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2020年11月

2020年11月25日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-9)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


§  各パラグラフごとの解読(続き)


【48】

 第3819号。「私は用語をけっして混同してはいません。」(つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが,それは,彼がこの二つをけっして区別していないという理由からである。)434){だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるであろう。}

  ①〔異文〕「買い手にとってはたんに」という書きかけが消されている。

  434)〔E〕「{だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるであろう。}」--削除
  この最後の部分は,〈資本と商品とについて同じような混同をし,そしてそれについて同じような逃げ口上を言うことができるであろう〉,という意味であろう。〉 (264-265頁)

   〈「私は用語をけっして混同してはいません。」(つまり貨幣と資本とを混同していないというのですが,それは,彼〔オウヴァストン〕がこの二つをけっして区別していないという理由からです。){だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるでしょう。}〉

 【これは「私は用語をけっして混同していません」というオウヴァストンの答弁の一言に、マルクスが噛みついているわけである。オウヴァストンは自分は混同してないというが、その少し前では「貨幣の価値」が高くなるということを、「貨幣資本(monied capital)価値が高くなる」という意味にすり替えて、だからそれを専門用語では利子率を引き上げるというように表現するのだ、と述べていたのである。もし彼が混同していないというなら、それは彼がこの両者を区別していないからだ、とマルクスは批判しているわけである。
  そのあとマルクスはさらに今度は{   }をつけて批判を補足しているのであるが、この内容が今一つ分かりにくい。要するに商品が資本の形態にある、というのは商品資本ということであろう。しかし商品資本も、それが市場で売買されるかぎりでは単なる商品として振る舞うのであり、だからそれは資本関係からみれば資本でありながら、単純な流通過程においては、単なる商品でもあるのだから、資本と商品とについてもあれこれと逃げ口上をいうことができる、ということであろう。
  しかし、貨幣と資本との場合は、これとは同じではないのである。確かに貨幣も資本の循環過程の一契機としては貨幣資本(Geld capital)として存在し、その限りでは商品と商品資本との関係と同じといえるが、しかしここで問題になっているのは、資本の循環形態としての貨幣資本(Geld capital)ではなく、利子生み資本としての貨幣資本(monied capital)なのであるから、その利子生み資本を貨幣と混同して逃げ口上をいうことはできないのだ、というのがマルクスの言いたいことではないだろうか。つまりマルクスが問題にしているのは、オウヴァストンは貨幣と貨幣資本(monied capital)とを区別することができていないので、両者を混同して自分に都合のよいように(1844年の銀行法を擁護するために)論じているということである。この点、大谷氏の訳者注434)とは若干、違った解釈になる。】


【49】

 第3834号。「この国の必要生活資料の供給のために〔」〕(1847年に穀物のために)〔「〕支払われなければならなかった,そして実のところは資本だった非常に大きな金額。」

  ①〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。〉 (265頁)

 【これはこの限りでは、オウヴァストンの答弁なのかどうかもハッキリしないが、ただ小林賢齋氏は、これをオウヴァストンの答弁として次のように紹介している。(下線部分が今回の引用されている部分と同じと考えられる。)

  〈ではオーヴァーストーンは,秋の「パニック」をどのように説明するのか。
 委員ウッドに対する彼の答弁によると,1847年には,「流動資本の,鉄道という形での固定資本への外延的な移転」であるとか,「穀物の破滅的状態と必要食糧の供給のために支払われた大きな[「事実上の資本」]額」,等々の,「多様な諸条件に起因する資本需要の大増加」によって,「地金の激しい流出」(第4189号A)を伴いながら,「資本に対する非常に大きな逼迫が創り出されていた」(第3834号A)。だから「1847年の逼迫は資本に対する需要との関連での資本の欠乏(paucity)に起因していた」(第3835号Q)のである。そして「結果は高い利子率。非常に広範な商業上の支払不能(insolvency)。イングランド銀行の側での,その立場の新しさからの臆病な行動。最後に,当時は公衆がその諸原理を充分には理解していなかった[1844年銀行]法の働きについての憂慮によって惹起された公衆の側での無知によるパニック」(第4189号A),であったのである。〉 (前掲205-206頁)

  1847年の穀物危機のために大量の穀物の輸入が行われ、そのために大量の地金が流出したのであるが、その地金について、オウヴァストンが〈実のところは資本だった〉と述べていることころにマルクスは注目して下線を引いている。この海外に流出した地金は、アメリカ等から穀物を買い入れるために支払われた貨幣であり、購買手段だったのであるが、それは当然、輸入業者にとっては彼らの貨幣資本(Geld capital)であることは確かである。しかしそのことは、今問題になっている逼迫期に需要されるmonied capitalという意味での貨幣資本とは決して同じではないのである。マルクスがこの言葉に注目をしたのは、少なくともここではオウヴァストンはイングランド銀行に保有されている地金を「資本」と認めているからであろう。その前には(【38】第3753号)、彼はイングランド銀行の保有する地金について〈イングランド銀行は資本の保管deposit of capital〕のための場所ではありません。それは貨幣の保管deposit of money〕のための場所なのです〉と答えていたのである。つまりそれがここではまったく逆のことを述べていることになる。だからマルクスは〈実のところは資本だった〉と述べていることころに注目して下線を引いたのではないだろうか。】


【50】

 [485]第3841号。「割引率の変動は疑いもなく準備高の状態と非常に密接な関係があります。なぜならば,準備高の状態は国内にある貨幣量の増減の指標だからです。そして,国内にある貨幣が増加または減少するのに比例して,その貨幣の価値は増加または減少し,また〔イングランド〕銀行割引率はそれに従うでしょう。」

  ①〔訂正〕「割引率」--草稿では,「準備率」と書かれている。〉 (265頁)

 【これもオウヴァストンの答弁であるが、このあたりの質問と答弁について、小林氏は次のように紹介しているので、まずそれを抜粋しておこう。

  〈オーヴァーストーンに対する質問--「イングランド銀行による割引率の変化は,常に[銀行部]準備の状態(the state of the reserve)に,多かれ少なかれ,従うのですか」(第3841号Q)--に対して,彼は次のように答える。「割引率の変化は,疑いもなく,[銀行部]準備の状態(the state of the reserve)と非常に密接な(close)関係を持っています。なぜなら,[銀行部]準備の状態(the state of the reserve)はわが国における貨幣量の増減の指標だからです。そしてわが国における貨幣が増減するのに比例して,その貨幣の価値は増減し,そして割引のイングランド銀行率(the bank rate of discount)がその変化に一致するでしょう」(第3841号A),と。そこで彼は続いて,「[銀行部]準備の状態(the state of the reserve)は,発券部の地金の状態に多かれ少なかれ追随するのですか」(第3842号Q),と質問される。そしてオーヴァーストーンの答えは,「それらの間には密接な(intimate)関係があります」(第3842号A)というものである。〉 (前掲253-254頁)

   つまりここでは、オウヴァストンはとうとう割引率(利子率)の変動は、疑いもなく銀行部の準備高だけでなく、発券部の地金の状態とも密接な関係があると認めている。第3732号(【23】)では、具体的数値を上げて、地金の保有額が約900万か1000万ポンドだったときは、利子率は6%か7%、1600万ポンドの時には3%から4%だったと指摘されても、〈私はそのようには理解していません〉と答えていたのであった。第3748号(【34】)では、割引率は一般にイングランド銀行の地金の貯蔵の状態といっしょに変動するかと聞かれた時は、〈はい〉といいながらも、〈しかし、一国の貨幣の量の変動から生じる利子率の変動はごくわずかです〉などと言っていたのである。さらには第3755号(【40】)では、割引率とイングランド銀行にある地金の量とのあいだには何の関連もないと思うのか、との問いには、〈関連はあるかもしれませんが,それは原則上の関連ではありません〉などと答えていたのである。それが今回は〈非常に密接な関係があります〉と答えている。
   そしてその理由として〈準備高の状態は国内にある貨幣量の増減の指標だからです〉と述べている(なお小林氏の紹介している一文では、〈準備の状態(the state of the reserve)〉に〈[銀行部]〉という補足説明がついているが、これは小林氏によるものである)。こうした主張は、第3805号(【47】)で〈国内の貨幣が流出によって減らされれば,それの価値は増加する〉と説明していたように、リカード的な貨幣数量説に基づいている。しかしその前には、すでに見たように、われわれのパラグラフナンバーでは【46】でマルクスも指摘していたように、〈〔イングランド銀行の〕地金の額(または貨幣の量)〔の変化〕の結果としての割引率の変化は,ただ同時に生じているだけであって,本質的な関連があるわけではない〉とも言っていたのである。それが今では、本質的な関係がある、とリカードの誤った貨幣論にもとづいて論じ始めているというわけである。
  すなわち〈国内にある貨幣が増加または減少するのに比例して,その貨幣の価値は増加または減少し,また〔イングランド〕銀行割引率はそれに従うでしょう〉という。しかし第1に、国内にある貨幣とイングランド銀行に保有されている準備金とはまったく違った問題である。リカードが問題にしているのは流通手段として流通している貨幣は、金の国際的な移動にもとづいて、その価値が変動するというものであった。第2に、リカードの場合は、文字どおり金そのものが減価したり増価したりするという主張であるが、オウヴァストンが言っている「貨幣の価値の増価」というのは、monied capitalという意味での貨幣資本の価値、つまり利子率のことである。これはまったく別の話なのである。要するに、準備金の変動と利子率の変動との密接な関連を認めるのはいいが、それをまったく間違った理屈をもってやっているのであり、相変わらず、彼が「貨幣の価値」という場合にそれがmonied capitalだということを曖昧にしたまま、それを認めることを避けているのである。】


【51】

 第3842号。「両者」(地金の状態と準備高の状態と)「のあいだには密接な関連があります。〔」〕(ここでは彼は,利子率の変化を「貨幣の量」の変動から説明している。しかしながら,彼はうそをついている。なぜなら,国内の貨幣が増加することから準備高が減少する,ということがありうるからである。これは,公衆の手にある銀行券が増加し,かつ地金が減少しない場合である。しかしその場合には利子が上がる。なぜならば,その場合,イングランド銀行の銀行業資本〔banking Capita1〕は②③1844年の〔銀行〕法によって制限されているのだからである。彼はこのことを口にする必要がない。というのも,勘定の変化を通じて二つの部に共通するところはほとんどなにもないからである。たとえば,

1856年5月10日
    公衆保有銀行券    19,943,000  | 貨幣Money〕   29,722,OOO
    準備                     3,691,000  | 銀行券(準備外の)および地金
    地金                     9,779,000 |                       
   1856年10月11日--この日,利子は5%から6および7%に上昇した(最低〔割引率〕が引き上げられた)。

   公衆保有銀行券     20,543,000  | 貨幣Money〕   30,683,000
   準備                      3,521,000 |                        
   地金         10,140,000 |
                                                                                                                              〔)〕

  ①〔異文〕「の変動」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「1844年の〔銀行〕法」← 「新たな法」
  ③〔注解〕「1844年の〔銀行〕法」--本書本巻181ページの注解注③を見よ。
  ④〔異文〕「1856年」--書き加えられている。〉 (265-266頁)

 〈このパラグラフはオウヴァストンの〈両者のあいだには密接な関連があります〉という答弁の〈両者〉にマルクス自身の挿入文として〈地金の状態と準備高の状態と〉入れ、そのあと(  )に入れてマルクスの批判文が続いています。だからとりあえず、書き下し文を書いておきます。

  「両者」(発券部の地金の状態と銀行部の準備高の状態と)「のあいだには密接な関連があります。」(ここでは彼は,利子率の変化を「貨幣の量」の変動から説明しています。つまり地金が国外へ流出して貨幣の量が減れば、貨幣の価値が増加するので、それを「専門用語では」、利子率を引き上げると表現するのだというのですが、しかし,彼はうそをついています。なぜなら,地金が流出しなくても、国内で流通する貨幣の量が増加することから準備高が減少する,ということもありうるからです。これは,公衆の手にある銀行券が増加するということであり、そのときには地金が減少しなくても、利子率が上がります。なぜならば,その場合,イングランド銀行の銀行業資本〔banking Capita1〕、つまり銀行部の営業のための利子生み資本が、1844年の銀行法によって制限されているからです。地金が減少せずにそのままということは、発券部の銀行券の発行高は変わらないということです。そうなるとその発券量のうち国内で流通する貨幣の量が増えるなら、銀行部の準備がそれだけ減ることを意味します。そして銀行部の準備の減少は、それだけ利子率を引き上げることになるからです。しかし彼はこのことを理解していないし、それを口にする必要がありません。というのも,表面上、勘定の変化を通じて発券部と銀行部という二つの部に共通するところはほとんどなにもないように見えるからです。たとえば,次の二つの時期のそれぞれの数値を比較すればそれが分かります。〉

  【ここではオウヴァストンが〈両者〉と述べているところに、マルクスは〈地金の状態と準備高の状態と〉という説明を加えている。この部分をエンゲルスは編集の段階で〈発券部にある金の量と銀行部にある銀行券の準備の量との〉と書き換えています。これはマルクスの意図を正しく伝える適切な書き換えだと思える。
   マルクスはオウヴァストンが利子率の変化を「貨幣の量」の変動から説明しているが、それはうそであると指摘している。オウヴァストンの主張というのは、地金が流出すると国内の貨幣の量が減少し、それだけ貨幣の価値が増加するので、利子率も高くなるのだということであった。しかしこれは「うそ」だとマルクスはいうのである。というのは、地金の流出が起こらなくても、流通する貨幣の量が増加することによって、その分だけ準備高が減少し、その結果、利子率が高くなるということがありうるからだというのである。そしてこれは公衆の手にある銀行券が増加し、そして地金が減少しないなら、銀行券の発行高が変わらないのだから、銀行部の準備として残る銀行券は減ることになり、だから利子率は上がるのだということである。これは1844年の銀行法によって、銀行券の発行高が制限されているからである。
   しかしオウヴァストンはこうした事実を口にはしないのである。というのは、発券部の準備金(地金)と銀行部の準備とには一見すると関連がないように見えるからだというのである。そしてマルクスは先の一覧表から1856年5月10日と1856年10月11日の数値を例として上げている。これを見ると、5月10日の銀行部の準備3,691,000ポンド・スターリング、発券部の地金9,779,000ポンド・スターリング、10月11日の銀行部の準備3,521,000ポンド・スターリング、発券部の地金10,140,000ポンド・スターリングとなっている。つまり発券部の地金が少ないときには、銀行部の準備はすくなく、発券部の地金が多いときは、銀行部の準備が多いとは必ずしもこれではいえないのである。10月11日は5月10日に比べて、発券部の地金は361,000ポンド・スターリングも増加しているのに、銀行部の準備は170,000ポンド・スターリングも少なくなっているからである。だからそのために利子率が引き上げられている。確かにオウヴァストンがいうように、発券部の地金が少ないときは、貨幣(money)は少なく、多いときは多くなっている。しかしオウヴァストンは貨幣の量が減れば、その価値が増加し、よってそれが利子率に反映して高くなるとういうのだが、10月11日の事実は、まったくそのようにはなっていない。なぜなら、地金準備は5月10日より減っている、だから貨幣の量は減っているかというとむしろ増加しており、だからオウヴァストンの説にもとづけば、貨幣の量が増えているのだから、貨幣の価値は減って、よって利子率も下がっているかというと、事実はまったくその逆だからである。5月10日は地金は9,779,000ポンド・スターリングで貨幣(money)は29,722,000ポンド・スターリングであり、10月11日の地金は10,140,000ポンド・スターリングであるので、確かに貨幣(money)はやはり30,683、000ポンド・スターリングと増加しているのであるが、では利子率は下がっているかというと反対に上がっているのだからである。
   こうした発券部の銀行券の発行量の増減と銀行部の準備高の増減とそして利子率との増減との関連については、マルクスはエンゲルス版では第33章該当部分で取り上げているので、それを少し先取りして紹介しておこう。次の一文はチャプマンの証言に関連して書いているマルクスの一文である(但し大谷氏は〈Circulation〉をほとんど〈流通〉と訳しているが、しかし「通貨」と訳すべきところもあり、そのようなところは修正してある)。

  {けっして忘れてならないのは,名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっているが,これらの銀行券のうち現実に流通している部分と,運用されずに準備として銀行業者のもとにとどまっている部分との割合は絶えず,また大きく変動しているということである。後者の準備〔の部分〕が大きいときに(だからまさに通貨が少ない〔low〕ときに),貨幣市場の立場からすると,通貨〔Circulation〕は潤沢〔full〕なのであり,この準備が小さい〔small〕ときに(だから通貨〔Circulation〕が潤沢〔full〕なときに),〔貨幣市場の立場からすると〕通貨は,すなわち遊休している貨幣資本〔unemployed money capital〕という存在形態にある部分は,少ない〔low〕のである。通貨〔Circulation〕の,事業の状態にはかかわりのない{したがって公衆の必要とする額が同じままでの}現実の膨張または収縮は,ただ技術的な諸原因から生じるだけである。たとえば,租税支払いの期日には銀行券(と鋳貨)が普通の程度を越えてイングランド銀行に流れ込んで,事実上通貨〔Circulation〕を,それの必要にはおかまいなしに収縮させる。国債の利子が払い出されるときにはその逆になる。前者の場合,通貨〔Circulation〕のためにイングランド銀行からの貸付〔loans〕が行なわれる。後者の場合,個人銀行業者のもとでは,彼らの準備が一時的に増えるので利子率が下がる。これは通貨〔Circulation〕の絶対量とはなんの関係もないことであって,ただ,それを発行する当事者に関係があるだけである。そしてこれらの銀行業者にとってはそれが貸付可能な資本〔loanable capital〕の発行として現われるのであり,だから彼はこの発行〔issue〕のもたらす利潤をポケットに入れるのである。

  ①〔訂正〕「}」--手稿では欠けている。〉 (大谷新本第4巻110-111頁)

  そしてこの部分に対する私の解説もノートから紹介しておこう。

  〈ここで〈名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっている〉とあるが、イングランド銀行の発券は1844年の条例によって1400万ポンドまでは有価証券を担保に発行され、それ以上は地金の保有高に連動して発行されることになっている。マルクスは具体的な例として地金が1000万ポンドとして発行高を2400万ポンドと計算しているケースもあるが、このうち公衆が必要とするものとしてここでは〈1900万から2000万ポンド〉が指摘されている。とするなら残りの400万から500万はイングランド銀行の銀行部の準備となっているわけである。つまりここで言われている〈公衆の手〉というのは、イングランド銀行の外にある地方銀行や個人銀行そして文字どおりの公衆、つまり資本家や労働者や業者等々の手の中にあるということである。そしてここで問題になっているのはこのイングランド銀行の外に出ている銀行券のうち一部は地方や個人の銀行の準備としてあり、他方は実際に流通しているとマルクスは想定しているわけである。ここでマルクスが貨幣市場と述べているのはいうまでもなく、貨幣の貸し借りの市場であり、ここではもっぱら地方銀行から再生産資本家たちへの貸し付けである。その場合の貨幣の逼迫状況がそれぞれの銀行の準備金の状況によって規定されているが、その準備は現実の商品市場における銀行券(通貨)の流通高によって常に増減していると指摘しているわけである。そして通貨の増減は、公衆の必要に応じて増減するのだが、一部はただ技術的な理由で増減するとして、その例として一つは租税支払の期日にはそのための通貨の必要量が増大すること、もう一つは国債の利子支払がされるときには通貨が公衆の必要がないのに(つまり社会的物質代謝の状況とは無関係に)、公衆の持つ通貨が増えることが指摘されている。
 租税支払の場合は通貨はイングランド銀行に流れ込むことになる。だからその場合は恐らく公衆の手にあるという1900万から2000万の全体額が減少しているときであろう。商品市場における通貨の流通高には変化がないのだから、この場合は地方銀行等の準備を逼迫させるであろう。だから利子率が上昇する。他方で国債利子支払の場合はその逆であって、公衆に出回っている1900万から2000万の銀行券そのものが増加してそれ以上になる場合である。この場合も商品市場における通貨の流通量には何の変化もないとすれば、今度は地方銀行等の準備は潤沢になるわけである。だから利子率は低下するというわけであるが、マルクスは貸付可能な貨幣資本の増大になるのであり、彼らの利潤を増やすのだと指摘している。〉

   このように先の表で示されている〈公衆保有銀行券〉〈準備〉〈地金〉〈貨幣Money〉には、次のような関連があるのである。すなわち発券部の〈地金〉の量は、発行されるイングランド銀行券の総量を規制している(これは1844年の銀行法による)、そしてそのうち〈公衆保有銀行券〉というのは、イングランド銀行の外に出ている銀行券のことであり、その内容としては、一つは実際に流通過程で諸商品の売買を媒介して流通しているものがあり、もう一つは地方銀行や個人銀行の準備として存在している部分がある(それ以外にも個人的に退蔵されている部分もある)。このうち実際に流通過程で流通を媒介している銀行券は、商品市場の現実に規定されているものであり、よってそれは独立変数であって、イングランド銀行といえども恣意的に左右できるような性格のものではない。そしてその増減に応じて、地方銀行や個人銀行、そしてイングランド銀行の銀行部の〈準備〉、つまり全体として利子率を規定する準備金の増減が生じているとマルクスは指摘しているのである。しかしこうした関係はオウヴァストンにはまったく理解されていないのはいうまでもない。

 ついでにこの部分を解説している小林氏の説明も紹介しておこう。これは先に(【50】で】紹介した一文に続くものである。

  〈マルクスは,これらの質疑・応答のうちの,オーヴァーストーンの答弁だけを引用しているので,第3842号Aにおける「それら」に,括弧(   )に入れて「地金の状態と[銀行部]準備の状態」という説明句を補足し,その後に,再び括弧(   )に入れた次の長いコメントを付していく。
 即ち,「ここで彼[オーヴァーストーン]は利子率における変化(change)を『貨幣の量』の変動(Wechsel)から説明している。その場合,彼はでたらめを言っている。なぜなら(weil),わが国における貨幣が増加しているから(weil),[銀行部]準備(die Reserve)は減少し得るが故にである。これは,公衆がより多くの銀行券を持ち,そして地金が減少しない場合である。しかしその場合には,イングランド銀行の銀行営業資本(das banking capital)が1844年銀行法に従って制限される故に,利子[率]は上昇する。[イングランド銀行の]諸勘定の変更によって,2つの部局は殆ど何も共有しないのであるから,彼はこのことについては語るべきではない。例えば,1856年5月10日に公衆の手にある銀行券は19,943,000[ポンド]。[銀行部]準備は3,691,000[ポンド]。地金は9,779,000[ポンド]。貨幣29,722,000[ポンド]。銀行券([銀行部]準備を除く)と地金。/1856年10月11日,その時利子[率]は5[%]から6および7%(最低限が引き上げられた)。公衆の手にある銀行券は20,543,000[ポンド],[銀行部]準備は3,521,000[ポンド]。地金。10,140,000[ポンド]。貨幣30,683,000[ポンド]」16),と。〉 (254頁)】


【52】

 第3859号。「高い利潤率はいつでも資本にたいする大きな需要を生みだすでしょう。資本にたいする大きな需要は資本の価値を高くするでしょう。」ここでようやく,「高い利潤率」と「資本にたいする需要」とのあいだの関連がわかった。ところで,①たとえば1844-45年には綿工業では利潤率が高かったが,それは,綿花が廉価であって,その価格が上がらなかったからである。つまり,資本(そして前に出てきた陳述によれば,資本とは,各人が自分の事業で必要とするもののことである)の価値,すなわち綿花の価値は,紡績業者にとっては高くならなかった。さらに,綿花取引での利潤は製造業者に自分の事業の拡張のために貨幣を借り入れるきっかけを与えたかもしれない。それゆえ,増大した彼の需要は「monied capital」にたいするものだったのであり,それ以外のなにものでもなかったのである。

  ①〔異文〕「たとえば」--書き加えられている。〉 (266-267頁)

 〈このパラグラフはオウヴァストンの証言は短いが、マルクスのそれに対するコメントは比較的長いものになっているので、証言部分はそのままにマルクスの批判文を書き下しておこう。

  高い利潤率はいつでも資本にたいする大きな需要を生みだすでしょう。資本にたいする大きな需要は資本の価値を高くするでしょう。」
  ここでようやく,「高い利潤率」と「資本にたいする需要」とのあいだの関連がわかったことになります。しかし,たとえば1844-45年の繁栄期には綿工業では利潤率が高かったのですが,それは,綿花が廉価であって,その価格が上がらなかったからです。つまり,資本の価値,すなわち綿花の価値は,紡績業者にとっては高くならなかったのです。そして前に出てきたオウヴァストンの陳述によれば,資本とは,各人が自分の事業で必要とする商品のことでした。さらにいえば,綿花取引での利潤率が高いということは、製造業者に自分の事業の拡張のために貨幣を借り入れるきっかけを与えたかもしれません。しかしその場合の、増大した彼の需要というのは、「monied capital」にたいするものだったのであって,決してそれ以外のなにものでもなかったのです。〉

 【今回のオウヴァストンの証言によって、ようやく彼が利子率の上昇は、高い利潤率から生じると主張していたことの意味がハッキリしてきたとマルクスは指摘している。つまり高い利潤率は資本にたいする大きな需要を生み出し、資本にたいする大きな需要は資本の価値(つまりmonied capitalの価値)、ということはすなわち利子率を高めるというのである。だから彼が「資本の価値」を高めるといい、利潤率の上昇は、「資本の価値」が高いからだ、などというときの「資本」というのはmonied capital以外の何ものでもないということがハッキリしたということである。
  マルクスは利潤率が高かった、1844-45年の繁栄期の綿工業の例を上げている。当時の綿工業の利潤率が高かったことは、例えば川上忠雄は「年利潤率15%」という数字を上げている(『1847年恐慌』22頁)。それは綿花の価値が豊作で廉価だったからだとマルクスは指摘している。そして確かに当時は中国市場への綿製品の輸出が刺激ともなって新規投資も行われたのだが、しかし製造業者が資本の拡張のために必要としたのは、monied capitalに対する需要なのであって、だからオウヴァストンが〈資本にたいする大きな需要を生みだす〉とか〈資本にたいする大きな需要は資本の価値を高くする〉と述べている場合の〈資本〉というのはmonied capital以外の何ものでないのだとマルクスはいうのである。だから彼が利子率が高いのは、「資本の価値」が高いからだ、という場合、結局、利子率が高いのは、monied capitalの価値が高いからだ、ということに帰着し、それは結局は、利子率が高いのは利子率が高いからだ、ということになるのであって、だから彼はただ同義反復を繰り返しているだけなのだというのがマルクスの批判である。】

  (続く)

2020年11月18日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-8)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


§ 各パラグラフごとの解読(続き)


【41】

 第3758号。〔ケイリ〕では,閣下は,逼迫〔pressure〕の状態のもとでは割引率が高いためにこの国の商人がおちいる困難は,資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしいのでしょうか?--あなたは二つのものをいっしょにしていますが,私はそれをそういうかたちでいっしょにしているのではありません。彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた,貨幣を手に入れることにもあるのです。……貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです。」ここで魚はまたもや動きがとれない。第1の困難は,手形を割引させること(または有価証券担保の前貸を受けること)である。それは,資本を,または資本の商業的代理物を,貨幣に転換する〔convert〕ことの困難である。そして,この困難は,ほかの困難を度外視すれば,高い利子率に表現される。しかし,貨幣を受け取ってしまえば,第2の困難はどこにあるのか? 支払いだけが問題ならば,貨幣を支払うことにどんな困難が[494]あるだろうか? また,買うことが問題ならば,そのような逼迫の時期に買うことになにか困難があったなどということを聞いた人があるだろうか? それに,かりにこれが穀物,綿花,等々が騰貴している特別な場合のことだと仮定すれば,この困難は,「貨幣の価値」に,すなわち利子に現われるのではなく,ただ商品の価格に現われることができるだけのはずである。しかしこのような困難ならば,彼がいまでは商品を買うための貨幣をもっているということによって,克服されているではないか。〉 (255-256頁)

 〈ここでは報告からの抜粋のあと、マルクスの批判文が続く形になっているのて、報告からの抜粋はそのままにして、マルクスの批判文だけを書き下しておこう。

 〔質問者・ケイリ〕 では,閣下は,逼迫〔pressure〕の状態のもとでは割引率が高いためにこの国の商人がおちいる困難は,資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしいのでしょうか?
 〔回答者・オウヴァストン〕 あなたは二つのものをいっしょにしていますが,私はそれをそういうかたちでいっしょにしているのではありません。彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた,貨幣を手に入れることにもあるのです。……貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです。」

 ここであれこれと言い抜けに巧みな魚(オウヴァストン)はまたもや動きがとれないでいます。逼迫期の第1の困難は,手形を割引させること(または有価証券担保の前貸を受けること)です。それは,商人たち(つまり現実の資本家たち)が、彼らの資本を,または彼らの資本の商業的代理物(つまり手形等)を,貨幣に転換する〔convert〕ことの困難です。そして,この困難は,ほかの困難を度外視すれば,高い利子率に表現されています。しかし,貨幣を受け取ってしまえば,第2の困難などというものはどこにあるのでしょうか? もし支払いだけが問題ならば,貨幣を支払うことにどんな困難があるのでしょうか? また,もし彼らが入手した貨幣で商品を買うことが問題であるなら,そのような逼迫の時期に、商品を買うことになにか困難があったなどということを聞いた人があるでしょうか? それに,かりにこれが穀物,綿花,等々が騰貴している特別な場合のことだと仮定するとしても,その場合の困難は,「貨幣の価値」に,つまり高い利子率に現われるのではなく,ただ商品の高い価格に現われることができるだけのはずではないでしょうか。いずれにせよこんな困難ならば,彼がいまでは商品を買うための貨幣をもっているということによって,すでに克服されているのではないでしょうか。要するに「困難」は、追い詰められて身動きがとれないオウヴァストン自身にあるのではないでしょうか。〉

 【ケイリの質問は、第3743号(【29】)で逼迫期に商業界が必要とするのは〈資本を手に入れることですか,それとも法貨を手に入れることですか?〉と問い、それにオウヴァストンが〈彼らの目的は,自分の事業を続けていくために資本にたいする支配権を手に入れることです〉と答えたことを踏まえたものである。つまり逼迫の状態のもとで割引率が高いために商人たちが陥る困難は、〈資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしい〉かと再確認しているのである。しかし逼迫期に商人たちが必要としているのは、〈貨幣を手に入れることにある〉のは誰でも知っていることである。資本家たちは、逼迫期には信用が欠乏しているために、自分の事業を続ける必要から、また商品の投げ売りを避けるために、支払手段である現金(金・地金・法貨としてのイングランド銀行券)を必要として、銀行にその貸付(手形割引等)を要求してくるのである。ケイリの質問の意図は、恐らく1857年の恐慌時の貨幣パニックは法貨であるイングランド銀行券への貸付要求が、高い利子率で困難になったことによるものであり、それはオウヴァストンらが主導した1844年の銀行法がイングランド銀行の発券高を地金に連動させて制限したからではないのか、という疑問である。つまり地金が流出して、イングランド銀行の発券部が保有する地金が減少したために、発券がそれだけ制限されたのだが、しかしまさに地金の流出は、信用の動揺を表しており、誰もが支払いのための現金を要求する時期でもあるのである。にも関わらず銀行法は、その肝心な時に銀行券の発行を制限するように作用したのであり、その結果、銀行部の準備を涸渇させ、利子率の高騰を招き、パニックを一層激化させたのではないのか、という疑惑である。だからまた銀行法の制定に理論的裏付けを与えたオウヴァストンらにとっては、それを否定したいわけである。だから彼は逼迫期に商人たちが手形割引で必要としたのは、貨幣か、資本か、という問いに、資本だと答えるしかないわけであるが、ここでは進退窮まって、両方でもあるなどという曖昧な回答で逃げようとしているわけである。
 しかしマルクスは,オウヴァストンが、〈彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた,貨幣を手に入れることにもあるのです〉と言い、〈貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです〉と答えていることに対して、〈ここで魚はまたもや動きがとれない〉と揶揄している。そして困難は明らかに,高い利子率のために、手形割引や担保貸付で貨幣を入手することにあるのであって、貨幣を入手してしまえば、何の困難があろうか、と批判しているわけである。〈同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです〉というオウヴァストンの答弁は、ただ進退窮まっていい加減な回答で誤魔化しているだけだと喝破しているわけである。】


【42】

 〈〔「〕第3760号。〔ケイリ〕しかし,割引率が高くなるということは,貨幣を手に入れることの困難が増すことでしょう?--それは貨幣を手に入れることの困難が増すことですが,しかしそれは,貨幣をもちたいと思うからではありません。〔」〕(それはまさに,だれかが自分の商品を売るのは,貨幣をもてあそびたいからではないのと同様である。なんという英知か!)〔「〕それはただ,資本を手に入れる困難の増大〔」〕{これが商業的な借金〔d.commercielle Pump〕の困難が増大したということを意味している場合でさえ,この困難の増大は,ただ貨幣または信用資本にたいする需要の増大であるにすぎない。}〔「〕が,洗練されたcivilised状態の複雑な諸関係に従って現われてくるときの形態〔」〕{そしてこの形態が銀行業者のポケットのなかにはいっていくのである。}〔「〕にすぎません。〔」〕(!)(たわごと!)

  ①〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。〉 (256-257頁)

  【このパラグラフもマルクスの挿入文はあるが、全体として書き下し文は省略したい。
  質問者・ケイリは、のらりくらりとしたオウヴァストンの答弁に業を煮やして、割引率が高ければ、貨幣の入手が困難になることではないのか、と問い詰めている。それに対して、オウヴァストンは、確かに割引率が高くなれば貨幣を手に入れることの困難が増すが、それは貨幣をもちたいと思うからでない、などという苦しい答弁をしている。確かに貨幣の入手を願う人たちは、別に貨幣を持ちたいからそうしているのではなく、支払手段を入手したいからである。この巧妙な回答に、マルクスは〈なんという英知か〉と呆れている。それは商品を売るのは、貨幣を弄びたいからではないと言うのと同じだと述べ、こんな当たり前のことを言って、問題を誤魔化している、そのやり方に呆れているわけである。そればかりかオウヴァストンは〈それはただ,資本を手に入れる困難の増大が,洗練されたcivilised状態の複雑な諸関係に従って現われてくるときの形態にすぎません〉と答えている。変に理屈っぽく衒学的な回答で誤魔化そうしているのであるが、要するに貨幣を手に入れる困難というのは、資本を手に入れる困難の洗練された状態の複雑な関係に従って現れてくるときの形態だなどというわけの分からないことを主張しているだけである。しかもこの「資本」なるものがすべての商品総体を指しているというのだから、商品を手に入れることの困難の洗練された形態が貨幣を手に入れることの困難として現れているのだ、ということになる。しかしこんなことは逼迫期の問題とはおよそかけ離れた問題でしかない。逼迫期に商品を手に入れることが困難だなどいうことはありえない。なぜなら、みんなが商品の過剰に苦しんでいる時であるからである。問題は切迫する支払に必要な支払手段、すなわち商品に対立する貨幣としての貨幣、つまり価値の絶対的な化身としての現金(地金、法貨としてのイングランド銀行券)なのである。
  これに対して、マルクスはこれは〈たわごと〉だと言い放ち、オウヴァストンのいう〈資本を手に入れる困難の増大〉というものが、例え〈これが商業的な借金〔d.commercielle Pump〕の困難が増大したということを意味している場合でさえ,この困難の増大は,ただ貨幣または信用資本にたいする需要の増大であるにすぎない〉と指摘している。つまり例えオウヴァストンのいう〈資本を手に入れる困難の増大〉というものが、商人たちが当面の諸支払いを迫られていることを意味していると理解しても、しかしその場合に必要なのは、商品総体などではなく、〈ただ貨幣または信用資本にたいする需要の増大であるにすぎない〉と指摘しているのである。

  ところで、ここでマルクスは〈貨幣または信用資本〉と述べているのであるが、〈貨幣〉は分かるとしても〈信用資本〉とは何であろうか? これについて若干長くなるが少し論じておきたい。大谷氏は新本第2巻でこの問題を論じている。
  まず大谷氏は次のマルクスの一文を紹介する。

  〈「信用システムが,小生産様式を大規模な生産様式に転化させることをどのように助けるかについては,ロンドンの家屋建築業を見よ。銀行法報告。1857年。507,508および509ページ。/貸付可能な資本の量は,それ自身の量だけでなく,信用の状態にかかっている。信用の状態が悪いときには,産業家が自分で借りるのはわずかである。第2に,頓馬ども〔Ese1〕のうちの,銀行業者のmonied capitalを形成している部分は臆病になり,どんな条件であろうと「貸し付ける」ことをしようとしない。/架空資本〔d.fictive Capilal〕(利子生み証券)と,銀行券,銀行業者手形bankers drafts〕,等々によって形成されている信用資本Creditcapital〕{つまりこの場合,だれかさんが〔自分が受けた〕信用を,自分自身でまた,自分が売りつける商品に仕立てあげるわけである}とを区別しなければならない。」(MEGA II/4.2,S.606-607:本書第4巻125-126ページ。)〉 (第2巻73頁、下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による傍点による強調)。

  ここで〈つまりこの場合,だれかさんが〔自分が受けた〕信用を,自分自身でまた,自分が売りつける商品に仕立てあげるわけである〉と書いている部分に〈〔自分が受けた〕〉と付け加えているのは大谷氏であるが、これはまったく不要なものである。これは問題をむしろ混乱させるだけの要らざる補足である。いずれにせよ、これを受けて、大谷氏は「信用資本」について次のように説明している。
 
  〈ここで「信用資本」と言われているのは,銀行業者が自己の債務すなわち他人資本=銀行業資本(banking capita1)を貸し付けている場合であるが,すでにみたように,これもある視角からは無準備の部分は「架空」であるにもかかわらず,ここではそれと,利子生み証券の形態で存在する銀行業者の資本とを区別しなければならないとし,後者を「架空資本」として前者に対比しているのである。〉(73-74頁)

  これもまったく間違った理解である。そもそも大谷氏は第25章該当個所の草稿でマルクスが次のように述べていることを正しく理解していなかった。

  〈ところで,銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる。……〉 (177頁)

  これについて大谷氏は次のように説明していたのである。

 〈「銀行業者が信用を与える」というのは,銀行業者がなんらかの形態である貨幣額を貸し付けて,銀行業者が債権者となり,借り手がこの銀行業者にたいする債務者となるということを意味する。つまり,いわゆる「銀行信用」である。いわゆる「銀行信用」は,銀行が与えるからそう呼ばれるのであって,銀行が受けるからではない。ここではそのような「銀行信用」がどのような形態で与えられるか,ということが問題となっているわけである。〉 (113頁)

  しかしこれはこの部分の解読の時にも批判したが、まったく間違った理解に立っているのである。大谷氏の説明だと、「銀行業者が与える信用」というのは、銀行の「貸付」と同じことになる。しかしマルクスは、「貸付」と区別して、「銀行業者が与える信用」について述べているのであり、大谷氏の説明だとマルクスがこうした区別をしていることについてまったく理解していないことになるのである。
  マルクスは「貸付」の諸形態として(1)手形割引、(2)さまざまな形態での前貸し、(3)当座貸越の三つを上げて説明したあと、「銀行業者が与える信用」の諸形態として、銀行業者手形、銀行信用、小切手、銀行券等を挙げているのである。
  それでは「貸付」と「銀行業者が与える信用」とにはどういう違いがあるのであろうか。「貸付」というのは、何らかの形で銀行に流入してきた(マルクスはそれは二様の仕方で銀行に流れ込むと説明している)貸付可能な貨幣資本を貸し付けることである。つまり銀行は手元にある貨幣を利子生み資本として貸し付けることである。それに対して、「銀行業者が与える信用」というのは、銀行が自身の信用だけにもとづいて何らかの形態で貸し付けることなのである。つまりその場合は銀行の手元には貸付可能な貨幣があるわけではない、にも関わらず銀行は何の元手もなしに、ただ自身の信用だけによってさまざまな貸付可能な形態を創造して、貸付を行うのである。だからそれは文字通り銀行の信用を与える(貸し付ける)ことを意味するのである。それをマルクスはここでは「信用資本」と述べているのである。
  実際、大谷氏が紹介している一文でも、マルクスは〈架空資本〔d.fictive Capilal〕(利子生み証券)と,銀行券,銀行業者手形bankers drafts〕,等々によって形成されている信用資本Creditcapital〕とを区別しなければならない〉と述べている。つまり架空資本と区別されるべき信用資本として銀行券や銀行業者手形を挙げているが、これらは先に見た「銀行業者が与える信用」の諸形態としてマルクスが述べていたものであることが分かる。またマルクスは信用資本を説明して、〈つまりこの場合,だれかさんが信用を,自分自身でまた,自分が売りつける商品に仕立てあげるわけである〉と述べている。要するに銀行は、信用を創造して銀行券や銀行業者手形や小切手等々によって貸し付けるということである。
  だからマルクスがこのパラグラフで〈ただ貨幣または信用資本にたいする需要の増大であるにすぎない〉という場合の〈信用資本〉というのは、銀行券、特に法貨であるイングランド銀行券のことを指しているのである。】


【43】

 〈〔「〕第3763号。銀行業者は,一方では預金を受け入れ,他方では||325a|この預金を資本の形態で……人びとの手に任せることによってそれを充用する仲介者です。」〉 (257頁)

 【これはオウヴァストンの答弁であるが、どういう質問に答えたものかは分からない。しかしこの答弁の抜粋は、次のパラグラフでマルクスがこの答弁に言及するために抜粋したものと考えることができる。
 ここでは、オウヴァストンは、銀行業者の業務とは何かを説明して、それは一方で預金を受け入れ、他方でそれを資本の形態で貸し出し、それらが充用されるように媒介することだと述べている。これはこの限りではまったく正当であるが、しかしこのことによって彼が資本と言っているのは利子生み資本(monied capital)以外のなにものでもないことが暴露されているわけである。それは次のパラグラフの一文で指摘されている。

  実はこの証言は、すでに〈第25章および第26章の冒頭部分の草稿〉のなかでマルクスは一度原注として紹介している。われわれのパラグラフ番号では【26】である。それは次のようなものであった。

  〈[474]/319下/(2)【MEGA II/4.2,S.47413-17】〔原注〕1)ロイド。「銀行業者は,一方で預金を受け入れ,〔他方では〕これらの預金を資本の形態で彼ら〔資本を欲する活動的で精力的な人びと〕の手に任せることによって〔それらを〕充用する仲介者です。」(第3763号。ロイド(オウヴァストン)の答弁。議会〔銀行法特別委員会〕報告,1857年。) (183頁)

  こうして比べてみると下線で強調しているところが若干違っているが、当然のことではあるが、後者の大谷氏の補足説明の部分を除くとほぼ同じものになっている。】


【44】

 ここでようやく,彼が資本ということでなにを考えているかがわかった。彼は「貨幣を任せる」ことによって貨幣を資本に転化させるのであるが,これは,利子を取って貸し出すことの碗曲な表現なのである。417)/

  417)草稿では,325aページのこれ以下の部分に,「イングランド銀行の割引率。地金。銀行券。」というタイトルの表が書かれており,それはさらに325bページにまで続いている。本書ではそれぞれ向かい合った258-259,260-261,262-263ページに収める。この表の前の本文に続く本文は,325bページの表の下に書かれている。なお,草稿の表には,多くの横線が引かれているが,MEGAでの組み方に従って,年の区切りに横線を入れるだけにした。〉 (257頁)

 〈ここでようやく,彼が資本ということでなにを考えているかがわかります。彼は「貨幣を任せる」ことによって貨幣を資本に転化させるのですが,これは,利子を取って貸し出すことの碗曲な表現なのです。〉

 【これまでオウヴァストンは何度も繰り返し、繰り返し、〈あなたの言われる資本とはなにか〉としつこく問いただされてきたのであるが、その度に、あれこれ理屈を捏ねて、問題をはぐらかしてきたのである。あるときは資本は一般の商品と変わらないと述べ、資本には固定資本や流動資本がある等々と論じてきた。しかしとうとう、ここに来て、彼が「資本」という言葉で考えているのは、monied capital以外の何ものでもないことが、暴露されているとマルクスは指摘しているわけである。

  訳者注417)では、このあと表が書かれているということであるが、それは次に示すとおり、図表として貼り付けることにする。】

【45】

  〔草稿ではここに本書本巻258-263ページの表が書かれている。〕

  (この表の紹介は、ブログでは技術的に困難なので、その部分の大谷本の当該頁をスキャナーで読み込み、図表にして貼り付けることにする。画像をクリックすると詳細な図表が見えます。) 

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   【ここでは特にこの表を解説するということはできないが、表の各項目について若干の説明を加えておこう。
 まず「公衆保有銀行券」というのは、イングランド銀行の外に出ているイングランド銀行券のことである。つまりそのなかには実際に流通過程で通貨として流通しているものと、地方銀行や個人銀行に準備として保有されているもの、あるいは個人的に退蔵されているもの等が含まれている。
 次に「準備高」というのは、イングランド銀行の銀行部の準備高であって、これは発券部で発券された銀行券のうちイングランド銀行の外に出ていった残りのものが銀行部の準備として残っているものである。但し、銀行部の準備には銀行券以外にも金と銀による準備(鋳貨など)も若干存在していると指摘されている。イングランド銀行の銀行部というのは、銀行法では他の銀行と基本的に同じ位置づけであったから、他の銀行と同じように貸し出しや預金の受け入れ業務等も行っていたから,この銀行部の準備の増減がイングランド銀行のバンク・レートを規制しており、それが市場の利子率にも影響したわけである。
 「地金」というのは、イングランド銀行券の発行を担当する発券部が保有する準備金のことである。これはイギリス全体の蓄蔵貨幣を集中しており、イギリスの信用の軸点をなしているものである。だからその増減はイギリスの国民経済そのものの信用を左右したといえる。
 「最低利子率」というのはイングランド銀行のバンク・レートといわれるものであろう。
 発券部の銀行券の発券高は、1844年の銀行法によって、1400万ポンド・スターリングまでは有価証券を担保に発行することが許されたが、それ以上については発券部の地金保有高に連動して発行するという制限が加えられていた。だから、例えば表のなかの1847年の4月17日の場合をみてみると、地金保有高が933万ポンド・スターリング、それに1400万ポンド・スターリングを加えると、合計2333万ポンド・スターリングまでは発行可能ということになる。そのうち2024万ポンド・スターリングは、銀行の外に流出している(これは実際の商品市場の現実に規定されており、イングランド銀行であってもその数値を恣意的に左右できるような性格のものではない)。だから銀行部の準備として残っているのは、2333万-2024万=309万ポンド・スターリングということになる。実際の数値は256万ポンド・スターリングで若干少なめであるが、必ずしも限度額一杯まで銀行券が発行されるとは限らないからであろう。いずれにせよ、銀行部の準備金が著しく少なくなっていることが分かるであろう。そしてだいたいの上記に説明した数値の関連としては合っているといえるであろう。】


【46】

 〈/325b/前ロイド氏は前に,〔イングランド銀行の〕地金の額(または貨幣の量)〔の変化〕の結果としての割引率の変化は,ただ同時に生じているだけであって,本質的な関連があるわけではないと言ったが,そのあとでまた彼は次のように繰り返している。〉 (264頁)

 〈前ロイド(オウヴァストン)氏は前に,〔イングランド銀行の〕地金の額(または貨幣の量)〔の変化〕の結果としての割引率の変化は,ただ同時に生じているだけであって,本質的な関連があるわけではないと言いましたが、そのあとでまた彼は次のように繰り返しています。〉

 【この一文が書かれているのは〈/325b/〉となっている。つまり325b頁の途中から書かれているわけである。この325a、325bという頁は、マルクスが委員会報告の付録につけられたものから〈イングランド銀行の割引率。地金。銀行券〉と題する一覧表を書き写した頁である。表は325a頁全部と325b頁の上部3分の2を使って細かく書き込まれているというから(注解①)、そあとに書かれているのが、今回のパラグラフ以下である(因みに325頁はわれわれのパラグラフでは【29】の途中から始まり、【44】で終わっている)。
  だから今回のパラグラフはこの一覧表のあとにマルクスが書き足したものであるが、しかし一覧表の頁に書きつけたものであるが、必ずしも一覧表に関連したものではなく、むしろ一覧表がはじまるまでに書いていた一連のノート(325頁までの)の続きといえる(因みに次の326頁は、第27章該当部分の草稿の本文が開始されている)。
  さてここでマルクスが前ロイド氏(オウヴァストン)が前に言っていたというのは、第3755号(【40】)での問答のことである。そこでは質問者・ケイリは〈では,割引率とイングランド銀行の金庫にある地金の量とのあいだにはなんの関連もないと思われるのですか?〉と問いただしたのに対して、オウヴァストンは〈関連はあるかもしれませんが,それは原則上の関連ではありません〉と述べ、〈時間的に同時に生じることはあるかもしれません〉と答えていたことを踏まえたものである。
  この一文そのものは、次の抜粋のための前書き的なものであろう。】

【47】

 〈①第3805号。「国内の貨幣が流出によって減らされれば,それの価値は増加するのであって,イングランド銀行はこのような貨幣の価値の変動に〔」〕②(つまり資本としての貨幣の価値の変動に--というのは,貨幣の価値(正しい意味での)は同じままなのだから)〔「〕従わなければなりません。このことが,専門用語〔technical term〕では,利子率を引き上げる,というように言い表わされるのです。」

  ①〔訂正〕「第3805号」--草稿では,「第3804号」と書かれている。
  ②〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。〉 (264頁)

 【ここでオウヴァストンが〈国内の貨幣が流出によって減らされれば,それの価値は増加する〉と述べているのは、リカードの貨幣論にもとづいた主張である。そしてイングランド銀行はこうした貨幣の価値の変動に従わなければならないというのである。しかしここにはオウヴァストンの巧妙にすり替えがある。リカードが貨幣の価値が地金の流出入によって増減するというのは、文字通り流通手段としての貨幣のことである。ところがここでオウヴァストンのが「貨幣の価値」と述べているのは、monied capitalの価値、つまり利子率のことなのである。だからマルクスは〈貨幣の価値の変動に〉という部分に(   )に入れて〈つまり資本としての貨幣の価値の変動に--というのは,貨幣の価値(正しい意味での)は同じままなのだから)〉と書いているのである。つまりオウヴァストンが貨幣の価値の変動として述べているのは、資本としての貨幣の価値の変動、つまり利子生み資本の価値の変動、要するに利子率の変動のことだと指摘し、なぜなら、例え地金が国外に流出しても、それは国内の流通手段の量にいささかの影響も与えないし、そもそも正しい意味での「貨幣の価値」、つまり金の価値そのものには何の変化も生じないからである。なぜならそれは金に対象化されている抽象的人間労働によって規定されているのであって、金が国外に流出するか流入するかということとはまったく関係がないことだからである。
  要するに、オウヴァストンは、リカードの貨幣論(貨幣数量説)を剽窃して、金の流出は国内で流通する貨幣量を減少させ、その結果、貨幣の価値を増加させると述べ、その貨幣の価値の増加にイングランド銀行は従わねばならず、だからこの貨幣の価値の増加を、専門用語では利子率を引き上げるというように言い表されるのだというのである。確かにリカード説の誤った貨幣論をオウヴァストンが信じているのは勝手ではあるが、しかしここでオウヴァストンが主張していることは、ただリカード説のねじ曲げた悪用である。貨幣の価値を、ここでは巧妙に資本の価値、つまりmonied capitalの価値とすり替えて、だからそれを利子率というのだ、と詭弁を弄しているわけである。何という誤魔化しのテクニックか。

  このようなオウヴァストンの主張を詳しく紹介している小林氏の説明を抜粋しておこう。

  〈オーヴァーストーンによると,「イングランド銀行それ自体は割引率を引上げる力など持っていない」(第3800号A)。また「イングランド銀行の銀行部準備(the reserve of the Bank of Eng1and)の増減は,公衆によってわが国における貨幣量の増減を指し示すものとみなされている」(第3839号A)。実際,イングランド銀行の銀行部「準備の状態は,わが国における貨幣量の増減に対する指示器であり,そしてわが国における貨幣が増減するのに比例して貨幣の価値が増減し,そしてイングランド銀行割引率はその変化に一致するであろうから,割引率の変動は疑いもなく銀行部準備の状態(the state of the reserve)に非常に密接な関係をもっている」(第3841号A)のである。
 だからイングランド銀行が割引率あるいは利子率を「引上げる(raising)」という「専門的表現様式」「専門用語(the technical term)」は,オーヴァーストーンによると,「正しくない」のであり,「イングランド銀行が割引率を引上げるのではない」のである。「貨幣量の減少が,残っている貨幣の価値を高め,そこでイングランド銀行は貨幣の価値におけるその上昇に一致させられる,というのが事実なのである」(第3800号A)。そして上述のように「利子率における変動は,2つの原因のうちの1つから……生じる」(第3653号A)のであるから,「イングランド銀行は,ただ2つの原因からのみその割引率を引上げることができる。1つは資本の価値における現実の変化からであり,いま1つは貨幣量の変化からである。わが国における貨幣が[金]流出(drain)によって減少する時には,その価値が増大し,そしてイングランド銀行は,貨幣の価値におけるその変化--利子率の引上げ(raising)という専門用語によって意味されているのだが--に,一致しなければならない」(第3805号A)のである。〉 (前掲書198-199頁)】

  (続く)

 

2020年11月12日 (木)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-7)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


§ 各パラグラフごとの解読(続き)


【31】

 〈「第3745号。〔ケイリ〕地金の流出で,この国は苦しめられるでしょうか?--その言葉になにか合理的な意味があるかぎりでは,そういうことはありません。〔」〕(そして次に,古いリカードウ的なばかばなしが出てくる。)〔「〕……事物の自然的な状態にあっては,世界の貨幣は世界のさまざまな国のあいだにある割合で配分されます。この割合は,このような配分のもとではどの一国とその他の世界のすべての他の国ぐにをいっしょにしたものとのあいだの交易がバーター交易になるようなぐあいになっています。ところが,このような配分に影響を与える撹乱的な事情が生じるもので,もしこのような事情が生じるときには,どこかのある国の貨幣の一定の部分が他の諸国に渡っていくのです。」

  ①〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』を見よ。所収:MEGA II/2,S.233ff〉 (251-252頁)

  【このパラグラフは途中〈(そして次に,古いリカードウ的なばかばなしが出てくる。)〉というマルクスによる挿入文以外はすべて報告の抜粋なので、書き下し文を省略した。
  ケイリの〈地金の流出で,この国は苦しめられるでしょうか〉という質問に、オウヴァストンが〈その言葉になにか合理的な意味があるかぎりでは,そういうことはありません〉と答えているのに対して、マルクスは〈その言葉になにか合理的な意味があるかぎりでは〉という部分に下線を引いている。この下線の意図はいま一つはっきりしない。次の下線部分〈どこかのある国の貨幣の〉もその意図は明確ではない。ここではオウヴァストンはマルクスに言わせれば〈古いリカードウ的なばかばなし〉を展開しているという。それは次の報告の抜粋文のことを指していると考えられる。このオウヴァストンの答弁について、小林賢齋氏は『マルクス「信用論」の解明』のなかでより詳しくその内容を紹介しているので、それを抜粋しておこう。

  〈では「地金の流出」によって「減少」するという「わが国の貨幣」の量は,そもそもどのようにして決まるのであろうか? オーヴァーストーンによると,「いかなる国であれ,その国の取引(transactions)調整のためにその国が所有している貨幣量は,いかなる法律の,ないしはいかなる特定の組織(body)の,制御(control)の内にもない事柄(matter)であって,それは,世界貨幣(the money of the world)のある一定量をそれぞれの国に割当てる世界の大きな出来事(events)によって決定される。[そして]これらの諸法則がわが国に貨幣の一定量を割当て,そしてそれは立法府(Legislature)の制御を全く超えている」(第3690号A)のである。
  しかも彼は,「世界貨幣のある一定量」が「物々交換」の法則に従って各国に「割当てられる」と言う。即ち,「事物の自然の状態においては,世界貨幣は世界の異なった国々の間に,一定の諸比率で配分される。そしてこれらの諸比率は,その配分の下で,ある1国と世界の他の全ての国々との間の交易(intercourse)が共同で物々交易(an intercourse of barter)となるであろう比率である。しかし撹乱的な諸事情がその配分に影響することを生じさせるであろうし,またそれらの諸事情が生じる時には,ある与えられた国の貨幣のある部分が他の国々に消えていく。消え去っていくその経過中には,若干の小さな不便や逼迫があるが,しかしそれは事物の調整(rectification)のために必要な不便や逼迫であり,それゆえそれは有益であり,また実際に不可避である。事物の適正な(proper)規制の下では,その逼迫はほんの軽微なものである。逼迫に作用する原因の性質に従って,もちろん多かれ少なかれ軽微であり,その原因がどんなものであれ,その原因は矯正されなければならず,そしてより早期に矯正処置に訴えるならば,逼迫や不便はそれだけ少ないであろう」(第3745号A),と。〉 (177-178頁)

  さて、ここでオウヴァストンが主張していることは、次に紹介する『経済学批判』なかでマルクスがリカードの貨幣論を批判しているものを参照すれば、それが〈古いリカードウ的なばかばなし〉であることが分かるであろう。MEGAの注解では『経済学批判』の参照箇所を挙げてるので、それを紹介しておこう。

  〈第一の命題はこうであった。流通する金属貨幣の量は、それがその貨幣の金属価値で評価された流通諸商品の価値総額によって規定されているならば、正常である、と。これが国際的に表現されると、次のようになる。流通の正常な状態では、どの国も、その富とその産業とに照応した貨幣量をもつ。貨幣は、その真実の価値、すなわちその生産費に照応する価値で流通する。すなわち、それはすべての国で同一の価値をもつ。したがって、貨幣は一国から他国へ輸出されたり輸入されたりすることはけっしてないであろう。だから、さまざまな国の通貨〔currencies〕(流通する貨幣の総量)のあいだにある均衡が生じるであろう、と。そこで国民通貨〔currency〕の水準は、諸通貨〔currencies〕の国際的均衡として表現されているが、これは、事実上、国の別は一般的経済法則をすこしも変えるものではない、ということを意味するだけである。われわれは、いままたしても、まえと同じ困難な点に到達したのである。正しい水準はどのようにして撹乱されるのか、という問題は、いまは次のように表現される。諸通貨の国際的均衡はどのようにして撹乱されるのか、または、貨幣はどのようにしてすべての国で同一の価値をもたないようになるのか、言い換えれば、とどのつまり、貨幣はどのようにしてどの国でもそれ自身の価値をもたないようになるのか? と。まえには、正しい水準の撹乱は、諸商品の価値総額が不変なのに流通する貨幣の量が増減したためか、または諸商品の交換価値が増減したのに流通する貨幣の量が不変なために起こるのであったが、それと同様にこんどは、金属自体の価値によって規定される国際的水準の撹乱は、一国に存在する金の量がその国で新たに金属鉱山が発見された結果として増大するためか、または、特殊な一国で流通する諸商品の交換価値の総額が増減したために起こるのである。まえには、通貨を収縮または膨張させ、それに応じて商品価格を下落または騰貴させることが必要となるにつれて、貴金属の生産が減少または増加したのであったが、こんどは、一国から他国への輸出入がそれと同様に作用する。膨張した通貨のために物価が騰貴し、金の価値がその金属価値以下に低下した国では、金は他の諸国にくらべて減価し、したがって諸商品の価格は他の諸国にくらべて騰貴しているであろう。そこで金が輸出され、商品が輸入されるであろう。これと反対の場合には反対のことが起こるであろう。まえには金の生産がつづいて、ついには金属と商品との正しい価値関係が回復されるのであったが、こんどは金の輸入または輸出とそれにともなう商品価格の騰落とがつづいて、ついには国際的諸通貨問の均衡が回復されることになろう。第一の場合には、金の生産は、金がその価値以上または以下にあるという理由からだけで増加したり減少したりしたのであったが、それと同様に、金の国際的移動も、もっぱらこの同じ理由から起こるであろう。第一の場合には、金の生産のどんな変動も流通する金属の量に、したがって物価に影響するであろうが、それと同様にこんどは、金の国際的輸出入がそれらに影響するであろう。金と商品との相対的価値、または流通手段の正常な量が回復されるやいなや、摩滅した鋳貨の補填と奢侈品産業の消費のため以外には、第一の場合には、それ以上の生産は行なわれず、第二の場合には、それ以上の輸出入は行なわれないであろう。ここからして、「諸商品の等価物として金を輸出しようとする誘因、つまり貿易収支の逆調は、流通手段の量の過剰の結果として以外にはけっして起こりえない」という結論となるのである。金属の輸出入をひき起こすのは、いつでも、流通手段の量がその正しい水準以上または以下に膨張または収縮した結果として生じる金属の減価または増価だけだということになろう。さらにこういうことになろう。第一の場合には金の生産が増加または減少させられ、第二の場合には金が輸入または輸出されるのは、もっぱら、金の量がその正しい水準以上または以下にあるためであり、金がその金属価値以上または以下に増価または減価し、したがって商品価格が高すぎたり低すぎたりするためなのだから、このような運動はどれも調整手段として作用する。というのは、そういう運動が、流通する貨幣の膨張または収縮をつうじて、物価をふたたびその真の水準に、第一の場合には金の価値と商品の価値とのあいだの水準に、第二の場合には諸通貨の国際的水準に引きもどすからである。言い換えるなら、貨幣がさまざまな国で流通するのは、ただそれがそれぞれの国で鋳貨として流通するかぎりでだけである。貨幣は鋳貨にすぎず、したがって一国に存在する金量は流通に入り込まなければならず、こうして自分自身の価値章標としてその価値以上または以下に騰落することができるのである。こうしてわれわれは、このような国際的に錯綜した回り道をへて、ふたたび、やっと出発点をなす簡単なドグマに到達したのである。〉 (草稿集③408-410頁)

 ここでマルクスが〈第一の場合〉と述べているのは、その前に展開されていた一国内の通貨の流通量が商品の価格を規制するというリカードの説明のことを指している。それが第二の場合には、国際的な金の輸出入によって商品の価格が変動するという問題に移されているわけである。ここで重要なのはマルクスが最後に言っていること〈言い換えるなら、貨幣がさまざまな国で流通するのは、ただそれがそれぞれの国で鋳貨として流通するかぎりでだけである。貨幣は鋳貨にすぎず、したがって一国に存在する金量は流通に入り込まなければならず、こうして自分自身の価値章標としてその価値以上または以下に騰落することができる〉という部分である。リカードの貨幣理論は、金はすべて流通手段(鋳貨)と考え(つまり蓄蔵貨幣の概念がない)、だから金の輸出入はそのまま流通手段の増減になると考えていることにある。それは国内で金の価値がその流通量の増減によって、それ自身の価値以上または以下になると考えるドグマに一致するとマルクスは指摘しているわけである。】


【32】

 〈第3746号。「〔ケイリ〕閣下はいま,「貨幣money〕」という言葉を使っておられます。前には閣下は,それは資本の損失だと言われたと思いましたが。--なにを資本の損失だと言いましたか?〉 (252頁)

 【これも抜粋だけなので書き下し文は省略する。
  ここでは先の質問に対する回答で、オウヴァストンが地金の流出について、交易に攪乱的な事情が生じた場合に〈どこかのある国の貨幣の一定の部分が他の諸国に渡っていく〉ことだと答えたので、今、〈「貨幣〔money〕」〉という言葉を使ったが、その前には〈資本の損失だ〉と言っていなかったか、と問いただしているわけである。つまり質問者のケイリは、その前には逼迫期に商業界の願いは何か、資本を手に入れることか、法貨を手に入れることか、との問いに、オウヴァストンが「資本に対する支配権を手に入れることだ」と述べたのだから、逼迫期に地金が流出して欠乏しているのは、「資本」だとオウヴァストンが答えたではないか、ところが今回は貨幣(money)と言っているではないか、というのである。それに対して、オウヴァストンは何を資本の損失と言ったか、と逆に質問して答えている。】

【33】

 第3747号。〔ケイリ〕地金の輸出だったのでは?--いや,そうは言いませんでした。もしあなたが地金を資本とみなすのであれば,それは疑いもなく資本の損失です。それは,世界の貨幣を構成している貴金属のある部分を手放すことです。〉 (252頁)

 【これは一つのパラグラフになっているが、先の問答の続きのようである。これも報告書からの抜粋だけなので、書き下し文は省略する。
  オウヴァストンから自分は〈なにを資本の損失だと言〉ったか、と逆に質問されたので、質問者のケイリは〈地金の輸出だったのでは〉と答えている。つまりケイリが問題にしているのは、恐慌時の地金流出だから地金の輸出で何が失われ、商業界は何を願っているのか、という問いだったのである。それに対してオウヴァストンは資本に対する支配権だと言ったのだから、地金の流出は資本の欠乏をもたらしたとオウヴァストンが言っていたではないのかとケイリは主張しているわけである。
  それに対してオウヴァストンは、〈いや,そうは言いませんでした〉と言いながら、しかし〈もしあなたが地金を資本とみなすのであれば,それは疑いもなく資本の損失です〉とも認めている。しかし〈もしあなたが地金を資本とみなすのであれば〉という前提をつけており、自分がどう考えるのかということを避けているわけである。しかし少なくとも彼は先の「資本」の「深い洞察」では、それはいろいろな商品のことであり、食料や衣服、埠頭やドック等々のことだと述べていたのであって、地金を資本とは言っていなかったのである。ところがここでは地金流出は資本の損失だということをほぼ認めるわけである。その次にオウヴァストンが述べている〈それは,世界の貨幣を構成している貴金属のある部分を手放すことです〉という部分は、いうまでもなく先にみた〈古いリカードウ的なばかばなし〉にもとづいた主張である。
  小林氏はオウヴァストンが地金の流出入を如何に捉えているかについて詳しく説明しているので、それを参考のために紹介しておこう。

  〈では,この「物々交易(an intercourse of barter)」ないしは「物々交換(barter)」は,「世界貨幣」の「一定部分」をどのようにして各国に「配分」するというのであろうか? オーヴァーストーンによると,「商品の交換」にとっては(第3790号Q),「物々交換の状態がいかなる時にも真の状態(the real state)である。貨幣はその物々交換を営む手段に過ぎず」(第3790号A),「諸外国とのわれわれの諸取引(transactions)」(第3791号Q)をも含めて,「全ての取引は根底において(at the bottom)物々交換であり,またそうであるに違いない。それらは物々交換以外のいかなるものでもあり得ない」(第3791号A)のである。
 むろん「貨幣の存在が物々交換の取引を遥かに便利にしてはいるが,しかしそれは根底にある事柄を本質的に変更してはいない。商品は商品と引き換えに与えられねばならない。これが主題の根底でなければならない」(第3792号A)。オーヴァーストーンはまた,貨幣の必要性を認めて次ぎのように言う。「何かある1つの一般的等価物(some one universal equivalent)が,全ての国々によってかかるものとして選ばれているべきであるということは,文明社会の諸関係を営むためには必要であり,そして貴金属がその特性で選ばれ採用されている。そこで異なった国々の種々な諸条件が世界の貴金属の一定部分をそれぞれの国に割当てて,そして活動の目的のためにそれぞれの国々に一般的等価物として割当てられた部分が,その国の貨幣なのである」(第3819号A) ,と。そして,この「一般的等価物の機能を遂行するのに特に充当されている地金も,ある程度までは,取引の1つの物品(an article)という一般的特質(the general character)から,それは貨幣として選ばれているが,しかし完全に自由に流出入する」(第4137号A)。だから「地金の輸出」(第3747号Q)は,ある国に割当てられている「世界貨幣を構成している貴金属の一定の割合を手放すこと」(第3747号A),即ち,ある国の「貨幣の減少」となる,と言うのである。
  そこで彼の言うところを整理すると,こうなるであろう。海外との取引を含めて,「文明社会」で行なわれている貨幣に媒介された諸取引も,「根底においては」「物々交換の取引」であり,ある商品はその商品の等価物である別のある商品と引き換えに交換されるのであって,その「特性」から「一般的等価物という機能」を果たすこととなった「貴金属」(「地金」)も,この「物々交換」における「取引の1つの物品」である。だから「世界貨幣」を「構成している」この「貴金属」も,ある商品はその商品の等価物である別のある商品(貴金属)と引き換えられるという「物々交換」の法則に従って,だから「物々交換の取引」量に応じて,それぞれの国に「一定の比率で配分される」こととなる。そしてこれが「事物の自然な状態」,即ち,「世界貨幣」の各国への「配分」の「均衡(equilibrium)」(第4032号A,第4111号A)の状態なのである。しかし地金がある国の「貨幣」となっても,地金の流出入は「取引の1つの物品」として自由であるから,この「均衡」が「撹乱される」ことがある。例えば,わが国から「地金が流出」すると,「根底において」「物々交換の取引」量に応じて「配分」されていた「一般的等価物」である「貨幣」が「減少」することとなるが,わが国に「残っている貨幣の価値」(4064号A)の増大によって,やがては地金が流入することとなり,不均衡は是正されるというのである。〉 (179-180頁)

  こうした主張はリカード貨幣理論の間違った前提、(1)商品の価格は流通手段の量によって規定されている、(2)一国にある貴金属はすべて流通手段であり、それは地金の流出入によって増減する、というものにもとづくものである。これをマルクスは〈古いリカードウ的なばかばなし〉と述べているわけである。】


【34】

 第3748号。〔ケイリ〕前に閣下は,割引率の変動は資本の価値の変動のたんなる兆候だと言われたと思うのですが?--そう言いました。第3749号。〔ケイリ〕また,割引率は一般にイングランド銀行の地金の貯蔵の状態といっしょに変動する,と言われたと思いますが?--はい。しかし,前にも言ったように,一国の貨幣の量〔」〕{つまり彼はこの言葉で地金の量のことを言っているのである}〔「〕の変動から生じる利子率の変動はごくわずかです,云々。〔」〕〉 (252頁)

 【ここらあたりは質問番号が連続しているので、恐らく一連の問答のやりとりであろうと考えられる。今回の抜粋文にはマルクスによる短い挿入文があるが、ほぼ報告からの抜粋文なので、書き下し文は省略する。
  ここでケイリが言っているのは、われわれのパラグラフ番号では【6】、質問番号では第3653号のことであろう。そこではオウヴァストンは利子率の変動は二つの原因から生じると述べ、一つは資本の価値の変化、もう一つは国内にある貨幣総額の変化から生じると述べていたのである。ケイリの質問はそれを指していると思える。だからオウヴァストンも〈そう言いました〉と答えている。
  その次のケイリの質問は、質問番号では第3732号(【23】パラグラフ)のことと思える。イングランド銀行の地金の準備状態といっしょに利子率が変動するという問題に対して、しかしそのときはオウヴァストンは〈私はそのようには理解していません〉と答えている。しかし今回は、〈はい〉と一旦認め、〈しかし,前にも言ったように,一国の貨幣の量の変動から生じる利子率の変動はごくわずかです〉と答えている。この貨幣の総額の変動による利子率の変動の説明については第3653号で答えていることに合致している。しかしマルクスは〈貨幣の量〉のあとに括弧をつけて〈つまり彼はこの言葉で地金の量のことを言っているのである〉と挿入文を加えている。これはケイリが〈割引率は一般にイングランド銀行の地金の貯蔵の状態といっしょに変動する,と言われたと思いますが〉と質問したのに、オウヴァストンは〈はい。しかし,前にも言ったように,一国の貨幣の量の変動から生じる利子率の変動はごくわずかです〉と答えているわけだから、彼は〈イングランド銀行の地金の貯蔵の状態〉を〈一国の貨幣の量の変動〉と考えていることになるからである。
  ここではオウヴァストンはイングランド銀行の保有する地金の変動によって利子率が変動することを、以前とは異なり、認めているが、しかしそれを以前、彼が利子率の変動を貨幣の総量の変動から説明したことに関連させて論じて誤魔化しているのである。しかし以前の答弁(第3653号)で、彼が利子率の変動は〈国内にある貨幣の総額の変化から生じます〉と述べていたときには、この貨幣には準備状態にある地金などは入っていなかったのである。リカードの間違った貨幣理論に立つオウヴァストンにとっては貨幣とは流通手段でしかなく、地金の流出入がそのまま流通手段の増減をもたらすという考えに立っている。だから準備状態にある地金を貨幣と理解することはできないはでずある。にもかかわらず、ここでは問題を誤魔化すために、〈貯蔵の状態〉にある地金を貨幣と述べているとマルクスは指摘しているわけである。】


【35】

 第3750号。「〔ケイリ〕では,閣下がおっしゃりたいのは,割引率がふだんよりも継続的に,といっても一時的に上昇する場合に,それまでよりも資本が減少するのだ,ということなのですか?--減少といっても,この言葉の一つの意味においてです。資本{それはまさに貨幣または地金だったのである}{しかもそれはさきほどは,事業の,資本の縮小からではなくそれの拡張から生じた「高い利潤率」であった}とそれにたいする需要との割合が変動したわけです。それは,おそらく需要の増加によってであって,資本の量の減少によってではありません。〉 (252-253頁)

 【ここらあたりの問答からの抜粋は、恐らくオウヴァストンの混乱と誤魔化しを記録するという程度の問題意識からのものと考えられる。だから今回のものもマルクスによる短い挿入文があるが、平易な書き下し文は省略する。
  ここでケイリが質問で言っていることは、先に(【6】第3653号で)オウヴァストンが主張していたこととはむしろ逆のことである。以前は、オウヴァストンは〈利子率の大きな変動、というのは変動の持続または規模からみて大きいということですが、そのような変動はすべて明らかに資本の価値の変動にまでさかのぼることができます〉と答えていたのである。だからこの答弁にもとづくなら、〈割引率がふだんよりも継続的に,といっても一時的に上昇する場合に,それまでよりも資本が減少するのだ,ということなのですか〉という質問はある意味では、オウヴァストンの主張のあいまいさを確認するための意地悪な質問といえるのかも知れない。オウヴァストンの本来の主張からすれば、〈割引率がふだんよりも継続的に,といっても一時的に上昇する場合〉というのは、「資本の価値」が増大したから生じるはずなのである。だからケイリはその逆の質問をして引っかけようとしているのである。
  それに対してオウヴァストンは、明確に以前の主張にもとづいてその質問を否定するのではなく、〈減少といっても,この言葉の一つの意味においてです〉と曖昧な返事をしている。そして〈資本とそれにたいする需要との割合が変動したわけです。それは,おそらく需要の増加によってであって,資本の量の減少によってではありません〉と答えている。
  つまりここでは如何にもオウヴァストンはmoneyed capitalの需給によって利子率は変動するというまったく正当なことを述べているわけである。ただ彼が「資本」と述べているのは、マルクスが挿入文で指摘しているように、それは正しくは〈貨幣または地金だった〉のであり、その意味でmoneyed capitalと考えることができるが、しかし他方でオウヴァストン自身は利子率の上昇を〈さきほどは,事業の,資本の縮小からではなくそれの拡張から生じた「高い利潤率〉から説明していたのである。つまりオウヴァストンの言っていることは支離滅裂だというのがマルクスの挿入文の意図である。】


【36】

 第3751号。〔ケイリ〕あなたがとくにほのめかしておられる〔allure〕資本とは,なんなのですか?--それはまったく,各人が必要とする資本はなにか,ということによります。それは,国民がその事業を続けていくために自由にできる資本であって,もしこの事業が2倍になれば,それを運営していくために必要な資本にたいする需要が大きく増加せざるをえないのです。〔」〕{このいやらしい銀行[493]業者は,まず事業を2倍にしておき,そのあとで,当座必要とする資本にたいする需要を2倍にするのだ。彼がかかわる「取引先」とはつねに,自分の事業を2倍にするためにロイドから「前よりも大きな資本量」を調達する人びとなのである。}〔「〕--資本は,他のどの商品とも同じようなものです。〔」〕(それどころか資本はまさに諸商品の総体だったのであり,それと異なるものではなかったのだ。)〔「〕資本は,需要供給に応じて,価格が変動するものです。〔」〕{だから商品は,商品としてと資本としてと,二重に価格が変動するわけだ。}〉  (253-254頁)

 【このパラグラフにもマルクスの(  )による挿入文が存在するが、全体としてはオウヴァストンの答弁のいい加減さ曖昧さを暴露する意図から抜粋されているので、平易な書き下し文は省略する。マルクスの挿入文は全体の検討のなかで考察を加えることにしよう

  ここでは質問者のケイリはあいまいなオウヴァストンの答弁に業を煮やして再び〈あなたがとくにほのめかしておられる〔allure〕資本とは,なんなのですか〉と質問している。それに対するオウヴァストンの答えは、またまた誤魔化しの答弁でしかないわけである。つまりそれは〈各人が必要とする資本はなにか〉ということで資本の規定は変わってくるというのである。〈国民がその事業を続けていくために自由にできる資本〉というのは、確かに逼迫期とそうでないときとでは異なることは確かである。しかしいずれにしてもそれはmoneyed capital以外のなにものでもないのであるが、オウヴァストンはそれが分からないか、分かっていても隠そうとするのである。だから彼は事業が2倍になれば、それを運営していくために必要な資本に対する需要も大きく増加するという。この場合の資本も、当然、moneyed capitalへの需要であろう。つまりオウヴァストンが言っていることは、銀行業者の立場からは彼らのいう「資本」とはmoneyed capitalだと言っているのであるが、それを明確に言うことを避けているわけである。だからマルクスは〈このいやらしい銀行業者は,まず事業を2倍にしておき,そのあとで,当座必要とする資本にたいする需要を2倍にするのだ。彼がかかわる「取引先」とはつねに,自分の事業を2倍にするためにロイドから「前よりも大きな資本量」を調達する人びとなのである〉と挿入しているわけである。しかしいうまでもなく、銀行からmoneyed capitalを借りる人々は、決して事業を2倍に拡大したいから貨幣資本が必要になったという人だけではない。特に逼迫期に手形の割引を求めてくる事業者に必要なのは、事業を拡大するためではなく、彼の事業が破産に見舞われないために、当面の支払手段を必要として、現金の貸し出しを求めて来ているのである。それにそもそも当初の問題は恐慌時の高い割引率の原因なのであり、ケイリもそれを前提に質問をしているのに、オウヴァストンはそれにまともに答えずに、問題を誤魔化そうとしているわけである。マルクスはそうした事実を踏まえて、このオウヴァストンの答弁のいやらしさを指摘しているといえる。
  さらにオウヴァストンは資本とは何かという質問に答えて、それは〈他のどの商品とも同じようなもの〉だとも答えている。それに対してマルクスは〈それどころか資本はまさに諸商品の総体だったのであり,それと異なるものではなかったのだ〉と指摘している。というのは以前の(【30】第3744号での)オウヴァストンの答弁では資本とは〈事業を営むために用いられているいろいろな商品から成っています〉と述べ、〈みなさんの船,みなさんのドック,みなさんの埠頭などは固定資本であり,みなさんの食糧,みなさんの衣類などは流動資本です〉と答えていたからである。
  またオウヴァストンは〈資本は,需要供給に応じて,価格が変動するものです〉とも付け加えている。もしここで資本をmoneyed capitalと理解するなら、その需要供給に応じて、その価格(つまり利子率)が変動するというのは正しいのであるが、しかしオウヴァストンは「資本」を商品総体と理解しているのであるから、それは文字通り商品の価格がその需給によって変動するということでしかない。そういうことからマルクスは〈だから商品は,商品としてと資本としてと,二重に価格が変動するわけだ〉と皮肉っているわけである。】


【37】

 〈〔「〕第3752号。〔ケイリ〕割引率の変化は,一般的には,イングランド銀行の金庫にある金の量の変化に関連しています。この金は閣下の言われる資本なのですか?--そうではありません。」〉 (254頁)

  【この抜粋も、恐らくオウヴァストンの回答の混乱ぶりを記録すためのものであろう。
   ここでは質問者のケイリは〈割引率の変化は,一般的には,イングランド銀行の金庫にある金の量の変化に関連しています〉と、このことを既成の事実であるかに述べている。しかし質問番号第3732号(【23】)では、その事実を確認したのに、オウヴァストンは〈私はそのようには理解していません〉と答えていたのである。そして質問者はこのイングランド銀行に保有される地金は、オウヴァストンのいう「資本」なのかと問いただし、それに対して彼は〈そうではありません〉と答えている。しかし第3748号(【34】)では〈割引率の変動は資本の価値の変動のたんなる兆候だと言われたと思うのですが〉という質問に〈そう言いました〉と答え、第3749号(【34】)では〈割引率は一般にイングランド銀行の地金の貯蔵の状態といっしょに変動する,と言われたと思いますが〉という質問にも〈はい〉と答えている。つまり以前には地金を資本と認めていたわけである。オウヴァストンの支離滅裂さが分かるというものである。】


【38】

 〈〔「〕第3753号。〔ケイリ〕閣下は,イングランド銀行に資本の大きな貯蔵〔store〕がありながら同時に割引率が高かったという実例を挙げることができますか?--イングランド銀行は資本の保管deposit of capital〕のための場所ではありません。それは貨幣の保管deposit of money〕のための場所なのです。〉 (254頁)

  【これも委員会報告からの抜粋だけである。
  ここでは質問者ケイリは、ややいじわるな質問をしている。第3732号(【23】)では具体的な数値を上げて、イングランド銀行の地金の保有高と利子率の変動との関連を指摘していたのである。つまり地金の保有高が高いときには利子率は低く、反対の場合は反対だったということである。ところがここではその逆の場合、つまりイングランド銀行に大きな地金が保有されているときに、割引率が高かった実例を挙げることができるか、と問うているわけである。しかもケイリは地金を「資本」と言い換えて質問している。それにマルクスは下線を引いている。つまりこの言い換えは、ケイリがワザとしたものであろう。
  それに対してオウヴァストンは、〈イングランド銀行は資本の保管deposit of capital〕のための場所ではありません。それは貨幣の保管deposit of money〕のための場所なのです〉と答えている。つまりオウヴァストンはケイリの罠に引っかからないようにこのように答えたのだが、しかしまともに質問に答えているとは言い難い。なぜなら、質問の主旨は、資本であろうが、貨幣であろうが、その保管がイングランド銀行で大きな貯蔵をなしているときに、利子率が高かった事例を挙げることができるか、ということだったからである。それにオウヴァストンは答えることを避けて、問題をイングランド銀行は資本を保管するための場所か、それとも貨幣を保管するための場所か、という問題にすり替えているわけである。しかしいずれにせよ、イングランド銀行の保有する地金が、資本かと問われれば、それはやはり資本なのである。それは発券の保証準備であるが、しかしだからこそまたそれは銀行資本の一部を構成するのである。ではそれは貨幣か、と問われるなら、それは蓄蔵貨幣なのだから、やはり貨幣でもあるのである。これが正しい答えである。しかし今問題になっているのはそういうことではないことだけは確かである。オウヴァストンは問題を誤魔化しているだけである。】


【39】

 第3754号。〔ケイリ〕閣下は,利子率は資本の量によって決まる,と述べられました。あなたの言われる資本とはなにか,また,イングランド銀行に地金の大きな貯蔵があったのに同時に利子率が高かったという例を挙げることができるかどうか,お述べくださいませんか?--イングランド銀行での地金の蓄積が低い利子率と同時に生じるということは,非常にありそうなことです。〔」〕(なるほど!)〔「〕なぜならば,資本〔」〕{つまりmonied capitalのこと。1844年,1845年は繁栄期〔Prosperity times〕であった。}〔「〕にたいする需要が減少した時期は,もちろん資本を支配するための手段または用具を蓄積することのできる時期なのです。

  ①〔注解〕ブレースでくくられたコメントはマルクスによるもの。〉 (254頁)

  【これも先の質疑に直接続くものである。マルクスの短い挿入があるが、ほぼ報告からの抜粋なので、書き下しは省略する。
 質問者ケイリは、先の質問にオウヴァストンがまともに答えなかったために、再度、質問を繰り返している。〈あなたの言われる資本とはなにか,また,イングランド銀行に地金の大きな貯蔵があったのに同時に利子率が高かったという例を挙げることができるかどうか〉と。
 ケイリはオウヴァストンが「資本」という場合の意味のあいまいさを突いているのである。彼はまずイングランド銀行が保有する地金が大きい時には、利子率が低く、反対の場合は反対だったという事実を突きつける(【23】第3732号)。だから逼迫期に利子率が高騰したのは、地金が流出してイングランド銀行が保有する地金が減少したからだ、という理解に立っている(もちろん、これは必ずしも理論的に正確に理解した上でのものではないが)。そして地金が流出している時に、資本家たちにとって必要なのは貨幣を入手することではないのかと考えている(【25】第3736号)(【29】第3743号)。だからオウヴァストンの利子率の上昇は資本の価値が増えたからだ、利潤率が高くなって事業が拡大したからだ、という主張の矛盾を突いているわけである。だから何度も〈あなたの言われる資本とはなにか〉と繰り返しているわけである。また〈イングランド銀行に地金の大きな貯蔵があったのに同時に利子率が高かったという例を挙げることができる〉なら挙げてみろと追及しているわけである。
 それに対してオウヴァストンは〈イングランド銀行での地金の蓄積が低い利子率と同時に生じるということは,非常にありそうなことです〉と答え、事実としてそれを認めている。ただこの場合も〈イングランド銀行での地金の蓄積〉ということで何を意味しているのかは曖昧にしている。「イングランド銀行が保有する地金の増大」と明確には述べていない。しかしそれが〈低い利子率と同時に生じるということは,非常にありそうなこと〉と認めているのである(しかし彼は【23】第3732号では〈私はそのようには理解していません〉と答えていたのである)。それに対してマルクスは〈なるほど〉と挿入している。今になってようやく認めたか、というのがマルクスの挿入文の意図であろう。
 オウヴァストンはその理由を〈なぜならば,資本にたいする需要が減少した時期は,もちろん資本を支配するための手段または用具を蓄積することのできる時期なのです〉と答えている。つまりここではオウヴァストンはほぼ彼がいう「資本」とはmonied capitalだということを認めているわけである。〈資本にたいする需要が減少した時期〉というのはmonied capitalに対する需要が減少した時期ということであり、だからマルクスは〈つまりmonied capitalのこと。1844年,1845年は繁栄期〔Prosperity times〕であった〉という一文を挿入しているわけである。つまり繁栄期というのは信用がしっかりしていることや、資本の回転もスムーズだから、資本の貨幣での還流も順調なので、monied capitalの貸付に対する需要もそれほど大きくはならないのである。それをオウヴァストンは〈資本を支配するための手段または用具を蓄積することのできる時期〉だというのであるが、しかし本当は銀行業者にとっては、貸付需要が減って運用先が少なくなることだから、決して歓迎すべきことではないのである。彼は、事実上ここでは〈資本を支配するための手段または用具〉というものは、銀行業者が運用するmonied capitalだということを認めているわけである。】

【40】

 第3755号。〔ケイリ〕では,割引率とイングランド銀行の金庫にある地金の量とのあいだにはなんの関連もないと思われるのですか?--関連はあるかもしれませんが,それは原則上の関連ではありません。〔」〕(他方で彼の銀行法は,イングランド銀行にある地金の量に応じて利子率を調節するということをイングランド銀行の原則としているのである。)〔「〕時間的に同時に生じることはあるかもしれません。

  ①〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。
  ②〔注解〕「彼の銀行法」--本書本巻181ページの注解注③を見よ。〉 (254-255頁)

 【これもマルクスの短い挿入文はあるが、書き下し文は不要であろう。
 質問者ケイリは、さらに畳みかけるように質問する。〈割引率とイングランド銀行の金庫にある地金の量とのあいだにはなんの関連もないと思われるのですか?〉と。
 それに対して、追い詰められたオウヴァストンは、〈関連はあるかもしれませんが,それは原則上の関連ではありません。時間的に同時に生じることはあるかもしれません〉などと事実上それを認めながら、しかし原則上ではないなどという苦しい答弁をしている。
 それに対して、マルクスは〈他方で彼の銀行法は,イングランド銀行にある地金の量に応じて利子率を調節するということをイングランド銀行の原則としているのである〉と挿入している。つまりオウヴァストンが主導した1844年・1845年の銀行法は、イングランド銀行の発券量を地金の保有高に連動させることをひとつの主眼として、発券部と銀行部を分割したのであるが、そのために銀行部の準備として保有する銀行券の量が発券部の地金保有高によって左右される結果を生じさせ、逼迫期の利子率を著しく高騰させるように作用するものになっているのである。そしてイングランド銀行をはじめ銀行業者は、銀行法のこうした作用を利用して、逼迫期には、他の産業資本や商業資本の苦境をよそに、それを犠牲にしてぼろ儲けをしたのである。マルクスはそういう意図のもとにこの挿入文を入れているわけである。

  ついでにこの問答を紹介している小林氏の説明も紹介しておこう。彼はエンゲルスが銀行部の準備を発券部の準備(地金準備)と誤読していると指摘するなかで論じているものであるが。

  〈ではエンゲルスが指示している第3755号Aとはどのようなものなのか。実はその答弁の前に,オーヴァーストーンは,「閣下は,利子率は資本の量に依存すると述べました。どうか,あなたがどんな資本を意味しているのかを,そしてあなたは,イングランド銀行における大量の地金の貯蔵があった,そして同時に,高い利子率であった瞬間を指摘できるかどうかを,恐れ入りますが説明していただけませんか」(第3754号Q)と,質問されている。しかし彼は第1点には答えず,第2点についても論点をそらして,「イングランド銀行における地金の蓄積低い利子率と一致し得ることは非常にありそうなことです」(第3754号A)と答弁する。そこで,「それではあなたは割引率とイングランド銀行庫中の地金量との間にはなんの関係もないとお考えなのですか」とたたみかけられる。それが第3755号Qなのである。
 それに対してオーヴァーストーンは,「関係があるかもしれません。がしかし原理上の関係ではありません。時間的に同時発生はあるかもしれませんが」(第3755号A)と答えている。だからここでオーヴァーストーンが「否定」しているのは,地金量と割引率との関係についてであり,彼が第3841号Aで「肯定」しているのは,銀行部準備(銀行券準備)と割引率との関係なのである。〉 (前掲書255頁)

  これだとオウヴァストンは発券部の地金準備と利子率の関連については否定しているが、銀行部の準備(銀行券準備)と利子率の関係については肯定しているかのように捉えられるが、果たしてオウヴァストンがそうした区別をして明確な立場に立って答えているといえるかどうかは大いに疑問である。】

 (続く)

 

 

2020年11月 4日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-6)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


§ 各パラグラフごとの解読(続き)


【23】

 第3732号。「〔ケイリ〕1844年の銀行法について伺いますが,平均利子率と〔イングランド〕銀行にある地金の額との比率がどうであったかをお述べいただけないでしょうか? 地金の額が約900万か1000万ポンド・スターリングだったときには利子率は6%か7%,また地金の額が1600万ポンド・スターリングだったときには利子率はおよそ3%から4%だった,というのは事実でしょうか? 〔」〕--(この質問者は,〔イングランド〕銀行にある地金の量によって影響されるものとしての利子率を,「資本の価値」によって影響されるものとしての利子率から説明することを,彼に強要しようとするのである。)--〔「〕私はそのようには理解していません。しかし,もしそうであるなら,1844年の法によってとられた処置よりももっと厳しい処置をとらなければならないと思います。なぜなら,地金の貯蔵〔store〕が大きいほど利子率は低い,ということが本当だとすれば,われわれはこのようなものの見方に従って,地金の貯蔵を無限の額にまで増加させることに取り掛からなければならないでしょうし,そうすれば利子をゼロにまで引き下げることになるであろうからです。」

  ①〔注解〕「1844年の銀行法」--本書本巻181ページの注解注③を見よ。
  ②〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。
  ③〔注解〕「1844年の法」--本書本巻181ページの注解注③を見よ。〉 (246-247頁)

  【このパラグラフは途中マルクスの一文は挿入されているが、ほぼ委員会報告からの抜粋なので、書き下し文は省略した。
 まず質問者(ケイリ)は、今度は1844年の銀行法との関連を問題にし、イングランド銀行にある地金の額と利子率との関係を問い、地金の額が約900万か1000万ポンド・スターリングだったときには利子率は6%か7%であり、地金が1600万ポンド・スターリングだったときは利子率は3%から4%だったという事実を突きつける。
  ただこのイングランド銀行の地金と利子率との関係には一定の説明が必要である。1844年の銀行法によってイングランド銀行は銀行券を発行する発券部と普通の貸付業務を行なう銀行部とに分割され、発券部は1400万ポンド・スターリングまでは有価証券を担保に銀行券を発行できるが、それ以上は保有する地金に連動してしか発行できないという制限が加えられた。だから発券部は1400万+保有する地金額(例えば900万)=2300万の銀行券しか発行できないのであるが、そのうち2000万ポンド・スターリングはイングランド銀行の外で公衆によって保有されることになれば(この額は商品市場の現実によって規定されている)、銀行部に残る銀行券はわずか300万ポンド・スターリングしかないことになる。これが銀行部の準備金となるのである(銀行部にはこれ以外にもわずかに鋳貨が準備金として存在する)。そして市場の利子率を規定しているのは、この銀行部の準備金となっている銀行券の額なのである。だから発券部にある地金保有高が1600万ポンド・スターリングだった場合、発券限度額は3000万ポンド・スターリングとなり、流通に必要なものや公衆の手にある額が変わらなければ、銀行部の準備額は1000万ポンド・スターリングと高額になり、潤沢な準備がある(moneyed capitalが豊富な)ことになり、だから利子率が低くなるというわけである。ケイリの質問はこうした事情を正しく理解したものとはいえないが、しかしイングランド銀行の地金準備額と利子率との関連という事実を指摘しているという点で1844年の銀行法を主導したオウヴァストンにとっては耳の痛い質問なのである。
  だからマルクスは〈この質問者は,〔イングランド〕銀行にある地金の量によって影響されるものとしての利子率を,「資本の価値」によって影響されるものとしての利子率から説明することを,彼に強要しようとするのである〉と指摘しているのである。つまりオウヴァストンは、利子率が高いのは「資本の価値」が高いからであり、「資本の価値」が高いのは利潤率が高く、事業が拡張したらだなどと主張したわけであるが、それに対して、マルクスは、そうではなく、利子率を規定するのはmoneyed capitalに対する需給なのだ、と批判したのであった。イングランド銀行の保有する地金というのは、1844年の銀行法によってイングランド銀行の発券を制限するものになっている。つまりそれはイングランド銀行の銀行部の準備の増減を規定しているのである。だからケイリの質問は、まさに利子率がmoneyed capitalの需給によって規制されていることを事実でもって指摘したことになるわけである。そしてそうした事実を、オウヴァストンは自説の「資本の価値」の増減によって利子率が規定されることから説明せよ、と問うているのだというのがマルクスの謂わんとすることである。
  しかしそれに対するオウヴァストンの回答はまともなものとはいえない。自分はそのように考えていないと言うだけである。そしてもし地金の保有高が高いと利子率が低いといえるなら、1844年の法によってとられた処置よりももっと厳しい処置をとらなければならない、などと述べている。恐らくオウヴァストンは、1400万ポンド・スターリングまでは有価証券を担保に発券できるということをもっと厳しく減額して、保有する地金だけに発券額を限るべきだということを言いたいのかもしれない。そうすれば必要な銀行券を発行するためには地金の保有高をさらに高めねばならず、そして保有高が高ければ高いほど利子率が下がるのだから、地金の貯蔵を無限に拡大すれば利子率はゼロになるだろうなどというくだらない頓智で答えているわけである。】


【24】

 ケイリ氏は,このまずい頓智にはおかまいなしに次のように続ける。〔「〕第3733号。〔ケイリ〕もしそうであるなら,かりに500万の地金がイングランド銀行に返されることになっていて,続く6か月間に地金が約1600万ポンド・スターリングになり,またこうして利子率がかりに3%ないし4%まで下がったとした場合,この利子率の低下がこの国の事業の非常な縮小から生じたのだと,どうやって主張できるのでしょうか?--私が言いましたのは,利子率の低下ではなくて,利子率の近ごろのひどい上昇が,この国の事業の大拡張と密接に結びついていたのだということです。」(しかしケイリは,もしも地金の収縮といっしょに生じる利子率の上昇が事業の拡張の兆候であるのなら,[491]地金の増大といっしょに生じる利子率の低下は事業の縮小の兆候であるはずではないかと言って,前ロイドの不条理を突いているのである。〉 (247頁)

 ケイリ氏は,このまずい頓智にはおかまいなしに次のように続けています。
  「〔ケイリ〕もしそうであるなら,かりに500万の地金がイングランド銀行に返されることになっていて,続く6か月間に地金が約1600万ポンド・スターリングになり,またこうして利子率がかりに3%ないし4%まで下がったとした場合,この利子率の低下がこの国の事業の非常な縮小から生じたのだと,どうやって主張できるのでしょうか?」
  それに対してオウヴァストンは次のように答えます。
  「(オウヴァストン)私が言いましたのは,利子率の低下ではなくて,利子率の近ごろのひどい上昇が,この国の事業の大拡張と密接に結びついていたのだということです。」
  (しかしケイリ氏は,もしも地金の収縮といっしょに生じる利子率の上昇が事業の拡張の兆候であるのなら,地金の増大といっしょに生じる利子率の低下は事業の縮小の兆候であるはずではないかと言って,前ロイド氏の不条理を突いているのです。〉

 【先にも紹介したように、オウヴァストンの主張は、利子率が高いのは「資本の価値」が高いからであり(これは「資本の価値」がmoneyed capitalの価値を意味するなら、利子率が高いのは利子率が高いからという同義反復になる。なぜならmoneyed capitalの価値とは利子率のことだからである)、「資本の価値」が高いのは利潤率が高いから、つまり事業が拡大したためだ、というものであった。
  ケイリの質問は、このオウヴァストンの主張の矛盾を突いているわけである。なぜなら、イングランド銀行の地金保有高が1600万ポンド・スターリングにも膨れ上がるということは景気がよくて事業が拡大した結果である。そして銀行の準備金も潤沢になり、よって利子率も3%から4%に下がったわけである。しかし、もしオウヴァストンの主張にもとづくなら、利子率の低下は「資本の価値」が下がったことを意味し、「資本の価値」が下がったのは利潤率が下がったから、つまり事業が停滞し縮小したからということになるのに、事実はまったくこの逆ではないか、というのである。
  しかしこの矛盾点を突かれたオウヴァストンはまともに答えることが出来ず、ただ自分が言っているのは利子率の上昇のことを言っているのだと答えるのみである。しかし利子率の上昇が事業の拡張と密接に結びついているなら、その低下が事業の縮小を表していると言えなければならないのに事実はまったく逆なのだ、とマルクスは指摘しているわけである。】


【25】

 〈「第3736号。〔ケイリ〕閣下が言われたのは,貨幣money〕は資本を手に入れるための用具だということだと思います。〔」〕{貨幣をただ用具としか考えないという,まさにこのことがたわごとなのである。貨幣は資本の形態である。}〔「〕地金が流出している場合には,資本家たちにとっての大きな負担は,逆に,貨幣を入手することなのではありませんか?--そうではありません。貨幣を手に入れたいのは資本家ではありません貨幣を手に入れたいのは資本家でない人びとです。では,なぜ彼らは貨幣を手に入れたいのか?……なぜなら,貨幣によって彼らは,資本家ではないこの人びとの事業を経営するために資本家の資本にたいする支配権を手に入れるからです。」ここでは彼は,製造業者や商人は資本家ではないということ,そして,資本家の資本とはmoneyed capita1なのだということを,あけすけに言明しているのである。〉 (247-248頁)

 〈このパラグラフも委員会報告からの抜粋とマルクスの批判の挿入とが入り交じっているので、報告からの抜粋はそのままにしてマルクスの挿入文だけ書き下す。

  「〔ケイリ〕閣下(オウヴァストン)が言われたのは,貨幣money〕は資本を手に入れるための用具だということだと思います。」
  {貨幣をただ用具としか考えないというのが,まさにたわごとなのです。貨幣は資本の形態です。}
  「〔ケイリ〕地金が流出している場合には,資本家たちにとっての大きな負担は,逆に,貨幣を入手することなのではありませんか?」
  「(オウヴァストン)そうではありません。貨幣を手に入れたいのは資本家ではありません貨幣を手に入れたいのは資本家でない人びとです。では,なぜ彼らは貨幣を手に入れたいのか?……なぜなら,貨幣によって彼らは,資本家ではないこの人びとの事業を経営するために資本家の資本にたいする支配権を手に入れるからです。」
  ここではオウヴァストンは,製造業者や商人は資本家ではないということ,そして,資本家の資本とはmoneyed capita1なのだということを,あけすけに言明しています。〉

 【ここではケイリが〈下が言われたのは,貨幣money〕は資本を手に入れるための用具だということだと思います〉と述べている。だから〈貨幣money〕は資本を手に入れるための用具だ〉というのはオウヴァストンの主張なのである。実際、小林賢齋氏は、『マルクス「信用論」の解明』のなかでオウヴァストンの証言として〈「貨幣は単に資本を獲得する特殊な道具(instrument)であるに過ぎない」(第3655号A)と言い〉(170頁)と紹介している。だからマルクスが貨幣を用具などと考えるのは、たわごとだと述べ、貨幣は資本の一形態なのだと指摘しているのは、ケイリに対してではなく、オウヴァストンに対して述べているのである。
  さらに続けて、ケイリは、〈地金が流出している場合には,資本家たちにとっての大きな負担は,逆に,貨幣を入手することなのではありませんか〉と質問しているが、この質問に対するオウヴァストンの回答は、彼の銀行屋としての本性を暴露したものなっているわけである。つまり彼にとっては資本というのはmoneyed capital以外のなにものでもなく、だから資本家というのは銀行家と同義なのである。だから貨幣を入手しようと割引を要求してくる製造業者や商人は資本家ではないと驚くべき主張を展開している。そして貨幣を手に入れたいのは、資本家ではない彼らの事業を経営するために、〈資本家の資本にたいする支配権を手に入れるから〉だというのである。ここで〈資本家の資本〉というのは銀行業者の資本(moneyed capital)のことである。それに対する〈支配権を手に入れる〉ためだというのである。つまり資本家である銀行業者から彼の資本(つまりmonied capital)を手に入れようとしているという、露骨な銀行業者の立場に立って、自らの表章をそのありのままに指摘しているわけである。
  こうしたオウヴァストンの主張についてマルクスは、銀行業者だけが資本家であり、彼らが手にするmoneyed capitalだけが資本であるという銀行業者的立場をあけすけに語ったものだと指摘している。】


【26】

 〈「第3737号。〔ケイリ〕それでは為替手形を振り出す側の人びとは資本家ではないのですか?--手形を振り出す側の人びとは資本家であることもありましょうし,資本家でないこともあるでしょう。」ここで彼は途方にくれる。〉 (248頁)

 【これもほぼ委員会報告からの抜粋にわずかにマルクスの言及が付け加えられているだけなので書き下し文は省略した。
  ケイリは手形の割引をもとめる製造業者や商人は資本家ではないという驚くべきオウヴァストンの主張に対して、今度は、それでは為替手形を振り出す人々も資本家ではないのか、と問い詰めている。それに対して、オウヴァストンは手形を振り出す側の人々は資本家であることもあるが、ないこともあるなどとあいまいな回答をしているが、マルクスはオウヴァストンは途方にくれていると指摘している。
  恐らく、オウヴァストンが言いたいことは、彼が資本家と考える銀行業者たちが振り出す手形もあると言いたいのであろう。だから手形を振り出すということだけなら、資本家の場合もある(つまり銀行業者も銀行業者手形を振り出す)が、業者が振り出す場合は資本家が振り出したものとはいえない、と言いたいのであろう。】


【27】

 次に彼が尋ねられるのは,商人たちが振り出す手形は,彼らが売ったか,または船積みした財貨を表わしているものではないのか,ということである。彼は,銀行券が地金を表わしているのとまったく同様にこれらの手形が商品の価値を表わしている,ということを否定する。これはかなり厚かましい。{第3740号,第3741号}

  ①〔異文〕ここで改行して,「第3742号。……ないのですか?」と書いたのち,消している。〉 (248-249頁)

 〈次にオウヴァストンが尋ねられるのは,商人たちが振り出す手形は,彼らが売ったか,または船積みした財貨を表わしているものではないのか,ということです。これに対して、オウヴァストンは,銀行券が地金を表わしているのとまったく同様に、これらの手形が商品の価値を表わしているとはいえないと、これを否定します。これはかなり厚かましい主張です。{第3740号,第3741号}〉

 【これは恐らく委員会報告の第3740号,第3741号にもとづいて書いていると思えるが、当該の報告からの抜粋がない。しかし小林賢齋氏は、その問答を次のように紹介している。その少し前からのものと一緒に紹介しておこう。

  〈「為替手形は製造されたか取引された商品(goods)の代理物(representatives)ではないのですか?」(第3739号Q)--「私はそのような表現の意味を殆ど知りません。為替手形は製造された商品の販売の結果非常にしばしば振出されますし,譲渡された信用の結果非常にしばしば振出されます。……」(第3739号A)。
 「銀行券(the bank paper)が金の代理物あるいは金の映像(shadow)であると貴方が述べたのと同様に,為替手形は商人や製造業者の資財(stock)の代理物ではないのですか?」(第3740号Q)--「いいえ。私は為替がそうとは考えません。銀行券(the bank paper)は金の代理物です。なぜなら,それは,それと引き換えに預金された金の証明書ですが,振出された為替手形は決して言葉の証明書という意味での商品の証明書ではないからです」(第3740号A)。〉 (前掲書190-191頁)

  (これを見ると証言番号は〈第3740号,第3741号〉とあるが、ほぼ第3740号の問答がその内容を伝えているように思える。残念ながら、小林氏の著書には第3741号は紹介されていない。)

  さて、ここでは質問者(ケイリ)は、オウヴァストンが資本家ではないという商人たちが振り出す手形というのは、彼らが売ったか、あるいは船積みした財貨(これこそがケイリにとっては資本なのだが)を表しているのではないのか、と問うているわけである。つまり商人たちを資本家ではないというが、彼らが振り出した手形というのは、現実の資本を代理し、表しているのではないのか、つまり彼らこそ資本家ではないのか、と問うているわけである。
  これに対して、オウヴァストンは、銀行券が地金を表しているのとまったく同じ意味で、手形が商品の価値を表しているとはいえないというのである。これに対してマルクスは〈これはかなり厚かましい〉と批判している。
  オウヴァストンは自分たち銀行業者だけが資本家であり、彼らが扱うmoneyed capitalだけが資本であるという観念がある。そして彼らが貸し付ける銀行券は地金と同じだと考えている。確かに一般の商品流通においてはイングランド銀行券は現金として、つまり金鋳貨や地金と同じものとして通用する。しかし、例えイングランド銀行の発行する銀行券でも、銀行業者の発行する銀行券は、ただ銀行の信用だけで発行するものであり、それに彼らは紙と印刷費以外に何の費用もいらないのである。だから確かにこれはあつかましい主張である。しかもオウヴァストンらが手にしている銀行券、つまり銀行業者の手のなかで準備状態にあり、moneyed capitalとしてある銀行券は、こうした現実の商品流通のなかで通貨として通用しているものと同じとはいえないのである。それは利子生み資本でしかないからである。商品流通の過程にある銀行券は流通手段としての貨幣の機能にもとづいて、金を代理して流通しうるが、利子生み資本は再生産過程の外の信用制度のもとで運動するのであり、その限りでは架空なものでしかないからである。
  もちろんオウヴァストンにはそうした理解があるはずもないが、そうした彼が手形を商品の価値を代理するとはいえないというのである。自らは架空な資本を扱いながら、現実の商品価値を表す手形を、価値を表すとはいえないとは、確かにこれは厚かましいといえる。】


【28】

 〈「第3742号。〔ケイリ〕彼の目的は貨幣を手に入れることではないのですか?--いいえ,貨幣を手に入れることは,手形を振り出すときの目的ではありません。貨幣を手に入れることは,手形を割引してもらうときの目的なのです」!(手形を振り出すことは商品を信用貨幣の一形態に転換することであり,手形を割引することはこの信用貨幣を別の信用貨幣に転換することである(銀行券の場合)。しかしロイド氏は,ここでは,割引の目的が貨幣moneyを手に入れることだということを認めている。前には,彼が割引をさせたのは,資本を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕ためではなく,追加資本を調達する〔raise〕ためだったのだ。)〉 (249頁)

 〈このパラグラフも委員会報告からの抜粋はそのままに、マルクスの挿入文だけ書き下し文にしておく。

 「〔ケイリ〕彼の目的は貨幣を手に入れることではないのですか?
  〔オウヴァストン〕いいえ,貨幣を手に入れることは,手形を振り出すときの目的ではありません。貨幣を手に入れることは,手形を割引してもらうときの目的なのです」!
  (手形を振り出すことは商品を信用貨幣の一形態に転換することであり,手形を割引することはこの信用貨幣を別の信用貨幣に転換することです(銀行券の場合)。しかしいずれにせよロイド(オウヴァストン)氏は,ここでは,割引の目的が貨幣moneyを手に入れることだということを認めています。前には,事業者が手形を割引するのは,彼の資本を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕ためではなく,追加資本を調達する〔raise〕ためだと主張したのでした。)〉

 【ここでも質問者(ケイリ)の主旨は今一つ明確ではない。〈彼の目的〉の〈〉が誰なのかはっきりしないからである。ただそれに対するオウヴァストンの回答とその前のパラグラフのマルクスの文章から推測すると、どうやら手形を振り出した商人のことを指しているようである。つまり手形を振り出すのは貨幣を手に入れるためではないのか、という問いのようである。
  それに対してオウヴァストンは、貨幣を手に入れることは、手形を振り出すときの目的ではないとし、〈貨幣を手に入れることは,手形を割引してもらうときの目的なのです〉と答えている。それにマルクスは下線を引き、最後に〈〉を付けている。
  つまりここではオウヴァストンは、手形割引の目的を貨幣を手に入れることだと認めているわけである。以前(われわれのパラグラフ番号で【19】で)は〈割引の意味はなにか? ある人が手形を割引してもらうのはなぜなのか〉という問いに〈それは,より大きい資本量を手に入れたいと思うからです〉と答えていたのである。たがらマルクスは前に言っていたこととは違うではないか、と下線を引いて感嘆符を打ったのであろう。
  ただここでマルクスは〈手形を割引することはこの信用貨幣を別の信用貨幣に転換することである(銀行券の場合)〉と厳密に書いている。以前は〈普通の事業家が手形を割引させるのは,自分の資本の貨幣形態を先取りし,だからまた再生産過程の流動を保つためである〉(【20】パラグラフ)と述べていたのである。しかし銀行業者が手形を銀行券で割り引く場合は〈この信用貨幣(手形)を別の信用貨幣(銀行券)に転換することである〉と書いている。ということは、【20】パラグラフで論じていたときには銀行券での割り引きは想定していなかったと言えるのかも知れない。】


【29】

 第3743号。〔ケイリ〕あなたが1825年,1837年,1839年に起こったと言われるようなパニックの逼迫のもとでの商業界の大きな願いはなんですか? 彼らの目的は,資本を手に入れることですか,それとも法貨を手に入れることですか?--彼らの目的は,自分の事業を続けていくために資本にたいする支配権を手に入れることです。」(彼らの目的は,信用の欠乏が現われたので,また同時に,自分の商品等々を価格よりも安く売りとばさなくてもよいようにするために,自分あての手形にたいする支払手段を手に入れることである。彼らの有価証券がいかがわしい,等々のものであれば,あるいは彼らが全然資本をもっていなければ,彼らは支払手段と同時にもちろん資本をも手に入れるわけである。なぜならば,彼らは等価なしに価値を手に入れるのだからである。貨幣そのものにたいする需要は,いつでもただ,329)価値にとっての,商品または手形(債権)の形態から貨幣の形態への転換可能性にたいするものでしかない。それだからまた,||325|恐慌の場合は別としても,330)割引によって資本を調達することと,貨幣請求権を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕こととのあいだには,大きな違いがあるのである。)331)

  ①〔注解〕「パニックの逼迫〔a pressure of panic〕」--『銀行法特別委員会報告……』では「逼迫ないしパニック〔pressure or panic〕」となっている。

  329)〔E〕「価値にとっての,商品または手形(債権)の形態から貨幣の形態への転換可能性にたいするもの」→ 「価値を商品または債権の形態から貨幣の形態へ転換したいという願い」
  330)〔E〕「割引によって資本を調達することと,貨幣請求権を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕こととのあいだには,大きな違いがあるのである。」→ 「資本の借入と割引とのあいだには大きな違いがあるのであって,割引は,ただ,貨幣請求権が或る形態から別の形態に,すなわち現実の貨幣に,転換されるということを実現するだけなのである。」
  331)〔E〕エンゲルス版ではここにエンゲルスによる長い挿入がある。本節末尾に「補注1貨幣の前貸と資本の前貸との区別についてのエンゲルスの解説」として収めておく。〉 (249-250頁)

 〈これも報告からの抜粋はそのままに、マルクスの批判文だけを書き下す(但し、ケイリの質問にある〈パニックの逼迫〉は『報告』では〈逼迫ないしパニック〉となっているらしいからそのように書き改めておく。)

  「〔ケイリ〕あなたが1825年,1837年,1839年に起こったと言われるようなパニックないし逼迫のもとでの商業界の大きな願いはなんですか? 彼らの目的は,資本を手に入れることですか,それとも法貨を手に入れることですか?
  〔オウヴァストン〕彼らの目的は,自分の事業を続けていくために資本にたいする支配権を手に入れることです。」
  (彼らの目的は,信用の欠乏が現われたので,また同時に,自分の商品等々を価格よりも安く売りとばさなくてもよいようにするために,自分が振り出して満期が近づいている手形を決済するための支払手段を手に入れることです。
  あるいは、彼らの有価証券がいかがわしいものであれば,彼らは投機詐欺師であって、もともと全然資本をもっていないのであれば,彼らはその投機手形を割り引くことによって支払手段と同時にもちろん他人の資本をも手に入れるわけです。なぜならば,彼らは等価なしに価値を手に入れるのですから。
  貨幣そのものにたいする需要は,いつでもただ,商品または手形(債権)の形態から貨幣の形態への転換可能性にたいするものでしかありません。それだからまた,恐慌の場合は別としても,割引によって資本を調達すること(他人の資本を詐取すること)と,貨幣請求権を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕こととのあいだには,大きな違いがあるのです。)〉

 【ここでも質問者ケイリは恐慌時や逼迫時に、商人たちが必要とするのは、資本を手に入れることではなくて、法貨を、つまり現金を入手することではないのか、と正しい指摘をしている。
  それに対してオウヴァストンは、彼らの目的は自分の事業を続けていくために資本に対する支配権を手に入れることだというのである。確かに自分の事業を続けていくためであるというのは正しいが、しかし恐慌や逼迫時期というのは、信用が収縮して動揺しているときである。誰もが手形などの信用形態を受け取ろうとしないようになってくる。つまり現金を求めるわけである。オウヴァストンにとってはmoneyed capitalこそが資本だから、貨幣の融通を求めてくる顧客は、すべて彼にとっての資本であるmoneyed capitalに対する支配権をもとめてくるように思えるわけである。
  それに対して、マルクスは恐慌時や逼迫時には信用が欠乏するので、とにかく現金を無理やり入手する必要から、自分の商品などを価格よりも安く売り飛ばさなくてもよいように、自分あての手形(これは彼が以前に振り出してその支払期日が迫っている手形のことである)に対する支払を行なうために支払手段(現金、すなわち地金あるいは法貨としてのイングランド銀行券)を手に入れるためだと指摘している。
  そして割り引く手形がいかがわしいものであり、あるいは彼らが詐欺師であってもともと全然資本をもっていないならば、彼らは支払手段と同時に資本を手に入れるだろう、というのは彼らは等価なしに価値を手に入れるのだからだ、と述べている。
  そして一般に、貨幣そのものに対する需要は、いつでも商品または手形(債権)の形態から貨幣の形態への転換可能性に対するものでしかないのだ、と指摘している。
  ここで〈価値にとっての,商品または手形(債権)の形態から貨幣の形態への転換可能性にたいするもの〉という部分をエンゲルスは編集段階で〈価値を商品または債権の形態から貨幣の形態へ転換したいという願い〉と変えているが、これはやや分かりにくいマルクスの文章をスッキリと分かりやすくしているという点で、まったく適切な修正といえる。
  だから恐慌時は別としても、オウヴァストンがいうような割引によって資本を調達するということと、貨幣請求権をある形態から別の形態に転換することとのあいだには、大きな違いがあるのだというのである。貨幣請求権というのは手形や小切手など有価証券の類を指しているが、ここで〈別の形態〉というのは、やはり「銀行券」のことであろう。銀行券も一般流通では現金として通用するが、商業流通内では手形流通に立脚し、やはりそれも一つの貨幣請求権であることには違いはないからである。
  ところでここでもエンゲルスは編集によって〈割引によって資本を調達することと,貨幣請求権を或る形態から別の形態に転換する〔convert〕こととのあいだには,大きな違いがあるのである〉という一文を〈資本の借入と割引とのあいだには大きな違いがあるのであって,割引は,ただ,貨幣請求権が或る形態から別の形態に,すなわち現実の貨幣に,転換されるということを実現するだけなのである〉という文章に修正しているのであるが、これはマルクスの謂わんとすることをまったく取り違えたものといえる。マルクスがここで〈割引によって資本を調達する〉というのは、オウヴァストンの主張をなぞらえたものでもあるが、それは投機詐欺師が空手形を割引して支払手段だけではなく、他人の資本を詐取することを目的に行われるものを指しているのである。だからそれと手形を銀行券に転換することとには大きな違いがあると述べているのであって、〈資本の借入と割引とのあいだ〉の問題ではないのである。それにエンゲルスは手形の割引を普通の売買と同じと捉えた間違い(第28章への追補)と同じ間違った主張をしている。借入(銀行からは貸付)も割引も銀行による貸付という意味では同じだからである。だからまたエンゲルスが〈貨幣請求権が或る形態から別の形態に〉というのを〈すなわち現実の貨幣に〉と述べているのも同じ間違いにもとづくのである。マルクスがここで〈別の形態に転換する〉と述べているのは、銀行券に転換するという意味である。確かにイングランド銀行券の場合、一般流通では現金として通用するから〈現実の貨幣〉と言ってもあながち間違いとはいえないが、しかし商業流通(資本間の取引)内ではイングランド銀行券も手形流通に立脚する信用貨幣であり、一つの貨幣請求権なのである。だからマルクスは〈貨幣請求権〉の〈別の形態〉とわざわざ書いているのである。だからそれを〈現実の貨幣〉というのは厳密にいえば正しいとはいえないのである。
    なお訳者注331)で大谷氏は〈エンゲルス版ではここにエンゲルスによる長い挿入がある。本節末尾に「補注1貨幣の前貸と資本の前貸との区別についてのエンゲルスの解説」として収めておく。〉と書いている。このエンゲルスの補注については、この段落ごとの解読が終わったあとに、ついでに論じておこうと思う。】


【30】

 〈[492]「第3744号。〔ケイリ〕あなたが「資本」という言葉で実際になにを考えておられるのか,述べていただけませんか?--資本は,事業を営むために用いられているいろいろな商品から成っています。固定資本があり,また流動資本があります。みなさんの船,みなさんのドック,みなさんの埠頭などは固定資本であり,みなさんの食糧,みなさんの衣類などは流動資本です。」(「資本」のなんという深い洞察! また,貨幣逼迫の時期に割引させる人びとは,自分の食糧,衣類などを買うことができない人びとであって,彼らは食糧や衣類を求めており,しかもみなさんのドックや埠頭を求めているのだとは,なんという恥知らずか!)〉 (250-251頁)

 〈「〔ケイリ〕あなたが「資本」という言葉で実際になにを考えておられるのか,述べていただけませんか?
  〔オウヴァストン〕資本は,事業を営むために用いられているいろいろな商品から成っています。固定資本があり,また流動資本があります。みなさんの船,みなさんのドック,みなさんの埠頭などは固定資本であり,みなさんの食糧,みなさんの衣類などは流動資本です。」
  (「資本」のなんという深い洞察でしょう! オウヴァストン氏の深い洞察にもとづく資本の規定によれば、貨幣逼迫の時期に手形の割引をもとめる人びとというのは,自分の食糧,衣類などを買うことができない人々であって、しかもみなさんのドックや埠頭を求めているの人々だというわけです。なぜなら、彼はその前には逼迫時に手形の割引をもとめる人々の目的は、資本の支配権を手に入れることだといっていたからです。しかしなんという恥知らずな主張でしょうか!)〉

 【ケイリはその前の質問で、恐慌時や逼迫時に手形の割引を求める人々は法貨を手に入れるためではないのか、と質問したのに対して、オウヴァストンが事業を続けるために資本に対する支配権を手に入れるためだ、と答えたので、今度は、〈あなたが「資本」という言葉で実際になにを考えておられるのか〉と問い詰めているわけである。それに対してオウヴァストンは学者ぶって、資本は事業を営むために用いられるいろいろな商品からなっている、固定資本があれば流動資本もある、食料や衣類などは流動資本であり、埠頭やドックなどは固定資本だなどと答えているわけである。つまりここではオウヴァストンは以前は彼がいうところの「資本」というのはmoneyed capitalとほぼ同義のものと主張していたのに対し、ここではブルジョア的な通俗的な観念を振りまわしているわけである。
  しかしそれだと先の質問に対する回答とは矛盾してくる。なぜなら、恐慌時に割引を求める目的は法貨を入手することではないのか、という問いに対して、彼は目的は資本に対する支配権を手にれるためだと答えたばかりである。ということは恐慌時や逼迫時に商人たちが手形割引で目的にしているのは、資本に対する支配権、すなわち食料や衣料や埠頭やドックを入手することを目的にしているのだ、ということになる。あれやこれやと言い逃れるオウヴァストンの主張に対して、マルクスは何という恥知らずな主張か、と批判しているわけである。】

  (続く)

 

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