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2022年3月24日 (木)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-16)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-16)

 

◎【54】~【56】の三つのパラグラフのあるべき位置


 この【54】パラグラフは〈Ⅰ)については、さらに次のような疑問も起こるであろう。……〉という書き出しで始まる。つまりこのパラグラフ以下の3つのパラグラフはマルクスがその草稿に「Ⅰ)」と番号を打った部分、つまりエンゲルスの編集では第28章に該当する部分--本当はマルクスは第28章の第2パラグラフに「Ⅰ)」と番号を打ったのであるが--に追加補足するものとして述べたものであることが分かる。
 しかしこの部分は、草稿のこの第28章に該当する部分にはなく、エンゲルスの版の第29章に該当する部分--だからマルクスの草稿ではⅡ)と番号が打たれた部分--の中に含まれているのである。それをエンゲルスはマルクスのこの最初の書き出しの意図を酌んで、それを第28章の最後の部分に持ってきたのである(だからエンゲルスは第28章の最後に持ってくるにあたり、「Ⅰ)ついては」という部分を削除している)。
 大谷氏も第28章該当部分の草稿の終りに、この三つのパラグラフを持ってきた理由について、訳注563)のなかで次のように説明している(すでに前回紹介したが、もう一度紹介しておく)。

 〈563)〔E〕草稿の334ページ上半の末尾の前パラグラフに続く草稿の335ページの上半では「Ⅱ.こんどは、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」、として、エンゲルス版の第29章に利用された部分が始まる。しかしマルクスは、そのあと3つのパラグラフを書いたのち、「Ⅰ)については〔ad Ⅰ)……」として、挿入的な3パラグラフを書いている。この3パラグラフの左側には、インクで上下やや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している。ここで言う「Ⅰ」は、エンゲルス版の第28章に利用された、草稿の328ページから始まる部分の第2パラグラフの最初に書かれている「Ⅰ)」を指すものと考えられる。そこでエンゲルスは、この記述を第28章の末尾に移したのである。本章でも同じく、エンゲルス版の第28章の末尾にあたるこの箇所に収めておくことにする。〉 (145頁)

 もちろん大谷氏のこの措置は、以下の3つのパラグラフが内容から言っても、この第28章該当部分に関連したものなのだから、適切なものであることは言うまでもない。
 ところが実際には、すでに指摘したが、エンゲルス版の第29章に該当する草稿を見てみると、大谷氏が〈しかしマルクスは、そのあと3つのパラグラフを書いたのち、「Ⅰ)については……」として、挿入的な3パラグラフを書いている〉と述べている〈そのあと3つのパラグラフ〉も、実は、この第28章該当部分の続きと考えられるのである。だからもし「Ⅰ)については……」と書き出している部分以下の3パラグラフを第28章該当部分の末尾に持ってくるのであれば、その前の3パラグラフも本当はこの第28章該当部分の末尾に持ってくるべきであったと考えられるのである。だからわれわれの解読ではそのように措置しておいたのである。
 大谷氏によれば、マルクスは「Ⅰ)について……」以下の3つのパラグラフについては、縦線でひとまとまりのものであることを明示しているということである(だから大谷氏もエンゲルスの編集にならって恐らくこの第28章該当部分の末尾に持ってきたのであろう)。しかしその縦線による指示は、恐らく第28章該当部分の--マルクスの草稿ではⅠ)と番号が打たれた部分--の最後に、この3パラグラフが来るのは適切ではないとマルクスは考えており、もっと前の部分に挿入されるべきだと考えていたことを示していると考えられるのである(そのための縦線による印ではなかったかと思える)。
   なぜなら、大谷氏が〈そのあと3つのパラグラフを書いたのち〉と書いている部分が第29章該当部分の本文ではなく、第28章該当部分の最後の結論部分であるから、そのあとマルクスは〈「Ⅰ)については……〉と書き継いだと言えるからである。つまりその直前のパラグラフ、つまり〈そのあと3つのパラグラフ〉のうちの最後のパラグラフでマルクス自身は第28章該当部分(「Ⅰ)」)の考察が終わったと考えたのだが、しかし〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉云々と書き継いだのである。そしてその追加部分はひとまとまりに括られているということは、それを最後に持ってくることは適切ではないとマルクス自身は考えていることを示しているからである。
 だからマルクス自身は、第28章に該当する部分--マルクスがⅠ)と番号を打った部分--の結論の締めくくりと考えていたのは、すでにこの解読でも示したように、実は第29章にある「Ⅰ)ついては……」と書き出している部分の直前のパラグラフ(第【5】パラグラフ)までであったと考えられるのである。

 実際、第29章該当部分の書き出しの冒頭のパラグラフ(第【2】パラグラフ)の後の6つのパラグラフを除いた部分(第【9】パラグラフ)とを繋げてみると次のように、うまく繋がることが分かる。

 〈|335上| Ⅱ.こんどは、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。(第29章該当部分の第【2】パラグラフ)
 〈銀行資本は、1)現金(金または銀行券)、2)有価証券、から成っている。有価証券は、さらに二つの部分に分けることができる。一つは……〉 (同第【9】パラグラフ)

 このように第29章該当部分の草稿から第28章該当部分に関連する6つのパラグラフを除くと、第【2】のパラグラフと第【9】パラグラフとが直接繋がっていることが良く分かるであろう。こうしたことからも、第29章の第【2】パラグラフに続く、第【3】~【5】の三つのパラグラフもやはり第28章に該当する部分--マルクスがⅠ)と番号を打った部分--に移すのが適当だと思えるのである。

 第29章の第【3】パラグラフ以下3パラグラフが第28章の末尾を占めるということは良いとしても、それではマルクス自身はそのあとに続く〈Ⅰ)ついては……〉と書き出している3つのパラグラフ(【6】~【8】パラグラフ)を何処に挿入しようと考えていたのであろうか?
 それはただこの3つのパラグラフの内容とこれまでの第28章該当部分の展開とを見比べて類推するしかないのであるが、私自身は、【46】パラグラフの本文のあとに挿入されるべきだと類推している(【47】~【51】は原注)。つまりわれわれのパラグラフの番号付けでは【52】パラグラフの本文の前に挿入されるのが適当だろうと考えられるのである。しかしそれはこの三つのパラグラフの内容を確認したあと、もう一度、それを確証して見ることにしよう。

  だからとりあえず、われわれも大谷氏の編集どおりにこの解読では三つのパラグラフを最後に検討していくことにして、パラグラフ番号もそのように扱うことにする。


【54】

  /335上/①563) Ⅰについては,さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような逼迫の時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは一つの論争である。

  ①〔異文〕エンゲルスは鉛筆でページ欄外に,「334ページの終わりへ」,と書きつけている。

  563)〔E〕草稿の334ページ上半の末尾の前パラグラフに続く草稿の335ページの上半では,「II.今度は、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」,として,エンゲルス版の第29章に利用された部分が始まる。しかしマルクスは,そのあと三つのパラグラフを書いたのち,「Ⅰ)については〔ad Ⅰ)〕,……」として,挿人的な3パラグラフを書いている。この3パラグラフの左側には,インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて,この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している。ここで言う「Ⅰ」 は,エンゲルス版の第28章に利用された,草稿の328ページから始まる部分の第2パラグラフの最初に書かれている「Ⅰ)」を指すものと考えられる。そこでエンゲルスは,この記述を第28章の末尾に移したのである。本章でも同じく,エンゲルス版の第28章の末尾にあたるこの箇所に収めておくことにする。〉 (145頁)

  【これも平易な書き下し文は省略する。マルクスはこれは当時の〈1つの論争〉であり、それは〈周知〉のことであると述べている。これは恐らく第26章に該当する部分で、マルクスが通貨学派のオウヴァストンの議会証言を引用しながら批判して取り上げている問題と同じなのであろう。そこではオウヴァストンは議会で「資本」や「貨幣」という言葉であなたは何を実際には考えているのか、用語を混同しているのではないかと追及されている(マルクスはオウヴァストンが「私は用語を混同していません」と答えたのに対して、「つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが、それは、彼がこの二つを決して区別していないという理由からである」と批判している)。
   1857年の『銀行法特別委員会報告……』のなかで問題になったのは、1847年の恐慌時の利子率の上昇は、オウヴァストンら通貨学派の主張のもとに成立した1844年の銀行法の下で、銀行券の発行が制限されたために、恐慌時に異常に高まった支払手段としてのイングランド銀行券への需要が、その制限のために一層激化させられた事実(それは10%以上の高い利子率に表れた)を追及されたのに対して、オウヴァストンらは、銀行に対する貸付需要は貨幣量への需要ではなく、資本に対する需要だと誤魔化して主張したのである。それを説明するためにオウヴァストンはさまざまな詭弁を弄し、需要は貨幣そのものに対するものではなく、その貨幣で購入する商品に対する需要から生じているのだから、利子率の上昇は資本への需要から生じているのだ等々と、問題を誤魔化し、貨幣と資本とを混同して論じた問題のことを指している。だからこうした恐慌時に逼迫しているは資本への圧迫か、それとも貨幣(銀行券)への圧迫かというのが一つの論争になったというのである。

  「貨幣」と「資本」との混同・無区別の一例として、小林氏は前掲書の〈第5章 オーヴァストーンの「1844年銀行法弁護」〉の第2節の注8)で次のように書いている。

 〈8) なおオーヴァーストーンは,「貨幣は単に資本を獲得する特殊な道具(instrument)であるに過ぎない」(第3655号A)と言い,他方,「資本」の「科学的定義に入っていくことは失礼ながら辞退したい」が,「単に私が『資本』で何を理解しているかの一般的指示を与える」というのであれば,「資本は,それによって取引が遂行される種々な商品から成り立っており,固定資本と流動資本とがある」(第3744号A),と答弁している。〉 (170頁) 】


【55】

  まず第1に,逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは,要求されるものが国際的支払手段だということは明らかである。ところが,国際的支払手段としての規定性にある貨幣は,金属的現実性にある金,それ自身価値のある実体(価値のかたまり)としての金である。それは同時に「資本」であるが,しかし商品資本としてのではなく,貨幣資本としての資本であり,商品の形態にあるのではなく貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣であって,この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在する}の形態にある資本である。ここでは,貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しない。対立は,貨幣という形態にある資本と商品という[520]形態にある資本とのあいだにある。そして,資本がここで取ることを求められている,そしてそれが機能するために取らなければならない形態は,資本の貨幣形態なのである。

  ①〔異文〕「}」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「および」という書きかけが消されている。〉 (145-146頁)

  これは論争問題のマルクスの分析である。まず、平易な書き下し文を書いておこう。。

 〈すでにこれまでの検討で明らかなように、まず第1に、逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは、要求されるものが国際的支払手段だということは明らかです。国際的支払手段としての規定性にある貨幣は、金属的現実性にある金、それ自身価値のある実体(価値のかたまり)としての金、つまり地金です。それは同時に確かに「資本」でもありますが、しかし商品資本としての資本ではなく、貨幣資本としての資本です。つまり商品の形態にあるのではなくて貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣であって、この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在します}の形態にある資本です。だからここでは、貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しません。対立は、貨幣という形態にある資本と商品という形態にある資本とのあいだにあるのです。そして、資本がここで取ることを求められている、そしてそれが機能するために取らなければならない形態とは、資本の貨幣形態なのです。〉

  【まず逼迫期に需要されるのは「資本」かそれとも「貨幣」か、という論争問題に関連して、ここではまずその逼迫が「地金の流出」として現れるケースについて論じている。この場合も流出する地金は資本としての規定性で流出するのか、それも「貨幣」としての規定性で流出するのかという論争があったということである。
  ここではマルクスは銀行学派の言葉ではなく、マルクス自身の概念を使って論じている。ここで「貨幣資本」と言われているのは、Geld capitalであることは明らかである。つまり『資本論』第2巻で出てくる生産資本や商品資本と区別された資本の循環過程において貨幣形態をとる資本のことである。つまり地金は貨幣資本として流出するのだが、しかしその資本としての性格が問われているのではなく、国際的支払手段としての、つまり世界貨幣としての機能が問われているのだ、というのがマルクスの述べていることである。だからここで「貨幣」と言われているものも「本来の貨幣」のことであり、「貨幣としての貨幣」であることは明らかである。これもマルクスがこの28章の冒頭のパラグラフで〈鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別〉と書いていたうちの定冠詞のない〈貨幣〉のことであり、これは「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」のことであって、ここには「蓄蔵貨幣」や「支払手段」、「世界貨幣」が含まれているのである。

   小林氏は前掲書の〈第6章  D.B.チャップマンの「1844年銀行法修正」案〉のなかで〈〔備考〕委員ウィルソンの質問 --「資本か貨幣か」--〉という一項目を設け、ウィルソンの質問とチャプマンのそれに対する議会証言を紹介している。少し長くなるが紹介しておこう。

  〈例えば,ウィルソンは,「撹乱的原因」での逼迫は,「対外支払のための地金に対する需要から生じている」(第5015号Q)。そして「地金が非常に少ない[5,000,000ポンドの]時に,…[イングランド銀行の発券規定を]緩和する力を… 導入するとして,その瞬間には,求められている国内目的の流通媒介物は,逆の為替相場の結果として,海外に送るための地金に対する需要ほどには大きくはないのでは?」(第5018号Q)と質問する。しかしチャップマンは,「私は,そうは言っていません。もしも人が,そのときに一般的であるであろう利子率,即ち10%で,それ[地金]を海外に送ることが出来得るとしたならば(could),海外に送られるべき地金はイングランド銀行に準備されているでしょう(would)。しかしわが国内の流通媒介物は依然として同じままでしょう。私はわが国内にある地金の量を知りませんが」(第5018号A),と答えている。
 そこでウィルソンは重ねて,「にもかかわらず,… 海外に送る目的での地金を求める大きな逼迫があるのでは?」ないのかと質問を続け,それに対してはチャップマンも,「疑いもなく,それが貨幣市場の収縮を作り出した真の原因であったところのものです」(第5019号A)と答えていく。それというのも,「地金が出て行くにつれて,それはそれだけの銀行券を破棄(cancel)し,そしてそのこと自体が貨幣市場に影響をもつ」(第4994号A)からではあるが,しかし流出する地金だけ「破棄」される銀行券が銀行部準備の銀行券である限り,銀行券の総発行額は減少するのではあるが,「国内の流通媒介物」,即ち,「公衆の手にある銀行券」は「同じまま」(第5018号A)であるからである。
 ところでこの場合,ウィルソンが,「それは銀行券を獲得することを目的としてではなく,地金を獲得することを目的として」(第5042号Q)いるのではないのか,と執拗に質問を繰り返すのは,10%もの高い利子を支払ってまでも「求あられる貨幣は,古い債務の清算のため」(第5042号A)の「流通媒介物」である8)と言うチャップマンに対して,求められているのは「貨幣」ではなくて「資本」であることを認めさせたいからなのである。というのは,ウィルソンにとっては,対外支払のための「地金」は「資本」なのである9)。そしてそのことは,次の質疑・応答にも見出せる。即ち,「公衆はイングランド銀行からの資本の前貸し(advances of capital)に対して,6%,7%を喜んで支払ったのですか」(第5038号Q)--「貨幣の前貸し(advances of money)に対してです」(第5038号A)。「しかしこれらの前貸し(advances)は,結局,地金を引き出すこと(abstraction)に帰せられるべき勘定(accounts)からと思いますが」(第5039号Q)--「疑いもなくそれは地金を引き出すことによって惹き起されたのではありますが」(第5039号A),10)と。〉 (247-248頁)

   ウィルソンは10%もの高い利子率を生じさせているのは「資本」への強い需要であって、「貨幣」へのそれではないという立場から、チャップマンに執拗にそれを認めさせようと質問を繰り返しているのであるが、しかしチャップマンは商業実務家として堅実に正しい回答を繰り返している。この論争でも明らかなように、逼迫期に流出する地金は「資本」なのか、それとも「貨幣」なのかという問題は一つの論争問題だったわけである。
   マルクスは。それは貨幣資本(geld Capital)という規定性をもってはいるが、しかしそれは植民地など諸外国に新たな資本を投下するための資本としての地金の輸出ではなく、すでに行われた取り引きを最終的に決済するための国際的な支払手段として機能するために出て行く地金輸出であり、だからこの場合も資本という形態規定性そのものが、それが出て行く原因としては意味がないこと、それはやはり支払手段という貨幣規定(機能)によって出て行くのだと述べている。
   なおチャップマンは、地金の流出そのものは、国内の流通媒介物には影響しないという正しい意見も述べている。国際的な支払手段そのものは、決して「通貨」という規定性をもっているわけではない。「通貨」はあくまでも国内的な(国民的な)規定性だからである。】


【56】

  こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢僅,等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accommodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この問題には他の諸点を片付けたのちに立ち返る。|

   ①〔異文〕「}」という書きかけが消されいる。〉 (146-147頁)
 
   このパラグラフも【55】パラグラフに続くものである。平易な書き下し文を書いておこう。

  〈地金の流出の場合には、その流出の原因はともかく、地金そのものは貨幣資本(geld Capital)という規定性を持っています。しかしこうした地金の需要を度外視しますと、そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している、と言うことはできないのです。むしろ現実は反対なのであって、市場では商品資本が供給過剰になっているのです。「商品資本」は市場にあふれています。だから、逼迫の原因は、とにかく「商品資本の欠乏」ではないのは明らかです。{もっとも穀物騰貴や綿花飢饉、等々のような異常な事情のもとではそういうこともありえます。その場合は、商品資本としての穀物や綿花への需要が顕著なのは明らかだからです。しかしそれは、けっしてこういう逼迫期の必然的な、または通例の付随現象ではありません。だから、貨幣融通にたいする圧迫が存在するからと言って、このような商品資本の欠乏の存在を結論することはできないのです。}しかしこの問題には他の諸点を片付けたのちに立ち返ることにしましょう。〉

  【ここでは、マルクスは〈こうした地金の需要を度外視すれば〉と述べ、その前のパラグラフで検討した〈地金の需要〉の場合は、その限りではそれは貨幣「資本」に対する需要でもあるとしている点に注意が必要である。だからそうした国際的支払手段に対する需要(だからそれは貨幣「資本」に対する需要である)を「度外視すれば」と述べている。つまり国際的支払手段に対する需要を度外視すれば、逼迫期に「資本」が不足しているといったことはないというのである。もちろん、国内流通における支払手段も資本家にとっては貨幣資本(geld Capital)という規定性を持っていることは明らかである。しかし支払手段としての貨幣資本以外の商品資本や生産資本は過剰になっているとマルクスは言いたいのである。ただ穀物や綿花の不作で、穀物騰貴や綿花飢饉が生じるような異常な事情のもとでは、確かに穀物や綿花というその限りでは商品「資本」の不足が生じることになるのだが、そうした農作物の不作と逼迫期が重なるというのは偶然であって、決して逼迫期の必然的な付随現象ではないとも指摘している。だから支払手段に対する貨幣融通に対する圧迫から、一般的に逼迫期ににおいて「資本の欠乏」をいうのは間違いである。むしろ「資本」(商品資本)は市場に溢れているのだというのが、マルクスの言いたいことである。

 マルクスは『経済学批判』では次のように述べている。

 〈つまり、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としての金の特有な機能から生じるのである。同様に金が、またはそのかわりの銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌が明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。〉 (草稿集第3巻428頁)

 このようにマルクスは、国際商業と同様に、国内商業でも支払手段として機能する貨幣は、同時に資本でもあると指摘している。しかし、商品の形態での資本は、逼迫期に明確になるように、金または銀行券の代わりをすることは出来ないのであり、だから貨幣が支払手段になるのは、その資本としての定在によるのではなく、商品と区別された貨幣としての定在においてなのである。このような意味で、それは支払手段なのであり、だからそれは「資本の問題」ではなく「貨幣の問題」だと言い得るのである。】

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   以上が、マルクスが一固まりにして第28章該当部分(「Ⅰ)」)のなかに挿入すべきとした三つのパラグラフの内容である。ではそもそも【54】~【56】の三つのパラグラフのあるべき位置はどこがふさわしいのであろうか。それについてはすでに【46】パラグラフの本文のあと、【52】パラグラフの本文の前に挿入されるのがよいとすでに答えておいた。それを実証するために、まず【46】と【54】と、次ぎに【56】と【52】をそれぞれ並べて書いてみて、その繋がりを考えてみよう。
  まず【46】と【54】である。

  【46】〈購買手段としてのCirculationが減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculationが増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulationは増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラートン等々は,支払手段としての銀行券のCirculationがこのような圧迫の時期の特徴だということを示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculationと言うべきであろう)〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」a) /〉 (141-142頁)
  【54】〈さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような逼迫の時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは一つの論争である。〉 (145頁)

 次は【56】と【52】との繋がりである。

  【56】〈こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢僅,等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accommodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この間題には他の諸点を片付けたのちに立ち返る。〉 (146-147頁)
  【52】〈支払の連鎖が中断されたときに,貨幣がそれのたんに観念的な形態から,諸商品に対立する,物的で同時に絶対的な形態に転回することは,すでに貨幣を考察したところで(支払手段の項目のもとで)論じておいた。この中断そのものは,信用の動揺やそれに伴う諸事情,すなわち供給過剰の市場や商品の減価や生産の中断等々の,一部は結果であり,一部は原因である。〉 (144頁)

  このようにそれぞれのパラグラフを並べてみると、その繋がりを考えることができるのではないだろうか。だからもう一度いうと、【54】~【56】の三つのパラグラフのマルクスの挿入文は【46】パラグラフの本文のあと【52】パラグラフ本文の前に、つまり【46】パラグラフと【52】パラグラフの間に挿入すべきであって、エンゲルスや大谷氏のように(小林氏も同じだが)、ただ機械的に第28章該当部分の末尾にくっつければよいというものではないと考えるのである。

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◎ 第28章該当部分の草稿解読のまとめ


  このあと大谷氏のテキストでは、エンゲルスによる挿入文が二つ紹介されているが、その検討は後回しにして、とりあえず、検討が終わった第28章該当部分(「Ⅰ)」の草稿)全体の纏めのようなものを書いておこう。


●各パラグラフごとの概要


  まずは全体の構成を考える前に、各パラグラフ(といってもわれわれが任意に設定したパラグラフであるが)ごとにその概要とポイントを書いてゆくことにしよう。ただし、エンゲルスと大谷氏が第28章の最後にくっつけた【54】~【56】パラグラフはおそらくマルクス自身はそこに挿入すべきと考えていたであろうと思われる【46】パラグラフと【52】パラグラフの間に入れてみることにする。また実際には「Ⅱ)」のなかにあるが、「Ⅰ)」の結論部分であると判断される部分も入れておくことにする。

【1】表題(これは大谷氏がつけたものである。)

【2】冒頭のパラグラフ。ここではマルクスはトゥック、ウィルソン等々がしている通貨と資本との区別は、次の二つのことに帰着する、と述べながら、銀行学派たちの通貨と資本との区別に対して、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本(geld Capital)と、利子生み資本(moneyed Capital)とのあいだの諸区別を対置している。
  通貨と資本との区別というが、通貨は貨幣の抽象的な機能であり、資本はより具体的な形態規定性である。この両者の抽象度の相違について、もちろん、銀行学派は無頓着である。マルクスの指摘する諸区別について言うと、鋳貨としての流通手段(狭い意味での流通手段)、貨幣(蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣)は貨幣の抽象的な機能であり、通貨は鋳貨としての流通手段と支払手段とを併せたものをいう。これらは『資本論』の第1巻の冒頭篇で明らかにされているものである。貨幣資本(geld Capital)は商品資本や生産資本とは区別される資本の循環過程の一形態であり、これは『資本論』第2巻で取り扱われている。利子生み資本(moneyed Capital)は再生産過程外の貨幣の運動形態であり、『資本論』第3巻で取り扱われている。
  しかしマルクスはこの「Ⅰ)」では、銀行学派の主張する「通貨」と「資本」という用語をそのまま使い、彼らの主張を内在的に批判して、その矛盾や齟齬を暴露して、その混乱を指摘するのみで、明確にマルクス自身の諸区別を対置する形では批判を行っていない。それがこの部分の解読を困難にしている大きな要因になっている。

【3】マルクスの付けた項目番号「Ⅰ)」のみ。

【4】このパラグラフは【2】を直接受けたものだが大変長い。そして主に三つの部分からなっている。

   (1) 【2】で指摘した銀行学派たちの通貨と資本との区別が帰着するとする〈次の二つのこと〉を論じている部分。
   (2) これから展開するものをa)、b)、c)にまとめた部分。
   (3)そしてその最初のa)について最初に論じている部分である。

   まず(1)について、〈次の二つのこと〉というのは 一つは収入の支出を媒介し、個人的消費者と小売商人とのあいだの流通を媒介するものを、彼らは「通貨」とし、資本の移転を媒介するものを「資本」としているということ、しかしそのことは結局は収入の貨幣形態を「通貨」とし、資本の貨幣形態を「資本」としているだけで、通貨と資本との区別とは言い難いことが指摘されている。
   次に(2)では、a)、b)については再生産過程内における通貨と資本との区別の混同について指摘し、c)では主に利子生み資本と関係する銀行の介在する過程における混同について論じている。a)はこの【4】パラグラフの後半部分から途中挿入文的なもの(【5】)も入るが【8】パラグラフまで、b)は【9】パラグラフのみ、ところがc)は【10】パラグラフから最後のまとめ部分(【45】~【53-3】)を入れればほぼ最後までになっている。a)、b)に比べてc)は桁外れに分量としては大きいが、これはそもそもこの「Ⅰ)」がマルクスが信用制度のもとでの利子生み資本の運動諸形態を論じることを前提に、その前にまずは銀行学派たちの混乱を指摘しておこうとしてはじめているものであり、その狙いはやはり銀行学派たちが「通貨」と「資本」との区別を言い立てて、通貨学派を批判しているが、果たして彼らが「資本」と述べているものは、利子生み資本という正しい概念にもとづいたものなのかどうか、ということがマルクスの最大の問題意識だからである。だから銀行学派たちが「資本」という言葉で何を述べているのかを徹底的に批判しておくことがここでの主要な課題なのである。その意味ではc)こそ、この「Ⅰ)」の主題と言っても過言ではないかもしれない。
   最後に(3)については収入の貨幣形態を「通貨」とし資本の貨幣形態を「資本」とすることにすでに混乱があると指摘し、貨幣の購買手段や支払手段という抽象的な機能とそれが収入や資本を表すかどうかというより具体的な役割との混同を指摘し、抽象的な機能はそれにどんなに具体的な形態規定性が加わろうと変わらないのだという重要な指摘がなされている。

【5】このパラグラフもa)に関連するが全体が括弧に入っている。小売資本にとって個人的消費者から受け取る鋳貨は、彼らの投下した資本の貨幣資本としての回収であり、そこには小売商人の資本・プラス・利潤が含まれていることが指摘されている。

【6】これは【4】パラグラフの後半部分を補足するもので、小売商人にとっては銀行学派たちが「通貨」としているものは、彼らにとっては彼らの資本を補塡するものであり、その意味では銀行学派の主張にならうなら「資本」というべきものであることが指摘されている。

【7】これもa)の項目に関連するが、直接その前のものとは関連せず、発券銀行業者は彼らの信用だけで発行する銀行券のうち流通にとどまっていて、彼らにとって紙と印刷費以外に費用のかからないものを「通貨」とし、それが銀行に還流してきて、帳簿上彼らの資本(自己資本あるいは借入資本)の貸し出しになるものを「資本」として区別するが、こうした区別は、先に流通を二つに分けて一方を「通貨」、他方を「資本」と区別するものとはまったく関係がないと指摘している。この部分では発券銀行業者の立場が論じられており、よってこの区別はc)で論じられているものと大きく関連している。

【8】このパラグラフはa)の締めくくりといえる。収入の貨幣形態と資本の貨幣形態は、確かに貨幣の素材的な相違をもたらす(前者では購買手段として鋳貨や少額銀行券が多く、後者では信用取引が多く、貨幣は支払手段として運動する)が、購買手段や支払手段は貨幣の抽象的な機能上の区別であって、通貨と資本との区別ではないとの指摘が結論的にいわれている。

【9】ここではb)が検討されているが、貨幣の流通量については、それが表すものが収入であろうが資本であろうが、とにかく貨幣が流通している限りではその量については、単純な商品流通を考察したときに論じた貨幣の流通の諸法則が当てはまるのだと指摘するのみで、銀行学派たちの混乱について具体的な紹介も批判もない。
  ただ【8】パラグラフと同様に、『資本論』の冒頭篇で明らかにされている貨幣の抽象的な諸機能や諸法則というものは、それらにどんなに具体的な形態規定性が加わろうともそれらには関係なく貫いているものであり、具体的な形態規定性によって抽象的な諸機能が変化させられるというようなことはないのだというマルクスの重要な指摘があることは確認しておくべきであろう。

【10】ここからc)の検討がはじまる。このc)というのは〈二つの機能で流通する,したがってまた再生産過程の二つの部面で流通する通貨(Currencies)の分量の相互間の相対的な割合に関する問題〉というものである。つまり、銀行学派が流通を二つにわけた両部面(「収入の実現」部面=第一部面と「資本の移転」の部面=第二部面)で流通する通貨の分量が繁栄期と反転期とでは、その相対的な割合が違うので、それを根拠に銀行学派がまたいろいろと混乱した主張を行っているという問題であった。

【11】それをマルクスはまず両部面における通貨が繁栄期と反転期ではどのように変化するのかを分析している。これは銀行学派の言い分にもとづいて、マルクス自身が分析を加えるといった形で展開されており、その限りではマルクス自身の分析である(しかし使っている言葉は銀行学派のものである)。

【12】これは【11】パラグラフを直接受けたもので、【11】パラグラフでは繁栄期における収入の実現という機能を果たす通貨の増加が検討されたが、ここでは同じ繁栄期における資本の移転という機能を果たす通貨の増減が検討されている。

【13】このパラグラフは繁栄期の分析のまとめといえる。繁栄期には全体として通貨は潤沢である(ただし流通の第1の部面では増加するが、第2の部面では収縮する)。

【14】このパラグラフは全体が括弧に入っており挿入文といえる。【12】パラグラフで繁栄期には信用がもっとも容易な時期であるという指摘に関連して、信用取引が過剰取引を生むことが指摘されている。

【15】このパラグラフから「反転期」あるいは「逼迫期」について論じているが、この恐慌期の検討はほぼ最後まで(【52】パラグラフのあと【53】~【53-3】パラグラフが全体のまとめであり、【46】パラグラフのあとに挿入された【54】~【56】パラグラフも含めて)続いていると言ってもよいであろう。

【16】このパラグラフは【15】パラグラフの補足的なもので、信用が優勢な時期は貨幣の流通速度は商品の価格の上昇よりも急速に増大するが、信用が減退するときは、商品の価格は流通の速度が落ちるよりもより緩慢に低下することが、以前の『経済学批判』を引用する形で紹介されている。

【17】このパラグラフは原注であり、【16】パラグラフで引用された典拠が示されている。

【18】このパラグラフから逼迫期の本格的な分析がはじまる。逼迫期には第一の流通に必要な通貨の総量は減少するが、第二の流通に必要なものは増加すると指摘し、それがフラートンらが言い立てている命題とどこまで一致するのかということを詳しく検討する必要があると指摘されている。

【19】これは本文であるが、フラートンからの引用だけである。フラートンの主張とは〈貸付資本にたいする需要追加の Circulation にたいする需要とはまったく別のものであって,両方がいっしょに現われることはあまりない。」〉というものである。

【20】このパラグラフは先の【19】パラグラフつけられた原注b)であるが、この原注は本文とほぼ同じ内容のフラートンからの引用(先の引用は『通貨調節論』の第5章の表題〔概要〕からだったのに対して、今回の引用は第5章の本文からのものである)がまず紹介されている。それは〈貨幣融通pecuniary accommodation〕にたいする(すなわち資本の貸付にたいする)需要追加流通手段means of circulationにたいする需要と同じだ,と考えること,あるいは両者はしばしば結びついていると考えることさえも, じっさい大きなまちがいである。」〉というものである。この原注b)はしかしこのパラグラフだけで終わらず、【23】パラグラフまで続いている。

【21】さきの【20】パラグラフのフラートンの引用を受けて、しかしこのことから貨幣融通にたいする需要が金(彼らが「資本」と呼んでいるもの)に対する需要と一致する必要があるわけではないということは次のことからもわかると指摘されている。つまり流通手段に対する需要と同じではないというが、しかしこのことからそれは金に対する需要に一致する必要があることを意味しないというのである。

【22】このパラグラフは先の【21】パラグラフで〈次のところからもわかる〉と述べられていたことを受けたもので、イングランド銀行総裁ヴェゲリンの証言が引用されている。巨額の手形割引(つまり貸し付け業務)が行われても同行の準備(すなわち金)には影響しないという証言がなされている。

【23】このパラグラフも【22】パラグラフと同じ主旨のもので、同じくヴェゲリンの証言で、毎日150万もの割引をしても、準備には影響しないことが証言されている。これで原注b)は終わる。

【24】ここからは本文であり、だからこのパラグラフは【18】、【19】パラグラフと直接つながっている。ただし最初にマルクスは〈まずもって明らかなのは,流通媒介物の総量が増大せざるをえない第1の場合には,この媒介物にたいする需要が増大するということである〉と〈第1の場合〉、つまり繁栄期について論じている。【18】パラグラフから反転期へと問題を転じたが、ここではフラートンらの主張と関連させる形で部分的に繁栄期について論じているのである。流通媒介物が増大すればそれに対する需要も増大するが、しかしそれは資本にたいする需要が増大するのではなく、ただ資本の特殊的形態である貨幣(現金)への需要という場合もあるというケースをあげている。

【25】このパラグラフは原注a)であるが、注番号が書かれているのみである。

【26】このパラグラフは本文であるが、ただ〈しかしフラートンの対置は正しくない〉という一文が掲げられているのみである。ここでマルクスがいう〈フラートンの対置〉というのは、〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要〉を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉していることである。それが〈正しくない〉理由が以下論じられている。

【27】ここでは貸し付けに対する需要の量が繁栄期を逼迫期から区別するのではなく、その需要の充足が容易か否かが両者を区別するのだと述べている。

【28】ここでは繁栄期と逼迫期とを区別するものは、繁栄期には商人と消費者とのあいだの通貨に対する需要が優勢で、反転期には資本家のあいだの取引のための通貨に対する需要が優勢だということ、そして反転期には前者が減少し後者が増加すると指摘されている。

【29】ここではフラートンらに対して決定的な役割を果たしているのは、イングランド銀行の有価証券が増加する(貸し付けが増加する)時期には同行の銀行券は減少し、反対の時期には反対だという現象だということだ、との指摘がある。

【30】このパラグラフは原注b)であるが、この原注b)は次の【31】パラグラフに続いており、しかも長い。このパラグラフでは〈フラ一トンのこの個所の全体を抜き出しておくことが重要である〉と述べ、その理由を〈彼がここで「資本」という言葉でなにを考えているかも示されているから〉だと述べている。〈この個所の全体〉というのはフラートンの著書の第5章の最後のパラグラフ全体ということであろう(しかしマルクス自身はパラグラフ全部を引用しているわけではないが)。

【31】このパラグラフは原注b)の続きで、フラートンの著書からの引用であるが、その間にマルクス自身の長いコメントが挟まれている。三つに分けて検討した。
  (1)まずフラートンからの引用は、【29】パラグラフで述べていたイングランド銀行における保有有価証券と銀行券の流通高との動向を確認し、それが地方銀行業者たちが強行に主張していることの例外ではないと述べている。つまり銀行券が普通の目的のために適合しているなら、それ以上銀行券を増加させることはできないのであり、それ以上の貸付はすべて自己の資本からなされねばならないという主張である。それがイングランド銀行で生じている事態と同じだというのがフラートンらの主張である。
  (2)マルクスは〈では,ここではなにを資本と言っているのか? 〉と問題を提起して、それは銀行が自分の資本(自己資本と借入資本)の貸し出しになることを「資本の貸し出し」と言っているだけだと指摘している。つまり利子生み資本という意味で彼らは「資本」と述べているのではないということである。そしてマルクスは結論的に〈どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである〉と述べている。
  (3)残りのフラートンからの引用部分は、最初の引用文でフラートンが述べていた現象(イングランド銀行の保有有価証券は、同行の流通高と同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことの方が多い)を具体的数値を上げて証明しているものである。

【32】ここからマルクスはイングランド銀行の貸し付けが増えてもその銀行券の流通高が増えないのはどうしてか、という問題を正面から論じている。このパラグラフはまずその前提として、イングランド銀行の貸付や割引はすべてイングランド銀行券で行うので、これらの銀行券がどうなるのか、ということが問題になると問題を提起している。

【33】ここからはまずイングランド銀行への貸付や割引の要請が国際収支の逆調から、つまり金地金の輸出の必要から生じている場合を論じている。この場合には、確かに銀行券はすぐに地金との交換のためにイングランド銀行に還流してくるので、そうした貸付がいくら増えても銀行券の流通高は増えない。しかしそれは果たして銀行学派たちの主張するように、その貸付が「資本の貸付」だからなのかとマルクスは問題を論じて、それは世界貨幣の貸付であり、その限りでは彼らがいうように「資本の問題」なのではなく貨幣の問題なのだと批判している。

【34】原注c)、フラートンの著書からの引用文の典拠を示すだけ。

【35】原注a)、これは【33】パラグラフの議会証言第348号につけられた原注で、商業的窮境. 1847-48年。とあり、マルクスの皮肉なコメントが付いている。

【36】このパラグラフは全体が{   }に入っている。同じ地金流出の問題だが、若干、フラートンらの主張に対する批判とは異なる問題だということであろう。ここではトゥックの発見として、為替相場の異常な低落は、すべて国内の流通媒介物の比較的少ない状態と一緒に起こったという事実を指摘している。そしてこれは通貨説のやつらの主張に対する最良の反駁だと指摘している。

【37】このパラグラフは〈さて,われわれは地金の流出を度外視しよう〉という一文からはじまっているが、依然として地金流出の問題が論じられている。ここでは国際的な流通・支払手段に対する需要は、国内の流通・支払手段にたいする需要とは違うこと、貴金属の国外輸出は、国内の流通への銀行券や鋳貨の投入とは同じではないということが明言されている。ただ蓄蔵貨幣のさまざまな機能が一つの準備ファンドに負わされために、事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくこともありうること、さらにさまざまな準備が一つの主要銀行に集中され、しかもそれが最低限に縮小されることからさまざまな不安要因になることが指摘されている。そして最後に〈では,地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,どのようにしてであろうか〉と問題を提起して次のパラグラフからの検討の課題を示している。

【38】ここでは【37】パラグラフの最後に述べた問題を検討するために、まずはイングランド銀行券は、同行の外にある場合、それが私人の金庫のなかで眠っていようが、同行にとっては流通のなかにあるものとされること、だから流通高を増やさずに貸付を増やすためには、貸付で発行された銀行券が同行に還流しなければならないが、それは二つの仕方で起こりうることが指摘されている。

【39】ここでは二つの仕方でイングランド銀行券が同行に還流する一つ目の仕方(第一に)が検討されている。これは貸し付けた銀行券が預金として還流してくる場合である。結局、この場合は最初の信用だけによる銀行券による貸付は、預金による貸付、すなわち自分の資本(借入資本)による貸付に帰着し、イングランド銀行の元帳の立場からでは「資本の貸付」になるが、しかし最初の貸付がすぐに還流したのは「資本の貸付」になったからではなく、それが支払手段に対する貸付だからすぐに預金として還流してきたのだとマルクスは指摘している。

【40】ここでは第2の仕方が検討され、この場合は貸し付けられた銀行券がイングランド銀行への満期手形の支払いとして還流してくる場合である。この場合は、銀行学派たちの主張する「資本の貸付」という様相さえなくなることが指摘されている。以上がイングランド銀行における貸付が、銀行券の流通高の増大なしに、増大しうるために、貸し付けられた銀行券がすぐに還流してくるケースの検討である。

【41】ここでは地方の発券銀行の場合の違いについて述べている。ここでは地方銀行券の場合には、イングランド銀行券の場合とは異なり、逼迫期には兌換要求に応じる必要が生じることが指摘されている。またイングランド銀行の場合には、銀行券の流通高がその制限の最高限度に達している場合には(だから発行限度額が法定されているすべての発券銀行にもいいうることであるが)、イングランド銀行券を流通から引き上げるために公的有価証券を売却する必要が生じるが、この場合、引き上げられた銀行券が貸し付けられる場合は確かにその貸付は同行の銀行業資本の一部からの貸付になると指摘している。

【42】これまではイングランド銀行券にしろ地方の発券銀行の銀行券にしろ、銀行券が問題であったが、たとえ銀行券がなくて純粋な金属貨幣だけが流通していたとしても、銀行学派たちが主張するような現象は生じることが指摘されている。

【43】今度も銀行券を一枚も必要としない帳簿信用による貸付の場合が検討されている。この場合もやはり銀行学派たちが主張するような元帳の立場からは「資本の貸付」になることが指摘されている。

【44】ここでは銀行学派たちがいうように、銀行に貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというなら、それはただ銀行業資本、つまり銀行業者の立場からみての資本であるものに対する圧迫だということにすぎないことが指摘されている。ここでは、いわば銀行学派たちの主張の批判を結論的に述べているといえる。

【45】このパラグラフはこれまでのc)で検討してきたことのまとめである。それは次のようなものである。〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである

【46】このパラグラフは【45】パラグラフに続けて書かれている。逼迫期にはたとえ一時的とはいえ、支払手段としての銀行券の流通高が増大するので総流通高が増大することもあることが指摘されている。

【47】このパラグラフは原注a)として、【46】パラグラフで引用されていたフラートンの著書の典拠を示すためのものだが、それと同時に関連する議会証言や著書からの引用がなされており、だからこの原注a)そのものは【51】パラグラフまで続いている。

【48】原注a)の続きで、「商業的窮境,1847-1848年。」から議会証言が引用されたあと、マルクスのコメントが付いている。証言では逼迫期には信用に不安が生じて一般的な退蔵が生じることが指摘されている。それに対するマルクスのコメントは、このような場合に国立銀行にとって流通高として現れるのは、中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散であり、このような時期に人為的に銀行券の欠乏を作り出す投機的操作が行われることを指摘している。

【49】このパラグラフも原注a)の続きで、直接【48】パラグラフのマルクスのコメントのなかで人為的に銀行券の欠乏を操作する投機師の具体例としてヘンリー・ロイ『為替の理論』からの引用が紹介されている。

【50】これも原注a)の続きであるが、【49】パラグラフと同じ主旨の引用が『ジ・オブザーバー』からなされている。

【51】これも原注a)の続きで、これで原注a)は終わっている。これもこれまでと同じように恐慌時には貨幣の退蔵のために預金の引き出しが生じたことが議会証言として述べられている。

…………(挿入)

【54】いったいこのような逼迫期に足りないものは「資本」なのか、それとも「支払手段」である「貨幣」なのか、とマルクスは問題を提起し、これは論争問題だとしている。

【55】まず逼迫が地金流出として現れる場合は、要求されるのは国際的な支払手段であり、それは確かに貨幣資本だが、しかし支払手段という貨幣の機能が問われていることを指摘している。

【56】地金の流出を除けば、逼迫期に「資本」が不足しているなどということはできないこと、反対に市場は商品資本で溢れているのだと述べている。

………… (挿入おわり)

【52】恐慌時にそれまでの信用主義が重金主義に転化することはすでに貨幣の支払手段を考察した時に論じておいたことが指摘されている。

【53】このパラグラフも全体のまとめの一つであり、フラートン等が貨幣の「購買手段」と「支払手段」との区別を「通貨」と「資本」との間違った区別に転化させていることを指摘し、その根底にはまたしても「流通」についての銀行業者の偏狭な観念があると指摘している。

【53-1】これも結論であるが、【53】パラグラフと基本的には同じ内容である。

【53-2】銀行学派たちの主張は、結局は、貨幣をとりわけ優れた意味での「資本」だと教え込むことになっていると指摘されている。

【53-3】ところが彼らは、そうすることによって貨幣資本(geldcapital)を「利子生み資本」という意味での貨幣資本〔moneyed Capital〕と混同しているのだとしてしている。ここでようやく冒頭のパラグラフで指摘していた貨幣資本(geld Capital)と利子生み資本(moneyed Capital)との区別の問題が出てくるが、詳しい展開はなく〈もっとあとの研究で明らかにする〉と述べているだけである。

  以上がこれまでの各パラグラフの概要である。それにもとづいてこの第28章全体(マルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打った部分全体)の構成を見てみることにしよう。

  (以下、続く。)

 

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