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2022年8月

2022年8月18日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-17)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-17)



【関連資料】

 

   最初に約束した林 紘義氏の『海つばめ』掲載の二つの記事を関連資料としてつけておきます。


●『海つばめ』1110号(2009.12.13)から

【三面トップ】
恐慌とその歴史について
関西労働者セミナーの議論

 十一月二十八、二十九日、首都圏についで関西でも、「恐慌とその歴史を探る」という同じテーマで労働者セミナーが開催された。もちろん、首都圏と同じ傾向の議論もあったが、またそれとは別の問題や、首都圏では全く論じられなかった問題も討論の中で突き出された。ここでは、主として首都圏とは違った議論を紹介しよう。
◆社会関係から説く視点弱く
 最初の平岡報告――産業資本が勃興してきた時代、資本主義の自由競争の時代の恐慌――については、首都圏セミナーと同様に、産業資本が社会の主要な(あるいは支配的な)契機もしくは内容として展開してきたという視点がなく、“生産力主義的”な偏向があり、恐慌の説明として説得的でなかったということが基本的な批判点として出された。
 資本主義的恐慌は資本の本性と密接に関係しているのであって、単に生産力の発展とか一般的競争の激化ということだけの問題ではない。例えば、資本は「自己増殖する価値」であり、蓄積のための蓄積、生産のための生産を――つまり労働を搾取し、剰余価値を、より大きな剰余価値を獲得するための、たえず増大する資本の蓄積を――本性とするのであって、その本性は「貿易や投機」とか、「市場を開拓する歴史」ということとはいささか違った次元に属するだろう。
 またレジュメの始めで、イギリスにおいて最初に資本主義が発展したことの説明として、それが綿工業と結び付いており、イギリスが海外から綿花を手に入れやすい条件を幸運にも持っており、その点で他国よりも有利な地位にあったからである、と主張し、またこれは首都圏でも疑問としてだされたが、「つまり恐慌を克服するために市場を開拓する歴史を繰り広げてきたが、それはより大きな過剰生産、そして恐慌を引き起こす結果に終始した」と主張したことについても、「ローザ主義ではないか」という批判が出された。
 イギリスにおいて産業資本主義が勃興したのは、単に綿花を取得することが他国よりも容易だったとか、産業革命が行われ、生産力が発展したということではない、あるいはむしろ産業革命にせよ、急速な生産力の発展にせよ、それはまた他面ではイギリスにおいて急速な資本主義的発展が開始されたから、その結果でもあるのであって、実際には、資本の蓄積の進行や資本の原始的蓄積の問題、あるいは一五世紀から延々一九世紀の始めまでも続いた――断続的ではあれ――囲い込み運動(エンクロジャー)など、封建的な生産関係の解体が進んだという歴史的な過程こそむしろ重要な歴史的契機であったが、こうした社会関係の問題はほとんど論じられていないのであるが、それは恐慌を一貫して社会関係の進化と発展の問題として論じ、取り扱おうとする視点が弱いことと関連しているように見える。
 また、報告者の見解では、資本主義は植民地や“外延的な”市場が存在する限りで発展することができ、それが行き詰まった時点で瓦解するかに取れる叙述があり、それが恐慌論と結び付けられているかだが、それはローザらの帝国主義の理論とどれだけ違うのか、という疑問も提起された。
◆宇野学派的“タイプ論”に純化
 独占資本主義への過渡期、もしくは独占資本の時代の恐慌を報告した田口報告に対してもいくつかの疑問もしくは批判が出された。
 田口は、東京でのセミナーの批判を受けて、「追加」のレジュメを提出し、独占資本と恐慌との関係について、独占資本主義は一方では生産力をかつてないほどに急速に発展させるとしながら、他方では、新しい特徴が現われるとして次のように論じた。
「だが同時に、生産力の発展を阻害する要因も現れる。独占の地位にある企業は、たえず生産力を発展させて特別利潤を追求するという動機を弱める。独占資本は、独占価格の維持と独占利潤の安定的確保を目指し、飛躍的な生産力発展による生産物の急激な増加と生産物の価値の低下、そして投下固定資本の価値の社会的磨滅などが起これば、これらは独占企業にとって、利潤を低下させる限り利潤増加という目的と反することになる。
 独占資本は、企業は、相互の激しい競争によって生み出される過剰生産能力を、さらに激しい販売競争によって相互に切り捨て合うよりも、生産協定(シンジケート)によって過剰設備を遊休化し、また新技術のそれ以上の利用を阻止し、価格協定(カルテル)によって、独占価格による安定的利潤を得ようとする。
 こうして独占の下では、かつての生産力の飛躍的発展から一転して、投資の一斉抑制、蓄積された利潤の貸付資本形態での温存〔これはどういう意味か、なぜ「貸付資本形態での温存」か。何を説明しようというのか――林〕、新技術の非利用、新たな資本の独占的部門への参入阻止などが、特定の時期の独占の政策として行われる。過剰生産の重圧のものでの停滞の持続への傾向――これらは独占資本主義のもとでの蓄積の諸特徴である」
 しかしこうした独占資本主義に固有な諸特徴は、この時代の特徴として位置付けられ、深められるのではなく、独占資本のもとでも生産力は急速に発展するという見解と同列のものとして並列され、さらに宇野学派的な「独占資本段階はタイプ論」という観念と結合されて、停滞的な特徴を示すのは英仏、発展的特徴を示すのは米独であり、しかも独占資本の段階として特徴的な資本主義は米独であると言われたので、全体として何を言いたいのか分からない、矛盾し、混乱したものとなっている、という批判をこうむることになった。
 報告者の理屈によると、米独こそが独占資本主義段階を代表する資本主義国家であり、そこでは大資本間の競争がより貫徹し、高度な独占が成立し、そして生産力も発展し、資本主義として繁栄し、また鋭い恐慌に見舞われるというのだが、それでは、資本主義一般の生命力を語っていることにはなっても、資本主義の独占段階の特徴を積極的に展開しているとは到底いえないのではないか。
 他方、英仏は停滞し、頽廃した資本主義の特徴を表わすが、それは独占資本主義を代表するものではないというのだから、何を言っているのか、論理的な整合性はどこにあのか、という疑問が提起されるのもやむを得なかった。
 そしてまた、恐慌と固定資本の関係も再度議論された。問題とされたのは、首都圏でも槍玉にあげられた、次の文章である(一部は『海つばめ』前号でも引用したが、全文は以下のようなものであった)。
 「資本主義の発展が鉄鋼業を中心とするようになったことは、不況を長期化する大きな要因となった。
 鉄鋼業は投資額でも経営規模でも、以前の工業の主体であった綿工業を凌駕して大工業部門となった。この発展は大型高炉やベッセマーなどの新技術の導入によって実現したが、そのために固定資本が巨大化したことは資本の自由な移動を制限し、景気変動の形態に変化を与えることになった。
 すなわち綿工業など軽工業の場合は、好況時の需要増大に応じて生産は漸次的に拡大され、したがって不況期における需要減退による資本破壊も好況期に稼働してきた固定資本にたいして生じる。
 しかし巨大な固定資本を要する鉄鋼業など重工業ではこれとは異なった傾向をもつ。溶鉱炉などの建設には二、三年の期間を要し、そのため好況期の需要増大に対して対応は遅れる。好況期の需要増大に基づいて生産設備が拡大したころには、景気が不況に転じるなら新設備によって一挙に増大した生産は、不況期に減退した需要に対して供給を著しく過剰にし、不況期による固定資本更新は弱められ、景気回復はおくらされる。
 資本の移動の困難は価格低落を持続化させ、不況を長期化する傾向をもつことになる」
 こうした理論に対しては、不況の問題が生産力主義的に、技術的に(卑俗に)論じられていること、そしてそれと関連して固定資本は「自由に移動」できないと主張されていることなど俗流的な議論であると批判された。
 そして、報告者はこうした理屈は宇野学派が唱えているものだと紹介したが、会場から、宇野学派以前に、ヒルファーディングの「金融資本論」の中に同じような見解があるという指摘がなされた。宇野学派の俗論の多くがヒルファーディングに依拠していることからして、これもその口の一つということだろう。宇野学派だから、ヒルファーディングだからと悪いとはいわないが、彼らの理論が固有のドグマや卑俗さ、俗流さに深く侵されているということは、我々がこれまで散々に語ってきたことである。“ヒルファーディング的な”(つまり宇野学派的な)、あるいは“スターリン主義的な”、いわゆる“学界”ではびこっている(はびこってきた)観念に対して、批判的に接近しないで安易に追随することは問題であろう。
 そこにこそ、独占資本の段階と恐慌という重要なテーマに、報告者がなかなか接近できなかった根本問題があるのではないか。
 まとめのような形で、最後に司会者から、独占段階の資本主義を特徴づけるなら、米独というより、むしろ英仏の方をこそ重視すべきではないか(報告者は独占は英仏には現われていないかに言うが、そんなことはない)、そしてその場合には海外への資本輸出(投下)なども注視されるべきだが、それも正しくは提起されていないという発言があった。
◆現代資本主義と恐慌の問題は未解決?
 三番目のテーマにあっては、二九年の世界大恐慌と、その後の資本主義――第二次世界大戦後から現代までも含めた――をいかに評価するか、という極めて重大な点で議論が行われたが、なかなか“結論”といったものに議論が収斂して行かなかったが、それはまた現代が混乱と矛盾を含んだものとして展開中であって、歴史が、簡単に、割り切った解答を提供していないということもあったであろう。
 二九年の大恐慌については、それがいかにして勃発したかという点については、東京のセミナーと同様に、報告は極めて不十分で、明確ではないという批判が多かった。例えば、レジュメの次のような説明が問われることになった。
「27年の後退のあとは、国内の寡占競争の激化、さらにはヨーロッパ工業の復興による世界市場での競争の激化を背景に、鉱工業企業はコスト切り下げのため設備投資を拡大した。そしてこの時期の景気拡大は、20年代末の株式ブームに引っ張られて進められた面も強かった。20年代には一般に大企業は償却資金と留保利潤を合わせた自己金融によって、設備投資だけでなく運転資金の多くをまかなうことができた。こうした自己金融の進展の中で、銀行の事業貸出は停滞し、好況下での資金形成の増加は金融の緩慢を促し、証券市場の活況を招いた。……28年以降は、株式投資信託が急速に普及したこともあり、一部の企業では投資資金の調達のために株式を発行するようになり、株式ブームは実体経済を離れて独走するに至った。……しかし社会的再生産過程から遊離した株式ブームは、早晩崩壊せざるを得なかった」
 二九年の大恐慌のこうした説明もしくは特徴づけは現象的であるばかりではない、経過や内容としても正確ではないのであって、例えば、「自己金融」が一般的になったから、「証券市場の活況を招いた」という説明自体、因果関係や意味が不明であり、一体誰がこんなことを主張しているのかが問われることになったが、報告者によれば宇野学派の学者の理屈であるということであった。
 ここでは、20年代にアメリカで生産力の発展があったから(株式ブームもあった)とかいうだけでは大恐慌の説明として余りに一面的だ、第一次世界大戦においても生産力の大きな発展があったのではないか、それは無関係なのか、また戦後の世界の体制とか諸関係や、世界市場という側面からも検討する必要はないのか、等々の疑問も出された。
 大きな議論になったのは、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という報告者の命題については、東京のセミナーにつづいて大阪でも疑問や批判が相次いで、必要なことはニューディールが歴史や現実の中でいかなる役割を果たしたのか、どんな歴史的な意義をもったかであるということが確認された。
 また報告者はこの命題は事実であるとがんばるが、しかしこの命題は事実しても正しいのか、ということが問われた。ニューディールをやっている間に、生産が大恐慌の前の水準まで回復しなかったということだけが言えるだけであって、五まで落ちこんだのが七や八まで回復した時期もあったし、そもそもニューディールは第二次大戦の中に消え去ったというのだから、回復しなかったか、し得なかったかが言えるわけがないではないか。大戦が起こらなかったら、ずっと恐慌が続いた、つまり慢性恐慌こそが現実的だったということか、という疑問も出されたし、ニューディールをどう理解するかにもよるが(革命後のロシアのネップさえも、新経済政策つまりニューディールある云々)、ヒトラーが三三年に権力を握った後採用した政策はニューディールと言えるのか言えないのか、ヒトラーのやり方は(それも仮に「ニューディール」と言えるとするなら)恐慌も失業問題も表面的には「克服した」と言えるのだから、ニューディールは「恐慌を克服しなかった」という命題は成り立たなくなるではないか、等々の批判的意見も出された。
 管理通貨制度が一般化し、またドルさえも金とのつながりを絶って、国家独占資本主義的政策(ケインズ主義的政策)が採用された戦後の資本主義についても、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という命題と関係して議論が及び、戦後もまた過剰生産は「整理」されることなく延々と持ち越され、自由主義段階の資本主義のように自然に破壊されることもなく、また独占資本主義の時代のように(?)戦争によっても廃棄されないで来ている、そしてバブルは信用バブルというような形でしか発生しない、とするなら、今後はまた戦争しかないのではないかという“超悲観論”を持ち出す人も出たりして、戦後の資本主義と恐慌一般という問題が議論された。
 戦後の何度かの不況を産業恐慌と言えるかどうかはさておくとして、現在進行中の不況についても、それは産業恐慌であるという論者もいれば、そこまでは言えないと反論する者もいるといった具合で、産業恐慌が現在も存在するのか(勃発するのか)、それともそれは国家独占資本主義の体制の中では“消えて”しまったのか(「景気循環」は存在するにしても)、という点では、セミナーの中では全体としての確認(合意)は生まれなかったと言えようか。今後の資本主義の運動と経過を見るしかないということであろうが、中国経済の今後が焦点となるという点では、多くの論者も一致しているように見えた。
◆サブプライムの信用メカニズム
 最後の金融恐慌のテーマについては、関西では、サブプライムの「証券化」のメカニズムについて突然に論争が始まったが、それはもちろん、この新しい信用形態の根本的な理解にかかわっていた。
 問題を提起した論者は、マルクスが『資本論』で、資本主義ではすべての収入が利子率によって還元(“資本還元”)され、擬制的価値を持つと言っている、サブプライムの「証券化(商品化)」にもこの理論を適用すべきである、証券化された商品の「価格」もまたローンからの収入(返済金)によって決定されると理解すべきだ、という理屈を持ち出したのであった。
 しかしマルクスのこの理論は、株価とか地価などを“法則的に”、つまり概念的に規定するために述べられているものであって、どんな「収入」にも適用されるのものではない(マルクスは、すべての収入は利子率で資本還元されて擬制的価値を持ち得ると言っているだけで、すべての擬制資本はある収入を利子率で資本還元されたものだと主張しているわけではない)、とりわけサブプライムの証券化の場合には適用できるはずもない、論者はマルクスの言葉は知っているが、しかしその正しい意味を理解しているとは言えない、という報告者の立場との間に鋭い対立が生じた。
 そもそも、《あれこれの収入が利子率で資本還元されて「価値」を持つ》というのは、こういうことである。
 例えば、ある土地を貸し付けることから五万円の収入(地代)があると前提して、その土地の価格が問題となるとき、それがそのときの利子率(一%と想定する)で資本還元されて(五万円÷〇・〇一)五〇〇万円の「価値」(土地価格)を持つと想定されることを言う。こうした場合に、一定の収入は発達した資本主義的生産様式のもとでは、擬制的な価値を獲得し、売買されるのである。これは、五〇〇万円を貨幣資本(利子生み資本)として投資した場合、五万円の利子所得(収入)が得られるが故に、五万円の収入をもたらすもの(社会的関係)は五〇〇万円の「価値」をもつものとして社会的に通用することができるということである。
 株の価格もまた同様であって、株価は額面価格の何倍かの「価値(価格)」で売買されるのだが、それは例えば、額面五〇万円の株の配当が五円だったとすると、この五円の配当が一%の利子率で資本還元されて五〇〇万円の「時価」を持つようになるということである。五〇万円の額面価格は、当初の払い込み金として、現実資本の「案分比例的な」権利として実際的な意味をもつのだが、五〇〇万円の“価格”(実際の“株価”)は純粋に擬制的なものにすぎない。
 もっとも株券にしろ、債券にせよ、それは実質資本とは別の証券にすぎないという意味では、すべて擬制資本であって、銀行などがそれをどんなに大量に保持していたとしても、それは実質的な資本を保有しているということとは全く別である。
 もちろん、配当が五万円の五〇万円の株券は、利子率一%のときに、正確に計算され、予想される五〇〇万円(五÷〇・〇一=五〇〇)の株価になるのではなく、他のあれこれの要因によっていくらでも騰貴して行き得るだろう、しかしバブルははじけるのであり、暴騰した株価は“法則的な”レベルに引き戻されるのである(一九八九年末には、ほとんど四万円もあった平均株価は暴落し、二〇年もたった今においても、一万円以下の低い水準で低迷している、等々)。
 しかし利子率による「収入の資本還元」のこうした理論を「すべての収入」という言葉だけに幻惑されて、その本当の意味を理解しないで、債券とか、労働者と資本の関係とか、ありとあらゆる関係に適用できると考えるのは全くナンセンスであろう。
 例えば、債券に適用しようとすると、一〇〇万円債券の利子一万円を、一%の利子率で資本還元して、債券の価格が一〇〇万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。
 債券の利子率を一%にするから同義反復になるのだ、五%等々にしてみよと言っても、債券の利子率は平均的な利子率によって基本的に規定されているのだから、恣意的に五%にすることはできないし、またそうしても何の意味もないだろう。
 それに、債券の利子率を仮に五%として、それを一%の利子率で資本還元すれば一〇〇万円でなくて五〇〇万円になると主張してみても、実際の債券は五〇〇万円にまで騰貴するはずもなく、依然として一〇〇万円なのだから、こんな「資本還元」の理論など、債券の場合には何の意味もないことは自明であろう(もちろん、債券価格も騰貴や下落を繰り返すのであり、あるいは投機的に暴騰する――したがってまた暴落する――ときもあるが、しかしそれはまた別の問題である)。
 労働者の賃金もまた一定の「収入」だが、それを(仮に、三百万円として)一%の利子率で資本還元して、労働者の「価値」は三億円だとか言うことにどんな実際的な意味があるのか(ブルジョア理論家たちなら、何かももっともらしい理屈をでっちあげるかもしれないが)。これは果たして、労働力の価値ではないとしても、労働者自身の価値ということになるのか(すなわち労働者自身が奴隷がそうだったように売買されるとして)。しかし労働者自身は資本主義のもとでは売買されないのだから、こんな関係について語ることもつまらないおしやべりにしかなり得ないであろう。
 債券について言えば、その「価値」は債権、債務の関係を表示しているのであって、その限り実際的な経済的関係の反映であって、額面と離れて何倍、何十倍もの「価値」(株価)を持つ株券とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもないのである。
 報告者は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーターによる債券の発行であって(つまりオリジネーターは債務を負うのであって、それは返済、つまり債券の償却がなされなくてはならないのである)、それは国家が国債を発行するのと同じであり、ただ国債が税金によって償却される(国家の債務が返済される)ことを前提とされていると同様に、オリジネーターの発行する債券は、オリジネーターが手にするサブプライムローンからの返済金によって償却されることが前提されているのだと説明したが(もちろん、国家が税金を担保に債券を発行する場合と、オリジネーターがローンの返済金を担保に債券を発行する場合の、技術的、実際的な違い等々を考慮すべきではあるが)、しかし必ずしもその意味が理解されなかったようである。
 論者は、「マルクスの理論に基づいて」、住宅ローン金融会社(あるいは一般的に言われる、オリジネーター)が行うサブプライムの「証券化」とは、オリジネーターの「収入」を資本還元するという形で行われ、したがってまたその「価格」は、オリジネーターの収入(住宅ローンからの「収入」つまり返済金)を利子率で資本還元したものである、と事実上主張したのだが、しかし実際に、証券化商品の価格がそうしたものとして設定されているということを示すことはできなかった。論者が主張したのは、マルクスの「すべての収入は資本還元される」というマルクスの片言隻語から、ここでもそのように理解すべきである、ということだけであった。
 実際にはオリジネーター(ノンバンクの金融機関など)がやったのは住宅ローンという債権(同じ発音だが、債券ではない。報告者はレジュメでは、前者をdebt、後者をbondと読んで区別したりもした。全くやっかいで、人をまどわす関係や用語ではあるが)を“流動化”することであり、そのために住宅ローンをいわば「担保」にして(返済=債券償却の原資にして)、新しく債券を発行すること(つまり平たく言えば、オリジネーターが借金すること)であり、そのことがサブプライムの証券化ということの内容であった。
 論者は、この関係を、現実からではなく、マルクスの言葉(間違って、ドグマとして理解されたマルクスの言葉)から出発することによって、わけのわからないものにしてしまったのである。
 論者の理論によれば、住宅ローンの返済金(貸し付け金プラス利子)を利子率で資本還元したものが「証券化された商品」の価格ということになるが、そうだとすると、この価格は(利子率を一%とすれば)住宅ローンの返済金の数十倍にも百倍にもなり得るだろうが、そんなばかげたことがあり得るはずもないのである。
 報告者はオリジネーターが証券化して「売り出す」商品は債券であるとレジュメでも特に強調し、その「価格」は借入金を現しているとことさら説明したのたが、こうしたサブプライムの“証券化”のメカニズムが全く理解されておらず、代わりにマルクスの言葉がドグマとして持ち出され、それによって現実が裁断され、理解されなくてはならないとされたのである。
 ここでは、証券化とは(株式化等々ではなくて)債券化であり、その「価格」は(簡単のために利子を考慮しないとすれば)、借入金の大きさを表現するのであって、その大きさが「いかに決定されたか」などという問題意識そのものがナンセンスである、というのは、どれくらいの金額を(どれくらいの利子率で)貸借するかということは、当事者同士の必要(借りる方)と余裕(貸す方)の相互関係にかかわるだけだからである。
 証券化商品の「価格」(債務の大きさ)は、住宅ローンの返済金に依存しているのである、つまりオリジネーターの債務は、住宅ローンの返済金によって清算され、債券が償却されることが前提されているのであって、それは国債の償却(国による返済)が、国家の収入、つまり税金によってなされることが前提されているのと同様である。
 だから、証券化商品(債券)の「価格」と住宅ローンの返済金の大きさは基本的に対応することが想定されているのであって――もちろん、現実に大きな違いが生じることはあり得る、例えば、日本国家の借金(国債発行高)は国家の税収と全く対応しておらず、極端にアンバランスになっている等々。しかしその理由や意味などについて詳しく論じるのは、ここでの課題ではない――、論者が言うように、最初から一対百などというものになるはずもないのである。そんなばかげた(超リスキーな――というより、投資自身が全く回収され得ないような)有価証券を一体誰が(どんな投資家や銀行や機関投資家らが)買う(“投資”する)であろうか。
(林)

●『海つばめ』1111号(2009.12.27)から

【三面トップ】
重要なことは現実の正しい理解
マルクスの“当てはめ”避けよ
『資本論』を読み、学ぶことは大切だが

 関西の労働者セミナーにおいて、私の報告の一部分(サブプライム・ローンの“証券化”の概念)について、一つの論争が突発した。すなわち私の報告は、サブプライム証券化について、そのメカニズムについて、明確に述べていないということであった。その批判はいいとして――というのは、私の報告がサブプライム証券化問題の細部にいたるまで明確かつ的確に述べておらず、不十分な面があったと言うなら、それは否定すべくもないから――、しかし問題は、批判する論者が、私がマルクスの次のような概念を適用していないから、それに基づいて、サブプライム証券化を明らかにしていないから、といった立場から発言したことであった。私はマルクスのあれこれの言葉によって、あるいはあれこれの概念の“適用”(しかも間違った理解による)によって、現実を裁断したり、解釈したりするやり方に賛成することは決してできなかった。この問題はセミナーのときにおいては、突然に提出された問題であり、それに伴って発生した議論だったということもあって、参加者の多くにも何が問題になっているのか、どう理解したらいいのか必ずしも明確にならなかった面も残ったので、ここで簡単に論じさせていただくことにする。もちろん、これはサブプライム問題の一番基礎的な信用関係を、そのメカニズムを正しく理解する、という重要な課題と密接に関係を持っているのではあるが。
◆ 1
 批判者が持ち出したのは、マルクスの次の一文であり、これは参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもしたのであった。
「空資本の形成は資本化と呼ばれる。すべて規則的に反復される収入は、平均利子率で貸出される。たとえば、年収入は一〇〇ポンド、利子率は五%とすれば、一〇〇ポンドは、二〇〇〇ポンドの年利子となるであろう。そこでこの二〇〇〇ポンドが、年額一〇〇ポンドにたいする法律上の所有名義の資本価値とみなされる。そこで、この所有名義を買う者にとっては、この一〇〇ポンドの年収入は、実際に彼の投下資本の五%の利子を表わす。かくして、資本の現実の価値増殖過程との一切の関連は、最後の痕跡に至るまで消え失せて、自己自身によって自己を価値増殖する自動体としての資本の観念が確立される」(『資本論』三巻二九章、「銀行資本の構成部分」、岩波文庫七分冊二二二頁)
 サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。
 批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや、説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。
◆ 2
 しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され、取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。
 マルクスは当該個所で、「国債」について、次のように述べている。
「国家は借入資本にたいする一定量の利子を、年々その債権者に支払わねばならない。このばあいには債権者は、その債務者に解約通告をなすことができず、ただ債券を、その所有名義を、売ることができるだけである。資本そのものは、国家によって支出され、食いつくされている」(同二一九頁)
 マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。
 しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。
 この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。
 債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、一〇年ものの国債でも同じだが)。
 一〇〇万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。「収入の利子率による資本還元」という場合は、当然のこととして、利子率はすでに前提されているのであって、それはマルクスが次のように言っていることからも明らかである。
「利子付資本という形態は、いかなる確定的常則的貨幣収入も、それが資本から生ずると否とを問わず、一資本の利子として現われる、ということを伴う。まず貨幣所得が利子に転化され、次に利子とともに、この所得の源泉である資本も見出される。同様に、利子付資本とともに、すべての価値額が、収入として支出されないかぎり、資本として現われる。すなわち、それが産み出しうる可能的または現実的利子に対する元本(Principal)として現われる」(同二一八頁)
 マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)
◆ 3
 またマルクスは「労働力」についても書いているが、しかしそれは、一七世紀のペティの偏見として、あるいはマルクスの時代の一つの妄想として、批判的に取り上げているだけであって、労働力という「収入」を利子率で資本還元した「価値」もしくは資本一般の理論の説明としてではない。むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう。マルクスが引用する、労賃の「資本還元」とは、フォン・レーデンの次のような文章である。
「労働者は資本価値をもち、それは、彼の一年間の稼ぎ高の貨幣価値を、利子収益とみなすことによって見出すことができる。……平均日賃金率を四%をもって資本化すれば、農業男子労働者一人の平均価値は、ドイツ=オーストリア一五〇〇ターレル、プロイセン一五〇〇、イングランド三七五〇、フランス二〇〇〇、奥地ロシア七五〇ターレルとなる」(同二二一頁)
 そしてマルクス自身が、こうした観念は、奴隷制においては、奴隷が売買される場合には、一つの実質的な意味を持ちえるとしても、資本主義的生産様式においては全く無意味な、ばかげた観念に過ぎないと断じているのだから(二二一頁参照)、この例を持ち出して、資本主義のもとでは「すべての収入は利子率で資本還元されて価値もしくは資本」を持つ(したがって、サブプライム問題にもこの理論を適用して分析せよ)、といった主張が的外れであるのは余りに明らかではあるように思われる。
 労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。
◆ 4
 そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。
 私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。
 そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。
 そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないし、されるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。我々はセクトではないし、セクトを目指すものでもないことを確認しなくてはならない。
(林)

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   (次の「第30-32章該当部分の草稿(「III)」)の解読」は、諸般の事情ですぐにはとりかかれません。何年かかるか分かりませんが、気長にお待ちください。)

 

2022年8月11日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-16)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-16)


    第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)のまとめ


 ◎各パラグラフごとの課題を確認しておく

 全体の展開や構成を考えるために、まず各パラグラフの内容を確認することから始めよう。

【1】マルクスによる「Ⅱ)」という項目番号と大谷氏による〈〔monied capitalの諸形態とそれらの架空性〕〉という表題のみ。

【2】今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉と第28章該当部分(「Ⅰ)」)から話を転換する文言が書かれている。

【3】【8】 (第28章該当部分のまとめと補足が書かれているので、第28章該当部分の考察で検討。今回は省略)。

【9】銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉として、まず〈1)現金(金または銀行券),2)有価証券〉に分け、後者をさらに〈商業的有価証券(手形〉と〈その他の有価証券〉に分けている。
   そして〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる〉としている。
   そして前者の〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらない〉と、前者の構成部分は後者の区別の如何には関わらないことが述べられている。

【10】 ここから架空資本の説明に入っている。このパラグラフはその一般的な説明である。〈利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われる〉と、範疇としての利子生み資本の確立とともに生じる「資本-利子」の関係が、さらに転倒して「利子-資本」の関係が生じることが指摘されている。そして〈まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである〉と「架空資本」の説明が行われている。

【11】 ここから架空資本の具体的な説明に入るが、マルクスはそれを〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げている〈貨幣,手形,有価証券〉の最後の〈有価証券〉から始めて、次に〈手形〉、そして最後に〈貨幣〉の順序で検討していく。
   ここでは具体例として500£の資本は貸し付けられれば毎年25£の利子を生むが、そこから25£の年収入があれば、その源泉がなんであろうと、それは500£の資本の利子とみなされることになる。後者のあるとみなされる500£の資本こそ「架空資本」である。
   その例として、マルクスはその源泉が譲渡可能な形態としては国債を、譲渡できないものとしては労賃を例にとる。
   そして国債について〈国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉と説明している。

【12】 架空資本としての国債の説明の続きである。〈国家の支払いを子(利子)として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉と説明されている。そして〈この架空資本はそれ自身の運動をもっている〉との指摘がある。

【13】 このパラグラフは全体が丸カッコに入っており、エンゲルスは【10】パラグラフのあとに挿入しているが、ほぼ内容的には同じことを述べており、適切な措置であろう。

【14】ここからはマルクスが【11】パラグラフで国債と労賃を例にあげると述べていた、労賃の考察に入るが、それは架空資本の説明というより〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であ〉り、〈労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される〉という観念は、その狂った形態の極端な例だとして紹介されている。だからこれ自体は架空資本そのものの説明とは言えないことに注意が必要である。

【15】 原注a)典拠を示すだけ。

【16】 原注b)「資本還元」という用語が引用文中に見られる。

【17】 ここから架空資本の運動について論じている。〈架空資本の形成は資本還元Capitalisiren〕と呼ばれる〉。つまり現実の構成部分としての国債や株式の額面価格とは離れて架空資本としての国債や株式は運動する。すなわち利子や配当をその時の市場利子率で資本還元して計算される価格でそれらは取り引きされる。〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。

【18】 ここでは〈債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合〉、すなわち〈株式〉を例に挙げて説明している。株式は〈現実の資本を表わしている〉。〈しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない〉。〈それはただ後者の形態で存在するだけ〉、だから結局、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである〉。

【19】 ここでは国債と株式が架空資本として同じものとしてその運動が説明されている。すなわち〈これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである〉。市場価値はそれらの名目価値とは違った規定を与えられる。
   まず株式の市場価値は、配当率の変化によって、次に市場利子率の変化によって変わる、さらにそれは投機的でもある。というのは将来の収入によってそれは規定されているからである。
  国債の場合は、市場利子率の変化によって、確定利息が資本還元されて計算される市場価値も変化する。
  貨幣市場の逼迫期(恐慌時)には、これらの架空資本は二重に下がる。一つは利子率が上がるからであり、もう一つは現金を得るためにこれらの有価証券が大量に販売されるからである。

【20】 これらの架空資本としての有価証券の下落や増価は、それらの現実の資本の運動に関わりがない限りでは、一国民の富の大きさそのものとしては、減価や増価の前もあとも全く同じである。〈国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである〉。

【21】 原注a)モリスの議会証言の典拠を示すだけ。

【22】 このパラグラフと次のパラグラフは以上に説明した架空資本としての有価証券(国債・株式)の説明の締めくくりである。〈すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される

【23】 このパラグラフも締めくくりの続き。〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。

【24】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉として挙げていた〈貨幣,手形,有価証券〉のうち、架空資本の形成とその運動を、これまでは〈有価証券〉にもとづいて説明し(それが【11】~【23】に該当)、そしてその次の〈手形〉をこのパラグラフで説明している。
   マルクスはまず〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉と指摘し、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉としている。つまり割引した手形は銀行業者にとっては利子生み証券だということである。その限りではその他の有価証券である国債や株式と同じということである。

【25】原注a)ソーントンからの引用。

【26】ここからは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉の最後の部分、すなわち〈貨幣〉の説明に入る。〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。しかし、それをマルクスは預金に対する貨幣準備として説明している。

【27】原注b)ステュアートの引用。

【28】ここから〈銀行の準備ファンド〉の説明になっている。それは資本主義的生産が発達している国では、平均的には蓄蔵貨幣として存在する貨幣の量を表現しているが、しかしその一部分は、紙券から、自己価値ではない金にたいする単なる支払指図からなっていることが指摘されている。ここでマルクスが〈銀行の準備ファンド〉と述べているものは、銀行の帳簿上その準備ファンドとして計上されているものを指している。だから〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉。つまり準備ファンドの一部分は紙券である有価証券(国債、株式等)からなっているからそれらは例えば株式のように〈現実の資本の価値からは離れて調整され〉、国債の場合も〈同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現される〉からである。しかもそれらの架空な貨幣資本は、公衆の預託からなっていることも指摘されている。

【29】ここからは【9】パラグラフで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていた〈預金〉が、ここで論じられている。
   まずマルクスは〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べている。そして預金は準備として手中におく以外は、すぐに利子生み資本として貸し付けられることが指摘されている。
   そして〈預金そのものは二重の役割を演じる〉とし、一つは利子生み資本として貸し出され、もう一つは帳簿上の記録として、それらは信用勘定を互いに相殺し合う限りで諸支払の決済に役立つことが指摘されている。後者はいわゆる「預金通貨」に関連している。

【30】このパラグラフからは「Ⅱ)」全体のまとめになっている。〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉。その例として、マルクスは預金を挙げている。つまり預金のうち準備として手元に残される以外は、すべて帳簿上のものでしかないが、しかしその帳簿上の預金が銀行業者にとって資本として機能することが指摘されている。

【31】このパラグラフは、【30】パラグラフで〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べていたことの、具体例としてまずスミスからの引用があり、同一の貨幣片が〈貸付と購買のそれぞれ〉の役割を果たし、〈同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができる〉という指摘がなされている。

【32】このパラグラフは【31】パラグラフのスミスの引用文に対するマルクスによる解説である。〈同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉。

【33】スミスが貸付一般について言っていることは、預金についても言いうるという指摘がある。すなわち〈同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができる〉。

【34】このパラグラフは『通貨理論論評……』からの引用からなっている。途中、マルクスによる挿入文がある。『論評』は〈あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである〉とし、〈こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうる〉というものである。これは帳簿上の預金について述べたものである。マルクスの挿入文は一つの貨幣額が何倍もの預金になるためには、それが現実の商品の購買によって媒介されていることが必要であることを指摘している。そうでなければ同じ預金額がただその所有名義を変更しただけになり、預金額そのものには変化は生じない。

【35】このパラグラフも「Ⅱ)」の締めくくりの続きであり、準備ファンドも幻想的なものになることが指摘されている。〈この信用システムでは,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのであるが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える

【36】このパラグラフは【35】パラグラフで準備ファンドも〈幻想の産物に転化する〉と指摘されていたが、それが具体的な例を持って説明されている。一つは私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)の準備ファンドに集約されること。そしてイングランド銀行の準備ファンドも発券部の金地金と銀行部の銀行券とに二重化し、銀行部の準備ファンドの増減によって信用がゆらぎ、時には破綻することもありうることが指摘されている。

【37】ここでは預金とその準備ファンドとの不安定な関係がより極端に現れているビル・ブローカーたちのケースが取り上げられている。彼らは〈少しも現金準備なしで巨額の取引を行なった〉こと、だから恐慌時には巨額の負債をかかえて倒産したことが議会証言を引用する形で論じられている。


 ◎ 第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」全体の構成と展開


  ここでは気づいたことを箇条書き的に書いておこう。

  (1) マルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉として、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めている。
   ところが、大谷氏や小林氏は、マルクスは貸借対照表(バランス・シート)を前提に論じているのだというのである。というのは、マルクスが〈実物的なreal構成部分〉として挙げている諸項目が貸借対照表の「資産」の項目とほぼ同じだからという理由である。
   だから彼らはマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の〔wirklich〕構成部分〉とか〈これらの実在的(real)諸成分〉と述べている場合の〈real〉や〈wirklich〉の意味を深く検討もしていないのである。
   マルクスはなぜ〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の構成をその〈実物的なreal構成部分〉を確認することから始めているのか? それはそれらが実際には、銀行業者の帳簿上では、「架空資本」や「架空なもの」になっていることを展開するためである。
   例えば国債や株式などの有価証券は、それ自体としては、つまり実物的なものとしては、「架空なもの」ではあっても「架空資本」なのではない。大谷氏や小林氏は、国債や株式などの有価証券の、それ自体としての存在(これはそれらの額面額と考えてもよい)と架空資本としての国債や株式(これはそれらが売買されている資本価値、すなわち市場価値のことである)との区別があいまいであり、両者を混同して論じているのであるが、そうした混乱もこうしたマルクスの展開を見誤ったことから来ているのである。
   マルクスが貸借対照表を前提に論じているという彼らの主張は、第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)でマルクスが銀行学派たちがいう「資本」というのは、結局は銀行業者の帳簿上の立場から、自身の「資本」の持ち出しに帰着するものを、「資本の貸付」と論じているだけのものであるとして、「銀行業者の資本(banking capital)」もそうした意味で使っていたのだが、それを大谷氏や小林氏はそれは本来は預金あるいは借入資本を意味するものであるのに、マルクスは間違っており、混乱しているかに論じていたことと繋がっている。マルクスは銀行学派の立場は、ただ銀行業者のブルジョア的な帳簿上の立場と同じだと批判しているのである。それなのにそのマルクスが第29章該当部分の草稿では、同じブルジョア的な簿記表記の一つである貸借対照表に依拠して論じているのだなどというのだから、彼らの主張がまったく噴飯ものなのは明らかであろう。

  (2)そのあとマルクスは架空資本の説明に移っているが、それをマルクスは利子生み資本との関連で説明している。ところが大谷氏も小林氏もそうした関連には無関心である。彼らはただ規則的な貨幣利得を資本還元したものとして架空資本を説明して事足れりとしているだけである。小林氏などはマルクスが架空資本の概念とその運動を説明している部分の解説はまったくすっ飛ばして省略してしまっているありさまである。
   しかしマルクスは第21~24章で利子生み資本の概念を明らかにし、特に第24章では利子生み資本によって資本関係は最も物神的な形態に到達していることが指摘され、すべての貨幣が資本として、物として観念され、だからそれには不可避に利子が生え出てくるという観念が生まれてくることが指摘されていた。つまり「資本-利子」の観念である。だから貸し付けられる貨幣が、本来の資本として生産的に投資され剰余価値を形成してその一部を利子としてもたらすのでない場合も、つまりただ浪費のために貸し出された貨幣も「資本」として観念され、だからそれは当然「利子」を生むものとして要求されるわけである。
   ところがこうした「資本-利子」の物神的な関係がさらに発展して、その関係が転倒した「利子-資本」の関係が生まれてくる。すなわち規則的な貨幣利得が「利子」とみなされ、だからそれを「生む」「資本」が想像されるというわけである。しかし後者はまったくの空想の産物でしかなく、だからそれをマルクスは「架空資本」と規定しているのである。これが架空資本の概念である。そしてそうなれば、ますます「利子」をもたらす源泉が何なのかがまったく分からないことになるわけである。
   大谷氏や小林氏が「架空資本」を説明するために持ち出している「資本還元」は、当時のブルジョア経済学者たちが使っていた用語であり、マルクスが「架空資本」の独自の運動として、架空資本の資本価値を計算するやり方として説明しているものである。

  (3)マルクスはその他の有価証券のうち国債や株式を例に挙げて「架空資本」の概念とその独自の運動形態を説明しているが、割り引かれた手形や準備ファンドとして存在する有価証券などについては、必ずしも「架空資本」とは述べずに、「架空なもの」になるとか、それらの「架空性」について述べているだけである。つまり「架空資本」は独自の運動形態を持っているが、銀行の帳簿上に記載される利子生み証券としての割引手形や準備ファンドとしての有価証券などは、架空なものであるが、架空資本とは述べていないことに注意が必要である。
   同じように、マルクスは利子生み資本や信用制度の発展につれて、同一の資本が、あるいは同一の債権にすぎないものが、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れることによって、すべての資本が2倍にも、あるときには3倍にもなることを指摘しているが、これらも〈純粋に架空なもの〉(【30】パラグラフ)とは述べているが、「架空資本」とは述べていない。
   また預金も、その大半(準備として銀行業者の手許に残されるもの以外)は、すぐに利子生み資本として貸し出されて銀行の金庫の中には存在せず、ただ帳簿上の記録として存在するものになる。だから預金が銀行の帳簿上では膨大な額になるが、そのほとんどが「架空なもの」あるいは「幻想の産物」になることが指摘されているが、それらを「架空資本」とは述べていない。
   さらに準備ファンドについてもその大部分が紙券からなっており、やはり「幻想の産物」とは述べているが「架空資本」とは述べていないこと等々である。

  (4)それ以外にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)でマルクスが述べている重要な問題を指摘しておこう。

    ①マルクスは預金の二重の役割について述べ、一つはすぐに利子生み資本として貸し出されるが、もう一つは帳簿上の記録として、信用勘定を相殺する限りで、諸支払の決済の手段として機能することが指摘されている。この機能を持って大谷氏らは「預金通貨」の概念をマルクスも肯定的に論じていたのに、エンゲルスはそれを意図的に削除しているかに論じているが、マルクス自身は決して預金の振替決済の機能を「通貨」などとは述べていないし、むしろそれを通貨を節約する方法の一つとして述べていること。
  
   ②私営銀行業者たちの準備ファンドがイングランド銀行(中央銀行)に集中され、ブルジョア社会の準備ファンドが、イングランド銀行の準備ファンドに帰結することが指摘されている。さらに1844年の銀行法によってイングランド銀行の準備ファンドも、発券部の地金と銀行部の銀行券とに二重化することも指摘されている。そしてそのために一層イングランド銀行の信用の軸点としての役割に不安定さを付け加えたことも指摘されている。

  (5)最後にこの第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の全体の構成を見てみることにしよう。

   ① 【2】パラグラフでそれまでの第28章該当部分の銀行学派の批判から問題を転じて、〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉としている。

   ②【9】パラグラフで、まず〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉の〈実物的なreal構成部分〉を確認し、それらは銀行業者の手でどのように表されるかには関係ないことが指摘されている。つまりここではマルクスは銀行業者の資本をその素材的な内容から確認して、それが銀行業者の帳簿上では架空な資本にあるいは架空なものになることを見ようとしているわけである。

   ③【10】~【21】パラグラフ、マルクスは「架空資本」の概念を明らかにして、その実物の存在(額面の価格)とは離れて表される独自の運動(市場で取引される資本価値あるいは市場価格)を説明している。

   ④【22】・【23】パラグラフ、それまで検討してきた有価証券の一つのまとめを行っている。

   ⑤【24】【25】パラグラフ、ここでは〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの〈手形〉の考察が行われている。

   ⑥【26】【27】パラグラフ、〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉のうちの最後の部分である〈貨幣〉が取り上げられているが、それを預金に対する貨幣準備として問題にしている。

   ⑦【28】パラグラフ、銀行の準備ファンドのほとんどが「架空なもの」であることが指摘されている。

   ⑧【29】パラグラフ、預金が問題になっている。

   ⑨【30】~【37】パラグラフ、利子生み資本と信用制度の発展によって、同一の資本が、あるいは同一の債権が、さまざまな手を経て、さまざまな形態をとって現れ、同じ資本が何倍にもなることによって、それらのほとんどが幻想の産物になっていることが指摘されている。

   以上が、第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の構成である。

 マルクスは、この第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)で明らかにしようとしたのは、銀行業者たちが帳簿上で取り扱っている資本のほとんどは架空なものだということである。それを端的に論じているのは、【30】パラグラフの〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉という一文である。
   第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」)で、マルクスは、銀行学派たちが通貨学派を批判するために、「通貨」と区別して持ち出している「資本」というのは、利子生み資本という正しい概念においてではなく、ただ銀行業者たちが帳簿上彼らの信用だけで貸し付けたものを「通貨」とし、それが銀行に還流してきて、彼らの「資本」の持ち出しに結果したものを「資本の貸付」に転化したと述べているが、銀行学派たちの「資本」というのは、こうした意味でしかないこと、つまり銀行業者たちにとっての「資本」というのが彼らの「資本」の意味でしかないことを暴露したのであるが、その銀行業者たちが帳簿上取り扱っている「資本」というのは、実はまったく架空なものでしかないことを今度は明らかにしたというわけである。
   マルクスは続いて第30-32章該当部分(「Ⅲ)」)で、銀行業者の手で膨大に蓄積された貨幣資本(Geldcapital)が、現実の生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのかを明らかにしようとしているのであるが、だから第29章該当部分(「Ⅱ)」)はその前提をなすものということができるであろう。

   以上で、大谷氏が〈第29章の草稿、それとエンゲルス版との相違〉と題して紹介しているマルクスの草稿の解読は終えることにする。このあと最初に約束した林紘義氏の『海つばめ』掲載論文を関連資料として紹介する。

  (関連資料は次回に。)

 

2022年8月 4日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-15)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-15)


 
(以下は、【36】パラグラフの続きです。)

   小林氏は『マルクス「信用論」の解明』の〈第12章「銀行業者の資本」の「架空性」〉の〈第4節 「準備ファンド」の「架空性」〉のなかで、今回のパラグラフを取り上げている。まず次のように書き出している。

  〈ところで,「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」--は,市中銀行と中央銀行との間についてもいえる,とマルクスは言う。それを彼は次のように表現する。「この信用制度(Creditsystem)の下では,すべてのもの[資本]が2倍化され,3倍化され,そして単なる幻影物(Hirngespinst)に転化するように,それはまた,人がやっと何か確かなものを掴んだと信じている『準備ファンド』にも,妥当する1)」と。
 その第1は,1844/45年のピール銀行法の下で,中央銀行制度が次第に確立され,信用=銀行制度が重層化していくことによって,市中銀行の「貨幣準備」(支払準備金)が,「手許現金(Cash in Hand)」(正貨およびイングランド銀行券)と「イングランド銀行預け金(Cash at Bank of England)」とに二重化2)し,市中銀行の金準備が次第にイングランド銀行に集中していく点である。--「単一準備金制度」(one single banking reserve 3);a one-reserve system of banking 4))の確立5)。その第2は,同じくピール銀行法の下でイングランド銀行に集中化されたこの「単一の」「準備ファンド[まで]も,再び「二重化』される6)」--という点である。〉 (420-421頁)

   (1)まず著者は〈「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」〉というが、マルクスは果たして〈「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係〉に限定して述べていたのであろうか。少なくともマルクス自身の一文のなかには「市中銀行」という文言は出てこない。だからまたマルクスの一文では、明確に市中銀行と公衆との間と市中銀行と中央銀行との間との関係を区別して論じているとは言い難い。少なくともこれは小林氏の勝手な理解であろう。
   (2)また著者は〈貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」〉というが、しかし預金が預金された現金とその帳簿上の記録とに分かれて二重の役割を果たすということを、「請求権化」と述べるのはどうであろうか。そしてまたそのことが、〈「同じ資本の2倍化・3倍化」〉したというのも、必ずしも正確とは言い難い。なぜなら、預金された同じ現金が利子生み資本として貸し出され、何度も預金として還流することによって帳簿上の預金として〈2倍化・3倍化〉すると言いたいのであろうが、しかし積み重なった帳簿上の預金は、同じ現金が利子生み資本として何度も貸し出されて、何らかの商品の価値を実現するという媒介を経て、積み重なるのであって、そうした媒介を抜きには、簡単に〈「同じ資本の2倍化・3倍化」〉とは言えないのからである。少なくともマルクスが述べているものを正しく伝えているとは言い難い。
   (3)著者は中央銀行制度が次第に確立されたこと、それに伴って市中銀行の準備ファンドが手元現金と中央銀行預け金(当座預金)とに二重化し、蓄蔵貨幣としての金が中央銀行に集中することを指摘し、さらに中央銀行としてのイングランド銀行の準備ファンドも二重化すると述べている。しかしマルクス自身は、後者のイングランド銀行の準備ファンドの二重化については述べているが、市中銀行の準備の二重化については必ずしも述べているわけではない。むしろ市中銀行の準備ファンドが、イングランド銀行に預金として集中されることによって、それが縮小され、その限りで市中銀行の帳簿上の準備ファンドが架空化するということをマルクスは述べているのである。また著者がいうように例え市中銀行の準備ファンドがイングランド銀行への預金と手元準備とに二重化するということがあったとしても、そのことはイングランド銀行の準備ファンドが二重化するということとは、まったく違った問題である。後者は、銀行法によって、イングランド銀行が発券部と銀行部の二つの部局に分かれ、その結果、準備ファンドも分かれたことを言っているのである。だから二重化と言ってもまったく異なる事象である。

   そして著者は上記の抜粋にもとづいて、第1の点と第2の点について論じているのであるが、それらもほぼ第36パラグラフにそったものである。しかしそのなかには首を傾げるものもないわけではない。まず第1の点については次のように述べている。

  第1の点についてマルクスは,「商業的窮境』(1847-8年)から,モリス氏(元イングランド銀行総裁)の証言(第3639号,第3642号)--「私営銀行業者達の準備金(reserves)は預金の形態でイングランド銀行の手にある」ので,「金流出の第1の影響はただイングランド銀行に対してだけのように見えるが,しかしそれはイングランド銀行に彼らが持っている準備金の一部の引出し(withdrawal)と同じぐらい銀行業者達の準備金に作用するであろうに」--を引用して,「結局,実際の『準備ファンド』はイングランド銀行の『準備ファンド』に帰着する7)」と結論する。〉 (421頁)

    これはほぼ第36パラグラフの引用部分の紹介だけである。次に、第2の点についは次のように述べている。

  第2の点については,マルクスは以下のように説明する。即ち,イングランド銀行「銀行部の「準備ファンド』は,イングランド銀行が発行を法的に許されている銀行券の,流通にある銀行券[イングランド銀行の外にある銀行券]を超える,超過に等しい。[そして]銀行券[発行]の法的な最高限度は,14百万[ポンド](それに対しては地金準備(Bullionreserve)をなんら必要とせず,国家のイングランド銀行への債務に等しい)プラス地金準備(Bullionvorrath)に等しい銀行券」である。そこでマルクスは,例えばとして,次の数字を挙げる。「地金準備が14百万ポンドであれば,28百万ポンドの銀行券を発行し,その内の22百万ポンドが流通していれば(マルクス自身は例としては2000万ポンド・スターリングをあげている--引用者),銀行部の準備ファンドは8[6]百万ポンドに等しい(この書き方もおかしい、マルクスが実際にあげている数字によれば800万である--引用者)。この8[6]百万[ポンド]の銀行券は,(法的に(gesetzlich))イングランド銀行がこれを自由にし得る銀行営業資本(banking Capital)8)であり,そして同時に預金にとっての「準備ファンド』である。さてもし金準備(Goldvorrath)を,例えば,6[4]百万[ポンド]だけ(マルクスは600万という数字をあげている--引用者)減少させる(それに対しては同額の銀行券が廃棄されなければならない)金流出が生じるならば,銀行部の準備金は8[6]百万[ポンド]から2百万[ポンド]にまで低下するであろう(würde)。9)」だから,一方,イングランド銀行は利子率を大いに引上げるが,他方,イングランド銀行への預金者達--銀行業者その他--にとっては,彼らのイングランド銀行への「貸越金」に対する「支払準備」が大いに減少することになる。したがって仮に,イングランド銀行への預金者であるロンドンの4大株式銀行がその預金を引上げるならば,「流通銀行券の兌換の保証として,地金部(Bullion Department)[発券部]に数百万[ポンドの準備金](例えば1847年には8百万[ポンド])が横たわっていても,銀行部はそれだけで破産し得る。10)」このようにイングランド銀行の「準備ファンド」も「二重化」し,「これもまた幻想的(illusorisch)11)」つまり「架空化」するのである,と。〉 (421-423頁)

   これも第36パラグラフの引用部分に続くのマルクスの一文の紹介だけに見えるが、気づいたことを二点だけ指摘しておこう。

   (1)まず著者はマルクスが銀行部の準備について、〈この8[6]百万[ポンド]の銀行券は,(法的に(gesetzlich))イングランド銀行がこれを自由にし得る銀行営業資本(banking Capital)8)であり,そして同時に預金にとっての「準備ファンド』である。〉と述べていることについて、〈銀行営業資本(banking Capital)8)〉に注8)を付けて、次のように述べている。

  〈8)1844年銀行法の下では,イングランド銀行が貸出に用い得るのが「銀行部(banking department)」にあるこの「準備金」であるが,だからと言ってそれをbanking capitalと呼ぶことはできないであろう。「銀行営業資本(banking capital)」という言葉の用い方としては不適切である。前章第4節を参照されたい。〉 (426頁)

   これは恐らく著者が次のように述べていたことを思い浮かべているのであろう。

  〈上述のように銀行が貸出しに用いるのは「銀行営業資本(banking capital)」であって,その主たる部分は,ギルバートやウィルソンが指摘しているように,銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」である。そしてイングランド銀行券が「通貨」として「流通」している限り,それは預金と共に貸借対照表の「借方」に計上されてくるのであって17),したがって,この事例のようにBによる同行への預金を通じた銀行券の還流は,結局,同行にとっては,債務の1つの形態(銀行券)から,債務のいま1つの形態(預金)への,債務の形態変化に過ぎないのではなかろうか?〉 (396頁)

  つまり銀行営業資本というのは銀行が貸出に用いるものを指していうのであり、その限りでは銀行部の準備がそうであるのは明らかだから、それを銀行営業資本(banking capital)と呼ぶことになんの問題もない。ところが著者は〈だからと言ってそれをbanking capitalと呼ぶことはできないであろう。「銀行営業資本(banking capital)」という言葉の用い方としては不適切である〉というのである。要するに、著者が問題にするのはそのあとで書いていることであろう。すなわち〈その主たる部分は,ギルバートやウィルソンが指摘しているように,銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」〉でなければならないと言いたいのであろう。つまりイングランド銀行の銀行部の準備は、〈銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した〉ものとは言い難いのだから、こうした〈言葉の用い方としては不適切〉だと言いたいのである。
   しかしそもそもこうしたギルバートやウィルソンの文言をそのまま鵜呑みにしていることについてはすでに私はその間違いを何度か指摘したが、しかし問題はここではそれだけではない。マルクスがここで問題にしているのは利子生み資本だということが著者には分かっていないことである。利子生み資本としてはそれがどのように調達されたかなどということは何の関係もないからであ。だから銀行部の準備はイングランド銀行が利子生み資本として貸付に運用することが可能なものなのだから、その意味では「銀行営業資本(bank capital)」と呼んでも何の問題もないのである。

   (2)もう一点指摘しておくと、著者は〈このようにイングランド銀行の「準備ファンド」も「二重化」し,「これもまた幻想的(illusorisch)11)」つまり「架空化」するのである〉と述べているが、これは恐らくマルクスが【36】パラグラフの最期に〈しかしこのことも、これはまたこれで幻想的である〉(大谷本第3巻191頁)と述べていることの説明のつもりであろう。つまりマルクスが〈このこと〉と述べていることを〈イングランド銀行の「準備ファンド」〉を指していると理解しているわけである。そしてこの限りでは私の理解と一致している。】


【37】

  /[340a]上/285)[+]預金および準備ファンドについて--ビル・ブローカー287)「とはいえ,銀行業者自身が直接に必要としない{預金の}大きな部分がビル・ブローカーの手に渡り,彼らは見返りとして銀行業者に,銀行業者による前貸額にたいする担保として,自分たちがすでにロンドンやこの国のさまざまの部分の人々のために割引した商業手形を与える。ビル・ブローカーは銀行業者にたいしてこの当座借り〔money at call〕の支払の義務を負っている。そしてこのような取引が大きな金額になっていることは,293)イングランド銀行の現総裁ニーヴ氏が,その証言のなかで次のように言っているほどである。「わたくしどもは,あるブローカーが500万もっていたことを知っておりますし,また,もう一人は800万から1000万をもっていたと推定する根拠をもっています。ある一人は400万,もう一人は350万,第3の一人は800万以上をもっていました。私が言っているのは,ブローカーに預託された預金のことです。』(『1844年……の銀行法の効果を調査するために任命された下院特別委員会〔銀行法特別委員会〕からの報告』,1857-58年。[〔前付ⅴページ,〕第8項。]) (1858年印刷。)「(ロンドンの)ビル・ブローカーたちは……少しも現金準備なしで巨額の取引を行なった。彼らは,支払期日がくる自分の手形が減少することをあてにしていたか,あるいは窮地に陥ったときには,保有割引手形を担保にしてイングランド銀行から前貸を受けるという自分の力をあてにしていたのである。」(同上。[〔前付viiiページ,〕第17項。])300)「ロンドンにある二つのビル・ブローカー商会は1847年に支払を停止した。その後両方とも取引を再開した。両商会は1857年にもふたたび停止した。一つの商会の負債は1847年には概数で2,683,000ポンド・スターリングで,そのときの資本は180,000ポンド・スターリングだった。1857年にはその負債は5,300,000ポンド・スターリングだったが,資本のほうは……おそらく1847年当時の額の4分のlよりも多くはなかった。もう一つの商会の負債は,どちらの停止期にも300万から400万で,資本は45,000ポンド・スターリングを超えていなかった。」(同前報告,〔前付xxxiページ,〕第52項。)/

  ①〔注解〕「(ロンドンの)」--マルクスによる挿入。
  ②〔異文〕「+00」という書きかけが消されている。

  285)〔E〕前パラグラフへの異文注⑯に記載されているマルクスの指示にしたがって,草稿の[340a]ページの該当部分をここにもってきた。エンゲルス版でも同じ処理が行なわれている。
  287)『銀行法特別委員会報告』からのこの引用は,1865年8/9月から1866年2月にかけて作成された抜粋ノートから取られている(IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.B98,S.250-251.MEGA IV/18に収録予定)。
  293)〔E〕「イングランド銀行」--マルクスが引用している原文ではthe Bank(草稿ではBk)であって,これがイングランド銀行を指すことは明らかであるが,エンゲルス版では,そのドイツ語訳のdie Bankのあとにvon Englandという語を補足して,そのことをさらに明確にしている。
  300)『銀行法特別委員会報告』からのこの引用は,1865年8/9月から1866年2月にかけて作成された抜粋ノートから取られている(IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign,B 98,S.258,MEGA lV/18に収録予定)。〉(192-193頁)

  【このパラグラフは、抜粋のための表題と考えられる〈預金および準備ファンドについて--ビル・ブローカー〉以外は、すべて引用なので、平易な書き下し文は省略する。
  まずこのパラグラフの草稿での状態について確認しておこう。大谷氏は訳注285)に次のように書いている。
 
  〈285)〔E〕前パラグラフへの異文注⑯に記載されているマルクスの指示にしたがって,草稿の[340a]ページの該当部分をここにもってきた。エンゲルス版でも同じ処理が行なわれている。〉 (192頁)

   ここで指摘されている〈前パラグラフへの異文注⑯〉をもう一度確認のために紹介しておこう。

  〈⑯〔異文〕マルクスはこの〔339〕ページの末尾にあとから「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示を記した。実際に340aページに+というしるしがあるので,そこの本文をここにもってきておく。〔草稿の340ページの次のページにはページづけがない。MEGAは[340a]というページ番号をつけている。〉 (192頁)

   つまりこのパラグラフの冒頭にある〈/[340a]上/〉という340aというページ番号はマルクス自身のものではなく(マルクス自身は頁付けをしなかった)、MEGAの編集部がつけたものということである.しかもマルクス自身はこの頁は、339頁の〈2ページあと〉の頁だと考えている。しかしそこには頁付けがないので、MEGAが340a頁としたということである。ということはマルクスの草稿には340頁があることになるが、そこでは次の「Ⅲ)」が開始されているのである。大谷氏の草稿の紹介では次のようになっている。

  〈|340上|Ⅲ)〔moneied Capitalとreal capital〕〉 (大谷本第3巻411頁)

 つまりマルクスの草稿では先の339頁の冒頭から【31】パラグラフを書き始めて、【36】パラグラフで339頁を書き終え、そのあとすぐに340頁の冒頭から「Ⅲ)」が始まっているのである。ただマルクスは339頁の【36】パラグラフの末尾に〈この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。〉という指示書きを書いたのである。ではその2頁あとつまり341頁には、しかし大谷氏の説明ではページづけがないのだそうである。ところが大谷氏の【37】パラグラフには〈/[340a]上/〉という印がある。この340aがMEGAが付けた頁数というのが分かったが、〈/   上/〉というのはどういうことであろうか。これは340a頁にも上下の区別があり、しかも【37】パラグラフはその途中から始まっていることを示している。では340a頁上段の冒頭は何が書かれているのか、それは「Ⅲ)」の本文である【9】パラグラフが書かれており、だからその次に〈+というしるし〉があって【37】パラグラフが書かれているのである。そしてさらに340a頁上段には「Ⅲ)」の本文である【10】パラグラフが続き、それで340a頁上段は終わっている。340a頁の下段は「Ⅲ)」の【4】パラグラフの本文につけられた原注a)の【5】パラグラフが始まり、【10】パラグラフの本文につけられた原注a)の【11】パラグラフがそれに続いている(ただしこの原注a)は次の341頁の下方にまで続いている)。なお341頁上段は「Ⅲ)」の本文である【15】パラグラフから始まっている。とりあえず、この【37】パラグラフが草稿のそういう状態で書かれていることを確認しておこう。
   さらにもう一つ重要な問題がある。もう一度先の【36】パラグラフの最後の部分を抜き出してみよう。

  〈しかしこのことも,これはまたこれで幻想的である

   ここでマルクスが〈このこと〉と書いているものは何のことかが問題であった。ところがマルクス自身はこの一文のあとに〈「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示〉を書いているのである。つまりここで〈この点についての続き〉というのは、その直前の〈しかしこのことも,これはまたこれで幻想的である〉ということを指していると考えられなくもない。ということは今回の【37】パラグラフの内容はマルクスが〈このこと〉と書いているものは何なのかを考えるヒントをわれわれに与えているとも考えることができるのではないだろうか。と、まあ、以上のことを確認して、ではその実際の内容について考えていくことにしよう。

 ここではビル・ブローカーが自分が割引した手形を担保にロンドンの銀行業者から〈当座借り〔money at call〉を受けることが述べられている。この当座借りというのを、小林氏は後に検討するが〈コール・マネー〉と訳している。コール・マネーというのは、金融機関同士の間で融通し合う貨幣のことで、短期のものである。ビル・ブローカーたちは、割引した手形を担保に銀行からコール・マネーを受け取る。彼らはそのようにして、銀行から借り出した貨幣で手形を割引して、その割引した手形を担保にまた銀行から借り出し、さらにその借り出した貨幣で手形を割引するということを繰り返して、利ざやや手数料を稼ぐのであろう。そしてそうした結果、彼らの銀行に対する返済の義務のある債務額が途方もないものになっているということである。彼らはわずかの元手で、こうした取り引きを行っており、だから一旦破産すると膨大な負債が残されるというわけである。彼らが実際に持っている資本(元手)というのはその負債額の100分の1程度だということが指摘されている。だから彼らは膨大な貨幣資本(moneyed Capital)を日常的に扱っているが、しかしそのほとんどは〈現金準備なし)で行われているものであり、その限りでは架空なものだったとマルクスの言いたいのではないだろうか。
   つまりマルクスはここでは預金とそのための準備ファンドとの関係について、ビル・ブローカーにおいては、その預金総額、彼らが顧客から預託された総額(彼らの負債総額)に比べて、その準備金というのは一般の銀行業者たちに比べるとさらに極端に少ない事実を指摘しているわけである。
   先の【36】パラグラフは、私営銀行業者たちの準備ファンドは、中央銀行に預金されて、
しかも必要最低限まで縮小されている。つまりそれぞれの私営銀行業者たちが持っている膨大な帳簿上の預金額に対して、その準備ファンドというのは、相対的に少ないのであるが、それがさらに中央銀行に集中されることによって、さらにそれが縮小されている事実を述べていたわけである。そして今回の【37】パラグラフでは、ビル・ブローカーにおいては、そうした預金額と準備ファンドとの関係は、より極端な関係になっていることが指摘されていることになる。つまり【37】パラグラフは、【36】パラグラフで述べていることのより極端な関係を示している例として挙げられていると考えられるのである。

   だから【36】パラグラフの〈このこと〉について大谷氏は〈「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう〉と述べていたのであるが、【37】パラグラフとの関連で考えるなら、それは預金とその準備ファンドとの関係について、マルクスは述べていたと考えるべきであろう。つまりその前で〈1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法281)を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),銀行部が破産することがありうるのである〉と書いているように、銀行部にはたった200万ポンドの準備ファンドしかない時に、もし4大株式銀行の預金だけでも、それを引き揚げられたら、たちまち銀行部は破産するだろうということであった。つまり膨大な預金額に対してその準備ファンドが限りなく縮小されている事実を指摘していたのである。そして実際、そのことによってビル・ブローカーたちの場合は恐慌時には大きな負債を残して破産したのである。だからマルクスが〈このこと〉と述べているのは、やはりイングランド銀行の準備ファンドそのものも幻想的であるということではないだろうか。

   大谷氏はこのパラグラフそのものについては直接言及していないが、このパラグラフがエンゲルス版の第29章該当部分の草稿の最後の部分であることから、大谷氏が第29章該当部分全体を次のように締めくくっていることを紹介しておこう。

  〈第29章相当部分でのマルクスの考察はここで基本的に終わっているが,以上述べたところから,マルクスがここで明らかにしようとしたのは銀行資本の架空性であることが確認されるであろう。そのさい,この架空性はさまざまの異なった観点からなされていた。第1に,「いわゆる利子生み証券」=いわゆる擬制資本の架空性。第2に,そのなかでもとくに,国債のように資本そのものがまったく幻想的なものと,第3に,株式のように資本価値が架空であるものとが区別される。第4には,銀行が保有する紙券は--他行の銀行券を含めて--自己価値でないという意味で架空であること,第5に,無準備となっている預金はすべて架空資本となっていること,第6に,準備ファンドでさえ「幻想的」であること。そして最後に,預金と準備ファンドとのところでより一般的に言われていたように,利子生み資本と信用制度との発展につれて,同じ資本が何倍にもなって現われるのであって,この貨幣資本の大部分は架空のものであること。この最後の点では,架空性は銀行資本のみについてではなく,信用制度下のmonied capita1一般について言われているわけである。〉 (大谷本第2巻72頁)

  ここでは気になることを簡単に箇条書き的に書いておくだけにする。

   (1)すでに何度も指摘したが、「いわゆる利子生み証券」を「いわゆる擬制資本」と言い換えているが、これについては何故にこうした言い換えが必要なのかはわからないこと。それについて大谷氏自身は何の明確な説明もしていないこと。ただ通俗的な使い方を肯定し、踏襲しているだけのように思えることである。
   (2)国債と株式について、その区別を架空資本の〈異なった観点からなされてい〉るもののように述べているが、しかしそれは正しくマルクスの考察を読み取ったものとは言い難いこと。むしろマルクスは現実の構成部分としてみれば国債と株式には違いがあるが、しかし架空資本としては同じだと述べているのである。
   (3)先に大谷氏は紙券を他行の銀行券と捉えていたが、しかしここでは紙券をそれに限定せず、他行の銀行券を含めたものとどうやら考えているように思えるが、しかしマルクス自身は「他行の銀行券」などについては何も述べていないということ。
   (4)そして何よりも重要なのは、規則的な貨幣収入が資本還元されて幻想的な貨幣資本(利子生み資本)の利子として見做されることに、架空資本の架空資本としての根拠があり、架空資本の概念が成立するということが、これではまったく捉えられていないし、指摘されてもいないということである。こうしたバラバラの寄せ集めでは架空資本の概念は決して明らかにはならないのである。
   (5)またマルクスが「架空資本」と述べているものと「架空なもの」あるいは「架空性」「架空化」と述べているものとは違うという理解が必要である。大谷氏にはそれがない。架空資本はその独自の運動形態を持っているが、「架空なもの」は必ずしもそうではない。

   小林氏は大谷氏とは違い、わざわざ先の第12章のなかで〈第5節 預金と支払準備金とビル・ブローカー〉と題する一節を設けている。
  小林氏はこの【37】パラグラフは、【36】パラグラフまでで述べていた準備ファンドの架空化の〈いわば「補遺」〉(428頁)だとして、次のようにその概要を紹介している。

  〈即ち,「しかしながら,銀行業者達自身が直接必要としない〔預金の〕大きな部分は,ビル・ブローカー達の手に移り,代りに彼らは銀行業者に,ロンドンおよびこの国の種々な地域の人々のために彼らが既に割引いた商業手形を,銀行業者によって前払いされた金額に対する担保として渡す。ビル・ブローカーはこのコール・マネーの返済に責任を負っている」が,その金額は巨額に上っているとして,さらにマルクスは「銀行法特別委員会(1858年)」におけるニーヴ氏(イングランド銀行総裁)の証言をそこに引用する。それによると,ビル・ブローカーへの前貸し額は350万から800~1000万ポンドにも及び,しかも「(ロンドンの)ビル・ブローカー達は,彼らの手形が満期になって流れていくことを当てにするか,窮地の場合には割引手形を担保にイングランド銀行から前貸を獲得する力を当てにして,彼らの巨額の取引を全く現金準備なしで(without any cash reserve)営んでいる。」そして「そのうちの2社は1847年に支払停止となり,その後取引を再開したが,1857年には再び支払停止[となる]。」しかも例えば,そのうちの「1商会は1847年には,資本金180,000ポンドで,負債は2,683,000[ポンド]であったが,1857年には,資本金は恐らく1847年の1/4を越えないのに,負債は5,300,000ポンドであった…2)」,と。〉 (428頁)

   これは【37】パラグラフの概要を紹介しているだけであるが、著者はそれに続けて次のように書いている。

  〈ところで,この預金と支払準備金とビル・ブローカーとの関係については,手稿「混乱:続き」の前段部分3)での,ビル・ブローカーであるオーヴァレンド・ガーニー商会のチャップマンに対する『銀行法特別委員会報告書(1857年)』における質疑・応答の引用とそれに対するコメントの形で詳細に示されている。その点に関しても,既に本書第6章において考察してきたところであるが4),ここでその若干を再録しておこう。〉 (428頁)

   そして著者は、「混乱;続き」からの抜粋をながながと行っている。しかしそれをそのまますべて紹介することはやめておく。そのあと、それらのアチコチから細切れに引用したものの纏めらしきものを書いているので、それを紹介しておこう。

  〈以上からでも,預金と支払準備金とビル・ブローカーとの関係を次のように要約することができるであろう。即ち,銀行業者は「過剰のマネー」をロンドンのビル・ブローカーに「コール・マネー」として貸出し,この短期貸付が,大蔵省証券などへの有価証券投資と共に,地方銀行業者の「資産」の中で広義の準備金(「現金と余剰金8)」)の一部を占めていく。そしてビル・ブローカーは「準備金なしで」,この「コール・マネー」で手形を割引き,この割引手形を地方銀行業者に担保として渡し,彼等が「窮地」に陥った時には--即ち逼迫期には--,イングランド銀行に援助を求める。しかし「第1級の商業手形」でも割引かれないような事態ともなれば,銀行業者はその準備金を「2倍」に増大しようとし,「利子など」を得るよりも貸出しを手控えてしまう。「負債」が「王国の鋳貨」で一齊に支払を求められたなら,「信用貨幣制度から金貨幣制度への急変」が生じ,国内でパニックが発生する。というのは,銀行業者達は「支払準備金」をさしあたっては「最低限」に押さえており,ビル・ブローカーは無準備であり,イングランド銀行もその金準備のうち,世界市場貨幣としての蓄蔵貨幣部分は「最小限に減らし」ており,その僅かな金準備が実質的には「同時に」国内の銀行券の兌換準備としても機能しなければならず,市中の銀行業者達の準備であるイングランド銀行への彼等の預金の支払準備は,銀行部にあるイングランド銀行券での準備だけとされているからである,と。〉 (431頁)

   これはこのまま参考として紹介するだけにしておく。特に異論を挟むほどのものはないからである。】

   以上で第29章該当部分の草稿のテキストの解読は終わりである。このあと大谷氏は〔補注〕を書いているが、それは【4】パラグラフ(われわれはそれを第28章該当部分に属するものとして【53-2】として考察)の〈この銀行業者経済学者は、かつて啓蒙経済学が、「貨幣」は資本ではないのだ、と念入りに教え込もうとしたのと同じ入念さで、じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capital.“κατ'εξoχην”〕なのだ、と教え込むことになっている〉という一文に出てくる〈“κατ'εξoχην〉というギリシャ文字をマルクスはどのように使ったか、と問題提起して、草稿のなかの諸例を挙げておくというもので、特に検討するほどのものとは思えないので、その検討はやめておく。あとは全体の纏めを行うことにしよう。

  (全体の纏めは次回に。)

 

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