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2021年1月

2021年1月28日 (木)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(27-4)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


 以下は、第【7】パラグラフの解読の続きである(本文は前回分(27-3)を参照)。

  (ⅳ) 〈--さらに先に進む前に,次のような経済学的に重要な点を注意しておかなければなりません。すなわち,利潤はここでは純粋に利子という形態をとるのですから,このような株式会社企業は,それらがたんなる利子しかもたらさないような場合にも生産が可能になるということです。そしてこれは,一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つなのです。というのは,社会的に結合した資本である株式会社では、不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合をなしているので、これらの企業は,必ずしも一般的利潤率の均等化に参加しないからです。--〉

 【ここでは--で括った挿入文として、これまでの議論から若干ずれた問題が、〈経済学的に重要な点を注意〉するとして論じられている。マルクスは株式会社は一般的利潤率を形成する諸資本の競争には必ずしも参加しないと述べている。しかしこれだと今日のような資本のほとんどが株式会社という形態をとっている場合には、一般利潤率そのものがないというような奇妙なことになりかねない。この問題を如何に考えるべきであろうか。

  その問題を考える前に、大谷氏は〈一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉のところに訳者注80)を付けて、次のように書いている。

  〈80)〔E〕「一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ」einer d.Gründe,der d.Fallen d.allgemeinen Profitrate aufhält→einer der Gründe,die das Fallen der allgemeinen Profitrate aufhalten
  草稿の原文を文字どおりに読めば,「諸原因のうち,一般的利潤率の低下を阻止するような原因」となるが,文脈からみて,もともとエンゲルス版の文のような意味で書かれたのであろう。〉 (大谷新本第2巻292-293頁)

  こうした判断から大谷氏は直訳である〈諸原因のうち,一般的利潤率の低下を阻止するような原因〉とはせずに、〈一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉とエンゲルスと同じように訳しているのであろう。こうした措置そのものには特に問題があるようには思えない。

  しかしそうであるなら、先の問題は如何に考えたらよいのであろうか。
  もう少しマルクスの論述に沿って問題を考えてみよう。
 まずマルクスは〈利潤はここでは純粋に利子という形態をとるのだから,このような企業は,それらがたんなる利子しかもたらさないような場合にも可能である〉と述べている。これは株式会社では総利潤が配当という利子形態をとり、しかもこの利子形態は、一般の市場利子率に規定されることになるのだから、総利潤がその分割された一部分である利子しかもたらさない水準であっても、株式会社では生産は可能になるということであろう。つまり一般的利潤率が低下して、株式会社以外の資本では不可能になるような水準になっても、株式会社では生産は可能になるということであろう。だから〈これは,一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉になるというのであるが、果たしてこれは一般的利潤率の低下を阻止することになるのであろうか。一般的利潤率が低下しても、大丈夫ということと、低下そのものを阻止するということとは別の問題だからである。だから上記の問題は、直接には〈一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉とは結びついていないと考えなければならない。むしろ〈一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉というのは、そのあとで述べていることではないだろうか。すなわち〈というのは,不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合をなしているこれらの企業が,必ずしも一般的利潤率の均等化に参加しないからである〉ということである。これだと〈一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉と言うことができる。マルクスは株式会社がすべて〈一般的利潤率の均等化に参加しない〉とは述べていない。〈不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合をなしている〉株式企業について述べているわけである。それは例えば道路や港湾などが株式会社という会社資本(社会資本)で経営されるケースを念頭においてこのように述べているのではないだうか。
   だからここではマルクスは二つの重要な問題を論じていることになる。
   (1) 一つは株式会社では〈利潤はここでは純粋に利子という形態をとるのだから,このような企業は,それらがたんなる利子しかもたらさないような場合にも可能〉だという問題である。しかしこれは〈一般的利潤率の低下を阻止する原因〉というより、むしろより一層一般的利潤率の低下を促す要因になるのではないだろうか。なぜなら、総利潤ではなく、そのうちの利子だけでも経営が可能になるのだから、そうした企業が一般的利潤率を形成する競争に参入するなら、一般的利潤率そのものがより押し下げられることになるだろうからである。
   (2) もう一つは株式会社のうち〈不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合をなしている〉ような会社資本(社会資本)においては、〈一般的利潤率の均等化に参加しない〉ので、〈これは,一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ〉になるということである。〈不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合をなしている〉ということは、それだけ特殊的な利潤率は極めて低いということであり、だからもしそうした企業が一般的利潤率を形成する競争に参入して、その膨大な投下資本に対する平均利潤を要求するなら、有機的構成の低い企業の生産した剰余価値から膨大な量を要求することになるだろうからである。だからこうした企業が一般的利潤率を形成する競争に参加しないなら、それだけ一般的利潤率の低下を阻止する要因になるということである。だからそうした株式会社は平均よりも低い特殊的な利潤率で満足しなければならないことになるが、しかし彼らは利潤ではなく、ただ利子だけを目的とも動機ともするわけだから、それでも可能だということなのかも知れない。
  要するに、ここではマルクスは株式会社では配当だけが問題になり、だからこれは株式に投資された利子生み資本の利子となるわけだから、株式会社では利子だけがその生産の目的とも動機ともなることが指摘されている。利子は本来は利潤から分割されたものだから、総利潤=利子+企業利得となる。そしてこの総利潤が資本の運動を動機づけるものとなり、彼らは前貸資本に応じた利潤を得るために、互いに競争して、その結果、平均的な利潤率が形成されるわけである。しかし株式会社では前貸資本に応じた利潤ではなく、単なる利子だけが問題になるわけだから、企業利得になる部分が得られなくても(それはマネージャーの賃金として可変資本に組み込まれている)一般的な利子率に応じた利子さえ得られれば、それは生産を維持しつづける動機になりうることになる。だからもし株式会社が一般的利潤率を形成する諸資本の部門間競争に参加するなら、株式会社は膨大な不変資本に対して相対的に極めて少ない可変資本からなっており、彼らは他の諸資本の生産する剰余価値から大きな分け前を要求することになる。しかも彼らは利子さえ得られれば、生産を維持しうるのだから、一般利潤率を限りなく押し下げることになりかねない。だからマルクスは、不変資本が可変資本に対して膨大になる株式会社は一般利潤率を形成するための競争には参加しないとしたのであろう。ということは株式会社を除いた諸資本の運動によって一般利潤率が形成されることになり、だから株式会社の不参加は、一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つになるというわけなのである。
  しかし今日のようにほとんどの資本が株式会社になっている資本主義社会では、こうしたマルクスの指摘は如何に考えればよいのであろうか。やはり今日でも諸資本の競争によって一般的利潤率の形成は行われていると考える以外にはありえない。それはマルクス自身がこの資本主義社会が成立するうえでの絶対的な基盤であり、前提なのだとも述べているぐらいなのだから。だから今日では株式会社も当然、こうした一般利潤率の均等化には参加していると考えなければならない。ただ一般利潤率が傾向的に低下しても、株式会社が一般化した現代では、一般利潤率が低下して限りなく利子率に近づいても生産を維持しうるわけだから、一般利潤率の低下に対する耐性が生じていると考えられるだろう。そして道路や港湾、あるいはドックなど、不変資本が可変資本に対しておそろしく膨大なものは、やはり一般的利潤率を形成する競争には参加しないと考えるべきなのではないだろうか。ではそれはどの程度であればそう言いうるのかは、歴史的な条件だから、ある絶対的な基準があるわけではないのかも知れないが。】

  (ⅴ) 〈株式会社では、資本所有と結びついた再生産過程上のいっさいの機能が、アソシエートした生産者たちのたんなる諸機能、社会的諸機能に転化しています。このことは、資本主義的生産様式の内部では資本主義的生産様式が止揚されているということです。だからまたそれは資本主義的生産様式が自分自身を止揚するような矛盾であって,この矛盾は,一見して明らかに,生産様式の新たな形態へのたんなる通過点として現われるのです。そしてそれはさらに現象においてもこのような矛盾として現われます。それはある種の諸部面では独占を成立させ,したがってまた国家の干渉を誘い出します。それは,新しい金融貴族を再生産し,企業企画屋や重役、つまりたんなる名目だけのマネジャーやの姿をとった新しい寄生虫一味を再生産し,株式取引や株式発行等々についての思惑と詐欺との全システムを再生産するのです。それはまさに私的所有によるコントロールのない私的生産から膿み出てくる矛盾なのです。〉

 【利子生み資本の考察においても、利潤が利子と企業利得とに分割されることによって、資本-利子という関係が資本関係を吸収し、機能資本家の機能は、単なる機能、単なる労働過程一般の担い手となり、機能資本家は単なる機能者となると指摘されていたように、株式会社ではそれがさらに徹底され、すべての利潤が配当という形で、株主という所有資本家の取得する利子となって、資本主義的生産様式の内部は労働過程一般となり、それらを担う単なる結合した諸機能者の集団になる。だからそれらはすでに資本主義的生産様式そのものが止揚されているのだとここでは指摘されている。だから株式会社は資本主義的生産様式が自分自身を止揚するような矛盾した存在であることを示している。そしてこの矛盾は、生産様式の新たな形態(社会主義的形態)へのたんなる通過点として現われてくると述べている。
 株式会社が将来の生産への通過点であることを現す矛盾というのは次のようなものである。
 ①ある種の諸部面では独占を成立させて、それらはまた国家の干渉を誘い出すということ。つまり生産をますます集中させ、巨大化させるだけでなく、それは国家によって管理される必要をそれ自体として明らかにしてくるというわけである。資本主義的生産様式は、今日の資本主義がそうであるように、国家の干渉なしには成り立ち得なくなってくるわけである。
 ②それは他方ではさまざまな金融貴族を、名目だけのマネージャーの姿をとった寄生虫を生み出すと指摘されている。まさに生産の果実を横領する連中は社会の寄生虫であることをますます明らかにして、彼らが一掃されるべきことを社会的にも明らかにしてくるということである。今日では99%と1%との対立が言われるように、そのたった1%を除去しさえすれば、資本主義的生産を社会的生産に置き換えられうるまでに、現代の資本主義的生産様式は発展しているということであろう。
  ③さらに株式の発行や取引についての思惑や詐欺との全システムが再生産され、それらが社会にとってまったく余計なものでしかないことがますます明らかになってくる。それらは私的所有によるコントロールのない私的生産の矛盾が生み出す汚物といえるわけである。こうした一部の汚物を取り除くことに何の躊躇も不要なわけである。】

  (ⅵ) 〈株式制度は資本主義的システムそのものの基礎の上での資本主義的私的産業の一つの止揚であって,それが拡大してますます新たな生産部面をとらえていくのにつれて私的産業をなくして行きます。しかしこのような株式制度を度外視しても、信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人たちに,他人の資本や他人の所有の、よってまた他人の労働の、相対的にではあるが、絶対的な処分権を与えるのです。自分の資本のではなくて社会的な資本の処分権は,彼に社会的労働の処分権を与えるです。資本そのものまたは、「資本とみなされているもの」は,もはや信用という上部建築のための土台になるだけになります。そしてこのことは,国富の大部分がその手を通る卸売業にはとくによくあてはまります。「労働こそが所有をもらたす」とか「節約は美徳である」というようないっさいの規範が,また,多少とも資本主義的生産様式の内部でまだ正当とされてきたもろもろの弁明理由が,ここではなくなってしまいます。彼が一儲けするために賭けるものは,彼の所有ではなく、社会的所有なのです。だからまた同様に,節約という文句もばかげたものになります。というのは,他人が彼のために節約しなければならないのだからです。また彼の贅沢三昧が節欲という文句をあざ笑います。資本主義的生産のより未発展な段階ではまだなにか意味のある諸観念が,ここではまったく無意味になるのです。成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰します。収奪はここでは直接生産者だけではなく、小中の資本家そのものにまで及びます。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であり,まさに最後には,すべての個々人からの生産手段の収奪に終わるし、終わらなければならないものです。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめ,それはもはや,それがアソーシエイトした生産者たちの社会的生産物であるのと同様,アソーシエイトした生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならないことを示しています。しかしこの収奪は,資本主義的システムそのものの内部では,対立的に,少数者による社会的所有の独占として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのです。〉

 【株式会社というのは資本主義的システムそのものの基礎上での資本主義的私的産業の一つの止揚であり、それがますます発展・拡張して新たな生産部面をとらえていくのに応じて、私的産業をなくしてゆき、資本主義的システムはますますその基礎を堀りくずしていくということを確認した上で、ここではこの株式制度をとりあえずは度外視しても、信用そのものがそうした意味と役割を持っているのだということが指摘されている。
 それは第一に、信用は個々の資本家あるいは資本家とみなされている人に、他人の資本や他人の所有の、よってまた他人の労働にたいする、絶対的な処分権を与えるからである。自分の資本ではなくて、他人の資本、社会的な資本を個別の資本家に与えるということは、彼らはその処分権を行使する上での恣意性を担保することになる。自分の資本ではないのだから、他人の資本だから彼らはそれを幾らでも冒険的なものに賭けることを厭わない。
 第二に、資本そのもの、あるいは資本とみなされているものは、もはや信用という上部建築のための土台となるだけになる。このことは卸売業ではとくによくあてはまる。彼らは信用を手に入れるためにだけに売買をするのである。売買は社会的必要を度外視して、ただ信用を得るために、それが例え詐欺や“空(カラ)”であっても手形を切るためだけに、売買を行なうようになる。
 こうして第三に、社会のいっさいの規範、また旧来の資本主義的生産様式ではまだしも正当とされてきたものが、無意味なものになる。「資本家は資本を所有するからそこから生まれる果実を得る権利がある」といった正当性や「節約は美徳である」というような規範は一切無意味になる。なぜなら、彼らは自分の資本ではなく、他人の資本を、社会的所有を当てにして、それを賭けるのだからである。また彼ら自身ではなく、他人が彼らのために節約しなければならないのだから、節約という規範も無意味になる。実際、彼らの贅沢三昧は節約という文句をあざ笑う。だから資本主義的生産のより未発展な段階では意味があったこうした観念もここではまったく無意味になるのである。
 第四に、成功も失敗も、ここでは集中に帰する。だから法外極まりない収奪に帰する。それは直接生産者=労働者からの収奪だけではなく、中小の資本家そのものの収奪にまで及ぶ。
 かくして収奪は資本主義的生産様式の出発点であり(本源的蓄積)、収奪はこの生産様式の目標であり、そして最後には、収奪者の収奪、すべての個々人からの生産手段の収奪に終わるし、終わらなければならない。生産手段は、社会的生産の発展につれて、私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめる。それはもはやそれがアソシエートした生産者たちの社会的生産物であるとともに、アソシエートした生産者たちの手にある生産手段、だから彼らの社会的所有物、共有物にほかないらないのだから。
 しかしこの収奪は、資本主義的システムそのものの内部では、対立的なものとして、少数者による社会的所有の取得として現われるのである。そして信用はこれらの少数者にますます純粋な山師の性格を与える。】

  (ⅶ) 〈そして株式会社では、所有は株式のかたちで存在するのですから,株式の運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのです。だからそこでは小魚は鮫に呑み込まれ,羊は狼男に呑み込まれてしまいます。株式制度のうちには,すでに,この形態にたいする対立物がありますが,しかし株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくりあげるのです。〉

 【上記に指摘した信用について言えることは、株式会社については一層当てはまる。株式会社では所有は株式のかたちで存在するのだから、その運動は、株式の売買という形になる。だからそれは株式市場における投機の結果になり、ますます博打の性格を強める。そして博打場では常にそうであるように、そこでは小魚が鮫に呑み込まれ、羊は狼男に呑み込まれるのである。
  今日でもただ株価を維持するためだけに、「異次元の量的緩和」などと称して日銀が株を買いまくるということがなされている。現実の資本の動向とはかけ離れて株価が一人歩きする状態が生み出されている。現実資本は一般的利潤率の低迷で拡大再生産(蓄積)への動機を衰退させ、よってまた貨幣資本(monied capital)への需要も減退するなかで(だから幾ら日銀が買いオペ等で市中銀行の当座預金残高を増やしても、貸し出しは一向に上向かない)、貨幣資本家(機関投資家や資産家等)たちは、株式を主要な利子生み資本の投資(投機)対象にしているありさまである。これはただ労働者から搾り取った剰余価値をめぐって、あるいは将来の労働への指図証をめぐって、寄生虫たちが相争い、奪い会っている様を示すだけである。〈したがって、貨幣の形態での資本の蓄積〔Aufhäufung〕は、けっして労働の物質的諸条件の物質的蓄積ではない。むしろそれは、労働にたいする所有権証〔Eigenthumstitel〕の蓄積であり、将来の労働を賃労働として、資本の使用価値として措定することである。新たにつくりだされた価値にたいしては等価物は現存していない。その可能性は新しい労働のうちにだけひそんでいる。〉(『要綱』草稿集①467-468頁)
 だから株式制度というのは、その内部にすでに将来の社会的生産の胎児を孕んでいるのであるが、しかし資本主義的な制限のなかではそれはさまざまな矛盾を吹き出してくるわけである。それは社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの新たな対立を作り出すのである。】

  (ⅷ) 〈労働者たち自身の協同組合工場は,資本主義的生産様式の内部では,資本主義的生産様式の最初の突破といえます。といっても,もちろん,それはどこでもその現実の組織では資本主義的生産のあらゆる欠陥を再生産しているし,また再生産せざるをえないのですが。しかし,資本と労働との対立は少なくともこの協同組合工場の内部では止揚されています。たとえ,はじめはただ,アソシエーションとしては労働者たちがただ自分たち自身の資本家であるという形態を,だから生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のために用いるという形態によってでしかないのですが。
 しかし労働者の協同組合工場が示しているのは,資本主義的生産様式は,その物質的生産諸力とそれに対応する社会的生産諸形態とのある発展段階では,将来の新たな社会的生産様式の萌芽を,自分自身の内部に自然的に形成させてくるのだ,ということです。
  協同組合工場は,資本主義的生産様式から生まれる工場システムがなければ発展できなかったし,また資本主義的生産様式から生じてくる信用システムがなくてもやはり発展できなかったのです。信用システムは,資本主義的私的企業がだんだん資本主義的株式会社に転化していくための主要な土台をなしているのですが,それはまた,多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張していくための手段をも提供するのです。
  資本主義的株式企業も,協同組合工場と同様に,資本主義的生産様式からアソーシエイトした生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって,ただ,一方では対立が消極的に,他方では積極的に止揚されているのです。〉

 【ここからは株式会社の問題の補足として、労働者自身の協同組合工場の話になっている。というのは信用システムは株式会社が形成される土台になっているのと同じように、協同組合工場が発展する土台にもなっているからである。ここでは労働者の協同組合工場の意義と限界を明らかにして、その歴史的な位置づけが与えられている。
 まず協同組合工場は、あくまでも資本主義的生産様式の内部におけるものだから、常に資本主義的な関係やその欠陥を再生産せざるをえないということ、しかし少なくとも資本と労働との対立はこの協同組合工場の内部では止揚されていること、ただ労働者はアソシエートして工場を運営するが、しかしその運営は彼らが自分の資本家であるという形態によってであること、つまり生産手段を自分たち自身の労働から剰余価値を引き出すために用いるということである。彼らの目的はやはり利潤にならざるをえない。
 ただ協同組合工場は、資本主義的生産様式が、その物質的生産諸力とそれに対応する社会的生産諸形態を発展させるなかで、ある段階では、それ自身のなかに、それを越える新たな生産様式を自然的に形成してくるということを示しているのである。
 協同組合工場は、資本主義的生産様式から生まれてくる工場システムがなければ発展できなかったし、信用システムがなくてもやはり発展できかったのである。だから信用システムは、資本主義的な私的企業がますます資本主義的な社会的企業、株式会社に転化していくための主要な土台になっているのであるが、それは多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合工場がだんだん拡張していくための手段をも提供するのである
 資本主義的株式企業も、協同組合工場と同じように、資本主義的生産様式からアソシエートした生産様式への過渡形態とみなしうる。一方では対立が消極的に、他方では積極的に止揚されているのである。

  「協同組合工場」について、それ以外の文献でマルクスが言及しているものを参考のために紹介しておこう。

  〈管理労働が、自分の資本のであれ他人の資本のであれ資本所有から完全に分離されて、街頭をうろついているということは、資本主義的生産そのものが成就したことである。この管理労働が資本家たちによって行なわれるということは、まったく無用になった。それは、資本から分離されて、産業資本家や貨幣資本家からの見せかけの分離においてではなく、産業経営者などから分離され、あらゆる種類の資本家から分離されて、現実に存在している。最良の証拠は、労働者たち自身によって設立された協同組合工場である。これらの工場は、生産上の機能者としての資本家が労働者たちにとってよけいなものになったのは、ちょうど、資本家自身にとって地主の機能がブルジョア的生産にはよけいなものとして現われるのと同様だ、ということの証拠を提供している。第二に、資本家の労働が、資本主義的過程としての過程から生じ、したがって資本がなくなればおのずからなくなる、というものでないかぎり、それが、他人の労働を搾取するという機能の名称でないかぎり、それが協業や分業などという労働の社会的形態から生ずるのでないかぎり、それは、資本主義的な外皮を脱ぎ去れば、この形態そのものとまったく同様に資本からは独立している。この労働が資本主義的労働として、資本家の機能として、必要だ、と言うことは、次のこと以外のなにごとをも意味してはいない。すなわち、俗物は、資本のふところのなかで発展した労働の社会的生産力や社会的性格を、この資本主義的な形態から、それらの諸契機の疎外、対立、矛盾の形態から、それらの転倒や混同〔quid pro quo〕から、切り離して考えることはできない、ということがそれである。そして、まさにこれこそは、われわれが主張するところなのである。〉 (「61-63草稿」草稿集⑦471-474頁)

  〈労働の搾取は労働を必要とする。産業資本家の行なう労働が単に資本と労働との対立によって必要にされているにすぎないかぎり、それは彼の使用する監督係(産業下土官)の費用にはいるもので、すでに賃金の範疇に算入されているのであって、ちょうど、奴隷監督や彼の鞭のために必要な費用が奴隷所有者の生産費の費用に算入されているようなものである。これらの費用は、商業上の費用の大部分とまったく同様に、資本主義的生産の空費に属する。一般的利潤率が問題になる場合には、資本家たちにとって彼ら自身の競争や彼らが互いにだまし合う試みのために必要になる労働は考察のなかにはいらない。同様に、一方の産業資本家が他方の産業資本家とは違って彼の労働者たちから最少の空費で最大量の剰余労働を引き出し、この引き出した剰余労働を流通過程で実現することができるというその技能の大小、その空費の多少も、考察のなかにはいらない。これらの事柄の考察は諸資本の競争の考察に属する。この考察は、一般に、最大可能量の剰余労働を自分のほうにひったくるための資本家たちの競争や彼らの労働を取り扱うものであり、ただこの剰余労働のいろいろな個人資本家たちのあいだへの分配を問題にするだけで、その源泉もその一般的な大きさも問題にしはしないのである。そこで、監督労働として残るのは、ただ、何人かの個人の分業や協業を組織するという一般的な機能だけである。このような労働は資本主義的大企業では総支配人の賃金によって完全に代表されている。それは一般的利潤率からはすでに引き去られている。その最良の実例を与えるものは、イギリスの労働者の協同組合工場である。というのは、これらの工場は、比較的高い利子を支払っているにもかかわらず、平均よりも大きな利潤を与えているからである。たとえ、総支配人の賃金、それはもちろんこの種の労働の市場価格によって規定されているのであるが、この賃金は引き去られているにしても、である。自分たち自身の総支配人でもあるような産業資本家たちは、生産費の一項目を省き、自分たち自身に賃金を支払うのであり、したがって平均利潤率よりも高い利潤率を得るのである。もし明日にもこのような弁護論者たちの言い草が言質にとられて、産業資本家の利潤が管理監督賃金に制限されるとすれば、明後日は資本主義的生産はおしまいになり、他人の剰余労働の取得もこの剰余労働の資本への転化もおしまいになるであろう。〉 (同草稿集⑧431-432頁)】

  〈こういうわけで、10時間法案は、大きな実践的成功であるだけにとどまらなかった。それは、原理の勝利でもあった。中間階級の経済学があからさまに労働者階級の経済学に屈服したのは、これが最初であった。
  しかし、所有の経済学にたいする労働の経済学のいっそう大きな勝利が、まだそのあとに待ちかまえていた。われわれが言うのは、協同組合運動のこと、とくに少数の大胆な「働き手」が外部の援助をうけずに自力で創立した協同組合工場のことである。これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく評価しても評価しすぎることはない。それは、議論ではなくて行為によって、次のことを示した。すなわち、近代科学の要請におうじて大規模にいとなまれる生産は、働き手の階級を雇用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それが果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段として独占されるにはおよばないということ、賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合労働に席をゆずって消滅すべぎ運命にあるということ、これである。イギリスで協同組合制度の種子を播いたのは、ロバート・オーエンであった。大陸で労働者が試みた諸実験は、事実上、1848年に--発明されたのではなくて--声高く宣言された諸理論から生まれた実践的な帰結であった。
  それと同時に、1848年から1864年にいたる期間の経験は、次のことを疑う余地のないまでに証明した。すなわち、協同労働は、原則においてどんなにすぐれていようと、また実践においてどんなに有益であろうと、もしそれが個々の労働者の時おりの努力という狭い範囲にとどまるならば、独占の幾何級数的な成長をおさえることも、大衆を解放することもけっしてできないし、大衆の貧困の負担を目だって軽減することさえできないということである。もっともらしい口をたたく貴族や、中間階級の博愛主義的饒舌家や、さらにはぬけめのない経済学者までが、以前には夢想家のユートピアだといって嘲弄したり、社会主義者の聖物冒漬という非難をあびせたりして、協同労働の制度を若芽のうちにつみとろうとしてさんざんむだぼねをおったのに、いま彼らが突然に、その同じ協同労働の制度に胸のわるくなるようなお世辞をならべたてているのは、おそらく、まさにこの理由によるものだと思われる。勤労大衆を救うためには、協同労働を全国的規模で発展させる必要があり、したがって国民の資金でそれを助成しなければならない。しかし、土地の貴族と資本の貴族は、彼らの経済的独占を守り永久化するために、彼らの政治的特権を利用することを常とする。今後も彼らは、労働の解放を促すことはおろか、労働の解放の道にあらゆる障害をよこたえることをやめないであろう。〔イギリス〕議会の前会期でパーマストン卿が、アイルランド小作権法案の支持者を冷笑してやりこめたことを思いおこしてみたまえ。下院は土地所有者の議院なのだ、と彼は叫んだのである。したがって、政治権力を獲得することが、労働者階級の偉大な義務となった。労働者階級はこのことを理解したようにみえる。なぜなら、イギリス、ドイツ、イタリア、フランスで、同時に運動の復活が起こり、労働者党の政治的再組織のための努力が同時になされているからである。〉 (「国際労働者協会創立宣言」(1864年9月28日)(全集第16巻9-10頁)


【8】

 [503]|327下|〔原註〕1)たとえば『タイムズ』紙上で1857年の破産リストに目をとどめ,破産者たちの「自己」資産と彼らの「負債」とを比較してみられたい。

  ①〔注解〕〔MEGA II/42の〕460ページ44行への注解〔本書第1巻324ページ注解注② 〕を見よ。〉 (298頁)

 〈たとえば『タイムズ』紙上で1857年の破産リストに目をとどめ,破産者たちの「自己」資産と彼らの「負債」とを比較してみて下さい。〉

 【この注1)は〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える〉という一文に付けられている。注解で参照を指示されている注解をそれが付けられている本文と一緒に紹介しておこう。

 銀行家や商人が,八つも九つもの違った会社の役員会〔Direction〕に参加することによって,どんなに儲けるかは,次の例を見ればわかるであろう。「ティモシー・エイブラハム・カーティス氏が破産したとき,破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項に800-900ポンド・スターリングの年収が記載されていた。カーティス氏はイングランド銀行や東インド会社の役員会〔Courts〕に加わっていた〔be associated mit〕ので,株式公開会社〔public company〕にとっては,彼に重役室〔board room〕でお勤めをしてもらうことはまったく好都合だと考えられたのである。」(同前,82ページ。)「重役〔Directors〕の椅子は,毎週の役員会議に出席するだけで,少なくとも1ポンド・スターリングを生むのである。」(同前,81ページ。)破産裁判所の審理が示しているところでは,この監督賃金wages of superintendence〕は,これらの名目上の重役たち〔Directoren〕によって行なわれる現実の監督〔superintendence〕に反比例している。〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕「破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項にunder the head of directoryships〕800-900ポンド・スターリングの年収」--『ザ・シティ……』では次のようになっている。--「あの紳士が破産をしたとき,破産裁判所は彼が重役職から入手した所得のサンプルを提示したが,それはけっしてわずかな額ではなかった。われわれが記憶しているかぎりでは,この項にあげられていた彼の年収は800-900ポンド・スターリングであった。」
  ②〔注解〕ここでマルクスが言及しているのは,『タイムズ』紙の「破産裁判所」の項に定期的に(たいてい毎日〉掲載される,個々の商会,会社などが破産するまでの状況の調査である。〉 (新本第1巻323-324頁)】


【9】

 「まことに,資本と信用とをもっている人びとの購買力は,投機市場についてなんの実際的知識ももっていない人びとの観念にはいってくるいっさいのものを,はるかに遠く越えているのである。」(トゥク通貨原理の研究』,79ページ。〔)〕「自分の本業のための十分な資本をもっているという評判があり,また自分の事業部門で大きな信用を得ている人が,もし自分が取り扱っている商品の価格上昇の見込みに楽観的な意見をもっており,また彼の投機の初めでも途中でも事情に恵まれるならば,彼は自分の資本に比べるとまったく巨大な額の買入れをすることができる。」(同前,136ページ。)

  ①〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.208.16-20.)〉 (298頁)

 【これは原注1)の続きであり、トゥクの『通貨原理の研究』からの抜粋だけからなっているので、書き下しは省略する。
 このトゥクの『原理』からの一文も信用が〈個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える〉ことの一例、それを裏付けるものの一つということであろう。
 彼らは信用によって膨大な購買力をもち、さまざまな投機を行ない、なんの実際的な知識も持っていないのに、投機に手を出す人々(つまり小魚)を食い物にするわけである。】


【10】

 /327下/①②「製造業者,商人,銀行業者等々はみな,自分の資本をはるかに越える事業をやっている。……資本は,なんらかの商業的事業の取引の限界であるよりも,むしろ,よい信用がその上に築かれる基礎となったのである。」(『エコノミスト』,第5巻,1847年度,1333ページ。)〔原註「1)」終わり〕|

   ①〔異文〕このパラグラフは書き加えられている。このテキストは,手稿では,原注2)のあと,この原稿ページの末尾にある。1aという記号でこの箇所につながることが示されている。
   ②〔注解〕「資本の配分の変化」。所収:『エコノミスト』,第221号,1847年11月20日,221ページ。原文は次のようになっている。「……商人,製造業者,その他すべての取引業者は,自分自身の資本が〔許す〕事業をはるかに越える事業をやっている……資本は,なんらかの商業的事業の取引の限界であるよりも,むしろ,よい信用がその上に築かれる基礎である……」--この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIから取られている。(MEGA IV/7,S.468.22-25.)〉 (298-299頁)

 【これは原注1)の最後の部分である。MEGAの〔異文〕によれば、〈このテキストは,手稿では,原注2)のあと,この原稿ページの末尾にある。1aという記号でこの箇所につながることが示されている〉ということである。今回も『エコノミスト』からの抜粋だけなので、書き下し文は省略する。

 この原注の一文は、〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える〉という一文に付けられた原注1)の最後の部分になるのであるが、むしろ本文にある〈資本そのものまたは「資本とみなされているもの」は,もはや信用という上部建築のための土台になるだけである〉という一文の注として相応しいように思えるが、どうであろうか。

  ②注解には〈「資本の配分の変化」〉とある。これを見る限りでは、果たしてこれが『エコノミスト』の当該巻に掲載されているウィルソンの論文の表題なのか、それともそこから抜粋したマルクスのロンドン・ノートの小見出しなのかは分からない。しかし小林賢齋氏は『マルクスの「信用論」の解明』の第1部で〈『エコノミスト』誌とJ・ウィルソン〉と題して、『エコノミスト』誌からさまざまな紹介をしているが、〈第4章『エコノミスト』誌と『ロンドン・ノート』〉の〈第4節『エコノミスト』誌の援用--手稿「信用。架空資本」における--〉において、〈引用された『エコノミスト』誌と,手稿(MEGA版)および現行版での引用箇所との対照表〉を掲げているが、それを見ると現行版第27章には二つの引用があるが、MEGA,S.503で引用されているものは『エコノミスト』誌の〈Nov.20,1847〉からであることが分かる。そして同じ第4章の〈第2節『ロンドン・ノート』における『エコノミスト』誌からの抜き書き〉にはロンドン・ノートの第V・第Ⅵ冊に〈マルクスが1847年の『エコノミスト』誌から書き抜いた論説・その他〉の一覧表が掲載されているが、そこには次のようなものがある。

 〈The Changed Distribution of Capital  Nov.20〉 (143頁)

  ここで引用の文献として紹介されている〈Nov.20〉というのは、先のMEGA,S.503で引用されているもの〈Nov.20,1847〉と同じである。

  つまり注解にある〈「資本の配分の変化」〉というのはウィルソンの論文の表題だということである。

  ついでに同著〈第3章 J.ウィルソンの銀行業論--資本主義構造論によせて--〉の〈第3節「資本」の社会的「配分」といわゆる「貨幣市場」〉のなかにある〈〔補遺〕鉄道建設と「資本」の「新配分」について〉の一文を参考のために紹介しておこう。これは今回の原注と同じ『エコノミスト』誌の〈Nov.20,1847〉から引用しているものである。

  〈「イングランド銀行,その他すべての銀行」,「商人,製造業者」から「小売業者に至るまでのすべての事業者(trader)」は,「自己資本(the independent and actual capital, one's own individual and independent capital)によりも,むしろあれやこれやの形態での信用に,より多く依存している。」つまり彼らは「個別的には,彼らの使用総資本(the capital at their disposal)を増大するために彼らの信用を上手に利用する。」しかし「にもかかわらず,わが国の総資本(the entire capital of the country)は,われわれの事業が外国から獲得された信用によって行われると想定されない限り,かかる方法[信用による借入]によっては増加され得ない。」「個別事業を遂行する手段を何らかの形態の信用で増大しているように見えても,それはすべてみな,どこかでの資本の真の投資(an actual advance)にまで遡られ得る。……いずれの場合にも,いずれの信用も,誰かに属する資本の真の投資[自己資本の投資の意]にまで遡られ得るのである。」「社会全体としては,わが国の資本は,信用によって有利な充用に流動される(circulated)けれども,ただの1シリングも増加しない。……いかなる形態でなされたあらゆる貸付けも,わが国の誰かによって所有されている真の資本(actual capital)を表わしている」(Nov.20,1847)。〉 (120-121頁)】

  (続く)

 

2021年1月21日 (木)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(27-3)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


【7】

 [502]/326上/[/(ⅰ)] III) 株式会社の形成。これによって第1に,生産規模のすさまじい拡張〔が生じ〕,そして私的諸資本には不可能な諸企業〔が生まれる〕。同時に,従来は政府企業〔だった〕ような諸企業が55)社会的企業会社的企業〕〔gesellschaftliche Unternehmungen〕になる。第2に,即自的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段および労働力の社会的集中を前提している資本が,ここでは直接に,私的資本に対立する58)会社資本社会資本〕〔Gesellschaftscapital〕(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)の形態を与えられており,資本の諸企業が,私企業に対立する会社企業〔社会企業〕として〔現われる〕。それは,資本主義的生産様式そのものの諸限界の内部での,私的所有としての資本の止揚である。第3に,現実に機能する資本家が(他人の資本の)たんなるマネジャーmanager〕に転化し,資本所有者はたんなる所有者,たんなる貨幣資本家moneyed capitalists〕に転化すること。[/(ⅱ)]彼らの受ける配当が利子と企業利得とに,すなわち総利潤に等しい場合でも(というのは,マネジャーの賃金は一種の熟練労働のたんなる賃金であるか,またはそうなるはずのものであって,どの種類の労働とも同様に,労働市場でしかるべき水準に落ちつくのだから),この総利潤は,もはや利子の形態で,すなわち資本所有のたんなる報酬Vergütung〕として,受け取られるにすぎないのであって,この資本所有が現実の再生産過程での機能から分離されることは,(マネジャーの)機能が資本所有から分離されるのとまったく同様である。こうして,利潤は(もはや,それの一方の部分,すなわち借り手の利潤からその正当化の理由〔Rechtfertigung〕を引き出す利子だけではなく),他人の剰余労働のたんなる取得として現われるのであるが,このことは生産手段が資本に転化することから,すなわち,生産手段が,マネジャーから最下級の賃労働者にいたるまでのすべてを含む現実の生産者にたいして他人の所有として疎外され,対立することから生じるのである。[/(ⅲ)]株式会社では機能と資本所有とが,したがってまた労働と生産手段および剰余労働の所有とが,まったく分離されている。これは資本主義的生産が最高に発展してもたらした結果であり,資本が生産者たちの所有に,といっても,もはや個々別々の生産者たちの私的所有としての所有ではなく,アソーシエイトした生産者としての生産者による所有としての所有に,直接的な社会所有としての所有に,再転化するための必然的な通過点である。それは他面では,資本所有と結びついた再生産過程上のいっさいの機能の,アソーシエイトした生産者たちのたんなる諸機能への転化,社会的諸機能への転化である。[/(ⅳ)]--さらに先に進む前に,次のような経済学的に重要な点を注意しておかなければならない。すなわち,利潤はここでは純粋に利子という形態をとるのだから,このような企業は,それらがたんなる利子しかもたらさないような場合にも可能である,ということである。そしてこれは,80)一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つなのである。というのは,不変資本が可変資本にたいしておそろしく大きな割合を[503]なしているこれらの企業が,必ずしも一般的利潤率の均等化に参加しないからである。81)--[/(ⅴ)]これは,資本主義的生産様式の内部での資本主義的生産様式の止揚であり,したがってまた自分自身を止揚するような矛盾であって,この矛盾は,一見して明らかに,生産様式の新たな形態へのたんなる通過点として現われるのである。それはさらに,現象においても,このような矛盾として現われる。それはある種の諸部面では独占を成立させ,したがってまた国家の干渉を誘い出す。それは,新しい金融貴族を再生産し,企業企画屋や重役(たんなる名目だけのマネジャー)やの姿をとった新しい寄生虫一味を再生産し,株式取引や株式発行等々についての思惑と詐欺との全システムを再生産する。私的所有によるコントロールのない私的生産。||327上|[/(ⅵ)]株式制度を度外視しても--株式制度は資本主義的システムそのものの基礎の上での資本主義的私的産業の一つの止揚であって,それが伸張して新たな生産部面をとらえていくのにつれて私的産業をなくしていく--,信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える。1)自分の資本のではなくて社会的な資本の処分権は,彼に社会的労働の処分権を与える。資本そのものまたは「資本とみなされているもの」は,もはや信用という上部建築のための土台になるだけである。(このことは,国富の大部分がその手を通る卸売業にはとくによくあてはまる。) いっさいの規範が,また,多少とも資本主義的生産様式の内部でまだ正当とされてきた〔berechtigt〕もろもろの弁明理由が,ここではなくなってしまう。彼が賭けるriskiren〕ものは,社会的所有であり,彼の所有ではない。また同様に,102)節約という文句もばかげたものになる。というのは,103)他人が彼のために節約しなければならないのだからである。⑩104)また彼の奢侈が節欲という文句をあざ笑う。資本主義的生産のより未発展な段階ではまだなにか意味のある諸観念が,ここではまったく無意味になる。成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰する。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで[504]及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であり,まさに最後には,すべての個々人からの生産手段の収奪〔に終わる〕。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめ,それはもはや,それがアソーシエイトした生産者たちの社会的生産物であるのと同様,アソーシエイトした生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならない。ところがこの収奪は,資本主義的システムそのものの内部では,対立的に,少数者による社会的所有の取得として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。[/(ⅶ)]//327下/所有はここでは株式のかたちで存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑み込まれ,羊は113)狼男に呑み込まれてしまう。//327上/株式制度のうちには,すでに,114)この形態にたいする対立物があるが,しかし116)株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくりあげるのである。[/(ⅷ)]--労働者たち自身の協同組合工場は,古い形態の内部では,古い形態の最初の突破である。といっても,もちろん,それはどこでもその現実の組織では既存のシステムのあらゆる欠陥を再生産しているし,また再生産せざるをえないのではあるが。しかし,資本と労働との対立はこの協同組合工場の内部では止揚されている。たとえ,はじめはただ,労働者たちがアソシエーションとしては自分たち自身の資本家であるという形態,すなわち生産手段を自分たち自身の労働の価値増殖のために用いるという形態によってでしかないとはいえ。118)この工場が示しているのは,ある生産様式から,物質的生産諸力とそれに対応する社会的生産諸形態とのある発展段階で,新たなある生産様式が,自然的に形成されてくるのだ,ということである。協同組合工場は,資本主義的生産様式から生まれる工場システムがなければ発展できなかったし,また資本主義的生産様式から生じてくる信用システムがなくてもやはり発展できなかった。信用システムは,資本主義的私的企業がだんだん資本主義的株式会社に転化していくための主要な土台〔Hauptbasis〕をなしているのであるが,それはまた,多かれ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん拡張していくための手段をも提供するのである。資本主義的株式企業も,協同組合工場と同様に,資本主義的生産様式から125)アソーシエイトした生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって,ただ,一方では対立が消極的に,他方では積極的に止揚されているのである。/

  ①〔異文〕ここに,「第2に」という書きかけがある。
  ②〔異文〕ここに,「……もとづいているのである」という書きかけがある。
  ③〔異文〕「生産手段および剰余労働の」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「個々別々の生産者たちの」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「直接的な」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「再転化する〔Rückverwandlung〕」← 「転化する〔Verwandlung〕」
  ⑦〔異文〕ここに,「さまざまな」という書きかけがある。
  ⑧〔異文〕「企業企画屋〔Unternehmungsprojectors〕」← 「株式企[画屋]〔Aktienpr[ojektors]〕」
  ⑨〔異文〕「社会的」← 「他人の」
  ⑩〔異文〕「また彼の奢侈が節欲という文句をあざ笑う。」--書き加えられている。
  ⑪〔異文〕「段階」← 「形態」
  ⑫〔異文〕「すべての」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「も私的産業の生産物であることをも」--書き加えられている。
  ⑭〔異文〕「それがアソーシエイトした生産者たちの社会的生産物であるのと同様」--書き加えられている。
  ⑮〔異文〕「所有はここでは株式のかたちで存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑み込まれ,羊は狼男に呑み込まれてしまう。」--書き加えられている。この書き加えられたテキストは,手稿では,原注1)のあとに書かれており,++によってここに繋がることが示されている。
  ⑯〔異文〕「拡張していく〔Ausdehnung〕」← 「拡大していく〔Erw[eiterung]〕」

  55)「社会的企業会社的企業〕」--マルクスはここで,gesellschaftlichという語が「社会的」と「会社的」との両義をもつことを念頭に置いているものと思われる。
  58)「会社資本社会資本〕」--マルクスはここで,Gesellschaftという語が「社会」と「会社」との両義をもつことを念頭に置いているものと思われる。
  59)「会社企業〔社会企業〕」--前注を見よ。
  80)〔E〕「一般的利潤率の低下を阻止する原因の一つ」einer d.Grnnde,der d.Fallen d.allgemeinen Profitrate aufhalt→einer der Grnnde,die das Fallen der allgelneinen Profitrate aufhalten
  草稿の原文を文字どおりに読めば,「諸原因のうち,一般的利潤率の低下を阻止するような原因」となるが,文脈からみて,もともとエンゲルス版の文のような意味で書かれたのであろう。
  81)〔E〕ここに,エンゲルスによることを明記して,1パラグラフを挿入。本章末尾の「補注」を見よ。
  102)〔E〕「節約という文句〔d.Phrase d.Ersparung〕」→ 「資本の起源は節約だという文句〔die Phrase vom Ursprung dcs Kapitals aus der Ersparung〕
  103)〔E〕「他人が彼のために節約しなければならない〔andre für ihn zu sparen haben〕」→ 「彼が要求するのは,まさに他人が彼のために節約するべきだ,ということでしかない〔jener gerade veriangt,daß andre für ihn sparen soilen〕」(「他人が」の強調はエンゲルスによるもの。)
  104)〔E〕ここに,エンゲルスによることを明記して,次の二つの文が挿入されている。--「たとえば近ごろフランス全国がパナマ運河山師のために15億フランを節約によってかき集めたように,である。総じてここには,パナマ運河詐欺が起こるよりもまる20年も前に,その全貌が正確に述べられているのである。」
  113)〔E〕「狼男〔d.loup garou〕」→ 「取引所狼〔die Borsenwolfen〕」
  114)〔E〕「この形態〔diese Form〕」→ 「社会的生産手段が個人的所有として現われるような古い形態〔die alte Form,worin gesellschaftliches Produktionsmittel als individuelles Eigentum erscheint〕」
  116)〔E〕「株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくりあげるのである〔es selbst,innerhalb d.capit.Schranken,bildet d.Gegensatz zwischend.Charakter d.Reichthums als gesellschaftlichen u,als Privatreichthum,neu aus〕」→ 「株式という形態への転化は,それ自身まだ,資本主義的な諸制限のなかにとらわれている。それゆえそれは,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を克服するのではなく,ただこの対立を新たな姿でつくりあげるだけなのである〔die Verwandlung in die Form der Aktie bleibt selbst noch befangen in den kapitalistischen Schranken;statt daher den Gegensatz zwischen dem Charakter des Reichtums als gesellschaftlicher und als Privatreichtum zu überwinden,bildet sie ihn nur in neuer Gestalt aus〕」
  118)〔E〕「この工場が示しているのは,ある生産様式から,物質的生産諸力とそれに対応する社会的生産諸形態とのある発展段階で,新たなある生産様式が,自然的に形成されてくるのだ,ということである。〔Sie zeigen,wie.naturgemaß aus einer Productionsweise,auf einer gewissen Entwicklungsstufe d.materiellen Productianskräfte u.d.ihr entsprechenden gesellschaftlichen Productionsformen,sich eine neue Productionsweise herausbildet.)」→ 「この工場が示しているのは,ある生産様式から,物質的生産諸力とそれに対応する社会的生産諸形態とのある発展段階で,新たなある生産様式が,自然的に発展し形成されてくるのだ,ということである。〔Sie zeigen,wie,auf einer gewissen Entwicklungsstufe der materiellen Produktivkräfte und der ihr entsprechenden gesellschaftlichen Produktionsformen,naturgemäß aus einer Produktionsweise sich eine neue Produktionsweise entwickelt und herausbildet.)」
  125)「アソーシエイトした生産様式」--生産様式が「アソーシエイトする」ことも「アソーシエイトされる」こともありえないので,これは「アソーシエイトした労働の生産様式」の短縮形と考えるべきであろう。〉 (290-298頁)

 このパラグラフは大変長いので、全体を内容によって8つの部分に分けて、本文のなかに[/(ⅰ…ⅷ)]を挿入した。そして平易な書き下し文とその解読についても、それぞれの部分ごとに行なうことにしたい(よってまたこの解読も長すぎるのでブログでは2回に分割して掲載することにする)。

  (ⅰ) 〈信用制度について最後に述べておくべきことは、株式会社の形成についてです。これによって--
   第1に,生産規模のすさまじい拡張が生じます。そして私的諸資本では不可能なような大規模な諸企業が生まれてきます。
   同時に,従来は政府企業だったような諸企業が社会的企業会社的企業〕〔gesellschaftliche Unternehmungen〕になるようになります。
   第2に,資本主義的生産そのものは、潜在的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段や労働力の社会的集中を前提しています。それが株式会社では直接に,私的資本に対立する会社資本社会資本〕〔Gesellschaftscapital〕の形態を与えられています。
   つまり資本自身が、直接にアソーシエイトした諸個人の資本の形態を与えられているのです。
   だから,株式会社は,私企業に対立する会社企業〔社会企業〕として現われるのです。
   それは,資本主義的生産様式そのものの諸限界の内部での,私的所有としての資本の止揚なのです。
   第3に,現実に機能する資本家が(他人の資本の)たんなるマネジャーmanager〕に転化します。
   資本の所有者はたんなる所有者,たんなる貨幣資本家moneyed capitalists〕に転化します。〉

 【ここでは、まず信用制度について〈一般的に述べる〉べき第3の問題として〈株式会社の形成〉が挙げられている。これは信用制度について主要にマルクスが述べているものの最後のものである。マルクスは、株式会社の形成によって、資本主義的生産には三つの問題が生じると述べている。

 ① 第1に指摘されているのは、生産規模の非常な拡張が生じ、私的資本では不可能なような大規模な企業が生まれると指摘している。そしてこれによってこれまでは国家によってなされていたような道路や港湾など膨大な資本を必要とし、その回転の長い生産部門においても会社企業によって営まれるようになるとも指摘している。
  こうした問題はマルクス自身が〈これまでわれわれが一般的に述べる機会をもった〉と述べているように、さまざまなところで言及されていた。そのいくつかの例を紹介しておこう。

  〈さて、資本家が道路建設を事業として、自分の費用で営む{国家がこのたぐいのことを国務賃貸請負人にやらせる場合には、それは間接的に、やはりつねに賦役労働または租税によって行なわれるものである}ためには、さまざまの条件が必要であるが、これらの条件はすべて、資本にもとづく生産様式がすでにきわめて高度な段階にまで発展している、ということと重なるものである。第一に資本そのものの大きさ、資本家の手元に集中された資本の大きさが、それほどの規模をもち、それほどの緩慢な回転、価値増殖・実現〔Verwerthung〕をもって行なわれる仕事を引き受けることができるだけのものであることが前提される。だからこそ、ほとんどの場合、株式資本〔によって営まれるのである〕。〉 (『経済学批判要綱』草稿集②201頁)

  〈集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようと--この場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せる--、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、その物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
  しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くするのと同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
  集中によって一夜で熔接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこには--今日では--集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。〉 (『資本論』第1巻全集23b818頁)

  ② 株式会社の形成で次にマルクスが問題にしているのは、資本主義的生産というのは、すでに即時的(潜在的)に社会的生産様式を基礎としており、生産手段や労働力の集中を前提にしているのであるが、株式会社はこれを直接的なものに(単に潜在的なものではなく)しているのだということである。つまり、株式会社は直接に私的資本に対立する会社資本(社会資本)の形態を与えられていると述べている。マルクスは〈会社資本社会資本〉のあと括弧で括って〈(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)〉とも説明している。この問題の考察はあとに回して、こうした株式会社の問題について、以前にマルクスが指摘しているものをまず紹介しておこう。これは先に紹介したものに続いてマルクスが述べているものであるが、次のように述べている。

  〈株式資本というこの形態において、資本はその最終形態にまでたどりついた。この最終形態では資本は、即自的に、つまりその実体から見て、社会的な力かつ生産物として措定されているばかりでなく、それの形態においてもそのようなものとして措定されているのである。〉 (『要綱』草稿集②201頁)

  ご覧のように、ここでもマルクスは株式会社は〈即自的に〉社会的生産様式であるだけでなく、〈形態においてもそのようなものとして措定されている〉と述べている。

  次に株式会社は〈(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)〉であるという問題について考えてみよう。
  まずその前に用語の問題として、そもそも大谷氏が邦訳せずにカタカナで書いている「アソシエーション〔association〕」とは何であろうか。田畑稔『マルクスのアソシエーション』(新泉社1994.7.5)には次のような記述が見られる。

 〈今、小学館の『ランダムハウス英和辞典』で association を引いてみよう。すると、
  「(共通の目的をもって組織された)会、協会、共同団体、社団、会社、結社」
  と書いてある。実は丸カッコの中が本来の意味なのである。association という一つの語に一般対応する日本語がないので、説明で置き換えている。翻訳するときはそのつど、前後の文脈で「会」とか「協会」とか「会社」とか「結社」とかの語を当ててください、ということである。〉 (4頁)

  大谷氏が〈直接にアソーシエイトした諸個人〉とカタカナで書いている部分は、全集版では〈直接に結合した諸個人〉(全集第25a巻557頁)となっている。つまりこの場合は、「アソーシエイト」とは「結合」という意味なのであろう。しかし大谷氏が「結合した」とは訳さず、「アソーシエイトした」とカタカナでそのまま表現しているのは、単に「結合した」というだけでは、その言葉の持つニュアンスが出てこないと考えるからであろう。「アソーシエイト」というのは単なる「結合」ではなく、自覚的・主体的に共通の目的を持って結合しているという意味があるからであろう。とりあえず、前知識としてこの点を確認しておこう。

  さて問題の株式会社とは〈(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)〉であるということについては、大谷氏の『マルクスのアソシエーション論』(桜井書店2011.9.20)が詳しく論じているので、それを紹介しておくことにしよう。
 まず大谷氏は〈マルクスの場合,アソシエーションの最も重要な特質は,「アソーシエイトした諸個人(assoziirre Individuen)」が意識的,自覚的に形成した社会という点にあるので,アソシエーションという概念は,「アソーシエイトした諸個人」という概念と切り離しがたく結びついている。〉(同書169頁)と述べている。今回の一文でもマルクスは〈アソーシエイトした諸個人の資本〉と述べているのはこうした理由からであろう。さらに大谷氏は〈[資本家たちもアソシエーションを形成する]〉という小項目のなかで次のように述べている。

 〈さらに,資本主義社会のなかで,資本家たちがアソーシエイトしてつくる各種のアソシエーションが生まれる。『資本論』第3部第1稿の第1章には,工場主たちがつくったアソシエーションの話がでてくるし(「資本論』第3部第1稿。MEGA II/4.2,S.129;MEW25,S,100),またそのあとには,「原料が騰貴する時期には産業資本家たちは結束して〔sich zusammentun〕アソシエーション〔複数〕をつくって生産を調整しようとする」(『資本論』第3部第1稿。MEGA II/4.2,S.190;MEW25,S.129)ことが述べられている。〉 (同212頁)

  さらに〈[アソーシエイトした資本家としての株式会社]〉という小項目も立て、〈この資本家たちのアソシエーションの発展した形態が株式会社である。さきに,「アソーシエイトした資本家たち」は,「アソーシエイトした諸個人」および「アソーシエイトした生産者たち」とははっきりと区別されなければならない」と述べておいたのは,この株式会社に関わっている〉と述べ、今回、われわれが検討している一文も含めてさまざまなマルクスの用例を紹介している(その用例については同書を直接参照して頂きたい)。そしてまた次のように述べている。〈マルクスはこのように,株式会社での資本家たちの「結合」については,多く「アソーシエイトした」,また「アソシエーション」という語を使って,彼らが自覚的,主体的に結合していることを表現しているのである〉(同213頁)と。
 
 こうした大谷氏の解説を読むと、先にマルクスが〈私的資本に対立する会社資本社会資本〕〔Gesellschaftscapital〕(直接にアソーシエイトした諸個人の資本)の形態〉と述べているのは、株式会社というのは、個別の私的資本に対立して、資本主義的生産が即時的に持っている社会的生産様式を形態的にも、つまり形あるものとしても現われてくるようになり、諸資本が自覚的・主体的・社会的に結合した資本の形態をもつようになったものだという意味であろう。

  ③ 第3に、株式会社の形成によって、現実に機能する資本家が、他人の資本の単なるマネジャーに転化し、反対に、資本所有者は単なる所有者、単なる貨幣資本家に転化すると指摘している。すでにこの問題は利子生み資本の概念を論じた第23章でも取り上げられていた問題である。今、それらを少し振り返ってみよう。

 第23章を取り上げる前に、この問題はいくつかの段階を経て論じられて来ているので、まずそれを踏まえておこう。
  まず第1巻では〈すべての比較的大規模な直接に社会的また共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになる〉(全集第23a巻434頁)と述べ、この資本家の機能は資本の規模が増大するにつれ、資本家は〈個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、manegere)や産業下士官(職工長、foremen,overlooker,contre-maîtea)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定する〉(同頁)と述べている。
 そして第3巻第23章ではマルクスは次のように述べている。

 〈監督および指揮の労働は,直接的生産過程が社会的に結合した〔combinirt〕過程の姿態をとっていて,自立した生産者たちの孤立した労働としては現われないところでは,どこでも必ず発生する。しかし,この労働は二重の性質のものである。一面では,およそ,多数の個人の協力によって行なわれる労働では,必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する〔commandirend〕意志に表わされ,また,ちょうどオーケストラの指揮者〔Direktor〕の場合のように,部分労働に関するのではなく作業場の総過程に関する諸機能に表わされる。これは,どんな結合的生産様式〔combinirte Productions weise〕でも行なわれなければならないような生産的労働である。……
 他面では{商業的部門はまったく別として}このような監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕は,直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで,必然的に発生する。この対立が大きければ大きいほど,この監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕はそれだけ大きな役割を演じる。それゆえ,それは奴隷制度のもとでその最高限に達する。しかしそれは必然的に,資本主義的生産様式にも内在的なものである。ここでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからである。それは,ちょうど,専制国家では政府が行なう監督〔Oberaufsicht〕や全面的干渉の労働が二つのものを,すなわちすべての共同体組織〔Gemeinwesen〕の性質から生じる一般的事務の遂行と,民衆にたいする政府の対立から生じる独自な諸機能との両方と,そのうちに含んでいるようなものである。〉 (大谷新本第1巻304-306頁)

 だから資本主義的生産様式の基礎上では、監督・指揮労働の二重性は、不可分に結び合わされ、混ぜ合わされて現われているのである。
 次に同じ第23章では、利子生み資本の概念の説明の一環として、マルクスは次のように述べている。

 〈資本主義的生産様式における資本の独自な社会的規定性の契機--資本所有--{他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと}--が固定され,したがってまた,利子が剰余価値のうち資本がこの規定性において生み出す部分として現われることによって,剰余価値の他方の部分--企業利得--は必然的に,資本としての資本から生じるのではなくて,資本-利子という表現においてすでにその特別な存在様式を受け取っている,資本の社会的規定性からは分離されて,生産過程から生じるものとして現われる。しかし,資本から分離されれば,生産過程は労働過程一般である。したがって産業資本家は,資本所有者から区別されたものとしては,機能する資本ではなく,資本を度外視した機能者であり,労働過程一般のたんなる担い手,労働者,しかも賃労働者である。つまり利子それ自体が,まさに,労働諸条件の資本としての定在,社会的に対立するものとしての,また,労働に対立し労働を支配する人格的な諸力に変態したものとしての,労働諸条件の定在を表現しているのである。利子は,他人の労働の生産物を取得する手段としてのたんなる資本所有を表わしている。しかし,利子はこの資本の性格を,生産過程そのものの外で資本に属するあるもの,そしてけっしてこの生産過程そのものの独自な規定性の結果ではないあるものとして,表わしている。利子は,このあるものを,労働にたいする対立において表わすのではなく,反対に,労働にたいする関係なしに,ひとりの資本家の他の資本家にたいするたんなる関係として,表わす。つまり,労働そのものにたいする資本の関係にとっては外的でどうでもよい規定として,表わすのである。こうして,利子にあっては,すなわち資本の対立的な性格が一つの自立的な表現を自分に与えるところの,利潤の姿態にあっては,この性格は自分にこの表現を次のような仕方で与える。すなわち,この対立がこの表現では完全に消し去られすっかり捨象されてしまうという仕方で与える。利子は資本家のあいだの関係であって,資本家と労働者とのあいだの関係ではないのである。他方,この利子という形態は,利潤の他方の部分に,企業利得という,さらに進んで監督賃金wages of superintendence〕という質的な形態を与える。資本家が資本家として果たさなければならない,そしてまさに労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する,特殊的な諸機能が,たんなる労働諸機能として表わされるのである。彼が剰余価値を創造するのは,彼が資本家として労働するからではなくて,彼の資本家としての属性から離れて見ても彼が労働をもするからである。だから,剰余価値のこの部分は,もはやけっして剰余価値ではなく,その反対物であり,遂行された労働の等価である。資本の疎外された性格,労働にたいする資本の対立が,現実の搾取過程のかなたに移されるので,この搾取過程そのものはたんなる労働過程として現われるのであって,ここでは機能資本家はただ労働者がするのとは別の労働をするだけであり,したがって,搾取するという労働も搾取される労働も労働としては同じだということになる。搾取するという労働が搾取される労働と同一視される。利子には資本の社会的形態が属するが,しかしそれは中立的かつ無差別な形態で表現されている。企業利得には資本の経済的機能が属するが,しかしこの機能の特定な,資本主義的な性格は捨象されている。〉 (同298-301頁)

 所有資本家と機能資本家という形で資本の所有と機能とが分離し、利子生み資本範疇が確立すると、利潤が利子と企業利得とに分割され、資本-利子という表現において利子がその特別な社会的な存在様式を受け取る。そして、それに対応して、企業利得は、資本の社会的規定性から分離されて、ただ生産過程から生じるものとして現れてくる。しかし資本から分離された生産過程は労働過程一般でしかない。だから産業資本家も、資本の担い手としての機能ではなく、資本を度外視した単なる機能者となり、労働過程一般の単なる担い手、つまり他の一般の労働者と並ぶ一人の労働者となり、賃労働者になる。こうして利子という形態は、資本の社会的規定性を吸い上げてしまい、利潤の他方の部分に、企業利得という、さらに進んで監督賃金という質的な形態を与える、等々とマルクスは述べている。
 資本家が資本家として果たさなければならない、そしてまた労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する特殊な機能が、たんなる労働諸機能として表される。剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなくて、彼が単に労働をするからであり、だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価として現れる。資本の搾取過程は、たんなる労働過程として現れるので、搾取する労働も搾取される労働も労働としては同じだということになってしまうのである。そして労働監督賃金が純粋に自立して現れると、利潤とも、企業利得とも完全に分離して、ジェネラル・マネジャーの賃金として現れてくるのである等々。
 以下、この問題はさらに掘り下げられて展開されるので、そこで引き続き検討することにしよう。】

 (ⅱ) 〈株式の所有者たちが受けとる配当が、利子と企業利得とに,すなわち総利潤に等しい場合でもこの総利潤は,もはや利子の形態で,すなわち資本所有のたんなる報酬〔Vergütung〕として,受け取られるにすぎないのです。この資本所有が現実の再生産過程での機能から分離されることは,マネジャーの機能が資本所有から分離されるのとまったく同様なのです。ここで配当が総利潤に等しいというのは、本来的には総利潤のうち利子を越える超過分として観念される企業利得が、自立化してマネジャーの賃金となると、それは一種の熟練労働のたんなる賃金であるか,またはそうなるはずのものであって,どの種類の労働とも同様に,労働市場でしかるべき水準に落ちつくからです。だから配当(利子)はこの場合、総利潤に等しいものになるのです。
 こうして,配当として総利潤が資本所有のたんる報酬として受け取られるようになると、もともと貨幣資本家が機能資本家に剰余価値を得るという機能的な使用価値を持つ、貨幣資本を貸し出し、委ねる見返りとして、正当に取得していた利子という形態も、いまではその機能資本家そのものが、単なるマネージャーという一労働者となり、よって彼らの利潤の取り分であった企業利得も、労働監督賃金という単なる賃金になってしまったので、株主たちの取得する配当は、純粋に他人の剰余労働の取得というむき出しの姿をとり、その正当化の一片も消えてしまうことになるのです。そしてこうした"不正義な"取得を生み出しているのは、生産手段が資本に転化することから,すなわち,生産手段が,マネジャーから最下級の賃労働者にいたるまでのすべてを含む現実の生産者にたいして、他人の所有として疎外され,対立することから生じていることが明らかになるのです。だから必要なのはその資本所有をやめさせ、すでに社会的生産になっているものをそのものとして承認するだけであることが簡単明瞭になっているのです。〉

 【ここではマルクスは二つのことを論じている。一つは、利潤が利子と企業利得とに分割されるだけではなく、株式会社ではそれが配当という形になり、株式に投じられた利子生み資本の利子となることによって、利子と企業利得との分割そのものが外観上はなくなってしまうということである。というのは企業利得にあたるものが、単なるマネージャーの監督賃金になり、この監督賃金は一種の熟練労働の賃金として、他の労働賃金と同じように労働市場で一定の水準に落ち着くからだというのである。
 こうして、第二に、総利潤はただ配当という形で利子形態をとることになる。だからそれはただ資本所有のたんなる報酬となるのであって、彼らは生産過程にはまったく関与することなく、ただ資本を所有しているということだけからその果実を横取りするのであり、だからその正当性そのものがまったく失われているというわけである。
  ここで株式の配当が利子形態をとるためには、実は第29章(草稿では「II)」と項目番号の打たれている部分)で論じられている「架空資本」の概念の媒介が必要なのである。株式の「配当」は直接には利子生み資本の「利子」とは違ったものである。しかし、架空資本としての株式、つまり株式市場で売買されている株式の価格は、その配当を資本還元して得られるものである。だからそうした資本還元された株式に投じられた貨幣資本(利子生み資本)の獲得するものは(それは現実には年々の配当であっても)、当然、利子生み資本に対する「利子」と観念されるのである。そして実際、それは市場利子率に規定されたものなのである。しかしここではまだ架空資本は論じていないから、マルクスはそうした議論は省略して、株式の配当が総利潤を利子として受け取ることになるとしているのである。】

 (ⅲ) 〈株式会社では利子生み資本において生まれてくる資本の機能と所有とがまったく分離されて現われてきます。だからまた現実の生産過程における労働と生産手段と剰余労働の所有とが,まったく分離されているのです。これは資本主義的生産が最高に発展してもたらした結果であり,資本が生産者たちの所有に,といっても,もはや個々別々の生産者たちの私的所有としての所有ではなく,アソーシエイトした生産者としての生産者による所有としての所有に,つまり直接的な社会所有としての所有に,再転化するための必然的な通過点なのです。それは他面では,資本所有と結びついた再生産過程上のいっさいの機能の,アソーシエイトした生産者たちのたんなる諸機能への転化,社会的諸機能への転化でもあるのです。〉

 【ここでは利子生み資本で明らかになった資本の機能と所有との分離が、株式会社ではより徹底されてくることが述べられている。現実の生産過程が資本の生産過程という性格を持たなくなり、単なる労働過程、結合した労働過程として現われてくる。問題が、生産手段が、その労働を直接担う労働者たちのものではなく、資本として資本家の所有にあることにこそあることが明瞭になってくる。彼らはその所有によって労働者が生み出した果実を何の正当性もなしに横領するのである。
  だから株式会社は、社会的生産を担う労働者自身がそれらの生産手段を所有する必要を指し示していることになる。ただ生産者の所有といっても個々別々の私的所有としてではなく、アソシエートした生産者の個人的所有としてなのである。それは彼らが直接社会的に自身を自覚的に結び合わせた存在であるからこそ、その個人的所有は同時に共同的な社会的な所有でもあるようなものなのである。そうしたものに転化する必要を株式会社は示しているわけである。
  だから株式会社の生産過程では、すでにこれまで資本所有と結びついていたものが、その所有と切り離されて、もはやアソシエートした生産者たちのたんなる諸機能へと転化し、社会的諸機能に転化しているのである。マルクスが株式会社は将来の社会的生産、社会主義的生産への必然的な過渡的形態だというのはこうした意味でであろう。】

  (続く)

 

2021年1月14日 (木)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(27-2)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【4】

  II) 流通費の節減。A) 一つの主要流通費は,自己価値であるかぎりでの貨幣そのものである。信用によって三つの仕方で節約される。a) 取引の大きな一部分で貨幣が全然用いられないことによって。b) 金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって。1)(これは部分的には,c)で述べるべきことと一致する。すなわち,一面では加速は技術的technisch〕である。すなわち,実体的なreal〕商品流通が,あるいは事業取引の量が変わらないのに,より少ない総量の銀行券が同じ役だちをするのである。このことは銀行制度の技術と関連している。他面では,信用は商品変態の速度を速め,したがってまた貨幣流通の速度を速める。) c) 金貨幣が紙券で置き換えられること。B) 信用によって,流通または商品変態の,さらには資本の商品変態のさまざまの段階が速められること(したがって再生産過程一般が速められること)。{他面では信用は,購買と販売という行為をかなり長いあいだ分離しておくことを許し,したがってまた投機の基礎として役だつ。}準備ファンドの縮小。これは二つの面から考察することができる。A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減として。a)/

  ① 〔異文〕「三つの」← 「二つの」〉 (287-289頁)

 〈II) 流通費の節減。
  A) 一つの主要流通費として考えられるのは,自己価値であるかぎりでの貨幣そのものです。
  これは信用によって三つの仕方で節約されます。
   a) 商業信用が発展しますと取引の大きな部分では貨幣が全然用いられなくなります。
   b) 金属通貨または紙券通貨(銀行券)の流通が加速されることによって節約されます。
    (これは部分的には,c)で述べるべきことと一致します。すなわち,一面では加速は技術的〔technisch〕なものです。つまり実体的な〔real〕商品流通が,あるいは事業取引の量そのものは変わらないのに,より少ない総量の銀行券が同じ役だちをするからです。このことは銀行制度の技術と関連しています。他面では,信用は商品変態の速度を速め,したがってまた貨幣流通の速度を速めます。)
   c) 金貨幣が紙券で置き換えられることによって貨幣そのものが節約されます。
  B) 信用によって,流通または商品変態の,さらには資本の商品変態のさまざまの段階が速められます(したがって再生産過程一般が速められます)。{しかし他面では信用は,購買と販売という行為をかなり長いあいだ分離しておくことを許し,したがってまた投機の基礎としても役立ちます。}
  C)準備ファンドの縮小。これは二つの面から考察することができます。A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減としてです。〉

 【この部分は箇条書き的にメモするような形で書かれており、少しややこしい。平易な書き下し文では、マルクスは大きくはA)とB)の二つの項目しか書いていないが、別に準備ファンドの縮小を別項目としてC)としてみた。この準備ファンドの縮小は、A)にもB)にも関連するものだからである。またマルクスは紙券通貨と書いているが、そのあとの括弧に入れた部分の叙述では銀行券と述べており、ここはやはり信用との関連を考えれば銀行券と理解するのがよいのではないかと考える。
   マルクスは貨幣そのものが信用によって節約される仕方が三つあるとしているが(MEGAの注解では最初「二つの」と書きながら後に「三つの」に変更している)、a)はよいとしてもb)とc)の関係がやや疑問である。まず金貨幣が紙券(銀行券)で置き換えられることを述べたのちに、金属貨幣または紙券通貨(銀行券)の流通が加速されることによって、それらが節約されると述べるのがよいように思うのであるが、どうであろうか。
  ただこれには何らかの意図があると考えるべきなのかもしれない。まずa)は同じ信用といっても商業信用の問題である。次にb)は商品流通に銀行制度が介入することによる問題である。一つは銀行制度の技術的な発展によって、銀行券の流通速度が増し、実際に流通する商品総額は変わらないのに、それを媒介する通貨の量は節減されるということと、今度は商品流通そのものが加速されることによって同時に通貨の流通速度も増し(速度は量の代わりになる)、よって通貨の節約になるということである。
   それに対して、c)では、銀行によって銀行券が発行され金貨幣に置き換えられることによって、貨幣そのもののが節約されるとなっている。ただここでも〈金貨幣が紙券で置き換えられる〉となっている。単なる紙券であれば、それは国家紙幣も入るから、その限りではそれは貨幣の流通手段としての機能の象徴性や瞬過性に根拠を持っているのであから、それは信用の問題とは違ってくる(*)。だから銀行の信用創造によって発行される銀行券が一般流通に入り、金貨幣を代理して通貨として流通するケースと考えるべきであろう。この場合も銀行券の通貨としての流通根拠は流通手段の機能にもとづくが、しかし銀行券の発行そのものは銀行の信用にもとづいており、よってその限りでは信用の問題なのである。ただマルクスが最初は「二つの」と書きながら後に「三つの」に変更したのは、恐らく銀行券が通貨として流通する根拠は直接には信用とは関連しないということから排除していたのが、しかし銀行券の発行そのものは信用にかかわることからそれを追加したのではないかと思われる。こうしたことからc)が最後に来ていると考えられなくもない。

 (*)例えばマルクス自身次のように述べている。〈中国のように信用の全然発達していない国々では、強制通用力をもつ紙幣がすでに早くから見られる。〉(草稿集③333頁)

 またb)の内容が部分的にはc)で述べることと一致するとしているが、これは恐らくb)もc)がそうであるように部分的には銀行制度を前提にした問題(銀行制度の技術と関連するとの指摘がある)だとの意図ではないかと思われる。
   またA)のb)で述べていることと、B)で述べていることにどのような相違があるのかという問題もある。A)のb)では、ある意味では単純流通における流通速度の問題であり、その結果としての金属通貨そのものの節約の問題である。しかしB)は、〈資本の商品変態のさまざまの段階が速められること(したがって再生産過程一般が速められる〉とあるように、資本主義的生産全体に関わるものとして述べられており、流通費そのものの縮減の問題である。流通費には、貨幣そのもの以外にも例えば売買期間、保管費、運輸費などがあるが、それらの費用が信用によって資本の再生産過程そのものが速められることによって縮減されるという問題である。
  このA)とB)との相違は、私が便宜的につけたC)の準備ファンドの縮小について述べている部分を見れば、より明瞭になる。マルクスは〈これは二つの面から考察することができる〉とし〈A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減として〉と述べている。つまりA)は単純流通における通貨の減少、B)は資本の流通における貨幣資本として存在している部分の減少ということで、A)とB)とで対象にしているものが何かをここでは明瞭に示しているといえるからである。

   ところで大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第3巻第10章「貨幣資本と現実資本」(エンゲルス版第30-32章)に使われたマルクス草稿について〉の〈4 マルクスは「III)」でなにを明らかにしているか〉の小項目〈(6)信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能〉の前半部分において同様の問題を論じているので、参考のために紹介しておこう(なおついでに指摘しておくと、ここで大谷氏が〈預金の貨幣機能〉として述べているものは、氏がいわゆる「預金通貨」を肯定的に取り扱う根拠としているものなのであるが、それについては私はこの『マルクス研究会通信』の「現代貨幣論研究」のなかで批判しておいたので参照して頂きたい)。
   大谷氏は信用制度による貨幣の節約について、すでに第27章該当個所で箇条書き的にマルクスは述べていたが、「III)」部分(これはエンゲルス版では第30~32章に該当する)では、それをさらに具体的に論じていると指摘し、まず〈a) 取引の大きな一部分で貨幣が全然用いられないことによって〉というマルクスの記述に関連して、「III)」から次のような一文を紹介している。

  〈「たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くことにもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払いの集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ二つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オウヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。」(MEGA II/4.2、S.533-534:本書本巻428-430ページ。)〉 (新本第3巻355頁、下線はマルクス)

   次に〈b) 金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって〉という部分に関連しては、マルクス自身、この部分に注1)を付けて、『通貨理論論評……』からの抜粋を紹介しているが、「III)」でも同じ文献から抜粋をして、次のように述べていると紹介されている。

  〈「通貨の速度の調節者としての信用。「通貨の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通(通貨?--引用者)と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』。)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引してやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払いに役立つ速度は,ここでは,それが絶えず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。」(MEGA II/4.2,S.533-534;本書本巻427-428ページ。)〉 (同356頁、下線はマルクス、太字は大谷氏による強調)

  さらに大谷氏は〈ここで言う,銀行券が「絶えず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度」が通貨(銀行券)の流通速度を高めることについては,マルクスはこうも言っている〉と述べ、次のようなマルクスの一文も紹介している。

  〈「流通手段としての貨幣の速度{これによっても貨幣は節約される}は,まったく,売買の流れに(または,支払いが貨幣で次々に行なわれるかぎりでは,また諸支払いの連鎖にも)かかっている。しかし,信用がこの速度を媒介するのである。たとえば,貨幣片Gの最初の所持者であるAがBから買い,BがCから,CがDから,DがEから,EがFから買う場合には,つまり或る手から別の手へのその貨幣片の移行が現実の売買によって媒介されている場合には,この貨幣片Gは(たんなる流通手段として,信用の介入なしに),ただ5回の流通をもたらすことができるだけである。ところが,Bが貨幣を取引銀行業者に預金し,この銀行業者はそれをCの手形の割引で支出し,CがDから買い,Dがそれを取引銀行業者に預金し,この銀行業者がそれをEに貸し,EはFから買う,という場合には,たんなる流通手段(購買手段)としての速度でさえもさまざまの信用操作によって,すなわち,Bによる取引銀行業者への預金,この銀行業者によるCのための割引,Dによる取引銀行業者への預金,そしてこの銀行業者によるEのための割引によって,つまり四つの信用操作によって媒介されているのである。もしもこれらの信用操作がなかったならば,この同じ貨幣片は与えられた期間のうちに次々に5度の購買を片づけることはなかったであろう。それが現実の売買の媒介なしに--預金として,また割引において--持ち手を換えたということが,この場合には一連の現実の売買でのその貨幣片の持ち手変換を速くしたのである。」(MEGA II/4.2,S.534-535;本書本巻431-432ページ。)
  「同じ銀行券が何人もの銀行業者のもとで預金を形成することができる。同じ銀行券が同じ銀行業者のもとでいくつもの預金を形成することもできる。彼はAが預金した銀行券GでBの手形を割引し,BはCに支払い,Cはこの同じ銀行券を同じ銀行業者に預金し,この銀行業者はまたそれを支出した。つまりこの同じ銀行券が,いまでは彼のもとで,二つの預金を形成したのである,等々。」(MEGA II/42,S.535;本書本巻432-433ページ。)
  「通貨{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまったく次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払いの度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払いをし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人のmoneyed Capitalの第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終わりには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。」(MEGA II/4.2,S.556:本書本巻495-496ページ。)〉 (同356-358頁、下線はマルクス)

   次の〈c) 金貨幣が紙券で置き換えられること〉については「III)」部分には見当たらないとしている。

  〈B) 信用によって,流通または商品変態の,さらには資本の商品変態のさまざまの段階が速められること(したがって再生産過程一般が速められること)〉については、大谷氏は次のように指摘している。

  〈流通または商品変態を,したがって資本の流通過程または商品資本の貨幣資本への転化を加速する信用は,第1に,再生産的資本家が互いに与え合う商業信用であり,第2に,社会的総資本の流通過程を媒介するために再生産的資本家が前貸しなければならない流通手段を,銀行が再生産的資本家に手形割引の形態で前貸するさいに与える貨幣信用である。この二つの信用によって現実資本の再生産過程が速められる。〉 (同359頁)

  ただここで大谷氏は商業信用と貨幣信用とによって再生産過程が速められると述べたいのであろうが、貨幣信用として述べていることには、若干問題がある。この場合については、すでに幾つかの引用でマルクスが述べているように、必ずしも大谷氏がいうような〈社会的総資本の流通過程を媒介するために再生産的資本家が前貸しなければならない流通手段〉の問題ではないからである。大谷氏が指摘するような問題は、第2部第3篇において論じられていた社会の総資本の流通を媒介する貨幣を名目上は銀行が供給するという問題であって、これ自体は資本の再生産過程を速めることに寄与するわけではないからである。むしろマルクスは銀行業者が介在することによって流通が速められる例としては、明らかに別の問題を論じていたのである。例えば次のように述べていた。

  〈ところが,Bが貨幣を取引銀行業者に預金し,この銀行業者はそれをCの手形の割引で支出し,CがDから買い,Dがそれを取引銀行業者に預金し,この銀行業者がそれをEに貸し,EはFから買う,という場合には,たんなる流通手段(購買手段)としての速度でさえもさまざまの信用操作によって,すなわち,Bによる取引銀行業者への預金,この銀行業者によるCのための割引,Dによる取引銀行業者への預金,そしてこの銀行業者によるEのための割引によって,つまり四つの信用操作によって媒介されているのである。もしもこれらの信用操作がなかったならば,この同じ貨幣片は与えられた期間のうちに次々に5度の購買を片づけることはなかったであろう。それが現実の売買の媒介なしに--預金として,また割引において--持ち手を換えたということが,この場合には一連の現実の売買でのその貨幣片の持ち手変換を速くしたのである。」(MEGA II/4.2,S.534-535;本書本巻431-432ページ。)〉

   つまり商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡み合うとしてマルクスが述べているものである。これが資本の流通過程において資本の商品変態を加速し、よって再生産過程一般が速められるとマルクスが指摘していることなのである。

   また{   }に括られて〈他面では信用は,購買と販売という行為をかなり長いあいだ分離しておくことを許し,したがってまた投機の基礎として役だつ〉と述べている部分についても、大谷氏は関連する「III)」の一文を紹介している。

  〈「一方では融通手形の使用によって,また他方では手形を振り出すことを目的とした商品の販売によって,事柄の全体が非常に複雑にされるので,実際には還流が,もはや一部はぺてんにかかった貨幣貸付業者の,一部はぺてんにかかった生産者の犠牲で行なわれているにすぎないようになったのちにも,事業が非常に堅実で還流は順調であるような外観が長く存在することもありうるのである。」(MEGA II/42,S.540;本書本巻447-448ページ。)〉 (同359-360頁)

   最後に〈準備ファンドの縮小〉に関する関連するものとしても「III)」から、次の一文を紹介している。

  〈「手形の割引によって〔行なわれる場合に〕は,前貸はただ名目的でしかない。Aが自分の糸を手形と引き換えに売るが,彼はこの手形を〔ビル・ブローカーに〕割引させる。実際には,彼〔ビル・ブローカー〕は取引銀行業者の信用を前貸するのであり,この銀行業者はまた自分の預金者たちの貨幣資本を彼に前貸するのであって,この預金者は,産業家や商業家自身から,しかしまた労働者からも(貯蓄銀行),地代収得者やその他の不生産的な諸階級からも成っているのである。こうして,一方では,各個人にとって個別的に,準備資本が回避される。他方では,現実の還流への依存〔が回避される〕。」(MEGA II/4.2,S.540;本書本巻446-447ページ。)〉 (同360頁)

  とりあえず、大谷氏の著書からの紹介は以上にしておく。詳しくは同書を直接参照されることをお勧めする。】


【5】

 |326下|〔原註〕1) (ⅰ)「フランス銀行の銀行券平均流通高は,1812年には106,538,000フラン,1818年には101,205,000フランだったが,通貨の運動,すなわちすべての勘定での受け払いの年間総額は,1812年には2,837,712,000フラン,1818年には9,665,030,000フランだった。つまり,フランスでは1818年の通貨の活動と1812年の活動との比は3対1だった。流通速度の大きな調節器は信用である。……このことから,貨幣市場にたいするひどい圧迫が,一般に,潤沢な流通〔a full circulation〕と一致するのはなぜか,ということを説明することができる。」(『通貨理論論評… … 』,65ページ。) (ⅱ)「1833年9月から1843年9月までのあいだに大ブリテン全体で発券銀行が300行ほど追加された。その結果は,流通高の250万の減少だった。すなわち1833年9月末の平均流通高は36,035,244ポンドで,1843年9月末のそれは33,518,554ポンドだった。」(同前,53ページ。)(ⅲ)「スコットランドの流通の驚くべき活発さは,イングランドでならば420ポンドを必要とするのと同じ量の貨幣取引を100ポンドで成し遂げることを可能にしている。」(同前,55ページ。)(この最後のことは,操作の技術的な面だけにかかわることである。)〔原注「1)」終わり〕

  ①〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.174.36-175.5.)
  ②〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.173.17-25.)〉 (289-290頁)

 【この原注は本文の〈b) 金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって〉という部分に付けられたものである。『通貨理論論評……』から三つの抜粋文が紹介され、最後の抜粋文に関連してマルクスの短いコメントが付けられているだけなので、平易な書き下し文は省略した。それぞれの抜粋文に番号を付して検討して行こう。

  (ⅰ) この抜粋文では、フランスの1812年と1818年を比較して、銀行券の流通高は1億653万フランから1億120万フランへと減っているが、〈通貨の運動〉、これをこの論文の著者は言い換えて〈すなわちすべての勘定での受け払いの年間総額〉としているが、しかしこの両者は同じといえるのかどうかはやや疑問である。なぜなら、〈すべての勘定での受け払いの年間総額〉という場合は、債権・債務の相殺額もすべて入れたものと考えられるが、〈通貨の運動〉のなかには相殺勘定は入らないからである(「通貨の運動」というなら、それは流通手段としての流通量と支払手段としての流通量との合計でなければならない)、しかし、いずれにせよ、〈すべての勘定での受け払いの年間総額〉(これはだから恐らく流通した商品の価格総額と同じであろう)は同じ年度の比較では、28億37771万フランから96億6503万フランへ増大している事実を指摘している。すなわち〈通貨の活動〉は1対3だったというのである。銀行券の流通高は減っているのに、その流通速度が早まったために、それが実現した商品価格総額は3倍に増えたというのである。そしてその流通速度を早めたのは信用だったと指摘している。そして〈このことから,貨幣市場にたいするひどい圧迫が,一般に,潤沢な流通〔a full circulation〕と一致するのはなぜか,ということを説明することができる〉と述べている。ここでも大谷氏は〈circulation〉を〈流通〉と訳しているが、やはりこの場合も「通貨」が正解ではないだろうか。この一文の考察はあと回しにして、とりあえず、信用の介入が貨幣の速度を早めるという問題を先に考えてみよう。これについては、すでに先のパラグラフの解読のなかで、大谷氏が紹介しているマルクスの一文のなかで説明されていた。それはすでに紹介したので、何度も引用することになるが、もう一度紹介しておこう。マルクスは次のように述べていた。

  〈「流通手段としての貨幣の速度{これによっても貨幣は節約される}は,まったく,売買の流れに(または,支払いが貨幣で次々に行なわれるかぎりでは,また諸支払いの連鎖にも)かかっている。しかし,信用がこの速度を媒介するのである。たとえば,貨幣片Gの最初の所持者であるAがBから買い,BがCから,CがDから,DがEから,EがFから買う場合には,つまり或る手から別の手へのその貨幣片の移行が現実の売買によって媒介されている場合には,この貨幣片Gは(たんなる流通手段として,信用の介入なしに),ただ5回の流通をもたらすことができるだけである。ところが,Bが貨幣を取引銀行業者に預金し,この銀行業者はそれをCの手形の割引で支出し,CがDから買い,Dがそれを取引銀行業者に預金し,この銀行業者がそれをEに貸し,EはFから買う,という場合には,たんなる流通手段(購買手段)としての速度でさえもさまざまの信用操作によって,すなわち,Bによる取引銀行業者への預金,この銀行業者によるCのための割引,Dによる取引銀行業者への預金,そしてこの銀行業者によるEのための割引によって,つまり四つの信用操作によって媒介されているのである。もしもこれらの信用操作がなかったならば,この同じ貨幣片は与えられた期間のうちに次々に5度の購買を片づけることはなかったであろう。それが現実の売買の媒介なしに--預金として,また割引において--持ち手を換えたということが,この場合には一連の現実の売買でのその貨幣片の持ち手変換を速くしたのである。」(MEGA II/4.2,S.534-535;本書本巻431-432ページ。)〉

   それではこのように商業信用に貨幣信用が絡み合うことによって貨幣の流通速度が早まり、取引される商品の価格総額が増大するということが、貨幣市場への圧迫が、一般に潤沢な通貨と一致するのはなぜか、ということを説明するというのであるが、果たしてそれはどういうことであろうか。この問題を考えるために、大谷氏は先にマルクスがこの『通貨理論論評……』の一文を「III)」でも取り上げていると指摘していたが、その一文をもう一度見てみることにしよう。

  〈「通貨の速度の調節者としての信用。「通貨の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通(通貨?--引用者)と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』。)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引してやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払いに役立つ速度は,ここでは,それが絶えず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。」(MEGA II/4.2,S.533-534;本書本巻427-428ページ。)〉 (同356頁)

   この場合、今回の原注1)とは抜粋の仕方がやや異なり(前半部分が欠けている)、マルクス自身の比較的長いコメントが引用文のあとにつけられている。しかし残念ながらマルクスの関心は〈通貨の速度の調節者としての信用〉というところにあって、それによって〈なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通(通貨?--引用者)と同時に生じるのかということが説明される〉という部分には及んでいないように思える。
  思うに、貨幣市場での激しい逼迫が生じるのは、一般的には恐慌時においてである。そして恐慌時というのは、信用が動揺し収縮する時でもある。つまりマルクスが指摘するような信用による通貨の節約の効果が薄れる時でもある。だから通貨の量がそれだけ増大するということではないだろうか。だから〈貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通(通貨?--引用者)と同時に生じる〉ことになるのではないだろうか。
 
  (ⅱ) の抜粋文は、大ブリテン全体(これはイングランドに、ウェールズ、スコットランド、アイルランドを加えたものであろう)で発券銀行が300行ほど追加された結果、流通高が25万(ポンド・スターリング)減少したというのである。いうまでもなく、この原注も〈b) 金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって〉という部分に付けられたものである。だから流通高が減少したのは、銀行券の流通が加速されたからだと考えることができる。ではなぜ、発券銀行が増えたら、銀行券の流通が加速されるのであろうか。これらの追加された発券銀行というのは地方銀行であろう。つまり地方の事業の取引を銀行が媒介し、手形を割り引いて自行の発行した銀行券を手渡す一連の操作がそこに加わってくるということである。そうなると、先にマルクスが述べていたように、例えば同じ一枚の500ポンド銀行券を考えた場合、〈Aは今日,手形の支払いでこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引してやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払いに役立つ速度は,ここでは,それが絶えず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている〉。そして〈もしもこれらの信用操作がなかったならば,この同じ貨幣片は与えられた期間のうちに次々に5度の購買を片づけることはなかったであろう。それが現実の売買の媒介なしに--預金として,また割引において--持ち手を換えたということが,この場合には一連の現実の売買でのその貨幣片の持ち手変換を速くしたのである。〉だから〈金属通貨または紙券通貨の流通が加速され〉たと考えられる。つまり追加された発券銀行の信用操作によって、銀行券の流通速度が増大し、結果として銀行券の流通高を減少させたということではないだろうか。

  (ⅲ) の抜粋は、スコットランドの方がイングランドより流通が活発なために、イングランドでなら420ポンドを必要とする同じ量の貨幣取引をスコットランドでは100ポンドでなし遂げることを可能にしているというのである。マルクスもいろいろなところで言及しているが、当時のスコットランドはイングランドより信用制度が発達していたのである。金井一雄氏は『イングランド銀行金融政策の形成』(名古屋大学出版会1989.5)で次のように書いている。

  〈イングランド,ウェールズにおいては,1708年の法律によって株式銀行はイングランド銀行に独占されていた。したがって,1820年代に至っても,小規模の不安定な銀行が何百も存在しているという状態であった(共同出資者は6人以下に限定されていた)。他方,スコットランドでは,1695年にスコットランド銀行に付与された特権が1716年に廃止されて以降,支店をもつ大規模な株式銀行が数行発展してきていた。そして,1825年恐硫の際も,イングランドでは多数の銀行が破産したのに対し,スコットランドの大規模な株式銀行は破産などしなかった。〉 (18-20頁)

   ここではスコットランドのほうが、イングランドより信用制度が発展していた状況がまた違った観点からだが、描かれている。イングランドとウェールズでは1829年に5ポンド未満の銀行券の発行が禁止されたが、なぜスコットランドとアイルランドではそれが禁止されなかったのかの理由も明らかにされている。つまり後者はでは早くから株式銀行が認められ、それが発展していたために、1825年恐慌で倒産する銀行が少なかったということである。それに対してイングランドやウェールズではイングランド銀行の寡占によって株式銀行が認められず、小さい個人銀行が多かったために、1825年の恐慌時には倒産が相次ぎまたそれによる被害が大きかったのである。労働者階級が持っていた少額銀行券(この恐慌以前はイングランドやウェールズでも少額銀行券が流通していた)がすべて紙屑になり、その矛盾のしわ寄せはすべて労働者階級に押しつけられた。だから、1829年に法律によって5ポンド未満の少額の銀行券の発行が禁止されたのである。
   またマルクスは当時スコットランドでは金貨幣が流通から姿を消しているとも指摘しているが、これもスコットランドでは信用が発展し金貨幣に代わって銀行券の流通がそれだけ発展していたからである。スコットランドではすべての人が預金口座をもち、労働者への賃金の支払いも銀行券で行なわれていたとの指摘がある。
   というわけでスコットランドでは信用が通貨の流通速度を加速したために、100ポンドの銀行券でイングランドでなら、420ポンドの銀行券を必要とする取引を終わらせることができたということである。
   最後に、マルクスは三つ目の引用に関して〈(この最後のことは,操作の技術的な面だけにかかわることである。)〉と述べている。
   これに関して、大谷氏はこうした〈「銀行制度の技術」の変化による通貨(銀行券)の流通における変化について,この「III)」では,『銀行法委員会報告』,1858年から,次の記述が引用されている〉として、次のようなマルクスの抜粋ノートからの一文を紹介している。

  〈「1854年6月8日,ロンドンの個人銀行業者たちは株式銀行を手形交換所の取り決めに加わることを認め,その後まもなく,最終の手形交換がイングランド銀行で清算されるようになった。毎日の決済は,それぞれの銀行がイングランド銀行にもっている勘定での移転によって行なわれる。このシステムの採用の結果,以前は銀行業者が自分たちの勘定を決済するために用いていた高額銀行券はもはや不要となった。」(MEGA II/42,S552;本書本巻485ページ。)〉 (大谷新本第3巻358-359頁)

  これは取引所での交換尻を中央銀行の当座預金間の振替で決済するということであり、これは今日でも行われていることである。それがすでにイギリスでは19世紀の半ばにおいて確立していたということである。1854年の日本というのは、ペリーが来航して開国を迫られていた時代である。】


【6】

 〔原注〕a) 「諸銀行が設立される前には,通貨の諸目的のために引き揚げられた資本額は,いつでも,実際の商品流通が必要とした額よりも大きかった。」(『エコノミスト』,1845年度,238ページ。)〔原註「a)」終わり〕|

  ①〔注解〕「通貨と銀行業。第2論説」。所収:『エコノミスト』,ロンドン,第11号,1845年3月15日,238ページ。--この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.292.8-10.)〉 (290頁)

 【これは〈準備ファンドの縮小。これは二つの面から考察することができる。A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減として〉という本文の最後につけられた原注である。『エコノミスト』からの抜粋だけなので平易な書き下しは省略した。
   この『エコノミスト』の一文が述べているのは、銀行が設立されるまでは、実際の商品流通に必要な通貨よりも多くの通貨が必要だったが、それが銀行の設立によって減少したということである。商品流通には、実際に商品流通を媒介する通貨だけではなくて、そのための準備状態にある通貨があるのであって、そうした準備金が銀行に集中されることによって、取引事業者がそれぞれバラバラに個別に持っているよりも、その額が最低限に縮小されるということではないかと思う。その結果、社会的にみれば〈準備ファンド〉は縮小され、〈流通費の節減〉に役立っているということではないだろうか。

  小林賢齋氏は『マルクス「信用論」の解明』(八朔社2010.7.25)の第1章でウィルソンの『エコノミスト』から紹介しながら、次のように述べている(文中の注をつけておく)。

  〈「すべての商人(tradesman)や私人は,ある与えられた瞬間に単に実際に使用している貨幣を保持しているのみでなく,加えて,一定の準備金(reserve)を保持していることをも求められ,」したがって「この[準備金の]必要の結果,商品の現実の流通が求めたよりもより多くの資本額が,いつでも,通貨という目的のために引き上げられていた。」(1)
 そこで既に述べたように,この「公衆の予備貨幣(spare money)」を,即ち「将来の支払に応じ,そして将来購買するたあに必要な元本(funds)を,各個人が手元に保持する代わりに,必要とされる時には払い戻されることを信頼して,各人がそれらを彼の銀行業者に貸付け,そして銀行業者は他の方面で,事業を容易にし,生産を促進するように,それらを使用した。」そしてこのような「預金銀行の設立(2)によって」流通に必要な貨幣量は「節約」され,「遥かに少ない貨幣あるいは鋳貨が,事業の遂行に必要となった(3)

  1) Wilson.op.cit.,The Economist,Mar.15,1845,p.238.
  2) ウィルソンは,「シティの銀行業者(a city banker)」と「ウェスト・エンドの銀行業者(a WestEnd banker)」とを区別している。前者は「貿易商(merchant)や有価証券仲買人(stock-broker)の貨幣を保管している」銀行業者である。これら預金者達の預金の「目的は,絶対的に必要である以上に多くの失業貨幣(unemployed money)[準備金]を保持することでは決してないが,彼らは受取ったり支払ったりする大きな額を持っており,したがって彼らの銀行業者への[預金]残高は,ある時には非常に大きく,またある時には比較的に少ない。」それに対し後者は,「貴族やジェントルマンの貨幣を保管している」銀行業者である。彼らの預金は「支出(expenditure)のために漸次的に引き出され,彼らの地代や収入が受け取られる時に定期的に補填される。」だから両銀行業者は「非常に異なった規則(rule)に従って」(ibid.,p.216-217)営業することとなる。なお,預金銀行が順守する「規則と計画」について「詳論」(ibid.,p.238)するのが,上述のように第Ⅲ~IV論説なのである。
  3)Do.,op.The Economist,Mar.8,p.217.そこでウィルソンは,預金銀行の設立を「通貨節約の第1歩」(The Economist,Mar.15p.238)と呼んでいる。〉(69-70頁)

  これは、ほぼ今回マルクスが引用している内容を紹介しているものと思われる。】

   (続く)

 

2021年1月 7日 (木)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(27-1)

『資本論』第5篇 第27章の草稿の段落ごとの解読(27-1)

 


  今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第27章「資本主義的生産における信用の役割」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第2巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 〈1)[501]      |326上|2)3)〔II 信用制度の役割〕

  1)MEGA II/4.2の501ページは,この「〔II 信用制度の役割〕」で始まっている。
  2)〔E〕挿入「第27章 資本主義的生産における信用の役割」(タイトル)
  3)MEGA II/4.2では,エンゲルス版第27章に利用された草稿部分に,エンゲルス版と同じ「[資本主義的生産における信用の役割]」という編集者のタイトルを挿入している。「5)信用。架空資本」の序論である「〔A 信用制度〕」のなかの「〔Ⅰ 信用制度の概要〕」に続くこのテキスト部分では,今度はその「信用制度」の役割が取り上げられていると考えるので,「〔II 信用制度の役割〕」という筆者の表題をつけておく。〉(287頁)

 【この〈〔II 信用制度の役割〕〉という表題は、大谷氏がその内容に則してつけたものである。大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第1巻の「はしがき」で〈第5章の構成と本書への収録〉という一覧表を示している。とりあえず、〈本書への収録〉部分はカットし、その代わりに該当するエンゲルス版の篇・章を入れて、もう一度紹介しておこう。ただし、当面は問題にならないエンゲルス版の第33章以下の部分は省略する。
Photo_20210111144801

     (画像をクリックすると鮮明なものが見られます。)

   ここで〔  〕で括られたものは、すべて大谷氏がその内容に則して項目に分けて、表題を付けたものである。それ以外の太字部分はマルクス自身のものである。ただしマルクスは番号を付け間違っているものもあるが、それは訂正してある。

   この表を見ると、〈5) 信用。架空資本〉とマルクスが表題をつけた項目部分を、大谷氏は大きくはA、B、Cの三つの部分からなるとし、その最初のものを〈〔A 信用制度〕〉とし、それをさらに〈〔Ⅰ 信用制度の概要〕〉(エンゲルス版の第25章の前半部分に該当)と〈〔II 信用制度の役割〕〉(同第27章)とに分けている、だからこれから段落ごとの解読に取り組む部分は、その後半部分にあたるわけである。この二つが〈〔A 信用制度〕〉に関してマルクスが書いた本文の部分にあたる。しかしこの部分には本文以外にもエンゲルスによって第25章の後半や第26章全部に使われた雑録や挿論などが含まれているわけである。
  因みに〈5) 信用。架空資本〉の部分には、このあとやはり大谷氏がその内容によって付けた項目としては〈〔B 信用制度下の利子生み資本(monied capital)〕〉があり、この部分にはエンゲルス版の第28章、第29章、第30~32章が含まれ、それ以外にもマルクスによって〈混乱〉と題された各委員会報告等からの抜粋とコメントがある(今回は表では省略)。
  さらには〈〔C 地金と為替相場。貨幣システムによる信用システムの被制約性〕〉がそのあとに続く(これも表では省略)。ここにはエンゲルス版の第35章に該当する本文部分とそれに関連したマルクスによる抜き書き等が含まれている。いずれにせよ、全体の見通しのより詳しいものは大谷氏の当該の「はしがき」を参照して頂きたい。

  よってこれから取り上げる〈〔II 信用制度の役割〕〉(エンゲルス版第27章に該当)は、すでに詳細に検討してきた第25章の前半部分でマルクスが〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具〉を〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせる〉として、〈ただ商業信用〉との関連においてそれらを考察したものに直接つながるものである。すなわち〈特殊的信用諸用具ならびに銀行の特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない〉(188頁)と締め括られているものに直接つながるものなのである。ここでは大谷氏が表題として掲げているように、資本主義的生産における信用制度の役割とその歴史的な意義とが明らかにされているといえる。大谷氏は第25章該当部分の草稿と第27章該当部分の草稿との繋がりについて、次のように述べている。

  〈第25章本文部分と第27章とを「信用制度概説」としてつかんでみると,この二つの部分の意味はきわめて明瞭になる。すなわち,第25章本文部分は,信用制度とはどのようなものかを述べ,第27章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている,ということである。〉 (『マルクスの利子生み資本論』第2巻278頁)

   ついでだから、これからマルクスの草稿を解読していくための予備知識として、大谷氏が〈第27章の草稿,それとエンゲルス版との相違〉と題したマルクスの草稿の本文部分に取りかかる前に、氏自身が若干の解説を加えているので、その主な内容を紹介しておこう。
  この第27章の草稿の翻訳は、『経済志林』第52巻第3・4号,1985年3月に発表されたものの再録であるが、紀要での発表の場合も、その前に簡単な内容の紹介があったが、今回、『マルクスの利子生み資本論』第2巻に収録するにあたって、紀要に発表したときのものに〈かなりの削除・加筆を行な〉ったもので、それに加えて〈信用制度形成の理論的な必然性と,信用制度がもつ意義あるいはそれが果たす役割とについての筆者の見解を要約的に述べておくことにする〉(以上、275頁)と前書きで述べている。その内容を私自身のノートから紹介しておくことにする。以下は、ノートをそのまま紹介するものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

§ 1「5)信用。架空資本」における第27章の位置

エンゲルス版の第27章の位置づけについて

  〈この点については,本書のこれまでのところで,次のことが明らかになっている。--①マルクスの表題「信用。架空資本」は,エンゲルス版の第25-35章にあたる草稿第5章の「5)」の全体への表題であって,エンゲルス版第25章部分だけの表題ではない。②エンゲルスが第26章につけた表題「貨幣資本の蓄積,それが利子率に及ぼす影響」は,草稿の321ページにある「貨幣資本の蓄積とそれが利子率に及ぼす影響」という見出しによるものであるが,これはマルクスにあっては,いわば雑録的な抜き書きのなかのごく小さな部分への小見出しにすぎず,エンゲルス版第26章部分の全体への表題と見ることはできない。③エンゲルス版の第25章の冒頭から,「特殊的信用諸用具ならびに銀行の特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない」(MEGA II/4.2,S.475:MEW25,S417;本書本巻188ページ)と書かれているところまでは,マルクスの草稿でも,本文と見られるが,このあと,エンゲルス版第26章の最後の行までの部分はすべて,本文への注,雑録,挿論にあたると考えられる。④他方,エンゲルス版第27章部分はふたたび,本文として書かれていると見られる。⑤したがって,エンゲルス版第27章は,第25章中の上記本文部分に続くものとして読むことができる。〉 (276頁)

§ 2「信用制度の役割」

●銀行制度の三つの役割

  〈銀行制度についても同様のことが言える。これから挙げる〈社会的総資本の配分の媒介〉,〈流通時間・流通費の縮減〉,〈株式会社形成の媒介と促進〉という銀行制度の三つの役割のうちのはじめの二つは,「銀行制度形成の必然性」を,銀行制度が果たす役割という見地から見たものであり,したがってそれは「銀行制度とはなにか」という問いにたいする答えのなかに含まれているはずのものである。それにたいして,最後の〈株式会社形成の媒介と促進〉という役割は,そのようにして生まれた銀行制度が資本主義的生産のなかで果たす新たなはたらきである。〉 (279頁)

  このなかの「銀行制度」を「信用制度」と読み替えれば、そのまま信用制度の説明になると述べている。
  以下、「資本主義的生産における銀行制度形成の必然性」について、『図解 社会経済学』(桜井書店,2001年)からの要約が紹介されている。そこから記憶にとどめておくべき部分を抜粋しておこう。

●銀行の生成史

  〈歴史的には,勃興してきた産業資本および商業資本が目の前に見たのは,旧来の高利資本が貴金属を独占して,高利をむさぼっている状態であった。新たな資本が資本蓄積を推し進めて資本主義的生産を拡大していくためには,利子を取得する資本を自己に従属させて,利子率を産業利潤や商業利潤のなかから支払われるような水準にまで引き下げなければならなかった。この目的を達成するために創造されたのが銀行制度であった。銀行制度は,一方ではすべての死蔵されている貨幣を集中してそれを貨幣市場に投じることによって,他方では信用貨幣(兌換銀行券)の創造によって,高利資本による貨幣の独占を打ち破った。17世紀の初頭にアムステルダム銀行やハンブルク銀行などの振替銀行が生まれていたが,銀行制度の形成の最大の画期は1694年のイングランド銀行の設立であった。ここから現代の銀行の歴史が始まった。〉 (280頁)

●「流通時間なき流通」をめざす資本の必然的傾向

  〈流通時間は価値も剰余価値も生まない時間であるから,産業資本は流通時間を最小限に短縮しようとする志向をもたざるをえない。
  また,産業資本が流通過程で支出しなければならない流通費は剰余価値からの控除でしかないから,産業資本は流通費を,すなわち,貨幣そのもの,商品の売買費用,貨幣取扱いの費用などを,最小限に縮減しようとする志向とをもたざるをえない。なお,流通費としての貨幣そのものとは,第1に,再生産の諸要素を相互に補填する流通のために資本家たちが前貸しなければならない流通手段であって,彼らの購買・支払準備ファンドとして存在し,第2に,固定資本の更新と資本蓄積とのために彼らが積み立てなければならない固定資本の償却基金と蓄積ファンドであって,彼らのうちのだれかの手のなかで遊休貨幣資本として存在するものである。〉 (280-281頁)

●株式資本のもとでは,機能資本家はたんなるマネジャーに転化し,資本所有者はたんなる貨幣資本家に転化する

  〈第3に,株式資本のもとでは,機能資本家はたんなるマネジャーに転化し,資本所有者はたんなる貨幣資本家に転化する。その結果,一方では,マネジャーが受け取るのは一種の熟練労働の「賃金」にすぎないものとなる。他方では,株式会社では,資本所有者は,マネジャーから最下級の労働者にいたるまでのすべてを含む「生産者」に対立して,外部からたんに他人の剰余労働を取得するだけの余計な存在であることが顕わになる。
  このような意味で,株式会社は資本主義的生産様式の内部での資本主義的生産様式の止揚であり,自分自身を止揚しないではいないような矛盾を含んだ存在であり,資本がアソーシエイトした生産者(個人)の所有に転化するための必然的な通過点である。〉 (285頁)

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  以上、とりあえず、第27章の解読にとりかかるための予備知識としておこう。】


【2】

  信用制度についてこれまでわれわれが一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった。--

  ①〔異文〕「われわれが」--書き加えられている。〉 (287頁)

 〈信用制度について、これまで私たちが一般的に述べてきた内容は、次のようなものでした。--〉

 【ここでは信用制度について、〈われわれが一般的に述べる機会をもった〉とマルクスは書いているが、しかしこれは必ずしもその前の大谷氏が〈〔Ⅰ 信用制度の概要〕〉と表題をつけた部分(エンゲルス版の第25章該当部分)には限定されないであろう。むしろ『資本論』のそれ以前の部分全体、あるいはマルクス自身としてはそれ以前の諸草稿も含めて、このように述べているとも考えることができるかもしれない。それは以下、その一般的に述べられている内容をみれば明らかとなる。
  つまりこれから信用制度について述べるものは、すでにこれまで一般的に述べてきたものを項目的に要約的に簡単に確認しておくだけである、というのがマルクスの意図ではないかと思われる。】


【3】

 〈 Ⅰ) 利潤率の均等化を媒介するために,すなわち全資本主義的生産の基礎をなすこの均等化の運動を媒介するために,信用制度が必然的に形成されること。〉 (287頁)

 〈Ⅰ) 信用制度について、まず第一に指摘しなければならないのは、全資本主義的生産の基礎をなす諸資本の競争による利潤率の均等化(一般的利潤率の形成)を媒介するために,信用制度が必然的に形成されたことです。〉

 【ここで〈Ⅰ) 〉という項目番号があるが、この第27章該当部分の全体は、その前のパラグラフでマルクスが信用制度について、〈一般的に述べる〉としている内容が項目的には三つあげられ、ほぼそれだけで終わっているのである(この第27章に該当する部分のマルクスの草稿は原頁数にしてたった3頁分、326-328頁である)。すなわちこの〈Ⅰ) 利潤率の均等化を媒介 〉と次の〈II) 流通費の節減〉、そして〈III) 株式会社の形成〉の三つの部分からなっているだけなのである。あとは第28章以下へのつなぎになると思える部分(【11】パラグラフ)と追加的な補足と思える部分(【12】と【14】)でこの第27章該当箇所の草稿は終わっている。

  この利潤率の均等化については、すでにわれわれはエンゲルス版第22章該当部分(草稿にはマルクスによって〈2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率〉という表題がつけられている)で次のように述べられていたことを知っている。

 〈貨幣市場ではただ貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers)とが相対するだけである。商品は同じ形態を,すなわち貨幣という形態をとっている。資本がそれぞれ特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてとるすべての特殊的姿態は,ここでは消えてしまっている。資本は,ここでは,自立的な交換価値の,貨幣の,無差別な,自分自身と同一な姿態で存在する。特殊的諸部面の競争はここではなくなる。すべての部面が貨幣の借り手Geldleiher〕としてみなひとまとめにされており,また資本も,すべての部面にたいして,その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対している。資本はここでは,生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われるのである。(?) 他方,貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。すなわち,その姿態で貨幣資本は共同的な要素として,その特殊的な充用にはかかわりなしに,それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに,資本家階級のあいだに,配分されるのである。そのうえに,大工業の発展につれてますます貨幣資本は,それが市場に現われるかぎりでは,個別資本家,すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によって代表されるのではなくて,集中され組織されて,現実の生産とはまったく違った仕方で,社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現われるのである。したがって,需要の形態から見れば,この資本には一階級の重みが相対しており,同様に供給から見ても,この資本は,大量にまとまったen masse〕貸付可能な資本として〔現われる〕のである。〉 (新本第1巻248-249頁)

   このように信用制度(銀行制度)は、貨幣資本を〈生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われる〉ものとするのである。こうして資本はある特殊な生産諸部面から他の生産諸部面へと容易に移動することができる。現実に投下されている資本の移転には大きな摩擦が生じざるを得ないが、しかし共同資本としての貨幣資本をその必要に応じて配分することには何の抵抗もない。よって、ある特殊的部門から他の特殊的部門への資本の移動は、ただ貨幣資本に対する需給として現われ、利潤率の低い部門からは貨幣資本が引き上げられ貨幣市場への供給として現われ、利潤率の高い部門へと供給され、その部門での蓄積・拡大再生産が促される等々。その結果、利潤率は均等化され、一般的利潤率が形成されるわけである。
 また大谷氏は、この問題に関連して、『マルクスの利子生み資本論』第1巻の〈序章 B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉において〈(3)信用制度考察の必要とその可能性〉という項目のなかで触れているが、そこで参考文献として現行版の第3部第2篇第10章該当部分の草稿の一文の翻訳を紹介している。それも参考になると思えるので、紹介しておこう。

  〈〔84〕「このような不断の不均等の不断の平均化がますます速く行なわれるのは,1.資本がより可動的な場合であって,そうであればあるほどある部面から他の部面に資本を移動することがそれだけ容易に行なわれるのであり,同時にこれには場所についての可動性も含まれている。2.労働をある部面から他の部面へ,またある場所の生産地点から他のある場所の生産地点へより速く動かすことができる場合である。第1のことは次のようなことを前提する。社会のなかでの完全な自由取引〔freetrade〕。そして,自然的独占以外の,すなわち資本主義的生産様式そのものから生じる独占以外の,あらゆる独占の排除。さらに信用システムの発展であって,信用システムは,組織されていない大量としての浮動している社会的資本を集中して〔concentriren〕個別的資本家たちに向き合わせる。資本家のもとへのさまざまの生産部面の従属(この従属は,すべての資本主義的に搾取される生産部面で価値の生産価格への転化が問題になると仮定したときにすでに前提のうちに含まれていたことである。しかし,この平均化そのものがより大きな障害にぶつかるのは,多数の広大な資本主義的に経営されていない生産部面が資本主義的に経営されている諸部面のあいだに割り込まされ絡み合わされている場合である)。人口の密度がある大きさに達していること。第2の点。労働者がある生産部面から他の生産部面に,またはある生産場所からどこか他の生産場所に移動することを妨げるような法律をすべて廃止すること。自分の労働の内容にたいする労働者の無関心。すべての生産部面の労働ができるだけ単純労働に還元されること。職業的偏見がすっかりなくなること。とくにまた,資本主義的生産様式への労働者の従属,等々。これについてのこれ以上の詳細はわれわれの限界の外部にある。なぜならそれらは「競争について」という論稿〔Abhandlung〕で展開されるべきことだからである。」(『資本論』第3部第1稿。MEGA II/4.2,S.270,〔現行版対応箇所:MEW25,S.206-207〕)〉 (新本第1巻142-143頁)

   ここでは〈不断の不均等の不断の平均化がますます速く行なわれる〉一条件として〈信用システムの発展〉が指摘され、〈信用システムは,組織されていない大量としての浮動している社会的資本を集中して〔concentriren〕個別的資本家たちに向き合わせる〉とされている。つまり信用システムは貨幣資本(利子生み資本)を階級の共同的な資本として、それを必要とする分野の諸資本に競争を通じて配分し、利潤率の均等化を媒介するのである。
  以上が信用制度の役割の第一である。】

  (続く)

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