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2022年3月28日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-17・最終回)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-17・最終回)

 

 ● 第28章該当部分の草稿(マルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打った部分)全体の構成


   (1) まずこの「Ⅰ)」全体の位置づけを確認することから始めよう。マルクスはエンゲルス版第27章該当部分の草稿の最後の方で次のように述べていた。

  〈これまでわれわれは主として信用制度の発展{そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な〔latent〕止揚}を,主として生産的資本に関連して考察してきた。いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移るが,そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない。〉 (大谷新本第2巻299-300頁)

 ここでマルクスが〈なお若干のとくに経済学的な論評を行な〉うと述べているのが第28章該当部分(「Ⅰ)」の部分)である。つまり銀行学派が通貨学派との論争のなかで主張している問題を批判的に取り上げて検討するということである。しかしこの〈経済学的な論評〉も〈利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移る〉ためのものであり、〈そのさい総じて〉問題になる銀行学派の主張を事前に取り上げて批判的に検討するのだと述べている。つまりこの「Ⅰ)」の部分も利子生み資本そのものの考察の一環であり、そのための、あるいはその前提、あるいはその準備としての、銀行学派の混乱の批判であるという理解が必要であろう。

   (2) ところがそういう「Ⅰ)」の位置づけを確認すると奇妙なことに気づく。というのは「利子生み資本」そのものの考察に移るといいながら、この「Ⅰ)」では「利子生み資本」という用語は冒頭のパラグラフで次のように使われたあと、最後のパラグラフで使われるのみなのである。まず冒頭のパラグラフを何度も引用することになるが確認のために引用しておこう。

 〈卜ゥック,ウィルスン,等々がしている,Circulation(通貨--引用者)と資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが〔)〕,次の二つのことに帰着する。〉 (97-98頁)

   そして最後のパラグラフというのは次のようなものである。

  〈ところが、もっとあとの研究で明らかにするように、そのようにして「貨幣資本〔Geldcapital〕」が「利子生み資本」の意味での「moneyed Capital」と混同されるのであって、前者の意味では資本はつねに、それ自身がとる「商品資本」および「生産資本」という形態とは区別されたものとしての「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのである。〉 (160-161頁)

   このパラグラフそのものは「Ⅱ)」とマルクスが項目番号を打っている部分にあるのであるが、実は「Ⅰ)」の結論的部分だというのが私の理解なので、とりあえず「Ⅰ)」の最後のパラグラフとしたものである。ここでマルクスが〈「貨幣資本〔Geldcapital〕」〉と述べているのは、冒頭のパラグラフの〈貨幣資本と〉と書かれているものと同義であることは明らかである。つまりここで初めて、マルクスは冒頭で指摘した〈貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの〉区別が、銀行学派によって〈乱雑に混同され〉ていることを指摘しているのであるが、しかしそのことは〈もっとあとの研究で明らかにする〉予定だというのである。

   つまりマルクスは〈利子生み資本そのもの……の考察に移る〉と言いながら、実際の銀行学派の批判のなかではこの肝心要の「利子生み資本」という用語をまったく使わずに論じているのである。というのは、マルクスはこの銀行学派の批判のなかで明らかにしようとしたのは、彼らが「資本」と述べているのは果たしてどういう意味でそう述べているのかを明らかにすることだからである。彼らが「資本」と述べているは、果たして「利子生み資本」という意味で述べているのかどうかを検討することがその主要な課題の一つなのである。だからとりあえずマルクスは銀行学派が使っている「資本」という用語をそのまま使い、その上で、それでも彼らの混乱と自己撞着は明らかだとして批判しているわけである。
   こうした銀行学派が使っている用語をそのまま使いその上で彼らの主張の自己撞着や矛盾を突いてその混乱を指摘するという手法をマルクスはこの銀行学派の批判の中では使っている。そしてこのことがこの第28章該当部分の草稿の理解を著しく困難にさせ、エンゲルスをはじめ多くの人たちを惑わせることになっている。しかもこうした手法をとることについてマルクス自身はまったく言及していないし、ほのめかしてもいないのである。敢えて、それを類推させるものは、すでに述べたように、冒頭のパラグラフで〈鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別〉と述べながら、肝心の「Ⅰ)」のなかではこうした諸区別を銀行学派たちの主張に対置することはほとんどせずに批判を展開しているということであろうか。こうしたことからマルクスはまずは銀行学派たちが使っている用語をそのまま使い、それが実際にはどういう意味でそれらの用語を彼らは使っているのかを明らかにしていくという手法を取ったと考えられるのである。ただそうしたほとんど手がかりとはいえないものを手がかりにして類推するしかない方法をとっているのである。しかしこれだけの手がかりでマルクスの方法を理解せよというのはどだい無理な話で、エンゲルスをはじめ多くの論者を惑わせることになったのである。
  そしてこの点では大谷氏も例外ではない。大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻の最初のあたりで〈第8章「流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(エンゲルス版第28章)に使われたマルクス草稿について〉と題してマルクスの草稿を紹介する前に長い解説を書いている。その中の〈5 フラートンは「資本」という語でなにを考えているのか〉という項目のなかで最初はわれわれのパラグラフ番号で【31】の原注として紹介されているフラートンの著書からの引用を紹介するが、突然〈この先のマルクスの記述を理解しやすくするために,この「Ⅰ)」に続く「II)」(エンゲルス版第29章部分)でマルクスが「銀行業者の資本」について説明しているところをあらかじめ見ておこう。〉(36頁)と述べて、後の「Ⅱ)」部分の解説を先行させて長々と論じている。これは恐らくこの「Ⅰ)」で述べている銀行業資本(Banking Capital)が「Ⅱ)」で使っている同じ用語、すなわち〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)〉(大谷本第3巻163頁)と意味が違っていると考えているからであろう。だからあらかじめ「Ⅱ)」の内容を確認しておいた方がよいと考えたのである。それが証拠に、大谷氏は、すでに何度も紹介したが、注9)で次のよう書いている。

 〈9)マルクスは「譲渡された銀行業資本」と言っているが,第1に,譲渡されたのは準備有価証券であって,資本そのものが譲渡されたのではない,という意味で,第2に,ここでの資本は,「他人資本」である「預金」を指しているのではないので,「銀行業資本」ではなくて「銀行資本」とすべきところだ,という意味で,この表現は適切ではない。〉 (52頁)

   同じことは小林賢齋氏も考えていて、小林氏はマルクスは混乱しているとまで断じているぐらいである。
   しかしこうした主張もこの「Ⅰ)」でマルクスがとっている手法に対する無理解からくるものである。確かに「Ⅱ)」のなかではマルクスは銀行業資本〔banking capital〕を預金とほぼ同じ意味で借入資本と並べて使っている(しかし時にはイングランド銀行の銀行部の準備としてある銀行券を〈この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕であり,また同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもある〉(190頁)という形でも使っている)。しかし「Ⅰ)」では同じBanking Capitalでもそれとは違った意味をもたせて論じているのである。というのはマルクスは「Ⅰ)」では銀行学派たちが使っているものをそのままの意味を持たせて使っているのであって、だからこそ【44】パラグラフで〈銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)とわざわざそれを説明しているのである。つまり「Ⅰ)」における銀行業資本(Banking Capital)というのは銀行業者たちにとって彼らの元帳の立場から自分の資本(自己資本と借入資本)の持ち出しになるものを指しているのであって、それを彼らは「資本の貸付」などと述べているのである。確かに「Ⅱ)」では、銀行業資本を他人からの借入資本(預金)、あるいは本来の銀行の営業を営むための資本を意味するものとしてマルクスは使っているが、それと「Ⅰ)」の銀行学派たちの主張しているものをそのまま使っているものとを混同してしまうと、マルクスは混乱していると小林氏のように断罪することになってしまうわけである。
   だからこうしたマルクスの手法を確認することはこの「Ⅰ)」の部分を正確に理解する上で極めて重要なポイントということが出来るであろう。

   (3) ではマルクスは銀行学派批判をどのように展開しているのかを見てゆこう。マルクスは彼らが「資本」という言葉で何を意味させているかを最終的に明らかにしようとしている。それを最終的に論じているのが、【31】パラグラフの原注b)のなかの次の一文である。

  〈どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである。〉 (122頁)

   つまり銀行業者は手形割引で銀行券を貸し付けても、それがすぐに還流してきて、預金やあるいは自身の債権の持ち出しに帰着する場合、彼らの元帳の立場では、資本の貸付になることを「資本の貸付」と呼んでいるだけなのである。銀行券のように銀行の信用だけで発行して、紙と印刷費しか費用がかからない貸付が、その銀行券が還流してきて彼らの資本の持ち出しに帰着することを、彼らは「資本の貸付」に転化するといっているだけなのである。彼らのいう「資本」とはそういう意味でしかない、というのがマルクスの言いたいことである。だから銀行学派たちがいう「資本」も、銀行業者の立場からみて自分の資本(自己資本や借入資本)の貸し出しになるものを「資本」と言っているだけで、概念的に「利子生み資本」を正しくとらえたものではないというのがマルクスの一連の考察の結論なのである。

   マルクスはこうした考察を行う前提として、まずは銀行学派たちが通貨学派を批判して主張している通貨と資本との区別を問題にしている。通貨学派は、金鋳貨と紙券(銀行券)が混在して流通している場合には、紙券(銀行券)が過剰に発行されるために、リカードが主張した金属貨幣がもっている自動調節作用が働かなくなり、貨幣価値が下落して金の流出や恐慌を招くことになる。だから銀行券の発行をイングランド銀行の金準備にリンクさせて制限する必要があると主張した(それが政策として具体化したのが1844年の銀行条例である)。それに対して、銀行学派は銀行券は通貨学派が主張するように恣意的に増大させることはできないのだ、通貨はそれが通常の必要に適応しているなら、それ以上に銀行券を発行してもそれらはすぐに銀行に還流してきて資本の貸付になってそれ以上に増加させることはできないのだ。だから通貨学派の主張するようなことは起こらない等々と批判したのである。つまり銀行学派は、貸付資本の需要と追加の流通手段への需要とはまったく別の問題だ、通貨学派は「資本の問題」と「貨幣の問題」とを混同しているのだ等々と批判したわけである。

   これに対してマルクスは、まず通貨と資本との区別について、銀行学派がスミスに倣って流通を収入の流通と資本の流通の二つにわけ、収入の流通を媒介するものを「通貨」とし、資本の移転を媒介するものを「資本」としていることについて直接的な批判を加えている。銀行学派たちはふたつの流通部面で流通する貨幣の素材的な違いに目を奪われてそれらの形態規定性を理解することができない。収入の流通を媒介するものは素材的には鋳貨か少額の銀行券であるが、しかし形態規定性で見るなら、それは購買手段(流通手段)である。しかしそれは個人的消費者たちから見た場合であって、小売商人からみればその同じ鋳貨や少額銀行券は彼の商品資本の実現形態であり貨幣資本なのである。そしてその限りでは彼らがいうところの「資本の移転」を媒介している。商人同士のあいだを流通する貨幣についても、形態規定性で見れば、抽象的にはそれらは購買手段として流通する場合もあり(現金取引がされる場合)、あるいは支払手段として流通するケースもある(信用取引の決済として)。確かに商人のあいだでの取引では信用取引が優勢で貨幣は姿を消して、素材的には手形や小切手等々が目につく、そして貨幣としてはただ支払手段として機能する場合だけである。だから彼らは購買手段を通貨とし、支払手段を資本とする間違いに陥っているわけである。

   (4) マルクスはフラートンの著書の批判を通して銀行学派たちが「資本」と述べているのはどういう意味かを明らかにしている。フラートン等はイングランド銀行が貸付を増大させ有価証券の保有高を増加させても、銀行券の流通高が増えるどころか減っている場合もあることに注目して、これは自分たちの主張を裏付けるものだと考えている。だからマルクスはそうしたフラートンらの主張が逼迫期に第一の流通(収入の流通)では通貨が減少し、第二の流通(資本の流通)では増加するが、そのことがフラートンらの主張と一致するのかどうかを詳しく検討するとしている。
   フラートン等は、イングランド銀行の貸付が増えて(だから銀行券がそれだけ増発されても)、実際の銀行券の流通高が増えずに減っているのは、地方の銀行業者たちが強行に主張していること(それは同時に銀行学派の主張でもあるのだが)が、イングランド銀行のケースも例外ではないこと、つまり銀行学派の主張が一般的に正しいことを示しているのだというのである。それはすでに述べたように、銀行券の流通を銀行が恣意的に増加させることはできない、銀行券がすでに通常の目的に適合しているなら、それ以上の発行は、すべてすぐに銀行に還流して「資本の貸付」に転化するからだというものである。
  これに対してマルクスは、地方の銀行業者が銀行券で貸付ができないのは、彼らの主張とは異なり、逼迫期には信用が収縮して、地方の銀行券では信用がなく、こうした時期に銀行に貸付を要求してくる事業者は支払手段を求めてくるのだから、だから支払手段として使える金か法貨としてのイングランド銀行券しか受け取らないからである。そしてそのために地方の銀行業者たちはその顧客の需要に応えるためには、手持ちの有価証券を売却して金かイングランド銀行券を手に入れることになるが、しかしそのことは結局、彼らの元帳の立場からは、自分の持ち出した資本(有価証券)で顧客に貸付を行ったことになるということでしかない。彼らが「資本の貸付」に転化すると述べているのは、ただ信用だけで発行し何の費用もかからない銀行券ではなくて、自分の資本の持ち出しになるという元帳の立場から主張しているだけのことである。銀行学派がいう「資本」とはそうした銀行業者的な意味でしかないことをマルクスは結論として述べているのである。
   以上で、少なくとも「Ⅰ)」の主題として設定した銀行学派たちが主張する「資本」というのはどういう意味なのか、それは果たして概念的に正しい「利子生み資本」という意味なのかどうかという問題については結論が出たのである。

   (5) しかしこの「Ⅰ)」では、それ以外にも重要な問題が論じられている。

   (1) まず『資本論』第1部第1篇で明らかにされている貨幣の抽象的な規定性や諸法則は、それにどんなに具体的な形態規定性が加わろうと、それに影響されることなく貫いているのだということである。具体的な形態規定性によって抽象的な規定性や諸法則が影響され、変容させられるなどということはないという指摘は極めて重要である。なぜなら、人によっては現代の資本主義では貨幣は金との繋がりを失くし、それ自体が変容してしまっている。だから商品の価格もわけのわからないものになってしまった、等々と論じている人もいるからである。
   (2) 次に準備金を構成する蓄蔵貨幣について、それが国立の銀行の準備として集中されることや、しかもそれが常に必要最低限に減らされる傾向があること、その上でその準備が兌換や預金の支払いの準備をも兼用することによって信用の軸点としての役割をもたされ、だからその準備金の微妙な増減が、大きな信用不安を引き起こす等々という指摘がなされている。これも後に第35章該当部分で論じられていることでもあるが、ここで先行して論じられている。
   (3) もう一つは帳簿信用について論じていることである。後にマルクスは預金の振替などを前提して論じている部分が多くあるが、それを帳簿信用として論じているのは、ここぐらいであろう。(ただし第25章該当個所で、マルクスは貸付の一形態として当座貸し越しというものを上げている。また銀行が与える信用のいくつかを挙げているが、その中に「銀行信用」というものがある。これらは帳簿信用とほぼ同じと考えられるが、そこではそれらについては何も論じていない。)

   以上がマルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打ったところで論じている主な内容である。


 ● エンゲルスによる二つの長い挿入文の検討


   このあと大谷氏の著書では、補注1と補注2という形でエンゲルスによる挿入文が紹介されている。それらについて必要な限りで考察を加えておこう。


  [補注1] エンゲルスによる挿入 1

  〈エンゲルスは,本書本巻97ページ4行目の最初の語である「トゥク」に長い注をつけている。それは現行版(MEW版)では次のようになっている。--
  「これに関連するトゥクからの引用は390ページではドイツ語の抜き書きで引用したが,それをここでは原文で挙げておこう。"The business of bankers,setting aside the issue of promissory notes payable on demand,may be divided into two branches,corresponding with the distinction pointed out by Dr.(Adam)Smith of the transactions between dealers and dealers,and between dealers and consumers.One branch of the banker's business is to collect capital from those who have not immediate employment for it,and to distribute or transfer it to those who have.The other branch is to receive deposits of the income of their customers,and to pay out the amount,as it is wanted for expenditure by the latter in the objects of their consumption...the former being a circulation of capital,the latter of currency."(Tooke,"Inquiry into the Currency Principle",p.36,〔前出,玉野井訳,79ページ〕) 前者は"the concentration of capital on the one hand and the distribution of it on the other"であり,後者は"administering the circulation for local purposed of the district"である(ibid,p.37,〔同前訳,79ページ〕)。--正しい見解にはるかに近づいているのは,次の箇所でのキニアである。「貨幣は,二つの根本的に違う操作を行なうために使用される。商人どうしのあいだでの交換の媒介物としては,貨幣は資本の移転が行なわれるのに役立つ用具である。すなわち,貨幣での一定額の資本と商品での同額の資本との交換である。しかし,労賃の支払いや商人たちと消費者たちとのあいだの売買に用いられる貨幣は,資本ではなく,収入である。すなわち,社会の収入のうちの,日常の支出に向けられる部分である。この貨幣は不断の日常的使用のなかで流通している。そして,ただこれだけが,厳密な妥当性をもってCurrencyと呼ぶことのできるものである。資本の前貸はまったく銀行やその他の資本所有者の意志にかかっている,--というのは,借り手はいつでも見つかるからである。ところが,currencyの額は,貨幣が日常的支出のためにそのなかで流通している社会の必要にかかっているのである。」(J.G,Kinnear,"The Crisis and the Currency",London 1847,[p.3,4〔藤塚知義・竹内洋訳『恐慌と通貨』,日本経済評論社,1989年,27ページ〕].)」(MEGA II/15,S.433;MEW25,S.458-459.)〉 (147-148頁)

   このあと大谷氏による解説が続いているが割愛する。というのはそれは一つは〈この注の最初の部分で,「これに関連するトゥクからの引用は390ページではドイツ語の抜き書きで示した」とされているが,ここでの「390」というページ番号〉は何の番号なのかといろいろと考証して、結局、〈じつは,1894年版の第3部第1分冊の390ページが,第25章のなかのトゥクからの引用のあるページなのである。現行版での「390ページ」という指示は,1894年版のページづけに合わせて,現行版の編集者がつけたものなのであった〉という結論なのであるが、まあ、いずれにせよどうでもよい話だからである。

   まず最初に英文で紹介されているトゥックの一文についてエンゲルスが第25章該当個所でドイツ語で紹介したとされる部分の大谷訳を紹介しておこう。

  〈「銀行業者の業務は二様のものである。すなわち,第1に,資本を直接に運用できない人びとからそれを集めて,それを運用することができる人びとに分配し移転することである。これは資本の流通である。もう一つの部門は,彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのに或る金額を必要とするときにそれを払い出すことである。これは通貨の流通である。」(トゥク『通貨原理の研究,云々』,第2版,ロンドン,1844年,36ページ〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,日本評論社,1947年,79ページ〕)「一方は,一面では資本の集中,他面ではその配分であり,他方は,それぞれの地方の地方的目的のための通貨の管理である。」(同前,91)37ページ〔同訳書,同ページ〕。)〉 (大谷本第2巻173頁)

   しかしこの両者を比べると果たして同じ部分からの引用なのかと疑うほどの違いがあるが、これはマルクスがトゥックの一文を〈要約・引用し〉(大谷本第3巻17頁)たものだからである。
   このトゥックの英文の一文は、マルクスが『61-63草稿』のなかで、自身の挿入文を入れて取り上げている次の一文がもっとも正確と言える。

  〈トゥックの次の文章はよい。
 「銀行業者の業務は、要求払の約束手形の発行を別にすれば、商人と商人とのあいだの取引と、商人と消費者とのあいだの取引というスミス博士の指摘した区別に対応する二つの部門に分けることができよう。この銀行業者の業務のうちの一部門は、資本を直接に使用しない人々から集めて、それを使用する人々に分配または移転することである。他の部門は、その得意先の所得から預金を受け入れて、彼らが消費対象への支出として必要とするだけの額を彼らに払い出すことである。前者は帳場のうしろの業務とみなすことができるであろうし、後者は帳場の前の業務ないし帳場での業務とみなすことができるであろう。というのは、前者は資本の流通であり、後者は通貨の流通だからである。」(通貨の流通と言うのは貨幣資本の第一の流通のことである。これは本来の流通ではなく、移転である。現実の流通はつねに資本の再生産過程の客観的な一契機を含んでいる。移転は、商業資本の場合にそうであるように、一方の人と他方の人との位置を取り替える。しかし、資本はまだ以前と同じ局面にある。それはいつでも貨幣の--または所有名義の--(あるいはまた商品の)一方から他方への移行であって、この貨幣が変態を経てきたということではない。そのほかになお、こうしたことは銀行業者の仲介によって行なわれる貨幣資本の貸付などによる移転についてもあてはまる。同様に、この移転は、資本家が彼の現金化した剰余価値を一部は利子生活者に、一部は地主に分配する場合にもあてはまる。この最後の場合は収入の分配であり、前述の場合は資本の分配である。ただ商業資本の一方の種類の商人から他方の種類のそれへの移転だけが、商品資本そのものを貨幣への転化に近づけるのである。) 「銀行業のうち一方では資本の集中と関係をもち、他方ではその分配と関係をもつその部門を、その地方の地域的な諸目的のための流通を管理するのに使用されるその部門から理論上区別したり分離したりすることは、非常に重要である……。」〈同前、36、37ページ〔玉野井訳、79ページ〕。)〉 (草稿集⑧318頁)

   ついでにマルクスが(  )のなかで論じていることを簡単に解説しておこう。マルクスは、トゥクが〈後者は通貨の流通だ〉と述べていることについて、〈通貨の流通と言うのは貨幣資本の第一の流通のことである。これは本来の流通ではなく、移転である〉と述べている。これはトゥクが銀行から顧客(消費者)への払い出しを〈通貨の流通〉と述べていることについて論じているのである。それは厳密な意味での「流通」ではなく、「移転」だとマルクスは言うのである。というのは流通というのは再生産過程の客観的な一契機を含んでいなければならないが、銀行からの消費者への預金の払い出しにはそうしたものはまったくない。だからそこには単なる所有名義の移転があるだけだというのがマルクスのいわんとすることである。そして同じような意味での移転は例えば利子生み資本の循環G-G-W…P…W'-G'-G'ののうち最初のG-Gと最後のG'-G'は利子生み資本の貸付と返済であり、再生産過程の外部の関係である。だからこれらも厳密には「流通」とはいえないとマルクスは述べているのである(これを見誤って、金融商品の「流通」のための流通貨幣量などというものを問題にしているのが大谷氏なのであるが。それに対する批判はここを参照)。それ以外にも産業資本家が獲得した利潤を、利子や地代として分配する場合にもこの「移転」に該当すると述べている。ただ商業資本の間の「移転」の場合は、それが最終的に貨幣資本に転化するのに近づける役割を持っているとも付け加えている。

   ところで大谷氏はこのエンゲルスの断りのない注について、それは読者を間違ったものへと誘導するものだと批判している(大谷本第3巻17頁以下)。というのはトゥクの引用では、「資本の流通」と「通貨の流通」とを銀行の二様の業務との関連で説明しており、キニアからの引用も同じものを類推させる。つまり〈読者は,マルクスはここで,銀行の存在やその業務にかかわらせて「資本の流通」と「通貨の流通」との区別を取り扱っているものと思い込むであろう2)。〉(同19頁)というのである。この注2)では久留間健氏がこの注をマルクス自身のものと思い込み同氏の著書『貨幣・信用論と現代』のなかで〈マルクスはこれらの引用を「銀行の役割」との関連で挙げているのだ,と読まれたうえで,マルクスのここでの考えを推論されている(同書,208-211ページ。)〉(同)のだと指摘している。
   しかしそのあとのマルクスの考察を跡づけるとそこではマルクスは銀行の介在を捨象して、再生産過程の内部での通貨と資本との区別を論じているだけだというのである。次のように述べている。

  〈ところが,マルクスが「次の二つに帰着する」と言っているトゥクでの「Circulationと資本との区別」は,これ以下でのマルクスの論述の内容を正確につかめば,それは銀行の業務にかかわるものではまったくなく,むしろ,銀行の介在を度外視した社会的再生産過程の内部での区別であることが判明する。〉 (19頁)

   確かに大谷氏の指摘は、上記の『61-63草稿』の(  )で括ったマルクスの挿入文の解説の中でも指摘したように、その限りでは一理ある。しかし、これもすでに最初の解読のなかでも指摘したが、それをことさら強調することはどうかと思うのである。というのは、マルクスはすでに【6】パラグラフで、つまりマルクスがa、b、cと分けて銀行学派の混乱の批判を展開しているaのなかで、すでに発券銀行業者の通貨と資本との区別について論じているのだからである。このパラグラフは冒頭のパラグラフに直接続くパラグラフのなかで論じられている混乱の指摘の一部をなすものなのである。それにそもそもマルクスが銀行学派の主張の批判的検討を行うことが必要だと考えたのは、彼らが通貨学派に対する批判のなかで、問題は「貨幣」の問題ではなく「資本」の問題だと強調しているところの「資本」の問題というのは、利子生み資本という意味での「資本」なのかどうかを厳密に検討しておく必要があると考えたからである。その意味では一連の考察においてはマルクスにとって銀行の介在は当然の前提なのだからである。

   さて、このエンゲルスの注については以前の解読のなかでも取り上げたのであるが、それをそのまま最後に再現・紹介しておくことにしよう。

  《まずトゥックの『通貨原理の研究』からの一文である。
 トゥックは通貨と資本との区別はアダム・スミスが指摘した商人と商人との取引きと、商人と消費者との取引きとの区別に照応するのだ、と述べている(ここでアダム・スミスが「商人」という場合は資本家のことであり、「消費者」とは最終消費者であり、生産的な消費者ではない)。つまり商人と商人との間を媒介するものは資本だが、商人と消費者との間を媒介するものは通貨だというのである。ただトゥックは銀行学派だからそこに銀行を介在させる。つまり銀行業者たちの業務としてそれを説明している。すなわち銀行業者たちの一方の業務は、資本をその直接の用途をもたない人々から集めること、およびそれを、用途を持つ人々に配分または移譲することである。他方の部門は顧客たちの収入からなる預金を受け入れ、顧客たちが彼らの消費目的で支出するために要求するだけの額を払いだすことである。前者が資本の流通であり、後者は通貨の流通である。これがトゥックが『通貨原理の研究』で言っていることである。
 次はキニアの『恐慌と通貨』の方である。エンゲルスは〈キニアは……正しい見解にずっと近づいている〉としているが、果たしてどうか?
 キニアの主張も基本的にはトゥックとまったく同じであることが分かる。つまりキニアも商人と商人との間で流通するものを資本とし、商人と消費者との間で流通するもの、つまり収入として使われるものは通貨だといっているにすぎない。トゥックとキニアの相違は前者が銀行の業務を介在させているのに対して、キニアはそうではないというだけの相違にすぎないのである。キニアが補足的に言っていることは、資本の前貸し、つまり投資はその所有者の意志によって決まるが、流通手段の額は、すべての人々の必要によって決まる、ということを言っているのみである。キニアが通貨の量が実際に流通する商品の価格によって定まると言っている限りにおいては正しい。
 しかしいずれにしても通貨と資本との区別として語る分では、トゥックとキニアには相違は無い。だからキニアの方が「正しい見解にずっと近づいている」などというエンゲルスの評価はまったく眉唾物である。》


  [補注2] エンゲルスによる挿入 2

  〈前出の脚注445で触れた,エンゲルスが「原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので,括弧の終わりまでは編者が新しく書き換えた」挿入部分(MEGA II/15,S,445-446;MEW25,S,472-473)は,次のとおりである。
  「この問題は前貸そのものの性質にかかっている。これについては三つの場合を検討する必要がある。
   第1の場合。--Aは銀行から前貸金額を彼の個人信用で,なにも担保を提供することなしに,受け取る。この場合には,彼は支払手段の前貸を受けただけではなく,無条件に新たな資本の前貸をも受けたのであって,返済するまではそれを自分の事業で追加資本として使用し増殖することができるのである。
   第2の場合。--Aは銀行に有価証券,すなわち国債や株式を担保に入れて,それと引き換えにたとえば時価の3分の2までの現金前貸を受け取った。この場合には,彼は自分が必要とする支払手段を受け取ったのではあるが,追加資本を受け取ったのではない。なぜならば,彼は自分が銀行から受け取ったよりも大きい資本価値を銀行に引き渡したからである。しかしこのより大きい資本価値は,一面では,それが利子を生むように一定の形態で投下されていたので彼の当面の必要--支払手段--のためには使えなかったのであり,また他面ではAにはそれを売って直接に支払手段に換えなかっただけの理由があったのである。彼の有価証券は,とりわけ準備資本として機能するべき任務をもっていたのであって,このようなものとして彼はそれを機能させたのである。そこで,Aと銀行とのあいだに一時的な相互的な資本移転が行なわれたのであり,したがってAは追加資本は受け取らなかったが(むしろ逆だ!)必要な支払手段を受け取ったのである。これに反して,銀行にとってはこの取引は貨幣資本を貸付金というかたちで一時的に固定すること,貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだったのであって,この転換こそはまさに銀行業務の本質的な機能なのである。
   第3の場合。--Aは銀行で手形を割引してもらい,そのかわりに,割引料を差し引いた金額を現金で受け取った。この場合には,彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり,まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物である。このことは,支払が行なわれない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては,少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって,これらの人々にたいしては彼自身が求償権をもっているのである。だから,ここにあるのは,けっして前貸ではなく,まったく普通の売買である。それゆえ,Aは銀行になにも返す必要はないのであり,銀行は満期日に手形の取立によって保証を受けるのである。この場合にもAと銀行とのあいだには相互的な資本移転が,しかも他のどの商品の売買の場合ともまったく同様に,行なわれたのであり,またそれだからこそAはなにも追加資本を受け取ってはいないのである。彼が必要として受け取ったものは支払手段だったのであって,彼はそれを,銀行が彼のために彼の貨幣資本の一方の形態--手形--を他方の形態--貨幣--に転化させてくれたことによって,手に入れたのである。
   こういうわけで,現実の資本前貸と言うことができるのは,ただ第lの場合だけである。第2と第3の場合には,せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけである。この意味では銀行はAに貨幣資本を前貸しするのであるが,しかしAにとってそれが貨幣資本であるのは,せいぜい,それが彼の資本一般の一部分であるという意味でのことでしかない。そして,彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである。もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう。--F.エンゲルス}」〉 (257-259頁)

   (1) まずわれわれはこのエンゲルスの挿入文がどこに入れられているのかを確認することから始めよう。それはイングランド銀行券が同行から貸し出されてもすぐに還流してくるがそれは二通りの仕方によってであるとして、第1は預金として還流する場合、第2は満期手形の支払として同行に還流する場合の二つのケースを考察した部分の後半の部分(【40】パラグラフ)の前半だけを少し書き直して残して、後半部分をすべてカットし、その代わりにエンゲルスのものという断りもいれずに、〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉と書いて、この一文に続けて、エンゲルス自身の編集者注であることを明記して、大谷氏が挿入文とした最初の一文、〈「原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので,括弧の終わりまでは編者が新しく書き換えたものである。別の関連ではこの点にはすでに第26章で触れている。」〉を書き、大谷氏が紹介している以下の挿入文を書いているのである。この点については、大谷氏は新本第3巻の冒頭の解説〈第8章 「流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(エンゲルス版第28章)に使われたマルクスの草稿について〉の〈10 無理解によるエンゲルスの書き加え〉で詳しく説明している(新本第3巻58-64頁参照)。

   (2) 次にわれわれはまずエンゲルスの断りのない書き入れを検討しよう。
 エンゲルスは〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉と書いているが、そもそもエンゲルスはイングランド銀行による前貸は同行にとっては利子生み資本(monied capital)という規定性をもっていることに気づいていない。〈どの程度まで資本の前貸とみなされ〉るかというが、そもそもこれは〈程度〉の問題ではないのである。イングランド銀行による前貸はすべてイングランド銀行券によってなされるが、それらはすべて利子生み資本という規定性を持っているのである。それが支払手段として役立つかどうかは前貸を受けた顧客の側の問題であって、イングランド銀行には直接には関係がない(それがすぐに還流してくるかどうかという形で間接的には関係があるが)。顧客にとってはそれはすでに投下した資本の還流を先取りするものであって、迫られている支払に応じるものだとしても、それは彼にとっては貨幣資本(Geld capital)の規定性を持っており(なぜならそれは彼の商品資本の実現形態である貨幣資本の先取りだから)、ただ現実の単純な流通においては支払手段として機能するだけという性格のものである。もし区別をいうならこうした区別を考えなければならない。

   大谷氏はこのエンゲルスの断りのない書き入れについて次のように批判している。

  〈マルクスはここで,エンゲルスが書き込んだ上の問題を問題として取り上げていたであろうか。明らかに否である。さらに範囲を拡大して,この部分を含む論述の流れのなかに,解くべき問題としてこのような問題が提起されていると考えられるであろうか。これにも否と答えなければならない。すでに見たように,そもそもフラートンにとっては「支払手段としての流通は流通ではない」のであって,フラートンの見地に立てば,「資本」と「支払手段」との直接的な対比はありえない。また,マルクスの見地に立てば,「支払手段」は「購買手段」と対比されるべきものであって,「資本」と「支払手段」とを直接に対比することにはほとんど意味をなさないのである。だから,マルクスが「Ⅰ)」の論述の流れのなかで,答えるべきものとしてこのような問題を--暗黙のうちに--立てていたとはとうてい考えられない。〉 (61頁)

   大谷氏のエンゲルス批判はあいまいである。そもそもエンゲルスはマルクスが「資本」と述べていることをそのまま理解している。しかしマルクスが「資本」と述べているのは、あくまでの銀行学派がそのように述べていることを引き継いでそのように述べているだけであるということが分かっていない。マルクスは銀行学派が「資本」と述べていることをそのまま使っているが、もしそれを科学的な概念に置き換えるなら、それはあるときは支払手段であるかもしれず、利子生み資本であるかも知れないのである。しかしマルクスはそうした科学的な概念を対置して銀行学派を批判していない。科学的な概念は、全体の冒頭に示したあとは、最後の締めくくりで述べているだけだからである。
   そしてまたエンゲルスは、銀行学派にとっては支払手段などという貨幣の抽象的な機能がまったく理解できていなかったということも分かっていない。もしそれを彼らが分かっていたら支払手段として機能する貨幣を「資本」などというはずもないのである。つまりエンゲルスのこうした問題提起そのものはこれまでのマルクスの論述を皆目理解していないことを暴露しているのである。そこらあたりが大谷氏によってきっちり指摘され批判されていないのである。
   大谷氏がここで〈そもそもフラートンにとっては「支払手段としての流通は流通ではない」のであって〉と書いているが、これは「支払い手段としての通貨は通貨ではない」と理解すべきところであるが、まあそれはついでに指摘したまでである。そのあと大谷氏はこうした断りのないエンゲルスによる書き込みが、多くの論者を惑わせてきたことを指摘しているが、それはまったくその通りであろう。

   (3) 次にエンゲルスの編集者注についてである。
   ここでエンゲルスが〈原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので〉と書いているのは、エンゲルスがマルクスの草稿をカットした残り半分のことであろう。われわれのパラグラフ番号での【40】パラグラフをもう一度紹介してみよう(エンゲルスが採用した部分とカットした部分が分かるように、その区切りに【/】を入れた)。

  第2に,AはBに支払い,そしてB自身か,またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは,この銀行券で同行に,直接または間接に,満期手形の支払いをする。この場合同行は,自分自身の銀行券で支払いを受けたのである。だが,この場合には取引はこれで終わっている{Aから銀行への返済だけを除いて}【/】のだから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが,それは,彼がのちに自分の還流金を,したがって自分の資本の一部分を,同行に支払わなければならないというかぎりでのことである。この場合,彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは,彼にとってまったくどうでもよいことである。というのは,彼は(銀行とは違って)なんらかの種類の商品資本を譲渡しなければならない,言い換えればなんらかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり,したがって金または銀行券を,それらの貨幣名に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては,この金または銀行券は資本の価値表現なのである。〉

   エンゲルスは【/】の前の部分を次のように少し書き換えている。

  第二に、AはBに支払い、そしてB自身か、またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは、この銀行券で銀行に、直接または間接に、満期手形の支払いをする。この場合には銀行は自分自身の銀行券で支払いを受けたのである。これで取引は終わっている(Aから銀行への返済だけを残して)。〉 (全集第25a巻581頁)

   つまりここで打ち切って、先の断りのない挿入文が行を変えて続くのである。だからエンゲルスが〈原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できない〉と述べているのは、【/】以下の部分に関してである。
   ここではマルクスは銀行券が満期手形の支払いという形で銀行に帰って来た場合にはそれで取引は終わっており、だから銀行学派たちの主張するようなこと、すなわち銀行券が流通にするのに適合している場合には、それ以上の銀行券はすぐに帰って来て「資本の貸付」になるという主張を裏付けるようものになっていないことを指摘しているのである。マルクスが〈だから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである〉というのは銀行学派たちの主張のようにはなっていないということなのである。〈ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが〉というのは銀行学派たちが「資本の問題」だと述べていることへの当てこすりである。彼らは「資本の問題」というが、ここで資本が問題になるのは銀行にとってではなく、銀行から貸付をうけたAにとってだけである。だからそれは銀行業者的な意味での「資本」ではない。Aは銀行からの貸付に対して、自身の商品資本が実現されて貨幣資本として還流するのを待って、その還流してきた貨幣資本の一部を銀行への返済に当てる必要があるという意味で、彼にとっては「資本」が問題になるだけだ、とマルクスは述べているのである。
   ここらあたりがエンゲルスにとってまったく理解できなかったというのは、そもそもエンゲルスにはなぜマルクスが銀行にとって「資本の貸付」になるかどうかを詮索しているのかが分かっていないからであろう。だからこそ〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉などという何の断りもない訳のわからない一文を挿入したのであろう。マルクスが銀行券による貸付が銀行業者的な意味での「資本の貸付」になるかどうかを問題にしているのは、それは銀行学派たちが銀行券による貸付をいくら行っても、銀行券が流通に必要なもの以上であれば、すぐに銀行に還流してきて「資本の貸付」に転化するから銀行券は必要以上には流通しないと主張しているからである。つまり「資本の貸付」になるかどうか、しかし銀行業者的な意味での「資本の貸付」にるかどうか、というのは銀行学派たちの主張を裏付けるようなものになっているのかどうかをマルクスは検討しているのであって、それ自体が正しい理解だとマルクスが考えているからではないのである。ここらあたりがエンゲルスだけではなく、多くの人たちに誤解を与えている。

   大谷氏は、エンゲルスがカットした部分でマルクスは何を問題にしているかを次のように述べている。

  〈エンゲルスがカットした部分にはなにが書かれていたのか。さきにも見たように,マルクスは,もし「資本」が問題として残ると言うとしても,それは銀行にとってのことではなくて,銀行に債務を負っているAにとってだけだ,そして実物資本であるAにとって「資本」が問題であるのは,Aが資本の一部を貨幣の形態でもたなければならない,ということなのであって,それはフラートンが言うような「資本」問題ではないのだ,ということであった。〉 (60頁)

   ここで大谷氏が〈そして実物資本であるAにとって「資本」が問題であるのは,Aが資本の一部を貨幣の形態でもたなければならない,ということなのであって〉というのはマルクスの述べている主旨を正しく捉えているとは言い難い。Aが銀行に彼が借りた銀行券の額だけを返済しなければならないが、それは彼にとっては貨幣資本であり、それは彼がなんらかの実際の価値物(彼の商品資本)を金あるいはイングランド銀行券に転換したものであり、だからそれは資本の価値表現だと述べているのである。つまりイングランド銀行が貸し付けた銀行券が満期手形の支払として還流する場合、「取引はこれで終わっていて」、銀行学派が言うような意味での資本にはならない、元帳の立場からみてもその貸付は「資本の貸付」にはならないことをマルクスは確認し、あえて「資本」を問題にするなら、それは銀行券を借りたAにとってその返済を彼の資本の実現形態で行なわねばならないという意味での「資本」が問題になるだけなのだと述べているのである。

  (4) 次にエンゲルスの挿入文で気づいた点を書き上げてみよう。
   まず〈この問題は前貸そのものの性質にかかっている〉とエンゲルスは述べている。ここで〈前貸〉というのは銀行業者による貸付のことである。銀行業者による貨幣の貸付の性質というが、それはすなわち利子生み資本という形態規定性を持っていることを、まずエンゲルスは理解していないのである。だから〈前貸そのものの性質〉などというものに拘ることになる。銀行が貸し付けるのが利子生み資本であることを理解すれば、それがいかなる形態をとるかはたいした問題ではない。銀行は貨幣ではなく、信用を与えるという形態で前貸しすることができる。しかしエンゲルスが挙げている例をみれば、エンゲルスが述べていることはそうした区別のことではないことが分かる。
   エンゲルスはその〈前貸そのものの性質〉として〈三つの場合を検討する必要がある〉としている。〈第1の場合。--Aは銀行から前貸金額を彼の個人信用で,なにも担保を提供することなしに,受け取る〉ケースである。われわれはマルクスが利子生み資本の概念を考察するときには、それが個人信用による貸し付けかどうかとか、担保をどうするかといったことは何も問題にしていなかったことを知っている。そんなことは利子生み資本の概念を理解する上ではどうでもよいことだからである。ところがエンゲルスは〈この場合には,彼は支払手段の前貸を受けただけではなく,無条件に新たな資本の前貸をも受けたのであって,返済するまではそれを自分の事業で追加資本として使用し増殖することができるのである〉と説明している。
   しかしこれは奇妙なことである。もし貸付を受けた業者が〈支払手段の前貸を受けた〉のであれば、彼はそれをすぐに支払手段として利用するであろう。つまりそれはすぐに支払われてしまうのである。だから〈無条件に新たな資本の前貸をも受けた〉ということにはなりえない。あるいはエンゲルスは、マルクスが論じていることが逼迫期の問題であることが分からずに、銀行からの貸付は支払手段の貸付になる場合もあれば、新たな追加的な投資をするための貸付の場合もありうる、と考えているのかも知れないが、しかしマルクスがその前まで論じてきたことは逼迫期の話なのである。だから貸付をうけた貨幣を〈追加資本として使用し増殖することができる〉などということはありえないのである。なぜなら貸付を受けようとしている業者は自分が販売のために流通に投じた商品が売れないのに、彼が振り出した手形(それは生産に必要な原料等を信用で買って彼が振り出したものである)の満期が来て、その支払に迫られているのだからである。だから彼に必要なのは還流してこない貨幣資本を先取りすることであり、とりあえず満期が来た手形を決済するための支払手段なのである。だからこの意味ではその貸し付けられた銀行券は、彼にとっては貨幣資本(Geldcapital)であり、抽象的な貨幣の機能としては支払手段である。エンゲルスがこうした貨幣の抽象的な機能と具体的な形態規定性との区別として、支払手段と貨幣資本を語っているのではないことは明らかである。いずれにせよ業者にとって新たな売れもしない商品の生産のために新たな追加資本を必要としていたなどということはありえないことは明らかである。エンゲルスはマルクスが考察していることが何もわかっていないからこうした馬鹿げたことをいうことになっているのである。

   (5) 〈第2の場合。--Aは銀行に有価証券,すなわち国債や株式を担保に入れて,それと引き換えにたとえば時価の3分の2までの現金前貸を受け取った〉ケースである。
   確かにマルクスは手形割引と同時に担保前貸しについても論じているが、しかしイングランド銀行が銀行券で前貸してもすぐにそれらが銀行に還流してくるケースを考察している部分(われわれのパラグラフ番号では【32】~【40】)では具体的な貸付の形態については何も問題にしていないのである。例えば【39】パラグラフでは〈彼の有価証券にたいして銀行券を支払う〉と述べているだけで、この〈有価証券〉が手形割引を求めてきた手形を意味するのか、あるいは担保貸付を求めてきた担保物件(国債や株式)なのかについては何も論じていないのである。
   いずれにせよエンゲルスは担保貸付についてここでは論じ、〈この場合には,彼は自分が必要とする支払手段を受け取ったのではあるが,追加資本を受け取ったのではない。なぜならば,彼は自分が銀行から受け取ったよりも大きい資本価値を銀行に引き渡したからである〉と述べている。エンゲルスは貸付を受けた貨幣額が担保として差し出した資本価値より少額だから〈追加資本を受け取ったのではない〉というのである。しかし問題は量ではなく形態規定性であろう。担保貸付であろうが、手形割引であろうが、銀行による貸付は利子生み資本として貸し付けられることがエンゲルスにはわかっていない。だからこうしたどうでもよい問題に拘っているのである。貸付を受ける業者にとって必要なのは、当面の満期が近づいている手形の支払に必要な支払手段なのであり、それは金か法貨としてのイングランド銀行券でしかない。それ以外に彼がたとえ膨大な資本価値を持っていたとしてもそれらは何の役にも立たないである。なぜなら彼はいまはまさに過剰な商品資本や生産資本に苦しんでいるのであり、しかしそれらは当面の支払いに必要な支払手段としては何の役にも立たないからである。確かに業者が担保として差し出した有価証券は、あるいは彼の準備資本だった可能性もある。
   エンゲルスが同時に述べていること、つまり〈これに反して,銀行にとってはこの取引は貨幣資本を貸付金というかたちで一時的に固定すること,貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだったのであって,この転換こそはまさに銀行業務の本質的な機能なのである〉という一文はどうであろうか。ここでエンゲルスは〈貨幣資本〉という用語を使っているが、おそらくエンゲルスは貨幣資本(Geldcapital)と貨幣資本(moneyed Capital)との区別を無視してすべてGeldcapitalとしているから、銀行にとっての貨幣資本というのは利子生み資本(英語でmoneyed Capital)であることが分かっていない。だからこうした説明になっているのである。〈貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだった〉というのは一体何を言いたいのかわからない意味不明な言葉である。そもそもマルクスが問題にしているのはイングランド銀行が同行の銀行券で貸し付けることであって、確かにそれはイングランド銀行にとっては利子生み資本(moneyed Capital)としての貸付であるが、しかし銀行にとって銀行券の発行にはほとんど費用のかからないものであり、彼自身の資本(自己資本と借入資本)とは別のものなのである。それは銀行が与える信用の一形態であって、もともと銀行が持っていた資本の貸付とは区別されるものだということがエンゲルスには分かっていない。

   (6) 〈 第3の場合。--Aは銀行で手形を割引してもらい,そのかわりに,割引料を差し引いた金額を現金で受け取った〉ケースである。〈この場合には,彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり,まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物である〉と説明されている。
   業者が手形割引にもちこむ手形は彼の商品を信用で販売して受けとったものである。彼はその手形が満期になって現金の支払いを受けてから、彼自身の振り出した手形の支払いをするつもりなのだが、しかしその満期が来るまでに支払う必要が生じたために、銀行に割引を求めにきたのである。手形が〈流動的でない形態にある貨幣資本〉というのはあいまいな概念である。手形は裏書きして流通するならその限りでは流動的だからである。しかし逼迫期の支払手段としては、金か法貨としてのイングランド銀行券しか受け取られず、手形ではだめなのである。そもそも支払いを迫られているのは自ら振り出した手形の満期が迫ったからであり、だからその支払いを別の手形で行うことはできないのである。もっとも銀行への支払いの場合は、手形で行うことは逼迫期には増えてくることが銀行業者たちによって証言されており、現金ではなく手形による支払いが増えてくるのは破綻が近づいている兆候だという指摘もある。
   〈だから,ここにあるのは,けっして前貸ではなく,まったく普通の売買である。それゆえ,Aは銀行になにも返す必要はないのであり,銀行は満期日に手形の取立によって保証を受けるのである〉という説明はまったく間違っている。そもそも手形割引は銀行の貸付の主要な一形態であり、それは第25章該当部分でもマルクスが次のように述べていることから明らかである。

  〈貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),手形の割引--手形をその満期前に貨幣に転換すること--によって,また,さまざまの形態での前貸,すなわち,スコットランドの諸銀行でのような対人信用での直接前貸,各種の利子生み証券,国債証券,株式を担保とする前貸,ことにまた積荷証券,倉荷証券,および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸によって,預金を越える当座貸越し,等々によって,行なわれる。〉 (大谷本第2巻174頁)

   確かに割り引いてもらった業者にとっては、直接的な表象としては手形の銀行による買い取りであり、だからそれ以上の支払いは何も無いかに見える。しかしそれが銀行の利子生み資本の貸付であるかぎり、銀行のAへの貸付は残っているのである。利子生み資本の運動としての貸付と返済が、商品としての貨幣が普通に売買されているという仮象をとり、利子がその価格になるということは、利子生み資本の概念を説明しているところでマルクスが指摘しているところである。
   エンゲルスが〈このことは,支払が行なわれない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては,少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって,これらの人々にたいしては彼自身が求償権をもっているのである〉というのも決して正しいとは言えない。もし手形が不渡りであった場合、その不渡手形を銀行から買い戻す責任は最終裏書人のAにまず生じるのであり、ただAはそれを先行する裏書人たちに求めることができるだけである。結局は裏書人全体でその支払を分担保証することになる。ということは手形が満期になって銀行に対して振出人からの支払いが終わるまでは、銀行のAに対する貸付は依然として残っているということである。

   (7) エンゲルスの最後の一文〈こういうわけで,現実の資本前貸と言うことができるのは,ただ第lの場合だけである。第2と第3の場合には,せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけである。この意味では銀行はAに貨幣資本を前貸しするのであるが,しかしAにとってそれが貨幣資本であるのは,せいぜい,それが彼の資本一般の一部分であるという意味でのことでしかない。そして,彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである。もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう〉はどうであろうか。
   ここではエンゲルスは〈現実の資本前貸と言うことができる〉ケースと、〈せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけ〉とを区別して、前者に該当するのは第1のケースだけであり、第2、第3は後者の意味でしかないと述べている。ここでエンゲルスが〈現実の資本前貸〉と述べているのは、おそらく現実資本に投下される貨幣の前貸しの意味であろう。それは第1の場合だけであり、第2や第3はただ支払手段の前貸しであって、ただ一般的にどの資本投下でも資本が前貸しされるというような意味でしか言えないのだというのである。これを見てもエンゲルスが利子生み資本という概念そのものをほとんど理解していないことが分かるのである。先に第25章該当部分のマルクスの一文を紹介したが、ここでマルクスは銀行による貸付の形態として、手形割引、個人信用による直接前貸し、担保貸付、当座貸し越しを挙げていたが、これらは利子生み資本としての銀行による貸付の諸形態であって、それがその貸付を受けた業者によって現実資本への投下に利用されるか、それとも差し迫った支払手段として利用するかどうかということはこの貸付の形態とは何の関係もない(そんなことはマルクスは何も問題にしていない)ことは明らかなのである。〈支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう〉という一文は手形割引を〈まったく普通の売買である〉という間違った理解からくる妄言であるが、何ともいいようがない混乱である。

   大谷氏はすでに紹介した第3巻の冒頭の第28章の解説部分で、エンゲルスの修正を取り上げ、エンゲルスの三つの場合については個別には問題にせずに、一挙にこの最後の部分を問題にして次のように述べている。

  〈まず,エンゲルスはここで,一つには,Aへの銀行の「前貸」が,どういう場合に「資本」の前貸であり,どういう場合にはそうでないのか,という問題と,もう一つには,どういう場合にAが入手した貨幣がAにとって「支払手段」であり,どういう場合にはそうでないのか,という二つの別々の問題にそれぞれ答えようとしている,と言えるだろう。前者については,当然に,ここで「資本」という語でなにが考えられているか,ということがはっきりしていなければならないが,このパラグラフでエンゲルスが書いているところを見れば,彼が「現実の資本前貸」ということで考えているのは,借り手が資本として生産過程ないし流通過程に前貸できる追加の資本を入手できる場合の前貸のことであって,なんらかの意味で,すでにもっている資本の形態の変更にすぎない場合にはそれに当たらない,と彼が考えていたことがわかる。後者の「支払手段」について見れば,第1の場合については,Aは「支払手段の前貸を受けただけでなく」と,Aへの銀行の前貸がAにとって支払手段の前貸であることが明示的に述べられており,第2および第3の場合についても,この二つの場合には「現実の資本前貸」ではないけれども,「彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである」,として借り手にとって支払手段の前貸であると言われている。ちなみに,それに続いてエンゲルスが書いている文章,「もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう」という文章は,まさに「関連が理解しにくい」ものであって,なにを言おうとしたのか,ほとんど意味不明である。〉 (62-63頁)

   ここでエンゲルスが「資本」と言っているのはどういう意味かを大谷氏が問うているのはそれはそれで正しいであろう。そしてエンゲルスが「現実の資本前貸」と言えるのはどういう意味かと述べていることも正しい。しかし最後の部分について大谷氏が〈ほとんど意味不明である〉と述べているのは、その前でエンゲルスが貸付の形態について述べている部分を批判的に論じていないことから来るのである。エンゲルスは手形割引について普通の売買と述べていることを想起すれば、〈「もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう」〉とエンゲルスが述べているのは、手形割引で前貸しを受けてそれを支払手段として利用したケースと類比して述べているのである。手形を売って入手した貨幣を支払手段にするのと、商品を売って入手した貨幣を支払手段にするのと同じだとエンゲルスは考えているわけである。つまりエンゲルスは手形割引は「資本前貸」ではない、それは普通の売買だと考えているということである。そこらあたりが大谷氏には理解されていない。
   次の大谷氏のエンゲルス批判もその意味では必ずしも的確とはいえず、それこそ「まのぬけた」ものになっている。

  〈いずれにしても,エンゲルスは,マルクスがフラートンたちがなにを誤って「資本」と「通貨」との区別としているのか,ということを徹底的に批判する作業をしているその途中に,その筋道を突然中断して,銀行による前貸に,「資本の前貸」と「支払手段の前貸」という二つの前貸の区別があると言っているかのように見える問題設定をしながら,それにたいして,借り手が実物資本として投下可能な追加資本価値を入手する場合が「資本の前貸」だ,という答と,検討した三つの場合には銀行による前貸はすべて「支払手段の前貸」なのだ、という答とを並列しただけの,なんともまのぬけた答なるものを書いているのである。〉 (63頁)

   ここらあたりもマルクスが銀行学派が使っている「資本」という用語をそのまま使っているということが理解されないと正しい批判はできない。ここらあたりの大谷氏の理解はあいまいであり、明確ではない。エンゲルスはそれをそのまま文字通り「資本」と理解しているのである。しかしマルクスが冒頭で述べているように、マルクスにとって重要なのは鋳貨としての流通手段と貨幣(このなかに支払手段と蓄蔵貨幣、世界貨幣が含まれる)と貨幣資本(Geldcapital)と利子生み資本(moneyed capital)との諸区別なのである。そこらあたりがエンゲルスがこの冒頭の一文を勝手に書き換えた時点で、エンゲルスは何をマルクスが問題にしているかを理解できていないことがハッキリしていたのである。銀行の前貸しの形態の相違に何か重要な問題があるかに論じているエンゲルスの修正は問題を見誤らせるという点で看過できないが、しかしそもそもの発端からエンゲルスは間違っていたことを考えれば、こんなことはある意味では当然なのである。

   とりあえず、以上でエンゲルスの挿入文の検討は終える。エンゲルスがマルクスが利子生み資本の概念の説明から、その信用制度のもとでの運動諸形態を考察していることについて肝心の利子生み資本そのものの理解がまったく出来ていないと言える。こうしたエンゲルスの編集による現行版が多くの人たちを惑わせてきたことはある意味では当然であったといえるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  以上で、大谷本第3巻に収載されている〈第28章の草稿,それとエンゲルス版との相違〉の検討を終えます。このあと引き続き〈第29章の草稿、それとエンゲルス版との相違〉の段落ごとの解読に移るべきですが、いまだその準備はできていません。それが整い次第掲載していきますが、それが何時になるかは確たることは今の時点では言えません。

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