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2020年7月

2020年7月29日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-12)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【29】

 /319下/(3)【MEGA II/4.2,S.475.43-53 und 476.35-39】〔原注〕2)136)預金①137)「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが明日は払い出されてBへの預金になるというのは,争う余地なく本当のことである。それはその翌日にはBから払い出されてCへの預金になるかもしれず,このようにして限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金になることがありうる。それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されている預金の記録以外にはまったく存在しない,ということもありうるのである。……スコットランドではそうであって,ここでは通貨は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金は2700万ポンド・スターリングだった。預金の払戻しを求める一般的な銀行取り付けが起こらないかぎり,同じ138)1000ポンド・スターリングが,逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済するcancel〕ことができる。今日あなたがある小売商人にたいするあなたの債務を決済するのに用いられたその同じ1000ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商人の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと[476]渡っていって,考えうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(『通貨139)理論論評,云々』,62,63ページ。)

  ①〔注解〕『通貨理論論評』の原文では次のように書かれている。--「あなたが今日Aに預金する1000ポンド・スターリングが,明日は払い出されてBへの預金になるというのは,疑問の余地なく本当のことである。それはその翌日にはBから払い出されてCへの預金になるかもしれない。そしてCからふたたび払い出されてDへの預金になるかもしれない,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ1000ポンド・スターリングの貨幣が,相次ぐ移転によって,まったく確定できない何倍もの預金金額になることがありうる。それゆえに,連合王国にあるすべての預金の10分の9が,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されている預金の記録以外には存在しない,ということもありうるのである。そして,そのようなことが生じうることの証拠としては,次の事実よりも強力な証拠はない。すなわち,スコットランドの銀行では,通貨は平均して300万ポンド・スターリングを越えたことがないのに,預金は2700万ポンド・スターリングだった,という事実である。……それにもかかわらず,いま想定してみたような不慮の事態--連合王国のすべての預金が同時に引き出されること,だからまたおよそ起こりえないこと--以外は,預金者のすべてがどんなときにも享受している連合王国の預金の額まで,貨幣を無条件に使えることにごくわずかの程度にさえ影響することはないであろう。そして,この単純な理由で,一連の移転によって無限の金額の預金にまで自己自身を増やすことの例として挙げた同じ1000ポンド・スターリングが逆の道を通って送り返されていけば,同様に確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日あなたがある小売商人にたいするあなたの債務を決済するのに用いられたその同じ100ポンド・スターリングが,明日は卸売商人にたいするこの小売商人の債務を決済し,その翌日には,銀行にたいするこの卸売商入の債務を決済する,等々,限りなく続くかもしれない。こうして,同じ100ポンド・スターリングが,人手から人手へと,銀行から銀行へと渡っていって,考えうるどんな預金額でも決済することができるのである。」

  136)〔E〕「預金。」--削除。以下の引用はエンゲルス版では,ギルバトからの一連の引用のあとに,「『通貨理論論評』,62-63ページ。--」,という導入部だけをつけて収められている。
  137)〔E〕『通貨理論論評』からの以下の引用は,草稿339ページ(MEGA II/4.2,S.527.29-528.11;本書第3巻185-187ページ)にもあり,そちらもエンゲルス版の第29章(MEGA II/15,S.470;MEW25,S,490)に収められている。どちらも,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIItから取られている(MEGA IV/8,S.173.34-174.14)。この両方の引用がどちらもノートVIIからそれぞれ別個に取られたことは,両者のあいだの句読点や省略箇所の違いから明らかである。現行版では,この同じ引用のドイツ語訳が,ここと第29章とでは少し違っている。ドイツ語訳の違いは,エンゲルスが同じ箇所からの引用であることに気づかないで,この二つの引用をそれぞれ独立にドイツ語にしたために生じたものであろう。
  138)「1000ポンド・スターリング」--この「1000ポンド・スターリング」とすぐあとにもう一度でてくる「1000ポンド・スターリング」は,『通貨理論論評』ではともに「100ポンド・スターリング」となっているが,これは『論評』での誤植であろう。
  139)「理論」--草稿では「問題〔Question〕」と誤記されている。〉 (186-188頁)

 【これは〈実際には,銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけであって,銀行で主要な問題となるのはつねに預金である。たとえば,スコットランドの諸銀行を見よ〉という部分につけられた原注である。引用の前にマルクスによる〈預金〉という書き込みがある以外は、『通貨理論論評、云々』からの抜粋だけなので平易な解読は省略した(この原注の後半部分--次のパラグラフ--はマルクスの文章になっている)。
  この引用文そのものは、実は第29章該当部分の草稿の最後のあたりでも同じものが紹介されており、しかもその際にはマルクスは途中に{   }に入れた挿入文を加えている。だからそちらの方が分かりやすいともいえる。だからわれわれはまずその第29章該当部分の以前試みた解読を紹介しておくことにしたい。マルクスは第29章該当部分では、この『通貨理論論評』からの引用の前に、スミスからの引用を行っており、しかも両者は関連して論じられているので、少し長くなりすぎるが、その前から紹介しておきたい。以下、第29章該当部分の解読からである(そこにおけるわれわれが付けたパラグラフ番号は【32】【33】に該当するが、そのままだと今考察している草稿のものと混同してややこしいので、(32)(33)とした。また一部分、今回掲載するに当たって手を入れたところもある。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(32)

 〈A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言えるのであって,預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのである。〉

 スミスの例では、同じ貨幣片が何倍もの貸し付けに役立つことが紹介されていたが、同じことは預金についても言いうるというのである。つまり〈同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となる〉わけである。

 それでは、われわれは、実際、スミスの例で考えてみよう。スミスの例を整理したものは、次のようであった。

①A(1000£)-(貸付)→W(1000£)  AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£)  WがBから財貨を買う
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£)  BがXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£)  XがCから財貨を買う
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£)  CがYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£)  YがDから財貨を買う

 今これを銀行への預金に書き替えると次のようになる。

①A(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)    Aが銀行に預金
①’銀行(1000£)-(貸付)→W(1000£)     銀行が預金された1000£をWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£)     WがBから財貨を買う
③B(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)    Bが銀行に預金
③’銀行(1000£)-(貸付)-X(1000£)     銀行が預金された1000£をXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£)     XがCから財貨を買う
⑤C(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)    Cが銀行に預金
⑤’銀行(1000£)-(貸付)-Y(1000£)     銀行が預金された1000£をYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£)     YがDから財貨を買う

  スミスの例と同じように、A、B、C、Dがそれぞれ持っている1000£は、彼らが何らかの形で社会的に生み出した商品価値の実現形態であり、社会的には新たに生み出された価値である。それを今回は彼らはすべて銀行に預金するとしている(但し最後のDの場合はそれは想定されていないのだが)。スミスの場合は、それらはWXYにそれぞれ貸し付けられたのであるが、今回はその貸付に銀行が介在して行われたということであり、スミスの場合、ABCは何らかの貨幣請求権(手形や小切手等)を持っていたのが、今度はそれは銀行に対する預金の形で持っていることになっている。
   銀行は社会的に有休している貨幣(資本)を集中し、それを必要な資本に貸し付けるのであるが、この場合、銀行は貸し手(ABC)に対しては、借り手を集中して代表し、借り手(WXY)に対しては、貸し手を集中して代表している。社会的には4000£の価値が存在していた(うち1000£は貨幣形態)。新たに形成された価値は3000£であった。以前にも指摘したように、それらの商品価値の実現形態としての貨幣は、それと同等の価値をもつ使用価値に対する請求権を表している。しかしABCはその権利を直ちに行使せず、とりあえずは銀行に預金して保留したわけである。預金はそれを表している。しかし銀行はその預金をすぐに利子生み資本としてWXYに貸し出し運用する。つまりABCは、自分たちの権利を銀行を介してWXYに委ねたわけである(現実には銀行は預金のすべてを貸付資本として運用するのではなく、一定の準備金を残した上で行うのであるが、これは今は無視する)。もちろんABCは、スミスの例の場合は、明らかにWXYに貸し付けたのだから、それを意識している。しかし銀行を介した場合、彼らは自分自身の権利はまだ銀行の預金という形で持っているとおもっている。しかしWXYはABCに代わって、直ちにそれらの権利を行使してしまう。つまりその限りでは、社会的には、ABCが生み出した価値、よって将来の生産や使用価値に対する請求権はその時点で消滅したのである。よって銀行にあるABCの預金は、まったく実体のない架空なものでしかないことになる。あるのは、ただ法的にかれらの権利は保留されただけであることが保証されているだけである。つまりそれらの権利を代行したWXYがABCとは別に(時間的にも空間的にもまったく違った形で)形成する価値(権利)が、今度はABCに委ねられる(返済される)必要がある、その義務がWXYにはあるということでしかない。WXYがその義務を果たさなければ、銀行は破綻し、ABCの預金も消滅せざるを得ない(社会的にはそれらはすでに消滅していたものがただ現実になるだけなのだが)。銀行にはWXYに対する貸し付けによって合計3000£の債権が発生しているが、これは銀行にとってはABCの合計3000£の預金が債務であることに対応している。


  (33)

  〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である。{このことは,ただ2つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,1つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただし《この1000ポンド・スターリングの》預金者によってではなく)振出された小切手の支払等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび、他のある銀行業者に預金することがありうる{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払によって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである}。}それは次の日にはBからまた払い出されてCへの預金となることができ,こうしてどこまでも続くことができる。それゆえ,貨幣での同一の1000ポンド・スターリングが,次々に譲渡されていくことによって,まったく確定できない何倍もの預金額となることができるのである。それだからこそ,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任がある銀行業者の帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しないというようなことも,ありうるのである。……たとえばスコットランドではそうであって,そこでは流通額〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングとなっている。銀行にたいする預金の一般的な取り付けが起こらないとすれば,同ーの100ポンド・スターリングが,それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日ある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられた同ーの100ポンド・スターリングが,明日は彼の卸売商人にたいする債務を決済し,明後日はこの卸売商人の銀行にたいする債務を決済することができ,そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(『通貨理論論評……』,62,63ページ。)〉

 この一文は先のパラグラフでマルクスがスミスの例は預金にも妥当すると述べたものを受けたものと思われる。つまり今度は預金が同じ貨幣片で何倍も形成される例として、この引用文が紹介されているわけである。
 こでは『通貨理論論評……』からの引用文にマルクスのものと考えられる比較的長い一文が{ という括弧に括られて書かれている。われわれは最初からマルクスの一文も含めて、その順序どおり、考察していくことにする。

 まず引用文であるが〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である〉というものである。これは確かに争う余地のない事実である。これについてマルクスは で囲んだ挿入文のなかで、それは二つの場合のみが可能だとして次のように述べている。

 〈このことは,ただ2つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,1つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただし《この1000ポンド・スターリングの》預金者によってではなく)振出された小切手の支払等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび、他のある銀行業者に預金することがありうる{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払によって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである}。

 われわれはこの二つのケースについて考えてみよう。

【第Ⅰのケース】
  預金者が1000£をA銀行から引き出して、B銀行に預金する場合。この場合は、ただ預金がAからBに移っただけで、預金額の増減はなく何も問題はない。

【第Ⅱのケース】
  A銀行が預金された1000£で手形を割り引いたり、あるいは彼の預金者(しかし今回の1000£を預金した以外の預金者)の降り出した小切手の支払に応じた場合で、A銀行で手形を割り引いてもらった人や小切手の支払いを受けた人が、それぞれB銀行に預金した場合である。ただマルクスは手形割引の場合は、恐らくそれは現金の先取りだから、当然、それは第三者に支払われるか、何らかの必要なものの購買に当てられ、その支払を受けた第三者がB銀行に預金するという過程を辿るであろうとも指摘している。というのは手形をわざわざ割り引いて手にした預金(現金)を、また預金するようなものはいないからというのである。それなら別に利子を割り引かせてまで現金を先取りする必要はそもそもないからである。

 いずれにせよ、マルクスが考察している二つのケースを考えてみると、第Ⅰのケースの場合、社会的には預金額の増減はまったくないが、第Ⅱのケースの場合は、預金額は倍増していることがわかる。後者の場合、A、Bのそれぞれの銀行に預金された1000£は何らかの商品の価値の実現形態だからである。まずAに預金された1000£は何らかの価値の実現形態と考えることができる。そしてそれがAによって手形割引で貸し出され、そしてその貸し付けを受けた人がそれで自分の債務を支払った場合、あるいはA銀行がその預金で、振り出された自行宛の小切手の支払をした場合、そしてそれらの支払いを受けた人が、それをBに預金した場合であるが、この場合は、最初のA銀行の預金は帳簿上の記録でしかないが、しかし依然として預金の記録としては存在しており、B銀行の預金は現実の預金としてあることになる。だから社会的には預金額としては2000£あることになるのである。

 引用文の続き……

  〈それは次の日にはBからまた払い出されてCへの預金となることができ,こうしてどこまでも続くことができる。それゆえ,貨幣での同一の1000ポンド・スターリングが,次々に譲渡されていくことによって,まったく確定できない何倍もの預金額となることができるのである

  しかしこうしたことが言いうるのは、マルクスが指摘した【第Ⅱのケース】の場合のみである。【第Ⅰのケース】では同じ預金がただ持ち手を変えているだけで社会的にはまったく預金額そのものの増加はない。そして【第Ⅱのケース】というのは、(32)パラグラフで考察したように何らかの商品の購買が介在している場合である。預金は確かに何倍にもなるが、しかし、それは実際に社会的にはそれだけ新たに生み出された商品価値が存在していることを前提しているのであり、その実現形態としての貨幣が新たな預金を生み出しているということである。これはマルクスが預金を現金でなされるものに限定していることと同義であると考えられる。ただ預金の場合は、それが直ちに銀行から貸し出されることによって、次々とそれらは単なる帳簿上の記録になってしまい、架空化するということである。
  今、商品価値を実現した貨幣所持者aが1000£を銀行に預金したとすると、すぐに銀行はその預金1000£を別の人に貸し出す。だからaの預金はその時点で架空化し、単なる帳簿上の記録でしかない。そしてその貸付を受けた人がそれで手形や小切手への支払に使ったり、あるいは別の商品の購買に当てたりして、それを支払ったとすると、その支払を受けた人bが、やはりそれを銀行に預金するわけである。するとこの場合、預金は社会的には2000£と2倍になっている(架空1000£+現金1000£)。ここで注意が必要なのは、第一に、その2000£は明らかにaとbのそれぞれの商品価値の実現形態が、だから現金が銀行に預金されて生じていることである。しかし第二に、aの預金そのものはすでに銀行にはなく架空化しており、しかしaにとっては彼の商品価値の実現形態は依然として銀行にあると考えているわけである。同じような過程を辿れば、同じ1000£が確かに何倍もの預金になることは明らかであるが、しかしそれは同じ貨幣片が次々と商品を実現して、総額として何倍もの商品価値を実現できるのとまったく同じことである。ただ預金の場合は、最後に行われてまだ銀行に残っている預金1000£の場合だけはともかく、それ以外のすべては架空なものでしかなく、銀行の帳簿上に記載されているだけの存在でしかないということである。

 〈それだからこそ,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任がある銀行業者の帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しないというようなことも,ありうるのである

  この〈総額の10分の9〉を引いた10分の1は要するに準備金であろう。

  〈たとえばスコットランドではそうであって,そこでは流通額〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングとなっている

  ここで流通額というのは実際に流通している現金(すなわち金貨と銀行券)の総額を意味している。これはまあ流通必要金量を代理していると言えるだろう。そして預金額2700万£は帳簿上の記録に過ぎないが、しかし、その預金に対して小切手が切られ、膨大な取り引きが決済されているわけである。混乱した現代のマルクス経済学者たちはこの2700万£をも「預金通貨」なる用語で呼んで、通貨の一部に加えるわけである。しかしこの引用文の著者は賢明にもそうした間違いに陥っていない。預金は、単なる帳簿上の記録でしかないということを明確に理解している。

 〈銀行にたいする預金の一般的な取り付けが起こらないとすれば,同一の100ポンド・スターリングが,それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日ある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられた同一の100ポンド・スターリングが,明日は彼の卸売商人にたいする債務を決済し,明後日はこの卸売商人の銀行にたいする債務を決済することができ,そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである

 この一文は必ずしも明瞭ではない。まず〈同一の100ポンド・スターリング〉というのが何なのかがハッキリしないことである。それは預金なのか、それとも別の現金なのかがハッキリしないのである。次に〈それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう〉というのもハッキリしない。〈それの行程〉というのはどの行程なのか、〈逆戻りす〉るというのはどういうことなのか、ということである。しかし細かいことを色々と考えていてもしようがない。ただ最後の部分〈そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである〉を見るかぎり〈同一の100ポンド・スターリング〉というのは〈同一の100£紙幣片〉と考えてもよいように思う。そして〈手から手へと〉というのは、それが支払手段か購買手段として機能して、人の手を渡っていくことを表し、〈銀行から銀行へと渡って行って〉というのは、それらが色々な銀行に預金となり、且つそれらが決済されていくことを述べているように思う。〈考えられうるどんな預金額でも決済することができる〉というのは、そうして決済された預金額というのは、同じ100£の銀行券片が形成したものだが、しかしそれは一定の期間をとれば大きな額に達するのだということであろう。
 ただここで述べられていることは、同じ100£の銀行券片が介在して形成された銀行預金が、帳簿上の記録としてさまざまな債務を決済するのに利用され得るということではないような気がする。帳簿上の記録はまったく架空なものに過ぎないのに、銀行にとっては一つの貨幣資本であり、彼らはそれらの決済手続きに対して手数料を稼ぐのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上で第29章部分の解読の紹介は終わりである。ほぼ今回の原注の解読になっていると思うので、何も付け加える必要はない。ただ翻訳上かどうかは不明だが、若干、本文には今回のものと異なるところがある。
  第29章では〈そこでは流通額〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに〉となっているが、今回の原注では〈ここでは通貨は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに〉となっている。これは「currency」を如何に訳すかの問題だが、どちらが正しいとも言い難い。
  また第29章のところでは〈100ポンド・スターリング〉となっていたのが、今回は〈1000ポンド・スターリング〉となっている。これについては、大谷氏は訳者注で次のように指摘している。

  〈138)「1000ポンド・スターリング」--この「1000ポンド・スターリング」とすぐあとにもう一度でてくる「1000ポンド・スターリング」は,『通貨理論論評』ではともに「100ポンド・スターリング」となっているが,これは『論評』での誤植であろう。〉 (新本第2巻187頁)

  結局、今回の原注は銀行券は卸売業の鋳貨をなすだけで、銀行で重要な役割を果すのは預金だという本文を補足するものとして、現実に銀行の預金額が実際の通貨の流通量にくらべてどれほど巨大な額になっているかを例証するものである。それは商業上の取引の多くが預金の振替決済によって行われていて、そこで現金(銀行券)が果す役割はただ帳尻を合わせるための小銭の役割を果たしているだけだ、ということである。しかもこうした商業上の取引を決済している巨額の預金のほとんどがただ帳簿上のものでしかなく、帳簿上の記録として貨幣の機能を果すわけである。だから銀行は実際に預金された貨幣そのものをすぐに利子生み資本として貸し出し利子を稼ぐ一方で、残った帳簿上の記録としても振替決済によって手数料を稼ぐわけである。】


【30】

 〈140)銀行がその「預金者」の引き出しにたいして「銀行券」を発行する場合には,それは明らかに,ただ銀行の負債の形態が要求次第支払われるべき預金の形態から要求次第支払われるべき銀行券の形態に変わるだけのことである。〔原注2)終わり〕/

  140)〔E〕エンゲルス版では,このパラグラフは削除されている。〉 (188頁)

 〈銀行がその「預金者」の引き出しの要求に対して、「銀行券」で応じた場合、それは明らかに、ただ銀行の負債の形態が変わるだけのことです。預金の場合は、要求次第支払われるべきものですが、やはり銀行券も要求あり次第現金(金鋳貨あるいは地金)での支払いをしなければなりませんから。〉

 【これはマルクス自身が先の『通貨理論論評』からの引用につけた一文であるが、預金も銀行券も銀行の負債という点では同じ性格をもつ、と指摘しているだけのもののようである。
  ところでエンゲルスは、先の『通貨理論論評』の引用文を紹介したあと、このマルクスのつけた一文を削除しているのである。それに対して、大谷氏は次のように述べている。

  〈この預金についての文には注「2)」がつけられているが,ここには,エンゲルス版で彼による長い挿入がはいる,その直前に引用されている,『通貨理論倫評』での記述と,そのほかに次のような--エンゲルスが省いた--マルクスの文章がある。
  「銀行がその「預金者」の引き出しにたいして「銀行券」を発行する場合には,それは明らかに,ただ銀行の負債の形態が要求次第支払われるべき預金の形態から要求次第支払われるべき銀行券の形態に変わるだけのことである。」
  預金が銀行券で引き出されるときには,銀行の負債(すなわち受ける信用)の形態が変わるだけだということがここでは強調されている。すなわち,信用貨幣の一形態から他の形態への転換だということである。ここでも,エンゲルスは,預金が信用貨幣であることを示すような箇所を省いているのであって,預金と預金の振替にかかわる部分を,エンゲルスは意識的にすべて省こうとしたのではないか,という印象さえ与えられるのである。〉 (新本第2巻121-122頁、太字は大谷氏の傍点による強調個所)

  エンゲルスが省いたマルクスの一文は重要な指摘であり、それをどうしてエンゲルスが省いたのかは確かに疑問であり、大谷氏の疑念は当然といえる。しかし大谷氏がマルクスの一文が〈信用貨幣の一形態から他の形態への転換〉だと説明しているのは、そのままでは首肯できない。ここには預金は通貨である(預金通貨)、という大谷氏独特の解釈があるからである。しかしこれについては何度も述べてきたが、『通貨理論論評』でも〈それゆえに,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任を負っている銀行業者たちの帳簿に記載されている預金の記録以外にはまったく存在しない,ということもありうる〉と述べているのであり、ここには預金が通貨であるなどという間違った認識はない。確かに単なる帳簿上の記録に過ぎない預金がさまざまな振替決済においては貨幣の機能を果す。しかし「貨幣の機能」にもいろいろなものがある。大谷氏はその機能は流通手段としての機能だなどというのであるが、しかしそれは貨幣の節約にこそなれ、それ自体を通貨とすることは間違いなのである。なぜなら、ここで果たしている貨幣の機能とは、諸支払いの相殺を行う機能であり、だから観念的な計算貨幣(価値尺度)としての機能であって、通貨(つまり流通手段や支払手段)としてのそれではないからである。だから大谷氏が憶測するような「預金通貨」などという用語を肯定する余地はここにはまったくないのである。】


【31】

 〈[475]/318上/(2)【MEGA II/4.2,S,475.4-5】特殊的信用諸用具ならびに銀行の特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない。|〉 (188頁)

 〈これ以上の特殊な信用諸用具や銀行の特殊な諸形態については、資本主義的生産様式一般の特徴付けのために必要なわずかの点を明らかにするという私たちの目的のためには、もうこれ以上考察する必要はないでしょう。〉

 【これで大谷氏が〔Ⅰ 信用制度の概要〕としている部分は終わりである。大谷氏の解釈ではエンゲルス版の第25章の前半部分と第27章は基本的には〔A 信用制度〕について概説したものであり、第25章前半部分は〔Ⅰ 信用制度の概要〕、第27章部分は〔II 信用制度の役割〕とされている。エンゲルスが第25章の後半部分に付け加えたものと第26章としてまとめたものは〔信用制度についての雑録〕〔挿論 ノーマンおよびオウヴァストンの無概念的混乱の批判〕として位置づけられている(最初に紹介した大谷氏の全体の構成の理解を参照)。大谷氏は第25章該当部分と第27章該当部分との関連を次のように指摘している。

 〈もしこのように見ることが許されるとすれば,第5章の「5)」のはじめのほうでこの章の本文として書かれているのは,317-318ページのいわば「総論」にあたる部分に続いては,第27章相当部分だということになる。エンゲルス版について大まかに言えば,第25章の本文部分末尾の,
  「特殊的信用諸機関〔マルクスでは用具〕ならびに銀行そのもの〔マルクスでは「そのもの」はなし〕の特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない」(MEGAIⅡ/15,S.395;MEW25,S.417),
というところに,「第27章資本主義的生産における信用の役割」の部分が続く,ということである。〉 (新本第2巻62頁)

  とりあえず、われわれも第25章該当部分の本文の解読はひとまず終えることにしよう。】

  次回は、一旦、第25章該当部分の草稿の本文の解読のまとめを行う。

 

2020年7月23日 (木)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-11)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【27】

 /318上/(3)【MEGA II/42,S.474.18-41】〔原注〕131){注1)へ(318および319ページ)〔zu Note 1)(318 u.319)〕。--(ⅰ)「銀行の事業資本〔trading capital〕は二つの部分から,すなわち投下資本〔invested capital〕と借り入れられたその銀行業資本banking capital〕とから成っている。」(J.W.ギルバト銀行業の歴史と理論』,ロンドン,1834年)(117ページ。)(ⅱ)「銀行業資本あるいは借入資本を調達するための三つの方法は,第1に預金の受け入れによって,第2に銀行券の発行によって,第3に手形の振り出しによって,である。もしある人が私に100ポンド・スターリングを無償で貸してくれて,私がこの100ポンド・スターリングを別のある人に4%の利子で貸すならば,私は1年のうちにこの取引によって4%を儲けるであろう。さらに,ある人が私の「支払約束Promise to pay〕」を受け取ったのち,年末にそれを私に返してくれて,しかもまるで私が彼に100個のソヴリン金貨を貸したかのようにそれにたいする4%を私に支払ってくれるならば,この取引によって私は4%儲けることになる。さらにまた,地方の町にいるある人が私に100ポンド・スターリングを,21日後には私が同じ額をロンドンにいるある人に支払う,という条件でもたらすならば,この21日のあいだに私がこの貨幣で儲けることができる利子は,すべて私の利潤であろう。以上は,銀行業の諸操作を,また預金,銀行券,手形によって銀行業資本が創造される方法を,偏見なく描いたものである。」(同前。){(ⅲ)「銀行業者の利潤は,一般に,彼の借入資本あるいは銀行業資本の額に比例する。銀行の本当の利潤を確定するためには,投下資本にたいする利子を総利潤から引き去らなければならない。残額が銀行業利潤である。」(同前,118ページ。〔)〕}(ⅳ)銀行業者からその顧客への前貸は,他の人びとの貨幣で行なわれる。」(同前,146ページ。)(ⅴ)132)銀行券を発行しない銀行業者でさえも,手形の割引によって銀行業資本を創造する。彼らは彼らの割引を,彼らの預金を増加させるのに役立つものにするのである。ロンドンの銀行業者たちは,自分のところに預金口座をもつ人びとのため以外には割引をしようとしない。」(119ページ。)(ⅵ)「手形を割り引いてもらってその全額にたいして利子を支払った当事者は,この額のうちの多少の部分を,利子なしに銀行業者の手に残しておかなければならない。この方法で銀行業者は,実際に前貸された貨幣にたいしてそのときの普通の利子率以上のものを受け取るのであり,また彼の手に残された残高だけの銀行業資本を調達するのである。」(同 前,[119,]120ペー ジ。)〔}〕133)原注「注1)へ(318および319ページ)」終わり〕/

  ①〔注解〕ギルバトでは次のようになっている。--「銀行の事業資本は二つの部分に,すなわち投下資本と銀行業資本とに分けることができる。」

  131)以下の原注「注1)へ(318および319ページ)。」は,318ページ上半部から始まる雑録部分の冒頭に書かれている。この原注が318ページにあるにもかかわらず「318および319ページ」と次のページをも指示しているのは,雑録部分がページ下半部の注部分よりもあとに書かれたためと考えられる。またここで両ページを指示しているのは,318ページの本文のなかに注番号があり,319ページには注そのものがある,ということを示すためではないかと思われる。エンゲルス版では,前出の原注「j)フラートン。」からの引用に続いて,「以下は,J.W.ギルバト『銀行業の理論と歴史』,ロンドン,1834年,からの引用である。--」,として,以下,マルクスが原注と雑録とのなかでギルバトの書から引用している諸箇所をギルバトの書でのページ順に収めているが,その最初のものがこの「注1)へ(318および319ページ)」である。
  132)〔E〕「銀行券を発行しない銀行業者でさえも」--原文は,Grade d.bankers,die keine Noten ausgeben,となっているが,ギルバトの原文はEven those bankers who do not issue notes,であって,おそらくマルクスは英語のevenをドイツ語のebenの意味に読みgradeとしたのであろう。gradeのままなら,「銀行券を発行しない銀行業者こそは」となるが,ここではevenのほうがマルクスの引用の意図によりかなうものと思われるので,それによっておく。なお,エンゲルス版ではgeradeのままになっている。
  133)MEGAでは,このあとに,この原注に属するものとして,本書ではのちに「〔信用制度についての雑録〕」の冒頭に収めた,318上(4),318上(5),および,318上(6) を置いている。〉 (184-185頁)

 【まず最初に細かいことだが気づいたことを書いておこう。ここで大谷氏は〈{注1)へ(318および319ページ)〔zu Note 1)(318 u.319)〕〉と書いているが、最初の〈{〉に対応する締めくくりの〈}〉がない。これは恐らくそのあとの〈〔zu Note 1)(318 u.319)〕〉に対応させて考えるなら、あるいは〈注1)へ(318および319ページ)〔zu Note 1)(318 u.319)〕。〉(赤字は変更箇所)とすべきだったのかも知れない。
  さて、これは「注1)へ」とあるように、原注「1)」への補足の原注である。これが〈注1)へ(318および319ページ)〉となっていることについて、大谷氏は訳者注131)で自身の推定を次のように行っている。

  〈原注「注1)へ(318および319ページ)。」は,318ページ上半部から始まる雑録部分の冒頭に書かれている。この原注が318ページにあるにもかかわらず「318および319ページ」と次のページをも指示しているのは,雑録部分がページ下半部の注部分よりもあとに書かれたためと考えられる。またここで両ページを指示しているのは,318ページの本文のなかに注番号があり,319ページには注そのものがある,ということを示すためではないかと思われる。〉 (新本第2巻184頁)

  確かにこのパラグラフの冒頭には〈/318上/(3)〉とある。つまり草稿の318頁の上段の三つ目のパラグラフということである。318頁の上段の冒頭のパラグラフ、つまり〈/318上/(1)〉というのは、実はわれわれのパラグラフ番号では【21】パラグラフになり、本文である。これまで検討している原注(われわれのパラグラフでは【22】~【30】まで)はすべてこの318頁の冒頭にある本文に関連するものなのである。では318頁上段の二つ目のパラグラフ、つまり〈/318上/(2)〉というのは何かというと、同じくわれわれのパラグラフ番号では【31】パラグラフであり、実は、このパラグラフで本文は終わっているのである。
  つまりマルクスが第25章(これはエンゲルスが付けたものだが)に該当する本文として書いた最後の締めくくりのパラグラフがあるのが318頁の二つ目のパラグラフなのである。そしてその本文が終わったあとに、すぐにこの〈〔原注〕{注1)へ(318および319ページ)〔zu Note 1)(318 u.319)〕〉が書かれていることになる。
  それに対して、これまでわれわれが検討してきた【21】パラグラフの本文に付けられた幾つかの原注のうち「i)」(【22】【23】パラグラフ)は318頁の下段の第6パラグラフと第5パラグラフにあり(つまり順序が入れ替わっている)、原注「j)」(【24】パラグラフ)や原注「注jへ」(【25】パラグラフ)は319頁下段の第1パラグラフと第4パラグラフに、原注「1)」(【26】パラグラフ)は319頁下段の第2パラグラフに書かれている。その原注「1)」への追加的な原注「注1)へ(318および319ページ)。」が何と本文が書かれている318頁の本文が終わったあとに、すぐに続けて書かれているというわけである。
  では319頁下段の第3パラグラフはというと、原注「2)」(【29】パラグラフ)が書かれているのである。しかも本文が途中で終わっている318頁の上段には、大谷氏が〔信用制度についての雑録〕に分類したものも含まれており、続く319頁の上段に書かれているものにも雑録とされているものがあるだけではなく、その第3パラグラフは「注1」(【28】パラグラフ)と、本文(【21】パラグラフ)の原注になっているものもあるのである。
  マルクス自身の原注の付けた方が複雑なのはもちろんだが、それらから大谷氏が自身の考証にもとづいて、第【21】パラグラフの本文に対する原注と、それ以外の雑録とに仕分けたということであろう。何とも複雑だが、われわれとしては、それらの是非を判断する材料がそもそもないのだから、とにかく大谷氏の編集にもとづいて検討を行っていくことしかできない。

  さて、そもそも原注「1)」(【26】パラグラフ)というのは〈しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々〉という本文につけられもので、銀行法特別委員会報告でのロイド(オウヴァストン)の答弁とラゲーの著書からの引用であった。だから今回の原注〈注1)へ(318および319ページ)〉もそれを補足するものと考えられる。なお小林賢斎氏は『マルクス「信用論」の解明』で次のように説明している。

  〈「注1)」の2つの引用(【26】パラグラフのこと--引用者)は,いずれも,「預金」と銀行業者が貸出す「資本」との関係,ないしは銀行業者の与える「信用」つまり銀行が貸出す「資本」と,銀行業者に無利子での利用を許す「あなたの資本」つまり「預金」との関係についてのものである。マルクスはこの関係を,したがってまた「銀行業者の資本」なるものを,より明快に説明しているものとして,ギルバートの『銀行業の歴史と理論』の第Ⅲ部第Ⅷ章「預金銀行(banks of deposit)」から抜き書きし,そこに「注1)(318および319)へ」という見出しを付したのであろう。〉 (小林前掲329頁)

  そこで、われわれも今回も便宜的にそれぞれの引用に番号(ⅰ)~(ⅵ)を付してその内容を検討することにしよう。
  これらはすべて〈J.W.ギルバト銀行業の歴史と理論〉からの抜粋である。しかし必ずしも頁数の若い順に抜粋されているわけではない。(ⅰ)と(ⅱ)は同じ117頁からの抜粋であるが、(ⅲ)は118頁、(ⅳ)146頁、(ⅴ)119頁、(ⅵ)120頁となっている。だからマルクスは自身の問題意識にもとづいてそれらの引用を並べていることが分かる。先の小林氏はこのギルバトの著書について次のように指摘している。

 〈さてマルクスによるここでのギルバートからの引用は,全て,彼の著書『銀行業の歴史と原理』の第Ⅲ部「銀行業の原理」部分からである。因みにこの第Ⅲ部の構成は,第Ⅷ章  預金銀行,第Ⅸ章 送金銀行,第X章 発券銀行,第XI章 割引銀行,第XⅡ章 キャッシュ クレディット銀行,第XⅢ章 貸付銀行,第XⅣ章 貯蓄銀行,[第XⅤ章 ロンドン=ウェストミンスター銀行]となっており,マルクスは最後の2章を除くすべての章から書き抜いている。〉 (322頁)

 そしてわれわれの引用番号の(ⅰ)~(ⅲ)と(ⅴ)、(ⅵ)はすべて「第Ⅷ章 預金銀行」から引用されており、(ⅳ)だけが「第XI章 割引銀行」の序論的部分からとられたものと指摘し、次のように述べている。

  〈そこではギルバートは「近代銀行業の事業の顕著な分野は為替手形を割引くことから成立っている」とし,その理由の一方として,為替手形の性質--手形は満期までの期間が短く,投下した資本は直ぐに還流し,また必要ならば再割引されうる--を挙げる。そして他方の理由は,銀行が貸出す資本の性質にあるとして,次のように説明する。「銀行業者のその顧客に対する前貸しは他人の貨幣でなされ,かつその貨幣はいつ引出されてもよいのであるから,これらの前貸しがなされる有価証券は急速に回転し,またいつでも換金可能(convertible)でなければならないからである」,と。そしてマルクスが引用5としてくるのは(われわれの付した番号では(ⅳ)--引用者),「銀行業者のその顧客に対する前貸しは他人の貨幣でなされる」というところである。〉 (331頁)

  とりあえず、マルクスの引用についての知りうる情報を確認した上で、それではそれぞれの内容を検討していくことにしよう。

  (ⅰ)は銀行の事業資本は二つの部分からなるとして、一つは投下資本ともう一つは借り入れられた銀行業資本とが挙げられている。これは第29章該当部分の草稿(「5)信用。架空資本」の「II)」と項目番号が打たれた部分)で銀行業者の資本の構成が分析されているが、そこで次のように指摘されていることに対応している。

 〈銀行業者の資本〔d,Bankerscapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。……銀行業者の資本は〔es〕,それがこれらの実物的な〔real〕構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capita1〕または借入資本〔gepumptes Capital〕)とに分かれる。〉 (新本第3巻162-163頁)

  ここでギルバトが指摘しているものは、銀行業者の資本の実物的な構成部分とは別の構成として後半部分でマルクスが述べているものに該当するであろう。だからギルバトがいう〈投下資本〔invested capital〉は、マルクスのいう〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〉に対応し、同じく〈借り入れられたその銀行業資本banking capital〉が、〈預金(彼の銀行業資本〔banking capita1〕または借入資本〔gepumptes Capital)〉に対応するわけである。
 なおついでに紹介しておくと、このマルクスの銀行業資本の実物的な構成部分ともう一の構成部分とへの区別は、上述の小林氏によると貸借対照の貸方と借方にもとづいたものだとのことである。次のように指摘している。

 〈マルクスは,「銀行業者の資本」の「諸成分」について,銀行の貸借対照に従って,最初に資産の側(貸方)を1)現金(金または銀行券)と2)有価証券とに分け,さらに後者を①「商業証券である手形」と②「利子生み証券」--公的証券とあらゆる種類の株式,抵当証券等--とに分ける。そして次に負債の側(借方)について,次のようにいう,「これらの現実的(real)諸成分から成立つ資本と並んで,それ[銀行業者の資本(Bankerscapita1)]は,銀行業者自身の投下資本と,預金(彼の銀行営業資本(banking capita1),即ち(oder)借入資本(gepumptes Capital)とに分かれる」,と。〉 (同350頁)

  こうした指摘は、以前第29章草稿の解読の際に「預金」に関連して紹介した銀行の貸借対照表を見る限り妥当のなように思える。

  ついでにこの(ⅰ)の引用について小林氏は次のように説明していることも紹介しておこう(なお小林氏はギルバトの引用を最初のものから通し番号を付しているので、この引用を「引用2」としている)。

  〈ギルバートはこの第Ⅷ章の冒頭で次のように言う,「銀行業(banking)は貨幣を稼ぐことを目的として営まれる一種の取引(trade)である」が,「銀行業者の取引は,それが主として他人の貨幣(money)で営まれる限りで,他の諸取引とは異なる」,と。そして続いて彼は,マルクスが引用する「銀行の使用総資本」なるものの説明に入っていく。「銀行の使用総資本(the trading capital of a bank)は2つの部分に,即ち投下資本(the invested capital),および銀行営業資本(the banking capital)に,分けられるといってよい。投下資本は事業(business)を営む目的で出資者(partners)によって払い込まれた貨幣である。これは真の資本(the real capital)と呼ばれえよう。銀行営業資本は[銀行の使用総]資本のうちの,その事業の過程で銀行自身によって創造(create)される部分であり,そして借入資本(borrowed capital)と呼ばれえよう)」--引用2--,と。〉 (前掲329頁)

  (ⅱ)は(ⅰ)で指摘された構成部分で、投下資本と区別される銀行業資本あるいは借入資本を調達する三つの方法として①預金の受け入れ、②銀行券の発行、③手形の振り出し、を指摘し、それぞれについて銀行はどのようにしてそれら調達された銀行業資本で儲けるかが紹介されている。
  まず①の預金の受け入れについて、100ポンドを無償で貸してくれて、それを別のある人に4%で貸すという例が挙げられている。もちろん無償でなくても利子を支払っても、それより高い利子で貸し出す事によって銀行はその利子の差額で儲けるわけである。
  ②の銀行券については、私の「支払約束」で貸し付けると述べている。そしてそれが年末に返ってきて、それに対して公衆は4%の利子を支払う、あたかも銀行が100個のソヴリン金貨を貸したかのように、それは通用することが指摘されている。
  ③の手形の振り出しについては、地方業者が持ち込んだ100ポンドに対して21日後にロンドンにいる別の業者に支払うという銀行業者の為替手形を振り出すケースが書かれている。この場合、その21日の間に受け取った100ポンドを運用して得た利得はすべて銀行の利潤になるということである。
  そしてこれらは〈銀行業の諸操作を,また預金,銀行券,手形によって銀行業資本が創造される方法を,偏見なく描いたものである〉と述べている。
 確かにこれらはマルクスが本文で述べていた〈銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる〉という指摘と部分的ではあるが一致する(②が〈銀行券〉、③が〈銀行業者手形〉)。しかしギルバトはマルクスが指摘している〈銀行信用〉と〈小切手〉については言及していない。
  またギルバトは〈預金〉について述べているが、マルクス自身は預金については、貸し付け可能な貨幣資本(monied capital)が銀行に流入する仕方として論じていた(【14】パラグラフ)のであって、〈銀行業者が与える信用〉とは区別されている。恐らくギルバトにはこうした「貸付」と「銀行業者が与える信用」との区別は自覚されていないのであろう。

  この(ⅱ)についてギルバトの展開に則して説明している小林氏の解説も紹介しておこう(小林氏はこれを「引用3」としている)。

  〈では「借入資本」である「銀行営業資本」はどのようにして「創造」されるのか。引用2に続くパラグラフ全体で,ギルバートはそれを説明する。即ち,「銀行営業資本ないし借入資本の調達には3つの仕方がある:第1に預金の受入によって,第2に銀行券の発行によって,第3に為替手形の振出しによって。ある人が私に100ポンドを無償で貸してくれて,その100ポンドを私が4パーセントの利子で他の人に貸すとすれば,1年の経過後に私はこの取引で4ポンドを儲けるだろう。またある人が私の「支払約束』[銀行券]を受取ってくれて,年度の終わりにそれを私に返し,そして私に4パーセントを支払うならば,あたかも私が100ポンド金貨を彼に貸して,その取引によって4ポンド儲けるであろうのとまさに同じことである。さらにまた地方都市のある人が私に100ポンドを,21日後に私がロンドンのある人に同額を支払うという条件で持ってくるならば,21日間に私がその貨幣で稼ぎうる利子は,それがいくらであれそれは私の利益となろう。これが銀行業の諸操作の,そして銀行営業資本が預金,銀行券,および手形によって創造される仕方の,簡明な描写である」,と。これがギルバートによる,債務の債権化としての「銀行営業資本の創造」の簡明な説明であり,マルクスはこのパラグラフ全体をそのまま引用する--引用3--。〉 (329-330頁)

  しかしマルクスは「銀行営業資本」については、すでに指摘したように、貸付可能な貨幣資本(monied capital)の貸付とただ銀行の信用だけで貸付可能な形態を創造して貸し付ける〈銀行業者が与える信用〉とは区別して論じているのであり、だから後者に関連してギルバトから引用しているからといってそれをそのまま肯定しているわけではないことが小林氏には分かっていない。小林氏は〈「借入資本」である「銀行営業資本」はどのようにして「創造」されるのか〉などと預金までも信用創造であるかに述べているが、恐らく小林氏も、大谷氏もそうであったが、ギルバトと同様、マルクスが「貸付」と「銀行業者が与える信用」とを区別して論じていることに無自覚なのであろう。

  (ⅲ)では銀行業者の利潤について述べている。それは彼の借入資本あるいは銀行業資本に比例するというのは当然であるが、〈本当の利潤を確定するためには,投下資本にたいする利子を総利潤から引き去らなければならない〉とあるのは、〈投下資本〉というのは銀行業を発足するに当たって投下した資本のことである。もし銀行資本が株式資本なら、それは株式に対して払い込まれた資本額のことである。だから純利潤は、営業によって得た利潤から、投下資本に対する利子(株式なら配当)を支払ったあとに残ったものになる、というわけである。

  この部分の小林氏の解説は次の通り。

  〈このように「銀行の使用総資本」は2つの部分から成立っていて,銀行業者は自己の債務である借入資本を「銀行営業資本」として貸付けるのであるから--「銀行業者の取引は主として他人の貨幣で営まれる」のであるから--,「銀行業者の利潤」もまた独特となる。そしてマルクスはその説明のパラグラフの最初と最後の部分を,一つに纏めて引用する。それが「銀行業者の利潤は一般的に彼の銀行営業資本,即ち借入資本の額に比例する。……銀行の真の利潤(the real profit)を確定するには,総利潤から投下資本についての利子が控除されるべきであり,そして残るものが銀行業利潤(the banking profit)である8)」という,引用4である。〉 (330頁)

  ただしこの引用は全体が{ }で括られており、こうした場合は、その内容は今問題となっているものと関連はするが、枝論的・挿入的なものと考えられるから、だから小林氏は次の(ⅳ)は(ⅱ)に直接続くものと見ている。

 (ⅳ)は銀行業者の顧客への前貸しは、他の人々の貨幣で行われる、というだけであるが、これはギルバトの著書の大分後ろの方から採ってきたものである。これ自体は、注「1)」がつけられている本文〈しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々〉と必ずしも関連するとは限らないとも言えるが、敢えて関連させるなら、例えば銀行が〈自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえも〉、それは結局は〈他の人びとの貨幣で行なわれる〉のであり、やはり信用で取引していることになるのだ、ということであろうか。

  この引用部分に対する小林氏の説明は次の通りである。

  〈ところで以上の引用2,3,4,6,7(われわれの引用番号では(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)(ⅴ)(ⅵ)--引用者)は,いずれも第Ⅷ章「預金銀行」からのものであるが,引用5(同上(ⅳ)--同)は第XI章「割引銀行(banks of discount)」の序論的部分からとられたものである。そこではギルバートは「近代銀行業の事業の顕著な分野は為替手形を割引くことから成立っている」とし,その理由の一方として,為替手形の性質--手形は満期までの期間が短く,投下した資本は直ぐに還流し,また必要ならば再割引されうる--を挙げる。そして他方の理由は,銀行が貸出す資本の性質にあるとして,次のように説明する。「銀行業者のその顧客に対する前貸しは他人の貨幣でなされ,かつその貨幣はいつ引出されてもよいのであるから,これらの前貸しがなされる有価証券は急速に回転し,またいつでも換金可能(convertible)でなければならないからである」,と。そしてマルクスが引用5としてくるのは,「銀行業者のその顧客に対する前貸しは他人の貨幣でなされる」というところである。〉 (331頁)

  このように小林氏もマルクスの引用がギルバトの著書の頁数としては前後した形で抜粋されていることは指摘しているが、それがどうしてなのかについては何も言及していない。ただ小林氏は先に紹介したように、(ⅲ)が全体として{ }で括られており、だから(ⅳ)は(ⅱ)に直接続くものと見ることができると指摘していた。つまり(ⅱ)では、銀行が借入資本を調達する三つの方法が述べられていたのであるが、それらはいずれも〈銀行業者からその顧客への前貸は,他の人びとの貨幣で行なわれる〉ことを意味するのだ、というのがギルバトからの引用を前後して抜粋したマルクスの意図ではないだろうか。

  (ⅴ)は銀行券を発行しない銀行業者でも、手形の割引によって銀行業資本を創造する、とあるが、これは手形を割り引いた金額をその顧客の預金として記帳するということのようである。これは第28章該当個所の草稿でマルクスが「帳簿信用」として述べていたのと同じであろう。だから彼らは自分のところに預金口座をもつ人々以外には割引をしないというわけである。だからこの場合は、手形を割り引いてその割引額をその顧客名義の預金として記帳し、その預金に対して顧客には小切手帳を発行するということであろう。そして顧客は自分の預金に対して小切手を切って必要な諸支払を行うわけである。この場合、銀行業者は手形の割引に際して、ただ帳簿上の操作以上のものを必要とするわけではない(小切手帳の印刷費用は必要だが)。それは発券銀行が銀行券を発行して顧客の手形を割り引く場合も紙とインク以外に費用を必要としないのと同じなわけである。確かにこの場合も〈銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引する〉ということに該当する。

  (ⅵ)は(ⅴ)のいわばその延長上に述べていることであろう。つまり手形を割り引いた顧客は、それが満期になって現金が入る前に、差し迫った支払いに応じるために現金が必要だったからであろうから、当然、手形の割引によって設定された預金額(これは手形の額面から支払期日までの利子を差し引いたものであるが)に対して小切手を切って、差し迫った支払を済ますのであるが、しかし記帳された預金額一杯の小切手を切るのではなく、その一部を預金としてそのまま利子なしに銀行業者の手に残しておくことになる。こうした残高は集まれば大きな額になり、それは銀行業者の貸付資本になるというわけである。
  ここで〈この方法で銀行業者は,実際に前貸された貨幣にたいしてそのときの普通の利子率以上のものを受け取る〉というのは、銀行業者は顧客の割引した手形、例えばもしそれが額面が100万円だとすると、その支払われる期日までの利子を差し引いて、例えば95万円の預金として記帳したとしよう。すでに銀行業者は利子を先取りして、100万円を前貸ししたことになる(だから銀行業者は支払期日にはその手形の発行者から100万円の支払を受け、彼は結局、100万円を貸し付けて105万円の返済を受けたのと同じになる)。しかしこのままでは5万円の利子は〈普通の利子率〉によるものである。しかし顧客はその95万円のすべてを支払いに利用するかというとそうではなく、支払いに必要なのは90万円だったとした場合、彼は預金に5万円の残高を残すことになる。つまり銀行業者は100万円を貸し付けて、それが支払われる期日までの利子として5万円を先取りしたのだが、実際は5万円は残高として残ったのだから、彼が貸し付けたのは95万円でしかなく、しかもそれに対して5万円もの利子の支払いを受けたことになる。だから彼は〈実際に前貸された貨幣にたいしてそのときの普通の利子率以上のものを受け取る〉ことになるのである。そればかりか彼はその残高の5万円を今度は別の顧客に対する貸付資本として運用して利子を得ることができるわけである。

  ところで小林氏はこの(ⅴ)と(ⅵ)の引用を紹介したあと、次のように続けている。

  〈そしてギルバートは,さらにロンドンの銀行では預金は無利子であるが,しかし銀行での諸取引には手数料がかからないが,スコットランドでは異なること,また両地での預金口座の微妙な相違と銀行券の流通との関係等を指摘した後,今度は発券銀行でもある預金銀行の場合における銀行営業資本調達--例えば,預金が自行銀行券で,あるいは他行銀行券でなされる場合--の考察に進んでいく。〉 (331頁)】


【28】

 [475]/319上/(3)【MEGA II/4.2,S.475.24-31】〔原注〕134)注1へ,318ページzu Note 1.318)〕。「発券銀行はつねに自己の銀行券を発行するので,その割引業務はもっぱらこの最後の種類の資本〔」〕{銀行券そのものによって調達された資本}〔「〕で営まれるように見えるかもしれないが,そうではないのである。銀行業者が自分の割引する手形のすべてにたいして自分自身の銀行券を発行するということは大いにありうるが,そうであるにもかかわらず,彼の手にある手形の10分の9が現実の資本を表わしているかもしれない。というのは,まずはじめには手形にたいして銀行券が与えられるのではあるが,しかしこれらの銀行券は,手形が満期になるまで流通のなかにとどまっている必要はないからである。手形は満期まで3か月間あるのに,銀行券は3日のうちに帰ってくるかもしれないのである。」(同前〔ギルバト『銀行業の歴史と理論』〕,172ページ。)135)〔原注「注1へ,318ページ」終わり〕/

  ①〔注解〕「現実の資本〔reelles Capital〕」--ギルバトでは「real capital」となっている。

  134)〔E〕この原注は319ページ上半部の雑録のなかにあるが,ここに移した。ここでは「318ページ」とだけ書かれている。これは318ページの注番号「1)」を意味するものと考えられるが,もしかするとこの注の前に収めた「注1)へ(318および319ページ)」を意味するのかもしれない。この原注の左側には鉛筆で縦線が引かれており,そのさらに左側には同じく鉛筆で「5x)」と書かれている。後者の筆跡はエンゲルスのものと思われる。縦線もおそらくエンゲルスによるものであろう。エンゲルス版では,以下の引用は,ギルバトからの一連の引用のなかに組み込まれている。その位置は,ギルバトの書でのページの順に従って,137,138ページからの引用と174,175ページからの引用とのあいだに置かれている。
  135)MEGAでは,このあとに,この原注に属するものとして,本書ではのちに「〔信用制度についての雑録〕」に収めた319上(4) および319上(5) を置いている。〉 (185-186頁)

 【これもやはりギルバトの著書からの抜粋だけなので、平易な解読は省略した。この抜粋には〈注1へ,318ページ〉となっているので、大谷氏はその前のパラグラフと同様、原注「1)」への補足であろうと考えたらしい。その理由を訳者注134)のなかで説明している(上記参照)。
  この大谷氏の説明を読むと、必ずしも明確に〈注1へ,318ページ〉という形で引用がなされているわけではないようである。雑録のなかにただ〈「318ページ」とだけ書かれている〉もののようである。しかし大谷氏の判断で、この部分に持ってこられたわけである。しかしこれには小林氏によるさらに詳細な考察がある。それについてはこの抜粋の内容とも関わってくるので、後に紹介することにしよう。いずれにせよ、まずはその内容について、つぶさに検討してみよう。確かにその前のパラグラフの(ⅴ)(ⅵ)は〈銀行券を発行しない銀行業者〉について述べていた。だから、今回は銀行券を発行する銀行業者について述べるという形で繋がっているかに思える。だから大谷氏はその前のパラグラフの続きであり、補足と考えたのであろう。
  しかし内容的には問題が異なるように思える。発券銀行がその貸付をすべて銀行券で行ったとしても、彼が発行した銀行券は割引した手形が支払われる3か月より前に、例えば3日のうちに帰ってくることがありうること。だから銀行券が還流してくるということは、確かにそれは何らかの支払いとして銀行に帰ってくる場合もありうるが、しかしその一部は、例えば金やイングランド銀行券との交換を要求するものとして帰ってくることもありうることである。だから発券銀行は、手形割引のほとんどを例え自身の発行した銀行券で行ったとしても、結局、その銀行券の還流によって、帳簿上の自己資本の持ち出し、金鋳貨やイングランド銀行券、つまり現金の持ち出しに結果するのであって、だから発券銀行の運営は銀行券で調達された資本だけで営まれるかにみえるが、実はそうではないのだ、というものである(こうした考察と指摘は、後のエンゲルス版の第28章該当部分の草稿〔Ⅰ)と項目番号が打たれた部分〕でも行われている)。ただこのケースは、〈銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引する〉が、しかしその操作によって彼らが信用だけで資本を調達できるとは限らないことを示していると言えるのかもしれない。だからいずれにせよ注1)に関連した補足であることは確かである。

  さて、われわれのパラグラフ番号で【27】【28】の二つの原注、つまり原注「1)」への二つの補足について、大谷氏は次のように解説しているので、紹介しておこう。

  〈ここで(つまりわれわれのパラグラフ番号では【27】で--引用者)ギルバトが述べているのは,次のようなことである。①銀行の事業資本(trading capital)は,投下資本(invested capital)と銀行業資本(banking capital)とから成る。((ⅰ)の引用--同)②銀行業資本あるいは借入資本(borrowed capital)は,第1に預金の受入れによって,第2に銀行券の発行によって,第3に手形の振出によって調達(raise)ないし創造される。((ⅱ)--同)③銀行業者の利潤は,利子(配当)を支払わねばならない投下資本(自己資本)に比べて銀行業資本による貸出を増加させることによって増加するのであり,銀行の総利潤から投下資本にたいする利子(配当)を引き去ったものが,銀行業(banking)にたいする利子,すなわち銀行業利潤(banking profit)である。((ⅲ)--同)④銀行業者は手形割引の場合にもそれを自己の預金増強のために利用しようとする。((ⅴ)--同)⑤銀行業者は歩積預金を強制して貸出の実質金利を高めるだけでなく,銀行業資本を増加させる。((ⅵ)--同)こうして,「銀行業者からその顧客への前貸は,他の人びとの貨幣で行なわれる」,ということが言えるのである。((ⅳ)--同)
  この注が示唆しているのは,現金での前貸を含めて,およそ銀行の本来の活動(=「銀行業の諸操作〔the operations of banking〕」)は,借り入れられた資本たる銀行業資本,このような受けた信用を表わす資本によって行なわれるのだということ,総じて,銀行に集中されたmonied Capitalが貸出されるさいには,つねにこのような信用による取引が行なわれることになるのだ,ということである。
  そこからまた出てくることは(おそらくここからは【28】パラグラフの解説であろう。--同),そのような銀行業資本で貸出を行なった場合,この受けた信用は引き揚げられる可能性があるということ,すなわち銀行券の兌換が求められ,あるいは預金が現金で引き出されることがありうるということ,そしてこの場合には,一方で準備ファンドが減少しながら他方で借入資本が減少するので,借入資本が貸出の大きさにたいして著しく小さくなると,「現実の資本〔real capital〕」すなわち「投下資本」から貸出が行なわれている状態になりうることである。草稿319ページ上半にある「注1へ。318ページ」でのギルバトからの引用はこのことを示唆しているが,この点は,銀行業者の立場からみた,貨幣の前貸と資本の前貸との区別にかかわるものである。〉(新本第2巻120-121頁、太字は大谷氏の傍点による強調箇所)

  この大谷氏の解説で若干気になったのは、大谷氏の解説はギルバトの著書の順序に沿ったものになっているが、しかしマルクスの引用の順序にそったものになっていないことである。それが分かるように大谷氏の一文にマルクスの引用番号を書いてみた。大谷氏はギルバトの著書どおりに書いているが、しかしマルクスは大谷氏が最後に〈こうして,「銀行業者からその顧客への前貸は,他の人びとの貨幣で行なわれる」,ということが言えるのである。〉と述べている部分は、マルクス自身は四番目に引用しているものである。だからマルクスの引用順序にもとづくと(ⅳ)で述べられている〈銀行業者からその顧客への前貸は,他の人びとの貨幣で行なわれる。」(同前,146ページ)〉という一文は、その前の(ⅰ)と(ⅱ)--(ⅲ)は{ }で括られているので別にして--を受けて言われているとマルクスは解釈しているわけである。少なくともマルクスはそうした意図のもとに引用文の順序をわざわざひっくり返していると考えられる。だからまたそれに続く(ⅴ)と(ⅵ)は、それまでの問題とは若干違った問題を論じているものとマルクスは理解していると考えることができるのである。(ⅴ)と(ⅵ)は手形割引の問題を論じている。それまで(ⅰ)と(ⅱ)で述べていたことと違った問題なのである。少なくともマルクスはそうした意図でこうした引用の順序をしていると考えるべきであろう。

  なお、大谷氏が最後の部分で述べていること--つまりわれわれのパラグラフ番号では【28】に関連して--は、恐らく先にも指摘したように、エンゲルス版第28章該当部分でマルクスが元帳の立場から資本の前貸しに結果すると述べていることを指しているのであろう。しかし大谷氏の理解はマルクスが述べていることと若干ニュアンスが違っているように思える。しかしそれについて詳述すると第28章該当個所の草稿の解読とも関連してくるので、ここでは論じることを控えよう。

  次に小林氏は【28】パラグラフのマルクスによるギルバトからの引用(小林氏はそれを引用15としている)に次のような解説を加えている。長くなるが全文紹介しておこう。

  〈さて引用15は,第XI章「割引銀行」の第Ⅵ節「通貨(circulation)への割引の影響」からの抜き書きである。この節の冒頭でギルバートは次のようにいう。「発券銀行が手形を割引くことは,通貨[の性格]を変える点では預金勘定(deposit accounts)と同じ影響をもつが,しかしそれほど急速には作用しない。」なぜなら,「手形が割引かれる時には銀行業者は彼自身の銀行券を手形額面まで発行する」が,「手形が支払われる時には,彼はその額面の一部を金[貨],銀[貨]または他行の銀行券で受取る」という風にしてであるからである,(ここでギルバートが念頭に置いているのは,……預金制度と通貨との関係との対比であろう。--小林)と。
 そして次に彼は,「預金勘定に対する銀行券の発行は全く預金者次第である(預金が払い戻される時に銀行券でそれがなされるから,この場合の銀行券の発行は銀行業者にとっては全く受動的で,「預金者次第である」との意であろう。--小林)が,割引での発行は全く銀行業者次第である」とした上で,手形割引と通貨量との関係を,銀行業者が銀行のどの資本部分をもって手形を割引くかという点と関わらせて,次のように論じていく。(1)「もし彼が真の資本(real capital)で割引くとすれば,彼はそれによって通貨の量を増大することにはならない;というのは,その資本はあれやこれやの仕方で予め(previously)充用されてしまっているからである。」(2)「もしも彼が彼の銀行営業資本(banking capital)のうちの預金によって調達されている部分で割引くとすれば,彼は通貨の量を増大しないが,しかし通貨に,増大された[流通]速度を与える。」(3)「もし彼が彼の銀行営業資本のうちの銀行券によって調達される部分で割引くとすれば,彼は通貨の量を増大する」,と。
 したがって手形割引が直接に通貨の量を増大させるのは(3)の場合だけということになるが,(2)についても,上述のようにギルバートは「貨幣の流通速度の増大は通貨[貨幣]量の増大と正確に同じ効果をもつ」というのであるから,その効果という点から見れば,この(2)の場合も(3)の場合の「通貨の量を増大する」というのと同じということになろう。そしてマルクスが引用してくるのはこれにすぐ続く同一パラグラフ内の,次の文章である。
 即ち,「発券銀行はつねに彼ら自身の銀行券を発行するのであるから,彼らの割引業務(discounting business)は全くこの最後の資本種類(last description of capita1)でのみ行われるように見えるであろうが,しかしそうではない。銀行業者は,彼が割引く手形すべてに彼自身の銀行券を発行することは非常にありそうであるが,それでも彼の持っている手形の10分の9は真の資本(real capita1)を代表(represent)するであろう。なぜなら最初には銀行業者の銀行券が手形と引替えに与えられるのではあるが,しかもこれら銀行券は手形が支払期日となるまで流通に留まってはいないからである。手形は満期まで3ヶ月あるかもしれないが,銀行券は3日で還流するかもしれない。」そしてこれが引用15である。
 先に彼は,「銀行の使用総資本」のうちのどの資本部分で手形を割引くかということと「通貨の量」との関係を問題としたのであるが,今度は,銀行券の発行によって調達された「銀行営業資本」による手形割引と,「真の資本」との関係を問題とする。だからこの部分は,「銀行業者の資本」と「預金」との関係についての「注1)」そのものへの「注」ではなくて,むしろ「銀行の使用総資本」,その「真の資本」と「銀行営業資本」とへの分割,後者の資本の「創造」等々を説明した「注1)(318-319)へ」の,より具体的事例による「補足」と解することができる。だからマルクスはこの引用15に,「318へ」との小見出しを付けたのであろう。
 ところでこの引用15をギルバート自身の文脈で捉えるとどういうことになるのだろうか。銀行券は発券銀行に数日で還流してしまうから,その間のみしか通貨流通量の増大をもたらさず,またその間だけしか銀行営業資本の創造とはならない,ということになる。実際ギルバートは,同一パラグラフ内で,この引用15に続けて次のように述べている。「手形と交換に与えられた銀行券が,手形が満期になるまで,流通に残っているならば,その時には,割引は手形自身に等しい額の銀行営業資本をまさに創造する。しかしもしも手形が3ヶ月通用し,そして銀行券は1ヶ月だけ[流通に]残るとすれば,銀行券は手形の額の3分の1だけ資本を創造し,そして残りの3分の2は他の源泉に由来する資本から成立つに相違ない。もしも銀行券が,手形が支払い期日になる時を越えて[流通に]残るなら,その時には割引は手形の額を越えてまさに銀行営業資本を創造する」,と。
 したがってギルバートによれば,銀行券の発行は,その銀行にとっては債務の創出であり,この債務証書で手形を割引けば,債務の債権化による「銀行営業資本の創造」となる。しかし銀行券が発券銀行に還流すれば,銀行にとっての債務はそれだけ消滅し,割引による貸付,つまり銀行にとっての債権は,手形が満期になり返済が完了するまで銀行の手に残るとはいえ,もはや借入資本である銀行営業資本の貸付ではなくなってしまい,この貸付は「真の資本を代表する」ことになる,というのである11)。
 しかし銀行券の還流は,必ずしも兌換による還流のみとは限らない。例えば銀行がAの手形を自行銀行券で割引き,Aがその銀行券でBに支払い, Bが,受け取った銀行券で預金しても,銀行券は還流する。その結果,銀行券発行に伴う銀行の債務は消滅するが,しかし銀行は新たな債務を預金者Bに対して負うこととなる。あるいはこのBが受取った銀行券で,銀行からのBの借り入れを返済するとすれば,……,等々。そしてマルクスはこれら諸点にここでは全く言及することなしに12),ギルバートからの引用15を行っているが,いずれにせよマルクスの第XI章「割引銀行」からの抜き書きは,この「318へ」という小見出しの引用15をもって終わっている。〉 (小林前掲340-342頁)

  なお注11)12)も参考のための紹介しておこう。

  〈11)尤もギルバートは,続くパラグラフでは次のように「銀行業」にとっては「銀行営業資本の創造」自体が問題ではなく,その充用の仕方が問題であるとして,問題をそちらに移してしまっている。「銀行業(banking)の諸効果を跡づけるためには,銀行業者が彼らの貨幣を充用する(employ)仕方を詳細に区分する(mark)ことが必要である,ということが注意されてよい。ある国の通貨や産業(trade)や商業に関して最大の効果が生み出されるのは,銀行営業資本の創造ではなく,その資本が使用(apply)される仕方である。価値に対して振出された手形を割引くことに充用された貨幣は,取引(trade)を鼓舞するであろう,--融通手形の割引に充用された貨幣は,投機を助長するであろう,--事業(trade)外の人への永久貸出*(dead loan)として前貸しされた貨幣は,浪費に導くかもしれない,--公債(funds)に投資された貨幣は,その価格を引上げ,市場利子率を引下げるであろう,--銀行の金庫(ti11)に保持されている貨幣は,銀行業者に利潤(profit)をもたらさず,社会(community)にとってなんらの利益(advantage)ともならないであろう」(Gilbart,ibid.,p172-173),と。
 *ギルバートは,このdead loanという言葉を,permanent loanという言葉と同義に用いている(cf.ibid.,p181-182)。なおこの点にっいては後述の〔補遺〕も参照されたい。〉
  〈12)なおマルクスは手稿の「1)」(現行版第28章)で,貸付と銀行券の還流と「銀行営業資本」との間の問題を論じている。即ち,「地金の流出を考慮の外に措けば,イングランド銀行がいかにして,例えばその有価証券(即ち,その貨幣融通の額)を,その銀行券発行なしに増大しうるか?」と問題を立てて,貸付に用いられた銀行券の還流の仕方は「二重である」として,第1例・第2例の検討を試みている(cf.MEGA,S.515-516)。しかしそこでのマルクスによるbanking capita1の理解は必ずしも一義的ではなく,したがってその説明は混乱してゆき,エンゲルスも「原文の文章は関連が理解し難い」(MEW,S.472:訳,515-516ページ)と注記していくこととなる*。マルクスが「銀行業者の資本」についての「立ち入った吟味」を次の「II)」で改めて行なおうとするのも,1つには,マルクス自身その点が未整理であることに気付いて行ったからではないかと思われる。なおこの点については,本書第11章第1節と第4節を参照されたい。
 *とはいえ,ここに挿入した「資本の前貸し」と「支払手段の前貸し」についてのエンゲルスの解説(MEW,S.472-473:訳,648-650ページ)が妥当であるか否かは,いま1つ別の問題である。〉

  長々と小林氏の著書から抜粋・紹介したが、それはマルクスが引用しているギルバトからの抜粋文に関連した情報が与えられるからである。しかし小林氏はギルバトの著書からいろいろと紹介しているが、それらをほとんど無批判にやっているように思える。それは彼自身のマルクスの草稿に対する無理解から来ているものもあるように思えるのである。彼は第28章該当個所におけるマルクスの論述が混乱しているかに述べているが、決してそうではないことはすでに当該部分の詳細な検討のなかで私は明らかにしたつもりである。(なおついでに指摘しておくと、「訳,515-516ページ」と「訳,648-650ページ」とあるのは「訳,581ページ」と「訳,581-583ページ」の誤植である)。
  そこで補足的に小林氏が紹介しているギルバトの主張の批判を試みておこうと思う。なぜなら、ギルバトは銀行学派と同じ間違った理論的立場にたっているからである。小林氏はそれに無自覚なのである。もちろん、マルクスの引用文をただ詳しく解説するために、関連する部分をギルバトの著書から紹介しただけで、ギルバトの主張の批判が本旨ではないというならそうかも知れないが、しかしそれだけとはいいがたい気がする。
  まず小林氏は【28】パラグラフのマルクスが原注1)への原注として引用したものは、ギルバトの著書の〈第XI章「割引銀行」の第Ⅵ節「通貨(circulation)への割引の影響」からの抜き書きである〉と指摘している。この〈通貨(circulation)への割引の影響〉という問題意識そのものがすでに銀行学派的なものであることに気づかねばならない。割引、つまり銀行の貸付の一形態が、何か通貨の性格や増減に影響するかに考えることそのものが間違いだからである。なぜなら銀行の貸付は利子生み資本の運動であるのに対して、通貨は貨幣流通の問題であり、それは商品市場の、よって社会的物質代謝に関係していることだからである。だから両者を直接関連させて見るのは、現象にとらわれた間違った見方なのである。
  小林氏はその第Ⅵ節の冒頭の一文として〈「発券銀行が手形を割引くことは,通貨[の性格]を変える点では預金勘定(deposit accounts)と同じ影響をもつが,しかしそれほど急速には作用しない。」なぜなら,「手形が割引かれる時には銀行業者は彼自身の銀行券を手形額面まで発行する」が,「手形が支払われる時には,彼はその額面の一部を金[貨],銀[貨]または他行の銀行券で受取る」という風にしてであるからである,(ここでギルバートが念頭に置いているのは,……預金制度と通貨との関係との対比であろう。--小林)と。〉と紹介している。小林氏が〈預金制度と通貨との関係との対比〉ということで何を言いたいのか分からないが、預金が利子生み資本範疇にかかわるものであり、通貨とは別物であることが分かっていないのではないかと疑われる。ギルバトが〈発券銀行が手形を割引くことは,通貨[の性格]を変える点では預金勘定(deposit accounts)と同じ影響をもつ〉と述べているのは、恐らく手形を銀行券で割り引けば、手形が通貨に変わると言いたいのであろう。だからここには手形も通貨であり、銀行券も通貨であるが性格が違うという間違った認識がある。預金勘定というのは、手形を割り引いてその割り引いた金額を手形を持ち込んだ顧客の口座に預金として書き込むことであろう。〈しかしそれほど急速には作用しない〉というのは、手形を銀行券で割り引いても手形に代わって、その額面通りのすべての銀行券が流通するわけではなく、手形が支払われれば、その一部は金また他行の銀行券で受け取るからだというのである。しかし割り引いて銀行から出て言った銀行券がそのまま流通にとどまるどんな保証もないのであって、それはすぐに何らかの形で(預金かあるいは満期手形の支払として)銀行に還流してくることもあるのであり、それは割り引いた手形が満期になる以前の場合もあるのである。
  次の小林氏のギルバトの紹介は次のようなものである。

  〈そして次に彼は,「預金勘定に対する銀行券の発行は全く預金者次第である(預金が払い戻される時に銀行券でそれがなされるから,この場合の銀行券の発行は銀行業者にとっては全く受動的で,「預金者次第である」との意であろう。--小林)が,割引での発行は全く銀行業者次第である」とした上で,手形割引と通貨量との関係を,銀行業者が銀行のどの資本部分をもって手形を割引くかという点と関わらせて,次のように論じていく。(1)「もし彼が真の資本(real capital)で割引くとすれば,彼はそれによって通貨の量を増大することにはならない;というのは,その資本はあれやこれやの仕方で予め(previously)充用されてしまっているからである。」(2)「もしも彼が彼の銀行営業資本(banking capital)のうちの預金によって調達されている部分で割引くとすれば,彼は通貨の量を増大しないが,しかし通貨に,増大された[流通]速度を与える。」(3)「もし彼が彼の銀行営業資本のうちの銀行券によって調達される部分で割引くとすれば,彼は通貨の量を増大する」,と。〉

  ここでギルバトが〈「預金勘定に対する銀行券の発行は全く預金者次第である〉と述べているのは、この預金勘定というのは先にも説明したように、割り引いた手形の金額を顧客の口座に預金として記帳(設定)することである。そして手形を割り引いた顧客が、その預金を銀行券で引き出すかどうかは預金者次第という意味である。本来ならその預金に対して顧客は小切手を切るのが普通であり、その場合は銀行券は出て行かない。ただ預金の振替ですべての決済が終わる可能性だってあるわけである。だから小林氏が〈預金が払い戻される時に銀行券でそれがなされるから,この場合の銀行券の発行は銀行業者にとっては全く受動的で,「預金者次第である」との意であろう。〉と説明しているのは、問題を正しく捉えているとはいい難い。〈が,割引での発行は全く銀行業者次第である」〉というのは、手形を割り引いてその額面の利子を差し引いた額だけの銀行券を発行して貸し付けるのは、銀行業者次第だということであろう。そして問題はそのあとの部分である。ギルバトは〈手形割引と通貨量との関係を,銀行業者が銀行のどの資本部分をもって手形を割引くかという点と関わらせて,次のように論じていく〉のだそうだが、そもそも手形割引と通貨量とが関連していると捉えることそのものが間違いであることを、ギルバトはいうまでもなく、小林氏も分かっていないのである。だからそのあとのギルバトの説明に対しても小林氏はまったく無批判に紹介するだけである。ギルバトが言っていることは銀行学派の主張とほぼと同じである。要するに例え銀行券を発行して貸し付けたとしても、流通に必要な通貨が十分であるなら、それらはすぐに銀行に戻ってきて、資本の貸し付けに転化するから(つまりギルバトの言う(1)と(2)ケースである)、だから通貨の増大にはならないという主張である。ただ現実に通貨として流通している銀行券を調達して、それで割り引けば、その限りで通貨の増大になるというのであろう。しかしこれも間違いである。通貨の増減は、あくまでも現実の商品市場の条件(流通する商品の価格総額、流通速度、信用の状態等々)よって規制されているのであって、銀行の貸付の形態如何とは何の関係もないからである。こうした間違ったギルバトの主張を何の批判もなしに、ただ紹介しているだけの小林氏も銀行学派と同様の間違った立場に立っているのではないかと十分に疑わせるところがあるのである。次の一文……。

  〈したがって手形割引が直接に通貨の量を増大させるのは(3)の場合だけということになるが,(2)についても,上述のようにギルバートは「貨幣の流通速度の増大は通貨[貨幣]量の増大と正確に同じ効果をもつ」というのであるから,その効果という点から見れば,この(2)の場合も(3)の場合の「通貨の量を増大する」というのと同じということになろう。〉

  しかしこれはまったく噴飯ものである。(2)について流通速度を増大させるというのであるが、しかしそもそも手形割引そのものが貨幣の先取りであり、商品流通を加速させる一因であって、決して(2)で言われているケースにだけ妥当するわけではない。小林氏は(3)についてもまったく無批判にそれをそのまま受け継いで、それだけでなく(2)もそういえるのではないか、つまり〈この(2)の場合も(3)の場合の「通貨の量を増大する」というのと同じということになろう〉などと述べている。
  そしてそのあとにマルクスの引用文が続くのだそうである。それに関連して小林氏が述べていることにも問題が多々あるが、いつまでもそれにかかずりあっているわけにも行かないので、このぐらいにしておこう。いずれにせよ、小林氏の説明は、ただマルクスが引用したギルバトの一文がどういう文脈のなかで書かれているのかを知るだけのものとして捉えておくだけにした方がよいということである。】

  (続く)

2020年7月15日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-10)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【22】

 [473]/318下/(6)【MEGA II/4.2.S.473.19-29】〔原注〕①②i)ロイド銀行Loyd'sのぺてんMogeleiを見よ。(1848年,商業的窮境委員会)。116) 第901号(同前。)(ⅰ)「〔ターナ〕貨幣が逼迫するときはいつでも,銀行業者たちは自分の顧客にロンドンあての手形を受け取らせようと振るまうのが普通でした。〔」〕第902号(ⅱ)〔「〕〔ケイリ〕それは通貨の代役をしますか?--〔ターナ〕はい。もし銀行券が欲しければ,その手形を再割引しに行かなければなりません。〔」〕第903号(ⅲ)〔「〕〔ケイリ〕それは銀行業者にとっては,貨幣をつくりだす特権として作用するのですね?--〔ターナ〕一時的にはそうです。それは,遠い昔から逼迫期にジョウンズ=ロイド商会が採ってきた支払正貨〔species of payment〕です。〔」〕第904号(ⅳ)〔「〕〔ケイリ〕それでは,同商会の為替手形は逼迫期のあいだに増加するのですね?--〔ターナ〕貨幣が5パーセント以上の価値をもつときにはいつでもそうでした。〔」〕[第905号。](ⅴ)〔「〕〔ターナ〕……手形は,銀行券を比較的容易に入手するための手段〔medium〕でした。……〔」〕[第907号。](ⅵ)〔「〕銀行業者は,自分が当事者から受け取った手形よりも割引されやすい手形を与えるのです。……〔」〕[第911号。](ⅶ)〔「〕ジョウンズ=ロイド商会のこれらの手形は,割引される前にも役に立ちました。ある人が貨幣を入手することができなければ,彼はその代わりにジョウンズ=ロイド商会の手形を受け取ります。〔」〕第992号(ⅷ)〔「〕118)これらの手形が20人も30人もの手を通ることもきわめてしばしばでした。〔」〕|

  ①〔異文〕この原注は,赤鉛筆の縦線で消されている。〔エンゲルスによる「処理済み」のしるしであろう。〕
  ②〔注解〕この原注のなかの引用は,最後の「第992号」からのものを除いて,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8.S.255.39-256.11.)
  ③〔異文〕「商業的窮境」--書き加えられている。
  ④〔注解〕『商業的窮境委員会報告』では次のようになっている。--「〔ウィルスン〕銀行業者は,自分が当事者から受け取った手形よりも割引されやすい手形を与えるのですか?」
  ⑤〔注解〕『商業的窮境委員会報告』では次のようになっている。--「〔ウィルスン〕それらの手形は,割引される前になにかの役に立ちましたか?--〔ターナ〕はい。……ある人が貨幣を入手することがむずかしいと考えれば,彼は喜んでジョウンズ=ロイド商会の手形を受け取るでしょう。」
  ⑥〔注解〕この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.256.35-36.)

  116)〔E〕この引用はエンゲルス版では,後出の脚注120に掲げた要約にすぐ続けて,その要旨がまとめられており,その末尾に,証言番号が書かれている。MEW版では「第905-902,第992号」となっているが,このうちの「第905-902号」は明らかに誤植である。1894年版では「第901-904号,第995号」となっている。しかし,エンゲルスの要約の内容からしても,ここは「第901-905号,第907号,第911号,第992号」とあるべきところであろう。
  ll8)『商業的窮境委員会報告』では次のように書かれている。
  「〔ハドスン〕あなたはジョウンズ=ロイド商会の手形について,それらが流通におけるなんらかの重要な品目をなしているかは疑わしいと言われました。あなたは,これらの手形が20人も30人もの手を通ることもきわめてしばしばだったこと,それらがAからBに,そしてBからCに,等々と支払われていくこと,そしてそれらは製造業地域における銀行券とまったく同様に流通の媒介物だったことをご存じないのですか?--〔ターナ〕それらは流通の最も重要な品目をなしています。それらが手から手へと渡っていくすべてのところで,それらが流通にかかわるものであること,それはもちろんです。」〉 (178-180頁)

 【これは〈銀行業者手形〉につけられた原注「i)」の前半部分である(次のパラグラフがその後半部分)。前半部分は1848年の『商業的窮境委員会報告』の証言記録からほぼなっている。冒頭、マルクス自身の手になる〈ロイド銀行Loyd'sのぺてんMogeleiを見よ〉という一文があるが、それ以外はすべて証言記録からの抜粋なので、平易な解読は省略した。
  ここでターナというのはロイド銀行の役員であろう。そしてケイリというのは窮境委員会の委員で質問者のようである。それぞれの証言に便宜的に(ⅰ)~(ⅷ)の番号をつけて、検討して行こう。

  まず(ⅰ)~(ⅳ)までの証言は、ロイド商会(銀行)が手元の準備が逼迫し、利子率が高くて貸し出しに必要な現金の入手に負担がかかる場合、自身の銀行業者手形を発行して、それに代行させたという証言である。それは銀行業者にとっては貨幣を創り出す特権であるとか、遠い昔からやられていた逼迫期の支払正貨だったとも言われている。もし顧客がどうしても現金(金鋳貨)が必要なら、その銀行業者手形を再割引する必要があるが、その時には貨幣が逼迫しているのだから顧客は高い利率を支払う必要があることになる。だからそれもマルクスがペテンと述べている一つの理由であろう。

  (ⅴ)~(ⅷ)は銀行業者手形が流通したことが証言されている。銀行業者手形は、顧客が例えば自身が入手した一般の業者が発行した手形に裏書きして支払いをしようとしても、特に逼迫期のように信用が揺らいでいるときには、信用が足らないためにできなかった時、やむなく現金に変換してもらうために、銀行に持ち込み割引を要求するのであるが、しかし逼迫期には銀行にも現金がないので、銀行は自身の銀行業者手形でその手形の割引をするのである。生産的資本家や商人の発行した普通の手形より、銀行業者手形の方が信用が高いので、それで支配を済ませようとした場合、それを受け取ってくれるケースが多いからである。ロイド商会の手形も、20人から30人もの手を通ることもしばしばだったとも証言されている。それにもしどうしても現金が必要ということになった場合も、一般の業者の手形より、銀行業者手形の方が比較的容易に現金に換えることが可能になるとも指摘されている。】


【23】

 /318下/(5)【MEGA II/4.2,S.473.29-33】①119)②〔『委員会報告』,『商業的窮境』,1847年,証言記録〕第4636号(ⅰ)120)「〔ピーズ〕私の聞いたところでは,自分の手形を割引してもらう当事者が,イングランド銀行券の代わりにロンドンあての為替手形を受け取るケースが,数え切れないほどあったそうです。〔」〕第4637号(ⅱ)〔「〕〔ケイリ〕それはどちらかというと1844年の〔銀行〕法を逃れる違法行為だとおっしゃりたくはありませんか?--〔ピーズ〕それは一種の置き換えなのです。……〔」〕[第4645号。](ⅲ)〔「〕〔ピーズ〕当事者またはその指図人に支払われるべき(ロンドンの銀行業者あての)21日払いの為替手形。」〔原注i)終わり〕/

  ①〔異文〕マルクスははじめ〔MEGA II/4.2の〕473ページ19-29行の原注「i)」〔本書ではこのすぐ上のパラグラフ〕を書いた。追記のための場所が足りなくなったので,彼は続く473ページ29-33行〔このパラグラフ〕をそれの〔空けてあった〕上部に書いた。インクの線がこのテキストを「i)」のなかに挿入している。
  ②〔注解〕『商業的窮境に関する秘密委員会第1次報告……』,1848年6月8日。--「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.265.4-9.)
  ③〔注解〕「1844年の〔銀行〕法」--「銀行券の発行を調節するための……法」,ロンドン,1844年。〔MEGA II/4.2の注解では,このあと,「1844年のイギリスの銀行立法についてエンゲルスは次のように書いている」,として,『資本論』第3部のエンゲルス版「第34章 通貨原理と1844年のイギリスの銀行立法」のなかにエンゲルスが挿入した,銀行立法についての解説を引用している。これは本章の末尾(213-215ページ)に「補注 1844年の銀行立法についてのエンゲルスの解説」として収めておく。〕
  ④〔注解〕『第1次報告……』では「21日後に当事者に支払われるべきロンドンの銀行業者あての為替手形」となっている。

  119)この注のはじめから,(草稿ではこの注のあとに書かれている)すぐ上の注の「ロイド銀行のぺてん〔Mogelei〕を見よ。」までの左側にはインクで縦線が引かれている。
  120)〔E〕この引用はエンゲルス版では次のように要約されている。
  「40年代には,ロンドンでの手形割引で,無数の場合に銀行券ではなくて一銀行から他の銀行にあてた21日払いの手形が用いられた。(地方銀行業者J.ピーズの陳述,第4636号および第4645号。)〉 (180-181頁)

  【これは原注「i)」の後半部分である。今回は1847年の『委員会報告』『商業的窮境』の証言記録と書かれているが、MEGAの注解では〈商業的窮境に関する秘密委員会第1次報告……』,1848年6月8日〉との指摘がある。いずれにせよ、三つの証言だけで構成されているので、やはり平易な解読は省略した。
  これらの三つの証言は、いずれも銀行業者手形について述べているものである。

  (ⅰ)については、自分の手形(これは自身の発行した手形という意味ではなく、彼が取引先から受け取って所持している手形という意味であろう)を割引してもらおうと銀行に来たものの、彼はイングランド銀行券(すなわち現金)の代わりにロンドン宛の為替手形を受け取るケースが多くあったという証言である。つまり銀行には現金が逼迫しているために、自身の銀行業者手形で持ち込まれた手形を割引したのである。ただここで証言されているケースは、地方の銀行がロンドンの本店か代理店に向けて支払指図証書を発行したと述べられている。その顧客が手形を持ち込んだのは、あるいはロンドンでの支払いのために現金を郵送する必要からかもしれず、その場合は、こうしたロンドンの代理店に宛てた支払指図証書で十分であったであろう。

  (ⅱ)はそうした銀行業者手形の発行は1844年の銀行法を逃れる違法行為ではないかとの指摘に、それは一種の置き換えだと答えている。1844年の銀行法というのはイングランド銀行券の発行高を制限する法律であるが、こうした銀行業者手形を発行すれば、イングランド銀行券が手元になくても、持ち込まれた手形を割り引いて、銀行は貸付が可能になるのだから、それは銀行券の発券高を制限する法に違反するものではないかとの指摘なのである。それに対して、それは業者が持ち込んだ手形をただ別の銀行業者の手形に置き換えているだけだと述べている。これは答弁者の方が正当であろう。なぜなら、イングランド銀行券というのは地金や金鋳貨と同じ現金として通用しており、1844年の発行制限法は、こうした通貨として通用しているイングランド銀行券の発行を制限する目的でなされたものである。しかし今回のケースのような、銀行が発行する銀行業者手形などは通貨とはいえず、ただ預金の振り替え等による相殺によって決済するための信用用具の一つでしかないからである。

  (ⅲ)も銀行業者手形の一つとしてロンドンの銀行業者宛の21日払いの為替手形についての証言である。これも地方の銀行業者が発行するものであろう。これらの証言はいずれも銀行が現金の代わりに、銀行の信用だけにもとづいて支払約束証書や支払指図証書を発行することであり、いずれも〈銀行業者が与える信用〉の一形態といいうるものである。】


【24】

 |319下|(1)【MEGA II/4.2,S.473.34-41 und 49-54】〔原注〕121)j) フラートン122)(ⅰ)すべてこれらの形態は「移転できる請求権transferable claims〕」である,というよりはむしろ,請求権を移転できるものにする用具である。(ⅱ)「信用がとることのできる形態で,信用がときには貨幣の諸機能を果たすことを求められないような形態はほとんどない。そしてこの形態が銀行券であろうと,為替手形であろうと,銀行小切手であろうと,過程はすべての本質的な点で同じであり,結果も同じである。」(フラートン通貨調節論』,第2版,ロンドン,1845年,38ページ〔阿野季房訳,改造社,1948年,56ページ〕。)(ⅲ)マカラクによれば,「通貨の節約のために用いられている諸手段がなかったならば,今日50百万ないし60百万の銀行券および金によって果たされている諸機能を果たすのに,どんなに少なく見積っても,200百万の通貨が必要とされるであろう。」(同前,46ページ〔同前訳,66ページ〕。)十十(ⅳ)「銀行券は信用の小銭である。」(同前,51ページ〔同前訳,71ページ〕。)123)(ⅴ)銀行業者たちのあいだでの銀行券交換〔Notenaustausch〕(スコットランドの諸銀行は週に2回,エディンバラにいる自分の代理人を通じて,〔銀行券交換を行なっていた〕〔)〕については,次のよう〔に言われている。〕--「世界中のどんな地方でも,発券銀行業者が自分の近隣の同業者たちの銀行券〔promissory notes〕をふたたび払い出す〔re-issue〕ような慣習はない。そして,1枚の銀行券もふたたび払い出されるのでないかぎり,銀行券が発行者のもとに還流しようと,あるいは,たまたまそれを所持している人の引出しのなかにしまい込まれようと,どちらにせよ当事者以外のだれにとってもほとんど大した問題ではありえない。」(同前,95ページ〔同前訳,119ページ〕。)〔原注j)終わり〕/

  ①〔注解〕「マカラク」--ジョン・フラートンは,〔『通貨調節論』の〕46ページの脚注で,〔ジョン・ラムジ・マカラク〕『商業の事典』〔『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』,ロンドン,1847年〕の項目「銀行業」を指示している。
  ②〔異文〕ここからこのパラグラフの終わりまでは書き加えられている。
  ③〔注解〕「同前」--フラートン『通貨調節論』,第2版,ロンドン,1845年
  ④〔注解〕「発券銀行業者〔issuing bankers〕」--草稿では,「発券銀行券〔issuing banknotes〕」となっている。

  121)この注番号は,i)のように見えるが,この原注への注記(次パラグラフ)での「十十注j」という指示から見て,「j)」なのであろう。
  122)〔E〕この一文の原文は次のとおりである。Alle diese Formen sind "transferable claims",vielmehr instruments,wodurch d,claims transferable.エンゲルス版では次のようになっている。「すべてこれらの形態は,支払請求権を移転できるものにすることに役だつ。〔Alle diese Formen dienen dazu,den Zahlungsanspruch übertragbar zu machen.〕」エンゲルス版ではこの文章のあとに,フラートンの著書の38ページからの引用と51ページからの引用とを収めている。
  123)〔E〕エンゲルス版では,この原注のここから以下の部分は削除されている。〉 (181-182頁)

 【これは〈小切手〉につけらた原注であるが、ほぼフラートンの『通貨調節論』からの引用なので、平易な解読は省略する。
  この原注は「小切手」につけられたものであるが、大谷氏は訳注122)で〈この注番号は,i)のように見えるが,この原注への注記(次パラグラフ)での「十十注j」という指示から見て,「j)」なのであろう。〉と述べている。ただこの原注の内容は小切手に限定されたものとは言い難い。後に紹介するように、フラートンはマルクスが引用しているパラグラフを〈ところで銀行券というものは信用の一形態に非ずしてなんであろう。〉という一文から始めており、明らかにフラートンの問題意識は「銀行券」であることがわかる。ただマルクスも引用しているように〈銀行券であろうと,為替手形であろうと,銀行小切手であろうと〉云々と小切手にも言及していることは確かである。いずれにせよ、番号を付して検討してみよう。

  (ⅰ) まず〈すべてこれらの形態は「移転できる請求権transferable claims〕」である,というよりはむしろ,請求権を移転できるものにする用具である〉という一文は、フラートンの著書のマルクスが示している箇所(〈(フラートン『通貨調節論』,第2版,ロンドン,1845年,38ページ〔阿野季房訳,改造社,1948年,56ページ〕。)〉)には見られない。恐らくマルクスが要約して書いているのではないだろうか。だから〈すべてこれらの形態は〉というのが何と何を指しているのかは分からないのである。ただフラートン自身が後に〈そしてこの形態が銀行券であろうと,為替手形であろうと,銀行小切手であろうと,過程はすべての本質的な点で同じであり,結果も同じである〉と述べていることから、〈すべてこれらの形態〉というのは、銀行券や為替手形や銀行小切手を指していると考えることができるかも知れない。そしてそれらはすべて〈移転できる請求権transferable claims〕」である,というよりはむしろ,請求権を移転できるものにする用具である〉と述べている。確かに銀行券は銀行の発行する手形であり、その持参人に無条件に銀行券に書かれた金額を支払うことを約束するものであり、その受け取り人からすればそれは貨幣請求権である。また一般の約束手形もそれを受け取る側からは請求権であり、為替手形はいうまでもなく支払指図なのだから貨幣の支払を要求する請求権である。また小切手も、貨幣の支払指図であり、請求権である。そうした貨幣の支払を請求する権利を銀行券や手形、小切手等々は「移転できるものにする用具」なのだと述べられているわけである。
 「移転できる請求権」という引用符で括られた文言もフラートンの著書には見当たらない。翻訳が違うのかもしれないが、私が持っている改造選書の河野季房訳には次のような一文があるだけである。

 「ところで銀行券というものは信用の一形態に非ずしてなんであろう。それは流通の便利をより大にするため小金額に等分された信用に他ならぬのではないか。各銀行券は単に、銀行業者がこの券の最初の受領者に対して負うところの債務の、譲渡可能なる承認書--これに対して彼(銀行業者)は要求あり次第支払うべきことを約束する--に過ぎない、……云々 (55頁)

 ここでは「譲渡可能なる承認書」という文言が出てくるが、「移転できる請求権」とはやや異なるものである。そしてこのフラートンの一文は「銀行券」について述べているものである。

  (ⅱ) 次はこうした請求権を移転するための諸用具は、それはそのまま貨幣の機能を果すものだと指摘されている。そしてそうしたものとしては銀行券であろうと、為替手形であろうと、銀行小切手であろうと、その形態はどうであろうと、過程はすべて本質的な点で同じだとも指摘されている。この部分も河野訳を紹介しておこう。

 「凡そ信用というものは、その形の如何にかかわらず、折々貨幣の機能を果たすといわれないものはない。しかしてその形が銀行券であるにせよ、為替手形であるせよ、或いはまた銀行小切手であるにせよ、その使用はすべて本質的な点においてまったく同一であり、その結果においてまた少しも異なるところがないのである。」 (56頁)

  ここでは銀行券が、手形や小切手等々の信用貨幣と同列に扱われている。その限りではこの銀行券は商業流通内で手形流通に立脚して流通する銀行券と考えねばならないが、フラートン自身にはそうした問題意識そのものがない。彼は預金についても〈この預金は一つの銀行勘定から他の銀行勘定へと移されることによって絶えず流通手段の役割を果たしつつある〉(49頁)などとも述べており、いわゆる「預金通貨」なるものも肯定している。ただついでに指摘しておくと、フラートンは預金勘定が一つの銀行から他の銀行に移されるなどと述べているが、これは預金が流通手段としての役割を果たしたからそうなるわけではない。A銀行の顧客のaの預金が引き出されて、B銀行にaの預金として預金された場合、確かに預金がA銀行からB銀行に移されたことになるが、それによって商品は何も流通していない。だから流通手段などはまったく無関係なことである。また商品の流通に伴う預金の振り替えは、例え商品流通の当事者が異なる銀行に預金を持っていたとしても、最終的には同一の銀行内の預金の間で行われるものなのである。こうしたことがフラートンにはまったく理解されていない。いずれにせよ彼がいう銀行券は貨幣流通に立脚するものと手形流通に立脚するものとが無区別に混同されているのである。

  (ⅲ) マカラクに依拠して、こうした信用諸用具が貨幣の機能を果すことによって通貨が節約されること、それは今日5千万ポンドないし6千万ポンドの銀行券あるいは金(つまり現金)によって果されている諸機能を果たすためには少なく見積もっても、2億ポンドの通貨が必要になるとのことである。つまり1億4千万から5千万ポンドの通貨の節約になっているというわけである。この部分も河野訳を紹介しておこう。

 「更にマカロック氏もこれとほぼ同趣旨の見積もりをしている。氏は何ら躊躇するところなく次の如く述べている、曰く『通貨の節約のため使用されている諸手段がなかったならば、今日5千万乃至6千万ポンドの銀行券および金によって成し遂げられている諸機能を遂行するのに最も少なく見積もっても2億ポンドの通貨が必要とされるであろう』と。」 (666頁)

  このようにここでは銀行券は〈銀行券および金によって果たされている諸機能〉と述べているように、金と同一視されている。つまり通貨としての銀行券であり、貨幣流通に立脚する銀行券なのである。これはマカラクからの引用であるが、その少し前のところでフラートンは〈今日相当な商人や、商人でなくても凡そ保持すべき現金を所有する者ならば何人もこの現金を銀行に保管させ、5ポンドまたはそれ以上の支払は一切小切手ですますに違いない、そしてこれらの小切手は更に手形交換所で相互の交換により清算され、銀行券または鋳貨によって決済せらるべき交換尻は総額の約6パーセント位を超えないのである。〉(65頁)と述べている。つまりここではフラートン自身が銀行券を鋳貨と同一のものと見ているわけである。

 (ⅳ) 〈「銀行券は信用の小銭である。」〉この部分は、本文の〈実際には,銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけであって〉という部分に対応している。これを見ても、この原注は単に小切手だけを問題にしているというより銀行券も含めた内容をなしていることがわかるのである。フラートンがこの文言をどういう文脈のなかで使っているかを知るために、河野訳を紹介してみよう。

 「銀行券なるものは信用の小銭であり、信用がそれによって発展するところの機械的構成中の最下級をなすものである。」 (71頁)

 フラートンはこうした最下級の小銭の活動力を抑制することで巨大な信用の作用を抑制できるなどと考えるのは馬鹿げていると通貨学派を批判しているわけである。だからマルクスが〈銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけ〉で〈銀行で主要な問題となるのはつねに預金〉だと述べていることとはやや主旨が異なっている。しかし銀行券は素人目には重要なもののように見えているが、しかしそうではないのだと批判している点では、マルクスとフラートンには共通のものがある。

 (ⅴ) 最初の〈銀行業者たちのあいだでの銀行券交換〔Notenaustausch〕〕……については,次のよう〔に言われている。〕〉という一文は恐らくマルクス自身のものであろう。その間に(   )に入れらている一文〈スコットランドの諸銀行は週に2回,エディンバラにいる自分の代理人を通じて,〔銀行券交換を行なっていた〉はフラートンの次の一文からとってきたものであろう。

 「また、スコットランドにおいて交換取引を円滑にするために活用される信用の力が、他の諸事情に関連して、イングランドにおけるよりも絶対的に劣っていないことは勿論、多少でも劣っているということさえないのである。否、まったく反対である。……或いはまたスコットランドにおける銀行券流通高がイングランドにおけるよりも割合として低いのは、別にスコットランドの銀行業者側に積極的に流通させる意志が欠けているためでもなく、ただ単に紙券通貨の諸機能が他の諸手段によってより良く遂行されそれ以上の銀行券を必要としなかったためであるが、これと同時に、数名の銀行業者が各自所有するお互いの発行した銀行券をばすべてエディンバラにおける彼らの代理人を通じて規則的に週2回相互に交換し合うことによって、銀行券の充溢という非実際的な外観が生ずることをおさえられてもいるのである。**」 (118-119頁)

 次のマルクスのフラートンからの引用は、フラートンが上記の一文につけた注のなかからとってきたものである。フラートンの注の全文を参考のために紹介しておこう。

 「** スコットランド銀行業者のこれらの極めて簡単で自然な取極は、これらの機関の穏健慎重なる経営に対して完全な例証を与えるものとして激賞されており、イングランドの地方銀行が5ポンド以下の少額銀行券を発行することを禁じられた後にもスコットランドの地方銀行にはこの特権を保持することを許されるという理由として強調されて来たのであはあるが、さりとてこれらの取極に対して置かれている法外な重要性ほど、われわれの問題全体について広まっている混乱生硬な諸観念を強く例証するものはない。発券銀行間で銀行券を頻繁に交換することは、確かに極めて適切で称賛すべきものであり、彼らの相互間の取引の規律と秩序とを保持するには与って力がある。けれども私は、この問題が公衆にとってどの程度まで利害関係があるのか、どうしても考えつくことが出来ないのである。私の信ずるところによれば、世界中の如何なる地方における発券銀行業者(但しアメリカ合衆国では地方的な事情から恐らく多少の例外もありうるであろうが)も、彼らの近隣の同業者が発行した約束手形を受け入れた場合、これを再び外に向けて使用するような習慣はもっていない、そしてこれらの手形の一枚も外に出されるのではない以上、それが発行者の手許に返されようと或いはたまたまその手形を所有している人の抽斗の中に仕舞い込まれようと、何れにせよ直接の関係者以外を除けば何人にも大した問題ではありえないと私は考える。」 (119頁)

 さて、この部分を引用したマルクスの意図はどこにあるのであろうか。これはその一つ前の引用と関連しているように思える。素人目には銀行券は重要なもののように見えるが、実際はそうではなく、それは信用の小銭だというものであった。同じように、地方の発券銀行業者の発行した銀行券もそれが別の業者の払い出しに使われるというようなこともなく、ただ発券銀行業者間で定期的に交換されるだけで、ほとんど当事者以外には大した問題ではないのだということである。だから銀行券は見た目ほどには重要なものではない例証としてあげられていると考えられる。】


【25】

 〈/319下/(4)【MEGA II/4.2S.473,42-48〔原注〕①124)125) 十十注jへzu Note j〕。「フランス銀行が定期的に公表している統計は,小切手の使用によって同行の内部で貨幣が節約された大きさを示している。……1840年12月31日にいたる四半期に,正貨,銀行券,口座から口座への振替transfer〕(小切手によって当座勘定のうえで行なわれる振替),のそれぞれによってなされた取引は,次のようになっていた。--正貨によって,221,432,200フラン,銀行券によって,1,049,240,000フラン,振替によって,1,742,897,000フラン。したがって,パーセントでのその比率は,振替が58%,銀行券が35%,正貨が7%,であった。(『通貨126)論論評,云々』,40[,41]ページ。)〔原注「十十注jへ」終わり〕|

  ①〔異文〕この原注は書き加えられている。--この引用は,〔草稿の〕319ページの最後にある。挿入されるべき箇所は,「十十注jへ。」およびテキスト〔前パラグラフ〕のなかの「十十」という指示によって示されている。

  124)この「注jへ」は,319ページ下半部の最下部に書かれている。これは二つ目の原注j)のなかの「十十」がつけられた箇所に属するものである。
  125)エンゲルス版では,この「注jへ」は削除されている。
  126)「理論」--草稿では「問題〔Question〕」と誤記されている。〉 (182頁)

 【これも〈十十注jへ〉というものであるから、本文の〈小切手〉に関連してつけられものであり、『通貨理論論評、云々』からの抜粋だけなので、平易な解読は省略した。この原注は書き加えられたもので、それが挿入すべき場所が〈十十〉という記号で指示されている。それによれば、原注「j)」のわれわれが便宜的につけた番号の(ⅲ)の後に挿入されるべきもののようである。(ⅲ)というのはマカロックに依拠して、小切手による預金の振替によって節約された通貨がどの程度かを推測するものであった。同じように、今回のものもフランス銀行が定期的に公表している統計にもとづいて、小切手による預金の振替決済が全体の取引のなかでもっとも高い比重を示していることを紹介するものとなっている。これは本文でマルクスが〈銀行で主要な問題となるのはつねに預金である〉と述べていることを事実で持って裏付けるものといえる。
  ところでここでは正貨と銀行券が区別されている。これはフランス銀行の勘定だから当然なのであるが、正貨というのは金銀貨のことであろう。銀行券が、果たして手形割引で手形に代わって商業流通内で流通するものなのか、それとも一般流通で貨幣流通に立脚するものなのかはこれだけではハッキリしない。銀行からみれば、いずれも自行の信用にもとづいて発行された債務証書であることには違いはないのであり、紙のインク以外に費用のかからないものである。】


【26】

 [474]/319下/(2)【MEGA II/4.2,S.474.13-17】〔原注〕①127)128)1) ロイド②129)(ⅰ)「銀行業者は,一方で預金を受け入れ,〔他方では〕これらの預金を資本の形態で彼ら〔資本を欲する活動的で精力的な人びと〕の手に任せることによって〔それらを〕充用する仲介者です。」(第3763号。ロイド(オウヴァストン)の答弁。議会〔銀行法特別委員会〕報告,1857年。)④130)(ⅱ)「銀行業者が公衆に行なう申し出しは,こうである。--「私は私の信用をあなたの資本と交換する。しかし,あなたは私に,あなたの資本を利子なしで利用することを許さなければならないが,それでもあなたは私に,私の信用の使用にたいする利子を支払わなければならない。〔」〕」(ラゲー(コンディ・)『通貨および銀行業に関する一論』,第2版,フィラデルフイア,1840年。204ページ,注。)〔原注1)終わり〕/

  ①〔異文〕〔草稿〕318ページへのこの原注「1)」をマルクスはまず,319ページのこれに予定していた箇所,原注「j)」と原注「2)」とのあいだに書いた(〔MEGA II/4.2の〕474ページ12-17行〔本書本巻のこの原注「1)」〕を見よ)。「注1)へ(318および319ページ)」という補足(〔MEGA II/4.2の〕474ページ18-50行および475ページ6-23行〔本書本巻「318上(3) 」,および,本章の「信用制度についての雑録」中の「318上(4) 」,「318上(5) 」および「318上(6) 」〕)は,〔草稿の〕318ページ,テキスト(〔MEGA II/4.2の〕475ページ5行〔本書本巻後出のパラグラフ「/318上/(2) 」〕の末行)と「注a)に」という補足とのあいだにある(〔MEGA II/4.2の〕469ページ24-38行〔本書本巻前出,トゥクからの引用「318下(1) 」〕を見よ)。「注1へ。318ページ」という第2の補足は,ふたたび〔草稿の〕319ページ,テキスト(〔MEGA II/4.2の〕476ページ19行のあと,「注hに。318ページ」という補足(〔MEGA II/4.2の〕472ページ33-46行および473ページ4-18行〔本書本巻「319上(6) 」〕)の前にある。)
  ②〔注解〕『銀行法特別委員会報告……』,[ロンドン,1857年]
  ③〔異文〕「(オウヴァストン)」--書き加えられている。
  ④〔注解〕ラゲーでは次のようになっている。--「銀行業者が公衆に行なう,あるいは,行なうと思われる(彼の銀行券の発行についての)申し出しは,その秘密を剥ぎ取れば,要するにこうである。……」

  127)この原注と次の原注とがなぜk)およびl)とされないで1)および2)とされたのか,その理由はさだかではない。
  128)〔E〕エンゲルス版では,この原注の全体が削除されている。
  129)〔E〕第3763号からのこの引用は,エンゲルス版第26章のなかにも見いだされる(MEGA II/15,S.424.1-4;MEW 25,S.448.1-3)。しかし,これは草稿のその部分(S.325)に記されたものによっているのであり,ここから取られたものではない。
  130)ラゲーからの以下の引用は,アイザク・ブランスン〔Isaac Bronson〕という銀行業者が1829年に書き,『フリー・トレイド・アドゥヴォケイト〔Free Trade Advocate〕』の同年7月11日号に掲載された論説からラゲーが引用しているものの一部である。〉 (183-184頁)

 【これは〈しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々〉につけられた原注「1)」である。ロイド(オウヴァストン)の議会証言とラゲーの著書からの抜粋のみからなっているので、平易な解読は省略した。
  ところで大谷氏はこの原注がそれまでの原注「i)」や「j)」に引き続いて、なぜ「k)」や「l)」とされなかったのかの理由は定かではないと指摘している。またこの原注が書かれた経緯について、MEGAの〔異文〕に細々と書かれているが、しかもそこに大谷氏の訳者注も加わって文脈を読み取ることさえ困難な代物になっている。ややこしいので、これもわれわれは原注の内容には関係ないものと判断して無視しよう。とりあえず、ロイドの証言を(ⅰ)、ラゲーからの引用を(ⅱ)としてその内容を検討しよう。

  (ⅰ)の内容は必ずしも本文の注としての意義がはっきりしない。銀行は現金で前貸しする場合も信用で取引するケースとして、彼は預金を引き受け、それを資本の形態で前貸しする仲介者だといえなくもないが、これだけでは銀行が信用で取引する例とは言い難い。ただ前回の当該部分(●現金で前貸しする場合も信用による取引だとするマルクスの言明について)で解説したように、銀行が貨幣取扱業務として取り引きする再生産的資本家たちの準備ファンドを集中して、それを必要最低限に縮小することによって、それ以外のものを利子生み資本として貸し出すわけで、その限りでは当座預金を引き受けて、その一部を資本を欲する人に貸し付ける仲介者だといえなくもない。

  それに対して(ⅱ)は、明らかに銀行業者は信用で取引し、それに利子の支払を要求するとしている。彼らは当座預金には利子を支払わないが、しかしそのうち準備として保持する以外は彼らの貸付可能な資本として貸し出しに利用して利子を得るのである。
  ただここでラゲーが〈私は私の信用をあなたの資本と交換する〉という場合、この〈信用〉は、本文でマルクスが〈銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々で,最後に銀行券で,与えられることができる〉と述べていたものがすべて当てはまるだろう。銀行業者はこれらさまざまな形態の信用を公衆(再生産的資本家たち)が持ち込んだ資本(現金あるいは手形等)と交換する。それらの持ち込まれたものに対しては銀行は利子は支払わないのに、銀行が与えた信用に対しては利子を要求するわけである。】

 (続く)

 

2020年7月 8日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-9)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


【21】

 [473]|318上|(1)【MEGA II/4.2,S.473.1-3,474.1-11 und 475.1-3】ところで,銀行業者が与える信用はさまざまな形態で,たとえば,銀行業者手形 i),銀行信用,小切手 j),等々で,最後に銀行券で,与えられることができる。銀行券は,[474]持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない。この最後の信用形態はしろうとには,とくに目につく重要なものとして現われる。なぜならば,1)信用貨幣のこの形態はたんなる商業流通から出て一般的流通にはいり,ここで貨幣として機能しており,また,たいていの国では銀行券を発行する主要銀行は,国立銀行〔Nationalbank〕と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用〔Nationalcredit〕をもっていて,その銀行券は多かれ少なかれ法貨でもあるからである。なぜならば,2)銀行券は流通する信用章標にすぎないので,ここでは,銀行業者が取り扱うものが信用そのものであることが目に見えるようになるからである。しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々。1) 実際には,銀行券はただ卸売業の鋳貨を[475]なしているだけであって,銀行で主要な問題となるのはつねに預金である。たとえば,スコットランドの諸銀行を見よ。2)/

  ①〔異文〕「実現される」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「たいていの国では」← 「どの国でも」〉 (177-178頁)

  〈ところで、銀行業者が与える信用はさまざまな形態で与えることが出来ます。例えば銀行業者手形、銀行信用、小切手、等々です。そして最後に、銀行券で与えることが出来ます。銀行券は、持参人払いの、銀行業者が個人手形と置き換える、その銀行業者あての手形にほかなりません。この最後の信用形態はしろうとには、とくに目につく重要なものとして現われます。というのは、まず第一に、信用貨幣のこの形態はたんなる商業流通から出て一般流通に入り、そこで貨幣として機能しているからです。おまけに、たいていの国では銀行券を発行する主要銀行は、国立銀行と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用をもっていて、その銀行券は多かれ少なかれ法貨でもあるからです。第二の理由は、銀行券は流通する信用章標にすぎないので、ここでは、銀行業者が取り扱うものが信用そのものであることが目に見えるようになるからです。しかし、銀行業者はその他のあらゆる形態での信用でも取引するのであって、彼が自分の預金された貨幣を現金で前貸しする場合でさえもそうなのです、等々。実際には、銀行券はただ卸売業の鋳貨をなしているだけであって、銀行で主要な問題となるのは常に預金なのです。例えば、スコットランドの諸銀行を見れば分かります。〉

 【ここでは〈銀行業者が与える信用〉はさまざまな形態をとることが指摘されている。ところで〈銀行業者が与える信用〉とはそもそも何かということが問題になるが、大谷氏は次のように説明している。

  〈「銀行業者が信用を与える」というのは,銀行業者がなんらかの形態である貨幣額を貸し付けて,銀行業者が債権者となり,借り手がこの銀行業者にたいする債務者となるということを意味する。つまり,いわゆる「銀行信用」である,いわゆる「銀行信用」は,銀行が与えるからそう呼ばれるのであって,銀行が受けるからではない。ここではそのような「銀行信用」がどのような形態で与えられるか,ということが問題となっているわけである。〉 (113頁、太字は大谷氏による傍点による強調箇所、以下同じ)

  しかしこうした説明はわれわれを直ちに納得させるものとは言い難い。大谷氏の説明だと、〈銀行業者が与える信用〉というのは、銀行の「貸付」と同じということになる。しかしそれだと、どうしてマルクスは、本文のテキストの一つ前(われわれのパラグラフで【16】)で、「貸付」の諸形態として(1)手形割引、(2)さまざまな形態での前貸し、(3)当座貸越の三つを上げて説明したあと、それに続く本文の次のパラグラフで(つまり今検討しているパラグラフで)、同じ銀行業者が与える信用(大谷氏の説明だと貸付)にはさまざまな形態があるなどと説明しているのであろうか。大谷氏の説明では同じことを論じていることにならざるを得ないが、しかしそこで論じられている内容は決して同じではない。ということは〈銀行業者が与える信用〉というのは、単に銀行業者が何らかの形態で貨幣額を貸し付けることを意味するだけではないということではないだろうか。
  「貸付」と〈銀行業者が与える信用〉とにはどういう違いがあるのであろうか。それが問題である。
  「貸付」というのは、何らかの形で銀行に流入してきた(マルクスは【14】パラグラフではそれは二様の仕方で銀行に流れ込むと説明していた)貸付可能な貨幣資本を貸し付けることである。つまり銀行が手元にある貨幣を利子生み資本として貸し付けることである。それに対して、〈銀行業者が与える信用〉というのは、銀行が自身の信用だけにもとづいて何らかの形態で貸し付けることなのである。つまりその場合は銀行の手元には貸付可能な貨幣があるわけではない、にも関わらず銀行は何の元手もなしに、ただ自身の信用だけによってさまざまな貸付可能な形態を創造して、貸付を行うということなのである。だからそれは文字通り銀行の信用を与える(貸し付ける)ということなのである。
  だからこのパラグラフで論じていることは、銀行によるいわゆる「信用創造」のことである。銀行は自身の信用にもとづいて、何らかの貸付可能な形態を創り出して、それをあたかも自身の利子生み資本であるかのように貸し付けて、利子を得るのである。その諸形態がここで問題になっている。それではその諸形態について一つ一つ検討して行くことにしよう。

   ●〈銀行業者手形〉。

  これには原注「i)」が付けられている。その内容は以下のパラグラフで検討するが、しかしここで銀行業者手形を検討するためには、その内容についても言及せざるをえない。マルクスは原注「i)」の最初の部分の表題として〈ロイド銀行Loyd'sのぺてんMogeleiを見よ〉と書いている。つまり銀行業者手形とは、銀行が元手としての貨幣資本(monied capital)がないのに自身の信用で貸し付け可能な形態を創り出したものの一つだということである。だからそれは「ぺてん」なのである。原注「i)」の前半を見ても貨幣が逼迫して、銀行に貸し出しの元手がないときに、それを発行して顧客に受け取らせようとするとしている。またそれを銀行業者の貨幣を作り出す特権として作用するとも説明している。遠い昔から逼迫期に採ってきた支払正貨だとも説明されている。さらには後半の『委員会報告』の証言記録ではイングランド銀行券(すなわち現金)の代わりにロンドン宛の手形を手形割引で手渡すとし、それは1844年の銀行法(銀行券の発行高を制限する法律)を逃れる違法行為ではないのかと質されたりしている。ようするに現金が手元にないときに、何の元手もなしにただ銀行の信用たけで銀行手形を発行して、顧客が持ち込んだ手形を割引して置き換えたというのである。ようするに、銀行業者が貸し出しの元手としての利子生み資本が枯渇しているときに、ただ銀行の信用だけにもとづいて、ロンドンの本店あてに手形を切って、それを貸し付けるということなのである。だからここで重要なのは、それは銀行が元手がないのにその信用だけで創造されたものだというところにポイントがあるわけである。
  ところが大谷氏の説明では肝心のそうしたポイントが抜け落ちている。大谷氏の説明を紹介してみよう。

  〈まず,「銀行業者手形」である。これには注「i)」がつけられているほか,二つある注「j)」のうちの前の方(418下(6))はむしろここに属するものと考えることができると思われる。これらの注からも,ここで「銀行業者手形〔bankersbill」と言われているものが,地方銀行業者によってロンドンの自己の代理店などにあてて振り出された21日払いの為替手形,その他類似の銀行振出手形であることがわかる。エンゲルスは「他の銀行あての手形」と書き替えたが,「他の銀行」といってもそれは自己の代理店なのであって,そこにある自己の勘定にあてて振り出された,実体的には自己あての手形にほかならない。このような手形によって他の手形を「割り引く」55),というのは,自己の受ける信用--自己の手形がそれを表わしている--という形態で信用を与えることである。また,いわゆるopen creditの方式で銀行業者が信用を与えたとき,借り手は引受手形という銀行業者が受ける信用を利用するのであって,このような手形もここでの「銀行業者手形」にはいるであろう。〉 (113-114頁)

  このように大谷氏の説明では、肝心の銀行業者にとっては銀行業者手形というのは、銀行に元手がないときにやるペテンの一つであるという認識が欠けている。大谷氏は「受ける信用」か「与える信用」かということに重きを置いているが、あまり意味のある議論とは言い難い(少なくともマルクス自身はそんなことを問題にはしていない)。マルクスが問題にしているのは、銀行業者が与える信用についてである。その内容を正しく理解できなかったのが大谷氏の躓きの元である。マルクスが言っているのは、銀行がただ自身の信用だけであれこれの形態で創造したものを与えると述べているのである。銀行がただ信用にもとづいて創造したものだから、それは確かに銀行にとっては債務である。しかしそれを銀行は「与える」のである。つまり貸し付けるわけだ。だからその場合は銀行は顧客に対しては債権者であり、顧客は債務者である。だからこの場合、「受ける信用」か「与える信用」かという議論はあまり意味のあるものではないのである。

  大谷氏の説明には訳者注の55)が付いているが、それもあまり参考にはならないかも知れないが、一応、紹介しておこう。

  〈55)割引の依頼にたいして自己の手形を与えるのであるから,それは「一種の置き換え〔a substitution〕」(第4636号でのピーズの答え)なのである。しかしこれによって銀行業者は,こうした仕方で割り引いた手形について割引料を稼ぐことができる。ロンドンの代理店には,21日後の期日までに支払いの資金を振り込めばよいわけである。なおこれは,のちに注「注1)へ(318および319ページ)」でのギルバトからの引用にある「手形によって銀行業資本が創造される方法」の一部をなすものであるが,そこで例示されているのは,ロンドンに送金する顧客にロンドンあて21日払いの手形を交付するというものであって,これは信用を受けることだけにかかわるものである。後出の脚注57での,「21日払いの為替手形を(現金と引き換えに)発行する」というのも同様である。これにたいして,ここでは,一方で信用を(ロンドンあての手形で)受けながら,他方で信用を与える(手形を割り引く),すなわち受ける信用という形態で信用を与える,ということが問題となっているのである。〉 (114頁)

  ここでも大谷氏は〈信用を受けること〉かどうかといったことに拘っているが、意味のある議論とはいえない。大谷氏はギルバトの引用として〈「手形によって銀行業資本が創造される方法」の一部をなすものである〉と説明していながら、その肝心の内容の理解が抜け落ちている。〈「手形によって銀行業資本が創造される方法」〉というのは銀行業者は銀行資本としての貨幣資本(moneyed capital)そのものが手元にないのに、銀行業者手形を発行して、それを銀行資本として創造するのである。だからこそマルクスはそれをペテンと述べているわけである。そこらあたりの理解が大谷氏は欠けているのである。

  ●〈銀行信用〉。

  これについてはマルクスは何の原注もつけていない。大谷氏はこれは一般に言われている「銀行信用」とは異なると次のように説明している。

  〈次に挙げられているのは「銀行信用〔Bankcredit〕」である。この「信用」は,銀行が与える信用一般,すなわちいわゆる「銀行信用」ではありえない。なぜなら,もしそうだとすると,「銀行業者が与える信用は〈銀行業者が与える信用〉で与えられることができる」というトートロジーに帰着するからである。さらに,銀行が与える信用のある特殊的形態をさすものでもないであろう。そうではなくて,これは銀行の受ける信用という意味で「銀行信用」と言われているものだと考えられる。しかも,それは銀行の受ける信用一般をさすものではなくて,そのある特定の形態をさすものであろう。なぜなら,前出の「銀行業者手形」も銀行の受ける信用を表わすものには違いないからである。それでは,ここで「銀行信用」と呼ばれている,銀行の受ける信用とはなんであろうか。それはおそらく預金のことであろう。といっても,貸出が行なわれる以前にだれかによってすでになされていた預金のことではありえない。そうではなくて,貸出にさいして銀行業者が新たに借り手の勘定に設定する預金である。預金設定で手形を割り引く,あるいは貸し付けるとき,銀行業者は自己が受ける信用,つまりここでいう「銀行信用」をもって信用を与えるのである。この場合,いうまでもなく設定された預金の全額が「銀行信用」であり,銀行による信用供与である。〉 (114-115頁)

  大谷氏の結論は、マルクスのいう「銀行信用」というのは預金設定のことであろう、というものである。確かに預金設定も銀行にとっては何の元手の必要のない単なる帳簿上の操作であり、銀行の信用だけにもとづいたものだという点で、〈銀行業者が与える信用〉と言いうる。しかし結論は良いとしても、その前の説明には納得がゆかないものがある。
 大谷氏は〈さらに,銀行が与える信用のある特殊的形態をさすものでもないであろう。そうではなくて,これは銀行の受ける信用という意味で「銀行信用」と言われているものだと考えられる。しかも,それは銀行の受ける信用一般をさすものではなくて,そのある特定の形態をさすものであろう。なぜなら,前出の「銀行業者手形」も銀行の受ける信用を表わすものには違いないからである〉などと述べている。〈与える信用〉か〈受ける信用〉かなどというものに拘っているから、こうしたチンプンカンプンなことになるのである。念を押すまでもなく、このパラグラフでマルクスが問題にしているのは〈銀行業者が与える信用〉であり、その諸形態である。そして今問題になっているのは、その諸形態の一つである〈銀行信用〉についてである。つまりマルクス自身はそれは〈銀行が与える信用〉の一形態だと述べているのである。にも関わらず大谷氏はそれは〈銀行が与える信用のある特殊的形態をさすものでもない〉、〈銀行の受ける信用という意味で「銀行信用」と言われているものだ〉というのである。マルクス自身が〈銀行が与える信用〉だと述べているのに、大谷氏はいやそうではない、それは〈銀行の受ける信用〉という意味で〈銀行信用〉だと強弁するのである。もちろん、大谷氏も宇野弘蔵のように、マルクスが言っているからそれが正しいとは即断できない、マルクスは赤と言っていても、真実は黒かもしれないなどと主張するのなら話は別である。しかし大谷氏の全体の論述をみれば、大谷氏は宇野のような立場でないことは明確である。にも関わらず、ここでは大谷氏はマルクスの言っていることとまったく正反対のことを主張しているのである。しかも自身はそのことに気づいていないような風でもある。しかし、まあそんなことはともかく、次に行くことにしよう。

 ●〈小切手〉。

  これには原注「j)」と原注「注jへ」とが付いている。もちろんこれらの原注そのものは該当するパラグラフで検討するが、われわれはそれらの原注も参考に考えて行くことにしよう。これらの原注から考えられるのは、小切手は預金の振替と一体となったものであり、預金の振替を行うための信用用具の一つだということである。ではそれがどうして〈銀行が与える信用〉と言いうるのか。小切手帳というのは、顧客が銀行に預けた預金に対して、銀行から手渡される支払指図証書である。銀行は顧客が振り出した小切手にもとづいて、その持参人に顧客の預金から、小切手に記入された金額を支払わねばならない。しかしそもそも顧客(今それをAとしよう)が銀行に預金した貨幣はすでに銀行にはないのである。というのは銀行はそれを直ちに利子生み資本として運用し貸し出してしまっているからである。あるのはただ帳簿上の預金額の記載だけである。ところが銀行はすでに銀行にはなく、ただ帳簿上のものでしかない預金に対して、支払い約束をするのである。それが出来るのは銀行の信用にもとづくからにほかならない。銀行には常に預金が流入してくる、だからAが発行した小切手の支払い請求に対して、Aの預金された貨幣はすでにないが、別の顧客(B)が預金した貨幣がたまたまあれば、それで支払うことができるわけである。だから預金された貨幣はすでに利子生み資本として運用され、銀行の手元にはなく、ただ帳簿上の記録としてあるだけであるが、銀行はその帳簿上の記録を、あたかも自身の利子生み資本であるかに運用して、それに対する支払約束(顧客にとっては支払指図)を発行できるわけである。その意味では銀行業者手形と基本的には同じといえるのである。

  しかしそれでは大谷氏の説明を見てみることにしよう。次のように説明している。

  〈銀行業者が与える信用の第3のものとして挙げられているのは「小切手〔cheque〕」である。これが上の預金設定と並べて置かれているのは奇異なことではなくて,むしろそうでなければならない。貸出にさいして設定された預金にたいして小切手が振り出される。このときこの小切手が表わしているものは,一方では銀行から与えられた信用であると同時に,他方では銀行が受けた信用を表すもの--すなわちその額だけの預金を代表するもの--でもある。借り手が他の人にこの小切手を渡せば,その額だけの預金(=銀行が受けた信用)が後者の手に渡っていくことになる。この小切手が--手形交換を経ようと経まいと--支払われることになると,それはこの銀行業者にとっては,それだけの受けていた信用が消えることを意味し,それが自行の他の人の勘定に預け人れられる場合には,それだけの受けている信用の与え手が変わることになるだけである(預金の振替)。借り手にとっては,預金であろうとそれにあてて振り出された小切手であろうと,どちらも銀行に与えている信用にほかならないのであって,ただその形態が変わるだけである。小切手を振り出したさい,振出人は預金のほかにそれだけの額の信用を追加的に入手したわけでないことはいうまでもない。決済以前であってもこのことに変わりはない56)。銀行からみても,小切手が振り出されたとき,預金額に加えてさらに信用を受けたわけでもない。決済以前であってもこのことに変わりはない。要するに,小切手は,預金を代表するものでありながら,しかも銀行が受ける信用としては預金とは区別されるべき一形態なのである。なお,この 「小切手」のあとに「等 々〔etc」〕と書かれているが,どのようなものが考えられているのか判断できない。しかし,ここでは現金(ないし中央銀行券)による信用供与ではなくて,受ける信用で行なう信用供与のその他の形態が考えられるべきであろう。たとえば,割り引いた手形を裏書譲渡することによって信用を与える場合57)などがそれにあたるかもしれない。〉 (115-116頁) 

  あいかわらず〈与えられた信用〉か〈受けた信用〉かなどというどうでもよい議論をしているが、それはともかく大谷氏の説明で疑問に思うことを箇条書き的に書き出してみよう。

   (1) まず大谷氏は小切手が〈預金設定と並べて置かれているのは奇異なことではなくて,むしろそうでなければならない〉などと述べている。しかし〈並べて置かれているのは〉、預金設定を意味する〈銀行信用〉だけではない、〈銀行業者手形〉もそうである。そもそも大谷氏は小切手を預金設定との関連だけで見ようとする魂胆からこのように述べているのである。しかしそれは正しいであろうか。大谷氏はここでマルクスが述べている「小切手」を預金設定された預金に対して振り出されたものに限定するのである。しかしこんな限定は問題の混乱以外の何ものでもない。

   (2) それに続けて述べている一文もわかりにくい。〈貸出にさいして設定された預金にたいして小切手が振り出される。〉この一文も誤解を与えかねないものであるが、要するに銀行が貸し出しに際し預金を設定し、その貸し出しを受けた顧客がその預金に対して銀行から与えられた小切手帳を切り、小切手を振り出したということであろう。

   (3) 〈このときこの小切手が表わしているものは,一方では銀行から与えられた信用であると同時に,他方では銀行が受けた信用を表すもの--すなわちその額だけの預金を代表するもの--でもある。〉ここでは大谷氏は銀行信用(預金設定)を〈銀行から与えられた信用である〉と述べている。しかしその前には〈銀行の受ける信用という意味で「銀行信用」と言われているものだ〉と述べていたのである。いずれにしても無意味な議論なのである。大谷氏は〈与えられた信用〉か〈受けた信用〉かなどという迷路に迷い込んで肝心なことが抜け落ちている。
  そもそもマルクスが小切手を〈銀行業者が与える信用〉の一形態だと考えているのは、別に預金設定に限った話ではない。通常の預金、つまり貨幣(現金)を銀行に持ち込んで行われた預金についても同じものとして述べているのである。それがどうして〈銀行業者が与える信用〉と言いうるのかということについてはすでに述べたが、要するに、大谷氏は小切手に対して支払われる預金は、すでに単なる帳簿上の記録でしかないということを理解していないのである。この肝心要のことが抜け落ちている。だからもうこれ以上の大谷氏の〈与えられた信用〉か〈受けた信用〉かなどという混迷につきあうのはやめておこう。

  (4)しかし最後に大谷氏はマルクスが〈等々で〉と小切手のあとに付け加えている部分についても、この〈等々〉が何を意味するかを検討しているので、それについても少し考えてみよう。もう一度、その部分だけを書き出してみよう。
 
   〈なお,こ の 「小切手」のあ とに 「等 々 〔etc」〕と書かれているが,どのようなものが考えられているのか判断できない。しかし,ここでは現金(ないし中央銀行券)による信用供与ではなくて,受ける信用で行なう信用供与のその他の形態が考えられるべきであろう。たとえば,割り引いた手形を裏書譲渡することによって信用を与える場合57)などがそれにあたるかもしれない。〉

  そしてこの注「57)」では次のように書いている。

  〈57)たとえば,マルクスはのちに「混乱」と題した部分で,『銀行法委員会報告』1857年,でのニューマーチの証言を引用しているが,そのなかには,手形の裏書きによって信用を与える例が述べられている。
  「地方銀行業者によって裏書譲渡された手形が流通する仕方第1568-1572号。/つまり銀行業者たちは,自分が裏書きした手形で支払うことで,21日払いの為替手形を(現金と引き換えに)発行することで,また銀行券を発行することで,信用資本を調達したのである。/第1573号。(ニューマーチ)(地方銀行業者は,利子を稼ぐために,彼らの現金をロンドンのビル・ブローカーに送る。ロンドンのビル・ブローカーは自分がすでに割り引いた手形を担保として地方銀行業者に渡すと,地方銀行業者は支払いのさいにこれらの手形を裏書きして再発行する。)「地方銀行業者が行なう大量の信用操作は,為替手形{流通している}が銀行業者の書類入れから取り出され,彼によって裏書きされて商人その他の人びとの手に渡り,それから〔これらの人びとによって〕支払われる,という仕方でなされています。」」(MEGA II/42,S.562;本書第4巻55ページ。)
  エンゲルスは,第1568-1574号を独自に要約して1パラグラフを作ったのち,上のマルクスの文章に手を入れて次のように書いている。
  「ここで,どのようにして銀行が信用と資本とを創造するかがわかる。すなわち,1.自分の銀行券を発行することによって。2.手形期間が21日であるが振り出しと同時に現金で支払ってもらえるロンドンあての手形を振り出すことによって。3.すでに割引されている手形を払出すことによって。この最後の手形の信用能力は,まず第1に,また主として,少なくともその地方にとっては,この銀行の裏書きによってつくりだされるのである。」(MEGA III/15,S.536:MEW25,S.558)
  なお,上でマルクスが「21日払いの為替手形を(現金と引き換えに)発行する」と書き,エンゲルスが「手形期間が21日であるが振り出しと同時に現金で支払ってもらえるロンドンあての手形を振り出す」と書いているのは,ニューマーチの第1571号での証言で述べられていることであって,地方からロンドンに送金しようとする顧客が地方銀行業者に現金を払い込んでロンドンあて21日払いの手形を受け取る,という場合である。〉 (116頁)

  要するにマルクスが〈等々で〉と述べているものの一つとして、銀行が割り引いた手形に、裏書きして、顧客に貸し付けとして手渡すことも考えられるということのようである。これは確かに銀行業者手形とは若干違うが、銀行が裏書きすることによって信用が増したものを、顧客は自身の持ち込んだ手形を割り引いてもらって現金の代わりに受け取るということであろう。ただこの場合、手形割引で銀行が貨幣を貸し付けた場合、そしてその割引した手形に裏書きして、さらに別の顧客の手形の割引に利用したという場合を考えてみよう。この場合、最初の割引に際しては現金を必要とした限りでは、それは普通の「貸付」の一形態である。しかし再度の裏書きした手形で、持ち込まれた手形を割引した場合は、銀行は現金を必要とせず、ただすでに手元にある手形に裏書きするというだけで、持ち込まれた手形を割引して、手数料(利子)を得ることができる。銀行の裏書という信用によってそれが可能になっているのだから、これは確かに〈銀行業者が与える信用〉の一形態と言いうるであろう。

  ●最後は〈銀行券〉である。

  これはいうまでもなく、発券銀行について言いうることである。発券銀行はただその信用にもとづいて銀行券を発行し、紙とインク以外にはなんの費用もかからない。だからそれは確かに銀行が与える信用の一形態と言いうる。ただマルクスは同じ銀行券でもほぼ現金として通用するとも述べている。だからマルクスが問題にしている銀行券は、地方の発券銀行の発行した銀行券ではなく、多かれ少なかれその背後に国家信用を背負っているような、中央銀行の発行した銀行券を想定しているといえる。マルクスは銀行券について次のように説明している。

 〈銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない

  この説明には二つのものがある。一つは〈銀行券は,持参人払いの,……その銀行業者あての手形にほかならない〉というものである。これは銀行券は銀行自身が支払い約束をする約束手形だということである。しかも〈持参人払い〉である。つまり普通の手形の場合、支払う額はもちろん、支払う当人や相手や期日が明記されているが、銀行券の場合はそれを持参した人に無条件に支払うというものである。銀行券も最初のものは、普通の手形と置き換えるということから、端数のある額だったらしいが(普通の手形は商品の売買に関連して発行されたのだから端数のある額になる)、やがてはそれは定額のものになり、また徐々に大きな額から少額のものへと変化していった歴史的な経緯がある。資本同士が取引の中心になる商業流通内では一般に大口取引が行われ、個人消費に関連する一般流通では、小口取引が中心になる。だから銀行券が少額になると商業流通から出て一般流通に入り、通貨(現金)として通用するようになるのである。高額の銀行券は例え一時的に一般流通に入っても、すぐにそこからはじき出されたのである。
  もう一つの説明は〈銀行券は,……銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない〉ということである。これはだから銀行券でも主要には商業流通において流通するようなもののことである。つまり手形と置き換えるということは、銀行業者が銀行に持ち込まれた手形を割引して、銀行券を貸し出すということである。もちろん、銀行券が銀行から出て行くのはこうしたケースに限らない。業者や個人が自身の預金から現金を引き出す場合に、彼はそれを銀行券で引き出すこともありうるであろう。しかしこの場合はもはや商業流通の枠内というより、一般流通の問題であろう。だからマルクスはまずは銀行券の説明としては、【3】パラグラフで説明していたような手形流通を基礎にした銀行券流通のように、まずは商業流通内において流通する銀行券について述べていることが分かる。しかし今回は、それだけに限らないことも指摘されている。それが次の説明である。
  マルクスは銀行券という「信用形態」は素人の目にはとくに目につく重要なものとして現われるとして、その理由を二つ述べている。
 一つは銀行券は商業流通から出て一般流通に入り、貨幣として機能しているからというものである(それは法貨としての性格を持っているとも指摘されている)。つまりこの場合の銀行券はエンゲルス版第28章以降(草稿ではⅠ)と項目番号が打たれたところ以降)で取り上げられている銀行券のほとんどが該当するものである。つまりそれは現金の一つであり、金貨や金地金と同等のものとして取り扱われているものである。だからそれは確かに素人目には重要なものには違いない。
 もう一つの理由は銀行券は信用章標であり、銀行業者が取り扱っているものが信用そのものであることが目に見えるように明らかだから、というものである。確かに銀行券は、最初にも述べたように、銀行がその信用によって創造したもので、紙とインクの費用以外には何の費用もかかっていない。その意味ではそれは銀行の信用そのものを象徴するものである。ただそれが素人目にもすぐに分かるかというと一概にはそうともいえないような気もするのであるが、どうであろうか。

  われわれはついでに大谷氏が銀行券について解説している部分も検討しておこう。次のように述べている。

 〈さて,銀行業者が与える信用の諸形態の最後のものとして挙げられているのは,「銀行券」である。これについては,他の諸形態とは区別していささか立ちいって述べている。マルクスはまず,「銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない」,と言って,銀行券がその前に列挙された銀行業者の受ける信用を表わす諸形態と本質的に同じものであることを示したのちに(?どうして!! マルクス自身は〈銀行業者が与える信用〉と述べているではないか!?),「この最後の信用形態はしろうとには,とくに目につく重要なものとして現われる」が,その原因は次の点にあるのだとして,二つのことをあげている。「第1には」として述べられているのは,銀行券が人びとの目には貨幣そのものとして映る,ということである。これにはさらに二つのことがあり,一つには,「信用貨幣のこの形態」--信用貨幣の他の形態として重要なのは預金であろう--「はたんなる商業流通から出て一般的流通にはいり,ここで貨幣として機能している」こと,一つには,「たいていの国では銀行券を発行する主要銀行は,……事実上その背後に国家信用をもっていて,その銀行券は多かれ少なかれ法貨〔legal tender〕でもある」こと,これらのことが挙げられている。「第2には」として述べられているのは,「銀行券は流通する信用章標にすぎないので,ここでは,銀行業者が取り扱うものが信用そのものであることが目に見えるようになるから」,ということである。流通している銀行券は,いつでも金に転換しうるという,銀行業者に与えられた信用である(?まったくしょうこりもなく同じ間違いを! マルクスは〈銀行業者が与える信用〉の一形態としての銀行券について述べているのだ!)ことはだれの目にも明らかであり,この点を通じて人びとは銀行が信用を取り扱うものだということを感知する,というのである。以上の2点は一見すると相反する事実であるように見えるかもしれないが,前者では,銀行券が一般流通のなかでも貨幣機能を果たすこと,後者では,それが兌換保証を背負って流通していること,この両者がともに人びとの目に見えていることを指摘しているのである。〉 (118-頁)

  こうした大谷氏の解説は、なかなかそのままでは首肯できない。箇条書きにして検討してみよう。

   (1) まず本文に挿入して疑問を呈しておいたが、大谷氏はマルクスが銀行券を〈銀行業者が与える信用〉の一形態として述べているものを〈銀行業者の受ける信用〉とか〈銀行業者に与えられた信用〉とまったく真逆に説明していることである。しかしこれについてはすでに述べたので、ここでは省略しよう。

  (2) 大谷氏はマルクスが「信用貨幣のこの形態」と述べていることに注目して、「この」の部分に傍点を振り、〈信用貨幣の他の形態として重要なのは預金であろう〉と述べているが、果たしてそれは正しいであろうか。マルクス自身は預金を信用貨幣と述べているわけではないからである。預金もその帳簿上の記録として貨幣の機能を果すが、しかしそれは預金の振替決済によって相殺されるという限りであり、だから貨幣の機能としてはただ観念的な計算貨幣(あるいは価値尺度)としての機能でしかなく、流通手段や支払手段としての機能、すなわち通貨として機能するわけではないのである。だからそれを銀行券と同じ信用貨幣の一形態だなどとマルクスが主張するはずはないのである。

  (3) 大谷氏はマルクスが銀行券について〈たんなる商業流通から出て一般的流通にはいり,ここで貨幣として機能している〉と述べていることの意味を正確に理解しているとは言いがたい。マルクスが〈たんなる商業流通から出て一般的流通にはいり〉と述べていること、その上で〈貨幣として機能している〉と述べていることは重要である。なぜなら、銀行券は〈たんなる商業流通〉内でも貨幣の機能を果たしているからである。だからこそそれは信用貨幣と言われるのである。にも関わらず、マルクスが一般流通に出て、〈貨幣として機能している〉と敢えて言っているのは、それは商業流通内における手形流通を基礎とする信用貨幣とは異なるものと見ていることを意味するのである。というのは一般流通における銀行券は現金として、地金や金鋳貨と同じものとして流通するとマルクスは考えているからである(これは何度も指摘しているが、エンゲルス版第28章該当部分以降の草稿ではマルクスは銀行券をそのようなものとして取り扱っている)。マルクスがそれらがたいていは法貨でもあるとしているのはそうしたことによるのである。(ついでに言えば、この点も、大谷氏は正しく理解していない。)だからそれはすでに手形流通に立脚する単なる信用貨幣ではないのである。それは貨幣の流通手段としての機能にもとづいて貨幣を代理して流通するものであり、その限りでは紙幣や補助鋳貨と基本的には同じなのである。だからそうした銀行券は貨幣流通の法則に規制されるものとマルクスは考えているのである(マルクスは【3】パラグラフでは、銀行券流通は手形流通に立脚するのであって、貨幣流通--それが金貨幣であろうと紙幣であろうとと念を押していた--に立脚するものではない、と強調していたのではあるが)。しかしこうした銀行券流通については、もっとあとで問題になるので、われわれとしてはそこで問題にしたい。いずにれせよ、大谷氏はこうしたことを理解されているとは言い難い。

  (4) マルクスが〈「この最後の信用形態はしろうとには,とくに目につく重要なものとして現われる」〉「第2」の理由として上げていることについて、大谷氏は兌換保証を背負って流通していることだと理解されているが、果たして正しいであろうか。大谷氏がマルクスが上げている二つの点について、〈以上の2点は一見すると相反する事実であるように見えるかもしれないが〉と述べているのは、マルクスが第1の理由として上げている部分を正確に理解していないからであろうが、第2の理由も正しく理解しているとは言い難い。マルクスは〈銀行券は流通する信用章標にすぎない〉と述べるときの〈信用章標〉というタームにどんな意味合いを持たせているのであろうか。これとよく似たタームとして「価値章標」があるが、それについてマルクスは『経済学批判』のなかで次のように述べている。

  〈諸商品の交換価値がそれらの交換過程をつうじて金貨幣に結晶するのと同じように、金貨幣は流通のなかでそれ自身の象徴に昇華する。はじめは摩滅した金鋳貨の形態をとり、次には補助金属鋳貨の形態をとり、そして最後には無価値な表章の、紙券の、たんなる価値章標の形態をとって昇華するのである。〉 (全集第13巻94頁)

  これを見れば、マルクスが〈信用章標〉という場合、それは信用を象徴するものという意味と考えられる。だからここには兌換が保証されているか否かというような問題はないのである。それは銀行がただその信用だけで発行する手形であり、紙とインク以外に費用のかからないものである。だからそれは銀行の信用を象徴するものだという意味で、マルクスは〈信用章標〉と述べているのである。そしてこれはこのパラグラフの冒頭〈銀行業者が与える信用はさまざまな形態で……与えられることができる〉と述べていた、その一形態として考えうるものである。〈流通している銀行券は,いつでも金に転換しうるという,銀行業者に与えられた信用である〉などとマルクスとはまったく真逆の説明をする大谷氏がそこに何の矛盾も感じていないのが不思議である。それもこれも〈与える信用〉か〈受ける信用〉かなどという無意味な議論の迷路に迷い込んだことから来たものといえる。

  ●現金で前貸しする場合も信用による取引だとするマルクスの言明について


  いずれにせよ、マルクスは銀行券が信用そのものであることが手にとるように分かるとしながら、しかし銀行業者はその他のあらゆる形態での信用でも取引するとして、例として〈彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである,等々〉と述べている。これには原注「1)」と原注「注1)へ」が付いているが、これらの原注は〈彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである〉という部分に対するものというより、むしろその前の〈しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって〉という部分と関連しているように思える。いずれにせよ、それぞれの原注については、それぞれの該当パラグラフで詳しく検討しよう。ここではとにかく銀行が現金で貸し付ける場合でも信用で取引しているのだというマルクスの指摘に限定して検討してみよう。というのは、最初に〈銀行業者が与える信用〉とは何かについて、私は、それは〈銀行が自身の信用だけにもとづいて何らかの形態で貸し付けることなのである。つまりその場合は銀行の手元には貸付可能な貨幣があるわけではない、にも関わらず銀行は何の元手もなしに、ただ自身の信用だけによってさまざまな貸付可能な形態を創造して、貸付を行うということなのである。だからそれは文字通り銀行の信用を与える(貸し付ける)ということなのである〉と説明したからである。だから現金で前貸しする場合も信用で貸し付けているのだという今回のマルクスの説明と、こうした以前の私の説明とはどのように整合するかをきちんと説明しておく必要があると考えるからである。
   これを考えるためには、【14】パラグラフの本文に立ち戻る必要がある。ここでは銀行が自由に処分できる貸付可能な資本が二つの仕方で銀行に流れ込むとして、一つは貨幣取扱業として生産的資本家たちの準備ファンドを集中することが述べられていた。もう一つは貨幣資本家たちの貨幣を預金として預かり、借り手と貸し手の媒介者としての機能を果すことである(これに関連して少額の遊休貨幣を集中させることや収入のための貨幣を一時的に預金として集中することも指摘されていた)。ここでマルクスが銀行が現金で貸し付ける場合でさえも、彼は信用を取り扱っているのだ、と述べているのは、最初の貨幣取扱業務としての側面のことを指している。そこでは生産的資本家たちの準備ファンドが銀行に集中されることによって、それらがバラバラに存在していたときよりも社会的には最低限に縮小されることが指摘されていた。つまり銀行はその最低限の準備ファンドを手元に準備するだけで、それ以外の集中された準備ファンド、すなわち貨幣を、利子生み資本として貸し出すことが可能になるのであるが、この貸し出される利子生み資本としての現金は、しかし実際には生産的資本家が銀行に預けたものであり、生産的資本家たちのものである。しかもそれは本来は準備として必要なときにはいつでも支払いに使われる必要があるものでもある。しかし集中された準備ファンドのすべてを銀行はつねに準備として保持している必要はない。それは必要最低限のものだけを保持していれば、さまざまな支払い要求に応じることが可能となるのである。だから銀行はその他人の貨幣の一部をあたかも自分のものであるかのように、利子生み資本として貸し出すことができるのである。銀行がそれができるのは、生産的資本家たちの準備ファンドを集中させたからであり、また銀行の信用によってである。なぜなら、生産的資本家たちが、自分たちの準備ファンドが、そのまま銀行に保管されずに、必要最低限に減らされていても、何の不安も不満も生じないのは、銀行に対する信頼からであり、少なくとも必要最低限の準備は銀行にあるという安心からである。だからマルクスはこうした場合には、銀行は現金で貸し付ける場合も信用にもとづいて取引しているのだと述べているのである。
 それに対してもう一つの流入の仕方である貨幣資本家たちからの預金については、銀行の媒介者的な機能としては、銀行はただ預かった貨幣を、右から左へと貸し出すだけで、ここには銀行によって与えられる信用そのものは何もないのである。同じ現金による貸付でもこうした違いがあるわけである。

  ところでこの問題でも大谷氏は次のように説明している。

  〈そこでマルクスは,銀行券がしろうとにとくに目につく第2の原因として挙げた,銀行券では銀行による信用の取り扱いが人びとの目に映る,という事情の指摘に続いて,「しかし,銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである」,と述べる。ここで「そのほかのあらゆる形態での信用」というのは,「銀行業者手形,銀行信用,小切手,等々」とされていたものにあたるであろうが,ここではそれにさらにつけ加えて,「預金された貨幣を現金で前貸する場合」でさえも信用での取引なのだ,とするのである。ここで「信用での取引」という場合の「信用」が銀行の与える信用の意味でないことはもはやいうまでもないであろう。「預金された貨幣を現金で前貸する場合」でさえも,受ける信用をもって前貸するのだ,というのである。〉 (120頁)

  ここらあたりの大谷氏の説明はまったく納得がいかない。何度もいうが、大谷氏はマルクスが〈銀行業者が与える信用〉と述べているのに、相も変わらず〈ここで「信用での取引」という場合の「信用」が銀行の与える信用の意味でないことはもはやいうまでもないであろう。「預金された貨幣を現金で前貸する場合」でさえも,受ける信用をもって前貸するのだ,というのである〉などと述べている。しかしこれについてはもう何度も批判したので、ここではもうこれ以上付き合う必要はないであろう。
  もう一度言うが、マルクスが〈銀行業者はそのほかのあらゆる形態での信用でも取引するのであって,彼が自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえもそうである〉という場合、その預金された貨幣は、預金者がいつでも引き出せるものであり、本来預金者のものである。しかし銀行はそれを第三者に貸し出すのだから、銀行は預金者の貨幣を預金者に断りもなく貸し出すことになる。これが出来るのは、預金者が一人だけではなく、銀行には多くの準備ファンドが預金として集中されているからであり、銀行には最低限の一定額の預金額が常に準備金としてあるからである。ある預金者が引き出したら、別の預金者が預金をするというように常に預金額は増減しているが、しかし常に一定額の預金額が銀行の準備として存在することになる。だから銀行はAという預金者の貨幣を第三者に貸し出しても、そのあとすぐにBという預金者の預金を、今度は預金を引き出しに来たAに支払うことができる。だから銀行は預金総額のうち準備金として手元に置く以外の預金は、すべてそのまま貸し付けるのである。この貸し付けは、銀行の信用にもとづいている。だからこそマルクスは銀行が〈自分に預金された貨幣を現金で前貸する場合でさえも〉〈信用で取引する〉と述べているのである。預金は銀行にとっては債務であり、銀行が受ける信用である。だからこの場合も大谷氏がいうように銀行は受ける信用で、信用を与えていることになるかも知れないが、そんなことを指摘しても何の意味もないのである。

 最後に、マルクスは銀行券は信用そのものを扱うという点で、素人目には重要なものにみえるが、しかし実際には銀行券は卸売業の鋳貨をなしているだけだと述べて、銀行で主要なものとなるのは預金であると述べている。これには〈たとえば,スコットランドの諸銀行を見よ〉と書いて、原注「2)」が付いている。これについても該当するパラグラフで詳しく検討するが、要するに商業流通内では預金の振替決済が主要なものとなり、だから銀行券は、そうした振替決済で最終的に帳尻が合わないときに、その帳尻を合わすために使われるものでしかなく、だから一般流通でお釣りに使われる小銭と同じような役割を果すだけなのだと言うのである。

 以上でこのパラグラフの解読を終える。この部分は本文はそれほど長い文章ではなかったのに、その解読にはかなりの分量を要したが、何とかこれで一応は終わったことになる。】

   (続く)

 

 

2020年7月 1日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-8)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【16】

 /317上/(7)【MEGA II/4,2,S.472.16-23】貸付は92)(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),手形割引--手形をその満期前に貨幣に転換すること--によって,また,93)さまざまの形態での前貸,すなわち,スコットランドの諸銀行でのような①g)b)対人信用での直接前貸,各種の利子生み証券,国債証券,株式を担保とする前貸,ことにまた積荷証券,倉荷証券,および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸によって,預金を越える当座貸越し,等々によって,行なわれる。h)|

  ① 〔異文〕「g)b)」← 「g)」

  92)〔E〕このパーレンでくくられた文は,原文では,Das Verleihn geschieht(…)……のように,「行なわれる〔geschieht〕」のあとにはいっている。エンゲルス版ではこの文はgeschiehtの前に移されている。
  93)「さまざまの形態での前貸」--原文では,Vorschüsse,die in verschiednen Formen,となっている部分を,Vorschüsse in verschiednen Formenと読んで訳した。〉 (174頁)

  〈すでに最初にも指摘しましたように、私たちは信用制度を商業信用との関連だけで取り扱います。だから銀行からの貸付は主要には手形の割引によってなされます。これは手形をその満期前に貨幣に転換することです。あるいはそれ以外のさまざまな前貸しでも行われます。例えばスコットランドの諸銀行でのように対人信用での直接前貸、各種の利子生み証券、国債証券、株式を担保とする前貸、ことにまた積荷証券、倉庫証券、および商品所有証書であるその他の証券を担保とする前貸、あるいは預金を越える当座貸越し、等々によって、行われます。〉

 【ここでは銀行による貸付の諸形態が問題になっている。しかしその諸形態の構成をみると、マルクスはまず(1)手形割引と(2)さまざまな前貸しの二つにわけ、そして後者について①スコットランド諸銀行のような対人信用による直接前貸、②各種の利子生み証券、国債証券、株式を担保とする前貸し、③積荷証券、倉庫証券、および商品所有証券であるその他の証券を担保とする前貸し、を挙げ、そして最後に(3)預金を越える当座貸越が挙げられている。だからマルクスは貸付の諸形態としては大きくは三つに分類しているのである。いまそれを図示すると次のようになる。

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  またマルクスは冒頭の〈貸付は〉に(   )に入れて〈ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う〉と断っている。これは明らかに冒頭のパラグラフでマルクスが次のように述べていたことに対応している。

  〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。

  すでに冒頭のパラグラフの解読のなかでも明らかにしたが、マルクスがここで〈商業信用〉と述べているのは、大谷氏が無理に拡大解釈したような公信用と区別された私的信用一般といったようなものではなく、貨幣の支払手段の機能から自然発生的に生まれる債権・債務の関係が資本主義的生産様式のもとで発展し、拡大して、仕上げられたものとしての、生産者や商人たちが互いに与え合う信用という意味での商業信用なのである。ただマルクスは信用制度や信用諸用具の分析は計画の範囲外であるが、資本主義的生産様式一般の特徴付けに必要なわずかの点をはっきりさせるために、それらをこれから取り扱うが、しかしその際、われわれは商業信用だけを、つまり商業信用と銀行との関連・絡み合いだけを取り上げるのだと述べているのである。
  だから今回も銀行の貸付も商業信用との関連でそれを問題にするのであって、国家への貸付や個人消費のための貸付等は問題にしないと述べているわけである。そして商業信用との関連で銀行の貸付でもっとも重要なものは手形割引なのである。そしてそれ以外の貸付として、さまざまな証券類を担保とした貸付、そして最後に預金を越える当座貸越が挙げられているわけである。】


【17】

 〈/318下/(3)【MEGA II/4.2,S.472.32】〔原注〕g)b)スコットランドの諸銀行の,銀行券notesでの前貸。〔原注g)b)終わり〕〉 (174頁)

 【これは〈スコットランドの諸銀行でのような〉という本文に付けられた原注である。しかしこれだけではなかなかマルクスの意図は分かりにくい。幸い大谷氏がこの本文と原注との関連について解説してくれているので、それを参考のために紹介しておこう。次ぎように述べている。

  〈草稿では,「対人信用での直接前貸」という句には,「スコットランドの諸銀行でのような」という句がついているほか,この「スコットランドの諸銀行でのような」というところに,注「g)b)〕」として,「スコットランドの諸銀行の,銀行券での前貸」という注がついている。これによって,マルクスが「対人信用での直接前貸」という言葉で考えていたものがスコットランドの諸銀行でのcash account(現金勘定?--引用者)のような前貸形態であったことがわかる。ギルバトも彼の書で引用しているが,A.スミスによる説明を引用しておこう。
  「たいていの銀行や銀行業者が自分の約束手形を発行するのは,主として為替手形を割引くことによって,言い換えれば,為替手形が満期になる前に貨幣を前貸することによってである。……スコットランドの商業は現在でもたいしたものとはいえないが,最初の二つの銀行業会社が設立された当時にはもっと微々たるものだったし,またもしこれらの会社の業務が為替手形の割引だけに限定されていたなら,その取引はごくわずかなものでしかなかったであろう。そこでこれらの会社は,自分の約束手形を発行する別の方法を発明したのであって,彼らのいわゆるcash accountを許与する方法というのがそれである。つまりこれは,どのような個人でも,確実な信用と十分な土地資産とをもつ二人の保証人を立て,信用が与えられた一定金額の限度内ならどのような金額が前貸されようとも,要求ありしだい必ず法定利子とともにそれを返済するということを保証してもらえるなら,これらの会社は,この個人にたいして右の一定金額(たとえば2千または3千ポンド・スターリング)の限度内で信用を与える,という方法である。わたしが信じるところでは,この種の信用は,世界のありとあらゆる地方の銀行や銀行業者によってふつう許与されている。しかしながら,スコットランドの銀行業会社が容認する簡易な償還条件は,わたしが知るかぎりでは,これらの会社に特有なものであって,おそらくそれは,これらの会社の取引高が大きいことと,この国がこういう取引から利益をえたこととの双方の主要原因だったのであろう。」(A.Smith,Weath of Nations,edited by Cannan,6 th edition,London,1950,pp,281-282.大内・松川訳,岩波書店,1969年,Ⅰ,477-428ページ。)〉 (新本第2巻111-112頁)

  マルクスの原注は〈スコットランドの諸銀行の,銀行券notesでの前貸〉とある。だからスミスが〈そこでこれらの会社は,自分の約束手形を発行する別の方法を発明したのであって,彼らのいわゆるcash accountを許与する方法というのがそれである〉と書いているのは、銀行手形を発行する別の方法として銀行券を貸与するということのようである。ここでも銀行券による前貸しを現金による前貸しと捉えていることは注目に値する。
  また〈対人信用での直接前貸〉というのは、スミスの〈どのような個人でも,確実な信用と十分な土地資産とをもつ二人の保証人を立て,信用が与えられた一定金額の限度内ならどのような金額が前貸されようとも,要求ありしだい必ず法定利子とともにそれを返済するということを保証してもらえるなら〉ということに対応するようである。だからこの場合の貸付には担保はないが、連帯保証人を付けて対人信用によって貸し付けることのようである。
  大谷氏はスミスの説明を紹介するときに一部分省略しているが(……の部分)、その部分も手形割引の説明として興味深いし、スミスが〈自分の約束手形を発行する〉と述べているのが銀行券の発行であることがわかるので、次にその省略された部分だけを紹介しておこう(上記の引用文のなかの……の部分に挿入して読んでいただきたい)。

  〈かれらは、そのまえ貸しする金額がおよそどのようなものであろうとも、つねにその金額に対して、為替手形が満期になるまでの合法利子をさしひくのである。満期になって手形の支払がおこなわれると、まえ貸しされたものの価値は、利子という純利潤とともに銀行に回収される。銀行家が商人の手形を割引いてまえ貸しをするばあい、それを金・銀貨でしないで自分の約束手形ですれば、かれは、その経験上ふつう流通しているとみとめる自分の約束手形の全価値だけ、それだけ多く割引くことができるという利益をもっている。つまりかれは、こうすることによって、これだけ多くの金額にたいする利子という純利潤をあげることができるのである。〉(岩波文庫(2)273-274頁)】


【18】

 /318下/(4)【MEGA II/4.2なし】〔原注〕h)(98)319ページ,「注hにad.Note h〕」を見よ。)〔原注h)終わり〕/

  98)「319ページ」は草稿のページである。この指示に従って,319ページ上半部の雑録部分に書かれている「注hに。318ページ。」をこのあとに移しておく。〉 (174頁)

 【これは本文の最後に付けられた原注である。しかしそれは319ページにある〈「注hにを見よ〉とあるだけである。そしてその原注はすぐ次のパラグラフになっている。
  この本文と原注との関連についても大谷氏の説明を紹介しておこう。

  〈本文パラグラフの末尾には注番号「h)」があり,それに対応する注は,ただ「(319ページ,「注hに」を見よ)」となっている。そしてその319ページの雑録の部分のなかに,「注hに。318ページ。」として,「手形と積荷証券担保の貸付とによる,東インド貿易でのいかさまについて」という表題をもつ注が書かれている。〉 (新本第2巻112頁)

  こうした大谷氏の説明は、次の【19】パラグラフのMEGAの異文のなかに詳しいので、そこでまた検討することにしよう。 】


【19】

 /319上/(6)【MEGA II/4.2,S.472.33-46 und 473.4-18】〔原注〕注hにad Note h〕。318ページ。99)手形と積荷証券担保の貸付とによる,東インド貿易でのいかさまSchwindelについて。ここでは,売買が行なわれたから手形等々が振り出されたのではなくて,なにか割引に付すことができるもの,すなわち貨幣に換えることができるものを入手するために売買が行なわれた。つまり,こういうわけである。--

  ①〔異文〕当初原注「h)」に予定されていた場所が原注「i)」によって占められてしまったので,マルクスはここにはただ,「h)(319ページ,注hにad Note h〕,を見よ。)」という指示だけを書いた。それから彼は319ページにこの原注を書き,それに「注hに〔ad Note h〕。318ページ。」という指示をつけた。この原注は,「注1。318ページ」への追記(〔MEGA II/4 .2の〕475ページ24-42行〔本書本巻では,185ページ14行-186ページ8行,192ページ21-27行,および,193ページ1行-9行にあたるが,この点については後出の脚注143を参照されたい〕を見よ)に続いている。原注「h)」のあとに本来のテキストが続けられている(〔MEGA II/4.2の〕476ページ20行を見よ)。草稿では,赤鉛筆の縦線で消されている。〔エンゲルスによる「処理済み」のしるしであろう。〕

  99)〔E〕この原注は,エンゲルス版では「II.」という表題番号のもとにまとめられているが,『マンチェスター・ガーディアン』からの引用の前の部分は次のようになっている。
  「東インド取引では,もはや,商品が買われたから手形が振り出されたのではなくて,割引に付することができる,貨幣に換えることができる手形を振り出せるようにするために商品が買われたのであるが,この取引におけるいかさまについては,1847年11月24日の『マンチェスター・ガーデイアン』は次のように述べている。」〉 (174-175頁)

 〈手形と積荷証券担保の貸付とによる、東インド貿易でのいかさまについて。ここでは売買が行われたから手形等々が振り出されたのではなくて、何か割引に付すことができるもの、つまり貨幣に換えることができるものを入手するために売買が行われたのです。つまり、こういうわけです。--〉

 【ここではまずMEGAの①〔異文〕の内容に関連して、大谷氏が次のように述べていることを指摘しておこう。

  〈MEGAでは,以下のうちの,318上(4),318上(5),318上(6),319上(4),319上(5) の五つを,上記テキストへの原注の一部として,原注のなかに組み込んでいるが,筆者は,それらは注記ではなく,雑録の最初でなされているギルバトからの抜粋の一部と見ており,ここに収めている。〉 (新本第2巻188頁)

  つまりMEGAの異文では「注hに」という原注は〈「注1。318ページ」への追記(475ページ24-42行を見よ)に続いている〉としているが、大谷氏はそうではなく、MEGAが続いているとしている部分は、マルクスが雑録として書いているものだと判断したということである。だから本書もそうした編集になっている。われわれも一応、大谷氏の編集にもとづいて解読を進めることにしよう。

  さて、これは次のパラグラフで紹介されている引用文についての、一つは表題であり、そのあとは前文といえる(MEGAの注解等のつけ方をみると、われわれの【19】と【20】は一つのパラグラフとされているようであるが、しかしわれわれはそれを二つのパラグラフとして扱う)。
   つまり下線の付いている〈手形と積荷証券担保の貸付とによる,東インド貿易でのいかさまについて〉という部分がこの引用文につけられた表題なのであり、マルクスがこの引用文の何に注目して引用したかが分かる。そしてその次に書かれているのが、引用文の内容の概要ともいえる。売買が行われたから手形が振り出されたのではなく、割り引いて貨幣に換えることができるものを入手するために売買が行われ手形が振り出されたというわけである。つまり事実上の空手形である。しかしそれでも満期日までにそれを割り引いて貨幣に換えて、何らかの迫られている支払いに応じようとしたのか、あるいは単に貨幣を詐取しようとしたというわけである。だからこそこうした取引は「いかさま」と言われるわけである。】


【20】

 〈②(ⅰ)東インド貿易は巨大な信用のシステム〔system of credit〕であった。/(ⅱ)ロンドンのある商会がマンチェスターで商品を買えば,これらの商品は6か月払いの手形で支払われた。そして船積みされるとすぐに,さらにまた,荷受人(商品の受取人,委託販売人)が仕入原価の大部分について,6か月払いの手形で前貸を受けたが,商品が発送されると,さらにまた,今度は彼が船荷証券を引き当てに,インドの商会あてに手形を振り出すことが稀ではなかった。100)こうして,荷主も荷受人もともに,彼らが実際に商品の代価を支払う何か月も前から資金を手に入れていたのである。そしてこれらの手形が満期になると,「長期取引」での回収のためには時間を与える必要があるという口実のもとに書き換えが行なわれるのはごく普通のことであった。 /(ⅲ)そのうえ,このような取引での損失は,取引を縮小することにはならないで,ただちにそれを増大させることになった。人びとが困ってくればくるほど,彼らには,前の投機で失った資本を新たな前貸を受けて埋め合わせるために,買い入れる必要がますます大きくなったのである。そこで[473]購買は,需要供給の問題ではなくなって,窮地におちいって苦しんでいる商社の金融操作finance operations〕のうちの最も重要な部分となった。/(ⅳ)しかし,これは状況の一面でしかない。本国では商品の輸出に関連して起こったことが,海外では産品の購買と船積みで起こりつつあったのである。手形を割引してもらえるだけの信用のあったインドの商社は砂糖やインディゴや絹や綿花の買い手であったが,それは,最近の陸上郵便がロンドンから伝えてくる価格がインドでのいまの価格につけ加わる利潤を約束したからではなくて,ロンドンの商社あての以前の為替手形がまもなく満期になり,その準備がなされなければならなかったからである。船積みされた砂糖を買い,その代価をロンドンの商社あての10か月払いの手形で支払い,船積書類を陸上郵便でロンドンに発送する,これほど簡単な方法があるだろうか。それから2か月も経たないうちに,外洋上にある,あるいはもしかするとフーグリ川〔ガンジス川の支流で,ベンガル湾の南160マイルに河口がある〕の河口さえまだ通過していないかもしれない商品が,ロンバード・ストリートで担保に入れられたのであって,ロンドンの商社は,この商品を引き当てに振り出された手形が満期になる8か月も前に資金を手に入れたのである。/(ⅴ)そして,ビル・ブローカーがすぐ入手できる「マネー」を豊富にもっていて,船荷証券や倉荷証券を担保にして前貸することができ,また,⑥ミンシング・レインの著名な商社にあてて振り出されたインド商社の手形をいくらでも割り引くことができたあいだは,こうしたことのすべてが,中断も困難もなしに進行したのである。」(⑦⑧101)1847年11月24日のマンチェスター・ガーディアン』。)〔原注「注hに」終わり〕/

  ②〔注解〕「インドとの貿易。マンチェスター[からの通信]。」1847年11月24日,水曜日,4ページ,6欄。トマス・トゥク『物価史……』,ロンドン,1848年,326-327ページ,によって引用。--パーレンでくくられた挿入はマルクスによるもの。--この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートIIから取られている。(MEGA IV/7,S.93.12-94.12.)
  ③〔注解〕「東インド貿易」--トゥクの原文では,「インド貿易」と書かれている。
  ④〔注解〕「そこで〔so〕」--トゥクの原文では「だから〔thus〕」と書かれている。〔MEGA II/4.2では「so」が「50」と誤植されている。〕
  ⑤〔注解〕「ロンバード・ストリート」--ロンドンのロンバード・ストリートは,中世にロンバルディアの貨幣取扱業者がここで開業したところからこの名がついた。ロンバード・ストリートはイギリスの銀行資本の本拠地となり,またロンドンの世界貨幣取扱業の同義語になった。
  ⑥〔注解〕「ミンシング・レイン」--ロンドンの通りで,植民地からの商品を扱う卸売業の中心地。
  ⑦〔訂正〕「1847年」--草稿では,「1848年」と書かれている。
  ⑧〔注解〕「1847年」--トゥクの原文(326ページ)では年は書かれていない。マルクスは「ロンドン・ノート1850-1853年」で誤って「1848年」と補足し,そこからこの年の記載を受け継いだのであった(訂正注⑦を見よ)。この誤りは,MEGA IV/7では見落とされて,訂正されていない。

  100)〔E〕引用のここまでのところは,エンゲルスによって次のように要約されている。
  「ロンドンにいるAがBに依頼して,マンチェスターにいる製造業者Cから,東インドのDにあてて船積みするための商品を買ってもらう。Bは,CからBあてに振り出した6か月払いの手形でCに支払う。Bは,Aあてのやはり6か月払いの手形で支払いを受ける。商品が船積みされれば,Aは送られてきた船荷証券を担保に,Dあてのやはり6か月払いの手形を振り出す。」
  101)〔E〕「1847年」--草稿では「1848年」と誤記されている。1894年版でも「1848年」となっていた。〉 (175-177頁)

 【これは引用文だけなので平易な解読は省略する。
  この引用文は当時のイギリスとインドとの貿易が巨大な信用システムとして存在していたことを紹介しているのであるが、なかなか当時の商業の実際を知らないと分かりにくいものになっている。今、われわれはこの引用文の内容を検討するために、その長文を内容によって五つに分けて検討しよう。(引用文のなかに「……/(ⅱ)……」のように、/で区切って番号を挿入した)。

  (ⅰ) は〈東インド貿易は巨大な信用のシステム〔system of credit〕であった〉というもので、これは全体のテーマといえる。これからその内容が紹介されていくわけである。

  (ⅱ) まずここには何人かの人物(法人)が登場する。「ロンドンにある商会」、「荷受人(商品の受取人、委託販売人)、「インドの商会」である。ややこしいが、恐らく「ロンドンにある商会」とはすなわち「荷主」のことであり、「荷受人」あるいは「委託販売人」というのは「ロンドンの商会」と「インドの商会」との間に立って、商品の販売を仲介する業者のことであろうか。「ロンドンの商会」も「インドの商会」もいずれも商業資本であるように思える。そして取引は次のように始まる。
    ①まずロンドンの商会がマンチェスターで商品を購入するが、彼はその代金を6カ月払いの手形で支払う。この場合、その商品は何かは書かれていないし、ロンドンの商会にその商品を販売した人、すなわち商品の代金を6カ月払いの手形で受け取った人も書かれていない。もし商品が綿製品なら綿製品の製造業者が手形を受け取ることになる。この手形は債務者が債権者に振り出すもので、約束手形である。
    ②次に「ロンドンの商会」は、「荷受人、あるいは委託販売人」に、その商品の販売を委託するのである。だから船積みするのは、恐らくその委託販売人であろう。委託販売人はロンドンの商会に対して、仕入れ原価の大部分を6カ月払いの手形で前貸しを受けたことになっている。ということはロンドンの商会は商品の買い付けで自身の6カ月払いの約束手形を発行し、その商品の販売を荷受人に依頼し、事実上、その商品を荷受人に転売したわけである。そしてロンドンの商会はその商品の代金として荷受人が発行したやはり6カ月払いの手形で受け取ったことになる。ロンドンの商会は、受け取った手形を銀行にもちこみ現金に換える。次に荷受人(委託販売人)は、引き受けた商品を輸出するために船積みする。そしてその船積証券をインドの商会に郵送し、インドの商会に引き当てて為替手形(支払指図証券)を切ることになる。彼はそれを銀行にもちこんで割り引いて貰い、現金に換える。こういうわけで〈荷主も荷受人もともに,彼らが実際に商品の代価を支払う何か月も前から資金を手に入れていたのである。

  ここまでの取引については、大谷氏の訳者注100)はエンゲルスがそれをどのように要約しているかを紹介している。一応、それも検討するために改めて紹介しておこう。

  〈100)〔E〕引用のここまでのところは,エンゲルスによって次のように要約されている。
  「ロンドンにいるAがBに依頼して,マンチェスターにいる製造業者Cから,東インドのDにあてて船積みするための商品を買ってもらう。Bは,CからBあてに振り出した6か月払いの手形でCに支払う。Bは,Aあてのやはり6か月払いの手形で支払いを受ける。商品が船積みされれば,Aは送られてきた船荷証券を担保に,Dあてのやはり6か月払いの手形を振り出す。」〉 (新本第2巻175頁)

  エンゲルスはこの原注を「II」という項目のもとに紹介している(全集第25a巻516頁)が『マンチェスター・ガーディアン』の記事の前半部分(こうして,荷主も荷受人もともに,……〉云々より前の部分)をカットして、その代わりにこの一文を入れているのである。しかしこのエンゲルスの一文にはおかしなところがある。〈Bは,CからBあてに振り出した6か月払いの手形でCに支払う〉とあるが、これではCが振り出した手形をCに支払うということになってしまい、何のことかさっぱりわからない。もしエンゲルスの一文を意味の分かる文章にするなら、〈Bは,CからBあてに振り出した6か月払いの手形〉という部分は〈Bは,AからBあてに振り出した6か月払いの手形〉とするか、あるいは〈Bは,AがCあてに振り出した6か月払いの手形〉とすべきであろう。
 ここで「○○宛の手形を振り出す」という表現が見られるが、債権者が債務者に対して振り出す手形は為替手形であり、支払指図である。それに対して、債務者が債権者に対して振り出す手形は約束手形であり、支払約束なのである。そこらあたりが記事の一文でもエンゲルスの代替文でもわかりにくいものになっているのである。
    ③それらの手形が満期になった場合も、「長期取引」での回収の時間を考える必要があるという口実のもとに「書き換え」が行われるのが普通であった。つまり6カ月の支払い期限がさらに延長されるか、あるいは新たな手形に置き換えられるというのである。実際、例えば綿製品がイギリスからインドに輸出された場合、その輸送だけでも6か月以上の時間がかかったと考えられる。それが現実にインドで販売されて現金が回収されるまでにはもっと長い期間が必要であろう。だからこうした長期の手形はさらに書き換えによって延長される傾向があったのであろう。

  (ⅲ) しかもこうした取引は、損失が出ても、縮小することなく、むしろただちにそれを増大させるように作用することになる。人々が困ってくればくるほど、彼らは、前の投機で失ったものを取り戻すために、新たな前貸しを受けてその損失を埋め合わせるために、買い入れる必要がますます大きくなる。だからそこでは購買は、需給の問題ではなくなり、窮地に陥った商社の金融操作のうちのもっとも重要な部分となるのである。

  (ⅳ) からは、そしうした商品を販売する側だけの問題ではなく、今度はその商品を買いつけるインドの側の問題が取り上げられている。ここに登場するのは「インドの商社」である。彼も商業資本である。インドの商社はインドで砂糖やインディゴや絹や綿花を買う。彼はそれらの商況を見て買ったのではなく、ロンドンの商社あての以前の為替手形がまもなく満期になり、その支払いの準備が必要だったからである。ここで〈ロンドンの商社あての以前の為替手形〉というのは、ロンドンの商社が以前、インドの商社に対して切った為替手形であり、インドの商社への支払指図であろう。それの満期が近づいてきて、インドの商社がその準備として現金が必要になったので、その現金に換えることの可能な証券を入手するために彼は商品を購入したというのである。しかしそのあとの状況はなかなか分かりにくい。
  〈船積みされた砂糖を買い,その代価をロンドンの商社あての10か月払いの手形で支払い,船積書類を陸上郵便でロンドンに発送する〉とあるが、これが今一つよく分からない。〈船積みされた砂糖を買〉うのが、一体誰なのか、インドの商会なのかロンドンの商会なのか。インドの商会は砂糖を購入して、その代金をインドの砂糖製造業者に手形で支払い、その砂糖をロンドンの商会へ輸出するのだとしよう。その場合〈その代価をロンドンの商社あての10か月払いの手形で支払い〉というのは、ロンドンの商会あてに10カ月払いの為替手形(支払指図)をインドの商社が切り、船荷証券と一緒に陸上郵便でロンドンの商会に郵送する。ロンドンの商会は、受け取った為替手形で、以前のインドの商会あてに切った為替手形の満期が来たものの支払いとして相殺する。その上で、ロンドンの商会は砂糖がまだ海上にある段階で、その積荷証券を担保にして銀行から前貸しを受ける、ということであろうか。はっきりとはなかなか分かりにくいがそうすると辻褄があうような気がする。

 (ⅴ) そしてこうした信用による空売りを支えているのが、ビルブローカーの存在である。〈ミンシング・レインの著名な商社にあてて振り出されたインド商社の手形〉というのは、植民地の産物をイギリス本国に輸出したインドの商社がロンドンの商社に宛てて振り出した為替手形のことであろう。

  なおエンゲルス版では、このあとにエンゲルスによることを明記した次の一文が続いている。

  〈{このような詐欺的なやり方は、インドからくる商品もインドに行く商品も喜望峰を迂回しなければならなかったあいだは、盛んに行なわれていた。商品がスエズ運河を、しかも汽船で通るようになってからは、架空資本を製造するこのような方法は、商品の長い旅行期間というその基礎を奪われてしまった。そして、電信によってインドの市況がイギリスの事業家に、イギリスの市況がインドの商人に、その日のうちに知れるようになってからは、このような方法はまったく不可能になったのである。-- F .エンゲルス}〉 (全集第25巻a517頁)

  エンゲルスがここで〈架空資本を製造するこのような方法〉と書いているのは、マルクスがエンゲルス版の第25章から第35章に該当する部分全体の表題として「5) 信用。架空資本」と書いたものを、その最初の部分(第25章)だけの表題(「信用と架空資本」)として転用したものだから、実際には、その部分ではマルクスがまったく論じていない「架空資本」をあたかも論じているかのように整合性をつけねばならないということから、このように書いているのだと思うが(ここらあたりは大谷氏の説明を参照)、「架空資本」の概念から考えても、まったく適切とはいえないものである。

  最後に用語の問題であるが、〈ビル・ブローカー〉について、『世界大百科事典』の説明を紹介しておこう。

  〈ビル・ブローカー   bill broker  手形や短期国債の売買,もしくは売買の仲介を行う業者をいう。実際にはロンドンの手形割引商会すなわちディスカウント・ハウス(手形割引商社もしくは手形割引業者と訳されることもある)を指すことが多い。ブローカーという言葉は元来,たんなる売買仲介業者を指すが,歴史上の事情から,自己の責任で手形を買う割引商会をビル・ブローカーと呼ぶことになった。このほかにランニング・ブローカーと呼ばれるたんなる仲介業者を含む。19世紀の初めごろまでは,ブローカーは資金を必要とする工業地域の手形を集めて,余資のある農業地域の銀行に売却し,手数料を得ていた。19世紀の後半には支店銀行制の発展に伴って,この業務は不要化していったが,一部のブローカーはすでに銀行からコール・マネーを取り入れて手形を割り引く業務に転進していた(割引商会化)。内国手形は衰退していったので,おもな投資対象は内国手形と逆に増加しつつあったロンドンあて貿易手形であった。第1次大戦以後は貿易手形の使用も減少したが,他方でイギリス政府発行の大蔵省証券(TB)が急増したので,割引商会はこの証券をおもな投資対象とした。割引商会は市中銀行から(1971年以降は,1950年代後半から伝統市場とは別に急速に発展した新しい短期市場である第二市場金融機関からも)コール・マネーを取り入れ(貨幣市場),これをおもな原資として TB 等に投資し(割引市場),両者の利ざやを稼いでいる。割引商会はロンドン割引市場協会を結成しており,会員は1974年以降11社である。イングランド銀行は伝統的に市中銀行と直接には取引をせず,割引商会とだけ取引を行うので,同行と割引商会との間の TB 等の売買が正統的な金融政策の最も重要な経路となっており,このために割引商会は従来から,その資力には似つかわしくないほどの注目を浴びてきたのである。 (一ノ瀬 篤)〉】

  (続く)

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