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2022年2月

2022年2月28日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-13)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-13)

 

【42】

  〈かりにCirculationが純粋に金属によるもの〔metallisch〕だとしても,同時に,1) 流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうるし,また,2) 金がおもに諸支払い(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので,銀行の証券担保前貸が非常に増大しても,それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるであろう。その結果,一方の場合には〔einerseits〕銀行の総準備高が減少し,他方の場合には〔andrerseits〕銀行は,前には所有者としてもっていたのと同じ金額をいまでは預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり,結局は流通媒介物の総量が減少するであろう。

  ①〔異文〕「総準備高〔Gesammtvorrath〕」←「準備高〔Vor[rath〕」
  ②〔異文〕「総量」←「量」〉 (135-136頁)

   先のパラグラフまでで銀行券が発券銀行に還流するあらゆる場合が検討された。そして銀行学派が問題にしている銀行券の還流という現象は、彼らがいうような「資本の問題」ではなく、その限りでは「通貨の問題」であることも指摘された。だからこのパラグラフからは、それをより一層明らかにするために、そもそも銀行券が流通しない場合でも同じ現象が生じうることをマルクスは明らかにしようとしているように思える。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈かりに通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属だけによるものだとしても、同時に、1)地金の輸出のために貸し出された結果、流出が生じて金庫をからっぽにすることもありますし、2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためだけに銀行から要求されて貸し出されたので、その結果、銀行の証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるでしょう。これらは要するにこれまで検討してきた銀行券の場合とまったく同じです。
 こうした結果、一方の場合(地金の輸出の場合)には銀行の総準備高が減少し、他方の場合(諸支払いの決済のための貸し出され預金として還流する場合)には銀行は、前には所有者としてもっていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少することになるでしょう。〉

  【このパラグラフそのものものは内容としてはそれほど難しいことはないが、しかしなぜ、これがここで分析されているのかを考えるとなかなか分からない面もある。
  マルクスは銀行の貸し出しについて、〈証券担保前貸が非常に増大しても〉と、この場合には〈証券担保前貸〉のみに言及している。これまではわれわれも確認してきたように、マルクスは具体的な貸し出しの形態を論じる時には、手形割引と担保貸付の両方を上げて論じていて、どちらか一方に限定していなかったのである。ところがここでは〈証券担保前貸〉のみを論じており、手形割引についてはまったく触れていない。これはどうしてであろうか?
 その理由として考えられるのは、このパラグラフでは〈通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属によるもの〉と仮定されていることと関連しているのかも知れない。そもそも銀行券というのは銀行が振り出す手形であることは以前にも指摘したが、銀行券というのは一般の商業手形に代わって銀行が振り出す手形であり、その発行の形態としては主に手形割引によって出回ることが多かったのである。つまり商業手形に代わって銀行手形が流通するのだが、その代替が手形割引によってなされたのである。
 ところでこのパラグラフでは銀行券は一枚も含まない純粋に金属貨幣だけが流通すると仮定されている。だからこの場合の貸付の形態をマルクスは証券担保貸付だけにしたのかも知れない。
 ここでは〈かりに通貨が純粋に金属によるものだとしても〉と書き出しており、要するに、これまでは銀行券がどうなるかを問題にしてきたが、そもそもこれまで論じてきたことは、必ずしも銀行券に限ったことではない、という形で論じているように思える。ただ、なぜ、マルクスはこうしたケースについて言及する必要があると考えたのであろうか。
 その前に、ただ若干補足しておくと、マルクスは1851年2月3日付けエンゲルスへの手紙で、次のように述べている。

 〈そこで、イギリスでは純粋に金属流通が行われているものと前提しよう。だからといって信用制度がなくなったと前提するわけではない。イングランド銀行はむしろ同時に預金-貸付銀行に変わることになるだろう。だが、その貸し出しはただ現金貨幣だけでなされることになるだろう。〉 (『資本論書簡』国民文庫①85頁、マル・エン全集第27巻155頁)

 このようにここでマルクスはもし〈純粋に金属流通が行われているものと前提〉すると、〈イングランド銀行は……預金-貸付銀行に変わることになる〉と述べている。そして地金が海外に流出するケースをいくつかに分けて分析しているが、しかしその場合に手形割引による貸し出しを想定しており、純粋の金属流通を前提したからといって、手形割引を想定から外すといったことはしていない。これは上記の推論でも還流が〈満期手形の返済のかたちで〉生ずるとも述べており、これは銀行が手形割引して持っている手形が満期になって振出人から返済として帰ってくることを述べているのだから、必ずしも手形割引が想定から外されているわけではないのかも知れない。

  さて、先のパラグラフでは、マルクスは銀行学派の主張を徹底するならば、彼らが問題にしていない銀行券の還流のケースもあること、しかもそれらの場合も彼らの流儀から見ても、それは彼ら流の「資本の貸付」になることを指摘したが--つまり彼らは銀行券の還流という事実を根拠に自らの主張をやっているのに、それを必ずしも徹底しているわけではないことを指摘したが--、しかしそもそも銀行学派のように銀行券の還流に拘っていることそのものが彼らの粗雑なものの捉え方から来ているということをもう一つの面から指摘するという意図から、今度は、そもそも銀行券が一つも流通せず、純粋に金属通貨だけが流通する場合でも、彼らが注目している現象(つまり通貨の流出や還流という現象)は生じ得ることを指摘して、だからそれは銀行券に固有の問題ではないことを指摘するのが一つの目的ではないかと考えられる。つまりそれは彼らがいうところの「資本の問題」ではなく、「貨幣の問題」なのだといいたいわけである。
 【41】パラグラフまででマルクスは、銀行に銀行券が還流するケースをすべて検討し尽くしたことになるわけであり、そしてそのいずれの場合も、銀行学派がいうような意味での「資本の貸付」になることを検討した(ただし満期手形の支払として発券銀行に還流してくる場合はそうではなかったが)。つまりこれまでは銀行券が問題であったが、そもそもなぜ銀行券をマルクスが問題にしたかというと、それは通貨学派と銀行学派の論争で紙券の過剰発行が問題になっていたからである。通貨学派は銀行券が増発されれば、金属貨幣が持っていた自動調節作用が働かなくなり、通貨の価値が下落し、金の流出と恐慌が勃発する原因であると主張した。それに対して銀行学派は、いやそうではない、そもそも銀行券は兌換が保証されているのだから、それは発券銀行が自由に増減できるものではない。それは社会が必要とするだけ流通するだけで、それ以上のものはすべて発券銀行に還流して「資本の貸付」になり、流通銀行券の増加にはならないのだと主張したのである。そして銀行学派はイングランド銀行の保有有価証券が増えているのに(つまり「資本の貸付」が増えているのに)、銀行券の流通高が増えず、そればかりかむしろ減っているという事実を指摘する。それはイングランド銀行もやはり流通銀行券の増減を自由に出来ないことを示しているのであり、イングランド銀行による貸付がすべて同行の銀行券によってなされているにも関わらず、貸付が増えて保有有価証券が増えているのに、流通高が増えないのは、それはその貸し付けられた銀行券が流通に必要以上の分については同行に還流して「資本の貸付」に転化するからだ、と主張したのである。だからマルクスは、果たして本当にイングランド銀行で生じていることは銀行学派の言っているとおりなのかどうかを検討したわけである。そしてその結果、確かにイングランド銀行が有価証券に対して銀行券を貸し付けても、銀行券の流通高が増えないのは、それは銀行券がすぐに還流してくるからだということ、しかし、それが還流してくるのは、決して銀行学派がいうように、それが「資本の貸付」になるからそうなのではなく、それが支払手段の貸付だから、支払いが済むと、すぐに還流して、銀行券の流通高の増加にならないのだ、とマルクスは批判したのである。つまりそれは銀行学派がいうような「資本の問題」ではなく、支払手段という貨幣の一機能の問題であり、その限りでは「貨幣の問題」だとマルクスは批判したわけである。そしてそれが貨幣の問題であるということをさらに明らかにするために、マルクスは銀行券ではなく、純粋に金属が通貨として流通している場合も同じような還流が生じ、彼らのいう意味での「資本の貸付」という現象が生じることを論証しようとしていると考えられるのである。

 マルクスは〈純粋に金属が通貨として流通している場合〉も、二つのことが生じ得ることを指摘する。
 一つは〈1)流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうる〉ということである。この場合の〈流出〉は、もちろん地金の輸出ということであろう。
 もう一つは〈2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので、銀行の証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金の形で(または満期手形の返済の形で)銀行に帰ってくることもありうるであろう〉と述べている。
 このように、マルクスは銀行券の場合について検討した、地金の輸出と結びついた貸付と支払手段に対する要求にもとづく貸付という二つの場合を純粋に金属通貨が流通している場合にも、同じことが生じることを指摘しているように思える。つまり銀行券に限らないとマルクスは言いたいことは明らかである。
 次のマルクスの一文もその限りでは、そのことを証明している。
 〈その結果、一方の場合には銀行の総準備高が減少し、他方の場合には銀行は、前には所有者として持っていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者として持っていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少するであろう
 もちろん、ここで〈一方の場合〉とは地金流出が生じた場合であり、その場合は〈銀行の総準備高が減少〉するだけで、国内で流通している金属通貨の増減には影響しないとマルクスは言いたいわけである。〈他方の場合〉は、支払手段として貸出された金属通貨が預金あるいは支払として帰ってくる場合であろう。そしてその結果は、〈結局は流通媒介物の総量が減少する〉というのだが、それはどうしてであろうか?
 この場合、〈その結果,……、結局は〉と書かれているのが一つの眼目である。〈一方の場合〉も〈他方の場合〉も、それらがただちに直接流通媒介物を直接減少させるように作用するというのではなく、結果的に、あるいは最終的には流通媒介物は減少するであろうということである。
  〈流通媒介物〉というのは、この場合は金属通貨を意味するが、しかし金鋳貨の場合の流通媒介物という場合は、明らかに流通必要金量を意味するのではないだろうか? 銀行券の場合の流通高とは、実際に流通している銀行券だけを意味するのではなく、銀行の外にある銀行券の高を意味していた。しかし金属貨幣の場合は、蓄蔵形態にある場合は、流通手段(鋳貨としての流通手段と支払手段)の総量には入らないのであり、銀行券の場合とは違うであろう。ただ鋳貨準備金は、流通のなかにあるものであり、その意味では流通媒介物の総量に入るであろう。
 だからこの場合、〈流通媒介物の総量〉といった場合の〈流通媒介物〉は、やはり広義の流通手段と鋳貨準備金としてある金属貨幣の総量を意味し、その限りでは流通必要金量を意味すると考えるべきであろう。
 しかしそうすると二つのことが問題になる。一つはなぜマルクスは流通必要金量という言葉を使わずに〈流通媒介物の総量〉というような言い方をしたのかということである。もう一つは流通必要金量が減少するとどうして言えるのかということである。
 前者からいこう。なぜマルクスは〈流通必要金量〉といわずに〈流通媒介物の総量〉という言葉を使ったのか、といえばそれは銀行学派がそうした言葉を使っているからであろう。総じてこの第28章該当部分では、マルクスは銀行学派の使う用語をそのまま使っており、今回の場合も例外ではないというだけである。つまり「通貨と資本との区別」をその機能から説明するところで、それが収入の実現を媒介するか、それとも資本の流通を媒介するかという形で問題を提起していたが、その例をみてもわかるように、〈流通媒介物〉というのは、貨幣を銀行学派的な粗雑な捉え方でその機能に注目して見た場合の言い方ではないだろうか? だからあえてマルクスはこうした言い方をしたのではないかと考えることが出来る。
 もう一つの問題については、マルクスは【9】パラグラフにおいて、次のように述べていた。

 〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,二つの部面のどちらでであろうと,またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能の反復の回数,同時に行なわれる売買,支払の総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量通貨currencyの総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は②購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。〉 (105-106頁)

 こうしたマルクスの通貨総量について法則の説明から、上記の問題での〈流通媒介物の総量〉の減少という事態を考えるとどのように捉えることができるであろうか。
 この場合、マルクスは流通媒介物の総量が減少する理由として、①地金の流出と②支払手段としての貸出とそれがすぐに還流することを上げている。果たしてこの二つの理由は〈流通媒介物の総量〉が減少する理由として十分なものであろうか?
 まず①の地金の流出の場合は、それ自体が流通手段の量には関連しないであろう。確かにそれは流通媒介物を増やすわけではないが、しかしだからといってそれを減じるわけでもない。むしろマルクスは【37】パラグラフでは〈国際的な支払のための準備ファンドとして集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がない〉(130頁)と述べていたのである。
 また②の場合も、それ自体が流通媒介物を減じるように作用するわけではないだろう。むしろ例え一時的であれ、それが支払手段として流通することは、その限りでは流通媒介物の増大として作用するわけである。しかしマルクスはこうした事態を逼迫期の問題として論じており、つまり物価が下落し、労働者の賃金が引き下げられ、全体として収入の実現を媒介する貨幣の総量が減少する状況を想定しているのである。だからマルクスは諸支払いに使用される流通媒介物がすぐに銀行に還流し、それがすぐに再び貸し出されることによって同じ流通媒介物が何回も諸支払いを媒介する機能を果たすことによって、諸支払いの総額がどんなに増えようが、それを決済する流通媒介物の総量は増えないこと、そればかりか収入の実現を媒介する流通媒介物の総量は減少するので、全体としての流通媒介物の総量は減少するのだと述べているのであろう。
 つまりマルクスは金属通貨だけが流通している場合を想定して、銀行学派が決定的な論拠として押し出しているものが、銀行券に限定された現象ではないことを指摘したわけである。

   ところで大谷氏ばここでマルクスが純粋に金属による流通のケースを検討していることについて、次のように説明している。

 〈マルクスはここで,フラートンが「金属通貨がもっている大きな長所に思いあたらざるをえない」とうらやんでいる,兌換銀行券のない純粋金属流通の場合について,言及する。〉 (53頁)

   つまりここでマルクスが通貨が純粋に金属だったらどうなるか、という問題を論じているのは、フラートンが金属通貨の長所なるものに言及しているからだというのである。これは果たしてどうであろうか。これではそれまでのマルクスの考察との関連はまったくないことになってしまいかねない。確かにマルクスは【37】パラグラフで準備ファンドの一つの主要銀行への集中とそのできる限りの最低限度への縮小が生じることに関連して次のように述べていた。

  〈ここから,フラ一トンの次のような嘆きも出てくるのである。--「そして,イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく[515]枯渇しそうに思われるときにきまって現われる熱病的な不安動揺の状態に比べて,大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのがふつうだということを思えば,この点で金属通貨〔currency〕がもっている大きな長所に思いあたらざるをえないのである。」(同前,142ページ〔前出阿野訳,174ページ〕。)}--〉 (131頁)

   しかしこのことがここで突然、マルクスが純粋な金属通貨の流通について論じることといかなる関係があるのはまったくわからないのである。やはりそれはそれまでのパラグラフで論じている問題と関連させて考察すべきではないだろうか。

  では大谷氏はこの金属通貨の流通のケースについてどのように解説しているのかを見てみよう。

 〈ここでも,「1)」として地金の流出が生じる場合と,「2)」として--おもに反転期に--支払手段としての貨幣への強い需要が生じて「有価証券担保前貸」が増大する場合,という二つの場合を見ている。第2の場合に,「銀行は,前には所有者としてもっていたのと同じ金額をいまでは預金者たちにたいする債務者としてもっている」ことになる,と言っているのは,準備ファンドとして所有していた金属を使って「有価証券担保前貸」を行なったとき,その金属が預金として還流してくれば,銀行はこの金額だけの金の債務者となっていることを意味しているのであろう。そして,預金として還流した金額だけ,「流通媒介物の総量が減少する」ことになるのである。〉 (53頁)

   大谷氏はこの純粋に金属貨幣の流通のケースを、なぜマルクスはここで論じているのかについてまったく問題にせず、ただフラートンがうらやんでいることについてついでに述べておこうという程度の問題として検討しているために、マルクスがなぜ(1)(2)に分けて二つのことを論じているのかについてもまったく理解できていない。これはマルクスが銀行券のケースについて(1)それが国際流通の逆調によって、つまり金地金の流出のために生じているケースとしてマルクスが論じていたものに対応しており、(2)は国内の流通で逼迫期に発行された銀行券がすぐに還流してくるケースについて論じていたことに対応しているのである。ただ今回は銀行券で生じたことが、純粋に金属貨幣が流通しているだけの場合でも生じうることを示すためのものであり、だから(1)のケースではただ地金が流出して金庫がからっぼになるだけであり、(2)の場合には、支払手段として金の貸し出しが要求されるのであるが、この場合も銀行券の場合と同様に、それらは預金としてあるいは満期手形の支払いとして銀行にすぐに還流することを指摘しているわけである。
   そしてその結果は、(1)の場合は銀行の準備高が減少し、(2)の場合には、銀行は前には所有者として持っていた金を貸し出した結果、それが預金として帰って来たので、預金者たちたいする債務に転化したことになると指摘し、結局は流通媒介物の総量は減少すると述べているわけである。大谷氏は〈そして,預金として還流した金額だけ,「流通媒介物の総量が減少する」ことになるのである〉と述べているが、これはマルクスが述べていることとは違っている。マルクスは〈結局は流通媒介物の総量が減少するであろう〉と述べているのであり、これは〈他方の場合〉に限ったものではなく、その前の〈その結果〉に続くものである。すなわち〈その結果,……結局は流通媒介物の総量が減少するであろう〉とマルクスは述べているのである。
   つまりマルクス自身は、大谷氏のように預金として還流した金額だけ、流通媒介物の総量が減少するとは述べていないのである。結局は流通媒介物の総量が減少するというのは、逼迫期にはそうだからそのように述べているだけで、上記の二つの例を理由にそのように述べているのではないのである。なぜなら、大谷氏のように考えるなら、どうして銀行が手持ちの金属で前貸しし、それが預金として還流してきたら、流通媒介物の総量がそれだけ減少するといえるのかを説明しなければならないが、そんなことはできないからである。もともと銀行が持っていた金属は、流通媒介物ではない。しかしそれを貸し付けた場合、それは流通媒介物として利用されうるが、しかしそれがすぐに預金として還流するならば、流通媒介物の総量には何の変更もないことになるからである。だから全体として総量が減少するというのは、それは逼迫期だからだと考えるべきである。そしてそれはすでに考察した。】


【43】

  これまで前提されていたことは,前貸は銀行券でなされ,したがって銀行券発行の増加を,どんなに瞬過的なもの〔verschwindend〕であるとしても,少なくとも一時的には,伴うということである。しかし,このことは必要ではない。銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。彼は銀行あての小切手で支払い,小切手を受け取った人はそれで取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)。このような場合には銀行券の介入はぜんぜん〔生じ〕ないのであって,全取引は,銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて,銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。この場合には,銀行はAに自分の銀行業資本を--なぜなら481)自分自身の債権なのだから--の一部分を前貸ししたのである。

  ①〔注解〕手形交換所〔Clearing-House〕--ロンドンのロンバード・ストリートにある手形交換所は1775年に設立された。メンバーはイングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会であった。なすべき仕事は、手形、小切手その他からなる相互の債権の差引決済であった。
  ②〔異文〕「……できない」という書きかけが消されている。

  481)「自分自身の債権〔ihre eignen Schuldforderungen〕」--旧稿では訳注で,この「「債権」は「債務」の誤記ではないかと思われる」と書いたのであるが,これはここでの「銀行業資本」の意味を読み取れなかったことから生じた誤りであった。 〉 (136-137頁)

   このパラグラフも、基本的には先の【42】パラグラフと同じ主旨から、銀行券の発行が伴わない場合として、純粋な金属通貨の流通の想定ではなく、今度は帳簿信用による貸付が取り上げられている。そしてこの場合も、やはり銀行学派的な意味での「資本の貸付」になることも指摘されている。まずは平易な書き下し文を紹介するが、分かりやすくするために、若干補足して、二つの銀行と二人の取引業者を想定して、それぞれの銀行をa、b、取引業者をA、Bとして書き下してみよう。

 〈これまで前提されていたことは、前貸は銀行券でなされ、したがって銀行券の発行は、どんなに瞬過的なものであるとしても、少なくとも一時的には伴い、発行高は増加するということです。しかし、銀行券が必ず発行されなければならないというわけではありません。なぜなら、銀行は、紙券のかわりに帳簿信用を与えることも出来るからです。帳簿信用も銀行券と同じように銀行が与える信用の一形態です(これは第25章該当個所でマルクスが「銀行信用」として論じていたもののことです)。
 つまり銀行(今それを仮にaとしましょう)は債務者(A)の当座預金の口座に貸付額の預金額を設定するのですが、この場合には、同行の債務者Aは同行の仮想の預金者になるのです(もちろん、この場合もAは銀行に自分が持参した手形を割り引いてもらったか、あるいは有価証券を担保にして貸付を受けたのかも知れませんが、いずれにしてもAはその貸付を銀行券によってではなく、帳簿信用で受けたのです)。そしてAはその自分の預金にあてて小切手を振り出してBに支払います。小切手を受け取ったBはそれを彼の取引銀行業者(仮にbとする)に預金するかあるいは支払いを行います。この銀行業者bはそれをAの取引銀行aが保有する自行宛の同額の小切手と手形交換所で交換します(これでabの二つの銀行の支払義務は相殺されたことになります)。
 このような場合には銀行券の介入はぜんぜん生じません。全取引は、銀行aにとっては自分が応じなければならない請求権(つまりAが振り出したa宛の小切手)が自分自身の持っているbの支払義務のある小切手で決済されて、銀行aが受ける現実の保証はAに対する信用請求権にあるということに限られるのです(つまり銀行aのAに対する貸付だけが残っていることになります)。
 この場合にも、元帳の立場からいいますと、銀行aはAに自分自身の銀行業資本--なぜならaが、Aが自行宛に振り出した小切手を相殺するために手形交換所に持ち出したb宛の小切手は、aにとっては自分自身が保有する債権なのだから--の一部分を前貸したことになるのです。
 だからこの場合も、銀行学派がいうような意味での「資本の前貸」にはなるのです。〉

  【大谷氏はこのパラグラフも氏独自のバランスシートの記号を挿入して紹介しているが、それは残念ながらワープロソフトの限界もあり、ここでは紹介できない。ただ【 】で囲んでバランスシートの表記を入れているもののなかで次の部分がおかしいのではないかと思う。

 この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)〔乙銀行【-|他行宛小切手-&現金準備金+】,甲銀行【現金準備金-|A預金-】〕。〉 (54頁)

   大谷氏のバランスシートの表記はうまく表現できないが、ここでマルクスが〈この銀行業者〉と述べているのは、大谷氏の例では「乙」銀行のことである。それが〈自分あての銀行小切手と交換する〉というのは、甲銀行が持っている乙銀行宛の小切手を自分が持っている甲銀行宛の小切手(つまりBが同行への支払いに用いたもの)とを交換すると述べているのだが、それが大谷氏のバランスシートでは正しく表記されていない。つまり大谷氏はここでマルクスが述べている内容を理解していないことを示している。だからそのあとの解説にもいろいろと問題がある。それを検討してみよう。

 〈預金設定で銀行甲から貸付を受けた借り手は,貸付の債務者かつ預金者になる(甲銀行のバランスシートでは,【Aへの貸付+ | Aの預金+】となる)。AがBにたいする支払いを,この自分の預金にあてた小切手で行なうなら,Bは受け取った小切手で自分の取引銀行乙への債務を支払う(乙銀行のバランスシートでは,【「Bへの貸付-&甲銀行宛小切手+】となる)。手形交換所での手形交換で,乙銀行が甲銀行あての小切手を回収すれば(乙銀行では【「甲銀行宛小切手-&現金預け金+】となる),甲銀行はこの金額をAの預金口座から引き落とすことによって清算する(甲銀行のバランスシートでは,【現金預け金- | A預金-】となる)。最終的な結果を見ると,甲銀行での,現金預け金によってAへの貸付を行なった,という結果になっている。もし,現金預け金そのものによってではなくて,準備有価証券の換金によって貸付を行なったとすれば,「自分の銀行業資本」(この「銀行業資本」は「銀行業者の資本」と言うべきところ)の一部である準備有価証券,すなわち「自分自身の債権」を前貸した,ということになるのである。10) 前述の「教科書的解説」でも述べたように,銀行業者的な観点から見ると,「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)のは,銀行資本の前貸なのであって,ここでこのことにマルクスは注目しているのである。〉 (54-55頁)

   大谷氏はバランスシート表記を挿入することによって余計にややこしいことになっているが、まず次の部分はまったく間違っている。〈手形交換所での手形交換で,乙銀行が甲銀行あての小切手を回収すれば〉と述べているが、これでは何のことかチンプンカンプンである。乙銀行がどうして甲銀行宛の小切手を回収する必要があるのか、乙銀行はBが支払に使った甲銀行宛の小切手を持参して、手形交換所に行くのである。そこで〈この銀行業者(すなわち乙銀行)はそれを自分あての銀行小切手と交換する〉とマルクスは述べている。以前にも大谷氏の「預金通貨論」を批判したときにすでに指摘したが、この部分の理解が大谷氏にはできていなかった。ここで〈自分あての銀行小切手〉というのは、乙銀行宛の小切手のことであり、この場合それを甲銀行が手形交換所に持ち込むのである。そして両者は自行宛の小切手を交換して、相殺するのである。乙銀行にとって自分が持っている甲宛の銀行券は自身の債権である(甲にとっては債務)。同じように、甲銀行にとって乙銀行宛の小切手は自行の債権なのである(乙にとっては債務)。それらを互いに交換することによって相殺するのである。だからこの場合、マルクスは明確には書いていないが、甲銀行は乙銀行宛の小切手を持っていると想定しているのである。それは甲銀行にとっては債権であるが、だからAへの貸付は自分の債権による貸し付けに結果するから、それは自分の銀行業資本の貸付だということになるのである。
   ここで大谷氏は甲・乙それぞれの銀行のバランスシートを問題にしているが、もしそれぞれの銀行内における預金の振替を問題にするなら、A、Bだけではなく、C、Dの二人の甲・乙両銀行との取引業者を想定しなければならないのだが、そこらあたりも大谷氏は無自覚である。だからバランスシートでの表記はただ問題を混乱させるだけで益はないのである。
   大谷氏はこの解説では「現金預け金」なるものを想定している。しかしマルクスはそんなことは何も問題にしていない。これは甲銀行が手形交換所で自行宛の小切手を持参した乙銀行から現金でその小切手を買い取るという想定である。しかしこんなことを想定したのは、すでに見たようにマルクスが〈この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)〉と述べている一文を大谷氏が正しく理解できなかったからである。マルクスは手形交換所では、甲・乙両銀行が、それぞれの自行宛の小切手を相手側が持っているのを互いに交換して相殺したと想定しているのである。それが大谷氏には分かっていない。
   さらに最後の方で大谷氏は〈前述の「教科書的解説」でも述べたように,銀行業者的な観点から見ると,「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)のは,銀行資本の前貸なのであって,ここでこのことにマルクスは注目しているのである〉と述べているが、これも間違っている。マルクスここでは帳簿信用について述べていたのだから、〈「資産」のうちの金準備および準備有価証券を減少させて利子生み有価証券を増加させる(貸付ないし手形割引を増加させる)〉というのはおかしな話なのである。銀行は帳簿信用では、少なくとも何の準備有価証券も金も持ち出す(貸し付ける)必要はない。ただ信用だけにもとづいて預金設定という貸し付け形態を創造したのである。だからその仮想の帳簿上の預金宛てに支払われた小切手が他行の持参するところになると、自分の資産(債権)をそれに対して支払う必要があるのである。その小切手が自行に還流するだけなら(第三者の支払等によって)、銀行はただAへの貸付が残っていることになるだけである。
  なおついでに付け加えておくと、大谷氏は注10)で以前の訳文には「債権」は「債務」の誤記ではないかと書いたが、それは〈これは以上のような関連をまったく読み間違ったものであった。〉(55頁)と書いているが、しかし自分の間違いを反省するのはよいが、しかし依然として間違っているのだからどうしようもないということもつけ加えておこう。

   そして同じような間違いは小林氏にも見られる。次のように述べている。

  〈そしてマルクスは,「この場合には,イングランド銀行は,彼[A]にその[同行の]banking capital--なぜなら同行自身の債務請求(Schuldforderung)[債務]であるのだから  --の一部を前貸ししたのである27)」との注解を書き添えていく。したがってこの場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられているように見える28)。〉 (399頁)

   この「Schuldforderung」(債権)について大谷氏は「Schulden」(債務)の誤記ではないかという疑問を出していて、私はそれに対して批判したのであるが、著者はここては〈債務請求(Schuldforderung)[債務]〉というわけの分からない解説を加えている。「債務請求」権ということは債権ということなのに、「債務」という補足説明をしているのである。つまりこの補足は大谷氏の以前の誤記という立場に立っていることを意味している。しかしマルクス自身は〈Schuldforderung〉と書いているので、それをそのまま〈債務請求(Schuldforderung)〉と訳しながら、しかしそれは〈[債務]〉ではないかとチョロと書いて、どっちつかずに誤魔化しているわけである。しかしそのあと著者は〈したがってこの場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられている〉と馬脚をあらわしている。
   このケースの詳しい解説は何度もやった気がして気乗りしないが、もう一度やっておこう。イングランド銀行が帳簿信用でAの口座を開設し、小切手帳をAに与えた場合である。この場合はイングランド銀行にとってはただ自行の信用だけでこうした口座開設をやるのであって、銀行券を貸し付けた場合のように紙と印刷費もかからないのである。しかしいうまでもなく、実際にはその口座開設には何人かの確かな保証人が必要であったり、何を担保にしたのか、あるいは手形割引で貸し付けたのかなどについては、マルクスは何も述べていない。この場合Aは自身の設定された預金に対して小切手を切って、Bへの支払を行なう。Bはそれを取引銀行(Nとしよう)に支払う。だからAの切った小切手はN行の所持するところとなった。だからN行はその小切手を交換所に持ち込む、するとイングランド銀行は、もしN宛の小切手をもっていれば(これについてはマルクスはいつも何も述べないままなのであるが、だから大谷氏らもいつも間違うのであるが、しかし少なくとも手形交換所で交換して相殺するためにはそうした想定が当然必要なのである)、そこでNの所持する自行の支払義務のある小切手と交換する、するとイングランド銀行のAへの貸付は、最初はただ同行の信用だけで行なったものなのだが、結局は、手形交換の結果、同行の債権(Nの支払義務のある小切手)を持ち出す結果に終わったのだから、結局、Aへの貸付は銀行業資本(銀行業者の立場からみての資本)の貸付に帰着するということである。だから著者のように〈この場合にはbanking capitalは,同行にとっての「債務」である「預金」の意味で用いられている〉などというのはまったくの的外れなのである。ようするに著者も大谷氏と同様何も分かっていないのである。】

  (続く)

 

2022年2月21日 (月)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-12)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-12)

 


【40】

 第2に,AはBに支払い,そしてB自身か,またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは,この銀行券で同行に,直接または間接に,満期手形の支払いをする。この場合同行は,自分自身の銀行券で支払いを受けたのである。だが,この場合には取引はこれで終わっている{Aから銀行への返済だけを除いて}444)のだから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが,それは,彼がのちに自分の還流金を,したがって自分の資本の一部分を,同行に支払わなければならないというかぎりでのことである。この場合,彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは,彼にとってまったくどうでもよいことである。というのは,彼は(銀行とは違って)なんらかの種類の商品資本を譲渡しなければならない,言い換えればなんらかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり,したがって金または銀行券を,[516]それらの貨幣名に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては,この金または銀行券は①資本の価値表現なのである。445)

  ①〔異文〕「実体的〔realem〕」という書きかけが消されている。

  444)〔E〕 エンゲルス版では,ここで文章が切られており,ここからこのパラグラフの終りまでは削除されている。途中で切られた文章を含めて,削除された原文は次のとおりである。--Da aber d. Transaction hiermit ferig ist {bis auf d.repayment d. A an d. Bank},kann nicht gesagt werden,daß sie in irgendeiner Art Capital vorgeschossen hat. Sie hat Noten aus-gegeben,die dem A als Zahlungsmitte1 an B u. d. B als Zahlungsmittel an d.Bank dienten. Nur f. d. A handelt es sich soweit um Capital{diess hier in d. Sinn v. Werthsumme,d.in Geschäften angelegt ist}als er s.Returns später d. Bank zu zahlen hat,also einen Theil s. Capitals;wobei es ihm total Wurst ist,ob er dieß in Gold od. Noten zurückzahlt,da er (im Unterschied v. d. Bank) Waarencapital irgend einer Art veräussern muß od.d.Einnahme irgend einer Veräusserung d.Bank zahlen muss,also d. Gold od.d.Noten f.ein ihr Denomination gleiches Equivalent erhalten hat.Für ihn sind sie d.Werthausdruck v. Capital.
  引用者がイタリックにしたihrはihrerとあるべきところであろう。MEGAではihrerに訂正されているが,この訂正は訂正一覧には記載されていない。
  445)〔E〕エンゲルス版ではここに,エンゲルスによるものであることを明記することなしに,1パラグラフをなす次の一文を挿入している。--
  「では,銀行からAへの前貸は,どの程度まで資本の前貸とみなされ,どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?」
  エンゲルスはこの文に,次のような編集者注をつけている。--
  「原文のなかのここに続く箇所は関連が理解できないので,括弧の終りまでは編者が新しく書き換えたものである。別の関連ではこの点にはすでに第26章でふれている。--F.エンゲルス」
  エンゲルスによって,前出の比較的大きな二つの部分を削除して「新しく書き換えられた〔neubearbeitet〕」挿入は,本章末尾の〔補注2〕に収める。〉 (133-134頁)

  すでに述べたようにマルクスはイングランド銀行から貸し出された銀行券が、すぐに銀行に還流する場合を第1と第2に分けて分析しているが、このパラグラフはその第2である。まず平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈第2に、銀行券が銀行への支払いとして還流してくる場合です。その場合に考えられますのは、まずイングランド銀行から銀行券による貸付(手形割引か担保貸付で)を受けたAがそれを自身の満期になった手形への支払いとしてBに支払い、そしてB自身か、あるいはBから銀行券で支払いをうけたCが、その銀行券を、やはり自身の満期になった手形の支払いとしてイングランド銀行に、直接かまたは間接に行なう場合です。
 BまたはCが同行に直接に満期手形の支払いをするということは、BまたはCが振り出した手形が、別の第三者によって同行に持ち込まれ、割り引かれた結果、同行の持つこととなっている場合です。その場合はその手形が満期になった場合、それを振り出したBまたはCが同行にその支払をしなければならないのですが、それを彼らはたまたまAから支払われた同行の銀行券でやったというケースです。
  また間接に支払うということは、やはりBまたはCの振り出した手形がイングランド銀行の手にあるのですが、その満期になったものをBまたはCが自身の取引銀行を介してイングランド銀行に支払われる場合です。この場合も、やはりBまたはCがAからの支払いを受けた銀行券をそのそれぞれの取引銀行に預金し、その銀行券が取引銀行とイングランド銀行との間の手形交換によって支払われるのであり、やはり銀行券はイングランド銀行に還流することになるのです。
 この第2の場合もイングランド銀行券は発行されても、第1の場合と同様に、同行にすぐに還流することになります。確かに第2の場合は(特にCを経由する限り)第1の場合より、還流するまでの期間はかかるかも知れませんが、いずれにしても、支払手段としての流通であり、それほどの長短はないと考えられます。しかしこの場合には、第1の場合とは異なり、イングランド銀行にとっては取引はこれで終わっています(もちろん同行のAに対する貸付は残っていますが)。だからこの場合は、第1の場合とは異なり、銀行学派がいうようような意味での、何らかの仕方で同行が資本の前貸しをしたということはできません。つまりこの場合は、明らかに銀行学派の主張とは矛盾するわけです。彼らは銀行券がすぐに還流するのはその貸付が資本の貸付になるからだと主張します。しかしこの場合は、銀行券はすぐに還流するのに、彼らの言い分からしても決して「資本の貸付」になったからとはいえないのです。
 イングランド銀行は銀行券を発行し、それがAにとってはBへの支払手段として、Bにとっては同行への支払手段として役立ったのです。取引はそれだけであり、それで終わっています。ただAにとってのみ資本(ただしこの場合は、銀行学派がいう意味での「資本」ではなく、事業に投下される価値額という意味においてなのですが)が問題になります。というのは彼はイングランド銀行から当面の支払手段を借りたのであり、それは彼にとってはすでに事業に投資した貨幣資本が、本来なら順調に還流してきて、彼が発行した手形の決済をするはずだったですが、その還流が滞ったので、とりあえず当面の支払手段として同行から貸付を受けたのです。だから当面の決済のためであったとはいえ確かにそれは彼の資本の循環の一過程の先取りなのですから、だからそれのイングランド銀行への返済は彼の資本の還流金から支払わねばならないことになるからです。それは彼が自分の資本(貨幣資本)の一部を同行に支払うということであり、その限りで、それはAにとって資本の問題だといえるからです。
  しかしこの場合は、彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは、彼にとってはまったくどうでもよいことです。発券銀行の場合は金で貸し付けるか、それとも銀行券で、つまり紙と印刷費以外に彼らにとって何の費用もかからない単なる信用で貸し付けるかは決してどうでもよいことではありません。しかしAにとっては、銀行と違って、その金または銀行券を入手するためにはその代わりに何らかの種類の商品資本を譲渡しなければならないのです。言い換えれば、何らかの商品を販売してその受取金を銀行に支払わなければならないのであり、したがって金または銀行券をそれらの貨幣名に等しい何らかの等価物(商品)と引き換えに受け取ったのですから、彼にとっては、この金または銀行券は確かに彼の資本の価値表現なのです。
 しかしすでに言ったように、これは決して銀行学派がいう意味での「資本」ではないし、このことによって銀行学派の主張が正当化されるものでは決してありません。〉

  【大谷氏はこのパラグラフを引用紹介したあと次のように解説している。

 〈ここでも注目が必要なのは,Aに貸し付けられた銀行券が,AからBへの支払い,BからCへの支払い,Cから銀行への支払い,という3度の支払いのために支払手段として役立ったことが述べられていることである。第1の場合と違うのは,銀行券が幾度か支払手段として流通したのちに銀行に還流していることである。銀行券はその回数だけ信用の決済手段として役立ち,最後のB(またはC)への銀行の債権が消えて,銀行から貸付を受けたAの対銀行債務だけが残る。つまり,銀行から見ると,B(またはC)への債権がAへの債権に変わっただけである。
  この場合,「資本」が問題として残るのは,銀行にとってではなくて,銀行に債務を負うAにとってだけである,とマルクスは言う。この場合の「資本」とは,商業資本または産業資本が銀行に貸付を返済するために,自己の資本の一部を,貨幣すなわち金または銀行券の形態でもたなければならない,という問題であって,フラートンらが言うような意味での「資本」問題ではまったくない。〉 (51頁、太字は大谷氏の強調箇所)

   しかしこの解説は誤解を与えかねないものである。大谷氏は〈第1の場合と違うのは,銀行券が幾度か支払手段として流通したのちに銀行に還流していることである〉と述べ、あたかも違いは何度か流通したのちに銀行に還流するかそうでないかであるかに述べている。しかしそもそもマルクスが〈第1に〉、〈第2に〉と分けてイングランド銀行の貸し付けた銀行券が還流してくる仕方について論じているのは、〈Circulation(通貨--引用者)を増やさないためには,有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流し〔refluiren〕なければならない。これは二つの仕方で起こりうる〉として考察を開始しているものである。つまり発行された銀行券はすぐに還流しなければならないが、それは二つの仕方で起こりうるとマルクスは述べているのである。だから第1のケースと第2のケースの違いは、第1の場合はすぐに還流するが、第2のケースは少しは流通してからだ、などという違いを指摘するのは誤解の元である。
   実際、マルクスは第2のケースでも〈第2に,AはBに支払い,そしてB自身か,またはさらにBから銀行券で支払いを受けるCは,この銀行券で同行に,直接または間接に,満期手形の支払いをする〉と述べているのであって、Bではなく必ずCまで銀行券が流通した後に、銀行に還流するとは述べていない。第1のケースでは〈第1に,同行はAに,彼の有価証券にたいして銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし.Bはその銀行券を同行に預金する〉と述べており、確かに第1の場合に登場するのはAとBだけだが、第2の場合にはそれにさらにCも媒介する場合もあり得るかに述べている。しかし第2の場合も〈同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである〉とAとBだけを例に上げて論じてもいる。つまりCを媒介することが第2のケースの特異性とはいえないことをこのことは示しているのである。
  だからマルクスが第1のケースと第2のケースとの相違として言いたいのは大谷氏が指摘するようなものではない。第1の場合は銀行券は銀行への預金として還流し、よってAへの銀行の貸付は、最初は信用だけによる銀行券による貸付だったのが、それが元帳の立場では預金による、すなわち自分の資本(借入資本)による、貸付になっていることを確認し、しかし第2の場合には、満期手形の支払いとして還流してくるのであって、これでは銀行のB(あるいはC)に対する債権が帳消しになるだけで、元帳の立場からみてもAへの貸付が「資本の貸付」になるという銀行学派たちの主張にも該当していないとマルクスは述べているのである。
  つまり銀行券は貸し付けられてすぐに還流してくるという点では第1の場合と第2の場合とも同じだが、第1の場合は確かに銀行学派たちのいうようにそれがすぐに還流して「資本の貸付」になるという彼らの主張を裏付けるものになっているが、しかし第2のケースではこの場合も貸し出された銀行券はすぐに銀行に還流するのに、銀行学派たちのいうようにそれが彼らのいう意味での「資本の貸付」に転化したからだと言えないではないか、というのがマルクスが言いたいことなのである。だからこそマルクスはこの場合に「資本」が問題になるのはA自身にとってでだけだと付け加えて述べているのである。
  大谷氏はマルクスが述べている第1のケースと第2のケースの違いの肝心な点を見ていないのである。違いは一方は「預金の支払い」として、他方は「満期手形の支払い」として還流してくる違いであり、この違いは一方は銀行学派の主張を裏付けるものになっているが、他方はそうではないという違いである。この肝心のことが大谷氏には分かっていない。

  大谷氏は訳者注445)でエンゲルスがこのパラグラフに大きく手を入れて、断りのない修正を行なったり、自身の筆であることを断りながら、長文を挿入していることを指摘しているが、このエンゲルスの挿入文については、末尾にある〔補注2〕で批判的に検討する予定である。

 ただそれと関連して小林氏が次のようにマルクスの「混乱」を言い立てていることについては一言論じておく必要がある。以下に紹介する一文はギルバートの『銀行業の歴史と原理』からのマルクスの抜粋箇所を紹介している部分につけた注12)であるが(第9章第5節)、次のように述べている。

  〈12) なおマルクスは手稿の「Ⅰ)」(現行版第28章)で,貸付と銀行券の還流と「銀行営業資本」との間の問題を論じている。即ち,「地金の流出を考慮の外に措けば,イングランド銀行がいかにして,例えばその有価証券(即ち,その貨幣融通の額)を,その銀行券発行なしに増大しうるか?」と問題を立てて,貸付に用いられた銀行券の還流の仕方は「二重である」として,第1例・第2例の検討を試みている(cf.MEGA,S.515-516)。しかしそこでのマルクスによるbanking capita1の理解は必ずしも一義的ではなく,したがってその説明は混乱してゆき,エンゲルスも「原文の文章は関連が理解し難い」(MEW,S.472:訳,515-516ページ)と注記していくこととなる*。マルクスが「銀行業者の資本」についての「立ち入った吟味」を次の「II)」で改めて行なおうとするのも,1つには,マルクス自身その点が未整理であることに気付いて行ったからではないかと思われる。なおこの点については,本書第11章第1節と第4節を参照されたい。
  *とはいえ,ここに挿入した「資本の前貸し」と「支払手段の前貸し」についてのエンゲルスの解説(MEW,S.472-473:訳,648-650ページ)が妥当であるか否かは,いま1つ別の問題である。〉 (前掲書347頁)

   著者が参照を指示している〈第11章 「発券銀行業者の立場」と「彼の資本」--手稿「Ⅰ)」(現行版第28章)についての覚書--〉でも冒頭次のように述べている。

 〈前章で言及したように,また本章末尾の〔補遺〕で検討するように,手稿「信用。架空資本」の「Ⅰ)」の部分(現行版第28章)は,その文頭も文末もやや錯綜しているのみでなく,これから検討していくように,そこでは「銀行業者の資本」に係わる諸概念がなお未整理なまま,マルクスはトゥックやフラートンの「通貨と資本の区別」を考察していく。そこで,とりわけフラートンの主張--逼迫期における「貨幣融通を求める需要」は「資本の貸付を求める需要」(「貸付資本に対する需要」)であって,「通貨の追加需要」ではない--の考察では,「銀行業者の資本」に係わる諸概念の未整理なことを露呈していくこととなる1)。〉 (同上382頁)
  〈そしてマルクスが,ここ手稿「I)」の部分ではなお未整理のまま用いられていた「銀行業者の資本」に係わる諸概念の考察を,次の「Ⅱ)」の部分(現行版第29章)の冒頭で行うこととしていく。〉 (同上)

  このように著者は第28章該当部分のマルクスの叙述が混乱しているかに述べているが、その理由として〈しかしそこでのマルクスによるbanking capita1の理解は必ずしも一義的ではなく,したがってその説明は混乱してゆき〉と述べている。つまりすでに大谷氏も同じような問題を論じていたので批判しておいたが、マルクスが第28章で「銀行業資本(banking capita1)」と述べているものが、第29章該当個所で同じ用語を使って述べているものと内容が違っていると言いたいのであろう。小林氏は〈マルクスによるbanking capita1の理解は必ずしも一義的では〉ないとか、まだ第28章を書いている段階では、〈「銀行業者の資本」に係わる諸概念の未整理なことを露呈してい〉ると述べ、だから〈手稿「I)」の部分ではなお未整理のまま用いられていた「銀行業者の資本」に係わる諸概念の考察を,次の「Ⅱ)」の部分(現行版第29章)の冒頭で行うこととしていく〉などと述べている。しかし、すでに紹介したように、マルクス自身は、これはすぐに解読の対象になる部分であるが、第28章該当の草稿の【44】パラグラフで〈銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(大谷137頁)と明確に規定しているのであり、少なくとも第28章該当部分でマルクスが「銀行業資本(banking capital)」と書いているものはすべてこの意味で使っているのであって、決して一義的ではないことはないし、〈諸概念の未整理〉どころか明確に規定して使っているのである。小林氏が〈諸概念の未整理〉などと述べているのは、この第28章該当個所でのマルクスの銀行学派批判のやり方--彼らの使っている用語をそのまま使いながらその自己撞着や矛盾を指摘して批判していく--が理解されていないからであるが、この点については最後の纏めのなかでも論じる予定である。
  ついでに述べておくと、著者が〈なおこの点については,本書第11章第1節と第4節を参照されたい〉と述べているのは、エンゲルスの修正の内容に関連したもので、これについてはこの解読の最後の部分で大谷氏が〔補注2〕として紹介しているものを批判的に検討するなかで問題にしていく予定である。

 なお小林氏はこの「第2」のケースについて、マルクスが〈ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが〉云々と述べていることについて、次のような疑問を出している。

  〈ところがマルクスは続けて,「《彼[A]が後で彼の売上収益金(Returns)を,だから彼の資本の一部を,イングランド銀行に支払わなければならない限りで,ただAにとってのみ資本〔これはここでは事業に投下されている価値額(Werthsumme)の意味における[資本]〕が問題である;その場合彼が[それを]金で返済するか銀行券で返済するかは彼にとっては全くどうでもよいことである,なぜなら(イングランド銀行とは異なって)彼はなんらかの種類の商品資本を販売せねばならないか,あるいは,なんらかの販売の受取金(Einnahme)をイングランド銀行に支払わなければならないのであり,だから金または銀行券を,それらの貨幣金額(Denomination)に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼に(ihn)とってはそれら[金または銀行券]は資本の価値表現である》19)」,と付け加えていく。
 この場合,仮にAが入手した銀行券が,手形の割引や,あるいは所有していた有価証券等を担保に入れて入手した銀行券ではないとすれば20),「ただAにとってのみ,……事業に投下されている価値額の意味における資本が問題である」と言うこととなるであろう。ただしその場合には,「貨幣融通」が行われたとしても,イングランド銀行手持ちの有価証券は増加しないこととなってしまうであろう。エンゲルスがこの括弧《  》内の部分をも,「関連が理解し難い」と注記して削除し,さらに「還流」の2つの事例を挙げた後に,「さてAに対するイングランド銀行の前貸しは,どの範囲で資本の前貸しとみなされ,またどの範囲で単なる支払手段の前貸しとみなされるべきであるのか?」と問題を立て,さらに「この問題は前貸しそのものの性質に係わる」として,括弧(  )に入れた長い挿入を加えている21)のも,あるいはこの括弧で括ったようなマルクスの記述が手稿に見出せたためであろうか。〉 (397頁)

  このように著者の無理解は深く、エンゲルスとも混乱を共有している。
  ①まず著者はマルクスが〈第1に、同行はAに、彼の有価証券に対して銀行券を支払う〉と述べていることを確認すべきである。これは手形割引ともとれるし、有価証券を担保にした貸付とも両方のケースを踏まえたものである。しかし肝心なのは、両方とも例えそれによって貸し付けられた銀行券が第三者からイングランド銀行に還流したとしても銀行のAに対する貸付は残っているということである。これが著者には分かっていない。
  ②そしてマルクスが著者が引用しているところで問題にしているのは、そのことである。第2のケースの場合、第1のケースとは異なり、銀行券の還流は銀行の資本の貸付に帰着することはない。なぜなら、それは債務の支払として還流したのだからである。だからAへの貸付がイングランド銀行からみて資本の貸付に帰着するという第1のケースとは異なることを確認した上で、マルクスはただAにとってはそれは別の意味で「資本の問題」になると述べているのである。というのはAはその貸付を返済するためには、何らかの等価物(商品資本)を実現して入手した貨幣を銀行に返済する必要があるからである。だからその貸付はAにとっては資本であるというのがここでマルクスがいいたいことである。こうした問題をマルクスがあえて論じているのは、銀行学派が銀行券がすぐに還流するのは、それは通貨の問題ではなく「資本の問題」だからだ、と述べていたからである。だからもし銀行学派のいうように敢えて「資本の問題」を云々したいなら、それはAにとって言いうるだけだが、しかしそれは彼らがいうような意味での「資本の問題」ではないとマルクスは述べているわけである。
 そうしたことが著者には、エンゲルスと同様、まったく分かっていない。エンゲルスも手形割引は普通の売買と同じだからAには返済義務はないと述べているぐらいだからその無理解は著者と同様に深い。しかし担保貸付の場合はどうであろうか。手形割引の場合は確かにその手形が不渡りにならないかぎり、Aには支払義務はない。しかし最初にも指摘したように、マルクスは必ずしも手形割引に限って問題を論じているわけではないのである。また例え手形割引であってもAには返済義務がその手形が満期になって支払われて最終的に決済されるまでは残っているのである。
 このように小林氏の場合は大谷氏よりも混乱はひどいものになっている。この部分でマルクスが論じていることが、何を問題にしているのかが、エンゲルスと同様、ほとんど分かっていないのである。学者というものは、細々とした詮索は得々としてやるが、肝心の本質は外して気づかないのである。】


【41】

  〈私営発券銀行の場合には,次のような違い〔がある〕。すなわち,自行の銀行券が地方的Circulationのなかにとどまっているのでもなく,また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には,同行は,同行の銀行券を手に入れた人びとに,それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない,ということである。この場合には,同行にとっては,同行の銀行券の前貸は,事実上はイングランド銀行券の前貸を意味し,または,同行にとっては同じことであるが,金の前貸を,したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表わしているのである[/]同様に,イングランド銀行自身が--そしてこのことは,銀行券発行の最高限度を法定されているすべての銀行にあてはまるのであるが--,同行自身の銀行券をCirculationから引き揚げて次にふたたびそれを発行するために公的有価証券を売却しなければならない場合には,同行にとっては,いまや自身の銀行券が,同行の譲渡された銀行業資本の一部分を表わしているのである。〉 (134-135頁)

   これまで銀行学派の主張にそって、発行された銀行券が還流してくる場合について、(1)国際的支払手段としての地金を輸出するために銀行券が貸し付けられた場合は、発券された銀行券はすぐに地金に交換するためにイングランド銀行に還流してくるケース、(2)国内取引で支払手段として貸し付けられた銀行券が預金として還流するケース、(3)同じように支払手段として貸し付けられた銀行券が満期手形の支払として還流してくるケースについて検討してきたが、ここではそれ以外の銀行券が還流するケースについて検討しているように思える。
   一応、前パラグラフ(【40】)までで、銀行学派に決定的に影響を与えているイングランド銀行における有価証券の保有高と銀行券の流通高が連動せずに反対に動く場合もあるという現象は、実際はどういう事態なのかについての分析は基本的には終わっているのである。その結論は、それは彼らがいうように貸し付けられた銀行券がすでに流通に必要な普通の目的に適合しているために、すぐに還流して資本の貸し付けに転化するからだという理由からではなく、逼迫期に銀行に貸付を要求してくる人たちは、当面の窮地を脱するために支払手段を必要としているからであり、だからそれはすぐに支払われて銀行に還流してくるだけの話である。だからそれは銀行学派たちが主張するような「資本の問題」ではなく、支配手段という貨幣の問題なのだ、というものであった。
   そしてマルクスはこのパラグラフからは、フラートンら銀行学派の主張にもとづいて銀行券の発券銀行への還流を考えるならば、これまで検討してきたケースだけではなく、それ以外にもありうることを指摘しようとしているように思える。実際、銀行学派は【31】パラグラフの原注b)の中で引用されていたフラートンの主張を見ても分かるように、イングランド銀行と地方の私営発券銀行とをまったく同じものと見なす立場に立っていたので、その意味でもこうした批判的検討は必要と考えたのであろう。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈私たちは、イングランド銀行の場合、銀行券が還流してくるケースを一つは地金の輸出を理由に貸し出された場合(だから地金との交換という形ですぐに還流する場合)、あるいは国内の取引で、支払手段の必要のために貸し出された場合で、預金として還流してくる場合と満期手形の支払として還流してくる場合とについて検討しました。しかしではそれ以外に銀行券が発券銀行に還流してくるケースはないのかというとそうではありません。そうした場合についても検討してみましょう。
 イングランド銀行の場合には考えられませんが、地方の発券銀行、つまり私営発券銀行の場合には考えられる銀行券の還流のケースがあります。それは次のようなものです。すなわち、自行の銀行券が地方的流通のなかにとどまっているのでもなく、また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には、同行は、同行の銀行券を手に入れた人々に、それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない、ということです。つまり兌換要求に応じなければならないということです。というのは逼迫期には地方の私営発券銀行の銀行券は信用がなくなり、それを入手した人々は誰でもそれをもっと確かな金あるいはイングランド銀行券に換えようとするからです。こうした場合も確かに銀行券は銀行に還流します。そしてこの場合は、私営発券銀行にとっては同行の銀行券による前貸は、事実上はイングランド銀行券の前貸を意味し、または、同行にとっては同じことであるが、金の前貸を、したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表しているのです。なぜなら、それは彼らにとっては(彼らの元帳の立場からすると)紙と印刷費以外に費用のかからない銀行券が費用のかかる前貸に転化したことを意味するからです。
 このケースをその前のイングランド銀行の場合と同じようにA、Bを使って説明しますと、次のようになります。私営発券銀行はAに自行の銀行券で貸し付けます。AはそれをBに支払います(この時点ではそれほど逼迫していないからBは地方の銀行券でも支払を受けたことになります)。Bはそれを私営発券銀行に預金もせず(取引がなかったからか)、満期手形の支払にも使わないままだとすると、そのうち逼迫期になって信用不安が生じたために、保管してたAから受けとった銀行券を慌てて兌換のために私営発券銀行に持ち込んだというケースです。この場合は私営発券銀行によるAへの貸付は単なる信用による貸付から、金またはイングランド銀行券による貸付に帰着することになり、同行の銀行業資本の貸付に転化します。つまり銀行学派たちのいうような意味での「資本の貸付」になるわけです。
 もう一つ銀行券が還流するケースとして考えられるのは、これはイングランド銀行にもまた地方の発券銀行にも両方にあてはまることですが、銀行券の発行限度額が法定されている場合に、発券銀行は、すでに限度額に達しているときに銀行券を追加発行するためには、同行自身の銀行券を一旦流通から引き上げるために公的有価証券を売却しなければならず、そのうえで次にふたたび回収した分の銀行券を発行するケースです。この場合も確かに銀行券は発券銀行に還流します。そしてこの場合には、これらの発券銀行にとっては、いまや、新たに発行された銀行券は、単に自行の信用だけで発行されたものとはいえず、同行の銀行業資本の一部分を表していることになります。なぜなら、同行はその銀行券の代わりに、同行が保有していた公的有価証券を売却したのであり、だからもはや次に発行する銀行券は、元帳の立場から見ても何の費用もかかっていないとは言えないからです。
 これらのいずれの場合も、銀行券は発券銀行に還流します。そして銀行業者的な意味での「資本の貸付」でもあることは明らかです。しかし銀行学派がこうしたさまざまなケースについて論じているわけではありません。しかし彼らが「資本の貸付」だから銀行券は発券銀行に還流するのだという自己の主張を徹底するのなら、こうしたケースも問題にすべきでしょう。〉

  【このパラグラフは、内容的には大きくは二つの部分に分けることができる(それが分かるように、前半と後半の境に[/]を入れておいた)。前半部分は、〈私営発券銀行の場合〉についてである。後半部分は〈イングランド銀行〉も含めた発行限度額が法定されている発券銀行の場合についてである。それぞれについて検討していこう。
 まず最初の部分であるが、このパラグラフは〈私営発券銀行の場合には、次のような違いがある〉という書き出しから始まっている。〈次のような違いがある〉というが、何についての違いかといえば、当然、それはそれ以前までのイングランド銀行の場合について分析してきたあとを継いだものだから、発行された銀行券が如何に還流するかのか、という問題における違いであろう。
 それまでのイングランド銀行の場合には、⑴地金の輸出を目的とした貸付の場合と⑵国内における支払のための貸付とにわけられ、後者は①銀行券が預金として還流してくる場合と、②満期手形の支払として還流してくる場合とについて、それぞれ分析され、そしていずれもそれらが還流してくる理由は銀行学派がいうような「資本の貸付」だからではなく、それが支払手段(国際的支払手段および国内の支払手段)として貸し出されるからであり、その意味では「資本の問題」ではなく、あくまでもその限りでは「貨幣の問題」なのだというのがマルクスの批判点であった。しかも②のケースでは銀行学派のいうような意味での「資本の貸付」とさえ言えないことも指摘されたのであった。
 そしてこのパラグラフでは、私営発券銀行の場合には、次のような違いがある、と述べて、地方の私営発券銀行の銀行券の場合、地方的な流通のなかにとどまっているのでもなく、また預金や満期手形の返済の形で同行自身に帰ってくるのでもない場合には、結局、同行は銀行券を手に入れた人々に、それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない、ということが指摘されている。これは逼迫期には、そうした地方の銀行券を入手した人たちは、それを一刻も早く手放そうとするのだが、しかしもはやそれでの支払いに他の資本家たちは応じてくれないので、それなら発行した地方銀行に持ち込んで、兌換を要求し、より安心な金かイングランド銀行券に換えようとするからである。そして当然、地方の発券銀行はそれに応じなければならない。
 そしてこの場合には、同行にとっては同行の銀行券による前貸は、結局、金かイングランド銀行券で前貸ししたのと同じことになり、だから同行にとっては銀行業資本の前貸し、すなわち銀行学派たちが言うところの「資本の前貸し」になると指摘している。
 つまりこの場合、地方の発券銀行から地方銀行券で前貸しを受けた(手形割引か担保貸付で)資本家Aは、その時点では少なくともそれを支払に利用できたことが前提されている。だからその時はまだ逼迫期ではなく、信用も動揺していない時期だったのかもしれない。そしてその資本家Aから地方銀行券で支払を受けた資本家Bは、しかし彼はすぐにそれをその銀行に預金したわけでもなく、満期手形の支払として使ったわけでもなく(彼はその銀行と取り引きが無かったからかもしれない)、とりあえず次の支払いに使おうと所持していたのかも知れない。ところがBが支払おうとするときになると状況はすでに逼迫期に突入しており、もはや地方の銀行券では支払いが出来ない状況に陥ってしまったのである。だからBはそれを発券銀行に持ち込み、金かまたはイングランド銀行券への兌換を要求するわけである。そしてその結果、この発券銀行にとっては、最初のAへの銀行券での貸付が、結局は、金あるいはイングランド銀行券で貸し付けたのと同じ意味をもつとマルクスは指摘しているのである。

 次に、[/]の後半部分である。マルクスは〈同様に、イングランド銀行自身が……、同行自身の銀行券を流通から引き上げて次にふたたびそれを発行するために公的有価証券を売却しなければならない場合〉を取り上げている。この問題は【31】パラグラフで〈しかし,同行(イングランド銀行)がその有価証券を売却するにいたるのはどのようにしてか,ということはのちに研究する必要がある〉(122頁)と述べていたが、それがここで検討されているといえる。
  まず、マルクスは最初に〈同様に〉と述べているが、何が〈同様に〉であろうか。そしてさらに、なぜこの問題をここで論じる必要があるとマルクスは考えたのかということである。
 最初の問題から検討しよう。地方発券銀行の銀行券の場合は、それを持っている資本家は、逼迫期になるとそれでは支払が出来ないから、それを発券銀行に持ち込んで、金かイングランド銀行券への兌換を要求するようになる。その限りでは、地方銀行券が流通から回収されることになるわけである。だからマルクスは〈同様に〉と述べて、今度は、イングランド銀行の場合にも、イングランド銀行券を流通から引き上げ(回収し)なければならない場合を論じているわけである。だからこの場合の〈同様に〉というのは、流通から銀行券を引き上げ、回収するという意味で〈同様〉なのである。
 しかしなぜマルクスはこのイングランド銀行が自行の銀行券を流通から引き上げる場合をここで論じる必要があると考えたのであろうか?
 マルクスはイングランド銀行の場合、同行の銀行券が同行に還流してくるのは、どういう場合かをこれまで論じてきた。(1)一つは発行された銀行券が地金を輸出する目的で貸し出された場合である。この場合は銀行券は金と交換されるために、すぐに同行に還流してくる。(2)次は支払手段としてイングランド銀行券が貸し出された場合である。その場合は①一つは預金として同行に還流してくる場合と、②満期手形の支払として還流してくる場合とがあることが分析された。しかしイングランド銀行券は、地方の発券銀行の場合のように兌換を要求して還流してくるケースは、(1)の地金輸出の場合を除いては、よほどのことがないかぎりはないのである。しかしでは、イングランド銀行の銀行券が同行に帰ってくるケースは、それ以外には無いのかというと、そうではない。それは(3)同行が保有する公的有価証券を売却して流通からイングランド銀行券を回収する必要がある場合である。この場合も確かにイングランド銀行券は同行に還流してくるであろう。ただそういう場合とは、どういう状況なのかを考えると、それは同行の発券額が法定の発行限度額一杯まで発行されている時である。そしてその限りでは、そうしたケースというのは何もイングランド銀行に限られるものではなく、発行限度額が法定されているあらゆる発券銀行に共通することであることが分かる。だからマルクスはすべての発券銀行にあてはまると補足しているのである。
 このように、このパラグラフでは、マルクスは銀行券の還流ということに焦点をあてて、そのあらゆるケースを分析の対象にしていると考えることが出来る。
 そしてこれらの場合の銀行券の還流もやはり、銀行業者的な意味での「資本」(【7】パラグラフでトゥックが発券銀行業者の立場から「通貨」と「資本」との区別として主張しているとマルクスが指摘していたもの)を表していることは明らかなのである。

  ところで大谷氏はわれわれがパラグラフの途中に記した[/]の前半部分を引用したのち(しかし大谷氏は氏独自のバランスシートの記号を挿入してではあるが)次のようにこの部分を解説している。

  〈私営発券銀行にとっては,自行の銀行券の発行による前貸はイングランド銀行券の前貸,したがってまた金準備からの前貸を,つまりは銀行資本(マルクスは「銀行業資本」と書いているが,これは第29章部分でのマルクスの用語から言えば「銀行業者の資本」と言うべきところである)の前貸を「表わしている」のである。〉 (52頁)

  しかしこれだとマルクスが〈自行の銀行券が地方的Circulationのなかにとどまっているのでもなく,また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には〉と述べていることがまったく不問にされている。しかしこれは重要なことであって、そうした場合に〈同行は,同行の銀行券を手に入れた人びとに,それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない〉のだからである。これは、地方銀行券は逼迫期には兌換を求められることを示しているのである。大谷氏はマルクスの一連の考察が逼迫期の問題であることを見落としているのである。
  それに大谷氏にはマルクスが冒頭〈私営発券銀行の場合には,次のような違い〔がある〉と述べている意味が分かっていない。つまりその前までのパラグラフでは、イングランド銀行の銀行券による貸付が、通貨の流通高の増加にならないためには、銀行券がすぐに同行に還流しなければならないが、それは次の二つの仕方が考えられると一連の考察したのを受けて、この冒頭の一文があるということである。だから、地方の発券銀行の場合にはその還流の仕方は今度は兌換という仕方で生じるという〈違い〉についてマルクスは指摘しているのである。
   だからその兌換を要求してきた銀行券が、地方銀行がそれ以前に貸し付けたものだったとしても、兌換に応じた時点で、それらの貸付は事実上、兌換に応じて支払った金またはイングランド銀行券で貸し付けたことになるのだというのである。
   ここでマルクスが〈したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表わしている〉という部分について、大谷氏は〈つまりは銀行資本(マルクスは「銀行業資本」と書いているが,これは第29章部分でのマルクスの用語から言えば「銀行業者の資本」と言うべきところである)の前貸を「表わしている」のである〉と解説している。しかしすでに指摘したが、マルクスは【44】パラグラフで〈銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)と規定しているのであり、そしてそのような意味で〈したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表わしている〉と述べているのである。だから、ここで論じている〈銀行業資本〔banking capital〉というのは、あくまでも銀行学派たちが主張するような意味での資本という意味でマルクスは使っているのである。それを大谷氏は〈銀行資本〉に言い換えているが、いらざる注釈を加えて、ただ問題を混乱させているだけである。大谷氏は〈第29章部分でのマルクスの用語から言えば〉などと言っているが、この第28章部分でのマルクスの用語の使い方についての無理解があるから、こうした難癖をつけることになっているのである。何度もいうが、マルクスは第28章該当部分では銀行学派たちの用語をそのまま使った上で、彼らの主張の検討を行っているのである。だからマルクスが問題を厳密に科学的に論じている第29章該当部分と同じbanking capitalという用語でも意味が違ってくるのは当然なのである。

  次に、大谷氏は([/]以下の部分)を引用したあと以下のような解説を加えている。

  〈「銀行券発行の最高限度を法定されている銀行」というのは,準備金をもたずに保証発行ができる上限が法定されている銀行--当時のほとんどの銀行の--ことで,すでにこの限度まで銀行券を発行している銀行は,貸出のために発行する銀行券を入手しようとすれば,準備有価証券である公的有価証券を売却しなければならないが,このようにして入手した銀行券は,すでにもっていた「資産」である有価証券が姿を変えたものにすぎないのだから,「譲渡された銀行業資本」9)なのである。〉 (52頁)

   この解説文を検討する前に、大谷氏が引用しているマルクスの一文でマルクスが冒頭〈同様に〉と始めていることを大谷氏はカットしている。しかしこの〈同様に〉というのは重要である。なぜなら、マルクスの展開を少し振り返ってみよう。マルクスはフラートンらが地方銀行に生じていることはイングランド銀行でもいいうると主張していることに対して、原注b)で地方銀行について銀行学派たちが主張していることの矛盾点を指摘し、そして本文に入って、今度はイングランド銀行のケースについて論じ、まずは地金の海外への流出のケース、そして同行への貨幣融通の要求が支払手段に対するもので預金として還流するケース、あるいは満期手形の支払として還流するケースについて検討したのである。そしてそれに続けて、〈私営発券銀行の場合には、次のような違いがある〉と、今度はイングランド銀行の検討から、一転して地方の発券銀行の場合との違い(つまり兌換による還流)を論じ、それを受けて、〈同様に〉と続けているのである。だからこの〈同様に〉というのは、何と同様なのかが問題なのである。地方銀行についてマルクスが述べているのは、自行の銀行券で貸し付けた場合、逼迫期にはその銀行券の兌換が要求されて自行に還流してくる場合について述べていた。そして、マルクスが〈同様に〉として以下述べていることは、イングランド銀行の銀行券による貸付が発行限度額を越える場合には、一旦、流通銀行券を引き上げるために、手持ちの有価証券を販売して、銀行券を入手しなければならいケースについて述べている。これがどうして地方銀行の兌換を求められた銀行券のケースと同じとマルクスは考えているかが問われるのである。それは発行した銀行券が自行に還流するという意味で〈同様に〉である。そうした問題を大谷氏はスルーしている。まずはその点を指摘しておきたい。

  そして次は、大谷氏の解説である。ここで注目すべきは

  (1)〈「銀行券発行の最高限度を法定されている銀行」〉について、大谷氏は〈準備金をもたずに保証発行ができる上限が法定されている銀行〉と述べている。しかしこれは果たしてどうなのであろうか。例えばピール銀行条例でイングランド銀行の発券は、1400万ポンド・スターリングまでは国債などの有価証券を保証に発行することが許され、それ以外は保有する地金の額に限度を決められていたとされている。だから例えば保有する地金が1400万ポンド・スターリングなら、全体の発行限度額は2800万ポンド・スターリングということになる。つまりその意味では1400万ポンド・スターリングまでの発行も、保有有価証券を保証にしたものであり、まったくの無準備の発行ではないのである。マルクスは後の第29章該当部分の草稿の最後のあたりで、イングランド銀行の準備ファンドについて次のように述べている。

  〈しかし同行(イングランド銀行--引用者)では,この準備ファンドがこれまた「二重化」される。銀行部の「準備ファンド」は,イコール,同行が発行の権限をもっている銀行券〔のうちの〕流通のなかにある銀行券を越える超過分,である。銀行券の法定最高限度は,イコール,1400万〔ポンド・スターリング〕 (これには地金準備は不要であって,イコール同行に対する国家の債務である)・プラス・同行の地金保有高である。だから,もしこの保有高がたとえばイコール1400ポンド・スターリングならば,同行は2800万ポンド・スターリングの銀行券を発行するのであって,もしそのうち2000万が流通しているなら,銀行部の準備ファンドはイコール800万である。この800万の銀行券は(法律上)同行が自由にできる銀行業資本〔d.banking Capital〕であり,また同時に同行の預金のための「準備ファンド」でもある。〉 (大谷本第3巻189-190頁)。

   このように1400万の銀行券の発行分について、マルクスは〈これには地金準備は不要であって,イコール同行に対する国家の債務である〉と述べている。つまり地金準備は不要だが、国債や公的債務証書などを保証に発行されることについて、それは国家の同行に対する債務になることを指摘しているのである。だから大谷氏のようにまったく無準備の発行であるかのようにいうのは正しくないのであろう。

  (2)マルクス自身はここでは〈発行限度額が法定されているすべての銀行にあてはまる〉と述べているだけで、それが無準備による発行か否かについては何も述べていない。それだけではなく、大谷氏は〈準備金をもたずに保証発行ができる上限が法定されている銀行--当時のほとんどの銀行の--ことで〉とも述べているが、これはマルクスが〈発行限度額が法定されているすべての銀行にあてはまる〉と述べていることとは意味内容が違っている。マルクスは発行限度額が法定されているすべての銀行にあてはまることだが、と述べているのであって、すべての銀行が法定されているとは述べていないのである。大谷氏は〈当時のほとんどの銀行〉が〈準備金をもたずに保証発行ができる上限が法定されてい〉たかに述べているが、しかしいま論じているのは発券銀行に限られた話であって、〈ほとんどの銀行〉というようなことはないのである。大谷氏のいう〈当時〉がいつのことなのかハッキリしないが、少なくともピール条例以降は地方の発券銀行は制限される傾向にあり、決して多くはなかったのである。

  ところで上記の大谷氏の一文には注9)が付けられている。その内容も見ておこう。

 〈9)マルクスは「譲渡された銀行業資本」と言っているが,第1に,譲渡されたのは準備有価証券であって,資本そのものが譲渡されたのではない,という意味で,第2に,ここでの資本は,「他人資本」である「預金」を指しているのではないので,「銀行業資本」ではなくて「銀行資本」とすべきところだ,という意味で,この表現は適切ではない。〉 (52頁)

  果たしてこの大谷氏の指摘は正しいであろうか。

  (1)まず最初に大谷氏が〈第1に〉と述べている点について考えてみよう。〈譲渡されたのは準備有価証券であって,資本そのものが譲渡されたのではない〉というのであるが、マルクス自身は何と言っているのか?

  〈同行自身の銀行券をCirculationから引き揚げて次にふたたびそれを発行するために公的有価証券を売却しなければならない場合には,同行にとっては,いまや自身の銀行券が,同行の譲渡された銀行業資本の一部分を表わしているのである。〉

   つまりマルクスは、銀行券の発行が最高限度に達している時に、公的有価証券を売却して流通している銀行券をまず還流した上で、発行する銀行券は、もはや発券銀行がその信用だけで発行するものではなく、公的有価証券という銀行業資本を譲渡したものを表しているのであり、その意味では銀行業者の立場からは資本の持ち出しになっていると述べているわけである。つまり銀行学派たちの主張する「資本の貸付」に転化しているということである。
   しかし大谷氏は〈譲渡されたのは準備有価証券であって,資本そのものが譲渡されたのではない〉という。しかしここで大谷氏が〈資本そのものが譲渡されたのではない〉という場合の〈資本〉とはどういう意味で述べているのであろうか。それが銀行学派たちがいうような意味で、つまり銀行の元帳の立場からの資本というのであれば、準備有価証券はまさに銀行業者にとっては資本なのである。準備有価証券というのは、銀行業者の資本、つまり銀行が利潤をあげるために運用するための資本である。それは本来は利子生み資本として貸し付けて利子を稼ぐべき資本であるが、当面は貸し出しに利用する当てがないので、国債などのすぐに換金できる有価証券という形態で持っているものなのである。だからそれを流通にある自行の銀行券を回収するために売却したのだから、その銀行券は、〈譲渡された銀行業資本の一部分を表わしている〉ことは明らかではないだろうか。

  (2)次に大谷氏が〈第2に,〉と述べていることはどうであろうか。ここらあたりは第29章と関連してくるが、だからその詳しい検討はその部分の解読までとっておくべきであるが、ただ必要なかぎりで問題にすると、第29章ではマルクスは次のように述べている。

  〈銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的なreal構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる。〉 (大谷本第3巻163頁)

  あるいは、大谷氏の『図解』を参照すると次のように書いている。

  [銀行の他人資本=銀行業資本]銀行業者の資本の第2の部分は他人資本である。これは、銀行業者がその顧客から受けている信用を表している部分、すなわち信用資本であって、彼らが貸し付けることによって利子を稼ぎだす資本、つまり本来の銀行業を営む資本の中心はこの資本部分である。そこでこの部分は銀行業資本(banking capital)とも呼ばれる。〉 (363頁、下線は大谷氏の傍点による強調個所)

   つまり第29章におけるマルクスの記述や大谷氏の説明によれば、銀行業資本というのは銀行業者の資本のうち預金を指していると考えることができる。だから、大谷氏は、この場合には相応しくないというであろう。しかしこれはもしマルクスが「Ⅱ)」で展開している概念にもとづいて、「Ⅰ)」のこの部分を書いているのなら、確かにそうかも知れないが、しかしすでに指摘したが、マルクス自身は、「Ⅰ)」の【44】パラグラフで〈銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本〉(137頁)と明確に規定しているのである。つまり「Ⅰ)」では銀行業資本は預金を意味するものとしてマルクスは使っていないということである。マルクスが「資本」と述べている場合もそうなのであるが、マルクスは「Ⅰ)」では銀行学派たちの主張を前提し、彼らの用語をそのまま使いながら、銀行学派の混乱や矛盾を暴露するという手法を取っている。だからこの場合も、〈銀行業資本〉という言葉でマルクスが述べているのは、彼が「資本」という言葉で述べているのと同じ意味で、すなわち〈銀行業者の立場から見ての資本〉、つまり銀行業者の元帳の立場から彼らの自分の資本(自己資本と借入資本)の持ち出しになる場合を、彼らは「資本の貸付」と言い、〈銀行の銀行業資本の前貸を表わしている〉と主張しているのである。だからイングランド銀行の場合も、公的有価証券を売却して限度一杯の流通銀行券(イングランド銀行券)を引き上げ、その引き上げによって可能になった分だけ新たな銀行券を発行して貸し付けるならば、その銀行券による貸付は、〈同行の譲渡された銀行業資本の一部分を表わしている〉ということになるのである。なぜなら公的有価証券は〈銀行業者の立場から見ての資本〉なのだからである。それを売却して入手した銀行券は同行の元帳の立場からみても「資本」になるということであり、だからその銀行券での貸付は、ただの信用だけにもとづく(だから紙と印刷費以外に費用のかからない)貸付ではなくて、費用のかかっている、〈つまり銀行業者の立場から見ての資本〉になるものの一部の貸付になるとマルクスは指摘しているのである。やはりこの場合も、大谷氏のクレームは、マルクスがこの「Ⅰ)」で取っている銀行学派批判の手法の無理解から来るものといわねばならない。

 そしてこの点では小林賢齊氏も同様であって、同氏はbanking capitalという用語が使われている幾つかのケースを挙げているが、しかしここではこのパラグラフに関連するものだけを取り上げることにし、それ以外のものはそれぞれのパラグラフで問題にすることにしよう。
  この【41】パラグラフでマルクスが〈同行にとっては同じことであるが,金の前貸を,したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表わしているのである〉という部分に対して次のように述べている。

  〈今度はこれまでの設例とは異なって,貸出しに用いられた個人発券銀行の銀行券が自行に還流してこないで,他の銀行業者等の手に留まり,それを保持している他の銀行業者等がその銀行券の,金またはイングランド銀行券への兌換を,発券銀行業者に請求する,と想定されている。そしてマルクスは,だからこの場合には,貸出が信用貨幣である銀行券によってなされるにも拘わらず,「事実上」は発券銀行業者の「banking capitalの前貸しを表している」と言うのである。したがってここではこのBanking Capitalという言葉が,発券銀行業者の「資本」(「資産」)の意味で用いられていると見てよいであろう。〉 (398頁)

   これがこのパラグラフの解説とするなら正確性に欠ける。著者はマルクスが〈自行の銀行券が地方的Circulationのなかにとどまっているのでもなく,また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には,同行は,同行の銀行券を手に入れた人びとに,それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない〉と述べていることを〈貸出しに用いられた個人発券銀行の銀行券が自行に還流してこないで,他の銀行業者等の手に留まり,それを保持している他の銀行業者等がその銀行券の,金またはイングランド銀行券への兌換を,発券銀行業者に請求する,と想定されている〉と説明している.しかしマルクスは〈他の銀行業者等の手に留まり〉とは述べていない。〈同行の銀行券を手に入れた人びとに〉と述べているだけである。著者はこれが逼迫期の話であることを忘れている。逼迫期には地方の発券銀行の銀行券の信用が揺らぎ、それを手にした人たちは、それを再び支払いに使用することができないために、発券銀行業者に兌換を求めてくるケースをマルクスは述べているのである。他の銀行業者等がそれを手にしている場合も同様のケースが生じないとはいえないが、しかしそれらはおおかた銀行業者間の手形交換所における交換によって相殺されるものなのである。もっとも交換尻があわない場合は現金が要求されるだろうが。しがしそれは兌換要求とは異なるものである。だからマルクスは決して〈他の銀行業者等の手に留まり〉などとは述べていないのである。
   ここでは著者はbanking capitalについて、〈したがってここではこのBanking Capitalという言葉が,発券銀行業者の「資本」(「資産」)の意味で用いられていると見てよいであろう〉と述べている。確かにそれはマルクスもいうように〈銀行業者の立場から見ての資本〉なのである。つまり彼らの元帳の立場からみて、自分の資本(自己資本と借入資本)の持ち出しに帰着するケースだということである。小林氏はこのマルクスのbanking capitalという用語の使用例について、このように述べるだけで、それ以上の批判的な言及はしていないので、われわれもそれを紹介するだけに止めよう。しかしすでに紹介したが、小林氏はマルクスは第28章該当部分の草稿では「混乱」しているかに述べていたのであり、その主要な理由がbanking capitalという用語が一義的に使われていないというものだったのである。

  さらにこの同じパラグラフでマルクスが〈いまや自身の銀行券が,同行の譲渡された銀行業資本の一部分を表わしているのである〉と述べている部分について次のように述べている。

 〈これでは,イングランド銀行の「資本」ないし「資産」という言葉の代わりにBanking Capitalという言葉が用いられているだけではないであろうか?〉 (398頁)

  この場合もこう述べるだけでそれ以上の批判的言及はない。確かに小林氏がいうようにマルクスが少なくとも第28章該当個所でbanking capital(銀行業資本)と述べている場合は、すべて〈銀行業者の立場から見ての資本〉という意味で用いているのである。なぜなら、それは銀行学派(=銀行業者)たち自身が彼らの元帳の立場からみて、自分の資本のことをbanking capital(銀行業資本)と述べているからである。何度もいうがマルクスは第28章ではそうした銀行学派たちが使っている用語(例えば「資本」や「通貨」も同じである)をそのまま使い、なおかつそれらの矛盾や混乱を指摘し、彼らがそれらの用語で実際には何を意味させて使っているかを暴露するという方法をとっているのだからである。大谷氏や小林氏もこうしたマルクスの第28章における批判の仕方に対する無理解があるのである。混乱はマルクスにではなく、そうした批判の仕方に無理解な、彼ら自身にこそあるということに気づくべきである。】

 (以下、続く。)

 

2022年2月10日 (木)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-11)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-11)

 

 

 今回はまず最初に前回予告したように、これまでの展開を振り返って問題点を整理し、マルクスの問題意識を明確に掴むことにしたいと思う。というのは、組織内の論争でも、この点での混乱があまりにも酷かったからである。前回の解読のなかで論じたものをほぼそのまま紹介しておく。


 《この間のマルクスの展開の整理


 ◎全体の大まかな流れと構成

  (1)まずマルクスは、銀行学派が主張する「通貨と資本との区別」を取り上げると述べている。というのはこの「通貨と資本との区別」こそ、銀行学派が通貨学派を批判するときの主要な論点、あるいは立脚点だからである。しかし銀行学派はこの区別を論じるなかで、彼らの無概念をさらけ出しているのである。だからここでいう「通貨」も「資本」もまたその「区別」もあくまでも銀行学派の主張するものであって、決して科学的な概念ではないことに注意が必要である。
 だからマルクスは一番最初に、〈鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同される〉とわざわざ科学的な概念を対置して、何が問題なのかを示しているのである。つまり問題なのは、単に「通貨」と「資本」との区別ではなく、問われるのは貨幣の抽象的な機能である(だから資本主義的生産の表面に現象している単純流通における貨幣の諸機能である)鋳貨としての流通手段と貨幣、すなわちそこに含まれる蓄蔵貨幣や支払手段、世界貨幣と、より具体的な資本の流通過程で貨幣がとる形態である貨幣資本(geld Capital)と、さらに競争によって転倒させられた諸形象の一形態として存在する貨幣である利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)との諸区別こそが概念的に把握されるべきなのだということである。
 ただそれ以後、マルクスは銀行学派の批判を、彼らの主張に沿ってその主張の論理的な矛盾や一面性を暴露し、また彼らの主張の根拠になっている現象は本当はどういう事態なのかを明らかにするといった形で、つまり彼らの概念的混乱を内在的に暴露するというやり方をとっている。そのために、マルクスは最初に示した科学的な概念を銀行学派の誤った混乱した概念に対置するのではなく、銀行学派が使っている言葉をそのままマルクスも使っているのである。例えば「資本の移転」といった言葉もそうであるし、あるいは「資本の貸付」といった言葉もそうである。そもそも「資本」と銀行学派がいう場合も彼ら独特の意味を持たせていることをマルクスは明らかにしていることはすでに見たところである。だからそれを何かマルクス自身の言葉であり、科学的な概念であるかに理解するととんでもない間違いを犯すことになるのである。この点は常に注意しながら読む必要があるであろう。(この点、昔の組織内の論争で、ある人は、こうしたマルクスの叙述の特徴が理解できないために、マルクスが銀行学派の用語をそのまま使っているのは、「それは単純にまだ自分の言葉を持っていなかったからだと考えられる」などと主張し、だからマルクスがこの草稿を書いたのは1857年の恐慌を挟んだ前後であろうなどというまったく馬鹿げた荒唐無稽な類推をするに及んでいる。しかしすでに述べたように、マルクスはこの人物のようなとんでもない勘違いをする人が出てくるかも知れないと考えたのかどうかは分からないが、とにかくそうした混乱が生じないように、一番最初に、科学的な概念を呈示しているのであり、「自分の言葉を持っている」ことをハッキリと示しているのである。)。
 最初に、第28章該当部分の草稿(「Ⅰ)」という項目が打たれている部分)が「貨幣資本(moneyed Capital)」論の本論の冒頭に置かれていることを指摘した。マルクスはこの「Ⅰ)」では、「利子生み資本としての貨幣資本(moneyed Capital)」を銀行学派の混乱した主張を批判的に検討するなかで、具体的に確定しようと考えていたように思える。つまり利子生み資本としてのmoneyed Capitalの概念を明確に捉えることが出来なかった銀行学派の混乱を批判的に取り扱うなかで同概念の重要性を際立たせるというのがマルクスの意図だったようなのである。だからその科学的な概念としての呈示は、いわば結論にまで取っておくことになったと考えられる。こうしたマルクスの叙述の仕方もエンゲルスをはじめ多くの人たちを惑わせてきた理由の一つでもあるだろう(しかもこの問題はこの小論の一番最後に取り扱う予定なのだが、マルクスがこの第28章該当部分の結論として書いたと思われるものが、実際にはエンゲルス版の第29章の中にあるために、一層こうしたマルクスの叙述の特徴を理解しにくくさせているという面もあるのである)。

  (2) 次にマルクスは銀行学派が、スミスにならって商品流通を「小売商人と消費者との間の流通」と「商人と商人との間の流通」に分け、前者を「収入の実現を媒介するもの」、後者を「資本の移転を媒介するもの」として、前者において流通する貨幣を「通貨」とし、後者において流通する貨幣を「資本」としていることを指摘する。しかしそれは一面的であることも同時に指摘している。すなわち彼らが「収入の実現を媒介する」という流通においても、小売商人にとっては彼の商品資本を貨幣資本に転換する過程であり、その意味では彼らがいうところの「資本の移転」でもあるからであり、また彼らが「資本の移転」としている流通においても商人(資本家)同士が現金で売買するかぎりは、貨幣は購買手段としても支払手段としても機能するのであるから(つまり彼らのいう「通貨」でもあるのだから)である。これがまず最初のマルクスの銀行学派の「通貨と資本との区別」に対する批判であった。つまりそれはいわば銀行学派の主張する「通貨と資本との区別」の直接的な批判とでも言い得るものである。銀行学派は通貨と資本とをまったく別々のものとして両者を区別するが、しかしマルクスに言わせれば、彼らの言い分を前提すれば、「通貨」はすなわち「資本」でもあり、また「資本」は同時に「通貨」でもあり得る、ということになるではないかというのである。
 本来、「通貨」というのは貨幣の抽象的な機能を果たすものである。つまりマルクスが最初に提示した〈鋳貨としての流通手段と,貨幣〉のうち、「流通手段」と定冠詞のない〈貨幣〉、つまり貨幣としての貨幣、本来の貨幣のなかに含まれる「支払手段」とを併せたものが、すなわち概念的な「通貨」である。それに対して、「資本」は前者が貨幣の抽象的な機能であるのに対して、より具体的なものである。抽象的な貨幣(すなわち鋳貨としての流通手段と,貨幣)は、資本主義的生産の表面に直接現れているものであるのに対して、資本はその背後にあって観察者には隠されている。だから抽象的な機能で運動している貨幣が、同時により具体的な関係からみれば、資本としての機能をも持っていることはいくらでもあるのである。例えば資本家がその増殖を期待して最初に投じる貨幣は、彼の貨幣資本(geld Capital)であるが、しかしそれが流通に出て行くときには単なる貨幣として、すなわち購買手段や支払手段としての機能においてである。しかしその貨幣が流通過程にあってもその資本としての規定性を失うわけではない。それは資本の流通としての固有の役割を持ち、資本としての規定性から生じるさまざまな条件のなかにあるからである(例えば単純流通では貨幣が転化する使用価値がなんであるかは何も問われないが、資本としての貨幣においてはその転化する使用価値は経済的形態規定性を持っており、何でもよいというわけではない、等々)。そもそもわれわれが『資本論』で最初に対象にした単純な商品と貨幣の流通は、資本の流通過程から資本関係を捨象して得られたものである。だから「通貨」と「資本」との区別といっても、こうした資本主義的生産の内的構造にもとづいてそれができないと本当に理解したとはいえないのである。

  (3)そのうえで、マルクスは三つのことによってさらにさまざまな混乱が入ってくると述べて、a、b、cに分けて、その混乱を暴露している。このa、b、cに分けた批判は、銀行学派が通貨学派を批判するために上げているさまざまな論拠とそれにまつわる混乱をマルクスが整理整頓して、それを適切・簡潔にまとめたものであり、これだけを見ても、マルクスが如何に問題を徹底的に考え抜いた上で書いているかが分かるものである。だからそれを通貨学派を批判する銀行学派の主張としてもう一度、再確認しておこう。

 a、まず最初の銀行学派の混乱は、「通貨と資本との区別」を、一方が「収入の実現」を担い、他方が「資本の移転」を担うという機能上の区別として論じることにあった。
 こうした彼らのいう機能上の区別そのものも、マルクスに言わせれば彼らの「がさつな」問題の捉え方からくるものであった。そもそも貨幣の本来の諸機能(価値の尺度機能や鋳貨としての流通手段の機能、あるいは貨幣としての貨幣である蓄蔵貨幣の諸機能、さらには同じ貨幣としての貨幣である支払手段や世界貨幣の機能等々)からすれば、銀行学派が主張するこうした“機能”は、まったく表面的なものでしかなく、それによって貨幣の本来の諸機能が見落とされるのでは話にならないのである。マルクスは貨幣の本来の諸機能を、銀行学派は概念的に捉えることができず、それをただ表面的ながさつな捉え方でしか捉えていないことを暴露したのであった。

 b、通貨学派と銀行学派の最大の争点は、通貨学派が、金鋳貨と紙券が混合して流通する当時のイギリスにおいて、通貨の増発(その結果としての通貨価値の下落、ひいてはそれによって生じると彼らが考えた地金の流出と恐慌の勃発)を防ぐために、彼らが持ち出した通貨政策の評価を巡ってであった。通貨学派は、通貨の増発を防ぐためには、結局は、紙券、すなわち銀行券の増発を防ぐことが必要であると主張した。それにたいして銀行学派は、通貨学派のいう紙券の増発という考えは、ナポレオン戦争時の兌換が停止されていた状況を現在に引き移したものであり、兌換制度が復活された今日には当てはまらないこと、兌換銀行券の流通量は発券銀行が勝手に増減できるものではなく、それは社会の需要によって規定されているのだと主張したのである。
 銀行学派はこうした自分たちの主張の論拠として、一国の通貨の流通量というのは、スミスのいうように(マルクスはそれを「v+mのドグマ」と特徴づけたが)結局は「収入の実現」を担う貨幣量に帰着すると主張した。これは「収入の実現」を媒介する貨幣を彼らが「通貨」としたのと整合していたし、実際上でも、彼らのいう「資本の移転」の部面では、取引の大半は信用によって行われ、貨幣が顔を出さなかったことからも彼らのこうした主張は正しいものと考えられたのである。
 これに対しては、マルクスは一国の貨幣の流通量というのは、単純な商品流通における貨幣の流通量の法則が妥当するのであって、その貨幣が資本を流通させるか、収入を流通させるかといったことによっては何も変わらないのだと指摘するにとどまっている。

 c、これから、われわれが取り組もうとしている部分(【39】以下)は、まさにこのcの一部であることを再確認してもらいたい。そしてこのcについては項を改めて検討しよう。

 ◎ cの部分のこれまでの大まかな流れと構成

  (1) このcというのは、銀行学派が流通を二つにわけた両部面(「収入の実現」部面=第一部面と「資本の移転」の部面=第二部面)で流通する通貨の分量が繁栄期と反転期とでは、その相対的な割合が違うので、それを根拠に銀行学派がまたいろいろと混乱した主張を行っているという問題であった。

  (2) マルクスはまず両部面における通貨が繁栄期と反転期ではどのように変化するのかを分析している。これは銀行学派の言い分にもとづいて、マルクス自身が分析を加えるといった形で展開されており、その限りではマルクス自身の分析である(しかし使っている用語は銀行学派のものである)。

  (3)次にマルクスは逼迫期では確かに第一の部面(収入の流通)では、通貨の総量は減少し、第二の部面(資本の流通)ではそれは増加するが、しかしそれはフラートン等々が言い立てている「貸付資本に対する需要と追加の流通手段に対する需要とはまったく別のものであって、両方がいっしょに現れることはあまりない」という命題とどこまで一致するのかを、詳しく研究しなければならないと問題を提起している。つまりここから銀行学派の混乱の本格的な検討を始めようというわけである。
 その批判を、マルクスはまずフラートンらの命題の直接的な批判から始め、フラートン等の命題における対置は正しくないことを明らかにする。次に彼らの命題の根拠になっている現象の分析にとりかかる。つまり彼らが言い立てている命題の根拠になっている現象は本当はどういう事態なのか、それをフラートンらはどのように間違って捉えているかを暴露するというやり方である。それをマルクスはフラートンらの主張を、そのまま実際に現実に当て嵌めてみて、それがどれほど一面的であり、かつ矛盾したものであるかを暴露するという込み入ったやり方で批判を展開するのである。マルクスはフラートンらの用語をそのまま使い、彼らの用語の実際の内容を暴露するという方法を取っている。だからそれらの用語をマルクス自身の用語と勘違いしたりすると大きな間違いに陥ることになるのである。それはおいおい説明していこう。

  (4) マルクスはノート331原頁の原注b)でフラートンからの長い引用を行い、そこでフラートンらが「資本」という場合、どういう意味なのかを明らかにしている。それはすでにこのレジュメの【7】パラグラフでトゥックの主張の批判としてマルクスが展開していたものとほぼ基本的な内容は同じである。つまり彼らが「資本」というのは、単に支払約束(銀行券)だけで、つまり信用だけで貸すのではなく、あるいは一旦銀行券で貸し付けてもそれらがすぐに還流してきて、帳簿上自分の資本(自己資本あるいは借入資本)からの貸付に転化する場合、それを彼らは「資本」あるいは「資本の貸付」に転化したと言っているだけだ、というのである。これは重要な指摘であって、これをエンゲルスはまったく見落としているのである。

  (5)マルクスは銀行学派の命題の根拠になっている現象、すなわちイングランド銀行においては有価証券の保有高が増えても(貨幣融通、すなわち貸付が増えても)、銀行券の流通高が増えないばかりか、むしろ減っているという現象は、一体、何を意味するのか、の分析を開始する。マルクスはそれを①その貸付が外国との取り引きにおける地金の輸出のために行われる場合と②国内の取り引きにおいて、手形割引や担保貸付で貸し出される場合とに分けて検討する。

  (6) まず(①)マルクスは、地金輸出のための「貨幣融通」の場合をとりあげ、確かにその場合は、銀行券はすぐに銀行に還流し、流通高に影響を与えないが、しかしそれはその貸付が銀行学派たちが言うように「資本の貸付」だからではなく、むしろこの場合は国際的な支払手段としてそれが貸し付けられるからそうなのだ、だからそれは「資本の問題」というより、その限りでは国際的支払手段という貨幣の問題なのだと銀行学派の主張の誤りを指摘したのである。

  (7)そしていよいよこれからわれわれが問題にするところに来たわけである。つまり②、国内の取引において、貸し付けられた銀行券がどうしてすぐに還流するのか、という問題である。だからもはやこの部分でマルクスが何を問題にしようとしているかを見間違う人はいないであろう。だから次のパラグラフに進むことにしよう。


【39】

 第1に,同行はAに,彼の有価証券にたいして銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし.Bはその銀行券を同行に預金する。発券はこれで終りとなるが,しかし貸付は残っている。(「貸付は残っているが,通貨〔currency〕は,もし必要がなければ,発行者のもとに帰っていく。」) (フラ一トン,97ページ〔前出阿野訳,122ページ〕)同行がAに前貸ししたものは,資本ではなくて,銀行券であったが,同じ銀行券がいま同行に帰ってきた。これに反して,同行は,この銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者であり,だからBは,銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができる。439)それゆえ,同行の元帳の立場からすれば,取引は,同行がAに資本を前貸しした,ということに落ちつくのである。しかしこの元帳の立場は,①取引の本性をいささかも変えるものではない。そしてその本性とは,Aが必要としたものは資本ではなくてBへの「支払手段」であったということ,発行された銀行券は支払手段として機能したということ,そして貨幣融通への圧迫はけっして資本への需要ではなくて,支払手段への需要だということである。ただし最後の場合に同行がその需要を満たすことができるのは,流通総量〔Circulationsmasse〕にそれだけの銀行券を追加することによってではなくて,同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって,つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる,ということによってでしかないのではあるが。

   ①〔異文〕「現実[の]〔wirklich[en]〕」と書きかけが消されている。

  439)〔E〕 ここからこのパラグラフの終りまでは削除されている。原文は次のとおりである。--Vom Standpunkt ihres ledger aus löst sich d. Transactiondaher darin auf,daß sie d. A Capital vorgeschossen hat. Dieser ledger Standpunkt ändert aber nichts an d. Natur d. Transaction.Und dieser ist,dass was A) brauchte nicht Capital war,sondern"Zahlungsmittel“an B,daß d. ausgegebne Note als Zahlungsmittel functionirt hat u. daß d. pressure for pecuniary accommodation keineswegs demand for capital,sondern demand for means of payment ist,obgleich d.Bank im letztern Fall d. demand nicht befriedigen kann dadurch daß sie d. Circulationsmasse so viel Noten zufügt,sondern nur dadurch,daß sie zum Schuldner einer bestimmten Werthsumme an B wird,also d. Vroschuß auf Rechnung ihres Capitals kommt.
  引用者がイタリックにしたdieserは,dieseであるべきところ(女性名詞の「本性〔Natur〕を指すもの)と考えて,訳出した。〉 (132-133頁)

  マルクスはイングランド銀行から貸し出された銀行券が、すぐに銀行に還流する場合を第1と第2に分けて分析する。このパラグラフはその第1の場合である。まず平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈イングランド銀行から貸し出された銀行券がすぐに還流するのはどうしてか、それを詳しく検討してみましょう。私たちは銀行券が預金として還流する場合(第1)と満期手形の支払として還流する場合(第2)とに分けて検討することにします。
 第1に、同行はAに、彼の有価証券にたいして銀行券を支払います(貸し付けます)。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払いをし、Bはその銀行券を同行に預金します。この場合は明らかに銀行券はすぐに銀行に還流します。発行された銀行券は元にもどったのですから、発券はこれで終わっています(プラマイゼロ)。ただ銀行のAにたいする貸付だけは残っています(これを銀行学派は「貸付は残っているが、通貨はもし必要がなければ、発行者のもとに帰ってくる」というのですが)。
 銀行学派は、なぜ発行された銀行券がすぐに発行者のもとに帰ってくるのかを、それは「通貨としての銀行券」がもはや社会の必要を満たしているからであり、だから銀行の貸付は「資本の前貸」となるしかないからだ、というのです。果たしてそうなのでしょうか、彼らの言っていることは実際は何を意味しているのかを検討してみましょう。
 銀行がAに前貸したのは、資本ではなくて、銀行券でしたが、同じ銀行券がいま銀行に帰ってきました。その結果、銀行にはAへの貸付だけが残り、また銀行はBの預金を獲得したことになります。つまり、同行は、Bが預金した銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者となり(なぜなら預金は銀行からみれば債務だから)、だからBは、銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができます(彼はそれを金で引き出すこともできるわけですから)。つまりBの預金は銀行にとっては借入資本なのです。だからそれは銀行にとっては費用のかかっているものであり(利子負担がある)、彼らの独特の言葉でいえば「資本」なのです。だから、銀行の元帳の立場からすれば、つまり帳簿にはAへの貸付が残り、Bの預金が書きつけてあるわけですから、Aへの貸付はBの預金(つまり銀行にとっては借入資本であり、「自分の資本」)からなされたことになるのです(銀行券の発行は還流した時点で差引ゼロになっています)。だから取引は、同行の貸し付けが単なる信用にもとづく銀行券によるのではなく、現実の価値を代表する資本をAに前貸した、ということに落ち着くのです(Bの預金はすでに述べたように、Bが自由にできるものであり、もし仮にBが金でその預金を引き出せば、結局、Aへの貸付の結果、銀行は金を手放すハメになるのであり、だからAへの貸付は金でやったのと同じになるのです。だからこの場合は明らかに銀行にとっては、Aへの貸付は「資本の前貸」になるわけです)。
 しかしこれはあくまでも「元帳の立場」からそう言い得るのであって、それによっては、この取引の本性をいささかも変えるものではありません。その取引が実際はどんなものであったかということとはまた別の話なのです。
 ではこの取引の実際の内容とはどんなものか、それを次に見ていきましょう。その本性とは、Aが必要としたものは資本ではなくてBへの「支払手段」であったということです。もちろんそれはAの貨幣資本でもあるのですが、しかし資本として貸付られた銀行券は実際は支払手段として機能したということです。だから貨幣融通の圧迫は決して資本への需要ではなくて、支払手段への需要だったというわけです。
 つまり発行された銀行券がなぜすぐに銀行に還流したのかを説明するのは、それが銀行学派が言うように「資本の問題」だからではなく、つまり資本として貸し出されたからではなく、支払手段として貸し出されたというところにその理由があるのです。逼迫期には誰もが支払手段に窮します。そしてその貸付の需要が銀行に殺到します。そうした場合の銀行券は、貸付を受けた資本家によってすぐに支払われて、いま検討しているこの第1の場合はすぐに預金として銀行に帰って来たわけです。だからこの場合の銀行券は確かにAにとっては貨幣資本なのですが、しかしそれは貨幣資本だからすぐに還流したというのではなく、それが支払手段という貨幣の機能を果たすものであったから、すぐに還流したのです。これこそこの場合の取り引きの本性なのです。だからこの場合もやはり銀行学派の主張は間違っているのです。
 もちろん、この場合の最終結果をみれば分かりますように、確かに銀行学派がいうように、同行がその貸付需要を満たすことができるのは、流通総量にそれだけの銀行券を追加することによってではなく、同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって、つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる、ということによってでしかないのではありますが。ただそのことは銀行学派がこうした銀行業者的な立場に立って、問題を粗雑に見ていることを示すだけなのです。〉

  【大谷氏はこのパラグラフの前半部分を紹介して解説しているが、その際、マルクスからの引用文を紹介する時に、バランスシート上の変化を示すとしてその引用文のなかに氏独自の記号を挿入している。しかしその記号を再現するのは私が使っているワープロソフト(オアシス)では困難なのでその紹介は残念ながら省略せざるをえない。だからそれについても批判点はあるが、不問にせざるを得ない。ただそのあと次のように解説している点は問題にしておきたい。

  〈「同行の元帳の立場からすれば,取引は,同行がAに資本を前貸した,ということに落ちつく」というのは,Aへの貸付とBの預金とが残っているが,Bはこの預金への指図証(小切手)で銀行の準備金を自分の目的に自由に使うことができるのであり,これは事実上,この金額の準備金をBに貸し付けたのと同じだ,ということである。この場合の「資本」という語は,すでに見たように,まさに銀行業者的な意味で使われている。〉 (49頁)

  最後の〈この場合の「資本」という語は,すでに見たように,まさに銀行業者的な意味で使われている〉というのは正しいが、〈Bはこの預金への指図証(小切手)で銀行の準備金を自分の目的に自由に使うことができるのであり,これは事実上,この金額の準備金をBに貸し付けたのと同じだ,ということである〉というのは間違っている。Bはイングランド銀行に銀行券を預金したのである。だからBは同行から何の貸し付けも受けていない。あるいは大谷氏が〈これは事実上,この金額の準備金をBに貸し付けたのと同じだ〉というのは、「準備金をAに貸し付けたのと同じだ」と書くところを間違ったか、誤植なのかも知れないが、もしそうでないのなら、これでは混乱である。Bは銀行券を同行に預金したが、Bはそれを金で引き出すことも可能なのである。だからAへの貸し付けは、この場合、元帳の立場では、Bの預金で貸し付けたことになるのである。そしてBが預金した銀行券は、それに相当する価値額の商品をBがAに信用で販売して受け取った手形が満期になってAから支払われたものである。それが同行に預金されたのだから、その意味では現実的な価値を代表しており、そうしたものとして、同行の「銀行営業資本」の一部なのである。それがAに貸し付けたことと同じになるのだから、それは銀行業者的な意味での「資本」の貸し付けになるとマルクスは指摘しているわけである。

  このあと大谷氏は同書50頁でマルクスが〈しかしこの元帳の立場は,取引の本性をいささかも変えるものではない。そしてその本性とは,Aが必要としたものは資本ではなくてBへの「支払手段」であったということ,発行された銀行券は支払手段として機能したということ,そして貨幣融通への圧迫はけっして資本への需要ではなくて,支払手段への需要だということである〉と述べていることを解説している。そこには特に問題は見いだせないが、それに続けて次のように述べていることには問題がある。

  〈しかし,このようなときには,銀行は銀行券で貸付(手形割引)を行なうことができない。そこで,銀行業者の立場から言えば,「同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって,つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる,ということによってでしかない」。〉 (50頁)

   大谷氏が〈このようなとき〉と述べているのは、反転期(逼迫期)のことである。しかし大谷氏はここでマルクスが銀行と述べているのは、イングランド銀行であることが分かっていない。恐らく大谷氏の頭にあったのは、マルクスがその前の原注b)(【31】パラグラフ)のなかで地方銀行業者について、フラートンらの主張としてマルクスが繰り返して述べていることであろう。マルクスは次のように述べていた。

  〈銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束promiss to pay〕のかたちでは,前貸をすることができないということである。だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか?〉 (120頁)

   しかしこれは地方銀行業者のケースについて、しかもフラートンら銀行学派たちの主張をマルクスが繰り返して確認して述べている部分である。地方銀行業者の場合は、逼迫期には信用が動揺して収縮しているために、彼らの発行する地方銀行券では信用がなく支払手段として通用しないから、支払手段を求めてくる顧客の需要には応じられない事態を述べているのである。
   ところが、いま論じているパラグラフで、マルクスが問題にしているのはイングランド銀行の場合である。だからイングランド銀行が〈このようなときには,銀行は銀行券で貸付(手形割引)を行なうことができない〉ということはありえないのである。確かにイングランド銀行の場合も、発行された銀行券量がすでに条例で規制されている限度一杯ならそういうこともありうるが、マルクスはここではそんなことは何も問題にしていないのである。
   恐らく大谷氏がこのパラグラフの最後の部分で、マルクスが〈ただし,最後の場合に同行がその需要を満たすことができるのは,流通総量〔Circulationsmasse〕にそれだけの銀行券を追加することによってではなくて,同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって,つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる,ということによってでしかないのではあるが〉(133頁)と述べていることを解説したつもりなのであろう。
   しかしこの場合も、限度枠いっぱいの状態をマルクスは述べているのではなく、それまでの一連の考察を結論的に述べているだけである。その部分を私は次のように平易に解読しておいた。

  〈もちろん、この場合の最終結果をみれば分かりますように、確かに銀行学派がいうように、同行がその貸付需要を満たすことができるのは、流通総量にそれだけの銀行券を追加することによってではなく、同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって、つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる、ということによってでしかないのではありますが。ただそのことは銀行学派がこうした銀行業者的な立場に立って、問題を粗雑に見ていることを示すだけなのです。〉

   さて、小林氏もこのパラグラフの一連のマルクスの論述を紹介したあと次のように述べている。

  〈ところがマルクスは,イングランド銀行が同行の銀行券を貨幣貸付資本としてAに貸付ける(前貸しする)というその関係には言及することなく14),ここでは貸出された銀行券のBによる預金としての同行への還流だけを取り上げ,同行の「元帳(ledger)の立場」からすると,Bは預金額だけ「イングランド銀行の資本の照応する部分を自由にする」こととなるのだから,「取引は結局イングランド銀行がAに資本(Capital)を前貸ししたことに帰着する15)」,と言うのである。
 では一体この場合,「イングランド銀行の資本の[預金に]照応する部分」とは何を指しているのであろうか?
 もちろん「この元帳の立場は取引の性質を変えるものではない。」つまり,「A)が必要としたものは資本ではなく,Bへの『支払手段』であったこと,発行された銀行券は支払手段として機能したこと,そして貨幣的融通を求める逼迫は決して資本に対する需要ではなく,……支払手段(means of payment)に対する需要であること16)」を,変えるものではない。しかしBは,一体イングランド銀行のどのような「資本」を「自由にする」と言うのであろうか? 確かに預金は銀行にとっては債務であり,したがって貸借対照表の「借方」に「負債」の1つとして,投下「資本」と共に計上される。そしてこの「借方」は,地金・有価証券・等が計上される「貸方」(「資産」)に「照応」しなければならない。しかしだからといって預金者Bは,「銀行業者の資本」の「現実的構成要素」である「資産」を「自由にする」と言いうるのであろうか。そしてまた,同行は,先の「地金の流出」の場合のように,結局Aに対して「資本を前貸ししたことに帰着する」と言いうるのであろうか。〉 (395-396頁)

  このように著者の疑問は全体にわたっている。それは氏がほとんど何も理解していないことを示しているのだが、とりあえず、われわれは氏の問題提起にもとづいて、それぞれについて見ていくことにしよう。

   ①まず〈イングランド銀行が同行の銀行券を貨幣貸付資本としてAに貸付ける(前貸しする)というその関係には言及することなく14),ここでは貸出された銀行券のBによる預金としての同行への還流だけを取り上げ〉という部分である。
  著者は先にも指摘したが、マルクスの問題意識を正確に理解していない。マルクスの問題意識は、イングランド銀行が銀行券による貸付をやっても、同行の銀行券の流通高が変わらないのは、貸し付けで発行された銀行券がすぐに還流するからであるが、ではそれは如何にしてなされるのか、ということである。マルクスの問題意識を正しく理解していれば、マルクスがここでAへの貸付がイングランド銀行にとって利子生み資本の貸付であることについて言及しなかったことには何の不思議もないであろう。そもそもマルクスはこの第28章該当個所(「Ⅰ)」と項目番号が打たれた部分)では、冒頭のパラグラフ以外には最後の結論的な部分を除いて、厳密な科学的なタームを使わずに、銀行学派たちが使っている用語をそのまま使いながら、彼らはそれらの言葉でどういう意味をもたせて使っているかを明らかにし、なおかつ彼らの理屈にもとづいてもしかしそれは不合理であり、混乱であるという形で批判を展開しているのである。だからここでマルクスが利子生み資本という用語(小林氏はmoneyed Capitalに対して氏独自の「貨幣貸付資本」という訳語を当てている)を使わないのは何の不思議もないのである。

   ②次の著者の疑問は〈では一体この場合,「イングランド銀行の資本の[預金に]照応する部分」とは何を指しているのであろうか?〉というものである。
  著者はここではマルクスは銀行学派たちの「資本」というのは、彼らの元帳の立場から、銀行が自身の営業資本(自己資本あるいは借入資本)の持ち出しに帰着する場合を「資本」といい、銀行が信用で貸付形態を創出して紙と印刷費以外の費用のかからない場合を「通貨」と述べているという立場を踏まえた議論であることがまず著者には分かっていないということである。Bは確かに銀行券で預金したのであるが、しかし預金というのは例え銀行券でなされようと、それは貨幣を銀行に預金したのと同じことになるということである。銀行券を預金したのだから、その預金は実際に現実の金鋳貨で預金された預金とは別に区別されるというようなものではない。預金はつねに現金でなされるとマルクスは後に「II)」のなかで指摘しているが、例え銀行券を預金してもその預金は預金としては金で預金したものと区別はないのである。例えば、BはAから支払われた銀行券をイングランド銀行に預金したのであるが、その銀行券はBが信用でAに商品を販売したときに受け取った手形が満期になって支払われたものだったのであり、だからそれはBがAに販売した商品の価値という現実の価値を代表しているものである。だからイングランド銀行にとってはBの銀行券による預金は、金で預金されたのと同じものとしての意義があり、だからイングランド銀行はBに対してそれだけの債務を負うのである。そしてBはその銀行券で預金したものを現金で、すなわち金で引き出すことも可能なのである。だからこそBの預金はイングランド銀行にとっては彼らの元帳の立場からすれば「資本」に照応するわけである。こんなことが分からないのは不思議である。

   ③そして上記の回答は、すでに次の疑問〈確かに預金は銀行にとっては債務であり,したがって貸借対照表の「借方」に「負債」の1つとして,投下「資本」と共に計上される。そしてこの「借方」は,地金・有価証券・等が計上される「貸方」(「資産」)に「照応」しなければならない。しかしだからといって預金者Bは,「銀行業者の資本」の「現実的構成要素」である「資産」を「自由にする」と言いうるのであろうか〉にも答えたことになっている。
  著者はBが自らの預金を金で引き出しうるということを考えたことがあるであろうか。それを考えればBの預金がイングランド銀行にとって「資本」の一部を形成していることが分かるであろう。そもそも銀行の営業資本は自己資本と借入資本とからなるとマルクスは区分けしていたが、この借入資本というのは主に預金のことである。だからBの預金は借入資本なのだから、それはイングランド銀行にとっては営業「資本」であることには違いはないのである。
  〈預金者Bは,「銀行業者の資本」の「現実的構成要素」である「資産」を「自由にする」と言いうる〉ということについてはすでに②で述べたが、預金者が自分の預金を自由に引き出せて自分のために利用することが可能なのは誰もが認めることであろう。マルクスが述べていることはそういうことである。

   ④そして最後の疑問である。〈そしてまた,同行は,先の「地金の流出」の場合のように,結局Aに対して「資本を前貸ししたことに帰着する」と言いうるのであろうか。
  この疑問も著者は問題が何かを理解していないことから来ている。問題はイングランド銀行が発行した銀行券が流通に留まらずにすぐに還流するという問題である。そしてトゥックが発券銀行業者に固有の通貨と資本との区別として論じていた問題を思い出すべきである(【7】パラグラフ)。すなわち発行した銀行券のうち流通に留まり続けるものについては、銀行は紙と印刷以外の費用はかからないのに、それらは貸付資本として利子を生み、銀行に利潤をもたらすこと、しかしそれらが銀行に還流してしまうと、結局、資本の貸付に帰着すること、だから発券銀行業者たちは前者を「通貨」、後者を「資本」と区別したというものである。著者はこうしたマルクスの指摘をただトゥック批判としてのみ論じていたが、確かにそこではトゥックの名前を出して論じてはいたが、しかしマルクスは発券銀行業者に固有の通貨と資本との区別として論じていたのであり、それがここでも問題になっているのである。だからこの場合、銀行券はBの預金としてすぐに還流したのだから、銀行にとっては銀行券によるAへ貸付は資本の貸付に帰着したのである。それはBの預金として還流したのだが、だからBの預金をAに貸し付けたことに銀行業者の立場(元帳の立場)からはなるのである。
 
  次のような疑問も著者の理解の不十分さを示している。

   〈上述のように銀行が貸出しに用いるのは「銀行営業資本(banking capital)」であって,その主たる部分は,ギルバートやウィルソンが指摘しているように,銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」である。そしてイングランド銀行券が「通貨」として「流通」している限り,それは預金と共に貸借対照表の「借方」に計上されてくるのであって17),したがって,この事例のようにBによる同行への預金を通じた銀行券の還流は,結局,同行にとっては,債務の1つの形態(銀行券)から,債務のいま1つの形態(預金)への,債務の形態変化に過ぎないのではなかろうか?〉 (396頁)

  ここでも問題点を箇条書きに書き留めよう。

   ①まず著者は〈ギルバートやウィルソンが指摘しているように〉と書いて、銀行学派たちの主張を鵜呑みにしていることである。すでに何度も指摘したが、著者は第25章冒頭部分のマルクスの考察を正しく理解していない。

   ②だから〈銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した銀行の「債務」である「借入資本」である。〉などと書いて、何の問題もないと考えているのであろう。それは〈ギルバートやウィルソン〉だけに依拠しているからそう思えるのである。マルクスは第25章冒頭部分では、銀行に流れ込む貸付可能な貨幣資本と銀行が信用によって創造する貸付形態とを区別していることを著者は知らないのである。だから〈銀行が自己の信用に基づいて「調達(raise)」し「創造(create)」した〉などとごちゃ混ぜに論じても何の問題も感じないのであろう。
   銀行が貸付資本を「調達」する仕方については、マルクスはさまざまな例を論じていた、例えばそれは二様の仕方で銀行に流れ込むとし、一つは生産資本家たちの出納係として、彼らのさまざまな準備ファンドの保管として、また彼らに対する諸支払もまずは銀行に流入してくること、もう一つは貨幣資本家たちの預金として形成されるとも述べていた。そして後者にはさらにさまざまな小口の貨幣貯蓄や少しずつ消費される収入も預金として入ってくること等が述べられていた。しかしここで肝心なのはこうして銀行が集めるのは現実の貨幣だということである。そしてその貨幣を銀行は利子生み資本として貸し付けるのである。
   それに対して、〈銀行が自己の信用に基づいて……「創造(create)」〉するものはそれとは区別されるべきものであり、これはマルクスが第25章冒頭部分で〈ところで,銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる〉(大谷本第2巻177頁)と述べていたものである。これらは先のものとは区別されるし、されなければならないものである。なぜなら、それらは銀行の信用だけにもとづいて「創造」されたものであり、現実の価値に何らもとづいたものではないからである。確かにそれらも銀行にとっては利子生み資本であり、その貸付によって銀行は利子を得て、彼らの利潤の一部とするが、しかし上記のような意味で、それらは銀行の営業資本を構成する自己資本や借入資本とは区別されるのである。それが著者には分かっていない。

   ③だから銀行券の預金による還流が〈したがって,この事例のようにBによる同行への預金を通じた銀行券の還流は,結局,同行にとっては,債務の1つの形態(銀行券)から,債務のいま1つの形態(預金)への,債務の形態変化に過ぎないのではなかろうか?〉という著者の疑問は著者が問題を何も理解していないことを暴露しているのである。
   確かに形式は債務の形態が変わっただけにみえるが、しかし発行された銀行券はただ銀行の信用だけにもとづいて発行されたものであり、もしそれが流通に留まれば、紙と印刷費以外の何の費用もかからないものである。確かにそれも銀行にとっては債務であるが、しかしそれは利子生み資本として運用され利子を生むのである。
   他方で、確かにBの預金も債務であるが、しかしそれは現実の価値を代表しており、何の価値も代表していない単なる信用だけで発行された銀行券とは違うのである。Bはその預金を自由にできるのであり、金で引き出すことも可能なのである。それが債務に留まり続け、ただ帳簿上の預金であり続けるなら、銀行はその預金の現実の価値を利子生み資本として貸し出すことは可能であり、しかも帳簿上の預金は振替決済に利用されて手数料を生む。しかし今はそんなことが問題なのではない。イングランド銀行が発行した銀行券がすぐに還流して帳簿上同行の資本の貸付に転化するということが問題なのである。著者はまったく何も問題が分かっていないとしか言いようがないのである。】

  (以下、続く。)

 

2022年2月 3日 (木)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-10)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-10)

 

【36】

  〈/332上/{トゥックの発見,すなわち,「ただ一つか二つの, しかも十分に説明のできる例外を除けば,過去半[514]世紀間に起こった,金の流出を伴う為替相場の異常な低落は,すべて,いつでも流通媒介物の比較的少ない状態〔low state〕といっしょに起こっており,また逆の場合には逆であった」(フラ一トン,121ページ〔前出阿野訳,148ページ〕)--ということは,次のことを証明している。すなわち,この流出が現われるのは,たいていは,「すでに始まっている崩壊の信号」として,「市場の在庫過剰や,われわれの生産物にたいする外国の需要の途絶や,還流の遅れや,またこれらのすべてのことの必然的な結果としての商業上の不信や,工場の閉鎖や,労働者の飢餓や,産業と事業との一般的な停滞やの徴侯」(フラ一トン,129ページ〔前出阿野訳,159-160ページ〕)として現われるのだ,ということである。〔これは〕もちろん同時に,「潤沢なCirculation〔a full circulation〕」は地金を追い出し,少ないCirculation〔a low circulation〕は地金を引き寄せる,という通貨説の奴ら〔d.currency Kerls〕にたいする最良の反駁〔である〕。しかし,われわれにとってとくに注目すべきであるのは,地金流入のことを考えるからである。彼らの主張とは反対に,潤沢な地金準備〔a full Bullion Reserve〕はたいてい繁栄期に実際に見られるものだとはいえ,この蓄蔵貨幣はつねに,嵐〔Sturm〕のあとにくる沈静停滞期に形成されるのである。}〉 (128-129頁)

  これは【33】パラグラフに直接続いている本文であるが、しかし全体が{  }に入っており、地金流出問題とは関連はあるが、一連の本文の続きとは若干違った問題としてマルクスは論じているように思える。しかもほぼフラートンからの引用文で構成されているが、やはり大谷氏が英文のままにしている〈Circulation〉を如何に翻訳するべきかを示すためにも平易な書き下し文を紹介しておこう。なお下線はマルクスによるものである。

  〈{トゥックの発見。すなわち、「ただ一つか二つの、しかも十分に説明のできる例外を除けば、過去半世紀間に起こった、金の流出を伴う為替相場の異常な低落は、すべて、いつでも流通媒介物の比較的低い状態と一緒に起こっており、また逆の場合は逆であった」(フラートン、121ページ)--ということは、次のことを証明しています。すなわち、この流出が現れるのは、たいていは、「すでに始まっている崩壊の信号」として、「市場の在庫過剰や、われわれの生産物にたいする外国の需要の途絶や、還流の遅れや、またこれらすべてのことの必然的な結果としての商業上の不信や、工場の閉鎖や、労働者の飢餓や、産業と事業との一般的な停滞やの徴候」(フラートン、129ページ)として現れるのだ、ということです。これはもちろん同時に、「潤沢な通貨」は地金を追い出し、低位の通貨は地金を引き寄せる、という通貨説の奴らにたいする最良の反駁です。しかし、われわれにとってとくに注目すべきであるのは、地金流入のことを考えるからです。彼らの主張とは反対に、潤沢な地金準備はたいてい繁栄期に実際にみられるものだとはいえ、この蓄蔵貨幣はつねに、嵐のあとにくる沈静停滞期に形成されるのです。}〉

 【最初のフラートンの引用は、通貨学派が兌換銀行券が過剰発行されうることを主張し、その過剰発行は物価を押し上げ、そのために価値が諸外国に比較して低下した地金の流出をもたらすとしたのに対して、フラートンが〈しかしながら私は、兌換券の流通高が物価を高騰させるほど過剰の状態を続けることが、そもそもありうるとなすような想像を峻拒するために、すでに述べた諸理由を持って十分であると確信する〉(河野訳148頁)と述べ、以下、その理由としてマルクスが引用している文章に続けているのである。
 つまりトゥックの発見によれば、金の流出をともなう為替相場の異常な低落は、いつも流通媒介物、つまり流通銀行券の比較的低い状態と一緒に起こっており、逆の場合は逆であったというのである。だから地金の流出は銀行券の過剰発行から生じるなどという通貨学派の主張はそもそも事実で持って反論されているのだ、というのである。
 これについては、マルクスも確かにこれは「最良の反駁」だと認めている。そしてまた、地金流出が恐慌の前触れであるとのフラートンの指摘も正しいものとして評価している。このフラートンの一文は次のようになっている。

 〈事実はただ、為替相場の引き上げと金の流入とを誘致する諸事情は同時にまた一般に国内産業の活況、生産消費の好調、しかしてまた貨幣の使用と需要との昂進に必須なあらゆる条件の存在を示すものである、というだけのことである。他方、商業的興奮と投機との時期に続いて為替相場の低落と金の流出とが起こったならば、これら現象の出現は、一般に、すでに始まった景気崩壊の信号である。すなわち、市場の在荷過剰、自国商品に対する外需の中絶、資金回収の遅滞、そしてこれら一切の必然的継続としての商業的不信、--工場は閉鎖され、職工は飢餓に脅かされ、産業と企業心とは一般的に萎縮沈滞する、等々、--を暗示するものである。〉 (河野訳159-60頁)

 同時に、マルクスは〈とくに注目すべきであるのは、地金流入のことを考えるからである〉と述べ、それはフラートンのいうように繁栄期に実際に見られるものだが、この蓄蔵貨幣はつねに恐慌後の沈滞停滞期に形成されるのだとも指摘している。

 ただ若干補足しておくと、マルクスはエンゲルス版の第35章に相当する草稿で、〈地金の流出入については次のことに注意しなければならない〉と断って、〈第1に〉から〈第9に〉まで箇条書きで関連するさまざまなことを述べている(大谷新本第4巻264頁以下参照)。そこでは次のようなことが指摘されている。
 すなわち、この第28章ではフラートンの地金流出は恐慌の前触れとの指摘についてマルクスは高く評価しているのだが、しかし第35章では〈第6に、たとえば1837年の恐慌は別として、現実の恐慌はいつでも、為替相場の逆転ののちに、すなわち地金の輸入がふたたび輸出よりも優勢になったときに、はじめて勃発した〉(同270頁)とも指摘している。例えば〈1847年4月の独立の貨幣パニックをもたらした〉のも〈地金の流出〉なのだが、しかしこの場合も地金流出は〈やはり恐慌の前触れに過ぎず、恐慌が勃発するときには逆転していた〉(同271-272頁)というのである。
 これは考えてみれば、ある意味では当然であろう。なぜなら地金の流出が続いている間は、まだ国際的な支払が行われているということであり、その限りではいまだ完全には行き詰まってはいないことを意味するが、しかし流出より流入が増えるということは、もはや支払手段の貸付が困難になったということ、国際的な支払手段が底をついたということであり、もはや後は破産しか残っていないという状況を示すわけだからである。そして事ここに至った段階では誰もがただの紙切れになりかねない債権類をもっとも安全な貴金属(あるいはイングランド銀行券)に換えて、その退蔵に走るのであり、だからパニックの直前には地金の輸入が輸出より優勢になるわけである(だからまたそれに続く沈滞期には蓄蔵貨幣が形成されるのである)。よって地金の流出は、あくまでも恐慌の前触れであって、恐慌が勃発するときには反対にそれが逆転して流入の方が優勢になっているのだということである。

 また恐慌後の地金流入については次のように述べている。少し長いが紹介しておこう。

 第7に一般的な恐慌が燃え尽きてしまえば、地金はふたたび(産出諸国からの追加の地金の流入は別として)、各国それぞれの蓄蔵hoard〕として均衡状態で存在していたときの割合で配分される。ほかの事情が変わらない限り、それぞれの国にある地金の相対的な量は、その国が世界市場で果たす役割によって規定されているであろう。地金は、通常よりも大きな分け前を持っていた国から流れ出て、他方の国に流れ込むのであって、このような流出入の運動は、ただ、いろいろな国ぐにの蓄蔵〔hoard〕のあいだへの地金のもとの配分を回復するだけである(この再配分はさまざまな作用〔agencies〕によって媒介されるのではあるが、このことについてはすでに為替相場の逆転のところで言及した)。通常の配分が回復されれば、--この点を超えて--増大が現れ、次にはふたたび流出が現れる。〉 (同前2728頁)
  地金の輸入の運動はおもに二つの時期に〔現れる〕。第1に、恐慌の後に生じて生産の縮小の表現である低利子率の局面においてであり、第2に、利子率は上がってくるがまだそれの中位の高さには達していない局面においてである。後者は、還流は円滑で商業信用は大きく、だからまた貨幣資本moneyed Capital)にたいする需要は生産の拡大に比例しては増大しないという局面である。貨幣資本(moneyed Capital)が比較的豊富なこの二つの局面では、さしあたりは貨幣資本(moneyed Capital)としてしか機能できない形態で存在する資本(金銀)の過剰供給は、利子率に、したがってまた事業全体の調子にも大きく影響せざるをえないのである。〉 (同上276頁)

 このパラグラフの前の本文(【33】パラグラフ)では、イングランド銀行における貨幣融通が増えても、銀行券の流通高が増えるどころかむしろ減っているのはどうしてか、を検討するために、まず〈「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から,したがってまた地金の流出から生じたものである場合〉を検討して、この場合は、貸し出された銀行券が、すぐに地金に換えられるために銀行に還流してくるから、その流通高が増えないのは当然であることが確認された。しかしそのことは銀行学派たちが主張しているようにそれが「資本の問題」だから、そうなるのではなく、地金が国際的支払手段として流出するからであり、その限りでは貨幣の問題なのだという批判が展開されていた。
  それに対して、今回のパラグラフでは、同じ地金流出と銀行券の流通高との関連の問題ではあるが、そうした地金の流出入を通貨学派たちは、銀行券が過剰に発行されたり、過少に発行されることから説明していることに対して、フラートンがトゥックが発見した事実をもって反論していることを取り上げている。すなわち地金流出の時期は、例外を除けば、いつでも流通媒介物の比較的少ない状態といっしょに起こっており、逆の場合はまた逆だったという事実である。さらに地金流出は恐慌の前触れであるというフラートンの主張も紹介している。マルクスはこれらの銀行学派の主張についてはおおむね肯定的に評価しているといえる。しかしこれらは、いま検討しているイングランド銀行の貸し出しの増大が、銀行券の流通高として現われないという問題とは、直接には関係しない問題である。だからマルクスは、このパラグラフ全体を{  }で括って枝論として位置づけているのではないだろうか。

  なおこれはついでに紹介しておくのだが、マルクスは後のさまざまな抜粋ノートのなかで、大谷氏が〈〔e 諸文献からの抜粋〕〉という表題を付して紹介しているもののなかに次のようなものがある。今回のパラグラフと若干関連しているのではないか。

  〈フラートンによれば,トゥクは,1839年を例外として流出はつねに低位の流通高と同時に生じたということを「発見」している。ところが,1847年もそうではなかった(イングランドの鉄道労働者〔への支払いのために〕,アイルランドでは賃金が政府によって支払われたうえに穀物価格が高かった〔ために,流通高が増大した〕)のであって,この年には流通高には流出(対外)と国内流出とがあったのである。同様に1857年もそうではなかった。〉 (大谷本第4巻341頁)

  因みにマルクスが挙げている1847年も1857年も恐慌時である。】


【37】

  〈さて,われわれは地金の流出を度外視しよう。--〔(〕地金の流出についてはいっさいの知恵が次のことに帰着する。すなわち,国際的な流通・支払手段にたいする需要は,国内の流通・支払手段にたいする需要とは違う,ということであり{それゆえにまた,当然,「流出の存在は必ずしもCirculationにたいする国内需要の減退を意味しない」(フラ一トン,112ページ〔前出阿野訳,138ページ〕)ということにもなるのである},また,貴金属の国外輸出(国際Circulationへの貴金属の投入)は,国内Circulationへの銀行券や鋳貨の投入と同じではない,ということである。{なお,私はすでに以前に,国際的な支払のための準備ファンドとして集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておいた。〔}〕もっとも,次のことによって紛糾の種がはいりこんでくる。すなわち,この準備ファンドが同時に銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つということによって,すなわち,私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能,つまり支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンドとしての,通貨〔currency〕の準備ファンドとしての,最後に世界貨幣の準備ファンドとしての,蓄蔵貨幣の機能が,ただ一つの準備ファンドに負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,さらにそのうえに,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに,1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によってである。ここから,フラートンの次のような嘆きも出てくるのである。--「そして,イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく[515]枯渇しそうに思われるときにきまって現われる熱病的な不安動揺の状態に比べて,大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのがふつうだということを思えば,この点で金属通貨〔currency〕がもっている大きな長所に思いあたらざるをえないのである。」(同前,142ページ〔前出阿野訳,174ページ〕。)}--では,地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,||333上|どのようにしてであろうか?

  ①〔注解〕「すでに以前に」--カール・マルクス『経済学批判。第l分冊』,ベルリン,1859年,130-132ページ (MEGA,II/2,S.211/212)。
  ②〔異文〕「つけ加えられるのではけっしてない,金属としての機能である。」という書きかけが消されている。〉 (128-129頁)

  このパラグラフは、地金の流出問題とは別の問題を論じる予定で〈さて,われわれは地金の流出を度外視しよう〉と書き出しながら、しかしその後、挿入の形で、地金流出問題が延々と続き、結局、このパラグラフの最後のあたり--〈では,地金の流出を度外視すれば……云々〉の前まで--それは続いている。先の【36】パラグラフは全体が括弧に入っている挿入文であり、当面の課題には直接関連しないもので、ただ補足的に述べたものであったが、今回も地金流出問題については先のパラグラフと同様、補足の域をでないものと言える。
 よってわれわれは、このパラグラフは、まず最初は地金流出問題への補足と考えられる部分を先に検討し、その後、それを度外視した場合に問題となる次の課題を提起している部分を検討する、という順序で、このパラグラフを二つに分けて見ていくことにしよう。

  (1) まず最初は地金流出問題の続きである。平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈地金の流出については、いっさいの知恵が次のことに帰着します。
 つまり、国際的な流通・支払手段にたいする需要は、国内の流通・支払手段にたいする需要とは違う、ということです{それゆえにまた、当然、「流出の存在は必ずしも通貨にたいする国内需要の減退を意味しない」(フラートン、112ページ)ということにもなるのです}、また、貴金属の国外輸出(国際流通への貴金属の投入)は、国内流通への銀行券や鋳貨の投入と同じではない、ということです。
 {なお、私はすでに以前に、国際的な支払のための準備金として集中されている蓄蔵貨幣の運動は、それ自体としては、流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておきました。}
  もっとも、次のことによって紛糾の種がはいり込んできます。すなわち、この準備金が同時に銀行券の兌換性と預金とに対する保証として役立つということによって、すなわち、私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能、つまり支払手段(国内におけるそれ、満期になった支払)のための準備金としての、通貨の準備金としての、最後に世界貨幣の準備金としての、蓄蔵貨幣の諸機能が、ただ一つの準備金に負わされる{それゆえにまた、事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなります}ということによってであり、さらにそのうえに、蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備金として果たさなければならない諸機能の本性からは決して出て来ない機能である、信用制度や信用貨幣が発達しているところでは兌換の保証準備として役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに、1)一つの主要銀行への一国の準備金の集中、2)できるかぎりの最低限へのこの準備金の縮小が生じることによってです。
 ここから、フラートンの次のような嘆きも出てくるのです。--「そして、イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく枯渇しそうに思われるときに決まって現れる熱病的な不安動揺の状態にくらべて、大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのが普通だということを思えば、この点で金属通貨が持っている大きな長所に思い当たらざるをえないのである。」(同前、142ページ)。}〉

 【ここではマルクスは〈地金の流出についてはいっさいの知恵が次のことに帰着する〉、と述べて、〈次のこと〉として三つあげている。(1)〈国際的な流通・支払手段にたいする需要は,国内の流通・支払手段にたいする需要とは違う,ということ〉、(2)〈貴金属の国外輸出(国際Circulationへの貴金属の投入)は,国内Circulationへの銀行券や鋳貨の投入と同じではない,ということ〉、(3)〈国際的な支払のための準備金として集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということ〉である。つまりマルクスは、地金の流出に関して通貨学派を批判する銀行学派の知恵というのは、結局は、国内流通と国際流通とは違うのだ、ということに帰着するのだと指摘している。
   しかしマルクスは〈次のことによって紛糾の種がはいりこんでくる〉と述べている。〈次のこと〉というのは〈この準備ファンドが同時に銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つということ〉である。ここで〈この準備ファンド〉と述べているのは、その前の〈国際的な支払のための準備ファンド〉のことであろう。つまり国際的な支払のための準備ファンドが同時に銀行の兌換保証や預金の支払保証としての役割ももっていることによって紛糾の種が入り込んでくるとマルクスは述べているのである。
  それからマルクスは話を一転させて、〈蓄蔵貨幣のさまざまな機能〉について以前述べたことを振り返っている。①〈支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備ファンド〉、②〈通貨〔currency〕の準備ファンド〉(鋳貨準備金のことであろう)、③〈最後に世界貨幣の準備ファンド〉。これらの蓄蔵貨幣の機能が、ただ一つのファンドに負わされることを指摘し、それに括弧を入れて〈それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる〉と指摘している。つまり国内の流通と国外への流出とは違うと言っても、一つのファンドが両方の流通のための蓄蔵貨幣になっているために、両者の関連が生じることも事情によってありうると述べている。
   そしてこの以前に述べた蓄蔵貨幣の諸機能に追加されて、先に述べた役割があるのというのである。すなわち〈蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備ファンドとして果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用システムや信用貨幣が発達しているところで兌換保証ファンドとして役立つという機能が付け加えられるということ〉である。つまり最初に述べた〈銀行券の兌換性と預金とにたいする保証として役立つ〉ということである。
  そしてマルクスは〈そしてこの二つのこととともに〉と述べているが、この〈二つのこと〉というのは、一つは蓄蔵貨幣の諸機能(先の①~③)であり、もう一つは兌換保証や預金の支払保証のことである。この二つにさらに次の二つの事情が加わってくるというのである。それが〈1) 一つの主要銀行への一国の準備ファンドの集中,2) できるかぎりの最低限度へのこの準備ファンドの縮小〔が生じること〕によって〉である。だからイングランド銀行の準備金には、こうしたさまざまな役割を背負わせることになり、だからその準備金の増減のちょっとした変化が敏感に事態を動かすのだというのがマルクスが言いたいことである。同じことを第35章該当個所でマルクスは次のように述べている。

  〈さらにわれわれは,銀行券の兌換性の保証,かつ,信用システム全体の軸点としての地金も度外視してきた。(中央銀行は信用システムの軸点であり,地金準備はこの銀行の軸点である。1)私がすでに以前に「支払手段」のところで述べたように,信用システム〔信用主義〕から貨幣システム〔重金主義〕への転回は必然的である。金属の土台を維持するために実物の富の最大の犠牲が必要だということは,ロイドによってと同様に,トゥクによっても承認されている。論争で問題になっているのは,ただ,プラスかマイナスか,また不可避的なものの取り扱いの合理性が多いか少ないかということだけである。2)総生産に比べれば問題にならないなにがしかの量の金属がシステムの軸点として認められている。そこから,恐慌時におけるこの「軸点性質」の恐ろしい例証を別としても,あのうるわしい理論上の二元論が生まれるのである。啓蒙経済学は,職掌上で〔ex professo〕資本を取り扱っているあいだは,金銀を,事実上最もどうでもよくて、最も無用な資本形態として,最大の軽蔑をもって見くだしている。この経済学が銀行制度を取り扱う段になると様相が一変して,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本Capital par excellence〕となる。だが,金銀はなにによって富の他の諸姿態から区別されるのか? その価値の大きさによってではない。というのも,これは金銀に物質化されている労働の分量によって規定されているのだからである。そうではなくて,富の社会的な性格の自立した化身,表現として区別される。この社会的な定在は,社会的な富の現実の諸要素と並んで,その外部に,彼岸Jenseits〕として,物として,物象として,商品として,現われるのである。生産が円滑に進んでいるあいだは,このことは忘れられている。いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。ところが,信用が揺らげば--そしてそういう局面は現代産業の循環のうちにつねに必然的に出現する--,今度は,いっさいの実物の富が現実に貨幣に,金銀に転化されなければならなくなる。だが,この気違いじみた要求はシステムそのものから必然的に生え出てくるのであり,しかも,この巨額の要求と比べられる金銀のすべては,〔イングランド〕銀行の地下室にある数百万〔ポンド・スターリング〕でしかない。3)つまり,地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情が,富の社会的な形態が富の外にある一つのとして存在するという事情が,きわめてどぎつく現われてくるのである。これはじっさい,ブルジョア的システムがそれ以前の諸システムと,これらのシステムが商品取引と私的交換とにもとづいているかぎりでは,共通にもっていることである。しかしそれは,ブルジョア的システムのなかで最も明確に,そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形態で現われる。なぜならば,1)ブルジョア的システムでは,直接的使用価値のための生産は最も完全に止揚されており,したがって富は,ただ,生産と流通との絡み合いとして表現される社会的な過程として存在するだけだからであり,2)信用システムが発展するにつれてブルジョア的システムは,富とそれの運動とのこの金属的制限を,物的かつ幻想的な制限を絶えず止揚しようと努めながら,また絶えず繰り返してこの制限に頭をぶつけるのだからである。〉 (大谷新本第4巻281-284頁)

 ここでフラートンの著書の112頁からの引用は同著(『通貨調節論』)の第7章の表題(要約)から取られているが、フラートンは本文の中で次のように述べている。

 〈輸出を目的としてイングランド銀行の金庫から引き出された金の額と貨幣の介在を必要とする国内の売買取引額との間には、必然的な因果関係は存在しない。かかる取引の数量と価値とは、正金が流出しても全く影響されずにそのままである。〉 (前掲、174頁)

 このようにフラートンは国内流通と国際流通との「必然的な因果関係は存在しない」としているのである。

 同じことをマルクスは〈すでに以前に……述べておいた〉と書いている。これについては注解①が指示する『経済学批判』の頁数は長くてとても全体を紹介するわけには行かないが、その主要な点を紹介しておこう。

 〈国際的商品流通では、金銀は流通手段としてではなく、一般的交換手段として現れる。しかし一般的交換手段は、購買手段と支払手段という二つの発展した形態でだけ機能するが、けれども両者の関係は世界市場では逆になる。国内流通の領域では、貨幣はそれが鋳貨であり、W-G-Wという過程的統一の媒介者として表したかぎりで、言い換えれば、諸商品の止むところない位置変換の中の交換価値のただ瞬過的な形態を表したかぎりで、もっぱら購買手段として作用した。世界市場では逆である。ここでは金銀は、素材変換がただ一方的で、したがって購買と販売とが互いに分離している場合に、購買手段として現れる。……いろいろな国民的流通領域の間の商品交換が発展すればするほど、国際収支決済のための支払手段としての世界貨幣の機能が発展する。
 国内流通と同じように、国際流通もまた金と銀のたえず変動する量を必要とする。だから蓄蔵された蓄蔵貨幣の一部分は、どの国民のもとでも世界貨幣の準備金として役立ち、この準備金は、商品交換の振動に応じて、ある時は空になり、ある時はまたいっぱいになる。〉 (草稿集第3巻376-7頁)

 ここではマルクスは発展した信用制度のもとでは一国の準備金が中央銀行に集中されるために、あらゆる準備金の諸機能(鋳貨準備金、支払手段の準備金、世界貨幣の準備金)を一つの集中された準備金が担うことになること、さらにそれはそうした準備金とは機能的には全く異なる信用制度の中軸としての役割(兌換の保証準備としての役割)をも持たされることになり、おまけにそれが中央銀行一行に集中され、さらにそれが常に最低限にまで縮小される傾向があるために(というのはこうした準備金そのものは利子を生まないために、資本はその負担を最低限にしようとするのである)、それが枯渇しそうになると、極めて大きな不安や動揺が生じることを明らかにしている。

   ついでに紹介すると、マルクスは1851年2月3日付けエンゲルスへの手紙のなかで、通貨学派の批判の一環として、〈ここで僕が論じたいのは、問題の根本に関することだ。つまり、僕は次のように言いたいのだ。純粋な金属流通の場合にもその数量やその膨張収縮は、貴金属の流出入や貿易収支の順逆や為替相場の順逆とはなんの関係もない。といっても、実際にはけっして現われないが理論的には規定できる極端な場合は別としてのことであるが。〉(全集第27巻154頁)と述べ、地金流出が国内通貨に影響しないこと、ただ地金流出がイングランド銀行の手形割引などの利子率を変動させ、それが国内景気の動向に影響して、その結果として、通貨の流通が変動することをいくつかのケースに分けて分析している。(同154-158頁参照)

 また〈ここから,フラートンの次のような嘆きも出てくる〉とフラートンの著書からの引用が出てくるが、フラートンが言っているのは、大陸諸国(フラートンは特にフランスでは膨大な金が蓄蔵されていることを指摘している)ではまだこうした信用制度の発展が見られず、金属貨幣が通用しているために、為替相場の変動で右往左往することがないことをうらやんでいるのである。
   こうしたことには何の問題もないのだが、大谷氏はこのフラートンからの引用文を〈そして,イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく[515]枯渇しそうに思われるときにきまって現われる熱病的な不安動揺の状態に比べて,大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのがふつうだということを思えば,……〉(下線は引用者)と訳している。しかしこれはフラートンの著書からの引用だから、〈蓄蔵貨幣〉という用語が使われていることには違和感を覚えざるを得ない。この部分はMEGAを見ると、引用文全体は英文で書かれており、〈イングランド銀行の蓄蔵貨幣〉に該当する部分は〈the treasure in the Bank〉となっている。treasureを蓄蔵貨幣と訳すのはいかがなものであろうか。因みに河野訳では〈イングランド銀行の金銀準備〉となっている。小林氏も「貴金属」という訳語を当てている(279、499頁)。大谷氏の訳だとフラートンに蓄蔵貨幣の概念があったかに読めることになる。】

 (2) さて次は、本来このパラグラフでマルクスが問題にしようと考えていたであろう〈地金の流出を度外視〉した問題について検討しよう。これもとりあえず、マルクスの一文を平易に書き写しておく。

 〈さて、わたしたちは地金の流出を度外視しましょう。そうすると、どうしたら、例えばイングランド銀行は、自行の銀行券の発行額の増加なしに、自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)を増やすことができるのでしょうか、ということが問題になります。
 というのは最初にも述べましたように、銀行学派に大きな影響を与えているのは、イングランド銀行の有価証券の保有高が増えているのに(つまり同行の銀行券による貨幣融通が増えているのに)、銀行券の流通高が増えないばかりかむしろ減っているという現象だからです。銀行学派は、こうした現象こそ通貨学派の主張の誤りを事実で持って証明するものだと考えているのです。彼らはそうした事態が生じる理由を、イングランド銀行の貨幣融通が「資本の貸付」だからだと説明し、すでに銀行券の流通がその用途に適合しているなら、それ以上に発券された銀行券は、すぐに銀行に還流して、「資本の貸付」に転化するので、通貨の増加にはならないのだ、だから通貨としての銀行券の流通量を銀行はコントロールできないのだという自説の正しさを証明するものと考えているのです。しかし果たしてそれは本当に正しいのかどうか、それが問題です。〉

 【かなりマルクスの本文に書き加えたが、それはこれからマルクスが何を問題にしようとしているのかを出来るだけ正確に理解してもらいたいからである。つまりこの一文は、次のパラグラフ(【38】以下で、論じるための問題提起なのである。というより、むしろこの【37】パラグラフの最後の一文は次の【38】パラグラフと一体として考えた方がよいのかもしれない。しかしそれは次のパラグラフで問題にしよう。

  ところでこのパラグラフの最後のこの部分について大谷氏は次のように解説している。

  〈マルクスは次に,「地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,どのようにしてであろうか」,という問題に移る。つまり,流通必要貨幣量が増えないために,新たに追加された発行銀行券は,そのまますぐに銀行に戻ってきてしまうか,それが流通界にとどまる場合でも同額の銀行券が銀行に還流してくるようなとき,銀行はどのようにして,手形割引の需要に応じることができるのか,という問題である。〉 (48頁)

   このように大谷氏は解説しているのであるが、しかしなぜマルクスはこうした問題を考察しているのかが明確に説明されていない。それはフラートンらが地方銀行業者たちが自行の発行する銀行券で貸付ができない場合、手持ちの有価証券を現金に替えて、貸し付け需要に応じることについて、これはすでに流通貨幣量が一杯なので、銀行券で貸し付けても、資本の貸し付けになって、流通銀行券には何の影響も与えないからだと主張し、それはイングランド銀行においても同じだと述べていたからである。
   これに対して、マルクスは地方銀行券で貸付ができないのは逼迫期で信用が収縮しているからであり、だから彼らは手持ちの有価証券を現金(金あるいはイングランド銀行券)に換える必要があるからだ、と批判したのである。この場合、彼らの貸し付けは、単なる信用だけにもとづく銀行券の貸付とは異なり、手持ちの有価証券による貸し付けになるわけだから、彼らにとっては自分の資本の貸付になり、それを彼らは「資本」の貸し付けと言っているだけである。フラートンらが「資本」と言っているのはこうした意味であるとマルクスは述べていたのである。
   そして、ではイングランド銀行の場合はどうかということで、最初は地金の海外輸送のための貨幣融通の場合を論じ、そしてその次として、支払手段に対する貨幣融通の場合を論じようとしているのである。
   だからここで大谷氏が〈流通必要貨幣量が増えないために,新たに追加された発行銀行券は,そのまますぐに銀行に戻ってきてしまうか,それが流通界にとどまる場合でも同額の銀行券が銀行に還流してくるようなとき,銀行はどのようにして,手形割引の需要に応じることができるのか,という問題〉と述べているのは勘違いも甚だしいのである。なぜなら、ここで大谷氏が言っていることは銀行学派の主張であって、マルクスはそれ自体を正しいとは言っていないのである。確かに流通必要量以上であれば、銀行券はすぐに還流してくるが、だからといってそれで〈手形割引の需要に応じ〉えないということはない。地方銀行が自行の発券銀行券で手形割引の需要に応じられないというのは、何も流通必要量が満たされているからではない。それは銀行学派が言い張っていることであるが、本当は逼迫期には信用が収縮して地方銀行券では現金の支払を必要とする現実資本(産業資本や商業資本)の貸し付け需要には応じられないのである。だから大谷氏の解説はまったくピント外れなのである。
   だからマルクスが〈では,地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,どのようにしてであろうか〉と問題を提起しているのは、フラートンらがイングランド銀行の保有有価証券が増える(融資が増える)場合でも、同行の流通銀行券は同じか、あるいは減る場合もあるが、これは地方銀行の場合と同じことがイングランド銀行でも起こっているからだ、つまり銀行学派の主張の正しさをそれは証明しているのだということに対して、確かにフラートンらが指摘するような事実はあるが、果たしてそれはフラートンら銀行学派の主張の正しさを証明するものなのかどうか、イングランド銀行におけるそうした事態の原因を説明すれば、それは明確になるとしてそうした問題を提起しているのである。つまりマルクスはこれから、貨幣融通が増えているのに、流通銀行券が増えない場合について、その理由を説明しようとしているのである。】


【38】

 同行の店舗の外にある銀行券は,流通していようと私人の金庫のなかで眠っていようと,同行自身に関していえば,すべてCirculationのなかにある,すなわち同行自身の保有にはない。だから,Circulationを増やさないためには,有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流し〔refluiren〕なければならない。これは二つの仕方で起こりうる。〉 (131-132頁)

  このパラグラフはすでに指摘したように、【39】パラグラフからイングランド銀行が貸し出した銀行券がどのようにして同行に還流するのかを考察するための、いわば前置きである。まずは平易な書き下し文を紹介しておこう。

  〈さて、私たちはイングランド銀行が、自行の発券額を増やさずに、どうして銀行券による貸出を増やすことができるのかを問題にするのですが、その前にまず確認しておかなければならないことは、同行の店舗の外にある銀行券は、流通していようが私人の金庫のなかで眠っていようと、同行自身に関して言えば、すべて流通のなかにある、すなわち同行自身の保有にはないということです。だから私たちが「銀行券の流通高」という場合、それは実際に流通しているものだけではなくて、同行自身の保有にはないものすべてを指しているのです。だから貸付を増やしても流通高を増やさないためには、有価証券にたいして発行された銀行券はすぐに同行に還流しなければなりません。それは二つの仕方で起こり得ます。〉

  【少し補足して書いてみたが、これは要するに、【37】パラグラフの最後の部分と【38】パラグラフを一体にして論じただけである。二つを一つに纏めると次のようになる。

  〈では,地金の流出を度外視すれば,たとえばイングランド銀行が,自行の〔銀行券〕発行額〔を増加すること〕なしに自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことがありうるのは,どのようにしてであろうか?
   同行の店舗の外にある銀行券は,流通していようと私人の金庫のなかで眠っていようと,同行自身に関していえば,すべてCirculationのなかにある,すなわち同行自身の保有にはない。だから,Circulationを増やさないためには,有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流し〔refluiren〕なければならない。これは二つの仕方で起こりうる。〉

  このように二つのパラグラフをくっつけてみると、マルクスの文章そのものには難しいものは何もない。マルクスがこれから何を問題にしようとしているのかを見間違うことはないであろう。ところがこの点で、大きな混乱に陥っていたのが私が以前所属していた組織内の"大"論争であったのである。だから私は先の解読ではこのあと、これまでの考察を振り返って問題を整理整頓しておいたのであるが、今読み返してみても、それはそれなりに意義があると思えるので再録しておくことにしたい。(しかしこれは次回に回す。)

  ところで大谷氏はこのパラグラフを解説して次のように述べている。

 〈イングランド銀行が銀行券で手形を割り引いた場合,この銀行券が流通のなかにとどまることができないのであれば,銀行に還流してくることになるが,この還流には二つの場合がある,というのである。〉 (49頁)

   このように大谷氏は〈この銀行券が流通のなかにとどまることができないのであれば,銀行に還流してくることになるが〉と述べているが、銀行券が流通にとどまることかできない、などという条件は銀行学派の言っていることであることが分かっていない。マルクスは確かに〈Circulationを増やさないためには,有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流し〔refluiren〕なければならない〉と述べているが、それは銀行学派が貨幣融通が増える(保有有価証券が増える)のに、流通銀行券が増えない(そればかりか減る)という事実を挙げているからである。だから銀行券で手形割引に応じても、その銀行券はすぐに還流しなければならないが、それは二つの仕方で起こりうると述べているだけである。

 ところでここでマルクスは〈同行の店舗の外にある銀行券は,流通していようと私人の金庫のなかで眠っていようと,同行自身に関していえば,すべてCirculationのなかにある〉と述べているが、実は1857年のイギリス下院「銀行法特別委員会」においてニューマーチは次のように証言している。

 〈「私が流通銀行券(circulation)[と言う言葉]によって理解している唯一のことは,それら[銀行券]がそこに起因している組織(establishment)[銀行]の壁の外で流通している(circulate),イングランド銀行の銀行券または個人銀行ないし株式銀行の銀行券8)」(第2000号A)であって,発券部から銀行部に「発行」しただけでは,未だ厳密な意味での「発行」とは認められ得ない9)からなのである。したがって彼は,「発券部から銀行部に発行された(issued)銀行券の量」(第1685号Q)は「明らかにイングランド銀行の側での負債ではありません」と言い,「事実に関しても法律に関しても,…[イングランド銀行という]設立物の壁を越えて出て行ってしまい,公衆の手にある銀行券に対してだけが,イングランド銀行の側での負債」(第1685号A)であることを強調する。〉 (小林前掲書274頁)

  ここらあたりのニューマーチの流通銀行券の理解はかなり正確である。ニューマーチはトゥックの『物価史』の協力者であり、アジア貿易の実態に精通した実務家であるが、他の銀行学派たちとは違い、イングランド銀行の他の一般の諸銀行とは異なる特殊性を指摘し、1844年銀行法がイングランド銀行の銀行部を他の銀行と同じ土台に置いたことを批判している。彼はイングランド銀行の貴金属準備は〈国の全取引がそれに従って旋回させられている」「一種の旋回軸(pivot)」であり,「貴金属の中央準備」である〉(同265頁)と述べている。この限りではニューマーチはまだまだ不十分だとはいえイングランド銀行の中央銀行としての性格をかなり理解しつつあったといえるのかもしれない。】

  (以下、続く。)

 

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