『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-8)
第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-8)
【19】
〈(1)国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原の価値の自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または①請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は②変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,③その企業が5%ではなく10%をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5%で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖を不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5%から10%に上がれば,144)5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5%から2[1/2]%に下がれば,146)5%の収益をもたらす有価証券は100〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に148)値上がりする。149)というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。/(5)貨幣市場の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。162)
①〔異文〕「請求権」Anspruch←Forderung
②〔異文〕「同時に〔……〕においては」という書きかけが消されている。
③〔異文〕「その企業が」← 「この株式が〔sie〕2倍のものを」
144)「5%」--「5ポンド・スターリング」の誤記であろう。
146)「5%」--「5ポンド・スターリング」の誤記であろう。
148)「値上がりする」--草稿では「stellt」となっているが,MEGAのテキストでは「steigt」と訂正されている。この訂正は訂正目録に記載されていない。
149)「というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。」--草稿では書き加えられている。
162)〔E〕エンゲルス版では,ここに,エンゲルスによるものであることを明記した次の脚注がつけられている。--「2月革命の直後に,パリでは商品も有価証券も極度に減価してまったく売れなくなっていたとき,リヴァプールにいたスイス商人R.ツヴィルヘンバルト氏(この人がこの話を私の父に語ったのだが)は,できるだけのものを貨幣に換え,現金を持ってパリに行き,ロートシルトを訪ねて,共同事業をしようと提案した。ロートシルトはじっと彼を見守っていたが,急に近寄って彼の両肩に手をかけて言った,「金はおもちですかな?」--「はい,男爵閣下。」--「ではいっしょにやりましょう!」--そして彼らは二人とも,すばらしい商売をしたのである。--F.エンゲルス」〉 (172-175頁)
【このパラグラフは全体が長いので、その内容に則して全体を五つにわけ、本文の各部分の間に「/」を挿入した。以下、それぞれの部分ごとに再度、本文を紹介し、平易な書き下し文も、各部分ごとに行うこにする。
まず(1)の部分である。
(1)〈国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原の価値の自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。〉
まずこの部分の平易な書き下し文を書いておく。
〈国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原の価値の自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観をもたらします。つまり、これらの所有権原は商品になるのです。そしてそれらの価格は独特な運動を行い、独特の決まり方をします。〉
すでに述べたように、マルクスは架空資本の自立的な運動を考察しようとしているのであるが、まずその書き出しを〈国債証券であろうと株式であろうと〉と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかであろう。次にマルクスが問題にするのは、国債や株式そのものではなく、それらの〈所有権原の価値〉であるということである。国債も株式も年々一定額の貨幣利得をもたらす。一方は国債の「利息」と観念され、他方は配当、つまり実現された剰余価値である。つまり国債も株式も、一方は「租税」にたいする、他方は「剰余価値」にたいする、所有権原なのである。しかし今問題なのは、単なる〈所有権原〉ではなく、〈所有権原の価値〉である。これは何かというと、国債や株式がもたらす規則的な貨幣利得は「利子」とみなされることから、その「利子」を生み出す資本=利子生み資本が想像され、そうした一定の資本価値の所有権を保持しているから利子がもたらされると想像されているわけだ。だから〈所有権原の価値〉とは、その所有しているとされる想像された利子生み資本の価値のことである。だからここでマルクスが〈所有権原の価値〉を問題にしているということは、すでに「利子-資本」の転倒にもとづく架空資本としての資本価値を問題しているということなのである。
そうした〈所有権原の価値〉すなわち架空資本としての資本価値は、〈自立的な運動〉を行なうと考えている。そしてその自立的な運動が〈それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉という部分の、〈それらを権原たらしめている〉というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面貨幣額が記されており、その額面額が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間貨幣額を租税から請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも〈現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として〈それらの価格は独特な運動および決まり方をする〉のだという。ここで〈現実の資本を形成しているかのような外観〉というわけだから、それらは決して〈現実の資本を形成して〉いないのに、〈形成しているかのような外観〉、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は普通の商品の売買という意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。
これはエンゲルス版の第21章以降において利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を証券市場で購入する貨幣資本家は彼の私的な立場からは、彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから架空資本としての株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し付けと返済とが商品としての貨幣の売買という外観を得たのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の私的な立場からは利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。
(2)〈それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。〉
〈そうした商品としての外観を得る所有権限の市場価値は,現実の資本の価値、つまり国債の場合は実際に国家に貸し付けられた貨幣額や株式の場合はそれに投下された(払い込まれた)貨幣額が変わらなくても(といっても株式の場合、その投下された資本が価値増殖して得られる剰余価値が変化し、それに応じて配当率も変わるかもしれませんが),それらの名目価値、つまり国債や株式の額面が示している価値とは違った規定が与えられます。〉
ここには〈市場価値〉と〈名目価値〉という用語が使われている。ここで〈市場価値〉をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは『資本論』第3部第10章で「市場価値」について次のように述べていた。
〈これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。〉 (全集25a225頁)
つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の諸商品の価値を平均した価値という意味である。しかしマルクスは同時に〈最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって〉(同)とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここでわれわれにとって重要なのは、〈市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである〉(同)というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている〈市場価値〉は〈市場価格〉の中心をなすものという意味での〈市場価値〉と考えることができる。
つまり国債や株式が実際に売買される価格(=市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、〈市場価値〉というのは、そうした日々変動する〈市場価格〉を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。「市場価値」はこれまでマルクスが述べてきた「資本価値」と基本的には同じものと考えられる。だからそれらの〈市場価値〉も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心に需給によって日々変動する市場価格でそれらは証券市場において売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。
だからここでマルクスが〈市場価値〉と述べているのは、マルクスがこれまで述べてきた資本価値、すなわち架空資本のことであり、〈名目価値〉と述べているのは、国債や株式の額面が表す(代表する)価値のことである。
だから国債や株式の架空資本としての資本価値は、それらの名目価値、すなわちそれらの券面に書かれている価値額とは違った規定が与えられるということである。
(3)〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,③その企業が5%ではなく10%をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5%で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。〉
〈一方では,こうした架空資本の市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動します。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる払込金額が100ポンド・スターリングであり,その企業の配当が最初の5%(年5ポンド・スターリングの配当)ではなく10%(年10ポンド・スターリングの配当)をもたらすようになりますと,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がります。つまり2倍になるのです。というのは,市場利子率が5%で変わらないとすると、10ポンド・スターリングを5%で資本還元しますと,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本の利子を表わすことなるからです。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から市場利子率の5%(10ポンド・スターリング)を受け取ります。企業の収益が減少して配当率が下がるときには逆になります。こうした架空資本の市場価値は,ある部分は投機的です。というのは,こうした架空資本の市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているからです。〉
ここでは最初は〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉というように、〈それらの〉とか〈これらの〉というように、国債と株式をともに想定して論じているが、〈たとえば〉以下は株式を例に上げて論じている。国債の場合は確定利息で、それが償還を迎えるまでに途中で変化するということはない。もっとも変動利息の国債もないことはないらしいが、今はそれは論外としよう。だからマルクスは、架空資本の市場価値が〈これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉例としては株式を挙げて論じているわけである。
ここで〈株式の名目価値〉というのは、株式の額面が表す貨幣額である。それは〈当初この株式によって表わされる払込金額〉のことであり、それが今は〈100ポンド・スターリング〉とされている。そして〈その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば〉というのは、配当率が5%ではなく10%に上がるいうことである。だから最初の配当は年5ポンド・スターリングだったのが、配当率が上がったことで年10ポンド・スターリングになったということである。
そうすると〈この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる〉というのは、この場合、市場利子率(平均利子率)が5%と変わらないと前提されており(市場利子率が変化するケースは後に検討される)、だから額面100ポンドの株式は配当率10%に上がったので、年10ポンド・スターリングをもたらすから、その10ポンド・スターリングを平均利子率の5%で資本還元すれば、10÷0.05=200ポンドになるわけである。だから〈今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしている〉ことになる。つまり10ポンド・スターリングは架空の200ポンド・スターリングの利子生み資本の利子とみなされるわけである。
だから〈この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る〉。つまりこの市場価値が200ポンド・スターリングに上がった株式を買う人は彼の私的な立場からは彼の貨幣200ポンド・スターリングを利子生み資本として貸し付けて、その価格(利子)として、その5%、つまり10ポンド・スターリングを受け取るわけである。それは彼がその200ポンド・スターリングを機能資本家に貸し付けて5%の利子を得るのと基本的には同じなのである。彼の200ポンド・スターリングは彼の私的な立場からは利子生み資本であるが、しかし客観的にはそうではない。それは現実資本に投資されたのであって、そこから得られる剰余価値の一部を取得する権利を彼に与えるが、利子生み資本のように返還されることはない。しかし彼がその株式を再び販売した時点で、彼の私的な立場からは、彼が株式に投じた貨幣は利子生み資本に転換され、その返済を受けることになるわけである。
しかし証券市場で購入した株式の場合は、〈企業の収益が減少するときには逆になる〉。つまり配当率が10%ではなく、5%になる場合、200ポンド・スターリングで株式を購入した人は、彼が前貸した200ポンド・スターリングに対して、たった5ポンド・スターリング、すなわち平均利子率の半分(2.5%)しか得られないことになる。そして同じことであるが、彼の手にした株式の市場価値は、いまでは半分の100ポンド・スターリングになってしまうであろう。そして彼が手にする5ポンド・スターリングはこの100ポンド・スターリングの5%の利子になるわけである。
だから〈この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである〉。つまり今は配当率10%で200ポンド・スターリングの市場価値を示しているが、しかし将来的には配当率が15%になると〈前もって計算されうる〉なら、その市場価値は200ポンド・スターリングではなく、15÷0.05=300ポンド・スターリングになるわけというわけである。だから彼は200ポンド・スターリングの株式を買って、それが300ポンド・スターリングになった時点で売り抜ければ、100ポンド・スターリングを居ながらにして濡手に粟で手に入れることになる。
ところでマルクスは、最初に〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉と述べていたが、この株式の例では、〈取得される収益の高さ……につれて変動する〉ことは分かったが、〈確実性〉というのは、いま一つはっきりしなかった。確かに株式の場合も〈予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されている〉というのは、その〈収益の……確実性〉によって規定されていると考えることもできる。しかし収益の確実性ということでわれわれがすぐに思い浮かべるのは、いわゆる「リスク」という言葉である。株式の場合もその株式会社がどの程度の安定した収益をあげるかどうかは、一つのリスクと考えてもよいが、リスクとしてわれが思い浮かべるのは、サブプライムローンの証券化である。サブプライムローンの証券化の過程は、いろいろに説明されているが、次のような図がある。
この図でシニア、メザニン、エクイティというのは、サブプライムローンを証券化したものをそれぞれのリスクによって階層化して区別したものである。「AAA格」というのはもっと安全なものと格付会社によって格付けされたものであり、だからリスクの低い証券であることを示している。だからリスクの低い証券の場合は当然、その確定利息は低いのである。それに対してエクイティはもっともリスクの高いものであり、だから確定利率も最も高いというわけである。だから一般にサブプライム・ローンというのは、低所得階層など信用度の低い階層を相手にしたローンであるから、リスクの高いローンであり、だから高い利回りで貸し付けられる。ところがそれが証券化される過程で、そのローン債券がプールされて全体のリスクを沈殿させ、そのリスクの高低によって階層分けされ(それをトランシェという)全体としては高いリスクで分散しているものを、そのリスクのほとんどをエクイティやあるいはその一部をメザニンに集め(沈殿させ)、その代わりにシニアの部分(上澄み部分)を、安全な証券(リスクの低い証券)として販売しよう(だから低い利回りで利子生み資本をかき集めよう)とするものなのである。これがいわゆる「金融工学」などと言われる詐欺的理論のカラクリなのである。
もう少し具体的な数値を入れて考えてみよう。まずサブプライムローンの利息を10%として、そのプールされた貸し付け総額が100億円だとしよう。そうすると年々の利子所得が10億円入ることになる。この10億円のキャッシュフローをもとに証券化されると考えるわけである。いま平均利子率が2%とすると、これらの市場価値の総額は500億円である。だからもしそれをSPV(特別目的媒体、あるいは特別目的事業体とも訳される)が細分して証券化し,しかしその証券の総額を500億円なる価格で販売したなら、SPVは何と400億円という貸し付け金額の4倍もの利益を得ることになる。しかしもちろん、こんなことはできない。というのは、サブプライムローンが10%と高利率なのは、それはリスクが高いからであり、それが証券化されたからといってリスクが低くなるわけではないからである。だから平均利子率で販売できないわけである。しかしここに金融工学が登場するわけである。つまりプールされた債権全体に分散している高いリスクを、沈殿槽で沈殿させる汚泥のように、リスクをそのプールのなかで沈殿させると、その上澄部分がリスクをほとんど含まない安全な証券として販売できるというわけである。つまり低い利率で販売できる(低い利率で利子生み資本を借り受けることができる)。例えば、5%の確定利息で販売するなら、トリプルAでしかも5%の利率なら、日本の年金機構などは喜んでそれを買うわけである。日本の国債を買うよりも利息が高いから運用利回りが高く、しかも安全であるからである。こうした結果、SVPは、低い利息で借りた貨幣資本を、高い利息で貸し付けてその利ざやを荒稼ぎできることになるわけである。これがサブプライムローンの証券化の最大の目的なのである。
林氏は証券化は債権の流動化そのものに意義があるかに主張するのであるが、もちろん、そうした流動化の意義を否定する必要はないが、しかしそれだけなら、格付けによって階層化する必要もまたないわけである。
ところでこうしたリスクによる利回りの高低は、国債についても言いうるのである。もちろん、例えば日本の国債の場合には国内ですべて販売されているから、こうしたことは必ずしも当てはまらないが、世界を見渡すとさまざまな外債が販売されている。一般に新興国の国債ほど高い利回りで販売されているが、それはそれだけリスクが高いからである(リスクが高いから高い利回りでないと売れない)。日本の国債もアメリカの大手格付け会社ムーディーズが、2002年5月に「日本の債務状況を向こう数年間予想した」結果として、ボツワナ以下に引き下げていることは周知のことである。主要国の長期国債の格付けは下図のようになっているらしい。
(図をクリックすると鮮明な図がえられます)
(4)〈しかし,現実の資本の価値増殖を不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5%から10%に上がれば,144)5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5%から2[1/2]%に下がれば,146)5%の収益をもたらす有価証券は100〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に148)値上がりする。149)というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。〉
〈しかし,株式の場合も現実の資本の価値増殖が変わらないと前提しますと,あるいは,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提しますと,これらのつまり株式や国債など有価証券の価格は市場の利子率に、つまり利子率の変動に反比例して上がり下がりします。たとえば利子率が5%から10%に上がりますと,配当率や確定利息が5%で年5ポンド・スターリングをもたらす有価証券は,当初は額面が100ポンド・スターリングだったものが、いまやもはや50ポンド・スターリングの資本しか表わしていないことになります。あるいは、利子率が5%から2.5%に下がりますと,5ポンド・スターリングの収益をもたらす有価証券は100ポンド・スターリングから200ポンド・スターリングに値上がりします。というのは,それらの架空資本の価値は,収益が資本還元されたものだからです。すなわちその定期的な収益が幻想的な資本(利子生み資本)にたいする利子として、そのときの利子率で計算されたものなのだからです。〉
次は株式の場合、価値増殖が不変、つまり配当率が変わらない場合である。あるいは国債の場合には、そもそもそれが代表する資本そのものがないわけだから、その増殖もなく、ただ確定利息として年々租税からの支払額が前もって決まっている場合である。こうした場合、つまり〈年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉。ここで〈有価証券の価格〉と言われているのは、その前に〈所有権原の価値〉とか〈株式の市場価値〉と言われていたものと同じと考えるべきであって、市場価格のことではないと思われる。
だから市場の利子率が5%から10%に上がると、配当率が5%で変わらない株式の場合、あるいは確定利息が5%の国債の場合も、額面が100ポンド・スターリングであっても、その市場価値(所有権原の価値)は50ポンド・スターリングになるわけである。なぜなら、年々の貨幣利得は5ポンド・スターリングであるが、平均利子率が10%のために、それで資本還元すると、5÷0.1=50[ポンド・スターリング]だからである。つまり年々5ポンド・スターリングの貨幣利得は、この場合50ポンド・スターリングの想像された利子生み資本の生み出した利子とみなされ、50ポンド・スターリングの利子生み資本の所有権原を持っていると想像されるわけである。
だからまた市場利子率が5%から2.5%に下がると、100ポンド・スターリングの額面で確定利息や配当率が5%であるなら、それらの有価証券(国債と株式)は、200ポンド・スターリングに値上がりする。というのは、同じように年々5ポンド・スターリングの貨幣利得が2.5%で資本還元されるから、5÷0.025=200だからである。
だから利子率が上がれば価格は下がり、下がれば上がる。すなわち〈有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉わけである。
〈というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから〉とマルクスはその理由について述べている。つまり年々5ポンド・スターリングの収益は、200ポンド・スターリングの想像された利子生み資本が、その時の利子率2.5%にもとづいて利子としてもたらしたものと考えられるからだというのである。
(5)〈貨幣市場の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は,貨幣財産の集積の一手段である。162)〉
〈恐慌のように貨幣市場が逼迫している時期には、これらの有価証券の価格は二重に下がります。第1には,利子率が上がるからです。第2には,こうした有価証券を現実の支払いに必要な貨幣に換えるためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからです。
だからこの下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債の場合のように不変であろうと,あるいは株式のように、それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合がそうであるように、再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことには一切かかわりなく起こるのです。嵐(恐慌)が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎりは,ふたたび以前の高さに上がります。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は,貨幣財産の集積の一手段です。〉
〈貨幣市場の逼迫の時期〉、つまり恐慌期には、資本の循環が停滞し(再生産過程が攪乱し)、資本家たちが、自分たちが振り出した手形の満期が近づきそれを決済する現金が必要なのに、受け取った手形が支払われないために、現金が不足し、そのためにとりあえず銀行に一時的な貨幣融通を要請したり、手持ちの有価証券を売って現金に変えようとする人たちが多くなる。そうした時期には、有価証券の価格は二重に下落するということである。第一に、誰もが現金を必要とするから銀行に対する貨幣融通の要求が強く、貨幣資本(moneyed Capital)に対する需要が高いために、利子率は上がるからであり、第二に、誰もが有価証券を販売して現金に換えようとするから、有価証券の供給が多いのに、だれもそれを買おうとせず、需要が少ないからである。
〈この下落〉、つまり逼迫期の有価証券の下落は、この証券が国債のように年々の貨幣利得が確定していて不変であっても、あるいは株式のように現実資本の価値増殖が、再生産過程の攪乱によって影響される恐れがあろうとも、そうしたことに関わりなく起こるとマルクスは指摘している。つまりこうした点でも,つまり逼迫期の価格の下落という点でも、国債と株式とには、架空資本の運動としては、違いはないとマルクスは述べているわけである。こうした叙述を見ても、マルクスが架空資本としては国債も株式も同じものであり、両者に相違はないものとして見ていることが分かるであろう。
だから架空資本(有価証券)の市場価格は、次のような要因によって決まってくる。
(1)まずそれらの権原によって取得される収益の高さと確実性によって。株式の場合は、まず配当率の高さによって、債務証書の場合はリスクの高さによって確定利息の高低が決まり、その確定利息によって有価証券の価格も規定される。
(2)次に配当率や確定利息が決まっていて、変動しないとすれば、有価証券の価格は、市場利子率(平均利子率)の変化に反比例して変動する。
(3)さらに有価証券の価格は、証券市場におけるそれらの証券の需給によっても、直接的に変動する。
以上の要因によって実際に証券市場で売買されている有価証券の市場価格は決まってくるわけである。
そして〈嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる〉。だからこの場合は株式について妥当することであろう(もっとも国債も国家が破産すれば同じであるが)。株式の場合も、企業が倒産する場合だけでなく、投機がもっとも盛んになる狂乱期には1847年恐慌時の鉄道投機のように、まったくイカサマの鉄道敷設計画をでっち上げる等のことが行われたのであり、こうしたものは例え嵐が過ぎ去っても元の価値を取り戻すことはありえないわけである。だから倒産したり、そうした投機にもとづくものでないかぎりは、嵐が去れば、こうした有価証券の価格は本来の高さにもどるわけである。1847年のいかさまの鉄道投機について、少し紹介しておこう。
〈この投機の最盛期は1845年の夏と秋であった。これらの株式の価格はたえず上がり、投機の利益は国民のほとんどすべての階層を渦中に投げ込んだ。公爵も伯爵も、種々の鉄道線の重役会に席を占めるという収入のある栄誉をえようとして、商人や工揚主たちと張り合った。……1ペニーでも貯えのある者、いささかでも信用を利用しうる者は、鉄道株の投機をした。……イギリスおよび大陸の鉄道組織の現実の拡張と、それと結びついた投機との基礎のうえに、この期間にしだいに、ローや南海会社の時代を想起させる思惑の上部構造がつくり出されていった。幾百という線が成功の見込みがすこしもないのに企画された。そこでは、企画者自身が実際に実行することなどはぜんぜん考えていなく、一般に、重役たちで供託金を食いつぶすこと、株式を売って詐欺的利潤をうることが狙いであった。〉 (三宅義夫編『マルクス・エンゲルス恐慌史論』上20頁)
〈恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である〉。恐慌時に低落した株式は、それを利用して特定の貨幣資本家に集中されるわけである。株式市場では、常に小さな個人株主が大株主の犠牲になり、それらに飲み込まれる。大株主は、さまざまな情報網によって、上昇した株を下落前に売り抜けて、濡れ手に粟のぼろ儲けをしたあと、低落した株式を今度は再び買い集めて、またその上昇を待って一儲けするわけである。こうした過程を通して貨幣財産は特定の貨幣資本家にますます集中する。
大谷氏の注162)は、ここにエンゲルスによって脚注が付けられているとの指摘がある。それはエンゲルスの父がこうした恐慌時にパリで減価した有価証券をかき集めて、ぼろもうけをしたという〈すばらしい商売〉ことについて述べている。】
【20】
〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価①および増価の前もあともまったく同じである。②③「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに④114,752,225ポンド・スターリング減価していました。165)」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。|
①〔訂正〕「および〔u.〕」--「または〔od.〕」とも読める。
②〔注解〕この引用は,マルクスの「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている((MEGA IV/8,S.263.19-21)。--〔MEGA II/4.2の〕481ページ20-22行〔本書第2巻208ページ3-4行〕を見よ。)
③〔注解〕『〔商業的窮境〕……第1次報告』では,次のようになっている。--「〔ベンティンク〕この国の公的資材と運河・鉄道株が,10月23日にはすでに,総計で114,752,225ポンド・スターリングという額だけ減価していたことにお気づきですか。--〔モリス〕そうなっていたとのことでした。」
④〔訂正〕「114,752,255」--草稿では,「114,752,225」と書かれている。〔MEGAではこの数字をテキストで「114,752,255」とし,訂正目録でも,草稿の数字をテキストでこのように訂正した旨を記載しているが,モリスにたいする質問での数字は「114,752,225」であり,この訂正は明らかに誤りである。〕
165)「」」--MEGAでは,この閉じ括弧が落ちている。〉 (175-176頁)
まず平易な書き下し文を書いておこう。
〈これらの有価証券(例えば株式や国債等)の市場価格の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にはかかわりのないものですから,一国民の富の大きさは,これらが減価したり、あるいは増価したりする前にもあともまったく同じだということです。イングランド銀行総裁のモリスは議会証言で次のように述べています。
「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,225ポンド・スターリング減価していました。」
しかしこの減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったのであれば,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったことになります。〉
【これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【19】の(2))〈名目価値〉と、同じ〈名目〉が付いているが、同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。
また〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり〉とあるように、こうした有価証券が下落する恐慌時というのは、〈生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか〉が同時に生じる時でもあり、そうした場合にはその限りで国民は貧しくなったといえるわけである。また〈現実の企業の見放しとか〉というのは、現実資本が倒産して企業が放置された場合もやはりその分だけ国民は貧しくなったといえるわけである。さらにはその株式が〈なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすもの〉だった場合、株式が表す貨幣額が現実に投下されたにも関わらず何も有用なものを生産するまでには至らなかったわけだから、つまりそうした投下した貨幣が無駄になったという意味で、国民がその分だけ貧しくなったといえるわけである。
だからこうしたことを株式の減価が〈表わすものでなかったかぎり〉、これらの〈名目的な貨幣資本〉つまり株式の市場価格が下落し二束三文になったからといって、〈国民は、……一文も貧しくなってはいなかったのである。〉】
【21】
〈|337下|〔原注〕a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業的窮境』,1847-48年。[第3800号。]〔原注a)終わり〕|〉 (176頁)
【これは【20】パラグラフで引用されている一文の典拠を示すものだけであるので、平易な書き下しは不要であろう。
このイングランド銀行総裁の議会証言は現行の第26章でもエンゲルスによって紹介されており(全集25a528頁)、大谷本第2巻の〈第25章および第26章の冒頭部分の草稿,それとエンゲルス版との相違〉のなかでマルクスの一連の抜粋ノートの一部として紹介されている(大谷本第2巻208頁)。
なお337原頁の下半分にはこの原注a)があるのみである。】
(続く。)
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