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『資本論』第3部第5篇の研究

2019年7月21日 (日)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【10】パラグラフからである。


【10】

 〈/296上/とにかく,利潤の平均率は,利子を窮極的に調整する限界ultimate regulating limit〕とみなされるべきである。〉 (224頁)

 〈以上のように、とにかく利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界と見なされるべきです。〉

 【これはこれまでのすなわち【7】~【9】パラグラフのいわば結論である。現実には利子は機能資本家にとっては、一つの所与であり、前提として現れるが、しかし本質的には利子は総利潤の分割されたものなのだから、それは利潤によって規制される、あるいは限界づけられているわけである。】


【11】

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は,すぐあとでもっと詳しく考察するであろう。|〉 (224頁)

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察します。〉

 【利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情とは何を指すのであろうか。実際の産業循環の過程をみると、必ずしもそういう関連はみられない。中位の活気、繁栄、過熱、恐慌、停滞、中位の活気という循環の過程でみるなら、中位の活気の場合は、利潤率は高いが信用はまだまだ安定しており、その分、利子生み資本への需要はそれほど高くないから、利子もまだ低いままである。繁栄の状態では、利潤率は傾向的に低下しつつあるが、資本は利潤量の絶対的拡大のために蓄積を旺盛に行い、それだけ利子生み資本への需要も活発になる。そして突然の崩壊、恐慌においては利潤率は突然低下するが、しかし支払手段への需要から利子率はむしろ高騰する。停滞、利潤率は低く低調であり、利子生み資本への需要も停滞して利子率は低い状態であろう。このように利潤率と利子率とは必ずしも一方が高ければ高いなどという関係にないことは明らかなのである。しかしもちろん、ここでのマルクスの考察はこうした具体的な運動の背後にある関係であり、もっと本質的な関係なのである。そしてそうした関係としては利潤の平均率は、利子を究極的に限界づけるとみなされるべきなのである。】


【12】

 {一つの全体--利潤のような--が二人のあいだに分割されなければならない場合には,もちろんまず問題になるのは,この分割されるべきものの大きさであり,そしてこの①利潤の大きさは,利潤の平均率によって規定されているのである。}

  ①〔異文〕「利潤の大きさ」← 「利潤」〉 (224頁)

 〈一つの全体が二人のあいだに分割されなければならない場合、問題になるのは、この分割されるべきものの大きさです。そして、われわれが今問題にしている分割されるべき全体というのは利潤ですが、利潤の大きさは、利潤の平均率によって規定されているのです。〉

 【このパラグラフは全体が{ }に括られている。つまり上記の記述に関連して、論じられているが、しかし本論とはやや外れるものと考えるべきであろう。ここでは一つの全体を二人に分割しなければならないときに問題なるのは、というようにかなり一般的な問題の立て方をしている。全体を二人で分けようとするなら、その全体の大きさがまず問題になるというある意味では当たり前のことが確認されて、利潤の場合その全体は利潤の平均率によって規定されているということが確認されているわけである。これがどんな意味があるのかはもう少し展開をみてから考えるべきであろう。】


【13】

 一般的利潤率,つまりたとえば100という与えられた大きさの資本にとっての利潤の大きさを,不変なものとして,与えられたものとして前提すれば,利子の変動は,明らかに,利潤のうちの①機能資本家の手に残る部分に反比例する。彼が借入資本で仕事をするかぎりは,そうである。言い換えれば,これら二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例する。そして,分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は,この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのであって,しばしばまったく反対の方向に作用するのである。

  ① 〔異文〕「産[業]〔indus[triellen]〕」という書きかけが消されている。〉 (224-225頁)

 〈一般的利潤率を不変なものとして、与えられたものとして前提しましょう。例えば100という与えられた資本にとっての利潤の大きさを、不変なもの、与えられたものと前提すれば、利子の変動は、明らかに、利潤のうちの機能資本家の手に残る部分に反比例します。彼が借入資本で仕事をするかぎりではそうでしょう。言い換えれば、これらの二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例します。そして分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は、この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのです。むしろそれはしばしばまったく反対の方向に作用するのです。〉

 【ここでは分割されるべき総利潤の大きさを規定する事情と、それを二つの種類の資本家--機能資本家と貨幣資本家へに分割する事情とは非常に違うことが確認されている。あるいはそれはまったく反対の方向に作用するとも述べられている。つまり総利潤が高くなる事情、つまり繁栄期において、では利子率は高いかというと必ずしもそうではない。むしろそうした場合は資本の循環は順調であり、貨幣資本の還流も安定しているから、機能資本家は追加的な貨幣資本の必要をそれほど感じないために、利子生み資本への需要もそれほど増大しないので利子率はむしろ低いのである。この場合、分割されるべき全体である総利潤は高いが、しかしそれは利子として分割されるものを高くするとは必ずしもいえず、反対に作用するといえるだろう。】


【14】

 〈①Nb.この2)が進むなかで明らかになってくるのは,やはり,利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい,ということだ。§1からこの点に〔dazu〕移行するために必要なのは,--以前に行なった展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とが与えられているのだから〔--〕さしあたり利子を,この〔平均〕利潤のうちの任意の, それ以上詳しくは規定されていない部分と等しいと置くこと,等しいと前提することだけである。〔「Nb」として書かれた部分終わり〕

  ①〔異文〕このパラグラフは,左の欄外につけられた弓括弧〔{〕によって特別に強調されている。
  ②〔異文〕「そのさい」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「等しいと」--書き加えられている。〉 (225-226頁)

 〈ここで、この叙述の展開で気づいたことをメモ書きしておくと、この2)が進むなかで明らかになってくるのは、やはり、利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって、この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいいということです。1)からこの点に移行するために必要なのは、以前行った展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とは与えられているのですから、さしあたり利子を、この平均利潤のうちの任意の、それ以上は詳しく規定されていない部分と等しいと置くこと、等しいと前提することだけです。〉

 【このパラグラフは「Nb.」という記号から始まっているが、この「Nb.」については、大谷氏は訳者注で次のように書いている。

 〈この「Nb.」で始まる1パラグラフは,エンゲルス版では,「原稿にはここに次のような覚え書がある。--」という前置きとともに,脚注に収められている。
 なお草稿では,「Nb.」を除いてこのパラグラフは二つの文から成っているが,第1の文の左側に,インクでやや弓なりの縦線が引かれており,さらにそれに追加するように,第2の文の左側にも同様の縦線がつけられている。「Nb.」という文字は,前者の縦線の左側の上部に書かれている。こうして,このパラグラフの全体が前後から区別される「Nb.」の部分となっていることが示されている。この縦線の状態から見ると,「Nb.」として第1の文を書いたのち,すぐにそれに第2の文をつけ加えたのかもしれない。〉 (225頁)

 こうした原稿の状況からみても、このパラグラフが全体の続きとは区別されるものであり、マルクス自身の叙述上の覚書のようなものであろう。
 つまりマルクスは、これまでの展開から明らかなように、まず〈利潤の分割の諸法則を研究する〉という意図のもとに叙述を進めてきたわけである。しかしここにきて、その前に、〈この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉と思ったということであろう。
 もう一つの覚書としては、前の「1)」(21章該当部分)から、この点--これははっきりとはしないが、恐らく〈量的な分割が質的な分割になる次第を展開〉する点ということであろうか--に移行するために必要なのは、利子を平均利潤のうちの任意の部分として前提することだけだと述べている。つまり利子をそうした平均利潤の任意の部分として前提するだけで、そうした量的分割が質的分割になる次第を展開したうえで、利潤の分割の諸法則を次ぎに研究するという順序の方がよいだろうというのが、ここでのマルクスの覚書の内容ではないかと思える。】


【15】

 現代産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態,活気増大,繁栄,過剰生産,恐慌,停滞,沈静,等々〔state of quiescence,growing animation,prosperity,overproduction,crisis,stagnation,quiescence etc〕--(この循環の詳しい分析はわれわれの考察の圏外にある)を考察してみれば,そこで見いだされることは,利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応し,①利子の上昇は②繁栄とその転換との分かれ目に対応するが,極度の高[434]利にもなる利子の最高限は恐慌に対応するということであろう。b)③「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の||297上|春と夏には2%に下がり」a),9月には1[1/2]%にさえ下がった。b)やがて④1847年の恐慌中には8%,そしてそれ以上に上がった。/

  ①〔異文〕「他方で〔während〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「〔……の〕瀬戸際で〔auf der Kippe〕」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕この引用は,トゥクでは次のようになっている。--「同様に,1842年の春には4[1/2]%だった利子率が1843年の春と夏にはほぼ2%にまで急速に下がり……」
  ④〔注解〕「1847年の恐慌」--40年代半ばに不作が生じたのち,イギリスの食糧輸入は増大し,イングランド銀行からの金流出が始まった。1847年4月には貨幣市場でのパニックが生じた。同時に,穀物市場の充溢が貨幣と信用とへの大きな需要を引き起こした。1847年〔MEGAは「1846年」と誤記〕10月には恐慌は頂点に達した。1844年のピール銀行法の停止によって,イングランド銀行は行動のための新たな余地を得たので,恐慌の本来の原因である過剰生産は残されたままだったが,貨幣恐慌は急速に克服されることができた。〉 (226-227頁)

 〈現代の産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々(この循環の詳しい分析は、すでに述べましたが、私たちの考察の圏外にあります)--を考えてみますと、そこで見いだされることは、利子の低い状態はたいてい繁栄または特別利潤の時期に対応し、利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応しますが、極度の高利になる利子の最高限は恐慌に対応するということです。「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の春と夏には2%に下がり」、9月には1[1/2]にさえ下がりましたし、やがて1847年の恐慌中には8%、そしてそれ以上に上がりました。〉

 【ここでは突然、産業循環の詳しい考察は圏外にあるとしながらも、産業循環と利子率の対応が考察されている。利子の低い状態は繁栄または特別利潤の時期としている。繁栄はよいとしても「特別利潤の時期」とは何であろうか。これはあたらしい生産力を導入した資本が、その新技術が一般化するまでの間に手にする特別な利潤のことであろう。つまり新しい生産方法がどんどん導入されて社会的な生産が発展していくような状況を意味している。そうした時代には資本の循環も順調で、貸付資本への需要も低いということである。利子が上昇してくるのは、繁栄とその転換との分かれ目に対応するとされている。こうした生産力の発展と拡大は他方で利潤率を傾向的に低下させ、やがて過剰生産へと導く、しかし資本は利潤率の低下を利潤量の絶対的拡大によって補うために、一層の蓄積と拡大を推し進める、それは一方では貨幣資本への需要を増大させ、利子率の上昇を招く、他方で労働力を生産過程に吸収して、その枯渇を招くまでに死に物狂いの拡大を行うように競争の笞が打たれる、そしてその行き着く先が奈落の底であり、恐慌なのである。恐慌時には信用も動揺あるいは崩壊し支払手段への需要が極度に高まり、利子も最高限まで高騰する、等々である。マルクスは1847年の恐慌への過程がそれを示しているとして、トゥクから引用している。こうした恐慌時の支払手段への激しい需要については、1847年恐慌ではないが1825年恐慌時の状況について第28章の解読のなかで詳しい紹介をしたことがある。】


【16】

 /296下/〔原注〕b)「不況〔Pressure〕直後の第1の時期には,投機がなくて貨幣は豊富である。第2の時期には貨幣は豊富で投機も盛んである。第3の時期には投機は衰え始めて貨幣が求められる。第4の時期には貨幣が払底して不況が始まる。」(W.ギルバト〔『銀行実務論』,第5版,ロンドン,1849年〕,第1巻,149ページ。)〔原注b)終わり〕|

  ① 〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートIII(MEGAIV/7,S.137.6-10)から取られている。
  ② 〔訂正〕「ギルバト」--草稿では「ギルバト,同前」と書かれている。〉 (227頁)

 【これは先のパラグラフにおいて、産業循環と利子の関連を見たあとに付けられた原注である。ギルバトからの抜粋だけなので平易な書き直しは省略した。ギルバトは産業循環を四つの時期に区分している。それをマルクスの産業循環と対応させてみると、第1の時期--活気増大、第2の時期--繁栄、過剰生産、第3の時期--恐慌、第4の時期--沈静状態、であろうか。】


【17】

 |297下|〔原注〕a)トゥクはこの低落を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」説明している。(①『物価史,1839年から1847年まで』,ロンドン,1848年,54ページ〔藤塚知義訳『物価史』,第4巻,東洋経済新報社,1981年,64ページ〕。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕トマス・トゥクの『物価史』は,1838年から1857年にかけて刊行された六つの巻からなっている。第1巻と第2巻は,『1793年から1837年にいたる物価および通貨流通状態の歴史… …』,全2巻,ロンドン,1838年,である。第3巻のタイトルは『1838年および1839年における物価および通貨流通状態の歴史,あわせて,穀物法についての,およびわが国の銀行制度にかんして提起されている改革案の若干についての,評言を付す。1793年から1837年に至る物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1840年,である。第4巻は『1839年から1847年に至る(両年を含む)物価および通貨流通状態の歴史,通貨問題の一般的論評およびヴィクトリア治世第7・8年法律第32号の作用についての評言を付す。1793年から1839年にいたる物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1848年,となっている。最後に,1857年に第5巻および第6巻が,『1848年から1856年に至る9年間における物価および通貨流通状態の歴史… … 』,全2巻,というタイトルのもとで刊行されたが,この2巻の著者は,トマス・トゥクとウィリアム・ニューマーチである。〉 (227頁)

 〈トゥクは1847年の春と夏の利子の2%への低下を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」と説明しています。〉

 【これも原注であるが、トゥクが1847年の春と夏の利子の低下を何によって説明しているかをただ紹介しているだけである。それに対するマルクスの評価は何もない。ここでトゥクが〈有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積〉と言っているのは、恐らくいわゆるプレトラを指しているのであろう。だからこの春から夏の時期というのは産業循環でいえば繁栄と過剰生産の時期である。利潤率の傾向的低下が一定程度進むことによってもはや小資本や新芽の資本がその低下した利潤率では生産を維持できず、破綻するか、投資先を失う。だからそれらはただの貨幣資本として遊休し、その一部は投機に走り、あるいは大資本への融通という形で吸収されるのだが、しかし過剰な貨幣資本(いわゆるプレトラ)の存在は、利子率を押し下げることになる。だからこの時点では、まだ過剰生産そのものは潜在化しており、崩落は一部の小資本や新芽の資本に留まっていて、信用はむしろしっかりしているように見えるし、利潤率の低下を利潤量の増大によって補おうとする大資本による強蓄積が激しい競争によって行われる時期でもある。だから〈商業上の見通しにおける信頼の回復〉も依然としてしっかりしているように見える時期でもあるのである。】


【18】

 /297下/〔原注〕b)①ギルバト,同前,第1巻,166ページ。〔原注b)終わり〕/

  ①〔注解〕ジェイムズ・ウィリアム・ギルバト『銀行実務論』,第5版,全2巻,第1巻,ロンドン,1849年。〉  (227-228頁)

【この原注はマルクスが〈9月には1[1/2]%にさえ下がった〉と書いた部分に付けられたものである。つまりその数字の根拠としてギルバトの著書の叙述をあげているだけである。】


【19】

 〈/297上/(もちろん,他面では,低い利子が停滞といっしょになり,利子の上昇(適度ではあるが)が活気の増大〔growing animation〕といっしょになるということもありうる。〉 (228頁)

 〈もちろん、他面では、低い利子が停滞といっしょになり、利子の適度の上昇が活気の増大といっしょになるということもありえます。〉

 【このパラグラフと次のパラグラフは全体が丸カッコに括られている。どちらも【15】パラグラフに関連して述べられているものであろう。つまり【15】パラグラフでは〈利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応〉すると指摘されていたが、しかし低い利子ということだけなら、それは停滞時においてもそうであることを補足しているわけである。また〈利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応する〉と書いているが、しかし利子の適度の上昇の兆しはすでに活気増大の時期からはじまると述べているわけである。】


【20】

 (利子の平均率を見いだすためには,1)①回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を②計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。)

  ①〔異文〕「この時期〔Periode〕全体のなかでの」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「計算し〔berechnen〕」← 「考察し〔betrachten〕」〉 (228頁)

 〈利子の平均率を見いだすためには、1)回転循環(産業循環)のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければなりません。また2)資本がかなり長い期間にわたって前貸しされる投資での利子率を計算しなければなりません。〉

 【ここでは利子率の平均率を計算するという場合は、産業循環に応じて変動する利子率の変動をつうじてその平均を計算すべきということ、またもう一つはかなり長い期間にわたって前貸しされる投資(例えば鉄道投資)での利子率を計算すべきとしている。産業循環の一回転期間(それはほぼ10年とされているが)の平均利子率というのは、ある意味では資本主義的生産の発展程度による利子率の変化とでもいうべきものかもしれない。産業循環はただ同じサイクルを繰り返すのではなく、一循環ごとに資本の生産力を高度化し発展させる。次の循環はその発展したものをベースに開始されるわけである。だから一つの産業循環の平均の利子率と次の産業循環の平均の利子率は資本主義的発展による利子率の変化を示すと考えられるわけである。もう一つの平均利子率はある意味では現実的なものである。長い期間を要する前貸資本の場合の利子率は平均利子率を示しているとマルクスは考えているわけである。これも全体が丸カッコに括られていることは、いわばついでに関連して論じたという程度の問題なのであろう。】


【21】

 〈利子率が極度の高さに達するのは恐慌中のことであって,そのときには支払いをするためにはどんなに高くついても〔coúte que coúte〕借りなければならない。(この形態についてはもっとあとで。)c)/〉 (228頁)

 〈利子率が極度の高さに達するのは恐慌中のことです。そのときには支払をするためにはどんなに高くついても借りなければならなくなるからです。しかしこの形態についてはもっとあとで詳しく見ます(第28章該当個所で論じられています)。〉

 【このパラグラフも【15】パラグラフの叙述の延長のようなものである。つまり利子率が高騰するのは恐慌時だということである。そしてその理由は支払手段の枯渇によるということである。諸支払の時期(満期)が迫ってきているのに、前貸し資本は還流せず(商品は売れず、商品資本の実現は停滞するから、それは貨幣資本としても還流してこない)、よって支払手段に窮する諸資本は、ただ清水を求めて鳴く鹿のごとく、銀行に貸付を求めるわけである。それがために利子は極端まで高くなるわけである。当時のイングランド銀行はそうした貸付に応じるには銀行法による足枷を取っ払う必要があり、銀行法は一時的に停止されて、ようやく貨幣恐慌は乗り切られたわけである。こうした事態は第28章該当個所でフラートン批判のなかで展開されている。】


【22】

 /297下/〔原注〕c)これは同時に,というのは利子の上昇は有価証券価格の下落に対応するからであるが,①そのような利子生み証券を捨て値で手に入れる絶好の機会なのであって,このような証券は,通例の経過では,利子率がふたたび下がればすぐにまたその平均の高さ(およびそれ以上)に達するに違いないのである。これらの恐慌は,銀行業者たちが,「自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして,自分たちの資本を減価した株式に再投下する」ことを可能にする(②『為替の理論1844年の銀行特許法,云々』,ロンドン,1864年,100ページ)。1847年の恐慌のあいだに,「ある銀行家の古くからの顧客が,20万ポンド・スターリングの価値ある証券を担保にした貸付を拒絶された。彼が自分の支払停止を通告するために立ち去ろうとしたとき,銀行家は彼に,そんな処置をとる必要はない,このさいのことだからその証券を15万ポンド・スターリングで買ってもよい,と言った。」(同前,80ページ。)〔原注c)終わり〕/

  ①〔異文〕「安値で」という書きかけが消されている。
  ②〔注解〕この書の著者はヘンリー・ロイである。〉 (228-229頁)

 〈こうした恐慌時の利子率の上昇は、有価証券の価格の下落をもたらすから、そのような利子生み証券を捨て値で手に入れる絶好の機会なのであって、このような証券は、通例の経過では、利子率が再び下がればまたその平均の高さに、あるいはそれ以上に達するに違いないのです。だからこれらの恐慌は、銀行業者たちが「自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして,自分たちの資本を減価した株式に再投下する」ことを可能にします。1847年の恐慌のあいだに、「ある銀行家の古くからの顧客が,20万ポンド・スターリングの価値ある証券を担保にした貸付を拒絶された。彼が自分の支払停止を通告するために立ち去ろうとしたとき,銀行家は彼に,そんな処置をとる必要はない,このさいのことだからその証券を15万ポンド・スターリングで買ってもよい,と言った」のだそうです。〉

 【このパラグラフは【21】パラグラフの恐慌中に利子率が高騰するのは、支払手段への需要が高まるからだという一文につけられた原注である。ここではそうした利子率の高騰は、他方で有価証券の価格の下落を招くので、それらを捨て値で買い取る絶好の機会になるということ、そのことによって銀行業者は大儲けをすることが指摘されている。ただマルクスが引用している『為替の理論。1844年の銀行特許法、云々』からの抜粋はよくわからない。まず〈自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして〉という一文が不可解である。何をいいたいのかよくわからないし、果たして正しいことを言っているのかもわからない。そもそも崩落時には利子率が高騰するのであって、利子率を最小限にまで縮小するなどというのはおかしいし、私的証券を減価させてそれを行うなどということも一体何をいいたいのかもわからない。マルクスの引用が正確でないのか、あるいはその著書の記述そのものが間違っているのか、よく分からない。MEGAも、大谷氏も何も注記していない。だがエンゲルスはこの一文を編集段階で削除したことが訳者注では書かれている。恐らくエンゲルスも意味不明ということで、編集ではこの原注の前半部分を本文にしたのだが、この引用部分そのものは削除したのであろう。その後半部分の引用はよく分かるのであるが。】

  (続く)

2019年7月17日 (水)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回からエンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその上でその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  【これはマルクス自身による表題なので、特に平易な書き下しは不要であろう。その内容については特に言及することはないが、この章が終わってまた何か書くことがあれば書くことにしよう。】


【2】

 {この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。明らかなのは,1)貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen〕は,われわれの考察範囲の外にあるということ,2)産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができないということ,3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様であるということである。われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。}

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「これ〔was〕」← 「この叙述〔die〕」〉 (219-220頁)

 〈この部分で、そして後に信用について言うべきことについても同じですが、私たちは決して細目にわたって取り扱うことはできません。明らかに、次のような問題についても私たちの考察の範囲の外にあります。1)貸し手と借り手とのあいだの競争、およびその結果としての貨幣市場の短期的変動、2)産業循環のあいだに利子率が通る円環、これを述べるためには産業循環の叙述を前提しなければならないから、3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化。だから私たちがここでしなければならないのは、ただ一方で利子生み資本の姿態を展開することと、他方で利潤にたいする利子の自立化を展開することだけです。〉

 【このパラグラフ全体が{  }で括られており、マルクスが「§」を考察するための前提、あるいは問題の限定化が述べられている。では「§」は一体何を指しているのであろうか。これは「セクションの記号」との説明があるが、やはり、この「2)」と番号が打たれた部分を指していると考えるべきであろう。そしてマルクスは、ここでの課題を次のように述べている。

 〈われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。〉 (220頁)

  マルクスがこうした考察の前提として問題を限定しているのだが、まずそれを次のように述べている。

 〈この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。〉 (219頁)

  つまり利潤の分割や利子率、あるいは利子の自然率といった問題は細目にわたって取り扱うことはできないというのである。同時にマルクスは信用についていうべきことも、やはり細目にわたって取り扱えないとしている。これは実際、第25章該当部分の草稿の冒頭でマルクスが問題を限定して論じているのに対応しているといえる(それについては当該部分の段落ごとの解読で取り上げる)。そしてマルクスは、次の三項目についても、やはりわれわれの考察の範囲の外にあると述べている。すなわち……

  (1)〈貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen 〕は,われわれの考察範囲の外にある〉 (219頁)
  (2)〈産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができない〉 (同)
  (3)〈世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様である〉 (同)

  このようにマルクスは問題を限定して論じているのであるが、総じて宇野はマルクスがこのように問題を限定して論じているものに対して、そうした限定を無視して、やれ産業循環を論じていないからどうのこうのと難癖をつけるのが彼の「批評」なるものの常套手段なのである。】


【3】

 利子は,利潤のうちの,(われわれのこれまでの前提によれば,)機能資本家から貨幣資本家〔manied capitalist〕に支払われるべき一部分でしかないのだから,利子の最高限界Maximumlimit〕として現われるのは利潤そのものであって,その場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しい。(利子が実際に〔faktisch〕利潤よりも大きく,したがってまた利潤から支払われることもできないような)個々の場合を別にすれば,もしかすると,利潤のうち監督賃金〔wages of superintendence〕に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを,あるいは利子の最高限界〔Maxlmumlimit〕とみなすことができるかもしれない。ところで,利子の最低限の率Minimumrate〕は全然規定することのできないものであって,利子はどんな低さにでも下がることができる。とはいえ,つねにやがてまた反作用する事情が現われて,利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げる。

  ①〔異文〕「機能資本家」← 「生産的資本家」
  ②〔異文〕「監督賃金に分解できる」der in wages of superintendence auflösbar←der sich in wages of superintendence aufgelöst〉 (220-221頁)

 〈利子は、私たちのこれまでの前提によれば、機能資本家から貨幣資本家に支払われるべき利潤の一部分でしかないのですから、利子の最高限界は利潤そのものです。そしてその場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しくなります。利子が実際には利潤よりも大きく、したがって利潤から支払われることもできないような個々の場合を別にすると、もしかすると、利潤のうち監督賃金に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを、あるいは利子の最高限界とみなすことかできるかもしれません。
 ところが、利子の最低の率は全然規定することはできません。利子はどんな低さにも下がることはできるからです。とはいっても、つねにやがてはまた反作用が生じる事情が現れて、利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げることになります。〉

 【ここでは利子の最高限界と最低限界を明らかにしている。最高は利潤全部、最低はゼロであるが、最近ではマイナス金利なるものもあるからゼロとはいい得ないのかもしれない。
 マルクスはここで興味深い指摘をしている。利子が最高限界にまで達したなら、機能資本家の利得はゼロになってしまう。それならそもそも彼らが利子生み資本を借りてそれを機能させる意味がない。だからマルクスは、利子の最高限界を、機能資本家の利潤がゼロになるところではなく、本来は利潤の一部が分解したものに過ぎないのに、現象的には賃金として現れる、監督賃金を差し引いたものが利子の最高限界と見なすことができるかもしれないと述べている。
 つまりここでは明らかに、マルクスは機能資本家(経営者あるいはマネージャー等々)に支払われる監督賃金は賃金の形態をとってはいるが、その原資は利潤であるという認識を示しているわけである。これが後の監督賃金の説明と果たして整合するのかどうか、それが問題である。しかしそれは少し先走りすぎるので、ここでは注意を促すだけにしておこう。】


【4】

 〈①「資本の使用にたいして支払われる金額とこの資本との関係は,貨幣で計った利子の率を[432]表わしている。」(『エコノミスト』,1853年1月22日。)

  ①〔注解〕この引用は次のものから取られている。--「利子率と貴金属の過剰ないし欠乏との関係」。所収:『エコノミスト』,ロンドン,第491号。1853年1月22日。90ページ。「貸付資本を表わし移転するのに必要な貨幣額が大きくなれば,それに比例して,貸付資本の使用にたいして支払われる利子を表わす貨幣額が大きくなるであろう。そこで,貨幣で測った利子の率を表わす,この両者の関係は……」〉 (221頁)

 【これは引用だけなので、平易な解説は省略した。次のパラグラフも引用だけだが、しかし二つとも原注ではなく本文である。マルクスは本文として二つの引用をしているわけである。ここではマルクスは利子率の規定として『エコノミスト』の抜粋をもってしているわけだが、それは利子率については当時においても少なくとも直接的な表象においてその内容が捉えられているものとして紹介しているわけである。すでに利子率については、前の章(「1)」)のわれわれのパラグラフでは【68】で次のように明らかにされていた。

 〈資本としての資本が自分を表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。〉 (205頁)

 つまり、こうした利子率の概念そのものは通常の経済人にとってもつかまれていたということである。】


【5】

 〈①利子率は,1)利潤率によって,2)総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって,定まる。」(同前。)「自分が借りたものの使用にたいして利子として支払うものは,借りたもので生産することのできる利潤の一部分なのだから,この利子はいつでもそれらの利潤によって左右されるよりほかはないのである。」a)/

  ①〔注解〕この引用は『エコノミスト』では次のようになっている。--「…… 通常の産業における利子率…… 。これは,二つの事情によって定まる。すなわち,第1に,利潤率によって,第2に,総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,5,S.1863.2-4)から取られている。
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.16-18)から取られている。〉 (221頁)

 【これも引用だけになっているが、しかし利子率が明確に捉えられている。しかもそれが総利潤の分割されたものだということも認識されており、よってまた利子は利潤によって左右されるとも明確に語られている。マルクスはこうした当時の雑誌の一文を引用することによって、こうした認識は一般の経済人によっても捉えられていたことを示しているわけである。これらは61-63草稿からとられているということだから、その原文を見ておくことにしよう(ただしMEGAの注解等については煩雑になるので省略した)。

 利子率について『エコノミスト』は次のように述べている。
 「利子率は、1、利潤率によって、2、総利潤が貸し手と借り手とのあいだに分けられる割合によって、定まる。」(『エコノミスト』、同前。)『エコノミスト』は、すべてのイギりスの経済学者たちと同じように、当然、利潤を総剰余価値-地代と等置する。利子はただそれの一部分でしかない。「貴金属の多寡、現行の一般的物価水準の高低は、他のあらゆる種類の交換を行なう場合と同様に、ただ、借り手と貸し手とのあいだの交換を行なうのに必要な貨幣量の多少を決定するだけである。……相違は、ただ、貸付けられた資本を代表し引き渡すのに、より大きな額の貨幣が必要とされるということだけである。……資本の使用にたいして支払われる額と資本との関係は貨幣で計られた利子率を表わす。」(89/90ページ)〉 (草稿集⑧544頁)

 これをみると、先の【4】パラグラフの引用も、MEGAの注記はなかったが、ここからとられていることがわかる。続く引用の原文は、すでに「1)」の【62】パラグラフに関連して紹介したので、それをそのまま再度紹介しておこう。

  利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものはその借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オランダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなわちその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と問われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と関われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑨363-365頁)】


【6】

 〈|295下|〔原注〕a)マッシー,同前。(49ページ。)〔原注a)終わり〕|〉 (221頁)

 【これは上記の引用がマッシーの『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この命題に関するサー・W・ペティおよびロック氏の意見の検討』ロンドン、1750年からの抜粋であることを示している。但しこの著書は匿名で書かれている。】


【7】

 /295上/はじめにまず,総利潤と,そのうちの利子として貨幣資本家〔monied Capitalist〕に支払われるべき部分とのあいだに,ある固定した割合〔Proportion〕があるものと仮定してみよう。この仮定のもとでは,明らかに,利子は総利潤につれて上がり下がりするであろう。そして,総利潤は平均利潤率(とこの平均利潤率の変動と)によって規定されている。たとえば,平均利潤率が20%で利子が利潤の1/4ならば,〔利子率は〕5%であろう。平均利潤率が16%ならば利子は4%であろう,等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるであろうが,この場合にもやはり産業資本家は,〔利潤〕率が16%で利子が4%の場合と同じ利潤,すなわち12p./c.をあげるであろう。もし利子が6%か7%に上がれば,彼はやはり,平均利潤率が16%で利子が4%であるような場合よりも,利潤のより大きい部分を確保するであろう。){もし利子が平均利潤の不変の部分に等しいならば,その場合には,一般的利潤率が高ければ高いほど,総利潤と利子との||296上|絶対的差額はそれだけ大きく,したがって,総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きいということになり,また逆の場合は逆になるであろう。10の1/5は2であり,総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8である。20の1/5は4であり,差額は20-4=16である。25の1/5は5で,差額は25-5=20である。30の1/5は6で,差額は30-6=24である。35の1/5は7で,差額は35-7=28である。4%,5%,6%,7%といういろいろに違った利子率が,ここではつねに総利潤のただ1/5だけを,すなわち20%だけを表わすであろう。利潤率がいろいろに違えば,いろいろに違った利子率総利潤の同じ可除部分または総利潤からの同じ百分比的分けまえを表わすことができるのである。利子の割合がこのように不変な場合には,産業利潤(総利潤と利子との差額)は,一般的利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり,逆ならば逆であろう。}

  ①〔異文〕ここに,「16%で利子が総利潤の%ならば,利子は3%であろう。平均利潤が20%であれば,」と書いたのち,消している。
  ②〔異文〕ここに「)」と書いたのち,消している。
  ③〔異文〕「もし分母が同じままであれば」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「20%」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「利子の」--書き加えられている。〉 (222-223頁)

 〈まず最初は、総利潤とそのうち利子として貨幣資本家に支払われるべき部分とのあいだに、ある固定した割合があるものと仮定しましょう。この仮定のもとでは、明らかに、利子は総利潤につれて上がり下がりします。総利潤は平均利潤率とその変動に規定されています。例えば平均利潤率が20%で利子がその1/4ならば利子率は5%です。平均利潤率が16%ならば利子は4%でしょう、等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるでしょうが、その場合は、産業資本家は、平均利潤率が16%と利子が4%とした場合と同じ12%の産業利潤率をあげます。しかしその場合は、われわれの仮定はなくなり、利子は利潤の2/3になります。同じように、もし利子が6%か7%に上がれば、産業資本家はそれぞれ14%、13%の産業利潤率をあげ、これは平均利潤率が16%と利子が4%とした場合の産業利潤率12%よりも大きく、平均利潤のより大きい部分を確保することなります。){もし利子が平均利潤に対して不変の割合であるならば、一般利潤率が高ければ高いほど、総利潤と利子との絶対的な差額はそれだけ大きく、したがって、総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きくなるということになります。逆の場合は逆になります。例えば今その不変の割合を1/5としますと、10の1/5は2ですから、総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8になります。同じように20の1/5は4であり、差額は20-4=16です。25の1/5は5で、差額は25-5=20です。30の1/5は6で、差額は30-6=24です。35の1/5は7で、差額は35-7=28です。2%、4%、5%、6%、7%といういろいろに違った利子率が、ここではつねに総利潤の1/5だけを、つまり20%だけを表します。利潤率がいろいろに違えば、いろいろ違った利子率が総利潤の同じ加除部分または総利潤からの同じ百分比的分け前を表すことができるのです。利子の割合がこのように不変な場合には、産業利潤(総利潤と利子との差額)は、一般利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり、逆ならば逆になります。}〉

 【このパラグラフは数字がごちゃごちゃ出てきてややこしいので、少し補足しながら平易な解読を試みた。
 マルクスは突然ここから総利潤と利子とその差額(産業利潤)の量的分析を開始している。この背景には、後に展開されるであろう、総利潤の利子と産業利潤とへの量的分割が質的分割に転化するという認識がマルクスにあるからである。つまりこれまでの考察では質的な考察のあとに量的考察が来たが、今回はそれが逆転して展開されるわけである。
 それではその内容について少し吟味してみよう。
 まず最初にマルクスは総利潤と利子との固定した割合(1/4)を仮定する。その場合は、利子率は利潤率の上下につれて上下する。利潤率が20%なら利子率は5%。16%なら4%、等々。もちろん、利子が総利潤の固定した割合をなし、後者の増減につれて増減するなどいうことはない。むしろ利子は産業資本にとっては所与であり、彼がどれだけの総利潤をあげようが、利子はそこから控除されるべき対象として存在しているというのが本当の関係である。しかしマルクスはこうしたことを承知のうえで、仮にこのように仮定するなら、利子は総利潤の増減に応じて増減することを確認しているわけである。
  しかしマルクスは丸カッコのなかでは、この仮定をはずして、利潤率が20%のまま、利子率が8%に上がった場合、あるいは6%や7%の場合を考え、しかしそのばあいでも最初の仮定のときの平均利潤率が16%に下がった時の利子率4%の場合よりも、産業資本家が手にする産業利潤は同じか大きくなることを示す。すなわち、8%の場合は12%、6%の場合は14%、7%の場合は13%である。これは何を見ているのかというと、平均利潤率が高い場合、少々利子率が高くても、平均利潤率が低い場合に比べれば、産業利潤率は高くなるということである。もちろん、ここでマルクスが仮定しているような総利潤と利子とが固定した割合になるという必然性はないし、両者に内的関連があるわけでもない。マルクスはただ現象的に両者の数値的関連を見ているということができるだろう。
  つぎにマルクスが{ }で括った部分では、最初の仮定にもどって利子率を平均利潤率の1/5に固定した場合を考えている。しかしその場合にマルクスが見ているのは、産業資本家が手にする利潤の絶対額である。平均利潤率が変動して、10%、20%、25%、30%、35%になった場合、利子率はその1/5だから2%、4%、5%、6%、7%になるが、しかし産業利潤の率は8、16、20、24、28になるということである。そしてマルクスはその結論として利子の総利潤に対する割合が不変な場合には、産業利潤は、一般的利潤率が高ければ高いほど大きくなり、逆ならば逆になるとする。
  こうした一連の考察は、利潤率と利子率との相対的な関連を見ていることになる。利潤率が高い場合、利子率も高いとは必ずしもいえず、利潤率が低ければ利子率も低いともまたいえないのだが、しかし利子と産業利潤が総利潤の分割したものであるかぎり、一方が大きくなれば、他方はそれだけ少なくなるという関連があることは明らかである。いずれにせよ、こうしたマルクスの考察がどういう意味があるのかはもう少し読み進めてからもう一度考え直してみることにしよう。】


【8】

 他の事情はすべて変わらないとすれば(あるいは同じことになるが,利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば),機能資本家は,利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし,また支払うことを辞さないであろう。a)すでに見たように,利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反[433]比例するのだから,したがってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる--利子の相違が現実に利潤率の相違を表わすかぎりではそうである。そうなるとかぎらないことは,もっとあとで見るであろう。この意味では,利子は利潤によって,より詳しくは一般的利潤率によって,規制されている,と言うことができる。そして,このような利子の規制の仕方は,利子の平均にさえもあてはまるのである。/

  ①〔異文〕「[……]の一般的な率〔general rate of〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「割合」ratio←relation
  ③〔異文〕「比例して」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「できるであろう〔wird…fahig…sein〕」← 「できる〔kann〕」
  ⑤〔異文〕「利子率が」という書きかけが消されている。〉 (223-224頁)

 〈他の事情はすべて変わらないものと仮定すれば(あるいは同じことですが、利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば)、機能資本家は、利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるでしょうし、また支払うことを辞さないでしょう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのですから、よってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さに対してやはり反比例するということになります。--利子の相違が現実に利潤率の相違を表すかぎりではそうでしょう。そうなるとかぎらないことは、もっとあとで見るでしょう。この意味では、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されていると言うことができます。そして、このような利子の規制の仕方は、利子の平均にさえも当てはまるのです。〉

 【ここでの展開は次のようになっている。
 (1)利子と総利潤の割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は利潤率の高さに正比例してより高いかまたは低い利子を支払うことができる。またそれを辞さないことになる。
 (2)利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、一国の利子率の高さも産業的発展の高さに対して反比例する。利子の相違が利潤の相違を表すかぎりではそうなる。
 (3)こうしたことから一般的にいえることは、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されているということである。このような利子の規制の仕方は平均利子についてもあてはまる。
 つまりここでは(1)と(2)のことから(3)を導き出すという展開になっている。(1)と(2)はある意味ではまったく違った問題である。しかし利子は利潤によって規制されるという一般的な結論としては、上記の二つのことからそれが導き出されるとマルクスは考えているわけである。】


【9】

 |296下|〔原注〕a)「利子の自然的な率は個々人の事業の利潤によって左右される。」(マッシー,同前,51ページ。〉〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,6,S.2125.28-29)から取られている。〉 (224頁)

  【これは原注でマッシーからの抜粋だけなので平易な書き直しは不要であろう。このマッシーの一文は、すでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介した61-63草稿からの抜粋のなかに含まれている。】

 (続く)

 

2019年7月14日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10)

『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第73パラグラフからである。

 

【73】

 〈しかし,ここで資本そのものが商品として現われるのは,資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことである。しかし,資本の使用価値そのものは,利潤を生む〔setzen〕ということである。十十)/〉 (209頁)

 〈しかし、ここで資本そのものが商品として現れるのは、資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことです。そして資本の使用価値というのは、利潤を生むということです。〉

 【ここでも資本そのものが商品として現れるとマルクスは明確に述べている。というのはその使用価値が利潤を生むからだというわけである。宇野は利子生み資本というのは、貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではない。資本が商品になるりうるのは、国債や株式などについて言いうるのだと主張する。確かに一般には貨幣の貸し借りの市場を貨幣市場といい、資本市場というのは、国債や株式などの売買市場を意味するのだが、宇野の主張はただこうした常識的な意識をもとにしたものでしかないのである。しかしマルクスの利子生み資本の概念は、貨幣が資本として貸し付けられるというところに眼目があるのである。だからこそ貨幣は資本として商品になるのである。貨幣が利潤を生むという使用価値を持っているから、つまりその価値を維持するだけではなく、増殖して貫流するからこそ、すなわち資本という属性によって、それは商品になるのである。】


【74】

 〈/294下/十十)資本としての貨幣または商品の価値は,貨幣または商品としてのそれらの価値によってではなく,それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量によって規定されている。資本の生産物は利潤である。貨幣が貨幣として支出されるか,それとも資本として支出されるかは,資本主義的生産の基礎のうえでは,ただ貨幣の使い方Anwendung〕の相違でしかない。貨幣(商品)は,即自的に資本なのである(それはちょうど労働能力が即自的に労働であるようなものである)。というのは,1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ,そのままで生産諸条件のたんに抽象的な表現であり,価値としての生産諸条件の定在だからである。また,2)富の対象的諸要素は,資本であるという属性を即自的にもっているからである。なぜならば,それらの対立物--賃労働--が,それらを資本にするものが,社会的生産の基礎として現存しているからである。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は,過程そのものから引き離されて,資本所有そのものに表現されている。この一契機,それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり,またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのであるが,この契機は,もっぱら,資本主義的生産過程そのものからは引き離されて,次のことに表わされているのである。すなわち,貨幣,商品は,即自的に,潜在的にlatent〕,資本であるということ,それは資本として売られることができるということ,また,それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権〔Commando〕であり,したがってまた自分を増殖する価値であるということである{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになる。すなわち,この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり,資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということである。〔十十)による追記部分終わり〕/

  ①〔異文〕このテキスト補足は手稿のこのページの下部に書かれており,原注a)に続くものである。それは++という標識によってこの箇所に関係づけられている。〉 (209-211頁)

 〈資本としての貨幣または商品の価値(価格=利子)は、貨幣または商品としてのそれらの価値 によってではなく、それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量(利子)によって規定されています。資本の生産物は利潤です。貨幣が貨幣として支出されるか、それとも資本として支出されるかは、資本主義的生産の基礎のうえでは、ただ貨幣の使い方の相違でしかありません。貨幣(商品)は、ただ即時的に(可能性として)資本なのです。(それはちょうど労働能力が即時的に(可能性として)労働であるようなものです)。というのは、1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ、そのままで生産諸条件の単に抽象的な表現であり、価値としての生産諸条件の定在なのだからです。また2)富の対象的諸要素は、資本であるという属性を即時的にもっているからです。なぜなら、それらの対立物である賃労働が、それらを資本にするのですが、それが社会的基礎として現存しているからです。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は、過程そのものから引き離されて、資本所有そのものに表現されています。この一契機、それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのですが、この契機は、もっぱら、資本主義的生産過程そのものからは引き離されて、次のように表されているのです。つまり、貨幣、商品は、即時的に、潜在的に、資本であるということ、それは資本として売られることができるということ、また、それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権であり、したがってまた自分を増殖する価値であるということです。{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになります。つまり、この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり、資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということです。〉

 【このパラグラフは下段に書かれているが、先のパラグラフ(【73】)の追記をなしているから本文である。しかしここで書かれていることは、なかなか難しく理解が容易ではない。
  ここではマルクスは、貨幣(商品)は、即時的(潜在的)に資本なのだが、それはどうしてそうなのか、ということを明らかにしようとしている。まず第一に、それは生産諸条件に転化することができるから、そして第二に、富の対象的諸条件(生産手段等)は、資本であるという属性を即時的(潜在的)にもっているから、とまず説明する。しかしそれらを資本にするのは、そもそも社会的基礎としてそうした条件があるからだという。しかもそうした対立的な社会的規定性は、過程そのものから、つまり資本主義的生産過程そのものから引き離されて、ただ貨幣や商品は、潜在的(可能的)に資本であり、資本として売られるという形で表されているというのである。それらが資本であるのは、労働の対象的諸条件が資本として労働に対立し、労働が賃労働になっているからであるが、それは資本所有そのものに表現されているのだとも指摘されている。そしてこの資本所有というのは、資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、この過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのだが、しかし資本所有というのは、それ自体としては資本主義的生産過程そのものからは引き離されて表現されるのだというのである。
  ようするに、ここでマルクスが言いたいことは、貨幣(商品)が資本として売られるということは、資本主義的生産過程を前提するが、それらが資本としてあるということ自体は、資本所有そのものにあるのであって、その限りでは資本主義的生産過程そのものからは引き離されていること、だから利子生み資本としての資本の運動は、生産過程とは直接関係しない資本関係なのだということである。資本が資本であるのは生産過程で剰余価値を生産することである。それがすべての基礎であり、社会的生産の基礎である。しかし貨幣や商品が即時的(潜在的)に資本だという場合、そうした社会的規定性を前提しながらも、しかし直接にはそれとは切り離された関係として表されているのだというのである。
  だからそれらが資本であるというのは他人の労働にたいする指揮権、だからまたそのことによって自分を増殖する価値であるということ、だからそれは他人の労働を取得するための権原、あるいは手段であるが、資本家がそのために何らかの労働をするということではないということだ、とも指摘されている。
  ここでマルクスが述べていることは、利子生み資本が再生産資本家たちとは外的な関係にあるということ、貨幣信用は再生産過程外の信用だということとも関連しているのである(それに対して商業信用は再生産過程内の信用なのである)。その意味では極めて重要な考察なのである。】


【75】

 [430]/294上/さらに,利子と本来の利潤とへの利潤の分割が,商品の市場価格と同様に,需要と供給によって,つまり競争によって規制されるかぎりでも,資本は商品として現われる。しかし,ここでは区別も類似と同様にはっきりと現われている。需要と供給とが一致すれば,商品の市場価格は生産価格に一致する。すなわち,そのとき商品の価格は,競争にはかかわりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現われる。というのは,需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかにはなにも説明するものではないからである。(これらの偏倚は相殺されて,いくらか長い期間について見れば平均市場価格は生産価格に等しい。)需要と供給とが一致すれば,これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり,麻痺させ合うのであって,そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現われる。言い換えれば,その場合には市場価格は,その直接的定在において,(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致する。労賃の場合にも同様である。需要と供給とが一致すれば,それらの規定は相殺されて,労賃は労働能力の価値に等しい。ところが,monied Capita1はそうではない。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく,競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば,のちにもっと詳しく見るであろうように,自然的利子率なるものは存在しないno natural rate of interest〕からである。利子率の自然的な率〔d.natural rate of interest〕というのは,むしろ,自由な競争によって確定されたもののことである。利子率の自然的限界natural limit of the rate of interest〕というものはないのである。競争がただたんに偏倚,変動〔Oscillationen〕を規定するだけではない場合,つまり,競争の相反する諸力が均衡したときに〔bei d, Equipoising〕規定することをやめてしまうのではない場合には,規定されるべきものは,それ自体として無法則なもの,任意なものなのである。(しかしこれについては2でもっと詳しく述べる。)

  ①〔異文〕「本来の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「一致すれば〔decken〕」← 「対応すれば〔entsprechen〕」
  ③〔異文〕「競争がそのような〔……〕として〔……〕場合〔Wo die Conkurrenz als so〕という書きかけが消されている。〉 (211-213頁)

 〈さらに、利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、商品の市場価格と同様に、需要と供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現れます。しかし、ここでは区別も類似と同様にはっきりと現れてきます。
  需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は生産価格に一致します。つまり、その時の商品の価格は、競争には関わりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れます。というのは、需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかには何も説明するものではないからです。(これらの偏倚は相殺されていきます。またいくらか長い期間についてみれば平均市場価格は生産価格に等しくなります。)需要と供給が一致すれば、これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり、麻痺させあうのであって、そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現れます。言い換えれば、その場合には市場価格は、その直接的定在において、(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致します。労賃の場合も同じです。需要と供給が一致すれば、それらの規定は相殺されて、労賃は労働能力の価値に等しい。
  ところが、moneyed capitalはそうではありません。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則はないのです。なぜならば、のちにもっと詳しく見るでしょうが、自然利子率なるものは存在しないからです。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定されたもののことです。利子率の自然的限界というものはないのです。競争がただたんに偏倚や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の相反する緒力が均衡したときに規定することをやめてしまうのではない場合には、規定されるべきものは、それ自体として無法則なもの、任意なものです。(しかしこれについては2(次の章)でもっと詳しく述べます。〉

 【ここでは普通の商品の市場価格が需要と供給によって、競争によって規制されるように、利子生み資本という商品もその需要と供給によってその価格(利子)が規定されるという点でも、それが商品として現れる理由でもあると述べたあと、しかし類似と同時に区別も明確になるとして、普通の商品の場合は需要と供給が一致した場合、商品の市場価格は生産価格に一致すること、その場合は商品の価格は資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れるが、しかし利子生み資本という商品の価格である利子率は需要と供給以外にそれを規制するものはない、とマルクスは指摘している。その理由としてはマルクスは後に詳しく見るといいながら、利子には自然利子率というようなものがないことをあげている。利子率には自然的限界というものはないとも述べている。そして競争がたんなる偏倚や変動を規定するだけではなく、競争の諸力が均衡してもその規制をやめない場合には、そうしたものはそれ自体、無法則なものであり、任意なものだとも指摘している。】


【76】

 利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現われる--資本の前貸は,貸し手から借り手への資本のたんなる移転〔transfer〕として現われ,実現された資本としての還流〔Return〕は,借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転〔Retransfer〕(返済〔repayment〕)として現われる--ように,利潤率は利潤の前貸資本価値にたいする割合によって規定されているだけではなく,利潤が実現される回転時間によっても規定されており,したがって生産的資本が一定の期間にあげる利潤として規定されている,という資本主義的生産様式に内在する規定も,〔利子生み資本では,〕外面的なものとして現われる。利子生み資本の場合には,このことはまったく外面的に,一定の期間について売り手に一定の||295上|利子が支払われるというふうに,現われるのである。

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「利子が」という書きかけが消されている。〉 (213頁)

 〈利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れます。資本の前貸しは、貸し手から借り手への資本のたんなる移転として現れ、実現された資本としての還流は、借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転(返済)として現れます。利潤率が利潤の前貸資本にたいする割合によって規定されているだけではなく、利潤が実現される回転時間によっても規定されているという、資本主義的生産様式に内在する規定も、利子生み資本では、外面的なものとして現れます。すなわち、利子生み資本の場合は、このことはまったく外面的に一定の期間について売り手に一定の利子が支払われるというふうに、現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるということが二点にわたって言われている。一つは資本の前貸しが単なる貸し手から借り手への資本の移転として現れ、実現された資本としての還流も、その逆移転(返済)として現れるからである。本来は資本の前貸しは、それを生産資本に転化し、生産諸条件(生産手段と労働力)に転化することだが、利子生み資本の場合はまったく外面的な単なる資本の移転として現れるだけであり、その還流も本来なら生産された商品資本の実現によって還流するが、利子生み資本の場合は、やはりただ借り手から貸し手への移転(返済)として現れるだけだということである。もう一つは、現実の資本の場合、利潤率は利潤の前貸資本に対する割合だけでなく、資本の回転時間によっても規定されるが、利子生み資本の場合は、資本の回転時間というのは、ただ貸し手と借り手とのあいだの法的約定にもとづいて、ただ外面的に一定期間後に利子が支払われるというような形で現れるわけである。】


【77】

 諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって,ロマン派のA .ミュラーは次のように言っている。--
  [431]「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」(アダム・H.ミュラー政治学要論』,ベルリン,1809年,第2巻,①138ページ。)

  ①〔訂正〕「138ページ」--草稿では「137,138ページ」と書かれている。〉 (213-214頁)

 〈緒物の内的関連を見抜く洞察力をもって、ロマン派のミュラーは次のように述べています。「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」〉

 【このパラグラフは明らかにその一つ前のパラグラフの後半で、回転時間も利子生み資本では外面的なものとして現れることに関連して書かれていることは明らかである。ただここでマルクスが引用しているミュラーの一文は、次のパラグラフで明らかになるように、決して肯定的に引用されているのではない。〈諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって〉という一文は、文字どおりの意味ではなく、マルクス一流の皮肉なのである。マルクスはミュラーは自分は物事の内的関連を見抜く洞察力を持っていると自負しているが、それを皮肉ってこのように述べているわけである。彼は利子の決定では時間が問題になると言いながら、価格の決定では時間は問題にならないと述べているのだが、しかしマルクスは価格の決定でも資本の回転時間は利潤率に影響し、よって商品の価格にも影響するのだと批判しているわけである。つまりミュラーは利子が一定の期間を経て支払われるという外面的な関係には気づいているが、しかし資本の利潤が資本の回転時間にも規定されているという内的な関連には気づいていないことを指摘しているわけである。】


【78】

 彼にわかっていないのは,労働時間流通時間諸商品の価格の規定にはいってくるということ,そしてまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ,しかしまた与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということである。彼の深い洞察は,ここでもまた,いつものように,ただ,表面の砂ほこりを見てこのほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものでもあるかのように言い立てることだけにあるのである。/

  ①〔異文〕「商品の価格の規定にさいして」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「表面の砂ぼこりを見てこのほこりだらけのものを」← 「表面を見てこのまったく表面的なものを」〉 (214頁)

 〈彼(ミュラー)にわかっていないのは、労働時間や流通時間が諸商品の価格の規定に入ってくるということです。またまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ、そしてこの与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということです。彼の深い洞察力は、ここでもまた、いつものように、ただ表面の砂ぼこりを見て、このほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものであるかのように言い立てるだけのことにあるのです。〉

 【この一文はその前のパラグラフと一体のものである。以上で、第21章該当部分の草稿は終わっている。つまりマルクスは利子生み資本ではすべてのものが外面的なものとしてあらわれるという指摘でこの節を締めくくっているわけである。これはこれで留意しておくべきことである。】

 


第21章該当部分(「1)」の部分)全体の構成と内容

 

 まずマルクスはこの章(マルクス自身は恐らく第5章の第1節と考えていたのだろうし、実際にはただ「1)」と番号が打たれているだけだが)を、まずこれからわれわれが平均利潤(率)という場合は、一般的利潤率の形成に商業資本も参加していることが前提されているのであり、その意味ではより完成された姿態で一般利潤率(平均利潤率)を考える必要があるということから書き始めている(【1】)。(しかし後に(【67】)マルクスは利子生み資本の関係を純粋に考察するために、貨幣資本家と生産資本家だけを前提すると述べて、利子生み資本を商業資本に貸し出すケースは除外しているのであるが)。これは要するに、この第5章(篇)は、第4章(篇)を前提としているということを指摘しているものと理解すべきであろう。
 次ぎに(【3】)、マルクスは貨幣は資本主義的生産の基礎上では資本に転化させられうることを指摘する。つまり資本家に労働者から不払労働、剰余価値を引き出して取得する能力を与えることを指摘する。そしてそれが貨幣がもっている使用価値のほかに追加される新しい使用価値だと述べている。貨幣は、商品を購買するという使用価値に、さらに資本として機能するという使用価値を受け取るわけである。{宇野は、貨幣は生産手段や労働力を購買することによって、つまり購買手段という使用価値によって資本になるのであって、だから貨幣そのものに資本として機能するというような使用価値はないと主張している。}
 そしてこのような可能的な資本としての、利潤を生産するための手段としての属性において、貨幣は商品になる、といっても一つの独特な種類の商品になると指摘し、同じことに帰着するが、資本としての資本が商品になるとしている。
 そしてこの最期の一文に注a)を付けて(【4】)、経済人が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきと注記している。そして『銀行法委員会報告』からイングランド銀行は「資本という商品を取り扱う非常に大きな商人ですね?」という一文を紹介している。
 つまり貨幣が資本として機能しうるという使用価値によって商品になるというのは、経済人が考えていることなのである。宇野はマルクス自身が貨幣が資本としての使用価値によって商品になると考えているかに、だから資本としての機能にもとづいて貨幣が商品として販売されることについても、それが貸付であることをマルクスが知らずに販売と捉えているかに論じているが、これはまったく不当な言いがかり以上ではない。貨幣が資本として機能するという属性によって商品になる、すなわち資本としての資本として商品になるというのは、経済人が経験的に抱いている外観なのである。もちろん、彼らはその内的な関連を知らないが、しかし経験的事実として銀行は資本という商品を取り扱う商人だと考えているわけである。
 マルクスはまずそうした当時の(といってもこうした外観は決して当時だけに限られないのだが)経済人たちが抱いていた外観(貨幣が資本として商品になるという)を前提し、事実として受け止め、なぜそれが商品として彼らに捉えられるのかというところから解明しようとしているのである。{ところが宇野は貨幣が資本として商品になるというのがマルクス自身の理解と考えている。だからマルクスが貨幣が商品として販売されるということを指摘していることに対して、それは販売されるのではない貸しつけられるのだなどと言って批判したつもりになっているのである。なんと馬鹿げた難癖であろうか。}
 次ぎに(【6】)、マルクスは100ポンド・スターリングを持っているということが、その所有者に利子を代償として要求する力を与えると指摘する。つまりここでは貨幣の資本としての規定性は、その資本所有そのものに表現されていると後に(【74】)マルクスが指摘していることが先取りされて述べられている。つまり貨幣が資本としての規定性をもつのは、その所有者がそれを資本として手放すということにあるのである。もちろんこのことには資本主義的生産の基礎という社会的な関係が前提されているのであるが、彼の貨幣が資本になるということ自体は、この基礎から切り離された関係として現れてくるのである。彼がその所有する貨幣を資本として支出しなければ、それは現実に資本として機能し、剰余価値を生産することもできないわけだから、彼が、その所有者がそれを資本として支出するということがすべての出発点なのだということである。
 ここにもマルクスは原注をつけている(【7】)。ギルバトからの引用であるが、ただこの引用に関連して、次のパラグラフ(【8】、これは原注ではなく本文であるが)も書かれている。つまりギルバトは「自然的公正の自明な原理」云々と述べていることを受けて、【8】パラグラフが書かれているが、これは若干本題とずれているので、とりあえずは無視しよう。
 だから【6】パラグラフに直接繋がっているのは【9】パラグラフである。しかし、ここでは【6】パラグラフで述べていることがさらに詳しく述べられているだけである。100ポンド・スターリングの所有者をAとし、それを借り入れる機能資本家をBとして論じ、ようするにAが100ポンド・スターリングを資本として支出するということがとにかく出発点であることが確認されているのである。
 そして次から(【10】以降)、話を一転させて、第1には、利子生み資本の特有な流通を考察するとしている。そして第2には、それが商品として売られる独特な仕方、つまり売られる代わりに貸しつけられる、という独特な仕方を論じるとしている。
 ところでここでマルクスが二つのことを考察するしているが、それはどこからどこまでで論じられているのか少し考えてみよう。まず最初の「利子生み資本の特有な流通」については、恐らく【11】パラグラフから始まり、【18】パラグラフまで続いているように思える。そして次の利子生み資本が商品として売られる独特の仕方については、【19】パラグラフから、【42】パラグラフまで続くように思える。関連して最後の部分でプルドンの批判が行われている(【33】~【42】)。そして【43】パラグラフからは利子生み資本を特徴づけるものとしての外面性が考察されている。そして【50】パラグラフからは、一転して利子の考察が始まる。そしてそれが最後まで続いているように思える。だからこの「1)」の全体の構成は大まかには次のようになっていると思える。

(1)利子生み資本の直接的規定、貨幣が資本として商品になる(ブルジョア経済学者や経済人にもとらえられるものとしての利子生み資本)(【2】~【9】)
(2)利子生み資本の特有な流通の考察(【10】~【18】)
(3)利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察(【19】~【42】)
    (プルドン批判【33】~【42】)
(4)利子生み資本を特徴づける外面的な形態(【43】~【49】)
(5)利子の考察(【50】~【78】)
 (利子を貨幣資本の価格とするのは不合理である【67】~【72】)
 (利子生み資本の運動に対して商品の買い手と売り手という単純な諸関係を直接に適用しようとすることは、はじめから馬鹿げたことである。【72】~【74】)
 (利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、需給によって決まるという問題【75】)
 (利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子もまたただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態を取る。【76】~【78】)

 つまりこの「1)」(第21章)は、このように大きくは五つの部分に分けられて展開されているのである。

 全体の大まかな構成に見通しをつけたので、引き続きそれらの細部の検討に入っていこう。以下では、われわれが付けた項目を立てて検討してゆこう。

(2)まず利子生み資本の特有な流通の考察である。マルクスはその運動をG_G_W_G'_G'と表している。ここで利子生み資本に特有な流通は最初のG_Gと最期のG'_G'である。{なぜか、マルクスはそのあいだのG_W_G'を商業資本の運動としているが、これが産業資本の運動G_W(P,A)…P…W'_G'としても良いわけだが、それについては何も言及していない。ただ先にも指摘したように、【67】パラグラフでは、〈前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで,行なわれる〉と述べて、生産的資本家を前提することが述べられている。}ここで利子生み資本の特有な流通として重要なことは、利子生み資本の特有な流通である最初のG_Gも最後のG'_G'も資本の現実の変態の契機、あるいは再生産過程の契機ではないということである。

(3) 次ぎに利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察であるが、この部分は単純な商品流通や現実の資本の流通と比較されるなかで検討されている。
  まずマルクスは商品としての資本に特有な形態である、貸付という形態をとるのは、資本がここでは商品として現れるという、または資本として貨幣が商品になるという規定そのものから出てくるのだと指摘する。
   ただ〈資本が商品として現れる〉とか〈資本としての貨幣が商品になる〉と言っても、それはどういうことかが問題である。それをマルクスは〈ここでは次のような区別をしなければならない〉として、単純な商品流通や資本の流通との比較のなかで明らかにしているように思える。
  まず資本が流通過程では貨幣資本や商品資本という形態をとるが、しかし貨幣資本も商品資本も実際の流通に出てゆくならば、それは単なる貨幣や商品として振る舞うこと、だからそれらが資本としての規定性を受け取るのは、その流通行為によってではなく、それらが資本の再生産過程の一契機であり、資本としての総運動との関連によってであることを指摘する。だから貨幣や商品が資本として現れるのは全過程との関連でそれらが捉えられるかぎりであり、それらの流通過程では決して資本として譲渡されるわけではないこと、現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、ただ生産過程においてであることが指摘されている。
  そしてそれと比較するかたちで、利子生み資本の場合が論じられるのである。つまり利子生み資本では資本の流通過程とは異なり、貨幣や商品は資本として流通過程に入っていくのである。 それが利子生み資本の独特な性格をなしていると指摘されている。
  利子生み資本の場合は、それを第三者に譲渡する人にとっても、それは資本であるし、それを受け取る第三者にとっても資本なのだというわけである。
  {ここでマルクスは追記として貸付や還流にはさまざまな形態がありうることに言及しているが、それはとりあえずはわれわれとしては割愛しよう。}
  次ぎにマルクスは関連させて、この問題で混乱しているプルドンの批判を展開している。
その批判は次の一文に集約されている。

  〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させているものはなにか?
  それは,売る,価格,対象を譲渡する,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現象,それゆえ,売ることが貸すことに転化し,価格が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)  

(4)利子生み資本を特徴づけるのは、それが増殖してその出発点に帰ってくるということではない。それは資本一般の特徴づけである。利子生み資本が利子生み資本として特徴的なのは、そうした出発点への復帰が、その媒介から切り離された、外面的な形態だということである。だから貸付や返済は任意な法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらは現実の資本の運動自身とは何の関係もないものである。取り戻しを条件とする手放し、すなわち貸付と借受が、この独自な形態の運動である。利子生み資本の場合には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との法律上の取引の結果でしかない。それはただ、貨幣の貸付と返済として現れるだけで、その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのである。しかしいうまでもなく、貨幣資本家が彼の貨幣を資本として貸しつけることができるのは、それが現実に資本として運動し循環運動を行うからである。ただそれが利子生み資本の運動ではそれは前提されているが、直接には関係ないものとして消えているのである。

(5)利子の考察。まずマルクスは利子について〈平均利潤のうち機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分〉と規定している。
 ここでもマルクスはまず〈貨幣資本家は,借り手である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉と述べている。そして何を譲渡するかという問いに、〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである〉と答えている。
 そして次ぎにマルクスは〈では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか?〉と問い、借りられた貨幣が生産することのできる利潤の一部分だというマッシーの一文を引いて答えている。そして単純な商品と関連させてこの問題を論じているのであるが、ただマルクスはこうした考察を踏まえて、利子が資本の価格として現れることはもともとは不合理であり(価格の概念からすれば)、資本の貸付を単純な商品の関係と関連させて論じるのはもともとばかげたことなのだとも指摘している。さらに利子と本来の利潤とへの利潤の分割は需要と供給によって決まるということ、その点で単なる商品の価格とは異なることが指摘される。そして最後に、利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子においてもただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態をとるのだと指摘して、この「1)」を終えている。

  こうして全体をみると、この「1)」は、まず最初は利子生み資本の概念が与えられている。そして次ぎに「利子」が考察され、その概念が与えられるという二つの部分に分けることができる。そして全体としては単純な商品や資本の関係と比較・関連させて、利子生み資本に特徴的なものを明らかにするという手法をとっているということができるだろうか。
  「利子生み資本」とは、その所持者が、第三者に貸しつけて、利子をつけて返済を受ける貨幣、または商品のことである。ここでは貨幣(商品)は、その所持者はそれを資本として手放し、それを借り受ける第三者にとってもそれを資本として利用するわけである。だから利子生み資本に特徴的な流通は、貨幣または商品の単なる移転でしかなく、それ自体は再生産過程の契機ではないし、その外部に属し、よって外面的な関係として現れてくるということである。だからまたそれは法的約定によって行われる取引でもある。そしてこの資本としての譲渡ということが、それが商品として現れてくる理由でもある。それは貸付であるが、あたかも貨幣という商品が販売されるかの外観を得るわけである。経済人たちが銀行は資本という商品を扱う商人だとするのもそうした理由からである。だから利子生み資本にもっとも特徴的なのはそれが外面的な関係にあるということである。つまり再生産過程の契機をなさず、その外の関係として、一定の法律的取引として、あるということである。
  しかしそれが資本であるのは、その価値を維持するだけではなく、増殖して、還流してくるからである。その増殖分、生産的資本家が彼が生み出す利潤のうち彼のものではなく、貨幣資本家のものになる部分がすなわち利子である。資本としての貨幣が商品になる関係から利子はこの商品の価格となるのであるが、しかし利子が価格になるというのはもともと価格の概念からして不合理である。利子生み資本は、本来外面的なものであるが、利子についても、ただそれが一定期間に対して支払われるという外面的な形で現れる。
  まあ、ざっと以上のことが語られているわけである。

 

  (以上でエンゲルス版第21章該当部分の草稿の段落ごとの解読は終了する。次回からは第22章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかることにしたい。)

 

2019年7月12日 (金)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-9)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第63パラグラフからである。


【63】

 〈[425]/293上/では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」である。b)/〉 (203頁)

 〈では、生産的資本家は何を支払うのでしょうか? だからまた、貸し出される資本の価格というのは何でしょうか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」です。〉

 【ここでようやく利子の考察に入っている。生産的資本家が支払うものは何か、生産的資本家は彼が買った商品に対して、支払うのだからそれはその商品の価格だというわけである。そしてそれは彼が借りた資本の使用によって得られた利潤の一部であり、利子だというわけである。】


【64】

 〈/293下/〔原注〕b)同前。「富者たちは,……彼らの貨幣を自分では使わないで……それを他の人びとに貸し出し,これによって他の人びとは利潤をあげ,こうしてあげた利潤の一部分を所有者のために保留する。」(同前,23[,24]ページ。)〔原注b)終わり〕|〉 (203頁)

 【これは原注なので、平易な書き出しは省略する。これは〈同前,23[,24]ページ〉とあるので、マッシーの著書からとられていることが分かる。MEGAの注解はないが、これもやはり61-63草稿から取られているようなので、原文を示しておこう

  〈富裕な人々が「彼らの貨幣をみずから使わずに、それを他の人々に貸しだすのは、他の人々が、それで利潤を得て、得られる利潤の一部を所有者のためにとっておくから、である。しかし、一国の富が多くの人々の手に分散され、また均等に配分されていて、そのために、多くの人々にとっては、〔借り入れる〕貨幣を事業に用いても、二家族を扶養するのに足りるだけのものが残らないならば、ほとんど借り入れはなされえない。というのは、2万ポンド・スターリングは、それが一人の人のものである場合には、その利子で一家族を養えるので、貸し付けられるかもしれないが、もし2万ポンド・スターリングが10人の人のものであれば、その利子では10家族を養えないので、それが貸し付けられることはありえないから、である。(23、24ページ。)〉 (草稿集⑨362-363頁)】


【65】

 〈/293上/普通の商品の買い手が買うものは,それの使用価値である。彼が支払うものは,その商品の交換価値である。貨幣の借り手〔Leiher〕が買うものも,やはり,貨幣の資本としての使用価値(使用)である。しかし,彼はなにを支払うのか? たしかに,商品の場合とは違って,その価格または価値ではない。貸し手と借り手とのあいだでは,買い手と売り手とのあいだでとは違って,価値の形態変換は,したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在しもう一度は商品の形態で存在するということは,行なわれない。手放される価値と取り戻される価値との同一性は,ここではまったく別の仕方で現われる。価値額(貨幣)は,等価なしに渡されてしまって,ある期間ののちに返され,返済される。貸し手が,自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは,ただ,こうした仕方,つまり,貸し手は実際にいつでも同じ価値の所有者であって,この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうである,という仕方ででしかない。{単純な商品の場合の関係との次のような違いが明らかになる。ここでは,貨幣はつねに買い手の側にある。ところが,貸付の場合には貨幣は売り手の側にある。売り手は貨幣をある期間譲渡し,手放すのであり,資本の買い手はそれを商品として受け取るのである。しかし,こういうことが可能なのは,ただ,貨幣が資本として機能し,したがってまた前貸されるかぎりでのことである。}借り手が貨幣を借りる〔leihen〕のは,資本としてであり,自分を増殖する価値としてである。しかし,それが資本であるのは,どの資本でもその出発点で,その第1の前貸の瞬間にそうであるように,まだやっと即自的にでしかない。その使用によってはじめてそれは増殖され,資本として実現されるのである。ところが,借り手はそれを実現された資本として,つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として,返済しなければならない。そして,このあとのほうのものは,ただ彼によって実現された利潤の一部分でしかありえない。ただ一部分だけであって,全部ではない。というのは,使用価値は借り手にとっては,それが彼のために利潤を生産することだからである。そうでなければ,貸し手の側での使用価値の譲渡は行なわれなかったであろう。しかし,利潤が全部借り手のものになるわけにはいかない。もしそうなるとすれば,彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり,前貸された貨幣を貸し手に資本として,実現された資本として,還流させるのではないということになるであろう。というのは,それが実現された資本であるのは,ただG+△Gとしてのみだからである。〉 (203-204頁)

 〈普通の商品の買い手が買うものは、それの使用価値です。彼が支払うものは、その商品の交換価値です。貨幣の借り手が買うものも、やはり、貨幣の資本としての使用価値(使用)です。しかし彼は何を支払うのでしょうか? たしかに、商品の場合とは違って、その価格または価値ではありません。貸し手と借り手とのあいだでは、買い手と売り手とのあいだでと違って、価値の形態変換は、したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在し、もう一度は商品の形態で存在するといったことは、行われません。手放される価値と取り戻される価値との同一性は、ここではまったく別の仕方で現れます。価値額(貨幣)は、等価なしに渡されてしまって、ある期間の後に返され、返済されます。貸し手が、自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは、ただ、こうした仕方、つまり、貸し手はじっさいにいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもはやりそうだ、という仕方ででしかないのです。{単純な商品の場合の関係とは次のような違いが明らかになります。単純な商品の売買の場合は、貨幣はつねに買い手の側にあります。ところが、貸付の場合には貨幣は売り手の側にあるのです。売り手は貨幣をある期間譲渡し、手放すのですが、資本の買い手はそれを商品として受け取るのです。しかしこういうことが可能なのは、ただ、貨幣が資本として機能し、したがってまた前貸しされる限りでのことです。}借り手が貨幣を借りるのは、資本としてであり、自分を増殖する価値としてです。しかし、それが資本であるのは、どの資本でもその出発点で、その第一の前貸しの瞬間にそうであるように、まだやっと即時的にそうであるだけなのです。その使用によってはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのです。ところが、借り手はそれを実現された資本として、すなわち価値・プラス・剰余価値(利子)として、返済しなければなりません。そして、このあとのほうのもの(プラス・利子)は、ただ彼によって実現された利潤の一部でしかあり得ないのです。ただ一部であって、全部ではありません。というのは、使用価値は借り手にとっては、それが彼のために利潤を生産することだからです。そうでなければ、貸し手の側での使用価値の譲渡は行われなかったでしょう。しかし、利潤が全部借り手のものになるわけにはいきません。もしそうなるとすれば、彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として、還流させるのではないということになるでしょうから。というのは、実現された資本であるのは、ただG+ΔGとしてのみだからです。〉

 【ここでもやはり普通の商品の売買と、利子生み資本の貸出との相違が指摘されながら、利子生み資本に固有の問題が何かを明らかにしようとしている。やはり長文であるから、まとめるために、箇条書き的に書き出してみよう。
  (1)普通の商品の買い手が買うのは商品の使用価値であり、彼が支払うのは商品の交換価値である。
  (2)利子生み資本の場合、貨幣の借り手が買うものも、やはり、その商品(貨幣)の使用価値である。つまり資本としての使用価値(使用)である。
  (3)しかし貨幣の借り手は何を支払うのか? 明らかに、普通の商品の場合とは違って、その商品の価値ではない。
  (4)利子生み資本の場合には、普通の商品の買い手と売り手とのあいだとは違って、価値の形態変換は生じない。つまり価値があるときには貨幣の形態であり、もう一度は商品の形態であるというようには現れない。
  (5)利子生み資本の場合、手放される価値と取り戻される価値との同一性は、まったく別の仕方で現れる。すなわち価値は等価なしに渡されてしまい、ある期間ののちに返され、返済されるという形で現れる。
  (6)貸し手が自分が手放した貨幣と同じ価値を取り戻すのは、ただこうした仕方、つまり貸し手は実際にはいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうなのだ、という仕方でである。
{(7)利子生み資本の場合と単純な商品の場合との違いは、後者の場合は貨幣はつねに買い手の側にあるが、前者の場合は売り手の側にあるということである。}
  (8)借り手が貨幣を借りるのは、資本としてである。
  (9)しかしそれが資本であるのは、それが現実資本として前貸しされる瞬間である。だからそれが資本であるというのは即時的にそうだというに過ぎない。実際には、それが使用されてはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのである。
  (10)借り手はそれを実現された資本として、つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として返済しなければならない。
  (11)彼が返済するあとほうのもの(・剰余価値(利子))は、彼によって実現された利潤の一部分である。それは利潤の一部であって全部ではない。なぜなら、借り手にとっての使用価値は、彼のために利潤を生産するということだから、そうでなければ、そもそも貸し手の側からの使用価値の譲渡は行われなかったであろう。
  (12)他方で、彼が生み出した利潤がすべて彼のものになるわけではない。もしそうなれば、彼は使用価値の譲渡にたいして何も支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として還流させることにはならないからである。実現された資本というのは、ただG+ΔGとしてのみだからである。
  結局、ただ箇条書きに書き直したに過ぎないが、全体としては何もむずかしいことは言っていないので、これぐらいにしておこう。】


【66】

 〈貸し手も[426]借り手も,両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし,ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は,同じ貨幣額が2人の人にとって二重に資本として定在することによっては,2倍にはならない。それが両方の人にとって資本として機能することができるのは,利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は利子と呼ばれる。|〉 (205頁)

 〈貸し手も借り手も同じ貨幣額を資本として支出します。しかし、実際には、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能するのです。利潤は、同じ貨幣額が二人の人の手で二重に資本として定在するということだけでは二倍にはなりません。だからそれが両方の人にとって資本として機能することができるためには、利潤が分割されることによるほかにはないのです。そして貸し手のものになる部分は利子と呼ばれるのです。〉

 【同じ貨幣額が、貸し手にとっても資本であり、その借り手にとっても資本である。しかし実際に資本として機能するのは貸し手の手のなかでだけである。だからそれが資本として機能し、利潤を生産するのは貸し手のなかだけの話である。それが資本として二重に存在するからといって利潤が二倍になるわけではない。だから両方の人にその同じ価値額が資本として機能することができるのは、結局、一方の側で現実に資本として機能して生産した利潤を分割することによるしかない。貸し手のものになるものを利子といい、借り手のものになるものが企業利得というわけである。】


【67】

 〈|294上|前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家〔monied Capitalist〕と生産的資本家とのあいだで,行なわれる。〉 (205頁)

 〈前提によれば、全取引は二つの種類の資本家のあいだで、つまり貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで、行われます。〉

 【このようにマルクスは利子生み資本の考察では、全取引は二つの種類の資本家のあいだで行われるものとして前提している。貨幣資本家と生産的資本家である。だから貨幣資本家というのは貨幣を貸しつけて利子を得ることを目的にした資本家である。だから本来的貨幣資本家というものには銀行などそれを媒介する機関はとりあえずはより具体的な内容規定を持ったものとして捨象されていると考えるべきだろう。他方、利子生み資本を借り受ける資本家としては生産的資本を前提している。つまり現実に貨幣資本を生産資本に転化して剰余価値を生産する資本家である。だから剰余価値を生まず、その分け前を受け取るだけの例えば商業資本家などは捨象されているのである。マルクスは利子生み資本の概念を考察するときには、それは平均利潤を得るという使用価値を譲渡するということから説明し、その平均利潤の成立には商業資本も参加することが前提になっているかに論じていたが、しかしここでは利子生み資本をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした前提が必要だと考えているように思える。】


【68】

 資本がここではそれ自身商品として現われるとすれば,この場合,忘れてはならないのは,資本は資本として商品なのだということ,言い換えれば,ここで問題になっている商品は資本なのだということである。それゆえ,ここで現われるすべての関係は,単純な商品の立場から見れば,または資本の立場から見ても,資本がその総過程で商品資本として機能するかぎりでは,不合理であろう。貸付借受であって販売購買ではないということが,ここでは,商品--資本--の独自な性質から出てくる区別である。また,ここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないということも,そうである。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している。a) 資本としての資本が自分を[429]表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。②したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。それゆえ,価格が商品の価値を表わすように,利子はmonied Capitalの価値増殖を表わすのであり,だからまた,monied capita1にたいして貸し手〔Ausleiher〕に支払われる価格として現われるのである。/

  ①〔異文〕[貸付と借受〔Verleihen und Borgen〕」← 「貸し〔Leihen〕」
  ②〔異文〕「したがってまた……によってのみ,測ることができる」ist daher auch nur meßbar←kann daher auch nur gemessen〉 (205-206頁)

 〈資本がここでは商品として現れるとするなら、この場合、忘れてならないのは、資本は資本として商品なのだということです。言い換えれば、ここで問題になっているのは資本なのだということです。だから、ここで現れるすべての関係は、単純な商品の立場から見れば、または資本の立場から見ても、資本がその総過程で商品資本として機能する限りでは、不合理でしょう。貸付と借受であって販売と購買ではないということが、ここでは資本という商品の独自な性質から出てくる区別なのです。またここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないといこともそうです。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば、それは価格の不合理な形態であって、商品の価格の概念とはまったく矛盾しています。資本としての資本が自分を表明するのは、その価値増殖によってです。その価値増殖の程度は、それが資本として量的に実現される程度を表明しています。この剰余価値または利潤の率または高さは、ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができます。したがってまた、利子生み資本の価値増殖の大小も、利子の高さを、前貸資本の価値と比較することによってのみ、測ることができます。それゆえ、価格が商品の価値を表すように、利子はmoneyed capitalの価値増殖を表すのです。よってまた、貸し手に支払われるmoneyed capitalの価格として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本では資本が商品になるということが強調されている。この点、宇野は次のように批判する。「マルクスは間違っている。貨幣が商品になるのであって資本が商品になるのではない」と。しかし貨幣が商品になるのは、その貨幣の資本としての使用価値によって商品になるのである。だからここで重要なのは資本が資本として商品になるということなのである。この資本として商品なのだということが、貸付と借受という独自の行為を生み出すのだからである。また支払われるものが商品の価格ではなく利子であるということも資本が商品になるということから生まれてくるのだからである。貨幣が商品になるということだけでは、何故に貨幣が商品になるのか分からなくなる。それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値をもつからであろう。つまり資本だからである。だからこそマルクスは資本として商品になることを強調しているのである。
  ここでは利子がどうしてmoneyed capitalの価格として現れるのかを説明している。というのは利子は前貸資本の増殖分であり、借り手が貸し手に支払うものだから、だから貨幣を資本として商品にして譲渡する貸し手に支払うわけだから、だから商品としてのmoneyed capitalのそれは価格なのだということである。】


【69】

 〈[426]|294下|〔原注〕a)ここでは,価格は,使用価値としてなんらかの仕方で働くなんらかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だというその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されているのであるが,価格の概念から見れば,価格は,この使用価値の交換価値を貨幣で表わしたものなのである。〉 (206頁)

 〈ここでは、価格は使用価値として何らかの仕方で働く何らかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だということになりますが、これはその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されています。これは価格の概念からすれば不合理です。なぜなら、商品の価格とは使用価値の交換価値を貨幣で表したものだからです。〉

 【これは〈もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している〉という一文につけられた原注であるが、すべてマルクス自身の文となっている。だから一応平易な書き下し文をつけておいた。つまり利子を利子生み資本の価格だという場合、それは使用価値として何らかの仕方で働くものにたいして支払われる一定の貨幣額というような内容になるが、これではまったく抽象的で無内容なものに還元されているし、商品の価格の概念からすれば不合理以外の何ものでもないというわけである。】


【70】

 〈①②「通貨に適用される価値という術語には三つの意味がある。……第2には,後日受け取られるべき同一額の通貨と比べての,現実に手にしている通貨。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また利子率は貸付可能資本〔loanable capital〕とそれにたいする需要との割合によって,規定されている。」(R.トランズ商業信用に影響を及ぼす1844年の銀行特許法の運用について』,第2版,ロンドン,1847年,5[,6]ページ。〔)〕゜(下方)/

  ①〔注解〕このパラグラフについては,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIを見よ。(MEGAIV/8,S.212.15-22.)
  ②〔注解〕トランズでは次のとおり。--「価値という術語は,通貨に適用されるときには,三つの異なった意味がある。……現実に手にしている通貨が,将来のある日に受け取られるべき同一額の通貨と比べられることがある。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また,利子率は貸付可能資本とそれにたいする需要との割合によって,規定されているので,それは利子率が下落または上昇するのに応じて上昇または下落すると言ってよい。」〉 (206-207頁)

 【これは原注a)の続きである。この原注a)は次のパラグラフまで続いている。このパラグラフはトランズの著書からの抜粋だけだから、平易な書き下しは不要であろう。トランズは価値という述語が通貨に適用されると三つの異なる意味がある、と述べて、利子を通貨の価値としているわけである。そして利子率は貸付可能資本の需給によって規定されるとも指摘している。】


【71】

 /294下/(資本の価格としての利子というのは,もともと〔de prime abord〕まったく不合理な表現である。ここでは一つの商品が二重の価値をもっている。すなわち,まず第1にある価値をもち,次にはこの価値とは違った価格をもっている。他方では,価格とは価値の貨幣表現〔monetary expression of value〕なのである。)貨幣資本は,さしあたりは,ある貨幣額にほかならない。または,一定の価値量の価値が貨幣額として固定されたものにほかならない。もし商品が資本として貸し付けられるとすれば,その商品は,ただ,ある貨幣額の仮装形態でしかない。というのは,資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく,綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからである。それゆえ,資本の価格は,トランズ氏の言うように通貨としての,ではないにしても,貨幣額としての資本に連関する。いったいどうして,ある価値額は,それ自身の貨幣形態で表わされている価格のほかに,ある価格をもつのか? 価格とは,商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのだから。(そして市場価格の場合もやはりそうであって,市場価格と価値との相違は,質的ではなく,ただ量的であるだけであって,ただ価値量に連関するだけである。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは,名辞矛盾〔contradictio in terminis〕である。「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である。」(トゥク通貨原理の研究』,77ページ。〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,『世界古典文庫』,日本評論社,1947年,135ページ。〕)交換価値そのものが(利子が)資本の使用価値になる{このことによって,資本は,交換価値を生みだす使用価値をもつ労働能力と同一視される}という主要な「混乱」〔Haupt“confusion”〕(事柄そのもののうちにある)がトゥクにはわからないのである。〔原注a)終わり〕|

  ①〔異文〕この挿入は手稿のこのページの最後に書かれており,原注a)への補足となっている。この部分は標識oによってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔訂正〕「(」--草稿では欠けている。
  ③〔異文〕「表[現]〔Ausdru[ck]〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「貨幣資本〔Das Geldcapital〕」← 「資本〔Capital〕」〉 (207-208頁)

 〈(資本の価格としての利子というのは、もともとまったく不合理な表現です。というのは、利子生み資本においては、一つの商品が二重の価値を持っています。まず第一にそはある価値を持ちます。それは一定の貨幣額なのですから。次ぎにその価値とは違った価格(利子)をもっています。価格というのは、本来は価値の貨幣表現なのですから、だからここでは一つの商品が二重の価値をもつことになってしまいます。)貨幣資本は、さしあたりは、ある貨幣額です。または、一定の商品量の価値が貨幣額として固定されたものです。もし商品が資本として貸しつけられるとすれば、その商品は、ただある貨幣額の仮装形態でしかありません。というのは、資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく、綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからです。だから、資本の価格は、トランズ氏の言うように通貨としての、ではないにしても、貨幣額としての資本に関連します。いったいどうして、ある価値額は、それ自身の貨幣形態で表されている価格のほかに、ある価格を持つのでしょうか? 価格とは、商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのですから。(市場価格の場合もやはりそうであって、ただ価値量に関連するだけです。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは、名辞矛盾(=概念矛盾)です。トゥクは「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である」と書いていますが、交換価値、つまり利子が資本の使用価値になる、そしてこのことによって、資本は交換価値を生み出す使用価値をもつ労働能力と同一視されますが、こうした事柄そのものにある混乱が彼には分からないのです。〉

 【これは原注a)に関連づけて追加された一文のようであるが、ようするに「利子」が「価格」というのは、価格の概念からしても不合理だということがいろいろと述べられている。またトゥクもこの点では混乱していることが指摘されている。まあ、こうしたこと自体にはそれほど理解の困難さはないから次ぎに行こう。】


【72】

 [429]/294上/このことからも明らかなように,貨幣によって媒介される交換,つまり買い手と売り手という単純な諸関係を直接にこの場合に適用しようとすることは,じつにはじめからばかげたことである。根本前提は,貨幣が資本として機能するということ,したがってまた資本(即自的な)として,第三者に引き渡されることができるということなのである。

  ①〔異文〕「買い手と売り手という単純な諸関係」← 「諸商品と〔……〕との諸関係」
  ②〔異文〕「(即自的な)」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「貸し付けられる」という書きかけが消されている。〉 (208-209頁)

 〈このことから分かりますように、貨幣によって媒介される交換、つまり買い手と売り手という単純な諸関係を、直接この場合(利子生み資本の場合)に適用しようとすることは、実に、はじめから馬鹿げたことなのです。根本前提は、貨幣が資本として機能するということです。だからまた即時的資本として第三者に引き渡されることができるということなのです。〉

 【ここでもマルクスは、貨幣が商品として販売されるのはそれが資本として機能するからだと強調している。だからこそその販売は貸付になり、その購買は借受になるわけである。根本前提は貨幣が資本として機能するということであり、貨幣が即時的な(潜在的な、可能的な)資本として第三者に引き渡されるということなのである。】

  (以下、続く)

2019年7月 7日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第50パラグラフからである。


【50】

 |292上|これまでの考察は,所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるだけである。今度は利子を考察しなければならない。

  ①〔異文〕「所有者と」← 「貸し手と」〉 (197-198頁)

 〈これまでの考察は、所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるものだけでした。今度は利子を考察することにしましょう。〉

 【これまでは利子生み資本の考察を行い、それに固有の運動を考察してきたが、ここからは話を転じて、「利子」の考察に移っている。】


【51】

 貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡す。彼が第三者に譲渡する商品は,資本であって,だからこそ彼のもとに還流する〔returniren〕のであり,売られるのではなくて,一定期間のあいだ貸し付けられるだけである。しかし,その額がただ帰ってくるだけでは,それは貸し付けられた価値額の資本としての還流〔return〕ではなくて,貸し付けられた価値額のたんなる返済であろう。資本として還流する〔returniren〕ためには,ただ前貸された価値額が,運動のなかで自分を維持しただけではなく,運動のなかで自分を増殖し,その価値量をふやしていなければならず,つまり剰余価値を伴って,G+△Gとして帰ってこなければならない。そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である。

  ①〔異文〕「帰ってくる〔Rückkehrung〕」← 「返済[される]〔Rückzahl[ung]〕」
  ②〔異文〕「貸し付けられた価値額の」← 「資本の」〉 (198頁)

 〈貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡します。彼が第三者に譲渡する商品は、資本なのです。だからそれは彼のもとに還流します。それは売られるのではなく、一定期間のあいだ貸しつけられるのです。しかしその額がただ帰ってくるだけでは、それは貸しつけられた価値額の資本としての還流とはいえません。ただ単なる貸しつけられた価値額のたんる返済でしょう。それが資本として還流するためには、前貸しされた価値額が、運動の中で自分を維持するだけではなく、運動の中で自分を増殖し、その価値額をふやしていなければなりません。つまり剰余価値を伴って、G+ΔGとして帰って来なければならないのです。そしてこのΔGこそ利子なのです。これは利潤(平均利潤)のうちの機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分なのです。〉

 【まずここでは利子とは何かを規定している。それは利子生み資本が貸しつけられて、資本として機能する過程での増殖分であり、よって機能資本家が彼が獲得した利潤(平均利潤)のうち、彼の手に留まっていないで貨幣資本家のものになる部分だとしている。それは金額的には平均利潤から企業利得を差し引いたものに該当するが、しかし機能資本家にとってはまず利子支払があり、そして残った部分が自分の取り分(企業利得)となるのであって逆ではない。だからマルクスは利子を説明して〈そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である〉というややまどろっこしい説明をしているわけである。これは生産的資本家に利潤が還流しても、その一部は生産的資本家の手にとどまっていないでそのまま貨幣資本家へと還流してしまう部分として機能資本家には意識されるということなのである。それがすなわち「利子」なのだというわけである。】


【52】

 〈それが資本として彼によって譲渡されるということは,それがG+△Gとして彼に還流させられなければならないということである。{中間の時期に利子は還流する〔returniren〕が,資本は還流しないという形態は,あとでもう一度別に考察されなければならない。}〉 (198-199頁)

 〈それはすでに何度も述べたが、資本として彼(貨幣資本家)によって譲渡されるのです。だからそれはG+ΔGとして彼に還流しなければならないのです。(もちろん、中間の時期に利子だけが還流して、資本は還流しないという形態もありますが、そうしたものはもっとあとで別に考察されなければなりません。)〉

 【ここでも利子生み資本は、あくまでも資本として第三者に譲渡されるということが強調されている。だからそれは利子を伴って還流しなければならないのである。また利子だけが還流して、もとの資本はある一定の時期を待って還流する場合や、あるいは利子と共にもとの資本の一部分ずつが少しずつ還流するというような形態、つまり資本と利子の還流の諸形態そのものはもう一度別に考察するとの断りがなされている。】


【53】

 〈貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,借り手〔Leiher〕である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである。〉 (199頁)

 〈貨幣資本家は、借り手である生産的資本家に何を与えるのでしょうか。前者は後者に実際には何を譲渡するのでしょうか。そして、ただこの譲渡という行為(その内容)だけが、貨幣の貸付を、資本としての貨幣の譲渡に、つまり商品としての資本そのものの譲渡に、するのです。〉

 【貨幣資本家は、生産的資本家に何を与えるのか? との問いが発せられている。それは実際には貨幣を譲渡するのであるが、その貨幣は平均利潤を生むという独特の使用価値をもっている。だから前者は後者に何を譲渡するのか、といえば、それは資本として利潤を生む使用価値を譲渡するわけである。しかしその使用価値の実現というのは、その貨幣を資本として機能させるということであって、新たな増殖された価値として還流させるということである。ただここでマルクスが〈そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と述べている意図がいま一つはっきりしない。これでマルクスは何を言いたいのであろうか。そこで〈ただ譲渡という行為だけが〉というのは、その譲渡の内容、何が譲渡されるかということこそが、〈資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と理解すれば、譲渡の内容、つまり平均利潤を生むという独特の使用価値が譲渡されるという内容が問題であることが分かるのではないかと思う。】


【54】

 資本が貨幣の貸し手によって--monied Capitalの形態で〔--〕商品として手放されるということ,または,彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは,ただこの譲渡という過程〔Prozeβ〕によってのみ行なわれるのである。〉 (199頁)

 〈資本が貨幣の貸し手によって、moneyed capitalという形態で、商品として手放されるということは、あるいはまた、彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは、ただこの譲渡という過程によってのみ行われるのです。〉

 【ここでも先のパラグラフにつづいて、「譲渡」という行為、あるいは過程が強調されている。こうした譲渡の強調にはどういう意図があるのか。これは【53】パラグラフで〈前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? 〉と問いながら、それにはっきりとした回答を与えているようには思えないことや。またそれに続く一文〈ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉も、譲渡が譲渡にするという同義反復のような文章になっていることなど、不可解なことが続く。しかしいずれにせよ平均利潤を生むという独特の使用価値を譲渡するから、それは〈資本としての貨幣の譲渡に〉なるということ、あるいは商品としての資本そのものの譲渡にする〉ということであろう。】


【55】

 普通の販売ではなにが譲渡されるのか? 売られる商品の価値ではない。というのは,この価値はただ形態を変えるだけだからである。この価値は,①現実に〔reell〕貨幣の形態で売り手の手に移る前に,価格として観念的に〔ideell〕商品のなかに存在している。同じ価値,そして同じ価値量が,ここではただ形態を取り替えるだけである。同じ価値,同じ価値量が一度は商品形態で存在し,もう一度は貨幣形態で存在する。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費にはいって行く)ものは,商品の使用価値であり,使用価値としての商品である。

  ① 〔異文〕「〔……〕ではなくて〔nicht〕」という書きかけが消されている。〉 (199頁)

 〈普通の商品の販売では何が譲渡されるのでしょうか? 売られる商品の価値ではありません。というのは商品の価値はただ形態を変えるだけだからです。この価値は、現実に貨幣の形態で売り手の手に移る前に、価格として観念的に商品のなかにあります。同じ価値、そして同じ価値量が、ここではただ形態を取り替えるだけです。同じ価値、同じ価値量が一度は商品の形態で存在し、もう一度は今度は貨幣の形態で存在します。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費に入っていく)ものは、商品の使用価値であり、使用価値としての商品なのです。〉

 【このパラグラフで利子生み資本では何か譲渡されるか、と問うた【53】パラグラフの問いかけに答えるために、まずは普通の商品の販売では何が譲渡されるのかを問題にしている。それは商品の価値ではなく、その使用価値だというのがマルクスの回答である。だからまた利子生み資本としての一定の価値額の譲渡も、それの資本としての使用価値の譲渡なのだというのがマルクスが次ぎにいいたことなのであろう。つまり資本としての使用価値、平均利潤を生むという使用価値を譲渡するのだ、というのがマルクスが言いたいことで、それを強調するための展開なのである。ただこうしたことは利子生み資本そのものの規定で言われてきたことでもあるのであり、今は利子を考察する観点からもう一度問題にするということであろうか。】


【56】

 〈それでは,貨幣資本家〔monied capitaist〕が貸出期間のあいだ譲渡して,借り手〔Leiher〕である生産的資本家に譲る使用価値とはなにか?〉 (200頁)

 〈それでは貨幣資本家が貸出期間のあいだ譲渡して、借り手である生産的資本家に譲る使用価値とは何でしょうか?〉

 【利子生み資本としては、貨幣が独特の商品として第三者に引き渡される。この譲渡は何を譲渡するのか、普通の商品の販売では、価値は譲渡されず、その使用価値が譲渡されるのだが、利子生み資本としての貨幣の場合、商品としての貨幣の譲渡では、譲渡される使用価値とは何か、という問いであるが、これは利子生み資本の概念そのものを考察してきたものにとっては明らかである。それは平均利潤を生むという使用価値である。】


【57】

 〔それは,〕貨幣が資本に転化させられることができ,資本として機能することができる,ということによって,したがってまた,貨幣が自分の元来の価値量を維持し,保存する〔conserviren〕ことを別として,その運動中に一定[424]の剰余価値--平均利潤(それよりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然として,また資本としての資本の機能には外面的なこととして現われる)〔--〕を生むということによって,貨幣が受け取る使用価値〔である〕。

  ①〔異文〕「自分自身を」という書きかけが消されている。〉 (200頁)

 〈利子生み資本においては、譲渡される使用価値というのは、その譲渡される貨幣が資本に転化させられることができ、資本として機能することができるということです。貨幣が自分の元来の価値を維持し、保存するだけではなく、その運動のなかで一定の剰余価値を生むということ、それが商品としての貨幣の使用価値なのです。この剰余価値が平均利潤よりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然のこととして、また資本としての機能にとっては外面的なこととして現れますので、考慮する必要はありません。〉

 【これまでマルクスは「譲渡」ということを強調して、何を譲渡するのかと問うてきたが、それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値が譲渡されるのだということがここで明らかにされている。しかしこれらの考察は果たして利子そのものの考察としてどれだけ必要なものなのかはいま少しよく分からない。】


【58】

 〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家〔monied Capitalist〕は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである。〉 (200頁)

 〈このような、資本としての貨幣の使用価値、平均利潤を生むという使用価値、を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのです。この期間中は、前者は後者に貸しつけた資本の処分能力を譲るのです。〉

 【ここでようやく【53】パラグラフで発せられた問いに対する回答が与えられている。しかしこれはある意味では利子生み資本そのものの概念に含まれることでもあったのではないだろうか。なぜ、ここでそれが再び強調されるのか、それが問題である。しかしそれは先に進む中でおいおい明らかになるのであろう。】


【59】

 このようにして貸し付けられる貨幣は,そのかぎりでは,労働能力が生産的資本家にたいしてもつ地位と次のような類似点をもっている。(ただし,後者は労働能力の価値を支払うのであるが,生産的資本家は貸し付けられた資本の価値を単純に返済するのである。)生産的資本家にとっては,労働能力の使用価値は,労働能力自身がもっているよりも,また労働能力に費やされるよりも,より多くの価値(利潤)をその消費〔Consumtion〕のなかで生みだすということである。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値である。こうして同様に,前貸された貨幣資本の使用価値も,やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現われるのである。|

  ①〔異文〕「交換価値」← 「価値」〉 (200-201頁)

 〈このような利子生み資本がこのよう使用価値を持つものとして貸しつけられるということは、そのかぎりでは、労働能力が生産的資本家に対してもつ地位と次のよう類似点をもっています。(ただし、後者の場合は生産的資本家は労働能力の価値を支払うのであって、それを借り受けるのではありません。それに対して、利子生み資本では、生産的資本家は貸しつけられた資本の価値を単純に返済するのです)。生産的資本家にとっては、労働能力の使用価値は、労働能力自身がもっているよりも、また労働能力に費やされるよりも、より多くの価値(利潤)をその消費の中で生み出すということです。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値です。これと同様に、利子生み資本の場合も、前貸しされた貨幣資本の使用価値も、やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の貸付で譲渡されるのは、貨幣の資本として機能するという使用価値であることが確認されたが、こうした使用価値は、労働力の使用価値との類似点があるということが指摘されている。ただ労働力に対しては生産的資本家はその価値を支払うのだが、利子生み資本の場合はその貨幣額を貸しつけられるだけで、だから彼はそれを一定期間後にはただ返済するだけである。しかし生産的資本家にとっては労働能力の使用価値というのは、それがもっている価値以上の価値を生み出すという能力であり、その使用価値の実現、消費の過程で、資本家は剰余価値を得るのである。だから生産的資本家にとっての労働能力の使用価値というのは、この超過分(利潤)である。それと同じように、利子生み資本の場合も、その貸しつけられる貨幣の使用価値は平均利潤を生むというものであり、生産的資本家はその使用価値を実現して、利潤を得るわけである。】


【60】

 |293上|貨幣資本家〔monied capitalist〕は,じっさい,ある使用価値を譲渡するのであって,そうすることによって,彼が手放すものは商品として手放されるのである。そして,そのかぎりでは,商品としての商品との類似は完全である。1)一方の手から他方の手に移るものは価値である。普通の商品,商品としての商品の場合には,買う人の手にも売る人の手にも同じ価値がとどまっている。というのは,彼らは両方とも相変わらず,自分たちが譲渡したのと同じ価値を,ただし異なった形態で,つまり一方は商品形態で,他方は貨幣形態で,取り戻すのだからである。区別は,ただ貨幣資本家〔monied capita1ist〕のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということであるが,しかし彼は,返済〔repayment〕によってこの価値を保持する〔conserviren〕のである。一方の側だけによって価値が受け取られることができるのであるが,それは,この貸付という取引においては,一方の側だけによって価値が手放されるからである。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され,他方の側ではそれが受け取られて消費される〔erhalte u.consummirt werden〕。しかし,商品としての商品の場合とは違って,この使用価値はそれ自身が交換価値である。すなわち,(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分である。利潤はこの使用価値である。

  ①〔異文〕「彼が譲渡してしまうものは〔das,waserveraussertweg〕」という書きかけが消されている。〉 (201-202頁)

 〈貨幣資本家は、じっさい、ある使用価値を譲渡するのです。そうすることによって、彼が手放すものは商品として手放されるのです。そして、そのかぎりでは、商品としての商品との類似は完全です。なぜなら1)一方の手から他方の手に移るものは価値だからです。普通の商品、商品としての商品の場合には、買う人の手にも売る人の手にも同じ価値が留まっています。というのは、彼らは両方とも相変わらず、自分たちが譲渡したのと同じ価値をただ異なった形態で、つまり一方は商品形態で、他方は貨幣形態で、取り戻すのだからです。区別は、ただ貨幣資本家のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということですが、しかし彼は、返済によってこの価値を保持するのです。一方の側だけによって価値が受け取られることができますが、それはこの貸付という取引においては、一方の側だけによって価値が手放されるからです。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され、他方の側ではそれが受け取られて消費されます。しかし、商品としての商品の場合とは違って、この使用価値はそれ自身が交換価値なのです。つまり、(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分のことです。だから利潤はこの商品の使用価値なのです。】

 【ここでは貨幣資本家が譲渡する商品の使用価値の独特の性質を、普通の商品の売買と比較しながら、明らかにしている。それは確かに普通の商品の売買と類似しているが、しかし明らかに異なる点もあると指摘されている。まず類似点としては、それは商品として手放されるという点である。また手放されるのは商品の使用価値だということも類似している。しかし区別される点は、普通の商品の売買の場合は、価値は手放されないということである。しかし利子生み資本では価値そのものが手放されるわけである。しかしその代わりに手放される価値は、返済という形でもとに戻されなければならない。もう一つの区別は、普通の商品の場合、譲渡される使用価値は、購買者によって個人的に消費されるか、あるいは生産的に消費される。しかし利子生み資本の場合に譲渡される使用価値というのは、平均利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用価値の消費過程というのは、それを資本として機能させるということである。つまりその使用価値というのはそれを資本として機能させることによって生じる利潤こそがそれだとマルクスは指摘しているのである。】


【61】

 〈貸し出される貨幣の使用価値は,資本として機能することができるということ,資本として平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということである。a)/〉 (202頁)

 〈貸し出される貨幣の使用価値というのは、資本として機能することができるということです。つまり平均的事情のもでは平均利潤を生産するということです。〉

 【ここでも基本的には同じことが指摘されている。つまり利子生み資本で譲渡される貨幣の独特の使用価値というのは、それが資本として機能することかできるということである。平均利潤を生むことができるという使用価値なのである。】


【62】

 |293下|〔原注〕a)「利子を取ることの正当さ〔equitableness〕は,人が利潤をあげるかどうかによって定まるのではなく,それ」(借りられるもの)「が正しく使われれば利潤を生むという能力があるということによって定まるのである。」(『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この論題に関するサー・W.ペテイおよびロック氏の意見の検討』,ロンドン,1750年,49ページ。)(この書の匿名の筆者は,J.マッシーである。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用はカール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から取られている。(MEGAII/3.6,S.2125.14-16.)〉 (202頁)

 【これは原注でほぼ引用だけなので、特に平易な書き下しは不要であろう。この原注は【61】パラグラフに〈資本として機能することができる〉ということを、〈平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということ〉という説明と関連して付けられたものであろう。この原注では、利子は貸し出された資本がじっさいに利潤を得るかどうかではなく、それが正しく使われるなら利潤を生む能力があるということによって決まるのだと指摘されている。だから貸し出された貨幣が正当に資本として使用されなくても、しかし借り受けた人は利子を支払う義務を負うわけである。この原注は注解によれば61-63草稿からとられているが、その内容をもう少し長く抜粋して紹介しておこう。なかなか興味深いことが語られているからである。

 利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と関われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と問われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑧363-365頁)】

 (以下、続く)

2019年6月29日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-7)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第43パラグラフからである。


【43】

 〈①資本が自分の出発点に帰るということは,そもそも,資本がその総過程のなかで行なう特徴的な運動である。だから,このことはけっして利子生み資本を特徴づけるものではない。利子生み資本を特徴づけるものは,この復帰の,媒介から分離された,外面的な形態である。

  ①〔異文〕「第1に」という書きかけが消されている。〉 (190頁)

 〈プルドンは〈貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる〉と論じていますが、しかし資本が自分の出発点に帰るということそのものは、資本がその総過程のなかで行う特徴的な運動であって、決して利子生み資本に固有のものでも、それを特徴づけるものでもないのです。利子生み資本を特徴づけるものは、この資本の本来の復帰、現実資本の循環という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのです。〉

 【プルドンは資本の循環と貸付資本の循環の区別が分からずに混同しているわけである。それをマルクスは資本がその出発点に帰ってくるというのは資本が総過程のなかで行う特徴的な運動であって、利子生み資本を特徴づけるものではないという。もちろん、利子生み資本も資本である限りは、資本の総過程のなかで行う特徴的な運動を備えているが、しかしそれが利子生み資本を特徴づけるわけではない。あるいは利子生み資本とそれ以外の他の資本との区別をもたらすものではないというのが、マルクスのいわんとすることである。利子生み資本の運動を特徴づけるのは、現実資本の運動という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのだというのである。これは利子生み資本の第1の運動であるG_Gや、第2の運動であるG’_G'は再生産過程の外部の運動だとしていたのと同じことを述べているのである。】


【44】

 貸付資本家〔d.Capitalist préteur〕は,等価を受け取ることなしに自分の資本を手放し,それを生産的資本家に移転する。資本を手放すことは,けっして資本の現実の流通過程の行為ではなく,ただ生産的資本家の側での資本の流通を準備するだけである。このような,貨幣の第1の場所変換は,変態のどんな行為も,購買も販売も,表わしていない。所有は譲り渡されない〔d.propriéré n'est pascédée〕。なぜなら,交換過程も生じないし,等価も受け取られないからである。||291上|貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家〔capit.prêteur〕の手に帰るということは,ただ,資本を手放すという第1の行為を補足するだけである。資本は,貨幣として前貸されて,ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってくる。しかし,資本は,引き渡されるときに彼のものではなかったのだから,帰ってくるときにも彼のものではない。(再生産過程も,この資本を彼の所有に転化することはできない。)だから,彼はそれを貸し手〔Ausleiher〕に返さなければならない。資本を貸し手の手から借り手〔Leiher〕の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引であるが,この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく,ただそれを準備するeinleiten〕だけである。復帰した資本をふたたび借り手〔Leiher〕の手から貸し手の手に返済する復帰は,第2の法律的取引であり,第1の取引の補足〔complement〕である。一方は現実の過程を準備し,他方は現実の過程のあとの補足的な行為である。だから,貸付資本の出発点-手放し,復帰点-返済は,任意な,法律的取引によって媒介される運動として現われるのであって,これらの運動は資本の現実の運動の前後に行なわれるもので,この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。というのは,資本がはじめから生産的資本家のものであり,したがって彼の所有として彼の手に還流する〔returniren〕だけであったとしても,それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことであろうからである。第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。貸し手と借り手とのあいだの取引だけを考察するかぎりでは--そしてしばらく利子を無視すれば,つまり貸し手と借り手〔Leiher〕とのあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするかぎりでは--,(資本の現実の運動が行なわれる)長短の時間によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括する。[421]そしてそもそもこの運動,ある価値額の,それの所有者から,この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転,すなわち取り戻しを条件とする手放しが,貸付と借受の,すなわち,貨幣または商品のただ条件つきでの〔conditionel1〕譲渡というこの独自な形態の,運動なのである。十十)/

  ①〔異文〕「第1の」--書き加えられている。
  ②〔訂正〕「それ〔es〕」〔資本を指す〕--手稿では「それ〔sie〕」となっている。〔1894年のエンゲルス版〕刊本にならって訂正。〔sieではなにを指すのかわからない。〕
  ③〔異文〕「準備〔einleitend」〕--書き加えられている。
  ④〔異文〕「借り手に手放す」← 「借り手に与える」
  ⑤〔異文〕「すなわち取り戻しを条件とする手放し」--書き加えられている。〉 (190-193頁)

 〈貸付資本家は、等価を受けとることになしに自分の資本を手放し、それを生産的資本家に移転します。この第1の資本の移転、つまり資本を手放すことは、決して資本の現実の流通過程の行為ではありません。それはただ生産的資本家の側での資本の準備するだけです。このような貨幣の第1の場所変換は、商品価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も、表していません。所有は譲り渡されていません。というのは、交換過程自体が生じていないからです。だから等価も受け取られていません。
 貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るということは、ただ、資本を手放すという第1の行為を補足するだけです。資本は、貨幣とし前貸しされて、ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってきます。しかし、資本は、引き渡されるときに彼のものではなかったのだから、それが帰って来たとしてもやはり彼のものではないのです。(再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできないのです。)だから、彼はそれを貸し手に返さなければなりません。
 資本を貸し手の手から借り手の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引ですが、この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とは何の関係もありません。それはただそれを準備するだけです。復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引ですが、それは第1の取引の補足です。一方は現実の資本の出発点を準備し、他方は現実の過程のあとの補足的な行為です。だから、貸付資本の出発点-手放し、復帰点-返済は、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのです。これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないのです。というのは、資本がはじめから生産的資本家のものであり、したがって彼の所有として彼の手に還流するだけであったとしても、それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことでしょうからです。
 第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手に手放します。第2の補足的行為では借り手が資本を貸し手に返します。貸し手と借り手との間の取引だけを考察するならば--そしてしばらく利子を無視するとすれば、つまり貸し手と借り手のあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするのであれば--、現実の資本の運動が行われる時間の長短によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括しています。そしてそもそもこの運動、あるいは価値額の、それの所有者から、この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転、すなわち取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、つまり貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態の運動なのです。〉

 【ここでは利子生み資本の独自な運動の幾つかの特徴が指摘されている。それをわれわれは分かりやすくするために箇条書き的に書き直してみよう。
 (1)貸付資本の第1の運動、G-Gは、等価を受け取るものではなく、商品の価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も表していない。
 (2)だからそれは資本の現実の流通過程の行為ではない。
 (3)第1の場所変換は、生産的資本家の側での流通を準備するだけである。
 (4)第1の場所変換では、しかし所有は譲り渡されない。なぜなら、交換過程が生じないし、等価が受け取られるわけではないから。
 (5)生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るのは、ただ、最初の資本を手放した第1の行為を補足するだけである。
 (6)現実の資本家は、資本を前貸しして、ふたたび貨幣形態で彼の手にそれが帰ってくるのであるが、しかし資本が最初に彼の手から引き渡される時点ですでに彼のものではなかったのだから、それが復帰してもやはり彼のものではない。再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできなかった。だから彼はそれを貸し手に返さなければならない。
 (7)資本の貸し手の手から借り手の手に移転する第1の行為は法律上の取引であるが、これは現実の資本の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく、ただそれを準備するだけである。
 (8)生産的資本家の手に復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引であるが、それは第1の取引の補足である。
 (9)一方は現実の過程の準備であり、他方は現実の過程のあとの補足的行為である。
 (10)第1の行為も、その補足としての第2の行為も、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。
 (11)というのはもし第1の行為も第2の行為もなく、資本がはじめから生産的資本家のものであって、彼の所有として彼の手に還流するのであっても、資本の現実の運動にとってはどうでもよいことだからである。
 (12)第1の行為と第2の行為との間には資本の現実の運動が行われる長短の時間によって分離されているが、しかしこの二つの前後の行為がこの運動の全体を包括するものである。
 (13)ある価値額の運動、すなわち一定期間後に返済しなければならないという条件によるある第三者への移転、つまり取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態こそが利子生み資本の運動の独自性なのである。

 結局、箇条書き的に書いてみたが、それ自体が長くなってわけのわからないものになったが、要するに、マルクスが利子生み資本の独自の運動として述べていることは、次の三点に要約することができるだろう。
 (1)利子生み資本としての一定の価値額(貨幣あるいは商品)の第1の場所変換も第2の場所変換も現実の資本の再生産過程とは何の関係もないということ。
 (2)またそれらは現実の資本の運動の準備、あるいはその補足として、現実の資本の運動の前やあとに行われるだけの、任意な、法律的行為であるということ。
 (3)このような取り戻しを条件とする手放し、貸付と借受こそが利子生み資本の独自な運動形態である。
 とまあ、とりあえず以上を踏まえておけばいいだろ。】


【45】

 |291下|十十)資本の特徴的な運動は,貨幣の資本家への復帰である。資本のそれの出発点へのこの復帰は,利子生み資本では,この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離された,まったく外面的な姿態を受け取る。Aが自分の貨幣を引き渡すのは,貨幣としてではなく,資本としてである。ここでは資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は,Bの手によってはじめて行なわれる。しかし,Aにとってそれが資本となったのは,Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流〔Return〕が生じるのはBにとってである。しかし,Aにとっては還流〔Return〕は譲渡と同じ仕方で(たんなる返済として)行なわれる。それはBの手からふたたびAの手に帰る。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付),そして利子(剰余価値)をつけてのその回収,これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。貸し出された貨幣が資本として行なう現実の運動は,貨幣〔money〕の貸し手と借り手〔lenderu,borrower〕とのあいだの取引のかなたにある操作である。これらの取引では,この媒介は消えていて,見えなくなっており,直接にはそれに含まれていない。独特の種類の商品〔Waare suigeneris〕として,資本はまた特有な譲渡の形態をもっている。したがってまた,ここでは還流も一系列の経済的諸過程〔Prozesse〕の帰結や結果として表現されるのではなく,買い手と売り手とのあいだの特殊的な〔besonder〕法律上の約定〔Conventlon〕の結果として表現されるのである。還流〔Return〕の時間は現実の生産過程にかかっている。利子生み資本では,資本としてのその還流は,貸し手と借り手〔Borger〕とのあいだのたんなる約定〔Convention〕によって定まるかのように見える。したがって,資本の還流〔Return〕は,この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで,まるで,貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見える。たしかにこれらの取引は現実の還流〔real returns〕によって規定されている。しかし,このことは取引そのもののなかには現われない。{経験上でもつねに現われない,というわけではけっしてない。もし現実の還流〔real return〕が適時に行なわれないならば,借り手〔borrower〕は,そのほかのどんな財源〔resources〕から貸し手〔lender〕にたいする自分の債務〔obligations〕を履行すればよいかを考えなければならない。}資本のたんなる形態,すなわち,Aという金額として引き渡されて,ある期間のうちに,引き渡しと返済とのあ[422]いだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに,A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。〔十十)による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕手稿では,この補足〔++)以下の部分〕は手稿のこのページの最後に書かれており,++という標識によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフのここから,{}が付された文の直前までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から,変更を加えて取られている。(MEGAII/3.4,S.1456.3-1457.21und1458.24-31.)
  ③〔異文〕「特有な〔eigenthümlich〕」← 「固有の〔eigen〕」
  ④〔異文〕「約定〔Convention〕」← 「取[引]〔Tra[nsaction]〕」〉  (193-195頁)

 〈一般的に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰です。資本のその出発点への復帰という点では、利子生み資本では、この復帰という形態をとる現実の資本からは切り離された、まったく外面的な姿態を受け取ります。Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてです。ここでは資本には何の変化も生じません。それはただ持ち手を取り替えるだけです。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手によってはじめて行われます。しかし、Aにとってはそれが資本となったのは、Bへのそのたんなる手放しによってです。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBにとってです。しかし、Aにとっては還流は譲渡と同じ仕方で、つまり現実の過程とは何の関係もない外面的な、単なる返済として行われます。それはBの手からふたたびAの手に帰ります。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体です。貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手との間の取引のかなたにある操作です。これらの取引では、この媒介は消えていて、見えませんし、直接にはそれに含まれていません。独特の種類の商品として、資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのです。したがって、ここでは還流も一系列の経済的諸過程の帰結や結果として表現されるのではなく、買い手と売り手とのあいだの特殊的な法律上の約定の結果として表現されるのです。実際の還流の時間は現実の生産過程にかかっています。しかし利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えます。だから利子生み資本の場合、資本の還流はもはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見えるのです。たしかにこれらの取引は現実資本の還流によって規定されています。しかしこのことは利子生み資本の貸し借りという取引そのものなかには現れないのです。{経験上でも常に現れないというわけではありません。もし現実の還流が適時に行われなければ、借り手は、その以外のどんな財源から貸し手にたいする自分の債務を履行すればよいかを考えなければならないからです。}資本のたんなる形態、つまりAという金額として引き渡されて、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。これこそが利子生み資本に固有の運動なのです。 〉

 【これは291頁の下段に書かれているが、同頁の本文、つまり先のパラグラフの補足であり、追加と考えられる。注解によれば、前半のほとんどは61-63草稿から変更を加えて取られているということだから、まずその原文を見ておくことにしよう。しかし指摘されている頁数はかなりのものであり、全体を抜き書きすると大きなものになるが、しかし書かれていることはこれまでのテキストとも関連するので、全体を抜粋しておこう(但し、煩雑を避けるために、MEGAによる異文や注解等は省略する)。

  〈資本の特徴的な運動は、生産過程にあっても流通過程にあっても、貨幣または商品がその出発点たる資本家のもとに復帰するということである。これは、商品がその生産条件に転化させられ生産条件が再び商品の形態に転化させられるという実体的な変態、すなわち再生産を表わすとともに、他方では、商品が貨幣に転化させられ貨幣が再び商品に転化させられるという形態的な変態を表わしている。そして最後に、価値が何倍にもされること、G-W-G'を表わしている。元の価値、といってもこの過程のなかで増大するのではあるが、それはつねに同じ資本家の手のなかにある。ただ、彼の手のなかにあるこの価値の形態が、貨幣や商品として、または生産過程そのものの形態というように、変わるだけである。このような、その出発点への資本の復帰は、利子生み資本にあっては、この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離されたまったく外的な姿を受け取る。Aは彼の貨幣を支出するが、貨幣としてではなく、資本としてである。ここでは貨幣にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。この貨幣の資本への現実の転化はBの手のなかではじめて行なわれる。しかし、Aにとっては、それは、Aの手からBの手への貨幣の移行によって、資本になっている。生産過程および流通過程からのこの資本の現実の復帰は、Bにとって行なわれる。しかし、Aにとっては回収は譲渡と同じ仕方で行なわれる。それはBの手から再びAの手に帰ってくる。Aは貨幣を貸すのであって、支出するのではない。
  資本の現実の生産過程における貨幣のどの場所変換も、貨幣の労働への転化であれ、完成商品の貨幣への転化(生産行為の結び)であれ、貨幣の商品への再転化(生産過程の更新、再生産の再開)であれ、再生産の一契機を表わしている。貨幣の場所変換は、貨幣が資本として貸される場合には、つまり資本に転化させられるのではなくて資本として流通にはいる場合には、一方の手から他方の手へ同じ貨幣の引き渡し以外のなにものをも表わしてはいない。所有権は引き続き貸し主の手にあるが、占有は産業資本家の手に移っている。しかし、貸し手にとっては、貨幣の資本への転化は、彼がそれを貨幣として支出せずに資本として支出する瞬間から、すなわちそれを産業資本家の手に渡す瞬間から、始まるのである。(彼がそれを産業家にではなく浪費家に貸しても、あるいはまた家賃を支払うことができない労働者に貸しても、それが彼にとって資本であることに変わりはない。質屋の歴史のすべて。)確かに、他方の人はそれを資本に転化させる。しかし、それは、貸し手と借り手とのあいだで行なわれる操作とは別のところで行なわれる操作である。貸し手と借り手とのあいだの操作ではこの媒介は消え去っており、自には見えず、直接にそのなかに含まれてはいない。貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただその無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、すなわちそれ自身に含まれているよりも大きな交換価値を創造するという使用価値となる。貨幣は自分を価値増殖する価値として貸される。商品〔として〕、だが、まさにこの属性によって商品としての商品から区別され、したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔として〕、貸される。
  資本の出発点は、商品所持者であり、貨幣所持者であり、簡単に言えば、資本家である。資本の場合には出発点と復帰点とは同じなのだから、それは資本家のもとに帰ってくる。だが、ここでは資本家は二重に存在する。すなわち、資本の所有者と、現実に貨幣を資本に転化させる産業資本家とである。事実上は資本は彼から流れ出て彼のもとに帰る。しかし、ただ、所有権保持者としての彼から彼へである。資本家は二重に存在する。法律的にと経済的にとである。したがってまた、所有物としては資本は法律上の資本家の手に、腹黒い男の手に、帰ってくる。しかし、資本価値の維持を含んでいて、資本をば自分を維持し永久化する価値として措定するところの、資本の復帰は、確かに資本家第二号にとっては媒介されているが、しかし資本家第一号にとっては媒介されてはいない。したがってまた、復帰はここでは一連の経済的過程の帰結および成果としては現われないで、買い手と売り手とのあいだの特殊な法律上の取引、すなわち、それが売られないで貸し付けられしたがってただ一時的に譲渡されるにすぎないという取引の結果として現われるのである。実際に売られるものは資本の使用価値なのであって、それはここでは交換価値を生むという、利潤を生産するという、資本そのものに含まれているよりも多くの価値を生産するという使用価値なのである。貨幣としては、使用されることによって変えられるわけではない。だが、貨幣としてそれは支出され、そして貨幣としてそれは還流するのである。
  資本が還流するときにとる形態は、資本の再生産様式によって定まる。それが貨幣として貸し出されるならば、それは流動資本の形態で帰ってくる。全価値・プラス・剰余価値として帰ってくる。この剰余価値は、ここでは剰余価値または利潤のうち利子に分解する部分である。つまり、貸し出された貨幣額・プラス・そこから生じた増加額として帰ってくる。
  もしそれが機械や建物などの形態で貸し出されるならば、簡単に言えば、それが生産過程で固定資本として機能しなければならないような素材的形態で貸し出されるならば、それは固定資本の形態で帰ってくる。年賦払いとして、すなわち、たとえば年々、損耗補填分、すなわち固定資本のうち流通にはいっている価値部分に、剰余価値のうち利潤(ここでは利潤の一部分)、つまり利子として固定資本(--といってもそれが固定資本であるかぎりでではなく特定の大きさの資本一般であるかぎりで)にたいして計算された部分を加えたものとして、帰ってくる。
  すでに利潤そのものにおいて、剰余価値は、したがってまたその真の源泉も、不明瞭にされ、不可解にされている。
  一、なぜならば、形態的に見れば、利潤は剰余価値が前貸資本全体にたいして計算されたものであり、資本の各部分は、固定であろうと流動であろうと、原料、機械、労働のどれに投ぜられていようと、同じ大きさの利潤をもたらすからである。
  二、なぜならば、一般的利潤率の規定によって、たとえば500という一つの与えられた資本の場合に、もし剰余価値が50ならば、たとえばどの5分の1も10%をもたらすように、今では500とか100とかいう各資本は、どんな部面で働いていようと、そのなかの可変資本と不変資本との割合がどうであろうと、その回転期間などがどんなに違っていようと、まったく別の有機的諸条件をもった他の各資本と同様に、同じ期間には同じ平均利潤を、たとえば10%というそれを、もたらすからである。したがって、個別的に見た個々の諸資本の利潤と、それらの資本自身によってそれら自身の生産部面で創造される剰余価値とは、現実に違った大きさになるからである。
  もちろん、二つのものにおいては、ただ、すでに一つのなかにあったことがいっそう発展しているだけである。
  ところが、このようなすでに外面化された、まだ誕生の臍帯を示している最初の単純な姿とは違った、そして一見しただけではもはやけっして判別できない、剰余価値の形態、その利潤としての定在にこそ、利子は基づいているのである。利子は、利潤--利子自身はただこの利潤の特別な範疇または項目のもとに配列された一部分でしかない--を直接に前提するのであって、剰余価値を直接に前提するのではない。つまり、利子においては剰余価値は利潤におけるよりもさらにはるかに識別できなくなっているのである。というのは、利子は直接にはただ利潤の形態にある剰余価値に関係をもつだけだからである。
  復帰の時間は現実の生産過程によって定まる。利子生み資本にあっては、それの資本としての復帰は、貸し手と借り手とのあいだの単なる約束によって定まるように見える。だから、資本の復帰は、この取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、あたかも貨幣形態が一瞬も資本から失われないかのように見える。もちろん、この取引は現実の復帰によって規定されている。しかし、それは、この取引そのものには現われないのである。〉 (草稿集⑦409-413頁)

  こうして61-63草稿の当該部分を読んでみると、なかなか分かりやすく書かれていることが分かる。だからこれを読めば、テキストも分かるといえなくもないが、それでは格好がつかないので、一応、テキストの解読をやってみることにしよう。
 ここでも書かれていることをまず箇条書き的にまとめてみることにする。
 (1)まず一般に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰である。
 (2)利子生み資本では、この復帰という現実の資本の運動とは切り離された、まったく外面的形態を受け取る。
   (3)Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてである。
   (4)しかしAの引き渡しによっては資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手ではじめて行われる。   (5)しかしAにとっては、それが資本となったのは、Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBの手によってであるが、それはAには直接の関心はない。
   (6)Aにとって還流は、最初の譲渡と同じ仕方で、つまり単なる返済として行われる。
   (7)ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収(返済)、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。
   (8)貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手とのあいだの取引のかなたにある操作である。
   (9)貸し手と借り手との間の取引では、そうした現実の資本の運動という媒介は消えていて、見えないし、直接にはそれには含まれていない。
   (10)独特の種類の商品として、利子生み資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのである。したがって、ここでは還流も一系列の経済的過程の帰結や結果として表現されるのではなく、ただ買い手と売り手のあいだの特殊的な法律的な約定の結果として表現されるのである。
   (11)還流の時間は現実の生産過程にかかっているが、利子生み資本では、資本としてのその還流は、ただ貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えるのである。
   (12)だから利子生み資本の還流は、この貸し手と借り手のあいだの取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態から瞬時もなくならないように見えるのである。
   (13)確かに利子生み資本の取引も現実の還流に規定されている。しかし、このことはこの取引そのものの中には現れないのである。(もっとも経験上でもつねに現れないというわけではない。もし現実の還流が適時に行われないなら、借り手はそれ以外の財源でその債務の履行を考えなければならないから。)
   (14)利子生み資本のたんなる形態、つまりAという金額を引き渡し、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過する時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣、現実の運動の無概念的な形態、それが利子生み資本の運動の特徴なのである。

 まあ、いろいろと書かれていることを箇条書き的に書き直しただけであるが、要するに、このパラグラフでは利子生み資本の運動が現実の資本の運動に対して、外面的であること、だからその運動は無媒介的であり、無概念的な形態をとること。それはAという一定金額が、外観上、その貨幣という形態を一瞬も離れないままに、そのままある期間ののちには、A+[1/X]Aという金額として帰ってくるようにみえ、その間の現実の資本の運動という媒介なしに復帰するように見えるのだということである。そしてそれが利子生み資本という独特の種類の商品の特有な形態なのだというわけである。ここで追記部分は終わっている。】


【46】

 /291上/資本の現実の運動では,復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化される。それは生産過程の結果として商品になる。商品の販売によってそれは貨幣に転化され,この形態で,資本を最初に貨幣形態で前貸した資本家の手に帰ってくる。ところが,利子生み資本の場合には,復帰も手放しも,ただ資本の所有者とある第三者とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。それゆえまた,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とのあいだの関係に関するかぎり,それはただ,貨幣の貸付(貨幣の手放し〔Weggabe〕,手放し〔Entausserung〕)と借りられた貨幣の返済(それの還流)として現われるだけである。その間に生じたことは,すべて消えてしまっている。

  ①〔異文〕「復帰も手放しも,ただ」← 「復帰はただ」
  ②〔異文〕「手放し」--書き加えられている。〉 (195頁)

 〈資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機です。まず貨幣が生産手段に転化されます。そしてそれは生産過程の結果として商品になります。商品が販売されればそれは貨幣に転化されて、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家に手に帰ってきます。これが現実の資本の運動です。ところが利子生み資本には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との間の法律上の取引の結果でしかありません。だからまた、貨幣資本家と生産的資本家とのあいだの関係に関する限りでは、それはただ、貨幣の貸付(貨幣の手放し)と借りられた貨幣の返済(その還流)として現れるだけです。その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのです。〉

 【ここから291頁の上段に移っている。つまり【44】パラグラフに直接続く本文なのである。しかしここで書かれていることは、先の追記(【45】パラグラフ)で書かれていたことと何か別のことが言われているわけではない。むしろ追記の方がより詳しくそこらあたりのことは書かれていたといえるだろう。】


【47】

 しかし,資本として前貸される貨幣は,それを前貸する人,すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性をもっているのだから,G_W_G'が資本運動の内在的形態なのだから,貨幣所持者は,貨幣を,資本として,すなわち自分の出所に帰るという属性,運動のなかで自分を価値として維持する{そして増殖する}という属性をもつものとして,貸し付けることができるのである。彼がそれを資本として手放すのは,それが資本として使われ,その出発点に復帰するからであり,つまり,まさにそれが借り手〔Leiher〕自身のもとに還流するからこそある時間ののちには借り手から返済されることができるからである。

  ①〔異文〕「内在的形態」← 「一つの内在的形態」
  ②〔異文〕「のは,それが」← 「ときには,彼は〔……〕できる」〉 (195-196頁)

 〈貨幣が貸し手の手に返済される時点では、その間に生じたことはすべて消えてしまっていますが、しかし資本として前貸しされるのですから、その貨幣は、それを前貸しする人、すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性を当然もっています。だからG_W_G'が資本の運動の内在的形態なのですから、貨幣所持者は、貨幣を資本として、つまり自分の出所に帰るという属性を持ったものとして、運動のなかで自分の価値を維持し(そして増殖する)という属性をもつものとして、貸しつけることができるのです。彼がそれを資本として手放すのは、それが資本として使われ、その出発点に復帰するからです。つまりそれが借り手自身のもとに還流するからこそ、それはある時間ののちには、借り手から貸し手のもとに返済されることができるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の手放しと復帰というのは、現実資本の運動があってこそだということが確認されている。しかし利子生み資本の運動の全体は最初の貨幣の手放し(貸付)と最期の復帰(返済)がすべてであって、その間の現実の資本の運動そのものは利子生み資本の運動そのものには入ってこないということを謂わんがための確認である。】


【48】

 〈①だから,資本としての貨幣の貸付--ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放し--は,貨幣が資本として使用され現実にその出発点に還流するということにもとづいているのである。つまり,資本としての貨幣の現実の循環運動〔Cirkelbewegung〕は,貸し手から引き渡された貨幣が彼に還流しなければならないという法律上の取引に前提されているのである。{借り手〔Leiher〕がその貨幣を資本として引き渡さなくても,それは彼の勝手である。貸し手は貨幣を資本として貸すのであり,したがって貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのであって,貨幣の循環運動,つまり自分の出発点への貨幣の還流は,これらの機能を含んでいるのである。}

  ①〔異文〕「だから」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本としての貨幣の」← 「資本の」〉 (196-197頁)

 〈だから資本としての貨幣の貸付、ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放しは、その貸し出された貨幣が現実に資本として使用されてその出発点に還流するということにもとづいているのです。つまり資本としての現実の循環運動は、貸し手から引き渡された貨幣が貸し手のものに還流しなければならないという法律上の取引には前提されているのです。(もっとも貨幣の借り手がその貨幣を資本として投資するかどうかは彼の勝手です。しかし貸し手はあくまで貨幣を資本として貸すのですから、だから貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのです。つまりその価値を維持するだけではなく増殖もするという機能です。貨幣の還流運動、つまり自分の出発点への貨幣の還流は、これらの機能を含んでいるのです。)〉

 【ここでも利子生み資本の貸付と返済というその独自の運動は、本来は現実資本の循環運動を前提していることが指摘されている。貸付と返済は法律上の行為であり、取引であるが、しかしそこにはこうした現実資本の循環運動は前提されているのである。また貨幣の借り手がそれを現実の資本として投下するかどうかは彼の勝手であるが、しがし貨幣の貸し手はそれを資本として貸すのだから、それはやはり資本としての運動をなさねばならないのである。つまりその価値を維持し増殖するという運動をである。】


【49】

 〈資本が貨幣として,あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW_G'は,ただ媒介的過程でしかなくそれの総運動の個々の契機でしかない。資本としてはそれは運動G_G'を成し遂げるのである。それは,貨幣(またはなんらかの形態の価値額)として前貸されて,価値額として帰ってくる。貨幣の所有者は,それを商品の購買に支出するのではなく,あるいは,価値額が商品として存在する場合に貨幣と引き換えに売るのではなく,資本として,G_G'として,一定の期限後にふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として,前貸するのである。だから,それで買ったり[423]売ったりするのではなく,彼はそれを貸すのである。つまり,この貸付は,それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。(だからといって,貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない,というわけではけっしてない。)|〉 (197頁)

 〈資本が貨幣として、あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW'_G'は、単なる媒介的行為でしかありません。それらは資本の総運動の個々の契機でしかありません。資本としてはそれは全体としてはG_G'をなし遂げます。それは貨幣(またはなんからの形態の価値額)として前貸しされて、ある価値額として帰ってきます。しかし利子生み資本の場合は、貨幣の所持者は、それを商品の購買に支出するのではなく、あるいは価値額が商品として存在する場合には、貨幣と引き換えに売るのではなく、資本として、G_G'として、一定の期限後にはふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として、前貸しされるのです。だからそれを買ったり売ったりするのではなく、彼はそれを貸すのです。つまりこの貸付は、それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのです。(だからといって、貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない、というわけではけっしてありません。それは資本主義的な生産以前にもありました。〉

 【このパラグラフも基本的には、同じ問題を論じているといえる。貨幣の譲渡、あるいはある価値額の譲渡という場合、それは流通行為としては販売や購買である。しかしその場合は、貨幣や商品は単なる貨幣や商品として機能するだけであり、それが資本であるのはG_G'の全体の運動の契機として言いうるのみである。しかし利子生み資本の場合の貨幣(あるいはある価値額)の譲渡は、最初から資本としての手放しであり、商品の売買とは関係ない。それは貸されるのであり、返済されるわけである。だから貸付という形態は、一定の価値額を単なる貨幣や商品としてしてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。】

 (以下、続く)

2019年6月23日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-6)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第33パラグラフからである。

【33】

 〈/289上/信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは,売るということではないという理由で,プルドンにとってはよくないものに思われる。利子を取って貸すということは,自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である。」(同前,9ページ。)対象〔objet〕(貨幣や家などのような)は,売買の場合とは違って,所有者を取り替えない。ところが,彼が見ていないのは,貨幣が(利子生み資本として)手放される場合には,等価はなにも取り返されていないということである。どの売買行為でも,--およそ交換過程が行なわれるかぎりでは--たしかに対象Objekt〕は手放される。いつでも,売られるものの所有は譲り渡される。しかし,価値は手放されない。売られるときには商品は手放されるが,商品の価値は手放されず,この価値は,貨幣というかたちで(または,ここでは貨幣に代わる別の形態でしかないが,債務証書,支払請求権というかたちで)還流する。買われるときには貨幣は手放されるが,貨幣の価値は手放されず,この価値は商品というかたちで補填される。再生産過程の全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって,ただその価値の||290上|形態が変わるだけである。

①〔注解〕ここから,草稿290ページ上半のプルドン『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』140ページからの引用の終わりまでについては,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』を見よ。(MEGAII/3.4,S.1524.7-1525.23.)
②〔注解〕ここで引用されている文章は新聞『人民の声〔La voix dupeuple〕』の編集者のひとりだったシャルル-フランソア・シュヴェによるものである。彼は『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』(パリ,1850年)という書物のなかの第1の手紙を執筆した。
③〔異文〕「交換過程」← 「交換価値」〉 (185-187頁)

 〈『信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは、売るということではないという理由で、プルドンにとってはよくないものに思われます。利子をとって貸すということは、「自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である」(同前,9ページ)と考えるからです。貨幣や家のような対象を貸す場合は、それを売買する場合とは異なって、その所有者を取り替えません。それがどうやらプルドンには気に入らないのですが、彼が見ていないのは、貨幣が利子生み資本として手放される場合には、等価は何も受け取らないということです。どの売買行為でも、およそ交換過程でそれが行われる場合には、確かに対象は手放されます。いつでも売られるものの所有は譲り渡されます。しかし、その場合、対象の価値は手放されないのです。売られるときには商品は手放されますが、商品の価値は手放されず、この価値は、貨幣というかたちで還流するのです。あるいはその商品が信用で売られるなら、商品の価値は、貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのです。それとは逆に、買われるときには貨幣は手放されますが、貨幣の価値は手放されず、この価値は商品というかたちで補填されます。再生産過程を全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって、ただその価値の形態が変わるだけなのです。〉

 【このパラグラフは文献の抜粋から始まっているが、原注ではなく、289頁上段に書かれた本文である。この一文は、注解によれば61-63草稿からとられているらしいので、その該当部分を例によってまずは参照しておこう。

 〈『信用の無償性。Fr・バスティア氏とプルドン氏との論争』、パリ、185O年。それゆえ、貸すということは彼には有害なことと思われるのであるが、そのわけはそれが売ることではないからである。利子を取って貸すということは、「同じを絶えず繰り返し売って、その代わりに絶えず繰り返し代価を受け取りながら、売る物にたいする所有権はけっして譲渡しないという能力である。」(〔同前、〕9ページ。『ラ・ヴォア・デュ・プープル』の編集者の一人シェヴェの第一の手紙。)彼を迷わせているものは、「物」(たとえば貨幣や家)が売買の場合のように所有者を取り替えないということである。しかし、彼は次のことを見ていない。貨幣が手放されるときにはなんらの等価も取り返されていないが、これに反して現実の過程では、交換という形態で、またその基礎の上で、単に等価が受け取られるだけではなく、代価の支払われていない剰余が受け取られる。取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである。([43、]44ページ。)「実際、帽子屋は帽子を売って……その代わりに価値を、それ以上でもそれ以下でもなく、受け取る。だが、金貸し資本家は、……彼の資本をそっくりそのまま返してもらうだけではない。彼は、資本よりも多くを、自分が交換に投ずるよりも多くを、受け取る。彼は資本のほかに利子を受け取るのである。」(69ページ)P 〔プルドン〕氏の帽子屋は、資本家ではなくて職人たち〔Knoten〕、手工業職人であるらしい。〉 (草稿集⑦518-519頁)

 ここでは利子生み資本の固有の運動である貸付と返済の特徴を、商品の売買との対比によって明らかにすることが課題であるが、そのためにマルクスは、同じ問題を論じ、この違いがよく分からずに、金貸し資本家の不当を訴えるプルドンの主張を引きながら説明している。利子生み資本の貸出と商品の売買の相違は、一方は貨幣を手放しても、その所有権を保持しており、よってその一定期間後には利子をともなって返済を受けることにある。他方、売買の場合は、確かに売る側は商品を手放すが、商品の価値は手放さずに、彼はそれを貨幣という形で還流するし、買う場合は貨幣を手放すが、その貨幣の価値は手放さずに、それは商品というかたちで補填されるのだとしているわけである。またプルドンは利子生み資本の場合の貨幣の手放しでは、その対価は受けとらないことも見逃しているとも指摘されている。それに対して商品の売買の場合は、商品の売り手も、商品の買い手も、ともにそれらの価値を一つも手放すことなく、ただその価値の形態を変えているだけなのだ、というのがマルクスの指摘しているところである。
 またマルクスは商品の売買が信用にもとづいて行われる場合は、商品の価値は、すぐに貨幣のかたちで還流しないが、その代わりに貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのだとも指摘している。別のところではマルクスは信用での売買の場合は商品の価値は債務証書や支払約束という債権の形で実現しているとも指摘している。だからこの場合は商品の価値は実現しているのであるが、しかしそれはいまだ絶対的な価値定在としての貨幣としてではなく、その支払約束という形で実現しているということである。】

【34】

 交換〔échanges〕,すなわち諸対象〔objet〕の交換〔échanges〕が行なわれるかぎりでは,価値の変化〔change of values〕は生じない。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っている。しかし,資本家によって剰余価値が生産されるかぎりでは,交換〔échanges〕は行なわれない。そして交換〔échanges〕が行なわれるときには,剰余価値はすでに商品のなかに含まれている。〉 (187頁)

 〈諸対象の交換がおこなわれるかぎりでは、価値の変化は生じません。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っているだけです。しかし、資本家によって剰余価値が生産される限りでは、交換は行われないのです。そして一般に交換が行われるときには、すでに剰余価値は商品のなかに含まれています。〉

 【今回も、先の【33】パラグラフの考察の続きと考えられる。商品の交換では、価値の変化は生じないし、そこから資本家は剰余価値を得るわけではない。剰余価値が生産されるのは生産過程においてだから、その生産過程を経て生産物が商品として交換に出されるときには、すでにそこには剰余価値は含まれているのだということである。】

【35】

 そして個々の交換行為を見るのではなく資本の総循環〔Gesammtturnus〕G-W-G'を見るならば,絶えず一定の価値額が前貸されていて,この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き揚げられる。(この過程の媒介は,もちろん,たんなる交換行為では目に見えない。)そして,まさにこのような,資本としてのGの過程こそは,貸付資本家の利子がそれにもとづき,それから発現するものなのである。

①〔異文〕「もとづき,それから発現するものなのである。」← 「もとつくものなのである。」〉 (187頁)

 〈個々の交換行為そのものには何ら価値の変化を見ることはできませんが、しかし資本の総循環G_W_G'を見るのであれば、絶えず一定の価値額が前貸しされて、この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き上げられていることが分かります。だからたんなる商品の交換は、資本の全体の関連からみるなら商品資本の貨幣資本への転換であり、あるいは貨幣資本の商品資本への転換、つまり資本の運動として捉えることができるのです。もちろん、こうした全体の媒介の過程そのものは、単なる交換行為においては見ることはできません。単純な商品流通はブルジョア社会の表面に現象していますが、資本関係はその背後に隠されているからです。しかしまさにこのような資本としてのGの過程こそ、貸付資本家の利子がそれにもとづき、そこから発現するものなのです。〉

 【このパラグラフも同じ問題を論じている。単純流通は、われわれが『資本論』の冒頭で分析したものであるが、それはマルクスが『資本論』の冒頭で〈資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる〉(全集版23a47頁)と書いているように、それはブルジョア社会の表層に現れている(現象している)商品を直接観察・分析するところから開始されている。こうした単純な商品や貨幣は実際にはその背後に隠されたより具体的な内容規定を帯びているのであるが、とりあえずはわれわれはそうしたものを捨象して、目に見えるあるがままのものをそれ自体として分析の対象にしているのである。しかしそれらが資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富であり、よって資本家的な商品、すなわち商品資本であり、貨幣資本でもあることは前提されているのである(この点、宇野はこうしたことがわかっていないのだが)。しかしそうした資本関係は、単純流通では背後に隠され、目に見えない。それは資本の総循環を全体として考察して初めてわれわれに捉えることができるものである。そうするとそれは一定の前貸しされた価値が、この価値額・プラス・剰余価値または利潤として流通から引き上げられ、それが繰り返されていることが分かるのである。こうした全体の媒介からみれば単なる商品や貨幣も、商品資本や貨幣資本として捉えることができるのである。そしてわれわれが当面の考察の対象にしている利子も、まさにこうした生産的資本家の生産する剰余価値を源泉にしているということである。】

【36】

 〈「じっさい,帽子を売る帽子製造業者は……帽子のかわりにその価値を受け取るのであり,それより[419]多くも少なくも受け取らない。ところが,貸付資本家〔capitalistepreteur〕は……自分の資本をそっくりそのまま取り返すだけではない。彼は,資本よりも多くを,彼が交換に投じるよりも多くを,受け取る。彼は資本のうえに利子を受け取る。」(同前,69ページ。)〉 (187頁)

 【このパラグラフは引用文だけのなで、平易な書き下ろしは不要であろう。これは〈(同前,69ページ。)とあるように、【33】パラグラフの冒頭〈信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年〉からのものであり、すでにそのパラグラフの考察の中で紹介した61-63草稿の一文の最期の部分をほぼそのまま書き移したものである。
 プルドンは貸付資本家も彼のもつ貨幣を〈交換に投じる〉と考えているが、それについてマルクスはプルドンは貸付資本家の場合、彼の貨幣に対する対価は何も受け取らないことを見ていないと指摘していた。帽子を売る帽子屋は、帽子を手渡すかわりにその価値を貨幣の形で受け取るが、金貸資本家は貨幣をただ手放すだけである。もっとも所有権そのものを彼は保持しており、よってそれは一定期間後には彼のもとに還流する必要があるのであるが。ようするにプルドンは商品の売買と利子生み資本の運動との相違を明確につかんでいないということである。】

【37】

 ここでは帽子製造業者は,貸付資本家〔capitahstepr6teur〕に対立する生産的資本家を代表する。どのようにして生産的資本家は商品をそれの価値で売ることができるのか(生産価格への均等化はプルドンによる問題の把握にとってはどうでもよいことである),また,まさにそうすることによって,どうして自分が交換に投じる資本を越えて〔en sus du capital qu'il a apporté à 1'échange〕利潤を実現するのか,この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかった。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング,またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しい(したがって帽子を生産する資本は平均的社会的な構成の資本だ)と仮定しよう。利潤が15%ならば,帽子製造業者は,資本をその価値どおりに115ポンド・スターリングで売ることによって,15ポンド・スターリングの利潤を実現する。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていない。彼が自分の資本で生産したのならば,彼は①剰余の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまう。もし借りた資本で生産したのならば,彼はたとえばそのうちから5ポンド・スターリングを利子として渡さなければならない。このことは少しも帽子価値を変えるものではなく,ただ,この価値に含まれている剰余価値の,いろいろな人びとのあいだの分配を変えるだけである。つまり帽子の価値は利子の支払いによっては影響を受けないのだから,すでにまえに解明した次のばか話には根拠がないのである。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)a)/

① 異文〕「剰余の15ポンド・スターリングを」← 「115ポンド・スターリングを」〉 (187-188頁)

 〈プルドンにおいては帽子製造業者は、貸付資本家に対立する生産的資本家を代表しています。ではどのようにして生産的資本家は商品をその価値で売ることができるのでしょうか(生産価格への均等化はプルドンの問題の把握にとってはどうでもよいので考慮に入れないでおきます)。そしてそれによって彼はどうして自分が交換に投じる資本を越えて利潤を実現するのでしょうか。この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかったのです。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング、またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しいとします(つまり帽子を生産する帽子製造業者は社会的に平均的な資本構成だと仮定します)。そうすると平均利潤率が15%だとするなら、帽子製造業者は、商品資本をその価値通りに115ポンド・スターリングで売ることによって、15ポンド・スターリングの利潤を実現します。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていません。彼が自分の資本で生産したのなら、彼は剰余価値の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまうでしょう。しかしもし彼が借りた資本で生産したのであれば、彼はそのうち例えば5ポンド・スターリングを利子として渡さなければなりません。このことは少しも帽子の価値を変えるものではありません。ただ帽子の価値に含まれている剰余価値の、いろいろな人々のあいだへの分配を変えるだけです。帽子の価値は利子の支払によっては影響を受けないのですから、すでに前に解明した次の馬鹿話には根拠がないのです。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)〉

 【このパラグラフの最期でマルクスが引用している一文は、さきに【33】パラグラフで紹介した61-63草稿から抜粋したものに直接続く、次のような一文から移されたもののようである。

 〈「商業では資本の利子が労働者の賃金に加わって商品の価格構成するのだから、労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことは不可能である。自分の労働によって生活するということは、利子制度のもとでは、矛盾を含む原理である。」(105ページ)第九の手紙(144-152ページ)のなかでは、この勇ましいP〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同していて、そのために、フランスに存在する「資本」は160%になる(つまり、10億の資本……「フランスで流通している通貨の総額」にたいして、国債や抵当などでの年利が16億になる)と推論している。〉 (草稿集⑦519頁)

 ここではプルドンが、流通手段としての貨幣と利子生み資本との区別ができず混同しているのであるが、さらに彼はそもそも生産資本家が商品をその価値で販売し、しかもそうすることによって自分が交換に投じた資本を越えて如何にして利潤を実現するのかについて、その秘密について見破っていないことを指摘し、そのカラクリを暴いている。マルクスは生産価格への均等化はプルドンの問題を論じるには必要ないといいながら、しかし具体的例では生産価格を前提して論じ、その平均的資本構成という前提のもとに生産価格と価値が一致しているケースとして論じている。そして利子が剰余価値から分割されたものであって、利子の支払によっては商品の価値には何の変化も生じないことを論証している。そしてそのことは商品の価格が利潤(利子)・賃金・地代によって構成されるとする価値構成説の俗説、馬鹿話には何の根拠もないのだとしているのである。】

【38】

 |290下|〔原注〕a)それだから,「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる。ルターはプルドンよりはいくらか高みに立っていた。彼は,利潤をあげるということが貸すとか売るこという形態によるものではないということをすでに知っていた。購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」(M.ルター牧師諸氏へ,高利に反対して,云々』,ヴィッテンベルク,1540年。)〔原注a)終わり〕|

①〔注解〕この一文はバスティア=プルドンでは次のとおり。--「もし商業信用または抵当信用が,言い換えれば貨幣資本が,もっぱら流通するという機能を果たす資本が,無償であるなら,家屋という資本はやがてそれ自身になり,家屋はもはや実際には資本ではなく,商品であろう。……原価で。」
②〔注解〕ルターからの抜粋でマルクスはルターの綴り方でではなく,高地ドイツ語の正書法を使っている。〉 (189頁)

 〈プルドンには、利子の支払は商品の価値には影響せず、ただその価値に含まれている剰余価値の分配に影響を与えるだけだということが分からない。だから、「家屋」や「貨幣」などは「資本」として貸しつけられるのではなく、「商品」として「原価で」譲渡されるのだということになるのです。ルターはこうしたプルドンよりいくらかは高みに立っていました。彼は、利潤をあげることが貸すとか売ることという形態によるものではないということをすでに知っていました。彼は次のように述べているからです。「購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」つまりルターは購買や貸付による高利を不当とするのですが、それは高利の源泉が、そうした購買や貸付の形態から生じるものではないということを示唆しているのです。〉

 【このパラグラフは先のパラグラフを直接受けた原注である。先のパラグラフはプルドンの引用で終わっているが、この引用のあとに61-63草稿では〈P〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同してい〉ると指摘していた。まさにこうした混同した立場にたっているから〈「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる〉と指摘されているのである。この部分は、すでに【33】の考察のところで紹介した61-63草稿の〈取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである〉という部分から引用されている。ここでは〈プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない〉と指摘されている。それに対してルターの場合は、高利の源泉が交換からは出てこないということに気づいているとマルクスは考えているわけである。だからルターはプルドンより、少し高みにいるという指摘があるわけである。】

【39】

 〈/290上/どんなにプルドンが資本一般の運動を理解しなかったかは,彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現われている。〉 (189頁)

 〈プルドンが資本一般の運動を理解していないかは、彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現れています。〉

 【ここからは再び本文に戻っている。やはりテーマは資本一般の運動と利子生み資本の運動との区別である。その両者を混同しているプルドンを引き合いにして、その区別を明らかにしようというのがマルクスの意図であろう。このようにマルクスはしつこいくらいに単純な流通における商品や貨幣と資本の運動としてのそれらとの違いをまず指摘したのちに、そうした資本の運動とさらに利子生み資本としての固有の運動との相違を明らかにしようとしているわけである。これらの区別の重要性は、後にエンゲルス版の第28章の冒頭次のようにその区別の重要性が指摘されている。

 〈トゥク,ウィルスン,等々がしている,Circulation(「通貨」--引用者)資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが),次の二つのことに帰着する。〉 (大谷新著第3巻97-98頁)

 ここでマルクスが〈鋳貨としての流通手段と,貨幣〉と述べているのは、『資本論』の第1部の冒頭で取り扱われているものである。いうまでもなく〈鋳貨としての流通手段〉とあるのは、第3章第2節「流通手段」のことであり、〈貨幣〉とあるのは定冠詞のない貨幣であり、マルクスが「貨幣としての貨幣」、あるいは「本来の貨幣」等々と述べているもので、第3章第4節の「貨幣」である。だからここには蓄蔵貨幣や支払手段あるいは世界貨幣が入る。それに対して〈貨幣資本〉と述べているのは、第2部の資本の流通過程で考察されている商品資本や生産資本と区別されたものとしての貨幣資本なのである。そして利子生み資本はいうまでもなく第3部第5章(篇)で取り扱われているものである。マルクスはこうした『資本論』の各段階で展開される貨幣の抽象的な機能とより具体的な規定性をおびたものとの区別の重要性をここで指摘しているのである。
 もっともこれまでのところでは単に貨幣のそうした区別だけではなく、単純流通と資本の流通過程との違い、また利子生み資本に固有の運動との相違を論じようとしているわけだが。】

【40】

 〈「利子の蓄積によって,貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる。」(154ページ。)〉 (189頁)

 【これはプルドンからの引用だけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この一文も先の61-63草稿からとられている。その草稿をここでは紹介しておこう。

 〈さらに次のように言う。「利子の蓄積によって資本貨幣が交換に交換を重ねて絶えずその源泉に帰るということから、絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しがつねに同じ人物に利得をもたらすということになる。」(154ページ)資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである。言い換えれば、彼は商品を欲したが、それが「貨幣」になることは欲しなかったように、ここでは商品や貨幣を欲するが、それらが資本に発展してはならないのである。すべての空想的な形態を剥ぎ取ってしまえば、これが意味するところは、小さな町人的、農民的で手工業的な生産から、大工業に進展してはならない、ということにほかならないのである。〉 (草稿集⑦519頁)

 とりあえず、ここでは61-63草稿の一文を紹介するだけにする。また必要に応じてこの内容については論じよう。】

【41】

 〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させている〔puzzle〕ものはなにか?〉 (190頁)

 〈それでは、利子生み資本に特有な運動のなかでプルドンを当惑させているものは何でしょうか?〉

 【これは特に解説のしようもない。】

【42】

 〈それは,売る〔vendre〕,価格〔prix〕,対象を譲渡する〔céder des objets〕,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに〔in fact〕,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現[420]象,それゆえ,売ること〔vendre〕が貸すことに転化し,価格〔prix〕が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)

 〈それは売るという行為、あるいはその価格、対象を譲渡するという範疇です。またここでは剰余価値が現れている外面的で無媒介的な形態そのものが彼を当惑させているのです。つまりここでは資本としての資本が商品になってしまっています。だから売ることが貸すことに転化し、価格が剰余価値の分け前である利子に転化してしまっている現象が彼を惑わしているのです。〉

 【先に紹介した61-63草稿では〈資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼(プルドン--引用者)は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである〉とマルクスは指摘していた。プルドンは売るという行為が、貸付になっていることが分からないのである。あるいは価格が利子という形態をとっていることが分からない。しかしそれこそ利子生み資本に固有の運動なのである。】

 (以下、続く)

2019年6月15日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-5)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第26パラグラフからである。

【26】

 〈ところが,利子生み資本ではそうではない。そして,まさにこのことこそが利子生み資本の独自な性格をなしているのである。〉 (181頁)

 〈ところが、利子生み資本ではそうではないのです。つまり今度は、貨幣が資本として流通に入るのです。そして、まさにこのことこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのです。〉

 【ここから一転して、利子生み資本の考察に戻っている。つまり【20】~【25】パラグラフでは、『資本論』第2巻で考察したような、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本が実際の流通においては、単なる商品や貨幣として振る舞い、決して資本として流通に入っていくのではないことを確認した上で、それに対して、この【26】からは、しかし利子生み資本はそうではないのだと話を転じている。そしてそれこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのだというわけである。】

【27】

 自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は,それを流通のなかに投じて,第三者に譲渡し,それを資本としての商品にする。それは,それを譲渡する彼にとっての資本としてだけでなく,資本として,剰余価値,利潤を創造するという使用価値をもつ価値として,第三者に引き渡されるのである。つまり,それが彼に引き渡されるのは,資本として,すなわち,運動のなかで自分を維持し,機能し終えたのちにその最初の引渡人の手に,ここでは貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてである。つまり,ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ,その所有者の占有から機能資本家の占有に移るのであって,支払われてしまうのでも売られるのでもなく,ただ貸し付けられる,貸し出されるだけの価値としてである。すなわち,一定期間ののちにはその出発点に帰ってくる〔returniren〕という,また第2には実現された資本として,したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として,還流する〔returniren〕という条件のもとでのみ,その価値は手放されるのである。a)/

①〔異文〕「……にする」という書きかけを消して「……として手放す」と書いたのち,これも消している。
②〔異文〕「に」zu←an
③〔異文〕「手放〔entäussern〕される」← 「譲渡〔vcraussern〕される」〉 (181-182頁)

 〈自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は、それを流通に投じて、第三者に譲渡します。しかしその場合の貨幣は、単なる貨幣としてではなく、資本としての商品として手放されるのです。それは譲渡する貨幣所持者にとってそうである(なぜなら彼はそれを増殖しようとして手放すわけですから)だけではなくて、実際にも、それは資本としての商品として譲渡されるのです。つまりそれは剰余価値を、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、引き渡されます。つまりそれが第三者に引き渡されるのは、資本として、つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えたのちに、その最初の引渡し人の手に、貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてです。つまり、ただしばらくのあいだだけ貨幣所持者の手から離れて、その所有者の占有から機能資本家たる第三者の占有に移るのであって、支払われてしまうわけでも売られてしまうわけでもないのです。ただ貸し付けられる、貸し出されるだけの価値としてそれは第三者に譲渡されるのです。それは、第1に一定期間ののちにはその出発点に帰ってくるものとして、第2には実現された資本として、したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として、還流するという条件のもとでのみ、その価値は手放されるのです。〉

 【ここから利子生み資本の場合は、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本とは異なり、資本として流通に投じられることが指摘されている。それをマルクスは「資本としての商品」にすると述べ、草稿ではこの「資本として」に二重の下線が引かれているという。つまり利子生み資本の場合、それが「資本として」流通に投じられるということがその独自の性格なのだというのがマルクスの強調したいところである。それが資本として流通に投じられる理由とし、一つは最初の貨幣所持者にとってそうであるから。なぜなら、彼はそれを利子生み資本として増殖しようとして流通に投じるのだからである。しかしそれだけではなくて、それが資本として流通に入るのは、それ自体が剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値であるという意味でも、それは資本として流通に入るのだとマルクスは指摘している。
 だからまたここから利子生み資本の運動のもう一つの特徴が出てくる。つまりそれが資本として貨幣所持者によって手放されるということは、それは資本としての運動を行うものとして、資本としての循環を経るものとしてでなければならない。つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えた後には、その増殖分と一緒に最初の出発点に帰ってくるという資本の運動である。だから最初の貨幣所持者が、それを資本として手放すということは、第三者にただ一時的に占有させるということであり、ただ貸し付けれる、貸し出されるというこでしかないわけである。ここにも利子生み資本の運動の独自な性質があるわけである。それは資本として商品になり、販売されるが、しかしそれが資本であるということは資本としての運動を経るということであり、だからそれは支払われてしまうのではなく、貸し出されるだけだということである。
 この点、宇野のように商品になるのは貨幣であって、資本ではない、などという理解ではこうした利子生み資本に固有の運動は分からないことになる。それは資本として商品になるからこそ、資本としての運動を、還流をもたらさなければならず、よってそれは単に支払われたり、売られてしまうわけではなく、一時的な貸付け、貸出でなければならないわけである。そうした利子生み資本に固有の運動を、宇野のような解釈ではあきらかにならないであろう。】

【28】

 [417]|289下|a)追記Zusatz〕。商品が資本として貸し付けられるとき,それは流動資本として貸し付けられることも,固定資本として貸し付けられることもできる。貨幣はどちらの形態でも貸し付けられることができる。固定資本として貸し付けられるのは,たとえば,貨幣が年金のかたちで返済され,したがって利子といっしょに絶えず資本も少しずつ還流する〔returniren〕という場合である。他の諸商品は,その使用価値の性質上,いつでもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない。家屋や機械などがそれである。しかし,すべての貸し付けられる資本は,その形態がどうであろうと,またその使用価値の性質によって返済がどのように変形されようとも,つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかない。というのは,ここで貸し付けられるものは,つねにある一定の貨幣額であって,この場合,利子もまたこの額にたいして計算されるのだからである。もし貸し出されるものが貨幣でも流動資本でもないならば,その返済もまた固定資本が還流する〔returniren〕ような仕方で行なわれる。貸し手は周期的に利子と,固定資本そのものの消費された〔consumirt〕価値の一部分,つまり周期的な損耗分〔Dechet〕の等価とを返してもらう。そして,終わりには,貸し付けられた固定資本の未消費〔unconsumirt〕部分が現物で帰ってくる。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば,それはやはり流動資本の還流の仕方〔Returnweise〕で貸し手のもとに還流する。

①〔異文〕手稿ではこの追記は手稿のこのページの最後に書かれており,「a)追記」という標識によってこの箇所に関係づけられている。
②〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-!863年草稿)』から,変更を加えて,取られている。(MEGAII/3.4.S.1518.18-34.)〉 (182-183頁)

 〈a)への追記。商品が資本として貸し付けられるときは、それは流動資本として貸し付けられることも、あるいは固定資本として貸し付けられることもできます。その商品の使用価値の特性によって規定される資本の循環の違いによって、その違いが出てくるでしょう。そして流動資本の場合は、現実資本の循環に応じて一度に返済は可能ですが、固定資本の場合は、その返済は数回の資本の回転期間を要するか、あるいはその磨滅部分だけが還流するに応じて、すこしずつ徐々に返済されることもあります。しかし貨幣の場合はどちらの形態でも貸し付けられることができます。つまりその還流の形態が流動資本のように資本の循環ごとにいっぺんに還流し、返済を受けることも可能なら、他方で固定資本のように、例えば貨幣が年金のかたちで返済され、したがって利子といっしょに絶えず資本もすこしずつ還流するというようにです。他の諸商品は、その使用価値の性質上、いつもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない場合もあります。家屋や機械などはそうでしょう。しかしすべての貸し付けられる資本は、その形態がどうであろうとも、その使用価値の性質によって返済がどのように変形されようと、つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかないということです。というのは、ここで貸し付けられるものは、つねにある一定の貨幣額であって、利子もまたこの額に対して計算されるのだからです。もし貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本ならば、その返済もまた固定資本が還流するのと同じような仕方で行われます。貸し手は周期的に利子と、固定資本そのものの消費された価値の一部分、つまり周期的な損耗部分の等価を返してもらいます。そして最終的には、貸し付けられた固定資本の未消費部分が現物で帰ってきます。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば、それはやはり流動資本の還流の仕方で貸し手のもとに還流します。〉

 【ここでは商品が資本として貸し付けられる場合が論じられている。この部分は61-63草稿から変更を加えて取り入れられているということだから、まずその61-63草稿の元の文を見てみることにしよう。ここでは少し関連すると思われる部分を多く抜粋してみよう。それは次のようになっている。

 商品(貨幣)は資本として貸し出されるのだから、それは流動資本や固定資本として貸し出されることができる。貨幣は両方の形態で貸し出されることができるのであって、たとえば固定資本として貸し出されるならば、その場合には、貨幣は年金の形態で返済され、したがって、資本の一部も利子を伴って絶えず帰ってくる。その他の商品は、その使用価値の本性からすれば、家屋、機械などのように、しばしば、ただ固定資本としてのみ貸し出されることができる。だが、貸付資本はすべて、その形態がどうであろうと、またその返済の形態が、それの存在する使用価値の独自な本性によって、どのように修正されようとも、つねに、ただ、貨幣資本の特殊な形態であるにすぎない。というのは、ここでは、貸し出されるものは、どんな使用価値で存在しようと、一定額の貨幣であり、さらにまた利子もこの金額にたいして計算されるのだからである。貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本であるとすれば、それはまた固定資本の仕方で返済される。貸し手は定期的に利子と、固定資本そのものの消費される価値部分すなわち定期的な損耗分の等価とを返済される。最後は、現物で貸し出された固定資本のうちの消費されていない部分が帰ってくる。

①〔異文〕「(貨幣)」--あとから書き加えられている。

 貸し付けられる資本が流通するさいの形態は、次のとおりである。
 一、貨幣は支払手段として機能する、すなわち、資本は手放されるかそれとも売られるが、しかし、一定の期日後にはじめて支払われる。支払手段としての貨幣の機能は、すでに見たように、単純な商品交換から生ずる。したがって、このことは、貨幣資本にとってはなんら特徴的なことではない。

①〔異文〕「……かそれとも」←「そして」

 二、一定期間ののちにそれは貸し手のもとに還流する。それが一部ずつ利子を伴って還流しようと、またはそれが(利子を伴って全部還流しようと、あるいはそれが一部の期間中はただ利子だけを還流させ、いろいろに違う期間の終わりにはじめて資本を最終期間の利子を伴って還流させようと、そうなのである。

①〔異文〕はじめここに「彼がそれを定期的に利子から」と書いたが、消している。

 見られるように、こうした、返済すなわち貸し手のもとへの資本の復帰の仕方は、資本が総じてその循環のなかで行なう運動、資本の出発点への復帰、以外のなにものでもない。もし、資本がたとえば年々一部ずつ利子を伴って返済されるならば、これは、固定資本が還流する仕方であり、それがその流通のなかでその出発点に復帰する仕方である。これに反して、年度末にまたは別の期間の終わりに資本が利子を伴って全部帰ってくるならば、それは流動資本の還流方法である。貸し出される資本は二重に還流する。すなわち、現実の過程では、それは産業資本のもとに還流し、それから、この復帰は、もう一度、貨幣資本家への移動として、つまり貸し出される資本の現実の所有者、それの法律的な出発点、へのその返済として、繰り返されるのである。

①〔異文〕「循環」←「回転」
②〔異文〕「貸し出される資本」←「資【本】」
③〔異文〕「貸し出される資本の……への〔an seinen〕」←「……への〔an den〕」〉 (草稿集⑦508-510頁)

 この61-63草稿はただ紹介するだけにとどめ、特に加えて言及する必要はないであろう。
 ここでは、そもそも商品を資本として貸し付けるということはいわゆるリースというのとどう異なるのか、という問題を考えてみたい。大谷氏は氏の弟子を自認する友人によれば、マルクスが利子生み資本の範疇を資本として貸し付けられる一定の価値額として、その価値額が貨幣の形態をとろうと商品の形態をとろうとやはり利子生み資本だとしていることに疑問を持っているのだという。というのは、マルクスがここで挙げている家屋や機械などの貸付けの場合は、それは家屋や機械を一定期間使用する使用価値を販売すると解すべきという理由からであるらしい。いわゆるリース産業というものは、果たして利子生み資本を貸し付ける資本家なのか、それとも一定期間に限ってその使用価値の使用を販売する資本家なのか、ということである。マルクスは『経済学批判』のなかで、貨幣の支払手段としての機能に関連して、同じ様な問題を論じている。それを少し参照してみよう。

 〈さらにまた、一連の使用価値は、その性質上、商品の実際の引渡しとともにではなく、ただ一定の期間それをゆだねることによってはじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の使用が一ヵ月だけ売られるとすると、その家屋は月のはじめにその使い手を変えるけれども、その使用価値は一ヵ月が経過したあとで引渡しずみとなる。この場合には、使用価値を事実上ゆだねることと、その現実の譲渡とは、時間的にくいちがっているから、その価格の実現も同じくその位置変換より遅れて行なわれる。〉 (草稿集③368頁)

 これは販売される使用価値の性質上、その販売による使用価値の譲渡が貨幣との引き換えにではなく、使用価値の譲渡そのものに一定期間を要するために、使用価値が渡され終わったのちに、その支払がなされるという支払手段としての貨幣の機能の一例として、マルクスは述べているわけである。販売される使用価値の性質からくる貨幣の支払手段としての機能の一例である。だからこの場合、明らかにマルクスは家屋の場合は、その使用が一カ月なら一カ月だけ販売されるとしている。これは商品の販売であって貸付けではない。では、家屋が利子生み資本として貸し付けられるという場合はそれとはどう違うのであろうか。それが問題である。大谷氏はおそらくこの『批判』の支払手段の例が頭にあったので、家屋や機械などは、ただその使用が期間限定で販売されるだけであって、一定の価値額が貸し付けられるのとは異なるのではないか、と考えたのであろう。
 しかしその場合、つまり使用価値の一定期間の使用を販売すると考える場合は、一定期間ののちに支払われる価値額は、家屋や機械の使用する価値の実現されたものになる。これは家屋や機械の耐久性を考えて、一定期間後のその使用価値の損耗分の価値額と考えることができる。例えば機械の価値が100万円で、10年の耐用期間があるとすれば、その使用が一年間販売されたとするなら、その使用価値は一年後に譲渡し終わるのだから、その価値は一年後に10万円として実現する。この場合、貨幣は支払手段として機能する。
 しかしそれらが利子生み資本としての貸付けなら、一年後に支払われる価値額は、機械の価値100万円という貨幣額の貸付けだから、だから一年後には、その機械の現物の返還と同時に、その100万円の貨幣額に対する利子5万円と、さらに機械の一年間の使用にともなう損耗分の10万円、つまり合計15万円が支払われることになる。果たしてどちらが正しいのであろうか。
 われわれはここでマルクスが利子生み資本について指摘していたことを思い出す必要がある。つまり利子生み資本の場合の第一の場所変換は、再生産過程の契機ではないということをである。つまり利子生み資本としての商品の譲渡と単なる商品の販売としての譲渡との違いは、後者は再生産過程の一契機であるのに対して、前者はそうではないということである。だから利子生み資本としての商品の貸付けは、譲渡されるのは商品ではあるが、しかしそれは再生産過程の外からの商品の譲渡であり、よってまたそれはその還流も再生産過程の外への還流であるということである。それに対して、家屋や機械の使用の販売は文字どおりの商品の販売であり、ただその使用価値の性質から、その使用価値の譲渡とその価値の実現とがずれるケースに過ぎない。だからこの場合は貨幣は支払手段として機能するわけである。しかしそれらが再生産過程の一契機であるということは疑うべくもない。しかし利子生み資本としての商品の貸付けはそうではない。それは再生産過程の契機をなしていないとマルクスは指摘しているのである。だからこそ、それは利子をともなって返還されなければならないのである。それは資本としての貸付けだから、その商品は剰余価値を創造する使用価値を持った価値として貸付けられるのである。だから、その貸し付けられる家屋や機械も当然利潤を生産するものとして機能することになる。だからこそそれらが生み出した利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流するわけである。
 両者の違いは、一定の期間の使用の販売という点では同じであるが、利子生み資本の場合は、その使用が利潤を生む使用価値であり、よってその利潤の一部が利子として貸付けた人に還流しなければならないということである。それに対して貨幣の支払手段として機能の場合の商品の使用の販売の場合は、その使用がただの使用価値の実現でしかなく、それが利潤を生むためのものには限定されないということである。ただそれは個人的な消費のために家屋の使用を買ったといえるし、機械の場合もただ個人的に使用するために一定期間の使用を買ったのである。しかし利子生み資本としての商品の貸付けの場合は、その商品の使用価値は利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用によって創造された利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流する必要があるわけである。】

【29】

 還流Retrunの仕方は,再生産する資本の,またその特殊的な種類の,現実の循環運動によって規定されている。しかし,貸し付けられる資本にとっては還流〔return〕は返済,repaymentという形態をとる。なぜならば,その前貸,その手放し〔Entausserung〕が貸付という形態をもっているからである。

① 〔異文〕「再生産」← 「生産」〉 (183-184頁)

 〈実際の資本の還流の仕方は、再生産する資本の、またその特殊な種類の違いによって、違ってきます。例えば流動資本の場合は、一回の資本の回転で還流しますが、固定資本の場合は、その損耗分だけが還流するだけです。つまり現実の資本の循環運動にそれは規定されているわけです。しかし貸し付けられる資本にとっては、還流は返済という形態をとります。というのは、それはそもそもその前貸し、その手放しが、貸付という形態をもっていたからです。〉

 【ここでは利子生み資本がどういう形態で貸し付けられようと、それは貸付という形態をとるということは同じであり、よってまたその還流が返済という形態をとることも変わらないのだという指摘がされている。これはこれまで利子生み資本の説明を読んでいる限りでは当たり前のように思えるのであるが、実際にはさにあらずである。というのは、例えば株式を購入する場合、購入者の意識においても、それを貸付と意識することはないからであり、だからまた株式を販売した場合も、それを返済と意識することはないからである。しかしそうした場合も、マルクスはそれは利子生み資本の貸付と返済なのだと指摘しているのである。だからこの一文は短いが決してどうでもよいことでも分かりきったことを言っているのでもないのである。】

【30】

 〈この項目でわれわれが取り扱うのはただ本来の貨幣資本だけであって,そのほかの貸付資本の諸形態はこの貨幣資本から派生したものである。〉 (184頁)

 〈この項目で私たちが取り扱うのは、ただ本来の貨幣資本だけです。それ以外の貸付資本の諸形態は、この貨幣資本から派生したものです。〉

 【先のパラグラフで貸付と返済という利子生み資本の独特の運動がどうでもよい問題ではないと指摘したが、ここでマルクスはただここでわれわれが取り扱うのは本来の貨幣資本だと指摘している。それ以外の貸付資本の諸形態はそれから派生したものだというのである。〈そのほかの貸付資本の諸形態〉としてマルクスは何を考えているのかは分からないが、どいう貸付資本の形態があるのであろうか。後にマルクスは「III)」と番号を打った項目(これはエンゲルス版=現行版では第30~32章に該当する)のなかで貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を問題にする時に、貸付可能な貨幣資本に問題を限定して論じている。そしてそれを論じる前提として、それ以外の貨幣資本として架空な貨幣資本の例を挙げて論じているのである。それは例えば国債であるとか株式等々である。だからここでマルクスが〈そのほかの貸付資本の諸形態〉と述べているものとして考えられるのは、国債や株式、あるいは手形などの有価証券の類と考えられるかも知れない。】

【31】

 〈貸し出された資本は二重に還流する〔returniren〕。現実の過程ではそれは機能資本家の手に還流し,それからもう一度,貸し手〔lender〕すなわち貨幣資本家〔monied capitalist〕への移転〔transfer〕として,つまり,資本の現実の所有者,その法律上の出発点への返済として,還流が繰り返される。〉 (184頁)

 〈貸し出された資本は二重に還流します。一つは現実に資本として機能する過程では、それは機能資本家の手に還流しますし、それからもう一度、今度はその機能資本家の手から、それを最初に貸し付けた資本家、すなわち貨幣資本家の手に還流し、返済されます。この貨幣資本家というのは、資本の現実の所有者であり、その法律上の所有者、出発点です。〉

 【これは【13】パラグラフで〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である〉と言われていたことの後半部分が再度確認されている。たがらこの二重の還流は、最初の貨幣の支出が二重に行われた(最初は貸付として、その次に現実資本への転換として)ことに対応しているわけである。】

【32】

 〈現実の流通過程では資本はいつでも商品および貨幣として現われるのであって,その運動は一連の交換,売買に帰着する。要するに,流通過程は商品の変態に帰着するのである。ところが,過程の全体を見れば,そうではない。貨幣から出発して見れば{商品から出発しても同じことである。というのは,その場合には商品の価値から出発するのであり,したがってそれら自身をも貨幣の姿で〔subspecie〕見るのだからである},その場合にはある貨幣額が引き渡されて,ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分,それのある増加分が帰ってくる。増大した貨幣額が,最初の価値の補填分・プラス・剰余価値が帰ってくる。それは,ある[418]循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのである。ところで,貨幣は,それが資本として貸し付けられるかぎりでは,まさに,このような自分を維持し増殖する貨幣額として貸し出されるのであって,この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに帰ってきて絶えず繰り返し新たに同じ過程を通ることができるのである。それは貨幣として引き渡されるのでもなければ商品として引き渡されるのでもない。つまり,(貨幣として前貸される場合)商品と交換されるのではなく,(商品として前貸される場合)貨幣と引き換えに売られるのではない。そうではなくて,それは資本として引き渡されるのである。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば,資本は自分自身にたいする関係として現われるのであるが,この,自分自身にたいする関係が,ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として,資本の規定性として,資本に合体されるのである。そして,それはこのような規定性において譲渡されるのである。〔「a)追記」終わり〕|〉 (184-185頁)

 〈現実の資本の流通過程では、資本はいつでも単なる商品や貨幣として現れます。その運動は一連の交換や販売に帰着します。ようするに、資本の流通過程もわれわれが『資本論』の冒頭で考察した商品の変態に帰着するのです。
  ところが、過程の全体をみればそうではありません。貨幣から出発して全体を見れば、まずある貨幣額が引き渡されて、ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分、その増加分が帰ってくる運動を見渡すことができます。貨幣ではなく、商品を出発点に考えても同じです。というのは、その場合も商品の価値が出発点であり、したがってそれらも貨幣の姿でみることができるからです。
  増大した貨幣額が、最初の価値の補填分・プラス・剰余価値として帰ってきます。それはある循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのです。つまり全体との関連でみれば、資本の流通過程は、まさに「資本」の流通と再生産として現れるのです。それはある価値額が、自分の価値を維持するだけではなく、その増殖分を含んだものとして出発点に帰ってくる資本の運動として捉えることができます。しかし流通過程では、最初にも確認したようにそれらは単なる商品や貨幣として振る舞うだけなのです。だからそれらが資本の流通でもあるというのは全体の関連の中で言いうるだけなのです。
  ところが貨幣は、それが資本として貸し付けられる場合は、まさに最初から、このように自分を維持し増殖する貨幣額として貸し付けられるのです。この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに出発点に帰ってきて、それを絶えず繰り返して新たに同じ過程を通ることができます。
  だからそれは単なる貨幣として引き渡されるのでもなければ、単なる商品として引き渡されるのではありません。それは単なる貨幣としての引き渡しのように商品と交換されるわけでもなく、単なる商品として引き渡される場合のように貨幣と交換に売られるわけでもないのです。そうではなく、それは資本として引き渡されるのです。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば、資本は自分自身にたいする関係として現れますが、その自分自身にたいする関係が、ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されているのです。それはそのような規定性において譲渡されるのです。〉

 【ここでは資本の流通過程では、商品資本や貨幣資本も、単なる商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、あくまでも全運動の契機として見た場合にいいうるに過ぎないということをまず指摘し、しかし利子生み資本の場合は、貨幣は最初から資本として譲渡されること、だから貨幣が資本としての規定性もつ全関連がそこでなくなっていること、それは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されていると指摘されている。つまり利子生み資本の資本としての性格は無媒介的であることを指摘しているわけである。それに対して流通過程における商品資本や貨幣資本が資本としての規定性を受けとるためには資本主義的生産過程を全体および統一体としてみる、その一契機であるとする媒介を必要とするわけである。利子生み資本の資本としての規定性は、そうした媒介なしの規定性だとマルクスは指摘しているわけである。ここで「a)」として追記された部分は終わっている。】

 (以下、続く)

 

2019年6月 2日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

   前回の続きで、第19パラグラフからである。

【19】

 〈この商品に,すなわち商品としての資本に特有な,販売という[415]形態に代わる貸付という形態(ただし〔この形態は〕他の諸取引でも見られる)は,資本がここでは商品として現われるという,または資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから,出てくるのである。〉 (177頁)

 〈商品としての資本、つまり利子生み資本に特有な、販売という形態に代わる貸付という形態は、資本がここでは商品として現れるという、あるいは資本としての貨幣が商品になるという規定そものものから出てくるのです。もっとも貸付という形態そのものは他の諸取り引きでも見られますが、いまはそれは考慮の外においておきましょう。〉

 【ここからまた第一の流通、G-Gの考察に変わっている。「商品としての資本」に特有な貸付という形態は、資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから出てくると指摘されている。これは利子生み資本に固有の運動として重要である。例えば株式の購買の場合、まったく普通の商品の購買と同じように見えるからである。しかしそれもやはり利子生み資本に固有の運動であり、貸付なのである。つまり株式を株式市場で購入する人は、自分の所有する貨幣を利子生み資本として貸し付けているのである。だから彼はそれが利子を伴って還流してくることを期待している。もちろん、株式を購入する人は、必ずしもそうした意識をもっているとは限らないだろう。彼は配当を期待しているのかも知れない。しかし彼が株式を購入するために投じた貨幣が、利子生み資本だと理解されるなら、彼の手にする配当は、彼が投じた利子生み資本の利子になるのである(ここらあたりは第29章の「銀行資本の構成部分」の考察のなかで問題になる架空資本と関連してくるが、今はそれは置いておこう)。あるいは彼は株式が購入した価格より高値がついたときに売り抜き、キャピタルゲインを得ようとするかも知れない。しかしその場合でも、彼が株式を売るということは、彼の利子生み資本の返済を受けることを意味するわけである。これらは株式を売買している人たちの直接の意識とは異なるものかも知れないが、しかし株式の売買が利子生み資本の運動である限り、その実際の内容はそうしたものなのである。株式の売買というのは、あくまでも外観に過ぎず、その本質は利子生み資本の運動であり、だからそれは資本としての貨幣の貸し借りとして理解すべきものなのである。】

【20】

 ここでは次のような区別をしなければならない。
すでに見たように,資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能する。)

 ①〔注解〕「すでに見たように」--カール・マルクス『資本論』〈経済学草稿1863-1865年〉。第2部〈第1稿〉。(MEGAII/4.1,S.140-191.〔中峯・大谷他訳『資本の流通過程』,大月書店,1982年,9-68ページ。〕)〉 (178頁)

 〈ここでは次のような区別をしなければなりません。
 一つはすでに見たように、資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能します。〉

 【〈ここでは〉というのは、その一つ前のパラグラフを指しているように思える。そして〈次のような区別〉というのは、一つはこのパラグラフ(【20】)から【25】パラグラフまでの間で考察されている資本の流通過程における商品資本と貨幣資本の特徴と、利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed capital)との区別ということであろう。
 だからわれわれがやろうとしているのは、すでに資本の流通過程で考察した商品資本や貨幣資本の特徴の確認である。すわなち、資本は流通過程では、商品資本または貨幣資本として機能するとまず確認されている。この資本の流通過程の考察は【25】パラグラフまで続く。】

【21】

 〈しかし,この二つの形態では,資本は資本としては商品にならない。〉 (178頁)

 〈しかし、この二つの形態、つまり商品資本や貨幣資本という形態では、資本が資本として商品になるわけではありません。〉

 【資本の流通過程における商品資本や貨幣資本は、資本が資本として商品になるわけではないと指摘されている。商品資本や貨幣資本は資本の流通過程における資本の形態規定性であるが、しかし実際に、それらが資本の流通過程に出てゆくと、単なる商品や貨幣として振る舞うわけであって、それらが資本であるのは、あくまでも資本関係のもとにおける形態規定としてそうであるに過ぎないわけである。だから「商品資本」といっても、資本が資本として商品になっていることを意味しないということである。それは商品が資本という形態規定を受け取っているだけなのである。】

【22】

 生産資本が商品資本に転化したならば,それは,商品として売られるために,市場に投じられなければならない。ここではそれは単純に商品として機能する。ここでは資本家はただ商品の売り手として現われるのであり,それは買い手が商品の買い手として現われるのと同様である。商品としては,生産物は流通過程でその販売によってその価値を実現しなければならず,貨幣としてのその転化した姿態をとらなければならない。したがってまた,この商品が消費者によって生活手段として買われるか,それとも資本家によって生産手段として,資本成分として,買われるかということも,まったくどうでもよいこと〔vollstandig indifferent〕である。現実の機能では,流通行為では,商品資本はただ商品として機能するだけで,資本として機能するのではない。それが単純な商品とは違う商品資本であるのは,1)それがすでに剰余価値をはらんでおり,したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現だからである。といっても,このことは,商品としての,一定の価格をもつ生産物としての,それの単純な存在を少しも変えるものではない。2)このような,商品としての商品資本の機能は,資本としての商品資本の再生産過程の一契機であり,したがってまた,商品としての商品資本の運動は,過程の全体に連関させるならば,同時にまた,資本としての商品資本の運動だからである。しかしそうであるのは,売るという行為または商品の変態そのものによってではなく,ただ,商品としての商品資本の運命または運動と,資本としての商品資本の総運動との関連Zusammenhang〕によってのみである。

 ① 〔異文〕「単純な」← 「個々の」
 ② 〔異文〕「あり,」← 「であるが,資本としてのそれが」〉 (178-179頁)

 〈生産資本が商品資本に転化したなら、それは、商品として売られるために、市場に投じられます。しかし商品市場ではそれらは単なる商品として機能するだけです。ここでは資本家はただ商品の売り手として現れるだけです。それは、それを買う人が例え資本家であっても、ただ単なる商品の買い手として現れるのに対応しています。商品としては、流通過程では、販売によってその価値を実現し、貨幣に転化されなければならないということを示すだけです。だからこの商品が消費者によって生活手段として買われるか、それとも資本家によって生産手段として、つまり資本の成分として、買われるかということも、この流通過程としてはまったくどうでもよいことです。現実の流通行為においては、商品資本はただ商品として機能するだけで、資本として機能するわけではありません。それは単純な商品と違う商品資本であるのは、1)それがすでに剰余価値をはらんでおり、したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現でもあるからです。といっても、このことは、商品としての、一定の価格をもつ生産物としての、それの単純な存在を少しも変えるものではありません。2)単純な商品の商品資本としての機能は、資本の再生産過程の一契機としてそれが存在することから生じます。だから、単なる商品としての商品資本の運動というのは、単純な商品の流通過程での運動を、資本の運動全体の関連のなかで考えるならば、資本としての商品資本の運動として捉えられるというこです。しかしそうであるのは、売るという行為、あるいは商品の変態そのものによってそうなるのではなく、商品としての商品資本の運命または運動と、資本としての商品資本の総運動との関連からのみそういいうるのです。〉

 【ここでは単純流通と資本の流通過程との区別が論じられている。そもそも『資本論』の冒頭(第1篇)に出てくる商品や貨幣というのは、ブルジョア社会の表面に現象しているものを直接観察することから得られるものであるが、それは資本の流通過程から資本関係を捨象して得られるものでもあるのである。ブルジョア社会ではあらゆる生産物は商品として資本によって生産されることが前提されている。だからそれらはすべて資本家的商品である。つまり商品資本なのである。しかしそれは流通過程では単なる商品として振る舞い、だから単なる貨幣へと変態するだけなのである。つまり『資本論』の冒頭篇の商品や貨幣、あるいはその単純な流通も、ブルジョア社会の最も表面に現象しているものをその背後に隠れている資本関係をとりあえずは捨象して得られるものを分析の対象にしたものなのである。
 だから資本の流通過程での商品資本や貨幣資本の機能も、それが実際の流通過程では、単純な商品や貨幣として振る舞うのであり、それらが商品「資本」や貨幣「資本」でもあるのは、そうした単純な商品や貨幣を、それらがその背後に隠している資本関係のもとで、その全体の運動や関係のなかで見た場合に、新たに加わるより具体的な形態規定性ということができるのである。だから単純流通というのは、ブルジョア社会の表面に現れているものあるが、しかしそれらをそれ自体として考察するということは、資本主義的関係を一旦は捨象して、それらを抽象的なものとして考察することであるが、しかしこうした抽象的なものは、その抽象性においては、資本主義以前の単純な商品や貨幣の振る舞いにも妥当するわけである。しかし資本主義以前の単純な商品や貨幣は、ブルジョア社会を背後に持ったもののようには、その概念に相応しい十全なものとして存在しているわけではない。それらはブルジョア社会の抽象物としての商品や貨幣の考察を前提してはじめてそれとして捉えることが可能になるだけである。】

【23】

 〈同様に,貨幣資本としても,資本は事実上ただ単純に貨幣として,すなわち商品(生産手段)の買い手として,作用するだけである。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり,すなわち資本の形態であるということは,買うという行為すなわち資本がここで貨幣として行なうそれの現実の機能から出てくるのではない。それは,この行為と資本の総運動との関連から,もっと詳しく言えば,それが貨幣として行なうこれらの購買行為が資本主義的生産過程を導入するということによって,出てくるのである。|〉 (179頁)

 〈商品資本と同様に、貨幣資本も、実際の流通では、事実上ただ単純な貨幣として、すなわち商品(生産手段)の買い手として、作用するだけです。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり、資本の形態でもあるということは、買うという行為、つまり資本がここで貨幣として行うそれの現実の機能から出てくるのではありません。それが貨幣「資本」であるという規定性は、この買うという行為と資本の総運動との関連から、もっと詳しくいえば、それが貨幣として行うこれらの売買行為が、資本主義的生産過程を導入するためものもであるという関連によって、出てくるのです。〉

 【こうした単純流通における商品と貨幣と、資本の流通過程における商品資本と貨幣資本との区別と同一性を如何に捉えるべきか、というのは『資本論』第2部の第1篇の資本の循環のなかで論じられている。以前、大谷氏の『経済』連載論文「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」を批判した際に、大谷氏は、『資本論』第2部第6稿・第7稿でマルクスが第2部第1篇第1章の「書き出し」を何度も推敲して「資本循環論における理論的前進」をかちとったかに主張している部分を批判して、実際の第6稿・第7稿を使って書かれている第1章の内容を長く紹介したことがあるが、それが今回の問題を考える上で、参考になると思うので、少し長くなるが、紹介しておこう。
 
 《マルクスは「第1章 貨幣資本の循環」の「第1節 第一段階 G-W」(ここから第7稿である)の冒頭、次のように書きはじめている。

 〈G-Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わし、買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとっては彼らの諸商品の貨幣への転化である。一般的商品流通のこの過程を、同時に一つの個別資本の自立的循環の中の機能的に規定された一部分にするものは、さしあたり、この過程の形態ではなく、それの素材的内実であり、貨幣と席を換える諸商品の独自な使用の性格である。これらの商品は、一方では生産諸手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因および人的要因であって、これらの要因の特殊な性質は、もちろん、生産されるべき物品の種類に照応しなければならない。〉 (全集版36-37頁)

 そして〈Gが転換される商品総額のこの質的分割の他に、もう一つのきわめて特徴的な量的関係〉(同37頁)があるとして、その量の考察に移り、その後、次のように述べている。

 〈貨幣資本としては、資本は、貨幣諸機能、いまの場合には一般的購買手段と一般的支払手段との機能を果たしうる状態にある。……この能力は、貨幣資本が資本であることから生じるのではなく、貨幣資本が貨幣であることから生じる。
 他方では、貨幣状態にある資本価値もまた、貨幣諸機能を果たしうるだけで、他の機能は果たし得ない。この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動の中での資本諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。たとえば、さしあたりいまの場合には、貨幣が諸商品に転化されるのであって、それら諸商品の結合が生産資本の現物形態をなし、したがって、この形態は、潜在的に--可能性から見て--すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵しているのである。〉 (同39頁)
 〈貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転化されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。それ故、労働力がひとたびその所有者の商品として市場に現われ、その販売が労働に対する支払いの形態で--労賃の姿態で--行なわれるやいなや、労働力の売買は、他のどの商品の売買と比べても、奇異な感を与えるような点はまったく見られない。商品である労働力が買いうるものであるということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われることが特徴的なのである。〉 (同41-42頁)
 〈それ故、G-Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、貨幣所有者および商品所有者として相対するにすぎず、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ--それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、労働力の所有者が労働力を生産的に支出するための対象的諸条件をなしている。言い換えれば、この生産諸手段は、労働力の所有者に対して他人の所有物として相対する。他方では、労働力の売り手は、その買い手に対して他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG-A(労働者の側から見ればA-G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、買い手は資本家として、売り手は賃労働者として、前提される売買であり、この関係は、労働力の具現のための諸条件--生活諸手段および生産諸手段--が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。〉 (同42-43頁)
 〈資本関係が生産過程中に出現してくるのは、ただ、この関係自体が流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対し合う異なる経済的基本諸条件のうちに、彼らの階級関係のうちに、実存するからにすぎない。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の定在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させうるのである。〉 (同43頁)

 ながながと引用したが、要約ではなく、マルクス自身の言葉としてその内容を確認したかったからである。これがほぼ第1節でマルクスが貨幣資本と貨幣との区別について述べている主要な内容である。ここでマルクスが述べていることで重要なことは二つだけである。
 (1)G-Wは一般的な商品流通としては、たんなる貨幣の商品への転換(たんなる購買)である。
 (2)だからG-Wを貨幣資本の生産資本への転換にするのは、この一般的な商品流通そのものではなくて、それ以外の関係による。それは資本制的生産関係である。
  以上、貨幣と貨幣資本との区別としては、マルクスはこれ以外のことは述べていないのである。
 つまり「資本の流通過程」も、その流通過程だけを取り出せば、つまり資本制的な生産関係を捨象して流通過程だけを見るなら、それは単純な一般的な商品流通の過程としてわれわれの前に現われる。だからそこでは貨幣資本や商品資本も、たんなる貨幣であり、たんなる商品として現われ、そのようなものとして振る舞う(機能する)のである。そもそも単純な商品流通というのは、資本の流通過程を資本関係を捨象して、そうした抽象的なレベルでみたものなのである。単純な商品流通は、資本制的生産関係の表面に現われているもっとも抽象的な関係なのであり、歴史的にも論理的にも資本主義的生産様式に先行するものなのである。だからこそ、『資本論』の第1部の冒頭(第1篇)は単純流通にある「商品と貨幣」の分析から始まっているのである。だからこんなことが第6稿や第7稿の執筆段階までマルクスにとって不分明であったなどということはおよそ考えることは出来ない。そればかりかマルクスが『経済学批判』を彼の経済学批判体系の「第一分冊」として構想した時点で、すでにそんなことはマルクスにとって明らかだったといえるだろう。》】

【24】

 〈|289上|しかし,それらが現実に機能し,現実に過程のなかでそれらの役割を演じるかぎりでは,ここでは商品資本はただ商品として働き,貨幣資本はただ貨幣として働くだけである。変態の諸契機をそれ自身として見れば,どの契機でも資本家は,たとえその商品が彼にとっては資本を表わすにしても,商品資本として買い手に売るのではなく,あるいはまた貨幣を資本として売り手に譲渡するのでもない。どちらの場合にも,彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり,また貨幣を単純に購買手段として支出する,すなわちそれで商品を買うのである。〉 (179-180頁)

 〈商品資本や貨幣資本も、それらが資本の流通過程おいて、現実に機能し、現実の過程でそれらの役割を演じる限りでは、商品資本はただ商品として働き、貨幣資本はただ貨幣として働くだけです。変態の諸契機をそれ自身として見るなら、どの契機でも資本家は、例えその商品が彼にとっては資本を表すにしても、商品を資本として買い手に売るわけではありません。また貨幣を資本として売り手に譲渡するわけでもないのです。どちらの場合も、彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり、また貨幣を単純に購買手段として支出するのです。つまりそれでただ商品を買うだけです。〉

 【このパラグラフと次のパラグラフは、これまでの考察(【20】~【23】の考察)のいわばまとめである。商品資本や貨幣資本は、実際の流通過程では、資本として振る舞うわけではなく、単純な商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、資本の生産関係全体のなかでそれらの行為を捉えることから得られる形態規定性なのだということである。】

【25】

 資本が流通過程資本として現われるのは,ただ,全過程の関連のなかだけでのことであり,出発過程が同時に復帰点として現われる契[416]機G_G'(または,出発点としての商品から出発される場合には,W_W')のなかだけでのことである。(生産過程では,資本が資本として現われるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによるのである。)だが,ここでは,媒介は消え去っている。そこにあるものは,G'またはG+△Gであり(この△Gだけふえた価値額が貨幣の形態で存在しようと,商品の形態で存在しようと,生産手段,固定資本等々の形態で存在しようと),投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値,に等しい貨幣額である。だが,まさにこの復帰点では,すなわち資本が実現された資本として,増殖した価値として存在するこの復帰点では,この形態では,--この点が,想像的であろうと現実にであろうと,休止点として固定されるかぎりでは--資本はけっして流通にははいらないのであり,むしろ流通から引き揚げられたものとして,全過程の結果として,現われるのである。それがふたたび支出されるときには,それはけっして資本として第三者に譲渡されるのではなく,単純な商品として第三者に売られるか,または単純な貨幣として商品に転化される。資本は,その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで,ただ商品または貨幣として譲渡されるだけであって,これがここでは資本の唯一の,他者にとっての定在なのである。商品や貨幣がここで資本であるのは,一方が貨幣に転化し他方が商品に転化するかぎりでのことではなく,買い手または売り手にたいする商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく,ただ,資本家自身にたいする(主観的に見れば),または総過程の諸契機としての(客観的に見れば),商品や貨幣の観念的なideell諸連関のなかだけでのことである。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは,流通過程でのことではなく,ただ生産過程のなかでだけのことである。

 ①〔異文〕「実現された」--書き加えられている。
 ②〔異文〕「…… 機能する」という書きかけが消されている。
 ③〔異文〕「その流通過程」← 「流通過程」
 ④〔異文〕「たいする(主観的に見れば),」← 「たいする,」
 ⑤〔異文〕「諸連関」← 「連関」〉 (180-181頁)

 〈資本が流通過程で資本として現れるのは、ただ全過程の関連のなかだけのことです。それは出発点が同時に復帰点として運動する全過程です。例えば出発点が貨幣資本ならG-G'として、あるいは商品資本ならW-W'として現れる過程においてだけです。(もちろんいうまでもなく、生産過程では資本が資本として現れるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによります。)ただ全過程の結果においては、それ以前の関連は消えています。そこにあるのは、G'またはG+ΔGです(このΔGだけ増えた価値額が貨幣の形態で存在しようと、商品の形態で存在しようと、あるいは生産手段、固定資本等々の形態で存在しようと)、いずれよせにそれは投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値、に等しい貨幣額です。まさにこの復帰点では、資本は実現された資本として、増殖された価値として存在しています。しかしこの形態では、それが想像的であろうと現実にであろうと、休止点として固定されるならば、資本は決して流通に入らないのです。むしろそれは流通から引き上げられたものとして、全過程の結果として、資本として現れるのです。それが再び支出されるときには、それは決して資本として第三者に譲渡されるのではなく、単純な商品として第三者に売られるか、あるいは単純な貨幣として商品に転化されるだけです。資本は、その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで、ただ商品または貨幣として譲渡されるだけなのです。これがここでは資本の唯一の他者にとっての定在なのです。商品や貨幣がここで資本であるのは、一方が貨幣に転化し、他方が商品に転化するかぎりのことではなく、あるいは買い手または売り手に対する商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく、主観的に見れば、資本家自身に対する、あるいは客観的にみれば、総過程の諸契機としての、商品や貨幣の観念的諸連関のなかにおいてだけなのです。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、流通過程でのことではなく、ただ生産過程のなかだけのことです。〉

 【ここでは商品資本や貨幣資本が流通過程では、単なる商品や貨幣として現れること、だからそれらが資本としてあるのは、一つは資本家の主観的なものとしてそうであり、客観的には資本の総過程の関連のなかで言いうることだけだ、と指摘されている。だからそうした商品資本や貨幣資本が資本であるという規定性は、現実に存在する商品や貨幣からみれば観念的諸連関にすぎず、それは直接的表象として得られる商品や貨幣をただ観察することからさらにそれを全体との関連のなかで分析することによって得られるわけである。単純な流通過程にある商品も、それが如何なる過程を通して流通に商品として登場しているのかを辿れば、その直接的な商品としての定在の背後に隠された、資本関係のより具体的なものが見えてくるわけである。単なる貨幣も、その貨幣所持者が、如何なる関係のもとにその貨幣を流通に投じるのか、単なる生活手段を購入する意図をもって貨幣を投じるのか、それともそれで資本の生産過程を開始するために投じるのかというより具体的な関連をさぐるなら、その単なる貨幣は、より具体的な規定性としては貨幣資本とし存在しその機能を果たすことも分かるのである。】

 (以下、続く)

2019年5月26日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-3)

『資本論』第3部第5篇第21章草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続きで、第10パラグラフからである。

 

【10】

 〈まず,利子生み資本の特有な流通を考察しよう。次いで第2には,それが商品として売られる独特な仕方,すなわち売られる代わりに貸し付けられる,という独特な仕方に言及しなければならない。〉 (174頁)

 〈まず、利子生み資本の特有な流通について考察しましょう。そしてその次には、利子生み資本が商品として売られる独特な仕方、売られる代わりに貸し付けられる、という独特な仕方について論じることにしましょう。〉

 【ここから利子生み資本に特有な流通が考察されている。それが貨幣が商品として売買されるという形式をとりながら、実際には貸し借りされているというものである。貨幣が商品として売買されているという現実は、貨幣市場の直接的な表象であり、銀行が資本という商品を取り扱っているということも、経済人が常に自覚していることである。つまりそれらは利子生み資本の流通の直接的表象ということができる。しかし商品の流通と言っても、それは独特な種類の商品であり、だから独特な流通の仕方があるのだというのである。それをこれから考察するというわけである。】

【11】

 〈①第1。出発点は,AがBに前貸する貨幣である。{この前貸は,担保つきでも,無担保でも行なわれうる。とはいえ,担保つきという形態は,商品を担保として,あるいは手形等々のような債務証書を担保として行なわれる前貸の場合を別とすれば,古風なものである。これらの特殊な形態はここではわれわれに関係がない。われわれが取り扱うのは普通の形態の利子生み資本である。}Bの手でこの貨幣は現実に資本に転化させられ,運動G-W-G’をすませてから,G'として,G+△Gとして,Aに直接に帰ってくる。この△Gは利子を表わす。(それがかなり長いあいだBの手にとどまっていて,Bは一定の期日ごとに利子を支払うだけであり,資本はかなり長い期間を経たのちにはじめて,最後に支払われるべき利子とともに還流してくる〔returniren〕,ということもありうる。ここでは,簡単にするために,このような場合もしばらく問題にしないことにする。)

 ①〔異文〕「第1。」--書き加えられている。
 ②〔異文〕「この貨幣」← 「貨幣」
 ③〔異文〕「直接に」書き加えられている。
 ④〔異文〕「すべてのこと〔AUes〕」という書きかけが消されている。〉 (174-175頁)

 〈第1。出発点は、AがBに前貸しする貨幣です。この場合、担保付きでも、無担保でも行われます。しかし、担保付きというのは、商品を担保にする場合や手形等の債務証書を担保にする場合を除くと、古風なものです。だからここではそうした特殊なケースは考慮に入れないことにします。私たちが取り扱うのは普通の利子生み資本だからです。Bの手で貨幣は現実に資本に転化させられ、運動G-W-G'をすませます(つまりそれはBの手で生産手段と労働力の購入のために支出され、生産過程でW'、つまり剰余価値を含んだ商品資本を生産します。そしてそれが販売されてG'としてBの手に還流してきます。ただしここではΔGは利潤)。そしてG'は、さらにG+ΔGとして、Aに帰ってきます。Aに帰ってくる場合のΔGは利子を表します。もちろん、この場合も、Bの手に長い間とどまっていて、Bは一定期間ごとに利子を支払うだけで、元の貸付られた資本自体はながい期間を経たのちにはじめて、最後にAに利子とともに支払われるということもありえます。しかしこうしたことは、問題を簡単にするために考慮の外に置くことにします。〉

 【ここでは最初に〈第1〉とあり、MEGAの〔異文〕によれば書き加えられたもののようである。しかしそれに対応する「第2」というのがどこか見当たらない。マルクスの場合、こうした例が多いのだが、その場合は結局、内容で考えるしかない。そのヒントになるのは、われわれのパラグラフ番号では【42】の次のような文言である。

 〈第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。〉 (192頁)

 つまりここで〈第1〉とあるのは、AがBに貨幣を前貸しすることである。そして第2というのは、今度は逆にBがAに貨幣を返済することを意味するわけである。このように貸付と返済を第1と第2の行為として論じるのは、少なくともこの第21章該当部分全体で一貫しているうように思える。
 マルクスは出発点はAがBに前貸しする貨幣Gだとする。そしてこのGはBの手で現実に資本に転化させられ、G-W-G'を済ませてから、G'としてAに直接帰ってくるとするのであるが、この場合のG'をG+ΔGとしてΔGを「利子」としているのである。だからここには実際の貨幣資本の運動しては大幅な省略がある。Bの手でそれが資本として現実に機能させられる過程、つまりG-W…P…W’-G’が省略されているわけである。しかもこの場合のG’はG+ΔGと書くなら、ΔGは利子ではなく利潤である。Bは利潤(ΔG)の一部を利子(Δg)として最初のGとともにAに返済するわけである。マルクスはそうした過程を一切省略して、Bの手でG-W-G'を済ますと書いている。
 またここでは実際には行われている担保付き貸付についてもわれわれの考察では考慮しないことや、返済も一つの循環を終えれば資本も利子も一括して返済されると仮定して論じるとしている。要するに利子生み資本の運動をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした簡略化は必要なのであ。】

【12】

 〈[414]つまりこの運動はG_G_W_G'_G'である。〉 (175頁)

 〈つまりこの運動はG-G-W-G'-G'です。G-GはAのBへの貨幣の前貸しであり、G'-G'はBによるAへのもとの貨幣の利子をともなった返済です。〉

 【これが利子生み資本の循環を示す図である。ここで大谷氏の翻訳ではGの上に「vv」というものか書かれている。大谷氏はそれに注をつけているが、それはMEGAでは省かれているというだけでマルクスはどういう意図でそういう記号をつけたのかについては何も述べていない。この記号はGだけではなく、別のところではWにもついており、マルクスの何らかの意図を示すものと考えられるが、とりあえずは分からないのでその意味の解明は保留しておこう。】

【13】

  〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である。〉 (175頁)

 〈ここで二重に現れているのは、一つは資本としての貨幣の支出であり、もう一つは実現された資本としての、G'またはG+ΔGとしての、その還流です。〉

 【ここで〈二重に現われている〉とマルクスは述べている。何が二重なのか。恐らく「G_G」と「G'_G'」というのは、前者はまったく同じGが二回、後者もまったく同じG'が二回現れているという意味であろう。そこには資本としての現実的な転換はなにもないわけである。ただ持ち手が変わっているだけだということであろうか。】

【14】

 商業資本〔mercantiles Capita1〕の運動G_W_G'では同じ商品が二度,または(最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人〔がはいる〕場合には)何度も,持ち手を取り替える。しかし,同じ商品のこのような場所変換は,そのそれぞれがその商品の一つの変態,その購買または販売を示しているのであって,その商品の最終的な販売までにこの過程が何度繰り返されようとも,そうなのである。

 ①〔異文〕「同じ商品が」← 「商品が」〉 (175-176頁)

 〈商業資本の運動G-W-G'では、同じ商品が二度持ち手を変えます。まずその商品の生産者の手から、商業資本の手へ、そして商業資本の手から、その商品の購買者の手へと。もちろん最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人が入る場合もあり、その場合は何度も持ち手を取り替えます。しかしいずれもこの同じ商品のこのような場所変換は、それぞれがその商品の変態を表しています。つまりその購買または販売を示しているのです。その商品が最終的に販売されるまで、この過程が何度繰り返されようと、そうなのです。〉

 【このパラグラフは、【12】パラグラフで示した利子生み資本の運動の特徴を明らかにするために、まずはその前提として、あるいはその特徴をとらえるための比較として、同じように同じ価値額の持ち手の変換が生じる事象として、今回のパラグラフでは商業資本の運動、そして次のパラグラフ(【15】)では商品の流通のそれぞれの特徴をまず確認しておこうということであろう。
 商業資本の運動では〈同じ商品が二度……持ち手を取り替える〉と指摘されている。ここで〈二度……持ち手を取り替える〉というのは、利子生み資本の先の運動の特徴として〈二重に現われている〉と述べていたことに対応している。つまり商業資本の運動でも同じ商品が二度持ち手を取り替えるが、しかしそれぞれには商品の変態が対応しているのだ、つまりその購買または販売を示しているのだ、というのである。それに対して利子生み資本のG-GやG'-G'のように、まったく同じGやG’が持ち手を取り替えているのに、そこには何の変換や変態をも示すものはないというのがマルクスの言いたいことであろう。】

【15】

 他方,W_G_Wのなかには同じ貨幣の2度の場所変換(持ち手変換)があるが,しかし,それは商品の完全な変態を示しているのであって,商品はまず||288上|貨幣に転化され,次に貨幣からふたたび商品に転化される。

 ①〔異文〕「(持ち手変換)」--「場所変換」の上部に挿入記号なしに書かれている。〉 (176頁)

 〈他方、商品流通W-G-Wのなかには同じ貨幣が2度の場所変換(持ち手変換)がありますが、しかし、それは商品の完全な変態を示しています。商品はまず貨幣に転化され、次に再び商品に転化されるのです。〉

 【この場合もすでに述べたように、利子生み資本の運動の特徴を明らかにするために、その比較のために同じ貨幣が二度の持ち手変換がある。つまり商品の生産者はそれを販売して貨幣に変換し、次にその貨幣で自分に必要な商品を購買する。ここでは貨幣は2度の場所変換を媒介しているが、それは商品の完全な変態を伴うものだ。それに比して利子生み資本の場合はどうか、というのが次のパラグラフからの問題である。
 いずれにせよ、マルクスが商業資本や商品流通の運動で明らかにしているのは、それらは資本の再生産過程の一契機として存在しているということである。それらは再生産過程内の資本や商品の転換であり、変態なのである。つまり資本主義的生産様式において社会的物質代謝を維持する上での不可欠な契機としてそれらは存在しているということである。それに対して、利子生み資本の最初と最後の場所変換は、まったくそうしたものを示していないというのがマルクスが言いたいことであろう。利子生み資本の運動が再生産過程外の信用にもとづくものだという理解の根底を示すものともいえる。】

【16】

 〈これに反して,利子生み資本の場合にはGによる第1の場所変換は,けっして資本の変態の契機あるいは資本の再生産過程の契機ではない。Gは第2の支出ではじめてこのような契機になる。すなわち,このGで商品取り扱い等々を営むかまたはそれを生産的資本に転化させる機能資本家の手のなかではじめてそうなるのである。ここでGの第1の場所変換が表わしているものは,Gの移転,AからBへのGの移転または引き渡し以外のなにものでもない(この移転は,ある法律上の形式と留保とのもとで行なわれるのである)。〉 (176頁)

 〈商業資本の運動や商品流通における変態とは違って、利子生み資本の場合にはGによる第1の場所変換は、決して資本の変態の契機やあるいは資本の再生産過程の契機とはいえません。Gは資本家Bの手で、つまり第2の支出ではじめてこのような契機になるのです。つまりこのGで商品取扱等々を営むか(商業資本)またはそれを生産的資本に転化させる機能資本家の手ではじめてそうなるのです。ここでGの第1の場所変換が表しているものは、Gの移転、AからBへのGの移転または引き渡し以外のなにものでもないのです。この移転は、ある法律上の形式と留保のもとで行われます。〉

 【ここでは利子生み資本の運動の第1の契機、すなわちG-Gの特徴が明らかにされている。そこでマルクスが強調しているのは、それが資本の変態の契機ではないこと、ようするに資本の再生産過程の契機ではないということである。この再生産過程内の問題かそうではなくて再生産過程外の問題かということは決してどうでもよいことではない。マルクスの眼目もここにこそあるということをわれわれも確認しておこう。
 ではそれは何を意味するか、マルクスはそれはただ「移転」あるいは「引き渡し」を意味するだけだと述べている。だからこそそれは何らかの法律上の形式と留保のもとで行われなければならないのだ、ということでもある。
 {ここで〈法律上の形式と留保〉という文言が出てくるが、「留保」というのがいま一つよく分からない。これはインターネットで調べるとさまざまな説明があるが、主要には法律上の用語であり、次の説明がこの場合に一番該当するのではないかと思う。

  〈特に、権利・義務を移す場合に、その全部または一部を残留・保持すること。〉(精選版 日本国語大辞典の解説)

  つまりAからBにGを移転あるいは引き渡す場合、一定の法律上の取り決めにもとづいて行われるが、しかしAにも何らかの権利を「残留・保持する」ことを前提に行われるということではないかと思う。これはこのあとのパラグラフで出てくるが、AはGをBに引き渡しても、依然としてGの所有者でありつづける。つまりGの所有権そのものは「残留・保持する」ことが前提されている、ということではないかと思う。}】

【17】

 〈このような,資本としての貨幣の二重の支出--その第1のものはAからBへのたんなる移転〔transfer〕である--には,それの二重の還流〔Return〕が対応する。それはG'またはG+△Gとして,運動から機能資本家に還流する〔rcturniren〕。次にBはふたたびそれをAにtransferする,移転する。この場合,△Gは利潤に等しいのではなく,ただ利潤の一部分,利子でしかない。Bに貨幣が還流する〔returniren〕のは,ただ,Bが支出したものとして,機能資本として,とはいえAの所有物として,還流するだけである。だから,その還流〔Return〕が完全になるためには,BはそれをふたたびAに移転し〔transfer〕なければならない。しかし,Bは,資本額のほかに,自分がこの資本額であげた利潤の一部分利子という名目でAに引き渡さなければならない。というのは,AがBに貨幣を渡したのは,ただ,資本として,すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく自分の所有者のために或る剰余価値を創造する価値として,渡しただけだからである。|〉 (176-177頁)

 〈このような資本としての貨幣の二重の支出、すなわちまずAからBへの支出、そしてBの手による現実的な資本への転換としての支出、ここでの第1のもの、つまりAからBへの支出は単なる資本の「移転」です。この二重の支出には、それの二重の還流が対応します。まずG'またはG+ΔGとして、機能資本家Bに還流します。次にBはふたたびそれをAに移転します。しかしこの場合のΔGは利潤に等しいのではなく、ただ利潤の一部、である利子でしかありません。Bに貨幣が還流するのは、ただBが支出したものとして、機能資本として還流するのですが、しかしそれはAの所有物としてです。だからその還流を完成させるためには、BはそれをふたたびAに移転しなければならないのです。ただBは、元の資本額だけではなく、自分がこの資本額であげた利潤の一部分を利子という名目でAに引き渡さなければなりません。というのはAがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動の中で自分を維持するだけではなく自分の所有者のためにある剰余価値を創造する価値として、渡しただけだからです。〉

 【ここで〈資本としての貨幣の二重の支出〉というのは、【13】で〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である〉と述べていたことをもう一度詳しく論じているように思える。先には〈資本としての貨幣の支出〉が〈二重に現われている〉としていたのが、今回は〈資本としての貨幣の二重の支出〉と言い換えられている。ここで二重というのはAからBへの貨幣の移転も、Aにとってはその貨幣は資本であり、貨幣の資本としての支出だからである。その次のBによるAから借り入れた貨幣の支出は、文字どおり現実資本への転換であり、資本としての貨幣の支出であることは間違いない。
 ここではこうした〈二重の支出〉には〈二重の還流〔Return〕が対応する〉と指摘されている。すなわちG'-G'であるが、最初のG'はBのもとへの還流である。しかしこのBのもとへ還流した貨幣は、依然としてAの所有物として存在しており(これが先の「留保」の意味であろう)、よってもう一つの還流、すなわちAのもとへの還流が行われなければならないというわけである。そしBの元への還流ではΔGは利潤であったが、Aのもとへの還流ではΔGは利潤の一部、つまり利子としての還流でなければならないとしている。そしてその理由としてもともとAの最初の貨幣の支出は、資本としての支出だったからである。つまりその運動のなかで自分を維持するだけではなく、その所有者に剰余価値を創造する価値として機能するものとしてAは渡したのだというわけである。】

【18】

 (この貨幣がBの手にとどまっているのは,ただそれが機能資本であるあいだだけである。そして,その還流〔Return〕(約束の期限がきてからの)とともに,それは資本として機能しなくなる,機能資本であることをやめる。しかし,機能していない資本として,それはふたたびBの手からAの手に,すなわち自分の資本をBに手放しているあいだもずっとそれの法律上の所有者でなくならないAの手に,移転〔transfer〕されなければならないのである。)

 ①〔異文〕「,すなわち自分の資本をBに手放しているあいだもずっとそれの法律上の所有者でなくならないAの手に,」--書き加えられている。〉 (177頁)

 〈この貨幣がBの手に留まっているのは、Bが機能資本として存在している間だけです。そして、それが還流して、返済の期限が来るなら、それは資本として機能しなくなります。つまり機能資本であることをやめます。しかし、機能していない資本としては、それはBの手からAの手に移転させられなければなりません。なぜなら、Aは自分の資本をBに手放しているあいだもずっと法律上の所有者だからです。〉

 【この部分は全体が丸カッコにくくられている。最後の還流(Bの手からAへの移転)は、第一にBに還流した時点で、それはすでに機能資本ではないからであり(もし再び機能資本として機能させるためには、いずれにせよBはAから継続して借り入れる何らかの取り引きが必要である)、つまりBにとっては機能しない資本、Bには不要なものだからであり、第二に、もともとその貨幣はAからBに手放されたものであるが、しかしAはBに貨幣を手放した後も、それがBの手で機能させられている間も、依然としてその法律上の所有権を保持したままだからである。だからBの手で還流した貨幣は、さらにAに最終的に還流する必要があるわけである。
 だからこの部分は第二の還流の補足的な分析と言うことができるだろう。】

  (以下、続く)

 

 

 

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