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2020年10月

2020年10月28日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-5)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

§ 各パラグラフごとの解読(続き)

 

【17】

 〈|324|やつの不正直さと低劣さは,彼が学者ぶって極端化する彼の偏狭な銀行業者の立場ともども,さらに次の問答のうちにも現われる。〉 (242頁)

  〈やつの不正直さと低劣さは,彼が学者ぶって極端化するその偏狭な銀行業者の立場とともに,さらに次の問答のうちにも現われています。〉

 【ここで〈やつ〉というのは、いうまでもなくオウヴァストン(前ロイド)のことある。これは以下の委員会報告の証言を抜粋するためのマルクス自身による前書きであろう。エンゲルス版では改行されておらず、この部分は一つのパラグラフになっていない。】


【18】

  第3728号。「〔ケイリ〕あなたは,割引率は商人にとってたいしたことではないと思う,と言われました。あなたはなにを普通の利潤率とみなされるのか,おっしゃってくださいませんか〔」〕。--ロイド氏は,これに答えることは「不可能」だと宣言するが,それは厄介な数字関係に巻き込まれないためである。

  ①〔注解〕「ロイド氏は,これに答えることは「不可能」だと宣言する」--『銀行法特別委員会報告……』ではオウヴァストンは次のように答えている。「なにが普通の利潤率かを述べることはまったく不可能です。」
  ②〔異文〕ここにピリオドを打ったが,消されている。〉 (242頁)

  【これも特に平易な書き下し文は不要と考えて省略する。ここでは質問者(ケイリ)が、オウヴァストンが割引率は商人にとってたいしたことはでないと思う、と答えたことに対して、では何を普通の利潤率と考えているのかと問うているわけである。つまり割引率が低いか高いかは商人が事業に必要な貨幣資本を調達するためにより多くの利子を払うか払わないかの問題であり、それは彼らの貨幣利得(企業利得)に直結する問題である。だから割引率がたいした問題でないかにいうオウヴァストンに対して、それならあなたは普通の利潤率をどのように考えているのか、答えよと問い詰めているわけである。
  それに対して、MEGAの注解によれば、オウヴァストンは〈「なにが普通の利潤率かを述べることはまったく不可能です。」〉と答えているが、それをマルクスは〈ロイド氏は,これに答えることは「不可能」だと宣言するが,それは厄介な数字関係に巻き込まれないためである。〉としている。これは次のパラグラフのやりとりでケイリが平均利潤率と利子率とを挙げてオウヴァストンを追及しているのを見れば、ケイリが何を問題にしているかが分かるが、しかしマルクス自身はケイリの問題意識そのものにも問題があると考えている。それは次のパラグラフで明らかになる。】


【19】

 第3729号。「〔ケイリ〕平均利潤率がたとえば7-10%であると仮定すると,割引率の2%から7,8%への変化は,もちろん利潤率に影響せざるをえないのではありませんか?〔」〕--((ⅰ)この問いそのものが企業利得の率と利潤の率とを取り違えており!,また,利潤率が両者の共通な源泉であることを忘れている。利子率は,商業利潤または産業利潤の邪魔をするものだが,利潤率を邪魔しなくてもよいのである。)--〔「〕第1に,当事者は,自分の利潤をひどく妨げるような割引率を支払わないでしょう。彼らはそうするよりも,むしろ,自分の事業をやめるでしょう。〔」〕{(ⅱ)もしもわが身を破滅させずにできるのであれば。彼らが割引料を支払うのは,彼らの利潤が高いかぎりは,そうしたいからであり,利潤が低くなったときには,そうせざるをえないからである。}〔「〕割引の意味はなにか? ある人が手形を割引してもらうのはなぜなのか?239)……それは,より大きい資本量を手に入れたいと思うからです。〔」〕((ⅲ)ちょっと待て! それは自分の充用した資本の貨幣での還流〔moneyed returns〕を先取りして行き詰まりを避けたいと思うからである。満期になった支払いに応じたいからである。より大きい資本量を求めるのは,ただ,事業が好調な場合か,事業は不調でも他人の資本で投機をする場合だけである。割引はけっしてたんに事業の拡張のための手段なのではない。244)彼が信用を与えるのが利潤をあげるためであるように,彼が貨幣の貸し手から245)利潤を受けようとするのは,彼の事業を継続するためである。)〔「〕では,彼はなぜ,より大きな資本量にたいする命令権を握ろうとするのか? それは,この資本を充用したいと思うからです。では,なぜこの資本を充用したいと思うのか? それは,そうするのが儲かるからです。割引率が彼の利潤を消滅させるようならば,それは彼にとって儲けにならないでしょう。」

  ①〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。
  ②〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。

  239)この省かれているところでオウヴァストンは次のように言っている。--「それは,貨幣を手に入れたいという,それだけの目的からではありません。それはそれ自身ではむだなことです。」
  244)〔E〕「彼が信用を与えるのが利潤をあげるためであるように,彼が貨幣の貸し手から利潤を受けようとするのは,彼の事業を継続するためである。」--削除
  「彼が貨幣の貸し手から利潤を受けようとする」という箇所にある「利潤」は,次の脚注に記すように「信用」の誤記であろう。エンゲルスは,これが誤記であることに気づかなかったために,この部分を削除したのであろう。
  245)「利潤〔Profit〕」--「信用〔credit〕」の誤記であろう。〉 (242-244頁)

 〈このパラグラフでは、マルクスは質問者の質問にも、オウヴァストンの回答にも(  )のなかに批判文を挿入している。よってここでは引用文はそのまま紹介して、マルクスの挿入文だけ書き下すことにする。なお大谷氏の訳者注244)と245)を見ると、マルクスは〈「信用〔credit〕」〉を〈「利潤〔Profit〕」〉と誤記しているということだから、以下の書き下し文では大谷氏の指摘にもとづいて、〈「信用〔credit〕」〉と訂正したうえで行うことにする。またオウヴァストンの回答でマルクスによって省かれている部分については、訳注239)で紹介されているものを入れて書いてみた。

  「〔ケイリの質問〕平均利潤率がたとえば7-10%であると仮定すると,割引率の2%から7,8%への変化は,もちろん利潤率に影響せざるをえないのではありませんか?」
  ((ⅰ)この問いそのものが企業利得の率と利潤の率とを取り違えています! また,利潤率が両者(企業利得と利子)の共通な源泉であることを忘れています。利子率は,商業利潤や産業利潤、つまり商業家や産業家の企業利得にとっては問題です。つまり利子率が高いということは、それだけ彼らの企業利得が減るということです。しかし利子率の増減は,それが分割されるもとになる利潤、よってまた利潤率には頓着しないのです。だから例え利潤率が低くても、高い利子率はありえるのです。)
  「(オウヴァストンの回答)第1に,当事者は,自分の利潤をひどく妨げるような割引率を支払わないでしょう。彼らはそうするよりも,むしろ,自分の事業をやめるでしょう。」
  {(ⅱ)もしもわが身を破滅させずにできるのでしたら、彼らが高い割引料を支払うのは,彼らの利潤が高いかぎりは,そうしたいからでしょうし、もし利潤が低くなったときでもそうするのは,そうせざるをえないからです。}
  「割引の意味はなにか? ある人が手形を割引してもらうのはなぜなのか? それは,貨幣を手に入れたいという、それだけの目的からではありません。それ自身はむだなことです。それは,より大きい資本量を手に入れたいと思うからです。」
  ((ⅲ)ちょっと待て! それは自分の充用した資本が貨幣で還流〔moneyed returns〕して来る前に、自分の振り出した手形などの満期が来たために、貨幣を先取りして支払を行い、自分の事業の行き詰まりを避けたいと思うからです。より大きい資本量を求めるのは,ただ,事業が好調な場合か,事業は不調でも他人の資本で投機をする場合だけです。割引はけっしてたんに事業の拡張のための手段なのではありません。事業者が自身の商品を信用で販売して、買い手に信用を与えるのが、彼自身が利潤をあげるためであるように,事業者が銀行のような貨幣の貸し手から信用を受けようとするのは,彼の事業を継続するためなのです。)
  「では,彼はなぜ,より大きな資本量にたいする命令権を握ろうとするのか? それは,この資本を充用したいと思うからです。では,なぜこの資本を充用したいと思うのか? それは,そうするのが儲かるからです。割引率が彼の利潤を消滅させるようならば,それは彼にとって儲けにならないでしょう。」〉

 【ここではマルクスの挿入文が三カ所あるので、それぞれに番号を付して検討することにしよう。

  (ⅰ) まず最初のものはケイリの質問の内容に関してである。ケイリが平均利潤率が7-10%と仮定すると、割引率が2%から7、8%への変化は、利潤率に影響せざるをえないのではないかと問うたのに対して、マルクスはケイリは企業利得の率と利潤の率とを取り違えていると指摘している。企業利得の率というのは、個別資本の利潤率のことであろう。だからこれは利潤からの個別資本の取り分の率なのである。しかしケイリは〈平均利潤率〉を問題にしており、だからそれは利子と企業利得に分割される前の利潤そのものの率を問題にしているのであり、だからそれは利子率とは直接には対立関係にはないのである。つまり利子率が高ければ、それだけ企業利得の率は下がるが、元の利潤率には何の影響もないとマルクスは指摘しているわけである。なおついでにいうと、テキストでは利子率は利潤の〈邪魔をする〉、〈邪魔しなくてもよい〉などと訳されているのであるが、果たして適訳といえるのかは疑問である。

  (ⅱ) この部分の挿入分は{  }であり、(ⅰ)が(  )による挿入であったのと違っている。この{  }による括弧については大谷新本の第1巻の凡例に次のような説明がある。

  〈マルクスは,なんらかの意味で前後の記述から区切っておきたいと感じた箇所の前後に大きめの角括弧(ブラケット)を付ける習慣をもっていた……--原文の引用のなかでも--マルクスによるこの大きめの角括弧は{  }(ブレース)で示した。〉 (25頁、太字は大谷氏にる傍点による強調)

  つまりこの挿入分は(ⅰ)の挿入分とは若干異なり、大きめの角括弧で括られており、マルクスの意図としては、その部分は〈なんらかの意味で前後の記述から区切っておきたい〉と感じているということのようである。この部分の挿入は、オウヴァストンが割引率が利潤をひどく妨げるなら、当事者は割引率を支払わないし、事業やめるでしょう、と答えたことに対して書かれている。
  まず最初にマルクスは〈もしもわが身を破滅させずにできるのであれば〉と書いている。つまり高い割引率を支払うことができず、融通を受けることが出来ないなら、債務を支払えずに破滅(破産)することになり、そうなれば債権者は彼の資産を差し押さえて、そこからとれるだけのものをむしりとろうとするわけである。オウヴァストンは簡単に〈自分の事業をやめるでしょう〉というが、それは商業資本家や産業資本家にとっては〈わが身を破滅させ〉ることなのだ、とマルクスは言いたいわけである。だからそれを避けるため、彼らが割引料を支払うのは、彼らの利潤が高いときは、そうしたいからといえるが、利潤が低いのにやむなくそうするのは、そうせざるをえない、そうしなければ身の破滅になるからだ、というのである。

  (ⅲ) ここではオウヴァストンが〈割引の意味はなにか〉を問い、〈それは,より大きい資本量を手に入れたいと思うから〉だと答えていることに、〈ちょっと待て! 〉と批判を展開している。まず商業資本や産業資本が自分が入手した手形を割引しようとするのは、その手形が満期になって貨幣で支払われるまでに、自分自身が振り出した手形の満期が来てしまい、その支払に迫られているからである。だから彼は自分の資本の貨幣での還流を先取りして、自分の支払を行なうために、割引を行なうのだ、とマルクスは割引の意味を論じている。そしてもしオウヴァストンのいうように、より大きい資本量を求めるためであるのは、ただ、事業が好調で次々に新たな投資を行なうために、資本の還流を先取りしようとする場合であるか、あるいは事業が不調でも、他人の資本で投機する場合だけだというのである。この他人の資本で投機をするというのは、融通手形のようなものをイメージしているのではないかと思える。いわゆる手形貸付である。この場合は、自分に資本がなくても、手形を発行して(だからそれは「空手形」である)、それを割引して入手した現金で投機に走るという場合である。だからこれらは一般的な手形割引とは区別されなければならない。だから一般的には手形割引はけっして単に事業の拡大ための手段ではないのである。業者が信用を与えるのは利潤をえるためであるように、彼が貨幣の貸し手から信用を得ようとするのは、彼の事業を継続するためだとマルクスは批判している。

  なおこのケイリーとオウヴァストンのこの問答について、小林賢齋氏は先に紹介した『マルクス「信用論」の解明』「第5章  オーヴァーストーンの「1844年銀行法弁護」」〔補遺-3〕「資本の価値の変化」による利子率の「大きな変動」につけた注のなかで次のように指摘しているので、紹介しておこう。

  〈2) なお委員ケイリーが,彼の最初の質問*である第3728号・第3729号で,「通常の」「平均の利潤率が7-8パーセント」の場合に,「割引率の変化が2パーセントから7ないし8パーセント」に上昇したとしたら,それは「利潤率に実質的な影響を与えるに相違ないのではありませんか?」と,利潤率と利子率との関係を問い質すのは,このようなやり取りの文脈においてである。しかしオーヴァーストーンは,この質問には正面からは答えず,「割引の意味とは何か? 人はなぜ手形を割引くのか?」(第3729号A)についての意見開陳に逃れていく。マルクスが手稿「補遺」部分で,オーヴァーストーンの答弁を引用しながら,「手形割引」の経済学的意味について解説を加えていくのは,このような文脈においてなのである(cf.MEGA,S.489-491;MEW,S.439-443:訳,604-608ページ)。
  *因みに,委員ケイリーによるオーヴァーストーンに対する第1日目の質問は,第3728号Qから第3842号Qまでである。〉 (前掲書186頁)

  ここで小林氏が〈このようなやり取りの文脈においてである〉と書いてるのは、本文の次のような内容についてある。

  〈だからオーヴァーストーンも,1844年以前に較べて,それ以降では割引率ないし利子率が高くなっているという「事実」を認めて,今度はそれを,「程度についても持続期間についても」「大きな変動」に分類し,したがってこの変化つまり利子率の上昇は,「資本価値の変化」つまり「資本価値の増加」によるもので,そしてその原因は,資本需要の増大に帰されるというのである。そしてそれは,わが国の取引額が13年間で2.66倍にも増大した結果であるのだから,この変化・利子率の上昇は「弊害」などではないのである。そこで彼は第3726号A,第3781号Aにおいても繰り返し,イギリスにおける利子率上昇を資本需要増大に帰している2)。〉 (同前)

  とりあえず、小林氏の著書からの抜粋は関連資料として紹介しておくだけにする。】


【20】

 〈①(このひとりよがりの論理家は,手形はただ事業の拡張のためにのみ割引されるもの,そして,事業は儲かるから拡張されるもの,と前提している。第1の前提は間違いである。普通の事業家が手形を割引させるのは,自分の資本の貨幣形態を先取りし,だからまた再生産過程の流動を保つためである。事業を拡張するため,あるいは追加資本を割引によって「調達する」ためではなく,自分が与える信用を自分が受ける信用によって相殺[490]するためである。そして彼が自分の事業を「拡張する」ために割引させるのであれば,それは,彼が信用山師であって投機的な企画をもっているような場合を度外視すれば,だめになった事業を別の事業で埋め合わせるためであり,また利潤をあげるためではなく他人の資本を自分の手のなかに置くためである。)

  ①〔訂正〕「(」--草稿ではこのパーレンが欠けている。
  ②〔異文〕「流通[過程]〔Circulation[sprocesses]〕」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「資本を受け[入れる]〔Capital Aufzu[nehmen]〕」という書きかけが消されている。〉 (244-245頁)

 〈このひとりよがりの論理家気取りは,手形はただ事業の拡張のためにのみ割引されるもの,そして,事業は儲かるから拡張されるもの,と前提しています。しかし第1にこの前提は間違いです。普通の事業家が手形を割引するのは,自分の資本の貨幣形態を先取りし,だからまた再生産過程の流動性を保つためです。事業を拡張するために,あるいは追加資本を調達するために、割引をするのではありません。そうではなく,自分が与える信用を自分が受ける信用によって相殺するためです。つまり彼が与えた信用とは、それは彼が所持している手形がそれを表しています。彼はそれを割引して、貨幣を先取りするのですが、それは彼が受けた信用、つまりそれは彼が以前振り出した手形であって、他人の手にあります。その自分が受けた信用を表す手形の満期が来たので、それを決済するために、彼は自分が与えた信用である手形を割引して貨幣を先取りしたのです。
  そして彼が自分の事業を「拡張する」ために割引させるのであれば,それは,彼が信用山師であって投機的な企画をもっているような場合を度外視すれば,だめになった事業を別の事業で埋め合わせるためであり,また利潤をあげるためではなく他人の資本を自分の手のなかに置くためです。〉

 【この部分は全体が(  )に入っているが、こはれその前のパラグラフのオウヴァストンの証言の最後の部分〈「では,彼はなぜ,より大きな資本量にたいする命令権を握ろうとするのか? それは,この資本を充用したいと思うからです。では,なぜこの資本を充用したいと思うのか? それは,そうするのが儲かるからです。割引率が彼の利潤を消滅させるようならば,それは彼にとって儲けにならないでしょう。〉という部分を批判するためのものである。ただ改行しているので、本来はオウヴァストンの回答に続けて挿入文として書くものだから、恐らく全体を括弧で括ったのではないだろうか。
  ここでは主に二つのことが論じられている。一つは手形割引とは何かということ、もう一つは事業を「拡張する」ために割引されるのはどういう場合か、という問題である。それぞれ項目を立てて検討しよう。

  (1) まず手形割引とは何かということである。オウヴァストンはそれは事業の拡張のためだというのであるが、そうではなく、それは自分の資本の貨幣形態を先取りして事業を継続し、再生産過程の流動性を保つためだとマルクスは述べている。そこでマルクスは〈自分が与える信用を自分が受ける信用によって相殺するためである〉とも述べているのであるが、この理解が少し問題である。
  まず手形割引は銀行が与える信用ではないという理解が重要である(この点、《第25章および第26章の冒頭部分の草稿の段落ごとの解読》【21】パラグラフのところでも指摘したように、大谷氏の「銀行業者が信用を与える」についての説明は間違っている)。手形割引は銀行の貸付の一形態であり、マルクスが第25章該当個所で、〈銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる〉(177頁)と述べていたが、そこには手形割引はない。しかしその前の、銀行業者の貸付について論じているところでは(【16】パラグラフ)、〈貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),手形割引--手形をその満期前に貨幣に転換すること--によって,また,さまざまの形態での前貸,すなわち,スコットランドの諸銀行でのような対人信用での直接前貸,各種の利子生み証券,国債証券,株式を担保とする前貸,ことにまた積荷証券,倉荷証券,および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸によって,預金を越える当座貸越し,等々によって,行なわれる〉(174頁)と述べている。つまりマルクスは銀行による「貸付」と「与える信用」とは区別して論じていたのであり、手形割引は貸付の一形態ではあっても、銀行業者が与える信用の一形態ではないという理解が必要なのである。
  だからここで事業者が〈自分が与える信用〉というのは、当然、自分が今所持していて割り引こうとしている手形のことである。これは彼が自分の商品を信用で販売して、彼の商品の価値が債権の形で実現したものなのである。だからそれは彼が自分の商品を販売した業者に信用を与えたことを表している。それを彼は〈自分が受ける信用によって相殺する〉というのであるが、だからここで〈自分が受ける信用〉というのは、銀行が与える信用という意味ではない。なぜなら、彼は銀行から手形の割引を受けるのであり、それは銀行から信用を受けることではなく、貸付を受けることだからである。だから事業者が〈受ける信用〉というのは、彼が信用で何らかの商品を買い、その時点で彼が振り出した手形のことで、それは第三者がもっているわけである。そしてその手形の満期が来たので、自分が与えた信用である手形を割り引いて、貨幣を先取りして、その満期手形を決済するためだ、とマルクスは述べているのである。それは彼が受けた信用(彼が振り出した手形)を彼が与えた信用(彼が商品を信用で販売して受け取った手形)で相殺することだというのである。もちろんここで「相殺」というのは、若干、問題がある。なぜなら、相殺というのは本来は貨幣が表にでてこないで諸支払が決済されることだからである。だからこの場合のように、手形割引で現金を先取りして決済する場合を「相殺」というのは若干おかしく感じられるかも知れない。しかしマルクスが言いたいのは受けた信用を与えた信用で決済しているということから、信用を信用で決済したから「相殺」と述べていると理解できるのではないだろうか。

 {上記のように一通り書いてから、若干疑問が生じた。だから以前の書いたものはそのままに、以下、追記しておくことにする。というのはもう一つの考え方がありうるように思えるからである。〈自分が与える信用〉の理解については問題はない。それは彼が所持し、これから割り引こうとしている手形のことである。問題は〈自分が受ける信用〉についてである。この場合は手形割引は貸付の一形態であって、銀行が与える信用とは言えないという指摘は、その限りでは正しい。しかしマルクスは銀行が与える信用の一形態として銀行券を挙げている。つまり手形割引を現金でやる場合は確かに貸付であるが、割引を銀行券でやる場合には、それは貸付であると同時に信用を与えることになるからである(この場合、銀行は割引に必要な現金を持ち出す必要はない。銀行は自行の信用だけで割り引きし貸し付けるのである)。この場合は信用貨幣(手形)を別の形態の信用貨幣(銀行券)に転換するだけである。しかしこの別の形態の信用貨幣(銀行券)が支払手段として機能するのである。それは厳密な意味では〈貨幣形態を先取り〉するとは言えないが、支払手段を先取りするとは言いうるであろう。だから〈自分が受ける信用〉が手形割引で入手した銀行券を意味すると考えてもよいのではないだろうかと思えるのである。彼は入手した銀行券で満期が来た手形への支払を行う。その銀行券を入手した業者はそれを自分の取引銀行に預金した場合、その銀行券は銀行間の交換によって元の銀行にもどるであろう。だからこの場合には、確かに現金が出てくるのではないから「相殺」と言いうるわけである。しかしこれを〈自分が与える信用を自分が受ける信用によって相殺する〉と言い得るのかどうかには若干の疑問が残る。〈自分が与える信用〉=割引する手形、〈自分が受ける信用〉=割り引いて入手した銀行券、だと、これはただ手形割引そのものを「相殺」と言っていることにならないか。しかしここには相殺に値するようなものは何もないような気がする。少なくとも割り引いただけでは、債務の決済はいまだ行われていないからである。だからこの解釈にはやはり無理があるかも知れない。
  いずれにせよ、ハッキリしないが、自信がないので、二つの解釈をそのまま並べておくことにする。}

  (2) 次は業者が事業を「拡張する」ために手形を割引する場合である。その場合、もし彼が信用山師であって投機を目論んでいることを度外視するなら、それがただ駄目になった事業を別の事業で埋め合わせるためであり、つまり利潤をあげるためではなく他人の資本を自分の手のなかに置くためだと述べている。これは第25章該当部分で(われわれのパラグラフでは【20】で)、〈そのうえ,このような取引での損失は,取引を縮小することにはならないで,ただちにそれを増大させることになった。人びとが困ってくればくるほど,彼らには,前の投機で失った資本を新たな前貸を受けて埋め合わせるために,買い入れる必要がますます大きくなったのである。そこで購買は,需要供給の問題ではなくなって,窮地におちいって苦しんでいる商社の金融操作finance operations〕のうちの最も重要な部分となった〉(175頁)と述べていたように、この場合は投機が問題になっているが、いずれにせよ損失を埋め合わせるために、融通手形を振り出し、それを割り引いて自分の損失を他人に押しつけ、他人の資本を自分の手のなかに置こうとしているというわけである。】


【21】

 〈ロイド氏は,このように割引を「追加の資本量」の取得と(資本を表わす手形の貨幣への転化〔conversion〕とではなく)同一視したあとで,責め道具をかけられると,たちまち,もとのところへ退く。〉 (245頁)

 〈ロイド氏は,このように割引を事業者が彼の商品資本の債権での実現形態でしかない手形を、現実の貨幣に実現することを先取りすることではなくて、あくまで「追加の資本量」の取得と同一視しするのですが、しかしそのあとで,責め道具をかけられると,たちまち,もとのところへ退くです。〉

 【これも次のパラグラフの抜粋文につけられた前文のようである(エンゲルスはここでも改行せずに続けている)。ここで〈責め道具〉というのは、次の抜粋文におけるケイリの質問のことであろう。〈もとのところへ退く〉というのも次のパラグラフを検討するなかで確認することにしよう。】


【22】

 第3730号。〔ケイリ〕商人は,事業をやりだしたからには,一時的には割引率が上がることがあっても,ある期間は自分の仕事を続けなければならないのではないでしょうか? 〔」〕--これに答えるかわりに高利貸はせせら笑って言う。「どんな個々の取引でも,ある人が高い利子率でではなくて低い利子率で資本の支配権を入手できるなら,そのような限られたものの見方で見るかぎりは,それが彼にとって好都合だということは疑いないことです。」これに反して,前ロイドが,「資本」という言葉でいつでもただ自分の銀行業者資本〔Banker's Capital〕のことだけを考え,だからまた,手形を割引してもらう人を,その人の資本が商品形態で存在するとか,その人の資本の貨幣形態〔money form〕が手形であって,この手形をロイド氏が別の貨幣形態〔money form〕に転換するのだとかという理由で,「資本をもたない」人とみなすなら,それはたしかに「広げられたものの見方」ではある。

  ①〔異文〕「その人の資本が商品形態で存在するとか,その人の資本の貨幣形態〔money form〕が手形であって,この手形をロイド氏が別の貨幣形態〔money form〕に転換するのだとかという理由で,」--すぐに書き加えられている。〉 (245-246頁)

 〈このパラグラフも委員会報告からの抜粋のなかにマルクスは文を挿入しながら、最後に批判を展開するというようになっている。よって報告からの抜粋についてはそのまま紹介して、マルクスの批判文だけ平易に書き下すことにする。

 「〔質問者ケイリ〕商人は,事業をやりだしたからには,一時的には割引率が上がることがあっても,ある期間は自分の仕事を続けなければならないのではないでしょうか? 」
 これにまともに答えるかわりに高利貸(オウヴァストン)はせせら笑って次のように言います。
 「どんな個々の取引でも,ある人が高い利子率でではなくて低い利子率で資本の支配権を入手できるなら,そのような限られたものの見方で見るかぎりは,それが彼にとって好都合だということは疑いないことです。」
 前ロイド氏は、事業者が低い利子率を求めることを〈限られたものの見方〉だなどというのですが、確かに,彼が,「資本」という言葉でいつでもただ自分の銀行業者資本〔Banker's Capital〕のことだけを考えているという、確かになんとも「広いものの見方を」をしていらっしゃるとは言い得ます。彼は,手形を割引してもらう人を,その人の資本が商品形態で存在するのかとか,その人の資本の貨幣形態〔money form〕がいまだ手形であって,この手形を彼が別の貨幣形態〔money form〕に転換するのだとかという理由だけで,彼らを「資本をもたない」人たちとみなすのですから。〉

 【質問者(ケイリ)は、オウヴァストンが〈当事者は,自分の利潤をひどく妨げるような割引率を支払わないでしょう。彼らはそうするよりも,むしろ,自分の事業をやめるでしょう〉と答えたのに対して、事業者が高い割引率でも支払わざるを得ないのは、満期が迫っている自分の手形を決済できないと事業が破滅するからであり、だから一旦事業をやりだした商人は、一時的に割引率が上がっても、事業をやめるということはできず、自分の仕事を続けなければならないのではないかと質問をしているわけである。
 しかしオウヴァストンは、その質問にまともに答えずに、高い利子率よりも低い利子率で〈資本の支配権〉を入手できるなら、それは彼らにとっては好都合だということは疑いない。しかしそれは彼らが〈限られたものの見方で〉ものをみているからだ、などと回答したわけである。
 それに対して、マルクスは皮肉を込めて、オウヴァストンの見解は〈「広げられたものの見方」ではある〉と述べている。というのは、オウヴァストンは、割引してもらうために事業者たちが持ってくる手形というのは彼らの現実資本であり、それが商品資本として存在していたものが、今はそれが手形という債権の形で実現したものであるということ、そしてそれを現実の貨幣形態に転換することを望んでいるということを理由に、彼らを〈「資本をもたない」人とみなす〉、つまりオウヴァストンにとっての資本とはmoneyed capitalでしかなく、だから貨幣資本をもたずに、それへの転換を要求する人たちは彼にとっては〈「資本をもたない」人〉なのであるが、しかしこれこそ彼の問題意識の一面的で狭量で矮小なことを示すものなのだが、そんなオウヴァストンが事業者たちを〈限られたものの見方〉をするなどと批判する資格があるはずがない、とマルクスは批判しているわけである(マルクス一流の皮肉を込めて)。
 ところで先のパラグラフとの関連でいうと、〈責め道具をかけられる〉というのは、オウヴァストンは、割引とは「追加の資本量」を取得することだと主張したのであるが、しかし質問者は「追加の資本量」を取得するためではなく、一旦始めた事業を続けるために、例え一時的に高い割引でも受けざるをえないのではないのか、と問い詰めたことを指すのであろう。
 それに対して〈たちまち,もとのところへ退く〉というのは、彼はこの質問にはまともに答えることを避けて、銀行事業者としての化けの皮をさらして、彼らにとって、「資本」とは貨幣資本(moneyed capital)だけを意味しており、それで儲けるために常に高い利子率を求めるという銀行業者の基本的なスタンスのことではないかと思える。】

 (続く)

 

2020年10月21日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-4)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  §  各パラグラフごとの解読(続き)


【8】

 〈①そこで,彼の挙げる1847年の例をとってみよう。
    ②銀行利子率は次のようであった。
1月,だいたい3-3[1/2]%。2月,4-4[1/2]%。3月,たいてい4%。4月(パ ニック),4-7[1/ 2]%。5月,5-5[1/2]%。6月,だいたい5%。7月,5%。8月,5-5[1/2]%。9月,5%,ただし,5[1/4]%,5[1/2]%,6%と小変動あり。10月,5%,5[1/2]%,7%。11月,7-9%。12月,5-7%。

  ①〔注解〕この大きな括弧にくくられた箇所での記述の典拠は突きとめられなかった。
  ②〔異文〕「銀行利子率」← 「利子率」〉 (234頁)

  【このパラグラフは、オウヴァストンが挙げる1847年の銀行利子率の推移が紹介されているだけなので、平易な書き下しは省略した。
  大谷氏はマルクスが〈銀行利子率〉と書いている部分を、エンゲルスが〈イングランド銀行の公定利子率〉に書き換えていることについて次のように指摘している。

  〈エンゲルス版では,このように,草稿での「銀行利子率」を「イングランド銀行の公定利子率」と修正しているが,公定利子率は最低利子率であったのであって,ここに挙げられている数字は最低利子率以上の市場利子率(イングランド銀行が実際に実行した利子率)である。しかし,ここでマルクスが挙げている数字と,銀行法委員会報告,1857年,第2部,付録で見ることのできる数字とは,完全には合致していない。〉 (234頁)

  エンゲルスは利子率の数値も一部書き換えているが、詳しくはとりあえずは不要であろう。いずれにせよ、マルクスは〈彼の挙げる1847年の例をとってみよう〉と述べているのである。つまり〈〉=オウヴァストンが挙げている数値を紹介しているだけであり、何らかの公式に発表された数値を挙げているわけではないのである。もちろん、マルクスが数値を間違って写す可能性はないわけではないが。いずれにせよマルクスの以下の考察は上記の数値にもとづいたものと考えるべきであろう。】


【9】

 この場合には,利子が上がったのは,利潤が減って諸商品の価値{諸商品の価格で表現された}が非常に大きく下がったからである。だから,この場合に前ロイド氏が,1847年に利子率が上がったのは,資本の価値が上がったからだ,と言うのならば,彼が資本の価値ということで考えているものはmoneyed capitalの価値でしかありえないのであり,しかもこれが利子率なのである。しかし,あとで132)彼は,おべんちゃらをちょろりと出す。そして資本の価値が利潤率と同一視されるのである。(そのうえ,前ロイドは,1856-57年に支払われた高い利子率の一部が,[487]利子を利潤からではなく他人の資本から支払う信用山師たちが盛んに活動していたことの兆候だった,ということを知らなかった。)

  ①〔異文〕「諸商品」← 「実物資本〔real capital〕」
  ②〔異文〕「高い」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「利子」← 「利潤率」

  132)〔E〕「彼は,おべんちゃらをちょろりと出す〔d.Fuchsschwanz herausstrecken〕。そして」→ 「おべんちゃらがちょろりと出てきて,」
  Fuchsschwanzは〈狐のしっぽ〉であるが,〈狐のしっぽを出す〉というのは,ドイツ語では,お世辞を言うとか,おべっかを使うというニュアンスをもつ句であって,〈正体を現わす〉という意味ではない。それは,たとえば。"Wer mitden Fuchs geht,muß mit dem Schwanze wedeln."(狐といっしょに行く人は,ご機嫌とらねばなりませぬ)ということわざでのSchwanzを見ればわかる。Vgl;"Fuchsschwanz"in:Grimms Deutsches Wörterbuch.〉 (234-235頁)

 〈上記の一覧表でも分かりますように、利子率は10月、11月と恐慌時に高騰しています。このように、恐慌時に,利子が上がったのは,産業資本や商業資本の利潤が減って、諸商品の価値{諸商品の価格で表現された}が非常に大きく下がったために、諸資本は諸支払ができなくなり、支払手段を入手するための、moneyed capitalへの需要が異常に高まったからなのです(この場合、産業資本や商業資本にとっては「支払手段」ですが、銀行にとっては「貸付可能な貨幣資本」(moneyed capital)なのです)。ですから、この場合に前ロイド氏が,1847年に利子率が上がったのは,資本の価値が上がったからだ,と言うならば,彼が資本の価値ということで考えているものはmoneyed capitalの価値でしかありえないのです。そしてこれが利子率のことなのです。つまり彼は利子率が上がったのは、利子率が上がったからだ、と言っているだけなのです。しかし,あとで彼は,現実資本(産業資本や商業資本)に媚を売るためにおべんちゃらをちょろりと出します。それが資本の価値を利潤率と同一視するという彼の主張なのです。(そのうえ,前ロイド氏は,1856-57年に支払われた高い利子率の一部が,利子を利潤からではなく他人の資本から支払う信用山師たちが盛んに活動していたことの兆候だった,ということを知らなかったのです。)〉

 【これは前パラグラフのオウヴァストンが挙げる1847年の利子率の推移をもとに、1847年の10月、11月に利子率が10%ほどにも上った理由について、それは恐慌によって利潤率が低落し、諸商品の価格が暴落した結果だと指摘している。商品価格が暴落したために、産業資本や商業資本は、暴落前の価格で商品を信用で購入していたために、諸支払ができなくなり、銀行にmoneyed capital(この場合は銀行券)の貸し付けを求めて殺到したわけである。だからmoneyed capitalへの需要が高まり、利子率が高騰したわけである。この場合、平易な書き下し文でも書いたが、産業資本や商業資本にとって必要なのは支払手段としての貨幣(この場合はイングランド銀行券)だが、それは銀行にとっては貸付可能な貨幣資本、すなわち利子生み資本(moneyed capital)という規定性を持っている。だからそれはmoneyed capitaliに対する需要なのである。
  だから前ロイド氏が「資本の価値」が上ったからだ、というのはmoneyed capitalの価値が上ったからだということであり、つまり利子生み資本の価値とは利子率のことだから、利子率が上ったからだということであり、結局、彼はただ同義反復を繰り返しているだけだ、というのがマルクスの批判である。
  ただ前ロイド氏は、そうした産業資本や商業資本の苦境に乗じてぼろ儲けをしたうしろめたさから、現実資本におべっかをつかい、おべんちゃらをちょろと出す、とマルクスは皮肉っている。つまりそれは彼がいう資本の価値というのは利潤率のことだという彼の主張のことである(ノーマンも彼のいう「資本」というのは、「生産に使用されるすべての商品」のことだなどと述べていた)。しかもマルクスは彼は1856-7年の恐慌時の高い利子率の一部が、実は産業資本家や商業資本家だけの問題ではなくて、信用山師(つまり投機師)たちが跋扈した結果でもあることを知らなかったとも付け加えている。
  ただ大した問題ではないが、マルクスが先に見ていた利子率の推移は、1847年の恐慌時のものであったのに、ここでは1857年の恐慌時のことを問題にしていることには若干の齟齬がある。まあ同じ恐慌時の問題だからということであろうか。】


【10】

 〈①(しかし彼は,1857年の恐慌の数か月前にも,「事業はまったく健全だ」と思っていたのである。〔)〕

     ①〔異文〕パーレンでくくられたこの一文は書き加えられている。〉 (235-236頁)

   〈しかし彼(前ロイド氏)は、1857年の数カ月前には、「事業はまったく健全だ」と思っていたのです。〉

  【このパラグラフは一つのパラグラフというより、大谷氏が〈この最後の一文は,狭い行間に詰め込まれるように書かれている。あとから書き込まれたものであろう〉(236頁)と訳者注で指摘しているので、恐らく先のパラグラフの最後に(   )に入れて述べたことに関連して後から付け加えられたものと考えられる。つまり前ロイド氏は1856-7年に支払われた高い利子率が、他人の資本から支払う信用山師たちが盛んに活動していたことの徴候だったことも知らなかったのだが、それは彼が1857年の恐慌をその直前まで予想することもできず、事業はまったく健全だと考えていた--確かに彼らの事業にとっては高い利子率は大儲けをもたらし好景気を意味したのだが--ことと関係しているというのである。つまり信用山師である投機師たちが跋扈し、景気が膨張してバブル状態になっていたのに、彼は、自分たちの儲けばかりに目が行っていて、鈍感にもそれを健全だと考えていたのである。だからこそ、彼は彼に支払われた高い利子率がそうした山師たちによって他人の資本から支払われたことについても知らなかったし、無頓着だったわけでもあるのである。】


【11】

 〈「第3722号。利子率の上昇によって事業の利潤がなくなるという考えはまったく間違っています。第1に,利子率の上昇はめったに長続きしません。第2に,もしそれが長く続くものであり,高水準のものであるとすれば,それは実際に資本の価値の上昇なのですが,ではなぜ資本の価値が上がるのか。それは利潤率が増加したからです。」(つまりわれわれはここで,「資本の価値」の隠された一方の意味を嗅ぎつけたわけである。ちなみに,利潤率はかなり長い期間にわたって高いのに企業利得は減少し利子率は上がる,ということ,〔利子が〕利潤のかなり大きな部分を呑み込む,ということもありうるのである。)〉 (236頁)

 〈このパラグラフは委員会報告からの抜粋とそのあとに括弧によって括られたマルクスによる挿入文とからなっている。報告書からの抜粋はそのまま紹介して、マルクスの挿入文だけ平易に書き下しておく。

 第3722号。利子率の上昇によって事業の利潤がなくなるという考えはまったく間違っています。第1に,利子率の上昇はめったに長続きしません。第2に,もしそれが長く続くものであり,高水準のものであるとすれば,それは実際に資本の価値の上昇なのですが,ではなぜ資本の価値が上がるのか。それは利潤率が増加したからです。」(つまり私たちはここで,「資本の価値」の隠された一方の意味を嗅ぎつけたわけです。ちなみに,利潤率はかなり長い期間にわたって高いのに企業利得は減少して利子率は上がる,ということはあります。つまり利子が利潤のかなり大きな部分を呑み込むということもありうるのです。)

  【このパラグラフも【6】パラグラフの続きであり、委員会報告におけるオウヴァストンの証言からとってきている。
   ここでオウヴァストンは、利子率が上昇したために事業の利潤がなくなったという考えは間違いだと述べ、二つの理由を挙げている。一つは利子率の上昇はめったに長続きしないこと、確かに恐慌時のような異常な高い利子率は一時的なものである。確かにその場合、利潤率の下落の原因を高い利子率に求めるのは正しくはないが、しかしその異常に高い利子率は、恐慌によって低落した利潤率の他の反面ではある。もう一つオウヴァストンが挙げている理由は、高水準の利子率が持続する場合、資本の価値が上昇したからであるが、それが上ったのは、利潤率が増加したからだと述べている。
   それに対して、マルクスは〈われわれはここで,「資本の価値」の隠された一方の意味を嗅ぎつけた〉と述べている。つまり長く続く利子率の上昇があれば、それは利潤率が増加したからだと前ロイド氏は認めるのだが、それは利子というものは利潤から分割されたものだ、ということを暗に認めることだとマルクスは指摘しているわけである。
  そして利子が利潤の分割されたものだと分かれば、利潤が分割されるもう一方の部分である企業利得とそれは対比されるのであり、だから高い利潤率が例えあったとしても、企業利得が利子に食われて、利子率があがっているということもありうるのだ、ということである。つまり高い利子率が高い利潤率の結果だということを例え認めたとしても、それは産業資本家や商業資本家の企業利得を利子がかなり大きな部分を呑み込んでいることを否定しないのだということである。だから前ロイド氏が〈利子率の上昇によって事業の利潤がなくなるという考えはまったく間違っています〉というが、しかしその可能性はあるのだとマルクスは言いたいのであろう。】


【12】

 第3724号。利子率の上昇は,わが国の事業の非常な増大と,利潤率の大きな上昇との結果でした。そして,利子率の上昇はこの上昇自身の原因だった二つのことをだめにするという苦情①を言うのは,どうしようもない一種の論理的不合理です。」

   ①〔異文〕ここにピリオドがつけられたが,消されている。〉 (236頁)

  【このパラグラフは、オウヴァストンの証言だけなので、平易な書き下し文は省略した。この証言は、先のパラグラフの証言と関連したものといえる。先のパラグラフでは利子率の上昇がながく続くものであり、高水準のものであれば、それは利潤率が増加したからだと述べていたのであるが、それについて、今度は、より一般化して、利子率の上昇は、我が国の事業が増大し、利潤率が上昇した結果だというのである。だから利子率の上昇が、その上昇の原因である事業を駄目にしたというのは、一種の論理的不合理だというのである。
   ここでオウヴァストンが〈利子率の上昇は上昇自身の原因だった二つのこと〉と述べているのは、【6】パラグラフの証言で〈利子率の変動は次の二つの原因……すなわち,資本の価値の変化から生じるか、または国内にある貨幣の総額の変化から生じます〉と述べていたことを指すのであろう。それを〈だめにする〉というのは、だから資本の価値を下げるとか、〈貨幣の総額〉を減少させるということだろうか。そうした〈苦情を言うのは,どうしようもない一種の論理的不合理〉だというわけである。これに対する反論は次のパラグラフでマルクスによってなされている。】


【13】

 これは,かりに彼が次のように言ったとした場合とまったく同様に,合理的である。すなわち,「利潤率の上昇は商品価格の投機的な高騰の結果だったのであり,そして,価格高騰は146)……をだめにすると苦情を言うのは……147),云々」と。あるものがそれ自身の原因であるものをだめにするということは,ただ高い利子率に惚れ込んだ高利貸においてのみ「非論理的」なのである。ローマ人の偉大さは彼らが行なったもろもろの「征服」の原因だったが,彼らが行なった征服はその「偉大さ」をだめにした。②富は奢侈の原因であるが,奢侈は富をだめにする,等々。この「まぬけ〔Schaaf〕」が! この154)成り上がり貴族の百万長者の「論理」が全イギリスに抱かせた尊敬の念以上に,今日の時代の白痴性をよく表わしうるものはない。それはともかく,高い利潤率や事業の拡張は高い利子率の原因だとしても,それだからといって,高い利子率はけっして高い利潤,等々の原因ではないのである。そして問題はまさに,高い利潤率が消えてなくなった〔flöten gegangen〕あとでも,この高い利子(恐慌のときに現実に現われるような)が続いてはいなかったか,158)ということなのである!   

  ①〔異文〕「征服は原因であった」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「奢侈は……である」という書きかけが消されている。

  146)〔E〕「…… 〔etc〕を」→ 「この上昇自身の原因を,つまり投機を」
  147)〔E〕「…… 〔etc〕」→ 「……一種の論理的不合理です」
  154)「成り上がり貴族〔dunghill aristocrat〕」--dunghil1の上に,この語をドイツ語にしたDüngerhaufen(くその山)という語が書き添えられている。つまりdunghill aristocratは,文字どおりには「くそだめ貴族」なのである。だが,OEDによると,dunghil1には,"Applied opprobriously to a person of evil life,or of base station"という語義があり,用例として,Thomas Beconの"Reliques of Rome"(1553年),Shakespeareの"King John"の第3幕第4場(1595年),John Spencerの"A Discourse concerning Prodigies"2ed,(1665年),からの3例が挙げられている。ここで,マルクスはこの語によって,オウヴァストンがa person of base stationであること,つまり「成り上がり者」であることを椰楡していたのではないか。そうだとすれば,「成り上がり貴族」という岡崎訳は,けだし適訳と言うべきであろう。
  158)〔E〕挿入--「またははじめて絶頂に達しなかったか,」〉 (236-238頁)

 〈彼は、高い利子率がそれ自身の原因である事業を駄目にしたという苦情は、論理的不合理だというのですが、しかしかりに彼が次のように言ったとした場合とまったく同様に,それは合理的なのです。すなわち,「利潤率の上昇は商品価格の投機的な高騰の結果だったのであり,そして,価格高騰はこの上昇自身の原因を、つまり投機をだめにする、云々」と。これはまったく論理的にも合理的です。あるものがそれ自身の原因であるものをだめにするということは,ただ高い利子率に惚れ込んだ前ロイド氏のような高利貸的な精神においてのみ「非論理的」に思えるのです。しかし寄生虫である高利貸しがその寄生した対象そのものを駄目にしたのは歴史的事実であり、まったく合理的なことです。こんなことは幾らでも例を挙げることができます。例えばローマの偉大さは彼らが行なったもろもろの「征服」の原因だったが,彼らが行なった征服はその「偉大さ」をだめにした。富は奢侈の原因であるが,奢侈は富をだめにする,等々。これらはすべて論理的であり、合理的でもあります。この「まぬけ」め! この成り上がり貴族の百万長者の「論理」が全イギリスに抱かせた尊敬の念以上に,今日の時代の白痴性をよく表わしうるものはないのです。それはともかく,高い利潤率や事業の拡張は高い利子率の原因だとしても,それだからといって,高い利子率はけっして高い利潤,等々の原因ではないのです。そして問題はまさに,高い利潤率が消えてなくなったあとでも,この高い利子(恐慌のときに現実に現われるような)が続いてはいなかったか,ということなのです!〉

 【ここではマルクスは、利子率の上昇が事業を駄目にしたという苦情に対して、オウヴァストンが、事業の非常の増大と、利潤率の大きさが利子率の上昇の原因なのだから、利子率の上昇が、その原因を駄目にしたなどと苦情をいうのは、論理的に不合理だ、と述べていることに怒りを爆発させて、このまぬけが! と罵倒し、成り上がりの百万長者の「論理」だと揶揄している。
  そしてマルクスはあるものがそれ自身の原因をだめにするということは、何も論理的に不合理なものではないと反論を展開している。それを不合理と考えるのは、彼らが高い利子にほれ込んだ高利貸しと同じ意識をもっているからだ、というのである。しかし高利貸しもその高い利子を搾り取ることによって、その搾り取った対象を駄目にするのであって、それは彼らがそうしたのと同じだともいうのである。そしてあるものがそれ自身の原因を駄目にする例をいくつか挙げている。
  そしてマルクスは、とにかく高い利潤率や事業の拡張が高い利子率の原因だったとしても、そのことは高い利子率が決して高い利潤率の原因ではないこと、そしていま問題になっているのは、高い利潤率が消えてしまったあとでも、高い利子率が続くという問題なのであり、恐慌時の利子率の高騰が問題になっているのだ、と指摘している。】


【14】

 第3718号。割引率の非常な上昇について言えば,それはまったく資本の価値の増大から生じる事情であって,この資本の価値の増大の原因は,だれでもまったく明らかに発見できることだと思います。私がすでに示唆した事実ですが,この〔銀行〕法が実施されていた13年間にこの国の貿易は4500万ポンド・スターリングから1億2000万ポンド・スターリングに増大しました。この簡単な数字に含まれているすべての出来事をよく[488]考えてください。これほど巨大な貿易増加を処理するための莫大な資本需要を考えてみてください。また同時に,この大需要を供給すべき自然的な源泉,すなわちこの国の年々の貯蓄が,最近の3年か4年のあいだに戦争目的のための,利益を生まない出費に食われてしまったことを考えてみてください。あからさまに言えば,私は利子率がもっと高くならないことを意外に思っています。言い換えれば,この巨大な操作を処理するための資本逼迫が,みなさんがすでにご存じであるよりもはるかに切迫したものでないことを,私は意外に思っているのです。」

  ①〔注解〕「この〔銀行〕法」---本書本巻181ページの注解③を見よ。〉 (238頁)

 【これも委員会報告からの抜粋だけなので、平易な書き下し文は省略する。ただこのパラグラフの証言番号は〈第3718号〉となっている。つまり【11】パラグラフ(第3722号)や【12】パラグラフ(第3724号)とは順序が逆になっている。それ以外はほぼ証言番号順にマルクスは抜粋しているのであるが、このパラグラフだけ順序が違っている。それが何を意味するのかはよく分からないが、何らかの意図があると考えるべきであろう。
  ここでもオウヴァストンは利子率の非常な上昇の原因はまったく資本の価値の増大から生じたものだが、資本の価値が増大した原因は、貿易額の増大とその貿易増加を処理する莫大な資本需要、そしてこの大需要に応ずるべきこの国の年々の貯蓄が、最近の戦争目的のために、利益を生まない出費に食われてしまい、資本逼迫が生じているからだ、というのである。これに対する批判は次のパラグラフでマルクスによって行なわれているので、それを検討することにしよう。

  なお注解のなかに〈本書本巻181ページの注解③を見よ。〉とあるが、それを参考のために紹介しておこう。

  〈③ 〔注解〕「1844年の〔銀行〕法」--「銀行券の発行を調節するための……法」,ロンドン,1844年。〔MEGA II/4.2の注解では,このあと,「1844年のイギリスの銀行立法についてエンゲルスは次のように書いている」,として,『資本論』第3部のエンゲルス版「第34章 通貨原理と1844年のイギリスの銀行立法」のなかにエンゲルスが挿入した,銀行立法についての解説を引用している。これは本章の末尾(213-215ページ)に「補注1844年の銀行立法についてのエンゲルスの解説」として収めておく。〕〉 (181頁)】


【15】

 この高利貸論理家のこの奇妙な,用語の混乱ぶり!
(ⅰ)ここでまたまた彼は得意の「資本価値の増大」を持ち出すのだ! こやつは,一方の側ではこのような非常な再生産過程の拡張,つまり実物資本real capitalの蓄積が行なわれ,他方の側には「これほど巨大な貿易増加を処理するための莫大な……需要」が向かっていった「資本」があった,と思い込んでいるのか! この増加はそれ自身資本の増加ではなかったのか,そしてこの増加が「需要」をつくりだしたとき,それは同時に「供給」をもつくりだしたのではないのか,そしてまた同時に「monied capital」の供給の増加さえをもつくりだしたのではないのか? 利子が高くなったなら,それはただ,monied capitalにたいする需要がそれの供給よりももっと速く増大したからでしかない。このことは,言い換えれば,実物的生産〔reale Production〕が拡大するにつれてその運営が信用システムの土台〔Basis〕の上で拡大されたということに帰着する。信用システムなしには,実物的な膨張〔rea1 Expansion〕が「融通」にたいする需要の増大といっしょに生じるはずがないのであり,そしてこのことこそは,明らかに,「莫大な需要」ということでこの銀行家が考えているものである。輸出貿易を4500万から1億2000万に増加させたものが資本にたいする需要の膨張でないことはたしかである。/(ⅱ)さらにまた,前ロイド氏が,②③クリミア戦争に食われてしまった「この国の年々の貯蓄」こそは「この大需要にたいする供給の自然的な源泉」をなすものだ,と言うとき,それはいったいどういう意味なのか? 第1に,とるに足りないクリミア戦争とは違った戦争だった1792-1815年のイギリスは,なにで蓄積をしたのか? 第2に,もし自然的な源泉が枯渇したとき,資本はどんな源泉から供給されたのか? イギリスは周知のように外国から借金をしてはいなかった。もし「自然的な」源泉とは別にさらに「人為的な」源泉があるのなら,戦争では「自然的な」源泉を利用し事業では「人為的な」源泉を利用するということは,じっさい一国にとって最も望ましい方法ではなかろうか? もしもただ旧来のmonied Capitalがあるだけだったら,それは高い利子率によってその効果を2倍にすることができたであろうか? 前ロイド氏は,明らかに,国民の「年々の貯蓄」(といっても,この場合には「食われ」てしまったのだが)はただmoneyed Capita1に転化するだけだ,と思っている。だが,もし現実の蓄積が生じなかったとすれば,この生産にたいする貨幣請求権の蓄積がいったいなんの役にたつのだろうか?

  ①〔異文〕「……のままだったなら〔Blieb〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「クリミア」--書き加えられている。
  ③〔注解〕「クリミア戦争」--〔MEGA II/4.2の〕197ページ32行への注解を見よ。〔この注解は次のとおり。--1853年6月14日に行なわれた,トルコにたいするロシアの干渉であって,この干渉にたいして王宮〔トルコ政府〕は1853年10月16日に宣戦布告をもって応えた。1854年3月にイギリス連合王国とフランスがトルコの同盟国として戦争に加わったことによって,1853年に起こったロシアとトルコの衝突はクリミア戦争に拡大した。この戦争は1856年2-3月に行なわれたパリ講和交渉で終結した。/マルクスとエンゲルスが『ニューヨーク・トリビュン』のための多数の論説(MEGA I/12およびI/13を見よ)のなかで確実だと見ていたのは,近東での主導権をめぐるヨーロッパ列強の闘争と,オスマン王国の崩壊過程との,また,トルコのくびきからの解放を求めるバルカン諸国民の民族解放運動との,矛盾に満ちた絡み合いから,この衝突の政治的・社会的な破壊力が生じた,ということであった。〕
  ④〔注解〕「戦争だった1792-1815年のイギリス」--言われているのはフランスにたいする繰り返された同盟戦争で,イギリス連合王国は1793年以降参戦した。
  ⑤〔訂正〕「1792年」--草稿では「1799年」と書かれている。〉 (238-241頁)

 〈この高利貸的な論理を振りまわす人物の、この奇妙な,用語の混乱ぶりを見よ!
  ここでもまたまた彼は得意の「資本価値の増大」を持ち出しています。こいつは,一方の側ではこのような非常な再生産過程の拡張,つまり実物資本real capitalの蓄積が行なわれて,他方の側には「これほど巨大な貿易増加を処理するための莫大な……需要」が向かっていった「資本」があった,と思い込んでいるのでしょうか! 実物資本の蓄積というのは、それ自身が資本の増加そのものではないでしょうか! そしてその増加が「需要」をつくりだしたとき,それは同時に「供給」をもつくりだしたのではないのでしょうか? そしてまた同時に「moneyed capital」の供給の増加をもつくりだしたのではないのでしょうか? 利子が高くなったということは,それはただ,moneyed capitalにたいする需要がそれの供給よりももっと速く増大したからでしかありません。このことは,言い換えれば,実物的生産〔reale Production〕が拡大するにつれてその運営が信用システムの土台〔Basis〕の上で拡大されたということに帰着します。信用システムなしには,実物的な膨張〔rea1 Expansion〕が「融通」にたいする需要の増大といっしょに生じるはずがないのです。そしてこのことこそは,明らかに,「莫大な需要」ということでこの銀行家が考えているものの実際の内容なのです。輸出貿易を4500万から1億2000万に増加させたものが資本にたいする需要の膨張でないことはだけは確かです。それはただ資本の蓄積と拡張が進み、それに応じて貿易額も増えたことを示すだけで、それだけではmoneyed capitalに対する需要の増大を意味しません。というのは資本の蓄積の拡大は、moneyed capitalへの需要だけではなく、その供給をも増大させるからです。さらにまた,前ロイド氏が,クリミア戦争に食われてしまった「この国の年々の貯蓄」こそは「この大需要にたいする供給の自然的な源泉」をなすものだ,と言うとき,それはいったいどういう意味なのかと問いたい。第1に,とるに足りないクリミア戦争とは違った戦争だった1792-1815年の戦争の時のイギリスは,なにで蓄積をしたのでしょうか? 第2に,もし自然的な源泉が枯渇したとき,資本はどんな源泉から供給されたのでしょうか? イギリスは周知のように外国からの借金はしてはいなかったのです。もし「自然的な」源泉とは別にさらに「人為的な」源泉があるとしたら,戦争では「自然的な」源泉を利用し、事業では「人為的な」源泉を利用するということは,じっさい一国にとって最も望ましい方法ではなかったでしょうか? もしもただ旧来のmoneyed capitalがあるだけだったら,それは高い利子率によってその効果を2倍にすることができたとでもいうのでしょうか? 前ロイド氏は,明らかに,国民の「年々の貯蓄」(といっても,この場合には「食われ」てしまったのですが)はただmoneyed Capita1に転化するだけだ,と思っています。しかし,もし現実の蓄積が生じなかったとすれば,この生産にたいする貨幣請求権の蓄積がいったいなんの役にたつのでしょうか?〉

 【このやや長いマルクスの批判は内容的には大きく二つに分けることができる。今それぞれに番号を付して検討して行くことにしたい。
 その前にマルクスは最初に〈この高利貸論理家のこの奇妙な,用語の混乱ぶり〉と書いている。〈高利貸論理家〉というのは、【13】パラグラフで利子率の上昇がその上昇の原因である事業を駄目にしたと苦情を言うのは、論理的不合理だと主張したオウヴァストンに対して、それを「非論理的」と考えるのは、高い利子率にほれ込んだ高利貸しの主張と同じだ、と批判したことを受けた皮肉である。つまりオウヴァストンの主張は図らずも自分が高利貸し的立場からものを考えていることを暴露しているとマルクスはいうのである。だから〈高利貸論理家〉なのである。そしてそのオウヴァストンは先のパラグラフの証言では奇妙な用語の混乱をしているというのである。それは以下の説明のなかで明らかになる。

 まず(ⅰ)の部分では、オウヴァストンの貿易額の増大が莫大な資本需要を生み出した(そしてそれが利子率を上昇させた)という主張に批判を集中させている。要するに、オウヴァストンの主張は利子率が上昇したのは資本の価値が増大したからであり、資本の価値が増大したのは、利潤率が増大し事業が拡大したからだ、ということである。それに対して、マルクスは〈ここでまたまた彼は得意の「資本価値の増大」を持ち出す〉と批判する。そしてオウヴァストンは、一方の側で非常な再生産過程の拡張、つまり実物資本の蓄積が行なわれて、他方の側には巨大な貿易増加を処理するための莫大な資本への需要があったと思い込んでいると指摘する。そしてそれに対して、マルクスはまず貿易額の増加は、それ自体が資本の増加ではないのか、と批判している。オウヴァストンは貿易額の増加は資本の再生産過程の拡張の結果であり、資本の蓄積の増大の結果だということを理解していない。それは何か二つのことではなく一つのことなのだというのがまずマルクスの批判の一点である。
  次に資本の増加が需要を作り出したということは、同時に供給をも作り出したことではないかとも指摘する。そしてそれは同時にmoneyed capitalへの需要とともに供給をも作り出したのだと指摘している。しかし利子率が上昇したというのは、単にmoneyed capitalへの需要があったからというのではなく、moneyed capitalへの需要がそれの供給よりももっと早く増大したからでしかないとも指摘している。そしてこのことは、再生産過程の拡張が、それにつれて信用システムの土台の上で拡大されたことを意味しているとも指摘する。信用システムなしには、実物的な膨張がmoneyed capitalへの需要の増大をもたらすことはありえないのであり、そしてこのことこそ、オウヴァストンのような銀行家が「莫大な需要」ということで考えているものの実際の内容なのだ、というのである。だから貿易額を増加させたものが、資本に対する需要の膨張でないことだけは確かだというのがマルクスの結論である。

  次に(ⅱ)では、オウヴァストンが、巨大な貿易額の増大を処理するための莫大な資本需要に対して供給を担った自然的な源泉である国の年々の貯蓄が、クリミア戦争という利益を生まない出費に食われたために、資本逼迫が生じたのであり、それが利子率上昇の原因であるかに主張したことにマルクスの批判が向けられている。
  まずマルクスの批判は、クリミア戦争など取りに足りないと思わせるほどの莫大な費用のかかった1792-1815年の戦争--1792-1802年のフランス革命戦争と1803-1815年のナポレオン戦争を合わせて大フランス戦争(Great French War)とする考えがイギリスに存在した〔ウィキペディア〕--の時にはイギリスは何で蓄積をしたのか? と問うている。
  そして第二に、もし自然的な源泉が枯渇したなら、資本はどんな源泉から供給されたのか、とも問うている。そして後者の問いに関連して、まず当時イギリスは外国の借金に頼っていなかったことを指摘する。だからそれは国内から供給されたわけだが、その源泉は何だったのか、というのである。そしてマルクスはオウヴァストンが「自然的」源泉という用語を使っていることを皮肉って、「人為的な」源泉なるものが別にあるのか、もしそれがあるなら、「自然的な」源泉を戦争に使い、「人為的な」源泉を事業に使うというのはもっとも望ましい方法であろう、と皮肉っているわけである。

  次にマルクスは〈もしもただ旧来のmonied Capitalがあるだけだったら,それは高い利子率によってその効果を2倍にすることができたであろうか? 〉と述べている。ここで〈旧来のmonied Capital〉というのは、オウヴァストンのいう「自然的な源泉」である、国民の年々の貯蓄を意味しているのであろう。そしてそれだけがあるのなら、高い利子率でその効果を2倍にできたであろうか、というのである。要するに、銀行家たちはそれで儲けを2倍にしても、その貨幣の効果、つまりその使い道が2倍になったとでもいうのか、とマルクスは問うているわけである。だからマルクスはオウヴァストンらが「国民の年々の貯蓄」をただmoneyed capitalに転化するだけだと考えているのだと指摘している。しかしこの「国民の年々の貯蓄」と言っても、それは貯金や国債、株式等々であり、マルクスはそれらは単なる〈生産にたいする貨幣請求権の蓄積〉、架空資本でしかないこと、だからそれらが現実の蓄積に結びつかなければ、いくら将来の生産に対する請求権の蓄積があっても何の役にも立たないのだと批判しているわけである。そしてこの場合、この「国民の年々の貯蓄」は現実の蓄積にはならない戦争で食われてしまっているのだというのである。】


【16】

 高い利潤率から生じる「資本の価値」の増加を,前ロイドは,monied capitalにたいする需要から生じる〔「資本の価値」の〕増加と混同しているのである。ところで,この需要は利潤率には全然かかわり[489]のない諸原因から増大することもありうるのであって,彼自身も1847年に,実物資本〔real capital〕の減少の結果この需要が増大したことを実例として挙げている。217)彼は一方の意味では実物資本〔real capital〕の価値を云々し,他方の意味ではmonied capitalの価値を云々しているのである。|

  ①〔異文〕「monied capita1」← 「資本capita1〕」
  ②〔異文〕「の価値」--書き加えられている。

  217)〔E〕「彼は一方の意味では実物資本〔real capita1〕の価値を云々し,他方の意味ではmonied capitalの価値を云々しているのである。」→ 「彼は,自分の都合しだいで資本の価値を現実資本の価値に関係させたり,貨幣資本に関係させたりするのである。」〉 (241-242頁)

  〈高い利潤率から生じる「資本の価値」の増加を,つまり再生産過程の拡張や資本の蓄積の増大を、前ロイドは,monied capitalにたいする需要の増大と混同し、それを「資本の価値」の増大と考えているのです。しかしmoneyed capitalにたいする需要は、利潤率とは全然かかわりのない諸原因から増大することもありうるのです。実際,彼自身も1847年に,実物資本〔real capital〕の減少の結果、moneyed capitalへの需要が増大したことを実例として挙げています。彼は「資本の価値」という言葉で、一方の意味では実物資本〔real capital〕の価値を云々し,他方の意味ではmonied capitalの価値を云々しているのです。〉

 【このパラグラフは先のパラグラフの続きで、【14】パラグラフの委員会報告におけるオウヴァストンの証言を批判したものであろう。
  先にも指摘したが、オウヴァストンの主張は利子率が上昇したのは「資本の価値」が増大したからであり、「資本の価値」が増大したのは利潤率が増大し、事業が拡大したからだ、ということであった。これに対して、マルクスはこうしたオウヴァストンの主張は、利潤率が高く「資本の価値」が増加したこと、つまり蓄積が拡大したことと、moneyed capitalにたいする需要の増加とを混同しているのだ、と指摘しているわけである。そしてmoneyed capitalたいする需要の増大そのものは、利潤率とはまったく無関係の諸原因から増大することもありうる、と批判する。実際、利潤率が低く、実物資本の減少が生じた恐慌時などはそうであり、オウヴァストン自身が、1847年の恐慌時には、そうしたことが生じたことを例に挙げていたという。オウヴァストンがどの証言でこうした例を挙げていたのかはわからないが、【6】パラグラフでは、オウヴァストンを批判するために、マルクスによって1847年の恐慌時のことについて、1848年の商業的窮境委員会報告でのガーニの証言を例に挙げていたことが思い出される。
  そしてマルクスは、結局、オウヴァストンは、「資本の価値」という用語で、一方の意味では実物資本の価値を問題にし、他方の意味ではmoneyed capitalの価値を問題にして、両者を意図的かどうかはともかく混同しているのだと指摘している。

 マルクスは後に草稿の「Ⅲ)」(現行版第30-32章)のなかでもオウヴァストンの批判を行っているが、そのなかに次のような一文がある。

  オウヴァストンは,「資本」と「貨幣〔money〕」とのあいだで絶えず混乱におちいっている。利子とは,彼にとっては,貨幣〔money〕の価値のことでもあるが,それは貨幣の量によって規定されているのであり,また彼は,その利子は生産的資本の利潤によって,あるいは生産的資本への需要によって規定されているのだから,それは資本の価値なのだ,と言う。〉 (大谷本第3巻419頁)】

   (続く)

2020年10月14日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-3)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 

§ 各パラグラフごとの解読(続き)


【5】

 次は52)オウヴァストン氏であって,その陳述のなかで彼は,国内で「資本」が欠乏している〔scarce〕ということを理由に彼の「貨幣〔Geld〕」にたいして「10%」を取るのはどういうわけなのか,ということを説明しなければならない。1857年の委員会からの引用。

  ①〔異文〕「1857年の委員会からの引用。」--書き加えられている。

  52)〔E〕「オウヴァストン氏」→ 「ロード・オウヴァストン,またの名サミュエル・ジョーンズ・ロイド」〉 (228-229頁)

 〈次は同じ通貨学派であり、その領袖ともいうべきオウヴァストン氏です。彼は、その陳述のなかで、国内で「資本」が欠乏している〔scarce〕ということを理由に彼の「貨幣〔Geld〕」にたいして「10%」を取るのはどういうわけなのか,ということを説明しなければならない羽目に陥っています。1857年の委員会から引用します。〉

 【これはマルクスの次のパラグラフからはじまる委員会報告からの抜粋の前振りである。マルクスはオウヴァストンが答弁を強いられ、四苦八苦している内容について〈国内で「資本」が欠乏している〔scarce〕ということを理由に彼の「貨幣〔Geld〕」にたいして「10%」を取るのはどういうわけなのか〉を説明しなければならないと紹介している。それを説明するなかでオウヴァストンは彼自身の無概念をさらけ出しているわけである。

  なおついでに、マルクスが抜粋しているオウヴァストンの議会証言が掲載されている『委員会報告』についての小林賢齋氏の説明を紹介しておこう。

  〈イギリス下院における1857年の第1会期中の2月12日に発足した「1844年銀行法,並びに1845年アイルランドおよびスコットランド銀行法の効果の調査を命ぜられた……特別委員会」(下院「銀行法特別委員会」--1857年--)は,同年3月3日にイングランド銀行総裁ウェーグェリン(T.M.Weguelin)および同副総裁ニーヴ(S.Neave)を証人に招いて質疑・応答〔尋問・証言〕を開始する。それは下院の第2会期にも引継がれ--5月12日再開--,5月19日以降,多数の証人を招いて質疑・応答〔尋問・証言〕を続け,同年7月24日にロンドンの建築業者キャップス(E.Capps)との質疑・応答をもって「調査」を終え,7月30日付けで,『銀行法特別委員会報告書』を下院に提出して,その任務を完了する。そしてこの間の7月7日,10日,14日の3日間にわたって,オーヴァーストーン(Lord Overstone,旧Samuel Jones Loyd)に対しても証人として質疑・応答が行なわれる。
 しかもオーヴァーストーンに対するこの3日間にわたる質疑・応答は,その第3640号から第4248号までの都合609回,印刷ページにして『報告書』〔『第1部。報告と証言』の印刷総ページ519ページ〕の327ページから419ページまで都合93ページにも及ぶものであり,したがって取上げられた問題も多岐にわたり,また同一の問題についての異なった立場の委員からの質問とそれに対する彼のニュアンスに微妙な相違のある応答も見られることとなる。〉 (『マルクス「信用論」の解明』162頁)

  なおマルクスが抜粋しているオウヴァストンの証言は委員ケイリーとのやりとりであるとの指摘もある。そしてこのケイリーについても、次のような紹介がある。

  〈因みに,手稿の「補遺」部分でのマルクスによるオーヴァーストーン証言の検討は,主として委員ケイリーがオーヴァーストーンを追い詰めていく質疑・応答のフォローと見ることもできるのであるが,ケイリーは「バーミンガム派」に属しており,彼は,その貨幣論としては,通貨学派とも銀行学派とも袂を分かっている。両学派とも,「物々交換」を出発点に,商品の「等価物」として貨幣を捉えているからである。それに対し彼はむしろ貨幣を単なる「記号」「法定通貨」として捉えようとしているように見える。〉 (同上451頁)

  これらは関連情報として提示しておくだけである。】

【6】

 〈「第3653号利子率の変動は次の二つの原因のうちの一つから生じます。[485]すなわち,資本の価値の変化から生じるか〔」〕(待て! 資本の価値とは,一般的に言えば,利子率だ! だから,利子率の変化は利子率の変化から生じるということになる! 資本の価値は,理論的には,そして前にも述べたように,それ以外の意味では使われない! あるいは,オウヴァストン氏が資本の価値ということで利潤率を考えているのであれば,この深遠な思想家は,利子率は利潤率によって規制される,ということに逆戻りするわけだ!)〔「〕または国内にある貨幣の総額の変化から生じます。利子率の大きな変動,というのは変動の持続または規模から見て大きいということですが,そのような変動はすべて明らかに資本の価値の変動にまでさかのぼることができます。このような事実の実例としては,1847年の利子率の上昇,および最近2年間(1855年および1856年?)のそれ以上に適切なものはありません。小さいほうの利子率変動は貨幣量の変化から生じるもので,それはその規模とその持続のどちらから見ても小さなものです。このような変動は頻繁であり,また頻繁であればあるほど,その定められた目的を達成するのにそれだけ有効なのです。」(つまり,オウヴァストンのような銀行業者を肥らせるのに有効である。70)S.ガーニ氏は,この点について,1848年の71)上院〔商業的窮境委員会〕での証言のなかで,次のように,非常に素朴に自分の考えを述べている。72)第1324号。あなたのお考えでは,昨年生じた利子率の大きな変動は,銀行業者や貨幣取扱業者〔Dealers in money〕にとって有利だったか,それともそうでなかったのですか?--貨幣取扱業者には有利だったと思います。取引上のすべての変動が事情通には有利です。」「第1325号。といっても,利子率が高くなれば,最上の客を貧しくすることで,銀行業者も結局は損をすることになるのではないでしょうか?--いいえ,そういう影響が目につくほどあるとは思いません。」)74)(これが言いたいところなのだ。〔Voila ce que parler veut dire.)

  ①〔異文〕「利子率の変動は」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「2」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕パーレンでくくられたコメントはマルクスによるもの。

  70)〔E〕「S.ガーニ氏」→ 「友サミュエル・ガーニ」
  71)〔E〕「上院での証言のなかで」→ 「上院委員会『商業的窮境』1848年,で」
  72) 以下の二つの証言だけは,1848年の上院委員会での証言から採られている。この証言記録には質問者名は記載されていない。
  74) 「(これが言いたいところなのだ。)」--この一文は,やや太い筆跡になっており,あとから書かれたのではないかと思われる。この文の最後は右端まできているが,この一文を除いてみれば,次行が改行になっていると判断できる。〉 (229-230頁)

 ここではオウヴァストンの一続きの証言が二つに分割されて、それぞれについて、マルクスの批判が挿入される形になっている。だから平易な書き下し文も、まずはオウヴァストンの証言をそのまま紹介し、そのあとマルクスの批判を書き下すという形で進める。

 利子率の変動は次の二つの原因のうちの一つから生じます。すなわち,資本の価値の変化から生じるか」
  (ちょっと待った! 資本の価値というのは、一般的にいうなら、それは利子率のことではないか。つまり私たちが資本を調達する時、利子が高いと、それは高い資本価値だと考え、低いと安い資本価値だと考えます。資本の価値という場合は、理論的にはもちろん、実際的にもそれ以外の意味では考えられません。ということは彼は利子率の変化は利子率の変化から生じるという同義反復を述べているだけなのです。
  あるいはオウヴァストン氏は、資本の価値ということで利潤率を考えているというのでしょうか。それなら、利子率は利潤率によって規制される、ということに逆戻りすることになります。)
  「または国内にある貨幣の総額の変化から生じます。利子率の大きな変動,というのは変動の持続または規模から見て大きいということですが,そのような変動はすべて明らかに資本の価値の変動にまでさかのぼることができます。このような事実の実例としては,1847年の利子率の上昇,および最近2年間(1855年および1856年?)のそれ以上に適切なものはありません。小さいほうの利子率変動は貨幣量の変化から生じるもので,それはその規模とその持続のどちらから見ても小さなものです。このような変動は頻繁であり,また頻繁であればあるほど,その定められた目的を達成するのにそれだけ有効なのです。」
  (つまり,オウヴァストンが「有効」と言っているのは、彼のような銀行業者を肥らせるのに有効ということだ。実際、S.ガーニ氏は,この点について,1848年の上院〔商業的窮境委員会〕での証言のなかで、次のように,非常に素朴なかたちで自分の考えを述べています。
  「第1324号。あなたのお考えでは,昨年生じた利子率の大きな変動は,銀行業者や貨幣取扱業者〔Dealers in money〕にとって有利だったか,それともそうでなかったのですか?--貨幣取扱業者には有利だったと思います。取引上のすべての変動が事情通には有利です。」
  「第1325号。といっても,利子率が高くなれば,最上の客を貧しくすることで,銀行業者も結局は損をすることになるのではないでしょうか?--いいえ,そういう影響が目につくほどあるとは思いません。」)
  (これがオウヴァストンの言いたいところなのだ。)〉

 【ここでも利子率が何によって規制されるのか、というノーマンに出された問いがやはり問題になっている。それに対する回答としてオウヴァストンは二つの原因を挙げている。一つは資本の価値の変化であり、もう一つは貨幣の総額の変化である。そしてそれぞれについて、マルクスが批判文を挿入するという形になっている。

  (1) まず利子率は資本の価値の変化によって変動するというオウヴァストンの主張について、マルクスは二つの問題点を指摘する。一つは資本の価値というのは、一般的には利子率のことではないのか、とするなら、オウヴァストンの言っていることは、利子率の変化は利子率の変化から生じるという同義反復を述べているだけだというものである。
  もう一つはもし資本の価値ということで、オウヴァストンが利潤率のことを考えているのであれば、それは結局は利子率は利潤率によって規制されるということに〈逆戻りする〉と指摘している。
 この「逆戻り」が何を意味するのか今一つ不明である。委員会報告の前後を見ないと今一つはっきりしない。ただその前のノーマンに対する批判と関連していると考えるなら、ノーマンの批判のなかでも利子率は利潤率に規制されるという主張についても論じていたので、そこで論じたことに「逆戻り」するという意味とも考えられる。だからそこで論じたことを振り返ってみれば十分だという含意かも知れない。

  (2) もう一つの貨幣の総額の変化によって利子率の変動は規制されるという主張であるが、この主張の批判的検討は次のパラグラフのマルクスの批判でも繰り延べされ〈あとで立ち返ることにしよう〉となっている。ただ今回の証言のなかで、オウヴァストンは、資本の価値の変化に規制される利子率の変動というのは、その持続や規模からみて大なき変動であり、1847年の変動や最近2年間(1855,1856年)の変動がそうしたものだと主張し、それに対して、小さな頻繁に一時的に生じる変動は貨幣量の変化から生じるのだと述べている。そして後者の変動は頻繁に生じるが、それは頻繁であればあるほど〈その定められた目的を達成するのにそれだけ有効なのです〉と述べているのであるが、マルクスの批判は、この〈定められた目的〉とは何であり、彼らが〈有効〉と考えているのはどうしてかを暴露するという点だけに向けられている。
  そしてマルクスはそのために〈S.ガーニ〉の〈1848年の上院〔商業的窮境委員会〕での証言〉から二つ引用している。一つは1847年の恐慌時に生じた利子率の大きな変動は、銀行業者や貨幣取扱業者にとって有利だったのか、それともそうではなかったのか、という問いに、極めて率直に有利だったと述べ、すべての変動は事情通には有利だと述べている。もう一つの証言では、利子率が高くなれば、結局、銀行業者や貨幣取扱業者の顧客である産業資本や商業資本を貧しくして、結局は、銀行業者たちも損をするのではないのか、という問いにも、いいえ、そんなことはない、と明確に述べているわけである。
  つまりオウヴァストンが利子率の小さな変動は頻繁であり、頻繁であればあるほど目的を達成するのに有効だと述べているのは、結局、彼らがその変動を利用して儲けるために好都合だと言っているだけなのだ、とマルクスは暴露しているわけである。
 
  ただ若干疑問が禁じ得ないのは、1847年の恐慌時のような利子率の高騰については、オウヴァストン自身は資本の価値の変動によると述べていることである。〈利子率の大きな変動,というのは変動の持続または規模から見て大きいということですが,そのような変動はすべて明らかに資本の価値の変動にまでさかのぼることができます。このような事実の実例としては,1847年の利子率の上昇,および最近2年間(1855年および1856年?)のそれ以上に適切なものはありません〉と述べている。
  それに対して、彼は〈小さいほうの利子率変動は貨幣量の変化から生じるもので,それはその規模とその持続のどちらから見ても小さなものです。このような変動は頻繁であり,また頻繁であればあるほど,その定められた目的を達成するのにそれだけ有効なのです〉と述べ、それに対する批判としてマルクスはガーニの議会証言を持ち出しているのであるが、しかしその証言というのは、オウヴァストンが資本の価値の変動から生じる場合の実例として指摘している1848年の恐慌時の話なのである。つまりここには若干の齟齬があるように思えるのであるが、どうであろうか。

  最後に訳者注72)で大谷氏は〈この証言記録には質問者名は記載されていない〉と述べているが、先に紹介したように、小林氏によれば質問者はケイリーということである。 

  ついでに第3653号のオウヴァストンの証言はマルクスによってかなり寸断されているが、小林氏は〈オーヴァーストーン独自の利子率変動論〉と称して次のように論じているところでは、よりオウヴァストンの証言の内容が分かるので、紹介しておこう。

  〈彼によると,「利子率における変動(fluctuations)は,2つの原因のうちの1つから,即ち,資本の価値における変化(alteration)からか,あるいは,わが国における貨幣量における変化(alteration)から,生じる」(第3653号A)。あるいは次のようにも言う。「割引率(the rate of discounting)は貨幣の価値(the value of money)であり,これは2つの事柄の1つによって規定される。一般的に,その大きなそして長期の(permanent)変動の全ての場合には,それは実際に資本の価値(the value of capital)における変化であり,その小さな(minor)--程度についても持続期間についても小さな--変動の若干の場合には,それは貨幣量における減少(decrease)の結果であろう。利子率における全ての大きな--程度についてか,あるいは持続期間について大きな--変動は……実際に資本の価値における変化の結果である。わが国における貨幣量におけるいかなる変化から生じる利子率における諸変化も,それらは,規模についてもあるいは相対的持続期間についても,非常に小さい。それらが非常に頻繁であるということは,……実際にはそれらの有用性(utility)のまさに最も重要な性質である。わが国における貨幣量における変化(changes)によって作り出される利子率における変動は,実際的には綱渡り師の絶え間ない振幅(oscillations)のようなもので,それによって明らかに,彼は彼の状態のバランスを乱されないように保っているのである」(第3652号A),と。〉 (前掲書182頁)】


【7】

 貨幣量によって影響されるものとしての利子率には,あとで立ち返ることにしよう。しかし,注目しなければならないのは,オウヴァストンがここでもまた取り違え〔quid pro quo〕をやっている,ということである。moneyed capita1にたいする需要が1847年に増加したのは(10月以前には「貨幣量」からくる心配はなかった)さまざまの原因からであった。(穀物の騰貴,綿花価格の上昇,過剰輸入による砂糖の販売不能,鉄道投機,外国諸市場の綿花供給過剰,東インド投機,等々。これらすべてのことが,moneyed capitalにたいする需要,すなわち信用と貨幣とにたいする需要の増大を引き起こした,すなわちまったく違った諸原因から,すなわち過剰生産と過少生産,②等々から〔後者が生じたのである〕。)moneyed capita1にたいする需要の増大は,現実の生産過程のうちにその原因があった。しかし,原因がなんであろうと,moneyed Capitalの価値を,だからまた資本の価値を上昇させたのは,moneyed Capitalにたいする需要だったのである。前ロイド氏が,moneyed capitalの価値は上がった,なぜならばそれは上がったからだ,と言いたいのなら,それはごもっともなことではある。しかし,彼がここで資本の価値ということで,利子率の上昇の原因としての利潤率の上昇のことを考えているのならば,それが誤りだということはすぐにわかるであろう。mon[486]eyed capitalにたいする需要,だからまた資本の価値は,利潤が下がっても,上がることがありうる。それの相対的な供給が減れば,その価値は上がるのである。前ロイド氏が証明しようとするのは,1847年の恐慌(およびそれに伴った利子率〔の高騰〕)は「貨幣量」とは,すなわち,彼が息を吹き込んだ1844年の〔銀行〕法の諸規定とはなんの関係もなかった,ということなのである。ところが実際には,銀行準備高〔Bankreserve〕--ロイドたちの創造物〔creation〕--の枯渇にたいする恐怖が10月の恐慌に貨幣パニックをつけ加えたかぎりでは,それとこれとのあいだには関係があったのである。しかし,このことはここでの問題の要点ではない。そこには,moneyed capital逼迫があった。その||323|原因は,穀物不足,投機,砂糖の過剰輸入,等々の結果としての再生産過程の撹乱によってもたらされた過大な諸操作であった。穀物が1クォーター当たり120シリングだったときにそれを買った人びとが,それが60シリングに下がったときに必要としたのは,60シリングであった。欠乏していたのはそれを埋める信用であった。それは,もとの価値を貨幣に転換するための銀行券の欠乏ではなかった。砂糖がひどく下落したときの,それを輸入しすぎていた人びとも同様であった。また,自分の「浮動資本〔floating capital〕」を鉄道に投下してしまっていて,この資本のうち自分の事業で必要な「本物の」部分を借金に頼った人びとが必要としたものも,そうであった。すべてこうしたmoneyed capita1逼迫は,かのロイドにとっては,「彼の貨幣の価値」が上昇したという一種の「道徳感覚」に表現され,そしてこのようなmonied capitalの価値の上昇は,直接に,実物資本〔real capita1〕(商品資本等々)の貨幣価値の低下に対応していた。一方の形態にある資本の価値が上がったのは,他方の形態にある資本の価値が下がったからである。ところが,前ロイド氏は,このような二つの資本の価値を同一視しようとし,しかも,両者を「通貨〔circulation〕」の,貨幣〔money〕の欠乏なるものに対置することによってそうしようとする。だが,同じ額のmonied Capitalでも,非常に違った量の流通媒介物で貸し付けられることができるのである。

  ①〔異文〕「外国」--書き加えられている。
  ②〔訂正〕「等々から。)」--草稿では,「等々から。」となっている。
  ③〔異文〕「資本〔capital〕」← 「moneyed capital」
  ④〔注解〕「1847年の恐慌」--本書本巻211ページ下方の注解注②を見よ。
  ⑤〔注解〕「1844年の〔銀行〕法」--本書本巻181ページの注解注③を見よ。
  ⑥〔異文〕「monied capital」← 「貨幣〔money〕」
  ⑦〔異文〕「に〔auf〕」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「貨幣」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「これらの商品および……なので〔Weil diese Waaren und〕」という書きかけが消されている。〉 (230-234頁)

  〈貨幣量によって影響されるものとしての利子率については,あとで立ち返ることにしましよう。しかし,注目しなければならないのは,オウヴァストンがここでもまた取り違え〔quid pro quo〕をやっている,ということです。moneyed capita1にたいする需要が1847年に増加したのは(10月以前には「貨幣量」からくる心配はありませんでした)さまざまの原因からでした。例えば穀物の騰貴,綿花価格の上昇,過剰輸入による砂糖の販売不能,鉄道投機,外国諸市場の綿花供給過剰,東インド投機,等々です。これらすべてのことが,moneyed capitalにたいする需要,すなわち信用と貨幣とにたいする需要の増大を引き起こしたのです。つまりまったく違った諸原因から,すなわち綿工業を中心とする産業資本の過剰生産と農業による不作による過少生産,等々から生じたのです。だから確かにmoneyed capita1にたいする需要の増大は,現実の生産過程のうちにその原因があったといえます。しかし,原因がなんであろうと,利子率の上昇、すなわちmoneyed Capitalの価値の上昇,だから彼がいうところの資本の価値を上昇させたのは,直接的には、moneyed Capitalにたいする需要だったのです。だから前ロイド氏が,moneyed capitalの価値は上がった,なぜならばそれは上がったからだ,と言いたいのなら,単なる同義反復であり、ごもっともというしかない。しかし,彼がここで資本の価値ということで利潤率のことを考え、利子率の上昇の原因として利潤率の上昇のことを考えているのならば,それが誤りだということはすぐにわかります。moneyed capitalにたいする需要の増大,だからまた資本の価値の上昇は、利潤が下がっても,上がることがありえるからです。いずれにせよ、それの相対的な供給が減れば,その価値は上がるのです。
  前ロイド氏が証明しようとしているのは,1847年の恐慌(およびそれに伴った利子率の高騰)は「貨幣量」とは関係はなかったということ、つまり彼が息を吹き込んだ1844年の銀行法の諸規定とはなんの関係もなかった,ということなのです。ところが実際には,イングランド銀行の銀行部の準備高--このイングランド銀行を発券部と銀行部とに分け、銀行部の準備高をよりセンシティブにしたのはロイドたちの創造物なのですが--の枯渇にたいする恐怖が10月の恐慌に貨幣パニックをつけ加えたのです。だから利子率の高騰と貨幣の量とのあいだには関係があったのです。しかし,この問題はとりあえずあとで立ち返ることにします。だからそれはここでの問題の要点ではありません。
  いずれにせよ、1847年の10月の恐慌時には,moneyed capitalの逼迫があったのです。そしてその原因は,穀物不足,投機,砂糖の過剰輸入,等々の結果としての再生産過程の撹乱によってもたらされた過大な諸操作でした。穀物が1クォーター当たり120シリングだったときにそれを買った人びとが,それが60シリングに下がったときに、彼らが失い必要としたのは支払いすぎた60シリングでした。彼はそれを信用で購入したのですから、彼が失ったものは信用でもあるのです。彼はその失った信用をなんらかの別の信用で埋める必要がありますが、それが欠乏しているのです。問題なのは,穀物をもとの価値どおりで貨幣に転換するために必要な銀行券が欠乏していたというようなものではなかったのです。問題は銀行券の欠乏などではなく、過剰生産であり過剰取引だったのです。砂糖がひどく下落したとき,それを輸入しすぎていた人びとも同様でした。また,自分の「浮動資本〔floating capital〕」を鉄道に投下してしまっていて,この資本のうち自分の事業で必要な「本物の」部分を借金に頼った人びとが必要としたものも,そうでした。すべてこうしたmoneyed capita1への逼迫は,かのロイドにとっては,利子率の上昇、つまり「彼の貨幣の価値」が上ったという一種の「道徳感」として表現されます。しかしこのようなmonied capitalの価値の上昇は,直接には,実物資本〔real capita1〕(商品資本等々)の貨幣価値の低下に対応していたのです。一方の形態にある資本の価値が上がったのは,他方の形態にある資本の価値が下がったからなのです。ところが,前ロイド氏は,このような二つの資本の価値を同一視しようとし,しかも,両者を「通貨〔circulation〕」の,貨幣〔money〕の欠乏なるものに対置することによってそうしようとするのです。しかし,同じ額のmonied Capitalでも,非常に違った量の流通媒介物で貸し付けられることができるのです。〉

 【このパラグラフは全体として長いが、なかなか内容で分割して検討するというわけには行かない難しさを持っている。しかしわれわれはやはり箇条書き的に問題を検討していくことにしたい。

  (1) まずマルクスは〈貨幣量によって影響されるものとしての利子率には,あとで立ち返ることにしよう〉と、貨幣量と利子率、つまりmoneyed capitalの需給との関係を後回しにしている。確かにこの問題はエンゲルス版の第30-32章(草稿では「III)」と項目番号が打たれた部分)で問題になっている。マルクスは第30章該当部分の冒頭、次のように問題を定式化している。

  〈これから取り組もうとしている,この信用の件〔Creditgeschichte〕全体のなかでも比類なく困難な問題は,次のようなものである。--第1に,本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか? いわゆる資本のプレトラ(この表現は,つねにmonied Capitalについて用いられるものである),--これは過剰生産と並ぶ一つの特殊的な現象をなすものなのか,それとも過剰生産を表現するための一つの特殊的な仕方にすぎないのか? monied Capitalの過剰供給は,どの程度まで,停滞しているもろもろの貨幣量(鋳貨\ 地金または銀行券)と同時に生じ,したがって貨幣の量の増大で表現されるのか?〉 (新本第3巻411-412頁)

  つまり今回のパラグラフで言及している問題は、この定式化されている第二の問題に関連しているのである。そしてこの問題はエンゲルス版の第33章に採用されている以下の抜粋ノートへのマルクスの挿入文によって論じられている(但し、大谷氏は「Circulation」をすべて「流通」と訳しているが、しかし一部は「通貨」と訳すべきものなので、そのように訂正している)。

  〈通貨〔Circulation〕の絶対量が規定的なものとして利子率と一致するのは,ただ逼迫期だけのことである。このような場合,一方では,潤沢な通貨〔circulation〕にたいする需要は,ただ,信用喪失〔Discredit〕のために(流通〔Circulation〕の速度の低下や同じ貨幣が絶えず貸付可能な資本に転換される速度の低下を別として)生じた蓄蔵にたいする需要〔でありうるのであって〕,たとえば1847年には,政府書簡は通貨〔Circulation〕の膨張を引き起こさなかった。他方では,事情によっては,現実により多くの流通手段が必要になっていることもありうる(たとえば1857年には,政府書簡ののちしばらくのあいだ,現実に通貨〔Circulation〕が増大した)。
  このような場合のほかは,通貨〔Circulation〕の絶対量は利子率には影響しない、というのは,この絶対量は,節約や速度を不変と前提すれば,諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており{たいていは一方の契機が他方の契機の作用を麻痺させる},また信用の状態によって規定されているのであって,逆にそれが信用の状態を規定するのではないからであり,他方では,物価と利子率とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉 (大谷新本第4巻112-113頁)

  このようにマルクスは、もともとは通貨の量というのは、商品流通に規定されているのであり、直接にはmoneyed capitalとは関係がない、よって利子率には影響しないが、しかし恐慌時のような逼迫期には、信用が喪失するために、貨幣(銀行券・鋳貨)の退蔵が生じ、利子率が高騰して、両者は関連してくると述べているのである。しかし今回のパラグラフではこうした問題を論じることはできないとマルクスは考えているのであろう。

  (2) 次にマルクスは、しかし注目すべきはオウヴァストンがここでもまた取り違えをしているということだ、と述べている。この〈取り違え〔quid pro quo〉というのは何と何を取り違えているのであろうか。それは以下の文章で論じられていると考えられるのであるが、今一つはっきりとしない。しかしこういうことではないだろうか。以下で論じられているのは、恐慌時におけるmoneyed capitalにたいする需要がさまざまな原因から生じていることは明らかだが、しかしそのことは利子率の上昇を直接説明することではないとマルクスは考えているのである。利子率が上昇したのは、moneyed capitalへの需要が高かったからである。つまり利子率を規定するのはmoneyed capitalに対する需給であるという問題を、オウヴァストンは、moneyed capitalへの需要が増加したのは何故か、という問題にすり替えているというのである。

  (3) そこでまず、1847年の恐慌時におけるmoneyed capitalへの需要はさまざまな原因から生じたという事実の確認がされている。〈穀物の騰貴,綿花価格の上昇,過剰輸入による砂糖の販売不能,鉄道投機,外国諸市場の綿花供給過剰,東インド投機,等々。これらすべてのことが,moneyed capitalにたいする需要,すなわち信用と貨幣とにたいする需要の増大を引き起こした〉とマルクスは論じている。ここでマルクスが〈すなわちまったく違った諸原因から,すなわち過剰生産と過少生産,等々から〉生じたと述べているが、ここで〈過剰生産と過少生産〉というのは、平易な書き下し文でも書いておいたが、恐らく過剰生産というのは、綿工業を中心とした産業資本における過剰生産のことであり、過少生産というのは、当時、穀物の不作が生じ(アイルランドのじゃがいもの不作は特に深刻だった)、穀物価格が騰貴したことを指しているのであろう。そしてとにかく〈moneyed capita1にたいする需要の増大は,現実の生産過程のうちにその原因があった〉ということを確認している。

  (4) しかし問題は、moneyed capitalへの需要の増大の原因がなんであろうと、利子率を決めるのは、moneyed capitalに対する需給だということであり、それがこの場合の問題なのだ、とマルクスは論じているわけである。

  (5) そして前ロイド(オウヴァストン)氏が利子率が上がったのは、資本の価値、つまりmoneyed capitalの価値が上がったからだ、というなら、それは先にも述べたように、利子率は上がったから上がったという同義反復をいっているのと同じことだと指摘している。

  (6) しかしもし彼が「資本の価値」ということで、利潤率のことを考え、利子率が上がったのは利潤率が上がったからだというのであれば、それは誤りだということは明確である。

  (7) というのは、moneyed capitalにたいする需要は、利潤率が下がっても、上がることはありうるからである。そればかりか恐慌時というのは、まさに産業資本や商業資本の利潤率が低下している時であり、しかしその時こそmoneyed capitalへの需要が異常に高まったのだからである。いずれにせよ、moneyed capitalへの需給が利子率を規定するのであって、moneyed capitalに対する相対的な供給が減れば、その価値(つまり利子率)は上がるのである。

  (8) ところで、前ロイド氏が証明しようとするのは、彼らが制定した1844年の銀行法が1847年の恐慌に貨幣パニックを付け加えたという容疑を晴らすために、恐慌時の利子率の高騰は貨幣量とは、つまり彼らが息を吹き込んだ1844年の法律の諸規定とはなんの関係もなかったということなのである。

  (9) しかし実際には、1847年の恐慌の経験は、それが関係があったことを示している。なぜなら、1844年の法律はイングランド銀行を発券部と銀行部に分けたために、発券部にはまだ一定の準備金(金地金)が存在したのに、金地金の流出によって発券が制限され、銀行部の準備が枯渇したために、貨幣パニックが生じたのだからである。つまり1844年の銀行券の発行をイングランド銀行の準備金(金地金)に連動させるという発行制限が貨幣パニックを引き起こしたのだ。しかしとりあえずそれはここでは問題にしないとしよう。

  (10) いずれにせよ、1847年の恐慌時にはmoneyed capitalに対する逼迫があった。そしてその原因は、〈穀物不足,投機,砂糖の過剰輸入,等々の結果としての再生産過程の撹乱によってもたらされた過大な諸操作であった〉。(以下、マルクスはこの問題に関連した説明を続けているが、その部分は別途検討するとして、とりあえずは飛ばす)。

  (11) そしてこうしたmoneyed capitalの逼迫は、ロイド氏らにとっては、〈「彼の貨幣の価値〉、つまり彼らの貸し付ける貨幣の利子率が上昇した、という〈一種の「道徳感覚」に表現され〉る。ここで〈一種の「道徳感覚〉というのが今一つよくわからない。エンゲルスも〈「彼の貨幣の価値が増大したという道徳的な感じ(a moral sense of enhanced value of his money) 〉と全体を鍵括弧に入れている。全集版ではその英文(おそらくマルクスの抜粋文につけられた挿入文も英文なのであろう)が書かれている。貨幣の価値が上昇したというのは、彼らの貸し付ける貨幣の価値、つまり利子率が上がったということであるが、それを彼らは貨幣の価値が上昇したと表現するのであるが、そこにマルクスは彼らの後ろめたさがあると見ているのであろう。つまりこうした彼ら銀行業者たちの貸し付ける貨幣の価値が高い時というのは、まさに実物資本(商品資本や生産資本等々)の貨幣価値が低下しているときに対応しているわけである。つまり産業資本家や商業資本家たちの苦境に乗じて、彼らは儲けるわけである。moneyed capital、つまり貨幣資本の価値が上昇したのは、他方の形態の資本(商品資本や生産資本)の価値が下がったからなのである。マルクスは【5】パラグラフで〈オウヴァストン氏……(は),その陳述のなかで彼は,国内で「資本」が欠乏している〔scarce〕ということを理由に彼の「貨幣〔Geld〕」にたいして「10%」を取るのはどういうわけなのか,ということを説明しなければならない〉と指摘していたが、まさに現実資本が苦境に陥っているときに、彼らは彼らの「貨幣」を10%もの高い利子率によって貸し付け、暴利を貪ったと非難されているのであり、それを何らかの形で弁明して誤魔化そうとしているわけである。しかも1844年の銀行法はこうした彼らが暴利を貪ることに有利に作用したわけなのだから、それを推し進めたオウヴァストンらは、それを何としても誤魔化さなければならないわけである。だから彼らが〈「彼の貨幣の価値」が上昇した〉と表現するのは、実際は、現実資本の苦境に乗じて利子率を引き上げてぼろ儲けをやった彼らの後ろめたさをそうした上品な言い方で表しているのだ、とマルクスは言いたいのではないだろうか。

  (12) そういうわけで、前ロイド氏は、「資本の価値」の上昇を利潤率の上昇に関連させることによって、この二つの資本の価値を同一視しようとするわけである。しかもこの両者を「通貨」、貨幣の欠乏なるものに対置することによってそうしようとするのである。しかしmoneyed capitalの量は、通貨の量とは無関係であり、同じ額のmoneyed capitalでも、非常に違った量の流通媒介物(通貨)で貸し付けられるのである。例えば同じ通貨が何度も銀行に預けられることよって、その何倍、何十倍もの預金を形成し、よってそれがmoneyed capitalとして貸し付け可能な貨幣資本になるからである。

  (10)' ここで(10)の部分で後回しにした部分を検討しよう。それはmoneyed capitalの逼迫の原因は、穀物不足、投機、砂糖の過剰輸入、等々の結果としての再生産過程の攪乱によってもたらされた過大な諸操作だった、ということをさらに説明して、次のように述べている部分である。

  〈穀物が1クォーター当たり120シリングだったときにそれを買った人びとが,それが60シリングに下がったときに必要としたのは,60シリングであった。欠乏していたのはそれを埋める信用であった。それは,もとの価値を貨幣に転換するための銀行券の欠乏ではなかった。砂糖がひどく下落したときの,それを輸入しすぎていた人びとも同様であった。また,自分の「浮動資本〔floating capital〕」を鉄道に投下してしまっていて,この資本のうち自分の事業で必要な「本物の」部分を借金に頼った人びとが必要としたものも,そうであった。〉

  この部分の理解もそれほど簡単ではない。平易な書き下し文では、一応、考えられる限りで書いてみたが、それほどすっきりしているわけではない。以下、検討してみよう。

  ① まず〈穀物が1クォーター当たり120シリングだったときにそれを買った人びとが,それが60シリングに下がったときに必要としたのは,60シリングであった〉という部分であるが、これは穀物飢饉に乗じて、投機に走った業者たちのことであろう。彼らは穀物飢饉のために大急ぎで穀物を大量に輸入したのである。それを1クォーターあたり120シリングで買ったのだが、しかし実際にそれを売り出す時には、60シリングに減価してしまったわけである。彼らはしかし120シリングを信用で買ったのだから、やはり120シリングの支払を迫られる。だから必要としたのは不足分の60シリングだということであろうか。

  ② しかしそのことをマルクスはさらに説明して、〈欠乏していたのはそれを埋める信用であった。それは,もとの価値を貨幣に転換するための銀行券の欠乏ではなかった〉と述べている。こうした場合、つまり投機業者が大きな損失を出したときに、必要なのは信用だということは、先の第25章該当部分の草稿でも〈このような取引での損失は,取引を縮小することにはならないで,ただちにそれを増大させることになった。人びとが困ってくればくるほど,彼らには,前の投機で失った資本を新たな前貸を受けて埋め合わせるために,買い入れる必要がますます大きくなった〉(175頁)と指摘されていた。彼らは投機で失ったものを埋め合わせるためにも、さらなる金融操作を必要としたのである。だから彼らに欠落していたのは、まさに信用だったというわけである。上記のマルクスの一文はそのようなものではないかと考えられる。

  ③ そしてそれ以外の砂糖の投機に走った業者の場合や、鉄道投機に走った業者の場合もいずれも、その投機が破綻したときに欠落していたのは信用だったのだということである。

  このマルクスのオウヴァストン批判は、まだ以下のパラグラフへと続くのであるが、以上で、ひとまずこの長いパラグラフそのものの解読は終えることにする。】

  (続く)

 

2020年10月 7日 (水)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(26-2)

『資本論』第5篇 第26章の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  §  各パラグラフごとの解読(続き)


【3】

 (ⅰ)この高慢ちきな無駄ばなしは,この通貨主義の中心人物にまったくふさわしいものである! まずはじめに,銀行券や金はなにかを買うための手段だという{その数のことは彼は忘れている},そして,人びとが銀行券や金を借りるのはそれら自体のためではない? という,天才的な発見。そしてそこから,利子率が規制されるということが,なにによって規制されるのかということが,出てくるのだと言う。つまり商品の需要供給によって。/(ⅱ)といっても,それについてこれまでにわれわれにわかったことは,ただ,需要供給は商品の市場価格を規制するということだけである。しかし市場価格は同じでも,まったく違ったさまざまの利子率がそれと両立する。/(ⅲ)そこで,そのさきでのずるい言いぐさを見てみよう。「しかし,貨幣には利子が支払われるでしょう?」--この言葉はもちろん,商品をまったく取引しない銀行業者が受け取る利子は,これらの商品とどんな関係があるのか,また,まったく違った諸市場で,つまり「生産に使われる商品」の「需要供給」がまったく違っている諸市場で,その貸付を投下する製造業者たちも,同じ利子率で貨幣を手に入れるではないか,という問いを含んでいる--という正しい発言にたいして,このもったいぶった頓馬(トンマ)は,製造業者が綿花を信用で買うのなら,「その場合には,現金価格〔the ready-money price〕と支払日における信用価格〔the credit price〕との差額が利子の尺度である」と言う。逆である。わが友ノーマンがその規制を説明しなければならない現行利子率こそが「現金価格と支払日における信用価格との差額の基準」なのである。[484]/(ⅳ)まず第1に,綿花はその現金価格で売られなければならないのであって,この現金価格は市場価格によって規定されており,市場価格そのものはまた需要供給の状態によって規制されている。その価格が,たとえば1000ポンド・スターリングだとしよう。25)売買に関するかぎりでは,製造業者と綿花ブローカーとの取引はこれで片づいている。/(ⅴ)次に第2の取引が加わってくる。今度は取引は貸し手と借り手とのあいだのそれになる。1000ポンド・スターリングという価値が製造業者に綿花のかたちで〔in cotton〕前貸されるのであって,彼はそれを,たとえば3か月のうちに貨幣で返済しなければならない。27)あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される。そこで,利子の市場率にならって規定されている1000ポンド・スターリングにたいする3か月分の利子が,現金価格につけ加えられる上積み分になる。綿花の価格は需要供給によって規定されている。しかし,綿花の価値つまり1000ポンド・スターリングの3か月間の貸付は利子率によって規定されている。そして,このように綿花そのものがmoneyed capita1に転化させられるという,このことが,ノーマン氏にとっては,「かりに貨幣は全然ないとしても,利子は存在するでしょう」,ということを証明するのである。もし貨幣〔money〕が全然ないとすれば,どのみち一般的利子率〔general rate of interest〕はないであろう。

  ①〔異文〕「市場価格」← 「価格」
  ②〔異文〕「綿花の」--書き加えられている。

  25)〔E〕「売買に関するかぎりでは」--原文は,as far as Kauf u.Verkauf gehenであり,エンゲルス版でのsoweit es Kauf und Verkauf betrifftとは微妙に異なっているが,この箇所はエンゲルス版のように読むべきところであろう。
  27)〔E〕「あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される。〔Es wird berechnet als erhalte er 1000 £ für 3 Monate vorgeschoßen.〕」--削除。この一文は残されるべきであった。「前貸を受けたかのように計算される」のであって,「前貸を受けた」のではない。そしてこれこそ,この箇所の前後で見落とされてはならないポイントなのである。なお,この点については本書第3巻346-352ページでやや立ち入って論じているので参照されたい。〉 (224-227頁)

 (ⅰ)この高慢ちきな無駄ばなしは,この通貨主義の中心人物にはまったくふさわしいものです! まずはじめに,彼は利子率は銀行券の量によって決まるのではなく、資本の需給によって決まるという混乱した自説を、何とか誤魔化すために、まず銀行券や金はなにかを買うための手段だということをもっともらしく主張します{しかしその時に彼はその数のことは忘れています。問題は利子率は銀行券の量、つまりその需給によって決まるのではないというのが彼の主張だったのではないでしょうか。},そして,人びとが銀行券や金を借りるのはそれら自体のためではない、というアホらしい事実を発見します。つまりそれらは商品を購入するために前貸しを受けるのだから、だからそこから,利子率が規制されるのは、商品の需給によってだ、という結論が出てくるというのです。/(ⅱ)しかしそのように説明されても、私たちとしては納得行くものではありません。なぜなら、商品の需給は、商品の市場価格を規制するだけだからです。そして市場価格は同じままでも,まったく違ったさまざまの利子率がそれと両立するわけですから、商品の需給が直接利子率を規制しているなどということはできません。/(ⅲ)そこで,彼は次のようなずるい言いぐさ持ち出します。まず質問者は「しかし,貨幣には利子が支払われるでしょう?」と問いをかぶせます。利子が支払われるのは貨幣に対してであって、商品に対してではないでしょう、というわけです。この質問には、商品をまったく取引しない銀行業者が受け取る利子は,これらの商品とどんな関係があるのか,というまったく正当な問いを含んでいます。銀行業者が取引する市場(貨幣市場)というのは、「生産に使われる商品」の市場(商品市場)、その「需要供給」とはまったく違った市場なのです。またこの質問には、貨幣の貸付をうけて、それを投下する製造業者たちはさまざまな需給を生じさせますが、しかし彼らは同じ利子率で貨幣を入手するのではないのか、という正当な問いも含んでいます。しかしこういうまったく正当な質問に対して、このもったいぶった頓馬は、今度は、製造業者が綿花を信用で買うのなら,貨幣は出てこないなどと主張し、「その場合には,現金価格〔the ready-money price〕と支払日における信用価格〔the credit price〕との差額が利子の尺度である」と言うのです。しかしこれはまったく逆です。わが友ノーマンがその規制を説明しなければならない現行利子率こそが「現金価格と支払日における信用価格との差額の基準」なのです。/(ⅳ)まず第1に,普通は製造業者への綿花の販売は現金価格でなければなりません。この現金価格は確かに市場価格によって規定されており,市場価格そのものはまた綿花の需要供給の状態によって規制されています。その価格が,たとえば1000ポンド・スターリングだとしましよう。売買に関するかぎりでは,製造業者と綿花ブローカーとの取引は現金取引ですから、これで片づいています。/(ⅴ)では次に彼のいう第2の信用取引についてみましょう。今度は取引は貸し手と借り手とのあいだのそれになります。1000ポンド・スターリングという価値が製造業者に綿花のかたちで〔in cotton〕前貸されます。だから彼はそれを,たとえば3か月のうちに貨幣で返済しなければなりません。ということは、それはあたかも彼が3か月の間、1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算されるのです。そこで,利子の市場率にならって規定されている1000ポンド・スターリングにたいする3か月分の利子が,現金価格につけ加えられる上積み分になるのです。綿花の価格は需要供給によって規定されています。しかし,綿花の価値つまり、今それを1000ポンド・スターリングとすると、それが3か月間貸し付けられたことによる支払われなければならない利子は、市場の利子率によって規定されているのです。このことは、綿花そのものがmoneyed capita1(貨幣資本)に転化させられるということです。このことが,ノーマン氏にとっては,「かりに貨幣は全然ないとしても,利子は存在するでしょう」,ということを証明するのです。しかし貨幣資本(moneyed capital)が、この場合は商品(綿花)の形で貸し付けられたのであって、だからこそ利子が生じるです。もし貨幣〔money〕が全然ないとすれば,どのみち一般的利子率〔general rate of interest〕も問題になりません。〉

 【このパラグラフは全体が長いので、便宜的に五つの部分に分割して番号を付してそれぞれについて検討していくことにしたい(/(ⅰ)~/(ⅴ)…等は引用者が付けた)。

  (ⅰ) 質問者は利子は当然、貨幣の貸付に対して支払われると考えている。だから利子率は、貨幣(銀行券)の量、すなわちその需給によって決まってくる考えている。ところがノーマンは利子率は銀行券の量ではなく、資本の需給によって決まるのだと主張するわけである(ノーマンが銀行券の量によって利子率が決まるという事実を避けたがるのには理由があることが次のパラグラフで指摘されている。彼らには後ろめたさがあるのだと)。質問者にも貸し付けられる貨幣(銀行券・金)は単なる貨幣ではなく、moneyed capital(貨幣資本)であるという認識はない、その区別をはっきり持っているわけではない。しかしノーマンもこの区別をまったく理解していないのだが、しかし貸付に使われる貨幣(銀行券・金)を、彼は資本だというわである。だから質問者はノーマンがいう「資本」というのは、貨幣(銀行券・鋳貨)のことではないのか、と追及しているわけである。それに対して、ノーマンは、「資本」というのは生産に使用される商品のことだという。そしてそれを説明するために、貨幣(銀行券や鋳貨)は何かを買うためのものであり、人々が貨幣を借りるのは、それ自体のためでない、などともったいぶった理屈を持ち出すわけである。だから利子率は貸付を受けた貨幣で購入する商品の需給によって決まるのだなどという荒唐無稽なことをいいだすわけである。

  (ⅱ) これに対して、マルクスは、しかしノーマンの説明では、商品の需給が利子率を規制するという説明にはなっていない、と批判している。というのは、ノーマンの説明で分かったのは、商品の需給は商品の市場価格を規制するということだけであり、それが利子率を規制するという話にはなっていないからである。実際、利子率が同じで変わらなくても、商品の需給によっては幾らでも市場価格が変化するからだ、というわけである。

  (ⅲ) だから当然、質問者も納得せず、しかし利子が支払われるのは貨幣に対してでしょう、と問い詰める。それに対してノーマンは、今度は商品が信用で売買される場合は、貨幣は登場しないなどとずるい理屈を持ち出すわけである。その場合は、貨幣は登場しないのに、利子分が商品の価格に上乗せされて支払われるのだから、だから利子は貨幣の貸付に対して支払われるとは限らないといういわけである。
  この質問者の〈しかし,貨幣には利子が支払われるでしょう〉という質問について、マルクスは〈正しい発言〉であるとし、その理由を〈この言葉はもちろん,商品をまったく取引しない銀行業者が受け取る利子は,これらの商品とどんな関係があるのか,また,まったく違った諸市場で,つまり「生産に使われる商品」の「需要供給」がまったく違っている諸市場で,その貸付を投下する製造業者たちも,同じ利子率で貨幣を手に入れるではないか,という問いを含んでいる〉と述べている。
  つまり利子率を規制する貨幣市場というのは、銀行による利子生み資本(moneyed capital)を貸し付ける場合の市場であり、それは商品の売買が行なわれる商品市場とまったく別の話であり、両者はもちろん一定の媒介を経て何らかの関連はあるが、直接にはまったく関係していない。利子率というのは、まず貨幣市場における貨幣資本(moneyed capital)の需給によって決まるのであり、だから製造業者たちもそうした貨幣市場で決まってくる利子率によって貨幣を入手する(貸付を受ける)のである。だからまた貨幣市場で決まってくる利子率が、他方で商品市場における商業信用の場合の利子をも規制するのだというのがマルクスの考えていることである。
  ところが利子率を説明するために、商品市場の問題を持ち出したノーマンは、今度は利子は貨幣に対して支払われるのではないのか、という事実を突きつけられたものだから、しかし貨幣が登場しない場合にも利子は支払われると屁理屈を考え出す。例えば、製造業者が銀行から貨幣をかりて事業行なうのではなくて、信用で事業に必要なものを買うなら、貨幣の貸しつけを受けなくても可能だというわけである(しかしこの場合、ノーマンは労働者には現金を支払う必要があることを都合よく忘れているのだが)。そしてその場合にも商業信用による利子の支払(商品価格への上乗せ)がありうる例を持ち出すわけである。そればかりかノーマンは信用売買の値決め価格(現金価格)と支払日における支払価格(信用価格)との差額(つまり価格の上乗せ分、利子)が、「利子の尺度」だという。つまりそれが市場利子率を規制するというのである。しかしそれに対して、マルクスは、まったく逆だ、商品市場における信用取引における利子は貨幣市場で決まってくる利子率によって規制されるのだと批判している。

  (ⅳ) ここからは商品市場について具体的に問題にしている。まず最初は現金売買の場合である。この場合は、商品の市場価格は商品の需給によって決まってくる。しかし現金で支払われるなら、もちろん利子は問題にはならない。マルクスは綿花の価格が1000ポンド・スターリングと仮定している。

  (ⅴ) 次は、同じ商品市場ではあるが、信用取引の場合である。ブローカーによって綿花が信用によって製造業者に販売される。その場合、マルクスは1000ポンド・スターリングという価値がブローカーによって製造業者に〈綿花のかたちで〔in cotton〕前貸される〉としている。そしてその場合は〈綿花そのものがmoneyed capitalに転化させられる〉と述べている。つまりこういうことである。1000ポンド・スターリングの綿花をブローカーは製造業者に信用で販売するが、その返済期間は3カ月である。これはあくまでも綿花の販売であるから、綿花を貸し付けたのではなく、綿花の形で貨幣を貸し付けたことになるというのである。だから製造業者が3カ月後に支払うのは、綿花ではなく、当然、綿花の販売価格である貨幣である。しかしそれは3カ月のあいだ貸し付けられたわけだから、その分の利子が支払われなければならない。しかし、その利子を規制するのは、貨幣市場(銀行業者からの利子生み資本の貸し借りの市場)で決まってくる利子率によるのだというのである。だから綿花の価格は確かに綿花という商品市場の需給によって規制されるが、しかしそれが信用で販売される場合の利子は、貨幣市場という商品市場とはまったく別の市場における貨幣資本の需給によって決まってくる利子率によって規制されるのだというのがマルクスの主張である。

  ところでここには大谷氏の訳者注27)がついている。〈あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される〉という一文をエンゲルスは削除しているのだが、しかし〈この一文は残されるべきであった。「前貸を受けたかのように計算される」のであって,「前貸を受けた」のではない。そしてこれこそ,この箇所の前後で見落とされてはならないポイントなのである〉というのである。これだけではなかなか大谷氏の問題意識は明確ではないので、〈この点については本書第3巻346-352ページでやや立ち入って論じているので参照されたい〉ということらしいので、その部分を検討してみることにしよう。
  この部分は〈第10章「貨幣資本と現実資本」(エンゲルス版第30-32章)に使われたマルクスの草稿について〉の〈4 マルクスは「III)」でなにを明らかにしているか〉の〈(5)商業信用  商業信用における「貸付」の意味  信用価格と現金価格の差額〉の一部分である。そこでは相変わらず大谷氏の概念的な混乱が見られる叙述があるが、今はそれらにはすべて目をつぶって、関連するものだけを取り上げることにする。
  大谷氏はまずわれわれのパラグラフでは【2】全文を紹介し、さらにその批判として【3】パラグラフ全文を紹介したあと次のように論じている(全体が長いので、少し分割して紹介しながら問題点を箇条書きにして指摘してゆこう(なお下線は大谷氏による傍点による強調個所)。

  〈ここから読み取られるべきは,まず,次のことである。すなわち,信用販売では,商品を譲渡したその第1の時点で商品の売買は完了するが,それに「第2の取引」が加わってくる。すなわちこの第1の時点で,売買契約の成立時に確定した商品の販売価格が債権=債務(Obligation)に,すなわち売り手が債権者,買い手が債務者に転化するのであって,支払期日に債務者から債権者に債務たる貨幣(Geld als Geld)が支払われることによって「第2の取引」が,したがってまたこの取引の全体が完了する。ここで生じる債権・債務の関係は,商品信用の授受によるものであって,利子生み資本としての貨幣の貸付・借受の関係すなわち貨幣信用の授受によるものではない。この二つの形態規定の区別が決定的に重要であるのに,ノーマンらはこの両者をいっしょくたにする。というよりも,前者を後者と同一視するのである。〉 (大谷本第3巻350-351頁)

  (1)まず大谷氏はマルクスが〈まず第1に〉と述べていることと、〈次に第2の取引が加わってくる〉というケースとをまったく間違って理解している。ここでマルクスが第1にと述べているのは、【2】パラグラフのノーマンの議会証言で、(ⅲ)のところで彼が〈かりに,ある木綿製造業者が自分の工場のために綿花を必要とするとすれば,彼がその綿花を手に入れることに取り掛かるときの方法は,おそらく,自分の取引銀行業者から前貸を受け,こうして手に入れた銀行券をもってリヴァプールに行き,買入れを行なう,ということでしょう〉という部分に対応しているのであり、だからマルクスは〈第1に,綿花はその現金価格で売られなければならないのであって,この現金価格は市場価格によって規定されており,市場価格そのものはまた需要供給の状態によって規制されている。その価格が,たとえば1000ポンド・スターリングだとしよう。売買に関するかぎりでは,製造業者と綿花ブローカーとの取引はこれで片づいている〉と述べているのである。第2にと述べているのは、(ⅳ)で、ノーマンが〈彼が,前貸を求めて銀行に行くことはせず,綿花を信用で買うと仮定しましょう〉と述べていることに対応しているのである。ここでマルクスが〈次に第2の取引が加わってくる〉と述べているのは、ノーマンの誤魔化しと屁理屈のために次に信用売買の例が持ち出されるという意味である。信用販売として第1と第2が問題になっているのではないのである。
  そもそも〈信用販売では,商品を譲渡したその第1の時点で商品の売買は完了する〉という認識はおかしなものである。もし信用販売なら商品の譲渡が行なわれた時点では、その支払いがまだ残っているはずだから〈商品の売買は完了する〉などとは言えないはずだからである。

  (2)第2の取引では商品の販売者は債権者になり、購買者は債務者になる。これは貨幣の支払手段の機能にもとづくものである。ところが大谷氏は〈ここで生じる債権・債務の関係は,商品信用の授受によるものであって〉と述べている。〈商品信用〉というのは、大谷氏独特の造語である。マルクス自身はそんな用語は使っていない。もしここで敢えて信用関係を持ち出すなら、「商業信用」というべきであろう。つまり再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用のことである。

  (3)こうした商業信用が貨幣信用、すなわち利子生み資本の貸付・借受の関係とは異なることはいうまでもない。〈この二つの形態規定の区別が決定的に重要である〉ことに異論はない。ノーマンの主張が、この両者を一緒くたにしているというなら、その通りであろう。しかしそもそもノーマンにこうした区別ができているとは考えられない。だから彼がその区別を認識しながら意図的に混同しているとは言えないように思える。

  続く大谷氏の説明である。

  〈この同一視を正当化するためにノーマンがもちだすのが,信用価格が現金価格よりも高い,という「事実」である。ノーマンは両者の差額が「利子の尺度」だと言い,「かりに貨幣は全然ないとしても,利子は存在するでしょう」という表現によって,利子率を決める貨幣市場が存在しなくても,信用価格と現金価格との差額は存在し,その水準は商品信用で売買される商品への需要供給によって決定される,と示唆する。
  マルクスはこれにたいして,ここでは,信用価格が現金価格よりも高いという「事実」については争わず,この差額が,信用売買される商品の需給関係によって決まるのではなく,monied capitalの需給によって変動する貨幣市場での「現行利子率」によって決まるのだ,とノーマンを批判している。貨幣市場での「現行利子率」が信用価格と現金価格との差額を規定する,というのはどのようにしてであるのか。マルクスはこれについてなにも説明をしていないが,彼の念頭にあるところは明らかである。すなわち,「現行利子率」が手形の割引率を規定し,この割引率によって規定される割引料が現金価格に上乗せされて信用価格が決まる,ということである。〉 (同381頁)

 (1) しかしそもそもノーマンの議会証言は、利子率が銀行券の量(貨幣資本(moneyed capital)の需給)によって決まるのではなく、資本の需給によって決まると主張し、ではその「資本」とは銀行券や鋳貨ではないのか、という追及に、「資本」とは生産で使用される商品またはサービスだと答え、銀行で銀行券を借り出すとしても、それは商品を買うために借りるのであって、だから利子率は銀行券の量ではなく、その銀行券の量を規定する商品の需給によって決まるのだと主張したことによる(これが第一のケースである)。しかし質問者から利子が支払われるのは銀行で貸し出される貨幣にであって、商品にではないという質問をぶつけられたノーマンは、商業信用の例を持ち出して、銀行券がなくても利子が付くという屁理屈を持ち出しているわけである(これが第2のケースである)。
  だから大谷氏が〈この同一視を正当化するためにノーマンがもちだすのが,信用価格が現金価格よりも高い,という「事実」である〉と述べていることに対してはどうしても違和感が付きまとうのである。大谷氏が〈同一視〉というのは商業信用と貨幣信用との同一視ということであろう。しかしノーマンが果たしてこの両者を同一視し、それを〈正当化〉しようとしているといえるのであろうか。

  (2)ノーマンが信用価格と現金価格との差額を利子とし、それが利子率を規定するかに主張していることに対して、マルクスがそれは〈逆である〉と指摘しているのは当然である。ただ大谷氏が〈マルクスはこれにたいして,ここでは,信用価格が現金価格よりも高いという「事実」については争わず〉と書いているのは、今一つピントこない。恐らくそれは大谷氏がこの後の方で次のように述べていることと関連するのであろう。

  〈なお,マルクスはこの「III)」の終りに近いところで,次のように書いている。「商業信用の場合に利子が(信用価格と現金価格との差額として)はいってくるのは,ただ,手形の期間が普通のそれよりも長い場合だけである(長期手形)。普通はそうはならない。そしてこのことは,各人が一方の手ではこの信用を受け他方の手ではそれを与えるということで説明がつく。しかしこの場合にこうした形態で〔すなわち利子の形態で〕割引料がはいってくるかぎりでは,それはこの商業信用によってではなく,貨幣市場によって規制されるのである。」(MEGA II/4.2,S.595-596;本書本巻543-544ページ。)〉 (353頁)

  恐らくこうしたことが頭にあったから〈ここでは,信用価格が現金価格よりも高いという「事実」については争わず〉(「ここでは」に下線があることに注意)と述べているのであろう。しかしそれにしても余計な問題意識のように思える。

  (3)〈貨幣市場での「現行利子率」が信用価格と現金価格との差額を規定する,というのはどのようにしてであるのか。マルクスはこれについてなにも説明をしていないが,彼の念頭にあるところは明らかである。すなわち,「現行利子率」が手形の割引率を規定し,この割引率によって規定される割引料が現金価格に上乗せされて信用価格が決まる,ということである。〉しかしこれは果たして本当であろうか。
  まず、それならそもそも「III)」の終わりに近いところでマルクスが書いていることと矛盾するのではないのか。マルクスは〈「商業信用の場合に利子が(信用価格と現金価格との差額として)はいってくるのは,ただ,手形の期間が普通のそれよりも長い場合だけである(長期手形)。普通はそうはならない〉と述べている。しかし手形割引では手形の満期の長短に係わらず割引率はついてくる。手形の期間が短いから割引率はなしになるわけでは決してないのである。
  なぜなら手形割引というのは、銀行の貸出の一形態なのだから、利子生み資本の貸付なのである。だから貸付期間が短いから利子は不要とはならないのである。そもそも手形割引は、手形を入手した人が貨幣を先取りするために銀行にその手形を買い取ってもらうことである。しかしそれは銀行の貸出の一形態だから、銀行はその貸し出した利子生み資本の還流する期間、つまり手形の満期までの期間、利子生み資本を貸し付けたことに対する利子を差し引いて、その手形を書いとることになる(つまり手形の額面から利子分を差し引いた額の銀行券を支払う)。銀行は満期が来たら手形の振出人から額面通りの支払を受け、その結果、支払った銀行券の額との差額を利子として取得するわけである。
  今、AがBに100万円の商品を信用で販売し、Bは100万円の手形を振り出しAに渡したとしよう。しかし大谷氏の説明だと、Bが振り出すのは100万円ではなく、割引率を上乗せした、例えば110万円にならなければならない。しかしAが入手した手形を銀行で割引してもらうかどうかはBの与り知らないことである。それはある意味Aの勝手、都合でしかない。どうしてBはそんなことに気をつかって110万円を支払う必要があるのか。そうではなく、Aは商品の形で100万円を貸し付けたことになるから、その支払期間までの利子を加えた手形の支払を求めたということであろう。Aが入手した手形を割り引くかどうかはこの際、関係がないはずである。ただ銀行の貸付利率である割引率は、利子生み資本の需給によって決まってくるが、それはだから当然、Aが商品の形で貸し付けた100万円に対しても利子として反映されるということはありうるであろう。ただマルクスもいうように、商業信用というのは、〈各人が一方の手ではこの信用を受け他方の手ではそれを与える〉ために利子は普通はつかないのである。

  そのあとの大谷氏の説明である。

  〈以上がここでのマルクスによるノーマン批判の要点であるが,この批判をするさい,マルクスは,「第2の取引」について,それは「貸し手と借り手とのあいだの」取引だと言っている。またマルクスは,「綿花の価値つまり1000ポンド・スターリングの3か月間の貸付」とも言う。この「貸し手と借り手とのあいだのそれ」が利子生み資本の貸付・借入の関係であるとすれば,マルクスは商業信用における信用の授受は利子生み資本の貸付・借受の関係だとしていることになる。しかし,マルクスが理論的にそう考えているわけではないことは,エンゲルスが彼の版に取り入れなかった一文,すなわち「あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される」という一文からも明らかである。実際に「前貸を受けた」のではなくて,「あたかも前貸を受けたかのように計算される」のである。上記のマルクスの「貸し手と借り手」とか「貸付」とかいった表現は,正確には,当事者たちがもつ転倒的表象だと言うべきであろう。すなわち,銀行による手形割引で貨幣信用が商業信用に代位するさい,銀行にとってこの割引は,割引手形の購入であると同時に,まごうかたなき貸付可能資本の利子生み資本としての貸出であることから,割引を受ける生産者や商人の側でも,この割引が利子生み資本としての貨幣の借受であるかのような表象が生じ,ここから,商品の売り手がこの借受にたいして銀行によって徴収された利子(割引料)を商品の買い手に転嫁するためのものが「信用価格と現金価格との差額」だ,という転倒的な表象が生まれるのである。〉 (同351-352頁)

  この部分が本題である。つまりエンゲルスが削除した〈あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される〉という部分は重要であり、削除されるべきではなかったその理由である。つまり大谷氏の謂わんとすることは、商業信用というのは、商品の売買の一形態であって、決して利子生み資本の貸し借りとは同一視してはいけないということである。だからマルクスが〈あたかも彼が3か月間1000ポンド・スターリングの前貸を受けたかのように計算される〉というように〈あたかも〉…〈かのように計算される〉と述べているだけであって、実際は〈前貸を受け〉たわけではないのだと言いたかったわけである。これはまったく正当な指摘である。
  しかしそのあとに述べていることは若干疑問を禁じ得ない。すなわち〈銀行による手形割引で貨幣信用が商業信用に代位するさい,銀行にとってこの割引は,割引手形の購入であると同時に,まごうかたなき貸付可能資本の利子生み資本としての貸出であることから,割引を受ける生産者や商人の側でも,この割引が利子生み資本としての貨幣の借受であるかのような表象が生じ〉るというのであるが、それは逆ではないか。手形割引は銀行による貸付の一形態であるにも関わらず、それを手形の買い取り、つまり普通の売買と意識されるのが通常なのである。それはエンゲルスでさえ、〈だから、ここにあるのは、けっして前貸ではなく、まったく普通の売買である〉(全集第25巻b582-583頁)と間違うほどに、手形割引は普通の商品の売買と同じだとという転倒した意識は強固なのである。だから〈割引を受ける生産者や商人の側でも,この割引が利子生み資本としての貨幣の借受であるかのような表象が生じ〉るなどということはあり得ないのである。そもそも〈割引が利子生み資本としての貨幣の借受であるかのような表象〉というが、それは表象どころかその本質そのものではないのか。問題は商品の信用による売買の場合も利子が支払われるのは、それがあたかも〈利子生み資本としての貨幣の借受であるかのような表象〉があるからだ、というならまだ説明として整合性があるが、大谷氏は前に言っていることとまったく不整合なことを言っているのにその自覚がないのである。
  いずれにせよ、大谷氏の説明にはいろいろと混乱はあるが、エンゲルスが削除した部分が重要であり、削除されるべきではなかったという指摘そのものはまったく正当であることは確かである。ただこの場合も問題は決して簡単ではない。というのはマルクス自身は利子生み資本の範疇として、ある一定の価値額を資本として貸し付けるものと規定し、その一定額の価値額について、貨幣の形態でか商品の形態でかの両方を挙げているからである。だから商品を利子生み資本として貸し付けるケースもマルクスは論じているのである。ただこの問題をさらに論じれば、あまりにも横道にずれるので、すでにその問題については「第21章該当部分の草稿の解読」において一度論じたことがあるのでそれを参照して頂くことにしよう。


【4】

 第1に,「資本」とは「生産に使用される商品」だという,がさつな観念がある。この商品が「資本」として現われるかぎりでは,資本としてのそれの価値は,商品としてのそれの価値とは区別されて,それの生産的または商業的な使用によってあげられる利潤に表現される。また,利潤率は,たしかにいつでも買われた商品の市場価格やこれらの商品の「需要供給」となんらかの関係をもちはするが,しかしさらにそれらとはまったく別の事情によって規定されるのである。また,利子率が,一般に利潤率にその限界〔limit〕をもっているということは疑いない。しかしノーマン氏がわれわれに語るべきは,この限界がどのようにして規定されるのか,ということなのである。そしてこの限界は,資本の他の諸形態から区別されたmoneyed capita1の需要供給によって規定されるのである。そこでさらに,moneyed capitalの需要供給はどのようにして規定されるのか? という問いがノーマンに出されるかもしれない。実物資本〔real capital〕の供給とmonied capitalの供給とのあいだに目に見えない結びつきがあること,このことは疑いないし,また同様に,moneyed Capitalにたいする生産的資本家の需要が現実の生産の事情によって規定されているということも疑いない! ノーマンにあっては,そのことのかわりに,monied Capitalにたいする需要は貨幣そのもの〔money as such〕にたいする需要とは同じではない,という知恵があるだけであり,そして,こういう教えが出てくるのは,ただ,彼やオウヴァストンやその他の⑤通貨予言者たちの背後には,いつでも,自分たちが人為的立法的な干渉によって通貨そのもので「資本」をつくりだして利子率を引き上げようと努めている,という良心のやましさがあるからにほかならないのである!51)

  ①〔異文〕「この利潤率」という書きかけが消され,さらに「この一般的利潤率」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「買われた商品の市場価格」← 「商品の購買価格」
  ③〔異文〕この文にピリオドがつけられ,それが消されている。
  ④〔異文〕「資[本]〔Cap[ital]〕としての商品の価値」という書きかけが消されて,さらに「しかし,ノーマン氏は」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「高利貸[予言者たち]〔Wucherer[propheten]〕」という書きかけが消されている。

  51)このあとに,「1857年の委員会からの引用〔Citate v.Committee 1857〕。」と書かれている。あとから書き込まれたもののように思われる。〉 (227-228頁)

 〈ノーマンの主張で第1に確認しなければならないのは,「資本」についてのがさつな観念です。「資本」とは「生産に使用される商品」だという主張のことです。
  いうまでもなく、商品が「資本」として現われる場合(それを私たちは「商品資本」と名づけますが),そこで問題になっているのは、それらが生産的または商業的に利用されて利潤を上げるということです。そこでは商品そのものの価値はもちろん問題ですが、しかし「資本」としての商品で問題なのはそこから上がる利潤なのです。
 また,利潤率は,たしかにいつでも買われた商品の市場価格やこれらの商品の「需要供給」となんらかの関係をもちはしますが,しかしさらにそれらとはまったく別のさまざまな事情によっても規定されます。また,利子率が,一般に利潤率にその限界〔limit〕をもっているということは疑いありません(そもそも利子は利潤から分割されたものですから)。しかしノーマン氏がわれわれに語るべきは,利子率が何によって規定されるのか,ということなのです。利子率は,商品資本や他の資本の諸形態から区別された利子生み資本(moneyed capita1)の需要供給によって規定されるのです。
  あるいは、そこでさらに,moneyed capitalの需要供給はどのようにして規定されるのか? という問いがノーマンに出されるかもしれません。実物資本〔real capital〕の供給とmonied capitalの供給とのあいだに目に見えない結びつきがあること,このことは疑いないし,また同様に,moneyed Capitalにたいする生産的資本家の需要が現実の生産の事情によって規定されているということも疑いありません! しかしノーマンにあっては,そうしたことを言い立てうるわけでもなく,monied Capitalにたいする需要は貨幣そのもの〔money as such〕にたいする需要とは同じではない,という知恵があるだけです。
  そして,こういう教えが出てくるのは,ただ,彼やオウヴァストンやその他の通貨予言者(通貨学派)たちの背後には,いつでも,自分たちが人為的立法的な干渉によって通貨そのもので「資本」をつくりだして、利子率を引き上げようと努めている,という良心のやましさがあるからにほかならないのです!〉

 【このパラグラフも、先の特別委員会でのノーマンの答弁に対する批判の続きである。ここではノーマンの「資本」のがさつな観念に対する批判が展開されている。
  ノーマンは資本とは生産に使用される商品のことだ、というのであるが、ここには資本とは何らかの財貨だという粗雑なブルジョア的な観念があるだけではなく、マルクスは通貨学派に特有の、通貨を人為的立法的な干渉によって「資本」として創造し、利子率を引き上げて儲けているという後ろめたさややましさがあるからだと喝破している(ノーマンはイングランド銀行のオウヴァストンはロイド銀行のそれぞれの役員である)。

  ここでのマルクスの批判は次のように展開されている。

  (1)まずノーマンは資本とは生産に使用される商品だとし、だから利子率は商品の需給によって規制されると主張するわけであるが、もし商品が資本として現われるなら、それは資本として利潤をえるということが第一義的なものになったということだ、とまず指摘する。単純な商品が商品資本という形態規定性を持つのは、それが資本関係のなかで捉えられるからである。つまり資本として自己増殖する価値としてそれが捉えられるからであり、だから商品も資本としての規定性で問題になるのはそれが利潤をえるためのものという位置づけによるのである。

  (2)だから商品資本で問題になるのは利潤率である。もちろん利潤率は、商品の市場価格やそれらの需給と何らかの関係をもつが、しかし利潤率を規定するのは、単に商品の市場価格やそれらの需給だけによるのではなく、何よりも資本が搾取する剰余価値の増減によって規制されているわけである。しかしノーマンはこうした資本主義的生産の現実を知るよしもない。

  (3)もし例えノーマンの主張を敷衍して、商品の需給や市場価格が利潤率を規制するとし、利子率が一般的に利潤率にその限界をもっていることを認めたとしても、しかしノーマンがわわれわれに語るべきは、利子率がどのようにして商品の需給によって規制されるのかということである。しかし彼はそんなことは何も明らかにしていないし、できるはずもないのである。

  (4)利子率というのは、資本がその再生産過程でとる資本形態、すなわち商品資本や貨幣資本(Geld capital)や生産資本とは区別された、再生産過程外でとる資本の形態規定性である利子生み資本(moneyed capital)の需給によって規定されるのである。

  (5)あるいはそこから、しかしmoneyed capitalの需給は、現実の再生産過程によって規制されているのではないのか、つまり現実の資本の需給によって規制されるのではないのか、とノーマンの主張に関連して質問する輩がいないとも限らない。確かにmoneyed capitalの需給と現実資本の需給には何らかの関連があることは確かである。moneyed capitalにたいする生産的資本家の需要が、彼らの事業の事情によって規制されているのは疑いない。しかしノーマンがそんなことを主張しているわけではない。彼が言っているのは、ただmoneyed capitalに対する需要は貨幣そのものに対する需要とは同じではない、ということだけである。

  (6)そして彼がこのように主張するのは、実は彼らこそが、人為的立法的な干渉によって(1844年の銀行法は通貨学派の主導で決められた)、通貨そのもので「資本」をつくりだして利子率を引き上げようとしていることに対する、良心のやましさがあるからなのである。
  つまりノーマンは貨幣への需給をことさら商品の需給に関連させようとするのであるが、しかしそれは彼らが常日頃から、商品の需給とは関係なしに、人為的立法的干渉によって通貨(銀行券)の量を調整し、そこから「資本」(貸付可能な貨幣資本)を作り出して利子率を引き上げて儲けているというやましさがあるから、だから利子率を規制するのは貨幣の量ではなく、商品の需給だという自分たちとは出来るだけ無関係な問題を持ち出しているのだ、というのである。】

  (続く)

 

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