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2020年6月

2020年6月24日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-7)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【12】

 〈[471]/317上/(4)【MEGA II/4.2,S.471.5-7】信用制度の他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついている。貨幣取扱業の発展は,もちろん,資本主義的生産様式一般のなかで進む商品取扱業の発展と歩調をそろえて進んでいく。/〉 (168頁)

 〈信用制度の一方の側面は、すでに述べましたように、商業信用の発展を基礎としていましたが、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついています。貨幣取扱業の発展は、もちろん、資本主義的生産様式一般のなかで進む商品取扱業の発展と歩調をそろえて進んでいくのです。〉

 【このパラグラフは本文であり、だからわれわれのパラグラフ番号では【3】に直接続くものである。だから平易な解読ではそれが分かるように書いておいた。【3】パラグラフというのは商業信用が信用システムの自然発生的な基礎だとし、生産者や商人のあいだの相互的な前貸しが、信用制度の本来的基礎をなしているというものであった。これに対して、今回のパラグラフでは信用制度のもう一つの側面を指摘するものである。貨幣取扱資本については、『資本論』第3部第4篇第19章「商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化 (商人資本)」で展開されている。この部分の草稿の詳細な解読はすでに行った(『資本論』第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読を参照)。ここではマルクスは貨幣取扱業の発展は、資本主義的生産様式一般のなかで進む商品取扱業(商業資本)の発展と歩調をそろえて進んでいくと指摘しているだけであり、とりあえず、われわれもそれを確認して前に進むことにしよう。このパラグラフ以降は信用制度の他方の側面の分析が続く。】

【13】

 /317上/(5)【MEGAII/4.2,S.471.8-26】すでに49)前章で見たように,51)商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払い(したがってまた地金取り扱い)は,貨幣取扱業者の手に集中される。53)貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいはmonied Capitalの管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らはmonied Capitalの現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者としてはいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。59)彼らはmonied Capitalの一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。60)(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面ではmonied Capitalの,貸し手の63)集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。/

  ①〔異文〕「媒介者として」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「集中Concentration〕に」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「銀行業者」(単数)→ 「銀行業者たち」(複数)
  ④〔異文〕「彼らはすべての借り手にたいして……登場する」という書きかけが消されている。

  49)〔E〕「前章」(これは,「第4章。商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化」をさす)→ 「前篇(第19章)」
  51)〔E〕「商人等々」以下「(したがってまた地金取り扱い)」までの原文は次のとおりである。d.Aufbewahrung d.Reservefonds d.Kaufleute etc,d.technischen Operationen d.Geldauszahlens u.Einnehmens,d.internationalen Zahlungen(u.damit d.Bullionhande1)このなかでイタリックにしたd.をMEGA版もエンゲルスもderと読んでいる(イタリックを技術的に表示できないので、太字にした)。この場合には訳文は次のようになる。「商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りおよび国際的支払いの技術的諸操作(したがってまた地金取り扱い)」。しかし,このd.はdieと読むほうがよいように思われる。もちろん「技術的諸操作」を「国際的支払い」にかかわらせること自体にはなんの問題もないが,ここでは,「(したがってまた地金取り扱い)」の部分は「国際的支払い」にのみかかわっているように感じられるからである。
  52)〔E〕「貨幣の払い出しや受け取り〔Geldauszahlen u.Einehmen〕」→ 「貨幣の受け払い〔Geldeinnehmen und Auszahlen)」
  53)〔E〕この一文の原文は次のとおりである。Auf dieser Basis d.Geldhandels entwickelt sich,schließt sich an,d.andre Seited.Creditwesens-d.Verwaltung d.Zinstragenden Capitals od.des monied Capital als besondre Function d.Geldhändler.エンゲルス版では次のようになっている。「この貨幣取扱業と結びついて,信用制度の他方の側面,すなわち利子生み資本あるいは貨幣資本の管理が,貨幣取扱業者の特殊的機能として発展する。〔Im Anschluß an diesen Geldhandel entwickelt sich die andre Seite des Kreditwesens,die Verwaltung des zinstragenden Kapitals oder des Geldkapitals,als besondre Funktion der Geldhandler.〕」
  59)〔E〕この一文の原文は次のとおりである。Sie concentriren das monied Capital in ihren Handen als d.allgemeinen Verwalter desselben.エンゲルス版では次のように変えられている。「彼らは貨幣資本の一般的な管理者になる。〔Sie werden die allgemeinen Verwalter des Geldkapitals.)」
  60)〔E〕エンゲルス版では,この一文は前後のパーレンを除いたうえで,次の文のあとに,つまりこのパラグラフの最後に置かれた。
  62)「彼ら」--前注の「彼ら」(「彼らの利潤は」の「彼ら」のこと--引用者)はihrであり,この「彼ら」はsieであるが,「貸す〔ausleihen〕」および「借りる〔borgen〕」がどちらも複数形であって,このihrもsieも複数であることがわかる。エンゲルス版では,この二つの動詞が単数に変えられている(ausleihtおよびborgt)。それは前出の脚注59に記した文の置き換えによるものであり,この変更によってihrもsieも「銀行」(単数)をさすものとなった。
  63)この「集中」の原語はCentralisationである。第5章のなかでCentralisationという語を使っている数少ないケースの一つである。このパラグラフでも,これ以前のところに見られる「集中する」はすべてconcentrirenであるように,この第5章では「集中」,「集中する」にあたる語としては,ほとんどConcentration,concentrirenを用いている。この2語,ConcentrationとCentralisationとを明確に区別して用いるようになるのは,『資本論』第1部のフランス語版からであろう。
  この第5章のなかではほかに次のところで使われている。
  「集中〔centralization〕について語るべし! えせ国立銀行とそれを取り巻く大きな貨幣貸付業者や高利貸とを中心とする信用システムは一つの巨大な集中〔Centralisation〕であって,それはこの寄生階級に,たんに産業資本家を周期的に間伐するだけではなく干渉もする法外な力を与える。」(MEGA II/4.2,S.577;本書第4巻89-90ページ。)
  「資本主義的生産様式のそのほかの諸条件が存在するところで,またそれが存在するときに,はじめて,高利は,新たな生産様式の形成手段の一つとして,封建領主や小生産の没落--資本としての労働諸条件の集中〔Centralisation〕の手段〔--として〕現われるのである。」(MEGA II/4.2,S.650:本書第4巻458ページ。)
  「銀行システムは,形態的な組織化および集中〔Centralisation〕から見て,およそ資本主義的生産様式がつくりだす最も人工的な最も発達した産物である。それだからこそ,イングランド銀行のような機関が商業や産業にたいして巨大な力を揮うのである。」(MEGA II/4.2,S,661;本書第4巻494ページ。)〉 (169-171頁)

 〈すでに前章(前篇、つまり第4篇「商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商人資本)」をさす)で見ましたように、商人等々の準備ファンドの保管、あるいは貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作、あるいはまた国際的な支払い(したがってまた地金の取り扱い)は、貨幣取扱業者の手に集中されます。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し、それに結びついています。--すなわち、貨幣取扱業者の特殊的機能としての、利子生み資本あるいはmoneyed capitalの管理です。貨幣の貸借が彼らの特殊業務となります。彼らはmoneyed capitalの現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者として入ってくるのです。一般的に表現すると、銀行業者の業務は、一方では、貸付可能な貨幣資本を自分の手に大規模に集中することにあり、したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家たちに相対するようになります。彼らはmoneyed capitalの一般的な管理者としてそれを自分の手に集中するのです。他方では、彼らは商業世界全体のために借りるということによって、すべての貸し手に対して借り手を集中します。(彼らの利潤は、一般的にいえば、彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにあります。)銀行は、一面ではmoneyed capitalの、貸し手の集中を表し、他面では借り手の集中を表しているのです。〉

  【支払い手段としての貨幣の機能から自然発生的に生まれる債権・債務の関係の発展、すなわち生産者や商人の間での相互的な前貸しが、信用制度の本来の基礎であった(【3】パラグラフ)。これは信用制度の一方の側面であり、銀行が信用を取り扱う側面である。今回は信用制度の他方の側面として、利子生み資本あるいはmoneyed capitalの管理が問題になっている。この側面は、貨幣取扱業務を土台にして発展してくると指摘されている。利子生み資本あるいはmoneyed capitalの管理というその中身は、一つは貸付可能な貨幣資本を自分の手に大規模に集中することである。これは個々の貸し手に代わって銀行業者がすべの貨幣の貸し手を代表する者として現われ、それを貸し付ける再生産的資本家(産業資本家や商業資本家)たちに相対するということである。他方で、moneyed capitalの一般的な管理者として、それを自分の手に集中するということは、彼らは商業世界全体のために借りるということであり、すべての貸し手に対して、借り手を集中することになる。こうして銀行は、貸し手と借り手の間の仲介者として、一面ではmoneyed capitalの貸し手の集中を表し、他面ではその借り手の集中を表しているのである。

   ここで大谷氏の訳者注51)について、一言ふれておきたい。大谷氏は〈商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払い(したがってまた地金取り扱い)は,貨幣取扱業者の手に集中される〉という部分の原文を示し、〈d.〉のイタリック(ただしここでは太字)になっている部分を〈der〉と読むか〈die〉と読むかで意味が少し違ってくることを指摘し、〈die〉と読むべきだとしている。なぜなら〈「(したがってまた地金取り扱い)」の部分は「国際的支払い」にのみかかわっているように感じられるから〉だというのである。MEGA版もエンゲルスも〈der〉と読んでいるので、〈「商人等々の準備ファンドの保管,貨幣の払い出しや受け取りおよび国際的支払いの技術的諸操作(したがってまた地金取り扱い)」。〉となるというのであるが、これは大谷氏の読み方が正しいように思える。
   なぜなら、第19章の草稿の解読のなかでも明らかにしたが、マルクスは貨幣取扱資本の作業所内の分業が歴史的にはさまざまな業者によって担われてきたものが集約されて形成されたものだとしており、〈両替業〔Wechselgeschaft〕と地金取扱業とは,貨幣の二重の機能,すなわち国内鋳貨および世界貨幣としての機能から生じる,貨幣取扱業の最も本源的な形態〔なのである〕。〉(第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-4))と述べていたからである。私は第19章の全体の纏めのなかでそれらについて、〈貨幣には大きく分けて国内鋳貨と世界貨幣があり、さらには両貨幣に共通する蓄蔵貨幣があるが、こうした貨幣の規定性と機能から歴史的には両替業(国内鋳貨)と地金取扱業(世界貨幣)、そして出納代理業(蓄蔵貨幣)が生まれ発展して、それらが貨幣取扱資本の作業所内の分業を構成することになったというわけである。〉と説明した。だから〈「(したがってまた地金取り扱い)」の部分は「国際的支払い」にのみかかわっているように感じられる〉という大谷氏の判断はまったく正当なのである。その意味ではMEGAの編集者やエンゲルスはこの点での理解が曖昧であることを示すものであろう。

  さらにこの部分に関連して、大谷氏は新本第2巻第2篇「信用制度概説」の[補注2]「エンゲルスによる『信用制度』の『信用システム』への書き換え」において検討を加えているが、その部分で参考になる指摘を次に紹介しておこう。

  〈これまでのところで貨幣取扱業が信用制度の基礎であるというのは,たんに貨幣取扱業を基礎にして信用制度が形成されてくる,というだけではなくて,貨幣取扱業者そのものが--貨幣取扱業者でなくなるのではなくて--自らの特殊的業務として貨幣の貸借を行ない,自らの特殊的機能として利子生み資本の管理を行なうようになるのだということを含んでいることがわかる。このような貨幣取扱業者が,貨幣の貸借,利子生み資本の管理を自らの主要な業務,本来的機能とするようになったとき,彼は銀行業者になる。〉 (104頁、太字は大谷氏よる傍点による強調箇所)

  さらにわれわれのパラグラフでは【3】と【12】、【13】全体をまとめても次のように書いている。

  〈ここで,以上の三パラグラフについてまとめよう。ここでは,完成した信用制度の二つの側面,すなわち信用の取り扱いとmonied Capitalの管理との二つの側面を,それらのそれぞれの基礎,土台との関連で述べている。ここではたしかに,それらの基礎のうえで信用制度が形成されてくることが述べられてはいるが,信用制度の形成が主題となっているのではない。ここでの主題は,これまでの叙述ですでに得られた資本主義的生産についての理論的把握によって,したがってすでに獲得された諸概念によって,信用制度という新たな対象についての表象を整理し,とりあえず信用制度とはなにかということを明らかにすることである。この仕事の最初のものが,信用制度の二つの基本的な側面をその基礎との関連で明らかにすることとなっているのである。したがってここでの問題は,信用制度の形成ではなく,いわんや信用制度形成の必然性の問題--なぜ資本はこれらの基礎のうえに信用制度を形成しないではいられないのかという問題--でもないのである。〉 (107頁)

  とりあえず、ここでは大谷氏の示唆に富む言及を紹介するだけにして、次のパラグラフに移ろう。】

【14】

 /317上/(6)【MEGAII/4.2,S471.27-30und472.1-15】銀行が自由に処分できる貸付可能な資本は二様の仕方で銀行に流れ込む。一方では,生産的資本家たちの出納係として,銀行の手中には,それぞれの生産者や商人が準備ファンドとして保有するmonied Capitalまたは彼らのもとに支払金として流れてくるmonied Capitalが集中する。②69)e) この準備ファンドは,銀行の手中で,貸付可能なmonied Capitalに[472]なる。これによって,商業世界の準備ファンドは,共同の準備ファンドとして集中されるので,必要な最小限度に制限されるのであって,そうでなかったならば準備ファンドとして眠っているはずのmonied Capitalの一部分が利子生み資本として機能する,つまり貸し出されるのである。ところで他方では,銀行の貸付可能な資本は,貨幣資本家たち〔monied Capitalists〕の預金によって形成されるのであって,彼らはこの預金の貸出を銀行にまかせるのである。銀行システムの発展につれて,またことに銀行がどの預金にも利子を支払うようになれば,すべての階級の貨幣貯蓄(すなわち当面遊休している貨幣)は銀行に預金され,こうして,そうされなかったならばmonied Capitalとして働くことができなかったはずの小さい金額が大きな金額に,こうして一つの貨幣力〔monied force〕にまとめられる。この集積〔co11ection〕は銀行システムの特殊的作用として,本来の貨幣資本家〔monied capitalist〕と借り手とのあいだでの銀行の媒介者的役割〔Mittlerschaft〕とは区別されなければならない。⑤87)f) 最後に,ただ少しずつ消費しようとする収入も,銀行に預金される。g)a)/

  ①〔異文〕「準備ファンドまたは当面遊休しているファンドとして保有する」という書きかけが消されている。このうちの「当面」は書き加えられたものである。
  ②〔異文〕「e)」--マルクスはこの原注を書かなかった。
  ③〔異文〕「共同の準備ファンドとして」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「必要な」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「f)」--マルクスはこの原注を書かなかった。
  ⑥〔異文〕「g)a)」← 「g)」

  69)この注番号「e)」に対応する原注は,前注の「d)」と同様に,書かれていない。ただ,脚注43に注記したように前出の原注「注aおよびbに」の左方欄外に注番号「e)」があるが,前注「d)」の注番号に重なっている縦線がこの「e)」の上にも重なっている。
  87)この注番号「f)」に対応する原注は存在しない。ただ,次の318ページにある前出の原注「注a)に。トゥク」の冒頭のところに,「f)ギルバト」と書いたのち消している。ここに原注f)を書きかけたのであろうと思われる。なぜ消したのかはわからないが,「注a)に。トゥク」を書いたのち「f)」にふたたび取り掛かるつもりでいたのにそれを忘れて先に進んだ,という可能性も十分あるであろう。もしギルバトから引用しようとしたのだとすると,次の箇所がここにあたるのではないかと思われる。
  「こうして,きわめて多数の個人の手中で不生産的に眠っていたさまざまの少額の貨幣が,銀行家の手中に集積〔collect〕されて,一つの金額となるであろう。銀行業者はこの金額の一部を,預金者たちが彼あてに振り出すであろう小切手に応じるために自分の引出しのなかに残し,その他の部分で手形を割り引くか,あるいはそれをそれ以外の方法で彼の業務で運用するであろう。だが,もし預金銀行の代わりに発券銀行だけが設立されているのだとすれば,それぞれの少額の貨幣が,以前のように,さまざまな個人の手中で不生産的にとどまっているであろう。また銀行業者は,手形を割り引くのに,自分自身の約束手形を発行するであろう。」(J.W.ギルバト『銀行業の歴史と原理』,ロンドン,1834年,118-119ページ。)〉 (171-173頁)

 〈銀行が自由に処分できる貸付可能な資本は二つの仕方で流れ込みます。
 一つは、生産的資本家たちの出納係として、銀行の手中には、それぞれの生産者や商人が準備ファンドとして保有するmonied capitalまたは彼らのもとに支払金として流れてくるmonied capitalが集中します。この準備ファンドは、銀行の手のなかで、貸し付け可能なmonied capitalとなります。これによって商業世界の準備ファンドは、共同の準備ファンドとして集中されるので、それが必要な最小限度に制限されます。だからもしそうでなかったら準備ファンドとして眠っているはずのmonied capitalの一部分が利子生み資本として機能することになります。つまり貸し出されるのです。
 もう一つの仕方は、銀行の貸し付け可能な資本は、貨幣資本家たちの預金によって形成されます。彼らはこの預金の貸し出しを銀行に任せるのです。銀行システムの発展につれて、またことに銀行がどの預金にも利子を支払うようになれば、すべての階級の貨幣貯蓄(当面遊休している貨幣)は銀行に預金され、こうして、そうされなかったならばmonied capitalとして働くことができなかったはずの小さい金額が大きな金額になり、こうして一つの貨幣力にまとめられます。この集積は銀行の特殊的作用として、本来の貨幣資本家と借手とのあいだでの銀行の媒介的役割とは区別されなければなりません。最後に、ただ少しだけ消費しようとする収入も、銀行に預金されます。〉

  【このパラグラフは前の(【13】)パラグラフのより詳しい分析になっている。前パラグラフでは銀行は〈monied Capitalの現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者としてはいってくる〉とし、〈貸付可能な貨幣資本を自分の手中に大規模に集中する〉とあったが、その貸付可能な貨幣資本がどのようにして銀行に集中されるのかを明らかにするのが、今回のパラグラフの課題である。それは二つの仕方で流れ込むとしている。
 (1)一つは生産的資本家たちの出納係(つまり貨幣取扱業務)として、銀行にはそれぞれの生産者や商人たちの準備ファンドが集中されると指摘されている(これは支払のための準備ファンドであったり、また他の業者から支払われることによるものであったりもする)。こうしたさまざまな生産者や商人の準備ファンドが銀行に集中されることによって、それらがバラバラにそれぞれの生産者や商人たちによって保管されている場合よりも、社会的には必要な準備ファンドが必要最小限度に制限されるわけである。銀行はその必要最低限度の準備ファンドだけを準備として保有するだけで、それ以外の準備ファンドは利子生み資本として貸し付けることが可能になる。
 (2)もう一つは貨幣資本家と貸し手との間の媒介者としての銀行の役割である。すなわち貨幣資本家たちの貨幣が預金として銀行に集まってくる。彼らは退役した資本家や資産家等々であるが、彼らは自分たちの貨幣資本の運用を銀行に任せるわけである。
  さらに銀行システムが発展すると、銀行がどの預金にも利子をつけるようになる。そうすると、さまざまな階級の少額の貨幣貯蓄が銀行に預金され集中されるようになる。((1)の場合も銀行への預金という形式をとるが、この場合は利子のつかない当座預金である)。こうして社会的にそれが少額のために利子生み資本として運用されえなかった貨幣が、集中されて大きな金額になり、利子生み資本として運用されるようになる。こうした少額貨幣資本の集積の作用は、銀行の特殊的業務として、本来の貨幣資本家と借り手との間の媒介者的役割とは区別されなければならない、とマルクスは指摘している。
  そして最後に労働者等の消費のように、少しずつ消費する収入も、それが支出される前に一時的に預金される。こうして銀行には社会においてさまざまに遊休している貨幣が預金として集中されてくるわけである。

 ところで大谷氏は(1)のケースの「再生産的資本家」について次のように述べている。

 〈ここでは,再生産的資本家の,したがって商業世界の準備ファンドが銀行に集中され,必要最小限の共同の準備ファンドを越える部分が銀行の貸付可能な貨幣資本となる,ということが述べられている。これには,蓄蔵貨幣のいわゆる第1形態も第2形態も含む,再生産的資本家のすべての準備ファンドがはいるであろう。〉 (新本第2巻108頁)

 ここで〈蓄蔵貨幣のいわゆる第1形態も第2形態も〉とあるが、これは恐らく第19章「貨幣取扱資本」の中に出てくる次の一文を想定しているものと思われる。

 〈資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,いまでは資本のうち支払手段および購買手段の準備ファンドとしてつねに貨幣形態で存在しなければならない部分の形成これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣は絶えず流動しており,絶えず流通に注ぎ,また絶えず流通から帰ってくる。第2の形態は遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は,蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。しかし,これらのことには,第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払い金の支払いと受領,諸支払いの決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家のためのたんなる出納代理人として行なうのである。〉 (大谷新本第2巻324-325頁)

 これによれば蓄蔵貨幣の第1形態というのは、支払手段および購買手段の準備ファンドのことであり、第2形態というのは、遊休していてとりあえずは運用されていない資本のことである。例えば在庫形成に伴う遊休貨幣や固定資本の償却費や蓄積や拡大再生産のための貨幣蓄蔵等々が入るであろう。これらすべてが銀行に集中されるわけである。

 また(2)のケースに出てくる〈貨幣資本家たち〔monied Capitalists〉についても次のように指摘している。

 〈ここでmonied Capitalistsと呼ばれているのは,再生産的資本家とは人格的にも異なる金利生活者であると考えられる。マルクスはのちに,エンゲルス版第32章にあたる部分で,次のように書いている。
  「まず第1に,かなり長い目で見れば,実体的な〔real〕富の増大につれて,貨幣資本家〔monied Capitalist〕の階級が増大する。というのは,利子で生活する引退した青物商〔greengrocer〕の数が増加し,第2には,信用システムの発展〔が見られ〕,それとともにまた銀行業者,等々〔が増加する〕からである。」(MEGA II/4.2,S.589;本書第3巻523-524ページ。)
  ここでは,一方では金利生活者,他方では銀行業者,金融業者などが,monied Capitalistの階級をなすものとされ,それが「現実的な富の増大」,すなわち資本主義的生産の発展とともに増大していくことが述べられている。さきの,銀行に預金をするmonied Capitalistはこのうちの第1のものであろう。〉 (新本第2巻108頁)

  宇野弘蔵はマルクスの利子生み資本論(宇野はそれを「分配論」の中の「利子論」と位置づけるのであるが)を批判し、それは「純粋の資本主義社会」の想定にもとづいた原理論として純化されたものではなく(宇野は「地代論」は反対にそうした想定に立ったものだとも評価する)、当時のイギリスの現状を反映した不純なものだとするのであるが(彼によれば純粋な原理にもとづけば銀行が貨幣資本として集中するものは今回の(1)のケースのみに純化して考えるべきと主張するわけである)、その宇野の批判を暗に前提して(宇野の名前は出していないが)、大谷氏は次のように反論を加えている。

  〈あるいはここでも,マルクスが金利生活者のような「純粋資本主義」では想定すべきでないものを取り上げているのは誤っている,といったほとんど意味をもたない議論が出るかもしれないが,方法論的な論議は別としても,再生産的資本家がある時点で「引退」して貨幣資本家となるのは,資本主義的生産では恒常的に見られる必然的現象であって,金利生活者は資本主義的生産そのものによって生みだされるのだ,ということを指摘しておこう。彼らは蓄積された剰余価値である資本を貨幣形態で携えて再生産過程から「引退」するのであって,それが今度はmonied Capitalに転化するのである。〉 (新本第2巻108-109頁)

  こうした反論は〈方法論的な論議〉を〈〉にしているという点で的を射たものとは必ずしもいえないが、しかし必要な指摘ではある。宇野の純粋資本主義の想定そのものがマルクスの方法に対するまったくの無理解にもとづいたものであり、宇野はそうした勝手に作り上げた自分の観念的な妄想から、ただ『資本論』に難癖をつけているだけなのである。】


【15】

 [472]/318下/(2)89)【MEGAII/4.2,S.472.24-31】〔原注〕g)a)90)トゥク。「銀行業者の業務は二様のものである。すなわち,第1に,資本を直接に運用できない人びとからそれを集めて,それを運用することができる人びとに分配し移転することである。これは資本の流通である。もう一つの部門は,彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのに或る金額を必要とするときにそれを払い出すことである。これは通貨の流通である。」(トゥク『通貨原理の研究,云々』,第2版,ロンドン,1844年,36ページ〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,日本評論社,1947年,79ページ〕)「一方は,一面では資本の集中,他面ではその配分であり,他方は,それぞれの地方の地方的目的のための通貨の管理である。」(同前,91)37ページ〔同訳書,同ページ〕。)〔原注g)a)終わり〕/

  ①〔異文〕この原注「g)a)」と次の原注「g)b)」は,〔草稿の〕318ページにある。「g)b)」(〔MEGA II/4.2の〕472ページ32行)は,当初はたぶん「g)」だった。トゥクの引用(〔MEGA II/4.2の〕472ページ24-31行)を取り入れたことから,あとで「g)a)」と「g)b)」とに分けられた。原注「g)a)」は赤鉛筆による縦線で消されている。
  ②〔注解〕トゥクでは次のようになっている。--「一方では資本の集中にかかわり,他方では資本の配分にかかわる銀行業部門を,その地方の地方的諸目的のための流通を管理することに従事する部門から理論的に区別し,または分離させることは,……」

  89)草稿では,この318ページの下半部の最初には原注「注a)に」がはいっているが,これは原注a)の次に移した。
  90)〔E〕エンゲルス版では,この原注の内容を本文部分のすぐ次に収め,そのあとに次のように書き加えている。--「われわれは第28章でこの箇所に立ち返る。」
  91)草稿では,誤って「39」と書かれている。〉 (173-174頁)

  【これは先のパラグラフ(【14】)全体に対する原注と考えられ、トゥクの『通貨原理の研究』からの二つの抜粋からなっているだけのなので、平易な解読は省略した。
   先のパラグラフにはこれ以外にも「e)」、「f)」なる原注が付けられたが、結局、それらは書かれなかったようである。但し、大谷氏は原注「f)」について、すでに紹介しているように、訳者注87)のなかで、ギルバトからの抜粋を考えていたが、忘れたのではないかと類推し、もしマルクスが抜粋したなら、次の一文であろうと紹介していた(【14】パラグラフの訳者注87)を参照)。
   ところで、エンゲルスは、この原注g)a)をわれわれのパラグラフ番号では【31】(このパラグラフで実は第25章該当部分の本文は終わるのであるが)の後にそのまま本文として採用したあと「われわれは第28章でこの個所に立ち返る。」と書き加えている。これは第28章のエンゲルスの長い挿入文のなかにキニアの引用と一緒に紹介されていることを指している。この第28章についてはすでに詳細な解読は済んでいるが、そこではこのエンゲルスの挿入文も取り上げて、このトゥクの一文に次のような解説を加えておいた。

  〈トゥックは通貨と資本との区別はアダム・スミスが指摘した商人と商人との取引きと、商人と消費者との取引きとの区別に照応するのだ、と述べている(ここでアダム・スミスが「商人」という場合は資本家のことであり、「消費者」とは個人的消費者であり、生産的な消費者ではない)。つまり商人と商人との間を媒介するものは資本だが、商人と消費者との間を媒介するものは通貨だというのである。ただトゥックは銀行学派だからそこに銀行を介在させる。つまり銀行業者たちの業務としてそれを説明している。すなわち銀行業者たちの一方の業務は、資本をその直接の用途をもたない人々から集めること、およびそれを、用途を持つ人々に配分または移譲することである。他方の部門は顧客たちの収入からなる預金を受け入れ、顧客たちが彼らの消費目的で支出するために要求するだけの額を払いだすことである。前者が資本の流通であり、後者は通貨の流通である。これがトゥックが『通貨原理の研究』で言っていることである。〉

   トゥクの述べていることはこの通りであるが、マルクスが先のパラグラフにこのトゥクの一文を原注として付けた意図はどこにあるのであろうか。
   一見するとトゥクもマルクスと同様、銀行に流れ込む貨幣資本の二つの仕方について論じているように見えなくもないが、必ずしもそうではない。マルクスの場合、第1のケースは銀行の生産的資本家たちの出納係として果たす機能(貨幣取扱業務)から生じるものであることが肝心なのである。それが第2のケースの貨幣資本家たちと借り手たちとのあいだで媒介者として果す機能とを区別するためのメルクマールなのである。こうしたことをトゥクが的確に指摘しているわけではない。トゥクが〈第1に,資本を直接に運用できない人びとからそれを集めて,それを運用することができる人びとに分配し移転すること〉という場合、ここにはマルクスが第1のケースと述べている場合にも、第2のケースとして述べている場合にもどちらにも含まれるであろう。そしてトゥクが〈もう一つの部門〉として述べている、〈彼らの顧客の所得から預金を受け入れ,顧客が消費の対象に支出するのに或る金額を必要とするときにそれを払い出すこと〉というのは、マルクスが第2のケースの場合の〈最後に〉と述べていることに該当するわけである。だからトゥクの主張そのものは必ずしもマルクスが先のパラグラフで述べていることを的確に指摘したものとはいえない。しかしマルクスが先のパラグラフの原注としてトゥクの一文を紹介したのは、恐らく銀行が果たす役割を同じように二つの側面で見ているという点だけに注目したからであろうと考えられる。】

 (続く)

2020年6月17日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-6)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【9】

 /317下/(6)【MEGA II/4.2,S.470.34-52】〔原注〕①39)注aおよびbにad note a u b〕。40)②(ⅰ)預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに所有権〔property〕を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」(J.W.ボウズンキト金属通貨,紙券通貨,信用通貨』,ロンドン,1842年,82ページ。)

  ①〔異文〕この原注は,手稿ページ317ページの末尾,原注「注a)に」(〔MEGA II/4.2の〕469ページ22-23行)のあとにある。これは,「注aおよびbに」という注意によってこの場所が指示されている。当初ここで〔MEGA II/4.2の〕472ページ1行のために予定された原注「e)」は消された。〔パラグラフ「/317上/(3) 」の末尾の注番号「e)」への筆者の脚注27を参照されたい。〕
  ②〔注解〕この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.179.30-33.)ボウズンキトでは次のようになっている。--「預金が流通媒介物の一部をなしていることについての問題のすべては,私には次のことにあるように思われる。すなわち,預金は,貨幣の介入なしに所有権を人手から人手に移転することができるか,それともできないか,ということである。」

  39)この原注は前出の原注「注a)に。318ページを見よ。云々」(/317下/(5))の次に書かれている。
  40)ボウズンキトからの以下の引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.179.30-180.26.)〉 (165-166頁)

  【この原注もなかなかその位置づけがややこしいようである。MEGAの編集ではこの「注aおよびbに」が注「ba」の続きと解されて、注「ba」の第2、第3パラグラフとして復元されているのだという(小林前掲324頁)。だからMEGAのテキストを見る限りでは注「ba」と「注aおよびbに」とが区別出来ないのだという(同)。しかしいずれにせよ、大谷氏は「注aおよびbに」を別の原注として編集しているのだから、われわれはそれを前提に検討することにしよう。
  これはいうまでもなく、原注aと原注bに関連して書かれた原注である。だからわれわれはもう一度それぞれの原注aと原注bとはどういうものであったのかを確認しておこう。原注aというのは、単純流通の支払手段としての貨幣の機能から債権・債務関係が生まれ、それが資本主義的生産様式の発展とともに、拡大して仕上げられることによって、信用システムの土台をなすという部分の原注として『経済学批判』の参照箇所を示すものであった。原注bというのは、手形が裏書譲渡されて流通することによって、本来の商業貨幣をなすという部分に対する原注であり、リーサムの著書からの五つの抜粋からなるものであったが、要するに当時の巨額になっている手形総額の現状を紹介するものと真正手形と融通手形のような架空なものとは区別はできないということを指摘するものであった。
  今回の原注はこれらの二つの原注に対する追加的な原注と考えるべきものであろう。ボウズンキトの著書『金属通貨、紙券通貨、信用通貨』の82頁~93頁の間から5カ所が頁数の若い順に抜粋されている。われわれのパラグラフ番号では二つに分けられており、【10】パラグラフの途中には( )に入ったマルクスの挿入文がある。われわれは今回も便宜的に抜粋文に番号を付して検討することにしよう。

  まず今回の【9】パラグラフは抜粋文(ⅰ)である。〈預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに所有権〔property〕を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである〉という短い一文であるが、原注のこの引用文と次の引用文の二つをエンゲルスは削除して編集では採用していない。そこから大谷氏はエンゲルスは預金通貨についてマルクスが肯定的に論じている部分を意図的に削除していると批判するのである。大谷氏はわざわざボウズンキトの原文を紹介しているので、それも見ておくことにしよう。

  〈「預金が流通媒介物の一部をなすことについての問題のすべては,私には次のことであるように思われる。すなわち預金は,貨幣の介入なしに所有権を人手から人手に移転することができるか,それともできないか,ということである。貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払いをなし遂げ,所有権を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払いをなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J,W.Bosanque,Mtallic,Paper,and Credit Currency,London1842,p.82.)〉 (87頁)

  先のMEGAの注解でもボウズンキトの原文は紹介されていたが、大谷氏はさらにその続きを含めた原文を紹介をしている。つまりボウズンキトは預金が貨幣の媒介なしに所有権の移転をすることを預金が通貨として機能したと述べており、その一文にマルクスは注目して抜粋したのだと大谷氏は言いたいわけである。次のように述べている。

  〈ボウズンキトは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の二つは,それらが「貨幣なしに所有権を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろう。〉 (87頁、太字は大谷氏による傍点による強調個所)

  しかしマルクス自身が、ボウズンキトの抜粋で下線を引いて注目しているのは、「預金」と「貨幣の介入なしに」の二つであって「貨幣である」の部分ではない。つまりマルクスが預金の振り替えで注目しているのは、貨幣の介入なしにそれが貨幣の機能を果たすということである。つまりそれは貨幣の節約に寄与するということである。預金が貨幣になるとか、通貨として機能しているということではない。貨幣の機能にもいろいろとあるのである。預金の振り替えで貨幣の果たす機能とは、それは相殺を意味するのであるから、ただ計算貨幣として(あるいは価値尺度として)の機能なのである。決して流通手段や支払手段としての機能、つまり通貨としての機能ではない。だからこの場合、預金が通貨として機能するなどとはマルクスは理解しているわけではないし、この抜粋を持ってして、そうした主張を正当化する理由にはならないのである。】


【10】

 〈①②41)(ⅱ)「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンド・スターリングの現金勘定を開設する。42)彼は自分の預金に6万ポンド・スターリングを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力〔the power of purchase〕は明らかに6万ポンド・スターリングの大きさまで増加されるのである。」(同前,〔82-〕83ページ。)(ⅲ)「各営業日に④手形交換所で決済される諸支払いの平均額は300万ポンド・スターリングを越えるが,この目的のために必要な日々の貨幣準備額は20万ポンド・スターリングそこそこである。〔」〕(同前,86ページ。)⑤43)(ⅳ)「手形は,裏書きによって所有権を人手から人手に移転するかぎりでは,疑いもなく,貨幣からは独立した通貨である。〔」〕(同前,92,93ページ。)⑥44)(手形は,最終的に現金で〔in baribus〕支払われるのでないかぎり,手形交換所を通って預金と一致しなければならない。)(ⅴ)〔「〕平均して言えば,流通中の手形のそれぞれには二つの裏書きがあり,したがってどの手形も満期になるまでに平均して二つの支払いを果たすとみなしてよい。この想定によれば,1839年中に,裏書きだけによって528百万ポンド・スターリングの2倍,すなわち1,056百万ポンド・スターリング,1日平均300万ポンド・スターリング以上の価値まで,手形によって所有権が持ち手を変えたと思われる。それゆえ,為替手形と預金とを合わせれば,それらは貨幣の助力なしに人手から人手に所有権を移転することによって,毎日少なくとも18百万ポンド・スターリングの金額までは貨幣の機能を果たしていることは確かである。」(同前,93ページ。)〔原注「注aおよびbに」終わり〕/

  ①〔注解〕このパラグラフの以下の引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8.S.179.33-180.26.〉
  ②〔注解〕ボウズンキトでは次のようになっている。--「この場合には,ただ45)1万ポンド・スターリングだけの貨幣が介入するだけで,6万ポンド・スターリングの大きさの預金が創造されたのであって,明らかに,これだけの大きさの金額が,まったく貨幣の使用なしに創造されたのである。」
  ③〔注解〕ボウズンキトでは次のようになっている。--「……300万ポンド・スターリングを越える諸支払いの平均額が,年間の各営業日に手形交換所で決済されるのであり,この目的のために必要な日々の貨幣額は20万ポンド・スターリングそこそこである。」
  ④〔注解〕「手形交換所〔Clearing-House〕」--ロンドンのロンバード・ストリートにある手形交換所は1775年に設立された。メンバーは,イングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会だった。なすべき仕事は,手形,小切手その他からなる相互の債権の差引決済であった。
  ⑤〔注解〕ボウズンキトでは次のようになっている。--「だが,為替手形の裏書きによって人手から人手への所有権の移転の額については,われわれはなにを言うべきだろうか? なにがどうであれ,この規模までは,為替手形は,疑いもなく,貨幣からは独立した通貨の働きをするのである。」
  ⑥〔注解〕パーレンでくくられたこの一文はマルクスによる挿入である。
  ⑦〔注解〕「baribus」--「bar」という語からマルクスがラテン語風に茶化してつくった造語。

  41)〔E〕エンゲルス版では,ボウズンキト〔82-〕83ページからのこの引用は削除されている。
  42)この付近の左の欄外に「d)」と書かれているが,その上を縦線が走っている。これが抹消線であるのか,その他の意味をもった線なのかは判断できない。
  43)この付近の左の欄外に「e)」と書かれているが,前出の脚注28)に記した縦線がこの上をも通っている。これも抹消線であるかどうか判断できない。
  44)〔E〕エンゲルス版では,このパーレン(  )に囲まれた部分は削除されている。エンゲルスは,「預金と一致する〔mit d.deposits zusammenfallen〕」という表現に不明瞭さを感じて削除したのかもしれない。
  45)「1万ポンド・スターリングだけの貨幣が介入するだけで,」--この前のところでボウズンキトは,銀行が6人の顧客の口座に,銀行券,為替手形,国庫証券,外国債券,権利証書,この銀行が与える無担保の対人信用,というそれぞれ異なった債権と引き換えに,それぞれ1万ポンド・スターリング,合計6万ポンド・スターリングの預金を記帳する,と仮定している(最後のケースは貸付のための預金設定にほかならない)。このうち,銀行券の場合だけは「1万ポンド・スターリングだけの貨幣が介入する」ので,こう書いているわけである。だから,1万ポンド・スターリングの貨幣によって6万ポンド・スターリングの預金が創造された,と言っているわけではまったくない。だから,マルクスによる要約的引用はボウズンキトの論旨を変えてはいないのであって,MEGA注解のようにこの箇所だけの原文を示すことは,むしろ,ボウズンキトの言わんとするところを誤解させる恐れがある。〉 (166-168頁)

  【今回も原注「aおよびbに」の後半部分である。これもわれわれが付けた番号順に検討して行こう。マルクスの挿入文は抜粋番号(ⅳ)と関連して付けられたものであるが、それはそれほど長いものではない。だから今回も平易な解読は省略した。マルクスの挿入文は(ⅳ)を検討するなかで検討することにしよう。

  (ⅱ)について、まず指摘しておくべきことは、MEGAの注解②についてである。マルクスの引用が、ボウズンキトの原文の内容を要約したものだから、その原文が紹介されているのだが、しかしその紹介の仕方は誤解を与えるものだと大谷氏は指摘している(注45)。マルクスの要約はボウズンキトの原意を正しく伝えているのに、注解の紹介の仕方だけだとむしろ間違って理解することになるというのである。これはただ確認しておくだけでよいだろう。
  さて、この引用文はマルクスがエンゲルス版の第28章部分で述べている帳簿信用の問題と関連している。第28章該当部分の解読はすでにアップし、電子書籍化もしているので、それを参照して頂きたいが、今、関連する部分だけを紹介しておこう。

  〈これまで前提されていたことは,前貸は銀行券でなされ,したがって銀行券発行の増加を,どんなに瞬過的なもの〔verschwindend〕であるとしても,少なくとも一時的には,伴うということである。しかし,このことは必要ではない。銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。彼は銀行あての小切手で支払い,小切手を受け取った人はそれで取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)。このような場合には銀行券の介入はぜんぜん〔生じ〕ないのであって,全取引は,銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて,銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。この場合には,銀行はAに自分の銀行業資本を--なぜなら自分自身の債権なのだから--の一部分を前貸したのである。〉 (大谷新本第3巻136-137頁)

  上記の場合、マルクスは帳簿信用を何を担保に開設するかということについては何も論じていない。ボウズンキト自身は、大谷氏によれば〈銀行券,為替手形,国庫証券,外国債券,権利証書,この銀行が与える無担保の対人信用,というそれぞれ異なった債権と引き換えに,それそれ1万ポンド・スターリング,合計6万ポンド・スターリングの預金を記帳する,と仮定している〉らしい(このボウズンキトの仮定によるなら、彼は必ずしも帳簿信用に限定して問題を考えていたわけではない)。しかしマルクスは、それらを〈不動産所有証書等々を担保として〉と要約して抜粋しているわけだから、マルクスの要約では帳簿信用の問題になる。そしてその場合は、金属と紙の通貨の量は変わらないのに、それだけの「購買力」が増加されるというボウズンキトの指摘である。
 しかしこうした主張はある意味では転倒した観念であることは、『資本論』の冒頭篇を少しでも学習した人なら了解されるはずである。「購買力」という観念は、商品流通W(商品)-G(貨幣)-WをすべてG-Wに還元して見てしまっていることから来る。確かにW-G(販売)も貨幣の側からみればG-W(購買)であり、だからすべての商品流通は貨幣の購買力にもとづいており、どれだけの商品が流通するのかは貨幣の購買力に、つまり貨幣の量にかかっているという観念である。しかしこれは商品流通の表面的な現象に惑わされた転倒した観念なのである。なぜなら、商品流通を媒介する貨幣の量は、流通する商品の価格総額や流通速度等々によって、決まってくるのであって、〈通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力〔the power of purchase〕は明らかに6万ポンド・スターリングの大きさまで増加される〉というような話にはならないからである。では何が変わるのか。帳簿信用は商品売買の信用取引の拡大をもたらすであろう。しかしそういうことなら、例えば通貨の量が変わらなくても、流通速度が増えれば、流通する商品の量も増えるし、商人や生産者の相互的な前貸しが行われるなら、すなわち信用取引が拡大するなら、通貨の量に変化がなくても、流通する商品量は増えるであろう。しかしこうした場合も、まずあるのは商品を流通させる社会的な物質代謝の現実とその条件であって、流通速度や信用取引は、本来それがなければ必要とした貨幣(通貨)をただ節約する役割を果すだけなのである。だから現実にはない商品流通を引き起こすというような話では決してないのである。こうした意味で、「購買力」なるものが帳簿信用の額だけ増えるという観念は間違っているのである。そもそも「購買力」という観念自体が、転倒した観念なのである。マルクスもそうした間違った観念として下線を引いて注意を促しているのではないだろうか。
 ところでこの(ⅱ)も先の(ⅰ)と同様、エンゲルスは編集の段階で削除しているのであるが、それについて大谷氏は次のように述べている。

  〈以上の二つの引用が注目に値いするのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。〉 (87頁、太字は大谷氏による傍点)

 ここで大谷氏が〈さきの本文パラグラフに関連して〉と述べている〈本文〉というのは、次のようなものである。

  〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。〉 (159頁)

  これがマルクスの本文として大谷氏が最初に紹介しているものであり、これにマルクスは原注a)をつけて『経済学批判』の参照箇所を書き、さらに別に「注a)に」という二つの原注を書き、さらにその原注に今回の追加的な原注を書いているわけである。とりあえず、もう一度確認するために書いておくと、マルクスは先の本文のあとに、次のように本文を続けている。

  〈すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている。それらは,最終的に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは,絶対的に貨幣として機能する。というのは,この場合には貨幣へのそれらの最終的転化が生じないからである。〉 (159頁)

   もちろん、これらの本文の解読は、すでにやった。ここでは次の点を指摘しておく。この本文の「……本来の商業貨幣をなしている」部分に原注「b)」と「およびba」という原注をマルクスは書いていた(これもすでに検討)。さらに草稿317ページの下半分に「a)」と「b)」の両方への注記として「注aおよびbに」という注をマルクスは書いているのである。それが今われわれが問題にしているものである。大谷氏が問題にしているのはこの二つの本文に関連した原注のうちエンゲルスによって採用されなかったものを取り上げて、そのなかに重要な示唆があると言いたいわけである。だから大谷氏が〈さきの本文パラグラフに関連して〉と述べているのは、少なくともその一番近くで紹介されている上記の本文であろう。そこではマルクスは手形について述べているのであるが、大谷氏は〈マルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていた〉と強弁するわけである。しかし果たしてそれは正当な解釈であろうか。少なくともマルクスの本文を読む限りでは、そうした読み方はできないのではないだろうか。ただ確かに原注では預金について論じたものも抜粋していることは事実であるが、そこから本文でもマルクスは預金をも考慮に入れていたと即断することはやはり飛躍であり、正しいとは言い難い。

   (ⅲ)は各営業日に手形交換所で交換される諸支払の平均額が300万ポンドであるのに、そのために必要な貨幣準備額は20万ポンドに過ぎないという現状を紹介するものである。手形交換所で交換される手形の平均額が300万ポンドでもそのほとんどが相殺されてしまい、実際に現金で支払われる(決済される)のは、20万ポンド、15分の1だというのである。

  (ⅳ)のボウズンキトの一文は〈手形は,裏書きによって所有権を人手から人手に移転するかぎりでは,疑いもなく,貨幣からは独立した通貨である。〔」〕 〉というものである。それに対してマルクスは〈手形は,最終的に現金で支払われるのでないかぎり,手形交換所を通って預金と一致しなければならない〉と書き加えている。このマルクスの書き込みの意図は何であろうか。大谷氏はこのマルクスの(  )のなかでの言い換えについて何も言及していない。ただ大谷氏は訳者注44)において(166頁)、エンゲルスがこのマルクスが(  )を付けて書き加えた部分を編集段階で削除したが、それは不明瞭さを感じたからであろうと推測している。つまり大谷氏もこのマルクスの書き加えは不明瞭なところがあると考えているわけである。
   しかしマルクスは明らかにボウズンキトが〈手形は,裏書きによって所有権を人手から人手に移転するかぎりでは,疑いもなく,貨幣からは独立した通貨である。〔」〉と述べていることをそのまま首肯するのではなく、それは〈(手形は,最終的に現金で〔in baribus〕支払われるのでないかぎり,手形交換所を通って預金と一致しなければならない。)〉ということなのだ、と書いているのである。つまり手形が最終的に現金で支払われるのでないなら、それは預金の振り替えのための信用用具となるのだ、というのがマルクスの言いたいことである。だからボウズンキトのように〈貨幣からは独立した通貨〉だとは言えない、というのがマルクスの主張である。手形は手形交換所で交換されることによって相殺され、最終的にはそれぞれの銀行内の預金の振替によって決済されて、預金額に結果するのである。そのことをマルクスは指摘しているのである。大谷氏はエンゲルスと同様、こうしたマルクスの意図を読み取ることが出来なかったようである。エンゲルスは「預金通貨」を肯定することに繋がる部分を意図的に削除していると大谷氏は批判するのであるが、しかし大谷氏がこのマルクスの挿入文を正しく理解できなかったのは、自身が「預金通貨」に拘泥しているからこそなのである。何とも皮肉なことではある。しかしこうした理解は、次の抜粋文とも関連する。

  (ⅴ)はまず平均していうなら、流通中の手形は二つの裏書があるとの指摘がある。だからどの手形も満期になるまでに平均して二つの支払を果たしたことになるわけである。そこからボウズンキトは〈1839年中に,裏書きだけによって528百万ポンド・スターリングの2倍,すなわち1,056百万ポンド・スターリング,1日平均300万ポンド・スターリング以上の価値まで,手形によって所有権が持ち手を変えたと思われる〉と推定している。流通した手形総額は5億2千8百万ポンドである。しかしこれらの手形は平均二度の支払を決済しているからその倍の10億5千6百万ポンド総額の商品の流通を媒介したと考えているわけである。この手形総額は原注b)(【7】パラグラフ)で紹介されていたリーサムの記述とやや合致しない。なぜなら、リーサムは〈1839年全年の手形総額は{〔リーサムは〕外国〔為替〕手形を全体の約1/7としている}528,493,842ポンド・スターリングであり,同じ年に同時に流通した手形の金額は132,123,460ポンド・スターリングである〉と推定していたからである。ボウズンキトは〈裏書きだけによって〉流通した手形総額を5億余ポンドとしているが、リーサムは外国為替手形も含めた手形総額を5億余ポンドとし、うち裏書されて流通した手形を1億余ポンドとしているからである。ここらあたりの数値の不一致はどう考えたらよいのかよく分からない。だからこうした問題はとりあえず置いておいて、われわれはボウズンキトの一文だけにもとづいて考察を進めよう。
  上記のように、ボウズンキトは手形によって持ち手を変えたと思われる総額を推定し、次のように続けている。
  〈それゆえ、為替手形と預金とを合わせれば,それらは貨幣の助力なしに人手から人手に所有権を移転することによって,毎日少なくとも18百万ポンド・スターリングの金額までは貨幣の機能を果たしている〉。
  ここでもわれわれははたと頭を抱え込む。数値が合わないのである。手形交換所で毎日決済されるのは300万ポンドを越えるが、そのうち20万ポンドは現金で支払われる。ということは280万ポンドが手形の相殺によって、だから預金の振替で決済されたことになる。手形で裏書譲渡されて実現された価値総額は一日平均300万ポンドであった。とするなら一日平均として手形と預金を併せれば、280万ポンド+300万ポンドで、580万ポンドにしかならない。1800万ポンドにはならないのである。これはどう考えたらよいのかまったくわからない。
  しかしそもそもマルクスが(ⅳ)の(  )のなかで述べているように、〈手形は,最終的に現金で支払われるのでないかぎり,手形交換所を通って預金と一致しなければならない〉のである。ボウズンキトの推定では手形が最終的に決済されるまでに二つの支払を果たし、一日平均300万ポンドの価値を実現したのである。これは手形が最終的に現金で決済されるかどうかとは関係がない。そのうち280万ポンドは手形交換所で交換されて相殺され、最終的には預金の振替で決済されているわけである。残りの20万ポンドが現金で支払われることになる。だから預金の振替は手形の交換の結果であって、それが追加的に〈貨幣の助力なしに人手から人手に所有権を移転する〉ものではないのである。手形の流通そのものがすでに〈貨幣の助力なしに人手から人手に所有権を移転〉しているのである。ただそのうち最終的には20万ポンド分は〈貨幣の助力〉を必要としたのである。だから毎営業日に手形交換所で交換されて預金の振替決済で相殺される手形総額は280万ポンドであり、それらの手形が平均して2度の支払を果たしたとするなら、それらの手形が〈人手から人手に所有権を移転〉した総額は560万ポンドである(これらも厳密にいうと数値が一致しないのである。ボウズンキトは一方で手形交換所で決済される諸支払の平均額が300万ポンドだとしている。とするなら手形交換所で交換される手形総額が300万ポンドということであろう。もしこの数値が正しいなら、それらの手形は二度の支払を決済したのだから、総額600万ポンドの価値を実現したことになる。ところが他方でボウズンキトは二度支払を媒介した手形の実現した価値額は一日平均300万ポンドだとしているのである)。

  マルクスの(ⅳ)の挿入文は手形が預金の振替決済のための信用用具として機能していると指摘するもので極めて重要なものである。そして敢えて言うと、手形が預金の振替決済に利用される信用用具であり、それらは貨幣の介在なしに、取引を終わせられるという意味で、貨幣の機能を果たしているのであるが、しかしそのことは大谷氏が期待しているような預金が通貨(つまり流通手段や支払手段)として機能したというような話ではないのである。そうではなくそれらは貨幣の節約を果す貨幣機能なのである。なぜなら預金の振替というのは、その信用取引が最終的に相殺されたことを意味するのであるが、相殺のためにはただ観念的な計算貨幣(あるいは価値尺度)としての機能が要求されるだけだからである。(なお、関連して紹介しておくと、大谷氏の「預金通貨」概念を擁護する主張の批判的検討は、このブログの「現代貨幣論研究」(9~11)で行っているので、興味のある方はご検討頂きたい。】


【11】

 〈[471]/317下/(4)【MEGA II/4.2,S.471.31-44〔原注〕c)「どの国でも信用取引の大部分は産業上の関係の領域そのもののなかで行なわれる。……原料の生産者は,原料を加工しなければならない製造業者から,満期日に支払われる債務証書 〔obligation〕を受け取って,製造業者に原料を前貸する。この後者は,彼にかかわる仕事をなし終えたのち,この加工済みの材料を今度は彼が,また同じ条件で,だれかこれをさらに加工しなければならない他の製造業者に前貸するのであって,こうして信用は次々に広がっていき,消費者にまで達する。卸売商人は小売商人に商品の前貸をするが,彼自身もそれ以前に製造業者ないし仲買人から商品の前貸を受けている。だれもが一方の手で借り,他方の手で貸す。それは貨幣のこともあるが,生産物であることのほうがはるかに多い。このようにして,産業上の関係のなかで,互いに結びつき縦横に交錯するもろもろの前貸の絶えまない交換が行なわれる。信用の発展は,とりわけ,このような相互的前貸の倍増にあるのであり,またここにこそ,信用の力の真の所在があるのである。」(シャルル・コクラン産業における信用と銀行について』,『ルヴュ・デ・ドゥ・モンド』,〔第4シリーズ,〕第31巻,1842年,797ページ。)〔原注c)終わり〕/〉(168頁)

 【これは原注c)でコクランの著書からの引用文だけなので、平易な解読は省略した。
  この原注c)は〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしている〉という本文につけられたものである。このコクランの一文はマルクスの本文を見事に裏書している。その意味ではマルクスはこのコクランの一文を正しいものとして引用・紹介していると考えることが出来る。今、コクランの一文の何が正しいのか、その注目すべき指摘を項目的に考えてみよう。

   (1)まずコクランは〈どの国でも信用取引の大部分は産業上の関係の領域そのもののなかで行なわれる〉と指摘している。マルクスが「商業流通」と呼んでいる領域である。これは重要な指摘であって、マルクスが銀行券が手形流通に立脚するものだとしているのは、こうした商業流通の領域内の話なのである。しかし銀行券はこうした商業流通内の信用取引を媒介するだけに留まらず、その額面が定額になり、少額になるにつれて、それらは一般流通に出て貨幣として、つまり金鋳貨や地金と同じように現金として通用するとマルクスは後のパラグラフで指摘するのである。そういう意味でも債務証書(手形等)が媒介する信用取引の大部分が商業流通の領域内の話だとのコクランの指摘は重要なのである。

   (2)コクランはそうした産業上の関係の領域について、具体的に説明している。原料生産者→その加工業者→加工済みの材料をさらに加工する業者→……→それらを消費材に加工する業者→卸売業者→小売り業者⇒消費者という過程である。これらのうち→はすべて信用取引と仮定している。そして⇒は現金取引である。

   (3)こうした信用取引について、コクランは〈原料の生産者は,原料を加工しなければならない製造業者から,満期日に支払われる債務証書 〔obligation〕を受け取って,製造業者に原料を前貸する〉と述べている。つまり手形と引き換えに原料を信用で売ったのであるが、それをコクランは最初の原料の生産者は〈製造業者に原料を前貸する〉と述べていることである。つまり商業信用においては、販売者は商品で前貸しするのである。しかしそれは商品の売買であるから、商品で前貸ししたからといって商品での返済を期待するのではなく、その代金の支払を期待しているわけである。しかし彼は商品を前貸しするのであって、商品の価値の貨幣額を前貸ししたのではないことに注意が必要である。それは貨幣の前貸しとは異なるということである。マルクスはすでに検討した第21章で利子生み資本の概念のなかに商品による前貸し(貸し付け)の場合も入れているが、この場合について、大谷氏はそれは商品の販売なのだから利子生み資本には入れるべきでないと主張されているらしいが、しかしこの場合は明らかにマルクスは商品の価値額の貸し付けとしてそれを利子生み資本としているのである。だからそういうものと区別する意味でもコクランのここでの指摘は重要なのである。コクランは最初の原料生産者から最終の小売業者まですべてを〈また同じ条件で〉、つまり〈満期日に支払われる債務証書 〔obligation〕を受け取って〉商品を前貸しするという信用取引を前提している。そしてそれを次のように纏めている。

  (4)〈だれもが一方の手で借り,他方の手で貸す。それは貨幣のこともあるが,生産物であることのほうがはるかに多い。このようにして,産業上の関係のなかで,互いに結びつき縦横に交錯するもろもろの前貸の絶えまない交換が行なわれる。信用の発展は,とりわけ,このような相互的前貸の倍増にあるのであり,またここにこそ,信用の力の真の所在があるのである〉これはマルクスが〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸〉と述べていることを見事に言い表している。そしてそれらが〈信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしている〉ということについても、〈信用の発展は,とりわけ,このような相互的前貸の倍増にあるのであり,またここにこそ,信用の力の真の所在がある〉として明確に指摘しているのである。

  以上で、何と!やっと! 【3】パラグラフにつけられた複雑な原注の検討はすべて終わったわけである。次回から【3】パラグラフの本文に続く本文(/317上/(4)【MEGA II/4.2,S.471.5-7】)の検討が行われる。】

 (続く)

2020年6月10日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-5)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【6】

 /317下/(5)【MEGAII/42,S.469.39-42】〔原注〕30)31)① 注a)にad Note. a)〕。32)318ページを見よ注a)にad Note. a)〕。トゥク。「貨幣での即時払いによって処理されるのでないすべての取引は,厳密には,信用取引または掛売買〔a credit or time bargain〕である。」(『通貨33)理論論評。スコットランド人民への書簡のかたちで,云々,イングランドの一銀行家著』,エディンバラ,1845年,29ページ。〔)〕「これらの取引が通例であって,現金取引は商業における例外である。」(同前)〔原注「注a)に」終わり〕/

  ①〔異文〕この原注は,〔草稿〕317ページ,原注c)のあとにある。これは,「注a)に」という指示,ならびに,あとから書き加えられた「318ページを見よ。注a)に。トゥク。」という指示によって,この場所が指示されている。当初ここで〔MEGA II/4.2の〕471ページ4行〔前出のパラグラフ「/317上/(3) 」〕に予定された原注「d)」をマルクスは消した。〔前出のパラグラフ「/317上/(3)」の末尾の注番号「e)」につけた筆者の脚注27および同じところへのMEGA異文注⑪を参照されたい。〕
  ②〔異文〕「スコットランド人民への書簡のかたちで,」--書き加えられている。
  ③〔注解〕『通貨理論論評』では次のようになっている。--「ところで,この種の取引は,これが通例であって現金取引が例外であるほどに,わが国の商業システムの全体に行きわたっているので……」

  30)この原注「注a)に」は原注「c)」のあとに書かれているが,ここに移した。
  31)〔E〕エンゲルス版では,この原注は削除されている。
  32)「318ページを見よ注a)にトゥク。」--あとから書き加えられたこの部分で「318ページ」としているのは草稿の次ページであり,そこにはトゥクからの引用を収めた原注「注a)に」がある。この原注はすぐ前に置いた「|318下|(1)」である。
  33)「理論」--草稿では「問題〔Question〕」と誤記されている。〉 (162-163頁)

 【これも原注a)につけられた二つ目の注記であるが、『通貨理論論評』からの二つの引用だけなので、平易な解読は不要であろう。
 この原注の冒頭の〈318ページを見よ注a)にad Note. a)〕。トゥク〉という指示書きについては、すでに先の小林氏の説明を紹介した。この指示書きは、その前にある〈注a)にad Note. a)〕〉に後から書き加えられたものということである。MEGAの編集者はそれにもとづいて先のパラグラフ(【5】)の後にこのパラグラフを持ってきたわけであるが、小林氏はマルクス自身の書いた線でそれが入る挿入箇所が指し示されていると指摘していたのであった。
 この二つ目の〈注a)に〉も、先のもの(【5】パラグラフ)と同様に、マルクスが【3】パラグラフで単純流通における支払手段としての貨幣の機能から自然発生的に債権・債務関係が生じ、それが資本主義的生産様式の発展とともに、拡大され、一般化され、仕上げられ、信用システムの土台になるとしている部分につけられた注「a)」の『経済学批判』の参照箇所に関連して書かれた注記の一つである。『批判』の関連箇所についてもすでに紹介したが、それと今回の原注が関連していることは明らかである。

  ただ前のトゥクの『通貨原理の研究』の一文は商業信用だけではなく、貨幣信用についても言及したものであった。今回の『通貨理論論評』は、主要には商業信用について述べていると考えられる。『批判』でマルクスが述べているのは、貨幣の支払手段としての機能から自然発生的に債権・債務関係が生じ、それが資本主義的生産様式のなかで拡大し、一般化され、仕上げられることによって信用システムの基礎を形成するということであった。しかしトゥクや『通貨理論論評』には、こうした指摘そのものはない。ただ現象的に発達した資本主義的生産様式においては、資本家間の商品取引は、信用取引が一般的であって、現金取引は例外的であると指摘されているのみである。】


【7】

 [470]/317下/(3)【MEGAII/42,S.470.7-23】〔原注〕34)b)リーサム(ⅰ)「私の見るところでは,1839年全年の手形総額は{〔リーサムは〕外国〔為替〕手形を全体の約35)1/7としている}528,493,842ポンド・スターリングであり,同じ年に同時に流通した手形の金額は132,123,460ポンド・スターリングである。」(36)56ページ。)(リーサム,ウィリアム,銀行業者。『通貨についての手紙』,第2版,ロンドン,1840年。)(ⅱ)手形は,通貨のうちで,それ以外のすべての成分の合計よりも大きい額の成分である。」(3ページ以下。)(ⅲ)⑤「為替手形というこの巨大な上層建築は,銀行券と金との額によって形成された土台の上に立っている(!)。そしてもろもろの事件によってこの土台があまりにも狭くなりすぎると,この上層建築の確定性もその存在そのものさえも,危険にさらされるのである。」(同前,8ページ。)(ⅳ)「通貨の総額と要求払いのイングランド銀行および地方銀行業者たちの債務額とを推定すれば,私は,法律上金に兌換されうる153百万という額を見いだすが,これにたいして,この要求に応じるための金は14百万である。」(同前,11ページ。)(ⅴ)⑧⑨「貨幣の夥多を阻止し,また,その一部分を生みだしてこの大きな危険な膨張を助長する低い利子率や割引率を阻止しないかぎり,手形を⑩統制下に置くことはできない。どれだけの部分が実際の売買契約や販売のような真正の〔bona fide〕取引から生じたものか,またどれだけの部分が架空なもの〔fictitious〕でたんなる融通手形であるか,すなわち,架空な資本〔a fictitious capital〕を調達するために手形が他の流通中の手形の支払いに振り出されるような場合,つまりそれだけの通貨が創造されることによるものであるか,を決定することは不可能である。/317下/(7)貨幣が夥多で安いときには,私の知るところでは,後者は巨大な額にのぼるのである。」(リーサム,同前,43,44ページ。)〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕リーサム〔ウィリアム・リーサム『通貨についての手紙……』,改訂増補第2版,ロンドン,1840年〕では次のようになっている。--「次ぎに,私の見るところでは,1839年全年の総額(内国〔手形〕および外国〔手形〕)は528,493,842ポンド・スターリングであり,……手形の総額は……」--この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.223.39-224.1)
  ②〔異文〕「全体の」--書き加えられている。
  ③〔注解〕この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.222.13-14.)
  ④〔注解〕「手形」--リーサムでは「為替手形」となっている。
  ⑤〔注解〕この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S,223.3-6.)
  ⑥〔注解〕「(!)」--マルクスによる挿入。
  ⑦〔注解〕リーサムでは次のようになっている。--「通貨の総額と要求払いのイングランド銀行および地方銀行業者たちの債務額とを推定すれば,私は,法律上金に兌換されうる153百万という額を見いだすが,私は,この要求に応じるものとしてどれだけの額の金を見いだすであろうか? イングランドとウェールズで--というのは,アイルランドとスコットランドはいまだに1ポンド銀行券〔の流通〕で苦しめられているのだから--流通のなかにあると推定される5百万,それとイングランド銀行の金庫のなかにある4百万とで,この合計9百万が,148百万の要求に応じなければならないのだ!!」--この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.223.6-9.)
  ⑧〔異文〕リーサムからのこの引用は書き加えられている。このうちの最後の部分,「貨幣が夥多で……」以下は,書き切れなかったので,この草稿ページ〔317ページ下半部〕の末尾にある。
  ⑨〔注解〕この引用は「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIから取られている。(MEGA IV/8,S.223.27-36.)
  ⑩〔注解〕「統制下に置くことはできない。」--リーサムでは次のようになっている。--「統制下に置くことはできないし,どうしたら統制下に置けるのか,私にはわからない。」

  34)以下の原注「b)」は次の原注「ba)」のあとに書かれている。しかし,原注「ba)」の最後の数行は狭いところにひどく詰めて書かれていて,少なくともその部分は原注「b)」よりもあとで書き加えられたものであることを示唆している。もしかすると「ba)」の全体が「b)」よりもあとに書かれたのかもしれない。いずれにせよ,ここでは,本文中の注番号「ba)」があとから書き込まれたものであることをも考慮して,「b)」,「ba)」の順に原注を収めておく。なお,この「b)」の末尾の文は,In time of abundance,and cheapと書いたところで空白がなくなり,++という符号でこのページの最下部に続けられている。ところがその左端部が紙の損傷で,あるべき連結符号++が欠けている。そのあとは次のようになっている。money,"this I know reaches an enormous amount"(43,44,Leatham.1.c.)これは,リーサムの原文のとおりである。
  35)〔E〕「1/7」--草稿でも1894年版でもMEGAでも「1/5」となっている。MEWでは「1/7」に訂正されている。リーサムがそこで挙げている外国手形の実数は75,499,120だから,MEWの訂正が正しい。
  36)「56ページ」--MEWでは「55,56ページ」に変えているが,「56ページ」が正しい。〉  (163-165頁)

 【この原注は〈これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている〉という部分につけられた原注〈b)およびba)〉とあるものの最初のものである。MEGAの異文に〈ここにはじめ「b)」と書いたのちに,それに「およびba)」を書き加えた〉とある。
 この「b)」はリーサムの『通貨についての手紙』からの抜粋のみでなっているので、平易な解読は省略した。
 このリーサムからの抜粋は同じ著書から5カ所が抜粋されている。抜粋された頁数をみるとマルクスは必ずしもリーサムの著書の最初から順序よく抜粋したというより内容的にその抜粋を並べていることが分かる。それぞれの抜粋を区別するために、便宜的に五つの抜粋に番号を打ってみた。

 (ⅰ)は流通する手形の実際の流通総額をリーサムから抜粋したものである。頁数からみると抜粋したもののなかでは一番最後の頁からである。1839年の手形総数5億ポンドあまり、そのうち外国為替手形は1/7で7千5百万余ポンド、そして同じ年に同時に流通した手形の金額が1億3千余ポンドと書かれている。この最後のものがマルクスが述べている支払期限がくるまでに裏書きされて流通した手形であり、本来の商業貨幣をなしているというものの総額であろう。実際の手形流通総額からすれば約1/5である。マルクスはまず一番最初にこの手形の流通数の現状を紹介しようとしたと思える。

  (ⅱ)以下はリーサムなりの考えが展開されているところが抜粋されている。ここからはリーサムの著書の頁数の順序どおりに抜粋されている。(ⅱ)は3頁以下である。マルクスはリーサムの注目すべきと思える主張を抜粋していると思える。しかしそのすべてを肯定的に抜粋しているとは言い難いところもあると考えなければならない。例えば、ここではリーサムは手形も「通貨」のうちに数え、通貨のそれ以外のすべての成分の合計より大きいとしている。しかし果たして手形を「通貨」と考えるのが正しいかどうかは疑問である。なおここで「手形」というのはリーサムの著書では「為替手形」となっているということで、それは次の抜粋と関連している。

  (ⅲ)は、だから「為替手形」について述べている。あるいは(ⅱ)に関連して書かれた一文と言えるのかも知れない。現代でも外国為替を「通貨」と捉え、円やドルの「通貨の価値」云々が言われているのであるが、こうしたものは厳密に言えばやはり間違いなのである。ただここではリーサムは為替手形を上層建築とし、銀行券や金をその土台と考えて、その上に築かれて巨大なものになっていると指摘しており、マルクスはリーサムのこうした指摘に「!」を付けている。これはその限りでは正しいとマルクスは考えていることをこの「!」は示しているのではないだろうか。そしてそれに続けて、土台が狭くなりすぎると上層建築の確定性もその存在そのものも危険にさらされるとの指摘もその限りでは間違いとはいえないであろう。

  (ⅳ)ではまず〈通貨の総額と要求払いのイングランド銀行および地方銀行業者たちの債務額〉とあるが、この内容を如何に考えるかが問題である。〈通貨の総額〉というが、リーサムは為替手形もそのなかに含めそのうちのもっとも大きなものと考えていることは先にみた。では〈要求払いのイングランド銀行および地方銀行業者たちの債務〉とは何であろうか。例えばイングランド銀行券や地方銀行券などもそれに入るし、それだけではなく、定期以外の預金もそれらは顧客からの要求があれば支払わねばならない債務であろう。そしてリーサムはそれらの総額を推定して、〈法律上金に兌換されうる153百万という額を見いだす〉としているが、しかし為替手形そのものはすぐに法律上金に換算される義務があるわけではない。為替手形にも他の手形と同様満期があり、満期が来れば、金での支払を要求することは可能であるが、それらのほとんどは預金の振替によって決済されるのであり、そのための信用用具なのである。だからそれらは最終的には何らかの預金額になるはずのものである。しかしそれらが最終的に預金になるといっても為替手形が預金と同じでは決してない。リーサムの推定値は1億5千余万ポンドであるが、これはもしイングランド銀行や地方銀行の預金総額が入っているとしたらあまりにも少ないといえる。だからあるいは〈要求払いのイングランド銀行および地方銀行業者たちの債務〉というのは、あるいはイングランド銀行券や地方銀行券のことを意味するのかもしれない。いずれにしてもリーサムは明確な概念にもとづいて計算しているわけではなさそうである。しかしリーサムはそうした法律上金に兌換義務があるものが1億5千万あまりもあるのに、それに応じうる金は1千4百万だと指摘し、その土台の狭さを指摘しているようである。しかしそのまえにリーサムは為替手形を上層建築として、その土台として銀行券と金をあげていたのではなかったか。ところがここでは土台を金に限定している。あるいはここでは土台と上層建築の問題ではなく、兌換義務のある債務総額とそれに応じる金の現実を対比してみているだけなのであろうか。いずれにしても概念的な混乱が問題を不明確にしていることは否めない。

  (ⅴ)はさらにさまざまな混乱に満ちたものになっている。ここで〈貨幣の夥多〉とあるが、恐らくそれは貨幣資本(moneyed capital)の過多ということであろう。いわゆるプレトラである。それを阻止するためには利子率や割引率の低下を阻止すべきというのである。しかしこれは原因と結果を取り違えたものといわざるをえない。貨幣資本(moneyed capital)が潤沢であるからこそ利子率は低下するのであって、利子率の低下を阻止すれば、貨幣資本(moneyed capital)の過多も阻止できるなどというのは本末転倒の類であろう。また利子率を恣意的に上下できるわけでもない。また利子率の低下を阻止できれば、手形を統制下におけるというのもまったく間違いである。むしろ手形は商業信用の状況に左右されるし、それは商品流通の現状に規定されている。そして商品流通は社会的な物質代謝に関わっている。だからそれは決して恣意的にあれこれできるものではないのである。ただそのあとリーサムが手形が実際の商品の売買から生じたものか、それとも融通手形のような架空な取引から生じたものかの区別は困難としているのはその限りでは事実として正当であろう。貨幣資本(moneyed capital)が過剰で利子率が低ければ、銀行は余剰な貨幣資本(moneyed capital)を何としても貸し付けるために架空な取引を増大させる傾向があるために、こうした架空な取引が増大してそれが巨大な額にのぼるというリーサムの指摘も正当といえる。

  結局、手形の満期までに何度も支払手段として流通するという商業貨幣としての性格に関連して、マルクスが付けたリーサムからの抜粋の原注はそうしたものの総額をある程度類推させるものであると同時に、そこから融通手形のような架空なものも巨額なものになるとの指摘、それとさまざまな概念上の混乱が生じている現実を示すものといえるのかもしれない。とりあえず、この原注「b)」の検討はこれぐらいにして、それに後から加えられた原注「ba)」の検討に移ろう。】


【8】

 /317下/(2)【MEGAII/4.2,S,470.24-33】〔原注〕37)38)ba)(ⅰ)「その他のすべての信用形態は」(手形等々,小切手,は--それら自身が相互的な債権の清算[Liquidation〕に役立つのでないかぎりは,あるいは銀行券のように貨幣に代わって流通するのでないかぎりは--)「ただ貨幣の役目〔the office of money〕を,売られた諸商品の所有権を移転するという役目から,それらの商品を表わしている債権を清算するという役目に変えるだけである。」(323,324〔草稿は326と誤記〕ページ)G.オプダイク経済学に関する一論』,ニューヨーク,1851年(ⅱ)「けれども,ある当事者が自分の債権者への債務を清算するのに自分の債務者の手形〔note〕をもってするような,あるいは,この手形を財貨の購買に使用するような,若干の場合〔がある〕。これらの,また類似の便法では,信用は貨幣の代理者であるcredit is a substitute for money〕。」(同前〔324ページ〕。)(ⅲ)「手形(その割引)によって,商人は信用を与えることができ,自分の資本になんらかの追加をする必要なしに,自分の取引を拡大することができる。」(J.W.ギルバト銀行業の歴史と理論』,ロンドン,1834年[152ページ]〔)〕〔原注ba)終わり〕/

  ① 〔異文〕「小切手,」--書き加えられている。
  ② 〔異文〕「自身」--書き加えられている。
  ③ 〔異文〕「(その割引)」--書き加えられている。

  37)この原注は原注「b)」の前に置かれているが,ここにもってきた。前出の脚注34を見よ。
  38)〔E〕エンゲルス版では,この注は削除されている。〉  (165頁)

 【この原注は原注b)にあとから付け加えられたものである。だからやはり原注b)と同様、本文の〈これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている〉という一文に関連したものといえるであろう。ここではオプダイクとギルバトのそれぞれの著書からの三つの抜粋だけで構成されている(そしてそこにマルクスによる短い挿入文がある)だけなので、平易な解読は省略した。
  まずオプダイクの『経済学に関する一論』の抜粋から見ていこう。この著書からは二カ所の抜粋がなされている。今回も便宜的にそれぞれの抜粋文に通し番号をつけておく。

  まず(ⅰ)の抜粋文である。まずオプダイクは〈その他のすべての信用形態は〉と始めているのに対して、マルクスは〈手形等々,小切手,は--それら自身が相互的な債権の清算[Liquidation〕に役立つのでないかぎりは,あるいは銀行券のように貨幣に代わって流通するのでないかぎりは--〉と限定している。続くオプダイクの一文は〈ただ貨幣の役目〔the office of money〕を,売られた諸商品の所有権を移転するという役目から,それらの商品を表わしている債権を清算するという役目に変えるだけである〉というものである。この後半部分のオプダイクの一文の意味するものは、貨幣の役目(機能)を流通手段から支払手段に変えるだけだ、と述べているように思える。オプダイク自身はそれが〈その他のすべての信用形態〉に妥当すると考えているわけであるが、ただここで〈その他の〉という一文がどういう文脈のなかで入っているのか分からないのであるが、とにかくマルクス自身は〈すべての信用形態〉と一括りにできないと考えているわけである。だからマルクスはそれを〈手形等々,小切手〉に限定し、しかも〈それら自身が相互的な債権の清算[Liquidation〕に役立つのでないかぎりは〉と述べている。ここでマルクスが〈相互的な債権の清算[Liquidation〕に役立つ〉と述べているのは、相殺されるのでないならば、という意味であろう。相殺されるなら手形や小切手は、ただ現金によって支払われる必要がないのであり、だから〈貨幣の役目(機能)〉としては〈それらの商品を表わしている債権を清算するという役目(機能)〉は不要だからである。だからマルクスはこうしたケースを除いているわけである。
   次にマルクスは〈あるいは銀行券のように貨幣に代わって流通するのでないかぎりは〉とも述べている。この限定はきわめて注目すべき一文である。なぜなら、マルクスがここで〈銀行券のように貨幣に代わって流通する〉と述べているのは、後に(【21】パラグラフで)マルクスが信用貨幣としての銀行券が商業流通から出て一般流通にはいり、貨幣として機能すると述べているケースについて述べていると考えられるからである。つまり通貨として、現金と同じものとして流通している銀行券について述べているのである。マルクスは「5)信用。架空資本」の「Ⅰ)」と項目番号をつけた部分以降(エンゲルス版の第28章以降)ではこうした銀行券を前提にすべての問題を論じているのであるが、少なくともわれわれがすでに検討した【3】パラグラフで述べている銀行券は、商業流通内で流通するものであり、だからそれらは手形流通にもとづいたものなのである。ただこうした通貨として流通する銀行券についても、マルクスはやはりそれも信用形態の一つだと考えていることについても留意しておく必要がある(つまりまったくの国家紙幣のようなものと同じではないということである)。なぜなら、一般流通に出て通貨として通用している銀行券も、やはり発券銀行によって利子生み資本(monied capital)として、市中銀行(イングランド銀行券の場合)や公衆(資本家等)の手へと貸し出され(あるいは預金の引き出しという形で出て行き)、一般流通に入っていくと考えるべきだからである。だからそれは銀行の貨幣信用を媒介しているわけである。

  (ⅱ)次の同じオプダイクからの抜粋文をみよう。この一文は、オプダイクの著書の引用頁数からみると先の抜粋文に直接関連して述べているように思える。つまりオプダイクは先の抜粋文では〈その他のすべての信用形態は〉と始めているが、しかし先に述べたものとは別のケースもあると続けているのが、この(ⅱ)の抜粋文のように思える。
   まずオプダイクが最初に言っていること、〈ある当事者が自分の債権者への債務を清算するのに自分の債務者の手形〔note〕をもってする〉というのは、自分の債務を別の業者が発行した手形で支払い、清算をするということである。もう一つの〈あるいは,この手形を財貨の購買に使用する〉というのは、その手形に裏書きして流通させて商品を信用で購入することであろう。そしてそれらをオプダイクは〈これらの,また類似の便法では,信用は貨幣の代理者である〉と述べているのである。下線はマルクスによるものであり、マルクスの関心がどこにあるかを示している。つまり手形を債務の清算に使ったり、それに裏書きして財貨を購入するという使い方は、信用を貨幣の代理として使っているという指摘そのものは正当だとマルクスも考えているということであろう。

  (ⅲ)次はギルバトからの抜粋文である。マルクスはギルバトが〈手形によって〉と書いている部分に、〈(その割引)〉という一文を挿入している。つまりギルバトが次に述べているようなケースが妥当するのは手形割引のケースに限定されるべきだということであろう。ところがこのマルクスの挿入文に大谷氏は異論を述べている。それはこの原注ba)を解説した一文につけられた注のなかでである。次のように述べている。

   〈マルクスは「手形」という語のあとに「(その割引)」という挿入をしているが,ギルバトは割引によって貨幣を入手できるということだけでなく,裏書譲渡によって手形を支払いにあてることができるということをも考えている。マルクスのこの--あとからの--挿入は不要であったように思われる。〉 (86頁)

   しかし果たしてそうであろうか。われわれは〈手形によって,商人は信用を与えることができ〉るというのはどういうケースかを考えてみよう。もちろん、商人が信用で商品を購入し支払約束である手形を発行する場合は、彼は信用を与えるのではなく受けるわけであるからこうしたケースとはいえない。あるいは彼が第三者の発行した手形を持っているなら、確かにそれは彼が与えた信用を表している。しかしそのことを果たして〈手形によって,商人は信用を与え〉たというであろうか。その場合は、彼は商品によって信用を与えたのであり、その結果、その信用を受けた相手の発行した手形をもっているわけである。こうしたケースを手形によって信用を与えたとは言わないであろう。あるいは大谷氏がいうように、彼が第三者の発行した手形に裏書きして、購入した商品の代金として支払った場合はどうであろうか。その場合は、彼が信用を与えたのではなく、やはり彼は裏書きされた手形と引き換えに彼にその商品を販売した人から信用を受けたのである(その商品の販売者は自分が商品によって与えた信用の代わりに裏書きされた手形を持っていることになる)。だから裏書譲渡の場合もここでは当てはまらないのである。だからマルクスは商人が自分が持っている手形を割引した場合のみを、手形で信用を与えるケースとして限定しているのである。なぜなら、その手形というのは彼がその手形の発行者に信用を与えたことを表すものだからである。それを銀行に割り引かせることによって、彼はその発行者に与えた信用を銀行に振り替えて与えたことになるのである。ただ銀行はその手形を引き受けた代わりに、銀行券を発行して商人に渡している。この銀行券は銀行の信用にもとづいて発行されたものであるが、やはり商人が銀行に与えた信用を転換したものである。もちろん、この場合、商人は手形を譲渡した銀行に対しては、例え形式的とはいえ債務者でもある。なぜなら手形は商人が与えた信用を表すものであるが、もしそれが不渡りになった場合には、銀行からその手形を買い取る義務が商人に残っているからである。しかしそうした特異なケースは別にして、その銀行券によって、商人は自分の取引を拡大することができるわけである。だから大谷氏の注によるクレームはいらざるものというか、マルクスの意図を読み誤ったものと言わねばならないだろう。】

 (続く)

2020年6月 3日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-4)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【4】

 [469]|317下|(1)【MEGAII/42,S.469.23】〔原注〕28)a)『経済学批判』云々,122ページ以下。〔原注a)終わり〕/

  28)〔E〕エンゲルス版ではこの原注は削除されている。そのかわり,前出の脚注10に記した『資本論』第1部への参照指示(「(第1部第3章第3節b)」--引用者)が挿入された。
  この原注の左側にはインクで縦線が引かれている。それは続く原注b)a),b),そしてc)の最後の行まで延びており,最後のところは右に曲げられて,c)の末行をやや包み込むようなかたちになっている。〉 (161頁)

 【これから検討する原注はすべて前回検討した本文の【3】パラグラフにつけられたものである。これは草稿の317頁の下段の最初に書かれている。だから大谷氏は〈|317下|(1)〉と(1)という番号をつけているわけである。
  この原注は本文にある〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした〉という部分につけられたものであるが、ただ『経済学批判』の参照箇所を指示するだけのものである。それをエンゲルスは「(第1部第3章第3節b)」に変更したことはすでに指摘した。また『経済学批判』の参照箇所についても、すでに前回紹介したので、ここではマルクスが本文の【3】パラグラフに付けた原注の複雑な付け方について少し紹介しておきたい。エンゲルスがマルクスが付けた原注をかなり恣意的に変えているが、とりあえず、われわれはエンゲルスの編集は無視してその是非は論じないことにする。
 大まかにいうと、マルクスは原注a)をつけたあと、さらにそれに関連して「注a)に」という注記を二つつけている。さらに原注a)と原注b)との両方への注記として「注aおよびbに」という原注も書いているのである。しかもそれらの原注は原頁を前後してややこしいこと甚だしいのである。しかしあまり込み入った詮索はよけいに混乱するものであるから、われわれはほどほどにしておこう。
 ただ一つだけ指摘しておくと、大谷氏はテキストを紹介する前に書いた解説では次のように書いている。

 〈『批判』を指示した注「a)」には,さらに二つの注がつけ加えられている。その第1のものは,『通貨理論論評』からの引用で,エンゲルス版には収められていない。〉 (84頁)

 このように大谷氏は注「a)」に付けられた二つの注のうち最初のものは『通貨理論論評』からの引用であるかに述べている。しかし実際のテキストの訳文の紹介では、この順序が逆になり、トゥクの『通貨原理の研究』からの引用を先に紹介している。実はこのテキストの訳文の順序はMEGAの編集どおりにしたものである。それに対して、大谷氏の今回の著書のもとになった論文(「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)『経済志林』第51巻第3号1983年)ではその順序が逆になっていたのである。だから恐らくこの解説部分は昔書いたものをそのまま移しただけで、順序が変更されていることを踏まえたものに書き直すのを忘れたのであろう。しかし大谷氏自身は今はMEGAの編集どおりでよしとしていると考えておくことにする。
 いずれにせよ、それらの原注については、それぞれのテキストの検討のなかで論じることにしよう。】

【5】

 |318下|(1)【MEGAII/42,S、469.24-38】〔原注〕①29)注a)にad Note a)〕。トゥクは信用一般について次のように言っている。「〔(ⅰ)〕信用とは,その最も簡単な表現においては,その根拠が十分であろうと薄弱であろうと,ある人をして,ある金額の資本を他の人に,貨幣のかたちかまたは合意された貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ねさせるにたりる信頼confidence〕であって,その資本額はどちらの場合にも,定められた期限の満了時に支払われるべきものである。〔/(ⅱ)〕資本が貨幣で貸し付けられる場合,すなわち銀行券か当座貸越〔cash credit〕か取引先あての手形で貸し付けられる場合には,支払われるべき額に加えて,100ポンド・スターリングについていくらという,資本の使用にたいする追加がなされる。〔/(ⅲ)〕商品の場合には,販売を構成するのであって,それの価値は貨幣で換算して合意されているのであり,返済されるべき約定金額には,定められた支払期間の満了までの資本の使用にたいする報酬とそれまでの危険にたいする報酬とが含まれている。〔/(ⅳ)〕これらの信用には,たいてい,満期日を定めた支払約束書が付随しているが,これらの引受日後に譲渡可能な債務証書あるいは約束手形〔the obligations or promissory notes after date being transferable〕は,貸し手たちが自分のもっているこれらの手形が満期になる以前に貨幣なり商品なりのかたちで自分の資本を使用する好機を見いだすときには,彼らがより低い条件で借りたり買ったりすることができるための手段となる。というのは,彼ら自身の名前に加えて手形に裏書きされる名前によって,彼ら自身の信用が強化されるからである。」(『通貨原理の研究』,87ページ。〔王野井芳郎訳『通貨原理の研究』,『世界古典文庫』,日本評論社,1947年,146-147ページ。〕)〔原注「注a)に」終わり〕/

  ①〔異文〕この原注は〔草稿の〕318ページにある。これは「注aに」という指示に従って317ページに組み込まれた。当初ここで,〔MEGA II/4.2の〕472ページ14行〔のちの「/317上/(6)」のパラグラフのなかの注番号「f)」〕に予定されていた原注「f)ギルバト」をマルクスは消した。〔注番号「f)」につけた筆者の脚注87を参照されたい。〕

  29)脚注32を見よ。318ページの下半部はここから始まる。〉 (161-162頁)

 【これは原注「a)」に付けられた二つの「注aに」という注記の最初のものである。〈トゥクは信用一般について次のように言っている〉という一文以外は、トゥクの『通貨原理の研究』からの引用なので、平易な解読は省略した。ここではこのトゥクからの引用文の内容を吟味し、それに関する大谷氏の説明も併せて考えてみることにしたい。
  その前に、ご覧のように、この「注aに」は318原頁の下段に書かれたものである。それに対して、次のパラグラフ(【6】)のやはり同じ「注aに」と書かれた原注は317原頁下段に書かれている。にも関わらずこうした順序になっている事情について、小林賢齊(まさなり)氏は次のように指摘している。

 〈MEGA編集者は,後の方の「注a)に」,つまりトゥックからの引用を先に,前の方の「注a)に」,つまり「通貨理論評論』からの引用を後に,復元している。編集者はMEGA,S.1060で,「S.318を見よ。注a)に。トゥック」という指示の文言が,先の方の「注a)に」の後になってからから書き込まれたものであることを記しているが,それ以上の説明は与えていない。しかしMEGAに収録されている手稿S.317のフォトコピーから判断すると,「S.318を見よ。云々」の指示が,最初の「注a)に」の文章部分--『通貨理論評論』からの引用--の前に入るように線で記されているので,MEGA編集者は,後の方の「注a)に」つまりトゥック『通貨原理の研究』からの引用を,『通貨理論評論』からの引用より先に,復元したのであろう。〉(『マルクス「信用論」の解明』八朔社2010年7月25日、321-322頁)

  大谷氏にはこうした説明はない。ただ訳者注28)には次のような指摘がある。

  〈この原注(原注a)--引用者)の左側にはインクで縦線が引かれている。それは続く原注b)a),b),そしてc)の最後の行まで延びており,最後のところは右に曲げられて,c)の末行をやや包み込むようなかたちになっている。〉 (161頁)

  大谷氏がただの縦線と見たものと、MEGAの編集者が(そして小林氏も)挿入個所を指し示す線と見たものと同じものかどうかは分からないが、大谷氏はそれを相変わらず縦線と見ながら、しかしMEGAの編集者の判断には従うという奇妙な対応になっているのかも知れない。これ自体はそれほど大したことではないが……。

  さて、このトゥクの一文であるが、全体の構成をみるために、内容に応じて便宜的に〔/〕を付けて分割し、それぞれに番号を付したが、それを見ると全体は四つの部分から構成されている。最初の(ⅰ)の部分はマルクスがいうように〈信用一般について〉述べているように思える。すなわち〈信用とは,その最も簡単な表現においては,その根拠が十分であろうと薄弱であろうと,ある人をして,ある金額の資本を他の人に,貨幣のかたちかまたは合意された貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ねさせるにたりる信頼confidence〕であって,その資本額はどちらの場合にも,定められた期限の満了時に支払われるべきものである〉。
  そしてその信用一般の説明で述べられている〈ある金額の資本を他の人に,貨幣のかたちかまたは合意された貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ねさせるにたりる信頼confidence〉という二つのケース、すなわち〈貨幣のかたち〉と〈財貨のかたち〉の二つの場合について、それぞれ具体的な説明が行われている。
  だから(ⅱ)はまず〈資本が貨幣で貸し付けられる場合〉である。これは三つのケースがあり、一つは銀行券による貸し付け、次は当座貸越であるが、これは当座預金にある預金額を越えて支払に応じるという形で貸し付けることであろう。その次は「取引先宛の手形」であるが、この取引先というのは、銀行からこれから貸し付けを受ける業者の取引先なのか、あるいは銀行自身の取引先なのかはこれだけでははっきりとはわからない。ただ銀行の取引先の手形の場合、それをこれから支払に応じなければならない貸し付けを受ける業者にとっては必ずしも支払手段たりうるものとは言えないかもしれない。ただ銀行が裏書きした手形は、それなりに信用が高いからそれによる支払を了承する業者が多いかもしれない。しかしここではとりあえず、貸し付けを受ける業者の取引先をAとしよう、業者は取引先Aへの支払のために銀行に貸し付けを依頼したのであるが、銀行にはたまたま他の業者から持ち込まれたAが発行した手形があったので、それによって業者に貸し付けたということであろう。いずれにしても、これらの場合には〈支払われるべき額〉、すなわち元本に加えて、〈100ポンド・スターリングについていくらという,資本の使用にたいする追加〉、つまり利子が支払われる。
  (ⅲ)次は〈商品の場合〉である。このケースは〈貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ね〉る場合であるが、これは産業資本や商業資本、つまり再生産資本家どうしの場合のことであろう。この場合は〈販売を構成する〉というトゥクの指摘は重要である。業者Aが業者Bに互いに合意した値決めにもとづいて商品を貸し付けるのであるが、それは業者Aが自分の商品を業者Bに信用で販売したことになるとトゥクは指摘しているのである。つまり掛け売りしたのである。だからこれは商品で貸し付けたとは言っても商品での返済を期待しているわけではない。返済されるのは約定された貨幣額である。しかしそれには値決めされた貨幣額だけではなく、それに加えて支払期間までの資本の使用に対する報酬とそれまでの危険にたいする報酬とが含まれているということである。しかしこれらの追加分は利子と解してよいであろう。
  (ⅳ)はこうした銀行による貸し付けの場合も、業者どうしの相互的な前貸しにしても、〈満期日を定めた支払約束書が付随している〉と指摘している。〈引受日後に譲渡可能な債務証書あるいは約束手形〉である。これらの債務証書や約束手形は裏書されて商業貨幣として流通するのであるが、それをトゥクは〈これらの手形が満期になる以前に貨幣なり商品なりのかたちで自分の資本を使用する好機を見いだすときには,彼らがより低い条件で借りたり買ったりすることができるための手段となる〉と述べている。
 ここで〈彼らがより低い条件で借りたり買ったりする〉というのはどういうことであろうか? 手形で借りるというのは、手形を銀行に持ち込んで割引してもらうことであろう(あるいは業者が空の手形を切って、それを割引してもらうという、いわゆる手形貸付のことも可能性としてありうる)。そうすることによって手形が満期になる前に、手形の持参人は現金を入手することができるわけである。その場合は、手形が満期になったら支払われる貨幣額より、割引される。つまり満期までの期間の利子が差し引かれることになる。だから〈より低い条件で〉と述べているのであろう。では手形で買う場合はどうであろうか。生産者や商人が、第3者から受け取った手形に裏書きして、別の業者から購入した商品の代金として支払うことである。この場合も値決めされた商品の代金にプラス満期までの利子を追加することになるのであろう。それだけの額面の手形が裏書きされる必要があるということであろう。だからこの場合も〈より低い条件〉ということになる。
 では続けて〈というのは,彼ら自身の名前に加えて手形に裏書きされる名前によって,彼ら自身の信用が強化されるからである〉というのはどういうことであろうか。これは〈彼らがより低い条件で借りたり買ったりする〉のであるが、それはそれによって彼ら自身の信用が強化されるからだという文意と考えることが出来る。手形を割引して銀行券にするということは、同じ支払約束を転換したに過ぎないが、銀行の支払約束である銀行券の方が信用が強化されていることは明らかである。また裏書譲渡される手形の場合、裏書される名前が多いほど信用が大きいとされることを意味していると考えることが出来る。

  ところでこのトゥクからの引用に大谷氏は次のような解説を行っている。

 〈マルクスはまず,「トゥクは信用一般〔Credit im Allgemeinen〕について次のように言っている」,と書いている。そのあとのトゥクの文章では,「信用」とはかくかくしかじかのものである,といったのち,貨幣で与えられる銀行業者の信用と商業信用とをあげ,続いてそれに付随する手形とその裏書譲渡とについて語っている。つまり,信用制度のもとで取り扱われる信用についての叙述を「信用一般」についての叙述と呼んでいるのである。〉 (85頁、太字は大谷氏の傍点による強調箇所)

  しかしこうした解釈にはやや首を傾げざるを得ない。なぜならマルクスが〈トゥクは信用一般について次のように言っている〉と述べているのは、その引用の冒頭でトゥクが次のように書いていることを指していることは明らかではないだろうか。すなわち〈信用とは,その最も簡単な表現においては,その根拠が十分であろうと薄弱であろうと,ある人をして,ある金額の資本を他の人に,貨幣のかたちかまたは合意された貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ねさせるにたりる信頼confidence〕であって,その資本額はどちらの場合にも,定められた期限の満了時に支払われるべきものである。〉そしてトゥクはそのあと〈ある金額の資本を他の人に,貨幣のかたち〉で委ねる場合と〈合意された貨幣価値で計算された財貨のかたちで委ね〉る場合との、より具体的な説明に入っているわけである。だからマルクスが「信用一般」という場合はその前の一般的に述べている部分を指すことは明らかではないだろうか。大谷氏は、マルクスが引用している部分全体を「信用一般」について叙述しているものと理解して抜粋したのだとするのだが、果たしてそれはマルクスの意図を正しく捉えたものといえるだろうか。
  大谷氏は単純流通における貨幣の支払手段としての機能から生まれる債権・債務の関係を信用関係だとして、それに「商品信用」なる氏独特の用語を用いている。ここで大谷氏がマルクスがトゥクの引用文を「信用一般」を語ったものと評価しているが、そのトゥクの一文は〈信用制度が取り扱うもろもろの信用と単純な商品流通における掛売りで与えられる信用との関連すなわち前者の「基礎」は後者であるということが問題となっていることを示唆している〉(85頁)とするのである。つまりマルクス自身は明確には述べていないが、トゥクの引用文の紹介を介しながら、単純流通における掛け売買も信用関係だと述べているのだ、と大谷氏としては解釈したいわけである。
  大谷氏の「商品信用」については、大谷新本第2巻でも特別に解説を加えている。若干、マルクスのテキストの解読から横道にそれるが、まあ、【3】パラグラフとの関連はないとはいえないので、それを少し検討してみることにしよう。

◎大谷氏の「商品信用」について

 大谷氏はわれわれのパラグラフ番号で【3】とそれにつけられた注を検討するなかで、次のように説明している。

  〈ここで注目したいのは「信用取引〔credit bargain〕」という語である。単純な商品流通のもとで形成される商品所有者間の債権債務関係では,債権者が債務者に信用を与えるのであって,この関係は信用関係である。「支払手段としての貨幣の機能は信用にもとづいている」(MEGA Ⅱ/4.2,S.534;本書第3巻429ページ)のである。「信用システム〔Kreditsystem〕」とは,文字どおりには,現実の価値である貨幣に代わるものとしての「信用」を取り扱うシステムである。そしてその「信用」そのものは,単純な商品流通のもとで自然発生的に生じるのである。〉 (84頁、太字は大谷氏の強調箇所)

  これは後に紹介する単純流通における支払手段としての貨幣の機能を「商品信用」とする自説に対する伏線として述べているものである。大谷氏は自身の新本第3巻からマルクスの一文を引用をしているが、それは正確ではない。マルクス自身の一文を以下に抜粋しておこう(【  】で囲った部分が大谷氏が引用していると思われる部分である)。

 〈たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔Suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払いの集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ二つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き換えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。〉(大谷新本第3巻428-429頁)

  これを見れば、大谷氏の引用は正確ではないことが分かる。大谷氏はマルクスが〈そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔Suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている〉と述べている部分を〈「支払手段としての貨幣の機能は信用にもとづいている」〉と鍵括弧に括って、あたかもマルクス自身がそう述べているかに引用しているが、両者を較べれば、大谷氏の引用は正確ではなく、あえて善意に解釈するなら要約というべきものであろう。ただしそれはあくまでも大谷氏自身の理解に引きつけた要約なのである。
  なぜなら、まず第一に、確かにマルクスは単純流通における貨幣の支払手段の機能から生じる債権・債務の関係は信用にもとづくことを指摘しているが、しかしそれを「商品信用」と述べているわけではない。そして第二に、マルクスは上記の引用文でも資本主義的生産が発展していることや、銀行業者の存在も前提して述べているのであり、その意味では資本主義が発展した状態における〈産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用〉のことについて語っているのである。だからそれは確かに単純流通から自然発生的に生まれるものではあるが、すでにそれが拡大され、一般化され、仕上げられたものとして、すなわち「商業信用」としての「信用」について述べていることは明らかなのである。
  単純流通における支払手段としての貨幣の機能から自然発生的に生じてくる債権・債務関係が発展して、拡大して、仕上げられたとしても、それらの単純流通としての性格がなくなるわけではない。なぜなら、『資本論』の冒頭で考察されている単純流通というのは、発達したブルジョア社会の表面に現象しているものをその背後にある資本関係を捨象して、直接的なものとして抽象して取り出したものだからである。『経済学批判・原初稿』には次のような記述がある。

  〈しかしわれわれはここでは、〔単純〕流通の資本への歴史的移行については論じないことにする。単純流通とはむしろ、ブルジョア的総生産過程のひとつの抽象的部面なのであり、この部面はそれ自身のもつ諸規定を通じて、それが、単純流通の背後に横たわり、単純流通から結果として生ずるとともに、それを生み出しもする、より深部にある過程--産業資本--の契機であり、それの単なる現象形態にすぎぬことを実証するのである。〉 (草稿集③150-151頁)

  マルクスはこうした単純流通における貨幣の支払手段としての機能から生じる債権・債務関係について論じてはいるが、それを信用関係として説明することを避けているのである。なぜか? それは信用関係は資本主義のより発展した関係を前提するからである。『経済学批判要綱』には次のような記述もある。

  〈これまでに述べたすべてのことから、流通は資本の本質的な過程として現われるということがわかる。生産過程は、商品が貨幣に転化される以前には、新たに開始されることができない。過程の持続的な連続性、すなわち、価値がある形態から他の形態へと、あるいは過程のある局面から他の局面へと、妨げられることなく、よどみなく移行することは、それ以前のあらゆる生産形態の場合とはまったく違った程度に、資本にもとづく生産にとっての根本条件として現われる。他方では、この連続性の必然性が措定されているのに、それらの局面は、特殊的な相互に無関心な諸過程として、時間的にも空間的にもばらばらになる。そこで、資本にもとづく生産にとっては、それの本質的な条件が、すなわち、生産の全過程を構成するさまざまな過程の連続性がつくりだされるかどうかが、偶然的なこととして現われる。資本そのものによるこの偶然性の止揚が信用である。(信用はさらに別の諸側面をもっているが、この側面は生産過程の直接的本性に由来するものであり、したがってまた信用の必然性の基礎である。)だからこそ、いくらかでも発展した形態での信用は、以前のいかなる生産様式〔Weise der Produktion〕においても現われることがないのである。以前の諸状態においても貸借は行なわれたし、高利は、資本の大洪水以前的諸形態のうちの最古の形態でさえある。しかし、貸借が信用を構成しないのは、もろもろの労働が産業的労働あるいは自由な賃労働を構成しないのとまったく同様である。本質的な、発展した生産関係としては、信用は、歴史的にもまた、資本あるいは賃労働にもとづく流通においてのみ現われるのである。(貨幣そのものが、さまざまな生産諸部門で必要とされる時間の不均等性を、それが交換の妨げとなるかぎりで、止揚するための一形態、である。)高利は、それのブルジョア化された、すなわち資本に適合させられた形態では、それ自身信用の一形態であるけれども、それの前ブルジョア的形態では、むしろ信用の欠如の表現である。〉 (草稿集②209-210頁)

  このようにマルクスは〈本質的な、発展した生産関係としては、信用は、歴史的にもまた、資本あるいは賃労働にもとづく流通においてのみ現われる〉と述べている。信用というのは資本の運動の連続性を媒介するものであるが、だから資本関係を捨象した『資本論』の冒頭篇では信用はまだ問題にはならないのである。大谷氏はこうした問題を理解しようとしていないように思える。

 先に大谷氏が引用していた一文でマルクスが〈この節約にはただ二つの種類だけがありうる〉と述べていることにも注意が必要であろう。もちろん、これは振り替えによる節約ということであり、それは債権・債務関係が同じ銀行業者のもとで相殺されるか、それとも異なる銀行業者どうしのあいだで相殺されるかの二つだとしているのであるが、こうした銀行の存在を前提してマルクスはこれらの文章を書いているのであり、決して『資本論』の冒頭篇のように単純流通における支払手段の機能だけにもとづいた話ではないということである。大谷氏は『資本論』の冒頭篇という対象の抽象度と限定性を顧慮せずに、そこにおける信用の存在を主張し、それを「商品信用」という氏独特の用語を使うことを提唱しているのである。上記の一文はそうした自説の根拠を示すものだと勘違いした(というより牽強付会に近い解釈をした)わけである。
   マルクスは『経済学批判』の「第2章 貨幣または単純流通」の冒頭で、次のように述べている。

  〈貨幣の分析におけるおもな困難は、貨幣が商品そのものから発生するということが理解されれば、たちまち克服される。この前提のもとでなおまだ問題となるのは、貨幣の固有な形態規定性を純粋に把握することだけであるが、これは、すべてのブルジョア的諸関係が金めっきされたり銀めっきされて貨幣関係として現われ、したがって貨幣形態が、それ自身とは疎遠な、無限に多様な内容をもっているように見えるので、かなり困難にされるのである。
  以下の研究でしっかり把握しておかなければならないことは、商品の交換から直接に発生する貨幣の諸形態だけを問題にし、生産過程のもっと高い段階に属する貨幣の諸形態、たとえば信用貨幣のようなものは問題にしない、ということである。簡単化のために、どんな場合でも金が貨幣商品であるとしておく。 〉 (全集13巻47-48頁)

  こうした理由から、貨幣の固有の形態規定性の一つである支払手段としての機能を論じるときにも、マルクスは債権・債務の関係の発生については論じているが、そこで取り交わされる手形等の信用諸用具についてはまったく言及せず、銀行制度を前提するような信用貨幣についてもまったく論じていないのである{マルクスは〈信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られていない諸関係を前提する〉(全集第23a巻166頁)と述べている。}。大谷氏はこうした冒頭篇における対象の限定性をまったく顧慮せずに、そこに債権・債務関係があるのだから、だから信用関係もあり、それに固有の名前(商品信用)をつけて呼ぶべきだと主張するのであるが、それはこうしたマルクスの問題意識に対する無理解から来ていると言わざるをえない。
 しかしとにかく大谷氏が自説の「商品信用」について述べている部分も紹介しておこう。

  〈単純な商品流通における掛売りで授受される信用は,理論的には,資本主義的生産のもとで再生産的資本家たちが掛売買のさいに互いに授受する信用すなわち、商業信用から,この当事者が資本家であることを,したがって彼らの資本家としての相互関連によって規定される相互性を,したがってまたこの信用の資本主義的性格を,捨象したものである。マルクスは掛売りで与えられる信用を,商業信用とは区別される独自の言葉で呼んでいない。しかし,この一般的な,より抽象的な信用と商業信用との関係を明確に把握するためには,この信用を特定の語で呼ぶことが有用である。これまでも,「流通信用」,「掛売信用」,「商品信用」などの呼び名が冠せられてきているが,のちに見るように,マルクスは「商業信用」にたいして「貨幣信用」--これはいわゆる「銀行信用」のことである--を対置しているのであって,この「貨幣信用」にたいする語としては「商品信用」が,よりふさわしいもののように思われる。すなわち,「商業信用」は発展した「商品信用」であって,これに「銀行業者の信用」である「貨幣信用」が加わってくるのである。
 最も単純な信用である「商品信用」は,貨幣が支払手段として機能するさいに生成し,授受されるものである。〉 (91-92頁)

  大谷氏は「貨幣信用」に対する語として「商品信用」がよりふさわしいというのであるが、しかしそれはただ「貨幣」に対するものとしての「商品」という用語上の問題だけの話である。貨幣信用が資本主義の銀行制度を前提した信用なのだから、それに対するものとしての「商品信用」が資本主義的諸関係を捨象して得られるものであることを考えるなら、決して〈よりふさわしいもの〉とはいえないであろう。なぜなら、貨幣も商品もそれらは単純流通を前提した用語であるからである。
 そもそも大谷氏はマルクスが『資本論』の冒頭篇で掛売買を(敢えて指摘すれば、マルクス自身は「掛売買」という用語そのものも使っていないのだが)、「信用」という用語そのものを使わずに(また本来掛売買で発生するであろう手形等の流通用具についてもまったく取り上げずに)、それを貨幣の支払手段としての機能として説明しているのはどうしてか、ということを何も考えていない。ただ〈マルクスは掛売りで与えられる信用を,商業信用とは区別される独自の言葉で呼んでいない〉が〈しかし,この一般的な,より抽象的な信用と商業信用との関係を明確に把握するためには,この信用を特定の語で呼ぶことが有用〉だというだけである。そんな便宜的な理由でこうした用語を造語するのは軽はずみとしか言いようがない。マルクスがどうして掛売買を支払手段としての貨幣の機能において説明しているのか、どうしてそこでは信用について言及されていないのか、また手形などの信用用具についても不問にしているのか等々、こうしたことを深く考察することこそが必要ではないのかと思うわけである。その理由について私の考えはすでに述べた。 】

 (続く)

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