『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その78)
§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§
(以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)
《補足》
このパラグラフの最初の考察において、このエンゲルスが「補遺」とした部分において、マルクスが〈5)部門IIでの蓄積〉の〈b〉で提起した問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題を再び論じていることから、だからマルクスはこの第八稿の第21章該当部分では、最後までこの同じ課題を追究しているのだ、すなわちエンゲルスが「第一例」、「第二例」とした表式を使った一連の考察においても、マルクスは同じ問題を、すなわち部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを追究しているのだと理解している人たちがいることを紹介した(伊藤武氏がその代表であるが、後にみるであろうが、実は、大谷禎之介氏も同様の立場に立っているのである)。
しかしこうした主張をする人たちは、エンゲルスが「第一例」「第二例」とした部分で、マルクスが拡大再生産表式を年次を重ねて展開して計算しているところでは、実際は、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機をまったく捨象して計算している事実を忘れている(あるいは、見落としている)のである。彼らがこうした誤りに陥るのは、現実に、部門IIでの蓄積の貨幣蓄蔵が如何になされるかについて徹底して考え抜いて解決していないからにほかならない。もしマルクスが表式を使って拡大再生産の補填関係を考察しているところで、蓄積基金の契機を入れて考察したとするなら、それはどのようになされるべきかについて、伊藤武氏らは、恐らく理解されていないのであろう。だからこうした誤った理解が生じていると思えるのである。
そこで、実際に、マルクスが拡大再生産の表式を使って年次を重ねて計算しているB式(【62】パラグラフ)を使って、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を顧慮して考察してみることにしたい。それが実際には、如何に行なわれ、解決されるのかを示せば、伊藤武氏らの主張が、どれほど誤ったものであるかが了解できると思えるからである。われわれはまずB式を提示することから始めよう。
B 拡大された規模での再生産のための出発表式
I ) 4000c+1000v+1000m=6000 | 合計=9000
II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000
問題はこの表式で蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を入れて、蓄積のための剰余価値を表す商品資本の販売と蓄積のための現実資本への転換(あるいは個人的消費への転換)が如何になされるかである。それを考えてみよう。
われわれはマルクスに倣って、剰余価値を貨幣化したものを将来の蓄積のために流通から引き上げて蓄蔵しつつある資本家たちをA群とし、それまでに蓄蔵された潜勢的貨幣資本が現実の蓄積に必要な額に達したので、いままさにそれらを投下しようとしている資本家たちをB群としよう。それらが部門 I と部門IIにそれぞれ存在すると仮定するのである。部門 I で蓄積の年齢階層がさまざまであるように、部門IIにおいてもそうであると仮定することはまったく合理的な想定である。だから二つの部門に、A( I )、B( I )、A(II)とB(II)の資本家群がそれぞれ存在すると仮定するわけである。そして上記のB式でマルクスが想定していたように、部門 I の剰余価値1000mのうち半分の500mが蓄積に回されると仮定しよう。
さてここで、蓄積基金の契機を考慮に入れると、それは次のようなことになる。
すなわち500m( I )の剰余価値を体現する商品資本(生産手段)を販売して、その貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するのは、部門 I のA群の資本家たちである(彼らはただ一方的販売者として現われる)のに対して、同じ価値額の500の貨幣資本を(彼らはそれをそれまで蓄蔵してきたのであるが)現実の蓄積のために流通に投じるのは、部門 I のB群の資本家たちであるということである(彼らは一方的購買者として現われる)。
まずA( I )は剰余価値500m(生産手段)のうち400mをB( I )に販売し、その貨幣400を蓄蔵する。彼は残りの100mを今度は部門IIのB群の資本家たちに販売し、やはりその貨幣を蓄蔵する。すなわち彼は彼の剰余価値を表す商品資本500mをすべて貨幣化して(一方的に販売して)、それを将来の蓄積のために蓄蔵したわけである。
他方、B( I )は、それまで彼が蓄蔵してきた500の貨幣資本のうち400を投じて、A( I )から追加的生産手段400を購入する(彼はただ一方的に購買する)。彼は残りの100を使って、部門 I で追加労働力を購入する。だからその100は追加労働者の労賃として支払われる。そして I の追加労働者はその100で、A(II)の資本家から100m(II)の生活手段を購入する(追加労働者もただ一方的購買者である)。こうして、B( I )の資本家たちは、追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、追加労働者は支払われた労賃で部門IIから追加生活手段を購入して、彼らの労働力を再生産する条件を得たわけである。
次に部門IIに視点を移そう。われわれの想定では、部門 I で剰余価値の半分500mが蓄積されるのに対応して、部門IIでは、750mの剰余価値のうち150mが蓄積に回される必要がある(【65】、【66】参照)。しかしこの場合も、蓄積基金を考慮するなら、150m(II)の剰余価値を表す商品資本を一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵するのは、A(II)群の資本家たちであり、実際に、それまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本150を投じて(一方的に購買して)現実の蓄積を開始するのは、B(II)群の資本家たちである。
まずA(II)は150mの商品資本(生活手段)のうち、100mをB( I )に雇用された追加労働者に一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。さらに彼は残りの50mをB(II)に雇用された追加労働者にやはり一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。こうして彼は150mの剰余価値を表す商品資本をすべて一方的に販売して、その貨幣150を流通から引き上げて、将来の蓄積のために蓄蔵するのである。
これに対して、B(II)は、それまで蓄蔵してきた貨幣資本150のうち100を投じて、A( I )から生産手段をただ一方的に購入する。さらに彼は残りの貨幣50を投じて、追加労働力に転換する。B(II)に雇用された追加労働者は支払われた労賃50で持って、A(II)から生活手段をただ一方的に購入する。こうしてB(II)は追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、またB(II)に追加的に雇用された労働者も彼らの労働力を再生産する条件を獲得したことになる。
これまでの考察の過程を図示すると、次のようになる。
こうして、B式で考察された拡大再生産のための商品資本の販売と現実資本への転換(および個人的消費のための転換)が蓄積基金を考慮しながら展開されたことになる。
ごらんのとおり、部門 I と同様に、部門IIにおいても、蓄積のための蓄蔵貨幣の形成のために、〈貨幣源泉〉が部門IIのどこから湧き出るのかと探し回る必要などまったくないことが分かるのである。マルクスが当初から〈5)部門IIでの蓄積〉の〈b〉で考えていた結論はこうしたものだったのである。ただ彼は、部門 I の場合と同じように、最初はそれを〈外観上の困難〉として提起し、その上で、それらの困難を解決するものと考えられるあらゆる方策を取り上げて、しかしそれらがすべて不可であることを示して、その困難がただ外観上のものに過ぎないことを論証した後に、では実際には、それは如何になされるのかを、つまり部門IIでの蓄積のための貨幣蓄蔵が、このパラグラフで考察されたようになされることを示すつもりだったのである。
ところがマルクスにとって、最初の外観上の困難を〈一つの新しい問題〉として、すなわち蓄積ための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか〉という問題として提起するやり方が、必ずしもうまくなされたわけでは無いとの思いがあった(実際、それはかなり強引なやり方であった)。だからマルクスはそうした思いもあって、その考察を途中で〈云々。云々。〉という形で中途半端な形で打ち切ってしまったと推測されるのである。しかしそのために、 一番肝心な問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかという問題を論じる前に、その敍述を打ち切ってしまうことになってしまったのである。だからマルクスは草稿の最後に、すなわちこの【115】パラグラフにおいて、いわば補足的に、それをもう一度取り上げて、その実際の解決の方法を示す必要があったと思われるのである。
だから草稿の最後に、部門IIにおける貨幣源泉の問題が論じられているからといって、その前の拡大再生産の表式を使った計算においても(すなわちわれわれが「拡大再生産の法則」が論じられているとしたところにおいても)、マルクスが同じ問題を追究しているのだ、などと解釈している伊藤武氏らの理解は、まったくマルクスの草稿を読み誤ったものでしかないといわざるをえないのである。】