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2022年6月 9日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-7)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-7)


【18】

 [523]債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度はアソーシエイトした資本〔Associirtes capital〕を生みだす。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。126)それはただ後者の形態で存在するだけである。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。

  ①〔異文〕「純粋に〔rein〕」← 「けっして〔……〕ない〔kein〕」
  ②〔異文〕ここに,続くパーレンに括られた文の次の文の冒頭の部分を書きかけたのち,消している。
  ③〔異文〕はじめ,ここで文を終えるためにピリオドを打ったが,それをコンマに変更して,次の文を続けて書いた。

  126)〔E〕「それはただ後者の形態で存在するだけである。それはただ後者の形態で存在するだけであって」→ 「それはただ後者の形態で存在するだけであって」MEGAもこのように変更しているが,この変更は訂正目録に記載されていない。〉 (171-172頁)

 まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈私たちはこれまで架空資本の例として国債を見てきましたが、国債とは違って,その有価証券そのものが純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値はやはり純粋に幻想的なのです。
  以前の信用制度を検討したときに見ましたように、信用制度はアソーシエイトした資本〔Associirtes capital〕、すなわち株式資本を生みだします。この資本にたいする所有権を表わす株式も、最初の銀行業者の資本の現実の構成部分の説明で指摘しましたように、その他の有価証券の一つです。たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,資本として投下されない国債とは違って現実の資本を表わしています。だから株式は,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしているのです。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありえます。鉄道株ブームに便乗して、でたらめな鉄道敷設の計画にもとづいて発行された株式などはそうしたものです。)
   しかしこの株式が表す資本は二重に存在するのではありません。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではないのです。それはただ後者の形態で存在するだけです。だから株式は,現実に投下された資本を表していますが、しかし現実の資本を売り飛ばして、投下した資本の回収を図ることなどはできません。だから実際には、株式は、この資本によって実現されるべき剰余価値を配当として取得する所有権原でしかないのです。
   Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれません。しかしこのような株式の売買の取引そのものは、事柄の性質、つまり株式そのものが現実に投下された資本価値を表し、実際上はそれが産み出す剰余価値の一部分を配当として受け取る権限を表すということを、少しも変えるものではないのです。この場合,AまたはBは自分の株式(権原)を他者に販売した時点で、自分の権限を利子生み資本に転化させたのですが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのです。〉

  【ここからマルクスは、架空資本の独自の運動を説明するために、同じ架空資本である株式の説明をまず行おうとしている。マルクスの意図としては、架空資本の形成を国債を例に説明したあと、国債と株式を例に架空資本の運動を説明しようということである。だからマルクスの考えとしては、国債も株式も架空資本の運動としては同じだ、ということである。しかしマルクスは同じ有価証券(債務証書)でも、国債が表すものは〈純粋に幻想的な資本〉であるが、株式の場合はそうでない、という両者の相違からまず説明を始めている。しかしいうまでもなく、この一文でマルクスが強調しているのは、有価証券が代表するものは国債と株式とでは異なるが、しかしそれらが架空な資本価値として現れる限りでは、どちらも純粋に幻想的なものだという点では同じなのだということなのである。だから国債と株式とが代表するものが違うということから、それらが架空資本としてもまた違ったものであるかに理解するのは、実際は間違いなのである。しかしこうした間違った理解に立っている人の何と多いことよ(林氏も残念ながらその中には含まれている)。しかしこの点については、すぐにまたふり返るとして、まずマルクスが続いて述べていることを検討しておこう。

 マルクスは〈さきほど見たように,信用制度はアソーシエイトした資本〔Associirtes capital〕を生み出す〉と述べている。(この〈アソーシエイトした資本〔Associirtes capital〉の部分は、以前の翻訳文では〈結合資本〉となっていた)。ここで〈さきほど見たように〉というのは、エンゲルス版では、第27章に該当する部分で論じたことを指している。そこでは〈信用制度についてこれまでわれわれが一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった〉という書き出しで、箇条書き的に三つのことを上げているが、その第三番目として次のように述べている。

 〈III)株式会社の形成。これによって第1に,生産規模のすさまじい拡張〔が生じ〕,そして私的諸資本には不可能な諸企業〔が生まれる〕。同時に,従来は政府企業 〔だった〕ような諸企業が社会的企業会社的企業〕になる。第2に,即自的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段および労働力の社会的集中を前提している資本が,ここでは直接に,私的資本に対立する会社資本社会的資本〕〔Gesellschaftscapital〕(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)の形態を与えられており,資本の諸企業が,私企業に対立する会社企業〔社会企業〕として〔現われる〕。それは,資本主義的生産様式そのものの限界の内部での,私的所有としての資本の止揚である。第3に,現実に機能する資本家が(他人の資本の)単なるマネージャーmanager〕に転化し,資本所有は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化すること。〉 (大谷本第2巻290-291頁)

 また次のような叙述も見られる。

 〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える。……成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰する。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であり,まさに最後には,すべての個々人からの生産手段の収奪〔に終わる〕。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめ,それはもはや,それがアソーシエイトした生産者たちの社会的生産物であるのと同様,アソーシエイトした生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならない。ところがこの収奪は,資本主義的システムそのものの内部では,対立的に、少数者による社会的所有の取得として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう。株式制度それ自身は,すでに,この形態に対する対立物があるが,しかし株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくり上げるのである。〉 (同293-296頁)

 このようにこの部分では、「株式制度」についての歴史的な位置づけが与えられているが、しかし「株式」そのものについての考察はそれほどなされていない。株式については、ただ〈所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう〉という説明が見いだされる程度である。

 だからこの第29章該当部分においては、マルクスは〈この資本(=株式資本--引用者)にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている〉と「株式」そのものの説明が行われているわけである。以下、このパラグラフでマルクスが株式について説明している内容を少し分析的に考察してみよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券である。
 (2)現実の資本を表している。例えば、鉄道会社や鉱山会社、水運会社、銀行会社等々の企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。
 ここで株式が表している「現実の資本」として、マルクスは現実に機能している(投下されている)資本、つまり「生産資本」と、そのような生産資本として投下された(前貸された)「貨幣資本(Geldcapital)」(額)を表していると述べている。
 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式の資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかない。
 ここで〈この資本〉と述べているのは、(2)で述べている「現実の資本」、すなわち「生産資本」または「貨幣資本(Geldcapital)」のことである。だから〈株式資本価値〉と述べているのは、例えば株式の額面が100万円だとすると、所有権原を表す株式そのものが100万円の資本価値として存在するのではなく、100万円はすでに投下されて現実の資本(生産資本)になっているか、あるいは投下されるために社団構成員によって前貸された貨幣額(貨幣資本Geldcapital)として存在するだけであって、株式そのものが100万円の資本価値として存在しているのではないと述べているわけである。だから額面100万円の株式を持っており、だから現実の資本に対して按分比的に100万円に相当する所有権原をそれは表しているのだと言ってみても、額面100万円の株式そのものが100万円の価値として存在しているわけではないのだから、彼らはただ株式という紙切れを持っているだけなのである。だから、それが表している現実の資本を勝手に処分したりする権原そのものは実際上はないわけである(もちろん、彼が構成員になっている社団がそうした判断をする場合は話は別である)。だから株式そのものは、結局は、将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、というのがマルクスの説明なのである。
 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが、(1)は株式資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」を「表している」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを「表している」わけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を「表している」とされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が「表している」ものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろう。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるであろう。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、株式会社を所有している、すなわち所有権原を持っているといえるわけである。
 (3)は、株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている(この場合は「所有権原を表している」という表現ではなく、「所有権原でしかない」と述べていることに注意)。
 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、株式資本に対する所有権を「表したり」、現実の資本、または前貸された貨幣額を「表したり」しているのだが(つまり「表している」だけだとも読めるのだが)、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ(だからその「表している」ものの実際の内容はそういうものだ)、という含意として読み取ることができるであろう。
 そしてその後に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということをさらに、株式を転売するA、B、Cの人物を使って具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式がアソーシエイトした資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が、その株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されても、しかし客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。
  〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。そしてCの場合は彼の資本(利子生み資本)を〈株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と説明されている。つまりCにおいては、彼が投じる貨幣が資本(利子生み資本)であるのは、彼の私的な立場からいえることに過ぎず、客観的には彼が手に入れた株式は単に実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないわけである。ただ彼もそれをDに販売した時点で、やはり彼の私的な立場において前貸した貨幣を利子生み資本に転化してその回収を図ることになるわけである。
   だから株式に投下された貨幣価値が利子生み資本となるのは、あくまでもその当事者の私的な立場からに過ぎず、株式そのものが客観的に意味しているもの(アソーシエイトした資本に対する所有権を表し、あるいは実現されであろう剰余価値に対する所有権原であるということ)は、だからそうした転売が繰り返されても何も変わらないのだ、とマルクスは述べているわけである。

 しかし注意が必要なのは、これらの一連の説明は、「株式」とはそもそも何かを説明しているのであって、「架空資本としての株式」の説明ではないということである。あるいは【9】パラグラフでマルクスが銀行業者の資本の現実の構成部分として、その他の有価証券の一つとして挙げられていた「株式」について説明しているのであって、これ自体はまだ「架空資本としての株式」の説明ではないと言えるのである。
   もっと分かりやすくいえば、これらの説明は株式の額面に書かれている貨幣額、例えば100万円の額面が何を表しているのかを説明しているのであって、その額面100万円の株式が実際に証券市場で売買される場合のその株式の市場価値、例えば200万円とか300万円の値がつく、そうした資本価値を説明しているのではないということである。そして「架空資本としての株式」というのは、この証券市場で実際に売買されている200万円や300万円の株式の資本価値のことなのである。だからこれらの一連のマルクスの「株式」の説明を、「架空資本としての株式」の説明だと誤解すると混乱することになるのである(株式を「擬制資本」として、国債などの「架空資本」と区別して論じるべきだと考えている人たちが間違っているのもこの点なのである)。先にも指摘したように、架空資本としての国債も株式も純粋に幻想的なものであり、その限りでは同じものだとマルクスは考えているのである。
 だからもう一度、分かりやすく説明すると、国債と株式との違いはその額面が表しているものの違いである。つまり額面100万円の国債に書かれている100万円は〈純粋に幻想的な資本〉を表しているだけであるが、額面100万円の株式の100万円は現実資本に対する按分比的な所有権を表している(つまり現実資本の総額が1億円なら、額面100万円の株式は、現実資本の100分1の所有権を表しているわけである)。確かにこの点では両者には相違がある。しかしそれらが売買される価格(あるいはその基準となる市場価値=資本価値)、すなわち架空資本としては、例えば額面100万円の国債が80万円で売買されているとしても、あるいは額面100万円の株式が300万円で売買されているとしても、確かに両者の資本価値には違いがあるが、しかしそれらが同じように幻想的なものだという点では、まったく同じなのである。一方は確定利息を平均利子率で資本還元し、他方は配当をやはり平均利子率で資本還元したものであり、その限りでは純粋に幻想的なものなのである。

 さて、このパラグラフの冒頭、マルクスは〈債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である〉と述べている。一見すると同じ架空資本でも、マルクスは国債と株式とでは違いがあるかに述べているように見える。実際、そのように捉えている人が多いということはすでに指摘した。そして何を隠そう、わが御大将もその一人であることもすでに指摘した。すなわち次のように主張している。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)
 〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者(「債務者」の間違い?---引用者)によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
 「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)〉 (同上)

 最初の引用文では、林氏は国債について〈“純粋の”空資本である〉と「純粋」にわざわざ“ ”を入れて強調しているが、二番目の引用文では、どうやらその理由らしきものが分かる。林氏はマルクスが国債は架空資本だと述べていることを持ち出してもサブプライム問題や有価証券一般やさらには社債などの場合にはなおさら何の説明にもならないのだと述べている。その理由はどうやら、債券というのは確かに債務証書だが、それによって貸し付けられた貨幣資本が現実資本に転化され、機能することを少しも否定しないからだというのである。それは産業会社の株式がそうであるのと同じだ、と。つまり国債の場合は、ただ浪費されるだけだが、債券として表される債務証書の場合は、場合によっては現実資本に転化される可能性はあると言い張るわけである。確かに社債や株式はそうであろう。しかしサブプライムローンはどうであろうか、それは住宅ローンであり、その限りでは決して現実資本に転化されるのではなく、ただの消費者ローンと同じではないのか。だからこそ、林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明したのではないのか、それなのに、マルクスが国債を架空資本と言っているからといって、サブプライムローンの説明にそれを適用するのは間違いだというのである。しかも奇妙なことに、その理由として持ち出すのが、社債や株式のような現実資本に投下される可能性のあるものもあるからだというのである。これでは林氏の論理は自分の身を捩じったようなわけの分からないものになっている。この混ぐらがってわけの分からない林氏の論理を丁寧に解きほぐしてみよう。

 最初の引用文については、すでに何度も批判してきた。だから二つ目の引用文を詳細に検討してみよう。まず林氏は〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張している。国債について、〈とりわけ当時のイギリスの国債について〉とわざわざ断っているのは、マルクスが国債を例に架空資本の形成を論じているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのだと言いたいわけであるが、しかしこれも無意味な難癖に過ぎないことはすでに指摘した。実際、林氏自身も永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであることを次のように認めざるを得ないのである。

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。〉 (No.1111)

 林氏はマルクスが対象としているのはコンソルという永久国債だから〈「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定〉したと言いたいのであるが、しかし他方で普通の国債でも償還期限が来る前に「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では同じであることも認めざるを得ない。しかし永久国債について、そうした「概念規定」(これが国債の「概念規定」だと林氏は考えるわけであるが、果たして林氏は「概念」とはそもそも何であるのかを知っているのだろうか?)が問われるのは、〈政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか〉などとも述べている。とするなら、ますます永久国債と償還期限がある国債とは同じであることを示しているのではないのか。あらかじめ償還期限が決まっているか、それとも政府の都合で随時償還期限を決めるのかの違いでしかないわけだから(そればかりかあらかじめ償還期限が決まっている国債でも、その償還期限が来ても、借り換えによって、さらにその償還期限が無制約的に延長され得るのだから)、ますます両者の違いは無くなるのである(もっとも先に紹介した『平凡社大百科辞典』によると、議会の承認で償還可能とされたのは1923年以降だから、マルクスが生きていた当時はそうしたことは無かったのではあるが)。そして国債を架空資本であると、それこそ「概念規定」する上で、国債に償還期限がついているかいないかということはどうでも良いことであるのは、これまでの架空資本の形成、すなわちその「概念」についてしっかり学んできたものにとっては自明のことなのである(なぜなら、償還期限があろうが無かろうが、それが証券として転売されるかどうかということこそが架空資本にとって本質的なことなのだからである)。償還期限の有無が何か国債が架空資本であるかそうでないかを左右するかに(マルクスの当時の国債は永久国債だから架空資本だが、現代の国債は償還期限があるからそうでない等々と)考えているところに、林氏が架空資本のなんたるかをまったく理解していないことをむしろ暴露しているのである。それともそれはただ問題を誤魔化し煙にまくための林氏特有の論法の一つであろうか。

 ところで問題なのは、林氏が〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張していることであった。

 林氏は〈その言葉だけ取り上げて論じても〉というが、〈言葉だけ取り上げて論じ〉るというのはどういうことなのか。誰がそんなことをしたのであろうか。確かにマルクスが論じているものを理解もせずに、ただその言葉だけをアレコレ引用して論じても、無意味なことは確かである。しかしマルクスの文章を理解していないというのなら、それは林氏にこそ当てはまるのではないだろうか。これまで論じてきたことを見ても、林氏こそマルクスが論じている内容を慎重且つ厳密に吟味してその内容を正確に理解しようとしていないことは明らかである。それとも林氏は〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていること〉は、〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張するのであろうか。確かに林氏はマルクスの架空資本の理論は〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たない〉と主張するわけである。しかし〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉というのはどういうことであろうか。マルクスは銀行業者の資本の現実の構成部分である「その他の有価証券」、すなわち「いわゆる利子生み証券」を説明するために、国債を例にそれらが架空資本になることを説明しているのである。とするなら、この林氏の主張はマルクスの主張を真っ向から否定することになるし、ならざるを得ないであろう。マルクスが国債を例にして架空資本の形成について論じているが、そんなものは〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と林氏は主張するわけだからである(もっとも厳密を期すなら、林氏は「有価証券一般」を問題にしているが、マルクスが問題にしているのは「有価証券一般」ではなく、「商業的有価証券(手形)」を除いた「その他の有価証券(=利子生み証券)」を架空資本として問題にしているのである。こうしたマルクスが厳密に区別しているものについても林氏はまったく無頓着であり、その理解の粗雑さは否めない。一体〈その言葉だけ取り上げて論じて〉いるのは誰なのか?)。

 とにかくもう一度話を元に戻そう。ここで私が論じたいのは、架空資本と擬制資本とを区別し、それらを使い分ける必要を主張する俗説についである。そしてその俗説に染まっている林氏の主張の批判的検討である。
 要するに林氏の言いたいことは、債券は紙切れであり、債務証書だが、しかしそれによって貸し出された貨幣が貨幣資本(この場合はGeldcapitalである)として、現実資本に転化する場合もある(株式や社債の場合はまさにそれだ)、だから何も表していない国債と一緒には論じることは出来ない。前者(つまり社債や株式)は「擬制資本」でありえても、マルクスが「架空資本」(純粋な擬制資本?)と述べたものとは区別されなければならない、というものである。
 このように国債と株式とを区別して、前者は架空資本だが後者は擬制資本というべきだという主張は何も林氏の発明ではない。それは結構ひろく言われている俗説であり、林氏はただそれに追随しているだけなのである。
 実際、大谷氏はこの第29章の草稿の紹介の前に氏の解説を書いているが、そこで次のように論じている。

 〈いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない。〉 (大谷本第3巻155頁)

  このように大谷氏もここで「いわゆる」を付けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。それは単なる翻訳者の翻訳の違いだけなのか。もうそうなら、どうして大谷氏は一方で「架空資本」と翻訳し、他方では「擬制資本」と訳すのか、その理由を明らかにすべきであろう。しかしそうしたことについて大谷氏は何も答えていないのである。
 大谷氏は『図解・社会経済学』では次のように述べている。

 〈[株式]すでに見たように、銀行制度は株式資本という結合資本を生み出す。この資本への所有権を表す証券である株式は、それ自体としては、それぞれの企業で投下されている資本の一部を表している。しかし、株式はじつは、この資本がもたらす剰余価値の一部にたいする権利名義でしかない。株式も典型的な架空資本なのである(株式の場合には、架空資本ではなくて「擬制資本」という訳語が当てられることが多い)。〉(371頁、太字と傍点は大谷氏による)

 このように大谷氏は〈株式も典型的な架空資本なのである〉と株式それ自体が架空資本であるかに理解している。そして株式の場合を擬制資本という訳語が当てられる場合が多いと述べているのである。このように大谷氏においても理解が曖昧であることを暴露しているのである。さらに大谷氏は次のようにも主張している。

 〈以上が,第5章5)の「Ⅱ)」で出てくる「架空資本」の最初のものであるが,見られるように,これはいわゆる擬制資本たる利子付証券およびその「資本価値」のことである。マルクスは,それらの価値は総じて「純粋に幻想的」であるが,とくに国債では「資本そのものが「純粋に幻想的」であり,さらに譲渡できない収入源泉までも「資本」とみなされる場合--その極は労働力--を「純粋に幻想的な観念」だとし……ている。〉 (大谷本第2巻67-68頁)

 マルクスが架空資本としての「資本価値」という場合、規則的な貨幣利得が、それをもたらす理由は何であれ、すべて利子生み資本のもたらす利子とみなされ、だからその利子をもたらすと想像された利子生み資本の価値のことである。だからそうした貨幣利得は、その時の平均利子率で還元されて、それをもたらす資本価値が計算されたわけである。だからこそまたそれらは純粋に幻想的な、ただ想像されたものに過ぎないのであり、だから「架空資本」とマルクスは規定したのである。ところが大谷氏によると、この「資本価値」は「資本」と「価値」とに二つにわけられて、国債は「価値」だけでなく、「資本」そのものが「純粋に幻想的であり」、それに対してそれ以外の利子付資本は「価値」のみが「純粋に幻想的」だというのである。しかしこれはマルクスの架空資本の概念から考えるなら、決して正しい理解とは言い難いであろう。こうしたことから大谷氏も国債とその他の有価証券とは同じ架空資本であっても区別される必要があるというわけである。
 しかしこうした主張はすべて間違いであることはすでに指摘した。彼らは国債と株式の額面が表すものの違いを、それらが架空資本として取り引きされているものとの区別が出来ていないのである。大谷氏の主張にも、株式そのものを架空資本と捉える誤った理解が一方であることは明らかである。しかし国債や株式もそれ自体としては決して架空資本ではないということが、こうした俗説を唱える人たちには理解されていないのである。そうではなく、国債も株式も、それらが架空資本なのは、そられが証券として市場で売買されるところに成立する概念なのである。国債も株式も、それらが転売されないなら、一方は単なる借用証書に過ぎないし、他方もただ現実資本や剰余価値に対する権利証書に過ぎないのである。しかしそれらが証券として売買されることによって、それらは架空な資本価値を持ち、架空資本としての運動をするのである。だからその意味では、国債も株式も架空資本としては同じであり、純粋に幻想的なものでしかなく、同じような独自の運動、すなわち市場利子率によって資本還元された価格(資本価値)を持ち、その価格よって売買されるという運動を行うのである。】

  (続く。)

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