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2022年3月

2022年3月28日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-17・最終回)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-17・最終回)

 

 ● 第28章該当部分の草稿(マルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打った部分)全体の構成


   (1) まずこの「Ⅰ)」全体の位置づけを確認することから始めよう。マルクスはエンゲルス版第27章該当部分の草稿の最後の方で次のように述べていた。

  〈これまでわれわれは主として信用制度の発展{そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な〔latent〕止揚}を,主として生産的資本に関連して考察してきた。いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移るが,そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない。〉 (大谷新本第2巻299-300頁)

 ここでマルクスが〈なお若干のとくに経済学的な論評を行な〉うと述べているのが第28章該当部分(「Ⅰ)」の部分)である。つまり銀行学派が通貨学派との論争のなかで主張している問題を批判的に取り上げて検討するということである。しかしこの〈経済学的な論評〉も〈利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移る〉ためのものであり、〈そのさい総じて〉問題になる銀行学派の主張を事前に取り上げて批判的に検討するのだと述べている。つまりこの「Ⅰ)」の部分も利子生み資本そのものの考察の一環であり、そのための、あるいはその前提、あるいはその準備としての、銀行学派の混乱の批判であるという理解が必要であろう。

   (2) ところがそういう「Ⅰ)」の位置づけを確認すると奇妙なことに気づく。というのは「利子生み資本」そのものの考察に移るといいながら、この「Ⅰ)」では「利子生み資本」という用語は冒頭のパラグラフで次のように使われたあと、最後のパラグラフで使われるのみなのである。まず冒頭のパラグラフを何度も引用することになるが確認のために引用しておこう。

 〈卜ゥック,ウィルスン,等々がしている,Circulation(通貨--引用者)と資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが〔)〕,次の二つのことに帰着する。〉 (97-98頁)

   そして最後のパラグラフというのは次のようなものである。

  〈ところが、もっとあとの研究で明らかにするように、そのようにして「貨幣資本〔Geldcapital〕」が「利子生み資本」の意味での「moneyed Capital」と混同されるのであって、前者の意味では資本はつねに、それ自身がとる「商品資本」および「生産資本」という形態とは区別されたものとしての「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのである。〉 (160-161頁)

   このパラグラフそのものは「Ⅱ)」とマルクスが項目番号を打っている部分にあるのであるが、実は「Ⅰ)」の結論的部分だというのが私の理解なので、とりあえず「Ⅰ)」の最後のパラグラフとしたものである。ここでマルクスが〈「貨幣資本〔Geldcapital〕」〉と述べているのは、冒頭のパラグラフの〈貨幣資本と〉と書かれているものと同義であることは明らかである。つまりここで初めて、マルクスは冒頭で指摘した〈貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの〉区別が、銀行学派によって〈乱雑に混同され〉ていることを指摘しているのであるが、しかしそのことは〈もっとあとの研究で明らかにする〉予定だというのである。

   つまりマルクスは〈利子生み資本そのもの……の考察に移る〉と言いながら、実際の銀行学派の批判のなかではこの肝心要の「利子生み資本」という用語をまったく使わずに論じているのである。というのは、マルクスはこの銀行学派の批判のなかで明らかにしようとしたのは、彼らが「資本」と述べているのは果たしてどういう意味でそう述べているのかを明らかにすることだからである。彼らが「資本」と述べているは、果たして「利子生み資本」という意味で述べているのかどうかを検討することがその主要な課題の一つなのである。だからとりあえずマルクスは銀行学派が使っている「資本」という用語をそのまま使い、その上で、それでも彼らの混乱と自己撞着は明らかだとして批判しているわけである。
   こうした銀行学派が使っている用語をそのまま使いその上で彼らの主張の自己撞着や矛盾を突いてその混乱を指摘するという手法をマルクスはこの銀行学派の批判の中では使っている。そしてこのことがこの第28章該当部分の草稿の理解を著しく困難にさせ、エンゲルスをはじめ多くの人たちを惑わせることになっている。しかもこうした手法をとることについてマルクス自身はまったく言及していないし、ほのめかしてもいないのである。敢えて、それを類推させるものは、すでに述べたように、冒頭のパラグラフで〈鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別〉と述べながら、肝心の「Ⅰ)」のなかではこうした諸区別を銀行学派たちの主張に対置することはほとんどせずに批判を展開しているということであろうか。こうしたことからマルクスはまずは銀行学派たちが使っている用語をそのまま使い、それが実際にはどういう意味でそれらの用語を彼らは使っているのかを明らかにしていくという手法を取ったと考えられるのである。ただそうしたほとんど手がかりとはいえないものを手がかりにして類推するしかない方法をとっているのである。しかしこれだけの手がかりでマルクスの方法を理解せよというのはどだい無理な話で、エンゲルスをはじめ多くの論者を惑わせることになったのである。
  そしてこの点では大谷氏も例外ではない。大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻の最初のあたりで〈第8章「流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(エンゲルス版第28章)に使われたマルクス草稿について〉と題してマルクスの草稿を紹介する前に長い解説を書いている。その中の〈5 フラートンは「資本」という語でなにを考えているのか〉という項目のなかで最初はわれわれのパラグラフ番号で【31】の原注として紹介されているフラートンの著書からの引用を紹介するが、突然〈この先のマルクスの記述を理解しやすくするために,この「Ⅰ)」に続く「II)」(エンゲルス版第29章部分)でマルクスが「銀行業者の資本」について説明しているところをあらかじめ見ておこう。〉(36頁)と述べて、後の「Ⅱ)」部分の解説を先行させて長々と論じている。これは恐らくこの「Ⅰ)」で述べている銀行業資本(Banking Capital)が「Ⅱ)」で使っている同じ用語、すなわち〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)〉(大谷本第3巻163頁)と意味が違っていると考えているからであろう。だからあらかじめ「Ⅱ)」の内容を確認しておいた方がよいと考えたのである。それが証拠に、大谷氏は、すでに何度も紹介したが、注9)で次のよう書いている。

 〈9)マルクスは「譲渡された銀行業資本」と言っているが,第1に,譲渡されたのは準備有価証券であって,資本そのものが譲渡されたのではない,という意味で,第2に,ここでの資本は,「他人資本」である「預金」を指しているのではないので,「銀行業資本」ではなくて「銀行資本」とすべきところだ,という意味で,この表現は適切ではない。〉 (52頁)

   同じことは小林賢齋氏も考えていて、小林氏はマルクスは混乱しているとまで断じているぐらいである。
   しかしこうした主張もこの「Ⅰ)」でマルクスがとっている手法に対する無理解からくるものである。確かに「Ⅱ)」のなかではマルクスは銀行業資本〔banking capital〕を預金とほぼ同じ意味で借入資本と並べて使っている(しかし時にはイングランド銀行の銀行部の準備としてある銀行券を〈この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕であり,また同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもある〉(190頁)という形でも使っている)。しかし「Ⅰ)」では同じBanking Capitalでもそれとは違った意味をもたせて論じているのである。というのはマルクスは「Ⅰ)」では銀行学派たちが使っているものをそのままの意味を持たせて使っているのであって、だからこそ【44】パラグラフで〈銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)とわざわざそれを説明しているのである。つまり「Ⅰ)」における銀行業資本(Banking Capital)というのは銀行業者たちにとって彼らの元帳の立場から自分の資本(自己資本と借入資本)の持ち出しになるものを指しているのであって、それを彼らは「資本の貸付」などと述べているのである。確かに「Ⅱ)」では、銀行業資本を他人からの借入資本(預金)、あるいは本来の銀行の営業を営むための資本を意味するものとしてマルクスは使っているが、それと「Ⅰ)」の銀行学派たちの主張しているものをそのまま使っているものとを混同してしまうと、マルクスは混乱していると小林氏のように断罪することになってしまうわけである。
   だからこうしたマルクスの手法を確認することはこの「Ⅰ)」の部分を正確に理解する上で極めて重要なポイントということが出来るであろう。

   (3) ではマルクスは銀行学派批判をどのように展開しているのかを見てゆこう。マルクスは彼らが「資本」という言葉で何を意味させているかを最終的に明らかにしようとしている。それを最終的に論じているのが、【31】パラグラフの原注b)のなかの次の一文である。

  〈どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである。〉 (122頁)

   つまり銀行業者は手形割引で銀行券を貸し付けても、それがすぐに還流してきて、預金やあるいは自身の債権の持ち出しに帰着する場合、彼らの元帳の立場では、資本の貸付になることを「資本の貸付」と呼んでいるだけなのである。銀行券のように銀行の信用だけで発行して、紙と印刷費しか費用がかからない貸付が、その銀行券が還流してきて彼らの資本の持ち出しに帰着することを、彼らは「資本の貸付」に転化するといっているだけなのである。彼らのいう「資本」とはそういう意味でしかない、というのがマルクスの言いたいことである。だから銀行学派たちがいう「資本」も、銀行業者の立場からみて自分の資本(自己資本や借入資本)の貸し出しになるものを「資本」と言っているだけで、概念的に「利子生み資本」を正しくとらえたものではないというのがマルクスの一連の考察の結論なのである。

   マルクスはこうした考察を行う前提として、まずは銀行学派たちが通貨学派を批判して主張している通貨と資本との区別を問題にしている。通貨学派は、金鋳貨と紙券(銀行券)が混在して流通している場合には、紙券(銀行券)が過剰に発行されるために、リカードが主張した金属貨幣がもっている自動調節作用が働かなくなり、貨幣価値が下落して金の流出や恐慌を招くことになる。だから銀行券の発行をイングランド銀行の金準備にリンクさせて制限する必要があると主張した(それが政策として具体化したのが1844年の銀行条例である)。それに対して、銀行学派は銀行券は通貨学派が主張するように恣意的に増大させることはできないのだ、通貨はそれが通常の必要に適応しているなら、それ以上に銀行券を発行してもそれらはすぐに銀行に還流してきて資本の貸付になってそれ以上に増加させることはできないのだ。だから通貨学派の主張するようなことは起こらない等々と批判したのである。つまり銀行学派は、貸付資本の需要と追加の流通手段への需要とはまったく別の問題だ、通貨学派は「資本の問題」と「貨幣の問題」とを混同しているのだ等々と批判したわけである。

   これに対してマルクスは、まず通貨と資本との区別について、銀行学派がスミスに倣って流通を収入の流通と資本の流通の二つにわけ、収入の流通を媒介するものを「通貨」とし、資本の移転を媒介するものを「資本」としていることについて直接的な批判を加えている。銀行学派たちはふたつの流通部面で流通する貨幣の素材的な違いに目を奪われてそれらの形態規定性を理解することができない。収入の流通を媒介するものは素材的には鋳貨か少額の銀行券であるが、しかし形態規定性で見るなら、それは購買手段(流通手段)である。しかしそれは個人的消費者たちから見た場合であって、小売商人からみればその同じ鋳貨や少額銀行券は彼の商品資本の実現形態であり貨幣資本なのである。そしてその限りでは彼らがいうところの「資本の移転」を媒介している。商人同士のあいだを流通する貨幣についても、形態規定性で見れば、抽象的にはそれらは購買手段として流通する場合もあり(現金取引がされる場合)、あるいは支払手段として流通するケースもある(信用取引の決済として)。確かに商人のあいだでの取引では信用取引が優勢で貨幣は姿を消して、素材的には手形や小切手等々が目につく、そして貨幣としてはただ支払手段として機能する場合だけである。だから彼らは購買手段を通貨とし、支払手段を資本とする間違いに陥っているわけである。

   (4) マルクスはフラートンの著書の批判を通して銀行学派たちが「資本」と述べているのはどういう意味かを明らかにしている。フラートン等はイングランド銀行が貸付を増大させ有価証券の保有高を増加させても、銀行券の流通高が増えるどころか減っている場合もあることに注目して、これは自分たちの主張を裏付けるものだと考えている。だからマルクスはそうしたフラートンらの主張が逼迫期に第一の流通(収入の流通)では通貨が減少し、第二の流通(資本の流通)では増加するが、そのことがフラートンらの主張と一致するのかどうかを詳しく検討するとしている。
   フラートン等は、イングランド銀行の貸付が増えて(だから銀行券がそれだけ増発されても)、実際の銀行券の流通高が増えずに減っているのは、地方の銀行業者たちが強行に主張していること(それは同時に銀行学派の主張でもあるのだが)が、イングランド銀行のケースも例外ではないこと、つまり銀行学派の主張が一般的に正しいことを示しているのだというのである。それはすでに述べたように、銀行券の流通を銀行が恣意的に増加させることはできない、銀行券がすでに通常の目的に適合しているなら、それ以上の発行は、すべてすぐに銀行に還流して「資本の貸付」に転化するからだというものである。
  これに対してマルクスは、地方の銀行業者が銀行券で貸付ができないのは、彼らの主張とは異なり、逼迫期には信用が収縮して、地方の銀行券では信用がなく、こうした時期に銀行に貸付を要求してくる事業者は支払手段を求めてくるのだから、だから支払手段として使える金か法貨としてのイングランド銀行券しか受け取らないからである。そしてそのために地方の銀行業者たちはその顧客の需要に応えるためには、手持ちの有価証券を売却して金かイングランド銀行券を手に入れることになるが、しかしそのことは結局、彼らの元帳の立場からは、自分の持ち出した資本(有価証券)で顧客に貸付を行ったことになるということでしかない。彼らが「資本の貸付」に転化すると述べているのは、ただ信用だけで発行し何の費用もかからない銀行券ではなくて、自分の資本の持ち出しになるという元帳の立場から主張しているだけのことである。銀行学派がいう「資本」とはそうした銀行業者的な意味でしかないことをマルクスは結論として述べているのである。
   以上で、少なくとも「Ⅰ)」の主題として設定した銀行学派たちが主張する「資本」というのはどういう意味なのか、それは果たして概念的に正しい「利子生み資本」という意味なのかどうかという問題については結論が出たのである。

   (5) しかしこの「Ⅰ)」では、それ以外にも重要な問題が論じられている。

   (1) まず『資本論』第1部第1篇で明らかにされている貨幣の抽象的な規定性や諸法則は、それにどんなに具体的な形態規定性が加わろうと、それに影響されることなく貫いているのだということである。具体的な形態規定性によって抽象的な規定性や諸法則が影響され、変容させられるなどということはないという指摘は極めて重要である。なぜなら、人によっては現代の資本主義では貨幣は金との繋がりを失くし、それ自体が変容してしまっている。だから商品の価格もわけのわからないものになってしまった、等々と論じている人もいるからである。
   (2) 次に準備金を構成する蓄蔵貨幣について、それが国立の銀行の準備として集中されることや、しかもそれが常に必要最低限に減らされる傾向があること、その上でその準備が兌換や預金の支払いの準備をも兼用することによって信用の軸点としての役割をもたされ、だからその準備金の微妙な増減が、大きな信用不安を引き起こす等々という指摘がなされている。これも後に第35章該当部分で論じられていることでもあるが、ここで先行して論じられている。
   (3) もう一つは帳簿信用について論じていることである。後にマルクスは預金の振替などを前提して論じている部分が多くあるが、それを帳簿信用として論じているのは、ここぐらいであろう。(ただし第25章該当個所で、マルクスは貸付の一形態として当座貸し越しというものを上げている。また銀行が与える信用のいくつかを挙げているが、その中に「銀行信用」というものがある。これらは帳簿信用とほぼ同じと考えられるが、そこではそれらについては何も論じていない。)

   以上がマルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打ったところで論じている主な内容である。


 ● エンゲルスによる二つの長い挿入文の検討


   このあと大谷氏の著書では、補注1と補注2という形でエンゲルスによる挿入文が紹介されている。それらについて必要な限りで考察を加えておこう。


  [補注1] エンゲルスによる挿入 1

  〈エンゲルスは,本書本巻97ページ4行目の最初の語である「トゥク」に長い注をつけている。それは現行版(MEW版)では次のようになっている。--
  「これに関連するトゥクからの引用は390ページではドイツ語の抜き書きで引用したが,それをここでは原文で挙げておこう。"The business of bankers,setting aside the issue of promissory notes payable on demand,may be divided into two branches,corresponding with the distinction pointed out by Dr.(Adam)Smith of the transactions between dealers and dealers,and between dealers and consumers.One branch of the banker's business is to collect capital from those who have not immediate employment for it,and to distribute or transfer it to those who have.The other branch is to receive deposits of the income of their customers,and to pay out the amount,as it is wanted for expenditure by the latter in the objects of their consumption...the former being a circulation of capital,the latter of currency."(Tooke,"Inquiry into the Currency Principle",p.36,〔前出,玉野井訳,79ページ〕) 前者は"the concentration of capital on the one hand and the distribution of it on the other"であり,後者は"administering the circulation for local purposed of the district"である(ibid,p.37,〔同前訳,79ページ〕)。--正しい見解にはるかに近づいているのは,次の箇所でのキニアである。「貨幣は,二つの根本的に違う操作を行なうために使用される。商人どうしのあいだでの交換の媒介物としては,貨幣は資本の移転が行なわれるのに役立つ用具である。すなわち,貨幣での一定額の資本と商品での同額の資本との交換である。しかし,労賃の支払いや商人たちと消費者たちとのあいだの売買に用いられる貨幣は,資本ではなく,収入である。すなわち,社会の収入のうちの,日常の支出に向けられる部分である。この貨幣は不断の日常的使用のなかで流通している。そして,ただこれだけが,厳密な妥当性をもってCurrencyと呼ぶことのできるものである。資本の前貸はまったく銀行やその他の資本所有者の意志にかかっている,--というのは,借り手はいつでも見つかるからである。ところが,currencyの額は,貨幣が日常的支出のためにそのなかで流通している社会の必要にかかっているのである。」(J.G,Kinnear,"The Crisis and the Currency",London 1847,[p.3,4〔藤塚知義・竹内洋訳『恐慌と通貨』,日本経済評論社,1989年,27ページ〕].)」(MEGA II/15,S.433;MEW25,S.458-459.)〉 (147-148頁)

   このあと大谷氏による解説が続いているが割愛する。というのはそれは一つは〈この注の最初の部分で,「これに関連するトゥクからの引用は390ページではドイツ語の抜き書きで示した」とされているが,ここでの「390」というページ番号〉は何の番号なのかといろいろと考証して、結局、〈じつは,1894年版の第3部第1分冊の390ページが,第25章のなかのトゥクからの引用のあるページなのである。現行版での「390ページ」という指示は,1894年版のページづけに合わせて,現行版の編集者がつけたものなのであった〉という結論なのであるが、まあ、いずれにせよどうでもよい話だからである。

   まず最初に英文で紹介されているトゥックの一文についてエンゲルスが第25章該当個所でドイツ語で紹介したとされる部分の大谷訳を紹介しておこう。

  〈「銀行業者の業務は二様のものである。すなわち,第1に,資本を直接に運用できない人びとからそれを集めて,それを運用することができる人びとに分配し移転することである。これは資本の流通である。もう一つの部門は,彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのに或る金額を必要とするときにそれを払い出すことである。これは通貨の流通である。」(トゥク『通貨原理の研究,云々』,第2版,ロンドン,1844年,36ページ〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,日本評論社,1947年,79ページ〕)「一方は,一面では資本の集中,他面ではその配分であり,他方は,それぞれの地方の地方的目的のための通貨の管理である。」(同前,91)37ページ〔同訳書,同ページ〕。)〉 (大谷本第2巻173頁)

   しかしこの両者を比べると果たして同じ部分からの引用なのかと疑うほどの違いがあるが、これはマルクスがトゥックの一文を〈要約・引用し〉(大谷本第3巻17頁)たものだからである。
   このトゥックの英文の一文は、マルクスが『61-63草稿』のなかで、自身の挿入文を入れて取り上げている次の一文がもっとも正確と言える。

  〈トゥックの次の文章はよい。
 「銀行業者の業務は、要求払の約束手形の発行を別にすれば、商人と商人とのあいだの取引と、商人と消費者とのあいだの取引というスミス博士の指摘した区別に対応する二つの部門に分けることができよう。この銀行業者の業務のうちの一部門は、資本を直接に使用しない人々から集めて、それを使用する人々に分配または移転することである。他の部門は、その得意先の所得から預金を受け入れて、彼らが消費対象への支出として必要とするだけの額を彼らに払い出すことである。前者は帳場のうしろの業務とみなすことができるであろうし、後者は帳場の前の業務ないし帳場での業務とみなすことができるであろう。というのは、前者は資本の流通であり、後者は通貨の流通だからである。」(通貨の流通と言うのは貨幣資本の第一の流通のことである。これは本来の流通ではなく、移転である。現実の流通はつねに資本の再生産過程の客観的な一契機を含んでいる。移転は、商業資本の場合にそうであるように、一方の人と他方の人との位置を取り替える。しかし、資本はまだ以前と同じ局面にある。それはいつでも貨幣の--または所有名義の--(あるいはまた商品の)一方から他方への移行であって、この貨幣が変態を経てきたということではない。そのほかになお、こうしたことは銀行業者の仲介によって行なわれる貨幣資本の貸付などによる移転についてもあてはまる。同様に、この移転は、資本家が彼の現金化した剰余価値を一部は利子生活者に、一部は地主に分配する場合にもあてはまる。この最後の場合は収入の分配であり、前述の場合は資本の分配である。ただ商業資本の一方の種類の商人から他方の種類のそれへの移転だけが、商品資本そのものを貨幣への転化に近づけるのである。) 「銀行業のうち一方では資本の集中と関係をもち、他方ではその分配と関係をもつその部門を、その地方の地域的な諸目的のための流通を管理するのに使用されるその部門から理論上区別したり分離したりすることは、非常に重要である……。」〈同前、36、37ページ〔玉野井訳、79ページ〕。)〉 (草稿集⑧318頁)

   ついでにマルクスが(  )のなかで論じていることを簡単に解説しておこう。マルクスは、トゥクが〈後者は通貨の流通だ〉と述べていることについて、〈通貨の流通と言うのは貨幣資本の第一の流通のことである。これは本来の流通ではなく、移転である〉と述べている。これはトゥクが銀行から顧客(消費者)への払い出しを〈通貨の流通〉と述べていることについて論じているのである。それは厳密な意味での「流通」ではなく、「移転」だとマルクスは言うのである。というのは流通というのは再生産過程の客観的な一契機を含んでいなければならないが、銀行からの消費者への預金の払い出しにはそうしたものはまったくない。だからそこには単なる所有名義の移転があるだけだというのがマルクスのいわんとすることである。そして同じような意味での移転は例えば利子生み資本の循環G-G-W…P…W'-G'-G'ののうち最初のG-Gと最後のG'-G'は利子生み資本の貸付と返済であり、再生産過程の外部の関係である。だからこれらも厳密には「流通」とはいえないとマルクスは述べているのである(これを見誤って、金融商品の「流通」のための流通貨幣量などというものを問題にしているのが大谷氏なのであるが。それに対する批判はここを参照)。それ以外にも産業資本家が獲得した利潤を、利子や地代として分配する場合にもこの「移転」に該当すると述べている。ただ商業資本の間の「移転」の場合は、それが最終的に貨幣資本に転化するのに近づける役割を持っているとも付け加えている。

   ところで大谷氏はこのエンゲルスの断りのない注について、それは読者を間違ったものへと誘導するものだと批判している(大谷本第3巻17頁以下)。というのはトゥクの引用では、「資本の流通」と「通貨の流通」とを銀行の二様の業務との関連で説明しており、キニアからの引用も同じものを類推させる。つまり〈読者は,マルクスはここで,銀行の存在やその業務にかかわらせて「資本の流通」と「通貨の流通」との区別を取り扱っているものと思い込むであろう2)。〉(同19頁)というのである。この注2)では久留間健氏がこの注をマルクス自身のものと思い込み同氏の著書『貨幣・信用論と現代』のなかで〈マルクスはこれらの引用を「銀行の役割」との関連で挙げているのだ,と読まれたうえで,マルクスのここでの考えを推論されている(同書,208-211ページ。)〉(同)のだと指摘している。
   しかしそのあとのマルクスの考察を跡づけるとそこではマルクスは銀行の介在を捨象して、再生産過程の内部での通貨と資本との区別を論じているだけだというのである。次のように述べている。

  〈ところが,マルクスが「次の二つに帰着する」と言っているトゥクでの「Circulationと資本との区別」は,これ以下でのマルクスの論述の内容を正確につかめば,それは銀行の業務にかかわるものではまったくなく,むしろ,銀行の介在を度外視した社会的再生産過程の内部での区別であることが判明する。〉 (19頁)

   確かに大谷氏の指摘は、上記の『61-63草稿』の(  )で括ったマルクスの挿入文の解説の中でも指摘したように、その限りでは一理ある。しかし、これもすでに最初の解読のなかでも指摘したが、それをことさら強調することはどうかと思うのである。というのは、マルクスはすでに【6】パラグラフで、つまりマルクスがa、b、cと分けて銀行学派の混乱の批判を展開しているaのなかで、すでに発券銀行業者の通貨と資本との区別について論じているのだからである。このパラグラフは冒頭のパラグラフに直接続くパラグラフのなかで論じられている混乱の指摘の一部をなすものなのである。それにそもそもマルクスが銀行学派の主張の批判的検討を行うことが必要だと考えたのは、彼らが通貨学派に対する批判のなかで、問題は「貨幣」の問題ではなく「資本」の問題だと強調しているところの「資本」の問題というのは、利子生み資本という意味での「資本」なのかどうかを厳密に検討しておく必要があると考えたからである。その意味では一連の考察においてはマルクスにとって銀行の介在は当然の前提なのだからである。

   さて、このエンゲルスの注については以前の解読のなかでも取り上げたのであるが、それをそのまま最後に再現・紹介しておくことにしよう。

  《まずトゥックの『通貨原理の研究』からの一文である。
 トゥックは通貨と資本との区別はアダム・スミスが指摘した商人と商人との取引きと、商人と消費者との取引きとの区別に照応するのだ、と述べている(ここでアダム・スミスが「商人」という場合は資本家のことであり、「消費者」とは最終消費者であり、生産的な消費者ではない)。つまり商人と商人との間を媒介するものは資本だが、商人と消費者との間を媒介するものは通貨だというのである。ただトゥックは銀行学派だからそこに銀行を介在させる。つまり銀行業者たちの業務としてそれを説明している。すなわち銀行業者たちの一方の業務は、資本をその直接の用途をもたない人々から集めること、およびそれを、用途を持つ人々に配分または移譲することである。他方の部門は顧客たちの収入からなる預金を受け入れ、顧客たちが彼らの消費目的で支出するために要求するだけの額を払いだすことである。前者が資本の流通であり、後者は通貨の流通である。これがトゥックが『通貨原理の研究』で言っていることである。
 次はキニアの『恐慌と通貨』の方である。エンゲルスは〈キニアは……正しい見解にずっと近づいている〉としているが、果たしてどうか?
 キニアの主張も基本的にはトゥックとまったく同じであることが分かる。つまりキニアも商人と商人との間で流通するものを資本とし、商人と消費者との間で流通するもの、つまり収入として使われるものは通貨だといっているにすぎない。トゥックとキニアの相違は前者が銀行の業務を介在させているのに対して、キニアはそうではないというだけの相違にすぎないのである。キニアが補足的に言っていることは、資本の前貸し、つまり投資はその所有者の意志によって決まるが、流通手段の額は、すべての人々の必要によって決まる、ということを言っているのみである。キニアが通貨の量が実際に流通する商品の価格によって定まると言っている限りにおいては正しい。
 しかしいずれにしても通貨と資本との区別として語る分では、トゥックとキニアには相違は無い。だからキニアの方が「正しい見解にずっと近づいている」などというエンゲルスの評価はまったく眉唾物である。》


  [補注2] エンゲルスによる挿入 2

  〈前出の脚注445で触れた,エンゲルスが「原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので,括弧の終わりまでは編者が新しく書き換えた」挿入部分(MEGA II/15,S,445-446;MEW25,S,472-473)は,次のとおりである。
  「この問題は前貸そのものの性質にかかっている。これについては三つの場合を検討する必要がある。
   第1の場合。--Aは銀行から前貸金額を彼の個人信用で,なにも担保を提供することなしに,受け取る。この場合には,彼は支払手段の前貸を受けただけではなく,無条件に新たな資本の前貸をも受けたのであって,返済するまではそれを自分の事業で追加資本として使用し増殖することができるのである。
   第2の場合。--Aは銀行に有価証券,すなわち国債や株式を担保に入れて,それと引き換えにたとえば時価の3分の2までの現金前貸を受け取った。この場合には,彼は自分が必要とする支払手段を受け取ったのではあるが,追加資本を受け取ったのではない。なぜならば,彼は自分が銀行から受け取ったよりも大きい資本価値を銀行に引き渡したからである。しかしこのより大きい資本価値は,一面では,それが利子を生むように一定の形態で投下されていたので彼の当面の必要--支払手段--のためには使えなかったのであり,また他面ではAにはそれを売って直接に支払手段に換えなかっただけの理由があったのである。彼の有価証券は,とりわけ準備資本として機能するべき任務をもっていたのであって,このようなものとして彼はそれを機能させたのである。そこで,Aと銀行とのあいだに一時的な相互的な資本移転が行なわれたのであり,したがってAは追加資本は受け取らなかったが(むしろ逆だ!)必要な支払手段を受け取ったのである。これに反して,銀行にとってはこの取引は貨幣資本を貸付金というかたちで一時的に固定すること,貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだったのであって,この転換こそはまさに銀行業務の本質的な機能なのである。
   第3の場合。--Aは銀行で手形を割引してもらい,そのかわりに,割引料を差し引いた金額を現金で受け取った。この場合には,彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり,まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物である。このことは,支払が行なわれない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては,少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって,これらの人々にたいしては彼自身が求償権をもっているのである。だから,ここにあるのは,けっして前貸ではなく,まったく普通の売買である。それゆえ,Aは銀行になにも返す必要はないのであり,銀行は満期日に手形の取立によって保証を受けるのである。この場合にもAと銀行とのあいだには相互的な資本移転が,しかも他のどの商品の売買の場合ともまったく同様に,行なわれたのであり,またそれだからこそAはなにも追加資本を受け取ってはいないのである。彼が必要として受け取ったものは支払手段だったのであって,彼はそれを,銀行が彼のために彼の貨幣資本の一方の形態--手形--を他方の形態--貨幣--に転化させてくれたことによって,手に入れたのである。
   こういうわけで,現実の資本前貸と言うことができるのは,ただ第lの場合だけである。第2と第3の場合には,せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけである。この意味では銀行はAに貨幣資本を前貸しするのであるが,しかしAにとってそれが貨幣資本であるのは,せいぜい,それが彼の資本一般の一部分であるという意味でのことでしかない。そして,彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである。もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう。--F.エンゲルス}」〉 (257-259頁)

   (1) まずわれわれはこのエンゲルスの挿入文がどこに入れられているのかを確認することから始めよう。それはイングランド銀行券が同行から貸し出されてもすぐに還流してくるがそれは二通りの仕方によってであるとして、第1は預金として還流する場合、第2は満期手形の支払として同行に還流する場合の二つのケースを考察した部分の後半の部分(【40】パラグラフ)の前半だけを少し書き直して残して、後半部分をすべてカットし、その代わりにエンゲルスのものという断りもいれずに、〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉と書いて、この一文に続けて、エンゲルス自身の編集者注であることを明記して、大谷氏が挿入文とした最初の一文、〈「原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので,括弧の終わりまでは編者が新しく書き換えたものである。別の関連ではこの点にはすでに第26章で触れている。」〉を書き、大谷氏が紹介している以下の挿入文を書いているのである。この点については、大谷氏は新本第3巻の冒頭の解説〈第8章 「流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(エンゲルス版第28章)に使われたマルクスの草稿について〉の〈10 無理解によるエンゲルスの書き加え〉で詳しく説明している(新本第3巻58-64頁参照)。

   (2) 次にわれわれはまずエンゲルスの断りのない書き入れを検討しよう。
 エンゲルスは〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉と書いているが、そもそもエンゲルスはイングランド銀行による前貸は同行にとっては利子生み資本(monied capital)という規定性をもっていることに気づいていない。〈どの程度まで資本の前貸とみなされ〉るかというが、そもそもこれは〈程度〉の問題ではないのである。イングランド銀行による前貸はすべてイングランド銀行券によってなされるが、それらはすべて利子生み資本という規定性を持っているのである。それが支払手段として役立つかどうかは前貸を受けた顧客の側の問題であって、イングランド銀行には直接には関係がない(それがすぐに還流してくるかどうかという形で間接的には関係があるが)。顧客にとってはそれはすでに投下した資本の還流を先取りするものであって、迫られている支払に応じるものだとしても、それは彼にとっては貨幣資本(Geld capital)の規定性を持っており(なぜならそれは彼の商品資本の実現形態である貨幣資本の先取りだから)、ただ現実の単純な流通においては支払手段として機能するだけという性格のものである。もし区別をいうならこうした区別を考えなければならない。

   大谷氏はこのエンゲルスの断りのない書き入れについて次のように批判している。

  〈マルクスはここで,エンゲルスが書き込んだ上の問題を問題として取り上げていたであろうか。明らかに否である。さらに範囲を拡大して,この部分を含む論述の流れのなかに,解くべき問題としてこのような問題が提起されていると考えられるであろうか。これにも否と答えなければならない。すでに見たように,そもそもフラートンにとっては「支払手段としての流通は流通ではない」のであって,フラートンの見地に立てば,「資本」と「支払手段」との直接的な対比はありえない。また,マルクスの見地に立てば,「支払手段」は「購買手段」と対比されるべきものであって,「資本」と「支払手段」とを直接に対比することにはほとんど意味をなさないのである。だから,マルクスが「Ⅰ)」の論述の流れのなかで,答えるべきものとしてこのような問題を--暗黙のうちに--立てていたとはとうてい考えられない。〉 (61頁)

   大谷氏のエンゲルス批判はあいまいである。そもそもエンゲルスはマルクスが「資本」と述べていることをそのまま理解している。しかしマルクスが「資本」と述べているのは、あくまでの銀行学派がそのように述べていることを引き継いでそのように述べているだけであるということが分かっていない。マルクスは銀行学派が「資本」と述べていることをそのまま使っているが、もしそれを科学的な概念に置き換えるなら、それはあるときは支払手段であるかもしれず、利子生み資本であるかも知れないのである。しかしマルクスはそうした科学的な概念を対置して銀行学派を批判していない。科学的な概念は、全体の冒頭に示したあとは、最後の締めくくりで述べているだけだからである。
   そしてまたエンゲルスは、銀行学派にとっては支払手段などという貨幣の抽象的な機能がまったく理解できていなかったということも分かっていない。もしそれを彼らが分かっていたら支払手段として機能する貨幣を「資本」などというはずもないのである。つまりエンゲルスのこうした問題提起そのものはこれまでのマルクスの論述を皆目理解していないことを暴露しているのである。そこらあたりが大谷氏によってきっちり指摘され批判されていないのである。
   大谷氏がここで〈そもそもフラートンにとっては「支払手段としての流通は流通ではない」のであって〉と書いているが、これは「支払い手段としての通貨は通貨ではない」と理解すべきところであるが、まあそれはついでに指摘したまでである。そのあと大谷氏はこうした断りのないエンゲルスによる書き込みが、多くの論者を惑わせてきたことを指摘しているが、それはまったくその通りであろう。

   (3) 次にエンゲルスの編集者注についてである。
   ここでエンゲルスが〈原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので〉と書いているのは、エンゲルスがマルクスの草稿をカットした残り半分のことであろう。われわれのパラグラフ番号での【40】パラグラフをもう一度紹介してみよう(エンゲルスが採用した部分とカットした部分が分かるように、その区切りに【/】を入れた)。

  第2に,AはBに支払い,そしてB自身か,またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは,この銀行券で同行に,直接または間接に,満期手形の支払いをする。この場合同行は,自分自身の銀行券で支払いを受けたのである。だが,この場合には取引はこれで終わっている{Aから銀行への返済だけを除いて}【/】のだから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが,それは,彼がのちに自分の還流金を,したがって自分の資本の一部分を,同行に支払わなければならないというかぎりでのことである。この場合,彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは,彼にとってまったくどうでもよいことである。というのは,彼は(銀行とは違って)なんらかの種類の商品資本を譲渡しなければならない,言い換えればなんらかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり,したがって金または銀行券を,それらの貨幣名に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては,この金または銀行券は資本の価値表現なのである。〉

   エンゲルスは【/】の前の部分を次のように少し書き換えている。

  第二に、AはBに支払い、そしてB自身か、またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは、この銀行券で銀行に、直接または間接に、満期手形の支払いをする。この場合には銀行は自分自身の銀行券で支払いを受けたのである。これで取引は終わっている(Aから銀行への返済だけを残して)。〉 (全集第25a巻581頁)

   つまりここで打ち切って、先の断りのない挿入文が行を変えて続くのである。だからエンゲルスが〈原典のなかのここに続く箇所は関連が理解できない〉と述べているのは、【/】以下の部分に関してである。
   ここではマルクスは銀行券が満期手形の支払いという形で銀行に帰って来た場合にはそれで取引は終わっており、だから銀行学派たちの主張するようなこと、すなわち銀行券が流通にするのに適合している場合には、それ以上の銀行券はすぐに帰って来て「資本の貸付」になるという主張を裏付けるようものになっていないことを指摘しているのである。マルクスが〈だから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである〉というのは銀行学派たちの主張のようにはなっていないということなのである。〈ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが〉というのは銀行学派たちが「資本の問題」だと述べていることへの当てこすりである。彼らは「資本の問題」というが、ここで資本が問題になるのは銀行にとってではなく、銀行から貸付をうけたAにとってだけである。だからそれは銀行業者的な意味での「資本」ではない。Aは銀行からの貸付に対して、自身の商品資本が実現されて貨幣資本として還流するのを待って、その還流してきた貨幣資本の一部を銀行への返済に当てる必要があるという意味で、彼にとっては「資本」が問題になるだけだ、とマルクスは述べているのである。
   ここらあたりがエンゲルスにとってまったく理解できなかったというのは、そもそもエンゲルスにはなぜマルクスが銀行にとって「資本の貸付」になるかどうかを詮索しているのかが分かっていないからであろう。だからこそ〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?〉などという何の断りもない訳のわからない一文を挿入したのであろう。マルクスが銀行券による貸付が銀行業者的な意味での「資本の貸付」になるかどうかを問題にしているのは、それは銀行学派たちが銀行券による貸付をいくら行っても、銀行券が流通に必要なもの以上であれば、すぐに銀行に還流してきて「資本の貸付」に転化するから銀行券は必要以上には流通しないと主張しているからである。つまり「資本の貸付」になるかどうか、しかし銀行業者的な意味での「資本の貸付」にるかどうか、というのは銀行学派たちの主張を裏付けるようなものになっているのかどうかをマルクスは検討しているのであって、それ自体が正しい理解だとマルクスが考えているからではないのである。ここらあたりがエンゲルスだけではなく、多くの人たちに誤解を与えている。

   大谷氏は、エンゲルスがカットした部分でマルクスは何を問題にしているかを次のように述べている。

  〈エンゲルスがカットした部分にはなにが書かれていたのか。さきにも見たように,マルクスは,もし「資本」が問題として残ると言うとしても,それは銀行にとってのことではなくて,銀行に債務を負っているAにとってだけだ,そして実物資本であるAにとって「資本」が問題であるのは,Aが資本の一部を貨幣の形態でもたなければならない,ということなのであって,それはフラートンが言うような「資本」問題ではないのだ,ということであった。〉 (60頁)

   ここで大谷氏が〈そして実物資本であるAにとって「資本」が問題であるのは,Aが資本の一部を貨幣の形態でもたなければならない,ということなのであって〉というのはマルクスの述べている主旨を正しく捉えているとは言い難い。Aが銀行に彼が借りた銀行券の額だけを返済しなければならないが、それは彼にとっては貨幣資本であり、それは彼がなんらかの実際の価値物(彼の商品資本)を金あるいはイングランド銀行券に転換したものであり、だからそれは資本の価値表現だと述べているのである。つまりイングランド銀行が貸し付けた銀行券が満期手形の支払として還流する場合、「取引はこれで終わっていて」、銀行学派が言うような意味での資本にはならない、元帳の立場からみてもその貸付は「資本の貸付」にはならないことをマルクスは確認し、あえて「資本」を問題にするなら、それは銀行券を借りたAにとってその返済を彼の資本の実現形態で行なわねばならないという意味での「資本」が問題になるだけなのだと述べているのである。

  (4) 次にエンゲルスの挿入文で気づいた点を書き上げてみよう。
   まず〈この問題は前貸そのものの性質にかかっている〉とエンゲルスは述べている。ここで〈前貸〉というのは銀行業者による貸付のことである。銀行業者による貨幣の貸付の性質というが、それはすなわち利子生み資本という形態規定性を持っていることを、まずエンゲルスは理解していないのである。だから〈前貸そのものの性質〉などというものに拘ることになる。銀行が貸し付けるのが利子生み資本であることを理解すれば、それがいかなる形態をとるかはたいした問題ではない。銀行は貨幣ではなく、信用を与えるという形態で前貸しすることができる。しかしエンゲルスが挙げている例をみれば、エンゲルスが述べていることはそうした区別のことではないことが分かる。
   エンゲルスはその〈前貸そのものの性質〉として〈三つの場合を検討する必要がある〉としている。〈第1の場合。--Aは銀行から前貸金額を彼の個人信用で,なにも担保を提供することなしに,受け取る〉ケースである。われわれはマルクスが利子生み資本の概念を考察するときには、それが個人信用による貸し付けかどうかとか、担保をどうするかといったことは何も問題にしていなかったことを知っている。そんなことは利子生み資本の概念を理解する上ではどうでもよいことだからである。ところがエンゲルスは〈この場合には,彼は支払手段の前貸を受けただけではなく,無条件に新たな資本の前貸をも受けたのであって,返済するまではそれを自分の事業で追加資本として使用し増殖することができるのである〉と説明している。
   しかしこれは奇妙なことである。もし貸付を受けた業者が〈支払手段の前貸を受けた〉のであれば、彼はそれをすぐに支払手段として利用するであろう。つまりそれはすぐに支払われてしまうのである。だから〈無条件に新たな資本の前貸をも受けた〉ということにはなりえない。あるいはエンゲルスは、マルクスが論じていることが逼迫期の問題であることが分からずに、銀行からの貸付は支払手段の貸付になる場合もあれば、新たな追加的な投資をするための貸付の場合もありうる、と考えているのかも知れないが、しかしマルクスがその前まで論じてきたことは逼迫期の話なのである。だから貸付をうけた貨幣を〈追加資本として使用し増殖することができる〉などということはありえないのである。なぜなら貸付を受けようとしている業者は自分が販売のために流通に投じた商品が売れないのに、彼が振り出した手形(それは生産に必要な原料等を信用で買って彼が振り出したものである)の満期が来て、その支払に迫られているのだからである。だから彼に必要なのは還流してこない貨幣資本を先取りすることであり、とりあえず満期が来た手形を決済するための支払手段なのである。だからこの意味ではその貸し付けられた銀行券は、彼にとっては貨幣資本(Geldcapital)であり、抽象的な貨幣の機能としては支払手段である。エンゲルスがこうした貨幣の抽象的な機能と具体的な形態規定性との区別として、支払手段と貨幣資本を語っているのではないことは明らかである。いずれにせよ業者にとって新たな売れもしない商品の生産のために新たな追加資本を必要としていたなどということはありえないことは明らかである。エンゲルスはマルクスが考察していることが何もわかっていないからこうした馬鹿げたことをいうことになっているのである。

   (5) 〈第2の場合。--Aは銀行に有価証券,すなわち国債や株式を担保に入れて,それと引き換えにたとえば時価の3分の2までの現金前貸を受け取った〉ケースである。
   確かにマルクスは手形割引と同時に担保前貸しについても論じているが、しかしイングランド銀行が銀行券で前貸してもすぐにそれらが銀行に還流してくるケースを考察している部分(われわれのパラグラフ番号では【32】~【40】)では具体的な貸付の形態については何も問題にしていないのである。例えば【39】パラグラフでは〈彼の有価証券にたいして銀行券を支払う〉と述べているだけで、この〈有価証券〉が手形割引を求めてきた手形を意味するのか、あるいは担保貸付を求めてきた担保物件(国債や株式)なのかについては何も論じていないのである。
   いずれにせよエンゲルスは担保貸付についてここでは論じ、〈この場合には,彼は自分が必要とする支払手段を受け取ったのではあるが,追加資本を受け取ったのではない。なぜならば,彼は自分が銀行から受け取ったよりも大きい資本価値を銀行に引き渡したからである〉と述べている。エンゲルスは貸付を受けた貨幣額が担保として差し出した資本価値より少額だから〈追加資本を受け取ったのではない〉というのである。しかし問題は量ではなく形態規定性であろう。担保貸付であろうが、手形割引であろうが、銀行による貸付は利子生み資本として貸し付けられることがエンゲルスにはわかっていない。だからこうしたどうでもよい問題に拘っているのである。貸付を受ける業者にとって必要なのは、当面の満期が近づいている手形の支払に必要な支払手段なのであり、それは金か法貨としてのイングランド銀行券でしかない。それ以外に彼がたとえ膨大な資本価値を持っていたとしてもそれらは何の役にも立たないである。なぜなら彼はいまはまさに過剰な商品資本や生産資本に苦しんでいるのであり、しかしそれらは当面の支払いに必要な支払手段としては何の役にも立たないからである。確かに業者が担保として差し出した有価証券は、あるいは彼の準備資本だった可能性もある。
   エンゲルスが同時に述べていること、つまり〈これに反して,銀行にとってはこの取引は貨幣資本を貸付金というかたちで一時的に固定すること,貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだったのであって,この転換こそはまさに銀行業務の本質的な機能なのである〉という一文はどうであろうか。ここでエンゲルスは〈貨幣資本〉という用語を使っているが、おそらくエンゲルスは貨幣資本(Geldcapital)と貨幣資本(moneyed Capital)との区別を無視してすべてGeldcapitalとしているから、銀行にとっての貨幣資本というのは利子生み資本(英語でmoneyed Capital)であることが分かっていない。だからこうした説明になっているのである。〈貨幣資本を或る形態から別の形態に転換することだった〉というのは一体何を言いたいのかわからない意味不明な言葉である。そもそもマルクスが問題にしているのはイングランド銀行が同行の銀行券で貸し付けることであって、確かにそれはイングランド銀行にとっては利子生み資本(moneyed Capital)としての貸付であるが、しかし銀行にとって銀行券の発行にはほとんど費用のかからないものであり、彼自身の資本(自己資本と借入資本)とは別のものなのである。それは銀行が与える信用の一形態であって、もともと銀行が持っていた資本の貸付とは区別されるものだということがエンゲルスには分かっていない。

   (6) 〈 第3の場合。--Aは銀行で手形を割引してもらい,そのかわりに,割引料を差し引いた金額を現金で受け取った〉ケースである。〈この場合には,彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり,まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って,そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物である〉と説明されている。
   業者が手形割引にもちこむ手形は彼の商品を信用で販売して受けとったものである。彼はその手形が満期になって現金の支払いを受けてから、彼自身の振り出した手形の支払いをするつもりなのだが、しかしその満期が来るまでに支払う必要が生じたために、銀行に割引を求めにきたのである。手形が〈流動的でない形態にある貨幣資本〉というのはあいまいな概念である。手形は裏書きして流通するならその限りでは流動的だからである。しかし逼迫期の支払手段としては、金か法貨としてのイングランド銀行券しか受け取られず、手形ではだめなのである。そもそも支払いを迫られているのは自ら振り出した手形の満期が迫ったからであり、だからその支払いを別の手形で行うことはできないのである。もっとも銀行への支払いの場合は、手形で行うことは逼迫期には増えてくることが銀行業者たちによって証言されており、現金ではなく手形による支払いが増えてくるのは破綻が近づいている兆候だという指摘もある。
   〈だから,ここにあるのは,けっして前貸ではなく,まったく普通の売買である。それゆえ,Aは銀行になにも返す必要はないのであり,銀行は満期日に手形の取立によって保証を受けるのである〉という説明はまったく間違っている。そもそも手形割引は銀行の貸付の主要な一形態であり、それは第25章該当部分でもマルクスが次のように述べていることから明らかである。

  〈貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),手形の割引--手形をその満期前に貨幣に転換すること--によって,また,さまざまの形態での前貸,すなわち,スコットランドの諸銀行でのような対人信用での直接前貸,各種の利子生み証券,国債証券,株式を担保とする前貸,ことにまた積荷証券,倉荷証券,および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸によって,預金を越える当座貸越し,等々によって,行なわれる。〉 (大谷本第2巻174頁)

   確かに割り引いてもらった業者にとっては、直接的な表象としては手形の銀行による買い取りであり、だからそれ以上の支払いは何も無いかに見える。しかしそれが銀行の利子生み資本の貸付であるかぎり、銀行のAへの貸付は残っているのである。利子生み資本の運動としての貸付と返済が、商品としての貨幣が普通に売買されているという仮象をとり、利子がその価格になるということは、利子生み資本の概念を説明しているところでマルクスが指摘しているところである。
   エンゲルスが〈このことは,支払が行なわれない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては,少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって,これらの人々にたいしては彼自身が求償権をもっているのである〉というのも決して正しいとは言えない。もし手形が不渡りであった場合、その不渡手形を銀行から買い戻す責任は最終裏書人のAにまず生じるのであり、ただAはそれを先行する裏書人たちに求めることができるだけである。結局は裏書人全体でその支払を分担保証することになる。ということは手形が満期になって銀行に対して振出人からの支払いが終わるまでは、銀行のAに対する貸付は依然として残っているということである。

   (7) エンゲルスの最後の一文〈こういうわけで,現実の資本前貸と言うことができるのは,ただ第lの場合だけである。第2と第3の場合には,せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけである。この意味では銀行はAに貨幣資本を前貸しするのであるが,しかしAにとってそれが貨幣資本であるのは,せいぜい,それが彼の資本一般の一部分であるという意味でのことでしかない。そして,彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである。もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう〉はどうであろうか。
   ここではエンゲルスは〈現実の資本前貸と言うことができる〉ケースと、〈せいぜい,どの資本投下でも「資本が前貸される」のだという意味でそう言えるだけ〉とを区別して、前者に該当するのは第1のケースだけであり、第2、第3は後者の意味でしかないと述べている。ここでエンゲルスが〈現実の資本前貸〉と述べているのは、おそらく現実資本に投下される貨幣の前貸しの意味であろう。それは第1の場合だけであり、第2や第3はただ支払手段の前貸しであって、ただ一般的にどの資本投下でも資本が前貸しされるというような意味でしか言えないのだというのである。これを見てもエンゲルスが利子生み資本という概念そのものをほとんど理解していないことが分かるのである。先に第25章該当部分のマルクスの一文を紹介したが、ここでマルクスは銀行による貸付の形態として、手形割引、個人信用による直接前貸し、担保貸付、当座貸し越しを挙げていたが、これらは利子生み資本としての銀行による貸付の諸形態であって、それがその貸付を受けた業者によって現実資本への投下に利用されるか、それとも差し迫った支払手段として利用するかどうかということはこの貸付の形態とは何の関係もない(そんなことはマルクスは何も問題にしていない)ことは明らかなのである。〈支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう〉という一文は手形割引を〈まったく普通の売買である〉という間違った理解からくる妄言であるが、何ともいいようがない混乱である。

   大谷氏はすでに紹介した第3巻の冒頭の第28章の解説部分で、エンゲルスの修正を取り上げ、エンゲルスの三つの場合については個別には問題にせずに、一挙にこの最後の部分を問題にして次のように述べている。

  〈まず,エンゲルスはここで,一つには,Aへの銀行の「前貸」が,どういう場合に「資本」の前貸であり,どういう場合にはそうでないのか,という問題と,もう一つには,どういう場合にAが入手した貨幣がAにとって「支払手段」であり,どういう場合にはそうでないのか,という二つの別々の問題にそれぞれ答えようとしている,と言えるだろう。前者については,当然に,ここで「資本」という語でなにが考えられているか,ということがはっきりしていなければならないが,このパラグラフでエンゲルスが書いているところを見れば,彼が「現実の資本前貸」ということで考えているのは,借り手が資本として生産過程ないし流通過程に前貸できる追加の資本を入手できる場合の前貸のことであって,なんらかの意味で,すでにもっている資本の形態の変更にすぎない場合にはそれに当たらない,と彼が考えていたことがわかる。後者の「支払手段」について見れば,第1の場合については,Aは「支払手段の前貸を受けただけでなく」と,Aへの銀行の前貸がAにとって支払手段の前貸であることが明示的に述べられており,第2および第3の場合についても,この二つの場合には「現実の資本前貸」ではないけれども,「彼がそれを要求し使用するのは,とくに資本としてではなく,とくに支払手段としてである」,として借り手にとって支払手段の前貸であると言われている。ちなみに,それに続いてエンゲルスが書いている文章,「もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう」という文章は,まさに「関連が理解しにくい」ものであって,なにを言おうとしたのか,ほとんど意味不明である。〉 (62-63頁)

   ここでエンゲルスが「資本」と言っているのはどういう意味かを大谷氏が問うているのはそれはそれで正しいであろう。そしてエンゲルスが「現実の資本前貸」と言えるのはどういう意味かと述べていることも正しい。しかし最後の部分について大谷氏が〈ほとんど意味不明である〉と述べているのは、その前でエンゲルスが貸付の形態について述べている部分を批判的に論じていないことから来るのである。エンゲルスは手形割引について普通の売買と述べていることを想起すれば、〈「もしそうでなければ,支払手段を調達するために行なわれる普通の商品販売はすべて資本前貸を受けることとみなされなければならないであろう」〉とエンゲルスが述べているのは、手形割引で前貸しを受けてそれを支払手段として利用したケースと類比して述べているのである。手形を売って入手した貨幣を支払手段にするのと、商品を売って入手した貨幣を支払手段にするのと同じだとエンゲルスは考えているわけである。つまりエンゲルスは手形割引は「資本前貸」ではない、それは普通の売買だと考えているということである。そこらあたりが大谷氏には理解されていない。
   次の大谷氏のエンゲルス批判もその意味では必ずしも的確とはいえず、それこそ「まのぬけた」ものになっている。

  〈いずれにしても,エンゲルスは,マルクスがフラートンたちがなにを誤って「資本」と「通貨」との区別としているのか,ということを徹底的に批判する作業をしているその途中に,その筋道を突然中断して,銀行による前貸に,「資本の前貸」と「支払手段の前貸」という二つの前貸の区別があると言っているかのように見える問題設定をしながら,それにたいして,借り手が実物資本として投下可能な追加資本価値を入手する場合が「資本の前貸」だ,という答と,検討した三つの場合には銀行による前貸はすべて「支払手段の前貸」なのだ、という答とを並列しただけの,なんともまのぬけた答なるものを書いているのである。〉 (63頁)

   ここらあたりもマルクスが銀行学派が使っている「資本」という用語をそのまま使っているということが理解されないと正しい批判はできない。ここらあたりの大谷氏の理解はあいまいであり、明確ではない。エンゲルスはそれをそのまま文字通り「資本」と理解しているのである。しかしマルクスが冒頭で述べているように、マルクスにとって重要なのは鋳貨としての流通手段と貨幣(このなかに支払手段と蓄蔵貨幣、世界貨幣が含まれる)と貨幣資本(Geldcapital)と利子生み資本(moneyed capital)との諸区別なのである。そこらあたりがエンゲルスがこの冒頭の一文を勝手に書き換えた時点で、エンゲルスは何をマルクスが問題にしているかを理解できていないことがハッキリしていたのである。銀行の前貸しの形態の相違に何か重要な問題があるかに論じているエンゲルスの修正は問題を見誤らせるという点で看過できないが、しかしそもそもの発端からエンゲルスは間違っていたことを考えれば、こんなことはある意味では当然なのである。

   とりあえず、以上でエンゲルスの挿入文の検討は終える。エンゲルスがマルクスが利子生み資本の概念の説明から、その信用制度のもとでの運動諸形態を考察していることについて肝心の利子生み資本そのものの理解がまったく出来ていないと言える。こうしたエンゲルスの編集による現行版が多くの人たちを惑わせてきたことはある意味では当然であったといえるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  以上で、大谷本第3巻に収載されている〈第28章の草稿,それとエンゲルス版との相違〉の検討を終えます。このあと引き続き〈第29章の草稿、それとエンゲルス版との相違〉の段落ごとの解読に移るべきですが、いまだその準備はできていません。それが整い次第掲載していきますが、それが何時になるかは確たることは今の時点では言えません。

2022年3月24日 (木)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-16)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-16)

 

◎【54】~【56】の三つのパラグラフのあるべき位置


 この【54】パラグラフは〈Ⅰ)については、さらに次のような疑問も起こるであろう。……〉という書き出しで始まる。つまりこのパラグラフ以下の3つのパラグラフはマルクスがその草稿に「Ⅰ)」と番号を打った部分、つまりエンゲルスの編集では第28章に該当する部分--本当はマルクスは第28章の第2パラグラフに「Ⅰ)」と番号を打ったのであるが--に追加補足するものとして述べたものであることが分かる。
 しかしこの部分は、草稿のこの第28章に該当する部分にはなく、エンゲルスの版の第29章に該当する部分--だからマルクスの草稿ではⅡ)と番号が打たれた部分--の中に含まれているのである。それをエンゲルスはマルクスのこの最初の書き出しの意図を酌んで、それを第28章の最後の部分に持ってきたのである(だからエンゲルスは第28章の最後に持ってくるにあたり、「Ⅰ)ついては」という部分を削除している)。
 大谷氏も第28章該当部分の草稿の終りに、この三つのパラグラフを持ってきた理由について、訳注563)のなかで次のように説明している(すでに前回紹介したが、もう一度紹介しておく)。

 〈563)〔E〕草稿の334ページ上半の末尾の前パラグラフに続く草稿の335ページの上半では「Ⅱ.こんどは、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」、として、エンゲルス版の第29章に利用された部分が始まる。しかしマルクスは、そのあと3つのパラグラフを書いたのち、「Ⅰ)については〔ad Ⅰ)……」として、挿入的な3パラグラフを書いている。この3パラグラフの左側には、インクで上下やや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している。ここで言う「Ⅰ」は、エンゲルス版の第28章に利用された、草稿の328ページから始まる部分の第2パラグラフの最初に書かれている「Ⅰ)」を指すものと考えられる。そこでエンゲルスは、この記述を第28章の末尾に移したのである。本章でも同じく、エンゲルス版の第28章の末尾にあたるこの箇所に収めておくことにする。〉 (145頁)

 もちろん大谷氏のこの措置は、以下の3つのパラグラフが内容から言っても、この第28章該当部分に関連したものなのだから、適切なものであることは言うまでもない。
 ところが実際には、すでに指摘したが、エンゲルス版の第29章に該当する草稿を見てみると、大谷氏が〈しかしマルクスは、そのあと3つのパラグラフを書いたのち、「Ⅰ)については……」として、挿入的な3パラグラフを書いている〉と述べている〈そのあと3つのパラグラフ〉も、実は、この第28章該当部分の続きと考えられるのである。だからもし「Ⅰ)については……」と書き出している部分以下の3パラグラフを第28章該当部分の末尾に持ってくるのであれば、その前の3パラグラフも本当はこの第28章該当部分の末尾に持ってくるべきであったと考えられるのである。だからわれわれの解読ではそのように措置しておいたのである。
 大谷氏によれば、マルクスは「Ⅰ)について……」以下の3つのパラグラフについては、縦線でひとまとまりのものであることを明示しているということである(だから大谷氏もエンゲルスの編集にならって恐らくこの第28章該当部分の末尾に持ってきたのであろう)。しかしその縦線による指示は、恐らく第28章該当部分の--マルクスの草稿ではⅠ)と番号が打たれた部分--の最後に、この3パラグラフが来るのは適切ではないとマルクスは考えており、もっと前の部分に挿入されるべきだと考えていたことを示していると考えられるのである(そのための縦線による印ではなかったかと思える)。
   なぜなら、大谷氏が〈そのあと3つのパラグラフを書いたのち〉と書いている部分が第29章該当部分の本文ではなく、第28章該当部分の最後の結論部分であるから、そのあとマルクスは〈「Ⅰ)については……〉と書き継いだと言えるからである。つまりその直前のパラグラフ、つまり〈そのあと3つのパラグラフ〉のうちの最後のパラグラフでマルクス自身は第28章該当部分(「Ⅰ)」)の考察が終わったと考えたのだが、しかし〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉云々と書き継いだのである。そしてその追加部分はひとまとまりに括られているということは、それを最後に持ってくることは適切ではないとマルクス自身は考えていることを示しているからである。
 だからマルクス自身は、第28章に該当する部分--マルクスがⅠ)と番号を打った部分--の結論の締めくくりと考えていたのは、すでにこの解読でも示したように、実は第29章にある「Ⅰ)ついては……」と書き出している部分の直前のパラグラフ(第【5】パラグラフ)までであったと考えられるのである。

 実際、第29章該当部分の書き出しの冒頭のパラグラフ(第【2】パラグラフ)の後の6つのパラグラフを除いた部分(第【9】パラグラフ)とを繋げてみると次のように、うまく繋がることが分かる。

 〈|335上| Ⅱ.こんどは、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。(第29章該当部分の第【2】パラグラフ)
 〈銀行資本は、1)現金(金または銀行券)、2)有価証券、から成っている。有価証券は、さらに二つの部分に分けることができる。一つは……〉 (同第【9】パラグラフ)

 このように第29章該当部分の草稿から第28章該当部分に関連する6つのパラグラフを除くと、第【2】のパラグラフと第【9】パラグラフとが直接繋がっていることが良く分かるであろう。こうしたことからも、第29章の第【2】パラグラフに続く、第【3】~【5】の三つのパラグラフもやはり第28章に該当する部分--マルクスがⅠ)と番号を打った部分--に移すのが適当だと思えるのである。

 第29章の第【3】パラグラフ以下3パラグラフが第28章の末尾を占めるということは良いとしても、それではマルクス自身はそのあとに続く〈Ⅰ)ついては……〉と書き出している3つのパラグラフ(【6】~【8】パラグラフ)を何処に挿入しようと考えていたのであろうか?
 それはただこの3つのパラグラフの内容とこれまでの第28章該当部分の展開とを見比べて類推するしかないのであるが、私自身は、【46】パラグラフの本文のあとに挿入されるべきだと類推している(【47】~【51】は原注)。つまりわれわれのパラグラフの番号付けでは【52】パラグラフの本文の前に挿入されるのが適当だろうと考えられるのである。しかしそれはこの三つのパラグラフの内容を確認したあと、もう一度、それを確証して見ることにしよう。

  だからとりあえず、われわれも大谷氏の編集どおりにこの解読では三つのパラグラフを最後に検討していくことにして、パラグラフ番号もそのように扱うことにする。


【54】

  /335上/①563) Ⅰについては,さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような逼迫の時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは一つの論争である。

  ①〔異文〕エンゲルスは鉛筆でページ欄外に,「334ページの終わりへ」,と書きつけている。

  563)〔E〕草稿の334ページ上半の末尾の前パラグラフに続く草稿の335ページの上半では,「II.今度は、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」,として,エンゲルス版の第29章に利用された部分が始まる。しかしマルクスは,そのあと三つのパラグラフを書いたのち,「Ⅰ)については〔ad Ⅰ)〕,……」として,挿人的な3パラグラフを書いている。この3パラグラフの左側には,インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて,この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している。ここで言う「Ⅰ」 は,エンゲルス版の第28章に利用された,草稿の328ページから始まる部分の第2パラグラフの最初に書かれている「Ⅰ)」を指すものと考えられる。そこでエンゲルスは,この記述を第28章の末尾に移したのである。本章でも同じく,エンゲルス版の第28章の末尾にあたるこの箇所に収めておくことにする。〉 (145頁)

  【これも平易な書き下し文は省略する。マルクスはこれは当時の〈1つの論争〉であり、それは〈周知〉のことであると述べている。これは恐らく第26章に該当する部分で、マルクスが通貨学派のオウヴァストンの議会証言を引用しながら批判して取り上げている問題と同じなのであろう。そこではオウヴァストンは議会で「資本」や「貨幣」という言葉であなたは何を実際には考えているのか、用語を混同しているのではないかと追及されている(マルクスはオウヴァストンが「私は用語を混同していません」と答えたのに対して、「つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが、それは、彼がこの二つを決して区別していないという理由からである」と批判している)。
   1857年の『銀行法特別委員会報告……』のなかで問題になったのは、1847年の恐慌時の利子率の上昇は、オウヴァストンら通貨学派の主張のもとに成立した1844年の銀行法の下で、銀行券の発行が制限されたために、恐慌時に異常に高まった支払手段としてのイングランド銀行券への需要が、その制限のために一層激化させられた事実(それは10%以上の高い利子率に表れた)を追及されたのに対して、オウヴァストンらは、銀行に対する貸付需要は貨幣量への需要ではなく、資本に対する需要だと誤魔化して主張したのである。それを説明するためにオウヴァストンはさまざまな詭弁を弄し、需要は貨幣そのものに対するものではなく、その貨幣で購入する商品に対する需要から生じているのだから、利子率の上昇は資本への需要から生じているのだ等々と、問題を誤魔化し、貨幣と資本とを混同して論じた問題のことを指している。だからこうした恐慌時に逼迫しているは資本への圧迫か、それとも貨幣(銀行券)への圧迫かというのが一つの論争になったというのである。

  「貨幣」と「資本」との混同・無区別の一例として、小林氏は前掲書の〈第5章 オーヴァストーンの「1844年銀行法弁護」〉の第2節の注8)で次のように書いている。

 〈8) なおオーヴァーストーンは,「貨幣は単に資本を獲得する特殊な道具(instrument)であるに過ぎない」(第3655号A)と言い,他方,「資本」の「科学的定義に入っていくことは失礼ながら辞退したい」が,「単に私が『資本』で何を理解しているかの一般的指示を与える」というのであれば,「資本は,それによって取引が遂行される種々な商品から成り立っており,固定資本と流動資本とがある」(第3744号A),と答弁している。〉 (170頁) 】


【55】

  まず第1に,逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは,要求されるものが国際的支払手段だということは明らかである。ところが,国際的支払手段としての規定性にある貨幣は,金属的現実性にある金,それ自身価値のある実体(価値のかたまり)としての金である。それは同時に「資本」であるが,しかし商品資本としてのではなく,貨幣資本としての資本であり,商品の形態にあるのではなく貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣であって,この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在する}の形態にある資本である。ここでは,貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しない。対立は,貨幣という形態にある資本と商品という[520]形態にある資本とのあいだにある。そして,資本がここで取ることを求められている,そしてそれが機能するために取らなければならない形態は,資本の貨幣形態なのである。

  ①〔異文〕「}」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「および」という書きかけが消されている。〉 (145-146頁)

  これは論争問題のマルクスの分析である。まず、平易な書き下し文を書いておこう。。

 〈すでにこれまでの検討で明らかなように、まず第1に、逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは、要求されるものが国際的支払手段だということは明らかです。国際的支払手段としての規定性にある貨幣は、金属的現実性にある金、それ自身価値のある実体(価値のかたまり)としての金、つまり地金です。それは同時に確かに「資本」でもありますが、しかし商品資本としての資本ではなく、貨幣資本としての資本です。つまり商品の形態にあるのではなくて貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣であって、この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在します}の形態にある資本です。だからここでは、貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しません。対立は、貨幣という形態にある資本と商品という形態にある資本とのあいだにあるのです。そして、資本がここで取ることを求められている、そしてそれが機能するために取らなければならない形態とは、資本の貨幣形態なのです。〉

  【まず逼迫期に需要されるのは「資本」かそれとも「貨幣」か、という論争問題に関連して、ここではまずその逼迫が「地金の流出」として現れるケースについて論じている。この場合も流出する地金は資本としての規定性で流出するのか、それも「貨幣」としての規定性で流出するのかという論争があったということである。
  ここではマルクスは銀行学派の言葉ではなく、マルクス自身の概念を使って論じている。ここで「貨幣資本」と言われているのは、Geld capitalであることは明らかである。つまり『資本論』第2巻で出てくる生産資本や商品資本と区別された資本の循環過程において貨幣形態をとる資本のことである。つまり地金は貨幣資本として流出するのだが、しかしその資本としての性格が問われているのではなく、国際的支払手段としての、つまり世界貨幣としての機能が問われているのだ、というのがマルクスの述べていることである。だからここで「貨幣」と言われているものも「本来の貨幣」のことであり、「貨幣としての貨幣」であることは明らかである。これもマルクスがこの28章の冒頭のパラグラフで〈鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別〉と書いていたうちの定冠詞のない〈貨幣〉のことであり、これは「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」のことであって、ここには「蓄蔵貨幣」や「支払手段」、「世界貨幣」が含まれているのである。

   小林氏は前掲書の〈第6章  D.B.チャップマンの「1844年銀行法修正」案〉のなかで〈〔備考〕委員ウィルソンの質問 --「資本か貨幣か」--〉という一項目を設け、ウィルソンの質問とチャプマンのそれに対する議会証言を紹介している。少し長くなるが紹介しておこう。

  〈例えば,ウィルソンは,「撹乱的原因」での逼迫は,「対外支払のための地金に対する需要から生じている」(第5015号Q)。そして「地金が非常に少ない[5,000,000ポンドの]時に,…[イングランド銀行の発券規定を]緩和する力を… 導入するとして,その瞬間には,求められている国内目的の流通媒介物は,逆の為替相場の結果として,海外に送るための地金に対する需要ほどには大きくはないのでは?」(第5018号Q)と質問する。しかしチャップマンは,「私は,そうは言っていません。もしも人が,そのときに一般的であるであろう利子率,即ち10%で,それ[地金]を海外に送ることが出来得るとしたならば(could),海外に送られるべき地金はイングランド銀行に準備されているでしょう(would)。しかしわが国内の流通媒介物は依然として同じままでしょう。私はわが国内にある地金の量を知りませんが」(第5018号A),と答えている。
 そこでウィルソンは重ねて,「にもかかわらず,… 海外に送る目的での地金を求める大きな逼迫があるのでは?」ないのかと質問を続け,それに対してはチャップマンも,「疑いもなく,それが貨幣市場の収縮を作り出した真の原因であったところのものです」(第5019号A)と答えていく。それというのも,「地金が出て行くにつれて,それはそれだけの銀行券を破棄(cancel)し,そしてそのこと自体が貨幣市場に影響をもつ」(第4994号A)からではあるが,しかし流出する地金だけ「破棄」される銀行券が銀行部準備の銀行券である限り,銀行券の総発行額は減少するのではあるが,「国内の流通媒介物」,即ち,「公衆の手にある銀行券」は「同じまま」(第5018号A)であるからである。
 ところでこの場合,ウィルソンが,「それは銀行券を獲得することを目的としてではなく,地金を獲得することを目的として」(第5042号Q)いるのではないのか,と執拗に質問を繰り返すのは,10%もの高い利子を支払ってまでも「求あられる貨幣は,古い債務の清算のため」(第5042号A)の「流通媒介物」である8)と言うチャップマンに対して,求められているのは「貨幣」ではなくて「資本」であることを認めさせたいからなのである。というのは,ウィルソンにとっては,対外支払のための「地金」は「資本」なのである9)。そしてそのことは,次の質疑・応答にも見出せる。即ち,「公衆はイングランド銀行からの資本の前貸し(advances of capital)に対して,6%,7%を喜んで支払ったのですか」(第5038号Q)--「貨幣の前貸し(advances of money)に対してです」(第5038号A)。「しかしこれらの前貸し(advances)は,結局,地金を引き出すこと(abstraction)に帰せられるべき勘定(accounts)からと思いますが」(第5039号Q)--「疑いもなくそれは地金を引き出すことによって惹き起されたのではありますが」(第5039号A),10)と。〉 (247-248頁)

   ウィルソンは10%もの高い利子率を生じさせているのは「資本」への強い需要であって、「貨幣」へのそれではないという立場から、チャップマンに執拗にそれを認めさせようと質問を繰り返しているのであるが、しかしチャップマンは商業実務家として堅実に正しい回答を繰り返している。この論争でも明らかなように、逼迫期に流出する地金は「資本」なのか、それとも「貨幣」なのかという問題は一つの論争問題だったわけである。
   マルクスは。それは貨幣資本(geld Capital)という規定性をもってはいるが、しかしそれは植民地など諸外国に新たな資本を投下するための資本としての地金の輸出ではなく、すでに行われた取り引きを最終的に決済するための国際的な支払手段として機能するために出て行く地金輸出であり、だからこの場合も資本という形態規定性そのものが、それが出て行く原因としては意味がないこと、それはやはり支払手段という貨幣規定(機能)によって出て行くのだと述べている。
   なおチャップマンは、地金の流出そのものは、国内の流通媒介物には影響しないという正しい意見も述べている。国際的な支払手段そのものは、決して「通貨」という規定性をもっているわけではない。「通貨」はあくまでも国内的な(国民的な)規定性だからである。】


【56】

  こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢僅,等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accommodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この問題には他の諸点を片付けたのちに立ち返る。|

   ①〔異文〕「}」という書きかけが消されいる。〉 (146-147頁)
 
   このパラグラフも【55】パラグラフに続くものである。平易な書き下し文を書いておこう。

  〈地金の流出の場合には、その流出の原因はともかく、地金そのものは貨幣資本(geld Capital)という規定性を持っています。しかしこうした地金の需要を度外視しますと、そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している、と言うことはできないのです。むしろ現実は反対なのであって、市場では商品資本が供給過剰になっているのです。「商品資本」は市場にあふれています。だから、逼迫の原因は、とにかく「商品資本の欠乏」ではないのは明らかです。{もっとも穀物騰貴や綿花飢饉、等々のような異常な事情のもとではそういうこともありえます。その場合は、商品資本としての穀物や綿花への需要が顕著なのは明らかだからです。しかしそれは、けっしてこういう逼迫期の必然的な、または通例の付随現象ではありません。だから、貨幣融通にたいする圧迫が存在するからと言って、このような商品資本の欠乏の存在を結論することはできないのです。}しかしこの問題には他の諸点を片付けたのちに立ち返ることにしましょう。〉

  【ここでは、マルクスは〈こうした地金の需要を度外視すれば〉と述べ、その前のパラグラフで検討した〈地金の需要〉の場合は、その限りではそれは貨幣「資本」に対する需要でもあるとしている点に注意が必要である。だからそうした国際的支払手段に対する需要(だからそれは貨幣「資本」に対する需要である)を「度外視すれば」と述べている。つまり国際的支払手段に対する需要を度外視すれば、逼迫期に「資本」が不足しているといったことはないというのである。もちろん、国内流通における支払手段も資本家にとっては貨幣資本(geld Capital)という規定性を持っていることは明らかである。しかし支払手段としての貨幣資本以外の商品資本や生産資本は過剰になっているとマルクスは言いたいのである。ただ穀物や綿花の不作で、穀物騰貴や綿花飢饉が生じるような異常な事情のもとでは、確かに穀物や綿花というその限りでは商品「資本」の不足が生じることになるのだが、そうした農作物の不作と逼迫期が重なるというのは偶然であって、決して逼迫期の必然的な付随現象ではないとも指摘している。だから支払手段に対する貨幣融通に対する圧迫から、一般的に逼迫期ににおいて「資本の欠乏」をいうのは間違いである。むしろ「資本」(商品資本)は市場に溢れているのだというのが、マルクスの言いたいことである。

 マルクスは『経済学批判』では次のように述べている。

 〈つまり、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としての金の特有な機能から生じるのである。同様に金が、またはそのかわりの銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌が明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。〉 (草稿集第3巻428頁)

 このようにマルクスは、国際商業と同様に、国内商業でも支払手段として機能する貨幣は、同時に資本でもあると指摘している。しかし、商品の形態での資本は、逼迫期に明確になるように、金または銀行券の代わりをすることは出来ないのであり、だから貨幣が支払手段になるのは、その資本としての定在によるのではなく、商品と区別された貨幣としての定在においてなのである。このような意味で、それは支払手段なのであり、だからそれは「資本の問題」ではなく「貨幣の問題」だと言い得るのである。】

--------------- ※  --------------

   以上が、マルクスが一固まりにして第28章該当部分(「Ⅰ)」)のなかに挿入すべきとした三つのパラグラフの内容である。ではそもそも【54】~【56】の三つのパラグラフのあるべき位置はどこがふさわしいのであろうか。それについてはすでに【46】パラグラフの本文のあと、【52】パラグラフの本文の前に挿入されるのがよいとすでに答えておいた。それを実証するために、まず【46】と【54】と、次ぎに【56】と【52】をそれぞれ並べて書いてみて、その繋がりを考えてみよう。
  まず【46】と【54】である。

  【46】〈購買手段としてのCirculationが減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculationが増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulationは増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラートン等々は,支払手段としての銀行券のCirculationがこのような圧迫の時期の特徴だということを示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculationと言うべきであろう)〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」a) /〉 (141-142頁)
  【54】〈さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような逼迫の時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは一つの論争である。〉 (145頁)

 次は【56】と【52】との繋がりである。

  【56】〈こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢僅,等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accommodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この間題には他の諸点を片付けたのちに立ち返る。〉 (146-147頁)
  【52】〈支払の連鎖が中断されたときに,貨幣がそれのたんに観念的な形態から,諸商品に対立する,物的で同時に絶対的な形態に転回することは,すでに貨幣を考察したところで(支払手段の項目のもとで)論じておいた。この中断そのものは,信用の動揺やそれに伴う諸事情,すなわち供給過剰の市場や商品の減価や生産の中断等々の,一部は結果であり,一部は原因である。〉 (144頁)

  このようにそれぞれのパラグラフを並べてみると、その繋がりを考えることができるのではないだろうか。だからもう一度いうと、【54】~【56】の三つのパラグラフのマルクスの挿入文は【46】パラグラフの本文のあと【52】パラグラフ本文の前に、つまり【46】パラグラフと【52】パラグラフの間に挿入すべきであって、エンゲルスや大谷氏のように(小林氏も同じだが)、ただ機械的に第28章該当部分の末尾にくっつければよいというものではないと考えるのである。

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◎ 第28章該当部分の草稿解読のまとめ


  このあと大谷氏のテキストでは、エンゲルスによる挿入文が二つ紹介されているが、その検討は後回しにして、とりあえず、検討が終わった第28章該当部分(「Ⅰ)」の草稿)全体の纏めのようなものを書いておこう。


●各パラグラフごとの概要


  まずは全体の構成を考える前に、各パラグラフ(といってもわれわれが任意に設定したパラグラフであるが)ごとにその概要とポイントを書いてゆくことにしよう。ただし、エンゲルスと大谷氏が第28章の最後にくっつけた【54】~【56】パラグラフはおそらくマルクス自身はそこに挿入すべきと考えていたであろうと思われる【46】パラグラフと【52】パラグラフの間に入れてみることにする。また実際には「Ⅱ)」のなかにあるが、「Ⅰ)」の結論部分であると判断される部分も入れておくことにする。

【1】表題(これは大谷氏がつけたものである。)

【2】冒頭のパラグラフ。ここではマルクスはトゥック、ウィルソン等々がしている通貨と資本との区別は、次の二つのことに帰着する、と述べながら、銀行学派たちの通貨と資本との区別に対して、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本(geld Capital)と、利子生み資本(moneyed Capital)とのあいだの諸区別を対置している。
  通貨と資本との区別というが、通貨は貨幣の抽象的な機能であり、資本はより具体的な形態規定性である。この両者の抽象度の相違について、もちろん、銀行学派は無頓着である。マルクスの指摘する諸区別について言うと、鋳貨としての流通手段(狭い意味での流通手段)、貨幣(蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣)は貨幣の抽象的な機能であり、通貨は鋳貨としての流通手段と支払手段とを併せたものをいう。これらは『資本論』の第1巻の冒頭篇で明らかにされているものである。貨幣資本(geld Capital)は商品資本や生産資本とは区別される資本の循環過程の一形態であり、これは『資本論』第2巻で取り扱われている。利子生み資本(moneyed Capital)は再生産過程外の貨幣の運動形態であり、『資本論』第3巻で取り扱われている。
  しかしマルクスはこの「Ⅰ)」では、銀行学派の主張する「通貨」と「資本」という用語をそのまま使い、彼らの主張を内在的に批判して、その矛盾や齟齬を暴露して、その混乱を指摘するのみで、明確にマルクス自身の諸区別を対置する形では批判を行っていない。それがこの部分の解読を困難にしている大きな要因になっている。

【3】マルクスの付けた項目番号「Ⅰ)」のみ。

【4】このパラグラフは【2】を直接受けたものだが大変長い。そして主に三つの部分からなっている。

   (1) 【2】で指摘した銀行学派たちの通貨と資本との区別が帰着するとする〈次の二つのこと〉を論じている部分。
   (2) これから展開するものをa)、b)、c)にまとめた部分。
   (3)そしてその最初のa)について最初に論じている部分である。

   まず(1)について、〈次の二つのこと〉というのは 一つは収入の支出を媒介し、個人的消費者と小売商人とのあいだの流通を媒介するものを、彼らは「通貨」とし、資本の移転を媒介するものを「資本」としているということ、しかしそのことは結局は収入の貨幣形態を「通貨」とし、資本の貨幣形態を「資本」としているだけで、通貨と資本との区別とは言い難いことが指摘されている。
   次に(2)では、a)、b)については再生産過程内における通貨と資本との区別の混同について指摘し、c)では主に利子生み資本と関係する銀行の介在する過程における混同について論じている。a)はこの【4】パラグラフの後半部分から途中挿入文的なもの(【5】)も入るが【8】パラグラフまで、b)は【9】パラグラフのみ、ところがc)は【10】パラグラフから最後のまとめ部分(【45】~【53-3】)を入れればほぼ最後までになっている。a)、b)に比べてc)は桁外れに分量としては大きいが、これはそもそもこの「Ⅰ)」がマルクスが信用制度のもとでの利子生み資本の運動諸形態を論じることを前提に、その前にまずは銀行学派たちの混乱を指摘しておこうとしてはじめているものであり、その狙いはやはり銀行学派たちが「通貨」と「資本」との区別を言い立てて、通貨学派を批判しているが、果たして彼らが「資本」と述べているものは、利子生み資本という正しい概念にもとづいたものなのかどうか、ということがマルクスの最大の問題意識だからである。だから銀行学派たちが「資本」という言葉で何を述べているのかを徹底的に批判しておくことがここでの主要な課題なのである。その意味ではc)こそ、この「Ⅰ)」の主題と言っても過言ではないかもしれない。
   最後に(3)については収入の貨幣形態を「通貨」とし資本の貨幣形態を「資本」とすることにすでに混乱があると指摘し、貨幣の購買手段や支払手段という抽象的な機能とそれが収入や資本を表すかどうかというより具体的な役割との混同を指摘し、抽象的な機能はそれにどんなに具体的な形態規定性が加わろうと変わらないのだという重要な指摘がなされている。

【5】このパラグラフもa)に関連するが全体が括弧に入っている。小売資本にとって個人的消費者から受け取る鋳貨は、彼らの投下した資本の貨幣資本としての回収であり、そこには小売商人の資本・プラス・利潤が含まれていることが指摘されている。

【6】これは【4】パラグラフの後半部分を補足するもので、小売商人にとっては銀行学派たちが「通貨」としているものは、彼らにとっては彼らの資本を補塡するものであり、その意味では銀行学派の主張にならうなら「資本」というべきものであることが指摘されている。

【7】これもa)の項目に関連するが、直接その前のものとは関連せず、発券銀行業者は彼らの信用だけで発行する銀行券のうち流通にとどまっていて、彼らにとって紙と印刷費以外に費用のかからないものを「通貨」とし、それが銀行に還流してきて、帳簿上彼らの資本(自己資本あるいは借入資本)の貸し出しになるものを「資本」として区別するが、こうした区別は、先に流通を二つに分けて一方を「通貨」、他方を「資本」と区別するものとはまったく関係がないと指摘している。この部分では発券銀行業者の立場が論じられており、よってこの区別はc)で論じられているものと大きく関連している。

【8】このパラグラフはa)の締めくくりといえる。収入の貨幣形態と資本の貨幣形態は、確かに貨幣の素材的な相違をもたらす(前者では購買手段として鋳貨や少額銀行券が多く、後者では信用取引が多く、貨幣は支払手段として運動する)が、購買手段や支払手段は貨幣の抽象的な機能上の区別であって、通貨と資本との区別ではないとの指摘が結論的にいわれている。

【9】ここではb)が検討されているが、貨幣の流通量については、それが表すものが収入であろうが資本であろうが、とにかく貨幣が流通している限りではその量については、単純な商品流通を考察したときに論じた貨幣の流通の諸法則が当てはまるのだと指摘するのみで、銀行学派たちの混乱について具体的な紹介も批判もない。
  ただ【8】パラグラフと同様に、『資本論』の冒頭篇で明らかにされている貨幣の抽象的な諸機能や諸法則というものは、それらにどんなに具体的な形態規定性が加わろうともそれらには関係なく貫いているものであり、具体的な形態規定性によって抽象的な諸機能が変化させられるというようなことはないのだというマルクスの重要な指摘があることは確認しておくべきであろう。

【10】ここからc)の検討がはじまる。このc)というのは〈二つの機能で流通する,したがってまた再生産過程の二つの部面で流通する通貨(Currencies)の分量の相互間の相対的な割合に関する問題〉というものである。つまり、銀行学派が流通を二つにわけた両部面(「収入の実現」部面=第一部面と「資本の移転」の部面=第二部面)で流通する通貨の分量が繁栄期と反転期とでは、その相対的な割合が違うので、それを根拠に銀行学派がまたいろいろと混乱した主張を行っているという問題であった。

【11】それをマルクスはまず両部面における通貨が繁栄期と反転期ではどのように変化するのかを分析している。これは銀行学派の言い分にもとづいて、マルクス自身が分析を加えるといった形で展開されており、その限りではマルクス自身の分析である(しかし使っている言葉は銀行学派のものである)。

【12】これは【11】パラグラフを直接受けたもので、【11】パラグラフでは繁栄期における収入の実現という機能を果たす通貨の増加が検討されたが、ここでは同じ繁栄期における資本の移転という機能を果たす通貨の増減が検討されている。

【13】このパラグラフは繁栄期の分析のまとめといえる。繁栄期には全体として通貨は潤沢である(ただし流通の第1の部面では増加するが、第2の部面では収縮する)。

【14】このパラグラフは全体が括弧に入っており挿入文といえる。【12】パラグラフで繁栄期には信用がもっとも容易な時期であるという指摘に関連して、信用取引が過剰取引を生むことが指摘されている。

【15】このパラグラフから「反転期」あるいは「逼迫期」について論じているが、この恐慌期の検討はほぼ最後まで(【52】パラグラフのあと【53】~【53-3】パラグラフが全体のまとめであり、【46】パラグラフのあとに挿入された【54】~【56】パラグラフも含めて)続いていると言ってもよいであろう。

【16】このパラグラフは【15】パラグラフの補足的なもので、信用が優勢な時期は貨幣の流通速度は商品の価格の上昇よりも急速に増大するが、信用が減退するときは、商品の価格は流通の速度が落ちるよりもより緩慢に低下することが、以前の『経済学批判』を引用する形で紹介されている。

【17】このパラグラフは原注であり、【16】パラグラフで引用された典拠が示されている。

【18】このパラグラフから逼迫期の本格的な分析がはじまる。逼迫期には第一の流通に必要な通貨の総量は減少するが、第二の流通に必要なものは増加すると指摘し、それがフラートンらが言い立てている命題とどこまで一致するのかということを詳しく検討する必要があると指摘されている。

【19】これは本文であるが、フラートンからの引用だけである。フラートンの主張とは〈貸付資本にたいする需要追加の Circulation にたいする需要とはまったく別のものであって,両方がいっしょに現われることはあまりない。」〉というものである。

【20】このパラグラフは先の【19】パラグラフつけられた原注b)であるが、この原注は本文とほぼ同じ内容のフラートンからの引用(先の引用は『通貨調節論』の第5章の表題〔概要〕からだったのに対して、今回の引用は第5章の本文からのものである)がまず紹介されている。それは〈貨幣融通pecuniary accommodation〕にたいする(すなわち資本の貸付にたいする)需要追加流通手段means of circulationにたいする需要と同じだ,と考えること,あるいは両者はしばしば結びついていると考えることさえも, じっさい大きなまちがいである。」〉というものである。この原注b)はしかしこのパラグラフだけで終わらず、【23】パラグラフまで続いている。

【21】さきの【20】パラグラフのフラートンの引用を受けて、しかしこのことから貨幣融通にたいする需要が金(彼らが「資本」と呼んでいるもの)に対する需要と一致する必要があるわけではないということは次のことからもわかると指摘されている。つまり流通手段に対する需要と同じではないというが、しかしこのことからそれは金に対する需要に一致する必要があることを意味しないというのである。

【22】このパラグラフは先の【21】パラグラフで〈次のところからもわかる〉と述べられていたことを受けたもので、イングランド銀行総裁ヴェゲリンの証言が引用されている。巨額の手形割引(つまり貸し付け業務)が行われても同行の準備(すなわち金)には影響しないという証言がなされている。

【23】このパラグラフも【22】パラグラフと同じ主旨のもので、同じくヴェゲリンの証言で、毎日150万もの割引をしても、準備には影響しないことが証言されている。これで原注b)は終わる。

【24】ここからは本文であり、だからこのパラグラフは【18】、【19】パラグラフと直接つながっている。ただし最初にマルクスは〈まずもって明らかなのは,流通媒介物の総量が増大せざるをえない第1の場合には,この媒介物にたいする需要が増大するということである〉と〈第1の場合〉、つまり繁栄期について論じている。【18】パラグラフから反転期へと問題を転じたが、ここではフラートンらの主張と関連させる形で部分的に繁栄期について論じているのである。流通媒介物が増大すればそれに対する需要も増大するが、しかしそれは資本にたいする需要が増大するのではなく、ただ資本の特殊的形態である貨幣(現金)への需要という場合もあるというケースをあげている。

【25】このパラグラフは原注a)であるが、注番号が書かれているのみである。

【26】このパラグラフは本文であるが、ただ〈しかしフラートンの対置は正しくない〉という一文が掲げられているのみである。ここでマルクスがいう〈フラートンの対置〉というのは、〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要〉を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉していることである。それが〈正しくない〉理由が以下論じられている。

【27】ここでは貸し付けに対する需要の量が繁栄期を逼迫期から区別するのではなく、その需要の充足が容易か否かが両者を区別するのだと述べている。

【28】ここでは繁栄期と逼迫期とを区別するものは、繁栄期には商人と消費者とのあいだの通貨に対する需要が優勢で、反転期には資本家のあいだの取引のための通貨に対する需要が優勢だということ、そして反転期には前者が減少し後者が増加すると指摘されている。

【29】ここではフラートンらに対して決定的な役割を果たしているのは、イングランド銀行の有価証券が増加する(貸し付けが増加する)時期には同行の銀行券は減少し、反対の時期には反対だという現象だということだ、との指摘がある。

【30】このパラグラフは原注b)であるが、この原注b)は次の【31】パラグラフに続いており、しかも長い。このパラグラフでは〈フラ一トンのこの個所の全体を抜き出しておくことが重要である〉と述べ、その理由を〈彼がここで「資本」という言葉でなにを考えているかも示されているから〉だと述べている。〈この個所の全体〉というのはフラートンの著書の第5章の最後のパラグラフ全体ということであろう(しかしマルクス自身はパラグラフ全部を引用しているわけではないが)。

【31】このパラグラフは原注b)の続きで、フラートンの著書からの引用であるが、その間にマルクス自身の長いコメントが挟まれている。三つに分けて検討した。
  (1)まずフラートンからの引用は、【29】パラグラフで述べていたイングランド銀行における保有有価証券と銀行券の流通高との動向を確認し、それが地方銀行業者たちが強行に主張していることの例外ではないと述べている。つまり銀行券が普通の目的のために適合しているなら、それ以上銀行券を増加させることはできないのであり、それ以上の貸付はすべて自己の資本からなされねばならないという主張である。それがイングランド銀行で生じている事態と同じだというのがフラートンらの主張である。
  (2)マルクスは〈では,ここではなにを資本と言っているのか? 〉と問題を提起して、それは銀行が自分の資本(自己資本と借入資本)の貸し出しになることを「資本の貸し出し」と言っているだけだと指摘している。つまり利子生み資本という意味で彼らは「資本」と述べているのではないということである。そしてマルクスは結論的に〈どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである〉と述べている。
  (3)残りのフラートンからの引用部分は、最初の引用文でフラートンが述べていた現象(イングランド銀行の保有有価証券は、同行の流通高と同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことの方が多い)を具体的数値を上げて証明しているものである。

【32】ここからマルクスはイングランド銀行の貸し付けが増えてもその銀行券の流通高が増えないのはどうしてか、という問題を正面から論じている。このパラグラフはまずその前提として、イングランド銀行の貸付や割引はすべてイングランド銀行券で行うので、これらの銀行券がどうなるのか、ということが問題になると問題を提起している。

【33】ここからはまずイングランド銀行への貸付や割引の要請が国際収支の逆調から、つまり金地金の輸出の必要から生じている場合を論じている。この場合には、確かに銀行券はすぐに地金との交換のためにイングランド銀行に還流してくるので、そうした貸付がいくら増えても銀行券の流通高は増えない。しかしそれは果たして銀行学派たちの主張するように、その貸付が「資本の貸付」だからなのかとマルクスは問題を論じて、それは世界貨幣の貸付であり、その限りでは彼らがいうように「資本の問題」なのではなく貨幣の問題なのだと批判している。

【34】原注c)、フラートンの著書からの引用文の典拠を示すだけ。

【35】原注a)、これは【33】パラグラフの議会証言第348号につけられた原注で、商業的窮境. 1847-48年。とあり、マルクスの皮肉なコメントが付いている。

【36】このパラグラフは全体が{   }に入っている。同じ地金流出の問題だが、若干、フラートンらの主張に対する批判とは異なる問題だということであろう。ここではトゥックの発見として、為替相場の異常な低落は、すべて国内の流通媒介物の比較的少ない状態と一緒に起こったという事実を指摘している。そしてこれは通貨説のやつらの主張に対する最良の反駁だと指摘している。

【37】このパラグラフは〈さて,われわれは地金の流出を度外視しよう〉という一文からはじまっているが、依然として地金流出の問題が論じられている。ここでは国際的な流通・支払手段に対する需要は、国内の流通・支払手段にたいする需要とは違うこと、貴金属の国外輸出は、国内の流通への銀行券や鋳貨の投入とは同じではないということが明言されている。ただ蓄蔵貨幣のさまざまな機能が一つの準備ファンドに負わされために、事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくこともありうること、さらにさまざまな準備が一つの主要銀行に集中され、しかもそれが最低限に縮小されることからさまざまな不安要因になることが指摘されている。そして最後に〈では,地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,どのようにしてであろうか〉と問題を提起して次のパラグラフからの検討の課題を示している。

【38】ここでは【37】パラグラフの最後に述べた問題を検討するために、まずはイングランド銀行券は、同行の外にある場合、それが私人の金庫のなかで眠っていようが、同行にとっては流通のなかにあるものとされること、だから流通高を増やさずに貸付を増やすためには、貸付で発行された銀行券が同行に還流しなければならないが、それは二つの仕方で起こりうることが指摘されている。

【39】ここでは二つの仕方でイングランド銀行券が同行に還流する一つ目の仕方(第一に)が検討されている。これは貸し付けた銀行券が預金として還流してくる場合である。結局、この場合は最初の信用だけによる銀行券による貸付は、預金による貸付、すなわち自分の資本(借入資本)による貸付に帰着し、イングランド銀行の元帳の立場からでは「資本の貸付」になるが、しかし最初の貸付がすぐに還流したのは「資本の貸付」になったからではなく、それが支払手段に対する貸付だからすぐに預金として還流してきたのだとマルクスは指摘している。

【40】ここでは第2の仕方が検討され、この場合は貸し付けられた銀行券がイングランド銀行への満期手形の支払いとして還流してくる場合である。この場合は、銀行学派たちの主張する「資本の貸付」という様相さえなくなることが指摘されている。以上がイングランド銀行における貸付が、銀行券の流通高の増大なしに、増大しうるために、貸し付けられた銀行券がすぐに還流してくるケースの検討である。

【41】ここでは地方の発券銀行の場合の違いについて述べている。ここでは地方銀行券の場合には、イングランド銀行券の場合とは異なり、逼迫期には兌換要求に応じる必要が生じることが指摘されている。またイングランド銀行の場合には、銀行券の流通高がその制限の最高限度に達している場合には(だから発行限度額が法定されているすべての発券銀行にもいいうることであるが)、イングランド銀行券を流通から引き上げるために公的有価証券を売却する必要が生じるが、この場合、引き上げられた銀行券が貸し付けられる場合は確かにその貸付は同行の銀行業資本の一部からの貸付になると指摘している。

【42】これまではイングランド銀行券にしろ地方の発券銀行の銀行券にしろ、銀行券が問題であったが、たとえ銀行券がなくて純粋な金属貨幣だけが流通していたとしても、銀行学派たちが主張するような現象は生じることが指摘されている。

【43】今度も銀行券を一枚も必要としない帳簿信用による貸付の場合が検討されている。この場合もやはり銀行学派たちが主張するような元帳の立場からは「資本の貸付」になることが指摘されている。

【44】ここでは銀行学派たちがいうように、銀行に貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというなら、それはただ銀行業資本、つまり銀行業者の立場からみての資本であるものに対する圧迫だということにすぎないことが指摘されている。ここでは、いわば銀行学派たちの主張の批判を結論的に述べているといえる。

【45】このパラグラフはこれまでのc)で検討してきたことのまとめである。それは次のようなものである。〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである

【46】このパラグラフは【45】パラグラフに続けて書かれている。逼迫期にはたとえ一時的とはいえ、支払手段としての銀行券の流通高が増大するので総流通高が増大することもあることが指摘されている。

【47】このパラグラフは原注a)として、【46】パラグラフで引用されていたフラートンの著書の典拠を示すためのものだが、それと同時に関連する議会証言や著書からの引用がなされており、だからこの原注a)そのものは【51】パラグラフまで続いている。

【48】原注a)の続きで、「商業的窮境,1847-1848年。」から議会証言が引用されたあと、マルクスのコメントが付いている。証言では逼迫期には信用に不安が生じて一般的な退蔵が生じることが指摘されている。それに対するマルクスのコメントは、このような場合に国立銀行にとって流通高として現れるのは、中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散であり、このような時期に人為的に銀行券の欠乏を作り出す投機的操作が行われることを指摘している。

【49】このパラグラフも原注a)の続きで、直接【48】パラグラフのマルクスのコメントのなかで人為的に銀行券の欠乏を操作する投機師の具体例としてヘンリー・ロイ『為替の理論』からの引用が紹介されている。

【50】これも原注a)の続きであるが、【49】パラグラフと同じ主旨の引用が『ジ・オブザーバー』からなされている。

【51】これも原注a)の続きで、これで原注a)は終わっている。これもこれまでと同じように恐慌時には貨幣の退蔵のために預金の引き出しが生じたことが議会証言として述べられている。

…………(挿入)

【54】いったいこのような逼迫期に足りないものは「資本」なのか、それとも「支払手段」である「貨幣」なのか、とマルクスは問題を提起し、これは論争問題だとしている。

【55】まず逼迫が地金流出として現れる場合は、要求されるのは国際的な支払手段であり、それは確かに貨幣資本だが、しかし支払手段という貨幣の機能が問われていることを指摘している。

【56】地金の流出を除けば、逼迫期に「資本」が不足しているなどということはできないこと、反対に市場は商品資本で溢れているのだと述べている。

………… (挿入おわり)

【52】恐慌時にそれまでの信用主義が重金主義に転化することはすでに貨幣の支払手段を考察した時に論じておいたことが指摘されている。

【53】このパラグラフも全体のまとめの一つであり、フラートン等が貨幣の「購買手段」と「支払手段」との区別を「通貨」と「資本」との間違った区別に転化させていることを指摘し、その根底にはまたしても「流通」についての銀行業者の偏狭な観念があると指摘している。

【53-1】これも結論であるが、【53】パラグラフと基本的には同じ内容である。

【53-2】銀行学派たちの主張は、結局は、貨幣をとりわけ優れた意味での「資本」だと教え込むことになっていると指摘されている。

【53-3】ところが彼らは、そうすることによって貨幣資本(geldcapital)を「利子生み資本」という意味での貨幣資本〔moneyed Capital〕と混同しているのだとしてしている。ここでようやく冒頭のパラグラフで指摘していた貨幣資本(geld Capital)と利子生み資本(moneyed Capital)との区別の問題が出てくるが、詳しい展開はなく〈もっとあとの研究で明らかにする〉と述べているだけである。

  以上がこれまでの各パラグラフの概要である。それにもとづいてこの第28章全体(マルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打った部分全体)の構成を見てみることにしよう。

  (以下、続く。)

 

2022年3月15日 (火)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-15)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-15)



【49】

   〈546)「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,……1839年の最低のCirculationの月に実際にあったことなのである。」(〔へンリー・ロイ〕『為替の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)

  546) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節 b「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている (MEGA II/5,S.95.27-32;MEW23,S.152-153)。〉 (143頁)

  【これも引用だけなので平易な書き下し文は省略する。このパラグラフは、原注a)の続きであるが、その前の(【48】)パラグラフのマルクスの追加文のなかで投機を目的に人為的に銀行券の欠乏を作り出すとの指摘があったが、それを論証する一つの例として引用されていると考えることができる。
  訳注546)によれば、この〈へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節 b「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている〉ということなので、それを見ておくことにしよう。

  〈支払手段としての貨幣の機能は、一つの媒介されない〔直接的〕矛盾を含んでいる。諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払いが行われなければならない限りでは、貨幣は、流通手段として、すなわち、素材変換のただ一時的媒介的な形態として登場するのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の自立した定在、絶対的商品として登場する。この矛盾は、生産恐慌・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる時点で爆発する(99)。貨幣恐慌が起きるのは、諸支払いの過程的な連鎖と諸支払いの相殺の人為的制度とが十分に発達している場合だけである。この機構の比較的全般的な撹乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する。それは、卑俗な商品によっては代わりえないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態をまえにして姿を消す。つい先ほどまで、ブルジョアは、繁栄に酔いしれ、蒙を啓くとばかりにうぬぼれて、貨幣などは空虚な妄想だと宣言していた。商品だけが貨幣だ、と。ところが今や世界市場には、貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。鹿が清水を慕いあえぐように〔旧約聖書、詩篇、42・2、日本聖書協会訳では42・1〕、ブルジョアの魂も貨幣を、この唯一の富を求めて慕いあえぐ(100)。恐慌においては、商品とその価値姿態である貨幣との対立は絶対的矛盾にまで高められる。それゆえまた、この場合には貨幣の現象形態は何であろうとかまわない。支払いに用いられるのが、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉は貨幣飢饉である(101)。

 (99) 本文ですべての全般的生産・商業恐慌の特殊な局面として規定された貨幣恐慌は、特別な種類の恐慌とは、はっきり区別されなければならない。人は同じように貨幣恐慌と呼ぶが、後者は独力で発生しえ、したがって商工業には反作用的にのみ作用する。後者は、貨幣資本を運動の中心とし、したがって銀行、取引所、金融界をその直接の領域とする恐慌である(第3版へのマルクスの注)。
 (100) 「信用主義から重金主義へのこの突然の転化は、実際のパニックに理論上の恐怖をつけ加える。そして、流通当事者たちは、彼ら自身の諸関係の見すかしえない神秘の前に震えあがるのである」(カール・マルクス、前出、126頁〔『全集』、第13巻、124~125頁〕)。「貧乏人に仕事がないのは、金持ちが、食物や衣類を生産させるための土地と人手は前と同じだけもっているけれども、貧乏人を雇うための貨幣はもたないからである。だが、食物や衣類こそ国民の真の富であり、貨幣がそうなのではない」(ジョン・ベラーズ『産業高等専門学校設立の提案』、ロンドン、1696年、3、4ページ)。
 (101) このような瞬間が「“商業の友 amis du commerce ”」によってどのように利用されるかは、次の通り。「ある時」(1839年)「一人の欲深い老銀行家」(シティー〔ロンドンの金融街〕の)「が、彼の私室で、座っていた机のふたをあけて、友人に銀行券の束を見せながら、ひどくうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがある。金融をひっ迫させるためにしまっておいたのだが、きょうの3時以後には全部出してしまうさ、と」(〔H・ロイ〕『取引所の理論。1844年の銀行特許法』、ロンドン、1864年、81ページ)。なかば政府機関紙である『ジ・オブザーヴァー』紙は1864年4月24日にこう書いている。「銀行券の欠乏を生じさせるためにとられた手段について、いくつかのきわめて妙なうわさが流れている。・・・・何かこの種のトリックが用いられたと想像することは疑問の余地ありと思われるにしても、風聞があまねく行きわたっているから、たしかに言及する値うちがある」。〉  (新日本新書版233-234頁、全集版第23a巻180-181頁)】


【50】

  〈①資本〔」〕 (!) 〔「〕の供給は増加し,融通への需要は減少した。あらゆる非常事態に備えようといういつもの欲求--そしてこれが先週の終りに調査を促したものであったが--の結果,いつものように公衆は,実際に彼らが不足のために必要としているよりも大きな金額を確保しようと努力した。そして,自分自身の補充が十分になったにもかかわらず,彼らは喜んで預金から彼らの残高を引き出し,これを払い出すべき好機に賭けたのである。……547)銀行券の欠乏を生じさせるために取られた手段について,ひどく奇妙なうわさがいくつか流れている。……なにかこの種のトリックが用いられたと想像することはどうかと思われるにしても,うわさは相当に広まっており,たしかに言及に値するものである。」(『ジ・オブザーバー』,4月24日) (1864年)

  ①〔注解〕「ファンド-シティ-,4月23日,土曜日」。所収:『ジ・オブザーバー』,ロンドン,第3806号,1864年4月24日,4ページ第1欄。--マルクスがこの引用を,このまえに挙げられている書物『為替相場の理論。……』,236ページから取ったことは明らかである。

  547) 以下の部分は,前注でふれた『為替相場の理論』からの引用のあとに,「半ば政府機関紙である『ジ・オブザーパー』紙の1864年4月24日号は,次のように述べている」,として引用されている。(MEGA II/5,S.95,32-36;MEW 23,S.153)。〉 (143-144頁)

  【これも引用だけなので書き下し文は省略する。このパラグラフも原注a)の続きであり、先の【49】パラグラフと同様投機目的に銀行券の人為的欠乏をつくりだすことに関連したものである。やはりすでに参照した『資本論』第1部第3章第3節b「支払手段」の注101の後半部分に一部引用されている。先の【49】パラグラフの話は1839年の恐慌時の話であったが、今回のものは1864年の恐慌時の話のようである。そして言われていることは、基本的に同じで恐慌がパニックに陥ると、公衆による金やイングランド銀行券の一般的な退蔵が生じること、またそれと結びついて投機目的に人為的に銀行券欠乏状態をつくり出そうとする策動が行われるといったものである。】


【51】

  第1653号548)(S.ガーニ。ロンドンのピル・ブローカー)「昨年〔」〕(1847年)〔「〕10月に地方の仲間たちがわれわれの手に預金した貨幣を求めて,国のあらゆる地域から,われわれにたいする全般的な需要があった。」〔原注a)終り〕|

  ①〔注解〕『商業的窮境……に関する秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。「ロンドン・ノート,1850-1853年」のノートⅦから取られている。(MEGA Ⅳ/8,S.263,23-25.)

  548)質問者は議長ベアリング。〉 (144頁)

  【これも引用だけなので、平易な書き下し文は省略する。これも基本的には同じ趣旨の引用と考えられる。なおこの引用で原注a)は終わっている。
  1847年の10月というのは恐慌のピークであり、政府は10月23日にイングランド銀行に対して、1844年のピール条例を停止する法案を出す用意があると非公式に打診し、2日後に公式に最低利率8%を以て割引と貸付の増加とを許可する書面を出している。この大蔵大臣の書面の公表は絶大な効力を発揮し、「貨幣がえられることが確実になると、これを得ようとする総ての願望を消滅させてしまった」という(アンドレァデス前掲書398頁)。
 ここで紹介されているのは、それ以前の話であり、やはり退蔵のために預金の引き出しの全般的な需要があったことを示すものであろう。
 以上で、原注a)は終わっているが、この原注a) 全体は基本的には恐慌時には、それまでの信用主義から重金主義へ転換が余儀なくされること、特にパニックが起こった時点では、金やイングランド銀行の一般的な退蔵が生じることが指摘されていた。さらにそうした時を利用した投機目的の貨幣需要も生じることが指摘されている。そしてこれらの内容は基本的に次の本文に直接繋がるものでもある。】


【52】

  〈/334上/支払の連鎖が中断されたときに,貨幣がそれのたんに観念的な形態から,諸商品に対立する,物的で同時に絶対的な形態に転回することは,すでに貨幣を考察したところで(支払手段の項目のもとで)[519]論じておいた。この中断そのものは,信用の動揺やそれに伴う諸事情,すなわち供給過剰の市場や商品の減価や生産の中断等々の,一部は結果であり,一部は原因である。

  ①〔注解〕「すでに貨幣を考察したところで」--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』,ベルリン,1859年,125-126ページ (MEGA II/2,S.207/208)。〉 (144頁)

  ここから再び本文がはじまりこの第28章該当部分の纏めと言える部分が続く。ほとんど書き下す必要がないが、一応、書き下し文を書いておこう。

 〈諸支払の連鎖が中断されたときに,貨幣がそれのたんに観念的な形態から,諸商品に対立する,物的で同時に絶対的な形態に転回すること、すなわちクレジットシステム(信用主義)からモネタールシステム(重金主義)に転換することは,すでに第1部の貨幣の流通を考察したところで(支払手段において)論じておきました。この諸支払の連鎖の中断そのものは,信用の動揺やそれに伴う諸事情,すなわち供給過剰状態の市場や商品の減価や生産の中断等々の,一部は結果であり,一部は原因なのです。〉

  【このパラグラフ自体は理解困難なものは何もないであろう。先に紹介しておいた。『資本論』の第1部第3章第3節b「支払手段」の一文も参考になるが、MEGAの注解は『経済学批判』を紹介しているので、それを今度は紹介しておこう。

  〈諸支払いが正負の大きさとして相殺されるかぎり、現実の貨幣の介入はまったく生じない。この場合には、貨幣はただ、価値の尺度としてのその形態で、一方では商品の価格において、他方では相互の債務の大きさにおいて、展開するだけである。だからここでは、交換価値はその観念的な定在のほかには、なんら自立的な定在をもたず、価値章標としての定在さえもたない。言い換えるならば、貨幣はただ観念的な計算貨幣となるにすぎない。だから支払手段としての貨幣の機能は、次のような矛盾を含んでいる。すなわち、貨幣は一方では諸支払いが相殺されるかぎり、ただ観念的に尺度として作用し、他方では支払いが現実に行なわれなければならないかぎりでは、瞬過的な流通手段としてではなく、一般的等価物の静止的な定在として、絶対的商品として、ひとことで言えば貨幣として流通に入る、という矛盾がこれである。だから諸支払いの連鎖とそれらを相殺する人為的制度がすでに発達しているところでは、諸支払いの流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を撹乱する激動が生じると、貨幣は突然に価値の尺度としてのそのガスのような幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから商品占有者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銭だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的商品であるとかいう迷信を見くだして嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の適合的な形態として、貨幣蓄蔵者が理解しているのとまったく同様な唯一の富として再現する。貨幣が富のこのような排他的定在としてその姿を現わすのは、たとえば重金主義の場合のように、すべての素材的富が単に表象のなかで価値を減少し、価値を喪失する場合ではなく、それらの富が現実に価値を減少し、価値を喪失する場合である。これが貨幣恐慌と呼ばれる、世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる最高善〔summum bonum〕は貨幣、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるというまさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、単なる華美と飽食として現われる。信用主義から重金主義へのこの突然の転化は、実際のパニックに理論上の恐怖をつけ加える。そして流通当事者たちは、彼ら自身の諸関係の奥底しれぬ神秘のまえにふるえあがるのである。*。

  * ブルジョア的生産諸関係がブルジョアたち自身にさからうのを阻止しようとしたボアギュベールは、とくに好んで、貨幣がただ観念的にか、またはただ瞬過的に現われるにすぎない場合の諸形態をつかまえる。まえには流通手段をそうした。こんどは支払手段をそうする。彼がまたもや見おとすのは、貨幣の観念的形態から外面的な現実性への無媒介的な急変であり、ただ考えられただけの価値尺度のなかにすでに硬貨が潜在的に含まれているということである。彼は言う。貨幣が諸商品それ自体の単なる形態であるということは、「諸商品の値段が決められて」〔les marchandises sont appréciées〕しまえば、交換が貨幣の介在なしに行なわれる卸売取引にさいして現われる、と。『フランス詳説』、前掲書、210ページ。〉 (草稿集③371-372頁)】


【53】

  〈フラ一トン等々が購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「通貨〔currency〕」と「資本」との間違った区別に転化させていることはまったく明白である。その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念があるのである。|〉 (144-145頁)

  これも先のパラグラフに続くcの分析の結論ということができる。とりあえず内容的には何も問題ないが、大谷氏が英文のままにしてある部分の翻訳を示すために書き下し文を書いておこう。

  〈フラートン等々が、「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を、「通貨」と「資本」とのまちがった区別に転化させていることはまったく明白です。その根底にはまたしても「流通」についての銀行業者の偏狭な観念があるのです。〉

  【ここで銀行学派のまちがった区別の根底にあるものとしてマルクスが〈またしても「Circulation」についての銀行業者的な観念がある〉としているが、このCirculationは何と訳すべきであろうか? 長谷部訳では「流通手段」と訳しており、全集版は「流通」と訳している。
 これまで検討してきた銀行学派の主張を見ると、彼らは流通をスミスに倣って「収入の流通」と「資本の流通」に分けて、前者の流通を媒介するものを「通貨」とし、後者の流通を媒介するものを「資本」としたのであった。だから彼らは「収入の流通」では貨幣は主に購買手段として機能し、「資本の流通」では支払手段として機能するところから、購買手段を「通貨」とし、支払手段を「資本」とするという誤った区別に陥っているのである。だからこの場合のCirculationは、やはり全集版のように「流通」と訳すのが適当ではないかと思う。

  しかし小林賢齋氏は〈さらにトゥックやフラートン等が誤って,購買手段としての貨幣を「通貨」,支払手段としての貨幣を「資本」に転化させる「基礎」には,「通貨(Circulation)」についての「発券銀行業者の立場」があると批判していく。〉(382頁)と述べており、Circulationを「通貨」と訳している。ここで小林氏がマルクスが〈銀行業者の偏狭な観念〉があると述べているものを敢えて〈「発券銀行業者の立場」がある〉と言い換えているのは、【7】パラグラフでマルクスが〈収入のCirculation〔流通--引用者〕としてのCirculation〔流通銀行券--同〕と資本のCirculation〔流通--同〕としてのCirculation〔流通銀行券--同〕との区別を,Circulation〔通貨--同〕資本との区別にしてしまうのは,愚にもつかないことである。このたわごとは,トゥックがまさに,銀行券を発行する発券銀行業者の立場に立っていることからきているものである〉と批判していたことが頭にあるのであろう。この是非については何とも言えない。そのように理解したからと言って間違いとはいえないからである。ただマルクスがその前に述べていることは,〈「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「通貨〔currency〕」と「資本」との間違った区別に転化させている〉ということであり、これ自体は発券銀行業者に固有のものとは言えないのではないだろうか。】


◎最後の【54】~【56】パラグラフに移る前に


 【53】パラグラフで基本的にこれまで考察してきたcの分析は終わるのだが、それにしてはやや“しり切れとんぼ”の感が否めない。そもそもマルクスはこの第28章該当部分の冒頭で次のように述べていた。

 〈トゥック、ウィルソン、等々がしている、Circulation〔通貨――引用者〕資本との区別は(そしてこの区別をするにさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別が、乱雑に混同されるのであるが〔)〕,次の二つのことに帰着する。--〉

 すでに説明したように、マルクスはここで銀行学派の混乱した通貨と資本との区別に対して、マルクス自身の概念として〈鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味でのmoneyed capital〉という諸概念の区別の必要を対置しているのである。ところがこれまで見て来たかぎりでは、マルクスは「利子生み資本」という言葉を一度も使っていない。私はレジュメの進展に応じてどうしても説明する必要から「利子生み資本」という言葉を使って説明してきたが、マルクス自身はこの言葉をこの最初のパラグラフで使って以降、まだ一回も使っていないのである。これは奇妙なことといわなければならない。つまり今回のパラグラフがcの結論の最後のパラグラフであるならば、マルクスは最初に銀行学派の混乱した概念に対置して自ら呈示した科学的な概念をまったく使わずに終わってしまうことになるのである。しかしこれは不合理であろう。
 その理由についてはすでに以前、少しだけ示唆したように、マルクスは実はエンゲルス版の第29章に該当する部分(「Ⅱ)」)に第28章該当部分(「Ⅰ)」)の結論部分を挿入させているのである。
 すなわちマルクスが、「Ⅱ)」の冒頭〈[519]|335上| II.今度は,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である〉(大谷新本第3巻159頁)と一旦述べながら、続くパラグラフでは、銀行業者の資本がなにから成っているかの具体的な内容の分析を行うのではなく(それはわれわれのパラグラフ番号では【9】パラグラフからはじまる)、「Ⅰ)」の結論的部分の続きを書いているのである。そしてそのあとで、大谷氏のテキストやエンゲルス版では第28章の最後に入れられている〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉云々というパラグラフが続いているのである。
  このように一旦、次の問題に移りながら、しかし前の問題でいい足りないことがあるので、結局は、それに続けてその前の問題の続きを書くという叙述の特徴は、ある意味ではマルクスの草稿に特徴的なことなのである。類似した叙述は、マルクスの草稿の至るところで見ることができる。
 実際、われわれはこの「Ⅰ)」のなかでも例えば【37】パラグラフで〈さて,われわれは地金の流出を度外視しよう〉と一旦書きながら、それに続けて括弧に入れてではあるが、〈地金の流出についてはいっさいの知恵が次のことに帰着する〉云々と依然として、地金流出の問題を論じているといった具合のようにである。あるいは『61-63草稿』でも気づいたものを紹介しておくと、剰余価値学説史のなかで、マルクスは〔年々の利潤と賃金とが、利潤と賃金とのほかに不変資本をも含む年々の商品を買うということは、どうして可能であるか、の研究〕をながながと続けながら、それをひとまず打ち切り〈われわれは、こんどは、彼〔スミス〕について考察するべき最後の論点--生産的労働と不生産的労働との区別--に移る〉(草稿集⑤170頁)と書きながら、すぐには生産的労働と不生産的労働の区別の考察には移らず、〈{あらかじめ、前述のことについてもう一つ〉と述べて、それまでの論述の続きを行っているのである。これらを見ても、次の問題に一旦移ると宣言したあとも、それまでの考察の続きを引きずって書くというのは、マルクスの草稿での一つの特徴とも言えるようなものなのである。
   すでに指摘したが、このあと大谷氏の著書では、エンゲルス版に倣って、第29章該当部分の草稿にある部分をここに持ってきて、【54】~【56】パラグラフにしている。その理由について、大谷氏は【54】パラグラフに付けられた訳注563)で次のようにのべている。

  〈563)〔E〕草稿の334ページ上半の末尾の前パラグラフに続く草稿の335ページの上半では,「II. 今度は、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」,として,エンゲルス版の第29章に利用された部分が始まる。しかしマルクスは,そのあと三つのパラグラフを書いたのち,「Ⅰ)については〔ad Ⅰ)〕,……」として,挿入的な3パラグラフを書いている。この3パラグラフの左側には,インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて,この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している。ここで言う「Ⅰ」 は,エンゲルス版の第28章に利用された,草稿の328ページから始まる部分の第2パラグラフの最初に書かれている「Ⅰ)」を指すものと考えられる。そこでエンゲルスは,この記述を第28章の末尾に移したのである。本章でも同じく,エンゲルス版の第28章の末尾にあたるこの箇所に収めておくことにする。〉 (145頁)

  このように大谷氏は〈「II. 今度は、銀行業者の資本がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である」〉としたパラグラフのあと〈そのあと三つのパラグラフを書いたのち〉と書いているが、実はこの三つのパラグラフもこの第28章該当部分(「Ⅰ)」とマルクスが項目番号を打った部分)に属するのであり、しかもその結論部分の続きと考えるべきなのである。この点、小林氏の理解は違っている。同氏の著書の第11章の最後に付けられた〈〔補遺〕現行版第28章の末尾部分について〉のなかで同じ問題を取り扱っているが、その視点は基本的には私の理解と同じである。次のように述べている。

  〈ところが手稿によると,第5章第5節の「Ⅰ)」(現行版第28章)が,実質的にどこで終わり,「II)」(現行版第29章)がどこで始まるかは,若干複雑である。即ちマルクスは,手稿334ページ末尾に,「しかしフラートン等(Full.etc)が『購買手段』としての貨幣と『支払手段』としての貨幣の区別を『通貨(currency)』と『資本』との誤った区別に転化したことは明らかである。しかしそこには再び"circulation"についての銀行業者の狭い表象が基礎になっている」と記し,手稿335ページに移ったところに,「II)」と記入し,「今度は銀行業者の資本(das banker's Capita1)は何から成り立っているかを立ち入って吟味することが必要である」と認めている2)。
 したがってマルクスは,「しかしフラートン等が… 云々」のパラグラフで「Ⅰ)」を終え,「今度は銀行業者の資本… 云々」のパラグラフから「Ⅱ)」を書き始めようとした3)とみることができる。
 しかしこれに続けてマルクスは,次の3つのパラグラフを認めていく。即ち,……〔以下、著者は「Ⅱ)」の第2~4パラグラフを引用しているが省略〕……
 問題はこれら第2~第4のパラグラフについてである。これら3つのパラグラフも,「銀行業者の経済学」についての「論評」であり,したがって内容的には「Ⅰ)」についての捕捉と見ることができる。〉 (404-405頁)

  このように小林氏は大谷氏やエンゲルスとは違い、「Ⅱ)」の第2~4パラグラフ(われわれのパラグラフ番号では【3】~【5】)も「Ⅰ)」に含まれるものと考えている。ただ私がそれらを「Ⅰ)」の結論的部分の最後の部分としたのに対して、小林氏はただ〈捕捉と見る〉だけの違いである。もっとも結論的部分の「補足」ということなら私の見解と一致する。
  なお小林氏は〈Ⅰ)について……〉という一文からはじまる第5~7パラグラフ(同【6】~【8】)についても次のように述べている。

  〈ところで,これら3つのパラグラフ(小林氏のパラグラフ番号で第5~7パラグラフのこと--引用者)は「係争点」に係わる「ひとまとまり」ではある。しかしこのひとまとまりの最初のパラグラフ,つまり第5のパラグラフの,エンゲルスが削除した「Ⅰ)について」という言葉を補って読み直すならば,エンゲルスが残した「なお」の前後の関係が異なってくる。即ち,第2~第4のパラグラフで「Ⅰ)について」の補足を書き記したが,それでも「1についてなお」補足しておくことがあり,それが「通貨主義者」との「係争点」である,という意味となるであろう。〉 (406頁)

  つまり小林氏も同氏の考える第5パラグラフの「Ⅰ)について」と書き出しているものは、その前に第2~4パラグラフも「Ⅰ)」の結論的部分の最後の部分を書いたものだから、本来はそれで「Ⅰ)」が終わったのだが、しかしさらにマルクスは補足して第5~7パラグラフを書き足したのだと考えていることが分かる。ただ小林氏はではひとまとまりの第4~7パラグラフを「Ⅰ)」のどこに入れるべきかというところまでは追求せずに、エンゲルスや大谷氏と同様に〈第2~ 第7の6つのパラグラフ全体を,「Ⅰ)」の末尾に移すのが妥当であろう〉(406頁)と書いているだけである。この点では私の考えとは異なる。私の考えは後に述べることにする。

  さて、以上の理由から、この解読文では、【53】パラグラフのあと、【53-1】、【53-2】、【53-3】として「Ⅱ)」の第【3】~【5】パラグラフの解読を続けることにしたい。


【53-1】

 〈いま見たように、フラートンその他は、「流通手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との{地金の流出が関わるかぎりでは、また「世界貨幣」としての貨幣との}区別を、「Circulation」(通貨currency〕)と「資本」との区別に転化させる。〉  (159頁)

  【これは内容的にはそれほど難しくはないので、平易な書き下し文は省略する。

  ここで〈いま見たように〉というのは、第28章全体を指しているとも捉えることも出来るが、第28章の最後のパラグラフを直接引き継いでいると考えるのが正しいように思える。
その最後のパラグラフ(【53】)というのは、次のようなものである。

 〈フラ一トン等々が,「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「 通貨〔currency〕」と「資本」とのまちがった区別に転化させていることはまったく明白である。その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念があるのである。〉

 この最後で〈その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念がある〉とマルクスが述べているが、「Circulation」が翻訳されずに、そのままになっている。この場合は、すでに指摘したが、「流通」と訳すのが適当であろうと考える。つまり銀行学派はスミスに倣って、流通を「収入の流通」と「資本の流通」とに分けるのだが、しかしマルクスが批判しているように、こうした分け方はやはり間違っているのである。というのは労働者が彼らの収入を支出して生活手段を購入する場合を「収入の流通」だと言っても、しかしそれは労働者に生活手段を販売する小売業者(彼らも資本家である)にとっては、その同じ過程は彼らの商品資本を貨幣資本に転化する過程であり、銀行学派の主張に倣うならば「資本の移転」でもあり、その意味では「資本の流通」とも言いうるからである。だから流通をこのように分けて考えるのは、スミスに影響された偏狭な観念だとマルクスは言っているわけである。
 銀行学派たちは、粗雑な観察によって、流通のこの二つの面での貨幣の直接的な違いに注目する。つまり「収入の流通」の場面では、もっぱら鋳貨や少額の銀行券が使われており、それらは主に「購買手段」として機能する。他方、「資本の流通」の場面では、そのほとんどが信用によって取引が行われて、手形や小切手等々が流通し、貨幣はただそれらの相殺の帳尻を最終的に決済するために流通に出てくる。つまり「支払手段」としてである。だから彼らは「通貨」と「資本」との区別を、流通のこうした粗雑な観察にもとづいて、一方の「購買手段」としての貨幣を「通貨」とし、他方の「支払手段」としての貨幣を「資本」としたわけなのである。マルクスが言っているのはこのことである。
 またマルクスは〈地金の流出が関わるかぎりでは,また「世界貨幣」としての貨幣との)区別を〉とも述べているが、これもすでに【33】パラグラフ以下で言及されていたが、地金の流出の場合も、融通された銀行券は地金との交換のためにすぐに銀行に還流してくるのであるが、それを銀行学派はそれは「資本」の貸し付けだからそうなるのだと主張したわけである。それに対して、マルクスは確かに地金を輸出する場合は、それは「資本」として出てゆくのであるが、しかし逼迫期の地金の輸出は、資本を海外に投下するために輸出されるのではなく、むしろ輸出した商品が海外の市場で売れずに在庫として積まれ、そのために国内の輸出産業が資金繰りに困り、銀行からの融通を受けて、それを地金に換えて、支払いを迫られている海外の原材料の輸出業者に支払うために輸出するのであり、そういう場合は、その地金は国際的な決済手段として出てゆくのである。だから、その限りではそれは「資本」の問題ではなく、やはり国際的支払手段という「貨幣」の問題なのだ、と批判していた問題のことである。そうした問題をここで結論的に述べているわけである。】


【53-2】

 〈「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために、この銀行業者経済学者は、かつて啓蒙経済学が、「貨幣」は資本ではないのだ、と念入りに教え込もうとしたのと同じ入念さで、じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capital.“κατ'εξoχην”〕なのだ、と教え込むことになっている。

  ①〔注解〕「啓蒙経済学〔aufgeklärte Ökonomie〕」という語でマルクスが考えていたのは,金銀の姿態での貨幣を,重金主義者とは違ってもはや唯一の富かつ絶対的商品とは見なさず,せいぜい「最もどうでもよくて最も無用な資本形態」(〔MEGA II/4,2,の〕625ページ31行-626ページ1行〔本書第4巻282ページ8-9行〕)と見なしていたブルジョア経済学者たちのことである。マルクスが啓蒙経済学者としてとくに強調したのはアダム・スミスである。スミスは金銀貨幣を社会の純生産物を減少させるような高価な流通車輪と見なし,この流通車輪はより廉価な流通手段によって置き換えられることができるし,置き換えられなければならないとした。--MEGA IV/2,S.345,および,「地金。完成した貨幣制度」,MEGA IV/8,S,7,を見よ。--重金主義者たちと区別しての啓蒙経済学者たちについては,マルクスは『経済学批判。第1分冊』でも自分の見解を述べた(MEGA II/2,S.208を見よ)。そこでマルクスがはっきりと強調したのは,計算貨幣および価値章標としての貨幣が,それとともにまた,さらに進んで信用によって金属貨幣が排除されることが,資本主義的システムの展開とともに金銀は社会的富の絶対的代表者であることをやめる,という幻想に役立つ,ということである。
  ②〔注解〕κατ'εξoχην--とりわけすぐれて〔vorzugsweise〕。17)もしかするとマルクスが考えていたのは,アリストテレスの次の一命題であったかもしれない。--Aristoteles I,9 1256 b 40-1257 a 1=Ⅰ,3,10 Stahr.「ところが,生計術には第2の種類があって,それはとくに〔vorzugsweise〕,また当然,貨殖術と呼ばれ,これによれば富や財産の限界は存在しないように見える。」〔山本光雄訳『政治学』,『アリストテレス全集』15,1969年,23ページ。〕一『資本論』,第1巻をも見よ。(MEGA II/5,S.107.30-45 und 108.22-32.〔現行版対応箇所:MEW 23,S.167〕)

  17) ここにアリストテレスからの引用がギリシア語原文で掲げられているが,この引用のなかにはκατ'εξoχηνという語はない。そのあとのドイツ語訳文にvorzugsweiseという語があるだけである。マルクスはκατ'εξoχηνというこの語を,『資本論』の諸草稿のなかでしばしば使っており,MEGAではそのたびに注解でそれのドイツ語訳を挙げている。けれども,ここでのようにアリストテレスからの引用を含む説明がつけられている注解はほかにはない。おそらく,ここではマルクスがこの語に引用符をつけているので,編集担当者はこの「引用」の出所を説明しなければならない,と考えたのであろう。このκατ'εξoχηνというギリシア語をマルクスがどのような文脈で,どのような意味で使っているのかについては章末の「補注」で述べる。〉  (159-160頁)

  【このパラグラフも平易な書き下し文は省略しよう。
 このパラグラフについては、MEGAの二つの「注解」とその注解につけた大谷氏の訳注がある。大谷氏の訳注のなかで〈このκατ'εξoχηνというギリシア語をマルクスがどのような文脈で,どのような意味で使っているのかについては章末の「補注」で述べる〉と書いているが、それは「とりわけすぐれた」という用語の使用例を網羅したものであり、それ自体としては、当面の問題とはあまり関係せず、あまりわれわれの関心を引くものではない。ただその引用例の一番最後のものは、大谷氏も指摘するように、〈内容上,いま見ている当該のパラグラフでの,啓蒙経済学についての記述に完全に対応するものであろう〉(大谷新本第3巻196頁)と書いているから十分参照する必要があるであろうから、紹介しておこう。

  〈「啓蒙経済学は,職掌上で〔exprofesso〕資本を取り扱っているあいだは,金銀を,事実上最もどうでもよくて最も無用な資本形態として,最大の軽蔑をもって見くだしている。この経済学が銀行制度を取り扱う段になると様相が一変して〔the aspect of things turns〕,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本〔Capital par excellence〕となる。」(MEGA II/4.2,S.625-626;本書第4巻282ページ。)〉 (196頁)

  また大谷氏は新本第4巻の「第12章 「貴金属と為替相場」に使われたマルクスの草稿」の中で〈5. 理論上の二元論と「信用主義から重金主義への転回」〉と題して、次のように述べている。

 〈資本主義的生産が未発展の段階に対応する重金主義の思想では,一般商品から区別される金銀だけが貨幣であり絶対的商品であったのにたいして,発展してきた資本主義的生産に対応する「啓蒙経済学」では,流通手段としての金銀を高価な無駄なものとみなして,これを信用で置き換えることを主張するようになる。こうして,「啓蒙経済学は「貨幣」は資本ではないのだ,と念入りに教え込もうとし」(MEGA II/4.2,S.519;本書第3巻159ページ),「発達したブルジョア的生産では,商品の持ち手はずっとまえから資本家になっており,彼のアダム・スミスを知っており,金銀だけが貨幣であるとかそもそも貨幣は他の商品とは違って絶対的商品であるとかいう迷信を見くだして嘲笑している」(MEGA II/2,208;『資本論草稿集』③,372ページ)。
  ところが,「この経済学が銀行制度を取り扱うことになると様相は一変して,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本(Capital par excellence)となる」(MEGA II/4.2,S.626;本書本巻282ページ)のである。〉 (大谷本第4巻215-216頁)

 要するに金銀は、資本主義が未発達の段階では、それだけが貨幣であり、富であり、絶対的商品だと思われているのであるが、資本主義が発展してくると、金銀は、高価な浪費とされ、それを代用する価値章標に置き換えられ、金銀は無駄なものとされる。ところが、信用制度が発展してくると、金銀は、信用制度の軸点になり、それが少なくなると信用制度全体が揺らぐことなり、何を犠牲にしてでも、その流出を抑える必要が出てくるわけである。そうした意味で、再び金銀は何物にも換えがたい、とりわけすぐれた意味での資本として扱われるというわけである。

 また大谷氏は同じところで〈「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために〉とマルクスが述べていることを説明して、次のように解説している。

  〈「「資本」がここで演じる役割」と言われているのは,moneyed Capitalという資本が果たす独自の「奇妙な」役割であり,これこそがこのあとの考察の中心課題であることを示唆しているものである。〉 (同216頁)

 ここで大谷氏が〈このあとの考察〉と述べているのは、第29章(「II」と番号を打ったところ)該当個所を指している。
  しかしこの一文が大谷氏が理解するように第29章該当部分に属するものではなく、第28章該当部分(「Ⅰ)」)の結論的な部分をなしているという位置づけに立つなら、こうした大谷氏の解説では十分とは言い難いことになる。というのはこれまでの「Ⅰ)」の一連の考察を考えてみれば、銀行学派たちは銀行から「貨幣融通として借り出された」銀行券がすぐに銀行に還流して、銀行資本の持ち出しに帰結することから、その銀行券は「通貨」としてすでに流通に必要なもの以上であったから、すぐに還流して「資本の貸付」に転化したのだと主張していたからである。つまり銀行券、すなわち〈貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本なのだ〉からだと主張したのである。つまり銀行学派たちは貸し出された銀行券が逼迫期には支払手段という貨幣の一機能を果たすために貸し出されたから、だから支払が済めばすぐに還流するという事実を見誤り、それは「資本」だからすぐに還流したのだと主張したのである。だからここで〈「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために〉というのは、利子生み資本として貸し出された銀行券がすぐに還流して、銀行券の流通高に影響しないばかりか、むしろ減少することさえあるという現象のことを、〈奇妙なもの〉だと述べていると考えるべきであろう。そうした奇妙な現象を説明するために、彼らは銀行券は〈「とりわけすぐれた意味での」資本なのだ〉と主張したということではないだろうか。

 大谷氏は〈じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capita1“κατ'εξoχην”〕なのだ、と教え込むことになっている〉と述べていることについても、次のように解説している。

 〈ここでマルクスが「とりわけすぐれた意味での資本」と言っているのは,トゥックでたとえば次のような表現をとっているものである。

 「第3107号。(トゥック)利子率の上昇はイングランドの有価証券への(海外からの)投資を生じさせます。外国の有価証券はわが国から,海外で実現されるべく,送られます。同じ原因が,わが国の商人によって海外の商人に与えられた商人信用の縮小を引き起こします。それはまた,そうでなかったら輸出されなかった諸商品の譲渡を引き起こします。すなわち,それらの商品は,そのような場合には,価格にさえおかまいなしに,債務の決済の手段として送られます。そしてそれが輸入を妨げます。要するに……それは,それのより簡明ですぐに使える形態でのすなわち金での資本を,出て行くのにまかせるのではなく,わが国にはいるように強いるのです。」(MEGA II/4.2,S.614-615;本書本巻140ページ。)〉 (大谷本第4巻216-217頁、太字は大谷氏よる強調)

 利子率の上昇は海外からの有価証券への投資を呼び起こして、金地金の国内への流入を強制するとトゥックは主張しているようだが、その場合の金を〈より簡明ですぐに使える形態での、……資本〉と述べているわけである。つまりこの意味ではこの金はGeld capitalとしての貨幣資本なのだが、それをトゥックはmoneyed Capitalとしての貨幣資本と混同して、「資本」と述べているように思える。
  しかし上記の説明でも分かるように、こうした大谷氏の解説は的を外したものといわざるを得ない。】


【53-3】

  ところが、もっとあとの研究で明らかにするように、そのようにして「貨幣資本〔Geldcapital〕」が「利子生み資本」の意味での「moneyed Capital」と混同されるのであって、前者の意味では資本はつねに、それ自身がとる「商品資本」および「生産資本」という形態とは区別されたものとしての「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのである。

  ① 〔注解〕「もっとあとの研究で明らかにするように」--〔MEGA II/4.2の〕601/602ページ〔本書第4巻113-114ページ〕,592-595ページ〔本書本巻533-541ページ〕および625/626ページ〔本書第4巻281-284ページ〕を見よ。〉 (160-161頁)

  【これも平易な書き下し文は省略する。
 ここでマルクスが述べていることは、先に大谷氏が紹介していたトゥックの議会証言の例がもっともよく示しているといえる。この第28章該当部分におけるこれまでの展開のなかでは必ずしも、この点での銀行学派の「混同」は展開されてきたとは言い難いが、このパラグラフで、つまり最後の最後になって、〈もっとあとの研究で明らかにするように〉という断りをつけてであるが、そうした混同が指摘されているのである。
 この二つの貨幣資本の区別の重要性については、第28章該当部分の旧稿の解読の冒頭部分でも強調しておいたが、一方は主に『資本論』第2部で資本の循環の一形態としての貨幣資本であり、生産資本や商品資本と区別されるものである。これは社会の再生産過程内で物質代謝を媒介する貨幣資本である。その意味では、他方の貨幣資本(moneyed Capital)は『資本論』第3部で問題になる、つまり再生産過程外での--だから剰余価値の分け前を巡る争いに関わる--貨幣資本であるという点で、本質的な区別があるわけである。
  ここでようやく、マルクスが冒頭のパラグラフで述べていた〈貨幣資本と、利子生み資本(英語の意味での moneyed Capital)とのあいだの区別が、乱雑に混同される〉ということを直接的な形で述べていることになる。

 以上で、「 I ) 」と番号を打った部分の草稿の検討は終わったわけだが、しかしマルクスはさらに〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉と「Ⅰ)」についての補足を書き加えている。それがわれわれのパラグラフ番号では【54】~【56】になる。だからその検討を最後に行うことにしよう。】

  (しかしその検討は次回に回します。)

 

2022年3月 7日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-14)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-14)



【44】

  このような,貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというかぎりでは,それがそのようなものであるのは,ただ,銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本にとって,すなわち,金(地金の流出の場合),イングランド銀行券(国立諸銀行〔Nationalbanken〕の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては,ただなんらかの等価物をもって買われるだけのものであり, したがって彼らの資本を表わしている--にとって,最後に,金や銀行券を手に入れるために売りとばされなければならない公的[517]有価証券(国債証券やその他の利子付証券)にとってでしかない。(しかしこれらの有価証券は,それが国債証券であれば,それを買った人に||334上|とってだけ資本なのであって,この人にとっては,彼の購入価格を表わし,彼がそれに投下した資本を表わしている。それ自体としては,それは資本ではなく,ただの債権である。もしそれが土地抵当証券であれば,それは将来の地代にたいするたんなる指図書であり,またもしその他の株式であれば,将来の剰余価値の受領を権利づけるたんなる所有証書である。すべてこれらのものは,資本ではなく,生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって,じっさいそれ自体としてはどんな価値でもない。)最後に,そのような取引によって,銀行のものである貨幣等々が預金に転化し,その結果,銀行はその貨幣の所有者から債務者になり,別の占有権限のもとにそれを保有するということもありうる。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ,それは国内に現存する資本の総量を,また貨幣資本の総量をさえも,いささかも変えるものではない。つまりこの場合,資本はただ貨幣資本として現われるだけであり,また,貨幣を除けば,たんなる資本権原として現われるのである。これは非常に重要なことである。というのは,504)銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が,実物資本〔real capital〕の減少と混同されるからであって,実物資本はこのような場合には,市場を供給過剰にしているのである。

  ①〔異文〕「銀行業の発行〔d.banking issues〕という書きかけが消されている。
 
  504)ここに消し忘れの定冠詞 d.がある。〉 (137-139頁)

  このパラグラフは、これまで銀行業者的な意味での「資本の貸付」になるケースを検討してきたが、このパラグラフではマルクスはこうした〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉が、如何に一面的なものであり、現実を正しく反映したものでないかを指摘しようとしているように思える。まずは平易な書き下し文をかなり補足して紹介しておこう。

 〈これまで見てきましたように、このようなフラートンらが言うような貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというのは、つまりそれらが彼らの言う意味での「貸付資本にたいする需要」だと言い得るのは、それはただ、銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本という意味においてであるに過ぎません。つまりそれらが資本であるのは、金(地金の流出の場合)やイングランド銀行券(国立銀行の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては、ただなんらかの等価物で買われるだけのものであり、したがって彼らの資本を表しています--、そして最後に、金やイングランド銀行券を手に入れるために売り飛ばされなければならない公的有価証券(国債証券やその他の利子付証券)が銀行業者にとって、費用のかかっている自分の資本だからであり、紙と印刷費以外になんの費用もかからない単なる信用(銀行券)によるものではないという意味でのみ「資本」と言っているだけなのです。
 (しかし、これらの有価証券は、それが国債証券であれば、それを買った人にとってだけ資本なのであって、この人にとっては、それは彼の購入価格を表わし、彼がそれに投下した資本を表わしています〔彼は彼の貨幣を利子の取得を目的に、つまり利子生み資本として、国債証券に投資したのです。だからそれは彼にとっては「利子生み資本」という意味での、つまり規則的な利得をもたらすという意味での「資本」なのです〕。しかし国債証券はそれ自体としては、資本ではなく、ただの債権、つまり貨幣請求権を表わすだけであり、その所有者は将来の税金収入から一定の貨幣額を請求できるという権利を表わしているだけです。もしそれが土地抵当証券であれば、それは単に将来の地代からその一部を支払うよう指図する権利を示す証書であり、またもしその他の株式であれば、将来の剰余価値の一部を受領する権利を示した単なる所有証書なのです。すべてこれらのものは資本ではなく(それが市場で売買される限りでは「架空資本」ではありますが)、生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって〔だからそれらに投資される「利子生み資本」は再生産の外部にある関係を示すだけです〕、じっさいそれ自体としてはどんな価値でもないのです〔そして事実、恐慌時には、こうした膨大な蓄積された貨幣請求権は真っ先にただの紙屑になるのですが、しかしそれによっては一国の富はまったく減ずることはないのです〕。それらはただ、それらに自らの貨幣を「利子生み資本」として投資した(証券市場でそれらを購入した)人にとってだけ「資本」なのです。)
 そして最後に、そうした取引によって、銀行のものである貨幣等々が預金に転化し(つまり銀行が貸し付けた貨幣等々が、その借り受けた業者から、別の業者に支払われ、その別の業者が銀行に預金した場合がその考えられる一例です)、その結果、銀行はその貨幣の所有者から債務者になり、別の占有権原のもとにそれを保有するということもありえます。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ、それは国内に現存する資本の総量を、また貨幣資本の総量をさえも、いささかも変えるものではありません。〔というのは銀行が貸し出す貨幣等々は、すべて銀行から「利子生み資本」として貸し出されるのであり、だからそれらはあくまでも再生産過程の外部の関係なのです。だからそれらは再生産過程の内部の資本である現存する資本の総量、またその一部である貨幣資本--この貨幣資本はもちろんGeltcapitalですが--の総量さえも、いささかも変えるものではないのです。〕つまりこの場合、資本はただ貨幣資本として現れるだけであり〔逼迫期に銀行から貸し出された「利子生み資本」は、産業資本家や商業資本家にとっては、彼らが市場に投じた商品資本の実現形態を先取りするものであり、本来は資本の循環の結果、補填されなければならない貨幣資本(geld Capital)が事情によって補填されないために、銀行に貸し出しを要求してきたものなのです。だからそれは彼らの資本の循環を締めくくる決算手段なのであり、よってその支払手段としての貨幣の機能が問われているものです〕、また、貨幣を除けば、たんなる資本権原として現れるのです。[だからそれらは支払手段としての貨幣の機能を果たせば、流通に貨幣として留まるものを除けば、すぐに銀行に還流し、たんなる預金者の所有権原--銀行にとっては再び利子生み資本として運用できる資産--に転化するのです。]
 これは非常に重要なことです。というのは、銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が、実物資本の減少と混同されるからであって、実物資本はこのような場合には、つまり逼迫期には、市場を供給過剰にしているのです。[実際、実物資本、つまり商品資本が供給過剰(それは生産資本も過剰であることを示している)で売れないからこそ、つまりそれらが貨幣資本に転化しないからこそ、だから産業資本家や商業資本家は、銀行にその貸し出しを求めているのです。]〉

  【小林氏はマルクスが(   )に入れて論じている手前までの部分を次のように翻訳している。

  〈「貨幣融通を求めるこの逼迫(diese pressure for pecuniary accommodation)が資本についての逼迫(pressure upon capital)である限り,それ[この逼迫]は単にbanking capitalにとってのそのようなもの(solches)[逼迫]であるにすぎない;銀行業者の立場からの資本(Capital vom Standpunkt des Banquiers aus)にとって;即ち,金(地金流出の場合には),個人銀行業者にとっては等価物をもってのみ購入される,だから[それは]その[個人銀行業者の]資本(Capital)を表わしている(vorstellen);イングランド銀行券(国民的銀行の銀行券)にとって[の逼迫であるにすぎない];最後に,または銀行券を引き出すために投げ売りされねばならない公債public securties)(国債(Staatseffecten)およびその他の利付証券)[にとっての逼迫であるにすぎない]」〉 (399頁 、下線はマルクスによる強調、太字は著者による強調)

   この翻訳は何とも分かりにくい。恐らくマルクスの原文もややこしいのだろうが、著者の翻訳は一層混乱の代物である。まだ大谷氏の訳の方がマルクスのいわんとすることを伝えている。

   著者は上記の引用に続けて〈そしてエンゲルスは,この場合のbanking capitalをGeldkapitalで置き換えているが,どのように理解したらよいのであろうか? やはり銀行業者の「資産」の意味で用いられているのではなかろうか?〉(399頁)と述べている。何とも不安げな言い方であるが、ここでマルクスが〈banking capital〉を説明して〈銀行業者の立場からの資本(Capital vom Standpunkt des Banquiers aus)〉と述べていることを確認すれば、問題がハッキリするのであるが、要するに著者にはこの第28章(「Ⅰ)」)でのマルクスの使っているbanking capitalが銀行業者たちから見て、つまり彼らの帳簿上、「資本」の持ち出しになるという意味で使っていること(だから第29章該当個所で使っている場合の「預金」とは違った意味だということ)が分かっていないから、このような書き方になっているのである。

   このパラグラフでマルクスがいわんとしていることを簡単に解説しておこう。「貨幣融通を求める圧迫」が「資本に対する圧迫」と銀行業者たちが考えるのは、それが彼らにとって銀行業資本(金、イングランド銀行券、有価証券等)の持ち出しに帰着するか、あるいは銀行のものであったものが預金という形で彼らにとっては債務に転化するからだというのがマルクスの述べていることである。例えば有価証券の持ち出しに帰着した場合、彼らにとってはそれは銀行業資本(banking capital)の貸付に転化するのだから、彼らにとっては資本への圧迫なのである。(さらにここでマルクスは彼らの銀行業資本(banking capital)の一部を構成する国債証券、土地抵当証券、株式の例を挙げて、それが如何なるものかを明らかにしている)。しかしそれらは、それ自体としては何らの資本をもあらわしていないのだともマルクスは指摘している。そしてこのことは非常に重要なことであって、銀行業資本への圧迫やそれに対する需要とくらべての欠乏というものは、実物資本(real capital)への圧迫やそれの欠乏・減少と混同されるが、しかし両者はまったく関係ないのであって、むしろ実物資本はこうした時期(逼迫期)には、市場を供給過剰にしているのだとも述べている。
  ただ著者も最後には次のようにも述べていることは指摘しておこう。

  〈仮にフラートンが言うように「資本についての逼迫」があるとしても,それは単にbanking capitalにとっての「逼迫」,「銀行業者の立場からの資本」にとっての「逼迫」であるにすぎず,現実資本の逼迫・不足などではないということを,マルクスは言いたかったのであろうか?〉 (400頁)

  まさにその通りなのである。ところが著者は最後に「?」マークをつけて自信なげである。】


【45】

  ところで,われわれは銀行の有価証券の増大(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と,それと同時に生じる通貨〔currency〕の総量の減少ないし停滞とを,二重の仕方で説明した。すなわち,1) 地金の流出によって,2) たんなる支払手段としての貨幣の需要によって。この第2の場合には,銀行券の発行がただ一時的であるか,または帳簿信用のゆえに取引がまったく銀行券の発行なしに行なわれるのであり,したがって,たんなる信用取引〔credittransaction〕が諸支払いを媒介するのであって,またこれらの支払いの媒介がこの貨幣取引の唯一の目的なのである。貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは,支払うためであって買うためではなく,過去の諸取引を終わらせるためであって新たな諸取引を開始するためではない),その貨幣のCirculationはただ瞬過的〔verschwindend〕でしかないのであって,この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ,したがって巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが,Circulationを拡大することなしに生じうるということ,これは貨幣の特性である。しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少--少ない通貨〔a low currency〕--しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払[518]手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである。

  ①〔異文〕「銀行券」←「貨幣」
  ②〔異文〕「停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえも」←「減少することが」〉 (139-141頁)

  ここからはこれまで論じてきた銀行学派の混乱のcの「まとめ」であるように思える。だからマルクス自身の概念もここから徐々に登場することになる。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈ところで、私たちは銀行の有価証券の増大(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と、それと同時に生じる通貨の総量の減少ないし停滞とを、二重の仕方で説明しました。つまり、1)一つは地金の流出によって、2)もう一つはたんなる支払手段としての貨幣の需要によってです。この第2の場合には、その発行はただ一時的です。あるいは帳簿信用のように取引がまったく銀行券の発行なしに行われる場合は信用取引が諸支払いを媒介します。だから諸支払いの媒介がこの場合の(逼迫期の)貨幣取引[貨幣の貸借]の唯一の目的なのです。
 貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは、支払うためであって買うためではなく、過去の諸取引を終わらせるためであって、新たな諸取引を開始するためではありません)、決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行われる場合はいうまでもなく、そうでなくても貨幣の流通はただ瞬過的でしかないのです。だから巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが銀行券の流通高を拡大することなしに生じうるのです。これは貨幣の支払手段という機能の特性から言いうるものです〔だから銀行学派のいうような「資本の問題」だからではないのです〕。
 しかし、フラートン、トゥック等々が持ち出している事実、すなわち、イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに、それと一緒に同行の銀行券の流通高が停滞したままであるか、または減少--少ない通貨--しさえもするというたんなる事実は、一見して明らかに、けっして、彼らが誤って主張している「資本の問題」なのではなくて、支払手段としての機能における貨幣(銀行券)の流通高は増加も膨張もしないということを証明しているものではありません。〔支払手段は、例え一時的ではあってもその流通高が膨張することはあり得るし、事実、恐慌時にはあったのです〕。それはただ、購買手段としての銀行券の流通高が減少するから〔なぜならすでに【18】パラグラフで検討したように、逼迫期には収入の流通--そこでは貨幣は主に購買手段として機能する--を媒介する通貨は収縮するから〕、支払手段としての銀行券の流通高が増加しても、通貨の総額、すなわち購買手段プラス支払手段として機能する銀行券の合計額が、停滞したままでありうるか、あるいは減少することさえもありうるということを示すだけに過ぎません。結局、彼らにとっては、支払手段としての通貨は「資本」であって、通貨ではないのです。〉

  【小林氏は〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実〉云々と述べているところより前の部分を紹介して、次のようにその内容を解説している。大谷訳と比べるために、マルクスからの引用文の部分をまず紹介しておこう。

  〈「さて,われわれはイングランド銀行の有価証券の増大(ないしは貨幣融通を求める増加する逼迫と,同時に生じる通貨(currency)総額の減少または停滞とを,二様に(doppelt)に説明してきた:1)地金の流出によって;2)単なる支払手段としての貨幣の需要--その場合にはその[貨幣の]発行(Ausgabe)はただ瞬時的であるか,あるいは帳簿信用の場合には銀行券の一切の発行なしに取引が生じるのであるが--によって;だから単なる信用取引が支払を媒介し,そしてこの支払の媒介が貨幣的取引の唯一の目的[である]。それ[貨幣]が単に支払の決済のためにのみ機能する,(そのような恐慌においては,買うためにではなく支払うために借り入れられる;新たな取引を始めるためにではなく,過去の取引を終結するために[借り入れられる]),その[貨幣の]流通は,この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り,単に瞬時的(verschwindend)に過ぎないということは,貨幣の特性(das Eigentümliche)である;だからこの取引の巨大な量と貨幣融通を求める大きな逼迫が,通貨(Circulation)を拡大することなしに生じうることも[貨幣の特性なのである]1)」,と。〉 (402頁)

 これを大谷訳と比べてみると、小林訳には〈貨幣の特性(das Eigentümliche)〉に下線があるが、大谷訳にはない、これはMEGAの原本を見ると斜体にはなっていないから恐らく大谷訳が正しいのであろう。大谷訳で〈貨幣がただ諸支払いの決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは,支払うためであって買うためではなく,過去の諸取引を終わらせるためであって新たな諸取引を開始するためではない),その貨幣のCirculationはただ瞬過的〔verschwindend〕でしかないのであって,この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ,したがって巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが,Circulationを拡大することなしに生じうるということ,これは貨幣の特性である〉という長いセンテンスになっている部分は、小林訳では〈それ[貨幣]が単に支払の決済のためにのみ機能する,(そのような恐慌においては,買うためにではなく支払うために借り入れられる;新たな取引を始めるためにではなく,過去の取引を終結するために[借り入れられる]),その[貨幣の]流通は,この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り,単に瞬時的(verschwindend)に過ぎないということは,貨幣の特性(das Eigentümliche)である;だからこの取引の巨大な量と貨幣融通を求める大きな逼迫が,通貨(Circulation)を拡大することなしに生じうることも[貨幣の特性なのである]1)」〉となっている。両者を読み比べると明らかに小林訳の方がより分かりやすいと言える。特に大谷訳で〈この決済がまったく貨幣の介入なしにたんなる信用操作によって行なわれるのではない場合〔でさえも〕そうだということ〉となっている部分は、小林訳では〈この決済が単なる信用操作によって,貨幣のすべての介入(Dazwischenkunft)なしに生じるのでない限り〉となっていて、こちらの方がスッキリと意味が通りやすい。
  まあ翻訳は小林氏の方に軍配があがるが、ではその解説はどうか。小林氏は上記のマルクスからの引用文に続けて、その解説を次のように書いている。

 〈これまで「立ち入って[「二様に」]考察」してきた,逼迫期にイングランド銀行の「有価証券の増大」として現れてくる「貨幣融通を求める需要」の問題は,だから次のように整理できる,と言うのである。第1の場合には世界貨幣(「国際的支払手段」)としての金を求める需要であり,第2の場合には国内における支払手段としての貨幣(「通貨」)を求める需要であること,そして後者の場合には,その需要が銀行券の発行によって満たされるとしても,それは決済のための貨幣が求められているのであって,銀行券の発行は「瞬時的」であるに過ぎないから,貸付けは増大しても結果として通貨量は停滞的ないしは減少さえしうるのであり,したがって問題は,「貨幣融通を求める需要」が即「資本の貸付を求める需要」であるか否かではなく,またその「資本」が「銀行業者の立場からの資本」であるのか否かでもなく,「貨幣の特性」の問題なのである,と。〉 (402頁)

  これもまあ、簡単だがとりあえずマルクスのいわんとすることは説明されているかに思える。しかし最後の結論部分はどうしてこのようになるのかよく分からない。

  〈したがって問題は,「貨幣融通を求める需要」が即「資本の貸付を求める需要」であるか否かではなく,またその「資本」が「銀行業者の立場からの資本」であるのか否かでもなく,「貨幣の特性」の問題なのである,と。〉

  逼迫期に支払手段を求めて銀行に貸付を要求してくる事業者たちに貸し付けられる銀行券もやはり利子生み資本であって、その限りでは「資本の貸付」なのである。しかしその貸付られた銀行券がすぐに還流して、銀行券の流通高に影響しないのは、それが銀行学派たちがいうような「資本の貸付」だからなのではなく、その「資本貸付」が支払手段という貨幣の一機能が問われるような性格のものだからである、つまり取引の本性が貨幣の支払手段としての機能に関係するものだからだというのがマルクスの言いたいことである。だから銀行学派たちの主張するように、それは「資本の問題」だからではなく、その限りでは貨幣(通貨)の問題なのである。ただ銀行学派たちはその貸付を「資本の貸付」というが、それは決して彼らが利子生み資本という意味を正しく理解した上で主張しているわけではなく、ただ銀行業者的な立場に立って(彼らの帳簿上)、彼らにとって資本であるもの、つまり銀行業資本の貸付になるものを「資本の貸付」と称しているだけだというのもマルクスのもう一つの批判点なのである。
  問題はフラートンらが資本の圧迫と主張していることは銀行業者の立場からのものに過ぎず、彼らの営業資本の貸付に帰着するから、彼らはそれを資本の貸付への圧迫としたのである。ただフラートンらが銀行券がすぐに還流するのはそれが資本の貸付に転化するからだ、というのに対して、マルクスはそうではなく、それが支払手段という貨幣の特性により、例え一時的に発行が増大してもすぐに還流し、流通銀行券の総額は増大しないかむしろ減少するからである(購買手段としての流通は逼迫期には減少するから、通貨総量としては減少することもある)。だからそれは彼らが主張するように流通に必要以上の通貨はすぐに還流して「資本の貸付」に転化するからではなく、貨幣の特性からそうなるのだとマルクスは述べているのである。小林氏が問題を正しく理解しているのかはやや疑問である。
 
   次は〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実〉云々以下の部分であるが、この部分も大谷訳は分かりにくいが、小林氏は次のように翻訳している。両者を比較してみよう。

  まず最初は分かりにくい大谷訳である。

  〈しかしフラートン,トゥック等々が持ち出している事実,すなわち,イングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに,それといっしょに同行のCirculationが停滞したままであるかまたは減少--少ない通貨〔a low currency〕--しさえもするというたんなる事実は,一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである。購買手段としての銀行券のCirculationは減少するのだから,支払手段としての銀行券のCirculationは増加しうるし,また,Circulationの総額,すなわち購買手段プラス支払[518]手段として機能する銀行券の合計は,停滞したままでありうるし,あるいは減少することさえもありうる。支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである。

  次は小林訳

  〈「しかしフラートン,トゥック等々が挙げている単なる事実,即ち,有価証券の増大によって示されるような大きな貨幣的融通と同時に,イングランド銀行の流通銀行券(Circulation[「通貨」])が停滞的なままであるか,あるいは減少さえする--僅少な通貨(a low currency)--という単なる事実は,彼らの誤った『資本の問題』のゆえに彼らが望むようには2),一見して明らかに(prima facie),決して,支払手段としてのその機能における貨幣(銀行券)の流通(Circulation)は増加せず膨張しないということを,証明するものではない。[この時期には]購買手段としての銀行券の流通(Circulation)は減少するのであるから,支払手段としてのその流通は増加しうるし,そして通貨(Circulation)の総額=購買手段+支払手段として機能する銀行券は,停滞的なままであるかあるいは減少さえしうる支払手段としての通貨(Circulation)は,彼らにとっては通貨(Circulation)などでは決してないのである。」〉 (402-403頁、下線はマルクスによる強調、太字は著者による強調)

   若干の強調箇所(下線部分)の相違はあるが、いずれにしても、小林氏の訳も分かりやすいとは言い難い。要するにマルクスの原文そのものが分かりにくいのであろう。マルクスは何をいわんとしているのであろうか。

 この一文で分かりにくいのは〈一見して明らかに,けっして,彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張しているのとは違って,支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではないのである〉という部分である。〈彼らが彼らの誤った「資本の問題」のために主張している〉というのは、銀行学派たちは支払手段を通貨と理解せずに、「資本」と主張しているということであろう。というのは支払手段として機能する通貨はすぐに銀行に還流して、銀行業者の立場からみての「資本の貸付」に転化するからである。だから銀行学派たちはそれは「資本の問題」だと主張しているわけである。
 しかし支払手段としての機能における貨幣(銀行券)の流通は、支払が増えれば増えるほど(相殺分を差し引いても)、それだけ増加も膨張もすることはいうまでもないであろう。だからマルクスは〈支払手段としての機能における貨幣(銀行券)のCirculationは増加も膨張もしないということを証明するものではない〉と述べているわけである。だからまた〈通貨(Circulation)の総額=購買手段+支払手段として機能する銀行券は,停滞的なままであるかあるいは減少さえしうる〉わけである。というわけでマルクスは最後に〈支払手段としてのCirculationは,彼らにとっては,Circulationではないのである〉と締め括っているというわけである。】


【46】

  購買手段としてのCirculationが減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculationが増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulationは増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラ一トン等々は,支払手段としての銀行券のCirculationがこのような圧迫の時期の特徴だということを540)示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculationと言うべきであろう)〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」a) /

  ①〔異文〕「本来の[……]としての貨幣が」という書きかけが消されている。

  540)〔E〕「示さない〔nicht beweisen〕」→「わからない〔nicht begreifen〕」 (手稿でのnicht beweisenはnicht bewußtとでもあるべきところかとも思われる。)〉 (141-142頁)

  このパラグラフは先のパラグラフ(【45】)と内容的に関連している。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈購買手段としての通貨が減少するよりも高い程度で支払手段としての通貨が増加するとすれば、たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても、総流通高は増大するでしょう。そしてこのことは、恐慌中のある諸時点では現実に起こるのです[これは例えば1825年恐慌時に実際に生じました。以前の解読のときに紹介した図1-3は金井雄一著『イングランド銀行金融政策の形成』からとってきたものですが、銀行券の発行高も手形割引高もどちらも25年恐慌のピークである12月に向かって異常に急増していることが分ります]。フラートン等々は、支払手段としての銀行券の流通がこのような圧迫の時期の特徴だということを示しませんので、この現象を偶然的なものとして取り扱うのです。
 「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり、また、ときには、1825年の終わりのように、地金の流出がまだ続いている時にさえも、一時的でしかないとはいえ突然の発券増加を引き起こすこともあるのであるが、ふたたびこのような競争の実例について言えば、私の考えるところでは、このような実例は低い為替相場の自然的な、あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は、通貨(購買手段としての通貨と言うべきであろう)のための需要ではなく、蓄蔵のための需要であり、流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり、また、金の流出がやむことの前兆である。」a)〉

  【このフラートンからの引用文を見てもわかるように、フラートンは1825年の終わりに急激に起こった発券の増加を〈突然の〉ことと理解して、つまり〈偶然的なものとして取り扱〉っている。確かにそれは前回の解読のときにも紹介した図1-3を見ても分かるように(図をクリックするとより鮮明なものが見られる)、〈一時的でしかない〉が、しかしそれが急激な支払手段に対する需要から生じたものであり、それが購買手段としての通貨の減少をはるかに上回る程度で生じたために、発券が急激に拡大したことを示しているのである。そしてこれは〈恐慌中のある諸時点で現実に起こる〉ことを図1-3は示している。フラートン等はこうした発券が支払手段に対する需要から生じるものであることを見ることができないのである。

Photo_20220307152601   このフラートンが取り上げている1825年恐慌とはどんなものだったのかを知るために、やはりこれも前回の解読で紹介したアンドレァデス著『イングランド銀行史』から、その恐慌を描いた部分を参考のために再録しておこう。

 〈避けることのできない反動が現れた。夏の初めに物価の下落が始まり、有価証券の崩落がこれに続いて起ったので、もはやその後の払込みが行われなくなった11月の末には、棉花の投機を行った若干の大商社が破産し、これが一般的恐慌を惹起した。イングランド銀行は、1797年の政策を放棄し、発行額を自由に引上げなければならないと考えた。同行の準備は1824年1月の1350万ポンドから1824年10月の1140万ポンドに減少した。同行は為替相場が不利であったにも拘らず、この措置を固執した。そして1825年4月には準備額は665万ポンドしかなかったが、この時発行額は1824年1月を上回っていた。イングランド銀行は恐慌の最も激しい時になって、漸くその誤謬を悟った。そして12月31日に、その割引歩合を5%に引き上げたのである。これも同行準備の減少を防止することができず、11月の300万ポンド余から、126万890ポンド(12月31日)に減少し、そして流通界に未曾有の混乱を持込んだのである。
 夜に日についで造幣局に鋳造させた政府の努力にも拘らず、鋳造貨幣の不足はますます甚だしくなった。この不足は最も有力な信用機関の一つであった「ロンドン銀行」London Bankの破産の後、本当に大払底をきたした。そしてこの破産に続いて60の金融会社が倒産に陥った。鋳貨の流出があまりに多かったので、イングランド銀行は、1ポンド紙幣を60万ポンド流通させなければならなかった。この紙幣は実際は「制限条例」の出た時に造られていたのであるが、その後長い問同行の金庫の中に忘れられていたのであった。この措置はノーリッチ銀行を救うことはできたが、この未曾有の事態を大して変えることはできなかった。
 誰もその所有する鋳貨を手離そうとはしなかった。そして下院におけるハスキスンの供述によれば、12月の大部分を通じて、国債や、イングランド銀行株や、インド会社の株というような最良の有価証券さえ現金化することができなかった。
 事態の逼迫は、イングランド銀行が適時に助けることのできなかった36の地方銀行の破産をもたらした。そしてロンドンの若干の大商社も同じ運命に脅かされた。イングランド銀行は政府の圧力によって、遂に紙幣発行の増加を決意し、40万ポンドを限度とする新規の貸付に応じたのである。このことは充分事態に対処することのできる堅実な商社に対しては有力な助けとなった。そしてその他の商社が全部消去ると情勢は少しずつ改善され、2年後に資金は4%で貸出されるようになった。
 以上は1825年の大恐慌の梗概である。この恐慌の全責任を、イングランド銀行と地方銀行との過剰発券に帰そうとしたこともあったし、また今でもそう考えている人々もある。〉(294-6頁)

 さて、小林氏はこのパラグラフのフラートンからの引用の前までの部分を紹介したあと、次のように述べている。大谷訳との比較のためにマルクスからの引用文も併せて紹介しておこう。

  〈「支払手段としての通貨(Circulation)が,購買手段としての通貨(Circulation)が減少するより以上の程度で増大するならば,たとえ貨幣が購買手段としてのその機能で,量からして顕著に減少するであろうとしても,総流通銀行券(Gesamtcirculation)は増加するであろう(würde)。そしてこのことは恐慌の一定の瞬間に現実に生じる。フラートン等は,支払手段としての銀行券の流通はこのような逼迫の時期における特徴的なことであるということを立証しないで,彼らはこの現象を偶然的として取り扱っている3)」,と。
  そしてここ「Ⅰ)」の部分では,その未整理を露呈していた「銀行業者の資本」に係わる諸概念の検討を,最初に指摘しておいたように,マルクスは「銀行業者の資本は何から成り立っているかを立ち入って考察することが今や必要である4)」という形で,手稿の第5項である「II)」の部分(現行版第29章)の冒頭に委ねていく5)。そしてそこでは,「この銀行業者の資本の現実的構成要素と並んで,それ[銀行業者の資本(Bankerscapital)]は銀行業者自身の投下資本と預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)とに分かれる。発券銀行(issuing bank)の場合には,われわれが差し当たり全く考慮の外におこうと思っているのだが,銀行券がさらに加わる6))」7),と補正していくこととなるのである。〉 (403頁)

  これ自体は何かを展開しているわけではないので、論じるほどのことはないが、しかし著者が〈ここ「Ⅰ)」の部分では,その未整理を露呈していた〉と述べているのは、すでに見てきたように同氏がこの「Ⅰ)」でマルクスがとっている銀行学派批判のやり方(彼らの用語をそのまま使いその矛盾や自己撞着を暴露する)をまったく理解しないために、マルクスは「Ⅰ)」ではbanking capitalという用語を一義的に使っておらず、混乱しているというとんでもない批判のことを指している。だからその未整理を整理するために、〈「銀行業者の資本」に係わる諸概念の検討を〉〈「II)」の部分(現行版第29章)の冒頭に委ねていく〉というのである。つまり「Ⅰ)」で未整理だったから、その整理を「Ⅱ)」でやろうとしているのだと言いたいわけである。そして「Ⅱ)」の一文を紹介して、ここではbanking capitalという用語は〈預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)〉という本来の意味で使われていると言いたいのであろう。しかしこれについてもすでに述べたように、まったく自身の無理解を省みない批判でしかないのである。ただ「Ⅱ)」の解読は後にやるので、そのときまで置いておくことにしよう。
  上記抜粋文につけられている注7)も紹介しておこう。

  〈7)発券銀行の場合には,「銀行券が[債務として銀行営業資本に]さらに加わる」といっても,それはその銀行券が前貸しされて「流通過程にある」時だけである(第9章第5節を参照)ことに留意しなければならない。W・ニューマーチは,「銀行法特別委員会(1857年)」で,銀行という組織の「壁の外で流通している」銀行券が「流通銀行券(circulation)」(「通貨」)であり,したがって1844年銀行法の下で発券部から銀行部にイングランド銀行券が引き渡されただけでは厳密な意味ので「発行」とは言えず,したがってまたその銀行券は「イングランド銀行の側の負債ではありません」と強調している(第7章第3節を参照)。〉 (404頁)

   しかしこれは要らざる補足というものである。もし銀行券に補足を付けるなら、マルクスが挙げている〈銀行業者自身の投下資本〉も〈預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)〉も現実の貨幣に関わるものある。しかしそれに対して銀行券は銀行の信用だけで創造するものであり現実の貨幣とは何の関わりもない。それが前者二つと異なるのである。だからそれが還流してきて自分の資本の持ち出しになれば、彼らはそれを「資本の貸付」に転化したと理解したのである。つまり銀行券は、紙と印刷費以上の費用のかからない、ただ銀行の信用だけで創造された貸付可能な貨幣資本(moneyed Capital)なのである。しかし前の二つは、同じmoneyed Capitalではあっても、〈銀行業者自身の投下資本〉の場合は、それが株式の払い込み金であれば、配当を要求され、〈預金〉であれば利子支払が必要であって、それだけ彼ら銀行業者にとっては費用のかかっているものなのである。そうした違いが銀行業者にとっては大きな問題であり、だから彼らは銀行券が流通にとどまっているあいだはそれを「通貨」とし、還流してきて自分の資本の持ち出しになれば「資本」の貸付になると言ったのである。
   著者は〈発券銀行の場合には,「銀行券が[債務として銀行営業資本に]さらに加わる」〉と銀行券に〈[債務として銀行営業資本に]〉という説明を加えているが、発券銀行にとっては発行する銀行券も確かに債務であるが、しかしそれは預金が債務であるのとは違っているのである。だからマルクスはそれを区別するために、わざわざ〈銀行業者自身の投下資本と預金(彼の銀行営業資本(banking capital),すなわち借入資本)とに分かれる〉と一旦書いたあと、〈発券銀行(issuing bank)の場合には,……銀行券がさらに加わる6)〉と書き加えているのである。前二者と後者とをマルクスが区別して論じていることが重要なのであるが、著者にはまったく分かっていないのである。しかしこれもすでに「Ⅱ)」の解読に関わることなので深入りは避けよう。】


【47】

 〈/334下/〔原注〕a) フラートン,130ページ〔前出阿野訳,160ページ〕。〉 (269頁)

  【このパラグラフそのものは、【46】パラグラフで引用されていたフラートンの一文の典拠を示すものだけなので、平易な書き下し文は省略した。ただし原注a)はこれで終わりではなく、その次の【48】パラグラフ以下、【51】パラグラフまで続いていることに注意が必要である(ただし今回はそのすべてを紹介できず、途中で打ち切らざるを得ないのだが)。
  この引用文はフラートンの著書『通貨調節論』の第7章から取ってきている。参考のために、その前後も含めて紹介しておこう(【   】内がマルクスの引用部分)。

 〈実をいうと、爲替相場が変化したならばそれは単にその都度通貨の量と価値とに変化が生じたことを表示するに過ぎないと考える理論とこのやうに全く相容れない諸現象、すなはち、通貨の充溢と爲替相場の順調とが、同時に起りうるといふその原因は、別に両者の間に存在を断言しうる積極的不変的関係などといふものに求めらるべきでもなければ、両者相互間の因果作用というふうなものに帰せしめらるべきでもない。事実はただ、爲替相場の引上げと金の流入とを誘致する諸事情は同時にまた一般に国内産業の活況、生産消費の好調、しかしてまた貨幣の使用と需要との昂進に必須なあらゆる条件の存在を示すものである、といふだけのことである。他方、商業的興奮と投機との時期に続いて爲替相場の低落と金の流出とが起つたならば、これら現象の出現は、一般に、既に始まつた景気崩壊の信号である、すなはち、市場の在荷過剰、自国商品に対する外需の中絶、資金回収の遅滞、そしてこれら一切の必然的継続としての商業的不信、--工場は閉鎖され、職工は飢餓に脅かされ、産業と企業心とは一般的に萎微沈滞する、等々、--を暗示するものである。しかしてこのような状態のもとにおいて、当面不振の商売取引をやつて行くのに以前より少額の紙券を以て足りるとしても、唯れかこれを怪しむものがあらうか? 要するに、私の考えでは、通貨流通高の低い状態と、爲替相場の逆調とは同格に位すべき現象であつて、それ以上の何ものでもない、--すなはち両者は、何れも或る共通した諸原因の作用に基く現象であり、これらの原因はいろいろの事情によつて修正され易くはあるが、しかし金への兌換を求めるイングランド銀行券が同行へ持込まれる結果としての通貨の涸渇作用からは全然独立していると私は信ずるし、この点既に遠廻しながら言及したところである。かくの如き作用は輸出商品としての金に対する需要の直接的結果であり、通貨に対する需要が何らか減退したためではない。しかしてイングランド銀行の発券業務がながくその存在を許され且つ許され得るところの、何らかの体系に基いで支配せられるかぎり、通貨に対する需要こそ、銀行券流通総高を支配するために必要無二の、自働的調節原理をなすものと私は考える。【更に、パニック期の特徴であり、且つまた時には1825年末におけるが如く、地金の流出がなお続いているというのにたとえ一時的なものに過ぎないとしてもとにかく突如として発行高を増加させるに至るような、銀行券獲得に封する激しい競争の実例についてみるに、これらは低爲替の自然的乃至必然的附随事情の範囲内とみなさるべきではないように私は解するのである、すなはち、かかる場合における通貨需要は流通させるためのものではなくて退藏を目的とするものであり、驚愕した銀行家や資本家方面における需要であって、それは普通恐慌の最後の幕に、正貨流出が長く続いた後で起るを常とし、恐慌の終結の前兆ともいうことができる。】〉(改造文庫版202-204頁)】


【48】

  〈543)第4605号。「554)〔ピーズ〕(イングランド)銀行がその利子率をさらに引き上げざるをえなくなったので,だれもが不安になっているようでした。地方銀行業者は手持ちの地金の額を増やし,また銀行券の保有額を増やしました。そして,平素はおそらく数百万ポンド・スターリングの金および銀行券を手持ちしているのを常としていた私たちの多くが,たちまち数千ポンド・スターリングを金庫や引出しのなかにしまいこみました。というのは,割引についても,われわれの手形が市場で流通できるかどうかについても,不安が広がっていたからで,これに続いて一般的な退蔵が起こったのです。」(商業的窮境,1847-1848年。)545)このようなときに国立銀行〔Nationalbank〕にとってCirculationとして現われるものは,中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散なのである。ロンドンの金貸し業者のうちの少しばかりの投機的頭脳は,このような時期に銀行券の人為的な欠乏をつくりだすのを常としている。

  543)〔E〕エンゲルス版ではこの原注の以下の部分はすべて削除されている。ただし,最初の『商業的窮境,1847-1848年』での証言第4605号からの引用は,すでに草稿の321ページでも,雑録のなかで,「moneyed Capitalの蓄積とそれが利子率に及ぼす影響」という見出しをもつ諸引用の一部として抜粋されており,それがエンゲルス版の第26章 (MEW 25,S.432ページ)に収められている。
  544)質問者は議長ベアリング。
  545) このパラグラフの以下の部分の原文は,次のとおりである。--Was dann als Circulation erscheint f. d. Nationalbank ist d. Dispersion d. hoards vom Centrum nach d. Peripherie.Einige speculative Köpfe unter d.Londoner moneylenders pflegen in solchen Zeiten an artificial dearth of notes zu produciren.|〉 (142-143頁)

   これは原注a)の続きであり、議会証言からの引用のあとマルクスの文章が付け加えられている。よってマルクスの文章だけを大谷氏が英文のままにしている部分の翻訳を示すためにも書き下しておこう。

  〈このようなときに国立銀行にとって流通高として現われるものは、中央から周辺への蓄蔵貨幣の拡散なのです。ロンドンの金貸し業者のうちの少しばかりの投機的頭脳は、このような時期に銀行券の人為的な欠乏をつくりだすのを常としています。〉

  【先のフラートンの引用では1825年の恐慌であったが、今回は1847年の恐慌の話である。恐慌時にはそれまでのクレジット・システム(信用主義)がモネタール・システム(重金主義)に転化すること、そしてパニックになると、誰もが金あるいはイングランド銀行券の退蔵に走ることが指摘されている。恐慌のピーク時には、こうした退蔵が一般的に生じることがフラートンの引用文でも(また私が先に紹介したアンドレァデス著『イングランド銀行史』の一文でも)、そしてまた今回の議会証言を見ても分かるのである。
 それにマルクスは、こうしたパニック時の異常に高まる銀行券の流通高というのは、中央銀行から地方銀行への蓄蔵貨幣の拡散としてであると説明している。またこうした時期には一部の銀行業者は投機を目的に人為的に銀行券の退蔵を行い流通における欠乏をつくりだすことも指摘している。
  フラートンの引用文では〈銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり〉と述べていたが、このようなパニックについて、後の「Ⅲ)」のなかでマルクスは次のように述べている。

  〈恐慌の時期に「支払手段」が欠乏していることは自明である。手形の〔貨幣への〕転換可能性〔Convertibility〕が商品の変態そのものにとって代わったのであって,しかもまさにこのような時点でこそ,一部がただ信用だけに頼って仕事をすることが多くなればなるほど,それだけますますそうなるのである。恣意的な銀行立法(1844-45年のそれのような)がこの貨幣恐慌をさらに重くすることもありうる。しかし,どんな種類の銀行立法でも恐慌をなくしてしまうことはできない。全過程が信用にもとづいているところでは,ひとたび信用がとだえて現金払しか通用しなくなれば,信用恐慌と支払手段の欠乏とが生じることは自明であり,だからまた,全恐慌が,一見したところでは〔prima facie〕, 信用恐慌および貨幣恐慌として現われざるをえないことは自明である。しかし実際に問題となっているのは,手形の貨幣への「転換可能性」だけではない。膨大な額のこうした手形が表わしているのは,たんなる詐欺取引であり,失敗に終った,また他人の資本でやられた投機であり,最後に減価している商品資本,あるいはもはやけっしてなされえない還流であって,それらがいまや爆発したのであり,明るみに出るのである。もちろん,再生産過程の強力的な拡張のこの人為的なシステムの全体を,いま,ある銀行(たとえばイングランド銀行)が紙券ですべての山師に彼らに不足している資本を与え, すべての商品を以前の名目価値で買い取る,というようなことによって治癒させることはできない。とにかく,すべてがねじ曲げられて現われるのである。というのは,この紙の世界ではどこにも実体的な価格やそれの実体的な諸契機は現われないのであって,現われるのは地金や銀行券や手形(〔貨幣への〕転換可能性) や有価証券なのだからである。ことに, 国内の全貨幣取引が集中する中心地(たとえばロンドン等々)では, このような転倒 〔が現われる〕。生産の中心地ではそれほどでもないが。〉 (大谷本第3巻455-456頁)】

  (原注a)の途中ではありますが、全体の分量を考えて、一旦、ここで切ります。)

 

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