『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-5)
第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-5)
【13】
〈75)(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金,principalとして現われるのである。)
75)〔E〕エンゲルス版では,このパラグラフは三つ前のパラグラフの末尾につけられている。〉 (167頁)
まず平易な書き下しを書いておこう。
〈利子生み資本が範疇として確立しますと,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われます。つまりそれは,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金,principalとして現われるのです。〉
【このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、また直前の【12】パラグラフに直接繋がっているものとも思えないので、恐らくマルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスもこのパラグラフを三つ前の【10】パラグラフの末尾にくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。
ここで言われていることは、【10】パラグラフで言われていることとそれほど違ったものではない。確認のためにもう一度【10】パラグラフを示してみよう。
〈【10】a) 利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。〉 (164頁)
範疇としての利子生み資本が確立すると、どの貨幣額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己を維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例えば産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた貨幣額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)を取得するとともに、貨幣資本家としては彼の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。利子生み資本の範疇としての確立は、他方で所有と機能との分離が確立することでもあるからである。これらは利子生み資本の概念が明らかにされた1)~4)(第21章~第24章)のなかで明らかにされたことである。ここでわれわれが確認しなければならないことは、架空資本というのは、大谷氏や小林氏、あるいは林氏もそうであるが、ただ単に規則的な貨幣利得を資本還元すれば形成されるのだと一つ覚えに覚えればそれでよいというものではなく、そのためには利子生み資本がその前提としてあるということである。だから利子生み資本の説明抜きに架空資本を論じても(これは多くの論者に共通することなのであるが)、真に架空資本の何たるかを説明したことにはならないということである。この次のパラグラフは〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって〉という文言で始まっているが、何度も強調するが、利子生み資本こそが架空資本を生み出している根源なのだということである。】
【14】
〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,80)たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,①労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,1年間の労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する②。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀の後半には(たとえば③ペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この無思想な考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,100)101)買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない。/
①〔異文〕「労働能力」← 「労賃」
②〔異文〕はじめ,ここで文を終えるためにピリオドを打ったが,それをコンマに変更して,次の文を続けて書いた。
③〔注解〕「ペティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイルランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材〔Stock〕が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば,25〔百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は,416[2/3]百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」〔大内兵衛・松川七郎訳『賢者には一言をもって足る』。所収:『租税貢納論』,岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕
80)「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長線上で理解されるべきであろう。これもまた,「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」である。
100)〔E〕「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない」→ 「賃借人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補塡しなければならない」
101)〔E〕前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い,「そのうえになお」資本の年間損耗分を補塡しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって利子生み資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借(Vermietung)」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉 (168-170頁)
最初に平易な書き下し文を書いておこう。
〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態を産み出す母なのです。利子生み資本が、金融の世界におけるさまざまな奇妙な現象を生み出している元なのです。たとえば債務が銀行業者の頭の中では商品として現われます。彼らは預金や銀行券、つまり彼らにとってはそれらは債務を表すのですが、しかしそれを利子生み資本として貸し付けることを彼らの業務としています。そして彼らはその貸付や返済をあたかも貨幣を商品として売買するかのように観念するのです。また国債という資本ではマイナスが資本として現われます。国債は国家の債務であり、それらはすぐに浪費されて何もなくなってしまうのに、依然として資本として存在しているかのように現象し、その幻想的な資本の売買が成立しています。
労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがあります。この場合には,労賃は利子だと解されて,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解されるわけです。たとえば,労賃が50ポンド・スターリングで,利子率5%であるとしますと,1年間の労働能力は1000ポンド・スターリングの資本(利子生み資本)になるのです。まさに資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達します。
というのは,労働能力を資本とする観念は、資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからです。
17世紀の後半には(たとえばペティの場合)これがお気に入りの考え方だったのですが,それが今日でも,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのです。
しかし,ここには,この無思想な考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてきます。
まず第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないという現実があることです。
そして第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということです。
反対に,彼の労働能力の年価値はただ彼の年間平均労賃であり,しかも,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,この価値そのものに、それの増殖分である剰余価値を付け加えたものなのです。
確かに奴隷諸関係では,労働者(奴隷)はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっています。しかしそれは彼が持っているというより彼を持っている奴隷主が持っているものですが。だから,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本(奴隷)の年間損耗分あるいは摩滅分に利子をプラスして返済しなければなりません。〉
【ここからは、マルクスが【10】パラグラフで〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力を資本と考えるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】パラグラフで述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。
ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注80)を付けて、次のように説明している。
〈80)「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長線上で理解されるべきであろう。これもまた,「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」である。〉
こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【15】パラグラフで問題にするが、マルクスが問題にしているのは銀行券のことである)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家たちに売り出される(貸し出される)「商品」だということとして考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すことになる。しかしこの時点でマルクスがそうしたことを述べている〈貴重な記述〉だといわれると違和感は拭えない。
それに大谷氏は〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる〉などと述べているが、しかし利子生み資本として貸し出される貨幣が「商品」としての外観を取る(利子がその価格になる)ことは、利子生み資本の概念を説明したところで(つまり1)~4)〔第21章~第24章〕で)マルクスはすでに何度も述べていることであり、決してここだけがそれについて述べているようなものでは決してないのである。
さらに言えば、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が銀行に自分のお金を預金するときに、自分のお金を商品と考えて、それを銀行に売りに行くのだなどと考えるだろうか。それに大谷氏は〈貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である〉というように、貨幣を「商品」として販売する場合の商品についてはカギ括弧を入れている。つまりそれは本来の商品とは異なり、それが商品として観念されるのは一つの外観だと言う意味を持たせている。ところが〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり〉と銀行へ預金する場合は、その貨幣を商品として売ると観念するかに述べ、しかもその商品にはカギ括弧が付いていない。つまり預金の場合は預金する貨幣は普通の商品だと果たして大谷氏自身は考えているのかどうか、もちろんこれだけでは判断できないのではあるが。
しかしいずれにしても、一般的に言って、預金者が彼の貨幣を銀行に預金するときに、彼は彼の貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つかは疑わしい。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場があると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。マルクスは後の【33】パラグラフで〈預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。〉(184頁)と述べているが、預金が公衆による銀行に対する商品としての貨幣の販売だなどとは述べていないのである。これはあまり本質的な問題ではないが、指摘しておきたい。
ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろうと思える。つまりそれは年金のように永久に年々貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒--引用者)。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,1年間の労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と述べている。
そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や「思想」の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に自分の労働によって補塡してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。
そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補塡するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。
ところでこの部分にも大谷氏は注100)、101)と二つの注をつけて、次のように述べている。
〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補塡しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補塡しなければならない」
25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補塡しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉
大谷氏の"弟子"を自認する友人によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスが第21章で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身は「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払い手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品を販売(譲渡)するわけである。そしてその商品の使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人的収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。
しかしマルクスが第21章で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。その貸し付けられた商品が現実の生産過程で生産手段として消費され、その限りでは社会的な物質代謝の一契機をなす場合でも、しかしその生産手段としての商品を、その所有者(所有資本家)が現実資本(機能資本家)に貸し付ける関係そのものは、あくまでも再生産過程外の関係であり、その限りでは社会的物質代謝の一契機をなしていないのである。つまりそれはあくまでも社会的物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本の範疇に入れているわけである。だから、大谷氏はエンゲルスのわずかな修正、利子支払いが先か損耗分の補塡が先か、という違いのなかに何か重要な問題をマルクスが示唆しているかに述べているのであるが、問題の本質を外している議論としか言いようがないのである。
だから奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提していて、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく)述べていることは明らかなのである。だから買い手は損耗分だけでなく利子をも補塡しなければならないとしているわけである。】
【15】
〈|336下|〔原注〕a)〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論』を見よ。〔原注a)終わり〕〉 (170頁)
【これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であり、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけであるから、平易な書き下し文は不要であろう。
『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど第28章該当個所でもマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【49】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。
〈546)「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)〉(143頁)
この28章該当部分における引用には、大谷氏の次のような注がついている。
〈546) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友〔amis du commerce〕」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEGA Ⅱ/5,S.95.27-32;MEW,23,152-153ページ)。〉
だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)〉ということで考えていたのは、原注a)が銀行券に関連するものだから、あるいは銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと考えることも可能かも知れない。すでに述べたが、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。】
【16】
〈〔原注〕b)103)たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は①資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば,一人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)
① 〔注解〕レーデンの原文では,ここに,「財産の他のすべての部分がそうであるように」という句がある。
103)〔E〕「たとえば,フォン・〔v.〕レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。」--削除。MEGAでは,「W.レーデン」となっている。なお,レーデンの名はFriedrich Wilhelm Otto Ludwig Freiherr von Redenである。〉 (170頁)
【これも原注であり、ほぼ引用からなっているので、平易な書き下し文は省略しよう。この原注は【14】パラグラフの〈17世紀の後半には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。〉に付けられたものである。【14】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解①があり、次のような説明がある。
〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイルランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416[2/3]百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『賢者には一言をもって足る』。所収:『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。)〉
この場合、1500万ポンドの収入が、2億5000万ポンドの王国の資材から生み出されたとしているから、この場合の利子率は6%になる。だから人民が生み出したとする2500万ポンドは、2500万を6%で資本還元して得られる4億1600[2/3]ポンドが人民の値打ちとしてあり、それが2500万ポンドを利子としてもたらしたのだとペティの場合も考えているわけである。
レーデンの場合、明確に平均的な日賃金を資本還元することについて述べているが、要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として同じことが述べられているわけである。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。】
(続く。)