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2022年7月21日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-13)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-13)



【31】

 |339上|アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている。--
 「とはいえ,金融界〔monied interest〕にあってさえも,貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない。それらの資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう。すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである。たとえば,AがWに1000ポンド・スターリングを貸し付け,WがこれですぐにBから1000ポンド・スターリングに値する財貨を買う。B自身はこの貨幣を必要としないので,彼は同一の諸貨幣片をXに貸し付け,XはこれですぐにCから1000ポンド・スターリングに値する別の財貨を買う。同じやり方で,また同じ理由からCはその貨幣をYに貸し付け,YはまたそれでDから財貨を買う。このようにして,鋳貨であれ紙幣であれ,同一の諸貨幣片がわずかな日数のあいだに,別々の三つの貸付と別々の三つの購買との用具として役立つことがあるのであって,これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しいのである。A,B,Cという3人の金持ち〔monied men〕がW,X、Yという3人の借り手に譲渡したものは,これらの購買を行なう力である。この力こそ,貸付の価値でもあれば効用でもある。この三人の金持ちが貸付ける資本〔stock〕は,それで買うことができる財貨の価値に等しく,これらの購買に用いられる貨幣の価値の3倍の大きさである。それにもかかわらず,これらの貸付はすべてまったく完全に[527]保証されているであろう。というのも,それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用されるのだからである。こういうわけで同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである。」 (『諸国民の富』,第2篇第4章。)

  ①〔注解〕アダム・スミス『諸国民の富』,アバディーン,ロンドン,1848年,236ページ〔大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,岩波書店,1,1969年,551-552ページ〕。〉 (182-183頁)

  【このパラグラフは本文であるが、ほとんどがスミスからの引用なので、平易な書き下し文は省略する。ただ確認すべきは、マルクスが〈アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている〉と述べていることである。つまり〈貨幣が資本貸付で演じる役割〉、すなわち貨幣が利子生み資本として貸し付けられる場合に演じる役割を、マルクスはスミスの一文の中に見ているということである。
   スミスがここで〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉と述べているのは、スミスが流通を消費者と商人との間の流通と、商人と商人との間の流通に分け、後者で流通する貨幣を資本の移転を媒介するものとして「資本」と呼んでいたのに対応している。つまりそうした流通とは別に〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉商人と商人との間の流通だけではなく、この場合にも〈貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない〉と言いたいのである。
   そしてスミスはしかし金融界における〈資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう〉と述べ、〈すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである〉として具体的な例を挙げて説明している。

  われわれはスミスの具体例を挙げた一文を理解するために、その例を整理して図示してみよう。

①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 同じ貨幣片が別々の三つの貸付(①③⑤)と購買(②④⑥)に役立った。そしてスミスはここから〈これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しい〉という。しかし、考えてみよう。社会的には価値としては最初の1000£の貨幣(これは最終的にDが自身の商品を売って所持することになる)とB、C、Dが持っていた(つまり彼らが何らかの形で社会的に生み出したであろう)財貨の価値、すなわち3000£である。つまり社会的には価値としては4000£存在したことになる。AはWの支払約束証書を持っているとする。同じようにBもXのCもYのそれぞれ1000£の支払約束(債務証書)を持っている。彼らはそれを自分自身の財産と考えるであろう。つまりここには社会的に見て、3000£の債権が存在している。つまり社会的には1000£の貨幣、3000£の商品価値、3000£の債権が存在したことになる。ただ最終的には購買された商品が消費されてしまったとすれば、一連の過程の終わりには、3000£の商品価値はすでに無く、残っているのは、1000ポンドの貨幣と3000ポンドの債権(あるいは債務)だけである。ここでA、B、C、Dは何かの形でにせよ、社会的にみて4000ポンドの価値を所持していた人たちである。それに対してW、X、Yは社会的には何の価値も持たず、ただ一方的に消費するだけの人として現れている。勿論、彼らには最終的には3000ポンドの債務が残ったのであるが。貨幣1000ポンドは、結局は、AからDに移ったことになる。つまりDは1000ポンドの商品の代わりに1000ポンドの貨幣を持つことになった。それに対してA、B、Cはそれぞれ1000ポンドの貨幣あるいは商品の代わりにそれぞれ1000£、合計3000£の債権を持つことになっている。ただここで財貨を買うW、X、Yはそれらを不変資本として購入するとスミスは仮定している。というのは〈それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用される〉としているからである。そしてスミスの結論は次のようになっている。〈こういうわけで,同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである〉このようにスミスは貸付の用具として役立つと述べてはいるものの、しかし、そこに必ず購買を入れていることに注意が必要である。つまりただ1000£の貨幣がAからBへ貸し付けられ、そのBからさらにCに、CからさらにDへと貸し付けられるというような貸付を想定していないということである。これでは同じ貨幣額がただ貸し付けられただけで、これは結局は、Aの貨幣がDに貸し付けられたことを意味するだけだからである。両者以外のB、Cは一方の債務を他方の債権で相殺されて、結局、何もないことになっている。スミスは同じ貨幣片が何倍もの貸し付けや、返済に利用されるとしているが、しかし、それはそれらの貸し付けや返済が、それぞれ別々の価値の貸し付けであり、返済であることを正当にも想定しているわけである。】


【32】

 同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる。というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである。売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が②③貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。

  ①〔異文〕「この移転〔transfer〕は」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「最初の」という書きかけが消されている。
  ③〔訂正〕「貸し手」--草稿では「買い手」となっている。エンゲルスによる1894年版に従って訂正。〉 (183-184頁)

  このパラグラフはマルクス自身の文章であるから、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈私たちが『資本論』の冒頭篇の商品の単純流通で見ましたように、同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができました。つまりさまざまな商品の価値の実現形態になりえたのです。だから,まさにそのことによって,同一の貨幣片が、自身の商品を販売してその実現形態である貨幣を貸し付けるなら、それはいくつもの貸付を行なうことができることになります。
  購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移しますが,しかし貸付は,購買によって媒介されることなく,一方の手から他方の手へ貨幣を移転することになります。
  売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしています。だから利子生み資本が範疇として確立した今日では、どの価値も資本価値として表現されるのですから,商品を販売して得た貨幣はいくつもの資本価値を表わすのです。だからさまざまな貸付として現れるということは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の単純流通における命題の別の表現でしかないのです。
  単純流通は、資本の流通においては、貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのです。
  ただし貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではありません。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにあるのです。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのです。
  かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけです。
  だから貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのです。〉

  【このパラグラフは、先のスミスからの引用にもとづいて、マルクス自身が書いたものと思われる。しかし詳しく見ていくとなかなか理解が容易なものではないことが分かる。何がよく分からないのか、詳しく箇条書き的に書き出してみよう。

  (1)まず〈同ーの貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができる〉というのは、誰でも分かることである。しかし〈まさにそのことによって,同ーの貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉というのであるが、どうして最初のことを根拠に後者のことが言いうるのかいま一つよく分からないのである。確かに上記のスミスからの引用文では、貸し付けと購買が交互に行われることが述べられているが、それは何を意味するのかということである。
 これは次のようなことを意味しているのではないだろうか。同一の貨幣片がいくつもの購買を行うということは、同一の貨幣片がさまざまな商品の価値の実現形態になるということである。つまり同一の貨幣片ではあるが、それが実現した商品の価値はすべて異なる商品であり、その限りでは新たな価値の貨幣形態なのである。だからある商品の価値を実現した貨幣、つまり商品Aを販売して入手された貨幣は、商品Aの価値の実現形態であり、その貨幣をXに貸し付けるということは、商品Aの価値の実現形態を貸し付けるということである。商品Aの所持者にとってAの価値の実現形態である貨幣は、彼が社会に与えた一定の商品価値に相当する別の商品を社会から引き出す権限を有していることを表している。もし彼がそれをXに貸し付けるとするなら、それはその権限をXに貸し出し、その限りではその代行を委ねることを意味するのである。XはAに代わって、その権限を行使することになる(だからまたXは別の機会に、その権限をAに返済する義務も生じている。Aは自分の権限をすぐには行使せずに、Xに委ねるのであるが、そのことはAはその権限を放棄したことを意味するのではなく、それを保留しているだけで、その権限は返済された段階で、Aによって行使することは可能になるが、Aに返済された権限は、Xに限らず別の誰かの権限を、Xが借りて、Aに返済したものかも知れないのだが、いずれにせよAはその権限を元に戻すことになる)。つまりこのように貨幣の貸し付けというのは、本来はその貨幣の所持者が持っている権限(社会の富や労働に対する請求権)を第三者に貸し付けることなのである。これは社会的総再生産過程を考えれば、その重要性が分かる。つまり同じ貨幣片が次々といくつもの貸し付けを行うことが出来るのは、その貨幣片がさまざまな商品の対価としてさまざまな権限を表しているからであり、そうでなければならないということなのである。だからこそ、マルクスは〈まさにそのことによって〉と述べているわけである。そしてここから次のような疑問を解くカギも見いだされるような気もする。

  (2)すなわち次にマルクスは〈というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである〉というのであるが、〈というのは〉ということは、先の一文のようにいえるのは、とその根拠を示そうとしているように思える。ただ、果たして上記のことが、先のことの根拠として言いうるのかがいま一つよく分からないのである。
   少し考えてみよう。ここで言われていることは、明らかに購買と対比しての貸付の特徴を述べていることである。すなわち購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのだが、しかしその貨幣片は別々の商品価値の実現形態だということである。購買では貨幣は次々と商品の販売者の手に渡っていくが、しかしその価値が表す商品価値の実現形態としては商品の数だけ異なっている。もちろん貨幣価値としてはまったく同質で無区別であるが、しかし貸付は、それも確かに一方の手から他方の手への貨幣の移転であるが、しかしそれは別々の商品価値の実現形態ではなく、同一の商品価値の実現形態に過ぎないということである。つまり購買では次々と人の手を移っていく貨幣の価値は、それぞれ社会的に見れば、別々の商品価値として新たに形成された価値であり、だから貨幣が人の手に移っただけ、社会的にはその数だけの商品の価値が形成されたことを表しているのであるが、しかし貸付の場合は、そうではなくそれがどんなに多くの人の手を経たとしても社会的にはまったく同じ価値のただの移転に過ぎず、社会的に新たな価値の形成を意味しないわけである。

  (3)だから以下の文章もこれまでの考察で容易に理解できることになる。

 〈売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。〉

 これ自体は貨幣は単純流通では単純な抽象的な規定であり、資本(貨幣資本)というのは、それが資本の流通として資本関係のなかで受け取る形態規定であることを考えれば何の問題もない。そもそも単純流通の単なる貨幣や商品は、資本の流通の過程における商品資本や貨幣資本を、それらの資本関係を捨象して得られたものである。もちろん単純流通そのものが資本主義的生産の社会の表面に直接に現象しているという特異性があり、われわれが直接目にする表象そのものがそうした資本関係を捨象した単純流通なのであるが。だから商品を売って入手した貨幣が彼にとって、資本価値を表すなら、彼が売った商品もまた商品資本であったということになる。
   だからここで重要なのは〈どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わす〉というように、今日では貨幣は、それはそのまま資本を表すものと考えるのだが、しかしそれは貨幣が次々と購買によって人の手に移っていくことの別の表現であり、それはそれぞれが自分が持っている商品資本の貨幣としての実現形態、つまり貨幣資本を持っているということに過ぎない、というわけである。
 ただその次に述べてることがいま一つよく分からない。〈貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである〉というのだが、流通手段として役立つだけなら、それは現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶという表現は正確ではないからである。流通手段は特定の商品価値を貨幣に転化し、その貨幣を別の商品の購入に支出する、つまりW-G-Wを媒介するということてある。しかしこれは決して、現実の商品を一方の手から他方の手に運ぶわけではない。確かにある特定の商品はその価値を実現して、貨幣になる代わりに、その現実の商品の使用価値を購買者の手に渡す、このかぎりでは貨幣は一方の手から他方の手に商品を運んだと言えなくもない。しかし価値としては販売者は商品として持っていた価値を、ただ貨幣価値に転化したに過ぎず、彼は決して商品価値を手放すわけではなく、だからそれを人の手から他方の手に運ぶことはしないのである。だから「現実の資本」ということでマルクスは何を考えているのかということであろう。「現実の」というのはドイツ語ではrealかも知れないが、それはだから恐らく使用価値に関連したものと理解すべきであろう。

  (4)次は貸付である。

 〈貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は3つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。〉

 この一文はこれまでの考察にもとづけば基本的にはすでに解明しているといえる。貸付では、同じ価値をただ持ち手を変えているだけで、社会的にみても価値の増加や形成は何もないということである。それに対して一つの貨幣片が次々と商品を実現していくならば、その回数だけ、社会的には新た価値の実現形態なのであり、社会的にはそれだけ新しい価値が生み出されたことを意味しているわけである。貸付の場合は、その貸し付けられる貨幣が次々と人の手に渡っていったとしても、それは同じ資本を表すだけである。だからこの最後で言われているように、〈貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである〉。その点、スミスの引用文は購買と貸付を交互に行う例を上げている点で、正しい理解に立っていると言えるであろう。】


【33】

 A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言えるのであって,預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのである。

  ①〔異文〕「特殊的な」← 「きまった〔bestimmt〕」〉 (184頁)

 短い文章ではあるが、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈上記の引用のなかで、A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言い得ます。というのは,預金というのは,じっさいには,ただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかないからです。
 だからスミスの例を見てもお分かりのように、同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのです。〉

  【マルクスは〈A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言える〉と言っているので、われわれは、スミスの例を整理したものをまず再掲し、それを預金の場合に書き換えて比較することにしよう。まず、まずスミスの例〔Ⅰ〕は次のようであった。

〔Ⅰ〕
①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに1000£を貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに1000£を貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに1000£を貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 次にこれを銀行への預金が介在するケース〔Ⅱ〕に書き替えてみよう。

〔Ⅱ〕
①A(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Aが銀行に1000£を預金
①’銀行(1000£)-(貸付)→W(1000£)銀行が預金された1000£をWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Bが銀行に1000£を預金
③’銀行(1000£)-(貸付)-X(1000£)銀行が預金された1000£をXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Cが銀行に1000£を預金
⑤’銀行(1000£)-(貸付)-Y(1000£) 銀行が預金された1000£をYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 この両者を比較して分かることは、〔Ⅱ〕では、〔Ⅰ〕と同じように、A、B、C、Dがそれぞれ持っている1000£は、彼らが何らかの形で社会的に生み出した商品価値の実現形態であり、社会的には新たに生み出された価値である。それを今回は彼らはすべて銀行に預金するとしている(但しDの場合はそれは想定されていないのだが)。〔Ⅰ〕では、それらはWXYにそれぞれ貸し付けられたのであるが、〔Ⅱ〕ではその貸付に銀行が介在して行われたということであり、〔Ⅰ〕の場合、ABCDは何らかの貸付を示す債務証書を持っていたのが、〔Ⅱ〕ではそれは銀行預金の形で持っていることになっている。銀行は社会的に貸付資本を集中し、それを必要な資本に貸し付けているわけである。つまり銀行は貸し手に対しては、借り手を集中して代表し、借り手に対しては、貸し手を集中して代表する。社会的には4000£の価値が形成され(但し1000£は貨幣形態として)、そのうち3000£が消費され(1000£は貨幣形態で止まる)、預金は3000£形成された。他方、銀行にはWXYに対する合計3000£の債権が発生している。これは銀行にとって3000£の預金が彼にとっては債務であることに対応しているわけである。

   このパラグラフを含めた部分について大谷氏は次のように解説している(実際には【31】【32】【33】【34】パラグラフへの言及が含まれる)。

  〈これに関連してマルクスは,「貨幣が資本貸付で演じる役割〔d.Rolle,d.d.Geld im Capitalverleihen spielt」〕についてのA.スミスの記述を引用し,同じ貨幣がいくつもの商品資本の価値形態として機能しうること,そしてそのたびに「資本の価値定在」として貸し付けられる可能性があることを述べ,さらに,この貸付について言えることは,「公衆が銀行業者にたいして行なう貸付」である預金についても言える,として,『通貨理論論評』からの引用を行なっている。これによって明らかにされているのは,同じ貨幣片で何度も預金されることによって何倍もの架空な資本が形成される,ということである(MEGAⅡ/4.2,S.526-528;本書第3巻182-187ページ)。〉 (大谷本第2巻71頁)

   大谷氏は同じ貨幣片が商品価値を実現したあと第三者に貸し付けられること、それを借りた人物がその貨幣で商品を買い、それを売った人物がその売り上げによって得た貨幣をまた別の人に貸し付ける等々のスミスの説明とその貸付が預金に代わればその過程は同じ貨幣片が何度も預金されてそれに何倍もする預金が形成されたということであるが、しかしそのこと自体は決して大谷氏がいうように〈何倍もの架空な資本が形成される〉ということではない。
   なぜなら、ここで例えばAが1000£を銀行に預金した場合、Aはその1000£を何らかの商品を販売して得たものだとすれば、それは社会的に新たに形成された価値を表現しているものである。だからAがそれを預金した時点では、銀行にはその1000£が存在しており、それ自体は決して架空なものではない。それを銀行がWに貸し付けた時点で、Aの預金はただの帳簿上の記録になり、その時点で、初めてAの預金は架空なものになるのである。
   そしてその貸し出された1000£でWがBから財貨を買い、Bがその売上金1000£を銀行に預金した場合、この場合の預金もまた決して架空なものではないのである。なぜなら、それはBが自身が生産した商品を販売して得た1000£であり、そのかぎりでは新たな価値を表しているからである。やはりこの場合も、それが再び銀行によってXに貸し出された時点で、Bの預金は架空なものになるに過ぎない。
   同じことはXがCから財貨を買い、Cがそれを預金したものついても言いうるであろう。
  つまり預金はすぐに銀行によって利子生み資本として貸し出されて単なる帳簿上の記録だけになり、架空なものになるのであるが、少なくとも同じ貨幣片が何度も預金されることによって形成される預金そのものは、少なくともそれ自体としては、決して架空なものではないという認識が果たして大谷氏にあるのかどうかである。】


【34】

  〈245)246)「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである。{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の[528]総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった。預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ248)100ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ249)100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ250)100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(251)通貨理論論評……』,62,63ページ。)

  ①〔注解〕「争う余地なく」--『通貨理論論評……』では,「疑う余地なく」となっている。
  ②〔異文〕「{このことは,……からである。}}」--{ }(草稿では角括弧)で囲まれたここまでの部分には,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕
  ③〔異文〕「第1の場合 には 〔……〕にちがいない」という書きかけが消されている。
  ④〔注解〕『通貨理論論評……』では次のようになっている。--「通貨が300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,スコットランドの諸銀行にある預金は2700万ポンド・スターリングと見積もられている。……連合王国にあるすべての頂金が同時に引き出される……場合以外は……,連合王国の預金額にたいする貨幣の絶対的支配にいささかも影響しないであろう。……そして,この単純な理由で,一連の移転によって,確定できないような預金額にまで増大するという例にとられた同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。」

  245)〔E〕『通貨理論論評』からの以下の引用は,草稿319ページ(MEGA II/42,S.475.43-53u.476.35-36;本書第2巻186-187ページ)にもある。どちらも,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている(MEGA IV/8,S.173.34-174.14)。この両方の引用がどちらもノートVIIからそれぞれ別個に取られたことは,両者のあいだの句読点や省略箇所の違いから明らかである。現行版では,この同じ引用のドイツ語訳が,ここと第25章とでは少し違っている。ドイツ語訳の違いは,エンゲルスが同じ箇所からの引用であることに気づかないで,この二つの引用をそれぞれ独立にドイツ語にしたために生じたものであろう。
  246)以下の引用は,『通貨理論論評……』の原文では,マルクスの引用で省かれた部分を含めて,次のようになっている。
   It is unquestionalbly true that the £1000 which you deposit at A to-day may be reissued to-morrow,and form a deposit at B.The day after that,re-issued from B,it may form a deposit at C;and re-issued from C,may be again deposited at D,and so on to infinitude;and that the same £1000 in money may thus,by a succession of transfers,multiply itselfinto a sum of deposits absolutely indefinite.It is possible,therefore,that nine-tenths of all the deposits in the united kingdom may have no existence beyond their record in the books of the bankers who are respectively accountable for them:and no stronger evidence of such a probability could be adduced than the fact,that with a currency which,on the average,has never exceeded three millions,the deposits in the Scottish banks are estimated at seven-and-twenty millions sterling.It is also beyond doubt,that if all the depositors in Great Britain and Ireland were seized with a simultaneous impulse,and came as one man,and at the same moment of time,to demand their deposits back again,the demand could not be met,-no more than the public debt of England could have been raised in a single day,had all the money which has been in existence at any one time since the creation of the world,been put in requisition for the purpose.
   Nevertheless,nothing short of the contingency suggested,-a simultaneous withdrawal of all the deposits in the united kingdom,and therefore an impossibility,-would in the slightest degree affect the absolute command of money,to the amount of his deposit,which is enjoyed at all times by every depositor;and for this simple reason,that the same £1000 which has been instanced as multiplying itself,by one series of transfers,into an indefinite sum of deposits,would,if sent back upon its travels,cancel with the same facility a sum equally indefinite.As the same £100 with which you cancel your debt to a tradesman today,may cancel his debt to the merchant to-morrow,the merchant's debt to the bank the day following,and so on without end:so the same £100 may pass from hand to hand,and bank to bank、and cancel any conceivable sum of deposits.〔マルクスの引用はここまでの部分であるが,このパラグラフのこれ以降は次のようになっている。〕To go no farther,then,than the deposits of bankers,we are at once presented with a receptacle capable of containing a mightier volume of money,in its latent form,than has ever yet been accumulated in England;for if Scotland,with its currency of three millions,has enlarged its deposits to nine times that amount,what prodigious capacity of increase must exist in a currency like that of England,of sixty millions!(下線での強調は原書でのイタリックによる強調。)
  248)「100」--次注および次次注での「100」もそうであるが,草稿では『通貨理論論評……』の原文と同じくいずれも「100」となっているにもかかわらず,MEGAはこれを「1000」に変更しており,しかもこの変更を訂正目録に記載していない。エンゲルス版でも,3か所とも「1000」となっている。これは,すぐ前に「1000」という数字があるところから,マルクスの誤記と勘違いしたものであろう。もともとは『通貨理論論評……』そのもので,「1000」とあるべきところが「100」となっていたのだった。
  249)--前注を見よ。
  250)--前注を見よ。
  251)草稿では,『通貨問題論評,云々』と誤記されている。MEGAでは,テキストを訂正したうえで,その旨を訂正目録に記載すべきところであるが,誤記のままになっている。〉 (185-187頁)

  【このパラグラフは先のパラグラフでマルクスがスミスの例は預金にも妥当すると述べたものを受けたものと思われる。つまり今度は預金が同じ貨幣片で何倍も形成される例として、この引用文が紹介されているわけである。この『通貨理論論評……』からの引用文にはマルクスのものと考えられる比較的長い挿入文が{   }という括弧に括られて書かれているが、全体はほぼ引用からなるので、平易な書き下し文は省略する。われわれは最初からマルクスの挿入文も含めて、その順次どおりに、考察していくことにしよう。

 まず引用文の出だしは〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である〉というものである。これは確かに争う余地のない事実である。これについてマルクスは二つの場合のみが可能だとして次のように述べている。

 〈{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}

 われわれも二つのケースに分けて考えてみよう。

  【第Ⅰのケース】
   預金者が1000£をA銀行から引き出して、B銀行に預金する場合。この場合は、ただ預金がAからBに移っただけで、社会的には預金総額の増減はない。

  【第Ⅱのケース】
   A銀行が預金された1000£で手形を割り引いたり、あるいは彼の預金者(しかし今回の1000£を預金した以外の預金者)の振り出した小切手の支払に応じた場合で、A銀行で手形を割り引いてもらった人や小切手の支払を受けた人が、それぞれB銀行に預金した場合である。
   ただマルクスは手形割引の場合は、恐らくそれは現金の先取りだから、当然、それは第三者に支払われるか、何らかの必要なものの購買に当てられ、その支払いを受けた第三者がB銀行に預金するという過程を経るであろうとも指摘している。というのは手形をわざわざ割り引いて手にした現金を、また預金するようなものはいないからというのである。それなら別に利子を割り引かせてまで現金を先取りする必要はそもそもないからである。
   ただ次のようなことは考えられるのではないだろうか。つまり手形を割り引いて得た銀行券をそのまま預金するということはありうるのではないかと考えるわけである。これは実際上は帳簿信用と同じであるが、つまり銀行券の介在を必要としないのであるが、何らかの担保の代わりに手形を割り引いて、銀行から貸付を受け(手形貸付)、それを預金としたものである。ただこの場合は、当然、新たに預金を設定した人にとってはとにかく現金を先取りしたいのだから、すぐにその預金に引き当てて小切手を切り、支払うので、その預金は忽ち無くなることは十分にありうることである。
 いずにれよ、マルクスが考察している二つのケースを考えてみると、【第Ⅰのケース】は、預金額の増減はまったくないが、【第Ⅱのケース】は、預金額は倍増していることがわかる。

 引用文の続きである。

  〈それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。〉

  しかしこうしたことが言いうるのは、マルクスが指摘した 【第Ⅱのケース】のみである。【第Ⅰのケース】では同じ預金がただ持ち手を変えているだけで社会的にはまったく預金額そのものの増加はないからである。そして【第Ⅱのケース】というのは、【33】パラグラフで考察したように何らかの商品の購買が介在している場合である。預金は確かに何倍にもなるが、しかし、それは実際に社会的にはそれだけ新たに生み出された商品価値が存在していることを前提しているからであり、その実現形態としての貨幣が新たな預金を生み出しているということである。これはマルクスが預金を現金でなされるものに限定していることと同義であると考えられる。ただ預金の場合は、それが直ちに銀行から貸し出されることによって、次々とそれらは単なる帳簿上の記録になってしまい、架空化するということである。だから〈何倍もの預金額となる〉というのは、あくまでも帳簿上に記録として残っている預金額が何倍にもなるということでしかない。
   今、商品価値を実現した貨幣所持者aが1000£を銀行に預金したとすると、すぐに銀行はその預金1000£を別の人に貸し出す。だからaの預金はその時点で架空化し、単なる帳簿上の記録に化す。そしてその貸付を受けた人Wが別の商品の購買のために支払ったとすると、その支払いを受けた人bが、やはりそれを銀行に預金するわけである。するとこの場合、預金は帳簿上は2000£と2倍になっている。しかし現金として存在する貨幣額は1000£のみである。
   ここで注意が必要なのは、第一に、その2000£は明らかにaとbのそれぞれの商品価値の実現形態で、だから現金として銀行に預金されて生じていることである。しかし第二に、aの預金そのものはすでに銀行にはなく架空化しており、しかしaにとっては彼の商品価値の実現形態は依然として銀行にあると考えているわけである。同じような過程を辿れば、同じ1000£が確かに何倍もの預金になることは明らかであるが、しかしそれは同じ貨幣片が次々と商品を実現して、総額として何倍もの商品価値を実現できるのとまったく同じことである。ただ預金の場合は、最後に行われてまだ銀行に残っている預金1000£の場合だけはともかく、そのすべては架空なものでしかなく、銀行の帳簿上に記載されているだけの存在でしかないということである。

   その次からは引用文に短いメモ書きを挿入していくだけにする。〈それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。〉 この〈総額の10分の9〉を差し引いた10分の1は要するに準備金であろう。〈……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉ここで〈通貨〔currency〉というのは実際に流通している現金(すなわち金貨と銀行券)の総額を意味している。これはまあ流通必要金量を代理しているものと言えるだろう。そして〈預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉というのは単なる帳簿上の記録に過ぎない。しかし、その預金に対して小切手が切られ、膨大な取り引きが決済されているわけである。混乱した現代のマルクス経済学者たちはこの2700万£をも「預金通貨」なる用語で呼んで、「通貨」の一部に加えるわけである。しかしこの引用文の匿名の著者は賢明にもそうした間違いに陥っていない。預金は、単なる帳簿上の記録でしかないということを明確に理解している。
   残りは一まとめに検討しておこう(100£は1000£に修正)。

 〈預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ1000ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。〉

 この一文は必ずしも明瞭ではない。まず〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのが何なのかがハッキリしないことである。それは預金なのか、それとも別の現金なのかがハッキリしないのである。次に〈逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる〉というのもハッキリしない。〈逆の道〉というのはどの道なのか、〈〉というのはどういうことなのか、ということである。しかし細かいことを色々と考えていてもしようがない。ただ最後の部分〈限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである〉と述べていることである。これを見るかぎり〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのは〈同じ1000£紙幣片〉と考えてもよいように思う。そして〈人手から人手へと〉というのは、それが支払手段か購買手段として機能して、人の手を渡っていくことを表し、〈銀行から銀行へと渡っていって〉というのは、それらが色々な銀行に預金となり、且つそれらが決済されていくことを述べているように思う。〈考えられうるどんな預金額でも決済することができる〉というのは、そうして決済された預金額というのは、同じ1000£の銀行券片が形成したものだが、しかしそれは一定の期間をとれば大きな額に達するのだということであろう。
  ただここで述べられていることは、同じ1000£の銀行券片が介在して形成された銀行預金が、帳簿上の記録としてさまざまな債務を決済するのに利用され得るということそのものは直接には問題になっていないような気がする。帳簿上の記録はまったく架空なものに過ぎないのに、銀行にとっては一つの貨幣資本であり、彼らはそれらの決済手続きに対して手数料を稼ぐのである。

  (【34】パラグラフの途中であるが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

 

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