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2022年4月

2022年4月28日 (木)

『資本論』第5篇 第29章の草稿の段落ごとの解読(29-1)

第29章「銀行資本の構成部分」の草稿の段落ごとの解読(29-1)



  〔第29章の草稿  それとエンゲルス版との相違〕


《はじめに》

 すでに第29章該当部分の草稿(「Ⅱ)」)の解読も一度行い、このブログで公開している。以前のものは、2009年に関西で開催されたセミナー(テーマは「恐慌の歴史を学ぶ」)における、講師の一人であった林 紘義氏(報告「08年金融恐慌と現代資本主義」)と私との間の論争がきっかけであった。林氏はサブプライム・ローンの証券化をめぐり、国債を例に上げて説明したのに対して、私は、国債を例にあげることには異論がないが、それはマルクスがいうところの架空資本として捉えるべきだと主張したのであった。ところが、林氏は国債は架空資本ではない、国債を資本還元しても無意味だと主張し、論争になったのである。
  これは『資本論』の第29章でマルクスが論じている架空資本の理論を如何に理解するかということと直接関連していた。その後、林氏は自説を擁護して『海つばめ』No.1110とNo.1111で自らの主張を展開したが、私は林氏の『資本論』理解は間違っていると主張し、私の所属する支部で『資本論』の研究会を行った。今回も、エンゲルス版ではなく、マルクスの草稿そのものを研究することになり、大谷禎之介著「銀行資本の構成部分」〔『資本論』第3部第29章〕の草稿について」(『経済志林』第63巻第1号1995年)の翻訳文を利用させて頂いて、私がレポーターになってレジュメを準備した。それをもとに纏めたものが以前、このブログで公開したものである。
  だから以前のものは、第29章該当部分の草稿を解読するものであったが、同時に林氏の『海つばめ』掲載記事の批判を兼ねたものになっている。今回、新たに解読を行うにあたり、林氏の主張を批判する部分をカットして行うことも考えたが、しかし林批判の部分もそれ自体は純粋に第29章該当部分の草稿を理論的に解明することを課題にしたものであり、それを削除することはむしろその理解を不十分なものにすると判断し、林批判の部分も残しておくことにした。そのために、読者の便宜を図るために、恐らく今日では一般の人には入手が困難と考えられる林氏が執筆した二つの記事を関連資料として最後に付けておくことにする。

  よって以前のレジュメをベースに、その後出版された大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』第3巻の翻訳文を今回は利用させて頂き、同時に同氏の関連論文も批判的に取り上げ、また小林賢斎氏の『マルクス「信用論」の解明』で展開されている第29章該当部分の草稿の研究をも踏まえて解読を行うことにしたい。

  以前のレジュメの作成は2010年1月29日起筆、ブログへの掲載は2015年11月12日開始になっている。今回改めて読み直してみて、やはり不十分なところが幾つかあったが、基本的な点での大きな間違いは見いだせなかった。よって以前のものをベースにして、新しい知見を加え、不十分な点を補い、大谷氏や小林氏の主張の批判的検討を加えるという形で今回の解読を進めて行くことにしたい。
              
  解読のやり方は、これまでの形式を踏襲して、私自身が便宜的につけたパラグラフ番号にもとづいて、まずは草稿の本文テキストを〈青太字〉で紹介し、その平易な書き下しを〈黒太字〉で行う。そして【  】内で関連する考察を加えるという形で進めてくことにする。MEGAの注解等や大谷氏や小林氏の解説、林氏の主張等は、〈青字〉で紹介する。大谷氏の膨大な訳者注のほとんどはエンゲルスの修正の内容を紹介するものなので、煩雑を避けるために、原則として掲載せず、マルクスの草稿を理解する上で必要と思えるものだけに限定した(だから訳者注の番号は順番どおりにはなっていない)。

  なお第28章該当部分の草稿の解読の時にも指摘したが、われわれのパラグラフ番号の【2】でマルクスは〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉(159頁)と書き出しながら、すぐにその本題には入らず、その前の第28章該当部分(「Ⅰ)」)の続きを書き継いでおり、これがわれわれのパラグラフ番号では【3】~【8】となっている。そしてようやく【9】パラグラフから【2】に直接続くものが始まっているのである。だから【3】~【8】パラグラフについては、すでに第28章該当部分の草稿の解読のなかで、その解読は終わっており、だから今回はこれらは省略して、【2】パラグラフのあとは、すぐに【9】パラグラフを始めることにしたい(【3】~【8】パラグラフの解読については、第28章該当部分の草稿の解読【53-1】~【53-3】と【54】~【56】を参照していただきたい)。


【1】

〈1)[519]|335上|2)II.3)〔monied capitalの諸形態とそれらの架空性〕

  1) MEGA II/42の519ページには,この前の「Ⅰ)」すなわち「〔トゥクおよびフラートンによる緒概念の混同と誤った区別との批判〕」の最後の10行がある。
  2)〔E〕「II」→ 「第29章 銀行資本の構成部分」〔表題〕
  3)MEGA II/4.2では,エンゲルス版第29章に利用された草稿部分には編集者のタイトルを挿入していない。本書では,この部分の内容に即して,「〔monied capita1の諸形態とそれらの架空性〕」という筆者によるタイトルをつけておく。〉 (159頁)

  【ここにはMEGAの頁数と草稿の原頁、そしてマルクス自身による項目「Ⅱ.」があるだけだから、平易な書き下し文は不要であろう。大谷氏はこの部分に〈monied capitalの諸形態とそれらの架空性〉という表題を付けているが、エンゲルス版の表題は〈第29章 銀行資本の構成部分〉というものである。
 われわれは、このエンゲルス版第29章該当部分の草稿は、『資本論』の第3部草稿(「主要草稿」とも「第1草稿」とも呼ばれている)の第5章(篇)「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」(エンゲルス版の表題は「利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本」)のなかでどういう位置を占めているのかを確認することから始めることにしたい。
 大谷禎之介氏は、その最終講義(『経済志林』72(4), 19-20頁)のなかで、以下のような第5章の全体の構成を明らかにしている。

                                                     〈第5章の構成

A. 利子生み資本の理論的展開

  I .利子生み資本の概念的把握

  (1) (草稿:「l) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第21章 利子生み資本」)
  (2) (草稿:「2)利潤の分割。利子率。利子の自然率」)(エンゲルス版:「第22章 利潤の分割。利子率の「自然」率」)
  (3) (草稿:「4) 〔表題なし,4は3の誤記〕」) (エンゲルス版:「第23章 利子と企業者利得」)
  (4) (草稿:「5)利子生み資本の形態における剰余価値および資本関係一般の外面化〔5は4の誤記〕」) (エンゲルス版:「第24章 利子生み資本の形態での資本関係の外面化」)

 II. 信用制度下の利子生み資本の考察(草稿:「5)信用。架空資本」)

  (1) 信用制度概説
   (a) 信用制度の二側面とその基本的な仕組み(エンゲルス版:「第24章 信用と架空資本」の初めの約4分の1)
   (b) 資本主義的生産における信用制度の役割(エンゲルス版:「第27章 資本主義的生産における信用の役割」)
  (2) 信用制度下の利子生み資本(monied capital)の分析
   (a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱(草稿:「I) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第28章 流通手段と資本。トゥックとフラ一トンとの見解」)
   (b) monied capitalの諸形態。架空資本としてのmonied capital(草稿:「II) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第29章 銀行資本の構成部分」)
   (c) 実物資本との関連におけるmonied capitalの分析(草稿:「III)〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第30章 貨幣資本と現実資本 I 」.「第31章 貨幣資本と現実資本II」.「第32章 貨幣資本と現実資本III」)
  (3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性(草稿:ノート「混乱」のあと,本文として書かれた部分) (エンゲルス版:「第35章 貴金属と為替相場」)

B.利子生み資本にかんする歴史的考察(草稿:「6)先ブルジョア的なもの」) (エンゲルス版:「第36章 先資本主義的なもの」)〉

 つまり大谷氏によれば、第5章は大きく分けて、〈A. 利子生み資本の理論的展開〉と〈B.利子生み資本にかんする歴史的考察〉に分かれ、さらに前者は〈I .利子生み資本の概念的把握〉と〈II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉とに分かれる。そして後者は、さらに三つの部分〈(1) 信用制度概説〉〈(2) 信用制度下の利子生み資本(monied capital)の分析〉〈(3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性〉に分かれるのであるが、このうち(2)の部分は、マルクス自身による I 、II、IIIの表題なしのローマ数字による番号が打たれた部分に分けられているのであるが、第29章該当部分は、このうち「II」に当たるわけである。その内容を大谷氏は上記の表では〈monied capitalの諸形態。架空資本としてのmonied capital〉としている。
 こうした第5章(篇)全体の構成の捉え方は、その内容に即して考えるに妥当なものと言うことができる。ここで注意が必要なのは、Aの〈I .利子生み資本の概念的把握〉については、マルクス自身によって、(1)~(4)の節番号が打たれ(但し、上記に説明されているようにマルクス自身は番号を打ち間違っているのであるが)、(2)と(4)にはマルクス自身による表題も書かれており、全体としてこの部分はかなりの程度まで完成されており、エンゲルスはそれを第21章~第24章として編集したのである。それに対して、Aの〈II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉の部分は、マルクス自身によって〈5)信用。架空資本〉と表題が書かれていて、 I ~IIIの部分に分けられているものの、マルクスが資料集めのために書きつけたものも色々と間に挟まっており、エンゲルスが第3部の編集でもっとも手こずったところなのである。エンゲルスが編集に手こずった主要な理由は、その部分のマルクスの草稿の完成度が低かったからでもあるが、それ以上に、エンゲルスがアイゼンガルテンによる聞き書き稿をもとに編集したからであると大谷氏は指摘している。つまりマルクスの草稿ではテキスト(本原稿)の部分と資料集めのための部分とが区別できるようになっていたのに、それを無視して編集用の聞き書き稿を作ってしまったからだというのである。だからエンゲルスは本来は資料のために書いている部分も第25章の後半や第26章、第33章、第34章の全部、第35章の一部に採用して、一つの章を作り上げるというような操作をしてしまって、マルクスの草稿の展開を見えにくくしてしまっているわけである。
 だからマルクスが〈5)信用。架空資本〉と番号を打って表題を書いた部分は、エンゲルス版の第25章~第35章全体を含むものだったわけである。ところがエンゲルスは、この表題を第25章の表題として採用して〈第25章 信用と架空資本〉としたのであったが、しかし草稿ではこの部分では架空資本についてはほとんど論じていなかったのである。だからエンゲルスはマルクスが資料として書きつけた部分から架空資本について言及したものや、エンゲルスが独自に集めたものを加えて、この第25章を作り上げているわけである。
 しかしマルクスの本来の意図は、エンゲルスが第25章~第35章に分けた部分全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのである。この部分でマルクスが課題としたのは、大谷氏が指摘するように〈信用制度下の利子生み資本の考察〉であった。この課題については、現行版の第27章の最後のあたりでマルクス自身によって次のようにいわれている(但しこの部分もエンゲルスによって手が入れられて、現行版では、マルクスの本来の意図が正しく伝えられていないので、われわれは大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』第2巻掲載の草稿の翻訳文を見ることにする)。

 〈これまでわれわれは主として信用制度の発展{そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な1atent〕止揚}を,主として生産的資本に関連して考察してきた。いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移るが,そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない。〉 (大谷本第2巻299-300頁)

 マルクスがここで〈これまで〉と述べているのは、現行版で第27章に該当する部分であり、先の大谷氏の第5章(篇)全体の構成で見ると、〈(1)信用制度概説〉の〈(b) 資本主義的生産における信用制度の役割〉の部分なのである。そして〈そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない〉とマルクスが述べているのは、マルクス自身が「I)」と番号を打った部分、大谷氏による表題では〈(a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱〉にあたり、現行版では〈第28章 流通手段と資本。トゥックとフラートンとの見解〉に該当するわけである。
 だからわれわれがこれから検討する第29章該当部分(つまりマルクス自身が「II)」と番号を打った部分)は、ここでマルクスが〈いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移る〉と言っている問題が、最初に本格的に取り組まれている部分なのである。
 大谷氏は、この第29章該当部分の解説のなかで、〈第5節の表題は「信用。架空資本」でしたが,マルクスがここに「架空資本」 と書いていたのは,エンゲルス版第25章の部分ではなくて,ここのところで(つまり第29章該当部分で--引用者)銀行資本の架空性を明らかにすることを念頭に置いていたものと考えられるのです〉(前掲最終講義31頁)と述べているが、確かにそう考えられなくもないが、しかしマルクス自身は「5)」全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのであるから、この表題にある〈架空資本〉が第29章該当部分だけに妥当すると考えるのは必ずしも正しくないだろうと思う。やはりマルクス自身は、〈利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態〉として〈架空資本〉こそがもっとも重要なキーワードだと考え、それこそが考察の対象であり、解明されなければならない問題であると考えていたと捉えるべきではないかと思うわけである。この点、大谷氏の説明はやや物足りなさは否めない。同じことはマルクスが〈「III)」〉と番号を打った部分の課題についても言える。大谷氏はこの部分の課題を〈実物資本との関連におけるmonied capitalの分析〉として、次のように述べている。

 〈ここでマルクスがなにをやっているかと言えば,要するに,monied capitalがどのようにreal capitalから自立して運動するか,real capitalにどのように反作用するか,それにもかかわらずreal capitalによってどのように制約され,規定されざるをえないか,ということを資本の運動の時間的経過のなかで観察し,解明するということなのですね。〉 (同32頁)

 確かに大谷氏の説明は、その通りであり、なにも間違っているわけではないのであるが、しかし、この部分でマルクスが追究しているものの説明としてはやはり物足りなさは否めないのである。マルクスが解明しようとしているのは、現代資本主義でも大きな問題になっている金融バブルの理論的解明なのである。マルクスが〈5)〉と番号を打った部分全体の表題を〈信用。架空資本〉と書いたということは、まさにこの部分全体で解明しようとしたのはこの課題(金融バブルの解明)だったと言えるであろう。それは信用制度のもとで利子生み資本の形態が生み出した“幻想的な怪物”であることを明らかにし、それが不可避に破裂、崩壊せざるをえないことを論証することだったと言えるのである(だから同じように、バブルの崩壊を論証している第35章該当部分の大谷氏の説明にも一定の物足りなさを感じざるをえないのである)。その意味では、“サブプライム金融恐慌”に代表される現代資本主義を理論的に解明することを課題とするわれわれが徹底的にこの部分のマルクスの草稿を研究して、そこから学ぶ必要のある理由でもあるのである。
 だから現代資本主義に特徴的な金融バブルを解明するキーワードは「架空資本」であり、その概念が解明されているのが、すなわちこれからわれわれが学習する第29章該当部分なのである。そうした重要な位置づけを確認して、次からその内容に踏み込んで研究し、学んで行くことにしよう。


【2】

 〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉 (159頁)

  〈これまで私たちは、銀行学派たちの主張、とくに彼らが通貨学派を批判する論拠として持ち出している「通貨と資本との区別」を取り上げ、そのなかで彼らがさまざまな混乱や自己撞着に陥っていることを示してきました。その冒頭、私は必要なのは鋳貨としての流通手段や、貨幣、貨幣資本(geld Capital)、さらには利子生み資本(moneyed Capital)との諸区別を明確に掴むことだと指摘しておきました。銀行学派たちは総じて銀行業者の立場を代弁していますが、そもそも銀行業者の資本とは何なのか、それは何からなっているのかをもっと詳しく考察する必要があります。今度はそれをやることにしましょう。〉

  【ここから「II)」が始まっているが、しかし、マルクスはこのように、〈今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と言いながら、すぐにそれに取りかかるのではなく、次の【3】パラグラフ以降においては、「 I )」の、つまりエンゲルス版では第28章に該当する部分のまとめというか、結論を書いている(だから、ここで述べている銀行業者の資本が何からなっているかの考察は、実際には、われわれのパラグラフ番号で言うと、【9】パラグラフから始まっている)。だからわれわれは【3】~【8】パラグラフの解読はすでに第28章該当部分の草稿の解読において行ったので、今回は重複を避けるためにそれらは飛ばすことにする。

 ところでどうして、マルクスは、ここから銀行業者の資本が何からなっているのかをもっと詳しく考察する必要があると考えたのであろうか。少しこれまでの展開を振り返って考えてみよう。
 「利子生み資本」というのは、その概念は第21~24章で明らかにされているのであるが、主要には銀行があちこちから集めた貨幣を産業資本や商業資本に貸し出すものである。だから、第21~24章で「利子生み資本」の概念を展開したあと、実際の「利子生み資本」の運動の考察に取りかかるわけだが、しかしそのためには、利子生み資本が運動する場である信用制度(銀行制度)をまず解明しておく必要があった。利子生み資本に「固有の運動」というのは、「貸借」、つまり「貸出」と「返済」の運動である。だからその運動を論じるためには、その実際の貸借を行う銀行などの信用制度も論じなければならないわけである。ただ信用制度そのものの本格的な考察は、マルクスのプランでは『資本論』の枠を超えた、もっと後の部分(これは競争などともに、資本の「特殊」な考察として位置づけられていた)で展開されるべきものなので(だから『資本論』は資本の「一般的」な考察に限定されている)、エンゲルス版の第25~27章では、利子生み資本の運動を論じるために必要最小限に限って信用制度について論じるとマルクスは断っているわけである(だから第25~27章と言っても、エンゲルスが付け加えたものを除外すると、本文としてマルクスが論じている部分は、第25章の前半と第27章だけであり、分量としては、極めて簡単なスケッチ程度で、わずかである)。

 マルクスは「 I )」と番号を打ったところから、銀行学派の批判を行うのであるが、これはどういう意義があるのであろうか。
 いわゆる通貨学派と銀行学派との論争というのは、簡単にいうと銀行券の発行を制限すべきか、その必要はないかという点を巡っての論争であった。通貨学派はリカードの貨幣数量説にもとづいて、銀行券の発行を金貨幣が持っている貨幣数量の調節作用に合うように制限する必要があると主張したのに対して、銀行学派はその必要はない、というのは銀行券(兌換)は流通の必要以上には流通に出回らないからだと主張したのである。
 信用制度が発展すると、流通に必要な貨幣(通貨)は、基本的には銀行が供給するようになる。銀行が供給するのだから、その限りでは、それは「利子生み資本」の運動なのである。しかしこのことを理解している人は、今日でもほとんどいないと言っても過言ではないほどなのだ。第28章草稿の解読においても指摘しておいたが、「通貨をじゃぶじゃぶ供給せよ」とか「貨幣を潤沢に」とか「過剰流動性」だとか、いろいろと今日でも言われているが、それらはすべて直接的にはまず「利子生み資本」の問題なのである。ところが、多くの人は直接に政府によって1万円札(あるいはドル札でも同じだが)がどんどん流通に押し出されていくものであるかに錯覚している(情けないことに、わが御大将も同類であり、米国政府が印刷機を回してどんどんドルを世界中にばらまいていると考えておられる!)。マルクスは銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別が出来ずに混乱していることを現行の第33章でも論じているが、こうした混乱はいまだに自称マルクス経済学者においても見られるのである(何を隠そう、我が敬愛する大谷氏も残念ながら同類であることを私は「通貨概念の混乱を正す」において指摘しておいた)。
 本論に戻すと、銀行学派たちが銀行券は過剰発行されることはないと主張する論拠は、例え銀行券が過剰に発行されても、すでに「通貨」が流通が必要とするに十分であるなら、それらはすぐに銀行に返ってきて「資本」の貸し付けに転化するからだ、というものであった。つまり彼らは、もっともらしく「通貨」と「資本」との区別をその理由にしたのである。だからマルクスとしては、銀行学派が主張する「資本」の貸し出しというのは、果たして「利子生み資本」という科学的な意味での「資本」なのか、彼らはそれを正確に概念として理解した上で、そのように主張しているのかを問題にする必要がある、あるいは「利子生み資本」の運動を科学的に論じる前に、一見すると同じようにmoneyed Capitalとしての「資本」の運動を問題にしているかに見える銀行学派のそうした主張を批判的に論じておく必要があると考えたわけである。
 そして批判的な検討の結果、銀行学派の言う「資本」というのはただ彼らの銀行業者的な立場に立ったものでしかない(帳簿上彼らの自分の資本の持ち出しになるケースを「資本の貸出」と称しているだけである)ことを暴露したわけである。だから第28章該当部分(「I)」の部分)では、マルクスは冒頭のパラグラフで「利子生み資本」という用語を使いながら、この「II」と番号が打たれた冒頭部分、つまり【3】パラグラフ以降の数パラグラフで、銀行学派批判の「結論」を論じるなかで再び「利子生み資本」という用語を使っている以外には(つまり最初と最後の2回しか使っていない!)、第28章該当部分、つまり「I) 」の本論では、まったく「利子生み資本」という用語は使わずに、ただ銀行学派の主張する「通貨」や「資本」という用語をそのまま使って、実際には、彼らはそれらをどのような意味で使っているのかを明らかにして、彼らの主張の混乱や矛盾をつくという形で批判を展開しているわけである。
 だからこの「II)」から、マルクス自身の科学的な概念を使って、問題を本格的に論じることになるわけである。通貨学派や銀行学派は、イングランド銀行や地方銀行が発行する銀行券が手形割引や担保貸付等々のさまざまな形で産業資本や商業資本の要請に応じて、貸し出されることを問題にしている。銀行学派はそうした銀行による貸し出しが、好況期と逼迫期とで、流通の二つの分野(「収入の流通」と「資本の流通」)で、どのように変化するかといった問題を論じ、そうしたことも「通貨」と「資本」との区別の問題として論じていたわけである。そうした銀行が貸し出す銀行券を論じるためには、一般に銀行業者の資本というのはそもそもどういうものから成っているのかを明らかにしておく必要があるとマルクスは考えている。大谷氏も指摘するように、〈銀行のもとに形成され運用されているmonied capita1について,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにする〉必要があったわけである。そして実際に、銀行から貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)が産業循環の局面によってどのように変化するかというような問題は第30~32章該当部分において(「III)」と番号が打たれたところで)問題にされるわけである。そういうわけで、銀行学派批判が終わったあとで、そうした銀行から貸し出される利子生み資本の運動を論じる前に、まずは銀行業者の資本を問題にしなければならないというわけなのである。

 ところで今述べたように、【3】以下の数パラグラフは、実際には、第28章該当部分(「 I )」と番号が打たれた部分)と関連したものなのだが、ではそれらはどのように関連しているのか、それを少し論じておこう。
 まずこの【3】~【8】は大きくは二つに分かれる。【3】~【5】の部分とそれ以降の部分(【6】~【8】)である。【3】~【5】の部分は、銀行学派批判の結論である。それに対して、【6】~【8】の部分は、銀行学派批判への補足である。マルクスは【6】の最初に〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉と書き出している。これを見ても、それ以前の部分(つまり【3】~【5】の部分)が「 I )」について論じているとの意識がマルクス自身にもあったことが分かる。つまり本来は【5】パラグラフにおいて、マルクスとしては銀行学派批判(つまり「 I )」の課題)は終わったわけである。しかし「 I )」について、まだ言うべきことがあるとして、付け加えているのが、この【6】~【8】の部分なのである。しかも、大谷氏によれば、〈この3パラグラフの左側には、インクで上下やや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している〉(大谷本第3巻145頁)らしい(しかしなぜかMEGA第II部第4巻第2分冊ではこの縦線が表記されていないのだが)。つまりマルクスとしては、この三つのパラグラフは「 I )」の適当なところに挟み込む予定で書かれたと思われるのである。この点については、以前の第28章該当部分の解読のなかでも論じたように(28-16参照)、第28章該当部分の【46】パラグラフの本文のあとに挿入されるのが適当である(だから【52】パラグラフの本文の前に挿入されるべき)ことも述べておいた(ところがエンゲルスも大谷氏も第28章該当部分の最後に、だから【53】パラグラフの後にそれらをくっつけている)。しかしこれらの考察はすでに第28章該当部分の考察でも行っており、よって以下【3】~【8】パラグラフはカットして、【9】パラグラフから解読を再開することにしたい。

  (以下、続く。)

 

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