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2022年5月

2022年5月26日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-5)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-5)


【13】

 〈75)(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金principalとして現われるのである。)

   75)〔E〕エンゲルス版では,このパラグラフは三つ前のパラグラフの末尾につけられている。〉 (167頁)

  まず平易な書き下しを書いておこう。

  〈利子生み資本が範疇として確立しますと,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われます。つまりそれは,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金,principalとして現われるのです。〉

  【このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、また直前の【12】パラグラフに直接繋がっているものとも思えないので、恐らくマルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスもこのパラグラフを三つ前の【10】パラグラフの末尾にくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。
  ここで言われていることは、【10】パラグラフで言われていることとそれほど違ったものではない。確認のためにもう一度【10】パラグラフを示してみよう。

 〈【10】a) 利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。〉 (164頁)

   範疇としての利子生み資本が確立すると、どの貨幣額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己を維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例えば産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた貨幣額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)を取得するとともに、貨幣資本家としては彼の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。利子生み資本の範疇としての確立は、他方で所有と機能との分離が確立することでもあるからである。これらは利子生み資本の概念が明らかにされた1)~4)(第21章~第24章)のなかで明らかにされたことである。ここでわれわれが確認しなければならないことは、架空資本というのは、大谷氏や小林氏、あるいは林氏もそうであるが、ただ単に規則的な貨幣利得を資本還元すれば形成されるのだと一つ覚えに覚えればそれでよいというものではなく、そのためには利子生み資本がその前提としてあるということである。だから利子生み資本の説明抜きに架空資本を論じても(これは多くの論者に共通することなのであるが)、真に架空資本の何たるかを説明したことにはならないということである。この次のパラグラフは〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって〉という文言で始まっているが、何度も強調するが、利子生み資本こそが架空資本を生み出している根源なのだということである。】


【14】

 ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,80)たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,1年間の労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀の後半には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この無思想な考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,100)101)買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない。/

  ①〔異文〕「労働能力」← 「労賃」
  ②〔異文〕はじめ,ここで文を終えるためにピリオドを打ったが,それをコンマに変更して,次の文を続けて書いた。
  ③〔注解〕「ペティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイルランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材〔Stock〕が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば,25〔百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は,416[2/3]百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」〔大内兵衛・松川七郎訳『賢者には一言をもって足る』。所収:『租税貢納論』,岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕

  80)「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長線上で理解されるべきであろう。これもまた,「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」である。
  100)〔E〕「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない」→ 「賃借人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補塡しなければならない」
  101)〔E〕前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い,「そのうえになお」資本の年間損耗分を補塡しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって利子生み資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借(Vermietung)」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉 (168-170頁)

  最初に平易な書き下し文を書いておこう。

  〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態を産み出す母なのです。利子生み資本が、金融の世界におけるさまざまな奇妙な現象を生み出している元なのです。たとえば債務が銀行業者の頭の中では商品として現われます。彼らは預金や銀行券、つまり彼らにとってはそれらは債務を表すのですが、しかしそれを利子生み資本として貸し付けることを彼らの業務としています。そして彼らはその貸付や返済をあたかも貨幣を商品として売買するかのように観念するのです。また国債という資本ではマイナスが資本として現われます。国債は国家の債務であり、それらはすぐに浪費されて何もなくなってしまうのに、依然として資本として存在しているかのように現象し、その幻想的な資本の売買が成立しています。
   労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがあります。この場合には,労賃は利子だと解されて,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解されるわけです。たとえば,労賃が50ポンド・スターリングで,利子率5%であるとしますと,1年間の労働能力は1000ポンド・スターリングの資本(利子生み資本)になるのです。まさに資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達します。
   というのは,労働能力を資本とする観念は、資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからです。
   17世紀の後半には(たとえばペティの場合)これがお気に入りの考え方だったのですが,それが今日でも,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのです。
   しかし,ここには,この無思想な考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてきます。
   まず第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないという現実があることです。
   そして第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということです。
   反対に,彼の労働能力の年価値はただ彼の年間平均労賃であり,しかも,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,この価値そのものに、それの増殖分である剰余価値を付け加えたものなのです。
   確かに奴隷諸関係では,労働者(奴隷)はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっています。しかしそれは彼が持っているというより彼を持っている奴隷主が持っているものですが。だから,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本(奴隷)の年間損耗分あるいは摩滅分に利子をプラスして返済しなければなりません。〉

  【ここからは、マルクスが【10】パラグラフで〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力を資本と考えるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】パラグラフで述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。

 ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注80)を付けて、次のように説明している。

 〈80)「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長線上で理解されるべきであろう。これもまた,「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」である。〉

 こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【15】パラグラフで問題にするが、マルクスが問題にしているのは銀行券のことである)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家たちに売り出される(貸し出される)「商品」だということとして考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すことになる。しかしこの時点でマルクスがそうしたことを述べている〈貴重な記述〉だといわれると違和感は拭えない。
   それに大谷氏は〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる〉などと述べているが、しかし利子生み資本として貸し出される貨幣が「商品」としての外観を取る(利子がその価格になる)ことは、利子生み資本の概念を説明したところで(つまり1)~4)〔第21章~第24章〕で)マルクスはすでに何度も述べていることであり、決してここだけがそれについて述べているようなものでは決してないのである。
 さらに言えば、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が銀行に自分のお金を預金するときに、自分のお金を商品と考えて、それを銀行に売りに行くのだなどと考えるだろうか。それに大谷氏は〈貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である〉というように、貨幣を「商品」として販売する場合の商品についてはカギ括弧を入れている。つまりそれは本来の商品とは異なり、それが商品として観念されるのは一つの外観だと言う意味を持たせている。ところが〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり〉と銀行へ預金する場合は、その貨幣を商品として売ると観念するかに述べ、しかもその商品にはカギ括弧が付いていない。つまり預金の場合は預金する貨幣は普通の商品だと果たして大谷氏自身は考えているのかどうか、もちろんこれだけでは判断できないのではあるが。
  しかしいずれにしても、一般的に言って、預金者が彼の貨幣を銀行に預金するときに、彼は彼の貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つかは疑わしい。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場があると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。マルクスは後の【33】パラグラフで〈預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない〉(184頁)と述べているが、預金が公衆による銀行に対する商品としての貨幣の販売だなどとは述べていないのである。これはあまり本質的な問題ではないが、指摘しておきたい。

 ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろうと思える。つまりそれは年金のように永久に年々貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒--引用者)。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,1年間の労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と述べている。
 そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や「思想」の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。
 そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補塡するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。

 ところでこの部分にも大谷氏は注100)、101)と二つの注をつけて、次のように述べている。

 〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補塡しなければならない」
 25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補塡しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉

 大谷氏の"弟子"を自認する友人によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスが第21章で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身は「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払い手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品を販売(譲渡)するわけである。そしてその商品の使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人的収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。
   しかしマルクスが第21章で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。その貸し付けられた商品が現実の生産過程で生産手段として消費され、その限りでは社会的な物質代謝の一契機をなす場合でも、しかしその生産手段としての商品を、その所有者(所有資本家)が現実資本(機能資本家)に貸し付ける関係そのものは、あくまでも再生産過程外の関係であり、その限りでは社会的物質代謝の一契機をなしていないのである。つまりそれはあくまでも社会的物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本の範疇に入れているわけである。だから、大谷氏はエンゲルスのわずかな修正、利子支払いが先か損耗分の補塡が先か、という違いのなかに何か重要な問題をマルクスが示唆しているかに述べているのであるが、問題の本質を外している議論としか言いようがないのである。
   だから奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提していて、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく)述べていることは明らかなのである。だから買い手は損耗分だけでなく利子をも補塡しなければならないとしているわけである。】


【15】

 〈|336下|〔原注〕a)〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論』を見よ。〔原注a)終わり〕〉 (170頁)

  【これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であり、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけであるから、平易な書き下し文は不要であろう。
  『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど第28章該当個所でもマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【49】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。

  〈546)「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)(143頁)

 この28章該当部分における引用には、大谷氏の次のような注がついている。

 〈546) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友〔amis du commerce〕」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEGA Ⅱ/5,S.95.27-32;MEW,23,152-153ページ)。〉

 だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)〉ということで考えていたのは、原注a)が銀行券に関連するものだから、あるいは銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと考えることも可能かも知れない。すでに述べたが、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。】


【16】

 〈〔原注〕b)103)たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば,一人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)

  ① 〔注解〕レーデンの原文では,ここに,「財産の他のすべての部分がそうであるように」という句がある。

  103)〔E〕「たとえば,フォン・〔v.〕レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。」--削除。MEGAでは,「W.レーデン」となっている。なお,レーデンの名はFriedrich Wilhelm Otto Ludwig Freiherr von Redenである。〉 (170頁)

  【これも原注であり、ほぼ引用からなっているので、平易な書き下し文は省略しよう。この原注は【14】パラグラフの〈17世紀の後半には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである〉に付けられたものである。【14】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解①があり、次のような説明がある。

 〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイルランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416[2/3]百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『賢者には一言をもって足る』。所収:『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。)〉

 この場合、1500万ポンドの収入が、2億5000万ポンドの王国の資材から生み出されたとしているから、この場合の利子率は6%になる。だから人民が生み出したとする2500万ポンドは、2500万を6%で資本還元して得られる4億1600[2/3]ポンドが人民の値打ちとしてあり、それが2500万ポンドを利子としてもたらしたのだとペティの場合も考えているわけである。
  レーデンの場合、明確に平均的な日賃金を資本還元することについて述べているが、要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として同じことが述べられているわけである。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。】

  (続く。)

2022年5月19日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-4)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-4)


【11】

 事柄は簡単である。平均利子率を年5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本〔Zinstragendes Capital〕に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または[521]債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が直接に譲渡可能である,あるいは49)「譲渡可能」であるような形態を与えられている,52)という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう。国家は||336上|自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。} この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで〔Bに〕売ることができる。というのは,買い手のBにとっては,100ポンド・スターリングを年5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。

  ①〔訂正〕「債権者たち」--草稿では「債務者たち」となっている。〔MEGAでは,テキストで「債権者たち」とし,「訂正目録」で「エンゲルスによる1894年版〔Druckfassung〕に従って訂正」としている。〕
  ②〔異文〕「一定の部分にたいする指図」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「Aは」← 「彼は」
  ④〔異文〕「年5%で買うのも」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「国家の100ポンド・スターリングの債務証書を〔……〕ことによって」という書きかけが消され,さらに,「国家の債務証書を100ポンド・スターリングで〔……〕ことによって」という書きかけが消されている。

  49)ここに,あとから「貨幣資〔本〕として」と書きかけたのち,消している。
  52)〔E〕「という前提のもとで以外には〔ausser unter d.Voraussetzung,daß〕」→ 「という場合を除けば〔außer in dem Fall,daß〕」この部分は,「という前提のもとでも〔auch unter der Voraussetuzung,daß〕」とあるべきところではないかとも思われる。〉 (164-166頁)

  最初に平易な書き下し文を書いておこう。

  〈上記の架空資本の形成について、事柄は簡単なことです。まず平均利子率を年5%とします。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本〔Zinstragendes Capital〕に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになります。そこから,事柄が逆転して、25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされるようになるのです。このようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が直接に譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられているならば生じてきます。しかしそういう前提以外では(例えば譲渡可能ではない場合),そうした逆転そのものは純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続けるのです。
  私たちはこの二つの例として,一つは国債を,もう一つは労賃をとってみましょう。
  国債においては、国家が自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければなりません。{この場合,債権者は,自分の債務者=国家に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけです。そしてこのことは国債が永久国債であろうが、そうでない償還期限のある国債でも同じです} この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されています。それはもはや存在しないのです。だから国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書です。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与えます。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができます。
  いま国債の利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらなければ,彼が国債を買ったときの100ポンド・スターリングと同じ値段で〔Bに〕売ることができます。というのは,買い手のBにとっては,100ポンド・スターリングを年5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからです。〉

  【マルクスが最初に述べている部分、すなわち〈平均利子率を年5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本〔Zinstragendes Capital〕に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる〉という部分は、通常の「資本-利子」の観念、つまり利子生み資本の範疇が確立している現実を述べている。そしてその後に述べていること、すなわち〈そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉は、そこから生じる逆転した観念(「利子-資本」の関係)を説明しているわけである。だから〈しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原(株式など--引用者)または債権であろうと(つまり価値は貸し出されて第三者に譲渡されるが、その所有権は保持しているような場合であり、すべてのローンに妥当する--同),あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと(これは25ポンドが地代の場合である--引用者),この源泉が直接に譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉という説明になっているわけである。ここで〈この源泉が直接に譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉というのは、例えば国債や株式などはそのまま〈直接に譲渡可能である〉が、土地のようなものは持っていくわけにはいかないから、「権利証書」という形で〈「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉わけである。

 ところで、大谷氏は注52)で次のように述べている。

 〈〔E〕「という前提のもとで以外では(ausserunter der Voraussetzung,daß)」→「という場合を除けば(außer in dem Fall,daß)」この部分は,「という前提のもとでも(auch unter der Voraussetuzung,daß)」とあるべきところではないかとも思われる。〉

 しかしこの部分はなかなかそう簡単には、大谷氏のようには言えないのではないかと思う。マルクスが書いている文章と、大谷氏の修正とでは意味が180度違ってくる。マルクスの文章を素直に読めば、〈この源泉が直接に譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と読めるわけである。ところが、大谷氏の修正だと、直接的に譲渡可能であるか、譲渡可能な形態を与えられている場合でも、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということになる。
 どうして、大谷説に賛成できないかというと、すでに平易な書き下し文でも書いておいたが、マルクスはこの譲渡可能である場合と譲渡可能でない場合のそれぞれの例として国債と労賃をあげているのだからである。
   このあと【14】パラグラフでは、マルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察される〉(168頁)場合を例として上げており、この場合は〈労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができない〉(169頁)と指摘している。つまり譲渡可能〈という前提のもとで以外〉のケースが考察されているのである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、確かに〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と解釈できるわけである。つまり労働能力を資本と見なす観念は、ただ観念だけに止まり、実際にはそれは架空資本として運動するわけではないということである。だから上記の文章では、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということが重要なのである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動形態を持たないのだ)とマルクスは言いたいのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになる。

 それに続けてマルクス〈例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう〉と「国債」と「労賃」を例に上げて説明すると述べている(国債の説明はこのパラグラフから【13】パラグラフまで、「労賃」の説明は【14】~【16】まで)。国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースである。
 
 まずマルクスは、〈国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。……この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている〉と述べている。まずここで「利子」にカギ括弧がついていることに注意する必要がある。つまりそれは一般的には「利子」と呼ばれているが、しかしそれは範疇的な意味での利子ではないとマルクスは考えているのである。パラグラフの最後の部分で〈国家から……の年貢〉と述べているのも同じ主旨である。いずれにせよ国家は債権者たちに「利子」を支払わねばならないが、しかし債権者から借りた資本は利潤を生むために投資されたのではなく、ただ浪費されて食い尽くされてしまっているというのである。(そのあいだに償還についての言及があるが今は無視する)。
   だから国家の債権者がもっているものというのは、〈第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である〉つまり国家の借用書である。〈第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える〉この債務証書から支払われる利子は、国家の歳入、つまり税金から一定額の支払いを受ける権利を与える。それは国債ごとに決められた確定利息である(ここでは年5%)。〈第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉期限がくるまでに償還はできないが、任意に譲渡する(販売する)ことかできる。つまり、もし市場利子率が5%なら、確定利息年5%の国債を100ポンド・スターリングで国から買った人Aは、同じ100ポンド・スターリングでBに販売することが可能である。というのは、国債をAから買ったBにとって100ポンド・スターリングを利子生み資本として貸し出して、年率5%の利子を得るのも、同じ100ポンド・スターリングで国債を買って、年5%の確定利息(これは範疇的な意味でも利子ではないから、マルクスは〈年貢〉と書いているのだが)を得るのも同じだからである。

  こうした国債の考察そのものは、国債というものを、銀行業者の資本の現実的な構成部分として存在しているものを、その直接的な表象から見ているものである。だからここではまだ架空資本そのものは問題にはなっていない。ただAから国債を100ポンド・スターリングで買うBにとって100ポンド・スターリングの国債はすでに架空な資本価値として存在している。

 ところで林氏はセミナーの議論では、国債は架空資本ではない、と主張したが、それは同氏が常識的な意識にとらわれているからである。例えば額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当然だと思っている。しかし国債というのは、ただその紙切れに100万円と書いているだけで、それ自体が価値を持っているわけではないのは明らかである。ではそれは他に存在している100万円を代理し表すものなのかというと、やはりそれとも違うのである。というのは、国家に貸し出された100万円は、すでに国家によって支出されて存在していないからである。にも関わらず、額面に100万円と書かれた単なる債務証書にすぎない国債は、それ自体として100万円の価値があるかに現象しており、それをわれわれは当然のことと思っているわけである。だから林氏は、次のように書いている。

 〈例えば、(資本還元を--引用者)債券に適用しようとすると、100万円債券の利子1万円を、1%の利子率で資本還元して、債券の価格が100万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。〉(『海つばめ』No.1110)
 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉(同No.1111)

 ここで林氏は「債券」と「社債」を例に上げているのであるが、当然、「国債」も同じと林氏は考えているのである(むしろ「国債」の例を否定するために、「債券」や「社債」を例に上げて論じているわけだ)。そして確かにこれらは同じ類のものである。ただマルクス自身は「債券」というような用語は使っていないので、例によって『平凡社大百科事典』の「債券」の項目を見よう。

 〈公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体の如何を問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。〉(説明はまだ続くがこれぐらいでよいであろう)。

 このようにこの辞典の説明でも「債券」「社債」「国債」は同じようなものとして分類されている。だから、ここではとりあえず、「社債」を代表させて説明しよう。
 社債というのは、その客観的な内容から見れば、企業の借金の借用証文である。つまり、この場合、社債を買った人(Aとしよう)は、Aの持つ貨幣を利子生み資本として企業に貸し出したわけである。だから当然、利潤が分割されて一定の利子が支払われなければならない。ここまでは「資本-利子」の関係である。
   ところが次にそれが転倒して、「利子-資本」の関係になる。つまり社債は単なる借用証文ではない。というのは、Aはそれを証券として市場に売りに出すからである(すでにこの時点で逆転が生じている。だからAが社債を「売り出す」場合の「売り」は外観であって、実際の内容は「返済」であり、その社債をBが「購入」する場合は、Bは自身の貨幣を利子生み資本として「貸し出す」わけである)。
   この場合、単なる定期的な利子支払いが(この場合の利子は範疇的な利子である)、資本化されて、単なる借用証文である社債が証券化されて、100万円の価値(資本価値)を持つものであるかに現象するのである。なぜなら、社債を持っているAは、それを100万円で第三者Bに譲渡する(売る)ことが出来るからである(この場合、社債を「売った」Aは、彼の「貸し出した」利子生み資本の「返済」を受けることになる)。100万円で売れるということは、100万円の価値があるということであろう(だから社債を最初に企業から購入したAが、それを売らずに満期までただ持ち続けるだけなら、それは単なる借用証文に止まるわけである)。
 これが林氏には〈空虚な同義反復でしかない〉ように見えるということは、林氏自身は、額面100万円の社債は100万円の価値があることが当たり前だと思っているからであろう。つまり利子生み資本という形態が生み出す幻想的な観念に取り込まれてしまって、転倒しているのに自分が転倒しているということすら分からなくなっているのである。
 しかしそもそも、ただ単に紙切れに100万円と書かれているだけなのに、それがどうして100万円の価値があるものとして通用し、販売されうるのか、それは本当に奇妙なことではないのだろうか。もしそんなことがいつでもどんな場合でも通用するなら、誰でも紙切れに100万円と書いて、100万円の貨幣に変えるであろう。しかし、現実にはそんなことは不可能である。だから額面100万円の社債を持っている人が、それを100万円で売り(実際に販売される価格はその時点での証券市場の状況によって変化するのであるが、われわれはそれを今は無視しよう)、社債を手放す代わりに100万円の貨幣を入手できることは、決して当たり前のことではなく、〈空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう〉などとは言っておれない事態なのである。それは一体全体、どうしてそうなっているのか、なぜ、単なる紙切れが100万円の価値あるものとして売買されるのか、それを説明するのが、この第29章該当部分でマルクスがやっていることであり、それをマルクスは「架空資本」、すなわち架空な資本価値だと言っているのである。
 同じ紙切れでも、われわれが日頃使っている1万円札は、通貨として流通している銀行券であり、その流通根拠は貨幣の流通手段としての機能による。また手形や小切手もやはり紙切れからなっているが、それらは貨幣の支払手段としての機能から生まれている。しかし同じ紙切れでも国債や社債、あるいは株式などは、利子生み資本の範疇としての確立を前提に、架空資本というより複雑な関係のなかから生まれているのである。こうしたことを理論的に説明することこそが必要なのである。

 いずれにせよ、マルクスの説明を再度確認しよう。マルクスは、国債は、それを持っている人にとっては、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である。つまり国家が100ポンド・スターリングを借りたことを証するものである。(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える。だからこの場合は「資本-利子」の関係自体が、一つの外観に転化している。国債の購入者は、国家に対して彼の貨幣を利子生み資本として貸し出したのであるが、しかしその貨幣商品は、その商品に固有の平均利潤を得るという使用価値として消費される(利用される)わけではない。ただ浪費されるだけで、だから利潤を生み出さない。にも関わらずやはり「利子」を生むような外観を得るわけで、その実際の内容は、租税から年々の支払いを受ける権利を表すだけなのである。(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、つまり証券化である。ここで「利子-資本」の逆転が生じる。という条件について述べている。
 そして特に最後の譲渡可能ということについて、つまり「利子-資本」の逆転現象について、次のように述べている。

 〈利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで〔Bに〕売ることができる。というのは,買い手のBにとっては,100ポンド・スターリングを年5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。〉

 つまり明らかにマルクスはここでは、国債についても、その利子率で資本還元してその価値(資本価値)を求めていることは明らかであろう。つまりこの場合のBが支払う100ポンド・スターリングという価値は、市場利子率で資本還元された国債という架空資本の資本価値なのである。ところが林氏は、次のように主張するわけである。

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。100ポンドという国家証券として、国家収入の中から、100ポンドにつき5%(5ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉(上掲、No.1111)

 一体、上記のマルクスの一文をどのように読めば、こうした解釈が出てくのか何とも不可解であるが、よく考えてみると、そのカラクリが分かる。すなわち、林氏が言っているのは、上記のマルクスの説明の(2)までである。つまり林氏は、意図的にマルクスが述べている(3)の説明を見ないふりをして無視しているのである。マルクスは(3)の説明として、わざわざ〈Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングでBに売ることができる〉と述べている。ということは、この債務証書=国債は、100ポンド・スターリングという資本価値を持つとマルクスは言っているのではないのか。どうしてそうなるのかをもマルクスは説明している。というのは、それを買うBにとって、国債を100ポンド・スターリングで買って、年々5ポンドの支払いを受けるのも、その代わりに同じ100ポンド・スターリングを企業に利子生み資本として貸し出して、年々5ポンドの利子支払いを受けるのも同じだからだ、というのである。つまり企業に利子生み資本を貸し出して利子を得る(つまり「資本-利子」)という関係(利子生み資本という形態)が生み出している現象が、転倒されて国債の場合にも現れているとマルクスは言いたいわけである。
 おまけにマルクスはその前のところで〈事柄は簡単である。平均利子率を年5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本〔Zinstragendes Capital〕に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉と述べたことの具体的な例として国債を例に説明しているわけである。だからマルクスが国債の場合についても、当然、〈国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開している〉ことは当然ではないだろうか。林氏の主張は、同氏が何らかの悪しき意図にもとづいてマルクスの書いているものをねじ曲げて解釈しようとしているか、それとも善意に解釈すれば、ただ林氏自身が、利子生み資本が持つ形態に惑わされているだけとしか言いようがないものである。】


【12】

 しかしすべてこれらの場合に,国家の支払いを子(利子)として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。

  ①〔異文〕「それ自体は〔……〕に〔……〕ではないのであるが」という書きかけが消されている。〉 (166-167頁)

 これは先のパラグラフ(【12】)で、例として一方は国債、他方は労賃をとってみようとして、まずは国債について論じ、Aが国債=債務証書をBに売るケースを論じていたことをもとに、今回のパラグラフが書かれている。まずは平易な書き下し文を書いておこう。

  〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払いを子(利子)を生んだものとみなされる資本そのものは,幻想的なものです。つまり架空資本なのです。
   それが「架空」であるというのは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,という意味だけではありません。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではないからです。つまり「資本」としても「架空」なのです。本来、利子というのは、一定額の貨幣が資本として支出され、自己を維持し、増殖する価値に転化され、それが生み出した剰余価値の一部が分割されて得られるものです。しかし国債の「利子」は決してこうした範疇的な意味での利子ではありません。
   だから最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものなのです。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのですが、しかし資本として投下されたかのようにみなされ利子を生むことになるのです。
   国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしています。つまりAは国債を購入した時点では、ただ国家に一定の貨幣額を期限を付けて貸し付けただけです。しかしその国債をBに売った時点で、彼が最初に国債に投じた貨幣は利子生み資本として貸し出されたことになり、国債の販売はその返済を受けたことになるのです。そして国債をAから買ったBについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は最初から利子生み資本として投下されています。実際には,つまり客観的な関係としては、彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買っただけなのです。だからこのような取引の客観的な関係そのものは、こうした国債の売買が何度繰り返されようともそれ自体としては変わらないのです。
   このように国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうでしょう。つまりそれが売れるということこそが、国債を架空資本にしているのです。すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっています。〉

  【ここで初めてマルクスは「架空資本」という言葉を使っている。まずマルクスが〈すべてこれらの場合に〉と述べているのは、これまでの叙述から、当然、「国債」について述べていることは明らかである。そしてマルクスは、〈国家の支払いを子(利子)として生んだものとみなされる資本〉と述べている。これはどういうことであろうか。つまり国家によって支払われる年々の「利子」は、本来は資本の生み出した利潤が分割されて企業利得と区別されたものとしての利子ではないが、しかしそれは「利子」とみなされ、その定期的な利得をもたらす国債は、その「利子」を生み出した「資本(利子生み資本)」と見なされるということであろう。つまり国債は、「利子-資本」の逆転によって「資本」と見なされたものだということである。だからそれらをマルクスは、〈幻想的なものである,すなわち架空資本である〉と述べているわけである。
  ところが林氏は、次のように述べている。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (No.1111)

  一体、林氏は何を読んでいるのであろうか! 確かに上記の説明には「資本還元」という言葉は出て来ない(これは【17】パラグラフで、つまり架空資本の運動を論じるところで初めて出てくる)。しかしマルクスが資本還元について述べていることは明らかではないだろうか。そもそもマルクスは最初から(【10】パラグラフから)資本還元そのものについて述べてきたのである。本来は「利子」でないものでも「利子」と見なされるからこそ、市場利子率で資本還元されるのである。林氏は国債の購入者に毎年支払われるものが通常「利子」と言われているから、それは近代的な範疇としての「利子」だと思い込んでいるのである。林氏にはそれが転倒した観念であるという自覚すらないわけだ。しかしマルクスがここで言っているのは、国債の「利子」は本来の利子ではないが、しかしそうした利子とみなされるから、国債そのものもそれを生み出した「資本(利子生み資本)」と見なされ、「資本としての価値」を持つのだということなのである。だからそれは幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。これが資本還元でないというなら一体、何が資本還元なのであろうか。

 それに林氏は、〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などとも言い張っている。しかし果たしてそうか。われわれはマルクスの文章を吟味して、検証してみよう。

 マルクスは国債が「架空資本」である理由を、林氏のように一つではなく、二つ上げている。(1)〈それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない〉から、つまり林氏のいう理由である。しかしマルクスは〈ということばかりではない〉と続けている。すなわち(2)〈それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなの〉だからである。つまり国債が年々「利子」をもたらすということは、国債の購入に投じられた貨幣が自己を維持するだけでなく、年々増殖するもの(G-G')として、つまり「資本」(=利子生み資本)として存在しているものと見なされることになる。しかし、実際には国債として国家によって借り出された貨幣は、現実の資本として前貸され、利潤(つまり増殖された価値だ!)を生み出し、その一分肢として利子をもたらすわけでは決してない。そういう意味で国債の所持者に支払われる「利子」は、本来の意味での利子ではない。だからそういう資本でないものがここでは資本として見なされているのだ、だから、その資本は幻想的であり、架空資本なのだ、とマルクスは言っているのである。つまり「利子-資本」の転倒現象であることをマルクスはその理由として述べているのである。そしてマルクスのこれまでの叙述を知っているわれわれは、マルクスが、国債が架空資本である理由として述べている主要な論拠は前者(つまり林氏のいう理由)ではなく、むしろ後者に、すなわち「利子-資本」の転倒現象にこそ力点があることは明らかなのである。ところが、林氏はマルクスが一番力を入れて述べていることをあえて無視するのである。これがマルクスの文章に対する、悪しき意図によるねじ曲げた読み方でなくて何であろうか!これではいくらマルクスを読んでも正しい理解には到達できないであろう。

 次にマルクスが言っていることも同じことである。というより、むしろその前のこと、つまり(2)の理由をさらにマルクスは説明している(これを見てもマルクスが(2)の理由こそ本当に言いたいことであることが分かる)。まず〈最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは〉というのは、それは本来は「資本の利子」ではないのに、彼にとっては彼が国債に投じた貨幣が自己を維持し増殖するわけだから、彼にとってはそれは資本を表し、それがもたらす年々の貨幣利得が利子を表すことになるわけである。それは〈ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである〉。つまり高利貸しが浪費者に貸し付ける貨幣も資本として前貸されて価値を生み出すわけではなく、ただ個人的消費(浪費)のために貸し出されるだけであるのに、しかし高利貸は、彼の貸し出す貨幣が、増殖して帰ってくることを期待して貸し出すのであり、だから彼にとってはそれは資本(利子生み資本)であるのと同じだと述べているのである。この場合も、高利貸しが手にする「利子」も本来の近代的範疇としての利子ではない、とマルクスは述べているのである。だからマルクスは〈どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが〉と述べているのである。にも関わらず、それは「資本」と見なされる、というのは、それによって年々もたらされる貨幣利得が「利子」に見なされるからである。つまり(2)の理由をさらに説明しているわけである。

 さらにマルクスが説明していることも、やはり(2)の理由を掘り下げているものである。〈国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている〉。つまり国債が転売できるということは、それを転売するAにとっては、自分が国債の購入に投じた貨幣を利子生み資本と見なすことであり、その転売は、だから利子生み資本の返済なのだ、ということである。そしてAから国債を購入する〈Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている〉。つまりBは最初から彼の貨幣を利子生み資本として投下しているのだというわけである。なぜ、マルクスはここでAとBを区別して論じているのであろうか。それはAの場合は、年々もたらす貨幣利得は、国債が売り出される条件によって確定している利息だからである。だからそれはその時々の平均利子率とは関係なく、例えば確定利息が5パーセントなら、100万円の国債の場合は、年5万円の貨幣利得をもたらすわけである。しかしBの場合はそうではない。Bの場合は、もしその時の年間の平均利子率が1パーセントの場合、彼は国債を500万円で購入しなければならない。そのうえで彼は利子生み資本として投じた500万円に対して、その利子として年々5万円の貨幣利得を得ることになるのである。だからBの場合は、明らかに彼の手にする利子は、平均利子率にもとづいた利子であるが、Aの場合は確定した利息(年貢)なのである。

 しかしBの場合も客観的には、彼の投じた貨幣が、実際に利子生み資本として充用され利潤を生むわけではない。それが利子生み資本であるのは、あくまでもBの〈私的な立場から見れば〉の話である。〈実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである〉。つまり彼の投じた貨幣は、ただAに代わって国家から年々の貨幣利得を得る権利を買っただけであって、何も客観的な状況は変わっていないわけである。そして〈このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう〉。つまりこうした転売が繰り返される限りでは、国債は架空資本であり続けるわけである。しかし一旦転売できないとなると、こうした架空資本としての存在は無くなってしまう。それはただ国家に対する債権、つまり国家の債務証書を表すだけになるであろう。しかしこうした架空資本は、単に観念的に資本として見なされるだけではなく、それ自身の運動を持っているのだとマルクスは述べている。そしてその実際の運動を考察するのは、【17】パラグラフからである。】

  (続く。)

2022年5月12日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-3)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-3)



    (【9】パラグラフの解読の続きです。)

   それではそもそもマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものをどのように理解したらよいのかを少し考えてみることにしたい。
   それを考えるために、われわれは最初にその前提となる産業資本の構成部分について考えてみようと思う。産業資本の構成については、まず形態規定性から考えると、貨幣資本と生産資本、商品資本とに分けることができる。しかしこれを現実的な構成部分からみると、貨幣資本は、貨幣と有価証券になり、有価証券は手形とその他の有価証券になる。生産資本の現実の構成部分は、生産手段と労働力になり、生産手段には原料・機械・道具・土地等が含まれる。商品資本の現実の構成部分は商品、すなわち生産物である。これを図示すると次のようになる。

2931

                                  ( 図をクリックすると鮮明なものがみえる。)

   この形態規定性による構成は、循環形態による構成ともいうべきもので、産業資本は貨幣資本が生産資本に転化し、生産資本が商品資本に転化して、さらにそれが流通過程で実現されて貨幣資本に再転化するという循環を繰り返しており、その過程を通して自己増殖する運動体と見ることができる。

  さて、問題は銀行業者の資本というのは、この産業資本の構成部分のうち、形態規定性から見れば貨幣資本の運動が自立化したものであり、だからその現実の構成部分というのは、貨幣と有価証券とからなり、その後者は手形とその他の有価証券からなっているという、マルクスが指摘する構成が得られるわけである。つまり銀行業者の資本の現実の構成部分というのは、産業資本の構成のうち、形態規定性でみれば貨幣資本の自立化したものの現実の構成部分だということがわかるのである。
  ただし、ここで重要なのは、現実(real)の構成部分としてマルクスが見ているものは、それ自体としての素材的存在としてそれらを見ているということである。だからすでに述べたように、例えば手形というのは、それ自体としては商業的有価証券であり、現実の価値(社会的労働の対象化されたもの)を表しており、その意味ではその他の有価証券(それらは単に将来の果実に対する請求権を表すだけ)とは本質的に区別されるものなのである。これもすでに指摘したが、後にマルクスは割引されて銀行業者の手の中にある手形を利子生み証券の一つに入れており、その意味では現実の構成部分のなかでその他の有価証券に分類されるものと同じものとして見ている。というのは割引された手形は、もはや利子を生むことを期待された利子生み資本の運動の一つの形態だからである。つまり割り引くということは、その手形の満期までの利子分を差し引いて貸し出した利子生み資本を代表するものであり、銀行が貸し出した貨幣を代表しているのであり、それは再生産資本家たちが自分たちの生み出した商品資本に当てて振り出した手形--だからそれは現実の対象化された社会的労働、すなわち価値を代表するものなのだが--とは本質的に区別されるわけである。
  この現実の構成部分というのは、後にマルクスが「銀行業者の金庫のなか」(【29】パラグラフなど)にあるものとして述べているものとほぼ同じである(マルクスはそれに対応させて「帳簿のなか」を指摘していることに注意)。これは手形や有価証券の類については「銀行業者の引き出しのなかにある」(【28】)とも述べられている。つまり銀行業者の金庫や引き出しのなかにあるもののrealな内容を見ているわけである。銀行業者の金庫や引き出しには何があるのか、それは大きく分けると、貨幣と有価証券であり、後者の大きい部分は手形である。有価証券のうちその他の有価証券として、公的有価証券や株式などが入る。それらをマルクスがそれ自体として見ているものが、すなわち現実の構成部分というわけである。
  銀行業者の資本は、もう一つの観点から分けると、自己資本と他人資本という分け方もある(これがマルクスがいうところの「帳簿のなか」の区別であろう)。自己資本は、銀行業者がその資本を開始するときに支出した資本であり、その銀行が株式銀行なら、株式の払い込み金がそれに当たる。他人資本というのは要するに預金のことで、銀行の営業資本の主なものはこれによってなされる。発券銀行の場合には、これに銀行券がつけ加わるが、これは自己資本にも他人資本にも分類できない資本であり、要するにこれは銀行の信用だけで創造されたものであり、その意味では、社会的労働が対象化された存在としての価値をそれ自体としては持っていない資本なのである。だからマルクスは別のところでは「信用資本」とも呼んでいる。
  またこれも重要なことであるが、発券銀行の所持する(発行した)銀行券というのは、〈実物的な構成部分〉の一つである〈現金(金または銀行券)〉のなかにある〈銀行券〉とは本質的に違ったものだということである。後者は現実の商品流通のなかで金鋳貨に代理して通用しているものであり、その限りでは商品の価値(社会的な労働の対象化)を表すものであるが、前者はただ銀行の信用だけにもとづいて発行されるものであり、何の価値(社会的な労働の対象化されたもの)をも代理していないからである。
  ところで、産業資本の資本の構成と銀行業者の資本の構成とを比べてみると、後者の現実の構成部分には、労働力が入っていない。しかし現実には、銀行には銀行員という労働力があり、労働しているのに、どうしてであろうか。これは銀行員としての労働力は、価値を形成しないからであろう。銀行業者の利潤は、銀行員の労働が対象化した剰余価値から得られるわけではない。そうではなく、それは、現実資本(産業資本と商業資本)に貸し付けた利子と預金として借り受けた資本に支払う利子との差額(利ざや)と、貨幣取り扱い資本としての現実資本の貨幣資本の管理を引き受けることから支払われる手数料からなっているのである。だから銀行員の労働は価値を形成しないから上記の構成には入っていないのである。後者の手数料は、貨幣取り扱い資本が商業資本の一部分をなしていることを考えると、商業利潤と同じように、産業利潤の控除からなると考えるべきであろう。
  つまり上記の構成は、価値、すなわち社会的な労働の対象化されたものか、あるいは対象化する可能性のあるものとして、その構成を見ているということである。労働を基礎とする社会として資本主義的生産様式を考えるとき、現実の社会的労働が対象化されたものか否かという観点は極めて重要なものなのである。マルクスが銀行業者の現実の構成部分として見ているものは、こうした観点からでもあるということをわれわれは確認しておく必要がある。だから価値を形成しない労働力である銀行員の存在はここには入ってこないわけである。
  さらに指摘しておくべきことは、マルクスは最初に銀行業者の資本の構成をrealな面から見ているが、これはまさに小林・大谷氏らとは違って、問題を素材的にとらえ、ブルジョア的な帳簿上に表記されるものは幻想的なものに過ぎない、とこのあと展開するための伏線だと考えるべきである。つまり冒頭のパラグラフで、銀行業者の資本の現実の構成部分をまず明らかにして、それら自体は彼らが帳簿上いろいろと論じているような規定性を加えても何も変わらないのだということをまず最初に確認しておく必要があると考えたからに他ならない。ところが小林・大谷両氏はそうしたマルクスの意図をまったく理解せず、むしろ反対にブルジョア的な帳簿上の操作をマルクスも前提しているかに主張しているわけである。しかしマルクス自身は第28章該当部分でも、銀行学派たちが「資本」と言っているのはただ銀行業者が帳簿上自分の資本の持ち出しになるものを「資本の貸付」と言っているだけで、科学的な意味での資本、つまり利子生み資本という意味で述べているわけではないことを暴露していたが、こうした第28章該当部分の展開を見ても、マルクスはブルジョア的な帳簿表記上に現われている現象の背後にある現実的な内容を見ようとしているのである。例えばマルクスは銀行から出て行く銀行券が還流してくるケースをいろいろに分けて考察しているところで〈しかしこの元帳の立場は、取引の本性をいささかも変えるものではない〉(大谷本133頁)と述べていたが、マルクスが問題にしているのは、そうしたブルジョア的な帳簿上の操作によってそれがどのように取り扱われているかではなくて、そのなかに客観的に存在している社会的な関係を問題にしているのだということである。
  だから第29章該当部分でも、まずは銀行業者の資本の現実の(realな)構成を見ているのであり、そのうえで、それらがそのあとの展開で帳簿上で架空なものに、幻想的なものに転化させられるカラクリを暴露して行こうという手順を踏んでいるわけである。そうしたマルクスの意図を貸借対照表(バランスシート)に拘る小林・大谷両氏はまったく理解できていないわけである。

 ところで、以下は前回の解読の時に問題にしたものであるが、やはり今回も、それなりの意義を認め、新しい知見のもとに一部修正したうえで再現しておくことにする。すなわち、この冒頭のパラグラフ(【2】)の〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉と今回のパラグラフの〈銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉とは翻訳は同じだが原文は微妙に違っている。だから大谷氏も同じ訳文を付けながらわざわざ原文を示しているのであろう。似たようなものとしては、上記の本文のなかにも〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〉や〈銀行業資本〔banking capital〉というものもある。これらはどのように違うのであろうか。同じようなよく似たもので他に気づいたものを並べてみると次のようになる(あとに書いているのはそれが出てくるパラグラフ番号である)。

銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉--【2】
銀行業者の資本〔d.banker's capital〉--【9】
銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〉--【9】
銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〉-【9】
銀行業資本〔banking capital〉--【9】
銀行業資本〔d.banking Capital〉--【36】
銀行業者資本〔Banquiercapital〉--【24】
銀行業者の「資本」(d. "Capital“d. bankers〉--【26】
この架空な銀行業者資本〔dieß fiktive Banker's Capital〉--【28】

 また第28章該当部分には銀行業者資本〔banking capital(【33】)、銀行業資本〔Banking Capital[s]〕(【41】に2回)、銀行業資本〔banking capital(【43】)、銀行業資本〔banking Capital(【44】)、など同じようなよく似た表現が出てくる。そしてマルクス自身は第28章の【44】パラグラフで〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉という説明を与えている。この場合の銀行業資本は〔banking Capital〕である。しかし第28章該当部分のものは、すでにこれまでにも指摘してきたように、マルクスは独特の銀行学派批判の方法をとっており、だから同じbanking capitalでも第29章該当部分の草稿に出てくるものとは意味が異なるので、とりあえずはわれわれは第28章該当部分に出てくるものは無視することにしよう。

 さて問題は、このようなマルクスによる使い分けには何か意味があるのかないのか、それらは同じものなのか、違うものなのかは、それぞれの用語が使われている前後の文脈のなかで考えていくしかないのであろう。ただ大谷氏は、『図解・社会経済学』で、次のように説明している。恐らく、大谷氏のこうした説明は、上記のマルクスの使い分けを踏まえたものではないかと思われる(太字や下線(大谷本では傍点)は大谷氏による)。

 [銀行の自己資本=本来の銀行資本]銀行の資本は二つの部分からなる。第1に自己資本である。これは、銀行業者が自ら所有する資本(株式銀行であれば株主が払い込んだ資本)であって、本来の銀行資本bank capital)である。これに対する銀行の利潤の比率が銀行の利潤率である。自己資本は、銀行業者が運用する総資本のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。自己資本は、なによりもまず、銀行業務を行うのに必要な固定資本(土地、建物、耐久的什器)に投下されなければならないが、この部分は、それ自体としてはけっして利子を生まない。
 [銀行の他人資本=銀行業資本]銀行業者の資本の第2の部分は他人資本である。これは、銀行業者がその顧客から受けている信用を表している部分、すなわち信用資本であって、彼らが貸し付けることによって利子を稼ぎだす資本、つまり本来の銀行業を営む資本の中心はこの資本部分である。そこでこの部分は銀行業資本(banking capital)とも呼ばれる。〉 (362-3頁)(下線部分は大谷氏による傍点による強調箇所)

 この大谷氏の説明は、マルクスが〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる〉と述べていたことに一致している。つまりマルクスが〈実物的なreal構成部分〉に〈加えて〔小林訳では「並んで」〕〉、〈実物的なreal構成部分〉には何の影響ももたらさない、銀行業者の帳簿上の区別だけを取り上げて説明していることが分かるのである。大谷氏がマルクスがバランスシートを前提して論じているのだとしているのも分かるのである。
 また大谷氏は他人資本を〈銀行業者がその顧客から受けている信用を表している部分、すなわち信用資本であって〉と説明しているが、これには若干の説明がいる。大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻では、マルクスが「信用資本」と述べている場合には、このように他人資本を意味する場合と発券銀行業者の発行する銀行券を「信用資本」と述べ、使い分けているとのことである。

   そこでマルクス自身のこれらの用語の使い分けを検討してみよう。
   第【9】パラグラフの文章を検討すると、まず指摘できるのは、最初に〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている〉と書かれたあと、〈銀行資本は〔es〕,それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて〉と続き、さらに途中で〈とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は〉云々とも書かれていることである。この文脈から考えるなら、最初の〈銀行資本〔Bankcapital〉の各部分は〈実物的な構成部分〉によって区別されたものであり、またそれらは後で言われている〈現実の構成部分〉と同じものと考えられる。だからこれを読む限りでは、この【9】パラグラフで言われている〈銀行資本〔Bankcapital〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉とはほぼ同義と考えてよいであろう。だから「II)」の冒頭のパラグラフ(【2】)に出てくる〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉は、【9】パラグラフの冒頭に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉と同じであること、ただマルクスは【2】パラグラフで述べていることを、【9】パラグラフでは言葉は変えているが同じ意味で言い返したにすぎないことが分かるのである。
 それに対して、そうしたもの(=〈銀行資本〔Bankcapital〉の〈実物的な構成部分〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分)とは違った観点からの区別として論じている〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〉と〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本)〉とに出てくる〈銀行業資本〔banking capital〉は、〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉とは明らかに違ったものといえる。後者の区別こそ、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として〈銀行の自己資本=本来の銀行資本(bank capital〉と〈銀行の他人資本=銀行業資本(banking capital)〉とに区別しているものと同じと考えるべきであろう。つまり帳簿上の、あるいは大谷氏のためにいうならバランスシート上の、区別である。
 だからマルクスが最初に〈銀行資本〔Bankcapital〉と述べているものは、大谷氏が述べている〈銀行資本(bank capital)=銀行の自己資本〉とは明らかに違った概念なのである。大谷氏のいう〈銀行資本(bank capital〉は、マルクスが〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〉と述べているものと同義と考えるべきなのである。ややこしいが、しかしわれわれはこの区別をしっかり理解しておく必要がある。

 とするなら、マルクスが〈実物的な構成部分〉または〈現実の構成部分〉と述べているものは、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として区別しているものとは異なる観点からのものであることが分かる。大谷氏が述べているような区分、つまり帳簿上の区別は、マルクスが述べている〈実物的な構成部分〉には何の影響も与えないともマルクス自身は述べている。つまりこうした〈実物的な構成部分〉として分類されたものが、銀行業者の自己資本であるのか、それとも他人資本、つまり借入資本であるのか、という銀行業者の帳簿上どのように取り扱われるかによっては何も変わらないのだと述べている。その理由として、マルクスは〈銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう〉と述べている。ということは、マルクスが最初に述べている〈銀行資本〔Bankcapital〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〉というのは“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられるのかも知れない。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を指しているのものということができるであろう。だからこれは大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉という場合の〈銀行の資本〉とほぼ同じ意味なのである。

 いずれにせよ、マルクスが〈実物的な構成部分〉としているものを図としてまとめてみよう。

 

 2932
                           (クリックすると鮮明な図が表示される。)

  もう一つのマルクスが述べている区別も図にすると、次のようになる。
2933
       (同上。)

 ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【24】参照)。しかしこの点についてはすでに述べた。
 またここで注目すべきなのは、マルクスは利子生み証券のなかに〈不動産抵当証券〉を入れていることである。これは〈証券〉であるから、譲渡可能な形態にあるものと考えられる。つまり単に不動産を担保に融資した結果、銀行が不動産の抵当証書を保持しているということではなくて、不動産の抵当権が証券として流動化されたもの(いわゆる証券化されたもの)であり、そうした有価証券を利子生み資本の投資対象として銀行が保持しているか、あるいは融資の担保として預かっていると考えるべきであろう。だから、この〈不動産抵当証券〉は、サブプライム問題における金融証券化の一つであるモーゲージ担保証券(MBS)と同じ類のものと考えることができるのである。

 {補注:『金融用語辞典』による「抵当証券」の説明--不動産を担保とした貸付債権を証券化して、小口販売する金融商品。
 抵当証券とは、主に中小企業者や個人事業主向けの不動産を担保(抵当)とした貸付債権を証券化して、一般投資家に小口販売する金融商品です。1931年の抵当証券法に基づいて発行されています。
 抵当証券の販売は、抵当証券会社が行います。抵当証券会社は、内閣総理大臣の登録を受けた法人です。預入期間や金利、解約手数料などについては、抵当証券会社によって条件が異なるので、購入の際に確認する必要があります。
 抵当証券は、債務者(中小企業者や個人事業主)の同意を得て登記申請を行い、法務局(登記所)から交付されます。抵当証券会社は、交付された抵当証券の原券を抵当証券保管機構に預けることが義務づけられています。抵当証券保管機構は、原券を預かると保管証を発行します。
 抵当証券会社は、抵当証券を小口化して、一般投資家に販売します。購入者は、抵当証券保管機構が発行する保管証と、抵当証券会社が発行する取引証(モーゲージ証書)を受取ります。
 抵当証券会社は、債務者が定期的に支払う返済金の中から、購入者に元利金を支払います。}

 さてマルクスはこうした区別について前者の〈現実の構成部分〉は、後者の区別のどこに分類されようが、前者の区別には変わりはないであろう、と述べている。これはどういうことか少し考えておこう。例えば、現金の場合は、銀行自身が投下した資本として保持しているケース、あるいは株式の払込金ともいうことができるし、また預金として受け入れたものであるかも知れない(そのうち準備として保持しているもの)。また有価証券なども、自己資本である利子生み資本が、とりあえずは融通先がないので、準備として保持するために、換金が容易な有価証券として保持しているケースもあるであろうし、預金や担保として受け入れたものであるのかも知れないわけである。つまりいずれも両方においてもそうしたものが銀行の資本を構成しているケースが考えられるということであろう。

 それ以外にいくつか注意すべきことを指摘しておく。
 (1)「現金」に含まれる「銀行券」は法貨である「イングランド銀行券」のことであり、その後で「預金」と並んで、発券銀行の場合には付け加わる「銀行券」というものとは異なることである。「現金」として(つまり支払手段として)認められるものは、あくまでも「法貨」としての「イングランド銀行券」である。
 (2)また「手形」について、マルクスは「商業的有価証券」と書いているが、これは一般の産業資本や商業資本が振り出す手形であり、商業信用にもとづいて再生産的資本家たちが互いに与え合う信用にもとづいて流通しているものである。同じ「手形」でも、「銀行業者手形」はこうしたものとは区別される。これは銀行が与える信用の一形態であって、銀行が振り出す手形(為替手形)である。これは銀行券や銀行信用(帳簿信用)と基本的には同じであり、前者の商業的有価証券である「手形」とは本質的に異なるものである。
 (3)公的有価証券の中にある「コンソル」というのは、「コンソル公債」のことである。
 林氏はマルクスが述べている「国債」は当時のイギリスの状況を考えるなら「コンソル公債」と考えられる。だから、今日の国債とは違うと主張し、マルクスが国債を例に架空資本を説明しているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのであって、今日の国債にはそうした説明は妥当しないかに述べている(『海つばめ』1111号3面トップ記事)が、こうした理解は果たして正しいのであろうか。確かにコンソルは確定利付きで償還期限がない永久国債であり、今日の日本ではこうした国債は発行されていない。その限りでは確かに異なるものである。しかし今日の国債でも償還期限が来ない前にその償還を要求することはできないのであり、譲渡できるだけであるという点では、両者は全く同じである。またそれらの市場価値が確定利息を平均利子率で資本還元して決められるという点でも、コンソルと今日の日本の国債とに違いは何もないのである。だからマルクスが国債を例に架空資本を説明している例は、今日の日本の国債に関してもまったく妥当するし、国債はそれが証券として売買されていることを見ても、明らかに架空資本なのである(この点は、これからも何度も問題になるであろうが、とりあえず、その点を指摘しておきたい)。

 {補注:コンソル公債  コンソルこうさい (平凡社大百科辞典)
 イギリスの代表的な国債で,1751年に既存9公債を統合し借り換えて成立したconsolidated annuities(略称 Consols)が起源である。この旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった。それは1923年以降議会の承認で償還可能とされていたが,政府にとっては市価が安いため額面償還の利点はなく,低利率のため借換えの必要もなかったから,事実上典型的な永久公債となって存続した。26‐32年には4%利付きコンソルも発行されている。コンソル公債の価格はバンク・レートにつれて変動し,イギリスの国家信用や経済状態の指標とされてきた。第1次大戦前までそれはイギリス公債の大きな部分を構成したが,両大戦期における各種公債の大増発でその比率は減退し,61年には国債総額の3%となった。(関口 尚志)}

 (4)またもう一つの公的有価証券の例として上げられている「国庫証券」は、政府が短期の借入を行うときに発行するものであり、有期限のものである。

 {補注:国庫証券 こっこしょうけん financial bills
 国の一般会計の一時的な資金不足を補うために、財務省が発行する財務省証券などの政府短期証券(FB)のことを国庫証券と呼ぶことがあります。}

 とりあえず、そうしたことを指摘して、次のパラグラフの検討に移ろう。】


【10】

 〈38)a) 利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。43)

  38)〔E〕「a)」--削除。この語は,はじめ,前パラグラフの先頭に書いたのち,それを消し,ここにふたたび書いたものである。これに対応する「b)」等々は見られない。そこでエンゲルスはこの語を削除したのであろう。しかし,マルクスが2度にわたってこの語を記したことは,彼がこのあとに,「a)」等々に分けていくつかのことを書こうとしたこと,「b)」等々がないにもかかわらずおそらくは実際にそれらのことが書かれているであろうことを示唆するものであろう。
  43)〔E〕エンゲルス版では,ここに,草稿ではこのあと3パラグラフ目にあたるパラグラフの文章を,若干の手入れを加えて,もってきている。--「同様に,利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金(principal)として現われるのである。」〉 (164頁)

  最初に平易な書き下し文を書いておこう。

  〈私たちはすでに利子生み資本の概念を考察したときに、第24章(「4)」)において、利子生み資本の形態においては剰余価値や資本関係一般の外面化が極端にまで進んでいることを見てきました。つまり一定の貨幣額があれば、それらはすべて利子生み資本と見なされ、物としての資本に利子が生えるかのように、一定の貨幣額を利子としてもたらすものと見られるようになります。つまりその貨幣が実際に現実資本に投下されて利潤を生産しその一部を利子として取得するかどうかには関わりなく、とにかく一定の貨幣額は自ずと利子をもたらす物であると意識されるようになるのです。つまり三位一体の一般的定式のうちの「資本-利子」の関係の成立です。
  ところが、ここで問題になっていることは、そうした外面化がさらに進んだ状態のことです。すなわち利子生み資本という形態に伴って,今度は逆転して、確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになるのです。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」(利子生み資本)もまた見いだされるという転倒した関係が生じてくるのです。つまり「利子-資本」の逆転した関係です。〉

  【ここからマルクスは「架空資本」の説明に移っている。先のパラグラフでマルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉と述べていたが、そうした〈現実の構成部分〉が銀行の帳簿上では如何にして架空なものに転化していくかをこれから見ようとしているわけである。だからこれからもマルクスはそれぞれの構成部分について、常に現実にそれらが存在しているものと帳簿上のそれらの存在とを対比させて論じていることに注意しながら見ていく必要があるわけである。
  マルクスはこの三つの構成部分について、それぞれその架空化を説明していくわけであるが、その順序は、ここに並べられたものとは逆に「有価証券」から始めており(その説明が【22】まで続く)、その中で「架空資本」の概念についても説明しているわけである(「手形」は【23】【24】で、「貨幣」については預金と関連させて【25】~【28】で検討されている)。つまりもっとも架空資本として典型的なものから考察を始め、架空資本とはおよそ考えられないものも実は銀行業者の資本としては架空なものになっていることを明らかにするという手順を踏んでいるように思えるのである。
  しかしこのパラグラフでは、まだ架空資本の概念の一般的な説明から始めているように思える。次のパラグラフからは架空資本の例として国債が挙げられていく。

 ここでマルクスは〈利子生み資本という形態に伴って〉と述べているが、これについて、大谷氏は〈範疇としての利子生み資本の確立に伴って、ということであろう〉(大谷本第1巻158頁)と述べている。利子生み資本が範疇として確立すると、すべての資本が利子をもたらす(G-G')という観念が生まれ(「資本-利子」という、いわゆる「三位一体的定式」の一項)が成立し、それが今度はさらに逆転して、一定の定期的な貨幣収入が、すべて「利子」と観念され、それとともに、その利子をもたらす「資本」(つまり利子生み資本)が想像されるようになるとマルクスは述べている。これがすなわち「架空資本」なのである。

 本来、利子生み資本というのは、一定の貨幣額が剰余価値(平均利潤)を生むという独特な使用価値を持つ「商品」として、銀行から、産業資本や商業資本に「販売」され(貸し出され)、その結果、それによって生み出された利潤が企業利得(産業利潤と商業利潤)と利子に分割されて、その貨幣額(利子生み資本)が利子を伴って還流してくる(返済される)ことになる。だから本来利子は利潤から分割されたものである。しかし利子生み資本の範疇が確立すると、すべての貨幣額は利子生み資本として観念され、すべての貨幣は資本としての物となり、それには常に利子が生えてくると観念されるようになる。つまり「資本-利子」の関係である。
  しかしここで問題にされているのは、そうした転倒した関係が、さらに逆転させられた関係である。すなわち定期的な貨幣利得が、その理由は何であれ「利子」とみなされ、それにともないその「利子」をもたらす源泉として、ただ観念的な想像の産物でしかない「利子生み資本」が観念されるのである。すなわち「資本-利子」が逆転されて「利子-資本」の関係が成り立つのである。しかしいうまでもなく、この「利子生み資本」は観念の産物であり、単なる空想上のものでしかなく、よってマルクスはそれを「架空な貨幣資本」という「資本価値」だと述べているわけである。

  ところで大谷氏は注38で次のように述べている。

  〈38)〔E〕「a)」--削除。この語は,はじめ,前パラグラフの先頭に書いたのち,それを消し,ここにふたたび書いたものである。これに対応する「b)」等々は見られない。そこでエンゲルスはこの語を削除したのであろう。しかし,マルクスが2度にわたってこの語を記したことは,彼がこのあとに,「a)」等々に分けていくつかのことを書こうとしたこと,「b)」等々がないにもかかわらずおそらくは実際にそれらのことが書かれているであろうことを示唆するものであろう。〉

  つまりマルクスの草稿にはこのパラグラフの前に〈a) 〉という記号があるが、それに対応するb)やc)等々は記されていないということである。これは本来は第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)全体を踏まえて初めて分かることなのであるが、もしマルクスがb)やc)等々を考えていたとしたら(そしてそれをつけるのをうっかり忘れていたとしたら)、それを何処に付けるのが相応しいであろうか、ということについて少し考えてみよう。
  この有価証券の考察は【22】、【23】パラグラフで一つの纏めがなされている。そして【24】パラグラフから手形の考察に入っているのであるが、しかしそれは銀行業者の手においては利子生み証券になるとは言われているが、それまでの有価証券と同じように「架空資本」として述べられているわけではない。だからもしb)を入れるなら【24】パラグラフの冒頭に入れるのが適当であろう。同じような理由から、銀行業者の資本の最後の部分をなす貨幣準備の考察が行われている【26】パラグラフの冒頭にもc)を入れることができるかも知れない。そして【29】パラグラフからは預金の考察が行われており、これは【9】パラグラフで〈預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもり〉と述べていたものの考察が開始されているので、その冒頭にd)を入れることができるかも知れない。さらに【30】パラグラフからは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。〉等々とまた別の観点からの資本の架空化について論じており、だからこの冒頭にはe)が入ることになる等々。まあ、これらはあくまでも一つの仮説ではあるが……。】

  (以下、続く。)

2022年5月 5日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-2)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-2)


  (前回述べましたように、【3】~【8】パラグラフについては、第28章該当部分の草稿の解読において、【53-1】~【53-3】パラグラフと【54】~【56】パラグラフとして、すでに解読しましたので、今回は,、前回の最後に取り上げた【2】パラグラフに直接繋がっている【9】パラグラフから始めます。)

【9】

 銀行業者の資本〔d.Bankerscapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕28)その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券29),たとえばあらゆる種類の株式30)〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)である。銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる。発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わるが,銀行券はさしあたりまったく考慮の外に置くことにしよう。預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある。とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである。銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう。

  ①〔異文〕「a)」という書きかけが消されている。なお,次のパラグラフの先頭にふたたび「a)」と書かれている。
  ②〔異文〕「二つの部[分]〔Th[eile]〕」という書きかけが消されている。

  28)〔E〕「その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)である。〔other securities(public securities,wie consols,Exchequer bills etc u.andre securities,*wie Aktien aller Art†;kurz Zinstragende Papiere,die sich aber wesentlich v.d.Wechseln unterscheiden(vielleicht auch mortgages).〕」(次注で述べるように,MEGAでは,筆者が*を付した箇所に「)」が挿入されているが,筆者が†を付した「;」を「),」とすべきところと考えられる。なお,「(場合によってはまた不動産抵当証券mortgages〕も)」はあとから書き加えられている。)→ 「公的有価証券,たとえば国債証券,国庫証券,各種の株式であり,要するに利子生み証券ではあるが,手形とは本質的に区別されるものである。不動産抵当証券もこれに数えることができる。〔öffentliche Wertpapiere,wie Staatspapiere,Schatzscheine,Aktien aller Art,kurz zinstragende Papiere,die sich aber wesentlich von den Wechseln unterscheiden.Hierzu können auch Hypotheken gerechnet werden.〕」
  29) MEGAのテキストでは,ここに,先行する「(」に対応すべきものとして,草稿にはない「)」を挿入している(この「)」が編集者による挿入であることは,訂正目録に記載されている)。その場合には,この部分は,「その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券)ならびにあらゆる種類の株式」と読むことになろう。しかし原文の真意は,前注に掲げたエンゲルス版の文章に見られるとおりのものであろうと思われる。そうであるとすれば,「)」を挿入しなければならないのは,ここではなくて,次注をつけた箇所であろう。
  30) MEGAで,前注に記した箇所に挿入されている「)」は,前注で述べた理由で,むしろここに挿入されるべきものと思われる。(次注の原文に見られるように,草稿ではここにセミコロンがある。)〉 (162-164頁)

  まず平易な書き下し文を書いておこう。

  〈銀行業者の資本は、大きく分けますと

  1)現金(金または銀行券)と
  2)有価証券 の二つの部分から成っています。

  有価証券は、さらに次の二つの部分に分けることができます。

  (1) 商業的有価証券、つまり手形ですが、これは流動的なもの〔floating〕です。本来の銀行業務は、顧客(業者)が持ち込んだ手形を割引することです。
  (2) その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券、たとえばあらゆる種類の株式)です。
  これらは要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるものです。
  (さらにその他の有価証券には場合によっては不動産抵当証券〔mortgages〕も入ります)。

  銀行業者の資本は,これらの実物的なreal構成部分に分けられるだけではなく、さらに,

  1) 銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と
  2) 預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分けられます。
  3) 発券銀行の場合にはさらにこれに銀行券が加わります。

  しかし銀行券はさしあたりまったく考慮の外に置くことにします。
  預金については(銀行券についてもそうですが)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外におきます。

  しかしとにかく明らかなことは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--つまり貨幣、手形、有価証券--は、貨幣、手形、有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということです。

  銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと、あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと、この現実の区分には変わりはないのです。〉

  【ここから「II)」の冒頭パラグラフ、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉に直接続くその考察が始まっている。
   このパラグラフの解読はこれまでとは順序を変えて、大谷禎之介氏と小林賢齋氏のそれぞれの解説の批判的検討から開始したい。というのは、この両者はこの部分ではマルクスは「貸借対照表(バランスシート)」を前提して論じているのだと主張しているからである。しかしこうした主張は第28章該当部分(「Ⅰ)」の部分)で、マルクスが銀行学派の主張する「資本」というのは、銀行業者たちが彼らの元帳の立場から見て自分の資本の持ち出しに帰着するものを「資本の貸付」と言っているのをその立場を代弁しているだけで、利子生み資本という意味での「資本」という正しい概念的な理解を持っているわけではないことを暴露していたが、これを見ても、マルクス自身がブルジョア的な帳簿上の表記の一つである「貸借対照表」を前提し、それに依拠して論じているなどという両者の主張は決して受け入れることはできないのである。
 これは両者がマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉あるいは〈この区分〉と述べているものに大した顧慮も払わずに、十分な考察を加えていない(特に小林氏の場合)こととも関連している。だからこのパラグラフの解読の前に、まず両者の主張の批判的検討を行うことが適切だと考えたのである。
 この「貸借対照表(バランスシート)」の言い出しっぺは小林氏であるから、同氏の主張の検討から始めることにしたい。『マルクス「信用論」の解明』の〈第12章「銀行業者の資本」の「架空性」--手稿「Ⅱ)」(現行版第29章)について--〉の〈第1節 はじめに〉の冒頭、著者は次のように述べている。

  〈手稿の「II)」(現行版第29章)は,「銀行業者の資本は何から成り立っているかを立ち入って考察することが今や必要である1)」という文章で始められている。というのも,第9章で考察したようにマルクスは,手稿の「冒頭部分」(現行版第25章)で,J.W.ギルバートの『銀行業の歴史と原理』から既に次のこと--「銀行の使用総資本(the trading capital of a bank)は」,「投下資本(the invested capital)[「真の資本(the real capital)]と銀行営業資本(the banking capital)」という「2つの部分に分けられ」,前者は「事業(business)を営む目的で出資者(partners)によって払い込まれた貨幣」であり,また後者は銀行の使用総資本のうち,その事業の過程で銀行自身によって創造(create)される部分であり,そして借入資本(the borrowed capital)と呼ばれ得るということ,そしてさらにこの「借入資本」である「銀行営業資本」は,「3つの仕方--第1に預金の受入によって,第2に銀行券の発行によって,第3に為替手形の振出--によって」「創造(create)」され,「調達(raise)2)」されるものであることを知り得ていた筈である3)。ところが前章で考察してきたようにマルクスは,手稿の「Ⅰ)」(現行版第28章)では,この「銀行営業資本」概念の点で混乱に陥り,「銀行業者の資本」について検討する必要に迫られる。〉 (407頁)

   著者は、第28章該当部分でも、マルクスの銀行業資本(banking capital)の概念が未整理だと主張していたが、それは、著者がただギルバートの主張を前提し(つまりそれを鵜呑みにして)、その上で、つまりギルバートの整理に対して、マルクスの未整理を言い立てているだけであることがこの一文でも分かる。
   しかしこうした誤った主張は、すでに何度も指摘したが、著者がマルクスの第25章該当部分での考察をきっちり理解していないことから来ているのである。著者はマルクスが第25章該当部分でもギルバートの著書にもとづいて論じているかに述べているが、とんでもないことである。確かにマルクスは〈注1)へ(318および319ページ)〔zuNotel)(318u ,319)〕〉のなかでギルバートの著書からの引用を紹介しているが、この注1)というのは、〈しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々。1)〉という本文に付けられた原注であり、その注1)はロイド(オウヴァストン)とラゲーからの引用であり、先のギルバートの引用はその注1)への補足の原注である。しかしこれらの原注が付けられている本文でこそ、マルクスは〈ところで,銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる〉(大谷本第2巻177頁)と述べている部分なのである。つまり銀行が預金等で集めた貨幣を利子生み資本として貸し付けるだけではなくて、自行の信用だけで貸付形態を創造して貸し付けることができることを述べているところである。だからギルバートが〈銀行業資本あるいは借入資本を調達するための三つの方法は,第1に預金の受け入れによって,第2に銀行券の発行によって,第3に手形の振り出しによって,である〉(184頁)と述べて、預金と銀行券の発行や手形の振り出しを一緒くたにして論じているからといってマルクスも同じ理解にあるなどとするのはまったく噴飯ものなのである。マルクスの本文をしっかり読んで理解しているなら、こんな間違いを犯すはずはないのである。小林氏はマルクスの本文をしっかり理解する努力を怠り、ただ銀行学派たちの諸文献を渉猟するのに一生懸命で、そのためかどうかはわからないが、結局は、"ミイラ取りがミイラになってしまっている"のである。
   つまりマルクスは銀行の貸付について、同じ利子生み資本の貸付でも、貨幣による貸付と信用による貸付とを区別しているのであるが、それが著者には分かっていない。そして銀行業者手形と銀行券による貸付は信用による貸付に分類されているのである。そしてこの区別は「Ⅰ)」における銀行学派の批判のなかでも重要な意味をもっていたことが分かる。なぜなら、銀行学派たちは発券銀行業者の立場からただ信用だけで貸し付ける銀行券が流通に留まっている限りでは、紙と印刷費以外の費用を必要としないのに、他の利子生み資本(例えば預金)と同じように彼らに利潤をもたらすこと、ところがそれらが銀行に還流してきて、彼らの借入資本(預金やその他の利子生み証券など)の持ち出しに帰着すると、それらは彼らにとっては「資本への圧迫」と考えられ、「資本の貸付」に転化すると考えるのであり、それを銀行学派たちは、それらは通貨としての流通に必要な分量を超えたものだったから、すぐに還流して「資本の貸付」に転化したのだと主張したのである。それに対して、マルクスはそれは通貨の必要量以上だからすぐに還流して資本に転化したのではなく、それらが貨幣の支払手段という機能を果たすために借り出されから支払が済めばすぐに還流したのである。銀行業者にとって信用による貸付が、彼らの営業資本(預金や準備金等)の持ち出しに帰結することは大きな問題だが、彼らが資本の圧迫として捉えているものは、何ら資本ではないと批判したのである。だからギルバートの分類にもとづいているかぎりではこうしたマルクスの批判を正しく理解することも叶わないのである。  そのあと著者は〈発券銀行(issuing banks)の場合にはさらに銀行券… が付け加わる4)」と述べて,「発券銀行業者」の「資本」の場合には,「預金」の他に「銀行券」も「借入資本」に加わることを再確認して行くのである。〉(407-408頁)と述べている。確かに銀行券も銀行にとっては帳簿上は債務であるが、しかしそれは預金が債務であるというのとはまったく違うということが著者には分かっていない。預金の場合は現実の貨幣であり、その預託を受けたものである。だから、それに対する利子支払も必要である。しかし銀行券の場合はただ銀行の信用だけで創造されたものであり、銀行にとっては紙と印刷のための費用以外は不要なのである。だからこの両者を帳簿上は同じ「債務」だと一括りには出来ないのである。預金は現実の貨幣(現金)を表し、銀行券はただ銀行の信用だけを表しているにすぎない。この違いを著者は分かっていない。これは労働を基礎とする社会の一つである資本主義的生産様式を考えるなら、極めて重要な違いなのである。一方は社会的労働の対象化された価値を表しているが、他方はまったくそうしたものにもとづいたものではない。著者は銀行券を借入資本に入れているが、だからこれは間違いである。おそらく著者は同じ債務だからということで入れたのであろうが、しかし、マルクスは「Ⅰ)」の考察において、流通銀行券が還流してきて「借入資本」の持ち出しに帰結するケースを考察していたのだから、銀行券も借入資本に入るのならこうした分析は一体どう理解したら良いのか皆目わからなくなるであろう。この違いが分かっていないから、著者は銀行券が還流して預金になったことについて、それは債務の形態が変わっただけではないだろうか、などと間の抜けたことを述べていたわけである。しかしこれはただ信用だけによる貸付が現実の貨幣による貸付に変わったという銀行資本にとっては重大な意味があるのである。銀行資本にとっては前者はほとんど費用は必要ないが後者は費用が必要だからである。そして客観的にも前者は社会的労働の対象化された現実の価値の運動であるのに対して、後者はそうしたものは何も表していないという相違がある。

   このあと著者はギルバートのとらえ方とマルクスのとらえ方には違いがあるかに述べているが、しかしそれが何なのかについてはまったく分からないことを吐露している。そこでもギルバートのとらえ方として〈銀行業者であったギルバートの場合には,それは,銀行業務にかかわる側面,銀行の信用によって「創造」=「調達」された銀行にとっての債務 --預金・流通銀行券,等--が,銀行業者の「資本」即ち,「銀行営業資本」として貸し出されていくという,いわば債務の債権化の側面であった6)。〉(408頁)などと述べている。しかし〈債務の債権化〉などいう用語を持ち出しているのは、利子生み資本の概念を正しく理解していない証拠である。それが著者には分かっていない。ここでもギルバートの主張として〈預金・流通銀行券,等〉と預金と流通銀行券を一緒くたに論じているのは特徴的である。しかしこの点についてはすでに述べたので、これ以上の展開は不要であろう。
  そしていよいよいま問題になっている【9】パラグラフについてである。次のように解説している。

  〈この「II)」でマルクスは,まず,貸借対照表の「資産」の側から「銀行業者の資本」の構成を次のように挙げていく。「銀行業者の資本(das Bankerscapital)は,1)貨幣(金または銀行券),2)有価証券(securties)から成り立っている。われわれは後者を2つの部分に,即ち商業証券(手形)(commercial securities(bills))--これは短期的(floating)1)なもので,そして[銀行の]本来の業務はこの割引で行われるのだが--と,その他の有価証券(コンソル,国庫証券,等のような公的有価証券,およびあらゆる種類の株式のようなその他の有価証券);簡単にいえば利子生み証券(Zinstragende Papiere),とはいえ手形(Wechseln)からは本質的に区別されるのだが,(恐らくは不動産抵当証券もまた[含むが]),とに分けることができる」,と。そして彼は,「銀行業者の資本」は「これらの実在的(real)諸成分と並んで」,「負債と資本」の側からすると上述のように,「投下資本」と「借入資本」の2つの部分に分かれるが,しかも「これらが,即ち,貨幣,手形,有価証券が,銀行業者自身の資本を表わしているのか,あるいは彼に貸付けられた資本,即ち預金を表わしているのかということは,銀行業者の資本の実在的(wirklich)諸成分--つまり貨幣,手形,有価証券--をなんら変えるものではない,ということは極めて明瞭である2)」,という。〉 (409頁)

   このように著者はマルクスが〈これらの実物的なreal構成部分〉として挙げているものは〈貸借対照表の「資産」の側から「銀行業者の資本」の構成を〉挙げたものだと独断している。しかしいうまでもなくマルクス自身は一言も〈貸借対照表〉について言及していない。にも関わらず、著者はマルクスもこうしたブルジョア的な帳簿表記にもとづいて論じているかに主張するのである。しかしそれによって何が分かるというのであろうか。
   著者は〈「これらの実在的(real)諸成分と並んで」〉とか〈銀行業者の資本の実在的(wirklich)諸成分〉というマルクスの文言はそのまま引用しながら、それが彼らが言うところの〈貸借対照表の「資産」〉とどういう関係にあるのかについても全く説明していない。ただそこで挙げられている項目が「資産」の項目とほぼ一致しているという”発見”を何か重大なものであるかに思い込んでいるだけなのである。
 しかしそもそもこれらの用語(大谷訳では〈実物的なreal構成部分〉〈現実の構成部分〉等)で、マルクスは何を言いたいのか、それはそもそもどういうことを意味しているのか、という問題意識さえ皆無なのである。ただ貸借対照表の資産の部にあるものと同じものが挙げられているというだけで何か説明がついたものだと錯覚しているだけである。資産の部にあるから何だというのだ、それがどうかしたのか? とわれわれとしては聞きたい。
   だからかどうかはわからないが、小林氏はそのあとの草稿でマルクスが銀行業者の資本の架空資本化について論じている部分(われわれのパラグラフ番号では【10】~【23】)についてはまったく問題にせず、〈次いでマルクスは,「資産」項目の中の「利子生み証券」--債券や株式等--に転化された貨幣貸付資本が,いかに「幻想的:架空な資本(illusorisch:fictives Capital)3)」--「擬制資本」--であるかを検討4)し,〉(409頁)というたった数行だけでこの部分(つまり大谷本で164~176頁分)の解説を終えたつもりになっているのである。しかし小林氏がカットした部分というのは、ある意味ではこの「Ⅱ)」のなかでマルクスが一番重要なものとして利子生み資本の架空資本化のカラクリを暴露しているところであり、極めて重要なところなのである。だからそれをこの数行で解説したと思っていることこそ、著者がこの「Ⅱ)」で何が重要な問題なのかが皆目分かっていないことを示しているのである。これは著者がブルジョア的な帳簿表記の一つである貸借対照表に拘り、マルクスもそれに依拠して論じているのだと思い込んだことと表裏の関係にあるのではないかと思う。だから小林氏はそのあとはわれわれのパラグラフ番号では【24】パラグラフ(大谷本177頁)以降の紹介に移ってしまっている。ただ公平を期すために補足しておくと上記の引用文の中の注4)では次のようにマルクスの一文を引用していることも付け加えておく。

  〈4)「利子生み資本の形態は,一定の,規則的なあらゆる貨幣所得は,それが資本から生じようと生じまいと,資本の『利子』として現れることをもたらす。最初に貨幣所得が「利子」に転化され,それから利子と共に,利子がそこから生まれる『資本』もそこにやって来る。」このように「規則的収入が,平均利子率に従って,ある資本が……もたらすであろう収益として計算されること」を「資本化」ないし「資本還元」と呼ぶが,このようにして形成された「請求権」にすぎないこの「架空な(fiktiv)」「資本」を,ここでは「擬制資本」と呼ぶこととする。そして「すべての資本主義的生産諸国では,利子生み資本,即ち,貨幣貸付資本(moneyed Capital)の膨大量がこの形態で存在している」(MEGA,S.520,521,524;MEW,S.482:訳,658,661,665ページ]〉 (412頁)

  ついでに指摘しておくと、ここで著者は〈幻想的:架空な資本(illusorisch:fictives Capital)3)〉とマルクスの用語を一応抜粋しながら、それに〈「擬制資本」〉という説明を加えている。なぜ「架空資本」ではなく、「擬制資本」でなければならないのかの説明はない。それに擬制資本に該当する独文は示していない。ということは架空資本(fictives Capital)と同じということであろう。ではなぜわざわざ架空資本とはいわずに擬制資本というのかの説明があってしかるべきではないだろうか。これは大谷氏にもいえることではあるが、しかしこの問題はここではこれ以上の詮索は不要であろう。

   いずれにせよ、著者は【10】~【23】パラグラフのいわばこの第29章該当部分の草稿でマルクスが論じているもののなかでもっとも中心的なテーマである架空資本の形成について論じている部分の解説のほとんどをすっ飛ばしているのである。そこで何をマルクスは論じているのかについてはもちろん当該部分の解読のなかでこれから解明していくことではあるが。

   しかしその問題に移る前に、先の著者の説明に関連して一言付け加えておこう。
   マルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているのは、ある意味では素材的に異なるものを見ているということである。マルクスは最初は〈実物的な〔real〕構成部分〉として貨幣((金または銀行券)と有価証券のふたつに分け、後者をさらに二つにわける(手形とその他の有価証券に)のだが、あとでは〈現実の構成部分〉として〈貨幣,手形,有価証券〉の三つをあげている。これらは姿形を見ても区別のつくものである。つまり素材的に違ったものなのである。それをマルクスはまず銀行業者の資本を構成するものとして見ているわけである。そしてそれは銀行業者の自己資本であるのか、それとも預金(銀行業資本または借入資本)なのかは、こうした実物的な分類とは関係がないし、それらがこうした実物的な構成には影響しないのだとも述べている。だから貨幣が自己資本としてあるのか、それとも預金されたものとしてあるのか、あるいは手形が割り引かれて手元にあるものなのか、それとも担保としてあるものなのか、そんなことは実物の手形には関係がないとも述べている。これはある意味では非常に重要なことであって、われわれがマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として述べているものを理解する鍵を与えてくれている。というのは銀行が保有する手形はそれが例えば割引された手形であれば、すでに利子を先取りしたものだとはいえ銀行にとっては利子生み証券である。しかしマルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉として見ている手形はそうした利子生み証券とは本質的に区別されるものだと述べている。つまり〈実物的な〔real〕構成部分〉というのは、それらがそれ自体として捉えられたものであることを示しているのである。だから有価証券の類もそれが銀行にとって債権か負債かには関係なく、とにかく銀行業者の資本のなかにあるものの、現実の構成部分としての存在を見ているということである。だから株式なども、証券市場で売買されているような株式ではなく、株式そのものを問題にしているということである。
 その意味では、マルクスが敢えて貸借対照表について何の言及もしていないのには意味があるということである。マルクスはそうしたブルジョア的な帳簿上の分類を無視した現実的な区別をまず把握する必要を考えている。だからそれらが帳簿上どのように分類されるかということとは、それらはとりあえずは無関係に考察される必要があるといういうことである。だから前者は後者の関係からは何の影響もうけないとも述べているわけである。この違いが著者や大谷氏にも分かっていないのである。

   そこで次には大谷氏の解説の批判的検討に移ることにしよう。
   大谷氏の場合は小林氏以上に貸借対照表(バランスシート)論者であることは、すでに見てきたように第28章該当部分(「Ⅰ)」)でも著者独自のバランスシート上の記号をマルクスの引用文のなかに挿入して問題を一層混乱させていたのであるが、第29章部分(「Ⅱ)」)の解説も著者は第28章部分の解説の途中に〈この先のマルクスの記述を理解しやすくするために,この「Ⅰ)」に続く「II)」(エンゲルス版第29章部分)でマルクスが「銀行業者の資本」について説明しているところをあらかじめ見ておこう〉(大谷本第3巻36頁)と書いて、以下42頁まで第29章該当部分(「Ⅱ)」)の解説を試みている。ただ大谷氏の場合は、小林氏とは異なり、マルクスが〈実物的な〔real〕構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは何を意味するのかの考察は加えている。まず著者はわれわれのパラグラフ番号の【1】と【9】をくっつけてその全体を引用紹介して、そしてそれに次のような解説を加えている。

 〈マルクスはここでは,「銀行業資本〔banking capital〕」という語を,「預金(彼の銀行業資本または借入資本)」というように,銀行業界で通常使われる意味,すなわち,銀行業者が--銀行券の発行を度外視して--運用する,「自己資本」とは区別される「他人資本」(預金その他)の意味で使っているが,しかしまた,すぐにその例を見ることになるが,この「Ⅰ)」ではマルクスはこの同じ語を「銀行業者の資本」の意味でも使っている。
  ここでのマルクスの説明によれば,「銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕」の「実物的な〔real〕構成部分」すなわち「現実の〔wirklich〕構成部分」は,「1)現金{金または銀行券),2)有価証券」,から成り,「2)有価証券」は,「商業的有価証券(手形)」,「その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券……(場合によってはまた不動産抵当証券も)」から成っている。これらをマルクスが「銀行業者の資本〔Bankerscapital〕」の「実物的な〔real〕構成部分」または「現実の〔wirklich〕構成部分」と呼ぶとき,銀行のバランスシ一トの借方すなわち「資産」を考えていることは明らかである。これにたいして,「銀行業者の資本は,さらに,銀行業者白身の投下資本と預金とに分かれる」と言うのは,バランスシートの貸方すなわち「資本」および「負債」であり,このうちの「負債」には,「発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わる」ことになる。
  マルクスが「銀行業者の資本」と言うときも「銀行業資本」と言うときも,あるときはバランスシート上の借方すなわち「資産」を,あるときは貸方すなわち「自己資本」および「他人資本」を念頭に置いているが,さらにあるときは,「実物的な構成部分」が,「自己資本」に対応しているのか,それとも「他人資本」に対応しているのか,ということを問題にするときもある。どの場合でもマルクスの念頭には,バランスシートの借方の科目と貸方の科目との関連について,彼なりの大づかみの構図があると考えられる。〉 (37-38頁)

   少し項目を立ててこの解説文の問題点を指摘しておこう。

   (1) 大谷氏はマルクスが〈「銀行業資本〔banking capital〕」という語を,「預金(彼の銀行業資本または借入資本)」というように,銀行業界で通常使われる意味,すなわち,銀行業者が--銀行券の発行を度外視して--運用する,「自己資本」とは区別される「他人資本」(預金その他)の意味で使っている〉と述べている。確かにこれはマルクスが述べていることをそのまま紹介したものである。ただこれが〈銀行業界で通常使われる意味〉なのかどうかについてはよくわからないが、インターネットで検索するとbanking capitalは「銀行営業資金」とか「銀行営業資本」、「銀行運用資金」、「銀行資金」等々の用語による説明が出てくる。これはだからマルクスが第28章該当部分の草稿で〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)と銀行学派たちが「資本」と主張しているものが、実際には何を意味するのかを述べていたものと同じ意味と考えられるのではないだろうか。
   ところが著者はそれに続けて〈しかしまた,すぐにその例を見ることになるが,この「Ⅰ)」ではマルクスはこの同じ語を「銀行業者の資本」の意味でも使っている〉と述べている。ここで〈すぐにその例を見る〉と述べているのは恐らく大谷氏が訳者注9)のなかで指摘していることを念頭においているのであろう。そこでは〈ここでの資本は,「他人資本」である「預金」を指しているのではないので、「銀行業資本」ではなくて「銀行資本」とすべきところだ,という意味で,この表現は適切ではない〉(52頁)と述べている。つまりマルクスの表現は適切ではないとマルクスを批判している部分である。しかしこの訳者注9)についても第28章該当部分の【44】パラグラフの解読のなかで批判しておいたので、ここでは取り上げないことにする。
   大谷氏のこの第29章の解説は第28章の解説のなかに挿入する形で入っていることを考慮する必要がある。つまり大谷氏は第29章と第28章とではマルクスのいう銀行業資本(banking capital)の意味が違っていると指摘しているのである。確かにそれは重要なことであるが、しかしこのことから大谷氏も小林氏と同じように、マルクスはまだ第28章(「Ⅰ)」)の段階では問題が未整理であり、混乱しているからだと考えているのである。小林氏の場合は文字通りマルクスは混乱していると主張していたが、大谷氏の場合はそれほど直接には言わずに、控えめであるが、しかし両者は同じ立場に立っていることは確かである。だから小林氏などはこうした「Ⅰ)」の部分におけるマルクス自身の混乱があったがために、マルクスは「Ⅱ)」で問題を改めて整理する必要を感じ、銀行業者の資本について問題にしているのだなどと「Ⅱ)」自身の位置づけまでこうした理由から考えているほどである。大谷氏はそこまでは言わないが、しかしマルクスは銀行業資本(banking capital)の概念で混乱しているという理解では小林氏と問題意識を共有しているのである。

   (2)次に〈「銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕」の「実物的な〔real〕構成部分」すなわち「現実の〔wirklich〕構成部分」〉についてのマルクスの説明を紹介したあと、小林氏と同様、〈これらをマルクスが「銀行業者の資本〔Bankerscapital〕」の「実物的な〔real〕構成部分」または「現実の〔wirklich〕構成部分」と呼ぶとき,銀行のバランスシ一トの借方すなわち「資産」を考えていることは明らかである〉と述べている。しかしそれによって何かマルクスが〈「実物的な〔real〕構成部分」すなわち「現実の〔wirklich〕構成部分」〉と述べているものの何が分かるというのであろうか。もしそれらについてマルクス自身も〈銀行のバランスシ一トの借方すなわち「資産」を考えてい〉たとしても、マルクスが〈「実物的な〔real〕構成部分」すなわち「現実の〔wirklich〕構成部分」〉と述べているものが果たして何なのかについて理解が一つでも進んだというのであろうか。ただバランスシートの〈借方すなわち「資産」〉に分類されるものだというだけであって、それだけでは何も理解したことにはならないのである。なぜ、マルクスが一言も述べていないバランスシートについて論じる必要があるのかを大谷氏らは説明する必要があるし、それによってマルクスが論じている〈「実物的な〔real〕構成部分」すなわち「現実の〔wirklich〕構成部分」〉の一体何が分かるのかも、明確に説明すべきである。

   (3)〈これにたいして,「銀行業者の資本は,さらに,銀行業者白身の投下資本と預金とに分かれる」と言うのは,バランスシートの貸方すなわち「資本」および「負債」であり,このうちの「負債」には,「発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わる」ことになる〉と言うのであるが、マルクスの一文では〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる。発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わる……とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである〉となっている。
   このようにマルクスの説明では、〈実物的なreal構成部分〉に〈加えて〉(小林訳では〈並んで〉)挙げられている〈銀行業者自身の投下資本と預金(発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わる)〉という区別は、位相の異なるものであることが分かる。というのは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分……は、貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらない〉と述べられているからである。つまり後者の区別は前者の実物的な構成部分に対して銀行業者の立場(帳簿上の立場)から付け加わる区別だという意味であることが分かるのである。

   (4)〈マルクスが「銀行業者の資本」と言うときも「銀行業資本」と言うときも,あるときはバランスシート上の借方すなわち「資産」を,あるときは貸方すなわち「自己資本」および「他人資本」を念頭に置いているが,さらにあるときは,「実物的な構成部分」が,「自己資本」に対応しているのか,それとも「他人資本」に対応しているのか,ということを問題にするときもある。どの場合でもマルクスの念頭には,バランスシートの借方の科目と貸方の科目との関連について,彼なりの大づかみの構図があると考えられる〉というのであるが、しかしこれは何の論証もない単なる独断でしかない。
   大谷氏はここで〈「銀行業者の資本」と言うときも「銀行業資本」と言うときも〉と述べているが、恐らく大谷氏はマルクスはbanking capitalという用語を「銀行業資本」という意味で述べている場合もあれば、「銀行業者の資本」という意味で述べている場合もあると言いたいのであろう。しかし少なくとも第29章該当部分の草稿では、マルクスはbanking capitalという用語を預金と同じものとして、つまり〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〉として明確に述べているのであり、第28章該当部分でのように、〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)というように銀行学派的な意味で使っているわけではないのである。
  〈さらにあるときは,「実物的な構成部分」が,「自己資本」に対応しているのか,それとも「他人資本」に対応しているのか,ということを問題にするときもある。どの場合でもマルクスの念頭には,バランスシートの借方の科目と貸方の科目との関連について,彼なりの大づかみの構図があると考えられる〉というのであるが、実物的な構成部分として挙げられているものが〈借方の科目〉にあり、〈「自己資本」〉や〈「他人資本」〉というのは〈貸方の科目〉にあると言いたいのであろうが、しかしそんなことを指摘しても何もわからないことだけは確かではないだろうか。〈マルクスの念頭〉に何があるかを大谷氏が類推するのは勝手であるが、それによって何が明らかになるのかを明確に説明すべきではないだろうか。

   そのあと大谷氏は〈マルクスの念頭に〉あるという〈バランスシートの借方の科目と貸方の科目との関連について,彼なりの大づかみの構図〉を、〈つかむのに、やや教科書的になるが〉と断って銀行資本の説明に移っているが、その部分も詳しく吟味するといろいろと文句をつけたくなるところはあるがすべて割愛して、「実物的な構成部分」について考察を加えている部分の検討に入ることにしたい。次のように述べている。

  〈ここで言う「貨幣」とは,預金銀行の場合には,金および中央銀行券であり,発券銀行の場合には,金である。この「実物的な構成部分」は,利子を生むべく運用されていない(利子生み資本として機能していない)が,しかし銀行にとっては,預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産であり,その意味で銀行資本の最も重要な「構成部分」をなしている。つまり,銀行にとって不可欠の「資本」なのである。ここで肝要なのは,銀行にとっての「資本」とは,銀行に利子をもたらす「構成部分」だけではないのだ,ということである。〉 (40-41頁)

  まずこの一文で問題なのは、……

   (1) 〈ここで言う「貨幣」とは,預金銀行の場合には,金および中央銀行券であり,発券銀行の場合には,金である〉というのであるが、果たしてどうか。イギリスの場合、イングランド銀行と地方銀行、個人銀行等があったとされるが、発券銀行は地方銀行のなかにもあったし、イングランド銀行はもちろん発券業務も行いながら同時に貸付業務や預金業務をやっていたのである。だから「貨幣」というのは、マルクスが〈現金(金また銀行券)〉と書いているように、金地金(あるいは金鋳貨)とイングランド銀行券と考えるべきであり、ここで預金銀行と発券銀行とを区別する必要はないのではないかと思う。マルクス自身はそんな区別はまったくしていない。ギルバートの『銀行業の歴史と原理』では銀行業の資本を細々と区別している(例えば「預金銀行」、「送金銀行」、「発券銀行」、「割引銀行」、「キャッシュ・クレディット銀行」、「貸付銀行」、「貯蓄銀行」等々〔小林本322頁〕)が、そして小林氏もそうした区別にもとづいていろいろと論じているが、そんなことは少なくともマルクス自身はほとんど問題にしていないということを考えるべきである。マルクスは第25章該当部分の冒頭、〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉(大谷本第2巻157-158頁)と述べていたことを想起すべきである。信用制度(銀行制度)も〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要な〉ものに限って論じているのであり、だから銀行業者の資本が預金銀行と発券銀行に分けられ、その場合はこういう違いがある等々というような問題は〈われわれの計画の範囲外にある〉問題なのである。

   (2) 次に、〈「実物的な構成部分」は,利子を生むべく運用されていない(利子生み資本として機能していない)が,しかし銀行にとっては,預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産であり,その意味で銀行資本の最も重要な「構成部分」をなしている〉というが、これはこれまでの説明とはやや矛盾している。大谷氏は38頁で〈銀行資本(マルクスの言う「銀行業者の資本」)は銀行利潤という,産業利潤および商業利潤とは区別される増殖分の獲得を目的とする資本である〉と説明している。そしてマルクスが〈「実物的な構成部分」〉について語っているのは、36頁で大谷氏が引用しているマルクスの一文から明らかにように、マルクスは〈今度は,銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉と述べ、その〈銀行業者の資本の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は、……〉と続けているからである。もしこの説明に整合性をつけるなら、〈銀行資本(マルクスの言う「銀行業者の資本」)は銀行利潤という,産業利潤および商業利潤とは区別される増殖分の獲得を目的とする資本である〉であるが、その〈「実物的な構成部分」は,利子を生むべく運用されていない(利子生み資本として機能していない)が,しかし銀行にとっては,預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産であり,その意味で銀行資本の最も重要な「構成部分」をなしている〉ということになる。利潤(利子)の獲得を目的にしているが、実物的な構成部分というのは、まだその目的を果たすために運用されていないものを指しているということであろうか。だから〈しかし銀行にとっては,預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産であり,その意味で銀行資本の最も重要な「構成部分」をなしている〉という説明になるわけである。
   しかマルクスがいうところの〈現実の構成部分〉のうちの〈貨幣〉は現金(金または銀行券)のことであり、だから当然、大谷氏がいうように〈預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産〉と考えられないことはないが、しかしこれから利子生み資本として貸し出す予定のものといえないこともない。
   次に〈手形〉は、これは手形割引で利子生み資本を運用した結果として銀行が所持しているものであり、だからもしそうならそれを〈預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産〉ということはできない。そればかりかマルクスが〈実物的なreal構成部分〉と述べている手形〈商業的有価証券(手形〉は、そうした割り引かれた手形を意味しているものですらないということはすでに指摘した。というのはマルクスはそれと〈その他の有価証券〉とを区別して、後者を〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの〉と述べているからである。後にマルクスは割り引かれた手形を〈利子生み証券〉としているが(【24】パラグラフ)、だからここで〈実物的なreal構成部分〉と述べている〈商業的有価証券(手形〉はそうしたものではなく、そもそもマルクスが〈実物的なreal構成部分〉とか〈現実の構成部分〉と述べているものは、それらを銀行業者がどういう名目で所持しているのかには関わらないものとして、それ自体として捉えたものであることを示しているのである。
   さらに〈有価証券〉の場合、それは確かに準備資産という側面はないとはいえないが、しかし貸付の担保として保持しているものもあり、だからそのすべてが準備資産とはいえないのである。だから実物的な構成部分を、すべて〈銀行にとっては,預金債務と兌換義務とに備えるための準備資産〉だなどと大谷氏のように簡単には言えないのである。

  (【9】パラグラフの解読の途中ですが、長くなるので、ここで一旦切ります。続きは次回に。)

 

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