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2022年3月 7日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-14)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-14)



【44】

  このような,貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというかぎりでは,それがそのようなものであるのは,ただ,銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本にとって,すなわち,金(地金の流出の場合),イングランド銀行券(国立諸銀行〔Nationalbanken〕の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては,ただなんらかの等価物をもって買われるだけのものであり, したがって彼らの資本を表わしている--にとって,最後に,金や銀行券を手に入れるために売りとばされなければならない公的[517]有価証券(国債証券やその他の利子付証券)にとってでしかない。(しかしこれらの有価証券は,それが国債証券であれば,それを買った人に||334上|とってだけ資本なのであって,この人にとっては,彼の購入価格を表わし,彼がそれに投下した資本を表わしている。それ自体としては,それは資本ではなく,ただの債権である。もしそれが土地抵当証券であれば,それは将来の地代にたいするたんなる指図書であり,またもしその他の株式であれば,将来の剰余価値の受領を権利づけるたんなる所有証書である。すべてこれらのものは,資本ではなく,生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって,じっさいそれ自体としてはどんな価値でもない。)最後に,そのような取引によって,銀行のものである貨幣等々が預金に転化し,その結果,銀行はその貨幣の所有者から債務者になり,別の占有権限のもとにそれを保有するということもありうる。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ,それは国内に現存する資本の総量を,また貨幣資本の総量をさえも,いささかも変えるものではない。つまりこの場合,資本はただ貨幣資本として現われるだけであり,また,貨幣を除けば,たんなる資本権原として現われるのである。これは非常に重要なことである。というのは,504)銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が,実物資本〔real capital〕の減少と混同されるからであって,実物資本はこのような場合には,市場を供給過剰にしているのである。

  ①〔異文〕「銀行業の発行〔d.banking issues〕という書きかけが消されている。
 
  504)ここに消し忘れの定冠詞 d.がある。〉 (137-139頁)

  このパラグラフは、これまで銀行業者的な意味での「資本の貸付」になるケースを検討してきたが、このパラグラフではマルクスはこうした〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉が、如何に一面的なものであり、現実を正しく反映したものでないかを指摘しようとしているように思える。まずは平易な書き下し文をかなり補足して紹介しておこう。

 〈これまで見てきましたように、このようなフラートンらが言うような貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというのは、つまりそれらが彼らの言う意味での「貸付資本にたいする需要」だと言い得るのは、それはただ、銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本という意味においてであるに過ぎません。つまりそれらが資本であるのは、金(地金の流出の場合)やイングランド銀行券(国立銀行の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては、ただなんらかの等価物で買われるだけのものであり、したがって彼らの資本を表しています--、そして最後に、金やイングランド銀行券を手に入れるために売り飛ばされなければならない公的有価証券(国債証券やその他の利子付証券)が銀行業者にとって、費用のかかっている自分の資本だからであり、紙と印刷費以外になんの費用もかからない単なる信用(銀行券)によるものではないという意味でのみ「資本」と言っているだけなのです。
 (しかし、これらの有価証券は、それが国債証券であれば、それを買った人にとってだけ資本なのであって、この人にとっては、それは彼の購入価格を表わし、彼がそれに投下した資本を表わしています〔彼は彼の貨幣を利子の取得を目的に、つまり利子生み資本として、国債証券に投資したのです。だからそれは彼にとっては「利子生み資本」という意味での、つまり規則的な利得をもたらすという意味での「資本」なのです〕。しかし国債証券はそれ自体としては、資本ではなく、ただの債権、つまり貨幣請求権を表わすだけであり、その所有者は将来の税金収入から一定の貨幣額を請求できるという権利を表わしているだけです。もしそれが土地抵当証券であれば、それは単に将来の地代からその一部を支払うよう指図する権利を示す証書であり、またもしその他の株式であれば、将来の剰余価値の一部を受領する権利を示した単なる所有証書なのです。すべてこれらのものは資本ではなく(それが市場で売買される限りでは「架空資本」ではありますが)、生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって〔だからそれらに投資される「利子生み資本」は再生産の外部にある関係を示すだけです〕、じっさいそれ自体としてはどんな価値でもないのです〔そして事実、恐慌時には、こうした膨大な蓄積された貨幣請求権は真っ先にただの紙屑になるのですが、しかしそれによっては一国の富はまったく減ずることはないのです〕。それらはただ、それらに自らの貨幣を「利子生み資本」として投資した(証券市場でそれらを購入した)人にとってだけ「資本」なのです。)
 そして最後に、そうした取引によって、銀行のものである貨幣等々が預金に転化し(つまり銀行が貸し付けた貨幣等々が、その借り受けた業者から、別の業者に支払われ、その別の業者が銀行に預金した場合がその考えられる一例です)、その結果、銀行はその貨幣の所有者から債務者になり、別の占有権原のもとにそれを保有するということもありえます。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ、それは国内に現存する資本の総量を、また貨幣資本の総量をさえも、いささかも変えるものではありません。〔というのは銀行が貸し出す貨幣等々は、すべて銀行から「利子生み資本」として貸し出されるのであり、だからそれらはあくまでも再生産過程の外部の関係なのです。だからそれらは再生産過程の内部の資本である現存する資本の総量、またその一部である貨幣資本--この貨幣資本はもちろんGeltcapitalですが--の総量さえも、いささかも変えるものではないのです。〕つまりこの場合、資本はただ貨幣資本として現れるだけであり〔逼迫期に銀行から貸し出された「利子生み資本」は、産業資本家や商業資本家にとっては、彼らが市場に投じた商品資本の実現形態を先取りするものであり、本来は資本の循環の結果、補填されなければならない貨幣資本(geld Capital)が事情によって補填されないために、銀行に貸し出しを要求してきたものなのです。だからそれは彼らの資本の循環を締めくくる決算手段なのであり、よってその支払手段としての貨幣の機能が問われているものです〕、また、貨幣を除けば、たんなる資本権原として現れるのです。[だからそれらは支払手段としての貨幣の機能を果たせば、流通に貨幣として留まるものを除けば、すぐに銀行に還流し、たんなる預金者の所有権原--銀行にとっては再び利子生み資本として運用できる資産--に転化するのです。]
 これは非常に重要なことです。というのは、銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が、実物資本の減少と混同されるからであって、実物資本はこのような場合には、つまり逼迫期には、市場を供給過剰にしているのです。[実際、実物資本、つまり商品資本が供給過剰(それは生産資本も過剰であることを示している)で売れないからこそ、つまりそれらが貨幣資本に転化しないからこそ、だから産業資本家や商業資本家は、銀行にその貸し出しを求めているのです。]〉

  【小林氏はマルクスが(   )に入れて論じている手前までの部分を次のように翻訳している。

  〈「貨幣融通を求めるこの逼迫(diese pressure for pecuniary accommodation)が資本についての逼迫(pressure upon capital)である限り,それ[この逼迫]は単にbanking capitalにとってのそのようなもの(solches)[逼迫]であるにすぎない;銀行業者の立場からの資本(Capital vom Standpunkt des Banquiers aus)にとって;即ち,金(地金流出の場合には),個人銀行業者にとっては等価物をもってのみ購入される,だから[それは]その[個人銀行業者の]資本(Capital)を表わしている(vorstellen);イングランド銀行券(国民的銀行の銀行券)にとって[の逼迫であるにすぎない];最後に,または銀行券を引き出すために投げ売りされねばならない公債public securties)(国債(Staatseffecten)およびその他の利付証券)[にとっての逼迫であるにすぎない]」〉 (399頁 、下線はマルクスによる強調、太字は著者による強調)

   この翻訳は何とも分かりにくい。恐らくマルクスの原文もややこしいのだろうが、著者の翻訳は一層混乱の代物である。まだ大谷氏の訳の方がマルクスのいわんとすることを伝えている。

   著者は上記の引用に続けて〈そしてエンゲルスは,この場合のbanking capitalをGeldkapitalで置き換えているが,どのように理解したらよいのであろうか? やはり銀行業者の「資産」の意味で用いられているのではなかろうか?〉(399頁)と述べている。何とも不安げな言い方であるが、ここでマルクスが〈banking capital〉を説明して〈銀行業者の立場からの資本(Capital vom Standpunkt des Banquiers aus)〉と述べていることを確認すれば、問題がハッキリするのであるが、要するに著者にはこの第28章(「Ⅰ)」)でのマルクスの使っているbanking capitalが銀行業者たちから見て、つまり彼らの帳簿上、「資本」の持ち出しになるという意味で使っていること(だから第29章該当個所で使っている場合の「預金」とは違った意味だということ)が分かっていないから、このような書き方になっているのである。

   このパラグラフでマルクスがいわんとしていることを簡単に解説しておこう。「貨幣融通を求める圧迫」が「資本に対する圧迫」と銀行業者たちが考えるのは、それが彼らにとって銀行業資本(金、イングランド銀行券、有価証券等)の持ち出しに帰着するか、あるいは銀行のものであったものが預金という形で彼らにとっては債務に転化するからだというのがマルクスの述べていることである。例えば有価証券の持ち出しに帰着した場合、彼らにとってはそれは銀行業資本(banking capital)の貸付に転化するのだから、彼らにとっては資本への圧迫なのである。(さらにここでマルクスは彼らの銀行業資本(banking capital)の一部を構成する国債証券、土地抵当証券、株式の例を挙げて、それが如何なるものかを明らかにしている)。しかしそれらは、それ自体としては何らの資本をもあらわしていないのだともマルクスは指摘している。そしてこのことは非常に重要なことであって、銀行業資本への圧迫やそれに対する需要とくらべての欠乏というものは、実物資本(real capital)への圧迫やそれの欠乏・減少と混同されるが、しかし両者はまったく関係ないのであって、むしろ実物資本はこうした時期(逼迫期)には、市場を供給過剰にしているのだとも述べている。
  ただ著者も最後には次のようにも述べていることは指摘しておこう。

  〈仮にフラートンが言うように「資本についての逼迫」があるとしても,それは単にbanking capitalにとっての「逼迫」,「銀行業者の立場からの資本」にとっての「逼迫」であるにすぎず,現実資本の逼迫・不足などではないということを,マルクスは言いたかったのであろうか?〉 (400頁)

  まさにその通りなのである。ところが著者は最後に「?」マークをつけて自信なげである。】


【45】

  ところで,われわれは銀行の有価証券の増大(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と,それと同時に生じる通貨〔currency〕の総量の減少ないし停滞とを,二重の仕方で説明した。すなわち,1) 地金の流出によって,2) たんなる支払手段としての貨幣の需要によって。この第2の場合には,銀行券の発行がただ一時的であるか,または帳簿信用のゆえに取引がまったく銀行券の発行なしに行なわれるのであり,したがって,たんなる信用取引〔credittransaction〕が諸支払いを媒介するのであって,またこれらの支払いの媒介がこの貨幣取引の唯一の目的なのである。貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは,支払うためであって買うためではなく,過去の諸取引を終わらせるためであって新たな諸取引を開始するためではない),その貨幣のCirculationはただ瞬過的〔verschwindend〕でしかないのであって,この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ,したがって巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが,Circulationを拡大することなしに生じうるということ,これは貨幣の特性である。しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少--少ない通貨〔a low currency〕--しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払[518]手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである。

  ①〔異文〕「銀行券」←「貨幣」
  ②〔異文〕「停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえも」←「減少することが」〉 (139-141頁)

  ここからはこれまで論じてきた銀行学派の混乱のcの「まとめ」であるように思える。だからマルクス自身の概念もここから徐々に登場することになる。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈ところで、私たちは銀行の有価証券の増大(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と、それと同時に生じる通貨の総量の減少ないし停滞とを、二重の仕方で説明しました。つまり、1)一つは地金の流出によって、2)もう一つはたんなる支払手段としての貨幣の需要によってです。この第2の場合には、その発行はただ一時的です。あるいは帳簿信用のように取引がまったく銀行券の発行なしに行われる場合は信用取引が諸支払いを媒介します。だから諸支払いの媒介がこの場合の(逼迫期の)貨幣取引[貨幣の貸借]の唯一の目的なのです。
 貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは、支払うためであって買うためではなく、過去の諸取引を終わらせるためであって、新たな諸取引を開始するためではありません)、決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行われる場合はいうまでもなく、そうでなくても貨幣の流通はただ瞬過的でしかないのです。だから巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが銀行券の流通高を拡大することなしに生じうるのです。これは貨幣の支払手段という機能の特性から言いうるものです〔だから銀行学派のいうような「資本の問題」だからではないのです〕。
 しかし、フラートン、トゥック等々が持ち出している事実、すなわち、イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに、それと一緒に同行の銀行券の流通高が停滞したままであるか、または減少--少ない通貨--しさえもするというたんなる事実は、一見して明らかに、けっして、彼らが誤って主張している「資本の問題」なのではなくて、支払手段としての機能における貨幣(銀行券)の流通高は増加も膨張もしないということを証明しているものではありません。〔支払手段は、例え一時的ではあってもその流通高が膨張することはあり得るし、事実、恐慌時にはあったのです〕。それはただ、購買手段としての銀行券の流通高が減少するから〔なぜならすでに【18】パラグラフで検討したように、逼迫期には収入の流通--そこでは貨幣は主に購買手段として機能する--を媒介する通貨は収縮するから〕、支払手段としての銀行券の流通高が増加しても、通貨の総額、すなわち購買手段プラス支払手段として機能する銀行券の合計額が、停滞したままでありうるか、あるいは減少することさえもありうるということを示すだけに過ぎません。結局、彼らにとっては、支払手段としての通貨は「資本」であって、通貨ではないのです。〉

  【小林氏は〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実〉云々と述べているところより前の部分を紹介して、次のようにその内容を解説している。大谷訳と比べるために、マルクスからの引用文の部分をまず紹介しておこう。

  〈「さて,われわれはイングランド銀行の有価証券の増大(ないしは貨幣融通を求める増加する逼迫と,同時に生じる通貨(currency)総額の減少または停滞とを,二様に(doppelt)に説明してきた:1)地金の流出によって;2)単なる支払手段としての貨幣の需要--その場合にはその[貨幣の]発行(Ausgabe)はただ瞬時的であるか,あるいは帳簿信用の場合には銀行券の一切の発行なしに取引が生じるのであるが--によって;だから単なる信用取引が支払を媒介し,そしてこの支払の媒介が貨幣的取引の唯一の目的[である]。それ[貨幣]が単に支払の決済のためにのみ機能する,(そのような恐慌においては,買うためにではなく支払うために借り入れられる;新たな取引を始めるためにではなく,過去の取引を終結するために[借り入れられる]),その[貨幣の]流通は,この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り,単に瞬時的(verschwindend)に過ぎないということは,貨幣の特性(das Eigentümliche)である;だからこの取引の巨大な量と貨幣融通を求める大きな逼迫が,通貨(Circulation)を拡大することなしに生じうることも[貨幣の特性なのである]1)」,と。〉 (402頁)

 これを大谷訳と比べてみると、小林訳には〈貨幣の特性(das Eigentümliche)〉に下線があるが、大谷訳にはない、これはMEGAの原本を見ると斜体にはなっていないから恐らく大谷訳が正しいのであろう。大谷訳で〈貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは,支払うためであって買うためではなく,過去の諸取引を終わらせるためであって新たな諸取引を開始するためではない),その貨幣のCirculationはただ瞬過的〔verschwindend〕でしかないのであって,この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ,したがって巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが,Circulationを拡大することなしに生じうるということ,これは貨幣の特性である〉という長いセンテンスになっている部分は、小林訳では〈それ[貨幣]が単に支払の決済のためにのみ機能する,(そのような恐慌においては,買うためにではなく支払うために借り入れられる;新たな取引を始めるためにではなく,過去の取引を終結するために[借り入れられる]),その[貨幣の]流通は,この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り,単に瞬時的(verschwindend)に過ぎないということは,貨幣の特性(das Eigentümliche)である;だからこの取引の巨大な量と貨幣融通を求める大きな逼迫が,通貨(Circulation)を拡大することなしに生じうることも[貨幣の特性なのである]1)」〉となっている。両者を読み比べると明らかに小林訳の方がより分かりやすいと言える。特に大谷訳で〈この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ〉となっている部分は、小林訳では〈この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り〉となっていて、こちらの方がスッキリと意味が通りやすい。
  まあ翻訳は小林氏の方に軍配があがるが、ではその解説はどうか。小林氏は上記のマルクスからの引用文に続けて、その解説を次のように書いている。

 〈これまで「立ち入って[「二様に」]考察」してきた,逼迫期にイングランド銀行の「有価証券の増大」として現れてくる「貨幣融通を求める需要」の問題は,だから次のように整理できる,と言うのである。第1の場合には世界貨幣(「国際的支払手段」)としての金を求める需要であり,第2の場合には国内における支払手段としての貨幣(「通貨」)を求める需要であること,そして後者の場合には,その需要が銀行券の発行によって満たされるとしても,それは決済のための貨幣が求められているのであって,銀行券の発行は「瞬時的」であるに過ぎないから,貸付けは増大しても結果として通貨量は停滞的ないしは減少さえしうるのであり,したがって問題は,「貨幣融通を求める需要」が即「資本の貸付を求める需要」であるか否かではなく,またその「資本」が「銀行業者の立場からの資本」であるのか否かでもなく,「貨幣の特性」の問題なのである,と。〉 (402頁)

  これもまあ、簡単だがとりあえずマルクスのいわんとすることは説明されているかに思える。しかし最後の結論部分はどうしてこのようになるのかよく分からない。

  〈したがって問題は,「貨幣融通を求める需要」が即「資本の貸付を求める需要」であるか否かではなく,またその「資本」が「銀行業者の立場からの資本」であるのか否かでもなく,「貨幣の特性」の問題なのである,と。〉

  逼迫期に支払手段を求めて銀行に貸付を要求してくる事業者たちに貸し付けられる銀行券もやはり利子生み資本であって、その限りでは「資本の貸付」なのである。しかしその貸付られた銀行券がすぐに還流して、銀行券の流通高に影響しないのは、それが銀行学派たちがいうような「資本の貸付」だからなのではなく、その「資本貸付」が支払手段という貨幣の一機能が問われるような性格のものだからである、つまり取引の本性が貨幣の支払手段としての機能に関係するものだからだというのがマルクスの言いたいことである。だから銀行学派たちの主張するように、それは「資本の問題」だからではなく、その限りでは貨幣(通貨)の問題なのである。ただ銀行学派たちはその貸付を「資本の貸付」というが、それは決して彼らが利子生み資本という意味を正しく理解した上で主張しているわけではなく、ただ銀行業者的な立場に立って(彼らの帳簿上)、彼らにとって資本であるもの、つまり銀行業資本の貸付になるものを「資本の貸付」と称しているだけだというのもマルクスのもう一つの批判点なのである。
  問題はフラートンらが資本の圧迫と主張していることは銀行業者の立場からのものに過ぎず、彼らの営業資本の貸付に帰着するから、彼らはそれを資本の貸付への圧迫としたのである。ただフラートンらが銀行券がすぐに還流するのはそれが資本の貸付に転化するからだ、というのに対して、マルクスはそうではなく、それが支払手段という貨幣の特性により、例え一時的に発行が増大してもすぐに還流し、流通銀行券の総額は増大しないかむしろ減少するからである(購買手段としての流通は逼迫期には減少するから、通貨総量としては減少することもある)。だからそれは彼らが主張するように流通に必要以上の通貨はすぐに還流して「資本の貸付」に転化するからではなく、貨幣の特性からそうなるのだとマルクスは述べているのである。小林氏が問題を正しく理解しているのかはやや疑問である。
 
   次は〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実〉云々以下の部分であるが、この部分も大谷訳は分かりにくいが、小林氏は次のように翻訳している。両者を比較してみよう。

  まず最初は分かりにくい大谷訳である。

  〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少--少ない通貨〔a low currency〕--しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払[518]手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである。

  次は小林訳

  〈「しかしフラートン,トゥック等々が挙げている単なる事実,即ち,有価証券の増大によって示されるような大きな貨幣的融通と同時に,イングランド銀行の流通銀行券(Circulation[「通貨」])が停滞的なままであるか,あるいは減少さえする--僅少な通貨(a low currency)--という単なる事実は,彼らの誤った『資本の問題』のゆえに彼らが望むようには2),一見して明らかに(prima facie),決して,支払手段としてのその機能における貨幣(銀行券)の流通(Circulation)は増加せず膨張しないということを,証明するものではない。[この時期には]購買手段としての銀行券の流通(Circulation)は減少するのであるから,支払手段としてのその流通は増加しうるし,そして通貨(Circulation)の総額=購買手段+支払手段として機能する銀行券は,停滞的なままであるかあるいは減少さえしうる支払手段としての通貨(Circulation)は,彼らにとっては通貨(Circulation)などでは決してないのである。」〉 (402-403頁、下線はマルクスによる強調、太字は著者による強調)

   若干の強調箇所(下線部分)の相違はあるが、いずれにしても、小林氏の訳も分かりやすいとは言い難い。要するにマルクスの原文そのものが分かりにくいのであろう。マルクスは何をいわんとしているのであろうか。

 この一文で分かりにくいのは〈一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである〉という部分である。〈彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張している〉というのは、銀行学派たちは支払手段を通貨と理解せずに、「資本」と主張しているということであろう。というのは支払手段として機能する通貨はすぐに銀行に還流して、銀行業者の立場からみての「資本の貸付」に転化するからである。だから銀行学派たちはそれは「資本の問題」だと主張しているわけである。
 しかし支払手段としての機能における貨幣(銀行券)の流通は、支払が増えれば増えるほど(相殺分を差し引いても)、それだけ増加も膨張もすることはいうまでもないであろう。だからマルクスは〈支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではない〉と述べているわけである。だからまた〈通貨(Circulation)の総額=購買手段+支払手段として機能する銀行券は,停滞的なままであるかあるいは減少さえしうる〉わけである。というわけでマルクスは最後に〈支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである〉と締め括っているというわけである。】


【46】

  購買手段としてのCirculationが減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculationが増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulationは増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラ一トン等々は,支払手段としての銀行券のCirculationがこのような圧迫の時期の特徴だということを540)示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculationと言うべきであろう)〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」a) /

  ①〔異文〕「本来の[……]としての貨幣が」という書きかけが消されている。

  540)〔E〕「示さない〔nicht beweisen〕」→「わからない〔nicht begreifen〕」 (手稿でのnicht beweisenはnicht bewußtとでもあるべきところかとも思われる。)〉 (141-142頁)

  このパラグラフは先のパラグラフ(【45】)と内容的に関連している。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈購買手段としての通貨が減少するよりも高い程度で支払手段としての通貨が増加するとすれば、たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても、総流通高は増大するでしょう。そしてこのことは、恐慌中のある諸時点では現実に起こるのです[これは例えば1825年恐慌時に実際に生じました。以前の解読のときに紹介した図1-3は金井雄一著『イングランド銀行金融政策の形成』からとってきたものですが、銀行券の発行高も手形割引高もどちらも25年恐慌のピークである12月に向かって異常に急増していることが分ります]。フラートン等々は、支払手段としての銀行券の流通がこのような圧迫の時期の特徴だということを示しませんので、この現象を偶然的なものとして取り扱うのです。
 「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり、また、ときには、1825年の終わりのように、地金の流出がまだ続いている時にさえも、一時的でしかないとはいえ突然の発券増加を引き起こすこともあるのであるが、ふたたびこのような競争の実例について言えば、私の考えるところでは、このような実例は低い為替相場の自然的な、あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は、通貨(購買手段としての通貨と言うべきであろう)のための需要ではなく、蓄蔵のための需要であり、流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり、また、金の流出がやむことの前兆である。」a)〉

  【このフラートンからの引用文を見てもわかるように、フラートンは1825年の終わりに急激に起こった発券の増加を〈突然の〉ことと理解して、つまり〈偶然的なものとして取り扱〉っている。確かにそれは前回の解読のときにも紹介した図1-3を見ても分かるように(図をクリックするとより鮮明なものが見られる)、〈一時的でしかない〉が、しかしそれが急激な支払手段に対する需要から生じたものであり、それが購買手段としての通貨の減少をはるかに上回る程度で生じたために、発券が急激に拡大したことを示しているのである。そしてこれは〈恐慌中のある諸時点で現実に起こる〉ことを図1-3は示している。フラートン等はこうした発券が支払手段に対する需要から生じるものであることを見ることができないのである。

Photo_20220307152601   このフラートンが取り上げている1825年恐慌とはどんなものだったのかを知るために、やはりこれも前回の解読で紹介したアンドレァデス著『イングランド銀行史』から、その恐慌を描いた部分を参考のために再録しておこう。

 〈避けることのできない反動が現れた。夏の初めに物価の下落が始まり、有価証券の崩落がこれに続いて起ったので、もはやその後の払込みが行われなくなった11月の末には、棉花の投機を行った若干の大商社が破産し、これが一般的恐慌を惹起した。イングランド銀行は、1797年の政策を放棄し、発行額を自由に引上げなければならないと考えた。同行の準備は1824年1月の1350万ポンドから1824年10月の1140万ポンドに減少した。同行は為替相場が不利であったにも拘らず、この措置を固執した。そして1825年4月には準備額は665万ポンドしかなかったが、この時発行額は1824年1月を上回っていた。イングランド銀行は恐慌の最も激しい時になって、漸くその誤謬を悟った。そして12月31日に、その割引歩合を5%に引き上げたのである。これも同行準備の減少を防止することができず、11月の300万ポンド余から、126万890ポンド(12月31日)に減少し、そして流通界に未曾有の混乱を持込んだのである。
 夜に日についで造幣局に鋳造させた政府の努力にも拘らず、鋳造貨幣の不足はますます甚だしくなった。この不足は最も有力な信用機関の一つであった「ロンドン銀行」London Bankの破産の後、本当に大払底をきたした。そしてこの破産に続いて60の金融会社が倒産に陥った。鋳貨の流出があまりに多かったので、イングランド銀行は、1ポンド紙幣を60万ポンド流通させなければならなかった。この紙幣は実際は「制限条例」の出た時に造られていたのであるが、その後長い問同行の金庫の中に忘れられていたのであった。この措置はノーリッチ銀行を救うことはできたが、この未曾有の事態を大して変えることはできなかった。
 誰もその所有する鋳貨を手離そうとはしなかった。そして下院におけるハスキスンの供述によれば、12月の大部分を通じて、国債や、イングランド銀行株や、インド会社の株というような最良の有価証券さえ現金化することができなかった。
 事態の逼迫は、イングランド銀行が適時に助けることのできなかった36の地方銀行の破産をもたらした。そしてロンドンの若干の大商社も同じ運命に脅かされた。イングランド銀行は政府の圧力によって、遂に紙幣発行の増加を決意し、40万ポンドを限度とする新規の貸付に応じたのである。このことは充分事態に対処することのできる堅実な商社に対しては有力な助けとなった。そしてその他の商社が全部消去ると情勢は少しずつ改善され、2年後に資金は4%で貸出されるようになった。
 以上は1825年の大恐慌の梗概である。この恐慌の全責任を、イングランド銀行と地方銀行との過剰発券に帰そうとしたこともあったし、また今でもそう考えている人々もある。〉(294-6頁)

 さて、小林氏はこのパラグラフのフラートンからの引用の前までの部分を紹介したあと、次のように述べている。大谷訳との比較のためにマルクスからの引用文も併せて紹介しておこう。

  〈「支払手段としての通貨(Circulation)が,購買手段としての通貨(Circulation)が減少するより以上の程度で増大するならば,たとえ貨幣が購買手段としてのその機能で,量からして顕著に減少するであろうとしても,総流通銀行券(Gesamtcirculation)は増加するであろう(würde)。そしてこのことは恐慌の一定の瞬間に現実に生じる。フラートン等は,支払手段としての銀行券の流通はこのような逼迫の時期における特徴的なことであるということを立証しないで,彼らはこの現象を偶然的として取り扱っている3)」,と。
  そしてここ「Ⅰ)」の部分では,その未整理を露呈していた「銀行業者の資本」に係わる諸概念の検討を,最初に指摘しておいたように,マルクスは「銀行業者の資本は何から成り立っているかを立ち入って考察することが今や必要である4)」という形で,手稿の第5項である「II)」の部分(現行版第29章)の冒頭に委ねていく5)。そしてそこでは,「この銀行業者の資本の現実的構成要素と並んで,それ[銀行業者の資本(Bankerscapital)]は銀行業者自身の投下資本と預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)とに分かれる。発券銀行(issuing bank)の場合には,われわれが差し当たり全く考慮の外におこうと思っているのだが,銀行券がさらに加わる6))」7),と補正していくこととなるのである。〉 (403頁)

  これ自体は何かを展開しているわけではないので、論じるほどのことはないが、しかし著者が〈ここ「Ⅰ)」の部分では,その未整理を露呈していた〉と述べているのは、すでに見てきたように同氏がこの「Ⅰ)」でマルクスがとっている銀行学派批判のやり方(彼らの用語をそのまま使いその矛盾や自己撞着を暴露する)をまったく理解しないために、マルクスは「Ⅰ)」ではbanking capitalという用語を一義的に使っておらず、混乱しているというとんでもない批判のことを指している。だからその未整理を整理するために、〈「銀行業者の資本」に係わる諸概念の検討を〉〈「II)」の部分(現行版第29章)の冒頭に委ねていく〉というのである。つまり「Ⅰ)」で未整理だったから、その整理を「Ⅱ)」でやろうとしているのだと言いたいわけである。そして「Ⅱ)」の一文を紹介して、ここではbanking capitalという用語は〈預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)〉という本来の意味で使われていると言いたいのであろう。しかしこれについてもすでに述べたように、まったく自身の無理解を省みない批判でしかないのである。ただ「Ⅱ)」の解読は後にやるので、そのときまで置いておくことにしよう。
  上記抜粋文につけられている注7)も紹介しておこう。

  〈7)発券銀行の場合には,「銀行券が[債務として銀行営業資本に]さらに加わる」といっても,それはその銀行券が前貸しされて「流通過程にある」時だけである(第9章第5節を参照)ことに留意しなければならない。W・ニューマーチは,「銀行法特別委員会(1857年)」で,銀行という組織の「壁の外で流通している」銀行券が「流通銀行券(circulation)」(「通貨」)であり,したがって1844年銀行法の下で発券部から銀行部にイングランド銀行券が引き渡されただけでは厳密な意味ので「発行」とは言えず,したがってまたその銀行券は「イングランド銀行の側の負債ではありません」と強調している(第7章第3節を参照)。〉 (404頁)

   しかしこれは要らざる補足というものである。もし銀行券に補足を付けるなら、マルクスが挙げている〈銀行業者自身の投下資本〉も〈預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)〉も現実の貨幣に関わるものある。しかしそれに対して銀行券は銀行の信用だけで創造するものであり現実の貨幣とは何の関わりもない。それが前者二つと異なるのである。だからそれが還流してきて自分の資本の持ち出しになれば、彼らはそれを「資本の貸付」に転化したと理解したのである。つまり銀行券は、紙と印刷費以上の費用のかからない、ただ銀行の信用だけで創造された貸付可能な貨幣資本(moneyed Capital)なのである。しかし前の二つは、同じmoneyed Capitalではあっても、〈銀行業者自身の投下資本〉の場合は、それが株式の払い込み金であれば、配当を要求され、〈預金〉であれば利子支払が必要であって、それだけ彼ら銀行業者にとっては費用のかかっているものなのである。そうした違いが銀行業者にとっては大きな問題であり、だから彼らは銀行券が流通にとどまっているあいだはそれを「通貨」とし、還流してきて自分の資本の持ち出しになれば「資本」の貸付になると言ったのである。
   著者は〈発券銀行の場合には,「銀行券が[債務として銀行営業資本に]さらに加わる」〉と銀行券に〈[債務として銀行営業資本に]〉という説明を加えているが、発券銀行にとっては発行する銀行券も確かに債務であるが、しかしそれは預金が債務であるのとは違っているのである。だからマルクスはそれを区別するために、わざわざ〈銀行業者自身の投下資本と預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)とに分かれる〉と一旦書いたあと、〈発券銀行(issuing bank)の場合には,……銀行券がさらに加わる6)〉と書き加えているのである。前二者と後者とをマルクスが区別して論じていることが重要なのであるが、著者にはまったく分かっていないのである。しかしこれもすでに「Ⅱ)」の解読に関わることなので深入りは避けよう。】


【47】

 〈/334下/〔原注〕a) フラートン,130ページ〔前出阿野訳,160ページ〕。〉 (269頁)

  【このパラグラフそのものは、【46】パラグラフで引用されていたフラートンの一文の典拠を示すものだけなので、平易な書き下し文は省略した。ただし原注a)はこれで終わりではなく、その次の【48】パラグラフ以下、【51】パラグラフまで続いていることに注意が必要である(ただし今回はそのすべてを紹介できず、途中で打ち切らざるを得ないのだが)。
  この引用文はフラートンの著書『通貨調節論』の第7章から取ってきている。参考のために、その前後も含めて紹介しておこう(【   】内がマルクスの引用部分)。

 〈実をいうと、爲替相場が変化したならばそれは単にその都度通貨の量と価値とに変化が生じたことを表示するに過ぎないと考える理論とこのやうに全く相容れない諸現象、すなはち、通貨の充溢と爲替相場の順調とが、同時に起りうるといふその原因は、別に両者の間に存在を断言しうる積極的不変的関係などといふものに求めらるべきでもなければ、両者相互間の因果作用というふうなものに帰せしめらるべきでもない。事実はただ、爲替相場の引上げと金の流入とを誘致する諸事情は同時にまた一般に国内産業の活況、生産消費の好調、しかしてまた貨幣の使用と需要との昂進に必須なあらゆる条件の存在を示すものである、といふだけのことである。他方、商業的興奮と投機との時期に続いて爲替相場の低落と金の流出とが起つたならば、これら現象の出現は、一般に、既に始まつた景気崩壊の信号である、すなはち、市場の在荷過剰、自国商品に対する外需の中絶、資金回収の遅滞、そしてこれら一切の必然的継続としての商業的不信、--工場は閉鎖され、職工は飢餓に脅かされ、産業と企業心とは一般的に萎微沈滞する、等々、--を暗示するものである。しかしてこのような状態のもとにおいて、当面不振の商売取引をやつて行くのに以前より少額の紙券を以て足りるとしても、唯れかこれを怪しむものがあらうか? 要するに、私の考えでは、通貨流通高の低い状態と、爲替相場の逆調とは同格に位すべき現象であつて、それ以上の何ものでもない、--すなはち両者は、何れも或る共通した諸原因の作用に基く現象であり、これらの原因はいろいろの事情によつて修正され易くはあるが、しかし金への兌換を求めるイングランド銀行券が同行へ持込まれる結果としての通貨の涸渇作用からは全然独立していると私は信ずるし、この点既に遠廻しながら言及したところである。かくの如き作用は輸出商品としての金に対する需要の直接的結果であり、通貨に対する需要が何らか減退したためではない。しかしてイングランド銀行の発券業務がながくその存在を許され且つ許され得るところの、何らかの体系に基いで支配せられるかぎり、通貨に対する需要こそ、銀行券流通総高を支配するために必要無二の、自働的調節原理をなすものと私は考える。【更に、パニック期の特徴であり、且つまた時には1825年末におけるが如く、地金の流出がなお続いているというのにたとえ一時的なものに過ぎないとしてもとにかく突如として発行高を増加させるに至るような、銀行券獲得に封する激しい競争の実例についてみるに、これらは低爲替の自然的乃至必然的附随事情の範囲内とみなさるべきではないように私は解するのである、すなはち、かかる場合における通貨需要は流通させるためのものではなくて退藏を目的とするものであり、驚愕した銀行家や資本家方面における需要であって、それは普通恐慌の最後の幕に、正貨流出が長く続いた後で起るを常とし、恐慌の終結の前兆ともいうことができる。】〉(改造文庫版202-204頁)】


【48】

  〈543)第4605号。「554)〔ピーズ〕(イングランド)銀行がその利子率をさらに引き上げざるをえなくなったので,だれもが不安になっているようでした。地方銀行業者は手持ちの地金の額を増やし,また銀行券の保有額を増やしました。そして,平素はおそらく数百万ポンド・スターリングの金および銀行券を手持ちしているのを常としていた私たちの多くが,たちまち数千ポンド・スターリングを金庫や引出しのなかにしまいこみました。というのは,割引についても,われわれの手形が市場で流通できるかどうかについても,不安が広がっていたからで,これに続いて一般的な退蔵が起こったのです。」(商業的窮境,1847-1848年。)545)このようなときに国立銀行〔Nationalbank〕にとってCirculationとして現われるものは,中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散なのである。ロンドンの金貸し業者のうちの少しばかりの投機的頭脳は,このような時期に銀行券の人為的な欠乏をつくりだすのを常としている。

  543)〔E〕エンゲルス版ではこの原注の以下の部分はすべて削除されている。ただし,最初の『商業的窮境,1847-1848年』での証言第4605号からの引用は,すでに草稿の321ページでも,雑録のなかで,「moneyed Capitalの蓄積とそれが利子率に及ぼす影響」という見出しをもつ諸引用の一部として抜粋されており,それがエンゲルス版の第26章 (MEW 25,S.432ページ)に収められている。
  544)質問者は議長ベアリング。
  545) このパラグラフの以下の部分の原文は,次のとおりである。--Was dann als Circulation erscheint f. d. Nationalbank ist d. Dispersion d. hoards vom Centrum nach d. Peripherie.Einige speculative Köpfe unter d.Londoner moneylenders pflegen in solchen Zeiten an artificial dearth of notes zu produciren.|〉 (142-143頁)

   これは原注a)の続きであり、議会証言からの引用のあとマルクスの文章が付け加えられている。よってマルクスの文章だけを大谷氏が英文のままにしている部分の翻訳を示すためにも書き下しておこう。

  〈このようなときに国立銀行にとって流通高として現われるものは、中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散なのです。ロンドンの金貸し業者のうちの少しばかりの投機的頭脳は、このような時期に銀行券の人為的な欠乏をつくりだすのを常としています。〉

  【先のフラートンの引用では1825年の恐慌であったが、今回は1847年の恐慌の話である。恐慌時にはそれまでのクレジット・システム(信用主義)がモネタール・システム(重金主義)に転化すること、そしてパニックになると、誰もが金あるいはイングランド銀行券の退蔵に走ることが指摘されている。恐慌のピーク時には、こうした退蔵が一般的に生じることがフラートンの引用文でも(また私が先に紹介したアンドレァデス著『イングランド銀行史』の一文でも)、そしてまた今回の議会証言を見ても分かるのである。
 それにマルクスは、こうしたパニック時の異常に高まる銀行券の流通高というのは、中央銀行から地方銀行への蓄蔵貨幣の拡散としてであると説明している。またこうした時期には一部の銀行業者は投機を目的に人為的に銀行券の退蔵を行い流通における欠乏をつくりだすことも指摘している。
  フラートンの引用文では〈銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり〉と述べていたが、このようなパニックについて、後の「Ⅲ)」のなかでマルクスは次のように述べている。

  〈恐慌の時期に「支払手段」が欠乏していることは自明である。手形の〔貨幣への〕転換可能性〔Convertibility〕が商品の変態そのものにとって代わったのであって,しかもまさにこのような時点でこそ,一部がただ信用だけに頼って仕事をすることが多くなればなるほど,それだけますますそうなるのである。恣意的な銀行立法(1844-45年のそれのような)がこの貨幣恐慌をさらに重くすることもありうる。しかし,どんな種類の銀行立法でも恐慌をなくしてしまうことはできない。全過程が信用にもとづいているところでは,ひとたび信用がとだえて現金払しか通用しなくなれば,信用恐慌と支払手段の欠乏とが生じることは自明であり,だからまた,全恐慌が,一見したところでは〔prima facie〕, 信用恐慌および貨幣恐慌として現われざるをえないことは自明である。しかし実際に問題となっているのは,手形の貨幣への「転換可能性」だけではない。膨大な額のこうした手形が表わしているのは,たんなる詐欺取引であり,失敗に終った,また他人の資本でやられた投機であり,最後に減価している商品資本,あるいはもはやけっしてなされえない還流であって,それらがいまや爆発したのであり,明るみに出るのである。もちろん,再生産過程の強力的な拡張のこの人為的なシステムの全体を,いま,ある銀行(たとえばイングランド銀行)が紙券ですべての山師に彼らに不足している資本を与え, すべての商品を以前の名目価値で買い取る,というようなことによって治癒させることはできない。とにかく,すべてがねじ曲げられて現われるのである。というのは,この紙の世界ではどこにも実体的な価格やそれの実体的な諸契機は現われないのであって,現われるのは地金や銀行券や手形(〔貨幣への〕転換可能性) や有価証券なのだからである。ことに, 国内の全貨幣取引が集中する中心地(たとえばロンドン等々)では, このような転倒 〔が現われる〕。生産の中心地ではそれほどでもないが。〉 (大谷本第3巻455-456頁)】

  (原注a)の途中ではありますが、全体の分量を考えて、一旦、ここで切ります。)

 

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