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2022年7月

2022年7月28日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-14)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-14)



  (以下は、【34】パラグラフの解読の続きです。)

  大谷氏は訳注245)で同じ引用が第25章該当部分の原注2)として引用されていることを指摘し、同訳注246)で、『通貨理論論評……』の原文を英文で紹介している。しかし大谷本第2巻の原注2)の注解では『通貨理論論評』の原文が邦訳されて紹介されているので、それを参考のために紹介しておこう(【   】で囲った部分はマルクスが省略している部分である)。

  〈① 〔注解〕『通貨理論論評』の原文では次のように書かれている。「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日は払い出されてBへの預金になるというのは,疑問の余地なく本当のことである。それはその翌日にはBから払い出されてCへの預金になるかもしれない。そしてCからふたたび払い出されてDへの預金になるかもしれない,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金金額になることがありうる。それゆえに,連合王国にあるすべての預金の10分の9が,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されている預金の記録以外には存在しない,ということもありうるのである。【そして,そのようなことが生じうることの証拠としては,次の事実よりも強力な証拠はない。すなわち,】スコットランドの銀行では,通貨は平均して300万ポンド・スターリングを越えたことがないのに,預金は2700万ポンド・スターリングだった,という事実である。【……それにもかかわらず,いま想定してみたような不慮の事態--連合王国のすべての預金が同時に引き出されること,だからまたおよそ起こりえないこと--以外は,預金者のすべてがどんなときにも享受している連合王国の預金の額まで,貨幣を無条件に使えることにごくわずかの程度にさえ影響することはないであろう。そして,】この単純な理由で,一連の移転によって無限の金額の預金にまで自己自身を増やすことの例として挙げた同じ1000ポンド・スターリングが逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日あなたがある小売商人にたいするあなたの債務を決済するのに用いられたその同じ100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商入の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えうるどんな預金額でも決済することができるのである。」〉 (大谷本第2巻187-188頁)

 小林氏もこの部分を翻訳引用している。参考のために紹介しておこう。

  〈そして「A.スミスが貸付について一般的に述べていることは,預金……についても妥当する9)」として,マルクスは同一貨幣片によるその何倍もの預金の形成と,その預金による債務決済についての,次の匿名の著書からの引用を掲げ,「銀行業者の資本」の主要部分を占めている預金の「架空な」実態を示そうとする。即ち,「あなたが今日A行に預金する1000ポンド[の銀行券]が,明日再発行され(reissued)[銀行券で引出され],そしてB行で預金を形成する*ということは疑いもなく真実である。その翌日にB行から再発行されて,それ(1000ポンドの銀行券)はC行で預金を形成するかもしれない,……等々無限に。貨幣での同じ1000ポンドが,一連の移転によって,このように絶対的に無限の預金額に自らを倍加しうること[も疑いもなく真実である。]それゆえ連合王国における全預金の10分の9が銀行業者達の帳簿におけるそれら記録--彼らはそれぞれそれら[帳簿上の記録]に責任をもたなければならないが--の他には存在しないかもしれないということは可能である。〈このような蓋然性についての次の事実以上により有力な証拠は加えられ得ないであろう,即ち〉平均的には3百万スターリングを決して越えることのない通貨をもってしても(with a currency,which…),スコットランドの銀行の預金は27(seven-and-twenty)百万スターリングと見積もられているという事実である。〈もしもグレート・ブリテンとアイルランドの全預金者が同時的な衝動に駆られ,彼らの預金の払戻を請求するために,一斉にそして同じ時に[銀行に]やって来たとすれば,請求は応じられえないであろう。… 〉/〈にもかかわらず,示唆されている全くの偶発事--連合王国における全預金の同時的引出し,そしてそれゆえ1つの不可能事--は,各預金者によって何時でも享受される,彼の預金額までの,貨幣の絶対的支配にはほんの少しも影響を及ぼさないであろうに。そして〉この単純な理由から,一連の移転によって自分自身を無限の預金額に倍化することの例として挙げられていた同じ1000ポンドが,もしその行程を送り返されるならば,同じ容易さで等しく無限な額を相殺する(cancel)であろうに。あなたがそれをもって今日1事業家(trades man)に対する負債を相殺する同じ100ポンドが,明日は商人(merchant)に対する彼の負債を相殺し,その翌日にはその商人が銀行に対するその商人の負債を相殺する,等々が無限に続く。そこで同じ100ポンドが手から手に,銀行から銀行へと渉ってゆき,そして考えられうるいかなる預金をも相殺する10)」,と。〉 (415-416頁)

   なお注10)によれば〈引用文の括弧〈  〉の中は,マルクスが省略している箇所である。また引用文中の最後に挙げられている数字例について,マルクスは「同じ1000ポンド」としているが,「同じ100ポンド」の誤りである。なお文中の*印は,著者(小林)が付したものである。〉(417頁)ということである。

   このように小林氏の引用ではマルクスの挿入文が省略されている。だからそれをそのあと次のように紹介している。

  〈またマルクスは手稿の「Ⅱ)」で,『通貨理論評論』のこの同じ箇所を引用するにあたって,引用文中*印を付した箇所--「……B行で預金を形成する*……」--の後に,括弧〔  〕に入れて,次の解釈を挿入している。「このことは次の2つのケースでのみ可能である。[①]預金者が1000ポンドをB行に預金するために,A行からそれを引出すか。その場合1000ポンドによって1つの預金だけが想定されていれば,いまやA行に代ってB行に[預金するということになる。][②]あるいは,A行が例えば手形の割引,またはA行宛に振出された小切手等の支払に(単に1000ポンドの預金者[自身]によってというのではない),1000ポンド[の銀行券]を発行するか。そしてその場合には,受取人〔手形を割引く場合ならば,1つの購買によってかあるいは第3者への支払によって媒介される。なぜなら誰も受領した貨幣を預金するために割引くことはしないからである〕は,1000ポンドを再び別の銀行に預金する[ということになる]12)」,と。〉 (417頁)

   マルクスの挿入文をただ紹介しているだけであるが、われわれは大谷氏の翻訳文を知っているから分かるが、それがないとなかなか分かりづらい文章である。これらはただ紹介するだけである。というのは小林氏自身もこれらについて自身の見解をほとんど述べていないからである。
   このあと小林氏は〈手稿「Ⅲ):続き」後段での「架空性」論〉へと論を進めているが、これは大谷氏の著書では、〈第30-32章の草稿〉で問題になる部分であり、だからわれわれとしては、その検討が課題となるところで問題にしたいと思う。】


【35】

  〈この信用システムでは,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのであるが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える。〉 (187頁)

   これも短い文章であるが、平易な書き下し文を書いておく。

  〈この信用が支配する社会では,すべてものが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化するのですが,人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言えるのです。〉

  【すでに銀行の準備ファンドの架空性については、【28】パラグラフで論じている。ここからはそれがイングランド銀行券(中央銀行)に集中されること、しかもそれも架空なものになっていることを指摘することが課題であるように思える。今回のパラグラフは、次の【36】パラグラフの前ぶりとも言える。しかしとりあえず、このパラグラフの内容を簡単に確認しておこう。ここではまず二つのことが指摘されている。

 (1)一つは〈この信用システム〔Creditsystem〕では,すべてが2倍にも3倍にもなって,たんなる幻想の産物に転化する〉ということ。
 (2)次に〈人々がやっとなにか確かなものをつかんだと思う「準備ファンド」についても同じことが言える〉ということ、つまりそれらもやはり〈幻想の産物に転化する〉ということである。
   こうしたことを確認して、次のパラグラフに移ることにしよう。

   ただその前に、この部分の小林氏の翻訳を紹介しておこう。氏は独特の解釈のもとに次のように紹介している。

  〈ところで,「銀行業者の資本」の「架空性」の第③の点--即ち,「公衆」である預金者と預金の受手である市中銀行との関係でいわれていた,貨幣ないし資本の「請求権化」による「同じ資本の2倍化・3倍化」という「貨幣資本なるもの」の「架空化」--は,市中銀行と中央銀行との間についてもいえる,とマルクスは言う。それを彼は次のように表現する。「この信用制度(Creditsystem)の下では,すべてのもの[資本]が2倍化され,3倍化され,そして単なる幻影物(Hirngespinst)に転化するように,それはまた,人がやっと何か確かなものを掴んだと信じている『準備ファンド』にも,妥当する1)」と。〉 (420頁)

   このように小林氏も今回のパラグラフからは中央銀行の準備ファンドの架空性についてマルクスは論じようとしていると捉えている。そしてそのあと小林氏は次の【36】パラグラフの内容を紹介しながら自身の主張を展開しているのであるが、それについては次のパラグラフの解読のなかで検討していくことにしよう。今回はただ氏のこのパラグラフの翻訳文を紹介するだけにする。】


【36】

  モリス(253)イングランド銀行総裁)。--「254)私営銀行業者たちの準備預金の形態でイングランド銀行の手のなかにあります。①256)流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えますが,しかしそれはまた,私営銀行業者たちの準備にも影響を及ぼすでしょう。というのは,それは,彼らがイングランド銀行のなかにもっている準備の一部分の引き出しなのだからです。まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう。」(『商業的窮境』,1847-48年。〔第3639号および第3642号。〕)だから,結局,現実の「準備ファンド」はイングランド銀行の「準備ファンド」に帰着するのである。261)しかし同行では,この準備ファンドがこれまた「二重化」される。銀行部の「準備ファンド」は,イコール,同行が発行の権限をもっている銀行券〔のうちの〕流通のなかにある銀行券を越える超過分,である。銀行券の法定最高限度は,イコール,1400万〔ポンド・スターリング〕 (これには地金準備は不要であって,イコール,同行に対する国家の債務である)・プラス268)・同行の地金保有高である。だから,もしこの保有高がたとえばイコール1400ポンド・スターリングならば,同行は2800万ポンド・スターリングの銀行券を発行するのであって,もしそのうち2000万が流通しているなら,銀行部の準備ファンドはイコール800万である。この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕であり,また同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもある。ところで,地金の流出が生じて,そのために金保有高がたとえば600万だけ減少するとすれば(その代わりに同額の銀行券が廃棄されなければならない),銀行部の準備は800万から200万に減少するであろう。一方では,同行はその利子率を大幅に引き上げるであろう。他方では,同行に預金していた銀行業者{およびその他の預金者}は,同行にたいする彼ら自身の貸し勘定のための準備ファンドが非常に減少していることを知るであろう。1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法281)を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),[529]銀行部が破産することがありうるのである。しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である。|

  ①〔注解〕「流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えます」--『〔商業的窮境〕……第1報告』では,「流出の作用は,最初は,イングランド銀行への作用のよう見えます」,となっている。
  ②〔注解〕「まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう」--『〔商業的窮境〕……第1報告』では,「金の流出は国中いたるところのすべての銀行業者の準備に影響するでしょう」,となっている。
  ③〔異文〕「同行は〔……〕〔発〕行する〔Die Bank giebt〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「最高限度」← 「発[行高]」
  ⑤〔異文〕「1400」← 「1200」
  ⑥〔異文〕「2800」← 「2600」
  ⑦〔異文〕「2200」← 「2000」〔MEGAでは,異文目録にこのような異文を記載し,テキストでは「2200」としている。しかしここは,エンゲルス版でのように「2000」とあるべきところである。〕
  ⑧〔異文〕「800」← 「600」
  ⑨〔異文〕「800」← 「600」
  ⑩〔異文〕「600」← 「400」
  ⑪〔異文〕「800」← 「600」
  ⑫〔異文〕「一方では」という書きかけが消され,さらに「もちろん地金輸出者たちは白分の銀行業者のもとにある預金にあてて〔……〕振り出す」という書きかけが消されている。〔そのあとであらためて「一方では」と書いた。〕
  ⑬「注解〕「1844年の銀行法」--〔MEGA II/4 .2の〕473ページ32行への注解を見よ。〔ここで指示されている注解では,「この銀行法について,エンゲルスは次のように書いている」として,エンゲルス版「第34章 通貨原理と1844年のイギリスの銀行立法」のなかでエンゲルスがこの銀行法について書き込んだ部分を引用している。エンゲルスによるこの書き込みは,本書第2巻213-215ページの「補注 1844年の銀行立法についてのエンゲルスの解説」に収めてある。〕
  ⑭〔異文〕「1847年」← 「1848年」
  ⑮〔異文〕「1847年には」← 「当時は」
  ⑯〔異文〕マルクスはこの〔339〕ページの末尾にあとから「この点についての続きは,2ページあとの+以下のところを見よ。」という指示を記した。実際に340aページに+というしるしがあるので,そこの本文をここにもってきておく。〔草稿の340ページの次のページにはページづけがない。MEGAは[340a]というページ番号をつけている。〕

  253)「イングランド銀行」--MEGAでは強調されていない。見落としであろう。
  254)『商業的窮境』では次のとおり。--「第3639号。〔ウィルスン〕私が言っているのは1844年以前の時期のことです。私営銀行業者たちの準備はイングランド銀行が預金のかたちで保有していますね。〔モリス〕そうです。」
  256)『商業的窮境』では次のとおり。--「第3642号。〔ウィルスン〕それでは,金流出が生じたなら,それがまず第1に作用するのは,もっぱら,イングランド銀行の準備にたいしてなのではありませんか。なぜなら,私営銀行業者の準備が引き出されれば,この業者はイングランド銀行に行って,イングランド銀行から自分の預金の一部分を引き出さなければならないからです。ですから,金輸出の全影響はまず第1にイングランド銀行への影響として現われるでしょう?〔モリス〕それはイングランド銀行への影響として現われるでしょう。しかしまたそれは,彼らがイングランド銀行にもっている準備の一部分の引き出しなのですから,銀行業者たちの準備にも作用することになるでしょう。〔プレスコト〕それはすべての地方の全銀行業者ならびにロンドンの銀行業者の準備に作用するでしょう。」
  261)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。
  「こういうことがその後さらに進んでいるということは,1892年12月15日付の『デイリ・ニューズ』紙所載の公報に見られる,1892年11月のロンドンの15大銀行の,次のような銀行準備勘定に示されている。
          銀行名                 負債   現金準備    百分比
                             
シテイ                        £ 9317629 £ 746551  8.01
キャピタル・アンド・カウンティーズ          〃11392744 〃1307483 11.47
インペリア                     〃 3987400 〃 447157 11.21
ロイズ                       〃23800937  〃2966806 12.46
ロンドン・アンド・ウェストミンスター        〃24671559  〃3818885 15.50
ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン        〃 5570268 〃 812353 13.58
ロンドン・ジョイント・ストック           〃12127993  〃1288977 10.62
ロンドン・アンド・ミッドランド           〃 8814499 〃1127280 12.79
ロンドン・アンド・カウンティ            〃37111035  〃3600374  9.70
ナショナル                     〃11163829  〃1426225 12.77
ナショナル・プロヴィンシアル            〃41907384  〃4614780 11.01
パーズ・アンド・ジ・アライアンス          〃12794489  〃1532707 11.93
プレスコット・アンド・カンパニー          〃 4041058 〃 538517 13.07
ユニオン・オブ・ロンドン              〃15502618  〃2300084 14.84
ウィリアムズ・ディーコン・アンド・マンチェスター 〃10452381  〃1317628 12.60
---------------------------------------
  計                       £232655823 £27845807 11.97

  この約2800万の準備のうち,どんなに少なく見積もっても,2500万はイングランド銀行に預金されており,せいぜい300万が現金で15の銀行自身の金庫のなかにある。ところが,イングランド銀行の銀行部の現金準備は,同じ1892年11月には1600万に達したことは一度もなかったのである!--F.エンゲルス」
  上の表の数字は1894年版でのものである。MEW版では,「百分比」の数字のうちインペリアルのそれが「ll.22」に,ロンドン・アンド・サウス・ウェスタンのそれが「14.58」に,パーズ・アンド・ジ・アライアンスのそれが「11.98」に,それぞれ修正されている。これは,出所である1892年12月15日付の『デイリ・ニューズ』紙所載の公報によって訂正した数字であった。
  268)草稿では,ここに,不要の「銀行券=」という記載がある。
  281)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記しないで,彼による次の脚注がつけられている(1894年のエンゲルス版では,エンゲルスによるものであることがわかるようになっていなかった)。--「1844年の銀行法の停止は,イングランド銀行が自己の手中にある金蓄蔵貨幣による保証を顧慮しないで任意の額の銀行券を発行することを許すものである。つまり任意の額の紙製の架空貨幣資本を創造し,これで諸銀行や手形ブローカーに前貸をし,またこれらの手を経て商業に前貸をすることを許すのである。」なお,現行版では,{  }で囲むことによって挿入であることが示されているが,末尾にエンゲルスのイニシアルはつけられていない。
  284)「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう。〉 (187-192頁)

   このパラグラフは前半は議会証言からなっているが、途中からマルクスの文章が最後まで続いているので、議会証言の部分はそのままにして、マルクスの文章を平易に書き下してみよう。

  モリス(イングランド銀行総裁)。--「私営銀行業者たちの準備預金の形態でイングランド銀行の手のなかにあります。流出の最初の作用はただイングランド銀行だけに及ぶように見えますが,しかしそれはまた,私営銀行業者たちの準備にも影響を及ぼすでしょう。というのは,それは,彼らがイングランド銀行のなかにもっている準備の一部分の引き出しなのだからです。まったく同様に,それはすべての地方銀行の準備に影響するでしょう。」(『商業的窮境』,1847-48年。〔第3639号および第3642号。〕)

   だから,私営銀行業者たちの準備はイングランド銀行の手のなかにあるわけだから,結局は,すべての現実の「準備ファンド」はイングランド銀行の「準備ファンド」に帰着するということです。
   しかしイングランド銀行では,この準備ファンドがこれまた「二重化」されます。すなわち一つは銀行部の準備ファンドとして、もう一つは発券部の準備ファンド(地金)としてです。
   まず銀行部の「準備ファンド」は,同行が発行の権限をもっている銀行券のうちの流通のなかにある銀行券を越える超過分になります。
   例えば銀行券の法定発行限度額は,1400万ポンド・スターリング(これには地金準備は不要であって,国債を担保にしたものです。すなわち同行に対する国家の債務です)に同行の地金保有高がプラスされたものです。だから,もしこの地金保有高がたとえば1400万ポンド・スターリングならば,同行は2800万ポンド・スターリングの銀行券を発行することになるのです。そして,もしそのうち2000万が流通しているのでしたら,銀行部の準備ファンドは800万ということになります。この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕というわけです。それは同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもあります。
   ところで,地金の流出が生じて,そのために発券部の地金保有高がたとえば600万だけ減少するとしますと、その分だけ同行の銀行券が廃棄されなければなりません。そうすると流通している銀行券の2000万に変化がないとすれば、銀行部の準備は800万から200万に減少するでしょう。だから同行は、一方では,貸出利率を大幅に引き上げることになります。他方では,同行に預金していた銀行業者{およびその他の預金者}は,同行にたいする彼ら自身の貸し勘定のための準備ファンドが非常に減少していることを知ることになります。
   1857年の恐慌時に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法を停止する「政府書簡」を政府に要求しなければ,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどかしました。しかしもしそれをやられたなら,銀行部は破産していたでしょう。だから,1847年のように(この恐慌時にも「政府書簡」が出されるという予告があっただけで、信用が回復して切り抜けられたのですが),流通銀行券の兌換性の保証として発券部には800万ポンド・スターリングの地金がありながら,銀行部が破産寸前まで行くことがありうるのです。だからイングランド銀行の準備ファンドも、やはり幻想的なものなのです。〉

 【ここでは、マルクスは準備ファンドが幻想の産物に転化することについて、次の二つのことを指摘しているように思える。

  (1)一つは私営銀行業者たちの準備ファンドはイングランド銀行の手にあるのであって、だから私営銀行業者の手にはないということである。この限りで私営銀行業者たちの帳簿に記されている準備ファンドはもはや幻想化しているといえる。
  われわれはすでに第28章該当部分の草稿のなかで、マルクスが次のよう論じていたことを確認している。

  〈{なお,私はすでに以前に,国際的な支払のための準備ファンドとして集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておいた。〔}〕もっとも,次のことによって紛糾の種がはいりこんでくる。すなわち,この準備ファンドが同時に銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つということによって,すなわち,私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能,つまり支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンドとしての,通貨〔currency〕の準備ファンドとしての,最後に世界貨幣の準備ファンドとしての,蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,さらにそのうえに,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに,1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである。〉 (大谷本第3巻129-131頁)

   つまりここでマルクスが指摘しているように〈1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中〉とともに〈2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〉が生じるのであり、その限りでは地方の私営銀行業者たちの準備ファンドは、彼らがバラバラにそれを持っていたものと比べると、イングランド銀行に集中されたものは極めて小さくなっているのであり、その限りでは当初の準備ファンド全体(つまり私営銀行業者たちのそれぞれの帳簿上で準備ファンドとなっている部分)そのものは幻想化していると言えるであろう。

  (2) 次に私営銀行業者たちの準備ファンドを集中し、代表しているイングランド銀行の準備ファンドそのものが今度は二重化することが指摘されている。
   1844年のピール銀行条例によってイングランド銀行は、発券部と銀行部という二つの部局に分割された。それによってイングランド銀行の準備ファンドも二重化することになったのである。
   一つは発券部の準備ファンドである。これは同行の保有する地金であり、これがそもそも一国のすなわちイングランドの現実的な準備ファンドなのである。もちろん部分的には銀行部にも若干の金・銀鋳貨の準備があるし、地方の私営銀行業者たちもそれぞれ多少の鋳貨を準備し、私人が所蔵する蓄蔵貨幣もあるが、しかし一国の現実の準備ファンドとしては、中央銀行の金庫中に眠る地金によって形成されているのである。この地金は国際的な諸支払いの準備であり、同時に同行の発行する銀行券の兌換保証でもある。上記のマルクスの一文で〈信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられる〉と述べているが、これが発券部の準備ファンドの機能の一つである。
   発券部は条例によって、流通に必要な最低限として1400万ポンドの銀行券を無準備で(国債などを担保に)発行することができる(だからこの部分は同行に対する国家の債務であるとマルクスは指摘している)。そしてそれにプラスして、その時の地金準備高に等しい銀行券の追加発行が可能であるとしている。しかしそもそも銀行券というのは銀行の信用だけにもとづいて発行される支払い約束証書(つまり手形)である。だからここで担保としての国債や地金というものは、ただ信用の限度を表すものでしかないわけである。
   マルクスはもし地金が1400万ポンドであるとしたら、発券部は2800万ポンドの銀行券を発行することになり、そのうち実際に流通しているものを2000万ポンドと想定するなら、残りの800万ポンドが銀行部の準備ファンドになると述べている。
   つまりこれがイングランド銀行のもう一つの部局である銀行部の準備ファンドなのである。
   ただイングランド銀行の準備ファンドが、このように発券部と銀行部の二つの準備ファンドになったということそのものが、すでに一つの〈幻想の産物〉になったことを意味している。なぜなら、現実の準備ファンドとしては発券部の地金としてしか存在していないのに、発行された銀行券の一部が銀行部の準備ファンドになっているからである。だから全体としてはイングランド銀行の準備ファンドはその時点ですでに一部は幻想的なものになったといえるであろう。
   さらに上記のマルクスの例で考えてみると、社会の準備ファンドを集中しているイングランド銀行の準備ファンド全体は帳簿上合計1400万ポンドの地金+800万ボンドの銀行券=2200万ポンドとなる。それに対して実際に流通している銀行券は2000万ポンドである。
   ところが、発券部の地金の一部が国外に流出してその地金保有高が1400万から600万減少して800万になり、発券部の銀行券の発行限度額もその分だけ減って、2800万から2200万になる。だからもし流通している銀行券2000万に変化がないとすれば、銀行部の準備ファンドは200万になり、極めて少なくなってしまう。この時点でのイングランド銀行の準備ファンド全体は、発券部の準備800万+銀行部の準備200万=1000万である。確かに現実の準備ファンドは1400万から800万に減少したが、しかしこの限りではイングランド銀行の準備ファンドは、まだまだ十分だといえる。
   しかしマルクスが準備ファンドの諸機能として述べている上記の説明のなかで、〈支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンド〉と〈通貨〔currency〕の準備ファンド〉、そして〈預金にたいする保証として役立つ〉ものは、銀行部の準備ファンドの役割なのである。それ以外の銀行券の〈兌換保証ファンド〉と〈世界貨幣の準備ファンド〉は、発券部の準備ファンドが担うことになる。つまりこのようにイングランド銀行の準備ファンドが二重化することによって、本来準備ファンドが果たさねばならない機能も二重化し、分裂することになるのである。
 そしてマルクスが〈蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに,1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである〉と指摘していることがまさに生じていることが分かる。
   すなわち発券部の地金流出という〈国外への流出〉が国内の準備ファンドを減らすことに結びつき、預金の準備ファンド(これは銀行部の準備ファンドが担う)の減少という事態をもたらし、深刻な信用不安を生じさせることになるのである。
   イングランド銀行としての準備ファンドはいまだ1000万ポンド(地金800万+銀行券200万)と十分にあるにも関わらず、しかし信用システムの中軸としての役割を果たす準備ファンドはたった200万ポンドでしかなくなる、という事態を生じさせている。その意味ではイングランド銀行の準備ファンドもこの限りでは幻想的なものになっているといえるであろう。

   大谷氏は〈しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である〉という最後の一文の〈このこと〉に訳者注284)を付け、次のように述べている。

   〈284)「このこと〔dieß〕」--これは,発券部にある地金が流通銀行券の兌換性の保証となっている,ということであろう。〉 (191頁)

   この是非を考えるために、その前のマルクスの記述を見てみることにしよう。

  〈1857年に4大株式銀行は,もしイングランド銀行が,1844年の銀行法を停止する「政府書簡」をせびり取らないなら,自分たちの預金を引き上げる,と言っておどした。もしそれをやられたなら,銀行部は破産していたであろう。だから,1847年のように,流通銀行券の兌換性の保証として地金部〔発券部〕には何百万〔ポンド・スターリングの地金〕がありながら(たとえば1847年には800万〔ポンド・スターリングの地金〕があった),銀行部が破産することがありうるのである。しかし284)このことも,これはまたこれで幻想的である。〉

   もし大谷氏の指摘するように〈このこと〉が〈発券部にある地金が流通銀行券の免換性の保証となっている,ということ〉であるなら、〈しかし〉ではなく「だから」となるべきではないだろうか。そもそもここでマルクスが問題にしているのは、私営銀行業者たちの帳簿上の準備ファンドが中央銀行に集中されることによって幻想的なものになることと、その集中されたイングランド銀行の準備ファンドも帳簿上では幻想的なものになることを指摘することではないだろうか。イングランド銀行の準備ファンドは、1844年の銀行条例以降によって二重化する。現実の準備ファンドは、発券部にある地金である。しかし帳簿上では、その準備ファンドは、銀行部の準備ファンドも含めたものになるわけである。しかも預金の準備保証になるのは、銀行部の準備ファンドであり、それが地金流出によって減少して信用不安を引き起こすのである。だから私はここでマルクスが〈このこと〉と書いているのは、それまでの叙述を受けたものと考えて、〈だからイングランド銀行の準備ファンドも、やはり幻想的なものなのです〉と平易な書き下し文では書いたのである。
   また大谷氏は大谷本第2巻の〈8 「架空資本」の意味〉において、このパラグラフについて次のように解説している。

  〈一つは,私営銀行の準備ファンドは中央銀行への預金となっているが,中央銀行ではこれまた無準備の債務となっていること,一つには,1844年の銀行法によるイングランド銀行の二部門分割によって「準備ファンド」がこれはまたこれで「二重化」されるが,「これはまたこれで幻想的である」(MEGA II/42,S.528-529;本書第3巻189-191ページ)ということ,この二つの架空性が示されている。〉 (大谷本第2巻71-72頁)

   私営銀行の準備ファンドが中央銀行に預金されるが、その預金そのものは中央銀行で〈無準備の債務となっていること〉に大谷氏は準備ファンドの架空性を見ているのであるが、果たして私営銀行の中央銀行への預金が無準備になっているといえるのかどうかである。それが言えるためには、中央銀行に集中された準備ファンドが必要最小限に縮小されることが言われる必要があるのではないか。
   またここではイングランド銀行の準備ファンドが二部門分割によって「二重化」されることそのものが、〈「これはまたこれで幻想的である」〉とマルクスの一文を引いて説明されているが、これはこの限りでは極めて大雑把といわざるを得ない。

  (【36】パラグラフの途中ですが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

2022年7月21日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-13)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-13)



【31】

 |339上|アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている。--
 「とはいえ,金融界〔monied interest〕にあってさえも,貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない。それらの資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう。すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである。たとえば,AがWに1000ポンド・スターリングを貸し付け,WがこれですぐにBから1000ポンド・スターリングに値する財貨を買う。B自身はこの貨幣を必要としないので,彼は同一の諸貨幣片をXに貸し付け,XはこれですぐにCから1000ポンド・スターリングに値する別の財貨を買う。同じやり方で,また同じ理由からCはその貨幣をYに貸し付け,YはまたそれでDから財貨を買う。このようにして,鋳貨であれ紙幣であれ,同一の諸貨幣片がわずかな日数のあいだに,別々の三つの貸付と別々の三つの購買との用具として役立つことがあるのであって,これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しいのである。A,B,Cという3人の金持ち〔monied men〕がW,X、Yという3人の借り手に譲渡したものは,これらの購買を行なう力である。この力こそ,貸付の価値でもあれば効用でもある。この三人の金持ちが貸付ける資本〔stock〕は,それで買うことができる財貨の価値に等しく,これらの購買に用いられる貨幣の価値の3倍の大きさである。それにもかかわらず,これらの貸付はすべてまったく完全に[527]保証されているであろう。というのも,それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用されるのだからである。こういうわけで同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである。」 (『諸国民の富』,第2篇第4章。)

  ①〔注解〕アダム・スミス『諸国民の富』,アバディーン,ロンドン,1848年,236ページ〔大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,岩波書店,1,1969年,551-552ページ〕。〉 (182-183頁)

  【このパラグラフは本文であるが、ほとんどがスミスからの引用なので、平易な書き下し文は省略する。ただ確認すべきは、マルクスが〈アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている〉と述べていることである。つまり〈貨幣が資本貸付で演じる役割〉、すなわち貨幣が利子生み資本として貸し付けられる場合に演じる役割を、マルクスはスミスの一文の中に見ているということである。
   スミスがここで〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉と述べているのは、スミスが流通を消費者と商人との間の流通と、商人と商人との間の流通に分け、後者で流通する貨幣を資本の移転を媒介するものとして「資本」と呼んでいたのに対応している。つまりそうした流通とは別に〈金融界〔monied interest〕にあってさえも〉商人と商人との間の流通だけではなく、この場合にも〈貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない〉と言いたいのである。
   そしてスミスはしかし金融界における〈資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう〉と述べ、〈すなわち,同一の諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである〉として具体的な例を挙げて説明している。

  われわれはスミスの具体例を挙げた一文を理解するために、その例を整理して図示してみよう。

①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 同じ貨幣片が別々の三つの貸付(①③⑤)と購買(②④⑥)に役立った。そしてスミスはここから〈これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しい〉という。しかし、考えてみよう。社会的には価値としては最初の1000£の貨幣(これは最終的にDが自身の商品を売って所持することになる)とB、C、Dが持っていた(つまり彼らが何らかの形で社会的に生み出したであろう)財貨の価値、すなわち3000£である。つまり社会的には価値としては4000£存在したことになる。AはWの支払約束証書を持っているとする。同じようにBもXのCもYのそれぞれ1000£の支払約束(債務証書)を持っている。彼らはそれを自分自身の財産と考えるであろう。つまりここには社会的に見て、3000£の債権が存在している。つまり社会的には1000£の貨幣、3000£の商品価値、3000£の債権が存在したことになる。ただ最終的には購買された商品が消費されてしまったとすれば、一連の過程の終わりには、3000£の商品価値はすでに無く、残っているのは、1000ポンドの貨幣と3000ポンドの債権(あるいは債務)だけである。ここでA、B、C、Dは何かの形でにせよ、社会的にみて4000ポンドの価値を所持していた人たちである。それに対してW、X、Yは社会的には何の価値も持たず、ただ一方的に消費するだけの人として現れている。勿論、彼らには最終的には3000ポンドの債務が残ったのであるが。貨幣1000ポンドは、結局は、AからDに移ったことになる。つまりDは1000ポンドの商品の代わりに1000ポンドの貨幣を持つことになった。それに対してA、B、Cはそれぞれ1000ポンドの貨幣あるいは商品の代わりにそれぞれ1000£、合計3000£の債権を持つことになっている。ただここで財貨を買うW、X、Yはそれらを不変資本として購入するとスミスは仮定している。というのは〈それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用される〉としているからである。そしてスミスの結論は次のようになっている。〈こういうわけで,同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである〉このようにスミスは貸付の用具として役立つと述べてはいるものの、しかし、そこに必ず購買を入れていることに注意が必要である。つまりただ1000£の貨幣がAからBへ貸し付けられ、そのBからさらにCに、CからさらにDへと貸し付けられるというような貸付を想定していないということである。これでは同じ貨幣額がただ貸し付けられただけで、これは結局は、Aの貨幣がDに貸し付けられたことを意味するだけだからである。両者以外のB、Cは一方の債務を他方の債権で相殺されて、結局、何もないことになっている。スミスは同じ貨幣片が何倍もの貸し付けや、返済に利用されるとしているが、しかし、それはそれらの貸し付けや返済が、それぞれ別々の価値の貸し付けであり、返済であることを正当にも想定しているわけである。】


【32】

 同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同一の貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる。というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである。売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が②③貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。

  ①〔異文〕「この移転〔transfer〕は」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「最初の」という書きかけが消されている。
  ③〔訂正〕「貸し手」--草稿では「買い手」となっている。エンゲルスによる1894年版に従って訂正。〉 (183-184頁)

  このパラグラフはマルクス自身の文章であるから、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈私たちが『資本論』の冒頭篇の商品の単純流通で見ましたように、同一の貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができました。つまりさまざまな商品の価値の実現形態になりえたのです。だから,まさにそのことによって,同一の貨幣片が、自身の商品を販売してその実現形態である貨幣を貸し付けるなら、それはいくつもの貸付を行なうことができることになります。
  購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移しますが,しかし貸付は,購買によって媒介されることなく,一方の手から他方の手へ貨幣を移転することになります。
  売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしています。だから利子生み資本が範疇として確立した今日では、どの価値も資本価値として表現されるのですから,商品を販売して得た貨幣はいくつもの資本価値を表わすのです。だからさまざまな貸付として現れるということは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の単純流通における命題の別の表現でしかないのです。
  単純流通は、資本の流通においては、貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのです。
  ただし貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではありません。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにあるのです。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのです。
  かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸し付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は三つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけです。
  だから貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのです。〉

  【このパラグラフは、先のスミスからの引用にもとづいて、マルクス自身が書いたものと思われる。しかし詳しく見ていくとなかなか理解が容易なものではないことが分かる。何がよく分からないのか、詳しく箇条書き的に書き出してみよう。

  (1)まず〈同ーの貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができる〉というのは、誰でも分かることである。しかし〈まさにそのことによって,同ーの貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉というのであるが、どうして最初のことを根拠に後者のことが言いうるのかいま一つよく分からないのである。確かに上記のスミスからの引用文では、貸し付けと購買が交互に行われることが述べられているが、それは何を意味するのかということである。
 これは次のようなことを意味しているのではないだろうか。同一の貨幣片がいくつもの購買を行うということは、同一の貨幣片がさまざまな商品の価値の実現形態になるということである。つまり同一の貨幣片ではあるが、それが実現した商品の価値はすべて異なる商品であり、その限りでは新たな価値の貨幣形態なのである。だからある商品の価値を実現した貨幣、つまり商品Aを販売して入手された貨幣は、商品Aの価値の実現形態であり、その貨幣をXに貸し付けるということは、商品Aの価値の実現形態を貸し付けるということである。商品Aの所持者にとってAの価値の実現形態である貨幣は、彼が社会に与えた一定の商品価値に相当する別の商品を社会から引き出す権限を有していることを表している。もし彼がそれをXに貸し付けるとするなら、それはその権限をXに貸し出し、その限りではその代行を委ねることを意味するのである。XはAに代わって、その権限を行使することになる(だからまたXは別の機会に、その権限をAに返済する義務も生じている。Aは自分の権限をすぐには行使せずに、Xに委ねるのであるが、そのことはAはその権限を放棄したことを意味するのではなく、それを保留しているだけで、その権限は返済された段階で、Aによって行使することは可能になるが、Aに返済された権限は、Xに限らず別の誰かの権限を、Xが借りて、Aに返済したものかも知れないのだが、いずれにせよAはその権限を元に戻すことになる)。つまりこのように貨幣の貸し付けというのは、本来はその貨幣の所持者が持っている権限(社会の富や労働に対する請求権)を第三者に貸し付けることなのである。これは社会的総再生産過程を考えれば、その重要性が分かる。つまり同じ貨幣片が次々といくつもの貸し付けを行うことが出来るのは、その貨幣片がさまざまな商品の対価としてさまざまな権限を表しているからであり、そうでなければならないということなのである。だからこそ、マルクスは〈まさにそのことによって〉と述べているわけである。そしてここから次のような疑問を解くカギも見いだされるような気もする。

  (2)すなわち次にマルクスは〈というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである〉というのであるが、〈というのは〉ということは、先の一文のようにいえるのは、とその根拠を示そうとしているように思える。ただ、果たして上記のことが、先のことの根拠として言いうるのかがいま一つよく分からないのである。
   少し考えてみよう。ここで言われていることは、明らかに購買と対比しての貸付の特徴を述べていることである。すなわち購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのだが、しかしその貨幣片は別々の商品価値の実現形態だということである。購買では貨幣は次々と商品の販売者の手に渡っていくが、しかしその価値が表す商品価値の実現形態としては商品の数だけ異なっている。もちろん貨幣価値としてはまったく同質で無区別であるが、しかし貸付は、それも確かに一方の手から他方の手への貨幣の移転であるが、しかしそれは別々の商品価値の実現形態ではなく、同一の商品価値の実現形態に過ぎないということである。つまり購買では次々と人の手を移っていく貨幣の価値は、それぞれ社会的に見れば、別々の商品価値として新たに形成された価値であり、だから貨幣が人の手に移っただけ、社会的にはその数だけの商品の価値が形成されたことを表しているのであるが、しかし貸付の場合は、そうではなくそれがどんなに多くの人の手を経たとしても社会的にはまったく同じ価値のただの移転に過ぎず、社会的に新たな価値の形成を意味しないわけである。

  (3)だから以下の文章もこれまでの考察で容易に理解できることになる。

 〈売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。〉

 これ自体は貨幣は単純流通では単純な抽象的な規定であり、資本(貨幣資本)というのは、それが資本の流通として資本関係のなかで受け取る形態規定であることを考えれば何の問題もない。そもそも単純流通の単なる貨幣や商品は、資本の流通の過程における商品資本や貨幣資本を、それらの資本関係を捨象して得られたものである。もちろん単純流通そのものが資本主義的生産の社会の表面に直接に現象しているという特異性があり、われわれが直接目にする表象そのものがそうした資本関係を捨象した単純流通なのであるが。だから商品を売って入手した貨幣が彼にとって、資本価値を表すなら、彼が売った商品もまた商品資本であったということになる。
   だからここで重要なのは〈どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わす〉というように、今日では貨幣は、それはそのまま資本を表すものと考えるのだが、しかしそれは貨幣が次々と購買によって人の手に移っていくことの別の表現であり、それはそれぞれが自分が持っている商品資本の貨幣としての実現形態、つまり貨幣資本を持っているということに過ぎない、というわけである。
 ただその次に述べてることがいま一つよく分からない。〈貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである〉というのだが、流通手段として役立つだけなら、それは現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶという表現は正確ではないからである。流通手段は特定の商品価値を貨幣に転化し、その貨幣を別の商品の購入に支出する、つまりW-G-Wを媒介するということてある。しかしこれは決して、現実の商品を一方の手から他方の手に運ぶわけではない。確かにある特定の商品はその価値を実現して、貨幣になる代わりに、その現実の商品の使用価値を購買者の手に渡す、このかぎりでは貨幣は一方の手から他方の手に商品を運んだと言えなくもない。しかし価値としては販売者は商品として持っていた価値を、ただ貨幣価値に転化したに過ぎず、彼は決して商品価値を手放すわけではなく、だからそれを人の手から他方の手に運ぶことはしないのである。だから「現実の資本」ということでマルクスは何を考えているのかということであろう。「現実の」というのはドイツ語ではrealかも知れないが、それはだから恐らく使用価値に関連したものと理解すべきであろう。

  (4)次は貸付である。

 〈貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は3つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。〉

 この一文はこれまでの考察にもとづけば基本的にはすでに解明しているといえる。貸付では、同じ価値をただ持ち手を変えているだけで、社会的にみても価値の増加や形成は何もないということである。それに対して一つの貨幣片が次々と商品を実現していくならば、その回数だけ、社会的には新た価値の実現形態なのであり、社会的にはそれだけ新しい価値が生み出されたことを意味しているわけである。貸付の場合は、その貸し付けられる貨幣が次々と人の手に渡っていったとしても、それは同じ資本を表すだけである。だからこの最後で言われているように、〈貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである〉。その点、スミスの引用文は購買と貸付を交互に行う例を上げている点で、正しい理解に立っていると言えるであろう。】


【33】

 A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言えるのであって,預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのである。

  ①〔異文〕「特殊的な」← 「きまった〔bestimmt〕」〉 (184頁)

 短い文章ではあるが、平易な書き下し文を書いておこう。

  〈上記の引用のなかで、A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言い得ます。というのは,預金というのは,じっさいには,ただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかないからです。
 だからスミスの例を見てもお分かりのように、同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのです。〉

  【マルクスは〈A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言える〉と言っているので、われわれは、スミスの例を整理したものをまず再掲し、それを預金の場合に書き換えて比較することにしよう。まず、まずスミスの例〔Ⅰ〕は次のようであった。

〔Ⅰ〕
①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに1000£を貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに1000£を貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに1000£を貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 次にこれを銀行への預金が介在するケース〔Ⅱ〕に書き替えてみよう。

〔Ⅱ〕
①A(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Aが銀行に1000£を預金
①’銀行(1000£)-(貸付)→W(1000£)銀行が預金された1000£をWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う(1000£の価値を実現)
③B(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Bが銀行に1000£を預金
③’銀行(1000£)-(貸付)-X(1000£)銀行が預金された1000£をXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う(1000£の価値を実現)
⑤C(1000£)-(貸付)→銀行(1000£) Cが銀行に1000£を預金
⑤’銀行(1000£)-(貸付)-Y(1000£) 銀行が預金された1000£をYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う(1000£の価値を実現)

 この両者を比較して分かることは、〔Ⅱ〕では、〔Ⅰ〕と同じように、A、B、C、Dがそれぞれ持っている1000£は、彼らが何らかの形で社会的に生み出した商品価値の実現形態であり、社会的には新たに生み出された価値である。それを今回は彼らはすべて銀行に預金するとしている(但しDの場合はそれは想定されていないのだが)。〔Ⅰ〕では、それらはWXYにそれぞれ貸し付けられたのであるが、〔Ⅱ〕ではその貸付に銀行が介在して行われたということであり、〔Ⅰ〕の場合、ABCDは何らかの貸付を示す債務証書を持っていたのが、〔Ⅱ〕ではそれは銀行預金の形で持っていることになっている。銀行は社会的に貸付資本を集中し、それを必要な資本に貸し付けているわけである。つまり銀行は貸し手に対しては、借り手を集中して代表し、借り手に対しては、貸し手を集中して代表する。社会的には4000£の価値が形成され(但し1000£は貨幣形態として)、そのうち3000£が消費され(1000£は貨幣形態で止まる)、預金は3000£形成された。他方、銀行にはWXYに対する合計3000£の債権が発生している。これは銀行にとって3000£の預金が彼にとっては債務であることに対応しているわけである。

   このパラグラフを含めた部分について大谷氏は次のように解説している(実際には【31】【32】【33】【34】パラグラフへの言及が含まれる)。

  〈これに関連してマルクスは,「貨幣が資本貸付で演じる役割〔d.Rolle,d.d.Geld im Capitalverleihen spielt」〕についてのA.スミスの記述を引用し,同じ貨幣がいくつもの商品資本の価値形態として機能しうること,そしてそのたびに「資本の価値定在」として貸し付けられる可能性があることを述べ,さらに,この貸付について言えることは,「公衆が銀行業者にたいして行なう貸付」である預金についても言える,として,『通貨理論論評』からの引用を行なっている。これによって明らかにされているのは,同じ貨幣片で何度も預金されることによって何倍もの架空な資本が形成される,ということである(MEGAⅡ/4.2,S.526-528;本書第3巻182-187ページ)。〉 (大谷本第2巻71頁)

   大谷氏は同じ貨幣片が商品価値を実現したあと第三者に貸し付けられること、それを借りた人物がその貨幣で商品を買い、それを売った人物がその売り上げによって得た貨幣をまた別の人に貸し付ける等々のスミスの説明とその貸付が預金に代わればその過程は同じ貨幣片が何度も預金されてそれに何倍もする預金が形成されたということであるが、しかしそのこと自体は決して大谷氏がいうように〈何倍もの架空な資本が形成される〉ということではない。
   なぜなら、ここで例えばAが1000£を銀行に預金した場合、Aはその1000£を何らかの商品を販売して得たものだとすれば、それは社会的に新たに形成された価値を表現しているものである。だからAがそれを預金した時点では、銀行にはその1000£が存在しており、それ自体は決して架空なものではない。それを銀行がWに貸し付けた時点で、Aの預金はただの帳簿上の記録になり、その時点で、初めてAの預金は架空なものになるのである。
   そしてその貸し出された1000£でWがBから財貨を買い、Bがその売上金1000£を銀行に預金した場合、この場合の預金もまた決して架空なものではないのである。なぜなら、それはBが自身が生産した商品を販売して得た1000£であり、そのかぎりでは新たな価値を表しているからである。やはりこの場合も、それが再び銀行によってXに貸し出された時点で、Bの預金は架空なものになるに過ぎない。
   同じことはXがCから財貨を買い、Cがそれを預金したものついても言いうるであろう。
  つまり預金はすぐに銀行によって利子生み資本として貸し出されて単なる帳簿上の記録だけになり、架空なものになるのであるが、少なくとも同じ貨幣片が何度も預金されることによって形成される預金そのものは、少なくともそれ自体としては、決して架空なものではないという認識が果たして大谷氏にあるのかどうかである。】


【34】

  〈245)246)「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく本当のことである。{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の[528]総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった。預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ248)100ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ249)100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ250)100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(251)通貨理論論評……』,62,63ページ。)

  ①〔注解〕「争う余地なく」--『通貨理論論評……』では,「疑う余地なく」となっている。
  ②〔異文〕「{このことは,……からである。}}」--{ }(草稿では角括弧)で囲まれたここまでの部分には,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕
  ③〔異文〕「第1の場合 には 〔……〕にちがいない」という書きかけが消されている。
  ④〔注解〕『通貨理論論評……』では次のようになっている。--「通貨が300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,スコットランドの諸銀行にある預金は2700万ポンド・スターリングと見積もられている。……連合王国にあるすべての頂金が同時に引き出される……場合以外は……,連合王国の預金額にたいする貨幣の絶対的支配にいささかも影響しないであろう。……そして,この単純な理由で,一連の移転によって,確定できないような預金額にまで増大するという例にとられた同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。」

  245)〔E〕『通貨理論論評』からの以下の引用は,草稿319ページ(MEGA II/42,S.475.43-53u.476.35-36;本書第2巻186-187ページ)にもある。どちらも,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている(MEGA IV/8,S.173.34-174.14)。この両方の引用がどちらもノートVIIからそれぞれ別個に取られたことは,両者のあいだの句読点や省略箇所の違いから明らかである。現行版では,この同じ引用のドイツ語訳が,ここと第25章とでは少し違っている。ドイツ語訳の違いは,エンゲルスが同じ箇所からの引用であることに気づかないで,この二つの引用をそれぞれ独立にドイツ語にしたために生じたものであろう。
  246)以下の引用は,『通貨理論論評……』の原文では,マルクスの引用で省かれた部分を含めて,次のようになっている。
   It is unquestionalbly true that the £1000 which you deposit at A to-day may be reissued to-morrow,and form a deposit at B.The day after that,re-issued from B,it may form a deposit at C;and re-issued from C,may be again deposited at D,and so on to infinitude;and that the same £1000 in money may thus,by a succession of transfers,multiply itselfinto a sum of deposits absolutely indefinite.It is possible,therefore,that nine-tenths of all the deposits in the united kingdom may have no existence beyond their record in the books of the bankers who are respectively accountable for them:and no stronger evidence of such a probability could be adduced than the fact,that with a currency which,on the average,has never exceeded three millions,the deposits in the Scottish banks are estimated at seven-and-twenty millions sterling.It is also beyond doubt,that if all the depositors in Great Britain and Ireland were seized with a simultaneous impulse,and came as one man,and at the same moment of time,to demand their deposits back again,the demand could not be met,-no more than the public debt of England could have been raised in a single day,had all the money which has been in existence at any one time since the creation of the world,been put in requisition for the purpose.
   Nevertheless,nothing short of the contingency suggested,-a simultaneous withdrawal of all the deposits in the united kingdom,and therefore an impossibility,-would in the slightest degree affect the absolute command of money,to the amount of his deposit,which is enjoyed at all times by every depositor;and for this simple reason,that the same £1000 which has been instanced as multiplying itself,by one series of transfers,into an indefinite sum of deposits,would,if sent back upon its travels,cancel with the same facility a sum equally indefinite.As the same £100 with which you cancel your debt to a tradesman today,may cancel his debt to the merchant to-morrow,the merchant's debt to the bank the day following,and so on without end:so the same £100 may pass from hand to hand,and bank to bank、and cancel any conceivable sum of deposits.〔マルクスの引用はここまでの部分であるが,このパラグラフのこれ以降は次のようになっている。〕To go no farther,then,than the deposits of bankers,we are at once presented with a receptacle capable of containing a mightier volume of money,in its latent form,than has ever yet been accumulated in England;for if Scotland,with its currency of three millions,has enlarged its deposits to nine times that amount,what prodigious capacity of increase must exist in a currency like that of England,of sixty millions!(下線での強調は原書でのイタリックによる強調。)
  248)「100」--次注および次次注での「100」もそうであるが,草稿では『通貨理論論評……』の原文と同じくいずれも「100」となっているにもかかわらず,MEGAはこれを「1000」に変更しており,しかもこの変更を訂正目録に記載していない。エンゲルス版でも,3か所とも「1000」となっている。これは,すぐ前に「1000」という数字があるところから,マルクスの誤記と勘違いしたものであろう。もともとは『通貨理論論評……』そのもので,「1000」とあるべきところが「100」となっていたのだった。
  249)--前注を見よ。
  250)--前注を見よ。
  251)草稿では,『通貨問題論評,云々』と誤記されている。MEGAでは,テキストを訂正したうえで,その旨を訂正目録に記載すべきところであるが,誤記のままになっている。〉 (185-187頁)

  【このパラグラフは先のパラグラフでマルクスがスミスの例は預金にも妥当すると述べたものを受けたものと思われる。つまり今度は預金が同じ貨幣片で何倍も形成される例として、この引用文が紹介されているわけである。この『通貨理論論評……』からの引用文にはマルクスのものと考えられる比較的長い挿入文が{   }という括弧に括られて書かれているが、全体はほぼ引用からなるので、平易な書き下し文は省略する。われわれは最初からマルクスの挿入文も含めて、その順次どおりに、考察していくことにしよう。

 まず引用文の出だしは〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である〉というものである。これは確かに争う余地のない事実である。これについてマルクスは二つの場合のみが可能だとして次のように述べている。

 〈{このことは,ただ二つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,一つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただしこの1000ポンド・スターリングの預金者によってではなく)振り出された小切手の支払い等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび他のある銀行業者に預金することがありうる。{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払いによって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである。}}

 われわれも二つのケースに分けて考えてみよう。

  【第Ⅰのケース】
   預金者が1000£をA銀行から引き出して、B銀行に預金する場合。この場合は、ただ預金がAからBに移っただけで、社会的には預金総額の増減はない。

  【第Ⅱのケース】
   A銀行が預金された1000£で手形を割り引いたり、あるいは彼の預金者(しかし今回の1000£を預金した以外の預金者)の振り出した小切手の支払に応じた場合で、A銀行で手形を割り引いてもらった人や小切手の支払を受けた人が、それぞれB銀行に預金した場合である。
   ただマルクスは手形割引の場合は、恐らくそれは現金の先取りだから、当然、それは第三者に支払われるか、何らかの必要なものの購買に当てられ、その支払いを受けた第三者がB銀行に預金するという過程を経るであろうとも指摘している。というのは手形をわざわざ割り引いて手にした現金を、また預金するようなものはいないからというのである。それなら別に利子を割り引かせてまで現金を先取りする必要はそもそもないからである。
   ただ次のようなことは考えられるのではないだろうか。つまり手形を割り引いて得た銀行券をそのまま預金するということはありうるのではないかと考えるわけである。これは実際上は帳簿信用と同じであるが、つまり銀行券の介在を必要としないのであるが、何らかの担保の代わりに手形を割り引いて、銀行から貸付を受け(手形貸付)、それを預金としたものである。ただこの場合は、当然、新たに預金を設定した人にとってはとにかく現金を先取りしたいのだから、すぐにその預金に引き当てて小切手を切り、支払うので、その預金は忽ち無くなることは十分にありうることである。
 いずにれよ、マルクスが考察している二つのケースを考えてみると、【第Ⅰのケース】は、預金額の増減はまったくないが、【第Ⅱのケース】は、預金額は倍増していることがわかる。

 引用文の続きである。

  〈それは翌日にはBからまた払い出されてCへの預金となるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金額となることがありうる。〉

  しかしこうしたことが言いうるのは、マルクスが指摘した 【第Ⅱのケース】のみである。【第Ⅰのケース】では同じ預金がただ持ち手を変えているだけで社会的にはまったく預金額そのものの増加はないからである。そして【第Ⅱのケース】というのは、【33】パラグラフで考察したように何らかの商品の購買が介在している場合である。預金は確かに何倍にもなるが、しかし、それは実際に社会的にはそれだけ新たに生み出された商品価値が存在していることを前提しているからであり、その実現形態としての貨幣が新たな預金を生み出しているということである。これはマルクスが預金を現金でなされるものに限定していることと同義であると考えられる。ただ預金の場合は、それが直ちに銀行から貸し出されることによって、次々とそれらは単なる帳簿上の記録になってしまい、架空化するということである。だから〈何倍もの預金額となる〉というのは、あくまでも帳簿上に記録として残っている預金額が何倍にもなるということでしかない。
   今、商品価値を実現した貨幣所持者aが1000£を銀行に預金したとすると、すぐに銀行はその預金1000£を別の人に貸し出す。だからaの預金はその時点で架空化し、単なる帳簿上の記録に化す。そしてその貸付を受けた人Wが別の商品の購買のために支払ったとすると、その支払いを受けた人bが、やはりそれを銀行に預金するわけである。するとこの場合、預金は帳簿上は2000£と2倍になっている。しかし現金として存在する貨幣額は1000£のみである。
   ここで注意が必要なのは、第一に、その2000£は明らかにaとbのそれぞれの商品価値の実現形態で、だから現金として銀行に預金されて生じていることである。しかし第二に、aの預金そのものはすでに銀行にはなく架空化しており、しかしaにとっては彼の商品価値の実現形態は依然として銀行にあると考えているわけである。同じような過程を辿れば、同じ1000£が確かに何倍もの預金になることは明らかであるが、しかしそれは同じ貨幣片が次々と商品を実現して、総額として何倍もの商品価値を実現できるのとまったく同じことである。ただ預金の場合は、最後に行われてまだ銀行に残っている預金1000£の場合だけはともかく、そのすべては架空なものでしかなく、銀行の帳簿上に記載されているだけの存在でしかないということである。

   その次からは引用文に短いメモ書きを挿入していくだけにする。〈それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しない,ということもありうるのである。〉 この〈総額の10分の9〉を差し引いた10分の1は要するに準備金であろう。〈……スコットランドではそうであって,ここでは通貨〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉ここで〈通貨〔currency〉というのは実際に流通している現金(すなわち金貨と銀行券)の総額を意味している。これはまあ流通必要金量を代理しているものと言えるだろう。そして〈預金額は2700万ポンド・スターリングだった〉というのは単なる帳簿上の記録に過ぎない。しかし、その預金に対して小切手が切られ、膨大な取り引きが決済されているわけである。混乱した現代のマルクス経済学者たちはこの2700万£をも「預金通貨」なる用語で呼んで、「通貨」の一部に加えるわけである。しかしこの引用文の匿名の著者は賢明にもそうした間違いに陥っていない。預金は、単なる帳簿上の記録でしかないということを明確に理解している。
   残りは一まとめに検討しておこう(100£は1000£に修正)。

 〈預金の払い戻しを求める一般的な取り付けが起こらないかぎり,同じ1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる。今日あなたがある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられたその同じ1000ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。〉

 この一文は必ずしも明瞭ではない。まず〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのが何なのかがハッキリしないことである。それは預金なのか、それとも別の現金なのかがハッキリしないのである。次に〈逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができる〉というのもハッキリしない。〈逆の道〉というのはどの道なのか、〈〉というのはどういうことなのか、ということである。しかし細かいことを色々と考えていてもしようがない。ただ最後の部分〈限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである〉と述べていることである。これを見るかぎり〈同じ1000ポンド・スターリング〉というのは〈同じ1000£紙幣片〉と考えてもよいように思う。そして〈人手から人手へと〉というのは、それが支払手段か購買手段として機能して、人の手を渡っていくことを表し、〈銀行から銀行へと渡っていって〉というのは、それらが色々な銀行に預金となり、且つそれらが決済されていくことを述べているように思う。〈考えられうるどんな預金額でも決済することができる〉というのは、そうして決済された預金額というのは、同じ1000£の銀行券片が形成したものだが、しかしそれは一定の期間をとれば大きな額に達するのだということであろう。
  ただここで述べられていることは、同じ1000£の銀行券片が介在して形成された銀行預金が、帳簿上の記録としてさまざまな債務を決済するのに利用され得るということそのものは直接には問題になっていないような気がする。帳簿上の記録はまったく架空なものに過ぎないのに、銀行にとっては一つの貨幣資本であり、彼らはそれらの決済手続きに対して手数料を稼ぐのである。

  (【34】パラグラフの途中であるが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

 

2022年7月15日 (金)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-12)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-12)



【30】

 利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。224)この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,それを彼らが貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|

  ①〔異文〕「〔…… 〕2倍に[なる]」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「債権〔Schuldforderung〕」← 「請求権〔Forderung〕」

  224)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。--「このような,資本の2倍化,3倍化は近年さらに著しく発展してきた。たとえば金融トラストによってであって,これらの金融トラストは,ロンドン取引所報のなかにすでに特別な一欄を占めている。ある部類の利子生み証券,たとえば外国の国債,イギリスの市債やアメリカの公債,鉄道株等々を買い入れるために,会社が設立される。資本が,たとえば200万ポンド・スターリングのそれが,株式応募によって調達される。会社の管理役員は,当該有価証券を買い入れたり,あるいは多かれ少なかれ積極的にこれらの証券で思惑をやり,年々の利子収益から費用を差し引いたり残りを配当として株主に分配する。--さらに,いくつかの株式会社では,普通の株式を優先株と後配株との2種類に分ける習慣ができてきた。優先株は,総利潤がそれを許すということを前提して,ある確定利払い,たとえば5%を受け取る。そのあとにまだ残りがあれば,後配株がそれを受け取る。こういうやり方で,優先株への「堅実な」投資は,本来の投機--後配株での--からは多かれ少なかれ分離される。ところが,いくつかの大企業はこの新方式に合わせようとしないで,このような企業の株式に百ないし数百万ポンド・スターリングを投資し,これにもとづいてこの株式の名目価値だけの新株を,ただし半分は優先株,半分は後配株として,発行するような会社が設けられるということが行なわれるようになった。このような場合には,もとの株式は,新たな株式発行の基礎として役立つのだから,2倍になるわけである。--F.エンゲルス」〉 (181-182頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈利子生み資本と信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな人々の手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見えるようになります。しかしこれらの「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものなのです。
  たとえば,預金のほとんどすべてが、準備ファンドを除いてですが,銀行業者への帳簿上の貸し勘定として存在するだけで,銀行業者の金庫の保管物としてはまったく存在していません。
  もっともそうした帳簿上の預金も,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎりは,現実の預金を銀行業者たちがすでに貸し出したのちにも,彼らにとって資本として機能します。というのは銀行業者たちは,これらの帳簿上の貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合って決済に利用するからです。そしてそれは彼らに手数料をもたらします。〉

  【マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べている。以前にも(【14】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。
 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見えると言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。

 ところでやや横道に逸れるが、ここで〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」である(MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*を参照)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章「「貨幣資本と現実資本」に使われたマルクスの草稿」の「3 若干の基本的なタームについて」の「(3)moneyed Capitalと貨幣資本(Geldcapital)」なかで、この問題を論じている(215頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉(215頁)と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」(ドイツ語ではGeldkapital)と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまざまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態をmonied capitalと呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときはmonied capitalを指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである。〉 (同219-220頁)

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 (*) 実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを十分吟味してこなかった。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【20】パラグラフの次の一文--

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【23】パラグラフの次の一文--

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【28】パラグラフの次の一文--

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値は,その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉なのである。この場合の〈「貨幣資本〉も〈“Geldcapital〉である。そしてこれらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

  以上で横道はこれぐらいにして、本道に帰ることにする。

 次にマルクスは、〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、そうしたものの例として預金を上げている。それを、もう一度、書いておこう。

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。〉
 
 ここでは、利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉、そうした架空な貨幣資本なのだということになる。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているかのように見えるわけだからである。預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えているわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかに現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。

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  ところでこの【30】パラグラフとその前の【29】パラグラフを一つに纏めて大谷氏も小林氏も問題にしていることをすでに指摘したが、その主張を今度は検討してみよう。

  まず大谷氏は第2巻の〈8「架空資本」の意味〉を論じているところで、上記のパラグラフを引用したあと次のように述べている。

  〈ここでは,預金は準備ファンドとして銀行業者の手もとにとどめられている部分を除けばすべてが「純粋に架空なもの」であることが述べられている。これは,すぐ前に見た「架空な銀行業者資本」の架空性とはまた異なった視点から言われているものである。すなわち,預金は,銀行業者によって貸し出されて--すなわち彼にとっての利子生み資本に転化されて--無準備となり,したがって架空なものとなったのちにも,彼にとって貨幣取扱資本として機能する,そういう架空資本になっている,と言うのである。〉 (71頁、太字は大谷氏による傍点部分)

  このように大谷氏は、預金の架空性は利子生み証券のような架空資本の架空性とは違う視点で言われていると指摘している。確かに預金の架空性というものは利子生み証券の架空性とは若干違っているように思える。後者は規則的な貨幣収入を資本還元して想像される資本価値のことを意味していたが、預金の場合は預金された貨幣はその準備を除いてすべて利子生み資本として貸し出され銀行に保管物という形では存在しないこと、にもかかわらずそれらはあたかも銀行に保管されているかのごとくに、彼ら銀行業者にとっては資本として機能すると述べているからである。だからこれは定期的な貨幣利得を資本還元されたものというような意味での架空資本とはいえないことは明らかである。(ここで大谷氏は預金が銀行業者にとって〈貨幣取扱資本として機能する〉と述べているが、果たしてこのような形で貨幣取扱資本というタームを使うのはアリなのであろうか。やや疑問である。要するに帳簿上の預金はその振替によって再生産資本家たちの諸支払いを相殺させて決済するが、それは銀行の貨幣取扱資本としての一機能だということを言いたいのであろうと理解する)。
 とにかくマルクスの上記のパラグラフを読むと、マルクス自身は〈利子生み資本および信用制度の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉が〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉と述べ、その一例として預金について述べているのである。〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉という具体例として預金が述べられていることは明らかであろう。利子生み資本として貸し出された資本が、あたかもまだ銀行の保管物として存在しているかのように彼らにとって資本として機能することがその一例として上げられているのである。預金された同じ貨幣額が、すぐに銀行によって貸し出され、その同じ貨幣額が再び銀行に預金された場合、銀行の預金額そのものは2倍になり、そしてそれが繰り返されれば、同一の貨幣額が何倍もの預金額を形成することになるわけである。
 これは後に解読をする予定であるが、マルクスが打った項目番号「III)」には(エンゲルス版第30~32章)、同じ貨幣片が何倍もの預金を形成することをマルクスは次のように論じているところがある。

  通貨Circulation〕{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまったく次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払いの度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払いをし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人のmoneyed Capitalの第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終りには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻495-496頁)

   つまり同じ100ポンドの貨幣額が、結局、何度も預金を形成することによって、2000ポンドの預金額になるというのである。しかしこの小売業者の2000ポンドの預金はただ帳簿上のものに過ぎず、決して銀行の金庫にあるわけではないのである。

   さらに重要なのは、マルクスは預金を〈架空なもの〉の一例として述べてはいるが、それが「架空資本」であるとは述べていないことである。だからマルクスは国債や株式を例に挙げて説明していたものを「架空資本」とし、準備ファンドの大部分や預金については「架空なもの」として、前者とは区別して論じているように思えるのである。また「手形」についても、割り引かれて銀行に保管されているものについては、利子生み証券とは述べているが、それを架空資本であるとは述べていないことにも注意が必要である。ただ手形も手形ブローカーが介在して、それを売り買いしている限りでは、そうした売買される手形は架空資本と言えるのかも知れない。つまり売買される手形は、満期までの残りの期間とそのときの市場利子率によってその資本価値が決まるのであり、その限りでは国債や株式の架空資本としての資本価値と似たものと考えられるからである。

  次は小林氏であるが、まず同氏の場合、【29】パラグラフと【30】パラグラフの紹介に入る前に、貸借対照表を前提に、次のような前文を書いている。

  〈さて「借方」から見た「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,銀行業者が貸出す「銀行営業資本」の主たる部分が,銀行業者自身が投下した「彼の資本」ではなくて,銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない。マルクスは,次のように,「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じているのである。〉 (413頁)

  問題点を箇条書きしてみよう。
   (1) すでに何度も指摘したが、著者は〈「借方」から見た「銀行業者の資本」〉などと述べているが、〈「借方」から見た〉などということは、マルクスは一言も述べていない。その理由についてはすでに述べた。
   (2) 次に〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉というが、しかしその前に著者は【28】パラグラフの最後の一文を解説して〈「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである〉(412頁)と言っていなかったか。つまり他人の資本であるという意味で架空な資本なのだと述べていたのではないのか。マルクスはそのようには言っていないというなら、それはその通りだが、しかし著者自身はマルクスがそう言っていると解釈していながら、ここではそうではないと言っているのが矛盾しているし、おかしいのである。
   (3)そのあとに著者が書いていることはどうであろうか。著者がここで〈「銀行業者の資本」が「架空な資本」であると云われる時,それは,……銀行の信用によって「創造」=「調達」された「借入資本」であるという意味で云われているのではない〉とわざわざ前に書いたことと矛盾したことを述べているのは、預金の架空化というのは、次のような意味で言われているのだと言いたいがためである。すなわち〈「貨幣」でなされた「預金」の「価値に対する権利証書」化・「貨幣に対する請求権」化・「資本に対する請求権」化という意味で「架空化」を論じている〉というのである。しかしこのように著者はわざわざカギ括弧で括って述べているが、しかしマルクス自身がこうしたことを述べているわけでは決してない。恐らく著者はのちに自身が展開する主張をここでは先取りして、ただ断言する形でこのように述べているのであろう。しかしこれだけでは、その是非を論じることはできない。だからこうした主張の是非はそのあとの著者の展開のなかで吟味していくことにしよう。

  そのあと著者はまず先に紹介した【29】パラグラフを引用したあと、【30】パラグラフについて、次のように紹介している。

  〈あるいは同じことであるが,マルクスは次のようにも云う,「預金(Deposits)全体は(準備ファンドを除けば),銀行業者への貸越金以外のなにものでもないが,しかしそれ[預金]は寄託物(Deposit)の中には決して存在しない。それ[預金]が銀行業者に振替(virement)のために役立つ限り,彼ら[銀行業者]がこの同じ物[預金]を貸出してしまった後も,預金は同じ人々にとって資本として機能する。彼らは実在していない預金に対する相互的な振出し手形(Drafts)を,この貸越金の差し引きによって支払う」,と。そして彼はこれを一般化して,「利子生み資本および信用制度の発達と共に,同じ資本あるいは同じ債務請求権でさえも,種々な人々の手で種々な形態で現れる種々な仕方によって,すべての資本2倍化して,そして部分的には3倍化して,見える。[このように]この「貨幣資本なるもの("Geldcapital")』[即ち,貨幣貸付資本]の最大の部分は,純粋に架空(rein fiktiv)である2)」,と。〉 (414頁)

  このように、著者は意図的にマルクスの叙述の前後を逆転して紹介している。つまりマルクスが〈例えば〉と預金を例に出している部分を先にもってきて、それがあたかもその前の(【29】パラグラフの)預金の説明の続きであるかに紹介して、そして【30】パラグラフの冒頭の一節をそれらの結論として紹介するという形でである。まあこうした紹介の仕方は工夫の一つとして許容範囲であろうが、次のように著者が結論的に述べていることには首をかしげざるを得ない。

  〈だからこういうことになる。まず機能資本家の手許で一時遊休している「自己価値」のある蓄蔵貨幣(「確実な」金貨幣)ないし「金に対する支払指図書」としての兌換銀行券を前提する。次に,「まさに公衆が銀行業者に対して行う貸付(loans)に対する特種な名前にすぎない3)」「預金」が,この「貨幣(金または銀行券)」で行われるものと仮定する。ところがこの「貨幣」は,預金者にとっての「貨幣資本なるもの」(つまり貨幣貸付資本)に転化したが,それは,銀行業者にとっての「準備ファンドを除く」と,銀行業者による手形割引や貸付を通じて機能資本家の手に渡ってしまっているか,「有価証券取引業者(株式仲買人)」に貸出されて彼らの手にあるか,あるいは株式あるいは国庫証券等を銀行業者に販売した「私人の手」または「政府の手に」渡ってしまう。だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない4)ものとなってしまう。したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる。ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が,他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」つまり,このような「架空な」預金に対して振出される小切手によって売掛代金が清算される。
 これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである。〉 (414-412頁)

   これはそのあとのパラグラフのマルクスの叙述をつまみ食いしてつなぎ合わせたものであるが、しかし預金が準備ファンドを除いて貸し出されてしまい、帳簿上のものになったという事実を指摘しただけで、〈したがって預金者にとって貨幣貸付資本である「預金」は,一面では,最初の「貨幣」ないし「貨幣資本なるもの」が,「2倍化」「3倍化」して現れることとなる〉とは言えないだろう。そのためにはマルクスが【31】パラグラフ以下でアダム・スミスの例を紹介して論じていることが媒介されないといけないのである。要するに最初の貨幣や兌換銀行券が何度も預金として積み上ることが出来るということを言いたいのであろうが、そのためにはそれらが銀行から貸し出されたあと、何らかの商品価値の実現を媒介して銀行に還流することが言われなければならないのである(上記に引用したマルクスの「III)」の一文を見ても分かる)。
   それに著者は〈だから結局「預金」は,「銀行業者の帳簿上」で「貸越金」--銀行に対する貨幣ないし資本請求権--として存在するにすぎない〉と述べているが、〈銀行に対する貨幣……請求権〉はまあ良いとしても、どうして預金が〈銀行に対する……資本請求権〉なのであろうか。確かに預金者が事業者であり、彼の預金を貨幣資本(Geldcapital)として投資するために預金を引き出すなら、それは彼にとっては「貨幣資本(Geldcapital)」であるが、しかしそれをもって彼の預金を〈銀行に対する……資本請求権〉とは言わないだろう。マルクスは預金は常に現金でなされることを前提すると述べているように、それは現金に対する請求権として存在しているとはいえるが、資本に対する請求権とは言えないのである。事業者も別に銀行に資本を請求するわけではないからである。それは彼が投資するときの貨幣が持つ形態規定性(貨幣資本)である。しかも預金の引出しは銀行にとっても利子生み資本の貸付とは異なり、利子生み資本という規定性も持っていない。そもそも預金を引き出したものを資本として投資するかどうかは銀行の与り知らないことである。だから預金を〈資本請求権〉とするのは決して正しいとは思えない。
   次に著者が〈ところが,このように「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」であるにすぎない預金が〉と述べている部分で、カギ括弧に入れて述べている〈「(価値章標のように)価値に対する権利証書(Titel auf Werth)」・「単に架空な[資本]5)」〉というのは訳者注5)を見ると、大谷本第3巻の〈第30-32章の草稿〉にあるものであり(【111】パラグラフ、同巻516頁)、これ自体は直接には預金について述べられているものではない。預金を含めたmoneied Capitalについてマルクスが論じているものを預金について述べているものであるかに引用しているだけである。しかしこれはそれ自体が間違いというわけではない。
   ついでにそれに続く〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉という部分のカギ括弧の部分は〈第30-32章の草稿〉にあるものである(【118】パラグラフ、大谷本第3巻522-523頁)。しかし著者はマルクスの一文を読み間違っている。著者が部分的に引用しているものをマルクスの草稿から紹介してみよう。

  〈混乱は,一部分は次のことから生じている。--5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる(彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〔)〕。そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣〔money potentialiter〕として機能する。しかしいずれにせよ,彼はそれだけ自分の預金をなくすわけである。彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払を受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払を受けるのである。彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は2度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権〔claim 〕として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉 (大谷本第3巻521-523頁)

   実はこの部分の詳しい解読は、すでに大谷氏の預金通貨論を批判するなかで論じているだからマルクスの一文を正確に理解しようと思う人はそれを見ていただきたい。
   ここで問題なのは、小林氏の引用から言えることは、同氏がマルクスの一文を読み誤っていることである(実は先の大谷氏の預金通貨論を批判したところでも指摘しているが、大谷氏もこのマルクスの一文を正しく理解できなかったのである)。小林氏は〈他面では,「貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって…[現実の貨幣として]作用しうる6)。」〉と述べているが、マルクスが〈この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そしで貨幣への請求権〔claim〕として,働くのである〉と述べている時、〈現実の貨幣として〉というのは、預金が銀行から利子生み資本として貸し出されて、再生産資本家の手で現実の貨幣として働くということであり、だから小林氏が指摘している〈貨幣に対する単なる請求権(bloss claim upon Geld)としては,債務請求権の相殺によって〉というのは、マルクスが〈そして貨幣への請求権〔claim〕として,働く〉というケースであって、それを氏のように〈[現実の貨幣として]作用しうる〉などと書いてしまうとただただ混乱でしかないのである。
   そしてその結論として〈これが,いうところの「銀行業者の資本」をその「借方」(「預金」)から見た場合の特質としての「架空性」なのである〉というのもおかしなものである。少なくともマルクスは〈「借方」(「預金」)から見た場合の特質〉などとは述べていないからである。預金そのものはすでに銀行から利子生み資本として貸し出されて、銀行には帳簿上の記録としてあるだけだから、その大半は架空なものだということはマルクスは述べている。しかしそれが貸借対照表の「借方」かどうかということは何も述べていないのである。もっとも預金は債務だから「貸方」か「借方」かといえば「借方」ではあるが。しかしマルクスは銀行業者の資本の構成を、その実物的な構成とは違ったもう一つの区分として、銀行業者自身の投下資本(自己資本)と預金(銀行業資本または借入資本)とに分けているが、しかしそれらは実物的な構成には何の影響も与えないとも述べているのである。この後者の区別は確かにその限りでは貸借対照表にもとづく区別ともいえるが、しかし、そのことをマルクスは明記してそう述べているわけではない。だから預金について論じている場合も、それが借方にあるかどうかといったことは何ら問題にせずに論じているのである。預金を借方の架空性の代表であるかに著者はいっているが、そんなことはマルクスは一言も述べていないのである。】

  (以下、次回に続く。)

 

2022年7月 7日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-11)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-11)

 


  (前回【28】パラグラフの解読を途中で切ったので、以下は、その続きです。)

   次は小林氏であるが、氏はすでに紹介したが、〈ところでこのように銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した後,次にマルクスはこれら「銀行業者の資本」の「架空性」を次のように,3点にわたって指摘していく。〉(410頁)と述べたあと、【28】パラグラフを①~③の三つの部分に分けて紹介している。大谷訳と若干の違いがあるので、それも紹介しておこう。、

  〈① 「銀行の準備ファンド(Reservefonds)は,発達した資本主義的生産諸国では,平均的には蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部は再び有価証券(Papieren)から,即ち決して自己価値のあるもの(Selbstweythe)ではない,金に対する単なる支払指図書(Anweisungen)から成立っている。」
   ② 「だから銀行業者の資本の最大の部分は純粋に架空(fiktiv)[なもの]で,(即ち債務返済請求書(Schuldforderungen)〈手形および公的有価証券〉並びに株式〈所有権利証書(Eigenthumstitel),将来の収益に対する支払指図書〉であり,この際以下のことが忘れられてはならない。即ち,これらの有価証券(Papiere)が銀行業者の金庫で表示している資本の貨幣価値は,これら有価証券が(公的有価証券の場合のように)確実な収益に対する支払指図書である限りでも,あるいはそれらが(株式の場合のように)現実資本に対する所有権利証書である限りでも,全く架空(fiktiv)であり,そしてそれ[有価証券の貨幣価値]は,それら[有価証券]が表示している,現実資本の価値からは離れて調整されるか,あるいは,それらが収益に対する単なる請求権(Forderug)を表示している(そして決して資本を表示していない)場合には,同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空貨幣資本[擬制資本]で表現されている,ということである。」
   ③ 「さらにこれに次のことが付け加わる,即ち,この架空な銀行業者の資本(diess fiktive Banker's Capital)は大部分が彼の資本ではなくて,彼に預託されている公衆の資本--それに利子が付こうと無利子であろうと--を表示している,ということである」13),と。〉 (410-411頁)

   そしてこれらについて著者は次のように解説している。まず①についてである。

  〈まず第①の「銀行の準備ファンド」であるが,それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している。したがってその一部は「有価証券から,即ち,決して自己価値ではない金に対する単なる支払指図書から成り立っている」と云われる時にも,その「有価証券」とは「利子生み証券」ではなく,兌換銀行券を意味しているものとしなければならない。そして兌換銀行券といえども,それは「自己価値」を持った蓄蔵貨幣ではないのだから,「現金準備」の一部は貨幣(=金貨)請求権という「架空な」「資産」にすぎない,というのである。〉 (411頁)

   しかしこれは正しいとは言えない。同じような主旨からなのか、大谷氏の場合は〈すなわち(他行の)銀行券〉と述べていた。
   ここで著者が〈それは先には「貨幣準備」として挙げられていた「金[貨]または銀行券」を指している〉と述べているのは、【26】パラグラフでマルクスが〈最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉と述べていたことを考えているのであろう。しかしマルクスはその前の【24】パラグラフで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べていたのである。つまりこうした利子生み証券に投下されているものも準備ファンドの一部なのである。もちろん、【26】パラグラフで述べている〈貨幣準備(金または銀行券)〉も準備ファンドの一部であることは言うまでもないが、そして銀行券が〈自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもその限りではまったくそのとおりなのである。しかし大谷氏のようにどこから〈(他行の)銀行券〉が出てくるのかは皆目分からないのである。マルクスがここで金と並べている「銀行券」は現金として通用するものであり、法定通貨であるイングランド銀行券を指していることは明らかである。
   次は②の説明である。

  〈第②に,「銀行業者の資本([資産])」の圧倒的部分を占める「有価証券」のうち,「商業証券」である割引手形も公的有価証券である国債等も「債務返済請求書」であり,また株式も「将来の収益に対する支払指図書」であるから,それら「有価証券の貨幣価値」は「それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整されるか,……同一の収益に対する請求権がたえず変化する架空な貨幣資本で表現されている」という意味で,「純粋に架空なもの」であるというのである。〉 (411頁)

   ここで小林氏は〈「銀行業者の資本([資産])」〉とマルクスの草稿にはない〈([資産])〉を入れているが、これは氏がマルクスが貸借対照表を前提に論じているという独断に立っているからである。割り引かれた手形が、利子生み証券であり、満期までの残存期間とそのときの利子率によって貸付額が調整されるという意味では、ここで著者がいうように〈それら有価証券が表示している現実資本の価値から離れて調整される〉と言えなくもない。しかしマルクスが〈この場合次のことを忘れてはならない〉と以下述べているもののなかには〈手形〉は含まれていないことにも注意する必要がある。マルクスがそこで挙げているものは、〈公的有価証券〉と〈株式〉だけである。このあと著者は次のようにこの②に付いて結論的に述べている。

  〈したがってこれに続けてマルクスが,「この架空な銀行業者の資本(dies fiktive Banker's Capital)14)」というときには,このように,「銀行業者の資本」をまず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指しているのである。〉 (411頁)

   まず確認しなければならないのは、少なくともマルクスはそんなことは一言も述べていないことである。ただマルクスがここで〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉という場合、著者がいうように銀行業者の帳簿上に表されている資本の貨幣価値というものをマルクスも問題にしていることは確かであろう。そうした帳簿上に表されているものは架空なものだというのがマルクスがここでいわんとしているものである。
   ただ小林氏の場合は(大谷氏もそうであるが)、マルクスが銀行業者の資本の現実の構成部分とそれらが銀行業者の帳簿上でどのように表されるかということを区別して論じ、後者は全く架空なものだと論じているということにまったく注意が行っていないことである。むしろ小林氏も大谷氏も帳簿上の問題だけを問題にしているのである。
   さらに問題なのは、例え著者がいうように〈まず「資産」の側から見た場合の「架空性」を指している〉ということだったとしても、果たしてそれにどんな意義があるのか、ということである。〈「資産」の側から見た場合〉ということを指摘して何か新しい知見が得られるのか。なぜ、わざわざマルクスが一言も述べていない貸借対照表について言及する必要があるのか。それで何か問題を深めたことになるとでもいうのであろうか。むしろそれはマルクスが論じている内容から問題を逸らせることになるのではないのか。なぜ、マルクスが著者や大谷らがいうような貸借対照表にもとづいて論じているのなら、それを言わないのか、それこそが問題であり、そこにこそマルクスが問題にしている根本があるのではないのか。マルクスは第28章該当部分では、銀行業者の立場からの「資本」というのは、元帳の立場からの「資本」だと述べていた。つまり「元帳の立場」、すなわちブルジョア的な帳簿表記上の立場である。そしてそれはすなわち貸借対照表にもとづいた立場でもあるのではないか。そうした銀行業者の立場を批判的に論じているマルクスが、そうした貸借対照表を前提にして論じているなどということは考えられないのである。それが著者にもまた恐らく著者の主張に影響されてであろうが、大谷氏にも見られるのは情けない限りである。
   いずれにせよ、著者は③について次のように述べている。

  〈ところが彼が第③に,「さらに……付け加わる」として指摘する点は,「資産」の側から見て「架空な」この「銀行業者の資本」を,「負債と資本」の側から見たものである。先には彼は,「銀行業者の資本の実在的諸成分--貨幣,手形,有価証券--」という「貸方(creditor)」の「区分」は,その「借方(debtor)15)」が自己資本だけであるか,それとも借入資本(預金,等)だけであるかということとは,さしあたっては関係がないとしていた16)のであるが,実は「銀行業者の資本」とはいうものの,「銀行の使用総資本(=総資産)」の「大部分」は,彼つまり銀行業者自身の投下資本ではなくて,「公衆」から借入れられた資本,即ち「預金」であるという点で,「架空な資本」であるというのである。〉 (411-412頁)

   しかしマルクス自身は〈この架空な銀行業者資本の大部分は、彼の資本を表しているのではなく、利子がつくかどうかにかかわらず、その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表している,ということが加わる〉(大谷論文35頁)と述べているだけで、〈「預金」であるという点で,「架空な資本」である〉と述べているわけではない。マルクスは架空な資本の大部分は、他人から預託されたものだと述べているだけなのである。つまり他人から預託されているものが、銀行業者の帳簿上においては純粋に架空な資本になっていると述べているのであって、ただ他人のものだから架空な資本だなどと述べているのではないのである。】


【29】

 預金はつねに202)貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。

  ①〔異文〕「述べた」← 「考察した」

  202)〔E〕「貨幣(金または銀行券)で」→ 「貨幣で,すなわち金または銀行券か,これらのものにたいする支払指図で」〉 (180-181頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされます。預金の払い出しに応じるための準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張します)を除きますと,預金そのものは,一方では生産的資本家や商人に貸し出されて彼らの手のなかにあります。彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりしたのです。または他方では、有価証券の取引業者(株式ブローカー)に貸し出されて彼らの手中にあります。あるいはまた、自分の有価証券を銀行に売った私人の手中にあります。または同じように銀行に国債等を売った政府の手中にあります。政府は国庫手形や新規国債を銀行に売るか、あるいはそれらを担保として銀行から預金を借り受けるのです。要するに銀行は公衆から集めた預金を、さまざまなところに利子生み資本として貸し付けて利子を稼いでいるのです。
   ところで預金そのものは二重の役割を演じます。一方ではそれは,いま述べましたような仕方で利子生み資本としてさまざまなところに貸し出されます。したがって銀行業者の金庫のなかにはそれらの預金はもはやなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として銀行業者の帳簿のなかにあるだけです。
   しかし他方では,この帳簿が、商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてて振出した小切手によって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,帳簿上の預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能するのです。つまり諸支払いの決済を行うことができるものに役立つのです。(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわないのです)。〉

  【このパラグラフは、【9】パラグラフのなかで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある〉と述べられていたものが、ここで論じられていると言える。そしてこの部分は現代的な問題でもあるいわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連している。しかしその検討は後に行うとして、とりあえずは、われわれはこのパラグラフそのものの詳しい解読から始めることにしよう。

  ここではまず〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べられている。これはいわゆる一般的には「本源的預金」と言われるものと考えて良いであろう(マルクス自身がこうした用語を使っているのかは知らないが)。というのは、マルクスは第28章該当部分において、次のように述べていたからである。

 〈銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。〉 (大谷本第3巻136頁)

 つまり銀行は産業資本家や商業資本家が持参した手形を割り引いて、銀行券を手渡す(貸し出す)代わりに、帳簿信用を与えることもできるわけである。つまり預金設定を行い、割り引いた手形の代金を帳簿上に書き加えて手形持参人名義の預金として設定するわけである。だからこの場合、預金は事実上手形によってなされたことになる。しかしマルクス自身は、この場合は銀行から貸し出しを受けた業者が〈仮想の預金者になる〉とも述べており、預金者が銀行に貨幣(金または銀行券)を持参して行う「本源的な預金」と区別しているように思える。
 ところでエンゲルスは〈貨幣(金または銀行券)で〉の部分を〈貨幣で、すなわち金または銀行券か、これらのものにたいする支払指図で〉と修正したのであるが(訳者注202)、しかしこの修正はマルクスの意図をむしろねじ曲げるものといえるように思える。エンゲルスにしてみれば、商業実務に通じているが故に、手形や小切手等、支払指図での預金が日常的に行われている経験にもとづいてこうした修正を施したのであろうが、しかし、マルクスの意図としては、そうした支払指図による預金は、すでに銀行による貸し出しの一形態であり、貨幣を持ち込んでの預金とは明確に区別されるべきものなのである。
 とにかく、われわれは、マルクスの言明にもとづいて、ここでは預金は常に〈貨幣(金または銀行券)〉でなされるものと考えることにしよう。

 次の〈準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式ブローカー)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)〉という部分に出てくる〈この預金は〉というのは、正確には「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味である。つまり預金された貨幣(金または銀行券)は、銀行に留まっているわけではなく、すぐに一定額の準備ファンド(これは預金者の引き出しに応じるために銀行に準備しておくべきものである)を除いて、直ちに貸し出される、ということである。そしてその貸し出し先や運用先が、その次に書かれている内容である。

 (1)〈一方では生産的資本家や商人〉に貸し出されるが、それは手形割引やその他の貸し付け(担保貸し付けか、無担保貸し付けか)によってなされるわけである。
 (2)〈または有価証券の取引業者(株式ブローカー)〉に貸し付けられる。
 (3)〈または自分の有価証券を売った私人の手中に〉。つまりこれは銀行が預金された貨幣(金または銀行券)で私人から有価証券を購入した場合のことである。
 (4)〈または政府の手中にある〉。つまり政府に貸し出されるわけである。そしてその場合には銀行業者は国庫手形や新規国債を担保として保有することになるわけである。これはあるいは新規国債を銀行が引き受ける場合も入るかも知れない。

 その次からは預金の機能が考察されており、「預金通貨」を考える上でも、極めて重要である。

 預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである。

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿上に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、すぐに利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金そのものは銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。以前紹介した銀行の貸借対照表をもう一度紹介してみよう。
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 このように預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。
 そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。
 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から人手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。〉 (「「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について)(下)」(『経済志林』第51巻第4号10-11頁))

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。
 しかし、今回の【29】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。(なお大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章の4の(6)「信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能」で、やはり「預金通貨」について論じているのであるが、それについてはすでに別途批判したものがあるので、参照していただきたい。)

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが第29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。
 (1)まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。
 (2)次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。
 (3)bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。
 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。〈諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである〉(『資本論』第1部全集第23a巻180頁)。この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。
 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。
 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから推測したに過ぎません。】

 もう一つT氏に対する関連するメールを紹介しておこう。

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 〈{通貨〔currency〕の速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency〕の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉 (「「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について」(『経済志林』第64巻第4号165-6頁、大谷本第3巻427-430頁)

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〔currency〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【29】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣はただ観念的に、計算貨幣あるいは価値尺度として機能するだけである)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

   小林氏(大谷氏も同じであるが)はこのパラグラフだけではなく、次の【30】パラグラフと併せて問題にしている。というのは彼らの関心は預金の架空化にあるからである。しかしこれらのパラグラフでは預金の二重の役割といういわゆる「預金通貨」と言われてきた概念の是非を判断する上で極めて重要な指摘がされており、これまでの解読はそうした点に力点を置いて述べてきた。
   まず小林氏のこのパラグラフの翻訳を紹介しておこう(それは大谷氏とは若干の相違がある)。ただ小林氏はやや抜き書き的に書いており、その点、注意が必要である。

  〈即ち,「預金は常に貨幣(金または銀行券)でなされる」が,「準備ファンド(それは現実の流通の需要に従って収縮しまた膨張する)を除くと」,「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。他方では,商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる(その場合,預金が同一銀行業者におかれていて,したがって彼[同一銀行業者]が種々な[顧客の]売掛代金(Credit Accounts)を相互に差し引くか,あるいは,種々な銀行業者が彼らの小切手を相互に交換し,そして差額を支払いあうかは,全くどうでもよい)限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する1)」,と。〉 (前掲書413-414頁)

  気づいたことを指摘しておこう。
  ①著者は〈「預金そのものは二重の役割を演ずる。一方ではそれ[預金]は……利子生み資本として貸出され,だから銀行業者の金庫には存在しないで,預金者の銀行業者への貸越金(Guthaben)として銀行業者の帳簿にのみ現れる。〉(414頁)と翻訳しているが、この部分は大谷訳では〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿のなかに見られるだけである〉(大谷新本第3巻180頁)となっている。
   つまり同じ「Guthaben」でも一方は「貸越金」、他方は「貸し勘定」と訳が違う。どちらが適訳かといえばやはり大谷訳であろう。貸越金というのは、同一口座の定期預金を担保に、普通預金の不足分を借り入れする金額のことであって、この場合は不適切な翻訳ではないだろうか。貸し勘定はただ貸した金という意味で、この場合の適訳である。
  ②また同じようなことだが、〈商人たち(一般的にいえば預金の所有者)の相互的な貸越金が互いに彼らの預金に対する[小切手の]振出し(Ziehn)によって清算され,そして相互に差し引かれる……限り,それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する。〉(414頁)とあるが、大谷訳では〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振り出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉(同前180-181頁)となっている。この場合もやはり大谷訳の方が分かりやすい。〈それ[預金]は貸越金のこのような単なる帳簿項目(Memoranda)として機能する〉というだけではなかなか意味が分からないが、〈預金は貸し勘定のそのようなたんなる記録として機能する〉とすればよく分かるのである。もっとも帳簿項目を帳簿上の項目、つまり記録と理解すれば、両者ともさほどの違いはないが。

  大谷氏も小林氏も【29】パラグラフと【30】パラグラフとを同じ預金の架空化について論じているものとして、両者を併せて解説しており、だからそれらの解説については【30】パラグラフで取り上げて検討することにしよう。】

  (以下、次回に続く。)

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