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2022年1月

2022年1月26日 (水)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-9)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-9)

 

【32】

 〈/331上/イングランド銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行なうので,これらの銀行券がどうなるのか,ということが問題となる。私営銀行業者の場合には事情が異なる。なぜなら,彼らはそのような場合に,327)イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである。

  327)「イングランド銀行券」--草稿では.B.o.N.となっている。Bank of England Notesの略であろう。MEGA版では「Bank of Notes」としているが,これでは意味が通じない。〉 (123頁)

   これは331頁の上段途中から書かれており、本文である。つまりこのパラグラフは【29】パラグラフの本文に直接続いているものである(大谷氏のテキストではそのあいだに長い注b)があったので、本文の続き具合が分かりにくい)。マルクスはここから【29】パラグラフで指摘した銀行学派に〈決定的な役割を果たしている〉事実、すなわちイングランド銀行においては有価証券の保有高と銀行券の流通高が反対の方向に動くという現象--フラートンがその引用文(原注の【31】パラグラフ)で最初に問題にしている現象--の本格的な検討に入っていく。すなわちそうした現象をもたらしている理由は何なのかを明らかにしようとするのである。このパラグラフではまずその問題提起をしている。とりあえず、平易な書き下し文を紹介しておこう。

 〈イングランド銀行の場合は、すべての〔担保〕貸付と[手形]割引とを自行の銀行券、すなわちイングランド銀行券で行うので、これらの発行された銀行券がどうなるのか、ということが問題となります。なぜなら、このように貸し付けられて銀行券が発行されるのに、その流通高がむしろ減っているという現象を銀行学派が問題にしているからです。なぜそうした現象が起きるのか、それは銀行学派が主張するような理由からそうなっているのか、を解明するためには、貸付や割引で発行された銀行券が実際はどうなるのかを私たちは追求しなければならないからです。
 私営の発券銀行業者の場合には事情が違います。逼迫期にはそもそも彼らは自行の銀行券ではもはや貸付も割引もできないのであって、だからイングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとするのだからです。だから私営銀行業者の場合には、彼らの銀行券がどうなるのか、といったことは問題にはなりません。
 だから私たちがこれから問題にしなければならないのは、イングランド銀行の場合にはその発行する銀行券がどうなるのかということです。〉

 【マルクスは最初に〈イングランド銀行はすべての貸付と割引とを〉云々と述べている。つまりマルクスは「担保貸付」も「手形割引」も両方を問題にして、それらをイングランド銀行は自行の銀行券で行なうとしているのである。以前の組織内の論争では手形割引か担保貸付かでいろいろと論争が行われたが(ある人は手形割引ではなく手形貸付ならうまく説明できる等々と主張したりもした)、全く無内容な意味のない議論であったと言える。
 またマルクスは〈私営銀行業者の場合には事情が異なる〉と述べて、以下分析する対象がイングランド銀行における問題であることをここで断っている。これらのこともわれわれはしっかり確認しておかなければならない。

  大谷氏もこのパラグラフを説明して次のように述べている。

 〈続いてマルクスは,「イングランド銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行なうので,これらの銀行券がどうなるのか,ということが問題となる」と言う。マルクスがここで問題にするのは,イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき,このような取引が銀行券発行高にどのような影響をもたらすのだろうか,そのような影響にたいして銀行はどのように対応し,その結果はどうなるのだろうか,ということである。〉 (45頁)

   これは原注b)と関連しているので、それを抜きに論じるのは片手落ちであるが、それが大谷氏には分かっていないようである。だから大谷氏は、氏が引用した一文に続いて、マルクスが書いている〈私営銀行業者の場合には事情が異なる。なぜなら,彼らはそのような場合に,イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである〉という一文をカットしているのである。原注b)では主に地方銀行の場合について論じていたのであるが、銀行学派はそうした地方銀行に起きることが、イングランド銀行についても当てはまると主張していたのに対して、ではイングランド銀行の場合はどうかとマルクスはこれから論じようとしているのである。だから原注b)との関連を論じないとマルクスのいわんとすることが十分に分からないのである。
   大谷氏は〈マルクスがここで問題にするのは,イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき,このような取引が銀行券発行高にどのような影響をもたらすのだろうか,そのような影響にたいして銀行はどのように対応し,その結果はどうなるのだろうか,ということである〉というのであるが、問題を正しく指摘しているとは言い難い。そうではなく、マルクスはフラートンたちに影響を与えている現象、すなわちイングランド銀行の貸し出しが増えても(これはその保有する有価証券の増大で示される)、銀行券の流通高が増えないかむしろ減少しているのはどうしてか、ということをこれから解明するために、まずイングランド銀行の貸し出しはすべて銀行券で行うわけだから、そうした貸し出しで銀行から出て行った銀行券がどうなるのか、どうして貸し出しが増えても、銀行券の流通高が増えないのかを問題にしようとしているわけである。これがまずマルクスが当面の課題としていることである。
   こうした現象、すなわちイングランド銀行の貸し出しが増えても、銀行券の流通高は増大せず、むしろ減少することさえあるということについて、フラートンらは、それは地方の銀行業者たちが強硬に主張していることと、イングランド銀行も例外ではないことを示しているのだ、と主張しているわけである。つまり銀行券の流通高がすでにその目的に適合していたなら、それ以上の貸付はすべて「資本の貸付」に転化して、銀行券の流通高の増大にはならないという主張である。
  それについて、マルクスは原注b)では、地方銀行業者で生じている問題を取り上げたのに対して、今度は、イングランド銀行では、果たしてそれはどういう事態を示しているのかを、これから具体的に見て行こうとしているのである。
   つまりイングランド銀行が、自行の銀行券で貸し付けても、その流通高が増えないのは、貸し付けた銀行券が、すぐに銀行に還流してくるからであるが、それは果たして地方の銀行業者や銀行学派たちが主張しているような理由からなのかをマルクスはこれから具体的に見て行こうとしているのである。
   だから〈イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき〉などと大谷氏が言っているのは、まったくのピント外れである。もともとフラートンらのそうした主張は、地方銀行業者たちに生じていることとして主張しているのであって、イングランド銀行に生じていることとして論じているのではないのである。もちろん、後に銀行券の発行制限がある場合についても、マルクスは論じているが、しかし少なくとも当面問題にするのはそういうことではないのである。だから大谷氏のこの説明はまったくのとんちんかんなものと言わざるを得ないのである。】


【33】

  まず第lに,「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から,したがってまた地金の流出から生じたものである場合には,事柄は非常に簡単である。手形が銀行券で割引される。この銀行券が地金と交換され,その地金が輸出される。それはちょうど,同行が手形割引で直接に,銀行券の媒介なしに,地金を支払ったのと同じことである。このような増大する需要--場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は,もちろん,国内Circulationには1枚の5ポンド券をも追加しない。イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない,ということには,二重の意味がある。第1には,同行は,信用ではなく現実の価値を,自分自身の,または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ,ということである。他方では,同行は,国内circulationのための貨幣ではなく国際Circulationのための貨幣を,世界貨幣を,前貸しするのだ,ということである。そしてこの形態では,貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態で,その金属製の肉体で存在しなければならない。この形態では貨幣は,ただ価値の[513]形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである。ところで,この金は,銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと資本,すなわち銀行業者資本または商人資本を表わしているとはいえ,需要は資本としての金にたいしてではなく貨幣資本の絶対的形態としての金にたいして生じる。この需要は,まさに,外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ,生じるのである。だから,求められるものは,資本としての資本ではなく,貨幣としての資本である。すなわち,貨幣が一般的な世界市場商品として取る形態にある資本である。そしてこれは,貴金属という,貨幣の本源的な形態である。だから,流出は,フラ一トン,トゥック等々が言うのとは違って,「たんなる資本問題」ではない。そうではなくて,それは貨幣の問題である。1つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ,とにかく貨幣の問題である。通貨説の奴ら〔d.currency Kerls〕が考えているようにそれが「国内circulation」の問題ではないということは,けっして,フラ一トン等々が考えるようにそれがたんなる「資本の問題」だということを証明するものではない。それは,貨幣が国際的支払手段として取る形態における貨幣の問題である。「資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは,取引の本性には少しも触れない点である」c)が,しかしそれは,流出が生じるか生じないかという事情には非常に大きく影響する。資本が「正金の形態で移転される」のは,「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか,またはきわめて大きな損失なしにはできなないからである。現代の銀行システムが「地金の流出」にたいして感じる不安は,362)かつて重金主義が,唯一の真の富としての地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕する。たとえば,イングランド銀行総裁モリスが次のように質される。--||332上|第3846号「〔ベンティンク〕私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが,この場合,あなたは,あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ,原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られたということ,また,砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--〔モリス〕食糧の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは,避けられないことでした。〔」〕第3848号。「〔ベンティンク〕あなたは,このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも,イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリンクに手をつけるほうがましだった,とはお考えになりませんか?--いいえ,私はそうは考えません。〔」〕a)金こそは,ここで唯一の本質的な富とみなされているものである。/

  ①〔異文〕「貨幣」← 「銀行券」
  ②〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』,ロンドン,1845年。130ページには次のように書かれている。--「実際,これは通貨の問題ではなくて,資本の問題である。」〔前出阿野訳,161ページ。〕
  ②〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。
  ③〔異文〕「。ついでに次のことを--」という書きかけが消されている。
  ④〔注解〕重金主義者たちは,封建的な現物原理と小商品生産者の消費志向に対立して,金銀--すなわち貨幣--を,富の唯一の形態だと,だからまた,あらゆる経済的活動とあらゆる社会的努力の最も重要な目標でもあるのだと,判定した。売るために生産することが,貨幣を流通から引き揚げるために売ることが,重金主義の基本志向であった。だから重金主義者は外国への金流出にも反対した。彼らによって基礎づけられた経済政策的諸活動の一つは金銀輸出の厳格な禁止だったのである。--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』を見よ (MEGA II/3.2,S.619-620)。
  ⑤〔注解〕「ロンドン・ノート1850-1853年」のⅦから取られている。(MEGA IV/8,S.263,23-33)--〔MEGA II/4.2の〕481ページ23-32行〔本書第2巻208ページ6-14行〕を見よ。『商業的窮境……にかんする秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。

  362) 「かつて重金主義が,唯一の真の富としての地金について夢想していた〔träumen〕いっさいのこと」→「かつて,貴金属を唯一の富と考える重金主義が手に入れたいと夢想していた〔erträumen〕 いっさいのこと」
  草稿では,alles was d. Monetarsystem je geträumt hat v.bullion als d.einzig wahren Reichthum istとなっている。このなかのalsは後から書き加えられている。このalsを生かして読むなら,最後のistは消し忘れられたものと考えるべきであろう。なお,MEGAの異文注には,この「としての」があとから書き加えられたものであることは記載されていない。〉 (123-127頁)

 これは先のパラグラフに直接続く本文である。ここから貸付や割引で発行されたイングランド銀行券はどうなるのかを具体的に分析していくのであるが、マルクスはまず最初にその「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から生じる場合について取り上げている。なおこの金の流出に伴う場合の分析は、【37】パラグラフの終わり近くまで続いている。最初に平易な書き下し文を紹介しておこう。

  〈さて私たちは貸付や割引で発行されたイングランド銀行券がどうなるのかを具体的に見ていくのですが、そうした貸付や割引の要求、つまり「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から、だから地金の流出から生じたものである場合について最初に検討してみましょう。この場合は事柄は非常に簡単です。
 この場合は、まず手形が銀行券で割引される、つまり業者が持ち込んだ手形に対して、イングランド銀行は満期までの利子分を差し引いた額の銀行券を譲渡します。業者はその銀行券をイングランド銀行に持ち込んで地金に交換し、その地金を輸出します。確かにこの場合は発行された銀行券はすぐに銀行に帰ってきます。それはちょうど、イングランド銀行が手形割引を銀行券の媒介なしに、直接地金で行なったのと同じことです。もし直接地金で支払ったなら、その場合は当然、銀行券は一枚も発行されないわけですから。だからこの場合はいくら貸付や割引が増えても(すわなちイングランド銀行の有価証券の保有高が増加しても)、銀行券の流通高はまったく増えないのは当然でしょう。
 だからこのような国際収支の逆調から生じる増大する需要--それは場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は、もちろん、国内の銀行券の流通高には1枚の5ポンド券も追加しないのです。
 このような事態を銀行学派は、イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段を前貸しするのではないのだ、と説明します。つまり資本を前貸しするから、銀行券の流通高には何の影響も及ぼさないのだと説明するのです。
 しかしこの場合、資本の前貸しであって流通手段の前貸しでないという銀行学派の言い分を検討すると、そこには二重の意味があることになります。
 一つは、すでに原注でも検討しましたように、彼らが「資本」という言葉で何を考えていたかを考えてみれば、イングランド銀行は、信用ではなく現実の価値を、自分自身の、または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ、という意味です。そしてこの場合は金地金を貸し出すことになるのですから、確かに彼らの理屈からいえば「資本」の前貸になります。
 もう一つは、この場合は、イングランド銀行は、国内流通のための通貨ではなく国際流通のための通貨を、つまり世界貨幣を、前貸しするのだ、という意味です。そしてこの形態では貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態としてあり、地金というその金属製の肉体で存在しなければなりません。そしてこの地金形態では、貨幣は、ただ価値の形態、つまり価値が目に見える形として現れているというだけでなく、この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのです。つまりそれ自身が価値そのものであり、その国民的制服の如何を問わず如何なる国の貨幣形態ともなりうるものでなければなりません。
 ところで銀行学派は、この金の前貸しは資本の前貸しだといいます。確かにこの金は、銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと、彼らの資本、すなわち銀行業者資本または商人資本を表しています。なぜなら銀行業者にとっては金の前貸しは彼自身の資本の前貸しであるし、輸出商人や地金取引業者にとっては、彼ら商人資本の循環の一形態だからです。しかしこの国際収支の逆調で生じる需要、つまり前貸しの要求は単に資本としての金に対してではなく、貨幣資本の絶対的形態としての金に対して生じるのです。なぜなら、この需要は、まさに、外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ生じるものだからです。つまり輸出された商品が実際には売れなくて、その代金が回収できないのに、その商品を生産するために輸入した原材料の代金の支払が迫っているために、その支払に必要な貨幣の融通を受けようという需要だからです。だから求められているものは、これから事業を展開しようというような資本としての資本ではなく、すでに展開した後の決済に必要な貨幣としての資本なのです。すなわち、この場合、貨幣は一般的な世界市場商品として取引されるような形態にある資本なのです。だからそれは、貴金属という貨幣の本源的な形態でなければならないのです。
 だから、この金の流出は、フラートンやトゥック等が通貨学派を批判していうのとは違って、「たんなる資本問題」ではないのです。そうではなくて、それは通貨学派のいうような意味でではありませんが、やはり貨幣の問題なのです。一つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ、とにかく貨幣の問題なのです。だから銀行学派の、それが「資本の前貸」だから通貨の増発にならないという通貨学派に対する批判は、理論的にはやはりこの場合でも、つまり地金流出の場合でも間違いなのです。
 通貨説の奴ら(通貨学派)が考えているようにそれが「国内」問題(つまり国内の通貨の増発につながる云々)ではないということは、決して、フラートン等々が考えているようにそれがたんなる「資本の問題」だ(「資本の前貸」だからだ)ということを証明するものではありません。それは貨幣が国際的な支払手段という形態だという意味では貨幣の問題なのです。
 もちろんフラートンらがいうように、海外から穀物を輸入する場合なら、その代金として支払う「資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは、取引の本性には少しも触れない点である」と言えますが、しかし正貨か商品かは地金の流出が生じるか生じないかという事情には大きく影響します。なぜなら、資本が「正金の形態で移転される」のは、「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか、またはきわめて大きな損失なしにはできないからだからです。つまり地金での支払を必要とする時は、先にも言いましたように、外国市場がイギリスの輸出商品で溢れ返り、商品が売れず代金が回収できないのに、原材料の料金の支払に迫られている時だからです。だからそれ以上の商品の輸出は、ただ損を覚悟の投げ売りでしかないでしょう。
 現代の銀行制度では準備金はイングランド銀行に集中され、それが現代の信用制度の軸点をなしています(なおこの部分の詳しい説明は、すぐあとの【37】でされます)。だからその「地金の流出」にたいして感じる不安は、かつて重金主義が、唯一の真の富としての地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕するのです。
 例えば、イングランド銀行総裁モリスが次のように質されています。
 第3846号。「〔ペンディング〕私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが、この場合、あなたは、あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ、また、原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られていたということ、また、砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--〔モリス〕食料の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは、避けられないことでした。」
 第3848号。「〔ペンディング〕あなたは、このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも、イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリングに手をつけるほうがましだった、とはお考えになりませんか?--〔モリス〕いいえ、私はそうは考えません。」(a)
 金こそは、ここでは唯一の本質的な富とみなされているものなのです。〉

  【このパラグラフは長いので、もう一度、要点をまとめておこう。
 まずマルクスの問題意識は、フラートンらが問題にしているイングランド銀行の有価証券の保有高と同行の銀行券の流通高とが反対の方向に動くという現象の背後には何があるのか、ということである。それは果たしてフラートンらがいうように、同行の貸出が「資本の貸出」に転化するからなのかどうか、もしその主張が誤っているとするなら、どういう点で誤りなのか、を検討するのが、以後、一連の本文におけるマルクスの分析の課題なのである。
  マルクスはそれを(1)イングランド銀行の貸出が地金の輸出のためになされる場合と(2)それ以外の手形割引や担保貸付によって貸し出される場合という二つのケースに分けて検討し、なぜ貸し出された銀行券がすぐに銀行に還流してきて、流通高に影響しないのかを解明しようとするのである。その(1)がまずこのパラグラフから検討されている。
 だからこのパラグラフでは、同行の貸出が地金の輸出のためのものである場合だけを取り上げている。この場合は、結局、貸し出された銀行券は貸付を受けた業者によってすぐに地金に交換するために銀行に持ち込まれるので、それがどれだけ増えようが、銀行券の流通高にはまったく影響しないのは明らかだと指摘している。
 しかしそのことはフラートンらの言っている理由が正しいことを少しも意味しない。というのは、地金を輸出するというのは、まさに輸出入業者や資本家が輸出した商品の代金の回収ができないのに、輸入代金の支払に迫られていることを示しており、彼らが必要としているのは単なる資本ではなく、国際的な支払手段である世界貨幣としての金であること、その意味ではそれはフラートンらがいうように単なる「資本の問題」ではなく、その限りでは貨幣の問題なのだというのがマルクスのここでの批判点である。だからこの点でもフラートンらの主張は正しくないことが示されたのである。
 さらにマルクスは地金流出が現代の信用制度にとってどれだけ重大な意味をもっているかも指摘している。しかしこの問題については、次の【37】パラグラフでさらに詳しい指摘があるので、そこで検討することにしよう。またこれに関連して重金主義についても述べているが、それは注解④を見れば明らかなので、これ以上の説明は不要であろう。ただ注解の最後に1861-1863年草稿の参照箇所が示されているので、その部分を参考のために紹介しておこう。草稿の当該箇所には次のようなマルクスの説明がある(下線はマルクスの強調箇所)。

 〈重金主義が金銀に熱中するのは、金銀が貨幣であり、交換価値の独立の定在、手でつかみうる存在であり、また、それが流通手段となって商品の交換価値の単なる消滅的形態となることを許されないかぎり、交換価値の不滅な永続的存在だからである。それゆえ、金銀の蓄積、堆積、貨幣蓄蔵が、重金主義者の致富方法なのである。〉 (『資本論草稿集』⑤465-6頁)

   ここでマルクスは〈イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない,ということには,二重の意味がある〉と述べているが、この〈イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない〉というのは、フラートンらが主張していることであり、そうした主張には二重の意味があるとマルクスが述べているのである。大谷氏は訳注7)で次のようにフラートンの著書からの引用を紹介している。

  〈「これ〔パニック期における地金の流出〕は,実際には,通貨の問題ではなく資本の問題である。ある特別の国で現物の貴金属の大きな供給を求める特別な需要が生じたために地金の自然の流れがわきにそらされる,という特殊な場合をいま別とすれば,現在の貨幣事情のもとで,為替相場に影響したり,一国から他の一国への地金の流れを支配したりすることがありうるさまざまの原因の一切は,結局のところただ一つの項目,すなわち,対外支払差額の状態に,そしてこれを決算するために,ある一国から他の一国へと絶えず繰り返し資本を移転しなければならないという必要に帰着するのである。」(フラートン『通貨調節論』,130-131ページ;阿野訳,161ページ。下線はフラートンによる強調。)〉 (46頁)

   しかし大谷氏はフラートンらの主張をマルクスが批判している部分(124-125頁)を紹介しただけで、〈なにもつけ加える必要のない,きわめて明快な批判である〉(47頁)と書いて解説を終わっている。しかしマルクスが〈そしてこの形態では,貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態で,その金属製の肉体で存在しなければならない。この形態では貨幣は,ただ価値の形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである〉と述べている部分は、果たして解説を必要としないほど明快であろうか。とくに〈この形態では貨幣は,ただ価値の形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである〉という部分はなかなか理解が困難なのである。〈この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しい〉とは一体何のことであろうか。これは恐らく世界貨幣としての地金は、どの国の貨幣にもなりうる価値に等しいと言っているのではないかと私は思うのであるが、しかしこのマルクスの書き方は決して明快とは言い難いものであり、〈なにもつけ加える必要のない,きわめて明快な批判〉とは言えないのではないだろうか。

 小林賢斎氏はウィルソンが金の用途の一つとして〈「[(3)]……ある国から他の国へ資本を送る(transmitting)目的のためのものであり,そしで商品交換を清算する(balance)ためのものである)」〉(『マルクス信用論の解明』72頁)と述べていることに対して、〈だからこの第(3)の金の機能は,明らかに世界貨幣としての金の機能である。〉(72頁)と述べている。しかし世界貨幣としての金の機能というのは、何らかの商品の購買を目的に支出されるものである。あるいは商品の購入の代金を支払い決済するために輸出されるケースである。しかしウィルソンが述べているのはそうしたことだけではない。ウィルソンは二つのことを述べている。一つは〈ある国から他の国へ資本を送る(transmitting)目的のためのもの〉、もう一つは〈商品交換を清算する(balance)ためのもの〉である。後者は明らかに小林氏のいうように世界貨幣としての金の機能である。しかし前者は決して世界貨幣としての金の機能とは言い難いのである。同じような間違いは小林氏がウィルソンの主張に次のような見解を対置していることにも現れている。

  〈このようにウィルソンもトゥックと同様に,世界貨幣としての金地金を,「商品の移転を間接的に行う媒介物」であり,「商品の国内流通のための媒介物」である「通貨」から「区別」して,「資本」と規定することによって,地金の流出入と国内通貨の増減との直接的因果関係を否定する。確かに貨幣は世界市場では,各国が着せた制服を捨てて地金に,貨幣商品金の姿態に戻る。しかし金地金が例えば貿易収支を決済し得るのは,世界貨幣としての支払手段機能においてであって,商品資本としての地金の故ではない。あるいはまた「ある国から他の国へ資本を送るために」,例えば外国証券に対する投資のために地金が用いられたとしても,それは資本としての地金でなされたのではない12)。〉 (72-73頁)

   つまりウィルソンもトゥックも〈地金の流出入と国内通貨の増減との直接的因果関係を否定する〉のだが、それは地金の輸出入を「資本」と規定するからであって、問題を正しく捉えているわけではないといいたいのであろうか。それならそれで正しい。商品代金の決済のために輸出される地金は、確かに世界貨幣としての規定性を持っている。しかしそれは輸入業者にとっては貨幣資本という資本の規定性ももっているのである。小林氏はこうした形態規定性を正しく捉えているとはいい難い。確かに支払いを決済するのは世界貨幣としての地金の規定性(機能)によってである。しかしそれが輸入商にとっては、彼の貨幣資本の一形態でもあることもまた確かなのである。
   著者は〈「ある国から他の国へ資本を送るために」,例えば外国証券に対する投資のために地金が用いられたとしても,それは資本としての地金でなされたのではない12)〉とも述べている。この注12を見ると、次節の注10)を見よとある。そしてその注10)では、第28章該当部分でのマルクスの一文が引用されている。それはマルクスの〈それは,貨幣が国際的支払手段としてとる形態における貨幣の問題である〉(76頁)という一文である。しかしこの一文は国際的決済手段として輸出される地金について述べているものであって、決して外国証券の投資のために輸出される地金について述べているのではない。外国証券への投資のために輸出される地金は明らかに「利子生み資本」として、つまり「資本」の規定性において出て行くのである。小林氏は証券投資と商品価格の支払い金との区別をハッキリと捉えていないのである。証券投資も、確かに証券を売買するかの仮象をとるが、しかしそれはあくまで仮象であって、本質は利子生み資本の貸付であり、貨幣の貸借関係を表すだけである。
   だから小林氏が続けて次のように述べているのも問題を正しく捉えているとは言い難いのである。

  〈だから彼(ウィルソン--引用者)が通貨主義者に対して次のように批判する時,実はそれは,彼自身にも向けられなければならなかったのである。「流通手段(通貨)の機能を遂行する鋳貨または貨幣と,資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]との間の真の区別に関しての概念(idea)の混乱が大きいならば,この混乱が,このごちゃ混ぜの諸概念連合(indiscriminate association of ideas)を,[(1)]流通している鋳貨にも,また資本として投資を待っているか,あるいは銀行に対する不慮の需要に応じるための準備金として保有されているかのどちらかで,[(2)]銀行業者が手許にもっている鋳貨にも,また[(3)]貿易商の手中にある地金,あるいは外国為替相場逆調の場合の預金者の需要に応じるための準備金として銀行業者によって保有されている地金にまで,等しく(alike)拡大していくことによって,さらに大きくなってしまいさえする13)」,と。〉 (73頁)

   しかし概念の混乱として指摘されなければならないのは、鋳貨というのは流通手段としての貨幣の機能規定だということが分かっていないことである。それが分かっていれば、それが銀行に預金されれば、すでに鋳貨ではないことが分かるはずである。彼らはそれを素材的に捉えている(つまりコインの形象だけを見ている)から、コインは銀行に預金されても銀行のなかでコインのままに存在しているではないかというのである。だから〈流通手段(通貨)の機能を遂行する鋳貨または貨幣と,資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]との間の真の区別に関しての概念(idea)の混乱〉という言い方そのものがすでに混乱しているのである。〈資本の機能を遂行する〉というがそれも形態規定性において捉えられているわけではない。なぜなら流通手段として機能する貨幣(鋳貨)も、それを支出する資本家からみれば彼の貨幣資本(Geldcapital)という形態規定性を持っているからである。小林氏はわざわざ〈資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]〉と[ ]を入れて補足しているが、これは果たして小林氏も同じように考えているからではないかと疑わせる。
   地金についても彼らは形態規定性においてではなく、素材的にしか見ていない。そしてそれは小林氏についてもいいうるのである。輸入商品の決済のために輸出される地金は国際的な支払い手段としての機能を持つ世界貨幣という規定性をもっていることは小林氏も指摘しているが、しかしそれは同時にその支払いをする輸入商にとっては彼の貨幣資本(Geldcapital)でもあるという規定性を見ないのは一面的なのである。同じ貨幣がさまざまな形態規定を帯びることは資本の流通過程をみれば明らかである。もちろん貨幣資本(Geldcapital)も流通過程に出て行けば、その資本としての規定性においてではなく、単なる貨幣として振る舞うが、しかしそれが貨幣資本であるという規定性はその単なる貨幣としての振る舞いのなかにも反映されてくる。例えば単なる貨幣としてはそれがどんな商品としてその観念的使用価値を現実化するかはどうでもよいことであるが、しかしそれが貨幣資本としての規定性においては、その現実化は特定の生産的資本に転化しうる使用価値を持った商品(生産諸手段や労働力商品)に限定されてくるからである。また貨幣資本としての規定性は、貨幣の循環にも関係してくる等々である。】


【34】

  〈/331下/〔原注〕c)フラ一トン。〔(〕371)131ページ〔前出阿野訳,162ページ〕。)〔原注c)終り〕|

  ①〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』.ロンドン.1845年。

  371) 「131」--手稿では.「121」となっている。〉 (127頁)

  【これは上のパラグラフの本文で引用されているフラートンの著書の典拠を示すだけのものであるから書き下し文は不要であろう。マルクスが引用しているところはフラートンの著書ではどうなっているのかを紹介しておこう(下線部分はマルクスが引用しているところである)。

  〈実のところ、これは通貨の問題に非ずして資本の問題である。地金の自然な流れが、或る特別の国において貴金属の現物の大々的供給を求める特別な需要が生じたために、わきへそらされるという、特殊な場合を暫く別とするならば、現下の貨幣事情のもとにあって為替相場に影響したり一国から一国への地金の流れを支配したりし得るこれら各種の原因の一切は、結局、唯一の項目に帰着する、すなわち、対外支払差額の状態如何ということであり、これを決算するために或る一国から他の一国へと絶えず繰り返し資本を移さねばならぬという必要これである。穀物の収穫が思わしくなくて、住民の窮乏を救うためには300万クォーターの小麦が外国から輸入されねばならぬとしたならば、これがために国民の資本はそれだけ犠牲とされねばならぬであろう。その資本が商品として送られるか、それとも正金として送られるか、ということは、何ら取引の本質に影響しないところである。穀物は等価物と交換することによってのみこれを獲得しうる、したがってこの等価物は、その形態の如何に関わらず、その国の富から消え去るのである。〉 (フラートン『通貨調節論』改造選書161-2頁)】


【35】

  〈|332下|〔原注〕a)商業的窮境。1847-48年。もっともこの場合,373)イングランド銀行のくそひり〔地金の流出〕は,同行が1847年にも1857年にも恐慌の結果すばらしい商売をして,その配当が1848年には9%以上,1858年には11%以上に増大した,ということによって,いささか和らげられたのである。〔原注a)終り〕|

  373)「イングランド銀行からのくそひり」-- MEGAはこの部分をテキストの部で"D.xxxxxxxx der Bank"(xxxxxxxxxxは解読不能を表わす),すなわち「イングランド銀行のXXXXXXXXXX」としたうえで,異文目録でこのXXXXXXXXXXについて,「可能な読み方:sacrifice」と記している。しかし,この部分はsacrificeとはとうてい読めない。先頭は明かにSaではなくてStであり,またfの上下に突き出す直線はどこにもないからである。
   いろいろ考えた結果,筆者はこの部分を、"D.Stercus aus d.Bank"と読んでおく。ドイツにはラテン語のstercusという語を語源とするStercusという語がある。"Pierer's Universal-Lexikon"(4.Aunage1857-1865〔この発行年はまさに第3部第1稿執筆の時期と重なっている〕)にはこの語が載っていて,"1)Koth;2)bes.Darmkoth;3)Mist,Danger"と語釈されている。要するに「糞尿」ないし「糞便」であり,「汚物」である。マルクスはこの語でイングランド銀行に悪態をついているわけである(Langenscheidtの"Großes Schulwörterbuch.Lateinisch-Deutsch"では,「Schimpfwort〔罵言〕としても〔使われる〕」とつけ加えている)。エンゲルスがこの注を取り入れなかったのは,この部分が読めなかったからか,あるいはひょっとして,この語の品の悪さに辟易したからかもしれない。一般にエンゲルスは,マルクスのこうした汚い,あるいはえげつない,あるいはあからさまな表現を,しばしば,やわらかい,上品な,控え目な表現に変えたり,そっくり削除してしまったりした。ちなみに,かつて旧ML研のアドラツキーがカウツキー版の『資本論』や『剰余価値学説史』を,マルクスの草稿での言葉づかいを「和らげた」,と非難したが,もしそれが非難されるべきことだったとすれば,エンゲルス版の『資本論』第3部も同様の非難を受けなければならないであろう。もしかするとMEGA版編集者も,品のよくないこの語を聖なるMEGAに記載するのを避けたのかもしれないが。〉 (127-128頁)

  【これは先のパラグラフの本文の最後に引用されていたイングランド銀行総裁モリスの証言につけられた原注a)である。引用文の典拠を示すものだが、それにマルクスのコメントが付けられている。先のパラグラフの注解⑤には〈「ロンドン・ノート1850-1853年」のⅦから取られている。(MEGA IV/8,S.263,23-33)--〔MEGA II/4.2の〕481ページ23-32行〔本書第2巻208ページ6-14行〕を見よ。『商業的窮境……にかんする秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。〉とある。「商業的窮境……にかんする秘密委員会」というのは次のようなものである。1844年にピール銀行法が制定されて以後、最初の恐慌であった1847年恐慌では、ピール銀行法の停止を余儀なくされた。そのために恐慌終了後同年末に「最近の商業的窮境の原因ならびにこの窮境はどの程度に要求払の銀行券の発行を規制している法律(ピール条例)によって影響を受けたか、について調査するために」委員会をイギリス議会上下両院に設けることになった。この委員会では多くの関係者を諮問し、その報告書が出されたということである。マルクスは下院の報告書からその抜き書きを作成しているのだという。大谷新本第2巻の当該箇所を紹介しておこう。

  第3846号。(同じモリスがロード・ベンティングに尋ねられる。)「あなたは,債権やあらゆる種類の生産物に投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのですか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポンド・スターリングに手をつける方がよかった,とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリがW.コトン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号ディズレイリ:「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。〔」〕第4357号。〔「〕では,1847年の配当は?--9%です。〔」〕第4358号。〔「〕銀行は今年は株主に代わって所得税を支払うのですか?--そうです。〔」〕第4359号。〔「〕1844年にもそうしましたか?--そうしませんでした。〔」〕第4360号。〔「〕それならば,この〔銀行〕法は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?」〕第4361号。〔「〕結果は,この法が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,この法の前には株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」〉 (第2巻208-209頁)

   なお大谷氏の旧稿では〈イングランド銀行のくそひり〔地金の流出〕は〉の部分は〈イングランド銀行の糞ひり主義は〉になっており、やはり大谷氏の長い訳注がつけられていたが、今回のものと若干違っている。しかしその相違のあれこれを詮索する必要はないであろう。

   この原注に添えられたマルクスのコメントは強烈な皮肉をかましたものになっている。イングランド銀行における1847-48年恐慌時の地金の流出は、その恐慌に乗じてイングランド銀行が高金利でぼろ儲けをしたので、いささか和らげられたというのである。彼らは地金を死守するためには庶民の窮状などは省みないばかりか、むしろ庶民の窮状を利用してぼろ儲けを企み、そのために同行の株式の配当が増大し、しかもその配当にかかる所得税まで同行が面倒を見るという大盤振る舞いをしていたというのである。マルクスが〈このヒロイズムへの注釈〉として〈W.コトン(イングランド銀行理事,前総裁)〉の証言を紹介しているのがそれである。】

  (以下、続く。)

 

2022年1月20日 (木)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-8)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-8)

 

【28】

 すでに前にも述べたように,この二つの時期を区別するものは,まず第1に,一方の時期には商人と消費者とのあいだのCirculation(通貨〔currency〕)にたいする需要が優勢であり,他方の時期には資本家のあいだの取引のためののCirculationにたいする需要が優勢だということである。反動期〔period of reaction〕には前者が減少して後者が増加するのである。

  ①〔異文〕「とのあいだの」←「にとっての」
  ②〔異文〕「反動期〔period of reaction〕」←「反転の時期〔time of adversity〕」〉 (118頁)

  これは【27】パラグラフの〈フラートンの対置〉の〈正しくない〉理由の続きである。まず平易な書き下し文を以前のものを紹介しておこう。

 〈もしただ通貨に対する需要の量ということであれば、すでに前にも述べたように、繁栄期と反転期を区別するものは、まず第一に、繁栄期には商人と消費者とのあいだの通貨にたいする需要が優勢であり、反転期には資本家のあいだの取引に必要な通貨にたいする需要が優勢だということです。反転期には商人と消費者とのあいだの取引に必要な通貨は減少し、資本家のあいだの取引に必要な通貨は増加するのです。〉

  【一つ前の【27】パラグラフでは「貸付資本に対する需要の量」という面から考察したのに対して、このパラグラフでは「通貨に対する需要の量」という面から、二つの時期を区別するものは何かについて、すでに前に検討したことを繰り返すことによって、確認している。
 つまり「通貨」に対する需要という面からみれば、繁栄期は全体に潤沢で、逼迫期はそれほどでもないが、しかしそれが両者を区別するのではなく、むしろ「通貨」の需要という面で両者を区別するとすれば、二つ流通部面における必要な「通貨」の量が繁栄期と反転期とではまったく逆になっているということなのである。

 このようにマルクスの説明を見てくると、最初にマルクスが〈しかし、フラートンの対置は正しくない〉といった内容は、最初に確認したように、単に〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要〉を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉しているというだけでなく、繁栄期には〈追加流通手段に対する需要〉が高まるのに対して、反転期には〈貸付資本に対する需要〉が高まるというように、それぞれを繁栄期と反転期に対応させて「対置」しているのは正しくないと言っていたのだということが分かる。
 なぜならフラートンは「資本貸付に対する需要」と「追加流通手段に対する需要」を対置しており、前者は逼迫期に強まるもの、後者は繁栄期に強まるものと考えているのである。だから両者はまったく異なるものだというのがフラートンの主張なのである。しかしマルクスはフラートンの対置は正しくないという、ではどういう点で正しくないのか? マルクスはフラートンの繁栄期と反転期の二つの時期を区別する区別の仕方が間違っているとまず言っているように思える。マルクスはフラートンがそれぞれの時期に強まるものとして「資本貸付」と「追加流通手段」とに区別しているのを、まず「貸付」と「流通手段」とに分け、それぞれについて二つの時期の区別を見ているのである。つまりこのマルクスが対置している区別は、フラートンの区別(対置)そのものが間違っていることを含意している。なぜなら、「貨幣融通への需要」は「資本貸付」に対する需要だなどとフラートンのように独断的には言えないからである。「追加流通手段への需要」もやはり「貨幣融通への需要」として現われるという点では同じだからである。だからマルクスはそれを全体として「貸付に対する需要」と言い直して、それがフラートンの場合、逼迫期に強まると述べているが、そうではなく、それは繁栄期にも同じように強まるのだと反論しているのである(そればかりか繁栄期の資本貸付に対する需要の増大こそが逼迫期の貸付--支払手段--への需要を高める原因でもあるとマルクスは指摘している)。だから問題は貸付に対する需要の量が問題なのではなく、その需要の充足が容易かどうかが二つの時期を分けるのだというのがマルクスの最初の批判なのである(これが【27】パラグラフで言われた)。
 もう一つのマルクスの批判はこのパラグラフ(【28】)で行われており、ここではフラートンの繁栄期には「追加流通手段への需要」が強まるという主張が批判されている。マルクスは二つの時期を区別するのは流通手段への需要が繁栄期に強まるということではなく、繁栄期には商人と消費者とのあいだの流通手段への需要が優勢であり、反転期には資本家のあいだの取引のための通貨(支払手段)に対する需要が優勢なのだと反論している(だからここでもマルクスは逼迫期に貸付への需要が強まるのは「資本」貸付に対するものではなく、それも「通貨」に対するものであるとの暗黙の批判が込められているが、しかし、それはまだこの段階では明示的に主張されているわけではなく、ましてやそれが支払手段なのだといったことはここではまったく問題にされていないのである)。つまり一般的に通貨に対する需要の強さが問題なのではなく、流通の二つの部面での需要が繁栄期と反転期ではその強さが逆になっているのだというのがマルクスのここでの批判なのである。このようにこの二つのパラグラフで行われているのは、いわばフラートンらの対置に対する直接的な批判とも言うことができるであろう。】


【29】

  〈ところで,このフラ一トン等々にたいして決定的な役割を果たしているのは,イングランド銀行の有価証券が増加するような時期には同行の銀行券Circulation〔Notencirculation〕は減少し,反対の時期には反対だという現象である。b)有価証券の数が表現しているのは,貨幣融通〔pecuniary accommodation)[512]大きさ,つまり手形の割引〔の大きさ〕である。{(および容易に換金できる有価証券を担保とする貸付〔の大きさ〕である。〔)〕ときにはイングランド銀行は,長期手形を担保にして貸付を行う,つまりそれを担保に前貸を行なう。1847年には,東インド貿易関連手形を担保にそうしたのであった。}/〉 (118-119頁)

   ここからも〈フラートンの対置〉が〈正しくない〉理由の説明の一環であるが、しかしここからはフラートンらに影響を与えている現象は本当は何を意味するのか、という形でその批判が展開されていく。まず平易な書き下し文を以前のもの再録しておく。

  〈ところで、このフラートン等々にたいして決定的な役割を果たしているのは、イングランド銀行の有価証券が増加するような時期には同行の銀行券が減少し、反対の時期には反対だという現象です。有価証券の数が表現しているのは、貨幣融通の大きさ、つまり手形の割引の大きさです。{(および容易に換金できる有価証券を担保とする貸付の大きさです。)ときにはイングランド銀行は、長期手形を担保にして貸付を行います。つまりそれを担保に前貸しを行うのです。1847年には、東インド貿易関連手形を担保にそうしたのでした。}〉

  【まず最初に「有価証券」という用語の説明を簡単にしておこう。
 マルクスは第29章該当個所の草稿で有価証券を銀行資本の成分の一つとして説明しているが、それによると、大きくわけてそれは二つに分けられる。一つは商業的有価証券、つまり手形である。もう一つはその他の有価証券で手形とは本質的に区別されるものである。要するに利子生み証券であって、これには公的有価証券(国債、大蔵省証券等)やあらゆる種類の株式等(場合によっては不動産抵当証券も入る)と説明されている。
 ではマルクスの上記の文章はどう理解すべきであろうか? 上記の書き下し文はほぼマルクスの文章をそのまま書き写しただけだが、ここで言っていること自体はそれほど難しいことではない。ただ事実としてイングランド銀行の保有する有価証券の量が増加する時は、同行の発行する銀行券の量が減少するということであり、フラートンらの先の主張は、こうした現象に決定的に影響されているのだ、ということだけである。
 どうしてイングランド銀行の有価証券の保有量と銀行券の量とが反対に運動するのかについては、まだここでは何もマルクスは問題にしていない。それはこれから本格的に検討しようとする課題なのである。だからわれわれも、それを待って問題にすることにしよう。

  ところで大谷氏はこのパラグラフの原注b)のあとの部分を紹介して次のようにそれを解説している。

 〈そこで,以上の原注がつけられた本文に続く本文を見よう。マルクスは言う。
 「有価証券の数が表現しているのは,貨幣融通の大きさ,つまり手形の割引〔の大きさ〕である。{(および容易に換金できる有価証券を担保とする貸付〔の大きさ〕である。〔)〕ときにはイングランド銀行は,長期手形を担保にして貸付を行なう,つまりそれを担保に前貸を行なう。1847年には,東インド貿易関連手形を担保にそうしたのであった。}」(MEGA II/4.2,S.511-512:本書本巻119ページ。)
 これは,注意を求めるコメントであって,バランスシート上の「有価証券」には,銀行が行なっている「貨幣融通」,すなわちすでに割り引いた手形の額と「容易に換金できる有価証券」すなわちマルクスの言う「準備有価証券」とがあり,さらに長期手形担保の貸付という,危険性も高いが収益性も高い投資も含まれることが述べられているのである。〉 (45頁)

   しかしこれはマルクスの一文の解説としては正確ではない。なぜなら、マルクスは〈「有価証券の数が表現しているのは,貨幣融通の大きさ,つまり手形の割引〔の大きさ〕である。〉と述べているのである。これがまずマルクスが第一に述べていることである。しかし銀行が保有する有価証券には、手形割引による貸し付けを表す、割り引かれた手形だけではなく、担保融資の担保になった有価証券もあることをマルクスは補足して述べている。しかしこの担保融資には、換金性の高い有価証券を担保にしたもの(これは比較的短期のものであろう)と長期手形を担保にしたものもあると述べているだけである。
  だから換金性の高い有価証券が〈マルクスの言う「準備有価証券」〉だというが、それはおかしいのである。なぜなら、それは貸付の担保だから、貸付金の返済の際には、融資先に返されねばならないものだからである(不動産が抵当の場合は、抵当権の抹消がなされる)。貸付が焦げつけば、その担保を換金することは可能だが、そうではないのに容易に換金できるからといって、貸し付け期間が終わっていないのに、担保物件を処分することはできないのである。大体、担保物件は、貸し付け額より大きいのが通常である。だからもし担保物件を処分されたなら、融資先は大きな損失を被ることになる。いずれにしても、ここでマルクスが述べているのは、それらはすべて貨幣融通、つまり利子生み資本としての貸付の大きさを示すものだ、ということである。つまりそれらは銀行の本来の業務である貸付業務の大きさ、その結果を表すのであって、だからいまだ貸付られずに、待機(準備)している「準備」金ではないのである。
  〈「準備有価証券」〉という場合は、準備金(これは現実の貨幣である)を当面は貸付をする当てがないので、容易に換金できる国債などの有価証券を購入して保持しているものを指すのである(そうすればただ貨幣で保持しているよりも、現実に貸付に利用するまでの間には僅かでも利子がつく)。そしてその場合は、必要なら何時でもそれを売って現金に換えて、その現金を利子生み資本として貸付に利用できるのである。そこらあたり大谷氏は混乱しており、よって正確に解説されていない。】


【30】

 〈/331下/〔原注〕b)フラ一トンのこの個所の全体を抜き出しておくことが重要である。なぜならこのなかには,彼がここで「資本」という言葉でなにを考えているかも示されているからである。〉 (119頁)

   これは【29】パラグラフの〈ところで,このフラ一トン等々にたいして決定的な役割を果たしているのは,イングランド銀行の有価証券が増加するような時期には同行の銀行券Circulation〔Notencirculation〕は減少し,反対の時期には反対だという現象である。b)〉という一文につけられた原注である。書き下すほどのものではないが、一応、以前のものを再録しておこう。

  〈b)フラートンのこの箇所の全体を抜き出しておくことが重要です。なぜならこのなかには、彼がここで「資本」という言葉で何を考えているのかも示されているからです。〉

  【ここでマルクスが〈フラ一トンのこの個所の全体〉と述べているのは、フラートンの『通貨調節論』の第5章の最後のパラグラフ全体のことである。これは【20】パラグラフの訳注226)で紹介されていたものである。このあとフラートンの著書の当該箇所からの抜粋が続くが、マルクスはそこでフラートンが「資本」という言葉で何を考えているかが分かると指摘している。つまり以下のフラートンからの引用の途中でマルクス自身の考察が挿入されているが、そこでのマルクスの主要な関心はフラートンが「資本」という言葉で何を考えているのかということなのである。もちろん、マルクスの本来の問題意識は、冒頭のパラグラフで明らかにしていたように、〈利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)〉なのである。フラートンらが「資本」と言っているのは、果たして科学的な概念としての利子生み資本のことを意味しているのかどうか、これがマルクスの関心であり、問題意識なのである。しかしとりあえず、われわれはそれを頭に入れておいて、マルクスの叙述にそった検討を進めよう。】


【31】

 (1)「議会報告書のほんのうわっつらを検討しただけでも納得できるように,イングランド銀行の保有有価証券は,同行のCirculationと同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことのほうが多いのであり,したがって,この大銀行の実例はけっして,地方銀行業者たちが強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではないのである。すなわち,どの銀行も,自行のCirculationがすでに,銀行券通貨〔banknote currency〕を用いるさいの普通の目的に適合している場合には,このCirculationを増加させることはできないのであって,この限界が越えられたのちに行なわれるその前貸の追加は,すべて自行の資本からなされなければならないのであって,その保有する有価証券の一部分売却するか,またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって,供給されなければならならない,ということである。」〔前出阿野訳,122ページ。〕/(2) (では,ここではなにを資本と言っているのか? 銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束promiss to pay〕のかたちでは,前貸をすることができないということである。だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか? 302)1) 準備有価証券の売却(この準備有価証券というのは,国債,株券およびその他の利子付証券のことである〔)〕によって。だが,なにと引き換えに銀行はこれらの証券を売るのか? [512]貨幣,すなわち金または銀行券と引き換えにである。(この銀行券は,イングランド銀行の場合のように法貨であるかぎりでのものである)。つまり銀行が前貸しするものは,どんな事情のもとでも貨幣である。ところがこの貨幣が,いまは銀行の資本の一部分を構成しているのである。銀行が金を前貸しする場合には,このことは自明である。銀行券の場合にも,今ではこの銀行券は資本を表わしている。なぜならば,銀行はこれと引き換えに現実の価値,利子付証券を譲渡したのだからである。私営銀行業者の場合には,有価証券の売却によって彼らのもとに流れ込む銀行券は,イングランド銀行券でしかありえない。というのは,それ以外の銀行券は有価証券代金の支払では受け取られないからである。だが,それがイングランド銀行自身である場合には,同行は,自分自身の銀行券を回収するために,資本,すなわち利子付証券を要するのである。そのうえに,イングランド銀行はそれによって自分自身の銀行券をCirculationから引き上げることになる。(同行がこの同じ銀行券,あるいはそれに代わる銀行券をふたたび発行できるのは,同行のCirculationが最大限に達していない場合だけである。しかし,イングランド銀行が同じ銀行券をふたたび発行すれば,それは今度は資本を表わすのである。)しかし,同行がその有価証券を売却するにいたるのはどのようにしてか,ということはのちに研究する必要がある。「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」という付け加えは,私営銀行業者の場合には,ただ,彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行〔券〕または金を,いまは投資できない,ということを意味するだけである。私営銀行業者は,自分自身の銀行券では有価証券を買うことができない。イングランド銀行は,もし金または自分自身の銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要がある場合には,もちろん,自行の銀行券で有価証券を買うことができないのである。どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである。……322)/(3)「1837年1月3日,信用を維持し貨幣市場の困難に対処するためにイングランド銀行の資力が極度まで利用しつくされたとき,同行の貸付および割引への前貸が17,022,000ポンド・スターリングという巨額に達したのをわれわれは見いだすのであるが,この金額はあの戦争〔ナポレオン戦争〕以来ほとんど聞いたことのないもので,それは,この期間中17,076,000ポンド・スターリングという低い水準にそのままとどまっていた総発券高にほぼ等しかったのである! 他方,1833年6月4日には,18,892,000ポンド・スターリングというCirculationが,972,000ポンド・スターリングを超えないイングランド銀行の私的有価証券保有額に関する銀行報告と結びついているのであって,この後者の額は,過去半世紀間の記録中の最低ではないにしても,ほとんどそれに近いものだったのである。」(フラ一トン,97,98ページ。」〔前出阿野訳,122ページ。〕〔原注b)終り〕/

  ①〔異文〕「イングランド銀行がたんに〔……〕余儀なくされているのなら」という書きかけが消されている。

  302)〔E〕「1)」--削除。なお,手稿でもこの「1)」に対応する「2)」以下は見当たらない。
  322)〔E〕エンゲルス版では,フラートンからの以下の引用は,フラートンからの長い引用を含む前出の脚注226のなかで,エンゲルスの挿入部分のあとに置かれている。〉 (119-123頁)

  【これは【20】パラグラフで引用されていたフラートンの著書の第5章の最後のパラグラフの途中からの引用である(訳注226)では〈  〉で括られた部分である)。このパラグラフそのものは三つの部分からなっている。(1)フラートンの著書からの引用部分、(2)その引用の途中に挿入されたマルクスの一文、(3)再びフラートンからの引用部分である。われわれも全体を三つに分けて(テキストに「/(2)…」の記号を挿入)、それぞれについて検討することにしよう。

  (1)まず最初のフラートンからの引用部分についてである。

  これは引用だけなのだが、大谷氏が英語表記だけで済ませている部分をどのように訳すべきかを示すために、一応、書き直しておこう。なお引用部分における下線はすべてマルクスによるものである。

   〈「議会報告のほんの上っ面を検討しただけでも納得できるように、イングランド銀行の保有有価証券は、同行の〔銀行券の〕流通高と同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことの方が多いのであり、したがって、この大銀行の実例はけっして、地方銀行業者たちが強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではないのである。すなわち、どの銀行も、自行の〔銀行券の〕流通高がすでに、銀行券通貨を用いるさいの普通の目的に適合している場合には、この流通高を増加させることはできないのであり、その限界が越えられたのちに行われるその前貸しの追加は、すべて自己の資本からなされなければならないのであって、その保有する有価証券の一部売却するか、またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって、供給されなければならない、ということである。」〉

  フラートンがこの引用の前半部分で言っていることは、まさにマルクスが【29】パラグラフで言っていたイングランド銀行における保有有価証券と銀行券の流通高との動向そのものである。つまりフラートン自身が、この問題をこのように取り上げ、注目しているわけである。フラートンがここで言っているイングランド銀行の問題で考えていることは、実は、それまでに彼が言っていたことと基本的には同じことなのである。彼は次のように言っていた。

 貨幣融通pecuniary accommodation〕にたいする(すなわち資本の貸付にたいする)需要追加流通手段means of circulationにたいする需要と同じだ,と考えること,あるいは両者はしばしば結びついていると考えることさえも, じっさい大きなまちがいである。〉 (【20】参照)と。

 つまりフラートンは、ここで〈イングランド銀行の保有有価証券〉の大きさは、イングランド銀行の〈貨幣融通〉の大きさを表していると考えているのである。なぜならそれは同行の「貨幣融通」の際に割引した手形や担保の大きさを示しているからである。また〈自行の流通高〉とは、イングランド銀行が発行した銀行券のうち公衆の手にある銀行券の高を、つまり先のフラートンの主張では〈追加流通手段にたいする需要〉の大きさを表していると考えているわけである(もちろん厳密に言えば、後者は「追加的」な流通手段への需要であるが、それは結局、全体の銀行券の流通高の増加をもたらすという意味で同じと考えて良いだろう)。だからここでフラートンが言わんとすることは、〈イングランド銀行の貨幣融通の大きさは、同行の銀行券の流通高とは同じ方向に動くよりも反対の方向に動くほうが多い〉ということである。
 そしてだからそれは地方銀行業者たちが〈強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではない〉とも彼は主張している。

 われわれはまずフラートンが地方銀行業者の主張として説明している文章を検討し、そのあとなぜフラートンはそれをイングランド銀行で生じている事態と同じと考えたのかについて検討することにしよう。
 フラートンが〈地方銀行業者たちが強硬に主張している〉〈〉というのは次のようなことである。

 〈どの地方の発券銀行も、自行が発行した銀行券の流通高が、すでに社会が需要する通貨としての銀行券(これはすでに【7】パラグラフで見たように、彼らはそれを「収入」の流通を担うものと考えている)の流通量に達しているなら、それ以上に流通高を増加させることはできないのであり、それ以上の前貸しの追加は、すべて自分の資本からなされなければならない。つまり自分が保有する有価証券の一部を売却するか、またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって、供給されなければならないのである。

 さて問題は、なぜフラートンは、この地方銀行業者たちの主張と、イングランド銀行の有価証券の保有高と銀行券の流通高が反対に動くという現象とが同じことを表しているのだと考えたのかということである。それを理解するためには、通貨学派に対する銀行学派の批判を少し理解しておく必要がある。
 われわれは通貨学派の主張についてはすでに説明しておいた(【10】を参照)。通貨学派は、地方の発券銀行が競って銀行券を発行するとそれが過剰になり、通貨価値を下落させ、地金の流出をもたらし、恐慌を引き起こしたり激化させると主張し、地方銀行の発券を抑制するとともに、イングランド銀行の発券もその準備金の増減(金の流出入)に併せて調節せよと主張したのであった(それを政策的に具体化したのがピール銀行条例であった)。
 だから当然、地方の発券銀行業者はこれに反発したが、銀行学派の批判は彼らの立場を代弁することになった。銀行学派の主張については、トゥックが『通貨原理の研究』(玉野井芳郎訳、日本評論社、昭和22年9月1日)のなかで「結論の要約」として自分たちの主張を17項目の箇条書きにしてまとめているのが参考になる。ただ、今それをすべて紹介しても煩雑になるだけなので、ここでは当面の問題と関連するものだけを要約して紹介しておこう。

  ⑦〈公衆の手にある銀行券の分量は、資本を流通せしめるうえに、また金で評価された社会の種々な階級の所得を分配するように必要とされる諸目的によって決定されるということ。〉(ここでトゥックは流通銀行券の数量に、「資本を融通」するに必要な銀行券の量も含めている。しかし、彼らはそれらが流通するのはほんの一瞬であり、それらはすぐに銀行に預金等として帰って来て「資本の貸付」になると考えている。だから実際は、通貨としての銀行券の流通は「収入の実現」を担うものに集約されると考えているのである--引用者)
  ⑧イングランド銀行をも含めて、「諸々の発券銀行」は、自分でいかにそうしたいと思っても、そのそれぞれの地域において流通している銀行券の分量に、直接追加することはできないということ。
  ⑨「発券諸銀行」が銀行券の総量を直接減ずることもまた出来ないということ。
  ⑪〈地方銀行もイングランド銀行も、彼らの紙券の追加的発行を行ってその銀行資本を助けることはできないということ、貸付または割引の方法でなされる一切の前貸は、流通がすでに充溢しているときは、「発券銀行」においても非発券銀行におけると同じ方法で、彼ら自身の資本ないしその預金者の資本のうちからのみなされうる。〉(188-189頁)

 これが銀行学派の主張なのである。つまり彼らは通貨として流通する銀行券(兌換券)については、銀行はその増減をコンロールできないのだと主張するのである。だからフラートンが地方銀行業者の主張とイングランド銀行で生じている事態とが同じことを意味していると考えたのは次のようなことである。
 すなわち地方銀行業者は、銀行券通貨がすでにその必要量に達していたら、それ以上の発行はできない、前貸しは自分の資本でしかできない、と主張し、イングランド銀行においても同行の貸付はイングランド銀行券でなされるのに、その貸付高を表す有価証券の保有高が増えても、銀行券の流通高は増えるどころかむしろ反対に減っているではないか、つまりイングランド銀行も銀行券の流通高については、何も操作できないのだ、貸付を増やしても、銀行券の流通高が増えずに減っているということは、その貸付が「資本の貸付」に転化していることを示しているのだ、とフラートンらは主張したかったのである。

  なお小林氏もこのマルクスが引用しているフラートンの一文を紹介しているが、大谷氏のものとは若干の相違がある。参考のために紹介しておこう。

  〈「だから議会報告書の非常に簡単な吟味でも,イングランド銀行の{保有する}有価証券は,その[同行の]流通銀行券(circulation)[通貨]と一致して変動するよりも,それとは反対の方向に遥かにしばしば変動するということ,そして例えば,だからあの大規模な設立物[イングランド銀行]の例は,もしもその流通銀行券(circulation)[通貨],銀行券通貨(a banknote currency)に一般的に用いられているその目的に既に適合しているならば,どのような銀行もその流通銀行券(circulation)[通貨]を拡大することはできないという趣旨の,地方銀行業者たちによってかくも強く力説された学説(doctrine)に対するなんらの例外をも提供するものではないということを,誰にも確信させるであろう。しかしその限度が越された後は,その前貸しに対するあらゆる追加その[同行の]資本(capital)からなされねばならず,そして準備であるその有価証券の若干の販売によってか,あるいはそのような有価証券への更なる投資の断念によって,供給されねばならない13)」。〉 (388-389頁、下線はマルクスによる強調、{ }は小林氏が補ったものとの説明がある。)
 ついでにこの部分に対する小林氏の解説も紹介しておこう。

  〈このようにフラートンによれば,地方銀行業者が主張する「学説(doctrine)」のように,「流通にある銀行券の量はそれらを流通させる人々の必要に依存する」(上述)のであって,「流通銀行券」(「通貨」)量が,流通が必要とする一定量に達しているならばそれ以上にそれを増加することはできないのであり,そしてそこまでは信用に基づく「通貨」の発行で貸出しを行いうるが,しかしある「限度」を超えての銀行券による貸出の場合には,銀行にとっての「資本」(「資産」)である「準備の有価証券」を売却して流通から引き上げて入手した銀行券によって行われなければならない,と言うのである。〉 (389頁)

   しかしこの小林氏の纏め方は若干問題がある。なぜなら、フラートンが主張していることはイングランド銀行で生じていることは地方銀行業者たちが主張していることの例外ではないということであり、その肝心要のことが踏まえられていない。著者の目は地方銀行業者たちが主張していることの内容の紹介だけになっているからである。

  (2)マルクスの挿入文について

  それではマルクスの挿入文を検討しよう。面倒ではあるが、もう一度、マルクスの挿入文を確認のために見ておこう(手稿では欠けている綴じ括弧〔)〕を入れておく)。

  〈 (では,ここではなにを資本と言っているのか? 銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束promiss to pay〕のかたちでは,前貸をすることができないということである。だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか? 1) 準備有価証券の売却(この準備有価証券というのは,国債,株券およびその他の利子付証券のことである〔)〕によって。だが,なにと引き換えに銀行はこれらの証券を売るのか? [512]貨幣,すなわち金または銀行券と引き換えにである。(この銀行券は,イングランド銀行の場合のように法貨であるかぎりでのものである)。つまり銀行が前貸しするものは,どんな事情のもとでも貨幣である。ところがこの貨幣が,いまは銀行の資本の一部分を構成しているのである。銀行が金を前貸しする場合には,このことは自明である。銀行券の場合にも,今ではこの銀行券は資本を表わしている。なぜならば,銀行はこれと引き換えに現実の価値,利子付証券を譲渡したのだからである。私営銀行業者の場合には,有価証券の売却によって彼らのもとに流れ込む銀行券は,イングランド銀行券でしかありえない。というのは,それ以外の銀行券は有価証券代金の支払では受け取られないからである。だが,それがイングランド銀行自身である場合には,同行は,自分自身の銀行券を回収するために,資本,すなわち利子付証券を要するのである。そのうえに,イングランド銀行はそれによって自分自身の銀行券をCirculationから引き上げることになる。(同行がこの同じ銀行券,あるいはそれに代わる銀行券をふたたび発行できるのは,同行のCirculationが最大限に達していない場合だけである。しかし,イングランド銀行が同じ銀行券をふたたび発行すれば,それは今度は資本を表わすのである。)しかし,同行がその有価証券を売却するにいたるのはどのようにしてか,ということはのちに研究する必要がある。「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」という付け加えは,私営銀行業者の場合には,ただ,彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行〔券〕または金を,いまは投資できない,ということを意味するだけである。私営銀行業者は,自分自身の銀行券では有価証券を買うことができない。イングランド銀行は,もし金または自分自身の銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要がある場合には,もちろん,自行の銀行券で有価証券を買うことができないのである。どんな事情のもとでも,資本という言葉は,銀行業者は自分の信用を貸す〔verpumpen〕だけではなくて,云々という銀行業者的な意味〔Banquirsinn〕で用いられているだけなのである。〔)〕〉

  さて、以前も解説したが、マルクスはこの挿入文では実に多くのことを語っているのに、それを明示的に述べずに、暗に示唆するだけにとどめている。だからそれを理解するには困難が付きまとうのである。とりあえず、まず最初は平易な書き直しである。

 〈フラートンや地方銀行業者たちは、ここで何を資本と言っているのでしょうか? それを検討してみましょう。
 地方銀行業者たちが言っていることは、(逼迫期には)銀行はもはや自行には少しも費用のかからない支払約束、つまり紙と印刷費以外に費用のかからない自行が発行する銀行券のかたちでは、前貸しをすることができないということです。それなら銀行はどのようにして前貸しをするのでしょうか?(ここでフラートンの引用にもマルクスの説明にもない「逼迫期には」という説明を入れましたが、フラートンらが主張していることが反転期の話であることに留意することが極めて重要だからです。)
 1)準備有価証券の売却によってということです。もちろんこの場合、売却する準備有価証券というのは国債などの公的有価証券か株券などの利子付証券です。それでは地方銀行業者はこれらの有価証券を売って、何を入手しようとするのでしょうか、貨幣、すなわち金または銀行券です。ただしこの銀行券は法貨であるイングランド銀行券に限られます。つまり銀行が前貸しするのはとにかく貨幣(=貨幣としての貨幣)でなければならないのです。なぜなら逼迫期に銀行の顧客が要求してくるのは、彼らの振り出した手形が満期が来たのに、その支払いに応じる貨幣が手元に還流してこないからで、だから彼らは銀行に支払手段の貸付を要求しているからです。そしてこの貨幣が、銀行業者らの立場では銀行の資本の一部を構成しているというのです。貸し出す貨幣が金である場合、つまり銀行が金で前貸しをする場合には、このことは自明です。なぜなら、それは単なる銀行券のような紙切れとは違って、正真正銘の絶対的な価値だからです。また例え銀行券(しかし法貨としてのイングランド銀行券ですが)の場合でも、それはいまや彼らにとって資本を表しています。というのは、銀行はそれを入手するために、それと引き換えに現実の価値、利子付証券を譲渡したからです。つまり彼らにとっては何の費用もかからないどころか自分の資本の一部の持ち出しであり、大いに費用がかかっているものですから(つまりここでは【7】パラグラフで見たように、発券銀行業者は自己資本や借り入れ資本からの貸し出しを「資本の貸し出し」と意識したように、彼らにとっては有価証券を売却して入手したイングランド銀行券の貸し出しもそうした「自分の資本」の貸し出しとして意識されるということです)。
 私営銀行業者の場合は、彼らが準備有価証券を売って手にするのはイングランド銀行券以外のなにものでもありません。というのはこの場合、それ以外の銀行券を有価証券の代金の支払で受け取るわけには行かないからです(彼らはそもそも「現金」を入手するために自らの準備有価証券を売却せざるを得なかったのですから)。
 ところでフラートンらは、地方銀行もイングランド銀行も基本的には同じだと主張します。それなら、もし地方銀行業者たちが主張していることをイングランド銀行に当てはめてみたらどうなるかを検討してみましょう。
 地方銀行業者たちの主張をイングランド銀行に当てはめた場合、同行は結局、自分自身の銀行券を回収するために、資本、つまり利子付証券を必要とすることになります。そしてイングランド銀行の場合は、それによって自分自身の銀行券を流通から引き上げることになるのです。なぜなら、イングランド銀行の外にある同行の銀行券は、この場合すべて流通銀行券と想定されているからです。
 ということは銀行学派の主張からすればおかしなことになります。なぜなら、彼らの理屈からすればイングランド銀行はもはや銀行券での貸付ができないから、利子付証券を売却するのであり、それは彼の銀行券がすでに普通の目的では十分適合しているからというのが彼らの理由だったはずだからです。ところがイングランド銀行の場合は、利子付証券を売却すると、自行の銀行券を流通から引き上げることになります。つまり彼らの理屈からすれば、普通の目的においてもまだ同行は銀行券で貸し付ける“余裕”が出てくるということになるのです。これは明らかに矛盾であり、フラートン等の主張の根拠の無さを示すものではないでしょうか。
 (このようにイングランド銀行の場合は、回収した自行の銀行券をあるいはそれに代わる銀行券を再び貸し付けて発行できるのは、同行の銀行券の流通高が最大限に達していない場合だけです。ところが、地方銀行業者や銀行学派のいうところによれば、この同じ銀行券をイングランド銀行が発行すると、今度は資本を表すというのです。
 しかしそもそも彼らの理屈からすれば、通貨としての銀行券がすでに需要を満たしているから、つまり銀行券の流通高が最大限に達しているから、イングランド銀行は利子付証券を売却して、銀行券を購入しなければならなかったのであり、だからまたその銀行券の貸付は資本の貸付になるというのではなかったでしょうか。ところが実際に彼らの理屈をイングランド銀行にあてはめてみると、反対に最大限に達していないからこそ、同行は同じ銀行券を再び発行しうることになるのです。つまり同行がそれで貸し付けをすることが出来ることになります。しかも今度は、それは資本の貸し付けになることになります。なぜなら、それは利子付証券を売却して流通から引き上げたものだからです。
 このようにフラートンらの主張をイングランド銀行に当てはめると、まったく彼らの主張とは矛盾した結果になってしまうのです)。
 もっとも実際に、イングランド銀行が、その有価証券を売却するに至るのはどのようにしてか、というのはのちに研究する必要があるでしょう。
 2)さて次は、フラートンがもう一つの前貸のやり方として言っていること、すなわち「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」と付け加えている部分についても検討してみましょう。
 これを私営銀行業者の場合にあてはめると、それはただ彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行券または金を、いまは投資できない、ということを意味するだけです。私営銀行業者は、もちろんこの場合、自分自身の銀行券では有価証券を買うことはできません。なぜなら、もはや彼らの銀行券は、それによる貸し付けさえ拒否されているぐらいですから、そういう状況で銀行に有価証券を売却する人々も、まさに銀行に貸付を要求する人々と同様、それによって現金(金またはイングランド銀行券)を入手しようとしているのであって、地方銀行の発行する銀行券などには見向きもしないからです。だからこの場合、彼らが本来有価証券に投資したであろうと考えられるのは、金またはイングランド銀行券であり、それがいまでは貸し出しに必要だから、投資できないということを意味するだけです。
 ではイングランド銀行の場合はどうでしょうか? 同行の場合は法貨である自行の銀行券で有価証券をいくらでも買うことは可能のように見えます。しかしイングランド銀行の場合も、先に見たように、同行が金または自分自身の銀行券を手に入れるために有価証券を売却する必要があるような場合には、もちろん、自行の銀行券で有価証券を買うことはできないのです。
 というのは、イングランド銀行が有価証券を売って金を入手するということは、同行の準備金が底を尽きそれを積み増す必要がある時であり、それは同行の銀行券の流通高に比して準備金が少なくなりすぎている、つまり銀行券の流通高が限度を超えているということと同義だからです。また自分自身の銀行券を回収する必要がある時というのは、やはり同じように同行の銀行券の流通高が制限以上に高くなりすぎていると考えられるでしょう。だからそういう時に、銀行券のさらなる流通につながる有価証券の購入に同行の銀行券を支払うことができないのは当然だからです。
 だから「有価証券への投資をやめる」といっても、やはりフラートンらの主張とは異なり、地方銀行業者の場合とイングランド銀行の場合とでは決して同じ事情ではないのです。
 結局、地方銀行業者やフラートンら銀行学派が言っている「資本」という言葉は、どんな事情のもとでも、ただ銀行業者は自分にとって何の費用もかからない自身の信用を貸すだけではないということ、つまり自分の資本の一部の持ち出しになるという、銀行業者的な意味で用いられているだけなのです。〉

  かなり内容を補足して説明したので、ある程度は分かって頂いたと思うが、まだマルクスが明示的に述べずに、ただ暗示するだけに終わっている問題を解説しておかなければならない。
 まずマルクスは最初に、〈では、ここではなにを資本と言っているのか〉とこの挿入文でマルクス自身が何を問題にするかを明確にしている。このようにマルクスが最初に課題を設定したことが、それ以外の問題については明示的に述べずに、ただ暗示するだけにさせた最大の理由であろうと思われる(マルクスにとってはそれはここで明らかにせずとも、引き続いて展開するなかで明らかになるだろうとの考えもあったのであろう)。
 そしてマルクスはいきなりフラートンが〈地方銀行業者たちが強硬に主張している〉〈〉として説明しているものの検討から始めている。しかし本来フラートンの引用文を検討するのであれば、まずフラートンが最初に問題にしているイングランド銀行の問題を検討するのが先のように思えるのだが、しかしそれはマルクスにすれば、その後すぐに本文のなかで詳しく検討する予定なのである。だからここではとにかく最初に課題を設定した問題に絞って検討しようとしているのである。
 すでに説明したように、フラートンらは、この地方銀行業者たちが強硬に主張している説を、彼らの主張、すなわち通貨としての銀行券が社会が必要とするに充分なだけ流通しているなら、それ以上の銀行券を発行して流通させようとしても出来ないのだ、銀行は通貨としての銀行券の流通の量を左右できないのだという主張を根拠づけるものとして取り上げているわけである。
 しかしマルクスはフラートンのそうした主張の誤りを指摘する。しかしマルクスはそれをここでは明示的には述べていない。マルクスは地方銀行業者たちがもはや銀行券による貸付が出来ないと言っているのは、決してフラートンらが言うように、彼らの銀行券がすでに通貨として必要なだけ流通しているのが原因なのではなく、銀行に貸付を要求してくる資本家たちが地方銀行業者たちの単なる支払約束(つまり彼らの発行する銀行券)での貸付を求めないからだと指摘しているのである。これはどういうことかというと、この場合、銀行に貸付を要求してきているのは、まさに逼迫期に自分の手形の支払いを迫られている資本家たちなのである。だから彼らは支払手段としての現金(つまり金または法貨としてイングランド銀行券)以外の貸付は受け付けないのである。つまりこうした逼迫期においては地方銀行の単なる支払約束(地方銀行券)では信用がなく(なぜなら逼迫期というのはまさに信用が動揺して収縮している時なのだから)、誰もが現金(金またはイングランド銀行券)以外による支払いを受け付けないからである。
 当時は地方の発券銀行もよく倒産したのであり、トゥックはイギリス連合王国では当初は1ポンド銀行券が全国に流通していたが、しかし少額の銀行券は労働者階級の比較的恵まれた部分に多く持たれていたために、恐慌時に地方の発券銀行が次々と倒産すると、その犠牲のしわ寄せはそうした労働者階級に集中したこと、だからイングランドとウェールズでは5ポンド未満の銀行券の発行は禁止され、それ未満は金貨等による支払を義務づけたという事情を紹介している(スコットランドなどでは早くから株式銀行の設立が許可されていてその分倒産が少なかったので、それ以後も1ポンド銀行券は流通していた)。地方銀行の発行する銀行券だと、もしその銀行が倒産すればただの紙屑になってしまうのである。だから逼迫期には支払手段としてはそれらはまったく通用しなかったのである。だから彼らは貸付を要求してくる資本家たちに応えるためには、金あるいは法貨としてのイングランド銀行券を手に入れるために手持ちの有価証券を売却する必要があったのだとマルクスは指摘しているのである。
 つまり地方銀行業者たちが強硬に主張していることは、銀行学派の主張を裏付けるものではまったくないのである。しかしマルクスはそれをただ暗示するだけにとどめて、明確には指摘していない。
 マルクスは、フラートンのイングランド銀行と地方銀行とは基本的に同じだという主張(こうした主張は当時の銀行学派に共通のもので、例えば先に紹介したトゥックの「結論の要約」の項目⑧や⑪を見てもそれを知ることができる。それに対して通貨学派はイングランド銀行の他の地方銀行に比しての特殊性を強調する傾向があった)に対して、それを逆手にとって、では地方銀行で生じている事態をイングランド銀行にあてはめてみればどうなるのか、という形でフラートンの主張の矛盾点を突いているのである。つまりイングランド銀行に当てはめると、むしろフラートンらの主張とは違って、イングランド銀行が自行の銀行券を回収するために有価証券を売却したなら、それは銀行券を流通から引き上げることになる。つまりそれは彼らのいう普通の目的に適合した数量より少なくなるはずなのに、それを再び貸し付けると「資本の貸付」になるというのは、明らかに彼らの主張とは矛盾した事態である、とマルクスは言いたいのである。
 銀行学派にしろ通貨学派にしろ、この当時はまだイングランド銀行の中央銀行としての性格や意義が十分理解されていなかった。通貨学派は確かにイングランド銀行の特殊性を理解していたが、しかしそれはただ発券業務に関してであり、ただ「通貨政策」においてだけであった。だから彼らはイングランド銀行の銀行業務については、他の一般銀行とまったく同じだと考えて、その信用制度の中軸としての位置づけを理解しなかったのである。他方、銀行学派はイングランド銀行の信用制度の中軸としての意義を少しは理解していたが、しかし彼らは通貨学派批判のなかで、むしろ地方銀行とイングランド銀行との同等性を主張する方向に傾きがちであった。ここではマルクスはまだイングランド銀行の中央銀行としての性格を明確に問題にはしていないが、しかしフラートンの批判を通じて、イングランド銀行が地方銀行とは違うことを暗に示していると考えることができる。
 このようにイングランド銀行に当てはめれば、フラートンの主張とは相反することになることを暴露しながら、マルクスはフラートンらの主張の根拠の無さを指摘しているのである。こうしたマルクスのフラートン批判の仕方は彼が最初に問題をせまく限定したということと、今後の展開のなかで論じるべき問題をこの原注のなかで先走って展開するのはどうかという配慮があったためと考えられる。
 マルクスはイングランド銀行が地方銀行業者たちがいうような、保有する有価証券で自行の銀行券を流通から回収しなければならない状況とは、本来どういう状況なのかを暗に示唆するだけで、それを正面から論じようとはしていない。それは〈のちに研究する必要がある〉としているだけである。しかしそれが地方の発券銀行が有価証券を売却して銀行券を入手しなければならない事情と(しかし彼らの場合は入手するのはイングランド銀行券なのだが)、イングランド銀行がそうしなければならない事情とは決して同じではないこと、その意味でもフラートンらの主張が誤りであることは明確に指摘しているのである。

  ところで大谷氏はこのフラートンへのマルクスの挿入文について次のように述べている。

 〈マルクスはまず,「銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束のかたちでは,前貸をすることができないということである」と説明する。「自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束」とは言うまでもなく銀行券のことである。銀行券の発行にかかる費用は紙代と印刷代だけであり,このごくわずかの費用しかかからない銀行券が流通にとどまるかぎり,これが資本として(バランスシートでは資産のなかの「貸付」ないし「有価証券」として)銀行に利子をもたらすのである。ところが,トゥクやフラートンは,流通銀行券は流通必要貨幣量によって規定されるのであって,発行銀行が自分の意志によってその量を増加させることはできず,必要量を超える発行銀行券は、預金などとして銀行に戻ってくる,と--正しく--考えているので,「どの銀行も,自行の発券高がすでに,銀行券通貨を用いるさいの普通の目的に適合している場合には,この発券高を増加させることはできない」ということになる。〉 (42-43頁)

  幾つかの混乱がある。
  (1)まずマルクスが〈「銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束のかたちでは,前貸をすることができないということである」〉というのは、逼迫期の問題としてマルクスは論じていることが大谷氏には分かっていない。銀行券での貸し出しができないというのは、逼迫期においては地方の発券銀行の銀行券では信用がないからである。それは流通通貨が商品流通に必要なもの以上には流通しないということとはまた別の話なのである。もし銀行券で貸し出しができるなら、それは流通必要量を越えているか否かとは別の問題である。現実の資本(産業資本や商業資本)が貸し出しを要求するなら、貸し出しは可能である。ただそれが全体として流通必要量を上回るなら、それらは流通に留まることができず、すぐに銀行に預金や支払として還流するだけの話なのである。
  (2)問題は、逼迫期には地方の発券銀行券では信用がなく、そして逼迫期に現実資本(産業資本や商業資本)に必要なのは支払手段としての「現金」(金またはイングランド銀行券)なのである。だからそうした場合には、地方銀行業者は自身の所持する債権を売って金かイングランド銀行券に変換して、その貸し出し要請に応じる必要が生じてくる。地方の銀行券でも貸し出しが可能なら(それだけ信用が安定しているなら)、もしそれが例え流通必要量を越えているとしても、貸し出しが不能ということとしてではなく、貸し出してもすぐに預金や支払等で銀行に還流してくるという現象として生じてくるだけで、貸し出し不能ということではない。発券銀行は銀行券による貸付を増大させて、流通銀行券を恣意的に増大させることはできない、というのはそれが流通必要量以上になれば、結局は、自行に兌換要求や預金や支払として(あるいば他行との交換を経て)還流してくるからである(そしてこうした場合は、結局は、銀行券による貸付は、自行の資本での貸し付けになると彼ら、つまり地方の銀行業者や銀行学派たち、は言うのである)。こうしたことと逼迫期に信用がなくて地方銀行券ではもはや貸し出しができないということとは別の話なのである。
  さらに続けて大谷氏は次のように説明している。

 〈預金支払いおよび兌換のための準備金は確保しておかなければならないから,現金(預金銀行にとっても中央銀行にとっても,金または中央銀行券)を入手する最初の手段は「準備有価証券の売却」である。この売却によって入手した現金(金または中央銀行券)は,銀行にとって確保しなければならない準備金という「資本」への追加額である。この追加された「資本」は,「これと引き換えに……利子生み証券を譲渡した」のだから,それはいまでは「銀行の資本の一部分を構成して」おり,「いまでは6)この銀行券は資本を表わしている」のであって,この貨幣をふたたび貸し付ける(手形を割り引く)ならば,これは銀行の「資本」を前貸しているのだ,とマルクスは言うのである。〉 (43頁)

  ここらあたりの大谷氏の解説は間違いだらけである。この一文のおかしなところを指摘しておこう。
  (1)まず大谷氏は地方の発券銀行が自行の銀行券で貸付ができない状況というのは逼迫期であることが分かっていない。マルクスはそれを想定して論じているのである。だからそれが分かっていないと何も分からないことになる。
  (2)地方銀行が準備している有価証券を売却して現金を確保した場合、その現金が〈「資本」への追加額である〉というのはおかしい。ただ準備金の形態を替えただけだからである。
  (3)〈この貨幣をふたたび貸し付ける(手形を割り引く)ならば,これは銀行の「資本」を前貸しているのだ,とマルクスは言うのである〉というのはまったく間違っている。これはフラートンらが言っていることをマルクスは説明しているのである。だからそもそもなぜマルクスはフラートンらが何をもって「資本」と言っているのかを明らかにしているのかが大谷氏には分かっていない。マルクスは銀行が貸し出す貨幣は利子生み資本(moneyed capital)だと考えているのである。しかしマルクスはそうした科学的な概念を対置してフラートンを批判しているのではない。しかしフラートンらの主張の検討の前提としてそれがあるということをまずわれわれとしては理解しておく必要があるが、それが大谷氏にはないのである。マルクスはフラートンらも「資本」の貸付について論じているが、果たしてそれは科学的な意味での利子生み資本(moneyed capital)という意味でなのかどうかを検討しているのである。しかし結局、フラートンらがいう「資本」というのは銀行業者的な意味でしかないということを暴露しようとしているのである。だから準備金の持ち出しになるからそれは「資本」の貸し付けだ、というのは、マルクスではなくて、フラートンらが主張していることなのである。
  ところで大谷氏は上記の引用文のなかで注6)を付けて次のように述べている。

 〈6) 利子生み証券であったときでも「銀行の資本の一部」であったのだから,「いまでは」というのは適切ではないように思われるが,前には銀行券という「信用資本」で貸し付けることができたのが今度はそれと違って,といった意味で言われているのであろう。〉 (43頁)

  しかしこれも勘違いも甚だしい。マルクスが〈「いまでは6)この銀行券は資本を表わしている」〉と述べている「銀行券」とはイングランド銀行券のことである。その前にマルクスは金で貸し付ける場合にはそれが資本であることは明確だが、イングランド銀行券の場合も同じだと述べているのである。しかもこの「資本を表わしている」というのはフラートンらの理屈なのである。それが大谷氏には分かっていない。
  このフラートンの引用文へのマルクスの挿入文について大谷氏は結論的に次のように述べている。

  〈以上のマルクスの記述から読み取れるのは,上記のフラートンの文言での「資本」が「銀行業者的な意味で用いられている」とマルクスが言うときの「銀行業者的な意味」での「資本」とは,ひとまず直接には,銀行資本のうちの準備金およびそれに準じる容易に換金可能な(流動性の高い)「実物的な構成部分」のことだ,と言うことができるであろう。すでに見たように,銀行にとってこの構成部分は,安全性の観点からつねに確保されていなければならないにもかかわらず,収益性の観点からは最小限にとどめたい部分なのである。〉 (44頁)

  結局、大谷氏はマルクスが問題にしているのが逼迫期の問題だということが分かっていない。だから地方の発券銀行が自行の銀行券で貸し出しができないという状況がどうしてかが分かっていない。そしてそうした場合には彼らは現金を手に入れるために、準備有価証券を換金する必要があり、だからその貸付は資本の貸付だとフラートンらが言っているということも分かっていない。マルクス自身が「資本」と言っているのではなく、マルクスはフラートンらが「資本」と言っているのはどういう意味かを見ているのである。ここで大谷氏は先走りして第29章の内容を持ち出して説明しているが、果たして適切といえるかどうかの判断は保留しておこう。

  小林氏はこれらのフラートンの引用に対するマルクスのコメントを紹介したあと次のように述べている。

  〈いずれにしてもフラートンによれば,イングランド銀行が一定の限度内で銀行券を発行して前貸しする場合と,その発行限度を超えて発券する場合とを対比し,前者の場合には銀行券は同行の信用によって発行されたものであるから「紙と印刷」以外の費用を要していないのに対し,後者の場合には「資本」(「資産」)を費やして入手した銀行券での前貸しであるから,それは「資本」の前貸しであると「区別」していくのである。しかしこの場合にも2~3の注意が必要であろう。第1は,一般的に言って銀行業者は,流通に必要な貨幣[通貨]を貨幣貸付資本(moneyed capital)として貸出す18)のであり,そこで「貨幣[通貨]を求める需要」が「資本を求める需要」として現れてくるという点である。第2は,発券銀行業者の場合には,この貸付けに用いられる貨幣が信用に基づくいわば「無償の」銀行券であるから,発券銀行業者にとっては,フラートンが言うように,自行の銀行券での前貸しは「利益をもたらす」,つまり「彼の資本」として,だから「価値増殖の手段として」機能する,という点である。ただし,銀行業者の「資本」として貸出しに用いられる「主要な資本」部分はbanking capitall9)と呼ばれ,それは貸借対照表上の「負債と資本」の全体ではなく,さらにこの「負債」の範囲が発券銀行と預金銀行とでは異なる点である20)。〉 (390-391頁)

  この一文で問題なのは次の通りである。
 (1)まずイングランド銀行が〈発行限度を超えて発券する場合〉などと述べているが、それは間違っている。イングランド銀行が発行限度いっぱいの銀行券を発行している場合、さらなる銀行券による貸付を要求された場合、同行は流通にある銀行券の還流をしなければ貸付が出来ない、だからその還流をやろうとするが、そのやりかたは手持ちの何らかの債権(国債等)を販売することなのである。だからそれは同行にとっては資産(債権)の貸付に帰着するのである。この点、著者は正しく問題を理解しているとは言い難い。
 (2)それに〈一般的に言って銀行業者は,流通に必要な貨幣[通貨]を貨幣貸付資本(moneyed capital)として貸出す18)のであり,そこで「貨幣[通貨]を求める需要」が「資本を求める需要」として現れてくるという点である〉という部分について。著者は銀行にとって貸付はすべて利子生み資本の貸付だから「資本をもとめる需要」であるかに述べているが、そうではない。銀行から貨幣融通を求める業者たちにとってもそれは貨幣資本(Geldcapital)という規定性をもっているからである。だからそうした意味でもそれは「資本を求める需要」なのである。
 (3)ところで注20)はギルバートからの抜粋であるが、著者はそのギルバートの区別に無批判であることから分かるが、マルクスが第25章の冒頭で論じている内容を正しく理解していないのである。注20)を抜粋しておこう。

  〈20)「銀行の資本(the trading capital of a bank)は2つの部分に,即ち,投下資本と銀行営業資本(the banking capital)とに,分けられると言ってよい。投下資本は事業を営む目的で出資者によって払い込まれた貨幣であり,これは真の資本(the real capital)と呼ばれえよう。銀行営業資本は[銀行]資本のうちの,その事業の過程で銀行自身によって創造(create)される部分であり,そして借入資本(borrowed capital)と呼ばれえよう。」そして「銀行営業資本の調達(raise)には3つの仕方がある。第1に預金の受け入れによって,第2に銀行券の発行によって,第3に為替手形の振出しによって」(J.W.Gilbart,The History and Principles of Banking,1834,p,117),と。因みにギルバートの著書からこの2つの部分を,マルクスはこの手稿の第1項に当たる「冒頭部分」では引用しているのであるが,手稿の第4項であるここ「Ⅰ)」では,第2の引用部分が置き去りにされている。なお第9章第3節を参照されたい。〉 (392-393頁)

   著者はこのように無批判にギルバートから引用しているが、ギルバートが銀行営業資本の調達について、預金の受け入れと銀行券の発行や為替手形の発行をごちゃ混ぜにしているのは間違っているのであるが、それが著者には分かっていないのである。前者は確かに銀行の営業資本としての自己の資本といいうるが、あとの二つは銀行の信用の供与であり、前者とは同じに扱うことはできないのである。だからこれは著者が第25章の冒頭部分の理解が不充分であることを示している。

   以下は、ついでに指摘しておくことであるが、マルクスは〈だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか? 1) 準備有価証券の売却(この準備有価証券というのは,国債,株券およびその他の利子付証券のことである〔)〕によって〉と書いているが、ここに出てくる〈)〉に対応する2)は大谷氏の訳注302)で指摘されているように、どこにもない。ではそれは本来はどこにあるべきなのであろうか。小林氏はそれを次のようなところに入れている。マルクスの一文の途中からであるが、小林氏が引用しているものを紹介しておこう。

   〈しかし,ではそれ[同行]はそれ[前貸し]をどのように行うのか?1)準備の有価証券の販売によって;(この準備の有価証券とは,国債,株式そしてその他の利子生み証券のことである[)]。しかしそれ[同行]はこの有価証券(Papiere)を何と引き換えに販売するのか? 貨幣;金または銀行券(後者[銀行券]がイングランド銀行の場合のように,法定通貨(1egal tender)である限り)と引き換えに[である]。だからそれ[同行]が前貸しするものは,どのような事情の下でも貨幣である。この貨幣は今やその資本の一部を構成している。それ[同行]が金を前貸しするときには,このことは自ずと明らかである。銀行券の場合,この銀行券はいまや資本を表している。というのはそれ[銀行券]は,それと引き換えに売却した一つの現実の価値を,[「準備の有価証券」であった]利子生み証券を表しているからである。個人銀行業者の場合には有価証券の販売によって彼らのところに流れてくる銀行券は,他の銀行券は有価証券の支払いにおいては受け取られないから,単にイングランド銀行券のみでありうる。しかしイングランド銀行自身は,それ[同行]が再び手に入れる銀行券は同行に資本を,即ち,[「準備の有価証券」である]利子生み証券を費やさせる。さらに[2)]同行はそれによって同行自身の銀行券を流通から引き上げる[ことによって]。(同行は,その流通が最高限度(Maximum)に達していないときに,同じものを,またはその補塡のみを,再び発行することができるのである。しかし同行が再び同じものを発行するとすれば,今やそれは資本を表しているのである。)14)」〉 (389-390頁)

   ここでは小林氏が〈1)〉に対応させて2)をどこに入れているかが分かるように、赤字で示しておいた。しかしこれはまったくとんちんかんなところである。マルクスは〈では,ここではなにを資本と言っているのか? 銀行はもはや,自行にはもちろん少しも費用のかからない支払約束promiss to pay〕のかたちでは,前貸をすることができないということである。だが,銀行はいったいどのようにして前貸をするのか? 1) 準備有価証券の売却……によって〉と書いている。つまりこれは明らかにマルクスがフラートンの主張をそのままなぞっている部分なのである。フラートンの主張を見てみると〈この限界が越えられたのちに行なわれるその前貸の追加は,すべて自行の資本からなされなければならないのであって,その保有する有価証券の一部分売却するか,またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって,供給されなければならならない,ということである〉となっている。このフラートンの主張の最初の〈その保有する有価証券の一部分売却するか〉が、マルクスが〈)〉と書いている部分に対応しているのだから、それに対応する2)はフラートンの文章では〈このような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって〉でなければならないことが分かる。すなわちマルクスの文章では〈「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」という付け加えは,私営銀行業者の場合には,ただ,彼らがいつもならそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行〔券〕または金を,いまは投資できない,ということを意味するだけである〉という部分である。だからこの冒頭に本来は2)は入れられるべきなのである(先の書き下し文ではその個所に入れておいた)。
   小林氏がこのようにまったく的外れのところに2)を入れたのは氏が〈「またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめることによって」という付け加えは,……云々〉以下部分がマルクス自身による〈「補足(Zusatz)〉(つまり〈付け加え〉)と捉えていることによる。次のように書いている。

  〈そしてこのコメントへの「補足(Zusatz)」としてマルクスは,さらに次のコメントを書き添えていく。即ち,フラートンの言う,「『あるいは,そのような有価証券への更なる投資の断念によって』は,個人銀行業者の場合には,そうでなければ彼らがそのような有価証券に投資したであろうイングランド銀行券または金を,今や彼らは[それに]投資することができないということ以外,いかなる意味をももたないのである。……(中略)……」,と。〉 (390頁)

   しかしこれも全くの読み違いである。大谷訳を読めばよく分かるように、マルクスが〈付け加え〉と述べているのは、フラートンがつけ加えているとマルクスが考えているのであって、マルクス自身がつけ加えている(あるいは補足している)わけではないのである。フラートンは〈その保有する有価証券の一部分売却するか,またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって,供給されなければならならない〉と主張しているが、そのあとの方で述べている〈またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって〉というのをマルクスはフラートンが〈付け加え〉ているものとして捉えているのである。
  これらはまあどちらかといえば大した問題ではないが、このような読み違え、あるは捉え方の違いは、解釈の相違として出てくることもあるので、とりえあえず指摘しておくことにする。

  (3)フラートンからの残りの引用部分

  これも引用だけであるが、大谷氏が英文に止めた部分を翻訳して書き直しておこう。

 〈「1837年1月3日、信用を維持し貨幣市場の困難に対処するためにイングランド銀行の資力が極度まで利用しつくされたとき、同行の貸付および割引への前貸しが17,022,000ポンド・スターリングという巨額に達したのをわれわれは見いだすのであるが、この金額はあの戦争(ナポレオン戦争)以来ほとんど聞いたことのないもので、それは、この期間中17、076、000ポンド・スターリングという低い水準にそのままとどまっていた総発券高にほぼ等しかったのである! 他方、1833年6月4日には、18,892,000ポンド・スターリングという通貨が、972,000ポンド・スターリングを超えないイングランド銀行の私的有価証券保有高に関する銀行報告と結びついているのであって、この後者の額は、過去半世紀間の記録中の最低ではないにしても、ほとんどそれに近いものだったのである」(フラートン。97,98ページ。)〔原注b)終わり〕〉

 これは一見して明らかなように、最初の引用文の冒頭でフラートンが述べている現象、すなわち〈イングランド銀行の保有有価証券は,同行のCirculationと同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことのほうが多い〉というその具体例であることが分かる。
 すなわち最初の1836年末から1837年初頭というのはイギリスが激しい恐慌に見舞われた時である。この恐慌は39年まで続いている。37年1月にはイングランド銀行の手形割引の残高が最高額を示している。また36年末には同行の金準備は400万ポンドを割り、39年には250万ポンドを割ってフランスに援助を求めるという「国民的屈辱」ともいえる事態が生じている、そういう時代のことである。それに対して1833年以後の3年間というのはイギリス経済にとっては非常な繁栄期であった。
 だからフラートンが最初に問題にしていたイングランド銀行に対する「貨幣融通の需要」が高まる時というのは、まさに恐慌時であることが分かるであろう。そして以下本文でマルクスが分析しているのもまさにそうした恐慌時の話なのである。しかしマルクスはそうしたことは明示的には指摘せずに論じているものだから、そこらあたり大谷氏も小林氏も間違うことになってしまっているわけである。】

  (以下、続く)

 

2022年1月12日 (水)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-7)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-7)

 


【20】

/330下/〔原注〕b)フラ一トン,同前,82ページ。226)貨幣融通pecuniary accommodation〕にたいする(すなわち資本の貸付にたいする)需要追加流通手段means of circulationにたいする需要と同じだ,と考えること,あるいは両者はしばしば結びついていると考えることさえも, じっさい大きなまちがいである。」227)(同前,97ページ〔同前訳,121-122ページ〕。)

  226) エンゲルス版では,フラ一トンからのこの引用は,さらに続けて同書の98ページ(第5章の終わり)まで〔1894年版では原文の英語で〕続けられている。エンゲルスは,草稿331ページ下半にある原注b)でマルクスが,「フラートンのこの箇所の全体を抜き出しておくことが重要である」と書いていることに留意して,あらかじめここに「この箇所の全体」を置いたのであろう。次の引用のうち,筆者が挿入した〈  〉で括られている2箇所は,マルクスがのちに草稿331ページ下半の最後のところで引用する箇所である。
  「どの需要も,とくにそれに影響を及ぼす事情のもとで生じるのであって,それらの事情はそれぞれ非常に違っている。すべてが活況を呈し,賃銀は高く,物価は上がり,工場は忙しいとき,このようなときには,より大きな,より頻繁な支払をする必要と結びついた追加機能を果たすために,通貨〔currency;エンゲルス版では強調されている〕の追加供給が必要になるのが常である。ところが,利子が上がり,資本〔capital,エンゲルス版では強調されている〕の前貸を求める圧迫がイングランド銀行に加わるのは,おもに,商業循環上のいっそう進んだ段階でのことであり,困難が現われはじめるとき,市場が供給過剰で還流が遅れるときのことである。イングランド銀行は通例その銀行券〔its promissory notes〕以外の手段では資本を前貸しないということ,したがって銀行券の発行を拒絶することは融資を拒絶することを意味するということは,ほんとうである。しかし,ひとたび融資が与えられるならば,万事は市場の必要に適合するように行なわれる。貸付はそのまま残り,通貨は,もし必要がなければ,発行者の手に帰って行く。したがって,〈議会報告書のほんのうわっつらを検討しただけでも納得できるように,イングランド銀行の保有有価証券は,同行のcirculationと同じ方向に動くよりも反対の方向に動くことのほうが多いのであり,したがって,この大銀行〔that great establishment〕の実例はけっして,地方銀行家たちがあのように強硬に主張している次のような趣旨の説の例外ではないのである。すなわち,どの銀行も,自行のcirculationがすでに,銀行券通貨〔a bank-note currency〕を用いるさいの普通の目的に適合している場合には,このcirculationを増加させることはできないのであって,この限界が越えられたのちに行われるその前貸しの追加は,すべて自行の資本からなされなければならないのであって,その保有する有価証券〔its securities in reserve〕の一部分を売却するか,またはこのような有価証券へのそれ以上の投資をやめるかすることによって,供給されなければならない,というのである。〉私が前のあるページで引用しておいた1833年から1840年までの期間の議会報告書から作成した表は,この真理について連続的に例証を与えているが,そのうちの二つだけをとってみても非常に特徴的なものであって,私がそれ以上になにかをつけ加えることはまったく不要なほどである。〈1837年1月3日,信用を維持し貨幣市場の困難に対処するためにイングランド銀行の資力が極度まで利用されたときには,われわれは,貸付や割引のためのこの銀行の前貸が17,022,000ポンド・スターリングという巨額に達したのを見いだすのであるが,この金額はあの戦争〔1793-1815年のナポレオン戦争〕以来ほとんど聞いたことのないもので,それは,この期間中17,076,000ポンド・スターリングという低い水準にそのままとどまっていた総発券高にほぼ等しかったのである! 他方,1833年6月4日には,18,892,000ポンド・スターリングというcirculation〔銀行券流通高〕が,972,000ポンドを越えないイングランド銀行の私的有価証券保有額〔private securities in hand〕に関する銀行報告と結びついているのであって,この額は,過去半世紀間の記録中の最低ではないにしても,ほとんどそれに近いものだったのである!〉」(同前訳,122-123ページ。)
  227)〔E〕エンゲルス版では,引用部分の拡大に合わせて,この出典も,「フラートン,同前,97,98ページ」に変更されている。〉 (114-115頁)

 【これは原注であり、フラートンからの引用だけなので、平易な書き下しは省略した。この原注はマルクスの草稿ノートの330頁の下段の途中に書かれており。先の【17】パラグラフが原注(a)であったのに対し、この部分は同じ頁に書かれた原注(b)であり、先のフラートンの引用につけられた注である。この注は、途中マルクスの文章も入るが【23】パラグラフまで続いたものになっている。
  これはフラートンの著書の第5章の最後の部分をなしている。先の【19】パラグラフが本文としてフラートンの著書の第5章の最初に掲げられている要約部分から採られたものであることを指摘した時に、その要約の全体も紹介しておいたが、その引用がその要約の最後の部分から採られていることが分かったが、今回の原注b)として引用されているものも、それに対応して、第5章の本文の最後のパラグラフからになっているのである。

  今回の内容も【19】パラグラフの本文として引用されているものと内容的にはほぼ同じものになっている。ただ、本文部分の引用では、「貸付資本に対する需要」となっていたものが、今回は「貨幣融通にたいする需要」と書いて、括弧に入れて「(すなわち資本の貸し付けに対する需要)」と言い換えている。つまりフラートンは、「貨幣融通」を「資本の貸付け」と捉えているということである。また前の引用では「追加の通貨」と言われていたのが、ここでは「追加流通手段」となっている。

  大谷氏は訳注226)でエンゲルス版で紹介されているフラートンの著書の第5章の最後の部分全体を紹介しているが、ここで大谷氏が〈エンゲルスは,草稿331ページ下半にある原注b)でマルクスが,「フラートンのこの箇所の全体を抜き出しておくことが重要である」と書いていることに留意して,あらかじめここに「この箇所の全体」を置いたのであろう。〉と述べている〈原注b)〉というのは、われわれのパラグラフ番号では【30】を指しているのである。この訳注226)から明らかなように、フラートンからの引用はマルクス自身によって【31】パラグラフから再び行われており(ただし【31】パラグラフの中間部分にはかなり長いマルクス自身の挿入文がある)。これらのマルクスが引用している箇所については訳注226)では〈  〉で括られて指示されている。

 ところで大谷氏は【19】パラグラフでフラートンらが立てている命題としてマルクスが引用している一文と、【20】パラグラフの原注b)の最初のフラートンからの引用文を並べて、それを次のように解説している。

  〈フラートンのこの二つの記述からは,フラートンが,「貨幣融通にたいする需要」とは「資本の貸付にたいする需要」であり,「資本の貸付にたいする需要」とは「貸付資本にたいする需要」である,と見ていることがわかる。したがって,ここでフラートンが「資本の貸付」というときの「資本」とは「貸付資本」,すなわち貸し手である銀行にとっての資本を意味していることになる。フラートンはここで,一方の,貸付資本を求めて銀行に貨幣融通を迫る需要の大きさを表現する銀行の「有価証券」の量と,他方の,社会によって必要とされる追加流通手段の大きさを表現する銀行の「銀行券発行高」の量との,それぞれの変動を対比し,両者の変動のあいだにはまったく関係がない,と言っている、,要するにフラートンは,銀行のバランスシートの二つの勘定科目の対立的な量的変動を見ているのである。
  そこでマルクスは,さきの二つの流通が繁栄期と反転期とではそれぞれ異なった独自の動きをしているという,すでに見てきたことと,フラートンらがこのような意味で「貸付資本にたいする需要」と「追加流通手段にたいする需要」とがまったく別物だとしていることとが,「どこまで一致するのか」と問題を立てる。だから,この問題は,銀行の二つの勘定科目の量的変動として現われる銀行への二つの需要の量的変動が,社会的再生産過程における二つの流通の対立的な運動とどのような関連にあるのか,ということを問うているものなのである。〉  (32-33頁、太字は大谷氏による強調)

  しかしここで大谷氏が〈したがって,ここでフラートンが「資本の貸付」というときの「資本」とは「貸付資本」,すなわち貸し手である銀行にとっての資本を意味していることになる〉と説明しているのは果たして正しいであろうか。なぜなら、もしフラートンらが〈貸し手である銀行にとっての資本〉という意味で「資本の貸付」と述べているのであれば、彼らは正しく利子生み資本の概念を捉えていることになるからである。後の展開のなかで明らかになるが、銀行業者たちにとっての「資本の貸付」というのは、彼らが単なる信用による貸付ではなくて、自分の資本(自己資本と借入資本)による貸付になる場合を意味しているのである。それが銀行業者的な意味での「資本の貸付」なのである。そもそもマルクスが第28章の結論部分で指摘しているように、フラートンらが現実資本として投下される貨幣資本(geldcapital)と銀行によって貸し付けられる利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed Capital)とを混同しているのであって、彼らが「資本」や「通貨」という場合でさえ、その内容は混乱したものでしかないのである。
  また大谷氏は〈要するにフラートンは,銀行のバランスシートの二つの勘定科目の対立的な最的変動を見ている〉とか、〈これらをマルクスが「銀行業者の資本〔Bankerscapital〕」の「実物的な〔real〕構成部分」または「現実の〔wirklich〕構成部分」と呼ぶとき,銀行のバランスシ一トの借方すなわち「資産」を考えていることは明らかである〉(37頁)とか〈マルクスが「銀行業者の資本」と言うときも「銀行業資本」と言うときも,あるときはバランスシート上の借方すなわち「資産」を,あるときは貸方すなわち「自己資本」および「他人資本」を念頭に置いているが,さらにあるときは,「実物的な構成部分」が,「自己資本」に対応しているのか,それとも「他人資本」に対応しているのか,ということを問題にするときもある。どの場合でもマルクスの念頭には,バランスシートの借方の科目と貸方の科目との関連について,彼なりの大づかみの構図があると考えられる〉(37-38頁)と述べ、フラートンの一文やマルクスの考察を考えるうえでバランスシート(貸借対象表)を想定して考えるべきだと主張している。この貸借対象表を言い出したのは小林賢齋氏の方が先であるが、どうやら大谷氏もそれに影響され追随しているようである。
  しかし少なくともフラートンの著書(『通貨調節論』)を見ても、マルクスがそれについて論じているものを見てもバランスシート(貸借対象表)という言葉そのものが全く出てこないのである。大谷氏や小林氏はマルクスが銀行業者の資本の構成を詳しく見ている第29章該当個所(マルクスが「Ⅱ)」と番号を打っている部分)では、マルクスは明らかにバランスシート(貸借対象表)を想定して論じていると強調するのであるが、しかしマルクス自身は第29章該当個所でもそれについて何も論じていないのである。大谷氏はこのあと一旦第28章該当部分のテキストの検討から外れて、第29章該当個所の草稿の検討を先行して行っているが、そこでもバランスシートを前提に論じているのであるが、疑問を禁じ得ない。しかしこれらは実際に第29章該当個所の草稿(項目「Ⅱ)」)のところで詳しく検討を加える予定なので、ここでは疑問を呈するだけにしておこう。】


【21】

 〈しかし,このことから「貨幣融通にたいする需要」が金(ウィルスン,トゥックとその仲間たちが資本と呼んでいるもの〔)〕にたいする需要と一致する必要があることになるわけではまったくない,ということは,次のところからもわかる。--〉 (115頁)

  これはマルクス自身が書いた文章であるが、しかし原注b)のなかの一文である。つまり先のパラグラフの原注b)としてフラートンの著書からの引用に続けて同じ原注のなかで行を変えて書かれているのである。とりあえず、平易な書き下し文を書いておこう。

 〈フラートンは「貨幣融通に対する需要」を「資本の貸付に対する需要」とし、それが「追加流通手段の需要」と同じではないというが、しかしこのことからフラートンらがいう「貨幣融通にたいする需要」、つまり「資本の貸付に対する需要」がウィルソンやトゥックやその仲間たちが「資本」と読んでいる「金」に対する需要と一致する必要があることになるわけではまったくないでしょう。それは次のウェゲリンの議会証言からも分かることです。〉

  【ここではフラートンがいう「資本の貸付に対する需要」が、ウィルソンやトゥックが「資本」と呼んでいる「金」に対する需要と一致する必要があるわけではないとマルクスは指摘している。つまりマルクスは、ここでフラートンが「資本の貸付に対する需要」という場合の「資本」という言葉に注目し、まずそれはウィルソンやトゥックがやはり「資本」と言っている「金」と同じではないことを指摘する。まだフラートンがいう「資本」とは何を意味するのかについては言及していないが、それが重要なキーワードであることをここでも示唆しているのである。
  引き続き紹介されている議会証言との関連で考えるならば、彼らのいう「資本の貸付に対する需要」というのは、地金の輸出を目的としたものとして必ずしも考える必要はないということである。つまり地金輸出のための「資本の貸付に対する需要」なら、それが〈追加流通手段means of circulationにたいする需要〉ではないことは明らかであるが、フラートンらが主張していることはそうしたことはではないということをあらかじめ断っているともいえる。】


【22】

  〈[銀行法特別委員会,1857年〕第241号。(イングランド銀行総裁ウェゲリンが質される。)「〔ウェゲリン〕この金額〔」〕 (すなわち3日続けて毎日100万ずつ)〔「〕までの手形の割引は,公衆がそれ以上の額の現流通高〔active Circulation〕を求めないかぎり準備を減少させないでしょう。手形割引のさいに発行された銀行券は,銀行業者の媒介によって,また預金によって還流するでしょう。それらの取引が地金の輸出を目的としたものでないかぎり,または,国内にかなりのパニックが起こっていて,そのために公衆が銀行券をしまい込み,銀行業者に払い込もうとしないようなことがないかぎり,準備はそのような巨額な取引によっても影響されないでしょう。」(債務の形態のたんなる変化,云々。)(銀行法。報告。1857年。)〉 (115-116頁)

  【これも原注b)のなかにあるものであり、先のマルクスの一文で〈次のところからもわかる〉と書かれていたことを受けたものである。だから先にマルクスが述べていたこと、つまりフラートンが「資本の貸付」と説明している「貨幣融通に対する需要」がトゥックやウィルソンなどが言っている意味での資本(つまり金)への需要とは限らない理由として、その根拠として、今回の議会証言が紹介されているわけである。なお今回もただ議会証言だけなので平易な書き下し文は省略した。
  この引用に関しては、先の『経済志林』掲載の大谷氏のテキストでも今回の新本でも大谷氏による特別な注釈はないのであるが、以前の解読では結構長い説明を書いている。それを少し書き換えて紹介しておこう。

 《これは、ウェゲリンの銀行法委員会における証言からの引用であるが、マルクスはこのウェゲリンからの引用を「混乱。続き」(この名称そのものはMEGA編集部がつけた)のなかで取り上げており、それは大谷新著第4巻103-104頁に紹介されている(これはエンゲルス版では第33・34章に利用されている)大谷氏によれば、このウェゲリンの証言の抜粋は、まず「混乱。続き」になされ、それをもとにマルクスはこの原注を書いたのだが、しかし原注にする時に現物に当たって誤植を正していること、またこのウェゲリンからの引用は原注にあとから書き加えられたものだということである。

 このウェゲリンの証言について、若干の説明を加えておこう。
 まず「手形の割引」あるいは「手形割引」についてである。これは一般には事業者が信用で売って受け取った手形(だからこの手形は彼以外の他の事業者が振り出したものである)を急いで現金(金属貨幣か法貨としてのイングランド銀行券)に換えたい場合、手形の満期を待って振出人から現金を回収するのを待っていられない場合、それを銀行に持ち込んで、現金に換えてもらうことを手形割引というのである。その際、銀行は手形に記載されている金額(額面の金額)から満期までの利子分を割り引いて事業者に支払う、だからこれを手形「割引」というのである(ついでに付け加えておくと、銀行が事業者に貸し付ける場合、融資を受ける事業者が債務証書の代わりに手形を振り出して、それを割り引くこともある。しかしこれは「手形貸付」と呼び、本来の「手形割引」とは根本的に違ったものである)。
 イングランド銀行総裁のウェゲリンは、イングランド銀行が巨額の手形割引による貨幣融通を行っても、そのことによってはイングランド銀行の準備にはほとんど影響はないと証言している。
 このウェゲリンの証言を正確に理解するためにも、ここで少し1844年のピール銀行条例以後のイングランド銀行について、簡単に説明しておこう。
 先の通貨学派の説明のところで彼らは銀行券の発行をイングランド銀行の準備金にあわせて調節することを主張したと述べた。彼らはそのためには一つは地方銀行が発行する銀行券を抑制すること、またもう一つはイングランド銀行を発券部と銀行部の二つに分けることを提案した。彼らにいわせれば発券業務が一般の銀行業務と一緒になっていると、どうしても銀行券の発行が過剰になりがちになるというのである。だから彼らの理屈では発券業務は何物にも影響されないようにされなければならなかった。通貨学派の重鎮オーヴァーストンはいう。「宇宙における太陽のごとく一つの永劫の変わらざる力によって、それを取り囲むすべてのものを規制し、統制し、刺激し、しかも自らは何ものによっても影響されず、動かされないものにせよ」と。つまり発券業務をこのように何物にも影響されず、動かされないものにせよというのである。それを具体化したものが1844年のピール銀行法というのだ。
 この法律では一つは地方の発券銀行をそれ以上は認めず、またこれまでの実績以上の銀行券の発行を禁じた。それは最終的には銀行券の発行をイングランド銀行に集中することを目的にしたものだった。
 またイングランド銀行の発券部の無準備の(つまり金の準備の無い)銀行券の発行を国庫証券(国債)を保証として1400万ポンドまでにおさえた。そしてそれ以上の発券には金貨か金地金の裏付けが必要とした(ただし1/4までは銀でも可)。つまりイングランド銀行は1400万ポンドまでは準備金の量に関係なく銀行券を発行できるが、それ以上は準備金の量によって調節されるようになったのである。
 また銀行部については、他の一般銀行と基本的には同じとして市中銀行との自由競争にまかせる建前だった。
 だからこのウェゲリンの証言で言われている「準備」とはイングランド銀行の銀行部の「準備」であり、それは発券部の発行した銀行券のうち公衆の手中(つまり流通の中)にある銀行券を超える超過分であるとマルクスは論じている(大谷新本第3巻189頁参照)。ただ別の文献では、銀行部の準備にはそれだけではなく、100万ポンド程度の日常取引に要する金鋳貨の準備もあったとしている(伊藤誠・C.ラパヴィツァス『貨幣・金融の政治経済学』27頁)。だからそれはイングランド銀行の発券部(地金部)の準備金、すなわち地金とは直接同じではないことに注意が必要であろう。
 マルクスは先のフラートンの主張に対して、「貨幣融通に対する需要」がトゥックなどがいう「資本」、すなわち「金」に対する需要と一致する必要があることにはならないという自分の批判を根拠づけるものとしてこのウェゲリンの議会証言をここに引用している。
 ウェゲリンが、なぜ巨額の手形割引によるイングランド銀行の貨幣融通が準備に影響を与えないのか、その理由についても述べていることは重要である。その理由は手形割引で発行された銀行券が、すぐに銀行業者の媒介や預金によってイングランド銀行に還流してくるからだ、と述べている。ここらあたりはさらに今後詳細に検討されるのだが、ここではマルクスはただウェゲリンの証言を対置するだけで済ませているのである。
 ウェゲリンが巨額の手形割引にも関わらずイングランド銀行の準備にはなんの影響も与えないが、しかし例外も上げていることも確認しておこう。一つは、手形割引が「地金の輸出を目的としたものでないかぎり」ということである。これは手形割引がそうした目的の場合は、手形を持ち込んだ業者は銀行券ではなく、地金を要求するからである(あるいは銀行券で受け取っても、それをすぐに地金に交換するであろう)。この場合は明らかにイングランド銀行の地金準備そのものを直接減らすように作用するであろう。
 もう一つは「国内にかなりパニックが起こっていて、そのために公衆が銀行券をしまい込み、銀行業者に払い込もうとしない」場合である。この場合は、手形割引によって発行された銀行券が、すぐにイングランド銀行に還流せずに、市場にとどまるのである。だからこの場合は、イングランド銀行の銀行部の準備には直接影響するわけである。
 またマルクスがカッコで括って言っていること--〈債務の形態のたんなる変化,云々〉--はどういうことであろうか? これは「混乱。続き」の抜粋ノートにはなく、恐らくこの原注を書く時に付け加えられたものだと考えられる。
 これは銀行券について先に説明したものを思い出してもらいたい(【7】を参照)。つまりイングランド銀行が発行する銀行券は銀行にとっての債務であること、それが預金として還流してくるとウェゲリンは述べているのである。しかし預金は何かというと、これもやはりイングランド銀行にとっては預金者から預かったお金であり、銀行にとっては債務なのである。これも【7】で「預金のように借り入れた資本」と説明しておいた。つまり発行した銀行券は、銀行の債務なのだが、それが預金として還流してくるということは、ただ債務の形態が銀行券から預金に変わっただけだとマルクスは指摘しているのである。》】


【23】

  第500号。「〔ウェゲリン〕イングランド銀行は毎日150万の割引をすることができます。そしてそれは,同行の準備にほんのわずかの程度でも影響することなしに,引き続き行なわれます。銀行券は預金として帰ってきます。そして,ある勘定から別の勘定へのたんなる移転以外のどんな変化も起こりません。」銀行券は,この場合にはただ,信用の移転の手段として役立つだけなのである。〔原注b)終り〕|〉 (116頁)

  【これも原注b)の中で紹介されていた先のウェゲリンの証言の続きである。だからこの場合も平易な書き下し文は省略する。なおこの証言の引用で原注b)も終わっている。

 この部分も以前解説したものを紹介しておこう。
 ウェゲリンが言っていることは第241号の証言とそれほど違うわけではない。ようするにイングランド銀行は毎日巨額の手形割引で銀行券を発行しても、それはすぐに預金として帰ってくるので、引き続いて行うことが出来るのだ、ということである。
 この証言では、それに加えて、その結果は〈一つの勘定から別の勘定へのたんなる移転以外にどんな変化もおこりません〉と述べている。これはどういうことであろうか?
 銀行の簿記については詳しいことはわからないが、これは先の証言(【22】)の最後にマルクスが言っていること、すなわち〈債務の形態のたんなる変化〉と同じことであろう。つまり銀行の簿記の勘定科目の一つである「銀行券」が、同じ勘定科目である「預金」に変わったということである。銀行券が預金に移転した以外にどんな変化も起こらない、とウェゲリンは証言しているのである。
 ではそれに続くマルクスの文章〈銀行券は、この場合にはただ信用の移転の手段として役立つだけなのである〉はどういうことであろうか? 少しややこしいが、次のようなことと思われる。
 銀行券というは銀行がただ自行の信用だけで発行する債務証書(手形)である。それは債務であるから、その限りでは銀行が受けた信用である。それを銀行は利子生み資本として貸し出すのであるが、その場合は、銀行が自行の信用で発行したものを貸し出すのだから、銀行の信用を与えることになるのである。
  マルクスは第25章該当部分の草稿のなかで、〈銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で, 与えられることができる〉(大谷新本第2巻177頁)と述べていた。そのとき銀行券を説明して、〈銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない〉(同177-178頁)と述べ、〈この最後の信用形態は〉云々と説明を続けていた。
  だから銀行はその銀行券を貸し出すことによって、その受領者に信用を与えるのである。その銀行券を受領したもの(今仮にAとしよう)は、Aが与えた信用(Aが銀行に持参した他人の振り出した手形)を、割引くことによって、手形という信用の形態を銀行券という別の信用の形態に転換したのである。それはAにとっては銀行から受けた信用だが、しかし同時にそれはAが与えた信用の転化したものであり、その意味ではAの与えた信用の別の形態なのである。だからAはAの別の満期が迫ったA自身が振り出した手形(この場合の手形はAが受けた信用である)への支払を行う。つまり銀行券という彼の与えた信用の転化形態で、彼の受けた信用を相殺するのである。その銀行券を受け取ったもの(仮にBとする)は、Bの持っている手形(Bが与えた信用)の支払いを銀行券で受けたのだが、銀行券も依然として一つの信用形態であるから、だからBは彼が与えた信用を手形の形態から銀行券の形態にただ置き換えただけである。彼はその銀行券を銀行に預金することによって、彼が手形の振出人であるAに与えた信用を、今度は銀行に与えるのである。こうして銀行にとっては銀行券は還流してくるが、銀行券という形の「受けた信用」が、今度は預金という「受けた信用」に変化しているわけである。
 つまり銀行券は、このように手形を割り引いたAも、その銀行券で支払を受けたBなど、彼らのすべての取り引きを、ただ信用によって、すなわち一切の貨幣の介在なしに、終了させたわけである。だからマルクスはこの場合、銀行券は〈ただ信用の移転の手段として役立つだけなのである〉と述べているのではないだろうか。】


【24】

  /330上/まずもって明らかなのは,流通媒[511]介物の総量が増大せざるをえない第1の場合には,この媒介物にたいする需要が増大するということである。しかしまた同様に明らかなことは,たとえば或る製造業者が,より多くの資本を貨幣形態で支出しなければならないので或る銀行業者のもとでの自分の預金残高からソヴリン貨または銀行券でより多くを引き出すとしても,だからといって資本にたいする彼の需要が増大するわけではなく,ただ,彼が自分の資本を支出するさいのこの特殊的形態にたいする彼の需要が増大するだけだということである。ことはただ,彼が自分の資本をCirculationに投じるさいの技術的な形態にかかわるだけである。たとえば,信用制度の発展度が違えば,同量の可変資本,同額の労賃でも,他の国でよりも||331上|より多量の通貨〔currency〕を必要とするというようなものである。たとえば,イングランドではスコットランドでよりも,ドイツではイングランドでよりも,というように。農業者の(再生産過程で働いている)同量の資本が,季節が違えばa),それの諸機能を果たすのに違った量の貨幣を必要とする。/

  ①〔異文〕「彼が自分の資本を支出するさいの」←「彼の資本の」〉 (116-117頁)

  これはノートの330頁上段の途中から書かれており、本文である。ただこの本文は途中からノート331頁上段に書き継がれている。因みに330頁は【11】パラグラフの途中から始まっている。だからこのパラグラフは本文としては【18】、【19】パラグラフに直接繋がっているものである。まず平易な書き下し文を前回のものを転載しておこう。

 〈まずもって明らかなのは、流通媒介物の総量が増大せざるをえない第一の場合、すなわち繁栄期には、この媒介物に対する需要が増大するということです。しかし同様にまた明らかなことは、例えばある製造業者が、より多く貨幣形態で支出しなければならないので、ある銀行業者のもとでの自分の預金の残高からソヴリン貨または銀行券でより多くを引き出すとしても、だからといってそれが資本にたいする彼の需要が増大するわけではないのです(だからフラートンが考えるように、「貨幣融通への需要」が、すなわち「資本の貸付」に対する需要が増えるとは限らないのです)。ただ、彼が自分の資本を支出するさいの、この特殊的形態、つまりいわゆる「現金」に対する彼の需要が増大するだけだということです。問題は資本に対する需要ではなく、その特殊形態である「現金」に対する需要が増大したということなのです。だからこのことは彼が自分の資本を流通に投じるさいの技術的な形態にかかわるだけです。彼が何らかの事情で「現金」を必要としたということだけなのです。
 こうしたことは、例えば、信用制度の発展度が違えば、同量の可変資本、つまり同額の労賃でも、他の国でよりもより多量の通貨を必要とするというようなものです。例えば、イングランドではスコットランドでよりも、ドイツではイングランドでよりも、それぞれ信用制度が発展していないから、それだけ労働者への賃金として現金が支払われる割合が多いのと同じです。信用制度が発展していれば、例えばそれだけ労賃が労働者の預金口座に直接振り込まれるようになり、現金による支払が少なくなり、それだけ通貨に対する需要もより少なくなるでしょうから。その場合は、労働者が自分の預金から現金を引き出す場合にだけ現金が必要になるだけであり、それは一度に引き出されるわけではないからです。
 またこのことは、農業において再生産過程で働いている同じ資本が、季節が違えば、その諸機能を果たすのに違った量の貨幣を必要とすることについても言い得ます。例えば穀物の刈り入れの季節では季節労働者を多量に雇い入れ、彼らの賃金を現金で支給しなければならず、また収穫後の地代や税金の支払いが集中する時期は現金での支払いが多くなります。しかし夏場等は肥料などへの購入に対する支払いが増えるだけで現金での支払いは減るといったようにです。〉

  【このようにマルクスはフラートンが「貸付資本に対する需要と追加の通貨に対する需要とはまったく別のものであって、両者がいっしょに現れることはあまりない」と主張していることに対する批判をまずここから開始している。すでに原注b)でも、ウェゲリンの議会証言を対置することによってフラートンの批判を行っているが、本文としての批判はここからはじまっている。
 原注b)では、フラートンらが「貨幣融通に対する需要」とするものがウィルソンやトゥックらが「資本」とする金に対する需要とは一致しないことが指摘され、その論拠としてウェゲリンの証言が引用されただけであった。その証言では貨幣融通に対する需要に応じて発行される銀行券はすぐに銀行に還流するので、巨額の貨幣融通に対する需要に応じても、その準備にはいささかの影響も与えないというものであった。マルクスはこのウェゲリンの証言によって、フラートンらのいう「貸付資本に対する需要」というのは、単なる資本一般に対する需要とは異なることを指摘しているのである。もちろんウェゲリンの証言はそれ以上のこと(つまり銀行券の銀行への即時の還流という事実)を語っているが、しかしここではまだそれを必ずしも反証として提出しているわけではない。原注b)ではマルクスはウェゲリンのイングランド銀行は貨幣融通の需要に応じても、準備にはなんの影響も与えないという証言に注目して、それをフラートンらの主張に対置しているだけである。
 そしてこのパラグラフでは、今度は、貨幣融通に対する需要が増大するとしても、それは必ずしも資本に対する需要が増大することを意味しない場合もあることを、別の形で論証しようとしている。すなわち、それは資本の支出の特殊な形態に対する需要が増大しているだけである場合もある、と反論しているのである。この場合、マルクスはまだそれを一般論として述べているだけである。だからある製造業者の例を上げたり、あるいは信用制度の相違によって同額の労賃の支払いでも、それが貨幣形態でされるかどうかには差があることや、農業者の同じ資本でも貨幣形態で支出される場合が季節によって異なることなどを上げているのである。
 つまりフラートンが「貸付資本に対する需要の増大」といっているものは、ただ〈資本家が彼の資本を支出するさいのこの特殊的形態--つまり「現金」--にたいする需要が増大しているだけ〉の場合もありうるというのが、マルクスがこのパラグラフで言いたいことなのである。これが何を意味するかは、徐々に明らかにされていくであろうが、マルクスが最終的には何を結論して考えているかについて一言述べておいた方が分かりやすいであろう。マルクスは反転期における「貸付資本に対する需要の増大」というのは、要するに事業家たちが破滅を避けるために切迫した諸支払に応じるに必要な現金、すなわち支払手段に対する需要なのだということなのである。それがフラートンらには分かっていない。求められているのが支払手段だから、それらはすぐに銀行に還流してくるのだというのがマルクスの結論なのである。ただマルクスはそうした結論をすぐに対置して批判するのではなく、これはマルクスのいつものやり方なのであるが、徐々に外堀から埋めていくというやり方で問題を論じようとしているかに見える。

 ただこの部分では、信用制度の発展度がイングランドよりもスコットランドの方が高いことになるのだが、果たして当時の具体的な状況としてそうしたことが言えるのかどうか、という問題がある。というのはイングランドのロンドンはやはり当時の信用制度の中心であり、各地方銀行もロンドンに支店や代理店を構えていたとの記述もあるからである。だからやはりイングランドの方が信用制度としては発展していたのではないのか、との疑問も生じるからである。
 ただこれについては、フラートンの『通貨調節論』には、スコットランドでは銀行はその創業当時から預金に利子をつける慣行があって、そのために銀行業の使用資本は1826年から1840年までにほぼ倍増したこと、とくにその支店数の増加は著しく、人口6000人につき銀行本店または支店が各1つを数えるほどになっているとされている。そしてスコットランドでは社会の最下級層を除けばあらゆる人々が銀行を利用しているとも指摘している。次のように述べている。

 〈スコットランドでは社会の最下級層を除けばあらゆる人々が銀行を利用しており、1841年にベレーヤ氏が見積もったところによると、利付銀行預金の総額は2千6百万ないし2千7百万ポンド、すなわち、通貨流通高の約10倍という驚くべき巨額に達していた。スコットランドでは金を使わない。1ポンド以上の売買取引は一切帳簿振替か銀行券によって遂行され、銀行券発行の全体の3分の2までが金の役割を演ずるために行われている〉(改造選書、阿野季房訳117頁)〈また、スコットランドにおいて交換取引を円滑にするために活用される信用の力が、他の諸事情に関連して、イングランドにおけるよりも絶対的に劣っていないことは勿論、多少でも劣っているということさえないのである。否、全く反対である〉 (同118頁)。

 またこれに関連して、トゥックの『通貨原理の研究』を見ると、当時のスコットランドの銀行業者の議会証言が紹介されているが、そこには次のようなものがある。
 質問者は銀行券の発行が通貨の増加につながるのではないかとしつこく質問するのに対して、銀行業者は「特別な時期」(恐らく逼迫期のことを指していると思う)に銀行券を発行しても、それはすぐに自行や他行に預金として還流してくるので、通貨の流通高の増加につながらないと何度も証言している。それに対して、質問者は業を煮やして「その問題は、ずっとつきつめてゆけば結局、各銀行の発行した銀行券は公衆の手許には全然なくて、事実他の銀行の手に全部入ってしまうことにならざるをえないでしょう?」と決めつけたのに対して、次のように答えている。

 〈答え「それは、ただ考えた上だけの結果です。依然として300万ポンドの銀行券が銀行の外にあります。それはたいへん少額ではありますが、ひとびとはポケットや家庭の金箱のなかにいくらかの貨幣を持っていなければなりません。小売商人は、日々の売上げとしていくらかの貨幣を金庫のなかにいれておかなければなりません。そして製造業者は、使っているひとびとの労賃を支払うのに銀行券をもっていなければならない、などです。しかしそれは、イギリス全体の流通高にくらべればほんのごく小さな額です。スコットランドで300万ポンドというと全人口の一人当たり約1ポンドにすぎないのです。ところが、イングランドでは5ポンド以下のどんな品物にも金貨を使うことができるのに、なお銀行券の流通は一人当たり2ポンドです。イングランドの人口を1500万人、通貨を3000万ポンドとしての計算です」〉 (渡部善彦訳、勁草出版センター1978年、70ページ)(なおフラートンはこの1:2という比率は、銀行券の価値を考えると1:6になるとも指摘している)。

 これらの議会証言を見ても、当時のスコットランドがイングランドより信用制度としては発展していたと考えることが出来るであろう。】


【25】

|331下|〔原注〕259)a)〔原注a)終り〕/

  259) 注番号だけが書かれている。エンゲルス版では,当然に,この注はつけられていない。〉 (117頁)

  【これは先のパラグラフの最後の部分〈農業者の(再生産過程で働いている)同量の資本が,季節が違えばa),それの諸機能を果たすのに違った量の貨幣を必要とする〉につけられた原注であるが、項目があるがけで注そのものは書かれずじまいのようである。以前の解説では次のような説明を加えておいた。

  トゥックの『通貨原理の研究』に紹介されているJ.M.ギルバートの議会証言には次のようなものがある。〈……アイルランドの銀行券が12月に非常に増えるのは、その国の過剰発行の証拠になると思えるのですが、ところが事実は、収穫物が多量に市場に出されるために、年末にはとくに多くの銀行券が発行されるのです。……〉(同前75頁)。またフラートンも〈農村地方では8月と4月とで紙券流通推定高には50万ポンド方の開きがある。8月には通貨の量は一様に最低を示している。それは一般にクリスマスに向かって増加していく。そして3月25日の御告祭頃に最高額に達する。普通その頃は農夫は仕入れを行い、且つまた地代と夏の諸税との支払を済まさなければならないのである。〉(前掲112頁)。マルクスはあるいはこうしたものを参考文献として考えていたのかも知れない。】


【26】

  〈/331上/しかしフラートンの対置は正しくない。〉 (117頁)

  【これは本文であり、マルクスによるものであるが、たった一行であり、平易な書き下しは不要であろう。
   ここでマルクスが〈フラートンの対置〉と言っているものは何であろうか?
 これまでマルクスが本文や原注で引用してきたフラートンの一文を素直に読む限りは、それは〈貨幣融通に対する需要(すなわち貸付資本に対する需要〉を〈追加流通手段に対する需要〉に〈対置〉していることであると考えられる。
 ただマルクスが引用を省いてエンゲルスが加えている部分(【20】の訳注226))を見ると分かるが、フラートンは〈追加流通手段に対する需要〉が高まるのは〈すべてが活況を呈し、賃金は高く、物価は上がり、工場は忙しいとき〉、すなわち繁栄期だと捉えていることである。それに対して〈貸付資本に対する需要〉が高まるのは〈商業循環上のいっそう進んだ段階でのことであり、困難が現れはじめるとき、市場が供給過剰で還流が遅れる時〉、つまり逼迫期であると考えていることに注意が必要である。つまりフラートンは繁栄期には「通貨」に対する需要が高まり、逼迫期には「資本」の貸付に対する需要が高まる、だから両者が一緒に現れることはあまりないし、両者の需要が関連していると考えるのは間違いだと主張するのである。しかしマルクスはこうした〈対置〉は〈正しくない〉と言っている。それはどうしてなのか、それは以下の批判の中で展開されていく。】


【27】

  貸付にたいする需要--貸付にたいする需要の量--が,繁栄期を反転期〔period of adversity〕から区別するのではなく,貸付にたいするこの需要の充足が容易だということである。それどころか,繁栄期のあいだの信用システムの,だからまた貸付の需要供給のすさまじい発展,これこそが反転期のあいだの逼迫を招くものなのである。だから,この二つの時期を特徴づけるものは,貸付にたいする需要の量的な規模の相違ではないのである!〉 (117-118頁)

  ここから先のパラグラフで指摘した〈フラートンの対置〉の〈正しくない〉理由が明らかにされる。まず平易な書き下し文を以前のものを紹介しておこう。

 〈貸付に対する需要、すなわち貸付に対する需要の量が、繁栄期を反転期から区別するのではなく、貸付に対するこの需要の充足が容易だということが、繁栄期を反転期から区別するのです。それどころか、繁栄期のあいだの信用制度のすさまじい発展、だからまた貸付の需要供給がすさまじく発展することが、すなわちこうした繁栄期の信用の非常な膨張こそが、反転期のあいだの貨幣の逼迫を招くものなのです。だからこの二つの時期を特徴付けるものは、貸付にたいする需要の量的な規模の相違ではないのです。〉

  【つまり繁栄期には資本家はどんどん新たな投資をするために、銀行に資本の貸付を要求する。銀行はそれにまた次々と応じる。繁栄期には信用が弾力的でしっかりしており、銀行は資本家の高い貸付にたいする需要にも信用を膨張させて容易に応じることが出来る。しかしまさにこうした繁栄期の信用の膨張とそれに依拠した資本家の過剰投資こそが、反転期に彼らが商品が売れないのに次から次へと迫ってくる自分の手形の満期の支払のために、フラートンらがいうところの「貸付資本にたいする需要」が異常に高まる状況を生み出すのである。だから「貸付にたいする需要の量」という面から見れば、両者を区別することは出来ない。なぜなら繁栄期にも「貸付にたいする需要」が高く、また反転期にもやはり「貸付にたいする需要」が異常に高いからである。だから両者を区別するのはその量ではなく、ただその需要に銀行が応じる容易さである、とマルクスは述べている。つまり繁栄期には信用が弾力的でしっかりしているから、銀行も貸し付け需要には容易に応じることができる。しかし逼迫期には信用は収縮しており、貸し付け需要に応じることが困難になるのである。
 だから、ここではまだ繁栄期の「貸付にたいする需要」と逼迫期の「貸付にたいする需要」が、質的に異なること、逼迫期の「貸付にたいする需要」は単なる資本一般に対する需要ではなく、資本の支出の特殊な形態(現金)に対する需要であるということは必ずしも明確には対置されていない。ただその需要の量によっては両時期の区別はできないこと、その充足が容易か否かが両者を区別するのだと指摘して批判しているだけである。】

  以下、続く。

 

2022年1月 5日 (水)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-6)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-6)

 


【11】

  繁栄期--すなわち再生産過程が非常に膨張し速度を増し活気にあふれている時期--には,労働者は完全に就業している(たいていは賃銀の上昇も現われて,商業循環上の他の諸時期に賃銀が水準以下に下がるのを埋め合わせる)。そのほか,収入は大きくなり,消費は増加する。この局面はまた,さまざまな部門での価格の上昇をも伴う,等々 (それに加えて,輸入関税の[509]支払のための現金支出が増大する,等々)。通貨currency〕の分量は,ある限界のなかでは,増大する。ある限界のなかでと言うのは,流通速度の増大が通貨〔currency〕の総量の増大を制限するからである。収入のうちの労賃から成っている部分がつねに,最初は可変資本の形態で,しかもこれはもちろん貨幣形態で,前貸しされるかぎり,資本のうちのこの部分は,繁栄期には,それのCirculationのためにより多くの貨幣を必要とする。しかし156)第1に,われわれはこの貨幣を,||330上|一度は可変資本のCirculationに必要な貨幣として,第2に労働者の収入のCirculationに必要な貨幣として,というように2度計算してはならない。後者の貨幣は,小売取引で支出され,1週間ごとに(おおよそのところ)小売商人の預金として銀行業者に帰ってくるが, しかしそれはそれの比較的小さいもろもろの循環を描きながらさらにあらゆる種類の中間取引を媒介したのちのことである。繁栄期には生産的資本家にとって貨幣での還流は順調であり,したがって貨幣融通にたいする彼らの要求は,彼らがより多くの労賃を支払わなければならず,彼らの可変資本の流通のためにより多くの貨幣を必要とするということによっては,増大しない。170)

  156) 「第1に」--削除。
  この語は,すぐ次にでてくる「第2に」に対応するものであるが,マルクスの文章では,このあとさらに「一度は」という語が重ねて書かれているので,エンゲルスはこの「一度は」のほうを生かし,「第1に」を削ったのである。
  170) エンゲルス版ではこのあとに,改行して次の一文が書き加えられている。--「総括的な結果は,繁栄期には収入の支出に役立つ流通手段の量が決定的に増大するということである。」〉 (107-109頁)

  ここでは先のパラグラフ(【10】)で〈同じ事情が,二つの機能で,または二つの部面で流通する貨幣総量に,またはイギリス人が通貨〔currency〕を銀行用語化して言うところによれば,Circulationの量に,違った作用をする〉と指摘していたことを受けて、繁栄期という〈同じ事情〉が二つの部面で流通する貨幣総量にどのように作用するかを見ようとしている。そして二つの部面のうちの最初の部分、すなわち収入の流通の部面が問題になっている。最初に平易な書き下し文を以前の解読のときのものを再掲しておくことにする。

  〈先に同じ事情が二つの流通部面の通貨総量に違った作用をすると述べましたが、具体的に見ていきましょう。まず繁栄期が二つの流通部面の通貨総量にそれぞれどのように作用するかをみましょう。
 繁栄期と言うのは、再生産過程が非常に膨張して商品の流通速度も増大し、活気に溢れている時期のことです。そういう時は、労働者の就業もほぼ完全であり、だから賃金も上昇します。この時期にこそ、労働者は産業循環の他の諸時期に賃金が水準以下に下がっているのを何とか取り戻し埋め合わせをするのです。またこの時期は、それ以外の人々の収入も全体として大きくなり、だから消費は増加します。そのうえ、この局面では、さまざまな部門で商品の価格が上昇します。さらには輸出入も活発になり、輸入関税の支払のための現金支出も当然増大します。こうしたいろいろなことがあって、通貨の分量は、ある限界のなかでは増大するのです。
 ここで「ある限界のなかで」と言いましたが、それはこうした好況局面では、通貨の流通速度も増大しますから、流通速度が増大するということは、それだけ同じ貨幣片が一定期間に何回も商品流通を媒介するわけです。だから、それだけ通貨の流通必要量を減らすように作用するからです。
 ところで収入のうち労賃からなっている部分ですが、その貨幣は当然、まず最初は労働者を雇用する(労働力を購入する)資本家の可変資本の形態にあります。資本家はそれを貨幣形態で前貸(投資)します。つまり労働力を購入して、労働者にその貨幣を支払うのですが、その場合はだいたい「現金」でなされます。だから繁栄期には、雇用量も増え賃金も上がっている分、資本のこの部分(可変資本部分)は、それを流通させるためにより多くの貨幣を必要とするわけです。
 しかし間違ってはならないのは、第一に、私たちはこの貨幣を、一度は可変資本の流通に必要な貨幣として、第二に、労働者の収入の流通に必要な貨幣として、というように二度計算してはならないということです。なぜなら、可変資本として支出される貨幣も、労賃として労働者の収入の流通に必要な貨幣も、まったく同じ貨幣だからです。一つの貨幣がこの場合、労働力と生活手段という二つの商品を流通させるのですから、貨幣は一つでよいのですから。通貨の分量を問題にしているときにはその点、注意が必要です。
 後者の貨幣、つまり労賃は小売取引きで支出され、おおよそ1週間ごとに(週賃金の場合)小売商人の預金として銀行業者に帰っていますが、それはその比較的小さなもろもろの循環を描きながらさらにあらゆる種類の中間取引きを媒介した後のことです。繁栄期には生産的資本家にとって貨幣での還流は順調であり、だから貨幣融通に対する彼らの要求は、彼らがより多くの労賃を支払わなければならず、彼らの可変資本の流通のためにより多くの貨幣を必要とするということによっては、増大しません。なぜなら貨幣での還流が順調ということは、彼らの可変資本そのものも順調に還流するということであり、彼らは貨幣融通を受けなくても、前貸しする可変資本、つまり労働者に支払う賃金を容易に貨幣形態で入手しうることを意味するからです。〉

  【ここではまず繁栄期が二つの流通部面で流通する通貨総量にどのように作用するかを見ている。そしてその二つの流通部面のうち、収入の流通部面をまず問題にしている。
  まずマルクスは繁栄期というのは、再生産過程が非常に膨張し、速度を増し、活気に溢れている時期と説明している。そうした時期が二つの流通部面のうちの第一の流通部面、すなわち収入の実現を媒介する流通部面では通貨の流通量にどのように作用するのかを見ているわけである。
  第一の流通部面では、通貨の流通量は増大するが、マルクスはその理由を(1)収入が増大し、よってまた消費も増加するから、(2)さまざまな部面での価格の上昇を伴うから、さらに3)輸入関税の支払のための現金支出も増大するから、という点に見ている。
  しかしこうした繁栄期は他方で流通速度が増大するので、通貨の流通量の増大と言ってもある限界のなかで言いうることだとも指摘している。速度は量の代わりになるからである。
  またこれと関連して収入のうち労賃からなる部分については、まずは資本家の可変資本として貨幣形態で存在し、それが労働者に労賃として支払われ、労働者によって彼の収入として消費手段の購入に支出されるが、同じ貨幣片が労働力の購入のために支払われ、消費手段の購入のために支払われるのだから、貨幣の必要量を二度計算してはならないと指摘している。これは別に労賃に限った話ではなく、一般の商品の流通においても同じ貨幣片が次々と商品の価格を実現していく場合には、それらの流通に必要な貨幣量は、ただ一つの貨幣片でしかないということからも明らからである。
  ただ労賃の場合は、同じ貨幣片がまずは可変資本として労働力の購入のために支払われ、それが労働者の収入として、生活手段の購入のために支払われ、生活手段を販売した小売商人の手に渡ったあと、彼らはその売り上げを銀行に預金することによって、銀行業者に帰ってくる。そして産業資本家は銀行からその同じ貨幣片を労働者への賃金支払のために引き出す等々という循環を描くことなる。もちろん、このあいだにはさまざまな中間取引を経ているのであるが、そうした貨幣片の循環が行なわれるのであり、繁栄期にはそうした循環は滞ることも少なく順調であり、だから産業資本家は労賃の支払が増えても、銀行から貨幣の融通を受ける必要を感じないのだとも指摘している。】


【12】

  ところで,同じ繁栄期において,諸資本の移転のために必要な,したがって純粋に資本家たち自身のあいだで行なわれるCirculationについて言えば,これは,同時に信用が最も弾力的で最も容易な時期でもある。このCirculationの速度は直接に信用によって調節され,したがって,諸支払の決済のために必要なCirculationの総量は(あるいは現金買いのために必要なそれさえも),相対的には減少する。それは絶対的には膨張するかもしれないが,しかし,いずれにせよ相対的には,つまり再生産過程の膨張に比べれば,減少する。一方ではより大量の支払が貨幣のいっさいの介入なしに清算される。他方では,過程の盛んな活気のために,同じ貨幣分量が,購買手段としての機能においても支払手段としての機能においても,より速く運動するようになる。より多くの異なった諸資本の還流〔returns〕が,同じ貨幣額によって媒介される。

  ①〔異文〕「現金買い〔Cashkaufen〕」←「現金支払〔Cashpaym[ents]〕」
  ②〔異文〕「より多くの異なった諸資本の〔von mehr verschieden Capitalien〕」←「異なった諸資本の〔verschidner Capitalien〕」〉 (109-110頁)

 先のパラグラフ(【11】)では、第一部面の流通において繁栄期が貨幣の流通量にどのように作用するかをみたのであるが、今回は同じ繁栄期が第二の流通部面(資本の移転と彼らがいう部面)における貨幣の流通量にどのように作用するかを見ている。まず、平易な書き下し文を以前のものを再掲しておく。

  〈ところで、同じ繁栄期において、諸資本の移転に必要な、したがって純粋に資本家たち自身のあいだで行われる流通について言いますと、この時期には信用がもっとも弾力的でもっとも容易な時期でもあります。だからこの流通の速度は直接に信用によって調節され(早められ)、よって諸支払の決済のために必要な通貨の総量は、あるいは現金売買のために必要な通貨さえも、相対的には、つまり移転される資本量に比べればむしろ減少します。それは絶対的には膨張するかも知れませんが、しかしいずれにせよ相対的には、つまり再生産過程の膨張に比べれば、減少するのです。一方ではより大量の支払が預金の振り替えや手形等の交換によって、貨幣のいっさいの介入なしに清算されます。他方では、過程の盛んな活気のために、同じ貨幣分量が、購買手段としての機能においても、支払手段としての機能においても、より速く運動するようになり、よってより多くの諸資本の還流が同じ貨幣額によって媒介されます。だから全体として通貨は相対的に減少するのです。〉

  【まずマルクスは繁栄期というのは、資本家たちのあいだで行なわれる流通についていうなら、信用がもっとも弾力的で容易な時期であることを指摘し、この資本家間の流通では信用取引がもっぱらであるが、流通の速度は信用によってさらに調整され、だから諸支払の決済のために必要な貨幣の量は相対的には減少すると述べている。
  本来、信用取引のほとんどが貨幣の媒介なしに、預金の振替等によって行なわれる。あるいは例え貨幣が決済のために必要だとしても、その流通速度が大きいために、一つの貨幣片がさまざまな決済を続けて行なうことになるとも指摘している。】


【13】

 〈全体として,このような時期には通貨〔currency〕は「潤沢〔full〕」に見えている。といっても,第2の部分は収縮し,他方,第1の部分は膨張するのであるが。〉 (110頁)

  今回は繁栄期のまとめのようである。全体を書き下すほどのものではないが、一応、以前のものを再掲しておく。

 〈全体として、繁栄期には通貨は「潤沢に」見えています。といっても、第2の部分、つまり諸資本の移転を媒介する部面では、むしろ通貨は(相対的に)収縮し、他方、第1の部面、すなわち収入の実現を媒介する部面では、膨張するのではありますが。〉

  【これが二つの部面を流通する通貨に繁栄期という「同じ事情」が違った作用するという結論である。全体として繁栄期には通貨は「潤沢」にみえているが、しかし二つの部面では違った現われ方をする。資本の流通の部面では信用がもっとも弾力的でもあるため、むしろ流通する通貨は相対的に収縮するのに対して、収入の流通する部面では、膨張するというのがその内容であった。つまり同じ繁栄期でも流通する通貨の増大と言う点では、二つの部面ではむしろ反対に作用することが指摘された。
  ところで、マルクスは繁栄期には〈通貨〔currency〕は「潤沢〔full〕」に見えている〉と述べている。この〈見えている〉とはどういうことであろうか。大谷氏はこの部分を次のように説明している。

  〈ここでマルクスは,「全体として,このような時期には」,「第2の部分は収縮し,他方,第1の部分は膨張する」が,通貨は「潤沢」に見えている〔'full'erscheinen〕」と言っている。マルクスが「潤沢〔full〕」に引用符をつけているのは,フラートンの『通貨調節論』で繰り返して使われているように,銀行用語では,あるいは「貨幣市場の立場からすると」(MEGAII/42,S600;本書第4巻110ページ22行),イングランド銀行のバランスシートで銀行券発行高として示される通貨ないし流通の量が多い状態は,流通(通貨)が十分にたっぷりあるという意味でa full circulation(潤沢な流通=通貨)だとし,逆にそれが少ない状態はa low circulation(少ない流通=通貨)と表現するからであり,また,「潤沢」に「見えている〔erscheinen〕」としているのは,発行銀行券のすべてがつねに流通しているわけではなく,そのうちの一部は銀行の準備金として休止しているのであって,信用の入手が困難で通貨の流通速度が遅くなっているときには,実際に流通している部分はけっして「潤沢」でない場合があることを念頭に置いているからである。〉 (30頁)

  しかしこうした説明は正しいようには思えない。マルクスは後の抜粋ノートのなかで論じている問題をとりあげて、私は大谷氏の通貨概念の混乱として紹介したことがあるが(「通貨概念の混乱を正す」「現代貨幣論研究」№12~14を参照)、「潤沢に見えている」というのは、銀行業者たちにとって手元にある準備金としてのイングランド銀行券が潤沢な状態を指しているのである。だからそれは実際に流通している通貨の過多を直接問題にしているのではない。むしろ銀行業者たちにとって潤沢に見えているということは、実際に流通している通貨量は少ないということなのである。なぜなら、流通必要量が少ないために銀行券は銀行に準備金として滞留しているのだからである。その状態を彼らは通貨は潤沢だと述べているのである。つまり彼らの手元にある銀行券は通貨ではなく利子生み資本なのであるが、粗雑な彼らの目には、それは現実に流通している銀行券、すなわち通貨と同じものとしか見えない。確かに銀行券は流通の中にあっても銀行業者の手の中にあっても素材的には同じ銀行券にしか見えない。だから粗雑な彼らの目にはそれらはすべて通貨にみえるのである。しかし形態規定性では、彼らの手元にあるものは利子生み資本(moneyed capital)であり、実際に流通しているものこそが通貨なのである。だから彼らの手元にそれが潤沢なら、彼らは通貨は潤沢だと述べているわけである。しかしそれは実際には利子生み資本(moneyed capital)が潤沢だということでしかない。流通している通貨そのものは反対に少ないからこそ、彼らの準備が潤沢なのだからである。この関係が大谷氏にも分かっていない。
  だから先のテキストにもどると、〈全体として,このような時期には通貨〔currency〕は「潤沢〔full〕」に見えている〉というのは、【11】パラグラフで〈繁栄期には生産的資本家にとって貨幣での還流は順調であり,したがって貨幣融通にたいする彼らの要求は,……増大しない〉と述べていたように、銀行業者にとっては貨幣融通に対する需要は少なく(だから利子率も比較的小さい)、銀行には貸付可能な貨幣資本、すなわち利子生み資本が潤沢にある状態だということである。そしてそのことが彼ら(銀行業者たち)には「通貨」が潤沢であるかに見えているのである。】


【14】

  {還流〔returns〕が商品資本の貨幣への再転化,G-W-G'を表現しているということは,すでに流通過程を考察したときに見たとおりである。信用は還流〔returns〕 を,生産的資本家にとってであろうと商人にとってであろうと,現実の還流〔returns〕にはかかわりのないものにする。彼は信用で売る。だから,彼の商品は,それが彼にとって貨幣に再転化する前に,つまり彼自身のもとに貨幣形態で還流してくる〔retourniren〕前に譲渡されているのである。他方では彼は信用で買う。したがって彼の商品の価値は,この価値が現実に貨幣に転化されるまえに,生産資本なり商品資本なりに再転化しているのである。しかし繁栄期には,手形が満期になり支払期限がくれば,還流〔returns〕が現に行なわれる。[510]小売商人〔Epicier〕は卸売商人に,卸売商人は生産者に,生産者は輸入業者に,等々というようにそれぞれ確実に還流させる。急速で確実な還流〔returns〕という外観は,いつでも,それの現実性が過ぎ去ってからもかなり長いあいだ,ひとたび動きだした信用によって維持される。というのも,信用還流〔Creditreturns〕が現実の還流の代わりをするからである。銀行は,それらの顧客が貨幣よりも手形を還流させる〔retourniren〕ほうが多くなると,危険を感じはじめる。リヴァプールの銀行理事の証言〔商業的窮境委員会でのリスタの証言,第2444-2534号〕を見よ。}

  ①〔注解〕「すでに流通過程を考察したときに」--カール・マルクス『資本論』(経済学草稿,1863-1865年)。第2部(第1草稿)。所収:MEGA II/4.1,S.140-161〔『資本の流通過程--『資本論』第2部第1稿--』中峯・大谷他訳,大月書店,1982年,9-35ページ〕。
  ②〔異文〕「現実に〔real〕」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「確実に」←「急速に」
  ④〔異文〕「……できる」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕はじめ,「それの現実性が過ぎ去ってからもかなり長いあいだ維持される。」として,この文を終えたが,最後のピリオドを抹消して,以下の部分,すなわち「ひとたび動きだした信用によって」および「というのも,信用還流〔Creditreturns〕が現実の還流の代わりをするからである。」という部分を付け加えた。
  ⑥〔異文〕「それらの」--dieをihreに変更した。
  ⑦〔注解〕〔MEGA II/4.2の〕 617ページ 14行-618ページ10行〔本書第4巻145-147ページ,「(6)リスタの証言」〕を見よ。この原典からの諸抜粋をマルクスが仕上げたのは,彼がここでのテキストの箇所を書くのよりも前であった(〔MEGA II/4.2〕923ページ〔MEGA付属資料「成立と来歴」,本書第2巻411-412ページ〕を見よ)。〔この注で指示されている箇所での証言は,現行版では第25章の末尾近くに収められている (MEGA II/15.S.404-405.MEW 25,S.427-428)。〕〉 (111-112頁)

  このパラグラフは全体が{  }に入っている。つまり関連はするが、直接本文として繋がった文章ではないということであろう。恐らくこのパラグラフは【12】パラグラフの〈繁栄期において,諸資本の移転のために必要な,したがって純粋に資本家たち自身のあいだで行なわれるCirculationについて言えば,これは,同時に信用が最も弾力的で最も容易な時期でもある〉という部分に関連して、あるいは【13】パラグラフの〈全体として,このような時期には通貨〔currency〕は「潤沢〔full〕」に見えている〉という部分に関連して書かれたものであろう。というのは銀行業者にとって〈通貨〔currency〕は「潤沢〔full〕」に見えている〉のは、〈資本家にとって貨幣での還流は順調〉だからである。とりあえず、前回の平易な書き下し文を再掲しておこう。

  〈還流というのは、商品資本の貨幣[資本]への再転化を、すなわちG-W-G’を表現しているということは、すでに流通過程(第2巻)を考察した時に見た通りです。信用はこの還流を、生産的資本家にとってであろうと商人にとってであろうと、現実の還流、つまり実際に商品が売れて、その価値が最終的に実現するかどうかということとは直接にはかかわりのないものにしてしまうのです。
 彼は信用で売ります。だから彼の商品は、それが彼にとって貨幣に再転化する前に、つまり彼自身のもとに貨幣形態で還流してくる前に譲渡されているのです。もちろん、彼はその代わりに手形を手にしています。それは彼の商品の証券による実現形態です。他方、彼は信用で買います。つまり彼は他の資本家や輸入業者から自分の生産に必要な生産手段等を信用で購入して、その代金として彼が自分の商品を信用で販売して入手した手形に裏書きして支払うのです。したがって彼の商品の価値は、現実に貨幣に転化する前に、つまり最終的に消費者に販売されて実現する前に、彼が信用で購入した商品資本なり生産資本に再転化しているのです。
 しかし繁栄期には、実際の商品の販売は順調であり、彼が振り出した手形が満期になり支払期限がくれば、その時には貨幣は現実に還流してきて、手形は決済されます。小売商人は、卸売商人に、卸売商人は生産者に、生産者は輸入業者に、等々というようにそれぞれ確実に還流させて、諸支払は決済されます。
 しかし急速で確実な還流という外観は、いつでも、それの現実性が過ぎ去ってからも、つまりもはやその現実性が失われているのに、しかしかなり長い間、ひとたび動きだした信用によって維持されるのです。というのも、信用による還流が、現実の還流の代わりをするからです。銀行は、それらの顧客が貨幣よりも手形を還流させるほうが多くなると、危険を感じはじめます。すでに現実の還流、商品の最終的な貨幣への転化が滞りはじめていることを、それは示唆しているからです。リヴァプールの銀行理事の証言を見れば分かります。〉

  【まずMEGAの注解①を見ると、〈すでに流通過程を考察したとき〉というのは、第2部第1草稿のことである。しかしそれは大谷氏の指摘している頁数では30頁近くもあるので、ここてはすべてを紹介することはできない。だからその一部ではあるが、ここで述べていることと関連すると思われる部分を紹介しておこう。

  〈形態G-W-G'はまた、特有の貨幣流通をも含んでいるのであって、それは、貨幣が流通手段として機能している単純な商品流通のなかで現われる貨幣流通とは異なるものである。後者の流通では、貨幣はある持ち手から他の持ち手へと移っていく。貨幣が貨幣を支払った人の手に復帰することはこの流通形態にとってはどうでもよいこと、偶然的なこと、外的なことであり、それゆえそれは必然的に生じるのではない。そして、そういうことが生じたとしても、そのことは流通の諸条件に含まれているわけではない。
  これにたいして、前貸しされた貨幣の前貸しした人への還流は、資本としての貨幣の流通の本質的な表現である。今度は、貨幣が流通に投じられるのは、そこからふたたび引き上げられるためである。〉 (中峰・大谷他訳、大月書店刊『資本の流通過程』20頁)

  次に〈リヴァプールの銀行理事の証言〔商業的窮境委員会でのリスタの証言,第2444-2534号〕を見よ〉にもMEGAの注解⑦が付いている。しかしその証言も〈第2444-2534号〉とあるように分量的にすべてを紹介するのは無理である。ただその直前にマルクスが述べている〈銀行は,それらの顧客が貨幣よりも手形を還流させる〔retourniren〕ほうが多くなると,危険を感じはじめる〉という部分に直接関連すると思えるものはそこにはない。むしろ繁栄期における信用膨張とそれが危険を孕んでいても銀行業者には確かめようがないということが証言されている。部分的に紹介してみよう。

  第2444号(リスタ。リヴァプールのユニオン銀行のマネジャー。)
  「〔リスタ〕甚だしい信用拡張が生じました。……それは,事業家たちが自分の資産を事業から鉄道に移しながら,しかも事業をもとのままの規模で続行しようと望んでいたからです。だれでもおそらく最初は,鉄道株を売って利潤を手に入れ,その貨幣を事業に戻すことができると思ったのでしょう。たぶん,それが不可能だということがわかり,そこで,以前は現金で支払っていた自分の事業で信用を受けるようになりました。こういう事情から信用の拡張が生じたのです。
  第2500号。〔質問〕銀行がもっていて損をしたという……これらの手形は,主に穀物にたいする手形とか綿花にたいする手形だったのですか?--〔リスタ〕……それらは,あらゆる種類の生産物,つまり穀物,綿花,砂糖,あらゆる種類の外国生産物にたいする手形でした。おそらく,油を別として,価格の下がらなかったものはほとんどありませんでした。
  第2516号。〔リスタ〕わたしどもは外国からの手形も受け取ります。……だれかが外国でイギリスあての手形を買って,それをイギリスの商社に送ってきます。わたしどもはその手形を見ても,それが慎重に振り出されたものかどうか,生産物を代表しているものかそれとも空手形なのかを見分けることはできません。〉 (大谷『マルクスの利子生み資本論』第4巻145-147頁)

  さて、このパラグラフでは信用による売買が過度の信用膨張を、つまりいわゆるバブルを生じさせることを述べているのだが(リスタの証言では、鉄道株への投機熱が燃え上がって、"猫も杓子も"鉄道株の投機に走り、自分の事業につぎ込むはずの金も鉄道株の投機に使い果たしたために、自分の事業は信用でやるしかなかった。そのために極端な信用拡張が生じたことを指摘していた)、しかしこのことは必ずしも通貨の増減そのものとは、つまりいま論じていることとは直接には関連しないので、マルクスは括弧で括り挿入文としたのであろう。】


【15】

  反転期には事態は反対になる。第lのCirculationは収縮する(物価は下がり,労賃〔も下がり〕,取引の総量は減少する,等々)。これに反して,信用の減退につれて,貨幣融通〔monetary accommodation〕にたいする要求が増大するのであるが,この件については,すぐあとでもっと詳しく述べるであろう。

  ①〔異文〕「その結果Circulationは滞って」という書きかけが消されている。〉 (112頁)

  ここからはそれまでの繁栄期に対して、反転期、つまり不況期では、流通の二つの部面における通貨の流通量にどのような作用を及ぼすかが問題になっている。まずは平易な書き下し文である。

 〈「反転期」、つまり景気が加熱から一転して不景気に、恐慌に突入すると、事態は反対になります。
 第一の、つまり収入の流通を媒介する通貨は収縮します。なぜなら、物価は下がり、労賃も下がり、取引きの総量も減少するからです。
  これに反して、第二の、つまり資本の流通部面では、信用が減退するにつれて、貨幣融通、つまり貨幣を貸して欲しいという要求が増大します。なぜなら、もはや信用が収縮して、誰も危なくて手形を安易には受け取ろうとはせず、現金を要求するからです。また自分の振り出した手形の満期(支払)が近づいているのに、商品が売れなかったり、あるいは自分が受け取った他人の手形の支払がされないために、自分の支払いも出来ないからです。だから誰もが現金を手に入れようと必死になり、現金を貸して欲しいという要求が銀行に殺到するのです。しかしこの件については、すぐあとでもっと詳しく述べる機会があたりますので、それに譲りましょう。〉

  【最後にある〈信用の減退につれて,貨幣融通monetary accommodation〕にたいする要求が増大するのであるが,この件については,すぐあとでもっと詳しく述べるであろう〉と書いているが、これは恐らくすぐあとの【18】パラグラフから始まるフラートンの主張の批判的検討を指すのであろう。】


【16】

  そのまえに,ここにもう一つ,私が前に述べたことを書いておかなければならない。--「信用が優勢な時期には,貨幣流通〔Geldumlauf〕の速度は商品の価格よりも急速に増大するのに,信用の減退にともなって,商品の価格はCirculationの速度よりも緩慢に下落する。」a) /

  ①〔注解〕「前に述べた」--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』,ベルリン,1859年,83ページ (MEGA Il/2,S.172)。〉 (112-113頁)

  これもとりあえず、平易な書き下し文を転載しておこう。

  〈その前に、ここにもう一つ、私が前に『経済学批判』で述べたことを書いておかなければなりません。--すなわち、「信用が優勢でしっかりしている時は、貨幣流通の速度も早くて、商品の価格が上昇する以上に早く流通する。だから景気の加熱の割りには通貨量の増大はそれほどでない。他方、信用が減退するに伴って、商品の価格は通貨の速度よりも緩慢に下落する。だから通貨の速度が遅くなり、それだけ通貨量が必要とされるのに、商品価格がそれほど下落しないから、それだけ通貨に対する欲求が増えることになる。」ということです。〉

  【ここで〈そのまえに〉とあるのは、その前のパラグラフの最後に〈信用の減退につれて,貨幣融通monetary accommodation〕にたいする要求が増大するのであるが,この件については,すぐあとでもっと詳しく述べるであろう〉と書いたために、その詳しく述べる〈まえに〉ということである。
  ここでは『経済学批判』の一文が引用されているが、それがどいう分脈で言われているものかは、次の原注のなかで紹介することにしよう。】


【17】

 〈|330下|〔原注〕a)『経済学批判』,83,84ページ。〔原注a)終り〕/〉 (232頁)

  【これは原注の典拠を示すだけで、特に解説のしようもないが、実際の『経済学批判』ではこの一文はどのような分脈のなかで出てくるのかを紹介しておこう。マルクスが引用している部分は【  】で括った。

  〈流通する諸商品の総価格が騰貴するが、その騰貴の割合が貨幣通流の速度の上昇よりも小さければ、流通手段の量は減少するであろう。逆に流通の速度が、流通する商品の総価格が減少するよりも大きな割合で低下するならば、流通手段の量は増加するであろう。価格が一般的に低落するのにともなう流通手段の量の増加、価格が一般的に騰貴するのにともなう流通手段の量の減少は、商品価格の歴史のうえでもっともよく確認された現象の一つである。しかし、価格水準の騰貴をひき起こし、同時に貨幣の流通速度の水準のそれ以上の上昇をひき起こす諸原因、さらにまたその逆の運動をひき起こす諸原因は、単純な流通の考察の範囲外にある。一例としては、【信用がひろく行なわれている時代にはとくに、貨幣通流の速度は商品の価格よりも急速に上昇するのに、信用の減退にともなって、商品の価格は流通の速度よりも緩慢に低下する】ことを挙げることができる。単純な貨幣流通の表面的で形式的な性格は、まさに次のことに現われている。すなわち、流通手段の数を規定するすべての契機、たとえば流通する商品の量、価格、価絡の騰落、同時に行なわれる購買と販売の数、貨幣通流の速度のような諸契機は、商品世界の変態の過程に左右され、この過程はまたこれで、生産様式の全性格、人口数、都市と農村との関係、運輸手段の発達、分業の大小、信用等々、要するにすべて単純な貨幣流通の外部にあって、ただそれには反映するだけの諸事情に左右される、ということである。〉 (草稿集③319頁)】


【18】

  /330上/信用が減退するとともに--信用の減退そのものは再生産過程の停滞と結びついている--,第1のものに必要なCirculation総量は減少するが,他方,第2のものに必要なそれは増加する,ということにはまったく疑う余地がない。しかし,この命題が,フラ一トン等々が立てている次の命題とどこまで一致するのかということを,いま詳しく研究しなければならない。--

  ①〔異文〕「だから減少する,つまり〔……の〕量」という書きかけが消されている。なお,このなかの「量」は,まず「需要」と書き,それを「貨幣〔G[eld]〕」と変え,それをさらにこのように変更したものである。〉 (113頁)

  平易な書き下し文を転載しておこう。

  〈信用が減退します。つまり誰も信用での売買を警戒しはじめます。これは再生産過程そのものが停滞していることと結びついています。この場合、第一の部面、つまり収入の実現に必要な通貨の総量は減少しますが(その理由はすでに【15】で述べました)、他方、第二の部面、つまり資本の移転に必要な通貨量は増大するということはまったく疑う余地がありません。
 しかしこの命題が、フラートン等々が立てている次の命題とどこまで一致するのかということを、いま少し詳しく検討しなければなりません。〉


  【ここから〈信用の減退につれて,貨幣融通monetary accommodation〕にたいする要求が増大するのであるが,この件については,すぐあとでもっと詳しく述べるであろう〉と書いた、詳しい考察が開始される。主にフラートンの主張が批判されているが、しかしマルクスは常に〈フラ一トン等々〉と述べているように、決してフラートンだけが問題なのではなく、冒頭パラグラフで〈卜ゥック,ウィルスン,等々〉と述べていたように、銀行学派に共通のものとして論じていることに注意が必要であろう。
  またこれが〈信用が減退〉する時期が問題になっているように、マルクスが【4】パラグラフの[/(3)]で述べていた三つの混乱のなかの〈c)二つの機能で流通する,したがってまた再生産過程の二つの部面で流通する通貨(Currencies)の分量の相互間の相対的な割合に関する問題〉として〈同じ事情が,二つの機能で,または二つの部面で流通する貨幣総量に,または……Circulationの量に,違った作用をするのであり,また反対の方向にさえも作用する〉ということから、繁栄期の考察に続けてなされている反転期の考察の一環であることもまた確かなのである。だから以下のフラートン等の批判がc)の考察の範囲のなかにあることは明らかなのである。

  大谷氏はマルクスが〈この命題〉と述べていることについて次のように説明している。

  〈「この命題」というのは,直接には,反転期にはいると「第1のCirculationは収縮する(物価は下がり,労賃〔も下がり〕,取引の総量は減少する,等々)」が,「信用の減退につれて,貨幣融通にたいする要求が増大する」,ということであろう。しかし反転期についてのこの「命題」は,繁栄期に,物価も賃金も上昇し,収入が増大して消費が増加することによって「商人と消費者とのあいだの流通」は増大するが,「資本家どうしのあいだの流通」のほうは,信用が最も弾力的で最も容易であって,支払いの決済のために必要な貨幣量も現金売買のためのものでさえも,相対的には--再生産過程の膨張に比べれば--減少する,ということと対応しているもので,繁栄期における事情をも事実上含んでいるものと解される。要するに,繁栄期と反転期という二つの時期に二つの流通が,社会的再生産過程--実物資本--の状況に規定されて,異なった動きをみせる,ということであろう。〉 (32頁)

  しかし「命題」の説明としてはいかにも長々しい。マルクスは簡潔に信用の減退とともに第一のもの(収入の流通)に必要な通貨の総量は減少するが、第二のもの(資本の流通)に必要は通貨は増加すると述べている。これが〈フラ一トン等々が立てている次の命題〉、つまり貸付資本に対する需要と追加の流通手段にたいする需要とはまったく別のものだという命題と、どこまで一致するかを詳しく検討しようということでしかない。
  マルクスが収入の流通に必要な通貨は減少するが、資本の流通に必要な通貨は増加すると述べているのは、前者は購買手段として個人的消費者が利用する通貨量は減少するが、資本の流通に必要な通貨、すなわち支払手段は増大するということである。そうした命題が果たしてフラートンらが立てている命題とどこまで一致するかということは、フラートンらは資本の流通に必要な通貨というのが支払手段に対する需要だということを正しく見抜いているのかどうかを詳しく検討しようということでもあるのである。】


【19】

  〈①「貸付資本にたいする需要と追加のCirculationにたいする需要とはまったく別のものであって,両方がいっしょに現われることはあまりない。」b)/

  ①〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』,ロンドン, 1845年。この引用は,第5章の表題223)から取られたものである〔河野季房訳『通貨調節論』,改造社,1948年,104ページ〕。

  223)フラートン『通貨調節論』の各章の冒頭に置かれているのは,「表題〔Überschrift〕」というよりも,各章の内容要約である。〉 (113頁)

  【これはフラートンの『通貨調節論……』からの引用だけなので、平易な書き下し文は省略した。以前大谷氏が『経済志林』に掲載していたテキストのMEGAの注解には、〈強調はマルクスによるもの〉とあったが、今回はない。しかし、マルクスよるものと考えてよいであろう。MEGAの注解では〈第5章の表題から取られたものである〉とあるが、大谷氏の注にもあるように、それは〈「表題〔Überschrift〕」というよりも,各章の内容要約〉というべきものである。だからその要約全体を紹介しておこう(マルクスの引用部分に下線を引いておいた。)。

  〈銀行券の過剰発行は不可能であることの証明--銀行業者は彼らの発券高を増大させる力ももたなければ、これを縮少させる意志ももたない--株式銀行の設立が通貨におよぼした影響--スコットランドの通貨--貸付資本の需要と追加通貨の需要とは全く別のものであり、両者が一緒になっていることはさして頻々ではない。〉 (改造文庫版131頁、下線は引用者)

  ここで「貸付資本」とは本来は「貸し付け可能な貨幣資本」、すなわち「利子生み資本」、あるいは「貨幣資本(moneyed Capital)」を意味する。しかし勿論、ここで彼らがこうした意味で使っているわけではない(そもそもマルクスは銀行学派にはこうした明確な概念がないこと、その点での彼らの混乱振りを暴露するためにこの章を設定したのである)。それは彼らが「追加の通貨(Circulation)」といっている場合もそうである。それらはあくまでも銀行学派の述べている意味合いで理解しておく必要がある。彼らは何を「通貨」と言い、何を「資本」と述べていたかは、すでにこれまでにも考察されてきたが、特に前にも指摘したが、【7】パラグラフのトゥックら発券銀行業者の立場からの通貨と資本との規定と区別が重要である。フラートンらが「資本」という言葉で言っていることも同じような意味合いなのだが、それはあとで指摘される。要するにこれらの言葉は、あくまでもフラートンらの言っているものとして理解しておくことが重要なのである。
  さてこのフラートンのからの引用は本文であるが、それには原注b)が付けられている。それは次の【20】パラグラフから始まるが、この原注b)は単に典拠を示すものだけではなくて、【23】パラグラフまで続くものである。】

  とりあえず、今回はこれまでとして、原注b)の解読は次回に回す。

 

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