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2021年11月

2021年11月24日 (水)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-1)

『資本論』第5篇 第28章の草稿の段落ごとの解読(28-1)

 


  〔以前、第27章該当部分の草稿の解読の最終回で〈もう一度、第3巻のノートを一から取り直すことにしました。それが終わった段階で、まだそれをやる体力と気力が残っていれば、エンゲルス版第28章の草稿の解読から--これはすでに一度やっていますが--再開したいと思っています。〉と書きましたが、しかし大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』第3巻のノートを最後まで取り直してからでは、いつまでかかるか分からず、そのあいだに私自身がくたばってしまいかねないので、とりあえず掲載可能になった時点で、アップできるものはできるだけアップして行こうというふうに方針を変更しました。よってまだノートは途中ですが、先行して第28章の解読をアップして行くことにします。〕


  はじめに

  この第28章該当部分の草稿の解読は、このブログで一度やっており、公開されてもいる。ただそれは、私が以前所属していた組織内の論争をきっかけに、私の所属する支部でも『資本論』の関連する部分の学習会をやることになり、やるならいっそのことエンゲルスの編集したものではなく、マルクス自身が書いた草稿そのものをやろうということになり、私がレポートを担当してレジュメを作成した。それを土台としたものが、先に発表したものなのである。
  だから最初に、『資本論』を第3巻まで読んでいない人でも分かるように、予備知識として長い解説が付いていたり、肝心の草稿のテキストの本文そのものが省略されていたり(学習会では参加者全員に大谷氏が『経済志林』誌上に発表された草稿の翻訳のコピーを配布したので、レジュメでは本文テキストは省略したわけである)、あるいは組織内の論争に言及した部分が結構残っている(ブログ掲載に当たってレジュメにあったそうした部分を徹底的に削ったのだが)、そしてレジュメ作成時には、草稿を翻訳された大谷氏も、第28章該当個所については、ほとんど内容に関する解説のようなものは書いておらず、参照にすべきものはほとんど何も無かった。
  しかし今日では、大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』1~4巻(桜井書店、2016年)があり、そこでは第28章該当部分の草稿に関しても、大谷氏自身の解説も掲載されている。そして小林賢齋氏も『マルクス「信用論」の解明』(八朔社、2010年)で、第5章(篇)全体の草稿の研究も行っており、第28章部分の草稿についても氏独自の研究の成果が紹介されている。
  こうした新しい知見もあることもあり、だから一度やったものではあるが、もう一度、今度は本文テキストを大谷氏の新著で紹介されている翻訳文を利用させて頂いて紹介して、解読をやることにした次第である。

  解読のやり方は、これまでの形式を踏襲して、私自身が便宜的につけたパラグラフ番号にもとづいて、まずは草稿の本文テキストを〈青太字〉で紹介し、その平易な書き下しを〈黒太字〉で行う。そして【  】内で関連する考察を加えるという形で進めてくことにする。MEGAの注解や大谷氏や小林氏の解説等は、〈青字〉で紹介する。大谷氏の膨大な訳者注のほとんどはエンゲルスの修正の内容を紹介するものなので、煩雑を避けるために、原則として掲載せず、マルクスの草稿を理解する上で必要と思えるものだけに限定した(だから訳者注の番号は順番どおりにはなっていない)。

  最初のレジュメを書き始めた時(2003年4月)からもう20年近くも経っており、このブログに掲載した時(2010.10.14)から数えても、10年以上も経っているが、その後の私自身の研究の深まりを踏まえても、基本的な内容については、訂正する必要は感じていない。だから、今回、これまでの大谷氏や小林氏の研究の成果を取り入れながら(ただし、批判的な観点からではあるが)、新たな解読を行うつもりであるが、一部は、前回行ったものを、ほぼそのまま再録することもありうることは御了承頂きたい。


【1】

〈1)[205]/328上/2)〔B  信用制度下の利子生み資本(monied capital)〕

 3)〔4)I トゥクおよびフラートンによる諸概念の混同と誤った区別との批判〕

  1)MEGA II/4.2の505ページには,この前の「〔信用の役割〕」(現行版第27章部分)の最後の32行があり,その下の約2行分の行間に横線が引かれている。
  2)「5)信用。架空資本」のなかの,見出し番号「III)」以下の部分のうち,抜粋集録である「混乱」を除いた,テキストとして書かれた部分は,第30-32章「貨幣資本と現実資本」に利用された部分と「第35章 貴金属と為替相場」に利用された部分との二つである。本書では,前者を「Ⅰ)」および「II)」と合わせて「〔B 信用制度下の利子生み資本(monied capita1)〕」とし,後者を「〔C 地金と為替相場。貨幣システムによる信用システムの被制約性〕」とする。
  3)MEGA II/4.2では,エンゲルス版第28章に利用された草稿部分には編集者のタイトルを挿人していない。本書では,この部分の内容に即して,「〔トゥクおよびフラートンによる諸概念の混同と誤った区別との批判〕」という筆者によるタイトルをつけておく。
  4)これに続く冒頭のパラグラフのあとに書かれた「Ⅰ)」という見出し番号はここに書かれるべきものだったと考えられる。〉(97頁)

 【この部分は大谷氏が独自に付けた項目だけだから、一つのパラグラフとするのは適当かどうかは問題があるが、しかしパラグラフ番号そのものが筆者が便宜的につけたものだからよいであろう。また項目とそれに対する大谷氏の注からなっているだけだから、特に平易な書き下しも不要であろう。
 この大谷氏の独自の項目付けについては、やはり氏の第5章(篇)全体の草稿についての考えを紹介するのが一番分かりやすいので、何度も同じものを紹介することになるが、最初に大谷本の第1巻に掲載されている「第5章の構成と本書への収録」のうち「本書への収録」を除いた一覧を紹介しておこう。なお参考のために、エンゲルス版のだいたい対応する章も付けてみた。ただし厳密に対応関係があるわけではないことはお断りしておく。

51

 

   さて、この全体の構成から考えると、今回の第1パラグラフとして紹介したものは、第5章全体が1)~6)に分けられ(これはマルクス自身が--一部に数字の打ち間違いがあるが--番号を付したものである)、その5)「信用。架空資本」(この表題もマルクスが付けたもの)を、大谷氏がA)、B)、C)という3項目に分けたもののB)に該当するわけである。そしてこのB)にはⅠ)、II)、III)というマルクスが付けた項目があり(しかし表題は書かれていない)、そのⅠ)に大谷氏が独自に〈トゥクおよびフラートンによる諸概念の混同と誤った区別との批判〉というやや長い表題を付けているわけである。

  それほど重要ではないが、若干、この大谷氏がつけた表題に文句をいうと、氏は〈トゥクおよびフラートンによる〉とマルクスがここで批判の対象にしているのが、トゥックとフラートンだけであるかに論じているのであるが、果たしてそれは正しい理解と言えるであろうか。大谷氏の解説を読んでいると、どうやらその前半部分ではもっぱらトゥックが批判され、後半ではフラートンが批判されていると思い込んでいるふしがある。
  しかしすぐに検討するが、マルクスは冒頭のパラグラフでは〈卜ゥック,ウィルスン,等々がしている〉と書いているのであり、また締めくくりに近い部分(われわれのパラグラフ番号では53)でも〈フラ一トン等々が,「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「通貨〔currency〕」と「資本」との間違った区別に転化させていることはまったく明白である〉とあるように、総じてフラートン批判を展開している部分でも、マルクスは常に〈フラ一トン等々〉と書いているのである。だからこの「Ⅰ)」の部分全体でマルクスがトゥックとフラートンだけを批判しているなどと理解するとやはり正しいとはいえないのである。この部分全体は、マルクスが最初に書いているように、〈卜ゥック,ウィルスン,等々〉、すなわち銀行学派たちの諸概念の混同と混乱を批判していると理解するのが、正確な理解ではないかと思えるのである。

  なお大谷氏は訳者注4)で〈これに続く冒頭のパラグラフのあとに書かれた「Ⅰ)」という見出し番号はここに書かれるべきものだったと考えられる〉と書いているが、だから大谷氏自身は〈I トゥクおよびフラートンによる諸概念の混同と誤った区別との批判〉と〈〉を表題の前に挿入しているわけである。しかしこの「Ⅰ)」については、後に一つのパラグラフとして論じる予定なので、ここでは問題にしないことにする。

 因みに小林氏は「5) 信用。架空資本」全体の構成を次のように見ている。

  〈ここで手稿「信用。架空資本」とは,従来,マルクスの「信用論」と呼ばれてきた現行版『資本論』第Ⅲ部第5篇「利潤の利子と企業者利得への分裂。利子生み資本」の第25~35章部分,即ち,手稿の第Ⅲ部第5章第5節「信用。架空資本」の言いである。それは「冒頭部分」,「補遺」,「資本主義的生産における信用の役割」,「Ⅰ)」,「Ⅱ)」,「Ⅲ)」,「混乱」,「Ⅲ):続き」,「混乱:続き」の9項目から成り立っている。〉(『マルクス「信用論」の解明』八朔社、2010年、ⅲ頁)

  小林氏の理解はほぼMEGAの編集者の理解に近いようである(小林氏もところどころでMEGAの編集の問題点を指摘してはいるのだが)。大谷氏はそれを批判して、上記のような自身の考える構成を提示しているわけである。】


【2】

  〈5)①6)7)卜ゥック,ウィルスン,等々がしている,9)Circulation資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,10)鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが〔)〕,次の二つのことに帰着する。--

  ①〔注解〕11)「トゥク,ウィルスン,等々がしている」--〔MEGA II/4.2の〕472ページ24-31行〔本書第2巻173ページ9-18行の,トゥクからの二つの引用が収められている原注g)a)〕を見よ。

  5)〔E〕挿入--「第28章流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(表題)
  6)〔E〕エンゲルス版は「トゥク」という語に長い注をつけている。この注は,本章末尾の〔補注1〕に収める。
  7)筆者の解読によれば,この文の原文は次のとおりである。"D.Unterschied zwischen CircuIation u.Capital,wie ihn Tooke,Wilson etc machen(u.wobei d.Unterschiede zwischen Circulationsmittel als Münze,Geld,Geldcapital u.Zins tragendem Capital(moneyed Capital im enghschen Sinn)kunterbunt durcheinander geworfen werden,kommen auf zweierlei hinaus:"MEGA版はこのうちの,"machen(u."を"machen,u."と読んでいる。しかし,MEGAがコンマとしているものは,手稿では明らかに開きパーレンである。これに対応する閉じパーレンがないが,"werden,kommen"のコンマを閉じパーレンと見るほかはないであろう(そこで訳文ではこの閉じパーレンを補っておいた)。このなかの"kommen"の主語は,文意から見て,冒頭の"D.Unterschied"でしかありえないが,そうだとすると,ここでの"kommen"は,"kommt"でなければならない。これはおそらく,直前の副文の主語が"d,Unterschiede"という複数であることに引きずられたものであろう。
  9)「Circulation」--circulation,Zirkulationは,「流通」の意味にも,「通貨」の意味にも,さらに銀行用語ではイングランド銀行券の「流通高」の意味に用いられる。そしてこの第28章部分では,この語がこの三つの意味で自在に使われている。エンゲルス版でもZirkulationが,同様にこれらの意味で使われているが,エンゲルスはまたしばしば,これらをドイツ語で(Zirkulationsmittel,Umlaufsmittel,Surnrne der Zirkulationなどのように)訳し分けてもいる。邦訳ではそれらのそれぞれに,エンゲルスの独訳に拠ったりして,別々の訳語を与えている。もちろんそのような訳し分けが不可能であるわけではないが,どちらとも断定できない微妙なケースがあるほか,マルクスが意識的にこの語の両意性を生かしていると考えられるところもあるので,本書では,草稿でのcirculationまたはCirculationを,この語のまま掲げることにする。
  10)〔E〕「鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別〔d.Unterschiede zwischen Circulationsmittel als Münze,Geld,Geldcapital u.Zins tragendem Capital(moneyed Capital im englischen Sinn)〕」→ 「貨幣としての,貨幣資本一般としての,そして,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed capital)としての流通手段のあいだの諸区別〔die Unterschiede zwischen Zirkulationsmittel als Geld,als Geldkapital überhaupt,und als zinstragendes Kapital(moneyed capital im englischen Sinn)〕)
  エンゲルスの1894年版では,überhauptのあとのコンマはない。MEW版の編集者は,おそらく,1894年版での文章を「貨幣としての,貨幣資本一般としての流通手段と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed capital)としての流通手段とのあいだの諸区別」と読むべきだと考え,この読み方を明示する意味でコンマを挿入したのであろう。しかしここでは,もともとエンゲルスが1894年版の文で言おうとしたものと思われる訳文を挙げておいた。
  11)この注解での「トゥクからの二つの引用」への参照指示は適切ではない。なぜなら,そこでトゥクが行なっている「資本の流通」と「通貨の流通」との区別は,マルクスがここで言う「Circulationと資本との区別」とは同じものではないからである。〉 (97-98頁)

  〈トゥックやウィルソンなど、いわゆる銀行学派たちがしてる通貨と資本との区別は、(そしてこの区別をするさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本(Geldcapital)と、利子生み資本(英語の意味でのmoneyed capital)とのあいだの諸区別が、乱雑に混同されるのですが)、結局、それは次の二つのことに帰着します。〉

  【まずここにはMEGAの注解があり、〈「トゥク,ウィルスン,等々がしている」--〔MEGA II/4.2の〕472ページ24-31行〔本書第2巻173ページ9-18行の,トゥクからの二つの引用が収められている原注g)a)〕を見よ〉という指示がある。ところがここに大谷氏の訳者注11)が付けられていて、〈この注解での「トゥクからの二つの引用」への参照指示は適切ではない。なぜなら,そこでトゥクが行なっている「資本の流通」と「通貨の流通」との区別は,マルクスがここで言う「Circulationと資本との区別」とは同じものではないからである〉と書かれている。これは大谷氏の独自の立場からこのように言われているのである。大谷氏は最初の部分の銀行学派の通貨と資本との区別としてマルクスが取り扱っているのは銀行を介在させない再生過程内の流通における区別を述べているのに、トゥックからの引用文は銀行の介在を持ち出してその区別を論じているものだから、だから〈同じものではない〉というのである。大谷氏の拘りの是非はまあ置いといて、われわれも一応、このMEGAの注解は無視しておこう。この問題は後に大谷氏が〔補注1〕としてエンゲルスの修正と挿入文を取り上げているが、そこで検討することになるであろう。
  次にこの冒頭のパラグラフは草稿の原文ではなかなか解読が難しいものらしく、訳者注10)では大谷氏が今回紹介した訳文のようにした理由が書かれているが、われわれとしては大谷訳をそのまま受け入れておきたい。
  因みに小林賢齋氏はこの冒頭部分について、『マルクス「信用論」の解明』(2010.八朔社)では次のように紹介している。

  〈手稿「信用。架空資本」の第4項である「Ⅰ)」(現行版第28章)1)は,次のような書き出しで始まっていく。即ち,まず手稿の第3項「資本主義的生産における信用の役割」(現行版第27章)の最後のパラグラフの後に,改行して1本の横線2)が引かれていく。その次に,「トゥックやウィルソン等々がそれを行っているような通貨(currency)と資本との間の区別は,そしてその際に,鋳貨としての流通手段,貨幣,貨幣資本および利子生み資本(英語でいう貨幣貸付資本)の問の諸区別(die Unterschiede zwischen Circulationsmittel alsünze,Geld,Geldcapital und Zinstragendem Capital(moneyed Capital im englischen Sinn))が,ごっちゃに混同されているのであるが,[それは]次の2つのことに帰着する3)」という,「Ⅰ)」の最初のパラグラフが記される4)。そしてそのパラグラフの後に,改行の上,手稿の第4項を示す「I)」の記号が書き込まれ,さらに改行して,「次の2つのこと」についての内容の,長いパラグラフが続くという形をとっている。〉 (356頁)

  小林氏の場合は大谷氏が入れていたパーレンはない。これは小林氏がMEGAを見ながらそのまま翻訳・紹介しているからであろう。しかし内容的にはそれほどの違いはない。エンゲルスは何かの思い込みがあったのか、大谷訳注10)に見るように、まったく意味不明な解釈をしているが、ここではエンゲルスの解釈については論じる必要はないであろう。
 ついでに小林氏の上記の説明について一言気づいたことを書いておこう。
 氏は〈そしてそのパラグラフの後に,改行の上,手稿の第4項を示す「I)」の記号が書き込まれ,さらに改行して,「次の2つのこと」についての内容の,長いパラグラフが続くという形をとっている〉と述べているが、これはMEGAの編集を前提すればそのとおりといえるが、マルクスの草稿にもとづけば正確さに欠けている。大谷氏によれば、草稿では「Ⅰ)」という番号は欄外に挿入する形で書かれているというからである。だから大谷氏はマルクスが挿入する時に冒頭のパラグラフの前に入れるべきを、間違って第2パラグラフの前に入れたのではないか、などという推測をしているぐらいだからである。だから草稿では冒頭のパラグラフに直接繋がる形で(ただし改行しながら)、次のパラグラフ(われわれの番号では第3パラグラフ)が始まっているのであり、あとからこのパラグラフの欄外に「Ⅰ)」の項目番号が打たれているのである。これが草稿の正確な理解である。
 ついでに指摘しておくと、小林氏が〈手稿の第4項を示す〉と書いている〈第4項〉というのは小林氏が「5)信用。架空資本」の草稿の全体の構成を、最初に紹介したもので述べているように、〈それは「冒頭部分」,「補遺」,「資本主義的生産における信用の役割」,「Ⅰ)」,「Ⅱ)」,「Ⅲ)」,「混乱」,「Ⅲ):続き」,「混乱:続き」の9項目から成り立っている〉と考えているからであり、〈「Ⅰ)」〉はその第4の項目になるという意味であり、マルクス自身がそうした〈〉目を書いているというのではない。念のために。

  さてこの冒頭のパラグラフについては、前回の解読ではしつこいほどに長々とやったのであるが、ここではそのときの平易な書き下し文をもう一度そのまま参考のために紹介しておこう。

 〈トゥックやウィルソンなどの銀行学派がやっている「通貨」と「資本」との区別は、結局は、このあとに述べる次の二つのことに帰着します。しかしその前に、彼らはこの両者の区別として、いろいろと論じるのはよいのですが、しかしそこで「鋳貨としての流通手段」、つまり単純な流通における貨幣の流通手段としての機能や、あるいは「貨幣」、つまりこれは「本来の貨幣」であり、金無垢の金貨のことですが--これはいうまでもなく、「蓄蔵貨幣」とか「支払手段」とか「世界貨幣」という諸機能を果すものです--、総じてこういう単純な流通における商品と区別された貨幣やその機能については彼らはまったく理解できていません。さらに言いますと、「貨幣資本」、これはいうまでもなく第2巻「資本の流通過程」で運動する貨幣形態をとった資本のことですが、だからこれは、例えば「商品資本」とか「生産資本」という他の資本の諸形態との関連のなかで問題になる貨幣なのですが、こういう貨幣の形態規定性も彼らにはわからないのです。そればかりかこういうより進んだ貨幣の具体的な規定をもっとも抽象的な貨幣の機能と混同したり、あっちの規定からこっちの規定へとふらつくばかりなのです。だから彼らは「利子生み資本」という意味での貨幣資本も分かっていません。 つまり彼らの商売である銀行業者が現実に取り扱っている資本、彼らがmoneyed Capitalと言っているやつです。ようするに、彼らは「通貨」と「資本」との区別をやるといっていろいろな面から貨幣を論じるのはよいのですが、こうした本当に科学的な概念において貨幣を論じることは出来ないし、その諸区別を明確にすることもできずに、ただそれらが乱雑に混同されるだけです。しかし問題はこれらの貨幣の諸規定の「生きた関係」、つまり現実の経済的諸関係のなかでそれらを具体的にとらえることにあります。あるいは経済的な諸範疇全体系のなかでそれらの諸規定がどういう位置や関係にあるのかを知ることなのです。しかしまあ、これから彼らの主張を具体的に見ていくなかで説明しましょう。〉

  このように冒頭のパラグラフでマルクスは述べているから、当然、われわれとしては、引き続くパラグラフで、マルクスは銀行学派の諸概念の混乱を指摘し、それに対置する形で〈鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)とのあいだの諸区別〉を明らかにして、そうした科学的な諸概念による区別の重要性を指摘するのだと思うであろう。が、実際はさにあらずで、こうした科学的なカテゴリーが使われているのは、実は、ほぼこの冒頭のパラグラフのみなのである。これはこの第28章該当部分(マルクスが「Ⅰ)」と番号を付した部分)の理解を著しく困難にさせている大きな理由であり、多くの論者を惑わせていることにもなっているのである(エンゲルスもその一人であることはいうまでもない)。なぜ、マルクスはこうした叙述方法をとったのかは確たるものはないが、しかし私なりの解釈は後に紹介する機会もあろうかと思う。

 最初の「はじめに」でも述べたように、大谷禎之介氏と小林賢齋氏の説明も検討しておこう。

  まず大谷氏は新本第3巻で〈第8章「流通手段と資本。トゥクとフラートンとの見解」(エンゲルス版第28章)に使われたマルクスの草稿について〉と題して氏自身のこの部分の解説を試みている。しかし氏はマルクスのテキストの解説だけではなく、氏独自の次のような問題意識も披露している。

  〈そこでまず,草稿でのマルクスの論述の流れをできるだけ丁寧に追って,マルクスがこの部分でどのようなことをどのように問題にし,それをどのように解明しているのか,をつかむように努める。そのうえで,エンゲルスによる編集の問題性と,エンゲルス版に拠った三宅義夫氏による第28章の読解の限界を明らかにし,次いで,三宅氏がそのようなものがあることを否定された,社会的再生産の見地からの流通手段の前貸を明確につかみだして,この前貸と資本の前貸との関連と区別とを論じられた久留間健氏の見解と,氏による第28章部分の読解を見ることにする。〉 (12頁)

  このように大谷氏の問題意識はかなり偏ったものであり、いわゆる「資本の前貸しか、流通手段の前貸しか」という論争問題に関連したものであり、それ自体、第28章の草稿の解読には直接役立たないものも多く含まれる。だからわれわれとしてはそうしたものはすべて無視したことをお断りしておく。
  さて、これは批判のためではなく、参考のために紹介するのだが、大谷氏はマルクスが銀行学派の主張する通貨と資本との区別に対置しているものについて、次のように説明している。

  〈まず,「鋳貨としての流通手段」とは,流通手段と支払手段とを含む「広義の流通手段」とは区別される狭義の流通手段である。次の「貨幣」とは,価値尺度および流通手段の統一としての「貨幣としての貨幣」であり,区別されるべき蓄蔵貨幣,支払手段,世界貨幣の諸概念を含むものである。次の「貨幣資本」は,資本が循環過程でとる,生産資本および商品資本から区別される貨幣資本である。これには,産業資本がとる形態としての貨幣資本だけでなく,商業資本がとる形態としての貨幣資本も含まれるのであって,moneyed Capitalにたいする実物資本(real capita1)がとる形態としての貨幣資本である。そして最後に利子生み資本が挙げられているが,ここではこの「利子生み資本」という概念は英語ではmoneyed Capita1と呼ばれているものであることをつけ加えている。このmoneyed Capital(monied capital)は,マルクスが第3部第5章,とりわけその「5)信用。架空資本」で,信用制度下の利子生み資本を指して,いたるところで使った語であったが,エンゲルスがこの語のきわめて多くを「貨幣資本〔Geldkapital〕」に置き換えたことからもうかがえるように,日本語でも同じく「貨幣資本」と訳したくなる語であるが,しかしそのように訳すなら,実物資本の循環形態としての「貨幣資本」とは文脈のなかで区別するほかはなくなり,循環形態としてのGeldkapitalとmoneyed Capitalとの混同が容易に生じうることになるのであって,この両者をはっきりと区別することがきわめて重要であることがわかる。〉 (13-14頁)

  次にこのマルクスが銀行学派の混同に対置している貨幣の四つの概念の諸区別--鋳貨としての流通手段、貨幣、貨幣資本、利子生み資本(moneyed Capital)--は、「信用制度下の利子生み資本」全体にかかわるものだという大谷氏の指摘である。

  〈マルクスはすでに,草稿のエンゲルス版第26章に使われた部分で,通貨学派の頭目であるノーマンおよびオウヴァストンにおける経済学上の諸タームの無概念的混同による混乱を徹底的に嘲笑していたし,このあと,草稿の「III)」と第35章部分とのあいだに挿入されている抜粋ノート「混乱〔Confusion〕」では,さまざまの経済学的諸概念の把握欠如と混同および無区別をさまざまの仕方で暴き,批判しているが,第28章部分のここでマルクスは,実務の世界でも経済学の専門家たちのあいだでもごく普通に使われながら,明確に区別されていない経済学上の最も基本的な四つの概念--加えて言えば,とりわけこのあとの「III)」では,つねに峻別することが求められることになる四つの概念--を,単純なものから複雑なものへという順序で挙げたのである。だから,区別されるべき基本的な概念のこの明示は,トゥクやフラートンなどの銀行学派についてだけでなく,「信用制度下の利子生み資本」の分析の全体についても妥当する,きわめて重要な意味をもつものである。〉 (14頁)

  大谷氏はこの冒頭の部分をエンゲルスが書き換えてわけのわからないものにしていることについても批判しているが、われわれはそれについては詳述しないことにする。ただ二つだけ問題にしておこう。
  一つは大谷氏がエンゲルスの修正文について論じるなかで次のように述べていることである。

  〈しかし,貨幣の形態規定性である「流通手段」のもちうる異なった規定性としては,狭義の流通手段では,社会的再生産過程のなかで,この過程を媒介するために必要な流通手段という規定性を受けて流通する流通手段(W_G_Wのうちの,W_Gにさきだって行なわれるG_WでのG)と,そのような規定性を受けない流通手段(W_G_WのG)との区別が考えられるだけであり,広義の流通手段では狭義の流通手段(あるいは購買手段)と支払手段との区別があるだけであって,……〉 (16頁)

  これによると大谷氏は流通手段(鋳貨としての流通手段)には、二つのものが区別されるのであり、一つは再生産過程のなかでこの過程を媒介するために必要な流通手段という規定性を受けるもの、もう一つは第1部第3章のなかで規定されている流通手段である。果たして流通手段にこうした区別があるのかどうか、そうした主張は正しいのかどうかは、ここではその判断を保留しておくことにする。これは最初の大谷氏の問題意識として紹介した〈三宅氏がそのようなものがあることを否定された,社会的再生産の見地からの流通手段の前貸を明確につかみだして,この前貸と資本の前貸との関連と区別とを論じられた久留間健氏の見解〉と関連する問題なのである。だからこれは旧来から多くの学者たちによって論争されてきた所謂「流通手段の前貸しか、資本の前貸しか」という"難問"とも関連する問題なのである。
  そしてもう一つ紹介しておきたいのは、エンゲルスの修正の批判の最後に次のように述べていることである。

  〈エンゲルスがなにを考えていたのか,頭をひねってみても,せいぜい,再生産過程のなかにあるいっさいの貨幣を流通する媒介物(the circulating medium)ととらえてこれを「流通手段」と呼び,これが「貨幣」である場合と「貨幣資本一般」を表わしている場合と「利子生み資本」を表わす場合とをそれぞれ区別できる,とエンゲルスは考えたのではないか,とでも言いうるだけである。マルクスがこのようなわけのわからないルーズなことを言ったのでないことはあまりにも明らかである。エンゲルスによるこの書き換えは,エンゲルスによるマルクスの理論的諸概念の理解がいかにあいまいなものであったか,ということを端的に示すものであるとともに,エンゲルス版第28章は,冒頭のこのパラグラフによって,第一歩のところですでに読者を困惑させるものとなっていたのである。〉 (16頁)

  だからわれわれはこうしたエンゲルスの修正には関わり合う必要はないと考えるのである。さらに大谷氏はエンゲルスがこの本文のトゥックという語に長い注をつけていることについても論じている。これはエンゲルスが自分が付けたものであることを断らずにつけており、それを知らない人が読めば、マルクス自身が付けた注と思うようになっているものである。大谷氏の批判点は、このトゥックからの引用は銀行を介在させて「資本の流通」と「通貨の流通」との区別について論じているが、マルクス自身はそうではないと次のように批判している。

 〈ところが,マルクスが「次の二つに帰着する」と言っているトゥクでの「Circulationと資本との区別」は,これ以下でのマルクスの論述の内容を正確につかめば,それは銀行の業務にかかわるものではまったくなく,むしろ,銀行の介在を度外視した社会的再生産過程の内部での区別であることが判明する。〉 (19頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

  以下、大谷氏は〈銀行の介在を度外視した社会的再生産過程の内部での区別である〉ということを強調しているのであるが、しかしそうしたことを強調する意味はよくわからない。なぜならマルクス自身にそうした拘りがあったようには思えないからである。例えば、マルクスはa、b、c、に分けて銀行学派の混乱を批判していくなかで、すでにaのなかで(われわれのパラグラフでは【7】で)発券銀行業者の立場を問題にしているからである。確かにエンゲルスがマルクスが付けていない注をあたかもマルクス自身が付けたかのように付けたことについては問題があったと言えるが、それによってマルクスの一文の理解が混乱したとはまでは言えないのではないだろうか。それよりもエンゲルスがマルクスの冒頭のパラグラフの本文をわけのわからない一文に修正したことの方がよっぽど罪深いのである。

  次は小林賢齋氏の説明を検討してみよう。同氏は特にマルクスが〈利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)〉と述べている部分について、〈第10章「英語でいうmoneyedなCapital」について--手稿「Ⅰ)」(現行版第28章)の冒頭部分について--〉と一つの章を設けて検討している。これは恐らく、〈moneyed Capita1〉について、大谷氏が「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)」(『経済志林』第51巻第4号、1984年)の中で〈マルクスは,当時イギリスで「実務的にも理論的にもごく普通に用いられている語を意識的にそのまま使ったものと考えられる」〉(『マルクスの利子生み資本論』第3巻552頁)と述べていることについて、それに異論を唱えるためのものと見られる。大谷氏は同書の同じところで、同主旨のことを〈法政大学経済学部での最終講義(本書第1巻序章A)のなかで,あらためて次のように述べた〉とそれを紹介しているので、ついでにその部分も紹介しておこう。

  〈「第3部の第4章までのどの章でも分析の対象がつねに資本であったように,この第5章でも分析の対象は資本ですが,ここではそれが利子生み資本という形態をとっている資本でして,これを研究しなければなりません。しかし,発展した資本主義的生産様式のもとでは,この利子生み資本という資本が杜会の表面でとっている姿,人びとの目に見えている典型的な形態は,さまざまの源泉から銀行に集まってきて,そこで運用を待っている,貨幣形態にある資本です。19世紀のイギリスでは,経済界の当事者たちはこの資本をmonied capita1(またはmoneyed capital)と呼んでいました。monied(moneyed)という語は,貨幣を意味するmoneyが動詞として使われ,それの過去分詞が形容詞となったものです。そこでこれを「貨幣資本」と訳したくなりますし,そう訳すのはまったくの誤りだとは言えませんが,しかしこれをもっぱら「貨幣資本」と訳して済ましてしまうと,いろいろな誤解が生まれます。と言いますのも,産業資本や商業資本が運動のなかで貨幣の形態をとっているとき,この形態にある資本のことを「貨幣資本」と言いますので,これといっしょになってしまい,これと混同されてしまうからです。マルクスは,資本が循環のなかでとる形態としての「貨幣資本」とはっきり区別して,銀行制度のなかで運動している利子生み資本が人びとの表象のなかに現われる形態を,分析すべき対象としてつかまえるときに,人びとが使っていたこのmonied capitalという呼び方は,まさに言い得て妙だ,と考えたのではないかと思います。彼は第3部第5章で,信用制度のもとでの利子生み資本を,圧倒的に,monied capital(moneyed capital)という英語で書いているのです。」〉 (同上書552-553頁)

  これらの一文は第3巻の〈補章6 マルクス はmoneyed Capitalという語をどこからとったのか--『資本論』第3部第5章のキーワードの出どころを探る--〉というところに書かれているのであるが、この補章そのものが小林氏の異論に反論する意図をもって書かれたもののようである。
  しかしわれわれはこうした学者の細かい論争についてはあまり詮索はする気がしない。ただ小林氏が利子生み資本とmoneyed Capitalとの違いについて述べている部分は抜粋して紹介しておく必要があると考える。次のように述べている。

  〈いずれにしても,貸付資本や利子を取り扱う場合,単に「利子生み資本」と言うだけでは,そこには建物や機械設備など,いわゆる現物で貸与される固定資本も含まれうる。そしてこのことは,既に「23冊ノート」第15冊の「エピソード。所得とその諸源泉」においても,「資本としての貨幣」という特殊な「商品」以外の「他の商品は,その使用価値の性質から,家屋,機械,などのように,しばしば固定資本としてのみ貸出されうる13)」とし,その上で,例えば「貨幣蓄蔵家のあだな願が実現する」のは「利子生み貨幣資本(Zinstragendes Geldcapital)においてである14)」,と指摘されていた。換言するならば,問題とする「利子生み資本」とは「利子生み資本」一般ではなく,その「直接的形態」における 「利子生み貨幣資本(das Zinstragende Geldcapital)15)」であることが,既に指摘されていたのである。
 だからマルクスは,『資本論』第III部第5章[篇]で利子および利子生み資本を考察するに当たっては,既に指摘してきたように,第1節(現行版第21章)でmonied capitalという言葉が用いられ始め,第3節(現行版第23章)では「利子率は貨幣貸付資本(monied capital)の一定額に対して……支払う比例的額である」というトゥックの文言も引用され,また「貨幣貸付資本(moneyed capital),[即ち]利子生み資本(zinstragendes Capital)」と併記して, monied Capitalはzinstragendes Capitalと同義であることを明示し,第4節(現行版第24章)においては,「資本は貨幣貸付資本(moneyed Capital)において初めて商品となる」こと,「利子生み資本として,そして実際にはその直接的形態における利子生み貨幣資本(Zinstragendes Geldcapital)として,資本はその純粋な物神的形態を受取る」ことを指摘していくこととなる。それと共に,「利子生み資本の他の諸形態は,ここではわれわれには関係がない」と断り,またそれら「他の諸形態はこの[貨幣]形態から再び引き出される16)」形態であることを再度付言していく。
 それのみでなくマルクスは,第5章第5節「信用。架空資本」の第6項である「III)」(現行版第30章)の冒頭で,主題をなす「信用という事柄全体にとって唯一困難な諸問題17)」の考察に入っていくにあたっても,「ここでわれわれが取扱わなければならないのは,この貸付可能な資本(loanable Capital)の蓄積についてである。そして[それは]まさに絶対に貸付可能な『moniedな』資本[の蓄積について]なのである。ここでは家屋あるいは機械などの貸付(loan)が問題なのではない18)」と,重ねて注意を喚起している。というのも,例えばオーヴァーストーン(Overstone)のように貨幣貸付資本と現実資本とを「同一視」し,「仮に貨幣貸付業者(moneylender)が存在せず,実際に機械,原料などなどが貸付業者(lender)の所有であって,そして彼らがこれらを(現今の家屋のように)生産的[産業]資本家--彼ら自身もこれらの一部を所有している--に貸付けると仮定するとするならば,貸付可能な「資本』(loanable"Capital")の需要と供給は,資本一般への需要と供給と同じもの19)」となってしまい,彼に逃げ口上を与えてしまうであろうからである。〉 (372-373頁)

  若干の補足をしておくと、著者はmoneyed Capitalに〈貨幣貸付資本〉という独特の訳語を当てていることである。もちろんmoneyed Capitalそのものは直訳すればやはり貨幣資本であって〈貸付〉の意味はないが、これは著者が資本の循環過程でとる貨幣資本と区別するための意訳と考えられる。
 さて、上の引用文で著者のいいたいことを要約するなら、利子生み資本、あるいは利子生み資本一般の場合には、そこには固定資本の貸付も入るが、moneyed capitalという場合には、そうしたものは入らず、利子生み資本の直接的形態としての利子生み貨幣資本のみが入るということのようである。つまり利子生み資本とmoneyed capitalとの区別は、前者が固定資本の貸付も入れたものを指すが、後者は貨幣の貸付のみを意味しているという違いである。
  そして小林氏は結論的に第28章該当部分の冒頭のパラグラフでマルクスが〈英語の意味でのmoneyed Capita1〉と述べているのは次のような意味だというのである。

  〈さてこのように見てくるならば,「資本論』第III部の手稿「信用。架空資本」の第4項である「Ⅰ)」(現行版第28章)冒頭の文章中の「利子生み資本」の後に括弧(  )に入れて,「英語でいうmoneyedなCapital」が書き添えられているのも,次のように理解して大過ないであろう。
 「貨幣市場にある,即ち,貸付可能な資本(das auf dem Geldmarkt befindliche d.h.verleihbare Capital)」,あるいは「貨幣資本(das Geldcapital)(貨幣市場にある資本(das Capital auf Geldmarkt)20)」をドイツ語のdas zinstaragende Kapital(「利子生み資本」)で言い表し,この「利子生み資本」という言葉を使用してきたが,ここ「信用。架空資本」の「Ⅰ)」以下で取り扱うのは,「家屋あるいは機械などの貸付」を含むような「利子生み資本」一般ではなく,イギリス人がmoniedという言葉で「旨く」言い表している「利子生み貨幣資本(daszinstragende Geldcapital)21)」,ないし「das loanable"monied"capital(貸付可能な『moniedな』資本)22)」であることを示そうとしたのである,と。あるいは次のように言い換えてもよいであろう。即ち,一方で,英語で言うmoniedの意味をもつinterest-bearingをzinstragendと独訳し,したがって「利子生み資本(das zinstragende Capital)」という独語を創りだして使用してきたが,他方,英語ではmoneyという言葉が「2様に」使われるようになり,moneyでmoniedを表すこともあるようになった。しかしmoney capitalとmonied capitalとは区別して用いることが必要で,独語のdas zinstragende Capitalを表す場合には,英語のmoney capitalではなく,monied capitalを用い「なくてはならない(sollen)」。しかしdas zinstragende Capitalを一般的に解してしまうと,そこには「利子生み貨幣資本(das zinstragende Geldcapital)」から派生するそれ以外の「貸付資本」も含まれてしまう。そこで,特に「係争中の問題」を取り扱うここ『資本論』第III部第5章[篇]第5節「信用。利子生み資本」では,「利子生み資本」といってもそれは「英語でいうmoniedな資本」を指しているのである,と23)。〉 (373-374頁)

  つまり小林氏はマルクスが冒頭のパラグラフで〈利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capita1)〉と書いているのは、この「Ⅰ)」で扱うのは固定資本の貸付をも含み得る利子生み資本一般ではなく、その直接的形態である利子生み貨幣資本を意味するmoneyed Capitalを取り扱うのだという断り書きなのだということのようである。
  なおついでに指摘しておくと、著者がここで〈『資本論』第III部第5章[篇]第5節「信用。利子生み資本」〉と書いているのは、恐らく〈第5節「信用。架空資本」〉の誤りであろう。
   さて、このmoneyed Capitalについては、大谷氏は先の論考のなかで〈マルクスは,当時イギリスで「実務的にも理論的にもごく普通に用いられている語を意識的にそのまま使ったものと考えられる」〉と書いたことを論証するために、当時の文献をしらみ潰しに調べたものを紹介しているのであるが、いささかうんざりするので、この問題はこれぐらいにしておこう。】


  (とりあえず、第1回掲載分は以上です。以下、順次、準備ができ次第、第28章草稿の解読をアップして行きます。)
                                        

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