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2022年7月15日 (金)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-12)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-12)



【30】

 利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。224)この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,それを彼らが貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|

  ①〔異文〕「〔…… 〕2倍に[なる]」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「債権〔Schuldforderung〕」← 「請求権〔Forderung〕」

  224)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。--「このような,資本の2倍化,3倍化は近年さらに著しく発展してきた。たとえば金融トラストによってであって,これらの金融トラストは,ロンドン取引所報のなかにすでに特別な一欄を占めている。ある部類の利子生み証券,たとえば外国の国債,イギリスの市債やアメリカの公債,鉄道株等々を買い入れるために,会社が設立される。資本が,たとえば200万ポンド・スターリングのそれが,株式応募によって調達される。会社の管理役員は,当該有価証券を買い入れたり,あるいは多かれ少なかれ積極的にこれらの証券で思惑をやり,年々の利子収益から費用を差し引いたり残りを配当として株主に分配する。--さらに,いくつかの株式会社では,普通の株式を優先株と後配株との2種類に分ける習慣ができてきた。優先株は,総利潤がそれを許すということを前提して,ある確定利払い,たとえば5%を受け取る。そのあとにまだ残りがあれば,後配株がそれを受け取る。こういうやり方で,優先株への「堅実な」投資は,本来の投機--後配株での--からは多かれ少なかれ分離される。ところが,いくつかの大企業はこの新方式に合わせようとしないで,このような企業の株式に百ないし数百万ポンド・スターリングを投資し,これにもとづいてこの株式の名目価値だけの新株を,ただし半分は優先株,半分は後配株として,発行するような会社が設けられるということが行なわれるようになった。このような場合には,もとの株式は,新たな株式発行の基礎として役立つのだから,2倍になるわけである。--F.エンゲルス」〉 (181-182頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈利子生み資本と信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな人々の手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見えるようになります。しかしこれらの「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものなのです。
  たとえば,預金のほとんどすべてが、準備ファンドを除いてですが,銀行業者への帳簿上の貸し勘定として存在するだけで,銀行業者の金庫の保管物としてはまったく存在していません。
  もっともそうした帳簿上の預金も,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎりは,現実の預金を銀行業者たちがすでに貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能します。というのは銀行業者たちは,これらの帳簿上の貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合って決済に利用するからです。そしてそれは彼らに手数料をもたらします。〉

  【マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べている。以前にも(【14】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。
 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見えると言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。

 ところでやや横道に逸れるが、ここで〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」である(MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*を参照)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章「「貨幣資本と現実資本」に使われたマルクスの草稿」の「3 若干の基本的なタームについて」の「(3)moneyed Capitalと貨幣資本(Geldcapital)」なかで、この問題を論じている(215頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉(215頁)と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」(ドイツ語ではGeldkapital)と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまざまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態をmonied capitalと呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときはmonied capitalを指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである。〉 (同219-220頁)

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 (*) 実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを十分吟味してこなかった。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【20】パラグラフの次の一文--

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【23】パラグラフの次の一文--

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【28】パラグラフの次の一文--

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値は,その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉なのである。この場合の〈「貨幣資本〉も〈“Geldcapital〉である。そしてこれらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

  以上で横道はこれぐらいにして、本道に帰ることにする。

 次にマルクスは、〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、そうしたものの例として預金を上げている。それを、もう一度、書いておこう。

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。〉
 
 ここでは、利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉、そうした架空な貨幣資本なのだということになる。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているかのように見えるわけだからである。預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えているわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかに現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。

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 (画像をクリックすると鮮明なものが得られます。)

  ところでこの【30】パラグラフとその前の【29】パラグラフを一つに纏めて大谷氏も小林氏も問題にしていることをすでに指摘したが、その主張を今度は検討してみよう。

  まず大谷氏は第2巻の〈8「架空資本」の意味〉を論じているところで、上記のパラグラフを引用したあと次のように述べている。

  〈ここでは,預金は準備ファンドとして銀行業者の手もとにとどめられている部分を除けばすべてが「純粋に架空なもの」であることが述べられている。これは,すぐ前に見た「架空な銀行業者資本」の架空性とはまた異なった視点から言われているものである。すなわち,預金は,銀行業者によって貸し出されて--すなわち彼にとっての利子生み資本に転化されて--無準備となり,したがって架空なものとなったのちにも,彼にとって貨幣取扱資本として機能する,そういう架空資本になっている,と言うのである。〉 (71頁、太字は大谷氏による傍点部分)

  このように大谷氏は、預金の架空性は利子生み証券のような架空資本の架空性とは違う視点で言われていると指摘している。確かに預金の架空性というものは利子生み証券の架空性とは若干違っているように思える。後者は規則的な貨幣収入を資本還元して想像される資本価値のことを意味していたが、預金の場合は預金された貨幣はその準備を除いてすべて利子生み資本として貸し出され銀行に保管物という形では存在しないこと、にもかかわらずそれらはあたかも銀行に保管されているかのごとくに、彼ら銀行業者にとっては資本として機能すると述べているからである。だからこれは定期的な貨幣利得を資本還元されたものというような意味での架空資本とはいえないことは明らかである。(ここで大谷氏は預金が銀行業者にとって〈貨幣取扱資本として機能する〉と述べているが、果たしてこのような形で貨幣取扱資本というタームを使うのはアリなのであろうか。やや疑問である。要するに帳簿上の預金はその振替によって再生産資本家たちの諸支払いを相殺させて決済するが、それは銀行の貨幣取扱資本としての一機能だということを言いたいのであろうと理解する)。
 とにかくマルクスの上記のパラグラフを読むと、マルクス自身は〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、その一例として預金について述べているのである。〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉という具体例として預金が述べられていることは明らかであろう。利子生み資本として貸し出された資本が、あたかもまだ銀行の保管物として存在しているかのように彼らにとって資本として機能することがその一例として上げられているのである。預金された同じ貨幣額が、すぐに銀行によって貸し出され、その同じ貨幣額が再び銀行に預金された場合、銀行の預金額そのものは2倍になり、そしてそれが繰り返されれば、同一の貨幣額が何倍もの預金額を形成することになるわけである。
 これは後に解読をする予定であるが、マルクスが打った項目番号「III)」には(エンゲルス版第30~32章)、同じ貨幣片が何倍もの預金を形成することをマルクスは次のように論じているところがある。

  通貨Circulation〕{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまったく次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払いの度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払いをし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人のmoneyed Capitalの第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終りには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻495-496頁)

   つまり同じ100ポンドの貨幣額が、結局、何度も預金を形成することによって、2000ポンドの預金額になるというのである。しかしこの小売業者の2000ポンドの預金はただ帳簿上のものに過ぎず、決して銀行の金庫にあるわけではないのである。

   さらに重要なのは、マルクスは預金を〈架空なもの〉の一例として述べてはいるが、それが「架空資本」であるとは述べていないことである。だからマルクスは国債や株式を例に挙げて説明していたものを「架空資本」とし、準備ファンドの大部分や預金については「架空なもの」として、前者とは区別して論じているように思えるのである。また「手形」についても、割り引かれて銀行に保管されているものについては、利子生み証券とは述べているが、それを架空資本であるとは述べていないことにも注意が必要である。ただ手形も手形ブローカーが介在して、それを売り買いしている限りでは、そうした売買される手形は架空資本と言えるのかも知れない。つまり売買される手形は、満期までの残りの期間とそのときの市場利子率によってその資本価値が決まるのであり、その限りでは国債や株式の架空資本としての資本価値と似たものと考えられるからである。

  次は小林氏であるが、まず同氏の場合、【29】パラグラフと【30】パラグラフの紹介に入る前に、貸借対照表を前提に、次のような前文を書いている。

  〈さて「借方」から見た「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,銀行業者が貸出す「銀行営業資本」の主たる部分が,銀行業者自身が投下した「彼の資本」ではなくて,銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない。マルクスは,次のように,「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じているのである。〉 (413頁)

  問題点を箇条書きしてみよう。
   (1) すでに何度も指摘したが、著者は〈「借方」から見た「銀行業者の資本」〉などと述べているが、〈「借方」から見た〉などということは、マルクスは一言も述べていない。その理由についてはすでに述べた。
   (2) 次に〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉というが、しかしその前に著者は【28】パラグラフの最後の一文を解説して〈「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである〉(412頁)と言っていなかったか。つまり他人の資本であるという意味で架空な資本なのだと述べていたのではないのか。マルクスはそのようには言っていないというなら、それはその通りだが、しかし著者自身はマルクスがそう言っていると解釈していながら、ここではそうではないと言っているのが矛盾しているし、おかしいのである。
   (3)そのあとに著者が書いていることはどうであろうか。著者がここで〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉とわざわざ前に書いたことと矛盾したことを述べているのは、預金の架空化というのは、次のような意味で言われているのだと言いたいがためである。すなわち〈「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じている〉というのである。しかしこのように著者はわざわざカギ括弧で括って述べているが、しかしマルクス自身がこうしたことを述べているわけでは決してない。恐らく著者はのちに自身が展開する主張をここでは先取りして、ただ断言する形でこのように述べているのであろう。しかしこれだけでは、その是非を論じることはできない。だからこうした主張の是非はそのあとの著者の展開のなかで吟味していくことにしよう。

  そのあと著者はまず先に紹介した【29】パラグラフを引用したあと、【30】パラグラフについて、次のように紹介している。

  〈あるいは同じことであるが,マルクスは次のようにも云う,「預金(Deposits)全体は(準備ファンドを除けば),銀行業者への貸越金以外のなにものでもないが,しかしそれ[預金]は寄託物(Deposit)の中には決して存在しない。それ[預金]が銀行業者に振替(virement)のために役立つ限り,彼ら[銀行業者]がこの同じ物[預金]を貸出してしまった後も,預金は同じ人々にとって資本として機能する。彼らは実在していない預金に対する相互的な振出し手形(Drafts)を,この貸越金の差し引きによって支払う」,と。そして彼はこれを一般化して,「利子生み資本および信用制度の発達と共に,同じ資本あるいは同じ債務請求権でさえも,種々な人々の手で種々な形態で現れる種々な仕方によって,すべての資本2倍化して,そして部分的には3倍化して,見える。[このように]この「貨幣資本なるもの("Geldcapital")』[即ち,貨幣貸付資本]の最大の部分は,純粋に架空(rein fiktiv)である2)」,と。〉 (414頁)

  このように、著者は意図的にマルクスの叙述の前後を逆転して紹介している。つまりマルクスが〈例えば〉と預金を例に出している部分を先にもってきて、それがあたかもその前の(【29】パラグラフの)預金の説明の続きであるかに紹介して、そして【30】パラグラフの冒頭の一節をそれらの結論として紹介するという形でである。まあこうした紹介の仕方は工夫の一つとして許容範囲であろうが、次のように著者が結論的に述べていることには首をかしげざるを得ない。

  〈だからこういうことになる。まず機能資本家の手許で一時遊休している「自己価値」のある蓄蔵貨幣(「確実な」金貨幣)ないし「金に対する支払指図書」としての兌換銀行券を前提する。次に,「まさに公衆が銀行業者に対して行う貸付(loans)に対する特種な名前にすぎない3)」「預金」が,この「貨幣(金または銀行券)」で行われるものと仮定する。ところがこの「貨幣」は,預金者にとっての「貨幣資本なるもの」(つまり貨幣貸付資本)に転化したが,それは,銀行業者にとっての「準備ファンドを除く」と,銀行業者による手形割引や貸付を通じて機能資本家の手に渡ってしまっているか,「有価証券取引業者(株式仲買人)」に貸出されて彼らの手にあるか,あるいは株式あるいは国庫証券等を銀行業者に販売した「私人の手」または「政府の手に」渡ってしまう。だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない4)ものとなってしまう。したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる。ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が,他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」つまり,このような「架空な」預金に対して振出される小切手によって売掛代金が清算される。
 これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである。〉 (414-412頁)

   これはそのあとのパラグラフのマルクスの叙述をつまみ食いしてつなぎ合わせたものであるが、しかし預金が準備ファンドを除いて貸し出されてしまい、帳簿上のものになったという事実を指摘しただけで、〈したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる〉とは言えないだろう。そのためにはマルクスが【31】パラグラフ以下でアダム・スミスの例を紹介して論じていることが媒介されないといけないのである。要するに最初の貨幣や兌換銀行券が何度も預金として積み上ることが出来るということを言いたいのであろうが、そのためにはそれらが銀行から貸し出されたあと、何らかの商品価値の実現を媒介して銀行に還流することが言われなければならないのである(上記に引用したマルクスの「III)」の一文を見ても分かる)。
   それに著者は〈だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない〉と述べているが、〈銀行に対する貨幣……請求権〉はまあ良いとしても、どうして預金が〈銀行に対する……資本請求権〉なのであろうか。確かに預金者が事業者であり、彼の預金を貨幣資本(Geldcapital)として投資するために預金を引き出すなら、それは彼にとっては「貨幣資本(Geldcapital)」であるが、しかしそれをもって彼の預金を〈銀行に対する……資本請求権〉とは言わないだろう。マルクスは預金は常に現金でなされることを前提すると述べているように、それは現金に対する請求権として存在しているとはいえるが、資本に対する請求権とは言えないのである。事業者も別に銀行に資本を請求するわけではないからである。それは彼が投資するときの貨幣が持つ形態規定性(貨幣資本)である。しかも預金の引出しは銀行にとっても利子生み資本の貸付とは異なり、利子生み資本という規定性も持っていない。そもそも預金を引き出したものを資本として投資するかどうかは銀行の与り知らないことである。だから預金を〈資本請求権〉とするのは決して正しいとは思えない。
   次に著者が〈ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が〉と述べている部分で、カギ括弧に入れて述べている〈「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」〉というのは訳者注5)を見ると、大谷本第3巻の〈第30-32章の草稿〉にあるものであり(【111】パラグラフ、同巻516頁)、これ自体は直接には預金について述べられているものではない。預金を含めたmoneied Capitalについてマルクスが論じているものを預金について述べているものであるかに引用しているだけである。しかしこれはそれ自体が間違いというわけではない。
   ついでにそれに続く〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉という部分のカギ括弧の部分は〈第30-32章の草稿〉にあるものである(【118】パラグラフ、大谷本第3巻522-523頁)。しかし著者はマルクスの一文を読み間違っている。著者が部分的に引用しているものをマルクスの草稿から紹介してみよう。

  〈混乱は,一部分は次のことから生じている。--5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる(彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〔)〕。そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣〔money potentialiter〕として機能する。しかしいずれにせよ,彼はそれだけ自分の預金をなくすわけである。彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払を受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払を受けるのである。彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は2度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権〔claim 〕として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉 (大谷本第3巻521-523頁)

   実はこの部分の詳しい解読は、すでに大谷氏の預金通貨論を批判するなかで論じているだからマルクスの一文を正確に理解しようと思う人はそれを見ていただきたい。
   ここで問題なのは、小林氏の引用から言えることは、同氏がマルクスの一文を読み誤っていることである(実は先の大谷氏の預金通貨論を批判したところでも指摘しているが、大谷氏もこのマルクスの一文を正しく理解できなかったのである)。小林氏は〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉と述べているが、マルクスが〈この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そしで貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである〉と述べている時、〈現実の貨幣として〉というのは、預金が銀行から利子生み資本として貸し出されて、再生産資本家の手で現実の貨幣として働くということであり、だから小林氏が指摘している〈貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって〉というのは、マルクスが〈そして貨幣への請求権〔claim〕として,働く〉というケースであって、それを氏のように〈[現実の貨幣として]作用しうる〉などと書いてしまうとただただ混乱でしかないのである。
   そしてその結論として〈これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである〉というのもおかしなものである。少なくともマルクスは〈「借方」(「預金」)から見た場合の特質〉などとは述べていないからである。預金そのものはすでに銀行から利子生み資本として貸し出されて、銀行には帳簿上の記録としてあるだけだから、その大半は架空なものだということはマルクスは述べている。しかしそれが貸借対照表の「借方」かどうかということは何も述べていないのである。もっとも預金は債務だから「貸方」か「借方」かといえば「借方」ではあるが。しかしマルクスは銀行業者の資本の構成を、その実物的な構成とは違ったもう一つの区分として、銀行業者自身の投下資本(自己資本)と預金(銀行業資本または借入資本)とに分けているが、しかしそれらは実物的な構成には何の影響も与えないとも述べているのである。この後者の区別は確かにその限りでは貸借対照表にもとづく区別ともいえるが、しかし、そのことをマルクスは明記してそう述べているわけではない。だから預金について論じている場合も、それが借方にあるかどうかといったことは何ら問題にせずに論じているのである。預金を借方の架空性の代表であるかに著者はいっているが、そんなことはマルクスは一言も述べていないのである。】

  (以下、次回に続く。)

 

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