『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-13)
『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-13)
【42】
〈かりにCirculationが純粋に金属によるもの〔metallisch〕だとしても,同時に,1) 流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうるし,また,2) 金がおもに諸支払い(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので,銀行の証券担保前貸が非常に増大しても,それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるであろう。その結果,一方の場合には〔einerseits〕銀行の①総準備高が減少し,他方の場合には〔andrerseits〕銀行は,前には所有者としてもっていたのと同じ金額をいまでは預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり,結局は流通媒介物の②総量が減少するであろう。
①〔異文〕「総準備高〔Gesammtvorrath〕」←「準備高〔Vor[rath〕」
②〔異文〕「総量」←「量」〉 (135-136頁)
先のパラグラフまでで銀行券が発券銀行に還流するあらゆる場合が検討された。そして銀行学派が問題にしている銀行券の還流という現象は、彼らがいうような「資本の問題」ではなく、その限りでは「通貨の問題」であることも指摘された。だからこのパラグラフからは、それをより一層明らかにするために、そもそも銀行券が流通しない場合でも同じ現象が生じうることをマルクスは明らかにしようとしているように思える。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。
〈かりに通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属だけによるものだとしても、同時に、1)地金の輸出のために貸し出された結果、流出が生じて金庫をからっぽにすることもありますし、2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためだけに銀行から要求されて貸し出されたので、その結果、銀行の証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるでしょう。これらは要するにこれまで検討してきた銀行券の場合とまったく同じです。
こうした結果、一方の場合(地金の輸出の場合)には銀行の総準備高が減少し、他方の場合(諸支払いの決済のための貸し出され預金として還流する場合)には銀行は、前には所有者としてもっていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少することになるでしょう。〉
【このパラグラフそのものものは内容としてはそれほど難しいことはないが、しかしなぜ、これがここで分析されているのかを考えるとなかなか分からない面もある。
マルクスは銀行の貸し出しについて、〈証券担保前貸が非常に増大しても〉と、この場合には〈証券担保前貸〉のみに言及している。これまではわれわれも確認してきたように、マルクスは具体的な貸し出しの形態を論じる時には、手形割引と担保貸付の両方を上げて論じていて、どちらか一方に限定していなかったのである。ところがここでは〈証券担保前貸〉のみを論じており、手形割引についてはまったく触れていない。これはどうしてであろうか?
その理由として考えられるのは、このパラグラフでは〈通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属によるもの〉と仮定されていることと関連しているのかも知れない。そもそも銀行券というのは銀行が振り出す手形であることは以前にも指摘したが、銀行券というのは一般の商業手形に代わって銀行が振り出す手形であり、その発行の形態としては主に手形割引によって出回ることが多かったのである。つまり商業手形に代わって銀行手形が流通するのだが、その代替が手形割引によってなされたのである。
ところでこのパラグラフでは銀行券は一枚も含まない純粋に金属貨幣だけが流通すると仮定されている。だからこの場合の貸付の形態をマルクスは証券担保貸付だけにしたのかも知れない。
ここでは〈かりに通貨が純粋に金属によるものだとしても〉と書き出しており、要するに、これまでは銀行券がどうなるかを問題にしてきたが、そもそもこれまで論じてきたことは、必ずしも銀行券に限ったことではない、という形で論じているように思える。ただ、なぜ、マルクスはこうしたケースについて言及する必要があると考えたのであろうか。
その前に、ただ若干補足しておくと、マルクスは1851年2月3日付けエンゲルスへの手紙で、次のように述べている。
〈そこで、イギリスでは純粋に金属流通が行われているものと前提しよう。だからといって信用制度がなくなったと前提するわけではない。イングランド銀行はむしろ同時に預金-貸付銀行に変わることになるだろう。だが、その貸し出しはただ現金貨幣だけでなされることになるだろう。〉 (『資本論書簡』国民文庫①85頁、マル・エン全集第27巻155頁)
このようにここでマルクスはもし〈純粋に金属流通が行われているものと前提〉すると、〈イングランド銀行は……預金-貸付銀行に変わることになる〉と述べている。そして地金が海外に流出するケースをいくつかに分けて分析しているが、しかしその場合に手形割引による貸し出しを想定しており、純粋の金属流通を前提したからといって、手形割引を想定から外すといったことはしていない。これは上記の推論でも還流が〈満期手形の返済のかたちで〉生ずるとも述べており、これは銀行が手形割引して持っている手形が満期になって振出人から返済として帰ってくることを述べているのだから、必ずしも手形割引が想定から外されているわけではないのかも知れない。
さて、先のパラグラフでは、マルクスは銀行学派の主張を徹底するならば、彼らが問題にしていない銀行券の還流のケースもあること、しかもそれらの場合も彼らの流儀から見ても、それは彼ら流の「資本の貸付」になることを指摘したが--つまり彼らは銀行券の還流という事実を根拠に自らの主張をやっているのに、それを必ずしも徹底しているわけではないことを指摘したが--、しかしそもそも銀行学派のように銀行券の還流に拘っていることそのものが彼らの粗雑なものの捉え方から来ているということをもう一つの面から指摘するという意図から、今度は、そもそも銀行券が一つも流通せず、純粋に金属通貨だけが流通する場合でも、彼らが注目している現象(つまり通貨の流出や還流という現象)は生じ得ることを指摘して、だからそれは銀行券に固有の問題ではないことを指摘するのが一つの目的ではないかと考えられる。つまりそれは彼らがいうところの「資本の問題」ではなく、「貨幣の問題」なのだといいたいわけである。
【41】パラグラフまででマルクスは、銀行に銀行券が還流するケースをすべて検討し尽くしたことになるわけであり、そしてそのいずれの場合も、銀行学派がいうような意味での「資本の貸付」になることを検討した(ただし満期手形の支払として発券銀行に還流してくる場合はそうではなかったが)。つまりこれまでは銀行券が問題であったが、そもそもなぜ銀行券をマルクスが問題にしたかというと、それは通貨学派と銀行学派の論争で紙券の過剰発行が問題になっていたからである。通貨学派は銀行券が増発されれば、金属貨幣が持っていた自動調節作用が働かなくなり、通貨の価値が下落し、金の流出と恐慌が勃発する原因であると主張した。それに対して銀行学派は、いやそうではない、そもそも銀行券は兌換が保証されているのだから、それは発券銀行が自由に増減できるものではない。それは社会が必要とするだけ流通するだけで、それ以上のものはすべて発券銀行に還流して「資本の貸付」になり、流通銀行券の増加にはならないのだと主張したのである。そして銀行学派はイングランド銀行の保有有価証券が増えているのに(つまり「資本の貸付」が増えているのに)、銀行券の流通高が増えず、そればかりかむしろ減っているという事実を指摘する。それはイングランド銀行もやはり流通銀行券の増減を自由に出来ないことを示しているのであり、イングランド銀行による貸付がすべて同行の銀行券によってなされているにも関わらず、貸付が増えて保有有価証券が増えているのに、流通高が増えないのは、それはその貸し付けられた銀行券が流通に必要以上の分については同行に還流して「資本の貸付」に転化するからだ、と主張したのである。だからマルクスは、果たして本当にイングランド銀行で生じていることは銀行学派の言っているとおりなのかどうかを検討したわけである。そしてその結果、確かにイングランド銀行が有価証券に対して銀行券を貸し付けても、銀行券の流通高が増えないのは、それは銀行券がすぐに還流してくるからだということ、しかし、それが還流してくるのは、決して銀行学派がいうように、それが「資本の貸付」になるからそうなのではなく、それが支払手段の貸付だから、支払いが済むと、すぐに還流して、銀行券の流通高の増加にならないのだ、とマルクスは批判したのである。つまりそれは銀行学派がいうような「資本の問題」ではなく、支払手段という貨幣の一機能の問題であり、その限りでは「貨幣の問題」だとマルクスは批判したわけである。そしてそれが貨幣の問題であるということをさらに明らかにするために、マルクスは銀行券ではなく、純粋に金属が通貨として流通している場合も同じような還流が生じ、彼らのいう意味での「資本の貸付」という現象が生じることを論証しようとしていると考えられるのである。
マルクスは〈純粋に金属が通貨として流通している場合〉も、二つのことが生じ得ることを指摘する。
一つは〈1)流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうる〉ということである。この場合の〈流出〉は、もちろん地金の輸出ということであろう。
もう一つは〈2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので、銀行の証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金の形で(または満期手形の返済の形で)銀行に帰ってくることもありうるであろう〉と述べている。
このように、マルクスは銀行券の場合について検討した、地金の輸出と結びついた貸付と支払手段に対する要求にもとづく貸付という二つの場合を純粋に金属通貨が流通している場合にも、同じことが生じることを指摘しているように思える。つまり銀行券に限らないとマルクスは言いたいことは明らかである。
次のマルクスの一文もその限りでは、そのことを証明している。
〈その結果、一方の場合には銀行の総準備高が減少し、他方の場合には銀行は、前には所有者として持っていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者として持っていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少するであろう。〉
もちろん、ここで〈一方の場合〉とは地金流出が生じた場合であり、その場合は〈銀行の総準備高が減少〉するだけで、国内で流通している金属通貨の増減には影響しないとマルクスは言いたいわけである。〈他方の場合〉は、支払手段として貸出された金属通貨が預金あるいは支払として帰ってくる場合であろう。そしてその結果は、〈結局は流通媒介物の総量が減少する〉というのだが、それはどうしてであろうか?
この場合、〈その結果,……、結局は〉と書かれているのが一つの眼目である。〈一方の場合〉も〈他方の場合〉も、それらがただちに直接流通媒介物を直接減少させるように作用するというのではなく、結果的に、あるいは最終的には流通媒介物は減少するであろうということである。
〈流通媒介物〉というのは、この場合は金属通貨を意味するが、しかし金鋳貨の場合の流通媒介物という場合は、明らかに流通必要金量を意味するのではないだろうか? 銀行券の場合の流通高とは、実際に流通している銀行券だけを意味するのではなく、銀行の外にある銀行券の高を意味していた。しかし金属貨幣の場合は、蓄蔵形態にある場合は、流通手段(鋳貨としての流通手段と支払手段)の総量には入らないのであり、銀行券の場合とは違うであろう。ただ鋳貨準備金は、流通のなかにあるものであり、その意味では流通媒介物の総量に入るであろう。
だからこの場合、〈流通媒介物の総量〉といった場合の〈流通媒介物〉は、やはり広義の流通手段と鋳貨準備金としてある金属貨幣の総量を意味し、その限りでは流通必要金量を意味すると考えるべきであろう。
しかしそうすると二つのことが問題になる。一つはなぜマルクスは流通必要金量という言葉を使わずに〈流通媒介物の総量〉というような言い方をしたのかということである。もう一つは流通必要金量が減少するとどうして言えるのかということである。
前者からいこう。なぜマルクスは〈流通必要金量〉といわずに〈流通媒介物の総量〉という言葉を使ったのか、といえばそれは銀行学派がそうした言葉を使っているからであろう。総じてこの第28章該当部分では、マルクスは銀行学派の使う用語をそのまま使っており、今回の場合も例外ではないというだけである。つまり「通貨と資本との区別」をその機能から説明するところで、それが収入の実現を媒介するか、それとも資本の流通を媒介するかという形で問題を提起していたが、その例をみてもわかるように、〈流通媒介物〉というのは、貨幣を銀行学派的な粗雑な捉え方でその機能に注目して見た場合の言い方ではないだろうか? だからあえてマルクスはこうした言い方をしたのではないかと考えることが出来る。
もう一つの問題については、マルクスは【9】パラグラフにおいて、次のように述べていた。
〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,二つの部面のどちらでであろうと,またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能の反復の回数,同時に行なわれる売買,支払の総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量,通貨〔currency〕の総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は②購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。〉 (105-106頁)
こうしたマルクスの通貨総量について法則の説明から、上記の問題での〈流通媒介物の総量〉の減少という事態を考えるとどのように捉えることができるであろうか。
この場合、マルクスは流通媒介物の総量が減少する理由として、①地金の流出と②支払手段としての貸出とそれがすぐに還流することを上げている。果たしてこの二つの理由は〈流通媒介物の総量〉が減少する理由として十分なものであろうか?
まず①の地金の流出の場合は、それ自体が流通手段の量には関連しないであろう。確かにそれは流通媒介物を増やすわけではないが、しかしだからといってそれを減じるわけでもない。むしろマルクスは【37】パラグラフでは〈国際的な支払のための準備ファンドとして集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がない〉(130頁)と述べていたのである。
また②の場合も、それ自体が流通媒介物を減じるように作用するわけではないだろう。むしろ例え一時的であれ、それが支払手段として流通することは、その限りでは流通媒介物の増大として作用するわけである。しかしマルクスはこうした事態を逼迫期の問題として論じており、つまり物価が下落し、労働者の賃金が引き下げられ、全体として収入の実現を媒介する貨幣の総量が減少する状況を想定しているのである。だからマルクスは諸支払いに使用される流通媒介物がすぐに銀行に還流し、それがすぐに再び貸し出されることによって同じ流通媒介物が何回も諸支払いを媒介する機能を果たすことによって、諸支払いの総額がどんなに増えようが、それを決済する流通媒介物の総量は増えないこと、そればかりか収入の実現を媒介する流通媒介物の総量は減少するので、全体としての流通媒介物の総量は減少するのだと述べているのであろう。
つまりマルクスは金属通貨だけが流通している場合を想定して、銀行学派が決定的な論拠として押し出しているものが、銀行券に限定された現象ではないことを指摘したわけである。
ところで大谷氏ばここでマルクスが純粋に金属による流通のケースを検討していることについて、次のように説明している。
〈マルクスはここで,フラートンが「金属通貨がもっている大きな長所に思いあたらざるをえない」とうらやんでいる,兌換銀行券のない純粋金属流通の場合について,言及する。〉 (53頁)
つまりここでマルクスが通貨が純粋に金属だったらどうなるか、という問題を論じているのは、フラートンが金属通貨の長所なるものに言及しているからだというのである。これは果たしてどうであろうか。これではそれまでのマルクスの考察との関連はまったくないことになってしまいかねない。確かにマルクスは【37】パラグラフで準備ファンドの一つの主要銀行への集中とそのできる限りの最低限度への縮小が生じることに関連して次のように述べていた。
〈ここから,フラ一トンの次のような嘆きも出てくるのである。--「そして,イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく[515]枯渇しそうに思われるときにきまって現われる熱病的な不安動揺の状態に比べて,大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのがふつうだということを思えば,この点で金属通貨〔currency〕がもっている大きな長所に思いあたらざるをえないのである。」(同前,142ページ〔前出阿野訳,174ページ〕。)}--〉 (131頁)
しかしこのことがここで突然、マルクスが純粋な金属通貨の流通について論じることといかなる関係があるのはまったくわからないのである。やはりそれはそれまでのパラグラフで論じている問題と関連させて考察すべきではないだろうか。
では大谷氏はこの金属通貨の流通のケースについてどのように解説しているのかを見てみよう。
〈ここでも,「1)」として地金の流出が生じる場合と,「2)」として--おもに反転期に--支払手段としての貨幣への強い需要が生じて「有価証券担保前貸」が増大する場合,という二つの場合を見ている。第2の場合に,「銀行は,前には所有者としてもっていたのと同じ金額をいまでは預金者たちにたいする債務者としてもっている」ことになる,と言っているのは,準備ファンドとして所有していた金属を使って「有価証券担保前貸」を行なったとき,その金属が預金として還流してくれば,銀行はこの金額だけの金の債務者となっていることを意味しているのであろう。そして,預金として還流した金額だけ,「流通媒介物の総量が減少する」ことになるのである。〉 (53頁)
大谷氏はこの純粋に金属貨幣の流通のケースを、なぜマルクスはここで論じているのかについてまったく問題にせず、ただフラートンがうらやんでいることについてついでに述べておこうという程度の問題として検討しているために、マルクスがなぜ(1)(2)に分けて二つのことを論じているのかについてもまったく理解できていない。これはマルクスが銀行券のケースについて(1)それが国際流通の逆調によって、つまり金地金の流出のために生じているケースとしてマルクスが論じていたものに対応しており、(2)は国内の流通で逼迫期に発行された銀行券がすぐに還流してくるケースについて論じていたことに対応しているのである。ただ今回は銀行券で生じたことが、純粋に金属貨幣が流通しているだけの場合でも生じうることを示すためのものであり、だから(1)のケースではただ地金が流出して金庫がからっぼになるだけであり、(2)の場合には、支払手段として金の貸し出しが要求されるのであるが、この場合も銀行券の場合と同様に、それらは預金としてあるいは満期手形の支払いとして銀行にすぐに還流することを指摘しているわけである。
そしてその結果は、(1)の場合は銀行の準備高が減少し、(2)の場合には、銀行は前には所有者として持っていた金を貸し出した結果、それが預金として帰って来たので、預金者たちたいする債務に転化したことになると指摘し、結局は流通媒介物の総量は減少すると述べているわけである。大谷氏は〈そして,預金として還流した金額だけ,「流通媒介物の総量が減少する」ことになるのである〉と述べているが、これはマルクスが述べていることとは違っている。マルクスは〈結局は流通媒介物の総量が減少するであろう〉と述べているのであり、これは〈他方の場合〉に限ったものではなく、その前の〈その結果〉に続くものである。すなわち〈その結果,……結局は流通媒介物の総量が減少するであろう〉とマルクスは述べているのである。
つまりマルクス自身は、大谷氏のように預金として還流した金額だけ、流通媒介物の総量が減少するとは述べていないのである。結局は流通媒介物の総量が減少するというのは、逼迫期にはそうだからそのように述べているだけで、上記の二つの例を理由にそのように述べているのではないのである。なぜなら、大谷氏のように考えるなら、どうして銀行が手持ちの金属で前貸しし、それが預金として還流してきたら、流通媒介物の総量がそれだけ減少するといえるのかを説明しなければならないが、そんなことはできないからである。もともと銀行が持っていた金属は、流通媒介物ではない。しかしそれを貸し付けた場合、それは流通媒介物として利用されうるが、しかしそれがすぐに預金として還流するならば、流通媒介物の総量には何の変更もないことになるからである。だから全体として総量が減少するというのは、それは逼迫期だからだと考えるべきである。そしてそれはすでに考察した。】
【43】
〈これまで前提されていたことは,前貸は銀行券でなされ,したがって銀行券発行の増加を,どんなに瞬過的なもの〔verschwindend〕であるとしても,少なくとも一時的には,伴うということである。しかし,このことは必要ではない。銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。彼は銀行あての小切手で支払い,小切手を受け取った人はそれで取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(①手形交換所)。このような場合には②銀行券の介入はぜんぜん〔生じ〕ないのであって,全取引は,銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて,銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。この場合には,銀行はAに自分の銀行業資本を--なぜなら481)自分自身の債権なのだから--の一部分を前貸ししたのである。
①〔注解〕手形交換所〔Clearing-House〕--ロンドンのロンバード・ストリートにある手形交換所は1775年に設立された。メンバーはイングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会であった。なすべき仕事は、手形、小切手その他からなる相互の債権の差引決済であった。
②〔異文〕「……できない」という書きかけが消されている。
481)「自分自身の債権〔ihre eignen Schuldforderungen〕」--旧稿では訳注で,この「「債権」は「債務」の誤記ではないかと思われる」と書いたのであるが,これはここでの「銀行業資本」の意味を読み取れなかったことから生じた誤りであった。 〉 (136-137頁)
このパラグラフも、基本的には先の【42】パラグラフと同じ主旨から、銀行券の発行が伴わない場合として、純粋な金属通貨の流通の想定ではなく、今度は帳簿信用による貸付が取り上げられている。そしてこの場合も、やはり銀行学派的な意味での「資本の貸付」になることも指摘されている。まずは平易な書き下し文を紹介するが、分かりやすくするために、若干補足して、二つの銀行と二人の取引業者を想定して、それぞれの銀行をa、b、取引業者をA、Bとして書き下してみよう。
〈これまで前提されていたことは、前貸は銀行券でなされ、したがって銀行券の発行は、どんなに瞬過的なものであるとしても、少なくとも一時的には伴い、発行高は増加するということです。しかし、銀行券が必ず発行されなければならないというわけではありません。なぜなら、銀行は、紙券のかわりに帳簿信用を与えることも出来るからです。帳簿信用も銀行券と同じように銀行が与える信用の一形態です(これは第25章該当個所でマルクスが「銀行信用」として論じていたもののことです)。
つまり銀行(今それを仮にaとしましょう)は債務者(A)の当座預金の口座に貸付額の預金額を設定するのですが、この場合には、同行の債務者Aは同行の仮想の預金者になるのです(もちろん、この場合もAは銀行に自分が持参した手形を割り引いてもらったか、あるいは有価証券を担保にして貸付を受けたのかも知れませんが、いずれにしてもAはその貸付を銀行券によってではなく、帳簿信用で受けたのです)。そしてAはその自分の預金にあてて小切手を振り出してBに支払います。小切手を受け取ったBはそれを彼の取引銀行業者(仮にbとする)に預金するかあるいは支払いを行います。この銀行業者bはそれをAの取引銀行aが保有する自行宛の同額の小切手と手形交換所で交換します(これでabの二つの銀行の支払義務は相殺されたことになります)。
このような場合には銀行券の介入はぜんぜん生じません。全取引は、銀行aにとっては自分が応じなければならない請求権(つまりAが振り出したa宛の小切手)が自分自身の持っているbの支払義務のある小切手で決済されて、銀行aが受ける現実の保証はAに対する信用請求権にあるということに限られるのです(つまり銀行aのAに対する貸付だけが残っていることになります)。
この場合にも、元帳の立場からいいますと、銀行aはAに自分自身の銀行業資本--なぜならaが、Aが自行宛に振り出した小切手を相殺するために手形交換所に持ち出したb宛の小切手は、aにとっては自分自身が保有する債権なのだから--の一部分を前貸したことになるのです。
だからこの場合も、銀行学派がいうような意味での「資本の前貸」にはなるのです。〉
【大谷氏はこのパラグラフも氏独自のバランスシートの記号を挿入して紹介しているが、それは残念ながらワープロソフトの限界もあり、ここでは紹介できない。ただ【 】で囲んでバランスシートの表記を入れているもののなかで次の部分がおかしいのではないかと思う。
〈この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)〔乙銀行【-|他行宛小切手-&現金準備金+】,甲銀行【現金準備金-|A預金-】〕。〉 (54頁)
大谷氏のバランスシートの表記はうまく表現できないが、ここでマルクスが〈この銀行業者〉と述べているのは、大谷氏の例では「乙」銀行のことである。それが〈自分あての銀行小切手と交換する〉というのは、甲銀行が持っている乙銀行宛の小切手を自分が持っている甲銀行宛の小切手(つまりBが同行への支払いに用いたもの)とを交換すると述べているのだが、それが大谷氏のバランスシートでは正しく表記されていない。つまり大谷氏はここでマルクスが述べている内容を理解していないことを示している。だからそのあとの解説にもいろいろと問題がある。それを検討してみよう。
〈預金設定で銀行甲から貸付を受けた借り手は,貸付の債務者かつ預金者になる(甲銀行のバランスシートでは,【Aへの貸付+ | Aの預金+】となる)。AがBにたいする支払いを,この自分の預金にあてた小切手で行なうなら,Bは受け取った小切手で自分の取引銀行乙への債務を支払う(乙銀行のバランスシートでは,【「Bへの貸付-&甲銀行宛小切手+】となる)。手形交換所での手形交換で,乙銀行が甲銀行あての小切手を回収すれば(乙銀行では【「甲銀行宛小切手-&現金預け金+】となる),甲銀行はこの金額をAの預金口座から引き落とすことによって清算する(甲銀行のバランスシートでは,【現金預け金- | A預金-】となる)。最終的な結果を見ると,甲銀行での,現金預け金によってAへの貸付を行なった,という結果になっている。もし,現金預け金そのものによってではなくて,準備有価証券の換金によって貸付を行なったとすれば,「自分の銀行業資本」(この「銀行業資本」は「銀行業者の資本」と言うべきところ)の一部である準備有価証券,すなわち「自分自身の債権」を前貸した,ということになるのである。10) 前述の「教科書的解説」でも述べたように,銀行業者的な観点から見ると,「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)のは,銀行資本の前貸なのであって,ここでこのことにマルクスは注目しているのである。〉 (54-55頁)
大谷氏はバランスシート表記を挿入することによって余計にややこしいことになっているが、まず次の部分はまったく間違っている。〈手形交換所での手形交換で,乙銀行が甲銀行あての小切手を回収すれば〉と述べているが、これでは何のことかチンプンカンプンである。乙銀行がどうして甲銀行宛の小切手を回収する必要があるのか、乙銀行はBが支払に使った甲銀行宛の小切手を持参して、手形交換所に行くのである。そこで〈この銀行業者(すなわち乙銀行)はそれを自分あての銀行小切手と交換する〉とマルクスは述べている。以前にも大谷氏の「預金通貨論」を批判したときにすでに指摘したが、この部分の理解が大谷氏にはできていなかった。ここで〈自分あての銀行小切手〉というのは、乙銀行宛の小切手のことであり、この場合それを甲銀行が手形交換所に持ち込むのである。そして両者は自行宛の小切手を交換して、相殺するのである。乙銀行にとって自分が持っている甲宛の銀行券は自身の債権である(甲にとっては債務)。同じように、甲銀行にとって乙銀行宛の小切手は自行の債権なのである(乙にとっては債務)。それらを互いに交換することによって相殺するのである。だからこの場合、マルクスは明確には書いていないが、甲銀行は乙銀行宛の小切手を持っていると想定しているのである。それは甲銀行にとっては債権であるが、だからAへの貸付は自分の債権による貸し付けに結果するから、それは自分の銀行業資本の貸付だということになるのである。
ここで大谷氏は甲・乙それぞれの銀行のバランスシートを問題にしているが、もしそれぞれの銀行内における預金の振替を問題にするなら、A、Bだけではなく、C、Dの二人の甲・乙両銀行との取引業者を想定しなければならないのだが、そこらあたりも大谷氏は無自覚である。だからバランスシートでの表記はただ問題を混乱させるだけで益はないのである。
大谷氏はこの解説では「現金預け金」なるものを想定している。しかしマルクスはそんなことは何も問題にしていない。これは甲銀行が手形交換所で自行宛の小切手を持参した乙銀行から現金でその小切手を買い取るという想定である。しかしこんなことを想定したのは、すでに見たようにマルクスが〈この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)〉と述べている一文を大谷氏が正しく理解できなかったからである。マルクスは手形交換所では、甲・乙両銀行が、それぞれの自行宛の小切手を相手側が持っているのを互いに交換して相殺したと想定しているのである。それが大谷氏には分かっていない。
さらに最後の方で大谷氏は〈前述の「教科書的解説」でも述べたように,銀行業者的な観点から見ると,「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)のは,銀行資本の前貸なのであって,ここでこのことにマルクスは注目しているのである〉と述べているが、これも間違っている。マルクスここでは帳簿信用について述べていたのだから、〈「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)〉というのはおかしな話なのである。銀行は帳簿信用では、少なくとも何の準備有価証券も金も持ち出す(貸し付ける)必要はない。ただ信用だけにもとづいて預金設定という貸し付け形態を創造したのである。だからその仮想の帳簿上の預金宛てに支払われた小切手が他行の持参するところになると、自分の資産(債権)をそれに対して支払う必要があるのである。その小切手が自行に還流するだけなら(第三者の支払等によって)、銀行はただAへの貸付が残っていることになるだけである。
なおついでに付け加えておくと、大谷氏は注10)で以前の訳文には「債権」は「債務」の誤記ではないかと書いたが、それは〈これは以上のような関連をまったく読み間違ったものであった。〉(55頁)と書いているが、しかし自分の間違いを反省するのはよいが、しかし依然として間違っているのだからどうしようもないということもつけ加えておこう。
そして同じような間違いは小林氏にも見られる。次のように述べている。
〈そしてマルクスは,「この場合には,イングランド銀行は,彼[A]にその[同行の]banking capital--なぜなら同行自身の債務請求(Schuldforderung)[債務]であるのだから --の一部を前貸ししたのである27)」との注解を書き添えていく。したがってこの場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられているように見える28)。〉 (399頁)
この「Schuldforderung」(債権)について大谷氏は「Schulden」(債務)の誤記ではないかという疑問を出していて、私はそれに対して批判したのであるが、著者はここては〈債務請求(Schuldforderung)[債務]〉というわけの分からない解説を加えている。「債務請求」権ということは債権ということなのに、「債務」という補足説明をしているのである。つまりこの補足は大谷氏の以前の誤記という立場に立っていることを意味している。しかしマルクス自身は〈Schuldforderung〉と書いているので、それをそのまま〈債務請求(Schuldforderung)〉と訳しながら、しかしそれは〈[債務]〉ではないかとチョロと書いて、どっちつかずに誤魔化しているわけである。しかしそのあと著者は〈したがってこの場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられている〉と馬脚をあらわしている。
このケースの詳しい解説は何度もやった気がして気乗りしないが、もう一度やっておこう。イングランド銀行が帳簿信用でAの口座を開設し、小切手帳をAに与えた場合である。この場合はイングランド銀行にとってはただ自行の信用だけでこうした口座開設をやるのであって、銀行券を貸し付けた場合のように紙と印刷費もかからないのである。しかしいうまでもなく、実際にはその口座開設には何人かの確かな保証人が必要であったり、何を担保にしたのか、あるいは手形割引で貸し付けたのかなどについては、マルクスは何も述べていない。この場合Aは自身の設定された預金に対して小切手を切って、Bへの支払を行なう。Bはそれを取引銀行(Nとしよう)に支払う。だからAの切った小切手はN行の所持するところとなった。だからN行はその小切手を交換所に持ち込む、するとイングランド銀行は、もしN宛の小切手をもっていれば(これについてはマルクスはいつも何も述べないままなのであるが、だから大谷氏らもいつも間違うのであるが、しかし少なくとも手形交換所で交換して相殺するためにはそうした想定が当然必要なのである)、そこでNの所持する自行の支払義務のある小切手と交換する、するとイングランド銀行のAへの貸付は、最初はただ同行の信用だけで行なったものなのだが、結局は、手形交換の結果、同行の債権(Nの支払義務のある小切手)を持ち出す結果に終わったのだから、結局、Aへの貸付は銀行業資本(銀行業者の立場からみての資本)の貸付に帰着するということである。だから著者のように〈この場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられている〉などというのはまったくの的外れなのである。ようするに著者も大谷氏と同様何も分かっていないのである。】
(続く)