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2020年12月

2020年12月16日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-12)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(最終回)

 


   § 貨幣の前貸と資本の前貸との区別についてのエンゲルスの解説


   われわれの本来の目的は、マルクスの草稿を詳細に検討することであって、それにエンゲルスが編集過程でどのような修正や変更を加えているかを調べることではない。しかし、ここではエンゲルスがマルクスの草稿を編集する過程で、そのなかに自身の一文であることを銘記しながら挿入した比較的長いものを検討しておくことにしたい。エンゲルスは果たしてマルクスの草稿を正しく理解しているのかどうかが分かるであろう。今回もパラグラフごとに番号を打って、検討していくことにする。
   ところでこのエンゲルスの挿入文は、われわれのパラグラフ番号では【29】のあとに続けられている。そこでは質問者(ケイリ)は逼迫期の商業界の願いは何か〈彼らの目的は,資本を手に入れることですか,それとも法貨を手に入れることですか〉と聞いたことに対して、オウヴァストンは〈彼らの目的は,自分の事業を続けていくために資本にたいする支配権を手に入れることです〉と答えているのに対して、マルクスは〈(彼らの目的は,信用の欠乏が現われたので,また同時に,自分の商品等々を価格よりも安く売りとばさなくてもよいようにするために,自分あての手形にたいする支払手段を手に入れることである〉云々と書いている、そのあとに挿入されたものである。
  なおエンゲルスの挿入文を検討するまえに、この挿入文に対して、大谷氏が訳者注509)で書いていることも参考のために紹介しておこう。

  〈本書では,現行版(エンゲルス版)になじんできた読者が,第3部第5篇についてもたれてきたであろう既成の諸観念から解き放たれて,マルクス草稿の第5章をそのものとして読まれるようになることを願って,なにはともあれ,現行版(エンゲルス版)の第5篇がマルクスの草稿第5章と異なっている箇所をできるだけ網羅的に--つまり恣意的と言われないように--記録することに努めている。本書で,エンゲルスが彼の版で自分の手によるものであることを明記して挿入したほとんどすべての箇所を「補注」などのかたちで収録しているのも,そのような趣旨によるものである。だから,おおむね,そうした部分でのエンゲルスによるマルクス理解の妥当性などについて論じることはしていない。
   ここでの「貨幣の前貸と資本の前貸との区別」の問題--この問題は厳密には「流通手段の前貸と資本の前貸との関連と区別」とされるべきものである--についてのエンゲルスの解説についても同様である。
   この解説については,三宅義夫氏による,エンゲルス版第28章におけるエンゲルスの解説(本書第3巻第8章所収)と合わせての,詳細をきわめた検討(『貨幣信用論研究』,未来社,1956年,第8章)がある。三宅氏のこの検討には学ぶべき点が多々あるが,しかし,この問題についての三宅氏の理解には,エンゲルス版でのエンゲルスによる無断の手入れをマルクスのものと思い込まれたことから生じた,第28章草稿部分の誤読が大きく影響しており,エンゲルスの解説の検討の部分もその埒外にはない。これらの点については,本書第3巻第8章での筆者の解題のなかで詳論する。〉 (270-271頁)

  この大谷氏の注に少しコメントをするなら、大谷氏は〈「貨幣の前貸と資本の前貸との区別」の問題--この問題は厳密には「流通手段の前貸と資本の前貸との関連と区別」とされるべきものである--〉と述べている。つまり〈厳密には〉〈貨幣〉を〈流通手段〉とすべきであり、単に〈区別〉ではなく〈関連と区別〉だというのであるが、しかしこうした対置には若干問題があるのである。しかしそれをここで論じるとあまりにも横道にそれるので、やめておくが、これは確かに多くの論者によって論争されてきた問題であることは指摘しておく。また、ここで大谷氏が述べている三宅義夫氏の〈詳細をきわめた検討〉や〈本書第3巻第8章での筆者の解題〉(これは「12 資本の前貸と流通手段の前貸の区別」と題され70-91頁に渡って展開されているものであろう)についても、それを問題にすれば、それだけで大変な分量になってしまうので、ここでは、また後に時間があれば検討することにして、とりあえず、エンゲルスの挿入文について検討することにしよう。


【1】

 〈「{ここで私--編集者--に一言さしはさませていただきたい。
  ノーマンの場合にもロイド-オウヴァストンの場合にも,銀行業者はつねに「資本を前貸する」人としてそこにあり,彼の客は彼から「資本」を求める人としてそこにある。すなわち,オウヴァストンは言う。ある人が銀行業者に手形を割引してもらうのは,「資本を手に入れたいと思うからであり」(第3729号),また,もしこの人が「資本にたいする処分権を低い利子率で手に入れることができる」(第3730号)ならば,それは彼にとって好都合である,と。「貨幣は,資本を手に入れるための道具であり」(第3736号),また,パニックのときには,事業界の大きな願いは,「資本にたいする支配力を手に入れること」(第3743号)である。資本とはなんであるかについてのロイド-オウヴァストンのあらゆる混乱にもかかわらず,次のことだけは明らかである。すなわち,オウヴァストンは,銀行業者が取引客に与えるものを資本と呼ぶのであり,それは取引客がまだもっていなかった資本が前貸されるものであって,取引客がこれまで支配していたものへの追加だ,と言うのである。〉 (270-271頁)

  【以下、エンゲルスの挿入文の検討では書き下し文は省略する。
   このパラグラフでは、エンゲルスはノーマンやオウヴァストンらが、銀行業者が手形割引等で前貸しを行う場合、彼らが貸し付けるものを「資本」と述べていることを確認している。その前にエンゲルスは〈資本とはなんであるかについてのロイド-オウヴァストンのあらゆる混乱にもかかわらず,次のことだけは明らかである〉と書いている。ここではまだエンゲルスは彼らが「資本」と述べているものが果たして何なのか、厳密にはどのように規定されるべきかについては何も述べていない。】


【2】

 〈銀行業者は貨幣形態で利用することのできる社会的資本の分配者--貸付という形での--としての役割を演じることにあまりにも慣れているので,彼にとっては自分が貨幣を手放す場合のあらゆる機能が貸付のように思われるのである。彼が払い出す貨幣はすべて彼にとっては前貸として現われる。もし貨幣が直接に貸付に投じられるならば,これは文字どおりに正しい。貨幣が手形割引に投じられるならば,それはじっさい彼自身にとっては手形の満期までは前貸である。こうして彼の頭のなかでは,自分は前貸でないような支払いはすることができないのだという観念が固まってしまうのである。しかも,その前貸というのは,けっして,利子または利潤をあげる目的でのどんな貨幣投下も,経済学的には,個人の資格でのその貨幣所有者が企業者の資格での自分自身に与える前貸とみなされる,というただそれだけの意味での前貸ではないのである。そうではなく,銀行業者が取引客にある金額を貸付の形で引き渡せば,取引客が自由に処分できる資本がそれだけ増える,という特定の意味での前貸なのである。〉 (271-272頁)

  【ここでもエンゲルスは、銀行業者にとってどうかと述べているのみで、それを理論的には如何に考えるべきかについては、あまり正確には論じていない。エンゲルスは、このあと第28章では、手形割引を普通の商品の買い取りと同じであるかに、述べているが、ここでは手形割引を手形が満期になるまでは前貸しだと述べている。ここで「前貸し」というのは、必ずしも正確な物言いではない。「前貸し」というのは、一般には、貨幣をそれが増殖して、GがG+G'として返ってくることを前提にして投下することをいうのである。だから個別資本が自身の貨幣資本を現物資本に投下する場合も、これは自分の貨幣を前貸しするのである。だからエンゲルスが手形割引を満期までは前貸しだと述べていることと、それは普通の商品の売買と同じだと述べていることはこの限りでは矛盾しないのである。資本家が彼の貨幣資本を前貸しする場合も、それで生産に必要な諸要素(生産諸手段や労働力)を購入するなら、それは普通の意味での商品の売買と同じだからである。しかし銀行業者の場合は、その「前貸し」は、決して普通の商品の売買と同じではない。確かにその場合も貨幣そのものを売買するという仮象をとるが、しかしそれはあくまでも仮象であって、現実は「貸付」なのである。エンゲルスが果たして利子生み資本のこういう運動形態を正確に理解しているかどうかは、今この時点では、確認することはできない。ただハッキリしていることは、エンゲルスは銀行業者の貨幣の貸し付けを「前貸し」と他の一般の資本投下と同じ規定で論じているということである。
   しかしエンゲルスは銀行業者に固有の「前貸し」について論じていないかというとそうではない。彼は〈しかも,その前貸というのは,けっして,利子または利潤をあげる目的でのどんな貨幣投下も,経済学的には,個人の資格でのその貨幣所有者が企業者の資格での自分自身に与える前貸とみなされる,というただそれだけの意味での前貸ではない〉と述べているからである。このエンゲルスが述べている内容は、そのままでは、すんなりとは簡単に理解できるものではない。だから厳密に検討してみよう。
   まず〈利子または利潤をあげる目的でのどんな貨幣投下も〉とあるが、〈利子……をあげる目的での……貨幣投下〉と〈利潤をあげる目的での……貨幣投下〉とは決して同じではない。前者は貨幣資本家(その中には銀行業者も入る)が彼の持つ貨幣を利子生み資本(monied capital)として前貸しすることであり、後者は現実資本家が利潤獲得を目的に彼の貨幣(貨幣資本Geld capital)を前貸しすることである。だからこれを一緒くたに論じるのは、すでに問題の混乱でしかない。
   次に〈個人の資格でのその貨幣所有者が企業者の資格での自分自身に与える前貸〉ということで何を言いたいかである。これは利子生み資本範疇が確立した場合、現実資本家が他人の貨幣資本(monied capital)を借り受けて、利潤を上げ、その一部分を利子として分割して支払うことになるのであるが、そしてその場合は、彼の取り分は企業利得になるのであるが、しかし例え他人の資本を借りずに、自分自身が所有する貨幣だけで前貸し(投資)をする場合であっても、そこから得られる利潤も、利子と企業利得に分割され、彼は企業利得だけではなく、あたかも自分が投資した貨幣を人から借り受けたかのように、その利子分をも計算して、それを自身の利得として計算するということであろう。確かにこれは現実資本の前貸しに固有の話であって、銀行業者の前貸し(貸付)にはない話である。しかしそのことを〈個人の資格でのその貨幣所有者〉と〈企業者の資格での自分自身〉として区別して論じるやり方は、決してマルクスが論じていることではない。事業家にとって、彼が投じる貨幣は一つは生産手段の購入に充てられ、もう一つは労働力の購入に充てられる。これが彼にとってはコストなのである。しかし利子生み資本範疇が確立すると、これに利子がコストとして加わってくるのである。つまり事業家が支払う利子分は、すでに市場利子率によって一定の貨幣額に付属する前もって決まったものとして前提されており、彼にとってはコストの一つなのである。だから例え彼が自分の貨幣だけを前貸したとしても、コストとしての利子分を計算の中に前もって入れるということになるのである。だからエンゲルスが問題を正しく厳密に理解しているかというとそうは言い難いのである。
   では、次に、それに対して、エンゲルスは銀行業者の前貸しをどのように述べているのであろうか。
  〈そうではなく,銀行業者が取引客にある金額を貸付の形で引き渡せば,取引客が自由に処分できる資本がそれだけ増える,という特定の意味での前貸なのである。〉
   しかしこれは必ずしも厳密には正しいとは言えない。なぜなら、手形割引での貸付の場合、〈取引客が自由に処分できる資本がそれだけ増える〉とは言えないからである。それは取引客がすでに持っている資本(信用貨幣である手形)の貨幣形態での先取りでしかないからであり(あるいは別の信用貨幣〔銀行券〕への転換である)、この場合は取引客の資本は決して増えないからである。だから〈取引客が自由に処分できる資本がそれだけ増える〉かどうかは、銀行業者の貸し付けの形態によるのである。】


【3】

 〈この観念こそは,銀行の帳場から経済学に移されて,あの厄介な論争問題,すなわち,銀行業者が自分の取引客に現金貨幣で用立てるものは資本なのか,それともただの貨幣,流通手段,通貨なのか? という問題を呼び起こしたものである。この--根本的には簡単な--論争問題を解決するためには,われわれは銀行の取引客の立場に自分を置いてみなければならない。問題は,この取引客はなにを求めてなにを手に入れるのか,ということである。〉 (272頁)

 【エンゲルスが〈この観念〉というのは、銀行業者が貨幣を貸し付けた場合に、すべて追加的な資本を前貸しするのであって、それを受ける顧客はそれだけ追加的に自由にできる資本を入手することになるという観念のことであろう。それが経済学に移されて、銀行業者が現金貨幣を用立てるものは資本なのか、それともただの貨幣、流通手段、通貨なのかという問題を呼び起こしたというのである。しかしこの問題について、エンゲルス自身は〈根本的には簡単な〉問題であるとどうやら考えているようである。そしてその論争問題を解決するためには、銀行業者の顧客の立場に立って考えるべきだいうのである。
   しかし一般に貨幣そのものは、抽象的には単なる貨幣であるが、それがより複雑な関係のもとで如何なる規定性を受け取るかは、それを手にする人々の立場、彼らがその資本主義的生産関係のなかで置かれている立場によって違ってくるということは普通のことなのである。これについてはマルクスが、第2巻第3篇第20章第10節で次のように述べている。

  〈しかし、同じ貨幣が売り手の手のなかでは買い手の手にあるときとは違った用途に役だつということは、どの商品売買にもつきものの現象である。〉 (全集第24巻541頁)

  つまり同じ貨幣でも、それを扱う人の立場によってはさまざまな規定性を帯びるということである。だからエンゲルスがこの問題を解決するためには、顧客の立場に立たねばならないというのは、問題の一面化でしかないであろう。】


【4】

 〈もし銀行が取引客にただ彼の個人的信用だけで彼のほうからの担保の提供なしに貸付を承諾するとすれば,事柄は明白である。彼は,無条件に,一定の価値額の前貸を,彼の従来の充用資本への追加として受け取るのである。彼はこの前貸を貨幣形態で受け取る。つまり,ただ貨幣を受け取るだけではなく,貨幣資本をも受け取るのである。〉 (272頁)

  【エンゲルスには銀行が貸し付けるものは利子生み資本だという認識がハッキリしていない。しかしこれこそマルクスが第5篇(章)で明確にしているもっとも基礎的なものなのである。銀行業者が貨幣を利子生み資本として貸し付けるということがまず明確にされなければならない。そのうえで、その貸付が如何なる形態でなされるかが問題にされるべきである。マルクスはその貸付として(1)手形割引、(2)対人信用での直接前貸し、(3)各種の利子生み証券や国債証券、株式を担保とする前貸し、積み荷証券、倉荷証券、および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸し、(4)そして預金を越える当座貸し越しを上げている。しかし銀行はこれ以外にも信用による貸付を行うのであり、それには(1)銀行業者手形、(2)銀行信用(預金設定)、(3)小切手、(4)銀行券等があるのである。
   エンゲルスがここで問題にしているのは、このうち貸付の一形態である対人信用での直接前貸しのことである。そしてこの場合は、顧客は従来の資本への追加を受け取り、その場合には、彼は貨幣を受け取るだけでなく、貨幣資本をも受け取るとしている。しかし顧客が受け取るものが、貨幣であるというのはよいとしても、それが彼にとって貨幣資本であるかどうかは、彼がそれを何に使うかによるのであって、彼が銀行から借りた貨幣で、ただ個人的に消費手段を買うのなら、彼は将来得るであろう剰余価値を見越してその先取りをしただけかも知れず、その場合は彼にとってその貨幣は貨幣資本を意味するわけではない。もちろん、彼が今現実に充用している資本への追加を考えているなら、それは彼にとっては貨幣資本であろうが、しかしそれは彼が受け取る場合の規定性ではなく、彼がそれを何に充用しようとしているかによって生じてくる形態規定性なのである。彼が受け取るのは銀行業者の利子生み資本(monied capital)である。それを彼は貨幣形態で受け取るが、彼が再生産資本家であり、それを事業に前貸しするなら、それは彼にとっては貨幣資本(Geld capital)である。】


【5】

 〈もし彼が有価証券などを担保として前貸を受けるとすれば,それは,返済を条件として彼に貨幣が支払われたという意味での前貸である。しかし,資本の前貸ではない。なぜならば,その有価証券もやはり資本を表わしており,しかも前貸よりも大きい額を表わしているからである。つまり,受領者は自分が担保として提供するよりも少ない資本価値を受け取るのである。これは彼にとってはけっして追加資本の取得ではない。彼がこの取引をするのは,資本が必要だからではなく--資本ならば彼は自分の有価証券をもっているのだ--,貨幣が必要だからである。だから,ここには貨幣の前貸はあるが,資本の前貸はないのである。〉 (272頁)

  【ここにもエンゲルスの理解の曖昧さが出ている。エンゲルスは有価証券を担保とした前貸しなら、〈それは,返済を条件として彼に貨幣が支払われたという意味での前貸である〉というのであるが、しかし例え、その前にエンゲルスが言っていた〈個人的信用だけで……貸付〉られる場合も、それは銀行業者から返済を条件にして貸し付けられるということでは同じなのである。なぜなら、それは銀行業者にとっては利子生み資本だからである。この一文を見ても、エンゲルスには「利子生み資本」についての明確な概念が欠けており、その運動形態が理解されていないことが分かる。
   そしてこの場合には、貨幣の前貸しはあるが、資本の前貸しはないというのであるが、しかしこれはおかしい。なぜなら、それは銀行業者にとって利子生み資本であるという意味では資本の前貸しであり、もしそれを借りる業者がそれを事業に投資するなら、それは彼にとっては貨幣資本(Geld capital)の規定性を持つからである。それは彼がその見返りに担保を提供したかどうかということとは何の関係もない。それを彼が如何なる関係のもとで充用しようとしているかが問題なのである。エンゲルスは顧客が、彼が借りる貨幣額より大きな価値のあるものを担保としているか否かというようなことを問題にしているが、そんなことは彼が借りる貨幣が何であるかを規定するのではないことが分かっていない。】


【6】

 〈前貸が手形の割引によって与えられるならば,前貸という形態も消えてしまう。そこにあるのは純粋な売買である。手形は裏書きによって銀行の所有に移り,そのかわりに貨幣は客の所有に移る。客のほうからの返済は問題にならない。客が手形や類似の信用手段で現金貨幣を買うとすれば,それが前貸でないことは,彼がそのほかの自分の商品,たとえば綿花や鉄や穀物で現金貨幣を買う場合と少しも違わない。そして,このような場合には資本の前貸などとはぜんぜん言えないのである。商人どうしのあいだの売買はすべて資本の移転である。そして,前貸が現われるのは,ただ,資本の移転が相互的ではなく,一方的であり期限つきである場合だけである。だから,資本前貸が手形割引によって行なわれることができるのは,ただ,その手形がけっして売られた商品を表わしていない融通手形である場合だけであるが,こんな手形はその正体がわかればどんな銀行業者も受け取らないのである。だから,通例の割引取引では銀行の客は資本ででも貨幣ででも前貸を受けるのではなく,売った商品と引き換えに貨幣を受け取るのである。〉 (272-273頁)

  【ここでもエンゲルスの間違った理解がある。先にも紹介したように、マルクスは銀行の前貸しの形態として第一に、手形割引を上げているのである。手形割引は、確かに現象的には、銀行業者が顧客が持ち込んだ手形を“買う”という形式を取る(満期までの利子分を差し引いた“価格”で)。エンゲルスはこの仮象に惑わされているのである。しかしそれは貨幣市場では貨幣そのものが“売買される”という仮象をとることの一つの現れでしかない。それは利子生み資本に固有の運動形態なのである。利子生み資本としての貨幣は貨幣市場で売買され、利子がその価格として現象する。そうした理解がエンゲルスにないことが分かる。つまり利子生み資本の明確な概念が理解されていないのである。もっともマルクスの草稿を丹念に研究して『マルクスの利子生み資本論』という4巻もの大著をものにした大谷氏でさえ利子生み資本の概念において混乱している部分があるのだから(例えば「預金通貨」を肯定するのもその一つの現れである。もっともさすがにエンゲルスほどではないが)、それほどそれは難しい問題なのかも知れないが……。
   エンゲルスは〈客のほうからの返済は問題にならない〉というが決してそうではない。確かに顧客が銀行にもちこむ手形は、第三者が振り出したものが顧客への支払いで使われて、彼に回ってきたものだから、銀行の顧客には支払い義務はないように見える。しかしその手形を振り出した第三者は満期が来れば銀行に支払いをする必要があるのである。そしてもしこの振出人が支払えない場合、その手形に裏書きした人(顧客もその一人であるが)に、振出人に代わって支払う義務が生じてくる。そればかりかその手形に裏書きして銀行に最終的に持ち込んで割り引いた顧客が、まず第一にその不渡りになった手形を銀行から買い取る第一義的な責任があるのである。彼はその義務を他の裏書人に遡って負担を転嫁するか、あるいは何らか割合での共同の負担を請求できるだけなのである。いずれにせよ、これらは貨幣の支払手段としての機能から生じる信用取引であり、だから手形が最終的に現金で決済される(あるいは預金の一定額として記帳される)までは、信用関係が持続しているのであり、だからその信用の連鎖に関連した人たち全員がその該当者なのである。
   だからエンゲルスが〈客が手形や類似の信用手段で現金貨幣を買うとすれば,それが前貸でないことは,彼がそのほかの自分の商品,たとえば綿花や鉄や穀物で現金貨幣を買う場合と少しも違わない〉などというのはまったく間違った理解なのである。これは貨幣市場と商品市場との区別がまったく分かっていないことを示しているのである。これではエンゲルスによる編集がさまざまな欠陥を持っているのは当然といわねばならないであろう。そのあとでエンゲルスが述べていることはすべて正しくない。一つ一つその間違いを正す必要もないほどである。しかしわれわれは一つ一つその間違いを指摘しておこう。
   まず〈そして,このような場合には資本の前貸などとはぜんぜん言えないのである〉というのは、いうまでもなく間違っている。エンゲルスが〈このような場合〉というのは、銀行が手形割引で貨幣を貸し付ける場合であろう。それがどうして〈資本の前貸などとはぜんぜん言えない〉のであろうか。エンゲルスがいう〈資本〉とは何であろうか。それが利子生み資本(monied capital)だとするなら、それは利子生み資本(monied capital)の貸し付け以外の何ものでもなく、銀行にとっては利子を期待しての前貸以外の何ものでもない。
  〈商人どうしのあいだの売買はすべて資本の移転である〉というのもやはり正しくない。それは資本の形態を転換するだけだからである。例えば商人が彼の商品を販売して貨幣を得る場合、彼は確かに商品を手放して、貨幣を手に入れるが、しかし彼は商品の価値を手放すのではなく、ただそれを貨幣の形態に転換しただけである。だから彼は何も資本の移転などはしていない。彼は持っている資本を商品形態(商品資本)から貨幣形態(貨幣資本)に転換しただけであって、彼はもともと持っていた資本そのものは依然として持ったままである。
  エンゲルスの間違いは、手形割引の場合には、銀行と商人との取引を、商人どうしのあいだの売買と同じとしたことにある。確かに利子生み資本の循環運動 G-G-W…P…W’-G'-G' のうち最初のG-Gと最後のG'-G'は「資本の移転」と言っても間違いではないだろう。この場合、貨幣資本家は資本生み「資本」を機能資本家に条件付きだが一方的に譲渡するからである。だからそれは利子生み「資本の移転」と言っても間違いではない。G'-G'の場合も、機能資本家から利子を付けて貨幣資本(monied capital)を返済するのだから、一方的な「移転」といえるからである。
  〈そして,前貸が現われるのは,ただ,資本の移転が相互的ではなく,一方的であり期限つきである場合だけである。〉
   これはすでに見たように、利子生み資本の運動には妥当する。銀行は、一定期限後の返済を条件に一方的に利子生み資本という形態規定性をもつ貨幣を移転(譲渡)するのだから。しかしそれは単なる「前貸」ではなく、「貸付」である。エンゲルスがこうした意味でこの一文を書いていないことはすぐに次の文章から明らかになる。
  〈だから,資本前貸が手形割引によって行なわれることができるのは,ただ,その手形がけっして売られた商品を表わしていない融通手形である場合だけであるが,こんな手形はその正体がわかればどんな銀行業者も受け取らないのである。〉
   ここでエンゲルスが資本前貸が手形割引によって行われるケースとして述べているのは、マルクスがオウヴァストンを批判して、次のように述べていることが頭にあるからであろう。手形割引とは、追加資本を獲得することではなく、事業者にとって差し迫って必要な支払手段を入手することである。彼はもともと持っていた商品の一つの実現形態である信用貨幣(手形)を現金に転換するか、あるいは別の信用貨幣(銀行券)に転換するだけで、新たな資本を手に入れることではない、もし彼が手形割引で資本を入手したとするなら、それは彼の手形が空手形(投機で失敗したものか、融通手形等)であり、実質的には無価値なものを割り引いてもらい、支払手段だけではなく、彼が持っていなかった価値を、よって他人の資本を手に入れる(詐取する)ことだ、等々。
  〈だから,通例の割引取引では銀行の客は資本ででも貨幣ででも前貸を受けるのではなく,売った商品と引き換えに貨幣を受け取るのである。〉
   ここでエンゲルスが〈売った商品〉ということで考えているのは「手形」のことである。しかしエンゲルスは手形割引を手形を「売る」と説明しているが、そしてそれは確かに商人たちの日常の外観ではあるのだろうが、しかしその場合の手形の価格というのは、満期までの利子分を差し引いた価格である。「割引」というのは、利子分を差し引くという意味である。だから手形が代表している価値から一定額を差し引いた貨幣額が銀行から客に手渡されるのである。だからこれを普通の商品の売買と同じといえないことは一目瞭然ではないだろうか。商品を販売する場合は、その価値通りの貨幣額を受け取る(われわれは値引きなど特殊な事情を考える必要はない)、だから例え手形の割引が手形の買い取りという仮象を取ったとしても、この両者を同じと考えるのは明らかにおかしいのである。】


【7】

 〈このように,客が銀行に資本を求めてそれを受け取る場合は,彼がただ貨幣を前貸してもらうとか銀行で買うとかいう場合とは非常にはっきり違っているのである。しかも,ことにロイド-オウヴァストン氏は自分の資金を担保なしではめったに前貸しないのが常だったから(彼はマンチェスターの私の商会の取引銀行業者だった),寛容な銀行業者が資本の不足に困っている工場主に多額の資本を前貸するのだという彼のりっぱな陳述がひどいでたらめだということも,同様に明らかである。〉 (273頁)

  【ここでもエンゲルスは〈客が銀行に資本を求めてそれを受け取る場合〉などと、「資本」を厳密に規定せずに書いている。ただオウヴァストンらの言葉をそのまま転用して彼らの主張の矛盾を突くという修辞的な手段として、彼らの使う用語をそのまま使いながら、しかしそれでも彼らの主張は支離滅裂だということを指摘するのならまだよいが(マルクスが第28章該当部分でやっているように)、ここではエンゲルス自身が「資本」を厳密に規定せずに論じていることが分かる。これではオウヴァストンらを批判する資格はないといわざるを得ない。マルクスはオウヴァストンの証言を批判するときには、明確に彼が「資本」と言っているのは本当はmonied capitalを意味しているのだと述べているのである。
   もっともここでエンゲルスが〈客が銀行に資本を求めてそれを受け取る場合〉とのべているのは、融通手形などを割り引いて、支払手段だけでなく、他人の資本を詐取する場合という意味かも知れない。確かにその場合は、〈ただ貨幣を前貸してもらうとか銀行で買うとかいう場合とは非常にはっきり違っている〉といえる。しかしこの場合も〈ただ貨幣を前貸してもらう〉ということで、エンゲルスが言いたいのは、貨幣の貸付を受けるということであろう。また〈銀行で買う〉というのは手形割引を受けるという意味であろう。その意味ではエンゲルスの言っていることは、決して正確な物言いとは言い難いのである。
   またエンゲルスには担保をとった銀行からの貸し付けは前貸しではないという間違った認識がある。しかし担保を取るか否かということは確かに資本家にとっては実際的な意味では重要かも知れないが、しかし理論的にはそれには本質的な意味はないのである。それは銀行の貸付の一つ形態を意味するだけに過ぎない。貸付という点では、無担保貸付や手形割引、当座貸し越し等々と並ぶものの一つでしかない。】


【8】

 〈なお,第32章でもマルクスは要点では同じことを述べている。「支払手段にたいする需要は,商人や生産者が確実な担保を提供できるかぎりでは,たんなる,貨幣への転換可能性にたいする需要である。そうでないかぎりでは,それは貨幣資本にたいする需要である。すなわち,支払手段の前貸が彼らにただ貨幣形態を与えるだけではなく,どんな形態にあるものであろうと彼らに不足している支払いのための等価物をも与えるかぎりでは。」--さらに第33章では次のように言う。「発展した信用制度のもとでは貨幣は銀行の手に集中されているのであって,ここでは,少なくとも名目的には,貨幣を前貸する者は,銀行である。この前貸は,流通のなかにある貨幣に関係があるだけである。それは通貨の前貸であって,それが流通させる諸資本の前貸ではない。」--このことを知っているに違いないチャプマン氏も,割引取引についての前述の見解を確認している。『銀行委員会』,1857年。「銀行業者は手形をもっている。銀行業者は手形を買ったのである。」証言。質問第5139号。
  なお,われわれは第28章で,もう一度このテーマに立ち返る。--F.エンゲルス}」(MEGAII/15.S.419-421;MEW25,S.443-445.)〉 (273-274頁)

  【ここでエンゲルスがマルクスも述べているとして引用している部分を検討しておこう。
  まず第32章で述べているという文章であるが、これは前後を含めて紹介しておこう。まずエンゲルス版とそれに該当する草稿を紹介し、エンゲルスが引用している部分を【 】で示しておく。

  〈逼迫期には、貸付資本にたいする需要は支払手段にたいする需要であって、それ以上のなにものでもなく、けっして購買手段としての貨幣にたいする需要ではない。そのさい、利子率は、現実資本--生産資本と商品資本--が過剰に存在しているか欠乏しているかにかかわりなく、非常に高くなることがありうる。支払手段にたいする需要、商人や生産者が確実な担保を提供できるかぎりでは、単なる、貨幣への転換可能性にたいする需要である。そうでないかぎりでは、それは貨幣資本にたいする需要である。すなわち.支払手段の前貸が彼らに貨幣形態を与えるだけではなく、どんな形態にあるものであろうと彼らに不足している支払のための等価物を与えるかぎりでは。この点こそは、普通に行なわれている説の両方の側が恐慌の判断において正しい点でもあり、正しくない点でもある。その場合、ただ支払手段が欠乏しているだけだと言う人々は、ただ確実な担保の所有者だけを眼中に置いている人々か、または、紙片によってすべての破産した山師たちを支払能力のある堅実な資本家に変えることが銀行の義務であり銀行にできることであるかのように信じている愚かな人々かである。その場合、ただ資本が欠乏しているだけだという人々は、ただ言葉使いのせんさくをやっているだけか、--というのは、じっさいこのような時期には過剰輸入や過剰生産の結果貨幣に換えられない資本が大量にあるのだから--、または、ただ信用の騎士たちのことを言っているだけなのであって、この信用の騎士たちは、今では実際にもはややり繰りするための他人の資本を手に入れることができない状態になっていて、今では、銀行が、自分たちのなくしてしまった資本の支払を助けてくれるだけではなく、引き続き思惑をやって行くことができるようにもしてくれることを願っているのである。〉 (全集第25巻b660頁)

   全集版とは下線部分など若干の相違があるが、それはまあ、今は問題にしないでおこう。これが草稿では次のようになっている。

  〈逼迫〔pressure〕の場合には,monied Capitalにたいする需要は支払手段にたいする需要であって,それ以外のなにものでもない(購買手段としての貨幣にたいする需要ではない)のであり,またそのさい利子率は,実物資本〔reales Capital〕が過剰であろうと欠乏していようと,非常に高くなることがありうる。{支払手段にたいする需要は,商人や生産者の有価証券が優良なものであるかぎりでは,貨幣への転換可能性convertibility〕にたいする需要でしかない。この連中〔d.Kerls〕が支払いのための真正の出どころ〔bona fide Quelle〕をもっていないかぎりでは,つまり,支払手段の前貸が彼らに貨幣形態を与えるだけではなく,どんな形態でであろうと,彼らに不足している支払いのための等価物を与えるかぎりでは,それはmonied Capitalにたいする需要である。この点こそは,逼迫の時期にどちらの側も正しくもあり間違ってもいる点である。この時期に,ただ支払手段の欠乏が存在するだけだ,と言う人びとは,ただ真正の〔bona fide〕有価証券の所持者を眼中においているだけか,そうでなければ,紙片によってすべての破産した山師たちを支払能力のある人びとに転化することが銀行の義務ないし力〔Macht〕だと信じている愚か者であるか,このどちらかである。この時期に,ただ資本の欠乏が存在するだけだ,と言う人びとは,ただ屁理屈を言っているだけか--というのは,このような時期には〔貨幣に〕転換不可能なinconvertible〕資本が(過剰輸入や過剰生産の結果)大量にあるのだから--,そうでなければ,ただ信用騎乗者のことを,つまり,実際にもはや他人の資本でやりくりすることができない状態になっていて,いまでは,銀行が自分たちのなくしてしまった資本の支払いを助けてくれるだけではなく,引き続き詐欺を続けることができるようにしてくれることを願っているような信用騎乗者たちのことをほのめかしているだけなのである。}〉 (大谷新本第3巻頁)

   エンゲルスが引用している部分は、マルクスが{   }をつけて述べている部分の一部である。この大きめの鍵括弧というのは、マルクスが前後と相対的に切り離して挿入的に論じる場合に使われるものである。しかもエンゲルスは、引用文の後半部分では、編集の段階で、マルクスの一文にかなり手を入れている。われわれは、草稿でマルクスが述べていることをまず解読しておこう。
   まず〈支払手段にたいする需要は,商人や生産者の有価証券が優良なものであるかぎりでは,貨幣への転換可能性convertibility〕にたいする需要でしかない〉ということでマルクスが述べていることは、手形割引で彼らが必要としているのは、支払いに応じるための手段(現金、地金または法貨としてのイングランド銀行券)であるが、もし彼らが割引するために持ってくる手形が優良なものであれば、つまり空手形や投機的な実質的な価値を持っていないものでないなら、それはただ〈貨幣への転換可能性convertibility〕にたいする需要でしかない〉、つまり貨幣形態の先取りをするだけなのだ、ということである。
   それに対比する形で述べられている、それに続く文章を、エンゲルスは〈そうでないかぎりでは,それは貨幣資本にたいする需要である〉と短くしているのであるが、これでは必ずしもマルクスの言わんとすることが伝わるとは言い難い。マルクスは〈この連中〔d.Kerls〕が支払いのための真正の出どころ〔bona fide Quelle〕をもっていないかぎりでは,つまり,支払手段の前貸が彼らに貨幣形態を与えるだけではなく,どんな形態でであろうと,彼らに不足している支払いのための等価物を与えるかぎりでは,それはmonied Capitalにたいする需要である〉と述べているのである。つまり彼らが手形割引で持ってくる手形が真正のものではなく、投機で失敗した実質的に価値のないものや、空手形であるなら、彼らは支払手段を手にするだけではなく、monied capitalそのものを手にするのだというのである。つまり彼らがすでに失ってしまったものを穴埋めしようとしているのだ、というのである。これがマルクスが言いたいことなのである。
   だからマルクスは手形割引が銀行業者による貸付の一形態であることを否定するために言っているのではない。ただ同じ手形割引でも、投機的な手形や融通手形などの空手形を割引する場合は、それを割引しようとしている投機師たちは、他人の資本を詐取しようとしているのだと述べているのである。

  次は第33章にあるという文章である。まず全集版では次のようになっている。

  〈信用制度が発達していて貨幣が銀行の手に集中されている場合には、銀行は、少なくとも名目的には、貨幣を前貸しする者である。この前貸は、ただ流通中の貨幣に関係があるだけである。それは通貨の前貸であって、それによって流通させられる資本の前貸ではないのである。〉 (全集第25巻b681頁)

  これも全集版では下線が無くなっているなど若干の相違はあるが、それは今は問題ではない。次は草稿である。

  〈貨幣が銀行業者の手に集中されている発達した信用制度にあっては,貨幣を前貸するのは彼らである(少なくとも名目的には)。この前貸は,ただ流通〔Circulation〕のなかにある貨幣に連関するだけである。それは通貨〔Circulation〕の前貸であって,それが流通〔circuliren〕させる資本の前貸ではない。〉 (大谷新本第4巻113-114頁)

   この場合は、エンゲルスの引用はほぼ内容的には草稿と変わらない。しかしこの一文は〈流通手段の支出と資本の貸出との区別は、現実の再生産過程では最もよく現われている〉(エンゲルス版)、〈通貨の発行〔Issue of Circulation〕と資本の貸付〔Loan of Capital〕との区別は,現実の再生産過程で最もよく現われる。〉(草稿)という一文から始まるパラグラフの最後の部分からの抜粋なのである。つまりここでマルクスが問題にしているのは、社会的総資本の再生産を問題にする場合には(これは『資本論』では第2部第3篇で問題にされている)、流通過程にある貨幣は、それまでの第1部、あるいは第2部の第1篇や第2篇では、われわれはただそれが流通過程に存在すると前提すればよかったのだが、しかし社会の総再生産過程を問題にする場合には、資本の流通を媒介する貨幣はどのようにして供給されるのかということが新たな問題として出てくるのであり、信用制度が発展していれば、結局は、それを供給するのは銀行になるので、銀行の貸付のなかには、ただ流通に必要な貨幣を供給する場合もあることを述べているのである。それとすでに流通過程にある商品資本(あるいはその一つの実現形態である手形などの有価証券の類)と引き換えに貸し付けられるものとは、それらは区別される必要があるということなのである。だからエンゲルスがその前に引用している第32章で問題になっていることとは、まったく異なる問題なのである。エンゲルスは同じ問題を論じているとどうやら思ったらしいが。
   補足しておくと、ここでマルクスが〈貨幣が銀行業者の手に集中されている発達した信用制度にあっては,貨幣を前貸するのは彼らである(少なくとも名目的には)〉と書いているところで、括弧に入れて〈少なくとも名目的には〉と述べているのは(全集版では強調されていないが、先のエンゲルスの挿入文では強調されている)、流通に必要な貨幣というのは、諸商品の交換のなかである特定の商品が排除されて一般的な等価として登場してくるのであって、だから貨幣商品である金も、一つの商品として生産されて市場に供給されるのである。しかしそれを銀行が行うわけではない。それは金生産者が行うものである。ただ銀行は蓄蔵貨幣を集中しているので、流通貨幣の供給はあたかも銀行が行うかに見えるのである。あるいは銀行券のような金貨幣に代理して流通するようなものであれば、あたかもそれは銀行がその信用だけにもとづいて創造するものであるかのように見えるので、ますます通貨は銀行が供給するように見えることになる(この仮象に眩惑されると「内生的貨幣供給論」などという謬論がまことしやかに主張されるようになる)。しかし実際に流通に必要な貨幣(金)を供給するのは金生産者なのであり、だから銀行が供給するようにみえるのは、あくまでも〈少なくとも名目的〉なものでしかないというのが、ここでマルクスが言いたいことなのである。
  次にエンゲルスがチャプマンについて述べていることは、必ずしも正しいとはいえない。なぜなら、マルクスは草稿ではチャプマンが通貨とmonied capitalとの区別ができないことを暴露しているのだからである。だからエンゲルスはチャプマンの証言の〈銀行業者は手形を買ったのである〉とわざわざ〈手形を買った〉という部分に下線を引いているのであるが、チャプマンのような銀行業者が利子生み資本の「売買」という仮象に惑わされているのは当然なのであって、エンゲルスはそれをそのまま無批判に受け止め、そればかりか自身の主張の裏付けのために、チャプマンが手形の割引を、手形の売買として述べていることを示しているわけである。しかしこれはただ仮象をそのまま真実として信じてしまっている二人の立場の共通性を物語っているだけであって、エンゲルスにとっては決して名誉なことではない。
   第28章で、同じテーマに立ち返ると述べているが、私は第28章部分の草稿の解読のなかで、すでにエンゲルスの間違いは指摘しておいた。それを参照して頂きたい。】

   (以上で、大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』第2巻にある「第26章の草稿、それとエンゲルス版との相違」の段落ごとの解読を終わる。このあと、「第27章の草稿、それとエンゲルス版との相違」の段落ごとの解読に取り組む予定だが、それは来年の適当なときに再開したい。今年はこれで終わる。皆さん、よいお年を!)

2020年12月11日 (金)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-11)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  §  第26章該当部分の草稿の全体の概要

 

 この部分では、マルクスはほぼ議会証言を番号順に抜き書きしている(わずかにわれわれのパラグラフ番号では【14】だけが証言番号の順序が入れ替わっている)。だから何らかの問題意識をもって全体を展開したとはなかなか言い難いのではないかと考えられる。しかしとりあえず、各パラグラフでマルクスは何を主に問題しているのかを見てみることにしよう。同時に証言番号も書き写しておく。

【1】表題
  (〔挿論 ノーマンおよびオウヴァストンの無概念的混乱の批判〕)

【2】通貨学派のノーマンの証言
  第3635号。利子率は資本の需給で決まるというノーマンの主張に対して、彼がいう「資本」とは何かが問われ、〈生産で使用される商品またはサービスだ〉と答えている。
  第3636号。利子率を語るときでも、〈「資本」という語のなかにすべての商品を含め〉るのか、と問われ、ノーマンは〈そうです〉と答えている。
  第3637号。ここでは木綿製造業者の例をあげてそれを説明している。ようするに、銀行から借入をするのは、棉花を手に入れるためだというのである。だから資本、つまりすべての商品の需給が利子率を決めるのだというのである。
  第3638号。しかし利子が支払われるのは貨幣に対してではないか、という質問に、ノーマンは信用売買をとりあげ、貨幣が登場しなくても利子がつく場合もあることを示して反論したつもりになっている。

【3】ノーマンの上記の証言に対するマルクスの批判
  まずマルクスは商品の需給で利子率が決まるというノーマンの主張について、商品の需給は商品の市場価格を規制するのであり、だから市場価格が同じでも利子率は異なることはいくらでもあると指摘する。利子は貨幣に支払われるという全く正当な質問に、信用による売買を持ち出し、貨幣がなくても利子があるとし、それが利子の尺度だとするノーマンの主張に対しては、現行の利子率こそが現金価格と信用価格の差額の基準なのだと批判している。そしてそれに関連して、棉花を信用で販売する場合、製造業者は棉花のかたちで前貸しするのであって、その場合は棉花そのものがmonied capitalに転化させられるのだ、と指摘している。
 
【4】マルクスの先の批判の続き
  まずノーマンの「資本」とは「生産に使用される商品」だというがさつな観念を指摘し、しかし資本としての商品で問題になるのは利潤率だと指摘する。そして利潤率というのは、単に商品の需給だけではなく、もっと別の事情によって決まるのだと述べている。利子率が一般に利潤率に限界づけられているのは正当としても、利子率そのものは直接にはmonied capitalの需給によって規定されるのだと指摘。確かに現物資本の需要とmonied capitalの需給には目に見えない結びつきはあるが、しかしノーマンはそんなことを主張しているわけでもない。彼らはとにかくピール条例を利用して大儲けを企んだ後ろめたさから通貨の問題から目をそらそうとしているだけだ、と述べている。

【5】ここからオウヴァストンの証言がとりあげられ、このパラグラフはその導入である
  オウヴァストンは、陳述のなかで、恐慌時に「資本」が欠乏しているときに、彼の「貨幣」に10%もの高率の利子をとるのはどうしてかを説明することを迫られている、と指摘。

【6】以下、オウヴァストンの証言
  第3653号。ここではオウヴァストンは利子率の変動を二つの原因から説明する。一つは資本の価値の変化から生じ、もう一つは国内にある貨幣の総額の変化から生じると主張する。最初の「資本の価値」について、マルクスはそれは利子率のことであり、だから彼は利子率の変化は利子率の変化から生じるという同義反復を主張しているだけだと批判している。そしてオウヴァストンは資本の価値の変動から生じる利子率の変動は大きな変動であり、その例として1847年における利子率の上昇をあげる。そして小さい利子率の変動は貨幣量の変化から生じるとし、それが頻繁であればあるほどその定められた目標を達成するのに有効だとしたのに対して、マルクスはそれはオウヴァストンのような銀行業者たちを肥え太らせるのに有効ということだと批判し、その事実を素朴に述べているガーニの議会証言を取り上げている。(第1324号。第1325号。)

【7】オウヴァストンの先の議会証言に対する批判の続き
  まずマルクスは貨幣量によって影響される利子率についてはあとで立ち返るとして、資本の価値の変動による利子率の変動というオウヴァストンの主張を取り上げて批判している。1847年にmonied capitalへの需要が高まった(よって利子率が高騰した)原因は確かにいろいろとあった。つまり現実の生産過程に原因があった(過剰生産の露呈と信用の動揺等々)と言いうるとしても、いずれにせよmonied capitalの価格を、よって利子率を高めたのはmonied capitalに対する需要が高まったからだと指摘している。そして資本の価値という言葉でmonied capitalの価値を意味させるなら、それは利子率の変動を利子率の変動から説明することであり、だからそれは上がったから上がったというに等しい。しかしもしそうではなく、資本の価値の変動ということで利潤率の上昇を考えて、それが利子率上昇の原因だとするなら、それは明らかに誤りだ、なぜなら、利潤率が下がっても利子率が上がることはいくらでもあるからだ。まさに恐慌時とはそうした事態なのだから。
  いずれにせよオウヴァストンが、1847年の利子率変動の原因を資本の価値の変動に求めて、貨幣総額の変動に求めないのは、それは彼が息を吹き込んだ銀行法とは何の関係もないと言いたいがためである。しかし実際には銀行法と利子率高騰には関係があったのである。恐慌時には実物資本の価値の低下がmonied capitalの価値の高騰に対応しているのだが、オウヴァストンはこの二つの資本の価値を同一視して誤魔化しているだけだとしている。

【8】オウヴァストンが挙げる1847年の利子率の推移が表で紹介されている

【9】上記の利子率の推移にもとづいたマルクスの批判
  利子が上がったのは、利潤が減って商品の価値が非常に下がったからだ。だからオウヴァストンが資本の価値が上がったから、利子率が上がったというなら、彼が資本の価値ということで考えているのはmonied capitalの価値(すなわち利子率)以外のなにものでもないと批判している。

【10】ここでは全体を括弧に入れて、オウヴァストンは、1857年の恐慌のさいにもその数カ月前には、事業はまったく健全だと思っていたのだとの指摘がなされている

【11】ここからは再びオウヴァストンの議会証言が取り上げられている
  第3722号。利子率の上昇で事業の利潤がなくなるという考えは間違っている。第1に、利子率の上昇は長続きしないし、第2にそれが長く続くなら資本の価値の上昇を意味するが、それは利潤率が増加したからだ、とオウヴァストンは主張したのに対して、マルクスは「資本の価値」の隠された一方の意味を嗅ぎつけたと指摘している。つまり利子は利潤の分割したものであることを示唆しているということであろう。

【12】オウヴァストンの証言
  第3724号。ここではオウヴァストンは、利子率の上昇は事業の増大と利潤率の上昇の結果である、だから利子率の上昇がこの上昇をもたらした原因を駄目にするというのは一種の論理的不合理だと主張。

【13】上記のオウヴァストンの主張に対するマルクスの批判
  マルクスはオウヴァストンが論理的不合理だと主張したのに対して、まったく合理的だと反論している。そしてあるものがそれ自身の原因であるものを駄目にする例をいろいろと挙げている。そして高い利潤率や事業の拡張が高い利子率の原因だとしても、その逆は成り立たないのだと指摘し、まさに恐慌時というのは高い利潤率が消えてしまったのに、高い利子率が続くのだと指摘している。

【14】オウヴァストンの証言(この証言のみが証言番号が前にもどっている)
  第3718号。ここでもオウヴァストンは、利子率(割引率)の上昇は資本の価値の増大の結果だと主張。銀行法が実施された13年間に増大した貿易額をあげ、巨大な貿易額を処理する莫大な資本需要があったことや、戦争目的に利益を生まない出費もあったこと等をあげて、これほどの資本圧迫があったのだから、本来ならもっと利子率が高くならなければならないほどだ等々と主張する。

【15】上記のオウヴァストンの主張に対するマルクスの批判
  まずマルクスはオウヴァストン(高利貸論理家と皮肉を込めて述べている)の奇妙な用語の混乱ぶりを指摘する。彼は事業の拡大を指摘し、それを処理する資本の大きな需要を指摘するが、それは同時に大きな供給をも生み出したのだと指摘する。だから利子が高くなったというなら、それはただmonied capitalの供給に対して、その需要が急速に増大したからであって、それは実物的生産の拡大が信用システムの土台の上で行われたことに帰着すると指摘している。また彼はクリミア戦争に貯蓄が食われたことを挙げているが、オウヴァストンは国民の年々の貯蓄としてただmonied capitalだけを考えているが,それは単なる架空な貨幣請求権でしかなく、現実の蓄積が生じなかったら、そんなものは何の役にもたたないのだと主張している。

【16】オウヴァストンの主張に対するマルクスの批判の続き
  結局、オウヴァストンは高い利潤率から生じる利子率の上昇と、monied capitalに対する需要から生じる利子率の上昇とを混同しているのだと指摘している。しかしmonied capitalに対する需要は利潤率とは関わりのない原因からも生じると指摘して、実際、オウヴァストン自身も1847年の恐慌時には、実物資本の減少の結果、monied capitalへの需要が増大したことを実例として挙げているではないか、と指摘する。だからオウヴァストンは、一方の意味では実物資本の価値を云々し、他方の意味ではmonied capitalの価値を云々しているのだと指摘している。

【17】その前はオウヴァストンの証言を遡って抜粋したが、今度からはもとにもどって再び証言を検討するための、その導入のマルクスのコメントといえる
 オウヴァストンの不正直さ、学者ぶって極端化する偏狭な銀行業者の立場がこれから紹介する証言にも現われていると指摘。

【18】オウヴァストンの証言
 第3728号。ここでは質問者のケイリは割引率は商人にとってたいしたことではないというが、そんなあなたは何を普通の利潤率と考えるのか、と質問し、オウヴァストンはそれに答えるのは不可能だとしたのに対して、マルクスはそれは厄介な数字関係に巻き込まれないためだ、と論じている。それは以下の証言とも関連している。

【19】オウヴァストンの証言
  第3729号。ここではマルクスはケイリの質問に対しても、オウヴァストンの回答に対しても、批判文を挿入している。ケイリの質問に対しては、利潤率と企業利得の率との区別がなく、利潤が利子と企業利得に分かれることも理解していないとの指摘がある。だから利潤率が低くても高い利子率がありうることを指摘する。
  オウヴァストンが事業者は利潤をさまたげるような割引率は支払わないだろうと回答したのに対しては、破滅しないためには、利潤が低くなっても高い割引料を支払うのは、そうせざるをえないからだと批判。また割引の目的は、大きい資本量を手に入れるためだ、という回答には、割引は、満期が来た支払のために貨幣を先取りするためであり、より大きい資本量を求める場合というのは、投機をする場合などだと批判している。
  最後にオウヴァストンは割引をするのはより大きな資本量に対する命令権をにぎるためであり、それはより大きな資本を充用して儲けようとするためだ、だから割引率が彼の利潤を消滅させるようなら、それは彼にとっては儲けにならないと答えたのに対して、マルクスは次のパラグラフで批判している。

【20】先のパラグラフのオウヴァストンの証言の最後の部分に対するマルクスの批判(全体が(   )に入っている)
  まず手形割引は儲けるためだ、というオウヴァストンの主張に対しては、手形割引は、事業を継続するために貨幣を先取りするためだ、と批判。そしてオウヴァストンのいうように手形割引で事業を拡張しようとするなら、それは彼が信用山師であるか、駄目になった事業を他人の資本で埋め合わせをしようとしている場合だ、と批判している。

【21】次のパラグラフのオウヴァストンの証言に対する前文
  責め道具をかけられると、たちまちもとのところへ退くと指摘。

【22】オウヴァストンの証言
  第3730号。責め道具というのは、オウヴァストンは、割引とは「追加の資本量」を取得することだと主張したのに対して、質問者のケイリは、そうではなく、一旦始めた事業を続けるために、例え一時的に高い割引でも受けざるをえないのではないのか、と問い詰めたことである。それに対して、オウヴァストンはたちまち銀行業者の立場をさらけ出して、割引を求める人は「資本をもたない人」と決めつけるのだが、それは彼らがmonied capitalだけを資本としているからだ、とマルクスは批判している。

【23】オウヴァストンの証言
  第3732号。ここでは質問者ケイリはイングランド銀行の地金と利子率の関係を問い、具体的な数値を挙げて、地金の量が少ない場合は利子率が高く、多い場合は低くなっているが、これは事実かと聞いている。それに対して、オウヴァストンは私はそのように理解していないとし、もしそうなら、銀行法よりもっと厳しい措置をとらねばならないことになる、などと答えている。

【24】オウヴァストンの証言
  第3733号。先の質問に対してオウヴァストンはまともに答えなかったのにはかまわず、ケイリは質問を続け、地金が増えて利子率が下がった場合、この利子率の低下をオウヴァストンのいうように「資本の価値」の低下、すなわち事業の非常な縮小から説明できるのかと問うている。それに対してオウヴァストンはまともに答えられず、自分は利子率の低下ではなく、最近のひどい上昇について述べているのであり、それが事業の拡張と結びついていると言っているのだと答えているが、しかしマルクスは利子率の高騰が事業の拡張と結びついているというなら、その低下は縮小と結びついているとしなければおかしい、と批判している。

【25】オウヴァストンの証言
  第3736号。(ここではマルクスは質問者のケイリに対しても挿入文を入れて批判している。)  まずケイリが貨幣は資本を手に入れるための用具だとしたことに対して、貨幣を用具と考えるのはたわごとだと指摘して、貨幣は資本の形態であると批判している。
  次にケイリが地金が流出しているときに資本家たちの負担は貨幣を入手することではないのかという質問に、オウヴァストンは、そうではない、貨幣を手に入れたいのは資本家ではない、などと答え、事業を行う人たちは資本家ではなく、彼らは貨幣を手に入れることによって「資本家の資本」、つまりオウヴァストンのような銀行業者の資本に対する支配権を手に入れようとするのだと答えている。これに対して、マルクスはオウヴァストンにとっては、製造業者や商人は資本家ではなく、銀行業者こそが資本家であり、「資本家の資本」とはmonied capitalのことだとあけすけに言明しているのだと指摘している。

【26】オウヴァストンの証言
  第3737号。これに対してケイリは為替手形を振り出す人たちは資本家ではないのか、と質問したのに対して、オウヴァストンは資本家であることもあり、資本家でないこともある、などと答え、マルクスはここで彼は途方にくれると指摘している。

【27】オウヴァストンに対する質問と回答をマルクスが要約
 第3740号,第3741号。 ここではマルクスは証言を抜粋せずに、その概要を紹介している。それは商人たちが振り出した手形は、彼らが売った財貨を表しているのではないか、という質問であり、それに対してオウヴァストンは、銀行券が地金を表しているのと同じようには、それらは商品の価値を表しているとはいえないと答えている。これに対して、マルクスはこれはかなり厚かましい主張だと批判している。

【28】オウヴァストンの証言
  第3742号。ケイリは先のオウヴァストンの回答に対して、手形を振り出するのは貨幣を手に入れるためではないか、と質問し、それにオウヴァストンは貨幣を手に入れるのは、手形を振り出す目的ではなく、手形を割引してもらうときの目的なのだと回答している。それに対してマルクスは、手形を振り出すことは商品を信用貨幣の一形態に転換することであり、割引はその信用貨幣を別の信用貨幣に転換することだと指摘している。そしてオウヴァストンは、ここでは割引の目的が貨幣を入手することだということを認めていると指摘し、彼はその前は追加資本を調達するためだと述べていたのだと批判している。

【29】オウヴァストンの証言
  第3743号。ここでは、パニックのときに商業界の大きな願いは何か、彼らの目的は、資本を手に入れることか、それとも法貨を手に入れることか、との質問に対して、オウヴァストンは、彼らの目的は資本に対する支配権を手に入れることだと答えている。それに対して、マルクスは彼らの目的は信用の欠乏のなかで破綻をまぬかれるために、支払手段を手に入れることだと批判している。

【30】オウヴァストンの証言
  第3744号。ここでは質問者はオウヴァストンに対して、あなたが「資本」という言葉で何を考えているのかという直接的な質問をぶつけている。それに対してオウヴァストンは、資本とは事業を営むために用いられる商品からなっている、ドックや埠頭は固定資本であり、食料や衣料は流動資本であるなどと答えている。これに対してマルクスは「資本」のなんという深い洞察かと皮肉をこめて論じ、何という恥知らずか、と批判している。

【31】オウヴァストンの証言
  第3745号。質問者は地金の流出で、国民は苦しめられるか、と問うているが、それに対して、オウヴァストンは、その言葉に合理的意味があるなら、そういうことはないと答えている。そしてマルクスが古いリカード的なばかばなし、と評している、地金の世界的な配分についての自説を述べている。

【32】オウヴァストンの証言
  第3746号。ここでは質問者はオウヴァストンは先の答弁で、貨幣の世界的な配分について述べていることについて、あなたは貨幣という言葉を使っているが、前には資本の損失だと言っていたではないか、と問いただしている。それに対してオウヴァストンは、何を資本の損失だといいましたか、と反問している。これは抜粋だけでマルクスのコメントはない。

【33】オウヴァストンの証言
  第3747号。これも先の質疑の続きであり、オウヴァストンが何を資本の損失だと言ったかと反問したので、ケイリは地金の輸出ではないかと答え、それに対してオウヴァストンは、いや、そうは言わなかった、地金を資本と見なすなら、地金の流出は資本の損失だ、それは世界の貨幣を構成している貴金属のある部分を手放すことだと答えている。ここにもマルクスのコメントはない。

【34】オウヴァストンの証言
  第3748号。第3749号。(ここらあたりは連続した質疑が抜粋されている。)ケイリは、オウヴァストンは前には割引率の変動は資本の価値の変動によると言ったのではないかと質問し、オウヴァストンは、そう言いました、と答え、次に割引率は地金の変動と一緒に変動するとも言ったのではないか、と質問しているが、それに対しても、オウヴァストンは、はい、と一旦肯定しながら、ただ貨幣の量の変動から生じる利子率の変動はごくわずかだと答えている。

【35】オウヴァストンの証言
  第3750号。ここではケイリの質問は、オウヴァストンの混乱と誤魔化しを指摘する意味もあるのか、それまでのオウヴァストンの主張を踏まえれば、まったく逆のことを聞いており、いわばひっかけの質問であるが、オウヴァストンはそれを明確に否定するのではなく、自分の本性を吐露するかたちで、利子率の上昇は資本に対する需要が変動したからだ、と事実上monied capitalの需給が利子率を規定していることを認めることになっている。

【36】オウヴァストンの証言
  第3751号。そこで再びケイリは、あなたがほのめかしている資本とは何かと問いかけている。しかし、それに対してオウヴァストンは、あれこれと問題をはぐらかしてまともに答えていない。

【37】オウヴァストンの証言
  第3752号。ケイリは、割引率はイングランド銀行の金地金に関連しているが、この金はオウヴァストンがいう資本なのかと問うているが、彼はそうではありませんと答えている。

【38】オウヴァストンの証言
  第3753号。ここではケイリはイングランド銀行に資本の大きな貯蔵がありながら、同時に割引率が高かった実例をあげられるか聞いている。それに対して、オウヴァストンはまともに答えず、イングランド銀行は資本の保管のための場所ではなく、貨幣の保管のための場所だと答えている。

【39】オウヴァストンの証言
 第3754号。前回の質問でオウヴァストンがまともに答えなかったためか、ケイリは同じ質問を繰り返している。すなわちイングランド銀行に地金の大きな貯蔵があったのに同時に利子率が高かった例を挙げることができるか、と。それに対してオウヴァストンは、今度は地金の貯蓄と低い利子率が同時に生じることはありそうだと答えている。そしてその理由として、地金の貯蔵が増えたのは、資本に対する需要が減少した時期だからで、資本を支配するための手段または用具を蓄積することのできる時期だったからだと答えている。このオウヴァストンの「資本」にマルクスは「つまりmonied capitalのこと」だと挿入している。

【40】オウヴァストンの証言
  第3755号。同じ問題にケイリはこだわり、では割引率とイングランド銀行の地金の量とには何の関連もないと思うのか、と聞いている。それに対してオウヴァストンは、関連があるかも知れないが、原則上のものではない、ただ時間的に同時に生じたに過ぎないと述べている。それに対して、マルクスは、そもそもオウヴァストンが主導した銀行法は、イングランド銀行の地金の量に応じて利子率を調節することを同行の原則にしているのだ、と指摘している。

【41】オウヴァストンの証言
  第3758号。(これまで証言番号は第3740号から第3755号まで連続していたが、今回は若干飛んでいる。)ケイリは少し攻め方を変えて、逼迫期に割引率が高いのは資本を手に入れることの困難のためか、貨幣を手に入れることの困難のためか、と問う。それに対してオウヴァストンは、商人の困難は資本を手に入れることにあるが、貨幣を手に入れることでもある、などとどっちつかずの回答で誤魔化している。貨幣を手に入れる困難と資本を手に入れる困難とは、同じ困難が進行している過程を二つの段階で見たものだ、などとわけの分からないことを述べている。これに対して、マルクスは「ここで魚はまた動きがとれない」と述べ、第一の困難は、手形を割引すること(あるいは担保貸付を受けること)だ、それが行われれば、第二の困難などはない、と批判している。

【42】オウヴァストンの証言
  第3760号。(これも少し番号が飛んでいる。)ケイリは割引率が高いということは、貨幣を手に入れる困難が増すということではないか、と問う。それに対しては、オウヴァストンはまたまた屁理屈をひねくりだす。貨幣を手に入れる困難が増すが、それは貨幣を持ちたいからではなく、ただ資本を手に入れる困難の増大が、洗練された状態の複雑な諸関係にしたがって現われてくることの形態だ、などとわけのわからないことを述べている。マルクスは「たわごと!」と断じている。

【43】オウヴァストンの証言
  第3763号。(これは質問者の質問がなく、オウヴァストンの回答だけが抜粋されている。)銀行業者は一方で預金を受け入れ、他方でこの預金を資本の形態で人々の手に任せることによって充用する仲介者だという主張がみられる。この抜粋は、以前、マルクスが原注として紹介したものである。だからこれはそれまでの抜粋とは若干違っていて、オウヴァストンが少なくともまともなことを言っているとマルクスは判断しているのであろう。

【44】マルクスの上記の証言に対するコメント
  マルクスはここでようやく、彼が資本ということで何を考えているかが分かった。預金を資本の形態で貸し出すということで、彼が資本と言っているのはmonied capitalであるということがここでハッキリしたということであろう。

【45】ここでは草稿では「イングランド銀行の割引率。地金。銀行券。」という表が掲載されている。

【46】表の書かれた頁の下の空いた部分に書かれているマルクスのコメント
  (このコメントは次からオウヴァストンの議会証言を抜粋する前書きのようなものである。)これはその大分前のオウヴァストンの証言を受けたもので、彼は前に地金の額(貨幣の量)の結果としての割引率の変化は、ただ同時に生じているだけで、本質的な関連はないといったが、また次のように繰り返している、と書いている。

【47】オウヴァストンの証言
  第3805号。(大きく証言番号が飛んでいる。)オウヴァストンは地金の流出があれば貨幣の価値が増加するので、イングランド銀行はそれに従わなければならない、それを専門用語では利子率を引き上げるというのだ、などと答えている。マルクスはオウヴァストンが「貨幣の価値」という部分を、「資本の価値」と言い換えている。というのはオウヴァストンのこれまでの主張はそうだったからである。それに貨幣の価値そのものは地金が流出したからといって何の変化もないからである。

【48】オウヴァストンの証言
  第3819号。(これも証言番号は飛んでいる。)オウヴァストンは「私は用語をけっして混同していない」と答えているが、マルクスは「貨幣と資本とを混同していないというが、それは彼がそれを区別していないからだ」と述べている。

【49】オウヴァストンの証言
  第3834号。(これも証言番号は飛んでいる。)これは1847年の地金流出について、飢饉で穀物の輸入のための支払が必要だったと主張し、その地金を「実のところは資本だった」と述べている。マルクスのコメントはないが、下線は恐らくマルクスのものであろう。つまりマルクスはオウヴァストンが流出した地金を「資本」としていることに注目しているわけである。

【50】オウヴァストンの証言
  第3841号。(ここらあたりの証言番号は飛び飛びである。それにオウヴァストンの答弁だけが抜粋されていて、質問者の質問もマルクスのコメントもあまりない。)ここではオウヴァストンは、割引率の変動は準備高の状態と密接な関係があることを認めている。

【51】オウヴァストンの証言
  第3842号。(これは先のものと証言番号は続いている。)ここではオウヴァストンはイングランド銀行の発券部が保有する地金の状態と銀行部の準備高の状態との間には密接な関係があることを認めている。それに対して、マルクスは彼は利子率の変化を「貨幣の量」の変動から説明しているが、それは嘘だと述べて、先に掲げた表から1856年の5月と10月の具体的な数値を上げている。この二つの数値の比較は、地金にそれほど変化がなくても、公衆の保有する銀行券が増えれば、銀行部の準備が減少し、だから利子率が上がることを示している。

【52】オウヴァストンの証言
  第3859号。(証言番号は飛んでいる。)ここではオウヴァストンは高い利潤率は資本にたいする大きな需要をうみだすこと、そしてそれは資本の価値を高くすると述べている。これに対して、マルクスは、ここでようやく「高い利潤率」と「資本にたいする需要」の関係が分かったと書き、しかしオウヴァストンの以前の主張では、資本とは事業者の用いるさまざまな商品のことであった、しかし1844-45年の好景気のときには棉花の価値(つまりオウヴァストンのいう資本)は高くならなかったから、利潤率が高かったのだと指摘している。だから彼が「資本にたいする大きな需要を生み出した」という場合の「資本」というのはmonied capitalのことだと述べている。

【53】オウヴァストンの証言
 第3889号。(これもオウヴァストンの答弁だけが抜粋されている。)オウヴァストンは地金が貨幣であることもないこともありうるのは、ちょうど、紙が銀行券であることもないこともあるようなものだ、と述べている。マルクスのコメントはない。

【54】オウヴァストンの証言
 第3896号。(ここでは質問者はウィルソンに変わっている。第3760号までは質問者はケイリだったが、そのあとは質問者と質問内容が紹介されていなかったので、どの時点で質問者がケイリからウィルソンになったのかは分からない。)
  ここではウィルソンは、オウヴァストンが1840年に用いた論拠、イングランド銀行の外にある銀行券の変動は地金の額の変動に従うべきという論拠を放棄したのか、と聞いている。これは1844年の銀行法の論拠になったものだから、銀行法のそもそもの意義を否定するのか、と聞いているのに等しい質問である。だからオウヴァストンはそれを真っ向から否定すると思いきや、「イングランド銀行の外だけでなく、銀行部にある銀行券も含めた発行銀行券全体に関してなら、放棄する」と驚くべき答弁を行っている。
  しかしマルクスの理解は必ずしもそうしたものではなく、「これは大げさ」だと述べているだけである。マルクスは、オウヴァストンがいうところの「情報」で明らかになるのは、地金の変動に応じて変化する発券部と銀行部との間の流通だけを問題にしているのだと述べ、発券部から銀行部に引き渡される銀行券の量と、イングランド銀行の外に出ている銀行券の量との差額が、銀行部の準備高になり、その変動が利子率を規定するという関係をマルクスは指摘している。
  だからオウヴァストンのような銀行業者にとっては、イングランド銀行の外にある銀行券よりも、利子率の変動を規定する両部門の間の流通こそが重要であり、彼はそれだけを問題にしているのだとマルクスは言いたいのかも知れない。

【55】オウヴァストンの証言
  第3944号。(証言番号は飛んでいるが、これも質問者はウィルソンである)ウィルソンは何をイングランド銀行の準備高と見ているのか聞いている。オウヴァストンは、発券部が発行した銀行券のうち、イングランド銀行の外に存在しない額だと述べているが、これは要するに銀行部の準備高のことである。それならそれをすんなり答えればいいのだが、ひどく回りくどく、ひねくれた言い方で答えている。

【56】オウヴァストンの証言
  第4243号第4245号第4246号。(これまでの証言番号からは大きく飛んだ、ほほ連続した三つの証言が抜粋されている。質問者もケイリに変わっている。)この最後の抜粋は、その直前の抜粋に関連したもので、オウヴァストンのひねくれた答弁に関連して、「やつの下劣さと不誠実さ」のすばらしい実例は他にもあるという意図で抜粋されたもののようである。ここではケイリの質問も混乱しているが、オウヴァストンは貨幣の価値を、資本の価値と言い換えており、彼が資本の価値という場合にはmonied capitalを指していることを思わず吐露しているが、すぐに問題をはぐらかし、資本の価値を何か商品の価値であるかに誤魔化し、価値が変わるのは貨幣なのか、それともそうでないのか、と追及されて、こうした問答は委員会室より学者の研究室にふさわしいなどと答えてはぐらかしている。マルクスはそれに対しては、こそこそと逃げ出すと付け加えている。

  以上が、抜粋全体の概要である。
  全体を見渡すとノーマンの証言に関するものは【2】~【4】だけで、あとはすべて(【5】~【56】)オウヴァストンの証言に関連するものである。その内容は、最初にも指摘したが、マルクスがこの抜粋を開始する直前に『エコノミスト』からの抜粋を紹介していたもの(大谷氏はそれをこの抜粋集のなかに含めなかったが)と内容的には関連していることが分かる。もう一度、それを紹介してみよう(ただし注解など煩雑になるものは省略。)。

  通貨Circulation〕,貨幣,資本(ⅰ) 「鋳貨または貨幣のうちで,公衆の手のなかにあって,商品の交換を成し遂げることに充用されている部分だけが通貨Circulation〕の名に値いすることは明らかであり,それにたいして,銀行業者または商人の手のなかに眠っていて,有利な投資の機会を求めているすべての鋳貨または地金資本である。--資本,それは,節約原理の導入によって永久にか,あるいは,通貨〔circulation〕の必要が減少する,1年のうちの特殊な諸時期に,一時的にか,流通から引き揚げられることがありうる。」(『エコノミスト』,1845年度,238ページ。)(ⅱ)「そして,預金が短期のものであり,いつでも預金者が自由に使えるからといって,なんらかの点で過程が変えられるわけではない。というのは,それがだれかによって引き出されるとしても,それは他のだれかによってもとに戻されるのであって,一般的平均はあまり変わらないからである。」(同前。)〉(212-213頁)

  この部分の私の以前の解説の一部を紹介しておく。

  【(ⅰ) これは明らかにマルクスが「通貨」と「貨幣」と「資本」とのそれぞれの概念の区別に注目して抜粋したものであり、極めて重要である(しかし訳者注194)によればエンゲルスはこのパラグラフ全体を削除しているのだという)。〈鋳貨または貨幣のうちで,公衆の手のなかにあって,商品の交換を成し遂げることに充用されている部分だけが通貨Circulation〕の名に値いする〉というのは特に重要である。ここで〈鋳貨または貨幣〉と述べているものは、マルクスが〈貨幣〉と述べているもので、これは抽象的な貨幣の規定性にもとづいたものである。そして〈公衆の手のなかにあって,商品の交換を成し遂げることに充用されている部分だけが通貨Circulation〕の名に値いする〉と述べているのは、「通貨」を極めて厳密に規定したものとして注目に値するわけである。つまり貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能をもつもの(広い意味での流通手段)こそが「通貨」と呼ばれるべきものだとしているのである。
  そしてそれに対して〈銀行業者または商人の手のなかに眠っていて,有利な投資の機会を求めているすべての鋳貨または地金資本である〉というのは、これは利子生み資本(moneyed capital)を事実上言い表しているという点でも、マルクスは注目しているといえる。つまり同じ鋳貨や地金でも公衆のなかにあって、商品流通を媒介しているものだけが「通貨」といいうるのであって、それが預金されて銀行にあって、有利な投資先の機会を求めているようなものは、「通貨」ではなく、利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed capital)なのだ、ということである。これを見ても、マルクスが大谷氏が主張するようように「預金通貨」なる概念を肯定的に扱っているなどということは決して言えないことが分かるのである。
  ただここで注意が必要なのは、『エコノミスト』の発行者であるウィルソン自身は貨幣を素材的にしか考えておらず、銀行業者や商人の手のなかで眠っているようなものは、すでに鋳貨ではないという認識がない。彼にとっては銀行業者の手にあるものもやはり素材的に見るかぎりでは鋳貨(コイン)でしかないし地金でしかないわけである。彼は資本をほぼ利子生み資本として捉えているが、しかし利子生み資本という概念が明確にあるわけではない。むしろ資本を、利子生み資本としてのみ理解して、利子生み資本と資本一般とを同一視するという誤りに陥っているのである。

  (ⅱ) の抜粋は、ある特定の預金が短期でいつでも預金者が自由に引き出せるものだとしても、〈なんらかの点で過程が変えられるわけではない〉とある。つまり預金が定期預金のようなものではなく、短期でいつでも自由に預金者が引き出して使えるものだったとしても、預金そのものを通貨ということはできない、と述べている。確かに引き出されて商品の購入に使われたり、支払に使われるなら、それらは通貨といいうるが、しかし引き出されたものはすでに預金ではない。預金そのものは、一方で引き出す預金者があっても、他方で預金するものもいて、平均としてはそれほど変わらないのだから、そうした一般平均としてある預金を通貨などということはできないということである。

  マルクスはこの『エコノミスト』の記事を諸概念を基本的に正しく区別して論じているという点で評価して抜粋したといえるだろう。その意味ではエンゲルスがこれを削除したのは不可解である。】

  またこのパラグラフの位置づけについて、大谷氏の位置づけに異論を唱えている小林氏の主張を評価し、賛同して書いた部分も紹介しておこう。

  【これを見ると、小林氏は大谷氏とは異なり、この抜粋はそれに続くノーマンおよびオウヴァストンの証言の抜き書きとそれに対する批判的コメント(大谷氏が「第26章の草稿」とした部分)の冒頭をかざるものと考えているようである。確かにそのように考えた方が良いように私にも思える。
  そうすると大谷氏が〔信用制度についての雑録〕とした部分は、【63】パラグラフのマルクス自身のコメントで締めくくっていると考えることができるからであり、これの方がある意味ではキリが良い。
  またそれに続く【64】パラグラフのウィルソンの『エコノミスト』からの抜粋は、明らかにそれまでの議会証言からの抜粋とは違った性格をもっており、銀行学派を代表する主張として、それに続く通貨学派を批判していくなかで、彼らの混乱がまさに〈通貨Circulation,貨幣,資本〉の諸範疇を明確に捉えることができず、混乱していることにあるのだと、最初に示す意図がマルクスにあったと捉えることが出来るからである。このように最初に諸範疇の区別を明確に示すやり方は、現行版第28章該当部分--草稿では「Ⅰ)」と項目番号が打たれた部分--で銀行学派の混乱を批判する直前においても、次のようにやっていることに注意すべきである。

  〈トゥク,ウィルスン,等々がしている,Circulationと資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが〔)〕,次の二つのことに帰着する。〉 (大谷『マルクスの利子生み資本論』第3巻97-98頁)】

  このようにこれまでノーマンとオウヴァストンの議会証言の抜粋の概要を全体として見渡しても、マルクスの意図が1844年の銀行法制定の理論的根拠となった通貨学派たちの〈通貨Circulation〕,貨幣,資本〉の諸範疇における混乱を暴露することにあったと言える。ただそれを何らかの意図のもとに展開するというようなものではなくて、ほぼ証言番号順に、通貨学派の主張が典型的に現われてるものを抜粋して、必要なコメントを付けたという程度のものであり、それぞれの抜粋された証言に何らかの関連を見いだしたり、何らかの問題意識のもとに展開されているとは言い難いもののような気がする。
  また通貨学派の諸概念の混同や混乱だけでなく、彼ら銀行業者たちがこの銀行法を利用して、恐慌時の危機に乗じてぼろ儲けを企んだことを隠し通そうとするために、問題をすり替え、ねじ曲げ、はぐらかし、衒学ぶったり言い回しをしたりして、自分たちの後ろめたい企み、隠そうとするそのいやらしさを暴露するという意図もあったいえる。

  (次回はエンゲルスの「貨幣の前貸と資本の前貸との区別」についての挿入文の段落ごとの解説を行う。)

2020年12月 2日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-10)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

§ 各パラグラフごとの解読(続き)


【53】

 第3889号。「地金が貨幣であることもないこともありうるのは,ちょうど,紙が銀行券であることもないこともありうるようなものです。」〉 (267頁)

 【これはオウヴァストンの証言だけが抜粋されていて、それにたいするマルクスの言及はない。しかしこの小賢しいオウヴァストンの主張にわざわざコメントするまでもないというのがマルクスの心境なのかも知れない。
  オウヴァストンは〈地金が貨幣であることもないこともありうる〉というのであるが、それは彼がリカード学徒として貨幣を鋳貨(あるいは流通手段)としてしか考えていないからである。鋳造されていない地金も貨幣であるという認識がないのである。いうまでもなく、それは蓄蔵形態にある貨幣である。だから紙が銀行券に印刷されれば、銀行券として通用するが、紙がそのままでは単なる紙に過ぎないというのとはわけが違うのである。金はむしろそれ自体が一つの商品であるからこそ、他の諸商品の一般的等価になり得たのであって、よってまた貨幣なのである。

  オウヴァストンが地金と紙券(銀行券)とをどのように考えていたかについて、小林氏はかなり詳しく論じている。興味深いので、その部分を私のノートから紹介しておこう。以下は私自身の小林氏の著書のノートからである(《  》で示した部分)。

  《オーヴァーストーンによると銀行券(紙券)は、信用貨幣ではなく、「金の証明書」なのだそうである。この限りでは銀行券を本来の商業貨幣と捉えるマルクスとは違っているが、同時にそれは通貨として通用している銀行券については妥当なものといえる。次のような面白い問答が紹介されている。 

  〈「為替手形は製造されたか取引された商品(goods)の代理物(representatives)ではないのですか?」(第3739号Q)--「私はそのような表現の意味を殆ど知りません。為替手形は製造された商品の販売の結果非常にしばしば振出されますし,譲渡された信用の結果非常にしばしば振出されます。……」(第3739号A)。
 「銀行券(the bank paper)が金の代理物あるいは金の映像(shadow)であると貴方が述べたのと同様に,為替手形は商人や製造業者の資財(stock)の代理物ではないのですか?」(第3740号Q)--「いいえ。私は為替がそうとは考えません。銀行券(the bank paper)は金の代理物です。なぜなら,それは,それと引き換えに預金された金の証明書ですが,振出された為替手形は決して言葉の証明書という意味での商品の証明書ではないからです」(第3740号A)。〉 (189-190頁)

  またウィルソンとの問答でも〈イングランド銀行に「預金」された地金とその「地金を代理する」「銀行券」という「紙券」理解が明らかとなってくる〉(191頁)と次のような興味深い問答が紹介されている。

  〈「貴方は『通貨(currency)』という言葉に何を含めるのですか。銀行券と公衆の手にある鋳貨だけですか,それともイングランド銀行にある鋳貨も含めるのですか」(第3879号Q)--「私はイングランド銀行を公衆のうちの極めて重要な1人物(personage)と考えています。私は,イングランド銀行と私自身の銀行との間に,そのことが関係する限りでは,区別などを知りません」(第3879号A)。
 「貴方はイングランド銀行に在る地金を通貨の部分として含めるのですか」(第3880号Q)--「私は銀行部に在る貴金属を通貨であると考えますが,しかし発券部に在る地金をそうは考えません。なぜなら,それに対して,銀行券がそれ[地金]を代理する(represent)ものとして発行されているからです」(第3880号A)。
 「貴方は,地金および鋳貨並びに銀行券の供給の全体が,わが国の全通貨(the entire circulation)を構成していると考えるのですか」(第3883号Q)--「もしもわれわれが『通貨(circulation)』という言葉を『貨幣(money)』という言葉に取り替えることができるのならば,それはわれわれの考え(ideas)を鮮明に維持するのに恐らく役立つかも知れません。偉大な一般的等価物(the great universal equivalent)として何時でも使用される状態で保持されているもの,即ち,他のあらゆる物を購買しようとし,またそれに支払おうとするものが,わが国の貨幣であると私は考えます」(第3883号A) 。〉 (191頁)

  少しこの興味深い問答を分析してみよう。
  最初の問答で、ウィルソンが貨幣を素材的にしか捉えず、その形態規定性で捉えていないから、通貨のなかに〈イングランド銀行にある鋳貨も含めるのですか〉と質問している。しかしいうまでもなく、イングランド銀行に限らず銀行にある貨幣は例え素材的に鋳貨の形態をとっていたとしても形態規定性としては鋳貨、すなわち流通手段ではなく、利子生み資本なのである。だから当然、それは通貨とは異なるものである。
  それに対してオーヴァーストーンはまともに答えず、ウィルソンが〈銀行券と公衆の手にある鋳貨だけですか〉と質問したのに対して、イングランド銀行も公衆の一人だと答えている。ということはウィルソンが通貨のなかに〈イングランド銀行にある鋳貨も含めるのですか〉と質問しているのだから、イエスと答えればよいのである。
  ウィルソンは銀行券は無条件に通貨のなかに含めているが、しかし銀行券もすべてがそうであるわけではないことが分かっていない。まずこの時代、商業流通内で流通していた銀行券(比較的額面の大きな銀行券)は手形流通に立脚している信用貨幣であって、手形や小切手と同様に預金の振替決済に利用される信用用具の一つであり、決して通貨とはいえないということが分かっていない。また少額の銀行券でも銀行の準備として存在しているものはまた通貨とはいえないのである。こうした区別がウィルソンやオーヴァーストーンにないのは当然といえば当然なのだが。
  二つ目の問答の場合、オーヴァーストーンは〈銀行部に在る貴金属を通貨であると考えます〉と答えているが、これも間違いである。これはイングランド銀行の準備の一部であって、それ自体が通貨ではない。これも問題を素材的に捉えていることから来るものである。
  三番目の問答は、通貨と貨幣との区別を論じているかに見えるが、果たしてそれだけ明確に概念的区別があってそう論じているのかはよく分からない。一見するとオーヴァーストーンの答えは蓄蔵貨幣も含めた一国の貨幣全般を述べているかに見えるが、しかしそれはリカードの貨幣理論を踏襲する彼の知らないことである。

  次は私人が持っている地金は貨幣といえるかどうか、という問題である。

  〈委員ウィルソンは,「貴方は私的当事者の手に在る地金を[貨幣に]含めるのですか」(第3884号Q)と質問するが,オーヴァーストーンの答えは「いいえ」である。そしてその理由を,彼は次のように説明する。即ち,「それ[地金が貨幣に含まれるかどうか]は,以下の想定に依存する」からで,「地金をわが国に輸入する人が,もしもそれを一般的等価物の諸機能を行なう目的で保持しようとしているのであれば,彼は,当然のことながら,それをイングランド銀行の発券部に預金するものと理解します。そしてそれが一応正しいものと考えると,そのように預金された地金を除くどんな地金も,私は貨幣とは見なさず,そしてその[預金された]地金は,それに対して発行された銀行券によって代理されて(re-presented)います。もしも輸入商が地金を彼自身の所有に留めておくのであれば,そのことは,彼がそれを偉大な一般的等価物として働かせること以外の他の目的で留めているという最も強く推定できる証拠である,と私は結論します」(第3884号A),と。〉 (191-192頁)

  私的であろうが、公的であろうが、地金が地金として保持されているなら、それは蓄蔵貨幣であり、よって貨幣範疇にはいることは明らかであるが、しかし通貨学派のオーヴァーストーンには明確な蓄蔵貨幣概念がないからそれが分からない。私的な地金保持がやがて必要な場合に支払いに利用する(例えば国外への)ためでないとどうしていえるのかは不明である。ここにあるのはオーヴァーストーンのただ私的な願望でしかないであろう。あるいは彼は次のようにも述べている。

  〈問題はそれ[金塊]が保持されているその目的である」(第3886号A)。「地金が貨幣であるかそうでないかは,紙が銀行券であるかそうでないかと全く同じである。それは,それ[地金]が留め置かれ保持されようとしている形態と目的に全く依存する」(第3889号A)〉 (192頁)

  地金はその生産源では、確かに一つの生産物であり、まだ貨幣とはいえないが(潜在的な貨幣とは言いうる)、それが生産源で他の諸商品との直接的な交換によって流通に入った時点で、すでにそれは貨幣になるのである。リカード学派のオーヴァーストーンにとっては、流通手段のみが貨幣だから地金(金塊)はその保持されている目的によって違ってくるという。確かに地金が工業材料として用いるために購入される場合は、一つの生産材料としての商品でしかなく、貨幣とは言えないが、しかしそのことは紙が銀行券であるかそうでないかと同じではない。そもそも紙を銀行券に印刷したからといって、それが貨幣になるわけではない。それが銀行の信用によって利子生み資本として貸し出された時点で、それは利子生み資本という意味での貨幣資本(monied capital)と言えるが、しかしそれはまだ通貨とは言えないのである。それが一般流通に入って金貨幣を代理して流通してはじめて通貨といいうるのである。

   そして著者は以上のオーヴァーストーンの通貨についての理論を整理して次のように述べている。

  〈そこでオーヴァーストーンの言うところを整理すると,こうなるであろう。「一般的等価物」たる「貨幣」は購買または支払手段として用いられるのであるから,「世界貨幣」である貴金属のうち各国に「配分」されてきた「地金」は,それを輸入した貴金属商ないし貿易商等が国内で「貨幣」(「通貨」)として用いようとするのであれば,彼らは「金塊」ないし「地金」をイングランド銀行に「預金」し,それをイングランド銀行券で引き出して「貨幣」(「通貨」)として用いるか,あるいは,彼らがそれを造幣局に持ち込んで直接に金鋳貨に「転換」して「貨幣」(「通貨」)として用いることとなる。そして前者の場合,1844年銀行法の下では,イングランド銀行は,1400万ポンドを越えては,預金された地金額だけの銀行券しか発行できないのであるから,その限り「地金」は「貨幣」(「通貨」)としては,「それに対して発行された銀行券によって代理される2)」(第3884号A)。だから,「私的当事者の手にある地金」,例えば「金の皿」,あるいは「預金」され「準備金」としてイングランド銀行に保管されている「地金」は,同時に「貨幣」ないしは「通貨」ではあり得ない3)。したがって地方銀行券を考慮の外に措くとすれば,「わが国の貨幣」は,イングランド銀行の銀行部の準備金を構成している金鋳貨とイングランド銀行券4)とを含めた,金鋳貨とイングランド銀行券とから成り立っている,ということとなる。〉 (192-193頁)

  ここに付けられた注2)も抜粋しておこう。

  〈2)イングランド銀行券としては,発券部にある地金に対して発行された銀行券の他に,「有価証券[公債]に対する発券1400万ポンド」が存在する。そこで委員ウィルソンは質問する。「それらの銀行券は,発券部にある地金の一部を代理(represent)しているに過ぎないのではありませんか?」(第3945号Q),と。これに対してオーヴァーストーンは,次のように答えている。「それらの銀行券は,他のどの銀行券も発券部にある地金を代理しているという意味より以外のどのような意味においても,発券部にある地金を代理してはいません。2500万ポンドが現在発券部で発行されている銀行券です。そして発券部には1000万ないし1200万ポンドの地金が存在します。その1000万ないし1200万ポンドの地金が,外部にあるすべての銀行券を代理--もしも貴方がその言葉'represent'を使用することを選ぶならば,そしてその言葉は最も悪い表現形態ですが--するのですが,しかしその地金が,他方の銀行券より一方の銀行券を代理しているのではありません」(第3945号A),と。〉 (200(頁)

  これは確かにオーヴァーストーンの主張の痛いところを突いた質問だが、それに対するオーヴァーストーンの答弁はまったくまじめに答えず、誤魔化しでしかない。あれこれ言葉をひねくり回して煙に巻くという常套手段ではあるが。》 】


【54】

 第3896号463)「〔ウィルスン〕では,閣下は,ご自分が1840年に用いられた論拠,つまりイングランド銀行の外にある銀行券の変動は地金の額の変動に従うべきだという論拠を放棄されたものと理解して間違いありませんか?--それを私が放棄するのは,こういうことのかぎりです466)……。つまり,いまでは,われわれがもっている情報によれば,イングランド銀行の外にある銀行券にさらにイングランド銀行の銀行業準備のなかにある銀行券をも加えなければならないというかぎりでのことです。」(これは大げさである。イングランド銀行は1400万・プラス・地金と同額の紙券をつくりだす,という恣意的な規定は,[500]もちろん,イングランド銀行のこの発券高を地金の変動につれて変動させる。しかしこの「情報」によって明らかに示されているところでは,イングランド銀行がそのようにして印刷することができる(そして発券部が銀行部に引き渡す)銀行券の量は,つまり地金の変動につれて生じる,イングランド銀行の二つの部のあいだでのこの流通は,同行の門外での流通高の変動③を規定しないのだから,いまでは,あとのほうの流通高はどうでもよいものとなり,二つの部のあいだのこの流通がまったく重要になるのであって,この流通と現実の流通との差が準備高に現われるのである。){それが重要なのは,銀行法の結果として,準備高が,〔イングランド〕銀行がその最高発券限度にどこまで届いているか,そして預金者たちが銀行営業部から受け取ることができるのはどれだけか,を指し示すからでしかない。}

  ①〔異文〕「紙券」Papiernoten←Papier
  ②〔異文〕「規定」← 「法」
  ③〔異文〕「を規定しない」← 「に触れない」

  463)この引用の右欄外にインクで縦の線が引かれている。
  466)「…… 」--証言ではここに,「--このことが,放棄するということの意味なのであれば,それは実際には,陳述を完全なものにするということでありまして,いかなる点から見ても放棄することではないのですが」というオウヴァストンの弁解がはいっている。草稿ではこの部分は,「…… 」ではなくて「--」となっている。〉 (267-269頁)

 〈このパラグラフは、委員会報告からの抜粋のあとマルクスの挿入文が比較的長く書かれているので、抜粋はそのままにマルクスの挿入文を書き下しておく。

  「〔ウィルスン〕では,閣下は,ご自分が1840年に用いられた論拠,つまりイングランド銀行の外にある銀行券の変動は地金の額の変動に従うべきだという論拠を放棄されたものと理解して間違いありませんか?
   〔オウヴァストン〕それを私が放棄するのは,こういうことのかぎりです……。つまり,いまでは,われわれがもっている情報によれば,イングランド銀行の外にある銀行券にさらにイングランド銀行の銀行業準備のなかにある銀行券をも加えなければならないというかぎりでのことです。」
  (これは大げさです。イングランド銀行は1400万・プラス・地金と同額の銀行券を発行することができる,という1844年の銀行法の恣意的な規定は,もちろん,イングランド銀行のこの発券高を地金の変動につれて変動させます。しかしオウヴァストンがいうところの「情報」によって明らかに示されているところでは,イングランド銀行がそのようにして印刷することができる(そして発券部が銀行部に引き渡す)銀行券の量は,つまり地金の変動につれて生じる,イングランド銀行の二つの部のあいだでのこの流通、つまり発券部から銀行部への銀行券の流通は,同行の門外での銀行券の流通高の変動を規定しないのですから,いまでは,銀行外の商品市場における銀行券の流通高はどうでもよいものとなり,二つの部のあいだの銀行券の流通だけが重要になるのです。だからこの流通と現実の流通との差が銀行部の準備高に現われるのです。){それが重要なのは,銀行法の結果として,銀行部の準備高が,〔イングランド〕銀行がその最高発券限度にどこまで届いているか,そして預金者たちが銀行営業部から受け取ることができるのはどれだけか,を指し示すからでしかありません。それが少なければそれだけ信用を動揺させ、利子率が高くなることになります。}〉

 【今回の質問者はそれまでのケイリからウィルソンに変わっている(一つ前のもの(【53】も、オウヴァストンの答弁だけが抜粋されているが、恐らく質問者はウィルソンであろう)。彼は1844年の銀行法を制定する裏付けとなった、1840年の論拠、〈つまりイングランド銀行の外にある銀行券の変動は地金の額の変動に従うべきだという論拠を放棄されたものと理解して間違いありませんか〉と問うている。この質問がオウヴァストンのどういう答弁にもとづいてなされたものかは分からない。ここらあたりの答弁の番号はかなり飛び飛びになっていて、必ずしも連続したものといえないから、その前のパラグラフとの関連はほとんどないと考えてよいであろう。ただマルクスが委員会報告のなかで興味深いものをピックアップして抜粋したものであろうと思われる。いずれによ、オウヴァストンは金鋳貨と銀行券とが混合して流通している場合には、それが純粋に金鋳貨だけが流通していたときには自動的に調節されていたように、その流通量を、銀行券の発行をイングランド銀行にある地金の量に連動させることによって規制する必要がある、という主張を放棄したのか、と聞かれているわけである。ということは、この質問は、その理論にもとづいて制定された銀行法が有効ではなかった、失敗したことを認めるのか、という問いでもあるわけである。
  ある意味では根源的なこの質問に、オウヴァストンはただちに否定するかと思いきや、必ずしもそうではなく、〈それを私が放棄するのは,こういうことのかぎりです……〉と半ば肯定するような言い出しから始めている。この〈……〉で抜粋では略されている部分(草稿では〈……〉ではなく〈--〉になっているらしいが)は、大谷氏の訳者注には〈証言ではここに,「--このことが,放棄するということの意味なのであれば,それは実際には,陳述を完全なものにするということでありまして,いかなる点から見ても放棄することではないのですが」というオウヴァストンの弁解がはいっている〉(267-268頁)とある。だからオウヴァストンの答弁を再現すると次のようになっていることになる。

  〈このことが,放棄するということの意味なのであれば,それは実際には,陳述を完全なものにするということでありまして,いかなる点から見ても放棄することではないのですが、つまり,いまでは,われわれがもっている情報によれば,イングランド銀行の外にある銀行券にさらにイングランド銀行の銀行業準備のなかにある銀行券をも加えなければならないというかぎりでのことです。〉

  ということはオウヴァストンの答弁は、イングランド銀行の外にある銀行券だけではなく、それにイングランド銀行の銀行部に準備金として存在する銀行券をも含めたもの(つまりこれは発券部から発行されるすべての銀行券ということになるが)、それが発券部の準備金である地金の額の変動に従うべきだという論述を放棄するというのである。しかしこれはやはり事実上1844年の銀行法の論拠を放棄することになるのではないだろうか。確かに銀行法の主旨は、流通している通貨の量を規制するということであり、そのために金鋳貨と銀行券が混在している場合には、銀行券の量が恣意的に拡大して、本来、金鋳貨が持っていた自動調節作用が働かなくなり、物価騰貴や金流出等々が生じてしまい、恐慌になることを防ぐために、銀行券の流通量を金鋳貨量の枠内に制限するということであった。だからイングランド銀行にある地金の量に連動して銀行券の発行量を規制するということだったのである。しかしそのことはやはり発券部の銀行券の発行の量そのものを地金の量に連動させるしかなく、実際、銀行法はそうしたものになっている。それは決して流通通貨の量を恣意的に変動させるようなものではないし、それができるような性格のものではないのである。だからオウヴァストンの答弁は、事実上、銀行法の論拠を放棄するに等しいといってもよいであろう。
  しかしマルクスは必ずしもそうした指摘をしているわけではない。マルクスは〈(これは大げさである〉と述べているが、〈これは〉というのは、オウヴァストンが、イングランド銀行の外にある銀行券だけではなく、銀行部にある準備の銀行券も含めたものを考えるなら、と述べていることについてであろう。そのあとに続いてマルクスが述べていることは、オウヴァストンにとって重要なのは、イングランド銀行の外の銀行券の量などではなく、発券部と銀行部との間でやりとりする銀行券の量(流通)が彼らにとって一番重要なのだという指摘である。そのためにマルクスは、銀行法にもとづいてイングランド銀行は、1400万ポンド・スターリング+地金と同額の銀行券を発行するのだが、しかしその発行額そのものはイングランド銀行の外にある銀行券の量を規定しないのだから(これはマルクスはオウヴァストンの答弁にもとづいて皮肉って「情報」によれば、などと書いている)、結局、地金の量によって変動するのは、発券部から銀行部に移される銀行券の量であると喝破している。そしてこの銀行部の準備高としてあらわれる銀行券の量こそ、信用を規制しており、よって利子率を規制しているのだからである。ここでマルクスは銀行部の準備金としての銀行券の量が、重要な理由として、一つは〈銀行法の結果として,準備高が,〔イングランド〕銀行がその最高発券限度にどこまで届いている〉を指し示すからだと述べている。だから発券部の発行する銀行券が発行限度額一杯かどうかによっても、銀行部の準備は増減するわけである。もう一つの理由は〈預金者たちが銀行営業部から受け取ることができるのはどれだけか〉を指し示すというのであるが、これは預金者たちがその預金に対する利子をどれだけ受け取ることができるか、ということであろう。つまり利子率を規制しているということではないかと思える。】


【55】

 第3944号。「〔ウィルスン〕なにをイングランド銀行の準備高と見ておられるのか,委員会にお教えくださいませんか?--発券部によって発行された銀行券のうち,イングランド銀行以外のどこにも存在しない額です。」〉 (269頁)

  【これは抜粋だけなので、書き下しは省略する。
  質問者はやはりウィルソンだが、今度はイングランド銀行の準備高という場合に何を見ているのかを問うている。それは発券部の準備である地金のことか、それとも銀行部の準備である銀行券を問題にしているのか、という質問である。
  それに対してオウヴァストンは、彼が準備高と考えているのは、発券部の準備金である地金ではなく、銀行部の準備である銀行券のことだと答えているのであるが、それを彼は〈発券部によって発行された銀行券のうち,イングランド銀行以外のどこにも存在しない額です〉と答えている。分かりにくい表現である。〈イングランド銀行以外のどこにも存在しない〉というが、イングランド銀行の外には存在しないという意味であり、要するにイングランド銀行の銀行部に存在しているということであろう。】


【56】

 やつの下劣さと不誠実さについては,次のようなすばらしい例がある。
第4243号(ⅰ)「〔ケイリ〕あなたのお考えでは,資本の量は,この数年,割引率の変動に示されているようなぐあいに資本の価値を変動させるほどの程度で,月々変動するのですか?--資本の需要と供給との関係は,疑いもなく,短期間にでも変動することがあります。……もし明日にもフランスが非常に大きな借款を受けたいという通知を公けにすれば,それは疑いもなく,すぐにこの国で497)貨幣の価値に,すなわち資本の価値に,大きな変動を引き起こすでしょう。第4245号(ⅱ)もしフランスが,わが国は急遽……3000万だけの商品を買い付けたい,と発表すれば,これらの商品にたいする大きな需要が生じるでしょう。もっと学問的でもっと簡単な用語を使えば,資本にたいする大きな需要が生じるでしょう。第4246号(ⅲ)〔ケイリ〕フランスがその借款で買いたいと思うであろう資本は一つのものです。フランスがこの資本を買うために用いる貨幣はそれとは別のものです。価値が変わるのは貨幣なのですか,それともそうではないのですか?--われわれはまた前の問題を復習しているようですが,考えてみると,これはこの委員会室よりも学者の研究室によりふさわしいものです。」こうして彼はこそこそと逃げ出すのである。508)|

  497)〔E〕「貨幣の価値に,すなわち資本の価値に」--エンゲルス版でも強調されている。草稿では,このうち「すなわち〔that is to say〕」には二重の下線が引かれている。
  508)〔E〕エンゲルス版では,ここに次の脚注がつけられている。--「資本の問題でのオウヴァストンの概念上の混乱についてさらに詳しくは,第33章の終わりで述べる。{F.エンゲルス}」〉 (269-270頁)

  【このパラグラフはマルクスの冒頭と最後の短い一文以外は、抜粋なので、書き下しは省略する。
  マルクスは冒頭〈やつの下劣さと不誠実さに〉と述べているが、これはその前のパラグラフで抜粋・紹介していた部分を直接には指しているのであろう。要するに質問者の質問にはまともに答えずに、変にねじ曲げて答弁するオウヴァストンの答弁の仕方についてある。マルクスはその〈すばらしい例〉として三つ上げているが、これらは今度は質問者はウィルソンではなく、ケイリである。それぞれ番号を打って検討して行こう。ただしその前に、これらはすべて委員会報告の質問番号を見ると、これまでのやりとりというのではなく、これ以降のものから抜粋されたものである。

  (ⅰ) 質問者ケイリは、〈資本の量は,……月々変動するのですか〉と聞いている。ここで〈資本の量〉というのは利子生み資本(monied capital)の量ということであろう。ケイリもそれを明確に意識しているわけではないが、しかし彼は〈この数年,割引率の変動に示されているようなぐあいに資本の価値を変動させるほどの程度で〉と述べている。〈資本の価値〉というのはmonied capitalの価値、つまり利子率ということである。だからケイリはここではある意味では同義反復を述べているわけである。これは彼がこれらの用語で何を意味するかを明確に自覚していないことを示している。
  これに対するオウヴァストンの答弁は、〈資本の需要と供給との関係は,疑いもなく,短期間にでも変動することがあります〉というものである。ここで〈資本〉と彼が述べているのは、monied capitalのことであることは明らかである。それはその次に、彼がフランスの借款が公表されれば、それはこの国の〈貨幣の価値に,すなわち資本の価値に,大きな変動を引き起こすでしょう〉と述べていることから明らかである。ここでは彼は彼がいう〈資本の価値〉というのは、〈貨幣の価値〉ということ、すなわち利子生み資本だということを図らずも吐露しているわけである。マルクスは「すなわち」というところに二重線を引いて注意を喚起している。つまりオウヴァストンは〈貨幣の価値〉を説明して〈資本の価値〉と述べ、両者を同じものとして扱っていることに注意せよというわけである。

  (ⅱ) ところがオウヴァストンは、続けて〈フランスが,わが国は急遽……3000万だけの商品を買い付けたい,と発表すれば,これらの商品にたいする大きな需要が生じるでしょう〉と答弁して、彼が当初〈資本〉と述べていたことがあたかも〈商品〉であるかに誤魔化しているのである。そしてそれを〈もっと学問的でもっと簡単な用語を使えば,資本にたいする大きな需要が生じる〉と衒学的な戯言を言って誤魔化しているのである。
  フランスがもし3000万ポンド・スターリングの借款を公表すれば、当然、貨幣資本への需給が逼迫して、利子率を引き上げるであろう。しかしそのことは、フランスがその借りた3000万ポンド・スターリングで、イギリスから商品を購入するということが例えあったとしても、それはイギリスの商品の価格を引き上げるように作用はしても、それが直接利子率を引き上げる、つまりオウヴァストンの主張を踏まえていうなら、〈貨幣の価値に,すなわち資本の価値に,大きな変動を引き起こす〉とはいえないのである。これらのことをオウヴァストンは意図的かどうかはともかく混同して答弁しているわけである。

  (ⅲ) それに対するケイリの質問も混乱している。彼は〈フランスがその借款で買いたいと思うであろう資本は一つのものです〉というのであるが、フランスが借款した3000万ポンド・スターリングで買いたいものということなのか、それともフランスが借款したというのは、monied capitalですと言いたいのか、今一つ不明確である。そしてそれに続けて〈フランスがこの資本を買うために用いる貨幣はそれとは別のものです〉というのも今一つわからない。〈この資本を買うために用いる貨幣〉というのは、一体何を言いたいのか、〈この資本〉とは何を指しているのか、商品資本のことか、あるいは利子生み資本のことか、もし後者なら、それを〈買うために用いる貨幣〉などというのは奇妙な話になる。そしてそのあと彼は〈価値が変わるのは貨幣なのですか,それともそうではないのですか?〉と質問している。これはオウヴァストンはその前の答弁で、〈この国で貨幣の価値に,すなわち資本の価値に,大きな変動を引き起こす〉と述べたものを踏まえたものであろう。要するにケイリの質問は混乱しているが、しかしその前に、オウヴァストンが一方で彼が〈資本の需要と供給〉ということで、資本を利子生み資本(monied capital)という意味として論じ、だから〈貨幣の価値に,すなわち資本の価値に,大きな変動を引き起こす〉と述べていたのに、その次には今度は〈資本〉をあたかも商品であるに述べているので、変動するのは貨幣の価値かそれとも商品の価値(価格)か、と問うているわけである。
  それに対して、またしてもオウヴァストンはまともに答えることをせずに、〈われわれはまた前の問題を復習しているようですが,考えてみると,これはこの委員会室よりも学者の研究室によりふさわしい〉などと言ってはぐらかしている。
  だからマルクスはそのあとに〈こうして彼はこそこそと逃げ出す〉と付け加えているわけである。】

  以上で、《第26章の草稿、それとエンゲルス版との相違》として大谷氏がまとめたものは終わりである。次回からはこの部分の全体を振り返って検討するとともに、大谷氏が別途紹介しているエンゲルスの挿入文の段落ごとの検討も行うことにしたい。

 

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