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『資本論』第2部第8稿第21章の解説

2009年4月17日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その78)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

《補足》

 このパラグラフの最初の考察において、このエンゲルスが「補遺」とした部分において、マルクスが〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で提起した問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題を再び論じていることから、だからマルクスはこの第八稿の第21章該当部分では、最後までこの同じ課題を追究しているのだ、すなわちエンゲルスが「第一例」、「第二例」とした表式を使った一連の考察においても、マルクスは同じ問題を、すなわち部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかを追究しているのだと理解している人たちがいることを紹介した(伊藤武氏がその代表であるが、後にみるであろうが、実は、大谷禎之介氏も同様の立場に立っているのである)。
 しかしこうした主張をする人たちは、エンゲルスが「第一例」「第二例」とした部分で、マルクスが拡大再生産表式を年次を重ねて展開して計算しているところでは、実際は、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機をまったく捨象して計算している事実を忘れている(あるいは、見落としている)のである。彼らがこうした誤りに陥るのは、現実に、部門IIでの蓄積の貨幣蓄蔵が如何になされるかについて徹底して考え抜いて解決していないからにほかならない。もしマルクスが表式を使って拡大再生産の補填関係を考察しているところで、蓄積基金の契機を入れて考察したとするなら、それはどのようになされるべきかについて、伊藤武氏らは、恐らく理解されていないのであろう。だからこうした誤った理解が生じていると思えるのである。

 そこで、実際に、マルクスが拡大再生産の表式を使って年次を重ねて計算しているB式(【62】パラグラフ)を使って、蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を顧慮して考察してみることにしたい。それが実際には、如何に行なわれ、解決されるのかを示せば、伊藤武氏らの主張が、どれほど誤ったものであるかが了解できると思えるからである。われわれはまずB式を提示することから始めよう。

  B  拡大された規模での再生産のための出発表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000                                            |                                  合計=9000
  II ) 1500c+ 750v+ 750m=3000

 問題はこの表式で蓄蔵貨幣(蓄積基金)の契機を入れて、蓄積のための剰余価値を表す商品資本の販売と蓄積のための現実資本への転換(あるいは個人的消費への転換)が如何になされるかである。それを考えてみよう。

 われわれはマルクスに倣って、剰余価値を貨幣化したものを将来の蓄積のために流通から引き上げて蓄蔵しつつある資本家たちをA群とし、それまでに蓄蔵された潜勢的貨幣資本が現実の蓄積に必要な額に達したので、いままさにそれらを投下しようとしている資本家たちをB群としよう。それらが部門 I と部門IIにそれぞれ存在すると仮定するのである。部門 I で蓄積の年齢階層がさまざまであるように、部門IIにおいてもそうであると仮定することはまったく合理的な想定である。だから二つの部門に、A( I )、B( I )、A(II)とB(II)の資本家群がそれぞれ存在すると仮定するわけである。そして上記のB式でマルクスが想定していたように、部門 I の剰余価値1000mのうち半分の500mが蓄積に回されると仮定しよう。

 さてここで、蓄積基金の契機を考慮に入れると、それは次のようなことになる。

 すなわち500m( I )の剰余価値を体現する商品資本(生産手段)を販売して、その貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するのは、部門 I のA群の資本家たちである(彼らはただ一方的販売者として現われる)のに対して、同じ価値額の500の貨幣資本を(彼らはそれをそれまで蓄蔵してきたのであるが)現実の蓄積のために流通に投じるのは、部門 I のB群の資本家たちであるということである(彼らは一方的購買者として現われる)。
 まずA( I )は剰余価値500m(生産手段)のうち400mをB( I )に販売し、その貨幣400を蓄蔵する。彼は残りの100mを今度は部門IIのB群の資本家たちに販売し、やはりその貨幣を蓄蔵する。すなわち彼は彼の剰余価値を表す商品資本500mをすべて貨幣化して(一方的に販売して)、それを将来の蓄積のために蓄蔵したわけである。
 他方、B( I )は、それまで彼が蓄蔵してきた500の貨幣資本のうち400を投じて、A( I )から追加的生産手段400を購入する(彼はただ一方的に購買する)。彼は残りの100を使って、部門 I で追加労働力を購入する。だからその100は追加労働者の労賃として支払われる。そして I の追加労働者はその100で、A(II)の資本家から100m(II)の生活手段を購入する(追加労働者もただ一方的購買者である)。こうして、B( I )の資本家たちは、追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、追加労働者は支払われた労賃で部門IIから追加生活手段を購入して、彼らの労働力を再生産する条件を得たわけである。

 次に部門IIに視点を移そう。われわれの想定では、部門 I で剰余価値の半分500mが蓄積されるのに対応して、部門IIでは、750mの剰余価値のうち150mが蓄積に回される必要がある(【65】、【66】参照)。しかしこの場合も、蓄積基金を考慮するなら、150m(II)の剰余価値を表す商品資本を一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵するのは、A(II)群の資本家たちであり、実際に、それまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本150を投じて(一方的に購買して)現実の蓄積を開始するのは、B(II)群の資本家たちである。
 まずA(II)は150mの商品資本(生活手段)のうち、100mをB( I )に雇用された追加労働者に一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。さらに彼は残りの50mをB(II)に雇用された追加労働者にやはり一方的に販売して、その貨幣を蓄蔵する。こうして彼は150mの剰余価値を表す商品資本をすべて一方的に販売して、その貨幣150を流通から引き上げて、将来の蓄積のために蓄蔵するのである。
 これに対して、B(II)は、それまで蓄蔵してきた貨幣資本150のうち100を投じて、A( I )から生産手段をただ一方的に購入する。さらに彼は残りの貨幣50を投じて、追加労働力に転換する。B(II)に雇用された追加労働者は支払われた労賃50で持って、A(II)から生活手段をただ一方的に購入する。こうしてB(II)は追加生産手段と追加労働力によって現実の蓄積を開始し、またB(II)に追加的に雇用された労働者も彼らの労働力を再生産する条件を獲得したことになる。

 これまでの考察の過程を図示すると、次のようになる。

03_2

 こうして、B式で考察された拡大再生産のための商品資本の販売と現実資本への転換(および個人的消費のための転換)が蓄積基金を考慮しながら展開されたことになる。

 ごらんのとおり、部門 I と同様に、部門IIにおいても、蓄積のための蓄蔵貨幣の形成のために、貨幣源泉〉が部門IIのどこから湧き出るのかと探し回る必要などまったくないことが分かるのである。マルクスが当初から〈5)部門IIでの蓄積〉〈b〉で考えていた結論はこうしたものだったのである。ただ彼は、部門 I の場合と同じように、最初はそれを〈外観上の困難〉として提起し、その上で、それらの困難を解決するものと考えられるあらゆる方策を取り上げて、しかしそれらがすべて不可であることを示して、その困難がただ外観上のものに過ぎないことを論証した後に、では実際には、それは如何になされるのかを、つまり部門IIでの蓄積のための貨幣蓄蔵が、このパラグラフで考察されたようになされることを示すつもりだったのである。
 ところがマルクスにとって、最初の外観上の困難を〈一つの新しい問題〉として、すなわち蓄積ための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか〉という問題として提起するやり方が、必ずしもうまくなされたわけでは無いとの思いがあった(実際、それはかなり強引なやり方であった)。だからマルクスはそうした思いもあって、その考察を途中で〈云々。云々。〉という形で中途半端な形で打ち切ってしまったと推測されるのである。しかしそのために、 一番肝心な問題、すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかという問題を論じる前に、その敍述を打ち切ってしまうことになってしまったのである。だからマルクスは草稿の最後に、すなわちこの【115】パラグラフにおいて、いわば補足的に、それをもう一度取り上げて、その実際の解決の方法を示す必要があったと思われるのである。

 だから草稿の最後に、部門IIにおける貨幣源泉の問題が論じられているからといって、その前の拡大再生産の表式を使った計算においても(すなわちわれわれが「拡大再生産の法則」が論じられているとしたところにおいても)、マルクスが同じ問題を追究しているのだ、などと解釈している伊藤武氏らの理解は、まったくマルクスの草稿を読み誤ったものでしかないといわざるをえないのである。】

2009年4月14日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その77)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 以上によって、蓄積に先行する貨幣蓄蔵のためのすべての要素が解明されたことになる。この考察を踏まえて、われわれは次に、マルクスの草稿に戻ってその解読を試みることにしよう。この場合も、われわれは各部分ごとに、箇条書きにして分けて論じることにする。

 1) I とIIとの関係のなかでの一時的な--拡大再生産に先行する--貨幣蓄蔵のための要素は,次のような場合に生じる。 I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる。〉
 ここでマルクスは、貨幣蓄蔵が可能なのは、I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる〉としている。確かにこれはこの限りではこのとおりなのであるが、マルクスは、どうして I がm I をただ一方的に販売するだけであるのか、どうしてそれが可能なのかについて、またそうして蓄蔵される貨幣がどういう蓄積のための貨幣蓄蔵なのかについても何も述べていない。しかしわれわれはすでに考察したものを前提に考えるなら、 I がm I をただ一方的に販売することが可能なのは、それは部門 I のA群の資本家だからであり、だから部門 I にはB群の資本家が存在することが前提されていることを知っている。またそうして蓄蔵される貨幣は I における追加可変資本のための貨幣蓄蔵であること、だから資本家B( I )たちは、それまで蓄蔵してきた蓄蔵貨幣を追加可変資本として前貸し、追加労働力に転換しようとしていることを知っているのである。
 さらにマルクスは〈m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合〉について述べている。だからこのケースはわれわれが先に考察した(1)と(2)のケースに該当するであろう。そしてこのm I を一方的に購入するのは、部門IIの資本家のうちこれから現実に蓄積を行なおうとこれまで蓄蔵してきた貨幣を追加不変資本に前貸しようとしているB群の資本家たちであることも分かるのである。

 2)IIにとっては,同じことが I の側で追加可変資本について行なわれる場合に生じる。〉
 IIにおいては、 I のB群の資本家達がそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を現実に追加可変資本として投下し、そのB( I )に雇用された追加労働者がIIのA群の資本家たちから、彼らの剰余価値のうち将来の蓄積に予定されている部分を購入することによって生じるわけである(ただし上記のケースと同じケースを想定している場合であるが)。資本家A(II)はその貨幣を蓄蔵する。こうしてIIにおいても貨幣蓄蔵が生じることになる。もちろん、IIはすでに見たように、それまで蓄蔵してきた貨幣を現実に追加不変資本に前貸しようとしている資本家B群も存在することは、先に--1)で--見たとおりである。

 3)同じくIIにとっては, I によって収入として支出される剰余価値の一部分がc(II)によって補填されず,したがってm(II)《部分》にまで及び,この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる。もし(v+m/x) I がcIIよりも大きければ,cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない。〉
 これは上記で考察した(2)のケース〔I(v+m/x)>IIc〕を想定している。すなわち I の単純再生産部分の転換のためにはIIcが不足し、その分だけIImから追加不変資本として蓄積が必要となる場合である。つまりその蓄積が必要な分だけ、IIにおいて、剰余価値部分が貨幣化され、それが蓄蔵されるというわけである。もちろん、IIでは I の蓄積に対応した蓄積がそれ以外にも生じるのであって、その部分については、その前に考察したケースと基本的には同じであるために、マルクスは考察を省略しているのである。
 そして I の単純再生産の補填のためにも、IIで必要な蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるかについては、すでにわれわれが(2)で考察したとおりである。
 さて、マルクスは、この(2)のケースでは、cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない〉と述べている。これはどういうことであろうか。まずIIcのすべてと、 I(v+m/x)の一部分(われわれの(2)の考察では I〔v+m/x-my〕)は、単に単純再生産の補填関係でしかない。マルクスが〈m(II)のうちから I が消費してしまったもの〉というのは、だからわれわれの先の考察ではmyに該当するわけである。それを部門IIでは、A群の資本家が将来の蓄積のために剰余価値m(II)の一部(my)を I に販売して、それを将来の蓄積のために蓄蔵すると仮定されているわけである。だからマルクスはそれを〈 I からの商品によって補填する必要はない〉としているのである(なぜなら彼らは一方的に販売する資本家達だから)。しかしそうしたことが可能なのは、他方で、B(II)の資本家達が、それまで蓄蔵してきた潜勢的可変資本(my)を現実に投下して、  I(v+m/x)の一部(my)を一方的に購入するからであって、それをマルクスは指摘するのを忘れているのである。

 4)間題になるのは,IIの資本家たちの交換--m(II)に関連しうるだけの交換--の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうるか,ということである。すでに述べたように,IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に可変資本に転化される( I でm I の一部分が直接に不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される。一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り,他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本はまず第1に追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼らの手から出発点に帰ってこないで,彼らが貨幣を退蔵するのである。〉
 ここでマルクスが考察しているのは、先に I の追加不変資本の蓄積の場合の貨幣蓄蔵と類似したケースとして取り上げた、IIにおける追加可変資本の蓄積の場合の貨幣蓄蔵のケースである。すなわち〈IIの資本家たちの交換……の内部〉〈m(II)に関連しうるだけの交換〉である。IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に(追加)可変資本に転化されるということによってである。これは〈 I でm I の一部分が直接に(追加)不変資本に転化されるのとまったく同様〉である。違いは I の場合は資本家同士の交換であったのに対して、今回は資本家同士の補填関係の間に追加労働者が媒介者として入ってくる点である。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される〉。つまり〈一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り(すなわちA群の資本家に属し),他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う(すなわちB群の資本家に属する)(資本家B(II))の追加可変《貨幣》資本はまず第1に(IIで新たに雇用された)追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,(資本家A(II)、すなわち)貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う(だからIImの一部は必要生活手段として生産されていなければならないわけだ)。彼らの(すなわちA(II)の)貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼ら(A(II))の手から出発点(B(II))に帰ってこないで,彼ら(A(II)が貨幣を退蔵するのである。〉

 以上が、この最後のパラグラフの内容である。これで草稿は終わっている。われわれは全体的な総括は別途やることにして、ひとまずパラグラフごとの解読はこれで終えることにしよう。ただ、この最後のパラグラフに関連して、少し補足しておくべき問題がある。それを最後にやっておくことにする。

2009年4月10日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その76)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 次は二つ目の問題、すなわち部門IIおいて、現実の蓄積に先立つ貨幣蓄蔵は如何にしてなされるのか、という問題についてである。この問題については、われわれは一旦、マルクスの草稿を離れて問題をそのものとして考えてみることにしよう。
 マルクスはここでは I の追加不変資本については何も言及していないが、それはいうまでもなく、すでに考察ずみだからである(またここで問題なのは部門IIにおける蓄積のための貨幣蓄蔵だからでもある)。すなわちこの草稿の最初の当たり、われわれのパラグラフの番号でいえば【3】以降においてそれは取り扱われていた。そこでは I には、不変資本の蓄積のために、それに必要な額になるまで次々と剰余価値を実現した貨幣を蓄蔵するA群の資本家たちと、すでにこれまで蓄蔵した貨幣額が必要な額に達したために、現実に蓄積を行おうとしているB群の資本家たちとを前提することによって問題は解決されたのであった。すなわち一方で、A群の資本家たちは彼らの剰余価値を実現して入手した貨幣を流通から引き上げて蓄蔵するが、他方でB群の資本家たちはそれまで蓄蔵してきた貨幣を現実に流通に投下するわけである。A群の資本家達は一方的な販売者として現われ、B群の資本家たちはそれに対して一方的な購買者として現われる。だからA群の資本家達が販売する剰余価値額とB群の資本家達が現実に投下する貨幣資本額が量的に一致する必要があったわけである。つまりA群の資本家たちが蓄蔵する貨幣は、B群の資本家たちが追加不変資本に転換するために投資する貨幣であったのであった(もちろん直接一致する必要はないが)。この場合は、いずれも部門 I 内部における資本家同士の転換であり、部門 I にAとBの二種類の資本家群を想定して考察するだけで良かった。
 同じことは--つまり同じ部門(II)内での転換であるという点でいえば--、部門IIの追加可変資本の蓄積についてもある程度まで言いうる。違いは、部門IIの追加可変資本の蓄積の場合は、やはり部門II内部だけの転換ではあるが、しかし資本家同士の直接的な売買ではないということである。部門 I の追加不変資本の蓄積の場合には、資本家Aが販売するのは直接資本家Bに対する場合であれ、それ以外の資本家を媒介してであれ、いずれにしても、売買するのは資本家同士であった。しかし部門IIの追加可変資本の場合は、追加的に雇用された労働者を媒介しなければならない。ここでも剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵する資本家群A(II)が存在し、それまで蓄積してきた貨幣を追加可変資本として投下する資本家群B(II)が存在する。しかしA(II)が直接に販売するのはB(II)ではなく、B(II)が雇用した追加労働者に対してである。またB(II)は追加可変貨幣資本を直接A(II)に支払うのではなく、部門IIで新たに雇用した追加労働者に対してである。A(II)に貨幣を支払うのは、直接にはB(II)に雇用された追加労働者なのである。この点が、部門 I の追加不変資本の蓄積の場合と異なるが、しかしその転換がそれぞれの部門内部で行われるという点では共通している。そして同じ部門内にA群の資本家とB群の資本家を想定することによって問題を解決するという点でも同じである。

 問題は部門 I と部門IIとの転換が行われるケースである。これはいうまでもなく、 I(v+m)とIIcとの関係である。この場合は【109】で明らかにされたように、三つのケースが存在した。われわれはそれぞれについて検討していくことにしよう。

 (1) I(v+m/x)=IIcの場合(m/xは I の資本家の消費ファンドの価値額)

 これは I の単純再生産部分の転換がIIでの蓄積を引き起こさないケースである。この場合は I の追加可変資本とIIの追加不変資本とが互いに補填し合うのであった。だからこの場合は次のようになる。 I の追加可変資本を蓄積する資本家B( I )は、それまで蓄蔵してきた追加的可変貨幣資本を追加的労働力に転換して、現実の蓄積を行う。それに対して、IIの追加的不変資本を蓄積するために、剰余価値の一部を実現してその貨幣を蓄蔵しようとしている資本家A(II)は、 I の追加労働者に追加不変資本に予定されている剰余価値(消費手段)を販売して、その貨幣を蓄蔵するのである。他方、 I の剰余価値(生産手段)の一部を実現して追加可変資本の蓄積のためにこれから貨幣蓄蔵を行おうしている資本家A( I )は、彼の剰余価値のうち追加可変資本に予定されている剰余生産物(生産手段)を、IIのそれまで追加不変資本を蓄積するために、貨幣蓄蔵を行い、必要な額に達したので現実に蓄積を行おうとしている資本家B(II)に販売する。そしてA( I )はその貨幣を蓄蔵し、B(II)は追加不変資本としての現物(生産手段)を入手し、現実に拡大された規模での再生産を開始する。
 以上が一連の I 、IIのあいだに生じる事態である。こうして資本家A( I )は追加可変資本のための貨幣蓄蔵を行い、資本家B( I )は現実に追加可変資本を投じて、それを追加労働力に転換した。他方で、資本家A(II)は I の追加労働者に追加不変資本に予定されている剰余価値の一部(必要生活手段)を販売して、その貨幣を蓄蔵する。資本家B(II)はそれまで蓄蔵してきた潜勢的貨幣資本を投じてA( I )から、追加不変資本(生産手段)を購入して、現実の蓄積を開始する、等々である。もんろん、資本家B(II)は現実の蓄積を行なうためには、追加不変資本の蓄積に対応した追加可変資本の蓄積も行なわなければならないが、しかしそれについてはすでに先に考察したので、ここでは省略しよう。

 (2) I(v+m/x)>IIcの場合

 この場合は、 I の単純再生産の転換のためにIIにおいて蓄積が必要になる場合である。
この場合にも、もちろん I の追加可変資本の転換のために、IIの追加不変資本の蓄積が対応しなければならないが、これについてはすでに(1)で考察したのと同じ事態が生じるだけである。だからここでわれわれが改めて考察しなければならないのは、 I の単純再生産の転換が、IIの蓄積を引き起こす部分についてだけである。いま、IIcの不足分の価値額をmyとしよう。すると I(v+m/x-mv)については、すでに単純再生産の過程として考察ずみである。だから問題は I(my)の転換である。資本家 I は自分の個人的消費分である剰余価値(my)を目当てに、貨幣myを投じて、資本家A(II)から生活手段を購入する。資本家A(II)は、彼の剰余価値のうち追加不変資本として蓄積するために、これから剰余価値を実現してその貨幣を蓄蔵する資本家たちである。彼らは剰余価値のうちmy(II)を I の資本家に販売して、その貨幣を蓄蔵する。他方、IIには同時にすでに貨幣蓄蔵を終えて必要な額(my)に達したので、これから現実に追加不変資本としてそれを投じようとしている資本家B(II)が存在する。彼らは I の資本家からその剰余価値の一部my( I )(生産手段)を購入して、現実の蓄積を開始するのである。こうして I の資本家が最初に流通に投じたmyの貨幣は彼のもとに還流することになる(それは彼にとっては単純再生産の過程の一部である)。すなわち I は単純再生産部分の転換をすべて終え、彼が最初に流通に投じた貨幣は彼自身のもとに戻り、IIでは追加不変資本を蓄積するために貨幣蓄蔵行う資本家A(II)はmyなる貨幣を蓄蔵し、他方で必要な額に達したので現実の蓄積を行おうとしている資本家B(II)は、現実に蓄積に必要な不変資本(生産手段)myを入手し、拡大された規模での再生産を開始することができるようになっている。

 (3) I(v+m/x)<IIcの場合

 この場合は、 われわれの考察では三つのケースに分けられた(【109】パラグラフ参照)。しかしそのうち I の単純再生産部分の補填の後のIIcの余剰分が、 I の蓄積による追加可変資本を補填してもなお余るケースの場合(三つ目のケース)は、結局、IIでは単純再生産もできず、IIcの一部は過剰になり、両部門の均衡が維持できないケースであった。よってこのケースについては、ここでの考察は不要と考える。ここでは残りの二つのケースについて考えてみよう。

 まず最初は I の単純再生産を補填してなお余るIIcが、 I の追加可変資本の蓄積を、ちょうど補填する場合である。この場合は、 I で蓄積が行なわれても、IIではただ単純再生産が行なわれるだけであった。よって今、 I の追加可変資本のうちIIcの単純再生産で補填されうる価値額をmzとしよう。そうすると I(v+m/x+mz)がIIcの単純再生産によって補填されることになる。しかしそのうちの I(v+m/x)については、すでに単純再生産の考察において終わっている。だから問題なのは、 I(mz)の追加可変資本の蓄積が、IIcの残りの部分(余剰分)の単純再生産によって貨幣蓄蔵の契機を入れて如何に補填されるかである。
 まずIIはIIcの最後の一部mzの単純再生産による補填のために、IIは自ら所持している貨幣mzを投じて、 A( I )の剰余価値の一部(生産手段)を購入する。A( I )というのは、 I において追加可変資本の蓄積のために剰余価値を実現した貨幣の一部を蓄蔵する資本家たちである。彼らは剰余価値の一部 I(mz)をIIに販売して入手した貨幣mzを将来の蓄積のために蓄蔵する。他方、 I にはそれまで蓄蔵してきた貨幣が丁度必要な額に達したので、追加可変資本として現実に蓄積しようとしている資本家B( I )が存在する。彼らは彼らが蓄蔵してきた貨幣mzを追加可変貨幣資本として投じてそれを追加労働力に転換する。そしてその資本家B( I )に追加的に雇用された労働者たちは彼らに支払われた貨幣mzによって、IIから必要生活手段(IIcの最後の部分であるmz)を購入する。こうして、IIが最初に流通に投じた貨幣mzはIIの手許に還流し、彼は彼の不変資本部分すべてを現物で補填したことになる(ここでは捨象されている I とIIとの単純再生産による相互補填も含めてである)。A( I )は彼の剰余価値の一部(mz)を貨幣化してそれを蓄蔵し、B( I )は彼らが蓄蔵してきた追加可変貨幣資本を投じて追加労働力に転換して現実に拡大された規模での再生産を開始する。 I で新たに雇用された労働者は、IIから必要生活手段を購入して彼らの労働力を再生産することになる。しかし部門IIはただ単純再生産を行なったに過ぎない。

 もう一つのケースは、 I の単純再生産を補填しだけでは余るIIcの余剰分が、I の追加可変資本に対応して必要な、IIの追加不変資本分には不足する場合である。この場合は、この不足分だけIIはその剰余価値から追加不変資本として蓄積する必要がある(もちろん、それに対応して追加可変資本の蓄積も行なう必要が生じるが、しかしこれについてはすでに考察済みである)。しかしこのIIにおいて、不足分を剰余価値から追加不変資本として蓄積するケースは、基本的には、(1)で考察した場合と同じことであろう(すなわちその蓄積分だけの剰余価値を貨幣化する資本家群A(II)とそれまで蓄積してきた蓄蔵額がそれと同額に達して現実に蓄積を行なおうとしている資本家群B(II)を想定することによって問題は解決する)。よってこのケースはこれ以上の考察は不要であろう。

2009年4月 7日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その75)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回の【115】パラグラフの考察の続きである。)

 

 では、このパラグラフでは何が論じられているのか、具体的に見ていくことにしよう。このパラグラフでは、大きく分けて、二つの問題が論じられている。最初の問題は、IIにおける「本源的な貨幣源泉」である。すなわち「金生産部門」の問題である。マルクスは部門 I においても同様の問題、すなわち蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを考察したときにも、金生産部門の問題を論じていた(【36】パラグラフ参照)。金生産部門こそ、その剰余価値の貨幣化という手続きを経ずに、蓄積のための貨幣蓄蔵が可能な部門だからである。つまり金生産部門では、貨幣蓄蔵を他の部門のように一方的販売を経て行なう必要がない部門なのである。だからマルクスは特にこの部門だけを別枠で論じる必要があると考えているのである。
 もう一つの問題は、金生産部門以外との交換で部門IIで、剰余価値の貨幣化にもとづいて、現実の蓄積に先立つ貨幣蓄蔵が如何になされるのか、という問題である。われわれはこの二つをとりあえず分けて論じることにしよう。
 ただ、全体として、ここでのマルクスの論述にはそのままでは素直に受け取れない部分もあるし、なかなか理解が困難な部分もある。そこでわれわれは、問題ごとに箇条書きにして論じることにする。最初は金生産の問題である。

 1)マルクスは金生産部門を部門 I と理解している。もちろん、金が貨幣としてではなく、それ以外のさまざまな原材料として利用されるなら、確かにそれは正しい。しかし金生産部門を貨幣の本源的源泉として理解するなら--そしてマルクスはここでは金生産をそのようなものとして扱っているように思えるのだが--、それはやはり正しいとはいえないように思えるのである。これまでにも多くの論者が指摘しているように、金生産部門は部門 I にも部門IIにも属さないものとして、いわば部門IIIに属するものとでもすべきだろうからである(部門IIの亜部門として理解する人もいる)。ただわれわれはマルクスが金生産部門を I に属するものとしているここでは、そうした前提のもとに以下の考察を行うことにしたい。
 2)マルクスはIIとっての本源的な貨幣源泉はIIcの一部が金生産の I(v+m)と交換されることだとし、〈ただし,金生産者が剰余価値を生産手段に転化させるかぎりでは,この(m+v) I はIIにはいらない〉という。すなわち金生産者が彼の剰余価値の蓄積分の一部を追加的な生産手段に転化するなら、その剰余生産物としての金は I に入り、IIは入らないわけである。だからIIには、蓄積分のうち追加可変資本部分だけが入るわけである。そうした場合、IIはただ一方的に I の資本家と労働者(追加分も含めて)にIIcの消費手段を販売するだけで、 I から何も購入する必要はない。IIは、その売り上げを将来の蓄積のために蓄蔵するわけである。こうしたことが可能なのは I(v+m)の現物形態が貨幣金そのものだからである。
 3)マルクスはすでに第2篇第17章「剰余価値の流通」において、金銀の生産部門の生産物は奢侈その他に利用されるもの以外は、すべて社会的に追加貨幣として流通に投じられること、だから金生産物も不変資本(c)+可変資本(v)+剰余価値(m)からなるが、そのすべてが販売なしに生産物(金)そのものによって補填され(単純再生産の場合)、よってすべてが販売なき購買として現われることを指摘していた。だからマルクスがここで〈他方,このような貨幣の蓄積(金生産者自身の側での)が最終的には拡大された規模での再生産に至るかぎりでは,金生産の剰余価値のうち収入として支出されない部分は追加可変資本としてIIにはいって,ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである〉という場合、金生産物のうちそのmの一部が収入として支出されずに、生産物のまま蓄蔵されることを意味している。金生産者の場合は剰余価値部分の商品資本を実現して、その貨幣の一部を蓄蔵するのではなく、彼は剰余生産物の一部をそのまま蓄蔵するのである。そして彼がその蓄蔵した金で現実の蓄積をするために、一部を追加不変資本として、他の一部を追加可変資本として投じるとするなら、その追加可変資本として投下された金は、追加労働者を媒介して、IIに供給されるであろう。しかしこの金は社会的にみれば追加貨幣ではあるが、しかしIIにとってはIIの商品資本の不変部分IIcの実現であり(あるいはIImの一部の実現であり)、その限りでは決して追加的なものではないのである。しかしそれが社会的には追加貨幣であるということは、次のような意味を持っている。すなわちIIcの一部を実現した場合、IIはその補填のために I mから生産手段を購入する必要があるが、 I にとっては、それは購買なき販売であるこということ、だからそれは I の貨幣源泉になりうるのである。またIImの一部を金生産部門に販売するなら、その販売は購買なき販売であり、IIはそれを貨幣源泉として蓄蔵することができる。マルクスが〈ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである〉と述べているのはこうした意味であろう。
 4)金生産者がcIIと交換する(v+m) I からは,IIのある種の生産部門が原料等々として,要するにその不変資本の諸要素として--あるいはむしろこれらの要素の再補填のために--必要とする《金》部分が差し引かれる〉とあるのは、IIcと交換される金生産部門の I(v+m)の一部は、IIの生産手段として購入されるということである。あるいはそういうものが貨幣としての金から差し引かれるということである。例えば、奢侈生産部門の原材料として金属材料としての金を購入する場合がそれである。そうした場合は、金生産物そのものは社会的にみても追加貨幣ではないわけである。

  (以下、このパラグラフの考察は次回に続く。)

2009年4月 4日 (土)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その74)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【115】

 〈IIにとっての本源的な貨幣源泉は,cIIの一部分と交換される,金生産 I の(m+v) I である。ただし,金生産者が剰余価値を生産手段に転化させるかぎりでは,この(m+v) I はIIにはいらない。他方,このような貨幣の蓄積(金生産者自身の側での)が最終的には拡大された規模での再生産に至るかぎりでは,金生産の剰余価値のうち収入として支出されない部分は追加可変資本として I (1)にはいって,ここで新たな貨幣蓄蔵を促すか,あるはまた I から買うための新たな手段を直接に--直接に再び I に売ることなしに--与えるのである。金生産者がcIIと交換する(v+m) I からは,IIのある種の生産部門が原料等々として,要するにその不変資本の諸要素として--あるいはむしろこれらの要素の再補填のために--必要とする《金》部分が差し引かれる。(2)  I とIIとの関係のなかでの一時的な--拡大再生産に先行する--貨幣蓄蔵のための要素は,次のような場合に生じる。 I にとっては,m I の一部分がIIの追加不変資本のためにIIに一方的に売られる場合にのみ,生じる。IIにとっては,同じことが I の側で追加可変資本について行なわれる場合に生じる。同じくIIにとっては, I によって収入として支出される剰余価値の一部分がc(II)によって補填されず,したがってm(II)《部分》にまで及び,この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる。もし(v+m/x) I がcIIよりも大きければ,cIIはその単純再生産のためには,m(II)のうちから I が消費してしまったものを I からの商品によって補填する必要はない。間題になるのは,IIの資本家たちの交換--m(II)に関連しうるだけの交換--の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうるか,ということである。すでに述べたように,IIの内部で直接的蓄積が行なわれるのは,m(II)の一部分が直接に可変資本に転化される( I でm I の一部分が直接に不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。IIのさまざまな事業部門のなかでも,また同一の事業部門のさまざまの構[76]成員(消費する構成員)についても,蓄積の年齢階層はさまざまであるが,必要な変更を加えれば, I の場合とまったく同様に説明される。一方のものはまだ退蔵の段階にあって,買うことなしに売り,他方のものは拡大再生産の時点(沸騰点)に達している(売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本はまず第1に追加労働力に支払われる。しかしこの労働力は,貨幣蓄蔵をしつつある人々(労働者の消費にはいる追加消費手段の所有者)から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて,貨幣は彼らの手から出発点に帰ってこないで,彼らが貨幣を退蔵するのである。|

 (1)「1」--「II」の誤記であろう。
 (2)このパラグラフのこのあたりまでの左側にインクで(ジグザグの)縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフに、エンゲルスは「補遺」と表題をつけている。このパラグラフでマルクスは一体何を意図したのであろうか。伊藤武氏などは、この最後のパラグラフにおいても、マルクスは〈5)部門IIでの蓄積(【40】パラグラフ参照)の〈b(【50】パラグラフ)で提起された、部門IIでの蓄積のための〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉という問題を追究しているとの判断から、よってマルクスはこれまでの一連の表式を使った考察においても、5〉〈b〉で提起した課題を追究しているのだという解釈を行なっている(例えば『マルクスの再生産の論理』〔大阪経大論集・第53巻第5号〕では、〈マルクスの原草稿によって見るならば、マルクスは部門間転換による部門IIにおける剰余生産物の実現と蓄積基金の問題を解決するために「第一例」、「第二例」その他の表式を作成した〉〔311頁〕と述べている)。
 しかしわれわれがつぶさに検討してきたように、マルクスが【62】パラグラフで〈B 拡大された規模での再生産のための出発表式〉を提起し、年次を重ねて表式の計算を展開している(われわれが「拡大再生産の法則」と表題をつけた)ところでは、IIでの貨幣源泉などは何一つ問題として出されてこなかったのである。そればかりかマルクスはB式以降の表式を使った拡大再生産の展開では、蓄蔵基金の問題をすべて捨象して計算しているのである。本来なら、部門 I でも部門IIでも剰余価値の蓄積分を貨幣化した貨幣を直ちに追加不変資本や追加可変資本として前貸することは出来ないはずである。なぜなら、それらの売り上げ金は一旦は将来の蓄積のために蓄蔵しなければならないからである。しかしマルクスはそうした貨幣蓄蔵の契機をすべて捨象して、剰余価値の蓄積部分を販売した資本家はその販売した貨幣をすぐに追加不変資本と追加可変資本に前貸すると仮定して計算しているのである。もし蓄積基金の契機を入れて考察するなら、マルクスが行なっているような簡単な計算で済むはずはないのである。だからB式以降の考察においても、蓄積基金のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかが考察されているなどという伊藤武氏らの解釈には(どうやら大谷氏も同じような見地に立っているらしいが)、われわれは賛成しがたいのである。

 しかし、この最後のパラグラフでは、確かにマルクスは〈5〉〈b〉で提起した課題を追究しているように思えるのは、一体、どうしたことであろうか。これは果たして、どのように考えたらよいのであろうか?

 そこでわれわれがハタと思い付くのは、マルクスは〈b〉と項目をつけたところで提起した課題--すなわち部門IIでの蓄積のための貨幣源泉を捜すという課題--を、あれこれと考えられうるものを想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを示す途中で、結局、その考察そのものを〈云々。云々。〉という形で打ち切ってしまっていたことである(【61】パラグラフ参照)。その終わり方は中途半端な感は否めなかった。マルクスの意図としては、b〉では、部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするために、まずはそれを〈一つの新しい問題〉〈貨幣源泉がIIのどこで湧き出るのか?〉として、すなわち一つの外観上の困難として提起し、その困難を解決すると考えられうる方法をあれこれと想定しながら、しかしそれらがすべて不可であることを論証して、結局、そうした困難が単に外観上のものに過ぎないことを明らかにしたあと、最終的には部門IIにおいて本当は蓄積のための貨幣蓄蔵が如何になされるのかを明らかにするつもりだったと推測されるのである。われわれは以前、それを次のように書いておいた。

 「こうしてマルクスが〈一つの新しい問題にぶつかる〉とした難題、すなわち蓄積のための〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉という問題は解決されている。それは部門 I における不変資本の蓄積の場合に考察したのと同じように、IIにおいても、現実に蓄積をする資本家群Bが存在する一方で、他方でこれから将来の蓄積のために必要な額に達するまで貨幣蓄蔵を繰り返す資本家群Aが存在することを前提することである。そうすれば、IIにおける140m( I )を購入する資本家は、ただ一方的に購入するだけで、 I にどんな商品も販売する必要がない存在として登場するであろう。このように、マルクスの考えていた謎解きは、これから現実に蓄積するために一方的販売を行う資本家群Bを前提すると同時に、ただ販売するだけで購買せずに、将来の蓄積のために売り上げを蓄蔵する資本家群Aを前提すれば、これ以外に新たな〈貨幣源泉〉といったものをIIで探し回る必要などはないということなのである。
 確かに I の不変資本の蓄積の場合とは異なり、今回の場合は、 I 、IIの追加労働者が媒介項として入ってくるが、彼らはただ資本家から支払われた賃金をすぐに生活手段の購入に支出する存在であり、その限りでは、ただ媒介するだけで、何ら新しい問題を持ち込むものではないことが分かる。もちろん、これはすべてが均衡していることを前提に考察しているからそうなのであって、現実の過程はこうした均衡が前提されているわけではない。だから労働者が介在することはそれだけ過程を複雑にし、過程の攪乱の可能性を一層増大させる契機であることは確かであろう。
 こうした結論を導き出すために、マルクスは〈貨幣源泉はIIのどこからわき出るのか?〉とその可能性をあれこれと探し回り、しかしそれらの考えられうる可能性はよく考えるならすべて不可であることを反証するという回りくどい方法をとっているのである。つまりもともと〈貨幣源泉などはIIのどこにもないし、その必要もないのだ〉というのが、マルクスがこうした謎めいた論証の結論として想定していたものなのである。
 なぜなら、 I でわれわれが想定したように、当然、IIにおいても、一方で現実に蓄積を行う資本家たちが存在するなら、他方で、そうした将来の現実に蓄積に備えて当面は貨幣蓄蔵を繰り返すだけの資本家たちも存在することは当然ではないか、それならそれ以外に〈貨幣源泉〉をIIで探し回る必要がないのは、 I でそうであったのと同じである。どうしてIIにおいてだけ蓄積のための〈貨幣源泉〉なるものを探し回る必要があるのであろうか。IIの資本家も資本家という点では I の資本家と異なることはないはずだからである、云々。これがマルクスが最終的にはこの謎のカラクリとして考えていたことであろう。」

 しかしすでに指摘したように、こうしたマルクスの困難の提起の仕方は必ずしも成功したものとは言えず、かなり強引なやり方にもとづくものであったように思う。恐らくマルクス自身にもそうした思いもあって、その敍述を途中で打ち切ってしまったと考えられるのである。
 しかしそのために、この〈b〉で本来敍述すべき肝心な問題が論じられずに終わってしまったわけである。すなわち部門IIにおいて蓄積のための貨幣蓄蔵は如何になされるのか、という問題である。だから、マルクスはこの草稿の最後に、この残された問題を、b〉で敍述を打ち切った部分に直接続ける形ではないが、しかし解決されずに残された課題、つまり〈b〉でもっとも論じなければならなかった問題を、ここで補足して論じていると考えることができるのである。
 その意味では、エンゲルスがこのパラグラフを「補遺」としたことは内容に合致していたといえるかも知れない。

2009年3月31日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その73)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、前回に続き、【114】パラグラフの続きである。)

 

 1)注意しておきたいのは,蓄積についてのこの叙述では,不変資本の価値は,それが商品資本の価値のうちの,それの助力によって生産された部分であるかぎりでは,正確には示されていないということである。〉
 不変資本の価値は、商品資本の価値のうち不変資本の「助力」によって生産された部分であるかぎりでは、正確には示されていない。というのは、本来は流動不変資本だけでなく、固定資本の価値移転分も含むものと考えるべきだからである。

 2)新たに蓄積された不変資本の固定部分は,ただ徐々かつ周期的に,これらの固定的要素そのものの性質に応じてさまざまな仕方で,商品資本のなかにはいるだけである。〉
 新たに蓄積された不変資本の固定部分は、その分だけ社会の固定資本総額を増加させるが、それが年々、商品資本に価値移転する部分については、それらの固定的要素そのものの性質(固定資本の回転期間の相違)によってさまざまな割合となり、しかもそれらは少なくともその周期が一回転するまでは死滅せずに、ただ周期的に徐々に商品資本に価値移転されるだけなのである。

 3)それゆえ,原料,半製品,《等々》が商品生産にはいる場合には,商品資本のかなり大きい部分が流動《不変》成分と可変資本とから成っている。〉
 だから年々、固定資本から商品資本に価値が移転する部分は、固定資本総額に比べれば小さいことになる(本来の固定資本に追加される蓄積部分の追加不変資本に対する固定資本の占める割合も比較的少なく、しかもそのうち価値移転するのは、例えば10年で1回転なら、その十分の一になるから)。だから商品資本のかなり大きい部分が、原料、半製品、等々の流動不変資本と可変資本とからなっていることになる。

 4)〈(しかし,このような取扱い方ができるのは,流動成分の回転のためである。すなわち,流動部分がそれに交付された固定資本の価値部分といっしょに1年のうちに何回も回転して,供給される商品の総額が,年間の生産にはいる総資本の価値に等しくなる,ということが仮定されているのである。)〉
 (しかしこのような取り扱い方、つまり固定資本の価値移転分を小さいものとして取り扱うことができるのは、流動成分の回転のためである。つまり流動部分がそれに交付される固定資本の価値移転分と一緒に一年のうち何回も回転して、供給される商品の総額が、年間に生産される総商品資本の価値に等しくなるのだが、その場合、固定資本の回転期 間(例えば10年に1回転なら1年に固定資本の価値総額の十分の一が移転される)に比べて、流動部分の回転期間が短くて、一年のうちに何回も回転すればするほど、年間に生産される総商品資本において、固定資本の価値移転分は増加しないのに、流動不変資本部分がそれだけ大きくなるからである。つまり流動資本の回転期間が短いほど流動不変資本部分が大きくなり、それだけ固定成分の割合が小さくなることになるからである。)

 5)しかし,機械経営に補助材料だけが用いられて原料が用いられない場合には,労働要素=vが商品資本のなかでより大きく(商品資本の成分として)現われなければならない。〉
 しかし機械経営において、補助材料(例えば潤滑油など)だけが用いられて、原料、つまり流動不変資本部分が用いられないなら、その部分の構成比は補助材料だけになるが、不変資本の総額は固定資本の価値移転分と補助材料の移転分だけになり、極めて小さいことになる。だから商品資本の成分としては、可変資本部分がより大きなものとして現われることになる(これは例えば採取産業等〔鉱山や農漁業等〕にみられることである)。

 6)利潤率では--固定成分が周期的に生産物に交付する価値の多少にかかわりなく--剰余価値が総資本にたいして計算されるのにたいして,周期的に生産されるそれぞれの商品資本の価値については,不変資本の固定部分は,ただ,その消費によって平均的に価値を生産物そのものに交付するかぎりで,算入されるべきものである。〉
 利潤率の計算では、固定資本はその価値移転分の多少とはなんの関係もない。というのは、利潤率では固定資本の総額と流動不変資本の総額がつねに剰余価値に対して計算されるからである。しかし以上のように、年々生産される商品資本の価値については、不変資本の固定部分は、それが年々磨滅して生産物に価値移転するかぎりで算入されるべきものなのである。

 以上のようにマルクスの草稿は解読されるべきであろう。

 〔補論〕
 このパラグラフの考察の前半で明らかになったように、拡大再生産において固定資本の補填を考慮した表式を使った考察では、われわれは行き詰まってしまったのであるが、しかし、現実の拡大再生産においては、蓄積はそんなに大きな困難に突き当たらずに進行している。だから表式においても、固定資本の補填を考慮した拡大再生産の展開が可能であろうと考えることは十分根拠のあることである。実際、こうした表式を使った考察を行なっている先例もある。ただその場合、われわれが仮定したように、部門 I の蓄積率を任意に50%とすることはできないのである。固定資本の補填を考慮した拡大再生産の表式による展開が両部門の均衡を維持しながら進展するためには,表式に示される両部門の機能配置等の諸条件から蓄積率は一意的に決まってくるようである(その蓄積率の求め方は、村越信三郎著『圖解資本論』第二巻(下)--資本の流通過程の分析--(その二)』〔春秋社s.28.10.5〕307頁以下参照)。
 ただここで注意が必要なのは、部門 I の蓄積率というのは、何か両部門の均衡を維持する必要から決定され、それにもとづいて、その部門に所属する諸資本が蓄積を行なうわわけではない。部門 I の蓄積率というのは、部門 I に所属する諸資本が、それぞれの動機や思惑によって蓄積を行なった総結果(加重平均)でしかない。だからそれが先に述べたような、蓄積率になるどんな保証もない。表式に表される部門 I と部門IIの総商品資本の機能配置は、前年の蓄積の総結果であり、それは確かに一つの客観的事実として決まっている。だからそうした機能配置にもとづいて蓄積が両部門の均衡を維持しながら進展するためには、部門 I の蓄積率が一意的に客観的に決まってくるというのは重要な事実である。しかし現実の蓄積がそのように進むどんな保証も資本主義的生産にはないのである。現実の蓄積がそのように進むとすれば、それはまたったく偶然でしかない。現実の蓄積は、あるいはそれよりより大きな値で行なわれる場合もあれば、小さい場合もあるであろう。そしてその結果、両部門の補填は必ずしもうまく行かずある部分では過剰になり、ある部分では過少になるなど攪乱をもたらすであろう。そしてそれは各部門の蓄積率を変更させるように作用するかも知れないし、資本の移動を促して機能配置そのものを変更するように作用するかも知れないのである。現実資本の移動は多くの困難を伴いそれほど簡単ではないが、第二部では捨象されている利子生み資本を媒介すれば、資本は容易に一つの部門から他方の部門に移動するのであり、必要な諸部門に資本を再配分することが可能になるからである。
 だから両部門が均衡を維持しながら、再生産を進展するための蓄積率が一意的に決まってくるからといって、それによって何か均衡蓄積率といったものが存在し、それが一つの軌道を描くなどと考えることは間違っている。またこうした不均衡が直ちに恐慌の必然性を論証するかに考えるのも間違っていると思う。それは確かに恐慌の一つの可能性--より内容規定を加えられた拡大された可能性--を示すものではあるが、それがすぐに恐慌の必然性を示すものと考えるのは早計であろう、と考えるからである。】

2009年3月27日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その72)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は前回に続き【114】パラグラフの考察の続きである)

 蓄積部分においては確かに何も問題は生じない。しかし単純再生産の部分について、われわれはすでに考察済みとしたのであるが、それが問題なのである。もちろん、 I (3960Rc)とII(1440Rc)の流動不変資本については考察済みとしても問題はない。しかし I (404Dc)とII(201Dc)についてはそうではないのである。われわれは部門 I のこの場合の固定資本の補填について考えてみることにしよう。404Dcのうち400Dcはとりあえず前年の場合と同じと考えることができるから、問題は4Dcである。これは前年に蓄積された固定不変資本【40】の十分一が商品資本に価値移転した部分である。この固定資本部分の補填が如何になされるのか考えてみよう。もちろん、これは単純再生産部分であるから、われわれが単純再生産で考察した固定資本の補填の条件をもとに考察することが可能である。すなわちそれは固定資本の補填のための貨幣蓄蔵の過程にある資本家群(第二部)と今年度に新規に現物補填する資本家群(第一部)とを想定することによって可能であった。しかしここでハタとわれわれは行き詰まる。というのは、この4Dcを価値移転させた元の固定資本【40】というのは、前年新たに蓄積された固定資本なのである。だから例えその十分の一であろうが、今年度にそれが現物で補填されるというような条件は可能であろうか、という問題が生じるのである。確かに【40】という新規に蓄積された固定資本も年間その十分の一を生産物に価値移転すると言えるが、しかしその十分の一が死期を迎えて、現物補填が必要な状態になると仮定することは不可能なのである。もしそれが一年間で現物補填される必要があるなら、われわれの想定ではそれは固定資本とは言えないであろう。なぜなら、われわれの想定では資本は年一回転すると仮定されており、だから流動資本の回転も年一回転すると仮定されているのだから、それは流動資本と変わらないことになるからである。だから【40】の固定資本の周期は10年であり、それが死期を迎えるのは十年後なのである。【40】の固定資本の循環は、次のようになっている。それは毎年その十分の一だけ磨滅し、よって4Dcだけ商品資本に価値移転し、そしてそれが蓄蔵されて40に達する十年後にようやく死期を迎え、そして死滅した固定資本が一気に現物更新されるわけである。つまりこの【40】の新たに蓄積された固定資本については、確かにそれは単純再生産の部分ではあるが、われわれが単純再生産において想定した仮定が成立しないのである。それは次のような条件であった。

《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》

 つまり新たに蓄積された固定資本【40】については、この条件は成立しないのである。だからわれわれが単純再生産において固定資本の補填で想定した条件は、ここでは想定できないことになり、だからこの固定資本【40】の価値移転分4Dcの補填については、考察ずみとして済ますことはできないことになる。そして部門 I でそうであるなら、当然、部門IIの新規固定資本蓄積分【10】とその価値移転分1Dcについても同様であると考えなければならない。この新規蓄積分の固定資本の価値移転分については、当然、それは固定資本の磨滅分であるから、一方的に販売されるのであるが、しかしそれらは現物補填されることはない。それらが現物補填されるのは十年後だからである。だからこの一方的販売に対応する一方的購買者が存在しないことになる。しかも、仮に蓄積が繰り返されると仮定するなら、この新たに蓄積される固定資本部分は例え部門 I の蓄積率を50%と一定にしても、剰余価値そのものが増大するわけだから蓄積の規模そのものも増大し、よってまた追加不変資本に含まれる固定資本部分も増大するのであり、よってこうした不均衡は年々拡大することにならざるをえないであろう。
 そればかりか、われわれが単純再生産の場合における固定資本の補填の条件が想定可能と考えた、もともとの400Dc( I )と150Dc(II)についても、実は、必ずしもそうは言えないことに気付くのである。なぜなら、われわれが拡大再生産を表式として示す場合、それは不断に年々拡大している再生産を前提して、そのある年を出発点として前年の拡大再生産の成果である総商品資本を出発表式として提示しているのであって、だから出発表式として示されている商品資本総額そのものは、前年の蓄積の総結果と考えなければならないからである。そしてそのように考えるなら、400Dc( I )や150Dc(II)の固定資本の価値移転分についても、前年に新規に蓄積された固定資本から移転した部分も含まれると考えなければならないからである。だからもともと400Dc( I )と150Dc(II)についいても、単純再生産における固定資本の補填で考察した条件が無条件で前提できるわけではないことをわれわれは知るのである。

 かくして、われわれは行き詰まってしまったのである。

 そこで、われわれはマルクスが単純再生産における固定資本の補填を考察したときに、次のように書いていたことを思い出す。

 《不変な規模での再生産を考察するためには、全ての産業部門の生産性、したがってまた各部門の商品生産物の比例配分的価値関係を不変と仮定するべきだとしても、しかもなお、最後に述べた二つの場合、すなわちIIc(1)がIIc(2)よりも大きいかまたは小さい場合は、このような場合が無条件に現れうる拡大された規模での生産にとっては、やはり興味のあるものであろう。》(全集版574-5頁)

 マルクスは部門IIの固定資本の補填が如何になされるかを考察しているのであるが、ここで《IIc(1)》と書いているのは、固定資本がその死期を迎えて、全体を現物補填しようとしている部分とその価値額を意味し、《IIc(2)》というのは、これから蓄積基金を積み上げる資本家たちの貨幣蓄蔵の額を表している。つまり先にわれわれが見た《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》という条件なのである。
 ということは、マルクスはこの条件が成立せず、一方がより大きいかまたは小さい場合が、《拡大された規模での生産にとっては》《無条件に現われうる》と考えていることになる。マルクスは単純再生産の考察においては、この問題に関連して、再生産過程の攪乱や恐慌の可能性について論じている。 

 さて、拡大再生産における固定資本の補填についての考察は、これぐらいにして(この問題については、最後にもう一度取り上げる)、マルクスのテキストに戻ることにしよう。われわれはここでも、草稿をいくつかの部分に分けて、それぞれについて解読を試みることにする。

 (今回も字数オーバーになってしまったので、残りは次回に回すことにする。)

2009年3月19日 (木)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その71)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

 (以下は、【114】パラグラフの考察の続きです。)

 上記の固定資本を考慮した社会の総資本の再検討を踏まえて、もう一度、単純再生産の場合の固定資本の補填について考えてみよう。
 われわれは単純再生産の表式における部門 I の不変資本4000のうちその十分の一の400が固定不変資本の価値の移転分であり、それが如何に貨幣流通に媒介されて補填されるのかを考察したのであった。そして400が一年間に価値移転するということは、部門 I の固定資本総額は4000であり、それが年々その十分一ずつ磨滅し、生産物に価値を移転することがわかったのである。だから部門 I では、そうした年々磨滅する400を他方で蓄蔵貨幣として堆積していく必要があったわけである。しかし貨幣蓄蔵を行なうためには、ただ販売してその売り上げ金を流通から引き上げて退蔵する必要がある。だからそれが可能であるためには、社会的にはそれに対応した一方的販売者が必要なのであるが、それがちょうど、それまで固定資本の更新のために償却費を積み立ててきた資本家たちがその更新のために流通に投じる貨幣額がちょうど400になると仮定されたのであった。つまり部門 I の4000の固定資本総額のうちその十分一が毎年毎年死期を迎え、新しい現物と取り替えられなければならないことをこのことは示しているのである。つまり部門 I の4000の固定資本は毎年毎年、その十分の一が死期を迎え、新しい現物に更新され、そして10年経つと、ちょうど一回転して、すべての固定資本の現物がリニューアルされることになるわけである。だからここには次のような等式が年間生産物を媒介して成り立っていることがわかる。

 《固定不変資本の磨滅分(=価値移転分)》=《固定資本の死滅分(現物更新分)》

 しかしこの等式が成り立つ必然性は何もないことにわれわれは気付く。なぜなら、4000の固定資本総額が毎年毎年その十分の一の400ずつが磨滅し、それだけを生産物に価値移転させるからといって、その固定資本総額の十分一が毎年毎年死滅し、現物補填される必要性は何もないからである。4000の固定資本総額が10年後に一遍に死滅すると考えてもその限りでは何も不都合はないからである。ただそれでは固定資本の補填の必要な貨幣蓄蔵の説明が不可能になるから、われわれは固定資本の十分一が毎年死滅し、現物更新される必要があると仮定しているだけなのである。どうして、こうした考察が必要なのかは、後に分かるであろう。

 さて、以上の単純再生産の場合の考察を参考に、ではそれが拡大再生産の場合はどうなるのかを次に見ることにしよう。拡大再生産では何が新たな問題として出てくるのであろうか。われわれは拡大再生産として【62】パラグラフで提起されたB式を考えてみよう。

    B    拡大された規模での再生産のための出発表式

     I )  4000c+1000v+1000m=6000        
                                     合計=9000
    II )  1500c+ 750v+ 750m=3000

 単純再生産の場合と同じ仮定にたつと、次の式がえられる。

  I )【3600】3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
                           合計【4950】+9000=13950
 II )【1350】1350Rc+150Dc+ 750v+ 750m=3000

 ここで I の蓄積率を50%とし、旧来の有機的構成にもとづいて蓄積されると仮定すると、ここに一つの困難が生じる。つまりこれまでは不変資本4000cと可変資本1000vの割合4:1で、蓄積分の剰余価値(500m)を分割し、一方を追加不変資本、他方を追加可変資本に転換するとすれば良かったが、ここでは有機的構成の不変資本部分には固定的な不変資本も加える必要がある。そうすると部門 I は7600:1000=38:5となり、計算が面倒になる。よってわれわれは蓄積分の分割は従来通り、部門 I では4:1、部門IIでは2:1で行うことと仮定しよう。問題なのは細かい数値ではなく、何が新たな課題として生じてくるのかを見極めることだからである。そこで、1000m I の半分、500m I のうち400が追加不変資本に、100が追加可変資本に転化されるとする。しかし400の追加不変資本のうち十分一40が固定成分として蓄積されることになる。だから次のようになる。

  I )【3600】3600Rc+360Rmc+400Dc+40Dmc+1000v+100mv(+500消費)

 II )【1350】1350Rc+90Rmc+150Dc+10Dmc+750v+50mv(+600消費)

 さて、問題はこのような補填は貨幣流通を媒介してどのようになされるのかということである。 I(3600Rc+400Dc)とII(1350Rc+150Dc)については、すでに単純再生産で考察ずみである。もちろん、 I (400Dc)とII(150Dc)の固定資本部分の補填については、われわれが単純再生産における固定資本の補填で考察した場合に想定した諸条件が前提されると仮定することとする。だからここで問題なのは、 I 、II両部門の蓄積部分、すなわち I(360Rmc+40Dmc)とII(90Rmc+10Dc)の補填である。しかしこれ自体にはそれほどの困難はない。というのは、これについては、すでにわれわれは I にも、IIにも将来の蓄積のために貨幣蓄蔵の途中にある資本家群Aとすでに蓄蔵された貨幣が必要な額に達したので現実に蓄積を行おうとしている資本家群Bとを想定することによって解決できたからである(もちろん、こうした蓄蔵貨幣〔蓄積基金〕の契機を入れた拡大再生産の表式の展開はこれまで行なわれなかったが、それは後に検討する機会もあるであろう)。追加的な不変資本部分に、流動不変資本と固定不変資本の区別があったとしても、それらはいずれも新しく投下されるものであり、問題はそうした現物が市場に見いだされる条件が存在することである。しかしそれは部門 I の剰余価値の一部がそうしたものとして、すなわち固定的な不変資本として(例えば機械や道具のような労働手段の形態で)生産されている必要があるが、しかしそうしたことはそのように前提すれば、それで済むわけである。だからこうした転換そのものは、追加不変資本が流動資本と固定資本とに分割されても何も変わらないことが分かる。そしてそうした転換が行われて、拡大された規模での再生産を開始する資本構成に転換されたならば、それは次のようになるわけである。

  I )【4040】3960Rc+1100v=【4040】+5060=9100  
                              【6050】+7300=13350
 II )【2010】1440Rc+800v=【2010】+2240=4250             

 つまり固定資本は磨滅分が補填されてもとの【4000】( I )と【2000】(II)とに戻り、さらに新たな蓄積分として【40】( I )と【10】(II)とが加わって、それぞれ【4040】( I )と【2010】(II)になっている。そして流動不変資本と可変資本も蓄積分を加えてそれぞれ増加しており、現実の拡大された規模での再生産は、結局、固定資本は50増加、流動不変資本と可変資本は合わせて600増加、社会の総資本としては、全体として650増加した規模になっていることが分かる。この拡大された規模での再生産が行われれば、その年の末には次のようになっているはずである。

I )【3636】3960Rc+404Dc+1100v+1100m=【3636】+6564
                             【5445】+9805=15250
II)【1809】1440Rc+201Dc+800v+800m=【1809】+3241

 すなわち固定資本の十分の一が流動化して商品資本に価値を移転し、剰余価値率100%として計算してある。
 さて、ここで部門 I の剰余価値1100mの半分550mが蓄積されるとし、440が追加不変資本に、110が追加可変資本に転換されるとする。そして440の追加不変資本の十分の一44が固定不変資本に、残り396が流動不変資本として蓄積されることにする。すると次の表式が得られる。

 I )【3636】3960Rc+396Rmc+404Dc+44Dmc+1100v+110mv(+550)
               
II )【1809】1440Rc+107.1Rmc+201Dc+11.9Dcm+800v+59.5mv(+621.5)

 この転換を貨幣流通の媒介を経て如何に行うかは、すでに先に検討した場合と同じであろう。すなわち I(3960Rc+404Dc)とII(1440Rc+201Dc)については、単純再生産における固定資本の補填で考察したケースであり、 I(396Rmc+44Dmc+110mv)とII(107.1Rmc+11.9Dcm+59.5mv)については、蓄積における補填と同じである。云々。

 と、このように問題はスムーズに進むかに見える。しかしここにはわれわれが見落としている問題が潜んでいるのである。

 (このパラグラフの考察は、さらに次回に続く。)

2009年3月10日 (火)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その70)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【114】

 〈注意しておきたいのは,蓄積についてのこの叙述では,不変資本の価値は,それが商品資本の価値のうちの,それの助力によって生産された部分であるかぎりでは,正確には示されていないということである。新たに蓄積された不変資本の固定部分は,ただ徐々かつ周期的に,これらの固定的要素そのものの性質に応じてさまざまな仕方で,商品資本のなかにはいるだけである。それゆえ,原料,半製品,《等々》が商品生産に||71|はいる場合には,商品資本のかなり大きい部分が流動《不変》成分と可変資本とから成っている。(しかし,このような取扱い方ができるのは,流動成分の回転のためである。すなわち,流動部分がそれに交付された固定資本の価値部分といっしょに1年のうちに何回も回転して,供給される商品の総額が,年間の生産にはいる総資本の価値に等しくなる,ということが仮定されているのである。)しかし,機械経営に補助材料だけが用いられて原料が用いられない場合には,労働要素=vが商品資本のなかでより大きく(商品資本の成分として)現われなければならない。利潤率では--固定[74]成分が周期的に生産物に交付する価値の多少にかかわりなく--剰余価値が総資本にたいして計算されるのにたいして,周期的に生産されるそれぞれの商品資本の価値については,不変資本の固定部分は,ただ,その消費によって平均的に価値を生産物そのものに交付するかぎりで,算入されるべきものである。〉

 【ここでは、マルクスはこれまでの拡大再生産の表式を使った敍述では、不変資本の価値は、その固定成分については捨象されており、だから正確には示されていなかったのだという。マルクスは単純再生産においては、固定資本の補填が如何になされるのかについて、表式を使ってかなり詳しい考察を行なっている。しかし拡大再生産の場合には、表式を使った考察を行なう代わりに、こうした簡単な示唆で終えているのである。もちろん、マルクス自身にそれを許す時間的余裕が無かった故であろう。その意味では、拡大再生産において、固定資本の補填が如何に行なわれるかを表式を使って考察するという課題は、今後に残された課題の一つということができるかも知れない。われわれは、このパラグラフを理解するためにも、最初に、簡単にそれを試みてみることにしよう。しかしそのためには、単純再生産における固定資本の補填が如何になされたかを少し振り返り、その上で、さらに拡大再生産における、固定資本の補填が如何になされるのかについて、考察する必要がある。そうすれば、拡大再生産においては、単純再生産とは異なり、何が固有の問題として出てくるのかがわかるであろう。

 まずマルクスが使っている単純再生産の表式を再録しておこう。

 A) 単純再生産の表式

   I ) 4000c+1000v+1000m=6000        
                                  合計=9000
  II ) 2000c+ 500v+ 500m=3000

 いまここで、 I 、IIとも不変資本のうちその十分の一が固定成分であり、固定資本の償却期間(回転期間)は十年と仮定しよう。そうすると上記の式は次のようになる。ただRcは流動不変資本、Dcは固定不変資本のことである。

   I ) 3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
  II ) 1800Rc+200Dc+ 500v+ 500m=3000

 いま I にもIIにも、固定資本が前年度末に磨滅してしまい、今年度に新規補填する資本家群(第一部)と将来の補填のためにいまだ貨幣を積み立てている段階にある資本家群(第二部)とが存在すると仮定しよう。すると固定資本の補填が貨幣流通の媒介によって如何に行われるかを考えてみよう。

 まず第 I 部門の不変資本については、前年度末で固定資本が磨滅してしまった資本家群(第一部)というのは、同時に前年度末でその積み立てていた償却費用のための蓄蔵貨幣が丁度400ポンドになった資本家でもある。彼らは今年度の初めに、その400ポンドを投じて固定資本の更新をする。彼らは同じ第 I 部門の他の資本家群(第二部)から固定資本の現物形態を購入する。彼らは一方的購買者として登場する。他方で、彼らに固定資本の現物を販売した資本家(第二部)たちは、その売り上げ金400ポンドを、今度は彼ら自身の固定資本の将来の償却のために蓄蔵するわけである。だから彼らは一方的販売者として登場するわけである。こうして部門 I の固定資本の補填は行われる(もちろん、この場合、第一部の資本家群に固定資本の現物形態を販売するのは、第二部の資本家群でなければならない必然性は何もない。両資本家群の一方的購買額と一方的販売額が一致する必要性はあるが、しかし一方が他方に販売しなければならないわけではないからである。流動不変資本をもっぱら生産する資本家たちもやはり固定資本の更新をしなければならず、そのための償却費を積み立てなければならない。だから彼らの場合は彼らの生産物である流動不変資本〔原材料等〕を一方的に販売して、その売り上げ金を蓄蔵する必要があるわけである。彼らから原材料を一方的に購買する資本家たちは、第一部に固定不変資本〔労働手段〕を一方的に販売する資本家達であろう。つまりこの場合は固定不変資本〔労働手段〕をもっぱら生産する資本家たちを媒介して、両資本家群の一方的購買と一方的販売が価値額として一致することになるわけである。ただわれわれは簡単化のために、第一部の資本家群に固定資本の現物形態を販売するのは、第二部の資本家群であると仮定しているだけなのである)。。
 次に第II部門の不変資本については、同じように前年度末までに固定資本が磨滅してしまった資本家群(第一部)は、それまで蓄蔵した200ポンドを投じて、I mから固定的生産手段(労働手段)を購入する。彼らは一方的購買者として登場する。だからこの場合1000m( I )のうち200m( I )は固定的な生産手段(労働手段)として生産されているわけである。彼らはそれをIIの資本家(第一部)に販売して200ポンドの貨幣を入手する。彼らはその貨幣でIIの第二部の資本家から彼らの生活手段を購入する。このIIの第二部の資本家たちは、将来の固定資本の償却のために200Dcの生活手段を販売して、その貨幣を積み立てる資本家たちである。彼らは一方的販売者である。彼らが積み立てる貨幣は、丁度、同じ部門IIの第一部の資本家たちが流通に投じた蓄蔵貨幣と同額であることが分かる。つまりこの場合も、貨幣はそれを投じた同じ資本家の手許にではないが、同じ部門の資本家の手許に還流し、やはり同じように蓄蔵貨幣の形態として納まったのである。

 このように単純再生産では、蓄積に必要な蓄蔵貨幣の積み立ての場合と同じように、固定資本の償却費を積み立てる資本家群(第二部)と固定資本が磨滅し、丁度積み立て終わった蓄蔵貨幣を貨幣資本として前貸して固定資本の更新を行う資本家群(第一部)とを想定することによって問題は解決したのであった。

 次にわれわれは社会の総資本の概念をもう一度再検討し直さなければならない。というのは、これまでは固定資本を捨象してきたので、社会の総資本は、総商品資本で代表させることができた。すなわち単純再生産の出発式で示されている9000がその社会の総資本を表していたのである。しかし固定資本を考慮するとなると、商品資本総額では社会の総資本を代表させることはできない。なぜなら、商品資本総額というのは、前年度一年間に生産された総商品資本を示すのだが、社会の総資本は商品資本としては現われない現存する固定資本をも含むからである。社会の固定資本総額は、先の単純再生産の表式から考えてみるに、第 I 部門は4000、第II部門は2000である。というのは先に固定資本の回転期間は10年としたのだから、一年間に固定資本の十分の一が磨滅し、商品生産物にその価値を移転したと考えなければならないが、それが部門 I では400Dcであり、部門IIでは200Dcだから、それを10倍すれば、それぞれの部門の固定資本総額がでてくることになるからである。では社会の総資本は商品資本総額9000に固定資本総額6000( I 部門=4000+II部門=2000)を加えた合計15000がそうかというとそれほど簡単ではない。なぜなら、部門 I の固定資本総額は4000であるが、それは年々その十分一、すなわち400を商品生産物にその価値を移転する。ということは前年度に生産された商品資本総額6000のなかに、その移転分が含まれていることになる。だから9000の商品資本総額と同時に存在している固定資本総額は価値を移転した残りの資本総額であり、それは6000の固定資本総額の十分の一600を移転した残り5400である。だから社会の総資本額は9000+5400=14400でなければならない。だからわれわれは固定資本総額をも含めた表式をもう一度書いてみよう(【 】で囲んだものが固定資本額である)。

I )【3600】 3600Rc+400Dc+1000v+1000m=6000
                          合計【5400】+9000=14400
II)【1800】 1800Rc+200Dc+ 500v+ 500m=3000   

 ところで単純再生産としては年々同じ再生産を繰り返すことになるが、次の年の再生産を開始する総資本の構成はつぎのようになる。

I )【4000】 3600Rc+1000v=【4000】+4600=8600
                         合計【6000】+6900=12900
II)【2000】 1800Rc+ 500v=【2000】+2300=4300      

 つまり固定資本は前年の生産過程で磨滅した部分はリニューアルされてもとの資本額に戻っている。そして流動不変資本(原材料等)と可変資本(これは資本家が貨幣形態で保持し後に労働者に支払うと仮定してもよいが、少なくとも労働力への転化は終わっている必要がある)が準備されているわけである。これがこれから一年間の生産を開始する段階の総資本の構成である。その総資本額は12900と出発表式に表されていた社会の総資本額より1500少ないが、これはその分だけ資本家の消費に回されたからである。つまり生産的に社会で働いている資本総額というのは固定資本も含めると12900なのである。
 そして上記の出発の資本構成が、一年後に得る表式は、結局、その一つ前とまったく同じ表式になるわけである(剰余価値率100%)。つまり部門 I では、4000の固定資本の十分の一が流動化して商品資本に価値移転される(商品資本の不変資本部分になる)一方で、固定資本の額としてはそれだけ減額する(磨滅する)わけである。

 (このパラグラフの考察は次回に続く。)

2009年3月 6日 (金)

『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その69)

§§第8稿第3章の段落ごとの解読(続き)§§

 

【111】

 〈1)単純な蓄積(1)では,たとえばわれわれがすでに見た,
     I )4000c+1000v+1000m
    II )2000c+500v+500m
の事例がそうであるように,(c+v)(2)( I )=c( I (3))であって,この場合には単純な再生産が行なわれる。このことは,資本主義的生産とは両立しないだけではない。{このことは,たとえば,10-11年の産業循環のなかである年の総生産がしばしば前年等々のそれよりも小さく,したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行なわれない,ということを排除するものではない。}毎年人口の自然増がある場合には,単純再生産が行なわれうるのは,1500mの分け前にあずかっていっしょに消費する不生産的な僕婢が次々と増加していくかぎりでのことである。この場合には,逆に資本の蓄積は,つまり現実の資本主義的生産は不可能である。したがって,資本主義的蓄積という事実は,(v+m) I =2000cを排除するのであり,したがって後者は前者を排除するのである。とはいえ,資本主義的蓄積が行なわれる場合でも,以前の一連の生産期間に行なわれたいくつかの蓄積過程の進行の結果として,c(II)が(v+m)(II)(4)に等しい場合だけでなく,それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。これはIIでの過剰生産であって,それはただ大きな崩落によって調整され,その結果として資本はIIから I に移ることになるであろう。--不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合,たえばジ[71]ヤガイモ栽培等々で種子のために再生産される場合にも,(v+m) I の計算にはなんの変わりもない。II)のこの部分が I (v+m)とII(c)とのあいだでの転換にかんして間題にならないのは,そのさいに I cが問題にならないのと同じことである。また,IIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても,これもまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には,直接に〔生産資本の〕諸要素として I にはいることができるものは, I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には,IIから取り除いておかなければならないだけのことである。(5)

 (1)「単純な蓄積」--「単純再生産」とあるべきところであろう。
 (2)「(c+v)」--明らかに「(v+m)」の誤記である。このうちの「c」は,鉛筆で「m」と訂正されている、エンゲルスによるもの?
 (3)「 I 」--「II」の誤記。鉛筆で加筆してIIにしてある。
 (4)「(II)」--明らかに「( I )」の誤記である。
 (5)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【このパラグラフからは、さらに全体のまとめというか、補足のようなものとして、これまで検討してきた、再生産表式の展開が、現実の資本主義的生産を反映するという点での限界のようなものが指摘されているように思える。すこし全体を平易に書き直しておこう。

 単純な再生産では、われわれがすでに見た事例がそうであるように、 I(v+m)=IIcが成り立つ。しかしこのことは、現実の資本主義的生産を表していない。もっとも、現実の資本主義的生産において、10-11年の産業循環のある年の総生産がしばしば前年等のそれよりも小さく、したがって前年等々に相応した単純再生産さえも行われないということがあるのは事実であり、そうしたことを排除するものではないが、しかし資本主義的生産の一般的傾向として考えれば、単純再生産はそれを反映したものとはいえないのである。毎年の人口の自然増大がある場合を考えてみれば、もし単純再生産のもとで、それが可能なのは、ただ1500mの社会の剰余価値の分け前にあずかって一緒に消費する不生産的な僕婢だけがただ増加するというような不自然なことを想定するしかない。だから現実の資本主義的生産は、資本主義的な蓄積の過程としてしかないのであって、それは I(v+m)=IIcという関係とは相いれないのである。
 とはいえ、われわれが【85】パラグラフの注記4)に関連して考察したように、資本主義的蓄積が行われる過程で、以前の一連の生産期間に行われたいくつかの蓄積過程の進行の結果として、IIcが I(v+m)に等しいだけではなく、それよりも大きいという場合が徐々に起こってくるかもしれない。その場合はIIでの過剰生産であって、それはただ大きな崩落によって調整されるしかない。そうすれば資本はIIから I に移動することになるであろう。
 IIの不変資本の一部分がII自身によって再生産されるものである場合、例えばジャガイモ栽培等々の種子のためにジャガイモが再生産される場合にも、 I(v+m)の計算には何の変わりもない。IIのこの部分、つまりII自身によって再生産される不変資本(生産手段)IIcがただ I(v+m)と関連しないだけであり、それは IcがIIとどんな関係ももたないのと同じである。またIIの生産物の一部分がふたたび生産手段として I にはいることができても、これまた少しも事柄を変えるものではない。その場合には、直接に生産資本の諸要素として I にはいることができるものは、 I とIIとの相互の価値の転換を考える場合には、IIから取り除いておかなければならないだけのことである。

 このように書き直してみて、問題になるのは三つ目のパラグラフである。ここではどうやら第II部門、つまり生活手段の生産部門の生産物もその一部は、部門IIの生産手段に入りうる場合があり、さらには第 I 部門、つまり生産手段の生産部門にも生産手段としても入りうる場合があること、そして、そういう場合には I(v+m)とIIcとの関連でどのように考えたらよいのかということが論じられているようだが、しかしその内容を理解することはなかなか困難である。だからこの問題について少し考えてみよう。
 まず後者の問題であるが、これはIIの生産物が I の生産手段としてはいるというのだから、それは明らかに生産手段として生産されたのであり、それはもともと生産手段の生産部門に入るべきものであったろう。とするなら、それはもともとIIから取り除いておくべきものなのである。
 問題なのは、最初のケースである。今、ジャガイモの種芋を作る農業資本を考えてみよう(そういう資本があるかどうかは分からないが)。その農業資本は種芋を専門に生産し、他のジャガイモ農家にそれを生産手段として供給するわけである。しかし他方でその農業資本は生産したジャガイモの一部を個人的な消費に、つまり生活手段としても販売するとしよう。彼は種芋生産農業資本としては、明らかに生産手段の生産部門、すなわち第 I 部門に属する。しかし個人的な生活手段としてジャガイモを供給するかぎりでは、彼は第II部門に属する資本なのである。彼が種芋の生産に彼自身が生産した種芋を生産手段として利用する場合、それは石炭業者が彼の石炭の生産に彼自身の生産物である石炭を燃料として利用するのと基本的には同じ関係である(これは最初のケースにも類似している)。しかしもし彼が生活手段として販売するジャガイモの生産のために、彼自身が生産した種芋を利用するならどうであろうか。これこそ今、マルクスが問題にしているところではないだろうか。彼は生産手段の生産部門(第 I 部門)の資本として生産した種芋を、生活手段の生産部門(第II部門)の資本としての自分自身に供給し、それを生活手段としてのジャガイモの生産の生産手段として利用するわけである。ここには確かに第 I 部門と第II部門との関連はあるが、しかし資本としては同じ資本であり、第 I 部門と第II部門との交換が生ずるわけではない。これは基本的には種芋生産資本として彼自身の生産物である種芋を生産手段として利用するのと同じであり、彼自身の内部での利用でしかない。だからこの部分は I(v+m)とIIcとのあいだでの転換にはなんの関係もないことは明らかであろう。】

【112】

 〈したがって,資本主義的生産では,(v+m) I がc(II)に等しいことはありえないのであり,言い換えれば,相互の転換でこの両者が一致することはありえないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれている。〉

 【よって、現実の資本主義的生産においては、単純再生産というのはありえないのであり、 I(v+m)がIIcに一致するということはありえない。相互転換でこの両者が一致することはありえないのである。】

【113】

 〈これに反して, I (m/x)をm《( I )》のうち I が収入として支出する部分だとすれば,(v+m/x) I はc(II)に等しいことも,それより大きいこと[73]も,小さいこともありうる。しかし,(v+m/x) I はつねに(c+m)IIよりも小さくなければならない。しかも,II)(m)のうちの,どんな場合にも資本家階級IIが自分で食わなければならない部分だけ,より小さくなければならないのである。(1)

 (1)このパラグラフの左側にはインクで縦線が引かれており,その末尾はL字状に右に大きく曲げられている。〉

 【これに反して、 I(m/x)がmのうち I が収入として支出する部分だとすれば、つまり(1-m/x)が蓄積される場合は、 I(v+m/x)、すなわち I の単純再生産の部分は、IIcに等しい場合もあるし、それより大きいこともあるし、小さいこともありうる。しかし I(v+m/x)は常にII(c+m)より小さくなければならない。しかもIImのうち少なくとも資本家階級IIが消費に回す部分だけ差し引いた上で、それよりも小さくなければならないのである。それは例えば I(v+m/x)>IIcの場合を考えてみよう。この場合は、IIcの不足分はIImから差し引いて、追加的な不変資本として蓄積される必要があるが、IImがそれが可能なだけのものでなければならないことを意味している。言いえれば、IIcにIImを加えた量が I(v+m/x)を補填するに十分な量でなければならないということである。しかもIIの資本家階級が消費する分を除いてそうでなければならないということである。
 ついでにいえば、ここで I(v+m/x)は I の単純再生産の部分であり、 I はこの他に I(1-m/x)なる蓄積分がある。このうち何分の一かは追加可変資本に転換される。つまりIIc+IImはこうした I の追加可変資本の蓄積にも対応しうるだけの量でなければならないということである。おまけに上記の単純再生産の部分の転換に対応したIIの蓄積でも、後者の I の追加可変資本の蓄積に対応したIIの追加不変資本の蓄積においても、同時にそれぞれに対応したII自身の追加可変資本の蓄積も必要であり、それもやはりIImから差し引かれる必要があるわけだから、II(c+m)はそれらも含めて十分可能な量でなければならないことになるわけである。】

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