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2022年6月30日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-10)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-10)



【26】

 〈/338上/最後に,銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である。預金は{長期について約定されているのでなければ}預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) しかし,ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない」のである。/〉 (178頁)

  〈これまで〈銀行業者の資本の現実の構成部分--貨幣、手形、有価証券〉について、順序を逆にして見てきましたが、銀行業者の「資本」〔d."Capital"d.bankers〕の最後の部分をなすものは,貨幣、すなわち銀行業者の貨幣準備(金または銀行券)です。
  こうした現金(金または銀行券)は、銀行が預金準備として持っているものです。つまり預金者の引き出しにいつでも応じられるように一定額を常に準備しているものです。
  預金は、定期預金のように、長期について約定されたものでなければ、預金者がいつでも自由に引き出せるものです。だから、それは絶えず増減しています。しかし,ある人がそれを引き出せば他の人が新たに預金として補充するというように、「一般的な平均額はあまり変動しない」のです。〉

  【ここに出てくる〈銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〉も、先のパラグラフの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉とほぼ同じであり、【9】パラグラフに出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉と同じもの、すなわち「銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するもの」と考えるべきであろう。そしてその最後のものが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。【9】パラグラフで掲載した図をもう一度書いてみよう。
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  (画像をクリックすると鮮明なものが得られます。)

 これまでの考察を振り返ると、【10】パラグラフからは最初に「②その他の有価証券(利子生み証券)」が取り上げられ、そのなかで架空資本の概念とその独自の運動が明らかにされ、【24】パラグラフでは「①商業的有価証券(手形)」が取り上げられた。だから最後に残っているのはこの【26】パラグラフにおける「1)現金(金または銀行券)」となる。
 ところが、マルクスは「現金」について説明するのではなく、すぐに「預金」の説明に移っている。これはどうしてであろうか。それは銀行業者の資本の現実の構成部分である「現金」を、マルクスが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)〉と説明していることを考えれば分かる。つまり銀行資本の構成部分をなす「現金(金または銀行券)」というのは、「預金」の支払準備だということである。つまり預金者が預金を引き出しに来た場合に、いつでも応じられるように準備しているのが銀行業者の資本の現実の構成部分である「現金」だということなのである。
 だからマルクスは、続けて、〈長期について約定されている〉もの、つまり「定期預金」のようなものではない限りは、預金は、〈預金者がいつでも自由にできるもの〉だから、〈それは絶えず増減している〉が、〈ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない〉と述べているのである。だからある銀行業者の預金総額が例えば100億円だとしても、毎日引き出しに来る人の合計額の最大は1000万円ぐらいであり、しかもある人がその日に現金100万円を引き出したと思ったら、別の人が同じ日に現金100万円を預金に来るという具合で、だから銀行が預金の引き出しのために常に準備しておかなければならない現金はだいたいその最大額の1000万円ぐらいでよいというようなことになるわけである。
   だから銀行業者が預金として預かった金額が例え100億円だとしても、それは帳簿上のものであって、預金額の100億円が現金として銀行にあるわけではない。その多くはすぐに利子生み資本として貸し出されるか、あるいは有価証券に投資されて準備として保有されているかであって、現金として保持されるのは、ただ預金の引き出し要請にいつでも応じられる最低限の額だけなのである。だから取り付け騒ぎのように、もし預金者が自分たちの預金をすべて急いで引き出そうとしてもそれは事実上不可能なのである。その時は、銀行業者は倒産するしかない。】


【27】

 〈/338下/〔原注〕b)「銀行の手中であろうと銀行業者の手中であろうと,商人たちが持っている貨幣は,いつでもきわめて大量ではあるが,絶えざる変動のなかにある。」(J.ステューアト,第4巻, 228ページ〔小林昇監訳『J.ステュアート経済の原理--第3,第4,第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,325ページ〕。)〔原注b)終わり〕|

  ①〔異文〕前パラグラフへの原注a)に注記したように,この注には,赤鉛筆で1本の縦の抹消線が引かれている。〔これはエンゲルスによる済みじるしであろう。〕
  ②〔注解〕ジェイムズ・ステューアト『経済学原理の研究……』,パリ,1789年。〉 (178頁)

  【これは〈預金は……預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) 〉という本文に付けられた原注である。ステューアトからの引用だけなので平易な書き下し文は省略する。
  小林氏はこの原注を注のなかで紹介しているので、まずそれを見ておこう。

  〈11)手稿では,ここに「注b)」が付され,J.Steuart,Recherche des Principes de l'Économie Politique,t.IV,Paris 1789,p.228から,「銀行または銀行業者の手中にあって商品を買う貨幣は,いつでも非常に大きいとはいえ,たえざる変動のドにある」という引用がなされている。なおこの注も,現行版では削除されている。〉 (小林本413頁)

   小林氏訳では大谷訳にある〈商人たちが持っている貨幣は〉という一文はないが、恐らく〈商品を買う貨幣は〉がそれに該当するのであろう。
   ステューアトの一文では大谷訳では〈銀行の手中〉と〈銀行業者の手中〉となり、小林氏訳では〈銀行または銀行業者の手中にあって〉と、両方とも「銀行」と「銀行業者」とを区別しているように読めるが、これだけではどういう意味があるのかわからない。ただ〈手中〉というのは、銀行業者に預けてあるという意味であろうと考えられる。だからこれは帳簿上銀行預金として銀行業者の手中にある額を問題にしているということが分かる。それが常に変動していることを指摘したものとして、マルクスは紹介しているだけのようである。だからエンゲルスは削除したのであろうか。】


【28】

 〈/338上/[/(1)]銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている[/(2)]それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なもの195)である(すなわち債権 196)(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 197)〔)〕[/(3)]この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値は,その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである[/(4)]そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。

  ①〔異文〕ここに,「権原Titel〕」と書いたのち,消している。
  ②〔異文〕「将来の収益」← 「収[入]〔Ein[nahmen]〕」
  ③〔異文〕「資本の貨幣価値」← 「価値」← 「名目価値

  195)〔E〕「である(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。」→ 「であって,債権(手形),国債証券(過去の資本を表わしているもの),および株式(将来の収益にたいする支払指図)から成っている。」
  なお,この部分に見られる括弧を,MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。--「である(すなわち債権)(手形と公的有価証券),また,株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)」
  196)草稿ではここに「)」があるが,不要と考えて削除しておく。MEGAでは草稿のままになっている。
  197)「〔)〕」--ここにあるべきところと考えて,挿入しておく。MEGAでははいっていない。〉 (179-180頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しています。そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っています。だから,銀行業者の資本の最大の部分,つまり現金(金あるいは銀行券)を除いた部分は、純粋に架空なものなのです。
   例えば債権、これは手形や公的有価証券が該当しますが、あるいは株式、つまり将来の収益にたいする所有権原、あるいはそれを配当として支払を指図するものですが、これらは銀行業者の帳簿上ではまったく架空なものなのです。
   すなわち、この場合、次のことを忘れてはなりません。銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている,帳簿上の資本の貨幣価値は,その紙券が公的有価証券のように確実な収益にたいする支払指図であるか,または株式の場合のように、現実の資本にたいする所有権原であるかぎりでさえも,まったく架空なものだということです。それらはこれらの紙券(株式)が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるからです。あるいは,これらの紙券(国債などの公的有価証券)がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本で表現されるからです。要するに、それらの額面とは違った資本価値をもつものとして記帳されているということです。
   そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている、ということが加わります。それが今は当面の運用先がないために準備ファンドとしてさまざまな形態をとっているのです。〉

  【その前の【26】パラグラフまでで、【9】パラグラフで論じていた〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--〉のそれぞれについて論じてきたわけであるが、今回の【28】パラグラフからは、しかしそれらの最大の部分が、銀行業者の帳簿上では架空資本として存在していることが明らかにされているように思える。
 しかし、このパラグラフの解読に着手する前に、やっておくべきことがある。このパラグラフでは〈蓄蔵貨幣〉という用語が出てくる。しかも〈この蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉という文言も出てくる。しかしわれわれの理解では、蓄蔵貨幣というのは、『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第3節「貨幣」の中に出てくるものである。つまり定冠詞のつかない「貨幣」、第三の規定における「貨幣」、あるいは「本来の貨幣」と言われるものであり、金無垢でできているものでなければならないような性格のものでは無かったのか。ところがここではマルクスは蓄蔵貨幣の一部は「紙券」(Papier--これはドイツ語では「紙」のことである)から、自己価値ではない単なる支払指図からなっているなどと述べている。果たしてこの蓄蔵貨幣というのは、われわれが『資本論』の冒頭で学んだ蓄蔵貨幣とはどう違うのか、それが問題である。われわれはそもそも「蓄蔵貨幣」とは何なのか、という根本的なことを、まずもって再検討しておかなければならないのである。
   実は「蓄蔵貨幣」は『資本論』全3巻にわたって出てくるカテゴリーであり、それらをつぶさに検討して行くと、なかなか一筋縄では行かないものであることが分かってくるのである。
 大谷氏は「貨幣の機能II」(『経済志林』62巻3・4号)のなかで、「蓄蔵貨幣」についてかなり詳細な検討を加えている。われわれはそれをも参考にしながら、この概念について検討することにする。ただしこの問題にはあまり多くを割けないので、結論だけを述べることにする(だから興味のある方は、大谷氏の論文を参照して頂きたい)。大谷氏は①『経済学批判』の原初稿、②『経済学批判』、③『1861-3年草稿』、④『資本論』第3部第1稿(第19章該当箇所)、⑤『資本論』第3部第1稿(第28章該当箇所)、⑥『資本論』第1部の六つの引用文を紹介して、それらの引用文のなかに出てくる蓄蔵貨幣のマルクスの使用例を考察しながら、検討を加えている。
 それらを踏まえて「蓄蔵貨幣」を大まかに分類して図示すると次のようになると思われる。
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 最初の「蓄蔵貨幣」と「(1)本来の蓄蔵貨幣」が二重線で結ばれているのは、本来の蓄蔵貨幣こそが、蓄蔵貨幣の本源的な概念をなすものだからである。またマルクスが「それ自体としての蓄蔵貨幣」と述べているものは、(1)と(2)を含んだものであることを示している。
 さて、ここでは蓄蔵貨幣を大きく5つに分類したが、ここで(1)と(5)のみが、金貨幣か金地金で無ければならないが(しかし世界的な信用システムが発展している今日では(5)は必ずしも地金形態に限定されない)、それ以外の(2)~(4)はマルクス自身は必ずしもそうしたものに限定していないということである。
 例えば大谷氏は「価値章標は蓄蔵貨幣となりうるか」と題して、次のようなマルクスの一文を紹介している。

 〈「鋳貨は,それ自体として,すなわちたんなる価値章標として孤立させてみれば,ただ流通によってしか,また流通のなかでしか存在しない。たんなる価値章標は,それを貯める場合でさえも,ただ鋳貨として貯めることができるだけである。というのも,価値章標の力〔Macht〕は国境のところで終わるのだからである。この場合には貨幣蓄蔵は,流通の過程そのものから生じる,もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形熊,すなわち,流通に予定された,鋳貨の蓄え〔Vorrath von Münze〕としての貨幣蓄蔵の形態,または国内鋳貨そのもので行なわれうる諸支払のための準備としての貨幣蓄蔵の形態以外まったく問題になりえない。つまり,本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。というのは、価値章標としての鋳貨には,貨幣蓄蔵の本質的要素が,すなわち,それが果たす社会的機能を別としても,ただ象徴的なだけの価値ではなくて,価値そのものの直接的定在でもあるがゆえに,特定の社会的関連から独立した富である,ということが,欠けているからである。したがって,価値章標にとってそれがそのような章標であるための条件となっている諸法則は,金属貨幣にとっては条件とはならない。というのも,金属貨幣は鋳貨の機能に縛りつけられてはいないからである。(MEGA,II/2,S,30-31.)〉 (『経済志林』第62巻第3・4号、250-251頁)

 このようにマルクスは鋳貨準備だけではなく、支払手段の準備も、価値章標によって可能であるとの理解に立っていることが分かるのである。大谷氏も〈要するに、価値章標は鋳貨の準備ファンドとも支払手段のための準備ファンドともなりうるのであって、この両者が「流通過程そのものから生じる、もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形態」と見なされうるかぎり、価値章標は蓄蔵貨幣となりうる、と言いうるのである〉(同253頁)と結論している。
 そしてこうした主旨からすれば、(2)も同じように必ずしも金貨幣や地金形態でなければならない理由とはならないであろう。それはただ非自発的に流通が中断されて、商品の変態が第一変態で止まっているような状態、あるいは支払に必要な貨幣額が準備された状態にあることを意味するだけだからである。だからこれらもただ鋳貨がそのまま流通を停止しているとも考えることが可能だからである。
 また(4)の資本の流通過程から生じるものについては、大谷氏は紹介していないが、次のようなマルクスの言明がある。

 〈事態を現実に起きるとおりに見るならば、あとで使用するために積み立てられる潜在的な貨幣資本は次のものから成っている。
 (1)銀行預金。だが、銀行が現実に動かすことができるのは、比較的わずかな貨幣額である。ここではただ名目的に貨幣資本が積み立てられているだけである。現実に積み立てられているものは貨幣請求権であって、それが貨幣化されうる(いつか貨幣化されるかぎりで)ものであるのは、ただ、引き出される貨幣と預け入れられる貨幣とのあいだに均衡が成立するからでしかないのである。貨幣として銀行の手のなかにあるものは、ただ相対的にわずかな金額だけである。
 (2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。
 (3)株式。思惑的なものでないかぎり、それは、一つの会社に属する現実の資本にたいする所有証書であり、またこの資本から年々流れ出る剰余価値にたいする指図証券である。
 すべてこれらの場合には貨幣の積み立てが行なわれるのではなく、一方で貨幣資本の積み立てとして現われるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われるのである。貨幣がその所有者によって支出されるか、それとも彼の債務者である別人によって支出されるかということは、少しも事柄を変えないのである。
 資本主義的生産の基礎の上では貨幣蓄蔵そのものはけっして目的ではなく、むしろ流通の停滞の結果であるか--というのは通常よりも大きい貨幣量が蓄蔵貨幣形態をとるのだから--、または回転のために必要になる積み立ての結果であるかであり、あるいはまた、最後に、蓄蔵貨幣は、ただ、一時的に潜在的な形態にあってやがて生産資本として機能するべき貨幣資本の形成でしかないのである。〉 (『資本論』第2部、全集第24巻426-7頁)

 だから資本の流通過程それ自体から生じる蓄蔵貨幣(潜勢的な貨幣資本)には、さまざまな形態がありうるということである。またこうした準備ファンドで注意が必要なのは、〈準備金として機能している貨幣資本がその所有者のためには準備金の機能を果たしながら社会のためには現実に流通しており(銀行預金が絶えず貸し出されるように)、したがって二重の機能を果たしている〉(『資本論』第2部全集第24巻422頁)場合があるということである。つまり準備ファンドとして蓄蔵貨幣の形態をとっているといっても、それは特定の当事者の私的な立場からのみそういえる場合があるのであって、そうした場合には、社会的には、あるいは客観的には必ずしもそうしたものではない場合もあるということに注意する必要があるわけである(この点、先の大谷氏の考察は貨幣取扱資本との関連においてやや不十分なところがある)。

 さて、やや前置きが長くなったが、こうした蓄蔵貨幣についての一般的な考察を踏まえて、われわれは今問題になっている【28】パラグラフの解読に取りかかることにしよう。このパラグラフは途中でさまざまな挿入文が括弧で括って入っており、ごちゃごちゃしていてややこしいので、全体を四つの部分に分けて(テキストに[/(1)]等を挿入)、一つ一つ考察していくことにしよう。

  (1) 〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。〉

 ここで〈銀行の準備ファンド〉として述べている内容は、【26】パラグラフで述べていた〈貨幣準備(金または銀行券)〉だけではなく、【24】パラグラフで言及していた〈準備資本〉をも含めたものである。つまり銀行業者の資本が、〈現実の銀行業者業務〉として投下先を見いだせない(機能できない)ので、とりあえず準備資本として有価証券に投資されているような場合も含むのである。だからその一部が〈それ自身また紙券Papier〕から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉というのはわれわれにとっては頷けることである。というのは、【24】パラグラフでは〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べられていたからである。
 だから問題は〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現して〉いるということについてである。どうしてこのようなことが言えるのかは、貨幣取扱資本の機能について知る必要がある。マルクスは第25章該当箇所で、信用制度(銀行制度)の本来の基礎が商業信用にある一方で、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついていると指摘していた。つまり銀行は貨幣取扱業としての側面も持っているわけである。少しその部分から紹介しておこう。

 〈すでに前章(これは現行の第19章「貨幣取扱資本」部分をさす--引用者)で見たように,商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払(したがってまた地金取り扱い)は,貨幣取扱業者の手に集中される。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいはmonied Capitalの管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らはmonied Capitalの現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者としてはいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らはmonied Capitalの一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面ではmonied Capitalの,貸し手の集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。〉 ( 大谷本第2巻169-171頁)

 また大谷氏は先に紹介した論文のなかで、第19章該当部分の草稿からかなり長い引用を行っているが、その部分も重要なので、紹介しておこう(ただしこの抜粋は何パラグラフにも及ぶ草稿から部分的に抜き書きしたものであり、また草稿では続いているものを大谷氏は敢えて改行している部分もあるが、大谷氏の表記に従っておく)。

 〈資本のうちの一定部分はたえず蓄蔵貨幣として存在していなければならず(購買手段の準備,支払手段の準備,遊休していて貨幣形態のままで、充用を待っている資本),また資本のうちの一部分はたえずこの形態で還流してくる。このことは,支払や収納や簿記のほかに,蓄蔵貨幣の保管を必要にするのであり,これはまたこれで一つの特殊な操作である。つまりそれは,実際には,蓄蔵貨幣をたえず流通手段や支払手段に分解することであり,また,販売で受け取った貨幣や満期になった支払から蓄蔵貨幣を再形成することである。……
 貨幣の払い出し,貨幣の収納,差額の決済,貨幣の保管,等々は,これらの技術的操作を必要とさせる諸行為から分離して,これらの機能に携わる資本を貨幣取扱資本にするのである。……
 資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,いまでは資本のうち支払手段および購買手段の準備ファンドとしてつねに貨幣形態で存在しなければならない部分の形成これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣はたえず流動しており,たえず流通に注ぎ,またたえず流通から帰ってくる。
 第2の形態は,遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は,蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。
 第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払金の支払と受領,諸支払の決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家のたんなる出納代理人として行なうのである。……
 貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備ファンドは,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。〉 (大谷本第2巻316-331頁)

  だから産業資本や商業資本が彼らの蓄蔵貨幣(それは鋳貨準備であったり、支払準備であったり、世界貨幣の準備であったり、とりあえずは投資する前の貨幣であったり、固定資本の償却費用であったり、等々であるが)のほとんどを銀行は預金として引き受けるわけである。先の蓄蔵貨幣の分類のうちで(1)を除く、ほとんどが銀行に預金として集中してくるわけである。しかもそれらは〈経済的最小限に縮小〉されて存在しているわけだから、それらは資本主義的生産が発展している諸国では、社会的には蓄蔵貨幣として現存する量をほぼ表現しているといえるわけである。というのは、産業資本家や商業資本家は彼らの蓄蔵貨幣を実際の流通や投資に必要な限りで、銀行から引き出すのであるが、銀行の準備ファンドというのは、そうした産業資本家や商業資本家の引き出しに応じることのできる必要最小限を充すものでなければならないからである。その量は経験的に決まってくる。ただ産業資本家や商業資本家たちが彼らの蓄蔵貨幣を銀行に預金している場合、これらの再生産的資本家たちにとっては蓄蔵貨幣であっても、しかし彼らの預金は、すでに銀行にはなく、ただ記録だけがあるだけに過ぎない場合がほとんどであって、だから銀行の準備ファンドは、再生産的資本家たちにとっての、つまり名目的な蓄蔵貨幣の総額よりかなり少ないものであることは確かであろう。
 そして問題なのは、こうした銀行の準備ファンドの一部分(【26】で問題になった貨幣準備のうち金は除く)は、紙券から、つまり自己価値ではない、金にたいする支払指図からなっているわけである(金に対する支払指図という点では【26】で問題になった貨幣準備の一部である銀行券にも妥当するであろう)。

  (2)〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕〉

 ここで〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前の〈銀行の準備ファンド〉と同じではない。というのは、われわれは【24】パラグラフで〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉という一文を知っているからである。だからここで言われている〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前に言われていた〈銀行の準備ファンド〉プラス〈手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束〉と考えるべきであろう。そうすれば、括弧のなかでマルクスが述べていることも自ずと理解できるようになる。つまり、マルクスは括弧のなかで、〈債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉を上げているが、だからここに手形が入っているのも頷けるのである。そして手形も含めてマルクスが〈純粋に架空なもの〉と述べているのは(それ以外のものが純粋に架空なものであるのは何も問題にはならないのであるが)、【24】パラグラフではこのような割り引きされた〈手形は利子生み証券である〉とも述べていたことを思い出せば、納得行くであろう。手形そものはそれが「真正」であるなら(つまり「空」手形や詐欺のための手形や手形貸付による手形〔融通手形〕等ではないなら)、架空とはいえないが、しかし割引されて銀行が保有する手形は、銀行にとっては「利子生み証券」であり、またそうした利子生み証券として売買の対象になる限りでは「架空なもの」なのである。また手形も有価証券であるかぎり、マルクスがここで述べている〈けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもまた間違いない事実であろう。

 以前にも指摘したことがあるが、銀行が割り引いて保有する手形が、架空なものであるということは、再生産の観点から考えると明瞭に理解できる。ここに資本家Aがおり、彼が生産した商品を信用で資本家Bに販売し、Bが発行した約束手形を持っているとしよう。この場合の手形は決して架空なものではない。というのはこの手形は資本家Aが生産した商品の価値の有価証券の形態における実現形態だからである(それは期日が来れば確実に金貨幣に転換されうる)。しかしAがその手形を銀行に割り引いて貰い、その代わりに銀行券を入手したとすると、その結果、銀行が保有することとなった手形は、すでに架空なものでしかないのである。というのは、銀行はただ銀行の信用だけで発行した銀行券の代わりに手形を持っているわけだからである。また資本家Aは自らの商品の価値の実現形態をすでに銀行券という形で先取りしたわけだからである。しかしもちろん銀行のAに対する貸付は残っている。Aはその銀行券で彼に必要な商品資本を購入して生産を開始することができる。だからこの時点で、もはや銀行が保有する手形は、すでにそうした現実の商品価値の実現形態ではなくなっているのである。だからこうした割引手形は〈純粋に架空なもの〉ということができるのである。手形の満期が来て、Bから金または銀行券が銀行に支払われたとしてもそれは銀行のAへの貸付が返済されたに過ぎない。

   (3)〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの紙券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 まずこの文章で注意深く読まなければならないのは、〈これらの紙券が表わしている資本の貨幣価値〉と〈これらの紙券が表わしている現実の資本の価値〉とは異なるものであるということである。前者は紙券が表す額面ではなく、それが資本価値として売買される場合の市場価値を意味しているのである。それに対して後者は額面を意味している。そしてマルクスはこれらの〈資本の貨幣価値〉が〈まったく架空なものであ〉ると述べているわけである。
 この文章を注意深く分析すると、次のような構成が見えてくる。まず〈銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている資本の貨幣価値〉が主語になって、それらは〈まったく架空なものであ〉ると結論づけられている。そして〈これらの紙券〉として、具体的には、一つは〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉と、もう一つは〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉が例として上げられていて、そうしたものの場合にも、やはり〈まったく架空なものであ〉ると言明されているわけである。
 そしてそれに続く一連の文章は、それらが〈まったく架空なものであ〉ることのさらなる説明であると考えられる。ただその説明の順序が今度は逆になっているのである。
   つまり最初の〈それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ〉というのは、もう一つの例として示された〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉について述べているのである。つまり株式の市場価値は、株式が表している現実の資本の価値から離れて調整されるという事実を指摘しているわけである。あるいは同じことであるが株式が売買される価格はその額面にある貨幣額とは離れて調整されるということである。
   それに対してその次に述べていること、〈あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ〉というのは、実は〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの紙券〉の具体例として最初に述べられていた〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉が〈まったく架空なものであ〉ることの説明なのである。つまり国債のような〈収益請求権(そして資本ではない〉のようなものは、同一の収益(例えば額面100万円に確定利息として5%がついているなら、毎年5万円の収益が約束されている)に対して、その時々の市場利子率の変動に応じて、その5万円の収益が〈たえず変動する架空な貨幣資本で表現される〉わけである。例えば市場利子率が1%なら、5万円は500万円の想像された利子生み資本の1%の利子とみなされ(資本還元され)、よって額面100万円の国債は500万円の資本価値(資本の貨幣価値)をもつことになるというわけである。

   (4)〈そのうえに,この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 さらに銀行業者資本の大部分は、公衆が銀行業者のもとに預託しているものだということがつけ加わるわけである。つまりそれだけ銀行業者の資本というのは、架空なものであるばかりでなく、それ自体がほとんど他人のもので営業しているような性格のものなのだということである。

   大谷氏はこのパラグラフの解説を大谷本第2巻のなかで行っている。その際、このパラグラフを引用しているのであるが、一部の原文を示している。それは訳注195)に関連したものである。もう一度紹介しておくと、次のようなものである。

  〈195)〔E〕「である(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。」→ 「であって,債権(手形),国債証券(過去の資本を表わしているもの),および株式(将来の収益にたいする支払指図)から成っている。」
   なお,この部分に見られる括弧を,MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。--「である(すなわち債権)(手形と公的有価証券),また,株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)」〉

   このようにここでは〈MEGAでのように草稿のままにするなら,この部分は次のようになる。〉と書いているが、第2巻ではその原文を次のように紹介しているのである。

  〈(すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図)〔)〕。(D.größte Theil d.Banker's Capitals ist daher rein fiktiv(nämlich Schuldforderungen)(Wechsel u.public securities)u.Aktien,(Eigenthumstitel,Anweisungen auf künfligen Ertrag.)〕〉 (大谷本第2巻69頁)

   これ自体は大谷氏の訂正が入ったものであるが参考のために紹介しておく。
   次はこの部分の大谷氏の解説であるが、次のように述べている。

  〈まず銀行の準備ファンドの一部分は「自己価値ではない,金にたいするたんなる指図」すなわち(他行の)銀行券から成っていることが述べられ,次に,そうだとすると,「銀行業者の資本」は--ごくわずかの地金準備を除いた--大部分は,銀行券(他の銀行業者への債権),手形--これも「自己価値」ではない--,公債,株式,から成っているのだから,「純粋に架空なもの」だということになる,ということが述べられている。ここで「純粋に架空なもの」と言われているものが,上述の「いわゆる利子生み証券」ばかりでなく,手形や,さらに銀行券までも含めたものであることは明らかであろう。すなわちここでは,およそ「自己価値でないたんなる指図証券」を,自己価値でないがゆえに「純粋に架空なもの」としているのである。これは,さきの「いわゆる利子生み証券」について言われていた「架空資本」とは異なる視点からの架空性である。このパラグラフの末尾で,「この架空な銀行業者資本の大部分は,銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている」と言っている場合の「架空な銀行業者資本」というのは,自己価値である地金を除いて,銀行業者の手もとにあるすべての銀行券,手形,有価証券をさしているのである。〉 (70頁、太字は大谷氏による傍点部分)

   ここで大谷氏はマルクスが〈自己価値ではない,金にたいするたんなる指図〉と述べているものを〈すなわち(他行の)銀行券〉としているが、果たしてこれはマルクスの一文の正しい解読といえるであろうか。マルクスの一文を忠実に読めば、それは次のようになっている。
   ①まず銀行の準備ファンドは、発達している資本主義諸国では、平均的には、蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現している。
   ②そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は、それ自身また紙券(ここでPapierというドイツ語が書かれているが、このドイツ語は単に「紙」という意味もある)からなっている。
   ③そしてこの紙券を説明して、〈つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉とし、そうしたものからなっているとしているのである。
   つまりここで紙券というのは、後に出てくるもの債権(手形と公的有価証券)および株式などを総称したものであることが分かるのであって、決して大谷氏がいうような他行の銀行券を意味しているわけではない。
   ④そしてマルクスは銀行の準備ファンドの一部分は、こうした紙券からなっているから、〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉と述べているのである。
   ⑤そのあとの(   )のなかで述べていることは、だから紙券、つまり金にたいする単なる支払指図であるものの具体的な説明である。すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式である。ここで手形は割引されて銀行が保有するものであり、だからそれは利子生み証券の一つとなっているものである。公的有価証券はいうまでもなく国債や政府証券(大蔵省など政府機関の短期の債務証書)や地方債などを指している。そして株式である。これらを総称してマルクスは紙券と述べているのである。
   ⑥だからこそ、それに続けてマルクスは〈銀行業者の引き出しのなかにあるこれらの紙券が表わしている,資本の貨幣価値は,その紙券が……〉云々と書いているのである。
   ⑦そしてそのあとに続く一文も先の括弧内で具体的に述べていたものが説明されている。すなわち〈その紙券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか〉というのは、公的有価証券を指し、〈または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)である〉というのもいうまでもなく株式を指している。
   ⑧それらも〈まったく架空なもの〉だと述べ、そしてその理由を次のように述べている。〈それはこれらの紙券が表わしている現実の資本〔d.wirkliche Capital〕の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本Geldcapital〕で表現されるのだ〉と述べている。ここで〈現実の資本〔d.wirkliche Capital〕の価値からは離れて調整される〉と述べているのは株式を前提して述べているのであり、〈これらの紙券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,絶えず変動する架空な貨幣資本Geldcapital〕で表現される〉と述べているのは、公的有価証券、つまり国債等について述べているのである。
   ここでマルクスが〈紙券が表わしている現実の資本〔d.wirkliche Capital〉と述べている〈現実の資本〔d.wirkliche Capital〉というのは、【9】パラグラフでマルクスが〈現実の構成部分〉と述べていたものと同じであることを確認する必要がある。つまりここでもマルクスは現実の構成部分としてのこれらの有価証券とそれらの〈紙券が表している資本の貨幣価値〉とを対比して論じているのである。特に後者の〈表している〉に下線が引かれ強調されていることに注意する必要がある。つまりこうした有価証券がその額面で表しているもの(それが「現実の資本」である)とは違って、帳簿上で表している貨幣価値が問題にされているのであり、そうしたものは架空なものだとマルクスは述べているのである。この点、かなり厳密な考証が要求される一文である。
   ⑨だからマルクスがここで述べているのは、割り引かれた手形、公的有価証券、株式の三つだけであって、他行の銀行券などは含まれていないということである。そしてそう考えればこれらは先にマルクスが利子生み証券と述べていたものと同じであり、だからそれらの場合の架空資本の規定と何か違った観点からそれらを述べているなどという大谷氏の主張はまったく的外れとしか言いようがないものである。
   ⑩さらにそれに続けて述べていることはこうした〈架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではな〉いということである。というのはそれらの大部分は、公衆が銀行に預託したものによって運用されたものだからである。しかしこのことは架空資本である根拠としてマルクスが述べているわけではないことにも注意が必要であろう。銀行は総じて人の金で商売をする業者なのである。
  いずれにしても、大谷氏の解読はとんちんかんなものといわざるを得ない。

  (【28】パラグラフの解読の途中であるが、長くなるので切ります。続きは次回に。)

 

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