『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-11)
第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-11)
(前回【28】パラグラフの解読を途中で切ったので、以下は、その続きです。)
次は小林氏であるが、氏はすでに紹介したが、〈ところでこのように銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した後,次にマルクスはこれら「銀行業者の資本」の「架空性」を次のように,3点にわたって指摘していく。〉(410頁)と述べたあと、【28】パラグラフを①~③の三つの部分に分けて紹介している。大谷訳と若干の違いがあるので、それも紹介しておこう。、
〈① 「銀行の準備ファンド(Reservefonds)は,発達した資本主義的生産諸国では,平均的には蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部は再び有価証券(Papieren)から,即ち決して自己価値のあるもの(Selbstweythe)ではない,金に対する単なる支払指図書(Anweisungen)から成立っている。」
② 「だから銀行業者の資本の最大の部分は純粋に架空(fiktiv)[なもの]で,(即ち債務返済請求書(Schuldforderungen)〈手形および公的有価証券〉並びに株式〈所有権利証書(Eigenthumstitel),将来の収益に対する支払指図書〉であり,この際以下のことが忘れられてはならない。即ち,これらの有価証券(Papiere)が銀行業者の金庫で表示している資本の貨幣価値は,これら有価証券が(公的有価証券の場合のように)確実な収益に対する支払指図書である限りでも,あるいはそれらが(株式の場合のように)現実資本に対する所有権利証書である限りでも,全く架空(fiktiv)であり,そしてそれ[有価証券の貨幣価値]は,それら[有価証券]が表示している,現実資本の価値からは離れて調整されるか,あるいは,それらが収益に対する単なる請求権(Forderug)を表示している(そして決して資本を表示していない)場合には,同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空貨幣資本[擬制資本]で表現されている,ということである。」
③ 「さらにこれに次のことが付け加わる,即ち,この架空な銀行業者の資本(diess fiktive Banker's Capital)は大部分が彼の資本ではなくて,彼に預託されている公衆の資本--それに利子が付こうと無利子であろうと--を表示している,ということである」13),と。〉 (410-411頁)
そしてこれらについて著者は次のように解説している。まず①についてである。
〈まず第①の「銀行の準備ファンド」であるが,それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している。したがってその一部は「有価証券から,即ち,決して自己価値ではない金に対する単なる支払指図書から成り立っている」と云われる時にも,その「有価証券」とは「利子生み証券」ではなく,兌換銀行券を意味しているものとしなければならない。そして兌換銀行券といえども,それは「自己価値」を持った蓄蔵貨幣ではないのだから,「現金準備」の一部は貨幣(=金貨)請求権という「架空な」「資産」にすぎない,というのである。〉 (411頁)
しかしこれは正しいとは言えない。同じような主旨からなのか、大谷氏の場合は〈すなわち(他行の)銀行券〉と述べていた。
ここで著者が〈それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している〉と述べているのは、【26】パラグラフでマルクスが〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉と述べていたことを考えているのであろう。しかしマルクスはその前の【24】パラグラフで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べていたのである。つまりこうした利子生み証券に投下されているものも準備ファンドの一部なのである。もちろん、【26】パラグラフで述べている〈貨幣準備(金または銀行券)〉も準備ファンドの一部であることは言うまでもないが、そして銀行券が〈自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもその限りではまったくそのとおりなのである。しかし大谷氏のようにどこから〈(他行の)銀行券〉が出てくるのかは皆目分からないのである。マルクスがここで金と並べている「銀行券」は現金として通用するものであり、法定通貨であるイングランド銀行券を指していることは明らかである。
次は②の説明である。
〈第②に,「銀行業者の資本([資産])」の圧倒的部分を占める「有価証券」のうち,「商業証券」である割引手形も公的有価証券である国債等も「債務返済請求書」であり,また株式も「将来の収益に対する支払指図書」であるから,それら「有価証券の貨幣価値」は「それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整されるか,……同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空な貨幣資本で表現されている」という意味で,「純粋に架空なもの」であるというのである。〉 (411頁)
ここで小林氏は〈「銀行業者の資本([資産])」〉とマルクスの草稿にはない〈([資産])〉を入れているが、これは氏がマルクスが貸借対照表を前提に論じているという独断に立っているからである。割り引かれた手形が、利子生み証券であり、満期までの残存期間とそのときの利子率によって貸付額が調整されるという意味では、ここで著者がいうように〈それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整される〉と言えなくもない。しかしマルクスが〈この場合次のことを忘れてはならない〉と以下述べているもののなかには〈手形〉は含まれていないことにも注意する必要がある。マルクスがそこで挙げているものは、〈公的有価証券〉と〈株式〉だけである。このあと著者は次のようにこの②に付いて結論的に述べている。
〈したがってこれに続けてマルクスが,「この架空な銀行業者の資本(dies fiktive Banker's Capital)14)」というときには,このように,「銀行業者の資本」をまず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指しているのである。〉 (411頁)
まず確認しなければならないのは、少なくともマルクスはそんなことは一言も述べていないことである。ただマルクスがここで〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉という場合、著者がいうように銀行業者の帳簿上に表されている資本の貨幣価値というものをマルクスも問題にしていることは確かであろう。そうした帳簿上に表されているものは架空なものだというのがマルクスがここでいわんとしているものである。
ただ小林氏の場合は(大谷氏もそうであるが)、マルクスが銀行業者の資本の現実の構成部分とそれらが銀行業者の帳簿上でどのように表されるかということを区別して論じ、後者は全く架空なものだと論じているということにまったく注意が行っていないことである。むしろ小林氏も大谷氏も帳簿上の問題だけを問題にしているのである。
さらに問題なのは、例え著者がいうように〈まず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指している〉ということだったとしても、果たしてそれにどんな意義があるのか、ということである。〈「資産」の側から見た場合〉ということを指摘して何か新しい知見が得られるのか。なぜ、わざわざマルクスが一言も述べていない貸借対照表について言及する必要があるのか。それで何か問題を深めたことになるとでもいうのであろうか。むしろそれはマルクスが論じている内容から問題を逸らせることになるのではないのか。なぜ、マルクスが著者や大谷らがいうような貸借対照表にもとづいて論じているのなら、それを言わないのか、それこそが問題であり、そこにこそマルクスが問題にしている根本があるのではないのか。マルクスは第28章該当部分では、銀行業者の立場からの「資本」というのは、元帳の立場からの「資本」だと述べていた。つまり「元帳の立場」、すなわちブルジョア的な帳簿表記上の立場である。そしてそれはすなわち貸借対照表にもとづいた立場でもあるのではないか。そうした銀行業者の立場を批判的に論じているマルクスが、そうした貸借対照表を前提にして論じているなどということは考えられないのである。それが著者にもまた恐らく著者の主張に影響されてであろうが、大谷氏にも見られるのは情けない限りである。
いずれにせよ、著者は③について次のように述べている。
〈ところが彼が第③に,「さらに……付け加わる」として指摘する点は,「資産」の側から見て「架空な」この「銀行業者の資本」を,「負債と資本」の側から見たものである。先には彼は,「銀行業者の資本の実在的諸成分--貨幣,手形,有価証券--」という「貸方(creditor)」の「区分」は,その「借方(debtor)15)」が自己資本だけであるか,それとも借入資本(預金,等)だけであるかということとは,さしあたっては関係がないとしていた16)のであるが,実は「銀行業者の資本」とはいうものの,「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである。〉 (411-412頁)
しかしマルクス自身は〈この架空な銀行業者資本の大部分は、彼の資本を表しているのではなく、利子がつくかどうかにかかわらず、その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表している,ということが加わる〉(大谷論文35頁)と述べているだけで、〈「預金」であるという点で,「架空な資本」である〉と述べているわけではない。マルクスは架空な資本の大部分は、他人から預託されたものだと述べているだけなのである。つまり他人から預託されているものが、銀行業者の帳簿上においては純粋に架空な資本になっていると述べているのであって、ただ他人のものだから架空な資本だなどと述べているのではないのである。】
【29】
〈預金はつねに202)貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま①述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。
①〔異文〕「述べた」← 「考察した」
202)〔E〕「貨幣(金または銀行券)で」→ 「貨幣で,すなわち金または銀行券か,これらのものにたいする支払指図で」〉 (180-181頁)
まず平易な書き下し文を書いておこう。
〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされます。預金の払い出しに応じるための準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張します)を除きますと,預金そのものは,一方では生産的資本家や商人に貸し出されて彼らの手のなかにあります。彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりしたのです。または他方では、有価証券の取引業者(株式ブローカー)に貸し出されて彼らの手中にあります。あるいはまた、自分の有価証券を銀行に売った私人の手中にあります。または同じように銀行に国債等を売った政府の手中にあります。政府は国庫手形や新規国債を銀行に売るか、あるいはそれらを担保として銀行から預金を借り受けるのです。要するに銀行は公衆から集めた預金を、さまざまなところに利子生み資本として貸し付けて利子を稼いでいるのです。
ところで預金そのものは二重の役割を演じます。一方ではそれは,いま述べましたような仕方で利子生み資本としてさまざまなところに貸し出されます。したがって銀行業者の金庫のなかにはそれらの預金はもはやなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として銀行業者の帳簿のなかにあるだけです。
しかし他方では,この帳簿が、商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてて振出した小切手によって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,帳簿上の預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能するのです。つまり諸支払いの決済を行うことができるものに役立つのです。(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわないのです)。〉
【このパラグラフは、【9】パラグラフのなかで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていたものが、ここで論じられていると言える。そしてこの部分は現代的な問題でもあるいわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連している。しかしその検討は後に行うとして、とりあえずは、われわれはこのパラグラフそのものの詳しい解読から始めることにしよう。
ここではまず〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べられている。これはいわゆる一般的には「本源的預金」と言われるものと考えて良いであろう(マルクス自身がこうした用語を使っているのかは知らないが)。というのは、マルクスは第28章該当部分において、次のように述べていたからである。
〈銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。〉 (大谷本第3巻136頁)
つまり銀行は産業資本家や商業資本家が持参した手形を割り引いて、銀行券を手渡す(貸し出す)代わりに、帳簿信用を与えることもできるわけである。つまり預金設定を行い、割り引いた手形の代金を帳簿上に書き加えて手形持参人名義の預金として設定するわけである。だからこの場合、預金は事実上手形によってなされたことになる。しかしマルクス自身は、この場合は銀行から貸し出しを受けた業者が〈仮想の預金者になる〉とも述べており、預金者が銀行に貨幣(金または銀行券)を持参して行う「本源的な預金」と区別しているように思える。
ところでエンゲルスは〈貨幣(金または銀行券)で〉の部分を〈貨幣で、すなわち金または銀行券か、これらのものにたいする支払指図で〉と修正したのであるが(訳者注202)、しかしこの修正はマルクスの意図をむしろねじ曲げるものといえるように思える。エンゲルスにしてみれば、商業実務に通じているが故に、手形や小切手等、支払指図での預金が日常的に行われている経験にもとづいてこうした修正を施したのであろうが、しかし、マルクスの意図としては、そうした支払指図による預金は、すでに銀行による貸し出しの一形態であり、貨幣を持ち込んでの預金とは明確に区別されるべきものなのである。
とにかく、われわれは、マルクスの言明にもとづいて、ここでは預金は常に〈貨幣(金または銀行券)〉でなされるものと考えることにしよう。
次の〈準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)〉という部分に出てくる〈この預金は〉というのは、正確には「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味である。つまり預金された貨幣(金または銀行券)は、銀行に留まっているわけではなく、すぐに一定額の準備ファンド(これは預金者の引き出しに応じるために銀行に準備しておくべきものである)を除いて、直ちに貸し出される、ということである。そしてその貸し出し先や運用先が、その次に書かれている内容である。
(1)〈一方では生産的資本家や商人〉に貸し出されるが、それは手形割引やその他の貸し付け(担保貸し付けか、無担保貸し付けか)によってなされるわけである。
(2)〈または有価証券の取引業者(株式ブローカー)〉に貸し付けられる。
(3)〈または自分の有価証券を売った私人の手中に〉。つまりこれは銀行が預金された貨幣(金または銀行券)で私人から有価証券を購入した場合のことである。
(4)〈または政府の手中にある〉。つまり政府に貸し出されるわけである。そしてその場合には銀行業者は国庫手形や新規国債を担保として保有することになるわけである。これはあるいは新規国債を銀行が引き受ける場合も入るかも知れない。
その次からは預金の機能が考察されており、「預金通貨」を考える上でも、極めて重要である。
〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである。〉
ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿上に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、すぐに利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金そのものは銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。以前紹介した銀行の貸借対照表をもう一度紹介してみよう。
このように預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。
そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--
〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。
この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。
今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。
ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。
「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。
〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から人手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。〉 (「「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について)(下)」(『経済志林』第51巻第4号10-11頁))
大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。
しかし、今回の【29】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。(なお大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章の4の(6)「信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能」で、やはり「預金通貨」について論じているのであるが、それについてはすでに別途批判したものがあるので、参照していただきたい。)
では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。
【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが第29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。
(1)まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。
(2)次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。
(3)bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。
このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。〈諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。〉(『資本論』第1部全集第23a巻180頁)。この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。
確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。
もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから推測したに過ぎません。】
もう一つT氏に対する関連するメールを紹介しておこう。
【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。
〈{通貨〔currency〕の速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency〕の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉 (「「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について」(『経済志林』第64巻第4号165-6頁、大谷本第3巻427-430頁)
このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〔currency〕〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】
いずれにせよ、預金による振替決済は、この【29】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣はただ観念的に、計算貨幣あるいは価値尺度として機能するだけである)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。
小林氏(大谷氏も同じであるが)はこのパラグラフだけではなく、次の【30】パラグラフと併せて問題にしている。というのは彼らの関心は預金の架空化にあるからである。しかしこれらのパラグラフでは預金の二重の役割といういわゆる「預金通貨」と言われてきた概念の是非を判断する上で極めて重要な指摘がされており、これまでの解読はそうした点に力点を置いて述べてきた。
まず小林氏のこのパラグラフの翻訳を紹介しておこう(それは大谷氏とは若干の相違がある)。ただ小林氏はやや抜き書き的に書いており、その点、注意が必要である。
〈即ち,「預金は常に貨幣(金または銀行券)でなされる」が,「準備ファンド(それは現実の流通の需要に従って収縮しまた膨張する)を除くと」,「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。他方では,商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる(その場合,預金が同一銀行業者におかれていて,したがって彼[同一銀行業者]が種々な[顧客の]売掛代金(Credit Accounts)を相互に差し引くか,あるいは,種々な銀行業者が彼らの小切手を相互に交換し,そして差額を支払いあうかは,全くどうでもよい)限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する1)」,と。〉 (前掲書413-414頁)
気づいたことを指摘しておこう。
①著者は〈「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。〉(414頁)と翻訳しているが、この部分は大谷訳では〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである。〉(大谷新本第3巻180頁)となっている。
つまり同じ「Guthaben」でも一方は「貸越金」、他方は「貸し勘定」と訳が違う。どちらが適訳かといえばやはり大谷訳であろう。貸越金というのは、同一口座の定期預金を担保に、普通預金の不足分を借り入れする金額のことであって、この場合は不適切な翻訳ではないだろうか。貸し勘定はただ貸した金という意味で、この場合の適訳である。
②また同じようなことだが、〈商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる……限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する。〉(414頁)とあるが、大谷訳では〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振り出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する。〉(同前180-181頁)となっている。この場合もやはり大谷訳の方が分かりやすい。〈それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する〉というだけではなかなか意味が分からないが、〈預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉とすればよく分かるのである。もっとも帳簿項目を帳簿上の項目、つまり記録と理解すれば、両者ともさほどの違いはないが。
大谷氏も小林氏も【29】パラグラフと【30】パラグラフとを同じ預金の架空化について論じているものとして、両者を併せて解説しており、だからそれらの解説については【30】パラグラフで取り上げて検討することにしよう。】
(以下、次回に続く。)
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