】【33】【34】パラグラフへの言及が含まれる)。

  〈これに関連してマルクスは,「貨幣が資本貸付で演じる役割〔d.Rolle,d.d.Geld im Capitalverleihen spielt」〕についてのA.スミスの記述を引用し,同じ貨幣がいくつもの商品資本の価値形態として機能しうること,そしてそのたびに「資本の価値定在」として貸し付けられる可能性があることを述べ,さらに,この貸付について言えることは,「公衆が銀行業者にたいして行なう貸付」である預金についても言える,として,『通貨理論論評』からの引用を行なっている。これによって明らかにされているのは,同じ貨幣片で何度も預金されることによって何倍もの架空な資本が形成される,ということである(MEGAⅡ/4.2,S.526-528;本書第3巻182-187ページ)。〉 (大谷本第2巻71頁)

   大谷氏は同じ貨幣片が商品価値を実現したあと第三者に貸し付けられること、それを借りた人物がその貨幣で商品を買い、それを売った人物がその売り上げによって得た貨幣をまた別の人に貸し付ける等々のスミスの説明とその貸付が預金に代わればその過程は同じ貨幣片が何度も預金されてそれに何倍もする預金が形成されたということであるが、しかしそのこと自体は決して大谷氏がいうように〈何倍もの架空な資本が形成される〉ということではない。
   なぜなら、ここで例えばAが1000£を銀行に預金した場合、Aはその1000£を何らかの商品を販売して得たものだとすれば、それは社会的に新たに形成された価値を表現しているものである。だからAがそれを預金した時点では、銀行にはその1000£が存在しており、それ自体は決して架空なものではない。それを銀行がWに貸し付けた時点で、Aの預金はただの帳簿上の記録になり、その時点で、初めてAの預金は架空なものになるのである。
   そしてその貸し出された1000£でWがBから財貨を買い、Bがその売上金1000£を銀行に預金した場合、この場合の預金もまた決して架空なものではないのである。なぜなら、それはBが自身が生産した商品を販売して得た1000£であり、そのかぎりでは新たな価値を表しているからである。やはりこの場合も、それが再び銀行によってXに貸し出された時点で、Bの預金は架空なものになるに過ぎない。
   同じことはXがCから財貨を買い、Cがそれを預金したものついても言いうるであろう。
  つまり預金はすぐに銀行によって利子生み資本として貸し出されて単なる帳簿上の記録だけになり、架空なものになるのであるが、少なくとも同じ貨幣片が何度も預金されることによって形成される預金そのものは、少なくともそれ自体としては、決して架空なものではないという認識が果たして大谷氏にあるのかどうかである。】


【34】

  〈245)246)「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである。{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の[528]総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった。預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ248)100ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ249)100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ250)100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(251)通貨理論論評……』,62,63ページ。)

  ①〔注解〕「争う余地なく」--『通貨理論論評……』では,「疑う余地なく」となっている。
  ②〔異文〕「{このことは,……からである。}}」--{ }(草稿では角括弧)で囲まれたここまでの部分には,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕
  ③〔異文〕「第1の場合 には 〔……〕にちがいない」という書きかけが消されている。
  ④〔注解〕『通貨理論論評……』では次のようになっている。--「通貨が300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,スコットランドの諸銀行にある預金は2700万ポンド・スターリングと見積もられている。……連合王国にあるすべての頂金が同時に引き出される……場合以外は……,連合王国の預金額にたいする貨幣の絶対的支配にいささかも影響しないであろう。……そして,この単純な理由で,一連の移転によって,確定できないような預金額にまで増大するという例にとられた同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。」

  245)〔E〕『通貨理論論評』からの以下の引用は,草稿319ページ(MEGA II/42,S.475.43-53u.476.35-36;本書第2巻186-187ページ)にもある。どちらも,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている(MEGA IV/8,S.173.34-174.14)。この両方の引用がどちらもノートVIIからそれぞれ別個に取られたことは,両者のあいだの句読点や省略箇所の違いから明らかである。現行版では,この同じ引用のドイツ語訳が,ここと第25章とでは少し違っている。ドイツ語訳の違いは,エンゲルスが同じ箇所からの引用であることに気づかないで,この二つの引用をそれぞれ独立にドイツ語にしたために生じたものであろう。
  246)以下の引用は,『通貨理論論評……』の原文では,マルクスの引用で省かれた部分を含めて,次のようになっている。
   It is unquestionalbly true that the £1000 which you deposit at A to-day may be reissued to-morrow,and form a deposit at B.The day after that,re-issued from B,it may form a deposit at C;and re-issued from C,may be again deposited at D,and so on to infinitude;and that the same £1000 in money may thus,by a succession of transfers,multiply itselfinto a sum of deposits absolutely indefinite.It is possible,therefore,that nine-tenths of all the deposits in the united kingdom may have no existence beyond their record in the books of the bankers who are respectively accountable for them:and no stronger evidence of such a probability could be adduced than the fact,that with a currency which,on the average,has never exceeded three millions,the deposits in the Scottish banks are estimated at seven-and-twenty millions sterling.It is also beyond doubt,that if all the depositors in Great Britain and Ireland were seized with a simultaneous impulse,and came as one man,and at the same moment of time,to demand their deposits back again,the demand could not be met,-no more than the public debt of England could have been raised in a single day,had all the money which has been in existence at any one time since the creation of the world,been put in requisition for the purpose.
   Nevertheless,nothing short of the contingency suggested,-a simultaneous withdrawal of all the deposits in the united kingdom,and therefore an impossibility,-would in the slightest degree affect the absolute command of money,to the amount of his deposit,which is enjoyed at all times by every depositor;and for this simple reason,that the same £1000 which has been instanced as multiplying itself,by one series of transfers,into an indefinite sum of deposits,would,if sent back upon its travels,cancel with the same facility a sum equally indefinite.As the same £100 with which you cancel your debt to a tradesman today,may cancel his debt to the merchant to-morrow,the merchant's debt to the bank the day following,and so on without end:so the same £100 may pass from hand to hand,and bank to bank、and cancel any conceivable sum of deposits.〔マルクスの引用はここまでの部分であるが,このパラグラフのこれ以降は次のようになっている。〕To go no farther,then,than the deposits of bankers,we are at once presented with a receptacle capable of containing a mightier volume of money,in its latent form,than has ever yet been accumulated in England;for if Scotland,with its currency of three millions,has enlarged its deposits to nine times that amount,what prodigious capacity of increase must exist in a currency like that of England,of sixty millions!(下線での強調は原書でのイタリックによる強調。)
  248)「100」--次注および次次注での「100」もそうであるが,草稿では『通貨理論論評……』の原文と同じくいずれも「100」となっているにもかかわらず,MEGAはこれを「1000」に変更しており,しかもこの変更を訂正目録に記載していない。エンゲルス版でも,3か所とも「1000」となっている。これは,すぐ前に「1000」という数字があるところから,マルクスの誤記と勘違いしたものであろう。もともとは『通貨理論論評……』そのもので,「1000」とあるべきところが「100」となっていたのだった。
  249)--前注を見よ。
  250)--前注を見よ。
  251)草稿では,『通貨問題論評,云々』と誤記されている。MEGAでは,テキストを訂正したうえで,その旨を訂正目録に記載すべきところであるが,誤記のままになっている。〉 (185-187頁)

  【このパラグラフは先のパラグラフでマルクスがスミスの例は預金にも妥当すると述べたものを受けたものと思われる。つまり今度は預金が同じ貨幣片で何倍も形成される例として、この引用文が紹介されているわけである。この『通貨理論論評……』からの引用文にはマルクスのものと考えられる比較的長い挿入文が{   }という括弧に括られて書かれているが、全体はほぼ引用からなるので、平易な書き下し文は省略する。われわれは最初からマルクスの挿入文も含めて、その順次どおりに、考察していくことにしよう。

 まず引用文の出だしは〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である〉というものである。これは確かに争う余地のない事実である。これについてマルクスは二つの場合のみが可能だとして次のように述べている。

 〈{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}

 われわれも二つのケースに分けて考えてみよう。

  【第Ⅰのケース】
   預金者が1000£をA銀行から引き出して、B銀行に預金する場合。この場合は、ただ預金がAからBに移っただけで、社会的には預金総額の増減はない。

  【第Ⅱのケース】
   A銀行が預金された1000£で手形を割り引いたり、あるいは彼の預金者(しかし今回の1000£を預金した以外の預金者)の振り出した小切手の支払に応じた場合で、A銀行で手形を割り引いてもらった人や小切手の支払を受けた人が、それぞれB銀行に預金した場合である。
   ただマルクスは手形割引の場合は、恐らくそれは現金の先取りだから、当然、それは第三者に支払われるか、何らかの必要なものの購買に当てられ、その支払いを受けた第三者がB銀行に預金するという過程を経るであろうとも指摘している。というのは手形をわざわざ割り引いて手にした現金を、また預金するようなものはいないからというのである。それなら別に利子を割り引かせてまで現金を先取りする必要はそもそもないからである。
   ただ次のようなことは考えられるのではないだろうか。つまり手形を割り引いて得た銀行券をそのまま預金するということはありうるのではないかと考えるわけである。これは実際上は帳簿信用と同じであるが、つまり銀行券の介在を必要としないのであるが、何らかの担保の代わりに手形を割り引いて、銀行から貸付を受け(手形貸付)、それを預金としたものである。ただこの場合は、当然、新たに預金を設定した人にとってはとにかく現金を先取りしたいのだから、すぐにその預金に引き当てて小切手を切り、支払うので、その預金は忽ち無くなることは十分にありうることである。
 いずにれよ、マルクスが考察している二つのケースを考えてみると、【第Ⅰのケース】は、預金額の増減はまったくないが、【第Ⅱのケース】は、預金額は倍増していることがわかる。

 引用文の続きである。

  〈それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。〉

  しかしこうしたことが言いうるのは、マルクスが指摘した 【第Ⅱのケース】のみである。【第Ⅰのケース】では同じ預金がただ持ち手を変えているだけで社会的にはまったく預金額そのものの増加はないからである。そして【第Ⅱのケース】というのは、【33】パラグラフで考察したように何らかの商品の購買が介在している場合である。預金は確かに何倍にもなるが、しかし、それは実際に社会的にはそれだけ新たに生み出された商品価値が存在していることを前提しているからであり、その実現形態としての貨幣が新たな預金を生み出しているということである。これはマルクスが預金を現金でなされるものに限定していることと同義であると考えられる。ただ預金の場合は、それが直ちに銀行から貸し出されることによって、次々とそれらは単なる帳簿上の記録になってしまい、架空化するということである。だから〈何倍もの預金額となる〉というのは、あくまでも帳簿上に記録として残っている預金額が何倍にもなるということでしかない。
   今、商品価値を実現した貨幣所持者aが1000£を銀行に預金したとすると、すぐに銀行はその預金1000£を別の人に貸し出す。だからaの預金はその時点で架空化し、単なる帳簿上の記録に化す。そしてその貸付を受けた人Wが別の商品の購買のために支払ったとすると、その支払いを受けた人bが、やはりそれを銀行に預金するわけである。するとこの場合、預金は帳簿上は2000£と2倍になっている。しかし現金として存在する貨幣額は1000£のみである。
   ここで注意が必要なのは、第一に、その2000£は明らかにaとbのそれぞれの商品価値の実現形態で、だから現金として銀行に預金されて生じていることである。しかし第二に、aの預金そのものはすでに銀行にはなく架空化しており、しかしaにとっては彼の商品価値の実現形態は依然として銀行にあると考えているわけである。同じような過程を辿れば、同じ1000£が確かに何倍もの預金になることは明らかであるが、しかしそれは同じ貨幣片が次々と商品を実現して、総額として何倍もの商品価値を実現できるのとまったく同じことである。ただ預金の場合は、最後に行われてまだ銀行に残っている預金1000£の場合だけはともかく、そのすべては架空なものでしかなく、銀行の帳簿上に記載されているだけの存在でしかないということである。

   その次からは引用文に短いメモ書きを挿入していくだけにする。〈それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。〉 この〈総額の10分の9〉を差し引いた10分の1は要するに準備金であろう。〈……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉ここで〈通貨〔currency〉というのは実際に流通している現金(すなわち金貨と銀行券)の総額を意味している。これはまあ流通必要金量を代理しているものと言えるだろう。そして〈預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉というのは単なる帳簿上の記録に過ぎない。しかし、その預金に対して小切手が切られ、膨大な取り引きが決済されているわけである。混乱した現代のマルクス経済学者たちはこの2700万£をも「預金通貨」なる用語で呼んで、「通貨」の一部に加えるわけである。しかしこの引用文の匿名の著者は賢明にもそうした間違いに陥っていない。預金は、単なる帳簿上の記録でしかないということを明確に理解している。
   残りは一まとめに検討しておこう(100£は1000£に修正)。

 〈預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ1000ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。〉

 この一文は必ずしも明瞭ではない。まず〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのが何なのかがハッキリしないことである。それは預金なのか、それとも別の現金なのかがハッキリしないのである。次に〈逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる〉というのもハッキリしない。〈逆の道〉というのはどの道なのか、〈〉というのはどういうことなのか、ということである。しかし細かいことを色々と考えていてもしようがない。ただ最後の部分〈限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである〉と述べていることである。これを見るかぎり〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのは〈同じ1000£紙幣片〉と考えてもよいように思う。そして〈人手から人手へと〉というのは、それが支払手段か購買手段として機能して、人の手を渡っていくことを表し、〈銀行から銀行へと渡っていって〉というのは、それらが色々な銀行に預金となり、且つそれらが決済されていくことを述べているように思う。〈考えられうるどんな預金額でも決済することができる〉というのは、そうして決済された預金額というのは、同じ1000£の銀行券片が形成したものだが、しかしそれは一定の期間をとれば大きな額に達するのだということであろう。
  ただここで述べられていることは、同じ1000£の銀行券片が介在して形成された銀行預金が、帳簿上の記録としてさまざまな債務を決済するのに利用され得るということそのものは直接には問題になっていないような気がする。帳簿上の記録はまったく架空なものに過ぎないのに、銀行にとっては一つの貨幣資本であり、彼らはそれらの決済手続きに対して手数料を稼ぐのである。

  (【34】パラグラフの途中であるが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

 

2022年7月15日 (金)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-12)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-12)



【30】

 利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。224)この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,それを彼らが貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|

  ①〔異文〕「〔…… 〕2倍に[なる]」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「債権〔Schuldforderung〕」← 「請求権〔Forderung〕」

  224)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。--「このような,資本の2倍化,3倍化は近年さらに著しく発展してきた。たとえば金融トラストによってであって,これらの金融トラストは,ロンドン取引所報のなかにすでに特別な一欄を占めている。ある部類の利子生み証券,たとえば外国の国債,イギリスの市債やアメリカの公債,鉄道株等々を買い入れるために,会社が設立される。資本が,たとえば200万ポンド・スターリングのそれが,株式応募によって調達される。会社の管理役員は,当該有価証券を買い入れたり,あるいは多かれ少なかれ積極的にこれらの証券で思惑をやり,年々の利子収益から費用を差し引いたり残りを配当として株主に分配する。--さらに,いくつかの株式会社では,普通の株式を優先株と後配株との2種類に分ける習慣ができてきた。優先株は,総利潤がそれを許すということを前提して,ある確定利払い,たとえば5%を受け取る。そのあとにまだ残りがあれば,後配株がそれを受け取る。こういうやり方で,優先株への「堅実な」投資は,本来の投機--後配株での--からは多かれ少なかれ分離される。ところが,いくつかの大企業はこの新方式に合わせようとしないで,このような企業の株式に百ないし数百万ポンド・スターリングを投資し,これにもとづいてこの株式の名目価値だけの新株を,ただし半分は優先株,半分は後配株として,発行するような会社が設けられるということが行なわれるようになった。このような場合には,もとの株式は,新たな株式発行の基礎として役立つのだから,2倍になるわけである。--F.エンゲルス」〉 (181-182頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈利子生み資本と信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな人々の手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見えるようになります。しかしこれらの「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものなのです。
  たとえば,預金のほとんどすべてが、準備ファンドを除いてですが,銀行業者への帳簿上の貸し勘定として存在するだけで,銀行業者の金庫の保管物としてはまったく存在していません。
  もっともそうした帳簿上の預金も,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎりは,現実の預金を銀行業者たちがすでに貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能します。というのは銀行業者たちは,これらの帳簿上の貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合って決済に利用するからです。そしてそれは彼らに手数料をもたらします。〉

  【マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べている。以前にも(【14】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。
 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見えると言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。

 ところでやや横道に逸れるが、ここで〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」である(MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*を参照)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章「「貨幣資本と現実資本」に使われたマルクスの草稿」の「3 若干の基本的なタームについて」の「(3)moneyed Capitalと貨幣資本(Geldcapital)」なかで、この問題を論じている(215頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉(215頁)と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」(ドイツ語ではGeldkapital)と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまざまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態をmonied capitalと呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときはmonied capitalを指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである。〉 (同219-220頁)

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 (*) 実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを十分吟味してこなかった。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【20】パラグラフの次の一文--

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【23】パラグラフの次の一文--

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【28】パラグラフの次の一文--

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値は,その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉なのである。この場合の〈「貨幣資本〉も〈“Geldcapital〉である。そしてこれらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

  以上で横道はこれぐらいにして、本道に帰ることにする。

 次にマルクスは、〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、そうしたものの例として預金を上げている。それを、もう一度、書いておこう。

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。〉
 
 ここでは、利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉、そうした架空な貨幣資本なのだということになる。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているかのように見えるわけだからである。預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えているわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかに現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。

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 (画像をクリックすると鮮明なものが得られます。)

  ところでこの【30】パラグラフとその前の【29】パラグラフを一つに纏めて大谷氏も小林氏も問題にしていることをすでに指摘したが、その主張を今度は検討してみよう。

  まず大谷氏は第2巻の〈8「架空資本」の意味〉を論じているところで、上記のパラグラフを引用したあと次のように述べている。

  〈ここでは,預金は準備ファンドとして銀行業者の手もとにとどめられている部分を除けばすべてが「純粋に架空なもの」であることが述べられている。これは,すぐ前に見た「架空な銀行業者資本」の架空性とはまた異なった視点から言われているものである。すなわち,預金は,銀行業者によって貸し出されて--すなわち彼にとっての利子生み資本に転化されて--無準備となり,したがって架空なものとなったのちにも,彼にとって貨幣取扱資本として機能する,そういう架空資本になっている,と言うのである。〉 (71頁、太字は大谷氏による傍点部分)

  このように大谷氏は、預金の架空性は利子生み証券のような架空資本の架空性とは違う視点で言われていると指摘している。確かに預金の架空性というものは利子生み証券の架空性とは若干違っているように思える。後者は規則的な貨幣収入を資本還元して想像される資本価値のことを意味していたが、預金の場合は預金された貨幣はその準備を除いてすべて利子生み資本として貸し出され銀行に保管物という形では存在しないこと、にもかかわらずそれらはあたかも銀行に保管されているかのごとくに、彼ら銀行業者にとっては資本として機能すると述べているからである。だからこれは定期的な貨幣利得を資本還元されたものというような意味での架空資本とはいえないことは明らかである。(ここで大谷氏は預金が銀行業者にとって〈貨幣取扱資本として機能する〉と述べているが、果たしてこのような形で貨幣取扱資本というタームを使うのはアリなのであろうか。やや疑問である。要するに帳簿上の預金はその振替によって再生産資本家たちの諸支払いを相殺させて決済するが、それは銀行の貨幣取扱資本としての一機能だということを言いたいのであろうと理解する)。
 とにかくマルクスの上記のパラグラフを読むと、マルクス自身は〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、その一例として預金について述べているのである。〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉という具体例として預金が述べられていることは明らかであろう。利子生み資本として貸し出された資本が、あたかもまだ銀行の保管物として存在しているかのように彼らにとって資本として機能することがその一例として上げられているのである。預金された同じ貨幣額が、すぐに銀行によって貸し出され、その同じ貨幣額が再び銀行に預金された場合、銀行の預金額そのものは2倍になり、そしてそれが繰り返されれば、同一の貨幣額が何倍もの預金額を形成することになるわけである。
 これは後に解読をする予定であるが、マルクスが打った項目番号「III)」には(エンゲルス版第30~32章)、同じ貨幣片が何倍もの預金を形成することをマルクスは次のように論じているところがある。

  通貨Circulation〕{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまったく次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払いの度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払いをし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人のmoneyed Capitalの第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終りには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻495-496頁)

   つまり同じ100ポンドの貨幣額が、結局、何度も預金を形成することによって、2000ポンドの預金額になるというのである。しかしこの小売業者の2000ポンドの預金はただ帳簿上のものに過ぎず、決して銀行の金庫にあるわけではないのである。

   さらに重要なのは、マルクスは預金を〈架空なもの〉の一例として述べてはいるが、それが「架空資本」であるとは述べていないことである。だからマルクスは国債や株式を例に挙げて説明していたものを「架空資本」とし、準備ファンドの大部分や預金については「架空なもの」として、前者とは区別して論じているように思えるのである。また「手形」についても、割り引かれて銀行に保管されているものについては、利子生み証券とは述べているが、それを架空資本であるとは述べていないことにも注意が必要である。ただ手形も手形ブローカーが介在して、それを売り買いしている限りでは、そうした売買される手形は架空資本と言えるのかも知れない。つまり売買される手形は、満期までの残りの期間とそのときの市場利子率によってその資本価値が決まるのであり、その限りでは国債や株式の架空資本としての資本価値と似たものと考えられるからである。

  次は小林氏であるが、まず同氏の場合、【29】パラグラフと【30】パラグラフの紹介に入る前に、貸借対照表を前提に、次のような前文を書いている。

  〈さて「借方」から見た「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,銀行業者が貸出す「銀行営業資本」の主たる部分が,銀行業者自身が投下した「彼の資本」ではなくて,銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない。マルクスは,次のように,「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じているのである。〉 (413頁)

  問題点を箇条書きしてみよう。
   (1) すでに何度も指摘したが、著者は〈「借方」から見た「銀行業者の資本」〉などと述べているが、〈「借方」から見た〉などということは、マルクスは一言も述べていない。その理由についてはすでに述べた。
   (2) 次に〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉というが、しかしその前に著者は【28】パラグラフの最後の一文を解説して〈「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである〉(412頁)と言っていなかったか。つまり他人の資本であるという意味で架空な資本なのだと述べていたのではないのか。マルクスはそのようには言っていないというなら、それはその通りだが、しかし著者自身はマルクスがそう言っていると解釈していながら、ここではそうではないと言っているのが矛盾しているし、おかしいのである。
   (3)そのあとに著者が書いていることはどうであろうか。著者がここで〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉とわざわざ前に書いたことと矛盾したことを述べているのは、預金の架空化というのは、次のような意味で言われているのだと言いたいがためである。すなわち〈「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じている〉というのである。しかしこのように著者はわざわざカギ括弧で括って述べているが、しかしマルクス自身がこうしたことを述べているわけでは決してない。恐らく著者はのちに自身が展開する主張をここでは先取りして、ただ断言する形でこのように述べているのであろう。しかしこれだけでは、その是非を論じることはできない。だからこうした主張の是非はそのあとの著者の展開のなかで吟味していくことにしよう。

  そのあと著者はまず先に紹介した【29】パラグラフを引用したあと、【30】パラグラフについて、次のように紹介している。

  〈あるいは同じことであるが,マルクスは次のようにも云う,「預金(Deposits)全体は(準備ファンドを除けば),銀行業者への貸越金以外のなにものでもないが,しかしそれ[預金]は寄託物(Deposit)の中には決して存在しない。それ[預金]が銀行業者に振替(virement)のために役立つ限り,彼ら[銀行業者]がこの同じ物[預金]を貸出してしまった後も,預金は同じ人々にとって資本として機能する。彼らは実在していない預金に対する相互的な振出し手形(Drafts)を,この貸越金の差し引きによって支払う」,と。そして彼はこれを一般化して,「利子生み資本および信用制度の発達と共に,同じ資本あるいは同じ債務請求権でさえも,種々な人々の手で種々な形態で現れる種々な仕方によって,すべての資本2倍化して,そして部分的には3倍化して,見える。[このように]この「貨幣資本なるもの("Geldcapital")』[即ち,貨幣貸付資本]の最大の部分は,純粋に架空(rein fiktiv)である2)」,と。〉 (414頁)

  このように、著者は意図的にマルクスの叙述の前後を逆転して紹介している。つまりマルクスが〈例えば〉と預金を例に出している部分を先にもってきて、それがあたかもその前の(【29】パラグラフの)預金の説明の続きであるかに紹介して、そして【30】パラグラフの冒頭の一節をそれらの結論として紹介するという形でである。まあこうした紹介の仕方は工夫の一つとして許容範囲であろうが、次のように著者が結論的に述べていることには首をかしげざるを得ない。

  〈だからこういうことになる。まず機能資本家の手許で一時遊休している「自己価値」のある蓄蔵貨幣(「確実な」金貨幣)ないし「金に対する支払指図書」としての兌換銀行券を前提する。次に,「まさに公衆が銀行業者に対して行う貸付(loans)に対する特種な名前にすぎない3)」「預金」が,この「貨幣(金または銀行券)」で行われるものと仮定する。ところがこの「貨幣」は,預金者にとっての「貨幣資本なるもの」(つまり貨幣貸付資本)に転化したが,それは,銀行業者にとっての「準備ファンドを除く」と,銀行業者による手形割引や貸付を通じて機能資本家の手に渡ってしまっているか,「有価証券取引業者(株式仲買人)」に貸出されて彼らの手にあるか,あるいは株式あるいは国庫証券等を銀行業者に販売した「私人の手」または「政府の手に」渡ってしまう。だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない4)ものとなってしまう。したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる。ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が,他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」つまり,このような「架空な」預金に対して振出される小切手によって売掛代金が清算される。
 これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである。〉 (414-412頁)

   これはそのあとのパラグラフのマルクスの叙述をつまみ食いしてつなぎ合わせたものであるが、しかし預金が準備ファンドを除いて貸し出されてしまい、帳簿上のものになったという事実を指摘しただけで、〈したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる〉とは言えないだろう。そのためにはマルクスが【31】パラグラフ以下でアダム・スミスの例を紹介して論じていることが媒介されないといけないのである。要するに最初の貨幣や兌換銀行券が何度も預金として積み上ることが出来るということを言いたいのであろうが、そのためにはそれらが銀行から貸し出されたあと、何らかの商品価値の実現を媒介して銀行に還流することが言われなければならないのである(上記に引用したマルクスの「III)」の一文を見ても分かる)。
   それに著者は〈だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない〉と述べているが、〈銀行に対する貨幣……請求権〉はまあ良いとしても、どうして預金が〈銀行に対する……資本請求権〉なのであろうか。確かに預金者が事業者であり、彼の預金を貨幣資本(Geldcapital)として投資するために預金を引き出すなら、それは彼にとっては「貨幣資本(Geldcapital)」であるが、しかしそれをもって彼の預金を〈銀行に対する……資本請求権〉とは言わないだろう。マルクスは預金は常に現金でなされることを前提すると述べているように、それは現金に対する請求権として存在しているとはいえるが、資本に対する請求権とは言えないのである。事業者も別に銀行に資本を請求するわけではないからである。それは彼が投資するときの貨幣が持つ形態規定性(貨幣資本)である。しかも預金の引出しは銀行にとっても利子生み資本の貸付とは異なり、利子生み資本という規定性も持っていない。そもそも預金を引き出したものを資本として投資するかどうかは銀行の与り知らないことである。だから預金を〈資本請求権〉とするのは決して正しいとは思えない。
   次に著者が〈ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が〉と述べている部分で、カギ括弧に入れて述べている〈「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」〉というのは訳者注5)を見ると、大谷本第3巻の〈第30-32章の草稿〉にあるものであり(【111】パラグラフ、同巻516頁)、これ自体は直接には預金について述べられているものではない。預金を含めたmoneied Capitalについてマルクスが論じているものを預金について述べているものであるかに引用しているだけである。しかしこれはそれ自体が間違いというわけではない。
   ついでにそれに続く〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉という部分のカギ括弧の部分は〈第30-32章の草稿〉にあるものである(【118】パラグラフ、大谷本第3巻522-523頁)。しかし著者はマルクスの一文を読み間違っている。著者が部分的に引用しているものをマルクスの草稿から紹介してみよう。

  〈混乱は,一部分は次のことから生じている。--5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる(彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〔)〕。そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣〔money potentialiter〕として機能する。しかしいずれにせよ,彼はそれだけ自分の預金をなくすわけである。彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払を受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払を受けるのである。彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は2度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権〔claim 〕として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉 (大谷本第3巻521-523頁)

   実はこの部分の詳しい解読は、すでに大谷氏の預金通貨論を批判するなかで論じているだからマルクスの一文を正確に理解しようと思う人はそれを見ていただきたい。
   ここで問題なのは、小林氏の引用から言えることは、同氏がマルクスの一文を読み誤っていることである(実は先の大谷氏の預金通貨論を批判したところでも指摘しているが、大谷氏もこのマルクスの一文を正しく理解できなかったのである)。小林氏は〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉と述べているが、マルクスが〈この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そしで貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである〉と述べている時、〈現実の貨幣として〉というのは、預金が銀行から利子生み資本として貸し出されて、再生産資本家の手で現実の貨幣として働くということであり、だから小林氏が指摘している〈貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって〉というのは、マルクスが〈そして貨幣への請求権〔claim〕として,働く〉というケースであって、それを氏のように〈[現実の貨幣として]作用しうる〉などと書いてしまうとただただ混乱でしかないのである。
   そしてその結論として〈これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである〉というのもおかしなものである。少なくともマルクスは〈「借方」(「預金」)から見た場合の特質〉などとは述べていないからである。預金そのものはすでに銀行から利子生み資本として貸し出されて、銀行には帳簿上の記録としてあるだけだから、その大半は架空なものだということはマルクスは述べている。しかしそれが貸借対照表の「借方」かどうかということは何も述べていないのである。もっとも預金は債務だから「貸方」か「借方」かといえば「借方」ではあるが。しかしマルクスは銀行業者の資本の構成を、その実物的な構成とは違ったもう一つの区分として、銀行業者自身の投下資本(自己資本)と預金(銀行業資本または借入資本)とに分けているが、しかしそれらは実物的な構成には何の影響も与えないとも述べているのである。この後者の区別は確かにその限りでは貸借対照表にもとづく区別ともいえるが、しかし、そのことをマルクスは明記してそう述べているわけではない。だから預金について論じている場合も、それが借方にあるかどうかといったことは何ら問題にせずに論じているのである。預金を借方の架空性の代表であるかに著者はいっているが、そんなことはマルクスは一言も述べていないのである。】

  (以下、次回に続く。)

 

2022年7月 7日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-11)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-11)

 


  (前回【28】パラグラフの解読を途中で切ったので、以下は、その続きです。)

   次は小林氏であるが、氏はすでに紹介したが、〈ところでこのように銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した後,次にマルクスはこれら「銀行業者の資本」の「架空性」を次のように,3点にわたって指摘していく。〉(410頁)と述べたあと、【28】パラグラフを①~③の三つの部分に分けて紹介している。大谷訳と若干の違いがあるので、それも紹介しておこう。、

  〈① 「銀行の準備ファンド(Reservefonds)は,発達した資本主義的生産諸国では,平均的には蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部は再び有価証券(Papieren)から,即ち決して自己価値のあるもの(Selbstweythe)ではない,金に対する単なる支払指図書(Anweisungen)から成立っている。」
   ② 「だから銀行業者の資本の最大の部分は純粋に架空(fiktiv)[なもの]で,(即ち債務返済請求書(Schuldforderungen)〈手形および公的有価証券〉並びに株式〈所有権利証書(Eigenthumstitel),将来の収益に対する支払指図書〉であり,この際以下のことが忘れられてはならない。即ち,これらの有価証券(Papiere)が銀行業者の金庫で表示している資本の貨幣価値は,これら有価証券が(公的有価証券の場合のように)確実な収益に対する支払指図書である限りでも,あるいはそれらが(株式の場合のように)現実資本に対する所有権利証書である限りでも,全く架空(fiktiv)であり,そしてそれ[有価証券の貨幣価値]は,それら[有価証券]が表示している,現実資本の価値からは離れて調整されるか,あるいは,それらが収益に対する単なる請求権(Forderug)を表示している(そして決して資本を表示していない)場合には,同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空貨幣資本[擬制資本]で表現されている,ということである。」
   ③ 「さらにこれに次のことが付け加わる,即ち,この架空な銀行業者の資本(diess fiktive Banker's Capital)は大部分が彼の資本ではなくて,彼に預託されている公衆の資本--それに利子が付こうと無利子であろうと--を表示している,ということである」13),と。〉 (410-411頁)

   そしてこれらについて著者は次のように解説している。まず①についてである。

  〈まず第①の「銀行の準備ファンド」であるが,それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している。したがってその一部は「有価証券から,即ち,決して自己価値ではない金に対する単なる支払指図書から成り立っている」と云われる時にも,その「有価証券」とは「利子生み証券」ではなく,兌換銀行券を意味しているものとしなければならない。そして兌換銀行券といえども,それは「自己価値」を持った蓄蔵貨幣ではないのだから,「現金準備」の一部は貨幣(=金貨)請求権という「架空な」「資産」にすぎない,というのである。〉 (411頁)

   しかしこれは正しいとは言えない。同じような主旨からなのか、大谷氏の場合は〈すなわち(他行の)銀行券〉と述べていた。
   ここで著者が〈それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している〉と述べているのは、【26】パラグラフでマルクスが〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉と述べていたことを考えているのであろう。しかしマルクスはその前の【24】パラグラフで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べていたのである。つまりこうした利子生み証券に投下されているものも準備ファンドの一部なのである。もちろん、【26】パラグラフで述べている〈貨幣準備(金または銀行券)〉も準備ファンドの一部であることは言うまでもないが、そして銀行券が〈自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもその限りではまったくそのとおりなのである。しかし大谷氏のようにどこから〈(他行の)銀行券〉が出てくるのかは皆目分からないのである。マルクスがここで金と並べている「銀行券」は現金として通用するものであり、法定通貨であるイングランド銀行券を指していることは明らかである。
   次は②の説明である。

  〈第②に,「銀行業者の資本([資産])」の圧倒的部分を占める「有価証券」のうち,「商業証券」である割引手形も公的有価証券である国債等も「債務返済請求書」であり,また株式も「将来の収益に対する支払指図書」であるから,それら「有価証券の貨幣価値」は「それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整されるか,……同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空な貨幣資本で表現されている」という意味で,「純粋に架空なもの」であるというのである。〉 (411頁)

   ここで小林氏は〈「銀行業者の資本([資産])」〉とマルクスの草稿にはない〈([資産])〉を入れているが、これは氏がマルクスが貸借対照表を前提に論じているという独断に立っているからである。割り引かれた手形が、利子生み証券であり、満期までの残存期間とそのときの利子率によって貸付額が調整されるという意味では、ここで著者がいうように〈それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整される〉と言えなくもない。しかしマルクスが〈この場合次のことを忘れてはならない〉と以下述べているもののなかには〈手形〉は含まれていないことにも注意する必要がある。マルクスがそこで挙げているものは、〈公的有価証券〉と〈株式〉だけである。このあと著者は次のようにこの②に付いて結論的に述べている。

  〈したがってこれに続けてマルクスが,「この架空な銀行業者の資本(dies fiktive Banker's Capital)14)」というときには,このように,「銀行業者の資本」をまず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指しているのである。〉 (411頁)

   まず確認しなければならないのは、少なくともマルクスはそんなことは一言も述べていないことである。ただマルクスがここで〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉という場合、著者がいうように銀行業者の帳簿上に表されている資本の貨幣価値というものをマルクスも問題にしていることは確かであろう。そうした帳簿上に表されているものは架空なものだというのがマルクスがここでいわんとしているものである。
   ただ小林氏の場合は(大谷氏もそうであるが)、マルクスが銀行業者の資本の現実の構成部分とそれらが銀行業者の帳簿上でどのように表されるかということを区別して論じ、後者は全く架空なものだと論じているということにまったく注意が行っていないことである。むしろ小林氏も大谷氏も帳簿上の問題だけを問題にしているのである。
   さらに問題なのは、例え著者がいうように〈まず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指している〉ということだったとしても、果たしてそれにどんな意義があるのか、ということである。〈「資産」の側から見た場合〉ということを指摘して何か新しい知見が得られるのか。なぜ、わざわざマルクスが一言も述べていない貸借対照表について言及する必要があるのか。それで何か問題を深めたことになるとでもいうのであろうか。むしろそれはマルクスが論じている内容から問題を逸らせることになるのではないのか。なぜ、マルクスが著者や大谷らがいうような貸借対照表にもとづいて論じているのなら、それを言わないのか、それこそが問題であり、そこにこそマルクスが問題にしている根本があるのではないのか。マルクスは第28章該当部分では、銀行業者の立場からの「資本」というのは、元帳の立場からの「資本」だと述べていた。つまり「元帳の立場」、すなわちブルジョア的な帳簿表記上の立場である。そしてそれはすなわち貸借対照表にもとづいた立場でもあるのではないか。そうした銀行業者の立場を批判的に論じているマルクスが、そうした貸借対照表を前提にして論じているなどということは考えられないのである。それが著者にもまた恐らく著者の主張に影響されてであろうが、大谷氏にも見られるのは情けない限りである。
   いずれにせよ、著者は③について次のように述べている。

  〈ところが彼が第③に,「さらに……付け加わる」として指摘する点は,「資産」の側から見て「架空な」この「銀行業者の資本」を,「負債と資本」の側から見たものである。先には彼は,「銀行業者の資本の実在的諸成分--貨幣,手形,有価証券--」という「貸方(creditor)」の「区分」は,その「借方(debtor)15)」が自己資本だけであるか,それとも借入資本(預金,等)だけであるかということとは,さしあたっては関係がないとしていた16)のであるが,実は「銀行業者の資本」とはいうものの,「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである。〉 (411-412頁)

   しかしマルクス自身は〈この架空な銀行業者資本の大部分は、彼の資本を表しているのではなく、利子がつくかどうかにかかわらず、その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表している,ということが加わる〉(大谷論文35頁)と述べているだけで、〈「預金」であるという点で,「架空な資本」である〉と述べているわけではない。マルクスは架空な資本の大部分は、他人から預託されたものだと述べているだけなのである。つまり他人から預託されているものが、銀行業者の帳簿上においては純粋に架空な資本になっていると述べているのであって、ただ他人のものだから架空な資本だなどと述べているのではないのである。】


【29】

 預金はつねに202)貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。

  ①〔異文〕「述べた」← 「考察した」

  202)〔E〕「貨幣(金または銀行券)で」→ 「貨幣で,すなわち金または銀行券か,これらのものにたいする支払指図で」〉 (180-181頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされます。預金の払い出しに応じるための準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張します)を除きますと,預金そのものは,一方では生産的資本家や商人に貸し出されて彼らの手のなかにあります。彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりしたのです。または他方では、有価証券の取引業者(株式ブローカー)に貸し出されて彼らの手中にあります。あるいはまた、自分の有価証券を銀行に売った私人の手中にあります。または同じように銀行に国債等を売った政府の手中にあります。政府は国庫手形や新規国債を銀行に売るか、あるいはそれらを担保として銀行から預金を借り受けるのです。要するに銀行は公衆から集めた預金を、さまざまなところに利子生み資本として貸し付けて利子を稼いでいるのです。
   ところで預金そのものは二重の役割を演じます。一方ではそれは,いま述べましたような仕方で利子生み資本としてさまざまなところに貸し出されます。したがって銀行業者の金庫のなかにはそれらの預金はもはやなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として銀行業者の帳簿のなかにあるだけです。
   しかし他方では,この帳簿が、商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてて振出した小切手によって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,帳簿上の預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能するのです。つまり諸支払いの決済を行うことができるものに役立つのです。(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわないのです)。〉

  【このパラグラフは、【9】パラグラフのなかで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていたものが、ここで論じられていると言える。そしてこの部分は現代的な問題でもあるいわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連している。しかしその検討は後に行うとして、とりあえずは、われわれはこのパラグラフそのものの詳しい解読から始めることにしよう。

  ここではまず〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べられている。これはいわゆる一般的には「本源的預金」と言われるものと考えて良いであろう(マルクス自身がこうした用語を使っているのかは知らないが)。というのは、マルクスは第28章該当部分において、次のように述べていたからである。

 〈銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。〉 (大谷本第3巻136頁)

 つまり銀行は産業資本家や商業資本家が持参した手形を割り引いて、銀行券を手渡す(貸し出す)代わりに、帳簿信用を与えることもできるわけである。つまり預金設定を行い、割り引いた手形の代金を帳簿上に書き加えて手形持参人名義の預金として設定するわけである。だからこの場合、預金は事実上手形によってなされたことになる。しかしマルクス自身は、この場合は銀行から貸し出しを受けた業者が〈仮想の預金者になる〉とも述べており、預金者が銀行に貨幣(金または銀行券)を持参して行う「本源的な預金」と区別しているように思える。
 ところでエンゲルスは〈貨幣(金または銀行券)で〉の部分を〈貨幣で、すなわち金または銀行券か、これらのものにたいする支払指図で〉と修正したのであるが(訳者注202)、しかしこの修正はマルクスの意図をむしろねじ曲げるものといえるように思える。エンゲルスにしてみれば、商業実務に通じているが故に、手形や小切手等、支払指図での預金が日常的に行われている経験にもとづいてこうした修正を施したのであろうが、しかし、マルクスの意図としては、そうした支払指図による預金は、すでに銀行による貸し出しの一形態であり、貨幣を持ち込んでの預金とは明確に区別されるべきものなのである。
 とにかく、われわれは、マルクスの言明にもとづいて、ここでは預金は常に〈貨幣(金または銀行券)〉でなされるものと考えることにしよう。

 次の〈準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)〉という部分に出てくる〈この預金は〉というのは、正確には「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味である。つまり預金された貨幣(金または銀行券)は、銀行に留まっているわけではなく、すぐに一定額の準備ファンド(これは預金者の引き出しに応じるために銀行に準備しておくべきものである)を除いて、直ちに貸し出される、ということである。そしてその貸し出し先や運用先が、その次に書かれている内容である。

 (1)〈一方では生産的資本家や商人〉に貸し出されるが、それは手形割引やその他の貸し付け(担保貸し付けか、無担保貸し付けか)によってなされるわけである。
 (2)〈または有価証券の取引業者(株式ブローカー)〉に貸し付けられる。
 (3)〈または自分の有価証券を売った私人の手中に〉。つまりこれは銀行が預金された貨幣(金または銀行券)で私人から有価証券を購入した場合のことである。
 (4)〈または政府の手中にある〉。つまり政府に貸し出されるわけである。そしてその場合には銀行業者は国庫手形や新規国債を担保として保有することになるわけである。これはあるいは新規国債を銀行が引き受ける場合も入るかも知れない。

 その次からは預金の機能が考察されており、「預金通貨」を考える上でも、極めて重要である。

 預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである。

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿上に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、すぐに利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金そのものは銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。以前紹介した銀行の貸借対照表をもう一度紹介してみよう。
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 このように預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。
 そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。
 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から人手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。〉 (「「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について)(下)」(『経済志林』第51巻第4号10-11頁))

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。
 しかし、今回の【29】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。(なお大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章の4の(6)「信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能」で、やはり「預金通貨」について論じているのであるが、それについてはすでに別途批判したものがあるので、参照していただきたい。)

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが第29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。
 (1)まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。
 (2)次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。
 (3)bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。
 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。〈諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである〉(『資本論』第1部全集第23a巻180頁)。この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。
 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。
 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから推測したに過ぎません。】

 もう一つT氏に対する関連するメールを紹介しておこう。

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 〈{通貨〔currency〕の速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency〕の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉 (「「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について」(『経済志林』第64巻第4号165-6頁、大谷本第3巻427-430頁)

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〔currency〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【29】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣はただ観念的に、計算貨幣あるいは価値尺度として機能するだけである)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

   小林氏(大谷氏も同じであるが)はこのパラグラフだけではなく、次の【30】パラグラフと併せて問題にしている。というのは彼らの関心は預金の架空化にあるからである。しかしこれらのパラグラフでは預金の二重の役割といういわゆる「預金通貨」と言われてきた概念の是非を判断する上で極めて重要な指摘がされており、これまでの解読はそうした点に力点を置いて述べてきた。
   まず小林氏のこのパラグラフの翻訳を紹介しておこう(それは大谷氏とは若干の相違がある)。ただ小林氏はやや抜き書き的に書いており、その点、注意が必要である。

  〈即ち,「預金は常に貨幣(金または銀行券)でなされる」が,「準備ファンド(それは現実の流通の需要に従って収縮しまた膨張する)を除くと」,「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。他方では,商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる(その場合,預金が同一銀行業者におかれていて,したがって彼[同一銀行業者]が種々な[顧客の]売掛代金(Credit Accounts)を相互に差し引くか,あるいは,種々な銀行業者が彼らの小切手を相互に交換し,そして差額を支払いあうかは,全くどうでもよい)限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する1)」,と。〉 (前掲書413-414頁)

  気づいたことを指摘しておこう。
  ①著者は〈「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。〉(414頁)と翻訳しているが、この部分は大谷訳では〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである〉(大谷新本第3巻180頁)となっている。
   つまり同じ「Guthaben」でも一方は「貸越金」、他方は「貸し勘定」と訳が違う。どちらが適訳かといえばやはり大谷訳であろう。貸越金というのは、同一口座の定期預金を担保に、普通預金の不足分を借り入れする金額のことであって、この場合は不適切な翻訳ではないだろうか。貸し勘定はただ貸した金という意味で、この場合の適訳である。
  ②また同じようなことだが、〈商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる……限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する。〉(414頁)とあるが、大谷訳では〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振り出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉(同前180-181頁)となっている。この場合もやはり大谷訳の方が分かりやすい。〈それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する〉というだけではなかなか意味が分からないが、〈預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉とすればよく分かるのである。もっとも帳簿項目を帳簿上の項目、つまり記録と理解すれば、両者ともさほどの違いはないが。

  大谷氏も小林氏も【29】パラグラフと【30】パラグラフとを同じ預金の架空化について論じているものとして、両者を併せて解説しており、だからそれらの解説については【30】パラグラフで取り上げて検討することにしよう。】

  (以下、次回に続く。)

2022年6月30日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-10)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-10)



【26】

 〈/338上/最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である。預金は{長期について約定されているのでなければ}預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) しかし,ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない」のである。/〉 (178頁)

  〈これまで〈銀行業者の資本の現実の構成部分--貨幣、手形、有価証券〉について、順序を逆にして見てきましたが、銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,貨幣、すなわち銀行業者の貨幣準備(金または銀行券)です。
  こうした現金(金または銀行券)は、銀行が預金準備として持っているものです。つまり預金者の引き出しにいつでも応じられるように一定額を常に準備しているものです。
  預金は、定期預金のように、長期について約定されたものでなければ、預金者がいつでも自由に引き出せるものです。だから、それは絶えず増減しています。しかし,ある人がそれを引き出せば他の人が新たに預金として補充するというように、「一般的な平均額はあまり変動しない」のです。〉

  【ここに出てくる〈銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〉も、先のパラグラフの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉とほぼ同じであり、【9】パラグラフに出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉と同じもの、すなわち「銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するもの」と考えるべきであろう。そしてその最後のものが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。【9】パラグラフで掲載した図をもう一度書いてみよう。
Photo02

  (画像をクリックすると鮮明なものが得られます。)

 これまでの考察を振り返ると、【10】パラグラフからは最初に「②その他の有価証券(利子生み証券)」が取り上げられ、そのなかで架空資本の概念とその独自の運動が明らかにされ、【24】パラグラフでは「①商業的有価証券(手形)」が取り上げられた。だから最後に残っているのはこの【26】パラグラフにおける「1)現金(金または銀行券)」となる。
 ところが、マルクスは「現金」について説明するのではなく、すぐに「預金」の説明に移っている。これはどうしてであろうか。それは銀行業者の資本の現実の構成部分である「現金」を、マルクスが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)〉と説明していることを考えれば分かる。つまり銀行資本の構成部分をなす「現金(金または銀行券)」というのは、「預金」の支払準備だということである。つまり預金者が預金を引き出しに来た場合に、いつでも応じられるように準備しているのが銀行業者の資本の現実の構成部分である「現金」だということなのである。
 だからマルクスは、続けて、〈長期について約定されている〉もの、つまり「定期預金」のようなものではない限りは、預金は、〈預金者がいつでも自由にできるもの〉だから、〈それは絶えず増減している〉が、〈ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない〉と述べているのである。だからある銀行業者の預金総額が例えば100億円だとしても、毎日引き出しに来る人の合計額の最大は1000万円ぐらいであり、しかもある人がその日に現金100万円を引き出したと思ったら、別の人が同じ日に現金100万円を預金に来るという具合で、だから銀行が預金の引き出しのために常に準備しておかなければならない現金はだいたいその最大額の1000万円ぐらいでよいというようなことになるわけである。
   だから銀行業者が預金として預かった金額が例え100億円だとしても、それは帳簿上のものであって、預金額の100億円が現金として銀行にあるわけではない。その多くはすぐに利子生み資本として貸し出されるか、あるいは有価証券に投資されて準備として保有されているかであって、現金として保持されるのは、ただ預金の引き出し要請にいつでも応じられる最低限の額だけなのである。だから取り付け騒ぎのように、もし預金者が自分たちの預金をすべて急いで引き出そうとしてもそれは事実上不可能なのである。その時は、銀行業者は倒産するしかない。】


【27】

 〈/338下/〔原注〕b)「銀行の手中であろうと銀行業者の手中であろうと,商人たちが持っている貨幣は,いつでもきわめて大量ではあるが,絶えざる変動のなかにある。」(J.ステューアト,第4巻, 228ページ〔小林昇監訳『J.ステュアート経済の原理--第3,第4,第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,325ページ〕。)〔原注b)終わり〕|

  ①〔異文〕前パラグラフへの原注a)に注記したように,この注には,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕
  ②〔注解〕ジェイムズ・ステューアト『経済学原理の研究……』,パリ,1789年。〉 (178頁)

  【これは〈預金は……預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) 〉という本文に付けられた原注である。ステューアトからの引用だけなので平易な書き下し文は省略する。
  小林氏はこの原注を注のなかで紹介しているので、まずそれを見ておこう。

  〈11)手稿では,ここに「注b)」が付され,J.Steuart,Recherche des Principes de l'Économie Politique,t.IV,Paris 1789,p.228から,「銀行または銀行業者の手中にあって商品を買う貨幣は,いつでも非常に大きいとはいえ,たえざる変動のドにある」という引用がなされている。なおこの注も,現行版では削除されている。〉 (小林本413頁)

   小林氏訳では大谷訳にある〈商人たちが持っている貨幣は〉という一文はないが、恐らく〈商品を買う貨幣は〉がそれに該当するのであろう。
   ステューアトの一文では大谷訳では〈銀行の手中〉と〈銀行業者の手中〉となり、小林氏訳では〈銀行または銀行業者の手中にあって〉と、両方とも「銀行」と「銀行業者」とを区別しているように読めるが、これだけではどういう意味があるのかわからない。ただ〈手中〉というのは、銀行業者に預けてあるという意味であろうと考えられる。だからこれは帳簿上銀行預金として銀行業者の手中にある額を問題にしているということが分かる。それが常に変動していることを指摘したものとして、マルクスは紹介しているだけのようである。だからエンゲルスは削除したのであろうか。】


【28】

 〈/338上/[/(1)]銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている[/(2)]それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なもの195)である(すなわち債権 196)(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 197)〔)〕[/(3)]この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値は,その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである[/(4)]そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。

  ①〔異文〕ここに,「権原Titel〕」と書いたのち,消している。
  ②〔異文〕「将来の収益」← 「収[入]〔Ein[nahmen]〕」
  ③〔異文〕「資本の貨幣価値」← 「価値」← 「名目価値

  195)〔E〕「である(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。」→ 「であって,債権(手形),国債証券(過去の資本を表わしているもの),および株式(将来の収益にたいする支払指図)から成っている。」
  なお,この部分に見られる括弧を,MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。--「である(すなわち債権)(手形と公的有価証券),また,株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)」
  196)草稿ではここに「)」があるが,不要と考えて削除しておく。MEGAでは草稿のままになっている。
  197)「〔)〕」--ここにあるべきところと考えて,挿入しておく。MEGAでははいっていない。〉 (179-180頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しています。そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っています。だから,銀行業者の資本の最大の部分,つまり現金(金あるいは銀行券)を除いた部分は、純粋に架空なものなのです。
   例えば債権、これは手形や公的有価証券が該当しますが、あるいは株式、つまり将来の収益にたいする所有権原、あるいはそれを配当として支払を指図するものですが、これらは銀行業者の帳簿上ではまったく架空なものなのです。
   すなわち、この場合、次のことを忘れてはなりません。銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている,帳簿上の資本の貨幣価値は,その紙券が公的有価証券のように確実な収益にたいする支払指図であるか,または株式の場合のように、現実の資本にたいする所有権原であるかぎりでさえも,まったく架空なものだということです。それらはこれらの紙券(株式)が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるからです。あるいは,これらの紙券(国債などの公的有価証券)がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現されるからです。要するに、それらの額面とは違った資本価値をもつものとして記帳されているということです。
   そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている、ということが加わります。それが今は当面の運用先がないために準備ファンドとしてさまざまな形態をとっているのです。〉

  【その前の【26】パラグラフまでで、【9】パラグラフで論じていた〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--〉のそれぞれについて論じてきたわけであるが、今回の【28】パラグラフからは、しかしそれらの最大の部分が、銀行業者の帳簿上では架空資本として存在していることが明らかにされているように思える。
 しかし、このパラグラフの解読に着手する前に、やっておくべきことがある。このパラグラフでは〈蓄蔵貨幣〉という用語が出てくる。しかも〈この蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉という文言も出てくる。しかしわれわれの理解では、蓄蔵貨幣というのは、『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第3節「貨幣」の中に出てくるものである。つまり定冠詞のつかない「貨幣」、第三の規定における「貨幣」、あるいは「本来の貨幣」と言われるものであり、金無垢でできているものでなければならないような性格のものでは無かったのか。ところがここではマルクスは蓄蔵貨幣の一部は「紙券」(Papier--これはドイツ語では「紙」のことである)から、自己価値ではない単なる支払指図からなっているなどと述べている。果たしてこの蓄蔵貨幣というのは、われわれが『資本論』の冒頭で学んだ蓄蔵貨幣とはどう違うのか、それが問題である。われわれはそもそも「蓄蔵貨幣」とは何なのか、という根本的なことを、まずもって再検討しておかなければならないのである。
   実は「蓄蔵貨幣」は『資本論』全3巻にわたって出てくるカテゴリーであり、それらをつぶさに検討して行くと、なかなか一筋縄では行かないものであることが分かってくるのである。
 大谷氏は「貨幣の機能II」(『経済志林』62巻3・4号)のなかで、「蓄蔵貨幣」についてかなり詳細な検討を加えている。われわれはそれをも参考にしながら、この概念について検討することにする。ただしこの問題にはあまり多くを割けないので、結論だけを述べることにする(だから興味のある方は、大谷氏の論文を参照して頂きたい)。大谷氏は①『経済学批判』の原初稿、②『経済学批判』、③『1861-3年草稿』、④『資本論』第3部第1稿(第19章該当箇所)、⑤『資本論』第3部第1稿(第28章該当箇所)、⑥『資本論』第1部の六つの引用文を紹介して、それらの引用文のなかに出てくる蓄蔵貨幣のマルクスの使用例を考察しながら、検討を加えている。
 それらを踏まえて「蓄蔵貨幣」を大まかに分類して図示すると次のようになると思われる。
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 最初の「蓄蔵貨幣」と「(1)本来の蓄蔵貨幣」が二重線で結ばれているのは、本来の蓄蔵貨幣こそが、蓄蔵貨幣の本源的な概念をなすものだからである。またマルクスが「それ自体としての蓄蔵貨幣」と述べているものは、(1)と(2)を含んだものであることを示している。
 さて、ここでは蓄蔵貨幣を大きく5つに分類したが、ここで(1)と(5)のみが、金貨幣か金地金で無ければならないが(しかし世界的な信用システムが発展している今日では(5)は必ずしも地金形態に限定されない)、それ以外の(2)~(4)はマルクス自身は必ずしもそうしたものに限定していないということである。
 例えば大谷氏は「価値章標は蓄蔵貨幣となりうるか」と題して、次のようなマルクスの一文を紹介している。

 〈「鋳貨は,それ自体として,すなわちたんなる価値章標として孤立させてみれば,ただ流通によってしか,また流通のなかでしか存在しない。たんなる価値章標は,それを貯める場合でさえも,ただ鋳貨として貯めることができるだけである。というのも,価値章標の力〔Macht〕は国境のところで終わるのだからである。この場合には貨幣蓄蔵は,流通の過程そのものから生じる,もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形熊,すなわち,流通に予定された,鋳貨の蓄え〔Vorrath von Münze〕としての貨幣蓄蔵の形態,または国内鋳貨そのもので行なわれうる諸支払のための準備としての貨幣蓄蔵の形態以外まったく問題になりえない。つまり,本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。というのは、価値章標としての鋳貨には,貨幣蓄蔵の本質的要素が,すなわち,それが果たす社会的機能を別としても,ただ象徴的なだけの価値ではなくて,価値そのものの直接的定在でもあるがゆえに,特定の社会的関連から独立した富である,ということが,欠けているからである。したがって,価値章標にとってそれがそのような章標であるための条件となっている諸法則は,金属貨幣にとっては条件とはならない。というのも,金属貨幣は鋳貨の機能に縛りつけられてはいないからである。(MEGA,II/2,S,30-31.)〉 (『経済志林』第62巻第3・4号、250-251頁)

 このようにマルクスは鋳貨準備だけではなく、支払手段の準備も、価値章標によって可能であるとの理解に立っていることが分かるのである。大谷氏も〈要するに、価値章標は鋳貨の準備ファンドとも支払手段のための準備ファンドともなりうるのであって、この両者が「流通過程そのものから生じる、もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形態」と見なされうるかぎり、価値章標は蓄蔵貨幣となりうる、と言いうるのである〉(同253頁)と結論している。
 そしてこうした主旨からすれば、(2)も同じように必ずしも金貨幣や地金形態でなければならない理由とはならないであろう。それはただ非自発的に流通が中断されて、商品の変態が第一変態で止まっているような状態、あるいは支払に必要な貨幣額が準備された状態にあることを意味するだけだからである。だからこれらもただ鋳貨がそのまま流通を停止しているとも考えることが可能だからである。
 また(4)の資本の流通過程から生じるものについては、大谷氏は紹介していないが、次のようなマルクスの言明がある。

 〈事態を現実に起きるとおりに見るならば、あとで使用するために積み立てられる潜在的な貨幣資本は次のものから成っている。
 (1)銀行預金。だが、銀行が現実に動かすことができるのは、比較的わずかな貨幣額である。ここではただ名目的に貨幣資本が積み立てられているだけである。現実に積み立てられているものは貨幣請求権であって、それが貨幣化されうる(いつか貨幣化されるかぎりで)ものであるのは、ただ、引き出される貨幣と預け入れられる貨幣とのあいだに均衡が成立するからでしかないのである。貨幣として銀行の手のなかにあるものは、ただ相対的にわずかな金額だけである。
 (2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。
 (3)株式。思惑的なものでないかぎり、それは、一つの会社に属する現実の資本にたいする所有証書であり、またこの資本から年々流れ出る剰余価値にたいする指図証券である。
 すべてこれらの場合には貨幣の積み立てが行なわれるのではなく、一方で貨幣資本の積み立てとして現われるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われるのである。貨幣がその所有者によって支出されるか、それとも彼の債務者である別人によって支出されるかということは、少しも事柄を変えないのである。
 資本主義的生産の基礎の上では貨幣蓄蔵そのものはけっして目的ではなく、むしろ流通の停滞の結果であるか--というのは通常よりも大きい貨幣量が蓄蔵貨幣形態をとるのだから--、または回転のために必要になる積み立ての結果であるかであり、あるいはまた、最後に、蓄蔵貨幣は、ただ、一時的に潜在的な形態にあってやがて生産資本として機能するべき貨幣資本の形成でしかないのである。〉 (『資本論』第2部、全集第24巻426-7頁)

 だから資本の流通過程それ自体から生じる蓄蔵貨幣(潜勢的な貨幣資本)には、さまざまな形態がありうるということである。またこうした準備ファンドで注意が必要なのは、〈準備金として機能している貨幣資本がその所有者のためには準備金の機能を果たしながら社会のためには現実に流通しており(銀行預金が絶えず貸し出されるように)、したがって二重の機能を果たしている〉(『資本論』第2部全集第24巻422頁)場合があるということである。つまり準備ファンドとして蓄蔵貨幣の形態をとっているといっても、それは特定の当事者の私的な立場からのみそういえる場合があるのであって、そうした場合には、社会的には、あるいは客観的には必ずしもそうしたものではない場合もあるということに注意する必要があるわけである(この点、先の大谷氏の考察は貨幣取扱資本との関連においてやや不十分なところがある)。

 さて、やや前置きが長くなったが、こうした蓄蔵貨幣についての一般的な考察を踏まえて、われわれは今問題になっている【28】パラグラフの解読に取りかかることにしよう。このパラグラフは途中でさまざまな挿入文が括弧で括って入っており、ごちゃごちゃしていてややこしいので、全体を四つの部分に分けて(テキストに[/(1)]等を挿入)、一つ一つ考察していくことにしよう。

  (1) 〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。〉

 ここで〈銀行の準備ファンド〉として述べている内容は、【26】パラグラフで述べていた〈貨幣準備(金または銀行券)〉だけではなく、【24】パラグラフで言及していた〈準備資本〉をも含めたものである。つまり銀行業者の資本が、〈現実の銀行業者業務〉として投下先を見いだせない(機能できない)ので、とりあえず準備資本として有価証券に投資されているような場合も含むのである。だからその一部が〈それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉というのはわれわれにとっては頷けることである。というのは、【24】パラグラフでは〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べられていたからである。
 だから問題は〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現して〉いるということについてである。どうしてこのようなことが言えるのかは、貨幣取扱資本の機能について知る必要がある。マルクスは第25章該当箇所で、信用制度(銀行制度)の本来の基礎が商業信用にある一方で、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついていると指摘していた。つまり銀行は貨幣取扱業としての側面も持っているわけである。少しその部分から紹介しておこう。

 〈すでに前章(これは現行の第19章「貨幣取扱資本」部分をさす--引用者)で見たように,商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払(したがってまた地金取り扱い)は,貨幣取扱業者の手に集中される。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいはmonied Capitalの管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らはmonied Capitalの現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者としてはいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らはmonied Capitalの一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面ではmonied Capitalの,貸し手の集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。〉 ( 大谷本第2巻169-171頁)

 また大谷氏は先に紹介した論文のなかで、第19章該当部分の草稿からかなり長い引用を行っているが、その部分も重要なので、紹介しておこう(ただしこの抜粋は何パラグラフにも及ぶ草稿から部分的に抜き書きしたものであり、また草稿では続いているものを大谷氏は敢えて改行している部分もあるが、大谷氏の表記に従っておく)。

 〈資本のうちの一定部分はたえず蓄蔵貨幣として存在していなければならず(購買手段の準備,支払手段の準備,遊休していて貨幣形態のままで、充用を待っている資本),また資本のうちの一部分はたえずこの形態で還流してくる。このことは,支払や収納や簿記のほかに,蓄蔵貨幣の保管を必要にするのであり,これはまたこれで一つの特殊な操作である。つまりそれは,実際には,蓄蔵貨幣をたえず流通手段や支払手段に分解することであり,また,販売で受け取った貨幣や満期になった支払から蓄蔵貨幣を再形成することである。……
 貨幣の払い出し,貨幣の収納,差額の決済,貨幣の保管,等々は,これらの技術的操作を必要とさせる諸行為から分離して,これらの機能に携わる資本を貨幣取扱資本にするのである。……
 資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,いまでは資本のうち支払手段および購買手段の準備ファンドとしてつねに貨幣形態で存在しなければならない部分の形成これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣はたえず流動しており,たえず流通に注ぎ,またたえず流通から帰ってくる。
 第2の形態は,遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は,蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。
 第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払金の支払と受領,諸支払の決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家のたんなる出納代理人として行なうのである。……
 貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備ファンドは,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。〉 (大谷本第2巻316-331頁)

  だから産業資本や商業資本が彼らの蓄蔵貨幣(それは鋳貨準備であったり、支払準備であったり、世界貨幣の準備であったり、とりあえずは投資する前の貨幣であったり、固定資本の償却費用であったり、等々であるが)のほとんどを銀行は預金として引き受けるわけである。先の蓄蔵貨幣の分類のうちで(1)を除く、ほとんどが銀行に預金として集中してくるわけである。しかもそれらは〈経済的最小限に縮小〉されて存在しているわけだから、それらは資本主義的生産が発展している諸国では、社会的には蓄蔵貨幣として現存する量をほぼ表現しているといえるわけである。というのは、産業資本家や商業資本家は彼らの蓄蔵貨幣を実際の流通や投資に必要な限りで、銀行から引き出すのであるが、銀行の準備ファンドというのは、そうした産業資本家や商業資本家の引き出しに応じることのできる必要最小限を充すものでなければならないからである。その量は経験的に決まってくる。ただ産業資本家や商業資本家たちが彼らの蓄蔵貨幣を銀行に預金している場合、これらの再生産的資本家たちにとっては蓄蔵貨幣であっても、しかし彼らの預金は、すでに銀行にはなく、ただ記録だけがあるだけに過ぎない場合がほとんどであって、だから銀行の準備ファンドは、再生産的資本家たちにとっての、つまり名目的な蓄蔵貨幣の総額よりかなり少ないものであることは確かであろう。
 そして問題なのは、こうした銀行の準備ファンドの一部分(【26】で問題になった貨幣準備のうち金は除く)は、紙券から、つまり自己価値ではない、金にたいする支払指図からなっているわけである(金に対する支払指図という点では【26】で問題になった貨幣準備の一部である銀行券にも妥当するであろう)。

  (2)〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕〉

 ここで〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前の〈銀行の準備ファンド〉と同じではない。というのは、われわれは【24】パラグラフで〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉という一文を知っているからである。だからここで言われている〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前に言われていた〈銀行の準備ファンド〉プラス〈手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束〉と考えるべきであろう。そうすれば、括弧のなかでマルクスが述べていることも自ずと理解できるようになる。つまり、マルクスは括弧のなかで、〈債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉を上げているが、だからここに手形が入っているのも頷けるのである。そして手形も含めてマルクスが〈純粋に架空なもの〉と述べているのは(それ以外のものが純粋に架空なものであるのは何も問題にはならないのであるが)、【24】パラグラフではこのような割り引きされた〈手形は利子生み証券である〉とも述べていたことを思い出せば、納得行くであろう。手形そものはそれが「真正」であるなら(つまり「空」手形や詐欺のための手形や手形貸付による手形〔融通手形〕等ではないなら)、架空とはいえないが、しかし割引されて銀行が保有する手形は、銀行にとっては「利子生み証券」であり、またそうした利子生み証券として売買の対象になる限りでは「架空なもの」なのである。また手形も有価証券であるかぎり、マルクスがここで述べている〈けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもまた間違いない事実であろう。

 以前にも指摘したことがあるが、銀行が割り引いて保有する手形が、架空なものであるということは、再生産の観点から考えると明瞭に理解できる。ここに資本家Aがおり、彼が生産した商品を信用で資本家Bに販売し、Bが発行した約束手形を持っているとしよう。この場合の手形は決して架空なものではない。というのはこの手形は資本家Aが生産した商品の価値の有価証券の形態における実現形態だからである(それは期日が来れば確実に金貨幣に転換されうる)。しかしAがその手形を銀行に割り引いて貰い、その代わりに銀行券を入手したとすると、その結果、銀行が保有することとなった手形は、すでに架空なものでしかないのである。というのは、銀行はただ銀行の信用だけで発行した銀行券の代わりに手形を持っているわけだからである。また資本家Aは自らの商品の価値の実現形態をすでに銀行券という形で先取りしたわけだからである。しかしもちろん銀行のAに対する貸付は残っている。Aはその銀行券で彼に必要な商品資本を購入して生産を開始することができる。だからこの時点で、もはや銀行が保有する手形は、すでにそうした現実の商品価値の実現形態ではなくなっているのである。だからこうした割引手形は〈純粋に架空なもの〉ということができるのである。手形の満期が来て、Bから金または銀行券が銀行に支払われたとしてもそれは銀行のAへの貸付が返済されたに過ぎない。

   (3)〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 まずこの文章で注意深く読まなければならないのは、〈これらの紙券が表わしている資本の貨幣価値〉と〈これらの紙券が表わしている現実の資本の価値〉とは異なるものであるということである。前者は紙券が表す額面ではなく、それが資本価値として売買される場合の市場価値を意味しているのである。それに対して後者は額面を意味している。そしてマルクスはこれらの〈資本の貨幣価値〉が〈まったく架空なものであ〉ると述べているわけである。
 この文章を注意深く分析すると、次のような構成が見えてくる。まず〈銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値〉が主語になって、それらは〈まったく架空なものであ〉ると結論づけられている。そして〈これらの紙券〉として、具体的には、一つは〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉と、もう一つは〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉が例として上げられていて、そうしたものの場合にも、やはり〈まったく架空なものであ〉ると言明されているわけである。
 そしてそれに続く一連の文章は、それらが〈まったく架空なものであ〉ることのさらなる説明であると考えられる。ただその説明の順序が今度は逆になっているのである。
   つまり最初の〈それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ〉というのは、もう一つの例として示された〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉について述べているのである。つまり株式の市場価値は、株式が表している現実の資本の価値から離れて調整されるという事実を指摘しているわけである。あるいは同じことであるが株式が売買される価格はその額面にある貨幣額とは離れて調整されるということである。
   それに対してその次に述べていること、〈あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ〉というのは、実は〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの紙券〉の具体例として最初に述べられていた〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉が〈まったく架空なものであ〉ることの説明なのである。つまり国債のような〈収益請求権(そして資本ではない〉のようなものは、同一の収益(例えば額面100万円に確定利息として5%がついているなら、毎年5万円の収益が約束されている)に対して、その時々の市場利子率の変動に応じて、その5万円の収益が〈たえず変動する架空な貨幣資本で表現される〉わけである。例えば市場利子率が1%なら、5万円は500万円の想像された利子生み資本の1%の利子とみなされ(資本還元され)、よって額面100万円の国債は500万円の資本価値(資本の貨幣価値)をもつことになるというわけである。

   (4)〈そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 さらに銀行業者資本の大部分は、公衆が銀行業者のもとに預託しているものだということがつけ加わるわけである。つまりそれだけ銀行業者の資本というのは、架空なものであるばかりでなく、それ自体がほとんど他人のもので営業しているような性格のものなのだということである。

   大谷氏はこのパラグラフの解説を大谷本第2巻のなかで行っている。その際、このパラグラフを引用しているのであるが、一部の原文を示している。それは訳注195)に関連したものである。もう一度紹介しておくと、次のようなものである。

  〈195)〔E〕「である(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。」→ 「であって,債権(手形),国債証券(過去の資本を表わしているもの),および株式(将来の収益にたいする支払指図)から成っている。」
   なお,この部分に見られる括弧を,MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。--「である(すなわち債権)(手形と公的有価証券),また,株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)」〉

   このようにここでは〈MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。〉と書いているが、第2巻ではその原文を次のように紹介しているのである。

  〈(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。(D.größte Theil d.Banker's Capitals ist daher rein fiktiv(nämlich Schuldforderungen)(Wechsel u.public securities)u.Aktien,(Eigenthumstitel,Anweisungen auf künfligen Ertrag.)〕〉 (大谷本第2巻69頁)

   これ自体は大谷氏の訂正が入ったものであるが参考のために紹介しておく。
   次はこの部分の大谷氏の解説であるが、次のように述べている。

  〈まず銀行の準備ファンドの一部分は「自己価値ではない,金にたいするたんなる指図」すなわち(他行の)銀行券から成っていることが述べられ,次に,そうだとすると,「銀行業者の資本」は--ごくわずかの地金準備を除いた--大部分は,銀行券(他の銀行業者への債権),手形--これも「自己価値」ではない--,公債,株式,から成っているのだから,「純粋に架空なもの」だということになる,ということが述べられている。ここで「純粋に架空なもの」と言われているものが,上述の「いわゆる利子生み証券」ばかりでなく,手形や,さらに銀行券までも含めたものであることは明らかであろう。すなわちここでは,およそ「自己価値でないたんなる指図証券」を,自己価値でないがゆえに「純粋に架空なもの」としているのである。これは,さきの「いわゆる利子生み証券」について言われていた「架空資本」とは異なる視点からの架空性である。このパラグラフの末尾で,「この架空な銀行業者資本の大部分は,銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている」と言っている場合の「架空な銀行業者資本」というのは,自己価値である地金を除いて,銀行業者の手もとにあるすべての銀行券,手形,有価証券をさしているのである。〉 (70頁、太字は大谷氏による傍点部分)

   ここで大谷氏はマルクスが〈自己価値ではない,金にたいするたんなる指図〉と述べているものを〈すなわち(他行の)銀行券〉としているが、果たしてこれはマルクスの一文の正しい解読といえるであろうか。マルクスの一文を忠実に読めば、それは次のようになっている。
   ①まず銀行の準備ファンドは、発達している資本主義諸国では、平均的には、蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現している。
   ②そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は、それ自身また紙券(ここでPapierというドイツ語が書かれているが、このドイツ語は単に「紙」という意味もある)からなっている。
   ③そしてこの紙券を説明して、〈つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉とし、そうしたものからなっているとしているのである。
   つまりここで紙券というのは、後に出てくるもの債権(手形と公的有価証券)および株式などを総称したものであることが分かるのであって、決して大谷氏がいうような他行の銀行券を意味しているわけではない。
   ④そしてマルクスは銀行の準備ファンドの一部分は、こうした紙券からなっているから、〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉と述べているのである。
   ⑤そのあとの(   )のなかで述べていることは、だから紙券、つまり金にたいする単なる支払指図であるものの具体的な説明である。すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式である。ここで手形は割引されて銀行が保有するものであり、だからそれは利子生み証券の一つとなっているものである。公的有価証券はいうまでもなく国債や政府証券(大蔵省など政府機関の短期の債務証書)や地方債などを指している。そして株式である。これらを総称してマルクスは紙券と述べているのである。
   ⑥だからこそ、それに続けてマルクスは〈銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている,資本の貨幣価値は,その紙券が……〉云々と書いているのである。
   ⑦そしてそのあとに続く一文も先の括弧内で具体的に述べていたものが説明されている。すなわち〈その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか〉というのは、公的有価証券を指し、〈または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)である〉というのもいうまでもなく株式を指している。
   ⑧それらも〈まったく架空なもの〉だと述べ、そしてその理由を次のように述べている。〈それはこれらの紙券が表わしている現実の資本〔d.wirkliche Capital〕の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本Geldcapital〕で表現されるのだ〉と述べている。ここで〈現実の資本〔d.wirkliche Capital〕の価値からは離れて調整される〉と述べているのは株式を前提して述べているのであり、〈これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本Geldcapital〕で表現される〉と述べているのは、公的有価証券、つまり国債等について述べているのである。
   ここでマルクスが〈紙券が表わしている現実の資本〔d.wirkliche Capital〉と述べている〈現実の資本〔d.wirkliche Capital〉というのは、【9】パラグラフでマルクスが〈現実の構成部分〉と述べていたものと同じであることを確認する必要がある。つまりここでもマルクスは現実の構成部分としてのこれらの有価証券とそれらの〈紙券が表している資本の貨幣価値〉とを対比して論じているのである。特に後者の〈表している〉に下線が引かれ強調されていることに注意する必要がある。つまりこうした有価証券がその額面で表しているもの(それが「現実の資本」である)とは違って、帳簿上で表している貨幣価値が問題にされているのであり、そうしたものは架空なものだとマルクスは述べているのである。この点、かなり厳密な考証が要求される一文である。
   ⑨だからマルクスがここで述べているのは、割り引かれた手形、公的有価証券、株式の三つだけであって、他行の銀行券などは含まれていないということである。そしてそう考えればこれらは先にマルクスが利子生み証券と述べていたものと同じであり、だからそれらの場合の架空資本の規定と何か違った観点からそれらを述べているなどという大谷氏の主張はまったく的外れとしか言いようがないものである。
   ⑩さらにそれに続けて述べていることはこうした〈架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではな〉いということである。というのはそれらの大部分は、公衆が銀行に預託したものによって運用されたものだからである。しかしこのことは架空資本である根拠としてマルクスが述べているわけではないことにも注意が必要であろう。銀行は総じて人の金で商売をする業者なのである。
  いずれにしても、大谷氏の解読はとんちんかんなものといわざるを得ない。

  (【28】パラグラフの解読の途中であるが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

 

2022年6月23日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-9)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-9)



【22】

 〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉 (176頁)

  まず平易な書き下し文である。

  〈株式や国債などのこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのです。もちろん、国債は租税に対する請求権ですが、しかし租税もまた生産された剰余価値に源泉がありますから、やはり「蓄積された,生産にたいする請求権」といえるのです。だから,これらの請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,株式などの場合も、それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制されるのです。〉

  【ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、証券市場で売買されている国債や株式を指していることは明らかである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎない〉と述べている。大谷氏の旧稿の翻訳では〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉となっていたが、現行本では上記のように修正されている。しかしこの修正は、要するに請求権は生産に対してであって、それが蓄積されているのだということをより明瞭にするためであろう。
   ここで、これまで国債と株式とが何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけである。だから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【11】)というものであった。
   マルクスは後にも紹介するが、『資本論』第2巻で〈(2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。〉(全集第24巻427頁)と述べている。
 株式は、アソーシエイトした資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しない。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【18】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分として実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは「実際には、「蓄積された、生産に対する請求権」に過ぎない」のだと説明されているわけである。しがし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「蓄積された、生産に対する請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、「蓄積された、生産にたいする請求権」が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか?。
 そもそも「蓄積された、生産に対する請求権」とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、「生産にたいする請求権」なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、「蓄積された、生産にたいする請求権」だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで「生産にたいする請求権」と述べているのは、「生産され実現された剰余価値にたいする請求権」と考えることができるかも知れない。第2巻の表記では〈国民の年間生産物にたいする単なる請求権〉となっている。
   そもそも「生産にたいする請求権」というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産にたいする請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程にたいする請求権かさえも分からない(第2巻では「年間生産物にたいする請求権」となっている)。そもそも〈「請求権」にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況しだいによるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本的権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように「生産にたいする請求権」というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「蓄積された、生産にたいする請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断することはできない。】


【23】

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉 (176-177頁)

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で、すなわち国債や株式等の利子生み証券として存在しています。そして,一般に貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのです。〉

  【〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券、あるいは利子生み証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本の蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉と述べている。
  後にマルクスは「III)」において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(大谷本第3巻411頁)として〈第1に,本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているが、ここで〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、「生産にたいする請求権」の蓄積、あるいは〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉だというのである(ただし、実際にはマルクスは問題を絞って、「III)」ではそうした〈貨幣資本の蓄積〉から、「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」だけを問題にしているのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでも述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている有価証券の市場価格(資本価値)の蓄積のことを指しているのであろう。
   ところでこの【22】・【23】パラグラフでは架空資本としての有価証券の説明の纏めになっているように思える(ただし、この纏めの一部は【24】パラグラフの最初の部分まで含まれる)。【17】~【21】パラグラフは架空資本の独自の自立的な運動が論じられていたが、【22】・【23】パラグラフはそうした利子生み証券の架空資本としての説明のまとめと考えられる。つまりこれでマルクスが【9】パラグラフで〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉と述べていたうちの〈有価証券〉の考察は終わったわけである。そして【24】パラグラフからは今度は〈手形〉の説明に入り、【26】パラグラフから〈貨幣〉すなわち〈現金(金または銀行券)〉の説明に入っていくことになる。】


【24】

 さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。181)〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間について利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/

  ①〔異文〕次の書きかけが消されている。--「手形は,それの名目価値とそれの市場価値との区別がないという点で,上で見た有価証券とは区別される。だから手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」
  ②〔異文〕「そのときどきの利子率」← 「利子基準〔Zinsmaaß〕」

  181)「〔銀行業者資本の〕最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es...dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。〉 (177頁)

  〈ところで,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分は、これまで述べてきた有価証券、すなわちいわゆる利子生み証券に投下されています。こうした証券そのものは,現実の銀行業者業務、すなわち利子生み資本の再生産資本家たちへの貸付業務としては機能していない準備資本の一部分をなしています。彼らは必要ならすぐにそれらを売って貨幣に換え、それを利子生み資本として貸し付けることが可能なのです。
   銀行業者資本の最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っています。貨幣の貸し手〔moneylender〕、すなわち銀行業者たちにとっては,彼らの私的な立場から見ると、この手形は利子生み証券になります。なぜなら彼は,それを買うとき(割引するとき)に満期までの残存期間について利子分を差し引いて、貸し付ける貨幣額を決めるからです。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのです。そして銀行業者は満期が来れば、その額面どおりの支払いを受けます。だからその手形は銀行業者にとっては先取りされた利子を生んだことになるのです。〉

  【ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉というのは、われわれが【9】パラグラフに関連して考察したものの分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

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  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【9】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう。

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられるのかも知れない。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を指しているのが〈銀行資本〔Bankcapital〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉ということができるであろう。」

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉も同じような意味として捉えるべきであろう。ただしここで問題になっている手形は、銀行業者の資本が利子生み資本として貸し出された結果、銀行業者が保持しているものであり、これから営業するために保持しているものとは異なることに注意が必要である。手形は〈現実の銀行業者業務で…機能し〉ているものの結果であり、それに対して〈いわゆる利子生み証券〉は〈現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態に変換でき、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注181)を付けて、次のように説明している。

 〈181)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。〉 (177頁)

   しかし旧稿ではこれに次のような一文が続いていた。〈したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。〉(「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について」(『経済志林』第63巻第1号、33頁)

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 〈「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.)〉 (ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 銀行業者資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章該当部分では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行業者が事業家などが持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、それもあくまでも利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、MEGAの①は次のように説明している。

 〈① 〔異文〕次の書きかけが消されている。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で見た有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で見た有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。これはこの限りでは【9】パラグラフで、マルクスが〈有価証券〉を〈商業的有価証券(手形〉と〈その他の有価証券〉とに分け、後者は〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別される〉と述べていたことに合致する。ここではその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思える。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、すでに【9】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

  《だから貨幣が自己資本としてあるのか、それとも預金されたものとしてあるのか、あるいは手形が割り引かれて手元にあるものなのか、それとも担保としてあるものなのか、そんなことは実物の手形には関係がないとも述べている。これはある意味では非常に重要なことであって、われわれがマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として述べているものを理解する鍵を与えてくれている。というのは銀行が保有する手形はそれが例えば割引された手形であれば、すでに利子を先取りしたものだとはいえ銀行にとっては利子生み証券である。しかしマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として見ている手形はそうした利子生み証券とは本質的に区別されるものだと述べている。つまり〈実物的な〔real〕構成部分〉というのは、それらをそれ自体として捉えられたものであることを示しているのである。だから有価証券の類もそれが銀行にとって債権か負債かには関係なく、とにかく銀行業者の資本のなかにあるものの、現実の構成部分としての存在を見ているということである。だから株式なども、証券市場で売買されているような株式ではなく、株式そのものを問題にしているということである。》
  《次に〈手形〉は、これは手形割引で利子生み資本を運用した結果として銀行が所持しているものであり、だからもしそうならそれを〈預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産〉ということはできない。そればかりかマルクスが〈実物的なreal構成部分〉と述べている手形、すなわち〈商業的有価証券(手形〉は、そうした割り引かれた手形を意味しているのですらないということはすでに指摘した。というのはマルクスはそれと〈その他の有価証券〉とを区別して、後者を〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの〉と述べているからである。後にマルクスは割り引かれた手形を〈利子生み証券〉としているが(【24】パラグラフ)、だからここで〈実物的なreal構成部分〉と述べている〈商業的有価証券(手形〉はそうしたものではなく、そもそもマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは、それらを銀行業者がどういう名目で所持しているのかには関わらないものとして、それ自体として捉えたものであることを示しているのである。》
 《ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【24】参照)。しかしこの点についてはすでに述べた。》

 だからわれわれはこの問題については、基本的には回答は出しているのである。【18】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文については、次のように説明した。

 《株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式がアソーシエイトした資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されても、しかし客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。
  〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に投下された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが投下した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。》

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【9】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の運用対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、割り引かれた手形は、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

  ところで大谷氏はこの部分について次のように論じている。

  〈ここでは手形が「利子生み証券」とされているが,この「利子生み証券」という概念は広い意味で使われているのであって,さきの「いわゆる利子生み証券」とは区別されなければならない。手形がさきに見たような意味での架空資本でないこと,その価値はけっして「純粋に幻想的なもの」でないことはいうまでもないことである(また,銀行資本の成分としての手形を論じているここでは,融通手形のようなものだけが問題になっているのでもないことも明らかである)。〉 (太字は大谷氏による傍点による強調箇所、大谷本第2巻68-69頁)

   しかしこれは大谷氏が国債や株式そのものとそれらの架空資本としての存在とを区別していないことからくる間違いである。架空資本というのは、国債や株式がもたらす定期的貨幣利得を資本還元して計算された資本価値について言いうることであって、国債や株式そのものが架空資本であるわけではないのである。マルクスは、国債や株式について説明しているものと、それらが証券市場で売買されるときの資本価値とを区別して論じており、後者をマルクスは架空資本と述べていたのである。
   確かに銀行業者が手形割引で貸し付けた結果、保持している手形をその他の有価証券と同じ意味で架空資本とは言えないというのはその通りである。しかしそれは銀行が貸付可能な貨幣資本を当面は運用先がないので、国債や株式に投じた結果保持している国債や株式そのものについてもやはり利子生み証券とは言えるが、それが必ずしも架空資本とは言えないのと同じことである。ただ証券市場で売買されている国債や株式を銀行業者が購入したのであれば、それらは架空の資本価値にもとづいて購入したのであり、その限りではそれらは架空資本というるであろう。また手形もそれを貨幣市場で購入したものなら、やはり架空資本と言いうるのである。当時のイギリスでは手形の売買を業務にする手形ブローカーが存在していたのであり、こうした売買される手形はそのかぎりでは架空資本と言いうるからである。また割り引かれた手形を架空資本といいうるのは、再生産の観点に立てば分かるのであるが、それは後に説明することにする。
   というわけで大谷氏のように「利子生み証券」には〈広い意味〉とそうでないものとがあるかにいうのは決して正しいとは言えないのではないだろうか。

   小林氏は、以前、《(われわれのパラグラフ番号では【10】~【23】)についてはまったく問題にせず、〈次いでマルクスは,「資産」項目の中の「利子生み証券」--債券や株式等--に転化された貨幣貸付資本が,いかに「幻想的:架空な資本(illusorisch;fictives Capital)3)」--「擬制資本」--であるかを検討4)し,〉(409頁)というたった数行だけでこの部分(つまり大谷本で164~176頁分)の解説を終えたつもりになっている》と紹介したが(【9】パラグラフ)、ここで引用した一文をもう一度その区切りまで紹介すると次のよう述べているものである。

  〈次いでマルクスは,「資産」項目の中の「利子生み証券」--債券や株式等--に転化された貨幣貸付資本が,いかに「幻想的:架空な資本(illusorisch:fictives Capital)3)」--「擬制資本」--であるかを検討4)し,その上で「銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割を次のように説明する。即ち,
 ①「銀行業者の資本の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投資されている。この部分自体は現実の銀行業者の業務(Bankergeschäft)では機能しない5)準備資本(Reservecapital)の一部である。」
 ②銀行業者の資本の「最大の部分は手形,即ち生産的[産業]資本家あるいは商人の支払約束書から成り立っている6)。〈手形は,その名目価値とその市場価値とが区別されないということで,先に考察された有価証券(securities)[国債や株式等]から区別される。手形は,それが満期になると直ちに,それが振出された[割引かれた]貨幣額よりも大きな貨幣額に転化する。〉貨幣貸付業者(moneylender)にとっては,これらの手形は利子生み証券である。即ち,彼がそれらを買うとき,彼はそれらがなお通用しなければならない期間について利子を差し引く*。だから手形が表示する金額からどれだけが差し引かれるかは,その時々の利子歩合に依存する7),8)。」
  ③「最後に,銀行業者の『資本』の最後の部分は,彼の貨幣準備(Geldreserve)(金または銀行券)から成り立っている」,と。そしてマルクスは,それが預金の支払準備金9)であることを次のように説明する。即ち「預金は〔契約で長期に固定されていない場合には〕つねに預金者の自由になる10)。それはたえず変動する11)。しかし,ある人によって引出されるときには,別の人によって補充されるので,〈事業が正常に経過しているときには〉[預金の]『一般的平均は大きくは変動しない』12)」,と。〉 (小林本409-410頁)

   ここで①と②は今回の【24】パラグラフを二つにわけたものである。最後の③は、われわれのパラグラフ番号では【26】に該当するものである。小林氏自身はこれらの内容については何も論じていない。だから検討しようもないのであるが、ただ同氏はこれらを〈銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割を次のように説明する〉と述べている。またこの引用のあと〈ところでこのように銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した後,次にマルクスはこれら「銀行業者の資本」の「架空性」を次のように,3点にわたって指摘していく。〉(小林本410頁)とも述べている。
   つまり小林氏によれば、【24】パラグラフと【26】パラグラフは、〈銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割〉について述べたものであり、〈銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した〉ものだというのである。
   確かに【24】と【26】パラグラフは、【9】パラグラフで論じていた〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--〉のうち、まず〈有価証券〉については【10】パラグラフから国債と株式を例に説明して、そのなかで架空資本の概念とその特有の運動を明らかにしたのに対して、【24】パラグラフでは〈手形〉を、【26】パラグラフでは〈貨幣〉を論じているものである。そしてそれらの現実の構成部分が、銀行業者の私的な立場からはどのような意味と役割を持っているのかをマルクスは明らかにしているといえる。この限りでは小林氏の説明は妥当といえる。
   しかし小林氏は〈銀行業者の資本の実在的諸成分〉を〈銀行業者の「資産」の諸成分〉と言い換えている。小林氏にとってはこれは同じことを意味するのである。なぜなら、同氏はマルクスは貸借対照表を前提に論じていると独断しているからであり、だからマルクスが〈銀行業者の資本の実在的諸成分〉と述べているものは、銀行の貸借対照表の〈「資産」の諸成分〉のことだという理解だからである。
   しかしこれはすでに指摘したが、マルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは、ブルジョア的な帳簿にそれがどのように表記されるかには関わらない、それ自体としてそれらを問題にしたものなのである。だから同氏の上記の指摘はその限りでは間違っているのである。】


【25】

 |338下|〔原注〕a) 手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン,1802年,186)26ページ。〔渡邊佐平・杉本俊郎訳『ソーントン・紙幣信用論』,實業之日本社,1948年,52ページ〕。)〔原注a)終わり〕)/

  ①〔異文〕手稿338ページの下半部に書かれたこの原注,および,それに続く,次のパラグラフへの原注b)の全体に,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕

  186)「26ページ」--草稿では,「25,26ページ」となっている。〉 (177-178頁)

  【これは〈この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間について利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)〉という本文に付けられた原注である。ソーントンの著書からの引用文がほとんどなので、平易な書き下し文は省略する。
   小林氏は注のなかで、この部分を紹介しているが、大谷訳と若干違っている部分があるので、紹介しておこう。

  〈8)手稿では,ここに「注a)」が付され,H.Thornton,An Inquiry into the Nature and Effects of the Paper Credit of Great Britain.Lond.1802,p.26から,次の引用がなされている。「手形は『割引可能な商品(discountable articles)』,即ち,いつでも貨幣に換金する(converting)機会のある商品--手形または銀行券の額から,手形が流通するはずの期間の,手形に対する利子に等しい割引ないし差引きが,換金価格(the price of conversion)として支払われるのであるが--となる」,と。〉 (小林本412-413頁)

   またこのソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。マルクスの引用箇所は【  】で括った)。

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、【割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)】としての性質を持っていることを述べねばならない。【この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。】ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)】

  (続く。)

2022年6月16日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-8)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-8)



【19】

 (1)国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5%ではなく10%をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5%で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5%から10%に上がれば,144)5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5%から2[1/2]%に下がれば,146)5%の収益をもたらす有価証券は100〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に148)値上がりする。149)というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。/(5)貨幣市場の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。162)

  ①〔異文〕「請求権」Anspruch←Forderung
  ②〔異文〕「同時に〔……〕においては」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「その企業が」← 「この株式が〔sie〕2倍のものを」

  144)「5%」--「5ポンド・スターリング」の誤記であろう。
  146)「5%」--「5ポンド・スターリング」の誤記であろう。
  148)「値上がりする」--草稿では「stellt」となっているが,MEGAのテキストでは「steigt」と訂正されている。この訂正は訂正目録に記載されていない。
  149)「というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。」--草稿では書き加えられている。
  162)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。--「2月革命の直後に,パリでは商品も有価証券も極度に減価してまったく売れなくなっていたとき,リヴァプールにいたスイス商人R.ツヴィルヘンバルト氏(この人がこの話を私の父に語ったのだが)は,できるだけのものを貨幣に換え,現金を持ってパリに行き,ロートシルトを訪ねて,共同事業をしようと提案した。ロートシルトはじっと彼を見守っていたが,急に近寄って彼の両肩に手をかけて言った,「金はおもちですかな?」--「はい,男爵閣下。」--「ではいっしょにやりましょう!」--そして彼らは二人とも,すばらしい商売をしたのである。--F.エンゲルス」〉 (172-175頁)

 【このパラグラフは全体が長いので、その内容に則して全体を五つにわけ、本文の各部分の間に「/」を挿入した。以下、それぞれの部分ごとに再度、本文を紹介し、平易な書き下し文も、各部分ごとに行うこにする。

 まず(1)の部分である。

 (1)〈国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。〉

  まずこの部分の平易な書き下し文を書いておく。

  〈国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観をもたらします。つまり、これらの所有権原は商品になるのです。そしてそれらの価格は独特な運動を行い、独特の決まり方をします。〉

 すでに述べたように、マルクスは架空資本の自立的な運動を考察しようとしているのであるが、まずその書き出しを〈国債証券であろうと株式であろうと〉と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかであろう。次にマルクスが問題にするのは、国債や株式そのものではなく、それらの〈所有権原価値〉であるということである。国債も株式も年々一定額の貨幣利得をもたらす。一方は国債の「利息」と観念され、他方は配当、つまり実現された剰余価値である。つまり国債も株式も、一方は「租税」にたいする、他方は「剰余価値」にたいする、所有権原なのである。しかし今問題なのは、単なる〈所有権原〉ではなく、〈所有権原価値〉である。これは何かというと、国債や株式がもたらす規則的な貨幣利得は「利子」とみなされることから、その「利子」を生み出す資本=利子生み資本が想像され、そうした一定の資本価値の所有権を保持しているから利子がもたらされると想像されているわけだ。だから〈所有権原価値〉とは、その所有しているとされる想像された利子生み資本の価値のことである。だからここでマルクスが〈所有権原価値〉を問題にしているということは、すでに「利子-資本」の転倒にもとづく架空資本としての資本価値を問題しているということなのである。
 そうした〈所有権原価値〉すなわち架空資本としての資本価値は、〈自立的な運動〉を行なうと考えている。そしてその自立的な運動が〈それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉という部分の、〈それらを権原たらしめている〉というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面貨幣額が記されており、その額面額が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間貨幣額を租税から請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも〈現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として〈それらの価格は独特な運動および決まり方をする〉のだという。ここで〈現実の資本を形成しているかのような外観〉というわけだから、それらは決して〈現実の資本を形成して〉いないのに、〈形成しているかのような外観〉、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は普通の商品の売買という意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。
   これはエンゲルス版の第21章以降において利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を証券市場で購入する貨幣資本家は彼の私的な立場からは、彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから架空資本としての株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し付けと返済とが商品としての貨幣の売買という外観を得たのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の私的な立場からは利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 (2)〈それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。〉

  〈そうした商品としての外観を得る所有権限の市場価値は,現実の資本の価値、つまり国債の場合は実際に国家に貸し付けられた貨幣額や株式の場合はそれに投下された(払い込まれた)貨幣額が変わらなくても(といっても株式の場合、その投下された資本が価値増殖して得られる剰余価値が変化し、それに応じて配当率も変わるかもしれませんが),それらの名目価値、つまり国債や株式の額面が示している価値とは違った規定が与えられます。〉

 ここには〈市場価値〉と〈名目価値〉という用語が使われている。ここで〈市場価値〉をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは『資本論』第3部第10章で「市場価値」について次のように述べていた。

 〈これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。〉 (全集25a225頁)

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の諸商品の価値を平均した価値という意味である。しかしマルクスは同時に〈最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって〉(同)とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここでわれわれにとって重要なのは、〈市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである〉(同)というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている〈市場価値〉は〈市場価格〉の中心をなすものという意味での〈市場価値〉と考えることができる。
   つまり国債や株式が実際に売買される価格(=市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、〈市場価値〉というのは、そうした日々変動する〈市場価格〉を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。「市場価値」はこれまでマルクスが述べてきた「資本価値」と基本的には同じものと考えられる。だからそれらの〈市場価値〉も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心に需給によって日々変動する市場価格でそれらは証券市場において売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。
 だからここでマルクスが〈市場価値〉と述べているのは、マルクスがこれまで述べてきた資本価値、すなわち架空資本のことであり、〈名目価値〉と述べているのは、国債や株式の額面が表す(代表する)価値のことである。
   だから国債や株式の架空資本としての資本価値は、それらの名目価値、すなわちそれらの券面に書かれている価値額とは違った規定が与えられるということである。

 (3)〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5%ではなく10%をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5%で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。〉

  〈一方では,こうした架空資本の市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動します。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,その企業の配当が最初の5%(年5ポンド・スターリングの配当)ではなく10%(年10ポンド・スターリングの配当)をもたらすようになりますと,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がります。つまり2倍になるのです。というのは,市場利子率が5%で変わらないとすると、10ポンド・スターリングを5%で資本還元しますと,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本の利子を表わすことなるからです。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から市場利子率の5%(10ポンド・スターリング)を受け取ります。企業の収益が減少して配当率が下がるときには逆になります。こうした架空資本の市場価値は,ある部分は投機的です。というのは,こうした架空資本の市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているからです。〉

 ここでは最初は〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉というように、〈それらの〉とか〈これらの〉というように、国債と株式をともに想定して論じているが、〈たとえば〉以下は株式を例に上げて論じている。国債の場合は確定利息で、それが償還を迎えるまでに途中で変化するということはない。もっとも変動利息の国債もないことはないらしいが、今はそれは論外としよう。だからマルクスは、架空資本の市場価値が〈これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉例としては株式を挙げて論じているわけである。
   ここで〈株式の名目価値〉というのは、株式の額面が表す貨幣額である。それは〈当初この株式によって表わされる払込金額〉のことであり、それが今は〈100ポンド・スターリング〉とされている。そして〈その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば〉というのは、配当率が5%ではなく10%に上がるいうことである。だから最初の配当は年5ポンド・スターリングだったのが、配当率が上がったことで年10ポンド・スターリングになったということである。
   そうすると〈この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる〉というのは、この場合、市場利子率(平均利子率)が5%と変わらないと前提されており(市場利子率が変化するケースは後に検討される)、だから額面100ポンドの株式は配当率10%に上がったので、年10ポンド・スターリングをもたらすから、その10ポンド・スターリングを平均利子率の5%で資本還元すれば、10÷0.05=200ポンドになるわけである。だから〈今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしている〉ことになる。つまり10ポンド・スターリングは架空の200ポンド・スターリングの利子生み資本の利子とみなされるわけである。
   だから〈この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る〉。つまりこの市場価値が200ポンド・スターリングに上がった株式を買う人は彼の私的な立場からは彼の貨幣200ポンド・スターリングを利子生み資本として貸し付けて、その価格(利子)として、その5%、つまり10ポンド・スターリングを受け取るわけである。それは彼がその200ポンド・スターリングを機能資本家に貸し付けて5%の利子を得るのと基本的には同じなのである。彼の200ポンド・スターリングは彼の私的な立場からは利子生み資本であるが、しかし客観的にはそうではない。それは現実資本に投資されたのであって、そこから得られる剰余価値の一部を取得する権利を彼に与えるが、利子生み資本のように返還されることはない。しかし彼がその株式を再び販売した時点で、彼の私的な立場からは、彼が株式に投じた貨幣は利子生み資本に転換され、その返済を受けることになるわけである。
 しかし証券市場で購入した株式の場合は、〈企業の収益が減少するときには逆になる〉。つまり配当率が10%ではなく、5%になる場合、200ポンド・スターリングで株式を購入した人は、彼が前貸した200ポンド・スターリングに対して、たった5ポンド・スターリング、すなわち平均利子率の半分(2.5%)しか得られないことになる。そして同じことであるが、彼の手にした株式の市場価値は、いまでは半分の100ポンド・スターリングになってしまうであろう。そして彼が手にする5ポンド・スターリングはこの100ポンド・スターリングの5%の利子になるわけである。
 だから〈この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである〉。つまり今は配当率10%で200ポンド・スターリングの市場価値を示しているが、しかし将来的には配当率が15%になると〈前もって計算されうる〉なら、その市場価値は200ポンド・スターリングではなく、15÷0.05=300ポンド・スターリングになるわけというわけである。だから彼は200ポンド・スターリングの株式を買って、それが300ポンド・スターリングになった時点で売り抜ければ、100ポンド・スターリングを居ながらにして濡手に粟で手に入れることになる。

 ところでマルクスは、最初に〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉と述べていたが、この株式の例では、〈取得される収益の高さ……につれて変動する〉ことは分かったが、〈確実性〉というのは、いま一つはっきりしなかった。確かに株式の場合も〈予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されている〉というのは、その〈収益の……確実性〉によって規定されていると考えることもできる。しかし収益の確実性ということでわれわれがすぐに思い浮かべるのは、いわゆる「リスク」という言葉である。株式の場合もその株式会社がどの程度の安定した収益をあげるかどうかは、一つのリスクと考えてもよいが、リスクとしてわれが思い浮かべるのは、サブプライムローンの証券化である。サブプライムローンの証券化の過程は、いろいろに説明されているが、次のような図がある。

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    (図をクリックすると鮮明な図がえられます)

   この図でシニア、メザニン、エクイティというのは、サブプライムローンを証券化したものをそれぞれのリスクによって階層化して区別したものである。「AAA格」というのはもっと安全なものと格付会社によって格付けされたものであり、だからリスクの低い証券であることを示している。だからリスクの低い証券の場合は当然、その確定利息は低いのである。それに対してエクイティはもっともリスクの高いものであり、だから確定利率も最も高いというわけである。だから一般にサブプライム・ローンというのは、低所得階層など信用度の低い階層を相手にしたローンであるから、リスクの高いローンであり、だから高い利回りで貸し付けられる。ところがそれが証券化される過程で、そのローン債券がプールされて全体のリスクを沈殿させ、そのリスクの高低によって階層分けされ(それをトランシェという)全体としては高いリスクで分散しているものを、そのリスクのほとんどをエクイティやあるいはその一部をメザニンに集め(沈殿させ)、その代わりにシニアの部分(上澄み部分)を、安全な証券(リスクの低い証券)として販売しよう(だから低い利回りで利子生み資本をかき集めよう)とするものなのである。これがいわゆる「金融工学」などと言われる詐欺的理論のカラクリなのである。
 もう少し具体的な数値を入れて考えてみよう。まずサブプライムローンの利息を10%として、そのプールされた貸し付け総額が100億円だとしよう。そうすると年々の利子所得が10億円入ることになる。この10億円のキャッシュフローをもとに証券化されると考えるわけである。いま平均利子率が2%とすると、これらの市場価値の総額は500億円である。だからもしそれをSPV(特別目的媒体、あるいは特別目的事業体とも訳される)が細分して証券化し,しかしその証券の総額を500億円なる価格で販売したなら、SPVは何と400億円という貸し付け金額の4倍もの利益を得ることになる。しかしもちろん、こんなことはできない。というのは、サブプライムローンが10%と高利率なのは、それはリスクが高いからであり、それが証券化されたからといってリスクが低くなるわけではないからである。だから平均利子率で販売できないわけである。しかしここに金融工学が登場するわけである。つまりプールされた債権全体に分散している高いリスクを、沈殿槽で沈殿させる汚泥のように、リスクをそのプールのなかで沈殿させると、その上澄部分がリスクをほとんど含まない安全な証券として販売できるというわけである。つまり低い利率で販売できる(低い利率で利子生み資本を借り受けることができる)。例えば、5%の確定利息で販売するなら、トリプルAでしかも5%の利率なら、日本の年金機構などは喜んでそれを買うわけである。日本の国債を買うよりも利息が高いから運用利回りが高く、しかも安全であるからである。こうした結果、SVPは、低い利息で借りた貨幣資本を、高い利息で貸し付けてその利ざやを荒稼ぎできることになるわけである。これがサブプライムローンの証券化の最大の目的なのである。
 林氏は証券化は債権の流動化そのものに意義があるかに主張するのであるが、もちろん、そうした流動化の意義を否定する必要はないが、しかしそれだけなら、格付けによって階層化する必要もまたないわけである。        
 
 ところでこうしたリスクによる利回りの高低は、国債についても言いうるのである。もちろん、例えば日本の国債の場合には国内ですべて販売されているから、こうしたことは必ずしも当てはまらないが、世界を見渡すとさまざまな外債が販売されている。一般に新興国の国債ほど高い利回りで販売されているが、それはそれだけリスクが高いからである(リスクが高いから高い利回りでないと売れない)。日本の国債もアメリカの大手格付け会社ムーディーズが、2002年5月に「日本の債務状況を向こう数年間予想した」結果として、ボツワナ以下に引き下げていることは周知のことである。主要国の長期国債の格付けは下図のようになっているらしい。
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   (図をクリックすると鮮明な図がえられます)

  (4)〈しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5%から10%に上がれば,144)5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5%から2[1/2]%に下がれば,146)5%の収益をもたらす有価証券は100〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に148)値上がりする。149)というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。〉

  〈しかし,株式の場合も現実の資本の価値増殖が変わらないと前提しますと,あるいは,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提しますと,これらのつまり株式や国債など有価証券価格は市場の利子率に、つまり利子率の変動に反比例して上がり下がりします。たとえば利子率が5%から10%に上がりますと,配当率や確定利息が5%で年5ポンド・スターリングをもたらす有価証券は,当初は額面が100ポンド・スターリングだったものが、いまやもはや50ポンド・スターリングの資本しか表わしていないことになります。あるいは、利子率が5%から2.5%に下がりますと,5ポンド・スターリングの収益をもたらす有価証券は100ポンド・スターリングから200ポンド・スターリングに値上がりします。というのは,それらの架空資本の価値は,収益が資本還元されたものだからです。すなわちその定期的な収益が幻想的な資本(利子生み資本)にたいする利子として、そのときの利子率で計算されたものなのだからです。〉

 次は株式の場合、価値増殖が不変、つまり配当率が変わらない場合である。あるいは国債の場合には、そもそもそれが代表する資本そのものがないわけだから、その増殖もなく、ただ確定利息として年々租税からの支払額が前もって決まっている場合である。こうした場合、つまり〈年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉。ここで〈有価証券価格〉と言われているのは、その前に〈所有権原価値〉とか〈株式の市場価値〉と言われていたものと同じと考えるべきであって、市場価格のことではないと思われる。
 だから市場の利子率が5%から10%に上がると、配当率が5%で変わらない株式の場合、あるいは確定利息が5%の国債の場合も、額面が100ポンド・スターリングであっても、その市場価値(所有権原の価値)は50ポンド・スターリングになるわけである。なぜなら、年々の貨幣利得は5ポンド・スターリングであるが、平均利子率が10%のために、それで資本還元すると、5÷0.1=50[ポンド・スターリング]だからである。つまり年々5ポンド・スターリングの貨幣利得は、この場合50ポンド・スターリングの想像された利子生み資本の生み出した利子とみなされ、50ポンド・スターリングの利子生み資本の所有権原を持っていると想像されるわけである。
 だからまた市場利子率が5%から2.5%に下がると、100ポンド・スターリングの額面で確定利息や配当率が5%であるなら、それらの有価証券(国債と株式)は、200ポンド・スターリングに値上がりする。というのは、同じように年々5ポンド・スターリングの貨幣利得が2.5%で資本還元されるから、5÷0.025=200だからである。
 だから利子率が上がれば価格は下がり、下がれば上がる。すなわち〈有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉わけである。
 〈というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから〉とマルクスはその理由について述べている。つまり年々5ポンド・スターリングの収益は、200ポンド・スターリングの想像された利子生み資本が、その時の利子率2.5%にもとづいて利子としてもたらしたものと考えられるからだというのである。

  (5)〈貨幣市場の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は,貨幣財産の集積の一手段である。162)

  〈恐慌のように貨幣市場が逼迫している時期には、これらの有価証券の価格は二重に下がります。第1には,利子率が上がるからです。第2には,こうした有価証券を現実の支払いに必要な貨幣に換えるためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからです。
  だからこの下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債の場合のように不変であろうと,あるいは株式のように、それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合がそうであるように、再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことには一切かかわりなく起こるのです。嵐(恐慌)が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎりは,ふたたび以前の高さに上がります。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は,貨幣財産の集積の一手段です。〉

 〈貨幣市場の逼迫の時期〉、つまり恐慌期には、資本の循環が停滞し(再生産過程が攪乱し)、資本家たちが、自分たちが振り出した手形の満期が近づきそれを決済する現金が必要なのに、受け取った手形が支払われないために、現金が不足し、そのためにとりあえず銀行に一時的な貨幣融通を要請したり、手持ちの有価証券を売って現金に変えようとする人たちが多くなる。そうした時期には、有価証券の価格は二重に下落するということである。第一に、誰もが現金を必要とするから銀行に対する貨幣融通の要求が強く、貨幣資本(moneyed Capital)に対する需要が高いために、利子率は上がるからであり、第二に、誰もが有価証券を販売して現金に換えようとするから、有価証券の供給が多いのに、だれもそれを買おうとせず、需要が少ないからである。
 〈この下落〉、つまり逼迫期の有価証券の下落は、この証券が国債のように年々の貨幣利得が確定していて不変であっても、あるいは株式のように現実資本の価値増殖が、再生産過程の攪乱によって影響される恐れがあろうとも、そうしたことに関わりなく起こるとマルクスは指摘している。つまりこうした点でも,つまり逼迫期の価格の下落という点でも、国債と株式とには、架空資本の運動としては、違いはないとマルクスは述べているわけである。こうした叙述を見ても、マルクスが架空資本としては国債も株式も同じものであり、両者に相違はないものとして見ていることが分かるであろう。

 だから架空資本(有価証券)の市場価格は、次のような要因によって決まってくる。
 (1)まずそれらの権原によって取得される収益の高さと確実性によって。株式の場合は、まず配当率の高さによって、債務証書の場合はリスクの高さによって確定利息の高低が決まり、その確定利息によって有価証券の価格も規定される。
 (2)次に配当率や確定利息が決まっていて、変動しないとすれば、有価証券の価格は、市場利子率(平均利子率)の変化に反比例して変動する。
 (3)さらに有価証券の価格は、証券市場におけるそれらの証券の需給によっても、直接的に変動する。
 以上の要因によって実際に証券市場で売買されている有価証券の市場価格は決まってくるわけである。

 そして〈嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる〉。だからこの場合は株式について妥当することであろう(もっとも国債も国家が破産すれば同じであるが)。株式の場合も、企業が倒産する場合だけでなく、投機がもっとも盛んになる狂乱期には1847年恐慌時の鉄道投機のように、まったくイカサマの鉄道敷設計画をでっち上げる等のことが行われたのであり、こうしたものは例え嵐が過ぎ去っても元の価値を取り戻すことはありえないわけである。だから倒産したり、そうした投機にもとづくものでないかぎりは、嵐が去れば、こうした有価証券の価格は本来の高さにもどるわけである。1847年のいかさまの鉄道投機について、少し紹介しておこう。

 〈この投機の最盛期は1845年の夏と秋であった。これらの株式の価格はたえず上がり、投機の利益は国民のほとんどすべての階層を渦中に投げ込んだ。公爵も伯爵も、種々の鉄道線の重役会に席を占めるという収入のある栄誉をえようとして、商人や工揚主たちと張り合った。……1ペニーでも貯えのある者、いささかでも信用を利用しうる者は、鉄道株の投機をした。……イギリスおよび大陸の鉄道組織の現実の拡張と、それと結びついた投機との基礎のうえに、この期間にしだいに、ローや南海会社の時代を想起させる思惑の上部構造がつくり出されていった。幾百という線が成功の見込みがすこしもないのに企画された。そこでは、企画者自身が実際に実行することなどはぜんぜん考えていなく、一般に、重役たちで供託金を食いつぶすこと、株式を売って詐欺的利潤をうることが狙いであった。〉 (三宅義夫編『マルクス・エンゲルス恐慌史論』上20頁)

 〈恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である〉。恐慌時に低落した株式は、それを利用して特定の貨幣資本家に集中されるわけである。株式市場では、常に小さな個人株主が大株主の犠牲になり、それらに飲み込まれる。大株主は、さまざまな情報網によって、上昇した株を下落前に売り抜けて、濡れ手に粟のぼろ儲けをしたあと、低落した株式を今度は再び買い集めて、またその上昇を待って一儲けするわけである。こうした過程を通して貨幣財産は特定の貨幣資本家にますます集中する。
   大谷氏の注162)は、ここにエンゲルスによって脚注が付けられているとの指摘がある。それはエンゲルスの父がこうした恐慌時にパリで減価した有価証券をかき集めて、ぼろもうけをしたという〈すばらしい商売〉ことについて述べている。】


【20】

 〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価および増価の前もあともまったく同じである。②③「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,225ポンド・スターリング減価していました。165)」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。|

  ①〔訂正〕「および〔u.〕」--「または〔od.〕」とも読める。
  ②〔注解〕この引用は,マルクスの「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている((MEGA IV/8,S.263.19-21)。--〔MEGA II/4.2の〕481ページ20-22行〔本書第2巻208ページ3-4行〕を見よ。)
  ③〔注解〕『〔商業的窮境〕……第1次報告』では,次のようになっている。--「〔ベンティンク〕この国の公的資材と運河・鉄道株が,10月23日にはすでに,総計で114,752,225ポンド・スターリングという額だけ減価していたことにお気づきですか。--〔モリス〕そうなっていたとのことでした。」
  ④〔訂正〕「114,752,255」--草稿では,「114,752,225」と書かれている。〔MEGAではこの数字をテキストで「114,752,255」とし,訂正目録でも,草稿の数字をテキストでこのように訂正した旨を記載しているが,モリスにたいする質問での数字は「114,752,225」であり,この訂正は明らかに誤りである。〕

  165)「」」--MEGAでは,この閉じ括弧が落ちている。〉 (175-176頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈これらの有価証券(例えば株式や国債等)の市場価格の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にはかかわりのないものですから,一国民の富の大きさは,これらが減価したり、あるいは増価したりする前にもあともまったく同じだということです。イングランド銀行総裁のモリスは議会証言で次のように述べています。

  「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,225ポンド・スターリング減価していました。」

  しかしこの減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったのであれば,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったことになります。〉

  【これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
 ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【19】の(2))〈名目価値〉と、同じ〈名目〉が付いているが、同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。
   また〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり〉とあるように、こうした有価証券が下落する恐慌時というのは、〈生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか〉が同時に生じる時でもあり、そうした場合にはその限りで国民は貧しくなったといえるわけである。また〈現実の企業の見放しとか〉というのは、現実資本が倒産して企業が放置された場合もやはりその分だけ国民は貧しくなったといえるわけである。さらにはその株式が〈なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすもの〉だった場合、株式が表す貨幣額が現実に投下されたにも関わらず何も有用なものを生産するまでには至らなかったわけだから、つまりそうした投下した貨幣が無駄になったという意味で、国民がその分だけ貧しくなったといえるわけである。
   だからこうしたことを株式の減価が〈表わすものでなかったかぎり〉、これらの〈名目的な貨幣資本〉つまり株式の市場価格が下落し二束三文になったからといって、〈国民は、……一文も貧しくなってはいなかったのである〉】


【21】

 〈|337下|〔原注〕a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業的窮境』,1847-48年。[第3800号。]〔原注a)終わり〕|〉 (176頁)

  【これは【20】パラグラフで引用されている一文の典拠を示すものだけであるので、平易な書き下しは不要であろう。
  このイングランド銀行総裁の議会証言は現行の第26章でもエンゲルスによって紹介されており(全集25a528頁)、大谷本第2巻の〈第25章および第26章の冒頭部分の草稿,それとエンゲルス版との相違〉のなかでマルクスの一連の抜粋ノートの一部として紹介されている(大谷本第2巻208頁)。

  なお337原頁の下半分にはこの原注a)があるのみである。】

  (続く。)

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