『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-9)
『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-9)
【32】
〈/331上/イングランド銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行なうので,これらの銀行券がどうなるのか,ということが問題となる。私営銀行業者の場合には事情が異なる。なぜなら,彼らはそのような場合に,327)イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである。
327)「イングランド銀行券」--草稿では.B.o.N.となっている。Bank of England Notesの略であろう。MEGA版では「Bank of Notes」としているが,これでは意味が通じない。〉 (123頁)
これは331頁の上段途中から書かれており、本文である。つまりこのパラグラフは【29】パラグラフの本文に直接続いているものである(大谷氏のテキストではそのあいだに長い注b)があったので、本文の続き具合が分かりにくい)。マルクスはここから【29】パラグラフで指摘した銀行学派に〈決定的な役割を果たしている〉事実、すなわちイングランド銀行においては有価証券の保有高と銀行券の流通高が反対の方向に動くという現象--フラートンがその引用文(原注の【31】パラグラフ)で最初に問題にしている現象--の本格的な検討に入っていく。すなわちそうした現象をもたらしている理由は何なのかを明らかにしようとするのである。このパラグラフではまずその問題提起をしている。とりあえず、平易な書き下し文を紹介しておこう。
〈イングランド銀行の場合は、すべての〔担保〕貸付と[手形]割引とを自行の銀行券、すなわちイングランド銀行券で行うので、これらの発行された銀行券がどうなるのか、ということが問題となります。なぜなら、このように貸し付けられて銀行券が発行されるのに、その流通高がむしろ減っているという現象を銀行学派が問題にしているからです。なぜそうした現象が起きるのか、それは銀行学派が主張するような理由からそうなっているのか、を解明するためには、貸付や割引で発行された銀行券が実際はどうなるのかを私たちは追求しなければならないからです。
私営の発券銀行業者の場合には事情が違います。逼迫期にはそもそも彼らは自行の銀行券ではもはや貸付も割引もできないのであって、だからイングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとするのだからです。だから私営銀行業者の場合には、彼らの銀行券がどうなるのか、といったことは問題にはなりません。
だから私たちがこれから問題にしなければならないのは、イングランド銀行の場合にはその発行する銀行券がどうなるのかということです。〉
【マルクスは最初に〈イングランド銀行はすべての貸付と割引とを〉云々と述べている。つまりマルクスは「担保貸付」も「手形割引」も両方を問題にして、それらをイングランド銀行は自行の銀行券で行なうとしているのである。以前の組織内の論争では手形割引か担保貸付かでいろいろと論争が行われたが(ある人は手形割引ではなく手形貸付ならうまく説明できる等々と主張したりもした)、全く無内容な意味のない議論であったと言える。
またマルクスは〈私営銀行業者の場合には事情が異なる〉と述べて、以下分析する対象がイングランド銀行における問題であることをここで断っている。これらのこともわれわれはしっかり確認しておかなければならない。
大谷氏もこのパラグラフを説明して次のように述べている。
〈続いてマルクスは,「イングランド銀行はすべての貸付と割引とを自行の銀行券で行なうので,これらの銀行券がどうなるのか,ということが問題となる」と言う。マルクスがここで問題にするのは,イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき,このような取引が銀行券発行高にどのような影響をもたらすのだろうか,そのような影響にたいして銀行はどのように対応し,その結果はどうなるのだろうか,ということである。〉 (45頁)
これは原注b)と関連しているので、それを抜きに論じるのは片手落ちであるが、それが大谷氏には分かっていないようである。だから大谷氏は、氏が引用した一文に続いて、マルクスが書いている〈私営銀行業者の場合には事情が異なる。なぜなら,彼らはそのような場合に,イングランド銀行券を自分自身の銀行券の代わりとすることができるからである〉という一文をカットしているのである。原注b)では主に地方銀行の場合について論じていたのであるが、銀行学派はそうした地方銀行に起きることが、イングランド銀行についても当てはまると主張していたのに対して、ではイングランド銀行の場合はどうかとマルクスはこれから論じようとしているのである。だから原注b)との関連を論じないとマルクスのいわんとすることが十分に分からないのである。
大谷氏は〈マルクスがここで問題にするのは,イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき,このような取引が銀行券発行高にどのような影響をもたらすのだろうか,そのような影響にたいして銀行はどのように対応し,その結果はどうなるのだろうか,ということである〉というのであるが、問題を正しく指摘しているとは言い難い。そうではなく、マルクスはフラートンたちに影響を与えている現象、すなわちイングランド銀行の貸し出しが増えても(これはその保有する有価証券の増大で示される)、銀行券の流通高が増えないかむしろ減少しているのはどうしてか、ということをこれから解明するために、まずイングランド銀行の貸し出しはすべて銀行券で行うわけだから、そうした貸し出しで銀行から出て行った銀行券がどうなるのか、どうして貸し出しが増えても、銀行券の流通高が増えないのかを問題にしようとしているわけである。これがまずマルクスが当面の課題としていることである。
こうした現象、すなわちイングランド銀行の貸し出しが増えても、銀行券の流通高は増大せず、むしろ減少することさえあるということについて、フラートンらは、それは地方の銀行業者たちが強硬に主張していることと、イングランド銀行も例外ではないことを示しているのだ、と主張しているわけである。つまり銀行券の流通高がすでにその目的に適合していたなら、それ以上の貸付はすべて「資本の貸付」に転化して、銀行券の流通高の増大にはならないという主張である。
それについて、マルクスは原注b)では、地方銀行業者で生じている問題を取り上げたのに対して、今度は、イングランド銀行では、果たしてそれはどういう事態を示しているのかを、これから具体的に見て行こうとしているのである。
つまりイングランド銀行が、自行の銀行券で貸し付けても、その流通高が増えないのは、貸し付けた銀行券が、すぐに銀行に還流してくるからであるが、それは果たして地方の銀行業者や銀行学派たちが主張しているような理由からなのかをマルクスはこれから具体的に見て行こうとしているのである。
だから〈イングランド銀行が,ほとんど費用をかけずに利子を取得できる銀行券の発行で貸付需要に対応できないので準備有価証券としての利子生み証券の売却によって金または自行銀行券を入手したとき〉などと大谷氏が言っているのは、まったくのピント外れである。もともとフラートンらのそうした主張は、地方銀行業者たちに生じていることとして主張しているのであって、イングランド銀行に生じていることとして論じているのではないのである。もちろん、後に銀行券の発行制限がある場合についても、マルクスは論じているが、しかし少なくとも当面問題にするのはそういうことではないのである。だから大谷氏のこの説明はまったくのとんちんかんなものと言わざるを得ないのである。】
【33】
〈まず第lに,「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から,したがってまた地金の流出から生じたものである場合には,事柄は非常に簡単である。手形が銀行券で割引される。この銀行券が地金と交換され,その地金が輸出される。それはちょうど,同行が手形割引で直接に,銀行券の媒介なしに,地金を支払ったのと同じことである。このような増大する需要--場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は,もちろん,国内Circulationには1枚の5ポンド券をも追加しない。イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない,ということには,二重の意味がある。第1には,同行は,信用ではなく現実の価値を,自分自身の,または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ,ということである。他方では,同行は,国内circulationのための①貨幣ではなく国際Circulationのための貨幣を,世界貨幣を,前貸しするのだ,ということである。そしてこの形態では,貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態で,その金属製の肉体で存在しなければならない。この形態では貨幣は,ただ価値の[513]形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである。ところで,この金は,銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと資本,すなわち銀行業者資本または商人資本を表わしているとはいえ,需要は資本としての金にたいしてではなく貨幣資本の絶対的形態としての金にたいして生じる。この需要は,まさに,外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ,生じるのである。だから,求められるものは,資本としての資本ではなく,貨幣としての資本である。すなわち,貨幣が一般的な世界市場商品として取る形態にある資本である。そしてこれは,貴金属という,貨幣の本源的な形態である。だから,流出は,②フラ一トン,トゥック等々が言うのとは違って,「たんなる資本問題」ではない。そうではなくて,それは貨幣の問題である。1つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ,とにかく貨幣の問題である。通貨説の奴ら〔d.currency Kerls〕が考えているようにそれが「国内circulation」の問題ではないということは,けっして,フラ一トン等々が考えるようにそれがたんなる「資本の問題」だということを証明するものではない。それは,貨幣が国際的支払手段として取る形態における貨幣の問題である。「資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは,取引の本性には少しも触れない点である」c)③が,しかしそれは,流出が生じるか生じないかという事情には非常に大きく影響する。資本が「正金の形態で移転される」のは,「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか,またはきわめて大きな損失なしにはできなないからである。現代の銀行システムが「地金の流出」にたいして感じる不安は,362)かつて④重金主義が,唯一の真の富としての地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕する。たとえば,イングランド銀行総裁モリスが次のように質される。--||332上|第3846号。⑤「〔ベンティンク〕私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが,この場合,あなたは,あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ,原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られたということ,また,砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--〔モリス〕食糧の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは,避けられないことでした。〔」〕第3848号。「〔ベンティンク〕あなたは,このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも,イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリンクに手をつけるほうがましだった,とはお考えになりませんか?--いいえ,私はそうは考えません。〔」〕a)金こそは,ここで唯一の本質的な富とみなされているものである。/
①〔異文〕「貨幣」← 「銀行券」
②〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』,ロンドン,1845年。130ページには次のように書かれている。--「実際,これは通貨の問題ではなくて,資本の問題である。」〔前出阿野訳,161ページ。〕
②〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。
③〔異文〕「。ついでに次のことを--」という書きかけが消されている。
④〔注解〕重金主義者たちは,封建的な現物原理と小商品生産者の消費志向に対立して,金銀--すなわち貨幣--を,富の唯一の形態だと,だからまた,あらゆる経済的活動とあらゆる社会的努力の最も重要な目標でもあるのだと,判定した。売るために生産することが,貨幣を流通から引き揚げるために売ることが,重金主義の基本志向であった。だから重金主義者は外国への金流出にも反対した。彼らによって基礎づけられた経済政策的諸活動の一つは金銀輸出の厳格な禁止だったのである。--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』を見よ (MEGA II/3.2,S.619-620)。
⑤〔注解〕「ロンドン・ノート1850-1853年」のⅦから取られている。(MEGA IV/8,S.263,23-33)--〔MEGA II/4.2の〕481ページ23-32行〔本書第2巻208ページ6-14行〕を見よ。『商業的窮境……にかんする秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。
362) 「かつて重金主義が,唯一の真の富としての地金について夢想していた〔träumen〕いっさいのこと」→「かつて,貴金属を唯一の富と考える重金主義が手に入れたいと夢想していた〔erträumen〕 いっさいのこと」
草稿では,alles was d. Monetarsystem je geträumt hat v.bullion als d.einzig wahren Reichthum istとなっている。このなかのalsは後から書き加えられている。このalsを生かして読むなら,最後のistは消し忘れられたものと考えるべきであろう。なお,MEGAの異文注には,この「としての」があとから書き加えられたものであることは記載されていない。〉 (123-127頁)
これは先のパラグラフに直接続く本文である。ここから貸付や割引で発行されたイングランド銀行券はどうなるのかを具体的に分析していくのであるが、マルクスはまず最初にその「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から生じる場合について取り上げている。なおこの金の流出に伴う場合の分析は、【37】パラグラフの終わり近くまで続いている。最初に平易な書き下し文を紹介しておこう。
〈さて私たちは貸付や割引で発行されたイングランド銀行券がどうなるのかを具体的に見ていくのですが、そうした貸付や割引の要求、つまり「貨幣融通にたいする需要」が国際収支の逆調から、だから地金の流出から生じたものである場合について最初に検討してみましょう。この場合は事柄は非常に簡単です。
この場合は、まず手形が銀行券で割引される、つまり業者が持ち込んだ手形に対して、イングランド銀行は満期までの利子分を差し引いた額の銀行券を譲渡します。業者はその銀行券をイングランド銀行に持ち込んで地金に交換し、その地金を輸出します。確かにこの場合は発行された銀行券はすぐに銀行に帰ってきます。それはちょうど、イングランド銀行が手形割引を銀行券の媒介なしに、直接地金で行なったのと同じことです。もし直接地金で支払ったなら、その場合は当然、銀行券は一枚も発行されないわけですから。だからこの場合はいくら貸付や割引が増えても(すわなちイングランド銀行の有価証券の保有高が増加しても)、銀行券の流通高はまったく増えないのは当然でしょう。
だからこのような国際収支の逆調から生じる増大する需要--それは場合によっては700万ポンド・スターリングから1000万ポンド・スターリングにも達する--は、もちろん、国内の銀行券の流通高には1枚の5ポンド券も追加しないのです。
このような事態を銀行学派は、イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段を前貸しするのではないのだ、と説明します。つまり資本を前貸しするから、銀行券の流通高には何の影響も及ぼさないのだと説明するのです。
しかしこの場合、資本の前貸しであって流通手段の前貸しでないという銀行学派の言い分を検討すると、そこには二重の意味があることになります。
一つは、すでに原注でも検討しましたように、彼らが「資本」という言葉で何を考えていたかを考えてみれば、イングランド銀行は、信用ではなく現実の価値を、自分自身の、または自分に預金された資本の一部を前貸しするのだ、という意味です。そしてこの場合は金地金を貸し出すことになるのですから、確かに彼らの理屈からいえば「資本」の前貸になります。
もう一つは、この場合は、イングランド銀行は、国内流通のための通貨ではなく国際流通のための通貨を、つまり世界貨幣を、前貸しするのだ、という意味です。そしてこの形態では貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態としてあり、地金というその金属製の肉体で存在しなければなりません。そしてこの地金形態では、貨幣は、ただ価値の形態、つまり価値が目に見える形として現れているというだけでなく、この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのです。つまりそれ自身が価値そのものであり、その国民的制服の如何を問わず如何なる国の貨幣形態ともなりうるものでなければなりません。
ところで銀行学派は、この金の前貸しは資本の前貸しだといいます。確かにこの金は、銀行にとってであろうと輸出商人または地金取扱業者にとってであろうと、彼らの資本、すなわち銀行業者資本または商人資本を表しています。なぜなら銀行業者にとっては金の前貸しは彼自身の資本の前貸しであるし、輸出商人や地金取引業者にとっては、彼ら商人資本の循環の一形態だからです。しかしこの国際収支の逆調で生じる需要、つまり前貸しの要求は単に資本としての金に対してではなく、貨幣資本の絶対的形態としての金に対して生じるのです。なぜなら、この需要は、まさに、外国市場がイギリスの実現不可能な商品資本で行き詰まっているような瞬間にこそ生じるものだからです。つまり輸出された商品が実際には売れなくて、その代金が回収できないのに、その商品を生産するために輸入した原材料の代金の支払が迫っているために、その支払に必要な貨幣の融通を受けようという需要だからです。だから求められているものは、これから事業を展開しようというような資本としての資本ではなく、すでに展開した後の決済に必要な貨幣としての資本なのです。すなわち、この場合、貨幣は一般的な世界市場商品として取引されるような形態にある資本なのです。だからそれは、貴金属という貨幣の本源的な形態でなければならないのです。
だから、この金の流出は、フラートンやトゥック等が通貨学派を批判していうのとは違って、「たんなる資本問題」ではないのです。そうではなくて、それは通貨学派のいうような意味でではありませんが、やはり貨幣の問題なのです。一つの独自な機能における貨幣の問題だとはいえ、とにかく貨幣の問題なのです。だから銀行学派の、それが「資本の前貸」だから通貨の増発にならないという通貨学派に対する批判は、理論的にはやはりこの場合でも、つまり地金流出の場合でも間違いなのです。
通貨説の奴ら(通貨学派)が考えているようにそれが「国内」問題(つまり国内の通貨の増発につながる云々)ではないということは、決して、フラートン等々が考えているようにそれがたんなる「資本の問題」だ(「資本の前貸」だからだ)ということを証明するものではありません。それは貨幣が国際的な支払手段という形態だという意味では貨幣の問題なのです。
もちろんフラートンらがいうように、海外から穀物を輸入する場合なら、その代金として支払う「資本が商品で移転されるか正貨で移転されるかということは、取引の本性には少しも触れない点である」と言えますが、しかし正貨か商品かは地金の流出が生じるか生じないかという事情には大きく影響します。なぜなら、資本が「正金の形態で移転される」のは、「商品の形態で移転される」ことがまったくできないか、またはきわめて大きな損失なしにはできないからだからです。つまり地金での支払を必要とする時は、先にも言いましたように、外国市場がイギリスの輸出商品で溢れ返り、商品が売れず代金が回収できないのに、原材料の料金の支払に迫られている時だからです。だからそれ以上の商品の輸出は、ただ損を覚悟の投げ売りでしかないでしょう。
現代の銀行制度では準備金はイングランド銀行に集中され、それが現代の信用制度の軸点をなしています(なおこの部分の詳しい説明は、すぐあとの【37】でされます)。だからその「地金の流出」にたいして感じる不安は、かつて重金主義が、唯一の真の富としての地金について夢想していたいっさいのことをはるかに凌駕するのです。
例えば、イングランド銀行総裁モリスが次のように質されています。
第3846号。「〔ペンディング〕私は在庫品や固定資本の減価のことを言っているのですが、この場合、あなたは、あらゆる種類の在庫品や生産物に投下されているすべての資産が同じように減価していたということ、また、原綿も生糸も原毛も同じような捨て値で大陸に送られていたということ、また、砂糖やコーヒーや茶が強制売却のときのように犠牲にされたということをご存じないのですか?--〔モリス〕食料の大量輸入の結果として生じた地金の流出に対処するためにこの国が多大の犠牲を払わなければならなかったのは、避けられないことでした。」
第3848号。「〔ペンディング〕あなたは、このような犠牲を払って金を回収しようとするよりも、イングランド銀行の金庫にあった800万ポンド・スターリングに手をつけるほうがましだった、とはお考えになりませんか?--〔モリス〕いいえ、私はそうは考えません。」(a)
金こそは、ここでは唯一の本質的な富とみなされているものなのです。〉
【このパラグラフは長いので、もう一度、要点をまとめておこう。
まずマルクスの問題意識は、フラートンらが問題にしているイングランド銀行の有価証券の保有高と同行の銀行券の流通高とが反対の方向に動くという現象の背後には何があるのか、ということである。それは果たしてフラートンらがいうように、同行の貸出が「資本の貸出」に転化するからなのかどうか、もしその主張が誤っているとするなら、どういう点で誤りなのか、を検討するのが、以後、一連の本文におけるマルクスの分析の課題なのである。
マルクスはそれを(1)イングランド銀行の貸出が地金の輸出のためになされる場合と(2)それ以外の手形割引や担保貸付によって貸し出される場合という二つのケースに分けて検討し、なぜ貸し出された銀行券がすぐに銀行に還流してきて、流通高に影響しないのかを解明しようとするのである。その(1)がまずこのパラグラフから検討されている。
だからこのパラグラフでは、同行の貸出が地金の輸出のためのものである場合だけを取り上げている。この場合は、結局、貸し出された銀行券は貸付を受けた業者によってすぐに地金に交換するために銀行に持ち込まれるので、それがどれだけ増えようが、銀行券の流通高にはまったく影響しないのは明らかだと指摘している。
しかしそのことはフラートンらの言っている理由が正しいことを少しも意味しない。というのは、地金を輸出するというのは、まさに輸出入業者や資本家が輸出した商品の代金の回収ができないのに、輸入代金の支払に迫られていることを示しており、彼らが必要としているのは単なる資本ではなく、国際的な支払手段である世界貨幣としての金であること、その意味ではそれはフラートンらがいうように単なる「資本の問題」ではなく、その限りでは貨幣の問題なのだというのがマルクスのここでの批判点である。だからこの点でもフラートンらの主張は正しくないことが示されたのである。
さらにマルクスは地金流出が現代の信用制度にとってどれだけ重大な意味をもっているかも指摘している。しかしこの問題については、次の【37】パラグラフでさらに詳しい指摘があるので、そこで検討することにしよう。またこれに関連して重金主義についても述べているが、それは注解④を見れば明らかなので、これ以上の説明は不要であろう。ただ注解の最後に1861-1863年草稿の参照箇所が示されているので、その部分を参考のために紹介しておこう。草稿の当該箇所には次のようなマルクスの説明がある(下線はマルクスの強調箇所)。
〈重金主義が金銀に熱中するのは、金銀が貨幣であり、交換価値の独立の定在、手でつかみうる存在であり、また、それが流通手段となって商品の交換価値の単なる消滅的形態となることを許されないかぎり、交換価値の不滅な永続的存在だからである。それゆえ、金銀の蓄積、堆積、貨幣蓄蔵が、重金主義者の致富方法なのである。〉 (『資本論草稿集』⑤465-6頁)
ここでマルクスは〈イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない,ということには,二重の意味がある〉と述べているが、この〈イングランド銀行はこの場合には資本を前貸しするのであって流通手段(means of circulation)を前貸しするのではない〉というのは、フラートンらが主張していることであり、そうした主張には二重の意味があるとマルクスが述べているのである。大谷氏は訳注7)で次のようにフラートンの著書からの引用を紹介している。
〈「これ〔パニック期における地金の流出〕は,実際には,通貨の問題ではなく資本の問題である。ある特別の国で現物の貴金属の大きな供給を求める特別な需要が生じたために地金の自然の流れがわきにそらされる,という特殊な場合をいま別とすれば,現在の貨幣事情のもとで,為替相場に影響したり,一国から他の一国への地金の流れを支配したりすることがありうるさまざまの原因の一切は,結局のところただ一つの項目,すなわち,対外支払差額の状態に,そしてこれを決算するために,ある一国から他の一国へと絶えず繰り返し資本を移転しなければならないという必要に帰着するのである。」(フラートン『通貨調節論』,130-131ページ;阿野訳,161ページ。下線はフラートンによる強調。)〉 (46頁)
しかし大谷氏はフラートンらの主張をマルクスが批判している部分(124-125頁)を紹介しただけで、〈なにもつけ加える必要のない,きわめて明快な批判である〉(47頁)と書いて解説を終わっている。しかしマルクスが〈そしてこの形態では,貨幣はいつでも蓄蔵貨幣としての形態で,その金属製の肉体で存在しなければならない。この形態では貨幣は,ただ価値の形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである〉と述べている部分は、果たして解説を必要としないほど明快であろうか。とくに〈この形態では貨幣は,ただ価値の形態であるだけではなく,この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しいのである〉という部分はなかなか理解が困難なのである。〈この貨幣を自分の貨幣形態とする価値に等しい〉とは一体何のことであろうか。これは恐らく世界貨幣としての地金は、どの国の貨幣にもなりうる価値に等しいと言っているのではないかと私は思うのであるが、しかしこのマルクスの書き方は決して明快とは言い難いものであり、〈なにもつけ加える必要のない,きわめて明快な批判〉とは言えないのではないだろうか。
小林賢斎氏はウィルソンが金の用途の一つとして〈「[(3)]……ある国から他の国へ資本を送る(transmitting)目的のためのものであり,そしで商品交換を清算する(balance)ためのものである)」〉(『マルクス信用論の解明』72頁)と述べていることに対して、〈だからこの第(3)の金の機能は,明らかに世界貨幣としての金の機能である。〉(72頁)と述べている。しかし世界貨幣としての金の機能というのは、何らかの商品の購買を目的に支出されるものである。あるいは商品の購入の代金を支払い決済するために輸出されるケースである。しかしウィルソンが述べているのはそうしたことだけではない。ウィルソンは二つのことを述べている。一つは〈ある国から他の国へ資本を送る(transmitting)目的のためのもの〉、もう一つは〈商品交換を清算する(balance)ためのもの〉である。後者は明らかに小林氏のいうように世界貨幣としての金の機能である。しかし前者は決して世界貨幣としての金の機能とは言い難いのである。同じような間違いは小林氏がウィルソンの主張に次のような見解を対置していることにも現れている。
〈このようにウィルソンもトゥックと同様に,世界貨幣としての金地金を,「商品の移転を間接的に行う媒介物」であり,「商品の国内流通のための媒介物」である「通貨」から「区別」して,「資本」と規定することによって,地金の流出入と国内通貨の増減との直接的因果関係を否定する。確かに貨幣は世界市場では,各国が着せた制服を捨てて地金に,貨幣商品金の姿態に戻る。しかし金地金が例えば貿易収支を決済し得るのは,世界貨幣としての支払手段機能においてであって,商品資本としての地金の故ではない。あるいはまた「ある国から他の国へ資本を送るために」,例えば外国証券に対する投資のために地金が用いられたとしても,それは資本としての地金でなされたのではない12)。〉 (72-73頁)
つまりウィルソンもトゥックも〈地金の流出入と国内通貨の増減との直接的因果関係を否定する〉のだが、それは地金の輸出入を「資本」と規定するからであって、問題を正しく捉えているわけではないといいたいのであろうか。それならそれで正しい。商品代金の決済のために輸出される地金は、確かに世界貨幣としての規定性を持っている。しかしそれは輸入業者にとっては貨幣資本という資本の規定性ももっているのである。小林氏はこうした形態規定性を正しく捉えているとはいい難い。確かに支払いを決済するのは世界貨幣としての地金の規定性(機能)によってである。しかしそれが輸入商にとっては、彼の貨幣資本の一形態でもあることもまた確かなのである。
著者は〈「ある国から他の国へ資本を送るために」,例えば外国証券に対する投資のために地金が用いられたとしても,それは資本としての地金でなされたのではない12)〉とも述べている。この注12を見ると、次節の注10)を見よとある。そしてその注10)では、第28章該当部分でのマルクスの一文が引用されている。それはマルクスの〈それは,貨幣が国際的支払手段としてとる形態における貨幣の問題である〉(76頁)という一文である。しかしこの一文は国際的決済手段として輸出される地金について述べているものであって、決して外国証券の投資のために輸出される地金について述べているのではない。外国証券への投資のために輸出される地金は明らかに「利子生み資本」として、つまり「資本」の規定性において出て行くのである。小林氏は証券投資と商品価格の支払い金との区別をハッキリと捉えていないのである。証券投資も、確かに証券を売買するかの仮象をとるが、しかしそれはあくまで仮象であって、本質は利子生み資本の貸付であり、貨幣の貸借関係を表すだけである。
だから小林氏が続けて次のように述べているのも問題を正しく捉えているとは言い難いのである。
〈だから彼(ウィルソン--引用者)が通貨主義者に対して次のように批判する時,実はそれは,彼自身にも向けられなければならなかったのである。「流通手段(通貨)の機能を遂行する鋳貨または貨幣と,資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]との間の真の区別に関しての概念(idea)の混乱が大きいならば,この混乱が,このごちゃ混ぜの諸概念連合(indiscriminate association of ideas)を,[(1)]流通している鋳貨にも,また資本として投資を待っているか,あるいは銀行に対する不慮の需要に応じるための準備金として保有されているかのどちらかで,[(2)]銀行業者が手許にもっている鋳貨にも,また[(3)]貿易商の手中にある地金,あるいは外国為替相場逆調の場合の預金者の需要に応じるための準備金として銀行業者によって保有されている地金にまで,等しく(alike)拡大していくことによって,さらに大きくなってしまいさえする13)」,と。〉 (73頁)
しかし概念の混乱として指摘されなければならないのは、鋳貨というのは流通手段としての貨幣の機能規定だということが分かっていないことである。それが分かっていれば、それが銀行に預金されれば、すでに鋳貨ではないことが分かるはずである。彼らはそれを素材的に捉えている(つまりコインの形象だけを見ている)から、コインは銀行に預金されても銀行のなかでコインのままに存在しているではないかというのである。だから〈流通手段(通貨)の機能を遂行する鋳貨または貨幣と,資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]との間の真の区別に関しての概念(idea)の混乱〉という言い方そのものがすでに混乱しているのである。〈資本の機能を遂行する〉というがそれも形態規定性において捉えられているわけではない。なぜなら流通手段として機能する貨幣(鋳貨)も、それを支出する資本家からみれば彼の貨幣資本(Geldcapital)という形態規定性を持っているからである。小林氏はわざわざ〈資本の機能を遂行するそれ[鋳貨または貨幣]〉と[ ]を入れて補足しているが、これは果たして小林氏も同じように考えているからではないかと疑わせる。
地金についても彼らは形態規定性においてではなく、素材的にしか見ていない。そしてそれは小林氏についてもいいうるのである。輸入商品の決済のために輸出される地金は国際的な支払い手段としての機能を持つ世界貨幣という規定性をもっていることは小林氏も指摘しているが、しかしそれは同時にその支払いをする輸入商にとっては彼の貨幣資本(Geldcapital)でもあるという規定性を見ないのは一面的なのである。同じ貨幣がさまざまな形態規定を帯びることは資本の流通過程をみれば明らかである。もちろん貨幣資本(Geldcapital)も流通過程に出て行けば、その資本としての規定性においてではなく、単なる貨幣として振る舞うが、しかしそれが貨幣資本であるという規定性はその単なる貨幣としての振る舞いのなかにも反映されてくる。例えば単なる貨幣としてはそれがどんな商品としてその観念的使用価値を現実化するかはどうでもよいことであるが、しかしそれが貨幣資本としての規定性においては、その現実化は特定の生産的資本に転化しうる使用価値を持った商品(生産諸手段や労働力商品)に限定されてくるからである。また貨幣資本としての規定性は、貨幣の循環にも関係してくる等々である。】
【34】
〈/331下/〔原注〕c)①フラ一トン。〔(〕371)131ページ〔前出阿野訳,162ページ〕。)〔原注c)終り〕|
①〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論……』.ロンドン.1845年。
371) 「131」--手稿では.「121」となっている。〉 (127頁)
【これは上のパラグラフの本文で引用されているフラートンの著書の典拠を示すだけのものであるから書き下し文は不要であろう。マルクスが引用しているところはフラートンの著書ではどうなっているのかを紹介しておこう(下線部分はマルクスが引用しているところである)。
〈実のところ、これは通貨の問題に非ずして資本の問題である。地金の自然な流れが、或る特別の国において貴金属の現物の大々的供給を求める特別な需要が生じたために、わきへそらされるという、特殊な場合を暫く別とするならば、現下の貨幣事情のもとにあって為替相場に影響したり一国から一国への地金の流れを支配したりし得るこれら各種の原因の一切は、結局、唯一の項目に帰着する、すなわち、対外支払差額の状態如何ということであり、これを決算するために或る一国から他の一国へと絶えず繰り返し資本を移さねばならぬという必要これである。穀物の収穫が思わしくなくて、住民の窮乏を救うためには300万クォーターの小麦が外国から輸入されねばならぬとしたならば、これがために国民の資本はそれだけ犠牲とされねばならぬであろう。その資本が商品として送られるか、それとも正金として送られるか、ということは、何ら取引の本質に影響しないところである。穀物は等価物と交換することによってのみこれを獲得しうる、したがってこの等価物は、その形態の如何に関わらず、その国の富から消え去るのである。〉 (フラートン『通貨調節論』改造選書161-2頁)】
【35】
〈|332下|〔原注〕a)商業的窮境。1847-48年。もっともこの場合,373)イングランド銀行のくそひり〔地金の流出〕は,同行が1847年にも1857年にも恐慌の結果すばらしい商売をして,その配当が1848年には9%以上,1858年には11%以上に増大した,ということによって,いささか和らげられたのである。〔原注a)終り〕|
373)「イングランド銀行からのくそひり」-- MEGAはこの部分をテキストの部で"D.xxxxxxxx der Bank"(xxxxxxxxxxは解読不能を表わす),すなわち「イングランド銀行のXXXXXXXXXX」としたうえで,異文目録でこのXXXXXXXXXXについて,「可能な読み方:sacrifice」と記している。しかし,この部分はsacrificeとはとうてい読めない。先頭は明かにSaではなくてStであり,またfの上下に突き出す直線はどこにもないからである。
いろいろ考えた結果,筆者はこの部分を、"D.Stercus aus d.Bank"と読んでおく。ドイツにはラテン語のstercusという語を語源とするStercusという語がある。"Pierer's Universal-Lexikon"(4.Aunage1857-1865〔この発行年はまさに第3部第1稿執筆の時期と重なっている〕)にはこの語が載っていて,"1)Koth;2)bes.Darmkoth;3)Mist,Danger"と語釈されている。要するに「糞尿」ないし「糞便」であり,「汚物」である。マルクスはこの語でイングランド銀行に悪態をついているわけである(Langenscheidtの"Großes Schulwörterbuch.Lateinisch-Deutsch"では,「Schimpfwort〔罵言〕としても〔使われる〕」とつけ加えている)。エンゲルスがこの注を取り入れなかったのは,この部分が読めなかったからか,あるいはひょっとして,この語の品の悪さに辟易したからかもしれない。一般にエンゲルスは,マルクスのこうした汚い,あるいはえげつない,あるいはあからさまな表現を,しばしば,やわらかい,上品な,控え目な表現に変えたり,そっくり削除してしまったりした。ちなみに,かつて旧ML研のアドラツキーがカウツキー版の『資本論』や『剰余価値学説史』を,マルクスの草稿での言葉づかいを「和らげた」,と非難したが,もしそれが非難されるべきことだったとすれば,エンゲルス版の『資本論』第3部も同様の非難を受けなければならないであろう。もしかするとMEGA版編集者も,品のよくないこの語を聖なるMEGAに記載するのを避けたのかもしれないが。〉 (127-128頁)
【これは先のパラグラフの本文の最後に引用されていたイングランド銀行総裁モリスの証言につけられた原注a)である。引用文の典拠を示すものだが、それにマルクスのコメントが付けられている。先のパラグラフの注解⑤には〈「ロンドン・ノート1850-1853年」のⅦから取られている。(MEGA IV/8,S.263,23-33)--〔MEGA II/4.2の〕481ページ23-32行〔本書第2巻208ページ6-14行〕を見よ。『商業的窮境……にかんする秘密委員会第1次報告書』,1848年6月8日。〉とある。「商業的窮境……にかんする秘密委員会」というのは次のようなものである。1844年にピール銀行法が制定されて以後、最初の恐慌であった1847年恐慌では、ピール銀行法の停止を余儀なくされた。そのために恐慌終了後同年末に「最近の商業的窮境の原因ならびにこの窮境はどの程度に要求払の銀行券の発行を規制している法律(ピール条例)によって影響を受けたか、について調査するために」委員会をイギリス議会上下両院に設けることになった。この委員会では多くの関係者を諮問し、その報告書が出されたということである。マルクスは下院の報告書からその抜き書きを作成しているのだという。大谷新本第2巻の当該箇所を紹介しておこう。
〈第3846号。(同じモリスがロード・ベンティングに尋ねられる。)「あなたは,債権やあらゆる種類の生産物に投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのですか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポンド・スターリングに手をつける方がよかった,とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリがW.コトン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号。ディズレイリ:「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。〔」〕第4357号。〔「〕では,1847年の配当は?--9%です。〔」〕第4358号。〔「〕銀行は今年は株主に代わって所得税を支払うのですか?--そうです。〔」〕第4359号。〔「〕1844年にもそうしましたか?--そうしませんでした。〔」〕第4360号。〔「〕それならば,この〔銀行〕法は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?」〕第4361号。〔「〕結果は,この法が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,この法の前には株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」〉 (第2巻208-209頁)
なお大谷氏の旧稿では〈イングランド銀行のくそひり〔地金の流出〕は〉の部分は〈イングランド銀行の糞ひり主義は〉になっており、やはり大谷氏の長い訳注がつけられていたが、今回のものと若干違っている。しかしその相違のあれこれを詮索する必要はないであろう。
この原注に添えられたマルクスのコメントは強烈な皮肉をかましたものになっている。イングランド銀行における1847-48年恐慌時の地金の流出は、その恐慌に乗じてイングランド銀行が高金利でぼろ儲けをしたので、いささか和らげられたというのである。彼らは地金を死守するためには庶民の窮状などは省みないばかりか、むしろ庶民の窮状を利用してぼろ儲けを企み、そのために同行の株式の配当が増大し、しかもその配当にかかる所得税まで同行が面倒を見るという大盤振る舞いをしていたというのである。マルクスが〈このヒロイズムへの注釈〉として〈W.コトン(イングランド銀行理事,前総裁)〉の証言を紹介しているのがそれである。】
(以下、続く。)