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2022年8月11日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-16)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-16)


    第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)のまとめ


 ◎各パラグラフごとの課題を確認しておく

 全体の展開や構成を考えるために、まず各パラグラフの内容を確認することから始めよう。

【1】マルクスによる「Ⅱ)」という項目番号と大谷氏による〈〔monied capitalの諸形態とそれらの架空性〕〉という表題のみ。

【2】今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉と第28章該当部分(「Ⅰ)」)から話を転換する文言が書かれている。

【3】【8】 (第28章該当部分のまとめと補足が書かれているので、第28章該当部分の考察で検討。今回は省略)。

【9】銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉として、まず〈1)現金(金または銀行券),2)有価証券〉に分け、後者をさらに〈商業的有価証券(手形〉と〈その他の有価証券〉に分けている。
   そして〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる〉としている。
   そして前者の〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらない〉と、前者の構成部分は後者の区別の如何には関わらないことが述べられている。

【10】 ここから架空資本の説明に入っている。このパラグラフはその一般的な説明である。〈利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われる〉と、範疇としての利子生み資本の確立とともに生じる「資本-利子」の関係が、さらに転倒して「利子-資本」の関係が生じることが指摘されている。そして〈まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである〉と「架空資本」の説明が行われている。

【11】 ここから架空資本の具体的な説明に入るが、マルクスはそれを〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げている〈貨幣,手形,有価証券〉の最後の〈有価証券〉から始めて、次に〈手形〉、そして最後に〈貨幣〉の順序で検討していく。
   ここでは具体例として500£の資本は貸し付けられれば毎年25£の利子を生むが、そこから25£の年収入があれば、その源泉がなんであろうと、それは500£の資本の利子とみなされることになる。後者のあるとみなされる500£の資本こそ「架空資本」である。
   その例として、マルクスはその源泉が譲渡可能な形態としては国債を、譲渡できないものとしては労賃を例にとる。
   そして国債について〈国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉と説明している。

【12】 架空資本としての国債の説明の続きである。〈国家の支払いを子(利子)として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉と説明されている。そして〈この架空資本はそれ自身の運動をもっている〉との指摘がある。

【13】 このパラグラフは全体が丸カッコに入っており、エンゲルスは【10】パラグラフのあとに挿入しているが、ほぼ内容的には同じことを述べており、適切な措置であろう。

【14】ここからはマルクスが【11】パラグラフで国債と労賃を例にあげると述べていた、労賃の考察に入るが、それは架空資本の説明というより〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であ〉り、〈労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される〉という観念は、その狂った形態の極端な例だとして紹介されている。だからこれ自体は架空資本そのものの説明とは言えないことに注意が必要である。

【15】 原注a)典拠を示すだけ。

【16】 原注b)「資本還元」という用語が引用文中に見られる。

【17】 ここから架空資本の運動について論じている。〈架空資本の形成は資本還元Capitalisiren〕と呼ばれる〉。つまり現実の構成部分としての国債や株式の額面価格とは離れて架空資本としての国債や株式は運動する。すなわち利子や配当をその時の市場利子率で資本還元して計算される価格でそれらは取り引きされる。〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。

【18】 ここでは〈債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合〉、すなわち〈株式〉を例に挙げて説明している。株式は〈現実の資本を表わしている〉。〈しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない〉。〈それはただ後者の形態で存在するだけ〉、だから結局、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである〉。

【19】 ここでは国債と株式が架空資本として同じものとしてその運動が説明されている。すなわち〈これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである〉。市場価値はそれらの名目価値とは違った規定を与えられる。
   まず株式の市場価値は、配当率の変化によって、次に市場利子率の変化によって変わる、さらにそれは投機的でもある。というのは将来の収入によってそれは規定されているからである。
  国債の場合は、市場利子率の変化によって、確定利息が資本還元されて計算される市場価値も変化する。
  貨幣市場の逼迫期(恐慌時)には、これらの架空資本は二重に下がる。一つは利子率が上がるからであり、もう一つは現金を得るためにこれらの有価証券が大量に販売されるからである。

【20】 これらの架空資本としての有価証券の下落や増価は、それらの現実の資本の運動に関わりがない限りでは、一国民の富の大きさそのものとしては、減価や増価の前もあとも全く同じである。〈国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである〉。

【21】 原注a)モリスの議会証言の典拠を示すだけ。

【22】 このパラグラフと次のパラグラフは以上に説明した架空資本としての有価証券(国債・株式)の説明の締めくくりである。〈すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される

【23】 このパラグラフも締めくくりの続き。〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。

【24】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げていた〈貨幣,手形,有価証券〉のうち、架空資本の形成とその運動を、これまでは〈有価証券〉にもとづいて説明し(それが【11】~【23】に該当)、そしてその次の〈手形〉をこのパラグラフで説明している。
   マルクスはまず〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉と指摘し、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉としている。つまり割引した手形は銀行業者にとっては利子生み証券だということである。その限りではその他の有価証券である国債や株式と同じということである。

【25】原注a)ソーントンからの引用。

【26】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉の最後の部分、すなわち〈貨幣〉の説明に入る。〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。しかし、それをマルクスは預金に対する貨幣準備として説明している。

【27】原注b)ステュアートの引用。

【28】ここから〈銀行の準備ファンド〉の説明になっている。それは資本主義的生産が発達している国では、平均的には蓄蔵貨幣として存在する貨幣の量を表現しているが、しかしその一部分は、紙券から、自己価値ではない金にたいする単なる支払指図からなっていることが指摘されている。ここでマルクスが〈銀行の準備ファンド〉と述べているものは、銀行の帳簿上その準備ファンドとして計上されているものを指している。だから〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉。つまり準備ファンドの一部分は紙券である有価証券(国債、株式等)からなっているからそれらは例えば株式のように〈現実の資本の価値からは離れて調整され〉、国債の場合も〈同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現される〉からである。しかもそれらの架空な貨幣資本は、公衆の預託からなっていることも指摘されている。

【29】ここからは【9】パラグラフで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていた〈預金〉が、ここで論じられている。
   まずマルクスは〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べている。そして預金は準備として手中におく以外は、すぐに利子生み資本として貸し付けられることが指摘されている。
   そして〈預金そのものは二重の役割を演じる〉とし、一つは利子生み資本として貸し出され、もう一つは帳簿上の記録として、それらは信用勘定を互いに相殺し合う限りで諸支払の決済に役立つことが指摘されている。後者はいわゆる「預金通貨」に関連している。

【30】このパラグラフからは「Ⅱ)」全体のまとめになっている。〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉。その例として、マルクスは預金を挙げている。つまり預金のうち準備として手元に残される以外は、すべて帳簿上のものでしかないが、しかしその帳簿上の預金が銀行業者にとって資本として機能することが指摘されている。

【31】このパラグラフは、【30】パラグラフで〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べていたことの、具体例としてまずスミスからの引用があり、同一の貨幣片が〈貸付と購買のそれぞれ〉の役割を果たし、〈同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができる〉という指摘がなされている。

【32】このパラグラフは【31】パラグラフのスミスの引用文に対するマルクスによる解説である。〈同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉。

【33】スミスが貸付一般について言っていることは、預金についても言いうるという指摘がある。すなわち〈同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができる〉。

【34】このパラグラフは『通貨理論論評……』からの引用からなっている。途中、マルクスによる挿入文がある。『論評』は〈あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである〉とし、〈こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうる〉というものである。これは帳簿上の預金について述べたものである。マルクスの挿入文は一つの貨幣額が何倍もの預金になるためには、それが現実の商品の購買によって媒介されていることが必要であることを指摘している。そうでなければ同じ預金額がただその所有名義を変更しただけになり、預金額そのものには変化は生じない。

【35】このパラグラフも「Ⅱ)」の締めくくりの続きであり、準備ファンドも幻想的なものになることが指摘されている。〈この信用システムでは,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのであるが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える

【36】このパラグラフは【35】パラグラフで準備ファンドも〈幻想の産物に転化する〉と指摘されていたが、それが具体的な例を持って説明されている。一つは私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)の準備ファンドに集約されること。そしてイングランド銀行の準備ファンドも発券部の金地金と銀行部の銀行券とに二重化し、銀行部の準備ファンドの増減によって信用がゆらぎ、時には破綻することもありうることが指摘されている。

【37】ここでは預金とその準備ファンドとの不安定な関係がより極端に現れているビル・ブローカーたちのケースが取り上げられている。彼らは〈少しも現金準備なしで巨額の取引を行なった〉こと、だから恐慌時には巨額の負債をかかえて倒産したことが議会証言を引用する形で論じられている。


 ◎ 第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」全体の構成と展開


  ここでは気づいたことを箇条書き的に書いておこう。

  (1) マルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉として、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めている。
   ところが、大谷氏や小林氏は、マルクスは貸借対照表(バランス・シート)を前提に論じているのだというのである。というのは、マルクスが〈実物的なreal構成部分〉として挙げている諸項目が貸借対照表の「資産」の項目とほぼ同じだからという理由である。
   だから彼らはマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の〔wirklich〕構成部分〉とか〈これらの実在的(real)諸成分〉と述べている場合の〈real〉や〈wirklich〉の意味を深く検討もしていないのである。
   マルクスはなぜ〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の構成をその〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めているのか? それはそれらが実際には、銀行業者の帳簿上では、「架空資本」や「架空なもの」になっていることを展開するためである。
   例えば国債や株式などの有価証券は、それ自体としては、つまり実物的なものとしては、「架空なもの」ではあっても「架空資本」なのではない。大谷氏や小林氏は、国債や株式などの有価証券の、それ自体としての存在(これはそれらの額面額と考えてもよい)と架空資本としての国債や株式(これはそれらが売買されている資本価値、すなわち市場価値のことである)との区別があいまいであり、両者を混同して論じているのであるが、そうした混乱もこうしたマルクスの展開を見誤ったことから来ているのである。
   マルクスが貸借対照表を前提に論じているという彼らの主張は、第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)でマルクスが銀行学派たちがいう「資本」というのは、結局は銀行業者の帳簿上の立場から、自身の「資本」の持ち出しに帰着するものを、「資本の貸付」と論じているだけのものであるとして、「銀行業者の資本(banking capital)」もそうした意味で使っていたのだが、それを大谷氏や小林氏はそれは本来は預金あるいは借入資本を意味するものであるのに、マルクスは間違っており、混乱しているかに論じていたことと繋がっている。マルクスは銀行学派の立場は、ただ銀行業者のブルジョア的な帳簿上の立場と同じだと批判しているのである。それなのにそのマルクスが第29章該当部分の草稿では、同じブルジョア的な簿記表記の一つである貸借対照表に依拠して論じているのだなどというのだから、彼らの主張がまったく噴飯ものなのは明らかであろう。

  (2)そのあとマルクスは架空資本の説明に移っているが、それをマルクスは利子生み資本との関連で説明している。ところが大谷氏も小林氏もそうした関連には無関心である。彼らはただ規則的な貨幣利得を資本還元したものとして架空資本を説明して事足れりとしているだけである。小林氏などはマルクスが架空資本の概念とその運動を説明している部分の解説はまったくすっ飛ばして省略してしまっているありさまである。
   しかしマルクスは第21~24章で利子生み資本の概念を明らかにし、特に第24章では利子生み資本によって資本関係は最も物神的な形態に到達していることが指摘され、すべての貨幣が資本として、物として観念され、だからそれには不可避に利子が生え出てくるという観念が生まれてくることが指摘されていた。つまり「資本-利子」の観念である。だから貸し付けられる貨幣が、本来の資本として生産的に投資され剰余価値を形成してその一部を利子としてもたらすのでない場合も、つまりただ浪費のために貸し出された貨幣も「資本」として観念され、だからそれは当然「利子」を生むものとして要求されるわけである。
   ところがこうした「資本-利子」の物神的な関係がさらに発展して、その関係が転倒した「利子-資本」の関係が生まれてくる。すなわち規則的な貨幣利得が「利子」とみなされ、だからそれを「生む」「資本」が想像されるというわけである。しかし後者はまったくの空想の産物でしかなく、だからそれをマルクスは「架空資本」と規定しているのである。これが架空資本の概念である。そしてそうなれば、ますます「利子」をもたらす源泉が何なのかがまったく分からないことになるわけである。
   大谷氏や小林氏が「架空資本」を説明するために持ち出している「資本還元」は、当時のブルジョア経済学者たちが使っていた用語であり、マルクスが「架空資本」の独自の運動として、架空資本の資本価値を計算するやり方として説明しているものである。

  (3)マルクスはその他の有価証券のうち国債や株式を例に挙げて「架空資本」の概念とその独自の運動形態を説明しているが、割り引かれた手形や準備ファンドとして存在する有価証券などについては、必ずしも「架空資本」とは述べずに、「架空なもの」になるとか、それらの「架空性」について述べているだけである。つまり「架空資本」は独自の運動形態を持っているが、銀行の帳簿上に記載される利子生み証券としての割引手形や準備ファンドとしての有価証券などは、架空なものであるが、架空資本とは述べていないことに注意が必要である。
   同じように、マルクスは利子生み資本や信用制度の発展につれて、同一の資本が、あるいは同一の債権にすぎないものが、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れることによって、すべての資本が2倍にも、あるときには3倍にもなることを指摘しているが、これらも〈純粋に架空なもの〉(【30】パラグラフ)とは述べているが、「架空資本」とは述べていない。
   また預金も、その大半(準備として銀行業者の手許に残されるもの以外)は、すぐに利子生み資本として貸し出されて銀行の金庫の中には存在せず、ただ帳簿上の記録として存在するものになる。だから預金が銀行の帳簿上では膨大な額になるが、そのほとんどが「架空なもの」あるいは「幻想の産物」になることが指摘されているが、それらを「架空資本」とは述べていない。
   さらに準備ファンドについてもその大部分が紙券からなっており、やはり「幻想の産物」とは述べているが「架空資本」とは述べていないこと等々である。

  (4)それ以外にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)でマルクスが述べている重要な問題を指摘しておこう。

    ①マルクスは預金の二重の役割について述べ、一つはすぐに利子生み資本として貸し出されるが、もう一つは帳簿上の記録として、信用勘定を相殺する限りで、諸支払の決済の手段として機能することが指摘されている。この機能を持って大谷氏らは「預金通貨」の概念をマルクスも肯定的に論じていたのに、エンゲルスはそれを意図的に削除しているかに論じているが、マルクス自身は決して預金の振替決済の機能を「通貨」などとは述べていないし、むしろそれを通貨を節約する方法の一つとして述べていること。
  
   ②私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)に集中され、ブルジョア社会の準備ファンドが、イングランド銀行の準備ファンドに帰結することが指摘されている。さらに1844年の銀行法によってイングランド銀行の準備ファンドも、発券部の地金と銀行部の銀行券とに二重化することも指摘されている。そしてそのために一層イングランド銀行の信用の軸点としての役割に不安定さを付け加えたことも指摘されている。

  (5)最後にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の全体の構成を見てみることにしよう。

   ① 【2】パラグラフでそれまでの第28章該当部分の銀行学派の批判から問題を転じて、〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉としている。

   ②【9】パラグラフで、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認し、それらは銀行業者の手でどのように表されるかには関係ないことが指摘されている。つまりここではマルクスは銀行業者の資本をその素材的な内容から確認して、それが銀行業者の帳簿上では架空な資本にあるいは架空なものになることを見ようとしているわけである。

   ③【10】~【21】パラグラフ、マルクスは「架空資本」の概念を明らかにして、その実物の存在(額面の価格)とは離れて表される独自の運動(市場で取引される資本価値あるいは市場価格)を説明している。

   ④【22】・【23】パラグラフ、それまで検討してきた有価証券の一つのまとめを行っている。

   ⑤【24】【25】パラグラフ、ここでは〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの〈手形〉の考察が行われている。

   ⑥【26】【27】パラグラフ、〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの最後の部分である〈貨幣〉が取り上げられているが、それを預金に対する貨幣準備として問題にしている。

   ⑦【28】パラグラフ、銀行の準備ファンドのほとんどが「架空なもの」であることが指摘されている。

   ⑧【29】パラグラフ、預金が問題になっている。

   ⑨【30】~【37】パラグラフ、利子生み資本と信用制度の発展によって、同一の資本が、あるいは同一の債権が、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れ、同じ資本が何倍にもなることによって、それらのほとんどが幻想の産物になっていることが指摘されている。

   以上が、第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の構成である。

 マルクスは、この第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)で明らかにしようとしたのは、銀行業者たちが帳簿上で取り扱っている資本のほとんどは架空なものだということである。それを端的に論じているのは、【30】パラグラフの〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉という一文である。
   第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)で、マルクスは、銀行学派たちが通貨学派を批判するために、「通貨」と区別して持ち出している「資本」というのは、利子生み資本という正しい概念においてではなく、ただ銀行業者たちが帳簿上彼らの信用だけで貸し付けたものを「通貨」とし、それが銀行に還流してきて、彼らの「資本」の持ち出しに結果したものを「資本の貸付」に転化したと述べているが、銀行学派たちの「資本」というのは、こうした意味でしかないこと、つまり銀行業者たちにとっての「資本」というのが彼らの「資本」の意味でしかないことを暴露したのであるが、その銀行業者たちが帳簿上取り扱っている「資本」というのは、実はまったく架空なものでしかないことを今度は明らかにしたというわけである。
   マルクスは続いて第30-32章該当部分(「Ⅲ)」)で、銀行業者の手で膨大に蓄積された貨幣資本(Geldcapital)が、現実の生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのかを明らかにしようとしているのであるが、だから第29章該当部分(「Ⅱ)」)はその前提をなすものということができるであろう。

   以上で、大谷氏が〈第29章の草稿、それとエンゲルス版との相違〉と題して紹介しているマルクスの草稿の解読は終えることにする。このあと最初に約束した林紘義氏の『海つばめ』掲載論文を関連資料として紹介する。

  (関連資料は次回に。)

 

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