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2022年6月23日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-9)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-9)



【22】

 〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉 (176頁)

  まず平易な書き下し文である。

  〈株式や国債などのこれらの証券が表わしているのは,実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎないのです。もちろん、国債は租税に対する請求権ですが、しかし租税もまた生産された剰余価値に源泉がありますから、やはり「蓄積された,生産にたいする請求権」といえるのです。だから,これらの請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,株式などの場合も、それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制されるのです。〉

  【ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、証券市場で売買されている国債や株式を指していることは明らかである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「蓄積された,生産にたいする請求権」にすぎない〉と述べている。大谷氏の旧稿の翻訳では〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉となっていたが、現行本では上記のように修正されている。しかしこの修正は、要するに請求権は生産に対してであって、それが蓄積されているのだということをより明瞭にするためであろう。
   ここで、これまで国債と株式とが何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけである。だから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【11】)というものであった。
   マルクスは後にも紹介するが、『資本論』第2巻で〈(2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。〉(全集第24巻427頁)と述べている。
 株式は、アソーシエイトした資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しない。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【18】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分として実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは「実際には、「蓄積された、生産に対する請求権」に過ぎない」のだと説明されているわけである。しがし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「蓄積された、生産に対する請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、「蓄積された、生産にたいする請求権」が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか?。
 そもそも「蓄積された、生産に対する請求権」とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、「生産にたいする請求権」なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、「蓄積された、生産にたいする請求権」だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで「生産にたいする請求権」と述べているのは、「生産され実現された剰余価値にたいする請求権」と考えることができるかも知れない。第2巻の表記では〈国民の年間生産物にたいする単なる請求権〉となっている。
   そもそも「生産にたいする請求権」というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産にたいする請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程にたいする請求権かさえも分からない(第2巻では「年間生産物にたいする請求権」となっている)。そもそも〈「請求権」にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況しだいによるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本的権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように「生産にたいする請求権」というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「蓄積された、生産にたいする請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断することはできない。】


【23】

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉 (176-177頁)

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で、すなわち国債や株式等の利子生み証券として存在しています。そして,一般に貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのです。〉

  【〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券、あるいは利子生み証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本の蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉と述べている。
  後にマルクスは「III)」において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(大谷本第3巻411頁)として〈第1に,本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているが、ここで〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、「生産にたいする請求権」の蓄積、あるいは〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉だというのである(ただし、実際にはマルクスは問題を絞って、「III)」ではそうした〈貨幣資本の蓄積〉から、「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」だけを問題にしているのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでも述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている有価証券の市場価格(資本価値)の蓄積のことを指しているのであろう。
   ところでこの【22】・【23】パラグラフでは架空資本としての有価証券の説明の纏めになっているように思える(ただし、この纏めの一部は【24】パラグラフの最初の部分まで含まれる)。【17】~【21】パラグラフは架空資本の独自の自立的な運動が論じられていたが、【22】・【23】パラグラフはそうした利子生み証券の架空資本としての説明のまとめと考えられる。つまりこれでマルクスが【9】パラグラフで〈現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉と述べていたうちの〈有価証券〉の考察は終わったわけである。そして【24】パラグラフからは今度は〈手形〉の説明に入り、【26】パラグラフから〈貨幣〉すなわち〈現金(金または銀行券)〉の説明に入っていくことになる。】


【24】

 さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。181)〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間について利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/

  ①〔異文〕次の書きかけが消されている。--「手形は,それの名目価値とそれの市場価値との区別がないという点で,上で見た有価証券とは区別される。だから手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」
  ②〔異文〕「そのときどきの利子率」← 「利子基準〔Zinsmaaß〕」

  181)「〔銀行業者資本の〕最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es...dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。〉 (177頁)

  〈ところで,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分は、これまで述べてきた有価証券、すなわちいわゆる利子生み証券に投下されています。こうした証券そのものは,現実の銀行業者業務、すなわち利子生み資本の再生産資本家たちへの貸付業務としては機能していない準備資本の一部分をなしています。彼らは必要ならすぐにそれらを売って貨幣に換え、それを利子生み資本として貸し付けることが可能なのです。
   銀行業者資本の最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っています。貨幣の貸し手〔moneylender〕、すなわち銀行業者たちにとっては,彼らの私的な立場から見ると、この手形は利子生み証券になります。なぜなら彼は,それを買うとき(割引するとき)に満期までの残存期間について利子分を差し引いて、貸し付ける貨幣額を決めるからです。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのです。そして銀行業者は満期が来れば、その額面どおりの支払いを受けます。だからその手形は銀行業者にとっては先取りされた利子を生んだことになるのです。〉

  【ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉というのは、われわれが【9】パラグラフに関連して考察したものの分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

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       (クリックすると鮮明なものが得られます。)

  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【9】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう。

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられるのかも知れない。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を指しているのが〈銀行資本〔Bankcapital〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉ということができるであろう。」

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉も同じような意味として捉えるべきであろう。ただしここで問題になっている手形は、銀行業者の資本が利子生み資本として貸し出された結果、銀行業者が保持しているものであり、これから営業するために保持しているものとは異なることに注意が必要である。手形は〈現実の銀行業者業務で…機能し〉ているものの結果であり、それに対して〈いわゆる利子生み証券〉は〈現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態に変換でき、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注181)を付けて、次のように説明している。

 〈181)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。〉 (177頁)

   しかし旧稿ではこれに次のような一文が続いていた。〈したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。〉(「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について」(『経済志林』第63巻第1号、33頁)

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 〈「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.)〉 (ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 銀行業者資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章該当部分では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行業者が事業家などが持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、それもあくまでも利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、MEGAの①は次のように説明している。

 〈① 〔異文〕次の書きかけが消されている。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で見た有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で見た有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。これはこの限りでは【9】パラグラフで、マルクスが〈有価証券〉を〈商業的有価証券(手形〉と〈その他の有価証券〉とに分け、後者は〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別される〉と述べていたことに合致する。ここではその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思える。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、すでに【9】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

  《だから貨幣が自己資本としてあるのか、それとも預金されたものとしてあるのか、あるいは手形が割り引かれて手元にあるものなのか、それとも担保としてあるものなのか、そんなことは実物の手形には関係がないとも述べている。これはある意味では非常に重要なことであって、われわれがマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として述べているものを理解する鍵を与えてくれている。というのは銀行が保有する手形はそれが例えば割引された手形であれば、すでに利子を先取りしたものだとはいえ銀行にとっては利子生み証券である。しかしマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として見ている手形はそうした利子生み証券とは本質的に区別されるものだと述べている。つまり〈実物的な〔real〕構成部分〉というのは、それらをそれ自体として捉えられたものであることを示しているのである。だから有価証券の類もそれが銀行にとって債権か負債かには関係なく、とにかく銀行業者の資本のなかにあるものの、現実の構成部分としての存在を見ているということである。だから株式なども、証券市場で売買されているような株式ではなく、株式そのものを問題にしているということである。》
  《次に〈手形〉は、これは手形割引で利子生み資本を運用した結果として銀行が所持しているものであり、だからもしそうならそれを〈預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産〉ということはできない。そればかりかマルクスが〈実物的なreal構成部分〉と述べている手形、すなわち〈商業的有価証券(手形〉は、そうした割り引かれた手形を意味しているのですらないということはすでに指摘した。というのはマルクスはそれと〈その他の有価証券〉とを区別して、後者を〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの〉と述べているからである。後にマルクスは割り引かれた手形を〈利子生み証券〉としているが(【24】パラグラフ)、だからここで〈実物的なreal構成部分〉と述べている〈商業的有価証券(手形〉はそうしたものではなく、そもそもマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは、それらを銀行業者がどういう名目で所持しているのかには関わらないものとして、それ自体として捉えたものであることを示しているのである。》
 《ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【24】参照)。しかしこの点についてはすでに述べた。》

 だからわれわれはこの問題については、基本的には回答は出しているのである。【18】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文については、次のように説明した。

 《株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式がアソーシエイトした資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されても、しかし客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。
  〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に投下された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが投下した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。》

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【9】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の運用対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、割り引かれた手形は、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

  ところで大谷氏はこの部分について次のように論じている。

  〈ここでは手形が「利子生み証券」とされているが,この「利子生み証券」という概念は広い意味で使われているのであって,さきの「いわゆる利子生み証券」とは区別されなければならない。手形がさきに見たような意味での架空資本でないこと,その価値はけっして「純粋に幻想的なもの」でないことはいうまでもないことである(また,銀行資本の成分としての手形を論じているここでは,融通手形のようなものだけが問題になっているのでもないことも明らかである)。〉 (太字は大谷氏による傍点による強調箇所、大谷本第2巻68-69頁)

   しかしこれは大谷氏が国債や株式そのものとそれらの架空資本としての存在とを区別していないことからくる間違いである。架空資本というのは、国債や株式がもたらす定期的貨幣利得を資本還元して計算された資本価値について言いうることであって、国債や株式そのものが架空資本であるわけではないのである。マルクスは、国債や株式について説明しているものと、それらが証券市場で売買されるときの資本価値とを区別して論じており、後者をマルクスは架空資本と述べていたのである。
   確かに銀行業者が手形割引で貸し付けた結果、保持している手形をその他の有価証券と同じ意味で架空資本とは言えないというのはその通りである。しかしそれは銀行が貸付可能な貨幣資本を当面は運用先がないので、国債や株式に投じた結果保持している国債や株式そのものについてもやはり利子生み証券とは言えるが、それが必ずしも架空資本とは言えないのと同じことである。ただ証券市場で売買されている国債や株式を銀行業者が購入したのであれば、それらは架空の資本価値にもとづいて購入したのであり、その限りではそれらは架空資本というるであろう。また手形もそれを貨幣市場で購入したものなら、やはり架空資本と言いうるのである。当時のイギリスでは手形の売買を業務にする手形ブローカーが存在していたのであり、こうした売買される手形はそのかぎりでは架空資本と言いうるからである。また割り引かれた手形を架空資本といいうるのは、再生産の観点に立てば分かるのであるが、それは後に説明することにする。
   というわけで大谷氏のように「利子生み証券」には〈広い意味〉とそうでないものとがあるかにいうのは決して正しいとは言えないのではないだろうか。

   小林氏は、以前、《(われわれのパラグラフ番号では【10】~【23】)についてはまったく問題にせず、〈次いでマルクスは,「資産」項目の中の「利子生み証券」--債券や株式等--に転化された貨幣貸付資本が,いかに「幻想的:架空な資本(illusorisch;fictives Capital)3)」--「擬制資本」--であるかを検討4)し,〉(409頁)というたった数行だけでこの部分(つまり大谷本で164~176頁分)の解説を終えたつもりになっている》と紹介したが(【9】パラグラフ)、ここで引用した一文をもう一度その区切りまで紹介すると次のよう述べているものである。

  〈次いでマルクスは,「資産」項目の中の「利子生み証券」--債券や株式等--に転化された貨幣貸付資本が,いかに「幻想的:架空な資本(illusorisch:fictives Capital)3)」--「擬制資本」--であるかを検討4)し,その上で「銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割を次のように説明する。即ち,
 ①「銀行業者の資本の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投資されている。この部分自体は現実の銀行業者の業務(Bankergeschäft)では機能しない5)準備資本(Reservecapital)の一部である。」
 ②銀行業者の資本の「最大の部分は手形,即ち生産的[産業]資本家あるいは商人の支払約束書から成り立っている6)。〈手形は,その名目価値とその市場価値とが区別されないということで,先に考察された有価証券(securities)[国債や株式等]から区別される。手形は,それが満期になると直ちに,それが振出された[割引かれた]貨幣額よりも大きな貨幣額に転化する。〉貨幣貸付業者(moneylender)にとっては,これらの手形は利子生み証券である。即ち,彼がそれらを買うとき,彼はそれらがなお通用しなければならない期間について利子を差し引く*。だから手形が表示する金額からどれだけが差し引かれるかは,その時々の利子歩合に依存する7),8)。」
  ③「最後に,銀行業者の『資本』の最後の部分は,彼の貨幣準備(Geldreserve)(金または銀行券)から成り立っている」,と。そしてマルクスは,それが預金の支払準備金9)であることを次のように説明する。即ち「預金は〔契約で長期に固定されていない場合には〕つねに預金者の自由になる10)。それはたえず変動する11)。しかし,ある人によって引出されるときには,別の人によって補充されるので,〈事業が正常に経過しているときには〉[預金の]『一般的平均は大きくは変動しない』12)」,と。〉 (小林本409-410頁)

   ここで①と②は今回の【24】パラグラフを二つにわけたものである。最後の③は、われわれのパラグラフ番号では【26】に該当するものである。小林氏自身はこれらの内容については何も論じていない。だから検討しようもないのであるが、ただ同氏はこれらを〈銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割を次のように説明する〉と述べている。またこの引用のあと〈ところでこのように銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した後,次にマルクスはこれら「銀行業者の資本」の「架空性」を次のように,3点にわたって指摘していく。〉(小林本410頁)とも述べている。
   つまり小林氏によれば、【24】パラグラフと【26】パラグラフは、〈銀行業者の資本の実在的諸成分が果す役割〉について述べたものであり、〈銀行業者の「資産」の諸成分が果たす役割を分析した〉ものだというのである。
   確かに【24】と【26】パラグラフは、【9】パラグラフで論じていた〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--〉のうち、まず〈有価証券〉については【10】パラグラフから国債と株式を例に説明して、そのなかで架空資本の概念とその特有の運動を明らかにしたのに対して、【24】パラグラフでは〈手形〉を、【26】パラグラフでは〈貨幣〉を論じているものである。そしてそれらの現実の構成部分が、銀行業者の私的な立場からはどのような意味と役割を持っているのかをマルクスは明らかにしているといえる。この限りでは小林氏の説明は妥当といえる。
   しかし小林氏は〈銀行業者の資本の実在的諸成分〉を〈銀行業者の「資産」の諸成分〉と言い換えている。小林氏にとってはこれは同じことを意味するのである。なぜなら、同氏はマルクスは貸借対照表を前提に論じていると独断しているからであり、だからマルクスが〈銀行業者の資本の実在的諸成分〉と述べているものは、銀行の貸借対照表の〈「資産」の諸成分〉のことだという理解だからである。
   しかしこれはすでに指摘したが、マルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは、ブルジョア的な帳簿にそれがどのように表記されるかには関わらない、それ自体としてそれらを問題にしたものなのである。だから同氏の上記の指摘はその限りでは間違っているのである。】


【25】

 |338下|〔原注〕a) 手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン,1802年,186)26ページ。〔渡邊佐平・杉本俊郎訳『ソーントン・紙幣信用論』,實業之日本社,1948年,52ページ〕。)〔原注a)終わり〕)/

  ①〔異文〕手稿338ページの下半部に書かれたこの原注,および,それに続く,次のパラグラフへの原注b)の全体に,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕

  186)「26ページ」--草稿では,「25,26ページ」となっている。〉 (177-178頁)

  【これは〈この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間について利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)〉という本文に付けられた原注である。ソーントンの著書からの引用文がほとんどなので、平易な書き下し文は省略する。
   小林氏は注のなかで、この部分を紹介しているが、大谷訳と若干違っている部分があるので、紹介しておこう。

  〈8)手稿では,ここに「注a)」が付され,H.Thornton,An Inquiry into the Nature and Effects of the Paper Credit of Great Britain.Lond.1802,p.26から,次の引用がなされている。「手形は『割引可能な商品(discountable articles)』,即ち,いつでも貨幣に換金する(converting)機会のある商品--手形または銀行券の額から,手形が流通するはずの期間の,手形に対する利子に等しい割引ないし差引きが,換金価格(the price of conversion)として支払われるのであるが--となる」,と。〉 (小林本412-413頁)

   またこのソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。マルクスの引用箇所は【  】で括った)。

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、【割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)】としての性質を持っていることを述べねばならない。【この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。】ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)】

  (続く。)

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