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2020年5月

2020年5月28日 (木)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-3)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【3】

 /317上/(3)【MEGAII/42,S。469.13-22470.1-6und471.1-4】私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。a) 商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎〔Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。これらの手形は,その支払満期にいたる[470]まで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている。b)およびba) それらは,最終的に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは,絶対的に貨幣として機能する。というのは,この場合には貨幣へのそれらの最終的転化が生じないからである。生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の[471]基礎〔Grundlage〕をなしているc)ように,彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしているのであって,⑩25)これらのものの土台〔Basis〕は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,26)手形流通なのである。27)⑪e)/

①〔注解〕「前に」カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』,ベルリン,1859年,121-122ページ(MEGA II/42,S.202und205)。
②〔異文〕「商品生産者」← 「商品所持者」
③〔異文〕「手形という一般的範疇のもとに包括することができる」← 「手形という一般的名称で呼んでいる」
④〔異文〕ここにはじめ「b)」と書いたのちに,それに「およびba)」を書き加えた。
⑤〔異文〕「……以外の……それらの最終的転化が……ない」という書きかけが消されている。
⑥〔異文〕「相互的な」--書き加えられている。
⑦〔異文〕「……土台〔eine Basis〕」という書きかけが消されている。
⑧〔異文〕「c)」--書き加えられている。
⑨〔異文〕「等々」--書き加えられている。
⑩〔異文〕「これらのものの土台は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。」← 「これらは貨幣(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形を表わすのである。」← 「これらのものの土台〔Basis〕は現金(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形なのである。」
⑪〔異文〕「e)」← 「d)」← 「b)」

  25)〔E〕「これらのものの土台」以下の部分は原文では次のようになっている。deren Basis nicht d.Geldcirculation(sei es metallisches od.Staatspapiergeld),sondern Wechselcirculation.この部分はエンゲルス版では次のようになっている。「これらのものは,金属貨幣の流通であろうと国家紙幣の流通であろうと,こうした貨幣流通にもとづいているのではなくて,手形流通にもとづいているのである。〔Diese beruhen nicht auf der Geldzirkulation,sei es von metallischen Geld oder von Staatspapiergeld,sondern auf der Wechselzirkulation.)」
  26)「手形流通〔Wechselcirculation〕」--MEGAでは,この語のうちの「手形〔Wechsel〕」の部分だけが強調されているが,マルクスは,「手形〔Wechsel〕」という語の上に「流通〔circulation〕」と書き加えて,「手形」を「手形流通〔Wechselcirculation〕」に変更したのであって,この語の全体に下線が引かれているものと見るべきであろう。
  27)この注番号「e)」に対応する原注は書かれていない。〉 (159-161頁)

 〈私は以前どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにしました。商業が発展し、ただ流通だけを考えて生産を行う資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用システムのこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、仕上げられて行きます。だいたいにおいて発展した資本主義的な商業においては、貨幣はただ支払手段としてのみ機能します。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのです。われわれはこの支払約束を手形という一般的範疇のもとに包括することが出来ます。これらの手形は、その支払満期にいたるまで、それ自身、支払手段として流通します。そうした流通する手形こそ本来の商業貨幣をなしているのです。それらは最終的に債権債務の相殺によって決済される限りでは、絶対的に貨幣として機能します。なぜなら、そうした場合には手形の貨幣への最終的転化が生じないからです。生産者や商人のあいだで行われるこれらの相互的な前貸し、すなわち商業信用こそが信用制度の本来の基礎をなしているのです。同じように彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣、すなわち銀行券流通等々の基礎をなしているのです。だから銀行券流通の土台は、貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて、手形流通なのです。〉

 【ここでは〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした〉という部分に次のパラグラフに見るように原注「a)」が付けられ、〈『経済学批判』云々,122ページ以下〉と書かれている。だから本来は次のパラグラフを検討するなかで問題にすべきだが、このパラグラフの理解とも関連するので、われわれはマルクスの指示する『経済学批判』の当該箇所を見ることにしよう。

 〈|122|販売の両極が時間的に分離されているこのような掛売りが、単純な商品流通から自然発生的に生じるということは、なんら詳細な証明を必要としない。まず流通の発展にともなって同じ商品占有者たちが互いに売り手と買い手として交互に登場することが繰り返されるようになる。この反復される現象は、単なる偶然にとどまることなく、商品はたとえば将来のある期日に引き渡されて支払われるということで、注文される。この場合には、販売は観念的に、つまりここでは法律上完了されたのであって、商品と貨幣とはその現身で現われることはない。流通手段および支払手段としての貨幣の二つの形態は、ここではまだ一致している。というのは、一方では商品と貨幣とが同時に位置を変換し、他方では貨幣は商品を買うのではなく、まえに売られた商品の価格を実現するからである。さらにまた、一連の使用価値は、その性質上、商品の実際の引渡しとともにではなく、ただ一定の期間それをゆだねることによってはじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の使用が1ヵ月だけ売られるとすると、その家屋は月のはじめにその使い手を変えるけれども、その使用価値は1ヵ月が経過したあとで引渡しずみとなる。この場合には、使用価値を事実上ゆだねることと、その現実の譲渡とは、時間的にくいちがっているから、その価格の実現も同じくその位置変換より遅れて行なわれる。しかし最後に、いろいろな商品が生産される期間と時期には違いがあるので、ある人は売り手として登場するのに、他の人はまだ買い手として登場できないということが生じる。そして同じ商品占有者たちのあいだで売買が頻繁に繰り返されればされるほど、販売の二つの契機は、彼らの商品の生産諸条件に応じて分離してくる。こうして商品占有者たちのあいだに債権者と債務者との関係が成立する。この関係はたしかに信用制度の自然生的基礎をなしているが、信用制度が存在するよりも以前に、完全に発展していることがありうる。けれども、信用制度の発達、したがってまたブルジョア的生産一般の発達とともに、支払手段としての貨幣の機能が、購買手段としての貨幣の機能を縮小させることによって、またそれ以上に貨幣蓄蔵の要素としてのその機能を縮小させることによって拡張されることは明らかである。たとえばイギリスでは、鋳貨としての貨幣は、ほとんどもつばら生産者と消費者とのあいだの小売取引や小口取引の領域に封じこめられているのに、支払手段としての貨幣は、大口の商取引の領域を支配している。〉 (草稿集③367-368)

 この『経済学批判』の参照指示をエンゲルスは勝手に〈『資本論』第1部第3章第3節b〉の参照に変えたのであるが、それを大谷氏は批判的に指摘しながら、本文テキストとこの『経済学批判』の指示箇所の一文との関連を次のように指摘している。

 〈このパラグラフでの「信用システムのこの自然発生的な基礎diese naturwuchsige Grundlage d.Creditsystems〕」と『批判』での「信用システムの自然発生的な基礎」とがまったく同じものであること,前者では「商品生産者や商品取扱業者のあいだで形成される債権者と債務者との関係」と言っているが,これも後者での「商品所有者のあいだで成立する債権者と債務者との関係」をやや具体的に言ったものにほかならないこと,それが「自然発生的な基礎」と呼ばれているのは,この基礎のうえに信用制度が自然発生的に生じる,という意味ではなくて,この基礎そのものが「単純な商品流通から自然発生的に生じる」という意味であること,これらのことがただちに読み取られるであろう。〉 (83-84頁、下線はマルクス、太字は大谷氏による傍点)

   さて、このパラグラフについてはあと幾つかのことを述べておく必要がある。

  (1)マルクスは〈商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている〉と述べている。
 流通する手形が本来の商業貨幣をなしているというのはよいが、ここで手形が〈支払手段として流通する〉というのが今一つよく分からないのである。商品の購入者によって手形は裏書きされて、商品の代金として商品と引き換えに手渡される。その限りではこの場合、手形は購買手段として機能するというのは分かるが、どうして「支払手段」と言いうるのかが疑問なのである。そこでそもそも支払手段とは何かが問題になる。マルクスは『資本論』第1部第3章第3節「貨幣」の冒頭パラグラフのなかで次のように述べている。

  〈金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行なわれるか代理物によって行なわれるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。〉 (全集版25a170頁)

   ここでマルクスが〈一方では〉と述べているのは蓄蔵貨幣についてであり、〈他方では〉と述べているのは支払手段についてである。つまり支払手段としての貨幣は、金自身だけではなく、その代理物によっても可能であり、ただそれが〈交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合〉であれば、それは支払手段として機能するとしている。手形は貨幣の支払約束である。その手形に裏書きするということは、同じようにそれで商品を購入する者は支払約束をすることである。しかし最初に手形を切った商人にとっても、それを裏書譲渡した第2の商人にとっても、その時点でそれぞれの商品の売買は法律上は完了している。だからその限りで手形はその時点で商品流通を終決させる機能を果たしているのである。だからそのような意味で手形は支払手段として流通すると言えるのではないだろうか。もちろん、この場合もそれが言えるのは法律上のことであって、それが最終的に貨幣によって支払われるか、相殺によるのでなければ、そうした支払約束は反故にされてしまうのであろうが。

  (2)マルクスは一方で〈単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく〉と述べ、他方で〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしている〉と述べている。
   これらは果たしてまったく同じことを述べているのであろうか。
   単純流通における掛け売買そのものはまだ商業信用とはいえない。だからここでマルクスが、〈信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〉という場合の〈この自然発生的な基礎Grundlage〉というのは、単純流通から自然発生的に生まれてくる掛け売買のことを指しており、商業信用を意味するわけではない。ただその掛け売買が〈商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて〉、〈拡大され,一般化され,仕上げられてい〉くならば、それは商業信用たりうるということではないだろうか。マルクスがここで述べているのはそういうことである。
   他方、〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸〉というのは明らかに商業信用を意味している。だから、この場合は商業信用が〈信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしている〉わけである。だからこれら二つの場合の〈自然発生的な基礎Grundlage〉と〈本来の基礎〔Grundlage〉とは明らかに意味が違っていると考えなければならない。前者は、貨幣の支払手段の機能から生じる債権者と債務者との関係が、単純流通において自然発生的に生じてくるが、それが信用制度の基礎をなしているのだということであり、後者はそうした自然発生的な債権・債務関係が資本主義的生産様式の発展とともに拡大され、一般化され、仕上げられることによって商業信用となり、それが信用制度の本来の基礎をなしているということである。

  大谷氏はマルクスは信用システム〔Creditsystem〕と信用制度〔Creditwesen〕とをほとんど同義に使っているが、しかし微妙に違った語感で使っている場合もあると指摘して、次のように述べている。

  〈一般的に言って,貨幣によるSystemに対比して,あるいはGeldsystemを基礎として,そのうえで成り立ちえている信用のシステムを表象するときにはCreditsystemが使われているように感じられる。この場合の「信用システム」は「銀行制度」と言い換えることはできない。なぜなら,この「信用システム」は明らかに生産者や商人のあいだでの商業信用をも含むものだからである。これにたいして,産業資本が創造する,銀行などの信用機関をそなえた一つの全体としての「信用制度」を表象するときにはCreditwesenが用いられているように思われる。この「信用制度」は多くの場合,「銀行制度」と言い換えることが可能である。マルクスがどこでもこうした区別をして両語を明確に使い分けているとは言いがたいが,大きな傾向としては,このような区別があるということができる。そしてまた,このような観点から「信用システム〔Kreditsystem〕」と「信用制度〔Kreditwesen〕」とを区別することは,理論的に意味があることだと考えられる。〉 (89頁)

  そして上記の二つのケースについて次のように述べている。

  〈マルクスはここで,はじめに「Creditsystemの自然発生的な基礎」と言い,次には「Creditwesenの本来的な基礎」と言っていたのであった。ここでのCreditsystemとCreditwesenとはかりにまったく同義だとしても,マルクスが「自然発生的な基礎」と「本来的な基礎」とを対応的に--意織して--使い分けていることは,その下線のつけかたからみても明らかである。さらに,その「基礎」とされているものが,前者では「商品所有者間の債権債務関係」一般であるのにたいして,後者では「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」という,明らかに資本主義的生産のもとでの特定の「商品所有者間の債権債務関係」すなわち商業信用である。つまり,どちらも「信用制度の基礎」について語っているとはいえ,その内容には相違がある。前者では,資本主義的生産のもとでの発展した貨幣制度であるKreditsystemの基礎が掛売りにおいて授受される信用であることを述べているのにたいして,後者では,銀行制度を主要内容とするKreditwesenの基礎が商業信用--「拡大され,一般化され,仕上げられ」た前者であるから「これらの相互的前貸」と言われている--であることを述べている。したがって,前者でのCreditsystemという語は商業信用までも含みうるような信用のシステムをさしているのにたいして,後者ではCrediwesenは,商業信用とは区別されそれを基礎にそびえ立つ銀行制度を意味するものと考えるべきであろう。
   このように考えてくると,「信用制度〔Creditwesen〕の本来の基礎」というのも,Creditsystemとは区別されて言われているだけではなくて,むしろ,銀行制度を主要内容とするCreditwesenがCreditsystem,すなわち信用によるシステムであること,言い換えればCreditwesenがCreditsystemである側面について,その基礎が語られている,と言うことができるのである。信用=銀行制度は,さまざまの信用形態を取り扱い,さまざまの信用操作を行なうことを一つの本質的な特徴としている。そうした側面をもっている。このパラグラフでは,信用=銀行制度(Kredit-und Bankwesen)のこの側面とその基礎とについて述べているのである。〉 (89-90頁、太字は大谷氏による傍点)

  (3)マルクスは次のように述べている。

  〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしているように,彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしているのであって,これらのものの土台〔Basis〕は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。〉

  まずマルクスはここで〈銀行券流通等々〉と〈等々〉をつけているが、大谷氏はこの〈等々〉について次のように述べている。

  〈ここで「銀行券流通等々」と言われているさいの「等々」のなかの最も重要なものが預金とその振替であることは,既述のところから明らかであろう。〉 (91頁)

 ここで大谷氏が〈既述のところから〉と述べているのは、エンゲルスが編集の段階で省略した原注に関連して、エンゲルスは意図的にマルクスが預金が通貨であると示唆している文章や原注を削除していると述べていることを指している。
 ただここで〈等々〉のなかの最も重要なものが〈預金とその振替〉を意味するかは若干疑問であるが、確たるそれに対置できるものもないので、今は判断を保留しておく。
 ただ言えることは、マルクスが〈流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしている〉という場合、「本来の信用貨幣」を言い換えて、すなわち「銀行券」と述べているということである。だから「本来の信用貨幣」は「等々」にはかかっていないということである。だから例え「等々」のなかに「預金とその振替」が含まれていたとしても、それをマルクスは「本来の信用貨幣」と述べているわけではないということである。ただその〈等々〉も含めて手形が基礎をなしているとは述べている。また「等々」は「銀行券流通」のあとに続けられているのだから、この「等々」には「流通」も含まれているとは限らないということである。つまりこの「等々」に「預金とその振替」が含まれていたとしても、それをマルクスは「預金の流通」と述べているわけではないということでもある。
 しかしここで重要なのそういうことではない。大谷氏は不問にしているのだが、マルクスは明らかにここでは銀行券流通は手形流通に立脚するのであって、貨幣流通に立脚するものではないと述べていることである。マルクスはわざわざ括弧に入れて〈(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)〉と断っている。つまり銀行券は手形流通に立脚するのであって、貨幣流通に立脚するのではない、というのがここでのマルクスの言明なのである。
 ところがマルクスは第28章該当部分以降(マルクスが「Ⅰ)」と項目番号を打ったところ以降)では、銀行券を現金と同じものとして取り扱っているのである。この段落の本文テキストにはMEGAの注があるが、その⑩ではこの部分の文章が次のように変遷して書かれたことが紹介されている。

 〈⑩〔異文〕「これらのものの土台は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。」← 「これらは貨幣(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形を表わすのである。」← 「これらのものの土台〔Basis〕は現金(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形なのである。」

 ここでマルクスが〈これらのもの〉と述べているのは、その前にある〈本来の信用貨幣,銀行券流通等々〉を指していることは明らかであろう。こうした書き換えは、最初のものが間違っているから訂正したというより、より適切な表現に手直ししたというものであろう。だからマルクス自身は最初のものに手を入れたときには、銀行券等々は貨幣ではなくて、手形を表すと書いていることが分かる。ところがすでに指摘したように、「Ⅰ)」以降では銀行券はすべて現金として、すなわち金鋳貨や地金と同じものとして論じているのであり、エンゲルス版第31章該当個所では〈すでに単純な貨幣流通を考察したところで論証したように,現実に流通する貨幣の量は,流通の速度と諸支払いの節約とを所与として前提すれば,単純に,諸商品の価格と取引の量,等々〔によって〕規定されている。同じ法則は銀行券流通の場合にも支配する(MEGAII/42,S.551)(大谷新本第3巻482頁)〉とまで述べているのである。つまりエンゲルス版第25章該当個所では、銀行券流通は貨幣流通ではなく手形流通を土台にしているとしながら、同第31章該当部分では、これとは反対に貨幣流通の法則が銀行券流通の場合にも支配すると述べているわけである。これは一体どういうことであろうか? 果たしてどのように考えたらよいのであろうか!
   大谷氏は今回の全4巻に及ぶ第5篇の研究書のなかで、こうした問題をまったく不問に付して論じていない。しかしこの問題は、例えば現代の不換銀行券を如何に捉えるかという問題とも密接に関連している。つまり、それは果たして銀行券なのかそれとも紙幣なのか、という問題である。一部の人たちは(どこかの誰かさんも!)、兌換が停止された銀行券は、ますます紙幣に近づいているなどという曖昧な規定して満足している(誤魔化している)。しかし銀行券が一般流通に出て貨幣として通用する根拠は、それが兌換銀行券か不換銀行券かにはまったく関係がないのである。
   このように、一見すると矛盾しているとしか思えないマルクスの言明を、如何に読み解くのかが問題になるのである。これについては私は、以前、このブログで連載している「現代貨幣論研究」の一つとして書き出したのだが、最後まで行かずに途中で放り出した経緯がある。だからそれはまた機会をみて完成させて検討を仰ぐことにするが、いずれにせよここには重要な理論問題があることだけは指摘しておきたい。

  (4)このパラグラフ最後につけられた原注について

 〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしているc)ように,彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしているのであって,これらのものの土台〔Basis〕は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。e)/〉

 ここで原注〈e)〉についてMEGAの注⑪を見ると〈〔異文〕「e)」← 「d)」← 「b)」〉と変遷したことが分かる。しかし最終的に付けられた「e)」については、大谷氏によれば、これに対応する原注は書かれていないということである。
  この大谷氏が(3)と番号を打った317原頁に続いて書かれた本文(つまり(4))は、われわれのパラグラフ番号では何と【11】になる。つまり今回の本文のパラグラフ(【3】)のあとに続くもの(【4】~【10】)はすべてこの【3】パラグラフの本文につけられた原注なのである。しかも、その原注の付け方は極めて込み入っており複雑である。しかしそれについては、次回からその原注を検討するなかで、明らかにしてゆきたい。とりあえず、このパラグラフについてはこれぐらいにしておこう。】

 (続く)

2020年5月21日 (木)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-2)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 それでは今回から、具体的に各パラグラフ(ただしわれわれが便宜的につけたものだが)ごとに内容を検討して行こう。なお今回もエンゲルスの編集個所とその内容だけを示す大谷氏の訳者注は省略するが、それ以外のものや参考にすべきものについては、前回と同様、テキストに反映させていくことにする。

【2】

 〈/317上/(2)5)【MEGA II/4.2,S,469.7-12】①6)信用制度と7)それが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ9)商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。

 ①〔注解〕「信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析」--〔MEGA II/42の〕178ページ18-25行への注解を見よ。〔この注解では次のように書かれている。--『経済学批判要綱』は「資本」という部のためのマルクスのプランを含んでおり,それは次の四つの篇に編制されるべきものだった:資本一般,競争,信用,株式資本(MEGA II/1.1の187ページおよび199ページを見よ)。--エンゲルスあてのマルクスの手紙,1858年4月2日。--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』をも見よ。所収:MEGA II/2,S,99,長年にわたる自己了解過程の中心にあったのは,一方では第1篇であり,純粋な姿態における価値および剰余価値についてのこの篇の論述は最終的には『資本論』に結実した。他方では平均利潤および生産価格の理論であって,『1861-1863年草稿』でのこの理論の仕上げは,なにをおいても,「資本一般」と資本の「現実の〔real〕」運動--競争と信用--とのあいだの徹底した分離をマルクスに放棄させることになった。この運動のうちの基本的な事柄は主著〔『資本論』〕に取り入れられ,それより具体的な事柄は,主著とは別のもろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった。これらの特殊研究は書かれなかった。〕
  ②〔異文〕「信用貨幣などのような」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「……に属する」という書きかけが消されている。

  5)この第25章部分では,MEGA II/4.2のテキスト編成に--とくに原注と雑録との取り扱いについて--同意できない箇所がいくつもあるので,筆者のノートによって草稿の状態を再現する。そこで,MEGAのページも,他の諸章のようにページごとに[409]のように示すだけでなく,本文および原注のブロックごとに,草稿ページのあとに示すことにする。
  6)本書では一貫して,Creditwesenは「信用制度」,Creditsystemは「信用システム」と訳している。
  7)〔E〕「それが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具」→ 「それが自分のためにつくりだす諸用具(信用貨幣など)」
  「それが自分のためにつくりだす」の原語はdie es sich schafftである。ここでのsich schaffenをこのように読むかぎり,ここで言われている「諸用具」には,信用制度の形成以前からすでに存在していて信用制度がそれを自らの「用具」として取り込む商業手形は含まれないということになるであろう。sich schaffenはここではsich verschaffenとほぼ同意,すなわち「手に入れる」,「調達する」,「自分のものとする」のような意味であって,「諸用具」には商業手形もはいるのではないか,とも考えられるが,十分に根拠があるわけではないので,従来の訳に従っておく。
  「諸用具〔Instrumente〕」はもちろんinstrument of credit(信用証書)のことだと考えることができる。そのかぎりでは「諸証券」ないし「諸証書」と訳すことができるであろう。しかし,ここではもっと一般的に,信用制度が「自分のためにつくりだ」し,あるいは「自分のものと」して用いる「用具」というニュアンスが含まれているように思われるので,「諸用具」としておく。なお,備忘的に記せば,OEDでは,instrumentの「証書」としての語義は次のように説明されている。"5,Law.A formal legal document whereby a right is created or confirmed,or a fact recorded;a formal writing of any kind,as an agreement ,deed,charter,or record,drawn up and executed in technical form,so as to be of legal validity∴そして,第3部第1稿が書かれたのとほぼ同じ時期の1866年の用例として,Arthur Crump,"A practical treatise on banking、currency and the exchanges",1866から,次の文が挙げられている。"where an instrument is drawn in a careless way,in the form of promissory note,and accepted,and indorsed as a bill of exchange."
  9)〔E〕「商業信用〔d.commercielle Credit〕」→ 「商業・銀行業者信用〔der kommerzielle und Bankierkredit)」
  エンゲルス版のder kommerzielle und Bankierkreditは,ふつう「商業信用と銀行信用」と訳されてきている。この箇所だけをとれば,もちろん誤訳とは言えないであろう。しかし,すぐ次に続く「この信用の発展」は,エンゲルス版でもマルクスの原文であるdessen Entwicklungのままになっている。つまりdessenと単数形で受けているのであって,「これらの信用の発展〔deren Entwicklung〕」には変えられていないのである。このことから見ると,エンゲルスはマルクスの原文の「商業信用」に「および銀行業者信用」というもう一つ別の「信用」をつけ加えたのではなくて,マルクスの言うここでの「商業信用」の意味するものを敷衍するくらいの気持でund Bankier-を挿入したのだ,と見ることができるかもしれない。そこで,「商業・銀行業者信用」としておいた。また,後出(本書本巻177ページの21-22行目)の「銀行信用〔Bankcredit〕」と区別するために,Bankierkredit(1894年版ではBankier-Kredit)は「銀行業者信用」とした(「銀行信用」についてはさきに「12「銀行信用」について」で触れた)。〉  (157-159頁)

 〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす、信用貨幣などのような諸用具との分析は、私たちの計画(つまりこの『資本論』の構想)の範囲外にあります。だからここでは、ただ資本主義的生産様式一般の特徴付けのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよいでしょう。そのさいは私たちは商業信用だけを取り扱います。だからこの信用、すなわち信用制度とその諸用具の発展、あるいはそれと公信用の発展との関連は考察しないでおきます。〉

 【まずここにはマルクスの草稿の頁数を示したあとに〈【MEGA II/4.2,S,469.7-12】〉というものがついているが、その理由を大谷氏は訳者注5)のなかで説明している。だから今回のパラグラフの最初にある〈/317上/(2)〉というのは、草稿の317頁の上段の途中にこのパラグラフが書かれているが、それは表題が(1)と番号が打たれていた(前回説明)のに対応して(2)となっており、だからこのパラグラフは317頁の二つ目に書かれているということである。
  大谷氏の訳者注7)は、〈信用制度と7)それが自分のためにつくりだす〉という部分につけられた訳者注であるが、この訳者注にある〈〔E〕〉なる記号はエンゲルスの修正を意味し、〈〉は、エンゲルスが草稿にある〈「それが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具」〉という部分を〈「それが自分のためにつくりだす諸用具(信用貨幣など)」〉という一文に変えているという意味である。ただすでに断ったように、われわれは、マルクスの草稿を解読することに重点をおくのであって、エンゲルスの修正そのものにはそれほど関心はない。ただマルクスの草稿を理解する上で必要な限りで、エンゲルスの修正も問題するだけである。ここで大谷氏の訳者注を紹介したのは、エンゲルスの修正個所の紹介に続けて書かれている大谷氏の解説が草稿の理解にとって必要と考えたからである。
 次は〈商業信用〉につけられた訳者注9)である。ここではエンゲルスがマルクスが〈商業信用〉と書いたものを、〈商業・銀行業者信用〉と書き換えたことについて、大谷氏は〈エンゲルスはマルクスの原文の「商業信用」に「および銀行業者信用」というもう一つ別の「信用」をつけ加えたのではなくて,マルクスの言うここでの「商業信用」の意味するものを敷衍するくらいの気持でund Bankier-を挿入したのだ,と見ることができるかもしれない〉と述べて、その修正にそれほど異論を挟んでいない。しかし実は、ここに出てくる〈商業信用〉を如何に理解するかで、大谷氏は四苦八苦しているのである。大谷氏はこのマルクスのテキストの訳文を紹介する以前に、大谷氏自身の解説を書いているが、その小項目〈11 商業信用について〉で次のように論じている。

  〈草稿「5)信用。架空資本」の冒頭のパラグラフでは,「われわれはただ商業信用〔d.commercielle Credit〕だけを取り扱う」,とされており,エンゲルスがこのなかの「商業信用」を「商業・銀行業者信用〔der kommerzielle und Bankier-Kredit〕」に変えた,ということはすでに述べた。このエンゲルスの表現は,従来「商業信用と銀行信用」と訳され(長谷部訳,岡崎訳,向坂訳),信用論ではこの二つの信用を論じることがその根幹をなすという理解を支える重要な典拠となってきた。ところがマルクスの草稿では,「商業信用」としか書かれていないのであった。これをどのように考えたらよいのか。どのように理解したらよいのか。〉 (第2巻126頁)

  そして大谷氏はまず「商業信用」について、マルクス自身の規定を次のように紹介する。

  〈「商業信用{すなわち再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用}は,信用システムの土台〔d.Basis d.Creditsystems〕をなしている。この信用を代表するものが,手形,債務証書(延払証券)である。人はそれぞれ一方の手で信用を与え,他方の手で信用を受ける。さしあたりは,本質的に違った別の一契機をなす銀行業者の信用Banker's Credit〕はまったく度外視しよう。」(MEGA II/4.2,S.535;本書第3巻433ページ。)〉 (126-127頁、下線はマルクス、太字は大谷による傍点箇所)

  そして大谷氏は次のようにいう。

  〈さて,「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」とマルクスが書いているときの「商業信用」がいま見たような意味での商業信用であるとするならば,この言明はこれに続いて書かれた「5)信用。架空資本」の実際の内容とはまったく食い違っていることは明らかである。なぜなら,一方では「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じているからである。しかも,この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べているのであって,齟齬はすでにここから始まっていることになるのである。これはいったいどういうことであろうか。〉 (127頁)

  こうして大谷氏の苦悩は始まるわけであるが、大谷氏のあれこれの詮索の検討は省略して、結論だけを見ておこう。次のように述べている。

  〈結論から言うと,私は,「5)」の冒頭ではマルクスはまだ「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という言葉を「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」,「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」という意味で使うようになっていなかったのだ,と考える。〉 (127頁)
 〈マルクスは「商業信用〔der comercielle Credit〕」という語を,エンゲルス版第30章にあたる部分,しかももっと狭く言って,草稿〔340a〕-341ページ,MEW版では496ページを書いているときに,はじめて特定の内容をもつ規定された概念として用いることにしたのではないか,と思われるのである。すなわち,いったん「産業家や商人が再生産過程の循環のなかで相互になしあう前貸」と書いたのち,こうした前貸において授受される信用をこれから論じていくのにそれを特定の言葉で呼ぶことの必要を感じて,「商業信用{すなわち再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用}」と書きつけたのではないか,と考えるのである。〉 (128頁)

 ではここで使われている「商業信用」をマルクスはどういう意味で使っているのか、それが問題である。次に大谷氏はその解明に取りかかる。マルクスがそれに続けて〈この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉と述べていることをヒントに、いろいろと検討した結果、次のように述べている。

 〈すなわち広く言えば「公信用」と区別される「私的信用」であり,狭く言えば「私的信用」のなかの銀行業者の信用である。「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という語で考えられているのは,広く見れば私的信用一般であり,狭く見れば銀行業者の信用だということになる。〉 (129頁)
 〈ここでのd.commercielle Creditでのcommerciellも,国家にかかわる政治的なあるいは公的なものにたいして,私的営業にかかわるもの,というくらいの意味ではないかと考えられる。したがって,ここで「商業信用」というのは,どちらかと言えば私的信用一般を指しているものと考えられるのである。〉 (129-130頁)

  つまりマルクスはこの冒頭の部分では、まだ商業信用を〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味で使うに至っておらず、ここでは公信用と区別された意味での私的信用一般という意味で使っているのだ、というのが大谷氏の解明の結論である。
 ところでマルクスはこの冒頭部分のすぐあとでも同じ「商業信用」という用語を使っている。しかしドイツ語はどうも違うらしい。冒頭のものは〈der commercielle Credit〉であるが、後のものは〈Handelscredit〉というものである(三宅義夫氏は「商業上の信用」と訳しているらしい)。それについて大谷氏が紹介している部分を抜粋しておこう。

 〈ところでマルクスは,言葉そのものとしてはder commercielle Creditとよく似ているHandelscreditという言葉も使っている。さきの「商業信用」からあまり遠くない317ページ上段((7))では次のように書いている。

  「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」(MEGA II/4.2,S.472.16-17;本書本巻174ページ。)

  ここで「商業信用」と呼ばれているものが,さきの「商業信用」と同じく,のちに規定された意味で用いられる「商業信用」すなわち「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」ではないということ,これは一見して明らかである。ここでは,銀行業者が行なう貸付について,そのなかで「本来の商業信用」にあたるものだけを取り扱う,というのである。それでは,「本来の商業信用」と区別されているものはなんであろうか。三宅義夫氏はそれは「たとえば個人的消費のための借入,貸付,いわゆる消費信用と呼ばれているもの」であるとされ,ここでの「商業信用」(氏は「商業上の信用」と訳されている)はそれに「対応」する「生産,商業に関連するものを指している」とされている。たしかに文脈からすれば,このように読めばまったくすっきりと理解できる。この場合,HandelscreditのHandelは,tradeしたがってGeschaftという意味で用いられているのであろう。〉 (130-131頁)

 いずれにしても、なんとも苦しいこじつけに近い説明であるが、われわれはマルクスが商業信用について、この第25章該当部分の冒頭(317原ページ)では、まだ第30章該当個所で書いているような理解に達しておらず、草稿の341ページの段階で、はじめて特定の内容をもつ規定された概念として用いることにしたのだ、などという大谷氏の説明にはまったく納得出来ない。実際、大谷氏自身が〈この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べている〉とも認めているではないか。だからマルクスが冒頭で述べている「商業信用」についてもやはり〈「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」〉の意味で述べていると理解すべきである。では大谷氏がいうところの「齟齬」なるものは如何に理解すべきであろうか?

 実は、この問題はなんのことはない、極めて簡単な問題なのである。ただ大谷氏が何らかの思い込みでもあったのか、マルクスの文章を素直に読むことができなかっただけの話なのである。それを説明するために、われわれはとりあえずもう一度マルクスのテキストを見てみることにしよう。

 〈/317上/信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。〉 (157-158頁)

  ついでにもう一つの商業信用が出てくる部分も再度それだけを取り出してみよう。

 〈「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」(MEGAII/4.2,S.472.16-17;本書本巻174ページ。)〉 (130頁)

  大谷氏も最初の商業信用とあとの方の商業信用はほぼ同じ意味で使っていることを認めている。ただそれは第30章該当部分でマルクスが規定している商業信用の意味(=「再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用」という意味)ではないというのである。しかしそんな馬鹿げたことはないと私は考えている。そもそも大谷氏はこの冒頭の一文の理解の点で間違っているのである。マルクスは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある〉と述べながら、しかし〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と書いている。では何の〈わずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と考えているのであろうか。それはいうまでもなく、〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉についてである。つまりマルクスはそれらの〈分析〉は計画外だが、しかし〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉については、これからそれらを取り扱って論じると述べているのである。そして〈そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う〉と述べているのである。つまり信用制度と信用諸用具のわずかの点を取り上げるが、それらは商業信用との関連のなかで取り上げると述べているのである。だから〈この信用の発展〉、つまり〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の発展と公信用の発展との関連は取り上げないということである(ただし、ここで〈この信用〉が単数であることを考えると、〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉と諸用具については括弧に入れるのが適切かも知れない。つまり〈この信用〉とは〈信用制度〉を指しているのである)。だからマルクスは信用制度の発展と公信用の発展との関連は考察しない、と述べているのである。
 だからここでマルクスが「商業信用」と述べているのは、後にマルクスがそれを規定しているように〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味と理解してよいのである。また〈この信用〉とマルクスが述べているのは、確かに少しややこしいが、その直前の〈商業信用〉ではなく、ここで主題となっている〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉を指しているのである。こうしたものは、〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉のだから、〈この信用の発展〉などは問題にならないし、〈公信用の発展との関連〉も問題にしないということである。だからマルクスがここで問題にしようというのは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉であるが、それは商業信用と銀行制度との関連、絡み合い、あるいは信用制度のそうした側面、あるいはそうした関連のなかで問題になる信用諸用具だけであり、そうした限られた範囲内のものだけを取り扱うと述べているのである。このように理解すれば、大谷氏が危惧したよう齟齬は何一つ生じない。むしろ大谷氏が〈「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じている〉とか〈この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べている〉等々といった指摘も、まったく何の齟齬もなく了解できるのである。だからまたマルクスはその次の一文(=「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」)でも、銀行の貸付について論じる場合も、それは商業信用との関連だけを問題にすると限定しているわけである。だから銀行の貸付は、個人消費用の貸付やあるいは国家への貸付などは取り扱わないということである。このように大谷氏のこの問題での議論は、冒頭のマルクスの一文を正確に読めなかったことに起因している。だからそれに関連する大谷氏のさまざまな議論はある意味では無駄骨折りといわざるをえない。】

 (続く)

2020年5月13日 (水)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読(25・26-1)

『資本論』第5篇第25章および第26章冒頭部分の草稿の段落ごとの解読

 

   ここからはエンゲルスの編集にもとづいた章の通りには論じることは出来ない。大谷氏は『マルクスの利子生み資本論』第2巻では、草稿の状態にもとづいて、〈「信用と架空資本」(エンゲルス版第25章)と「貨幣資本の蓄積。それが利子率に及ぼす影響」(エンゲルス版第26章)の冒頭部分とに使われたマルクス草稿について〉という表題を付けている。つまり現行版の第25章と第26章の冒頭部分とを一括りにしているのである。そしてその草稿を翻訳・紹介している項目の表題は〈第25章および第26章の冒頭部分の草稿,それとエンゲルス版との相違〉というものである。だからわれわれも表題を《第5篇第25章および第26章の冒頭部分の草稿の段落ごとの解読》とした次第である。

◎エンゲルスの編集について

   これまでわれわれはマルクスの草稿の解読を中心的な課題において、大谷氏が骨を折って詳細な考察を加えている、マルクスの草稿にエンゲルスが編集の過程でどのように手を加えたかについては、ほとんど触れることもなく来た。しかし第25章該当個所以下(マルクスは草稿では「5)信用。架空資本」という表題を書いており、エンゲルス版では第25~35章に該当する)の部分についてのエンゲルスの手入れについて、一言も言及せずには済ますことは出来ないように思える。だから大谷氏の研究成果に依拠して、簡単にでもそれについて最初に論じておきたい。私自身の大谷氏の著書からのノートを紹介しておく(ノートをかなり取捨選択して紹介するが引用という形式はとらない)。
   大谷氏は〈4 エンゲルスの編集作業の内容〉と題した項目のなかで、エンゲルスの手が加わった結果、草稿と現行版とに生じた違いについて述べている。それを箇条書き的にまとめてみよう(頁数は同書のもの、太字は大谷氏による強調)。

   ①〈まず,マルクスの草稿で下線,またはときとして二重下線によって強調されている箇所と,エンゲルス版で強調されている箇所とはかなり異なっている〉(41頁)〈全体としてエンゲルス版での強調箇所は草稿でのそれにくらべて著しく少ない。〉(41頁)〈端的に言えば,エンゲルス版での強調と草稿での強調とはそれぞれ独自の観点からなされた別個のものである,ということになるであろう。〉(41頁)〈そこで,草稿では下線がどこにつけられているかということが,マルクスの思想の展開を知るうえで重要な意味をもつことになるわけである。とりわけ,諸文献からの引用文が列挙されているだけのような箇所では,マルクスがどういう意味でそれぞれの部分を引用したのかということを知る手がかりとして,下線はきわめて重要な意味をもつものと考えられる。〉(41-42頁)

   ②〈エンゲルス版が草稿の状態をほとんど反映していない点として挙げておく必要があるのは,マルクスの草稿の多くの箇所にみられる角括弧である。マルクスは,なんらかの意味で前後の記述と区別したほうがよいと感じた箇所は,前後に角括弧をつけるのが常であった。〉(42頁)〈エンゲルスはこれらの角括弧を,一部はパーレンに変えて残したが,大部分は簡単に取り除いてしまった。〉(42頁)

   ③〈エンゲルスはマルクスの文章にいたるところで手を入れている。〉(42頁)
   ここではその手入れは単なる技術的なものの場合もあり、そのために文章を読みやすくしたり、マルクスの誤記を訂正したりしたものもあるが、〈しかし,エンゲルスがマルクスの文章を読み誤って不適切な修正を行なっているのではないかと思われるところも散見される。なかには,草稿とエンゲルス版とでは意味がまったく逆になっているところもある〉(43頁)と大谷氏は具体的に幾つかの例を紹介している。

   ④〈第5章でのエンゲルスの作業は,もちろんマルクスの文章に手を入れる程度にとどまるものではなかった。彼自身が第3部の序文で書いているように,いろいろなところで,文やパラグラフを置き換えたり,削ったり,書き加えたりしている。カットされて使われなかった部分は,第5章全体の分量からみればわずかなものと言えるかもしれないが,しかし絶対的にはかなりのものである。別稿27)で見る予定の「混乱」と題された,『議会報告』からの引用の部分を除いても,非常に大きな二つの統計のほか,私のノート(1行約70字)で1100行を超えるだけのものが現行版には取り入れられていないか,あるいはまったく書き替えられている。このなかには引用文や統計もあるが,マルクス自身の文章も多数含まれているのである。〉(46頁)
  これも具体的な例が紹介されている。

   ⑤〈エンゲルスは彼の序文で,「変更や加筆がたんに編集的な性質のものではない場合」や彼の「書き入れがたんに形式的な性質のものでないかぎり」は,彼の手入れには彼のものであることを明記したと書いているのであるが,彼がとくに「かなりの書き入れをしなければならなかった」と書いている第33-35章について,草稿と現行版とを対比してみると,彼の手によることが明記されていない彼の「書き入れ」はかなりの量にのぼっていることがわかる。それはとくに,「第33章 信用制度下の流通手段」で著しく,「関連をつけるために」エンゲルスが行なった「書き入れ」は,MEW版で110行を越えている。「第34章 通貨原理と1844年のイギリスの銀行立法」ではそれは60行を越え,「第35章 貴金属と為替相場」では約30行である。〉(47頁)

   そして大谷氏は結論的に次のように述べている。

  〈以上のところから,われわれは,エンゲルスが彼の序文で書いているところからはほとんど読み取ることができない,各種の,しかも内容にもかかわる相違が,マルクスの草稿と彼の仕上げた版とのあいだに存在することを確認しないわけにはいかない。したがってまた,現行版の個々の文章についても,叙述の流れについても,マルクスの原文とは異なっている可能性を十分に考慮しながら,マルクスの真意を読み取っていく必要が,この第5篇ではとくに大きい,ということになるのである。そして,マルクスの原文を知りうる場合には,現行版とそれとの異同をつねに見ておかなければならない,ということにもなるであろう。〉(47頁)

   そして大谷氏は草稿第5章と現行版第5篇との対応を一覧表にしているが、それは極めて重要であるが、しかしここでそれを紹介するのにはブログという性格や技術的なものからも限界があるので、各自確認して頂くしかない。ただ大谷氏はエンゲルス版では第25-35章になっているものが、草稿ではただ「5) 信用。架空資本」と一まとまりのものとなっていることを指摘し、この表題をエンゲルスは第25章の表題としてほぼそのまま採用したのだが、そのことについて次のように述べている。

  〈マルクスの草稿の状態をすなおに見るかぎり,「信用。架空資本」という表題が,第25章にまとめられた部分にのみ,または主としてその部分にのみ関係する,ととることはできない。やはり,エンゲルス版の第25-35章の全体の表題となっている,とみなければならない。〉(53頁)

  なおこれから検討することになるエンゲルスが第26章として利用している草稿の主要な部分をなしているノーマンとオウヴァストンからの抜粋部分について、次のように指摘している。

  〈マルクスはここで,ノーマン,そしてとくに通貨学派の代表者たるオウヴァストンの謬論,愚論を抜き書きしながら,そこに見られる,moneyed Capita1と実物資本(real capital)との意識的・無意識的な混同,資本と貨幣との混同,流通手段と支払手段との混同ないし無区別,そしてこれらのことから生じる,恐慌や銀行法や銀行経営のあり方についての愚論、さらにこれらの謬論がそれにもとづいている銀行業者的立場,これらのことを根本的に突いているのである。その内容を短縮して表現するとすれば,他の諸章の表題となじむかどうかは別として,「通貨学派の「論理」とその混乱」ということにでもなるのではないかと考えられる。〉(61頁)

  そして大谷氏はエンゲルスが第26章に使った草稿の特徴から次のように結論している。

  〈この部分は,下半に注の部分を用意しながら上半に本文として書かれた,というものではないということ,つまり,のちの利用のためにつくられた材料だということである。たしかにこの部分は,のちの,引用が大部分で系統的な叙述になっていない「混乱」の部分や360-364,369-371ページでの『議会報告』からの抜き書きの部分--これらは本書第4巻で取り扱う--とは異なり,引用を含みながらもマルクス自身の一貫した叙述が行なわれている。しかし,320-321ページ--後述のように,318-319ページでは,下半部に317-318ページの本論「〔信用制度〕」への注が書かれているので,雑録はその上半部にある--でページの全面を埋めて書かれた雑録からとくに区切られることなく325bページまで同じようにして書き続けられたこの部分は,このあとふたたび上半部のみに本文が書かれている第27章相当部分とは,やはり区別して取り扱われるべきであろう。〉(61-62頁)

 エンゲルスはこうしたマルクスが後の材料にするために作成した資料集ともいうべきものからも、本文を作り上げているのであるが、ここで大谷氏が触れているように、マルクス自身は、本文として草稿を書く場合は、それぞれの頁を半分で折り目をつけ、上半分に本文を書き、下半分にその本文につけた注を書くという形式をとっていたのである。それに対して、本文としてではなく、上記のような資料として書いたものは、折り目を無視して、頁を上から下まで使ってびっしりと書いているというのである。だから草稿を生のままて見れば、それが本文として書いたものか、それともそのための資料集なのかは一目で区別がつくようにマルクス自身は書いていたのである。ところがエンゲルスはミミズの這ったような読みにくいマルクスの草稿を、とりあえずは読みやすくするために、一旦清書をすることにして、秘書を雇い、口頭筆記で清書文を作成し、それにもとづいて編集作業を行ったために、結局、こうしたマルクスの草稿の特徴を読み取ることができなかったのではないかと、大谷氏は推測している。それがエンゲルスがマルクスが後に利用するために資料として書いたものもすべて本文として扱い、それで新たな章をでっち上げるというようなことまでやっている一因ではないかというのである。

   次にエンゲルス版の第25章と同第27章との繋がりについて次のように述べている。

  〈もしこのように見ることが許されるとすれば,第5章の「5)」のはじめのほうでこの章の本文として書かれているのは,317-318ページのいわば「総論」にあたる部分に続いては,第27章相当部分だということになる。エンゲルス版について大まかに言えば,第25章の本文部分末尾の,

  「特殊的信用諸機関〔マルクスでは用具〕ならびに銀行そのもの〔マルクスでは「そのもの」はなし〕の特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない」(MEGAⅡ/15,S.395;MEW25,S.417),

というところに,「第27章資本主義的生産における信用の役割」の部分が続く,ということである。草稿から読み取ることができるこのようなつながりは,第5篇の各章の内的関連についての従来のさまざまの議論にも新たな視点を与えるものだと考えられるが,ここではそのことの指摘にとどめる。〉(62頁)

   つまり現行版の第25章は、マルクスが本文として書いたものは僅かであるが、エンゲルスが「第25章 信用と架空資本」と、一つの章にして表題をこのように書いた手前、もともとはここでは架空資本などはまったく取り扱われていないのに、それに関連するものをあちこちから集めて膨らませているのであるが、それらの部分をすべてカットすれば、本文そのものは、直接には現行版の第27章に繋がっていると大谷氏は指摘しているのである。エンゲルスが第25章の後半部分に付け加えたものと、第26章としてでっち上げた章全体は、すべてマルクスが後の資料として書いた資料集から作られているわけである。

  次に、エンゲルスが第26章に使った草稿はすでに指摘したように、大谷氏が雑録とした部分であり、そこに「挿論」が含んでいると次のように述べている。

  〈ともあれ,以上のような把握にもとづいて,さきの一覧表のなかで322-325bページの内容を,「(挿論)通貨学派の「論理」とその混乱」とし,321ページは現行第26章の一部を成しているにもかかわらず「雑録」に属するものとしたのである。〉(63頁)

   つまりエンゲルスが第26章として作成したもののうち、大谷氏が「雑録」としたものが、今回の第25章部分と一緒にわれわれの検討の対象になっているということである。それが〈第25章および第26章の冒頭部分の草稿,それとエンゲルス版との相違〉というわけである。

  大谷氏は〈9 草稿と現行版第25章との対応〉という項目で、われわれがこれから検討するテキスト部分について、次のように述べている。
  エンゲルス版の第25章に使われた草稿は、大谷氏が作成した一覧表から見ると草稿ページ317-319であるが、それのエンゲルス版との対応関係をみると、全体は大きく三つの部分に分けられるという。

  〈第1は,5)のテキストとして書き始められたことが明らかな,最初の本文部分であって,エンゲルス版では,第25章の冒頭から,「特殊的信用諸機関ならびに銀行そのものの特殊的諸形態は,われわれの目的のためにはこれ以上考察する必要はない」(MEGAⅡ/15,S.395;MEW25,S.417),としているところ,といってもこの部分から,リーサム,ボウズンキト,トゥク,コクランの各人の著書からの引用の箇所(MEGAⅡ/15,S.389-393;MEW25,S.414-415)を除いたものにあたる(MEGAII/4.2,S469.7-475.5;本書本巻157ページ6行-188ページ14行)。この部分は,草稿317ページの上半部全体を埋めたのち,次の318ページの上半部の上から約4分の1までに書かれている。〉(75頁)

  〈第2は,上の本文への注である。マルクスは本文のなかに注番号をつけ,ぺージの下半部に注を書いている。〉(75頁)

  〈第3は,以上の本文および注に関連する材料として書かれたと思われる部分である。これには,ただ引用文だけを掲げているところとマルクスが自分の文章を書いているところとがいくつかあるだけで,基本的にははじめになんらかの見出しないしそれに準じるものがあり,そのあとに引用文がくる,というものから成っている。これは,318ページ上半部の上から4分の1ほどのところで終わっている本文の直後から始まり,318および319ページの上半部--どちらも下半部は注に使われている--を埋めたあと,320,321,の両ページの上半部下半部を通して書かれ,322ページの1行目で終わっている。〉(76頁)

  この本文と雑録との関連について、大谷氏は〈まず本文と注を書き,そのあとで雑録の部分にかかったのではないか,と思われる〉(76頁)としている。そして〈以上の三つの部分を使ってエンゲルスは第25章と第26章のはじめの部分とをつくった〉(76頁)というのである。そして大谷氏はそれらを第3表にしてまとめているが、この一覧表からいえることとして大谷氏と次のように指摘している。

  〈この表を見られればすぐにわかるように,エンゲルスは,マルクスの注のうちから,リーサム,ボウズンキト,トゥク,コクランの引用を本文の途中に挿入したが,これ以外の注と雑録とはほとんど区別なしに取り扱って,本文のあとに置いている。マルクスの雑録のなかで「注1)へ(318および319ページ)」,「注1へ。318ページ」,「注hに。318ページ」とされている3か所も,ほかの部分と区別されることなく,書かれている順序どおりに並べられている。こうした状況からみて,エンゲルスが,注番号による本文の特定箇所への関連づけは重要でない,と判断したことはほとんど確実である。この判断が内容の分析によるものか,それとも,口述筆記でつくられた写しが草稿の状態を細かいところまで再現していなかったために生じたものかは,わからない。ただ,後者の可能性もあることだけは留意しておく必要があると考える。〉(79-80頁)

  次に〈10 草稿によって見た第25章の内容〉という項目である。
  ここでは〈マルクスの草稿は,エンゲルスが仕上げた現行版とはいろいろな点でかなり違っている〉(80頁)とし、エンゲルス版第25章について次の諸点を指摘することができるとしている。

   〈第1。エンゲルスは,外国語(主として英語)をドイツ語に直し,文章に文法的・文体的修正を施し,引用文献の出典表記を補充,統一する,といった「技術的な編集作業」を行なった。……しかし,そのさい同時に,マルクスの文章の原意が変えられたり,力点が置き変わってしまったりしたところが生じている。……エンゲルスの手入れは,「技術的」な部分についても改善ばかりではない〉(80頁)

  〈第2。エンゲルスは,本文,注,雑録,という三部分から成る草稿の構成を,大きくみて本文とそれに関連する引用資料という二つの部分から成る構成に変えた。……しかし他面,本文中の特定の記述に関連して書かれた注がその関連箇所から切り離されて,本文との関連が見えなくなり,さらに,本文への注として引用されたものと,それよりももっと広い視点から抜き書きされた雑録部分とがいっしょにされることによって,両者の微妙な違いもまったく隠されてしまった。このような組み替えを行なうさい,エンゲルスはときとして,雑録のなかでマルクスが与えていた小見出しを省いている。このために,その箇所をマルクスが書き抜いたときの主要な関心が見えなくなった。また--やむをえない制約があったのであろうが--強調を著しく減らしたうえ,エンゲルスなりの仕方で強調箇所を決めたために,この点でもマルクスの抜き書きの意図が見えにくくなっている。〉(80-81頁)

  〈第3。……雑録の途中から第26章という新たな章を始めることによって,雑録部分全体の性格と位置とが,ますます不分明になってしまった。〉(81頁)

  〈第4。エンゲルスは,本文に続いて置いた関連資料の部分の後半では,I-Vという番号をつけて,より整理された体裁を与えるとともに,そのなかに草稿の他の箇所からもってきた材料を挿入した。そして,このI-Vの直前に,彼によることを明記したかなり長い書き込みを行なってこの部分全体に統一性を与えると同時に,これ以前の部分との関連を示そうとした。しかし,この一連の作業が草稿中のこれらの部分でのマルクスの構想を実現したものであるのかどうか,いささか疑問だと言わなければならない。〉(81頁)

  以上のようにエンゲルスの編集の問題点を指摘し、大谷氏は〈エンゲルス版では見えなくなっている,あるいは見えにくくなっている諸点を,草稿そのものにつくことによって掘り起こす作業がなされてしかるべきであろう〉(81頁)と指摘している。

  以上でノートの紹介は終わりである。
 ながながと大谷氏の著書のノートの紹介をしたが、しかしあえて断っておくと、やはり実際に大谷氏の著書を直に検討されることが必要だと思う。この部分の大谷氏の草稿と現行版との比較検討とエンゲルスの編集の問題点の指摘は、ある意味では日本の(日本だけに限定されるものではないが)マルクス経済学研究における一つの画期であり、草稿研究の重要性を先駆的に指摘したものだからである。しかしいつまでもエンゲルスの編集についてアレコレを詮索していることはできないので、マルクスの草稿のテキストの解読に取りかかることにしよう。

   以下、今回の解読でもこれまでと同様に、私が便宜的につけた各段落ごとに、まずテキストを〈青太字〉で紹介し、その平易な書き下しを〈太字〉で行い(但し、その必要のない場合は省略)、さらに【  】内で解説を加えるという形でやっていくことにする。大谷氏の書いたものや、MEGAの編集者の注解等は〈青字〉で紹介して一目でわかるようにした。
  それではまず今回は表題からである。なお大谷氏はマルクスの草稿だけではなく、後に紹介する「5)信用。架空資本。」の部分の自身が考える全体の構成のそれぞれの表題を、〔  〕に入れて、マルクスのテキストと一緒に掲げているので、それもそのまま紹介することにしたい。そして大谷氏の訳者注もエンゲルスの手入れを指摘しただけのものは、今までと同様、省略するが、それ以外のものは出来るだけ紹介していくことにする。

【1】

 〈1)[469]       |317上|(1)2)5)信用架空資本

           3)〔A 信用制度〕

        4)〔Ⅰ 信用制度の概要〕

  1)MEGAの469ページのこの前には,「4)」の末尾の5行がある。
  2)〔E〕「5)信用。架空資本。」→ 「第25章 信用と架空資本」
  草稿では「5)信用。架空資本。」は,ここから「6)前ブルジョア的諸関係〔VorbUrgerliches〕」の直前までの部分(エンゲルス版第25-35章に利用された部分)全体への表題であるが,エンゲルスは,この部分の冒頭のごくわずかの部分を「第25章」とし,それに「信用と架空資本」という表題をつけた。
  3)草稿の「5)信用。架空資本」の部分には,途中に「Ⅰ)」,「I))」,「III)」の三つの見出し番号があるだけである。筆者は,「1)」の前までは「5)」の序論である信用制度概説となっていると見るので,この概説部分に筆者による表題「〔A 信用制度〕」をつけておく。
  4)「5)」の序論「A 信用制度」のなかでテキストとして書かれたのは,エンゲルス版第25章の最初のところに利用された草稿部分とエンゲルス版第27章に利用された草稿部分の二つである。前者には,その内容に即して,「〔Ⅰ 信用制度の概要〕」という筆者による表題をつけておく。〉 (157頁)

 【〈[469]〉はMEGAの頁数である。〈|317上|(1)〉のうち〈317〉はマルクスの草稿の頁数であり、〈〉はその上段に書かれていることを示している(すでに紹介したように、マルクスは一つの頁を真ん中で折り目をつけて、上段にテキスト本文を下段にそれに対する注を書いた)。数字の両方の〈|  |〉は、317頁がここから始まることを示している。だから文章が頁の途中で終わり、次のページにその続きが書かれている場合は、〈||317|〉のようになる。あるいは〈/319上/〉と書かれている場合はそのパラグラフが319頁の上段の途中から書かれているということである。〈(1)〉は大谷氏による詳しい説明はないが(第1巻冒頭にある〈本書全体のための凡例〉にも説明がない)、おそらく〈第3表 草稿第5章5)と冒頭の現行版第25章および第26章冒頭との関係〉と題する一覧表の記載に対応していると考えられる。(1)は実際には大きな丸で囲んだ番号になっているのであるが、私の使っているワープロソフトが古いために、MEGAの注解等を示す①②……のものとの区別が技術的にできないので、その区別が分かるように私が(1)としたものである。これでは大谷氏の訳者注を示す1)と区別が付きにくいが、後者は片括弧付きの番号であるから分かるであろう。この番号は、恐らくマルクスが実際にその頁に書いている順番を上から示しているものと考えられる。だから〈|317上|(1)〉は、317頁からマルクスは書き出しているのだが、その最初に書かれたものということである。だから〈/317上/(2)〉はその次に書かれているわけである。なぜこのような番号を付けたのかはおいおい分かるであろう。これ以外のものについては、その都度説明するとして、とりあえず、大谷氏の独特の記述の仕方の説明はこれぐらいにしよう。
  さて、これはマルクス自身が第5章の下位項目として「1)」、「2)」、「3)」、「4)」と番号を付けた(しかし一部に番号の付け間違いがあり、表題のあるものもある)、その続きとして「5)」と付けたものであり、あと「6)前ブルジョア的諸関係」があり、それが第5章全体の項目となっている。だからエンゲルス版では、この「5)」は、第25章~第35章全体をカバーする大きなものになるわけである。ということはこの「5)」こそ、マルクスが第5章(篇)でもっとも中心的な課題と考えていたことになるであろう。そしてその表題が「信用。架空資本。」であることにわれわれは注目しなければならない。エンゲルスはこの部分を11の章の構成(第25章~第35章)に分けたのであるが、マルクス自身は「5)」のなかでは「Ⅰ」、「II」、「III」の三つの番号をつけているのみである(これはエンゲルス版では、大体「Ⅰ」は第28章、「II」は第29章、「III」は第30-32章に該当する)。
   ここでは大谷氏がつけた表題も紹介してある。それぞれの表題については大谷氏の訳者注3)、4)を参照して頂きたい。これらはすでに紹介したように、大谷氏自身の次のような「5)」全体の構成についての考えにもとづくものである。

 〈第4表「5)信用。架空資本」の本書での取り扱い

5)信用。架空資本
 〔A 信用制度〕
  〔Ⅰ 信用制度の概要〕
  〔信用制度についての雑録〕
  〔挿論 ノーマンおよびオウヴァストンの無概念的混乱の批判〕
  〔II 信用制度の役割〕
 〔B 信用制度下の利子生み資本(monied capital)〕
   Ⅰ〔トゥクおよびフラートンによる諸概念の混同と誤った区別との批判〕
   II〔monied capitalの諸形態とそれらの架空性〕
      III〔monied capita1とreal capita1〕
      混乱
     〔a 『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋Ⅰ〕
     〔b 『商業的窮境委員会報告』1848年からの抜粋Ⅰ〕
     〔c 『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋II〕
     〔d 地金の輸出入に関する統計〕
     〔e 『商業的窮境委員会報告』1848年からの抜粋II〕
     〔f ハードカースル『銀行と銀行業者』からの抜粋〕
  〔C 地金と為替相場。貨幣システムによる信用システムの被制約性〕
     〔a 地金の流出入。信用システムの軸点としての地金準備〕
     〔b 地金の流出入および為替相場に関する『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋〕
     〔c 『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋への補遺〕
     〔d 『エコノミスト』からの抜粋〕
     〔e 諸文献からの抜粋〕〉 (第2巻144頁)】

  以上、とりあえず、今回は、ほぼ予備知識というべきものに終わったが、次回からは、実際のマルクスの草稿のテキストの解読にとりかかることにしよう。

  (続く)

2020年5月 6日 (水)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-9)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

  前回で第24章のテキスト部分は終わりである。われわれはもう一度、第24章該当部分全体を見渡してその展開と構成を考えてみよう。

  その手始めとして、すでに冒頭紹介したものだが、まず大谷氏の次のような指摘を再確認しておこう。

  〈マルクスが本稿部分を執筆するときに『1861-1863年草稿』によったその依存の程度はきわめて大きく,しかもそれは,第5章のこれ以前の三つの節に比べてはるかに高い。大きく利用されたのは,第1に,『1861-1863年草稿』のノートXVのなかの「収入とその諸源泉」(MEGA編集者が与えたこの表題が不適切であることには本書本巻の74-75ページで触れた)の部分である。マルクスは,ノートで50ページを超えるこの部分の全体を見返しながら本章収録部分を執筆したのであり,とくに,第2パラグラフは,「収入とその諸源泉」のなかに散在する7箇所の記述を,大きく手を加えることをしないままで一つに集めたものとなっている。第2に,本章収録部分の約3分の1を占める,プライスとミュラーとについての記述は,『1861-1863年草稿』のノートXVIIIに,「資本主義的生産における貨幣の還流運動」を中断して書かれた「複利」に関するまとまった記述によっている。そのほか,この二つの部分以外に『1861-1863年草稿』から取られたものが若干あり,この草稿ではじめて書き下ろされたと見なすことができる箇所はわずかである。〉 (326頁)

  このように大谷氏は指摘しているのであるが、それでは大谷氏が〈この草稿ではじめて書き下ろされたと見なすことができる箇所はわずかである〉という部分は、果たしてどの部分かをまず確認する作業からわれわれは始めたい。われわれはすべてのパラグラフ(但し私が便宜的につけたパラグラフ番号であるが)をもう一度確認する作業から開始しよう(赤字は新たに書き加えられたものと考えられるパラグラフ)。

  【1】表題
  【2】パラグラフ全体は、ほぼマルクスがはじめて書き下ろしたものということができる。大谷氏はかなり長い訳注で61-63草稿の関連部分を紹介しているが、しかし それらはただ関連するというだけであって、61-63草稿からほぼ直接採用されたというようなものではない。
  【3】もほぼ同様である。61-63草稿に部分的によく似た記述をみることができるが、しかし61-63草稿そのものをそのまま採用したとはいえないから、やはり61-63草稿を見ながら新たに書き下ろしたといえる部分である。
  【4】はほぼ61-63草稿から採ってきたといえるが、最後の部分〈そしてそれ以上である。……云々〉部分が書き加えられている。
  【5】はほぼ書き下ろされた部分である。61-63草稿には部分的に似たところがあることを大谷氏の訳注は指摘しているが、そのまま抜粋したというわけではないようである。
  【6】はほぼ61-63草稿から採られている。
  【7】は新たに書き下ろされたものである。
  【8】ほぼ61-63草稿から採られている。
  【9】もほぼ61-63草稿から採られている。
  【10】このパラグラフからルターの紹介が始まるが、だからこのパラグラフはルターからの抜粋がほとんどを占める。そしてこのルターからの抜粋そのものは61-63草稿にあるものをそのまま採用している。その前書きとしてマルクスによって書かれている部分も冒頭部分は61-63草稿からとりながら、それに若干の部分を新たに書き加えている。
  【11】原注
  【12】このパラグラフからプライスの批判が始まる。この部分もほぼ61-63草稿から採られている。
  【13】プライスの抜粋であるが、61-63草稿から採られている。
  【14】これは原注であり、プライスの著書の典拠を示すものであり、61-63草稿では本文に書かれていたものであるが、典拠を示したあとに、プライスの機知に対するかなり長いマルクスによる批判が新たに書き加えられている。
  【15】この部分もほぼ61-63草稿から採られているが、わずかに括弧つきで書き加えられたものがある。
  【16】原注
  【17】これは『要綱』からほぼそのまま抜粋されているが、複利の計算式の説明があらたに書き加えられた。
  【18】これも先の『要綱』の一文をそのまま採用。
  【19】これもほぼ61-63草稿から採用されているが、ローダデイルからの抜粋の最後に加えたコメントは少し書き換えられている。
  【20】原注
  【21】61-63草稿からの採用。
  【22】原注
  【23】61-63草稿から採用。
  【24】61-63草稿から長いパラグラフのなかほどの一部分を抜粋して採用。
  【25】この部分はほぼルターの抜粋になっているが、このルターの抜粋は61-63草稿にある長い抜粋の一部を採用したものである。
  【26】これは新たに書き下ろされたもののようである。
  【27】ここからミュラーの紹介が始まるが、このミュラーの引用も61-63草稿から採られている。
  【28】原注
  【29】これも61-63草稿から採られているが、草稿には採用された部分につづく少し長い文章がある。
  【30】これもほぼ61-63草稿と同じである。
  【31】ここからはほぼ新たに書き下されたもののようである。
  【32】上に同じ。
  【33】上に同じ(原注)
  【34】上に同じ。
  【35】これは原注であり、ホジスキンからの抜粋であるが、ホジスキンの抜粋そのものは61-63草稿から採られている。
  【36】新たに書き下されたものである。

  以上、見てきたように、新たに書き下ろされたものといえるのは、【1】表題と最初の部分【2】~【3】と、【5】【7】【14】【26】と最後の部分の【31】~【34】と【36】である。

  では全体の構成と展開を考えるために、最初は各パラグラフごとの要点を書き出してみよう。

【1】表題、マルクス自身によって《4) 利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化》と付けられている。

【2】まず〈利子生み資本において,資本関係はその最も外面的最も物神的な形態に到達する〉とこれから論じるテーマが最初に述べられている。そしてその内容として、われわれが問題にするのは〈G_G',より多くの貨幣を生む貨幣,自分自身を増殖する価値〉であること、ここでは資本の生産過程や流通過程などの現実的な媒介が消えてしまい、〈G_G'〉すなわち〈1000ポンド・スターリングの価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである〉という関係が生まれている。〈資本は……量関係であり,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である〉。しかも〈自分の資本で機能しようと借りた資本で機能しようと,資本そのものが,このような直接に自分を増殖する価値として,現れるのである〉。

【3】〈G_G'〉は〈一つの無意味な要約に収縮させられた,資本の本源的かつ一般的な定式である(短縮された定式)〉。〈資本および利子では,資本が,利子の,自分自身の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。物(貨幣,商品,価値)がいまでは物として資本であり,また資本はたんなる物として現われ,生産過程および流通過程の総結果が,物に内在する属性として現われる〉資本が物として現われ、価値を増殖するという属性が物に内在するもののように現われる。〈利子生み資本では,この自動的なautomatisch物神,自分自身を増殖する価値,貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されている〉〈社会的関係が,物の(貨幣の)それ自身にたいする関係として完成されている〉。

【4】こうしたことから〈価値を創造するということ,利子を生むということが貨幣の属性であるのは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じ〉ようなものとして現われる。そればかりかそれ以上であり、〈現実に機能する資本そのものが,機能資本としてではなく,資本それ自体として(moneyed capita1として)利子を生むのだ,というように現われる。

【5】〈次のこともねじ曲げられる〉利子は利潤の一部なのに、利子こそが資本の本来の果実となり、利潤は企業利得として生産過程と流通過程で付け加わる付加物になる。だから〈ここでは資本物神姿態資本物神の観念とが完成している〉〈資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化〉〈自分自身の価値を増殖するという,貨幣の,商品の能力--最もまばゆい形態での資本神秘化〉。

【6】そしてこうした資本物神の形態では、利潤や利子の源泉が分からなくなっているということから俗流経済学にとっては〈お誂え向き〉である。

【7】利子生み資本(moneyed Capital)においてはじめて資本は商品になった。この商品はそのつどの利子率で値付けされた〈確定価格〉をもつ。

【8】つまり利子生み資本では、われわれは〈純粋な物神形態G_G'を,主体として,売ることのできる物として,得る〉。それは第一に〈資本が絶えず貨幣として存在することによって〉、第二に〈資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われる〉からである。だから〈生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むことが貨幣資本としてこの形態にある資本に固有なこと〉になるのである。

【9】このパラグラフは次のパラグラフ(【10】)以下においてルターなどが資本物神をするどく、特徴的に指摘している先行の著者たちの例を考察する前提(そのイントロ)という性格を持っているように思える。だからここでは〈1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている〉とか〈資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である〉というこれまですでに述べられていたことが繰り返され、〈貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,〉〈それが寝ていようと起きていようと,家にいようと旅をしていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える〉というルターの言い回しを使った表現がなされており、〈利子生み貨幣資本では〉〈貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されている〉と指摘されている。

【10】〈利子が物としての貨幣資本に生え込んでいること〉こそ、ルターが高利に対してがみがみ言わせているものだとの指摘があり、ルターからの抜粋がある。ルターは二重の損失が実際に生じるなら利子を要求してもよいが、金貸達は、すぐにそこにつけこんで架空の損失をでっちあげると告発して、彼らは〈貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ,こうしてなんの心配も危険も損害もなしに他の人びとの労働によって,生活し,金持になり,自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に座していて私の100グルデンに国中で私のために稼がせ,しかもそれが貸した貨幣であるために,なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保するとすれば,友よ,だれかこれを望まない人があるだろうか〉と告発している。しかしルターが告発しているものこそ、利子生み資本の本性そのものであるというわけである。

【11】原注(ルターからの引用の典拠を示すのみ)

【12】自己増殖する価値としての資本の観念は、プライスの思いつきを生み出し、ピットはそれを財政の支柱にした。

【13】プライスからの抜粋。複利が如何に累進的な増大をもたらすか。

【14】原注、プライスからの抜粋の典拠を示すと同時に、ハミルトンの批判を紹介。マルクスの批判も続けている。プライスは同じ利子率がずっと続くことを前提しているが、この利子が利潤を前提していることを忘れている。そんなことは彼にとってはどうでもよいことであるが、これは利子生み資本の生来の質を彼が代表しているからである。

【15】プライスのもっと途方もない主張の紹介。〈なんというけっこうな,イギリス国債への理論的手引きであろう!〉というマルクスの皮肉。

【16】原注(プライスの抜粋の典拠であるが、自身の抜粋ノートの頁数を書いている)。

【17】プライスの複利の計算式を紹介。〈彼は資本を,再生産と労働との諸条件を顧慮することなく,自動的に動く自動機構〔a self acting automaton〕とみなし,たんなる自己増殖する数とみなした〉。

【18】ピットの減債基金の政策はプライスの誤魔化しを真に受けていることからくる。

【19】ピットの減債基金の内容の紹介。〈ピットは,ドクター・プライスの仲介によって,スミスの蓄積理論を負債の蓄積による人民の致富に転化させ,借金,借金を払うための借金,等々という,楽しい無限進行に到達する〉。

【20】原注(ピットの減債基金の説明を紹介した典拠を示すもの)。

【21】ピットの思いつきは、すでに100年ほど前にジョサイア・チャイルドによって指摘されていた。

【22】原注(チャイルドの指摘の典拠を示す)

【23】ここからはプライスの見解が現代の経済学に紛れ込んでいる様子を、まずは『エコノミスト』から紹介するとしている。

【24】『エコノミスト』からの抜粋。資本は複利で増えるとする。

【25】原注(『エコノミスト』からの抜粋の典拠を示すと同時に、それとルターの一文との比較を促し、高利貸しが如何に社会に寄生してそれをしゃぶり尽くすものであるかを歴史を越えて、指摘されてきたことを述べている。現代の経済学と中世のそれとの類似。)

【26】これらの主張は利子生み資本の属性、すなわちおよそ生産されるあらゆる富をすべて独占しようとする資本の飽くなき欲求を示している。

【27】ロマン派のミュラーのたわごと。

【28】原注(ミュラーからの抜粋の典拠を示すもの)。

【29】ミュラーの主張に対するマルクスの批判。

【30】ミュラーの主張の批判の続き。

【31】資本の蓄積過程を複利の蓄積といえるのは、利潤の蓄積に回る部分を利子と呼ぶことができるかぎりだとの指摘がある。しかしこれに対する反論が1)、2)と行われる。

【32】まず1)として言われているのは、既存資本の減価である。現実の再生産過程では、既存資本が常に生産力の発展によって減価する傾向がある。その点で複利とはすでに違ったものである。

【33】原注(ミル、ケアリの所説とそれに対するロッシャーの注釈を見よとの指摘がある)。

【34】次に2)として、利潤率そのものが労働の生産力の高度化に対応して、傾向的に低下することが指摘されている。つまり複利では利子率は一定であることが前提されているが、現実の再生産過程では、そもそも利潤率そのものが低下する傾向があるのであり、この点からも蓄積を複利とすることはできないという反論がなされている。

【35】原注(ホジスキンからの抜粋。ホジスキンも蓄積を複利とすることに対する反論を試みている)。

【36】資本の蓄積には質的な限界があることが指摘される。総労働日であり、だから蓄積を複利とするのは、剰余価値を利子という無概念的な形態で捉えることであり、そうすればただ限界は量的なものだけになり、空想的な数字を弄ぶことになる。

【37】最後の締めくくりとして、利子生み資本では資本物神が完成されていることが指摘されている。貨幣という物に幾何級数的に剰余価値を生み出す力を付与し、時代のあらゆる富を独占しようとする。しかし価値の再生産は生きた労働と過去の労働の接触の結果でしかなく、また過去の労働が生きた労働に対立するのは、資本関係という一定の社会関係が存続する間だけだと指摘されている。

  こうして見ていると、第24章該当部分の草稿は、表題は別として全体として三つの部分に分けることができるように思える。
  しかし全体の構成を考える前に、まずわれわれは【1】の表題そのものを考えてみよう。すなわち《4) 利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化》についてである。つまり利子生み資本の形態では、剰余価値や資本関係そのものが外面化して、その関連や繋がりが分からなくなっているということである。マルクスは第3部の表題を〈総過程の諸形象化〉とした。エンゲルスはそれを〈資本主義的生産の総過程〉としたのだが、それだと、第1部の〈資本の生産過程〉と第2部の〈資本の流通過程〉を統一した〈総過程〉とのイメージを持つ。だが、マルクス自身は第3部全体の序文ともいえる冒頭のパラグラフのなかで〈この部で問題になるのは,この「統一」について一般的反省を行なうことではありえない〉としている。そして〈諸形象化〉について、〈資本のもろもろの形象化は,それらが社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後にさまざまな資本の相互の行動である競争のなかで生じるときの形態に,一歩一歩近づいていく〉と述べている(大谷新本第1巻407頁)。つまり生産当事者たちの日常の意識で捉えられる諸現象をその背後の関係との内的関連のもとで説明していくということである。利子生み資本においては、剰余価値の源泉はおろか、資本関係そのものさえ、あいまいで分からないものになってくる様が明らかにされているわけである。この表題はそうした意味を込めたものと言えるだろう。
  それでは全体の構成を考えてみよう。それは次の三つの部分からなっているように思える。

(1)【2】~【8】 ここでは利子生み資本では資本の物象化が最高の展相にまで到達し、資本関係の神秘化、物神性が完成されていることが指摘されている。主にこの部分は次の二つに分けられている。

  (1)【2】~【6】では利子生み資本において物象化が最高の展相にまで達し、完成されていることが指摘されている。--〈利子生み資本において,資本関係はその最も外面的最も物神的な形態に到達する〉、〈G_G',より多くの貨幣を生む貨幣,自分自身を増殖する価値〉がそれである。ここでは〈一つの無意味な要約に収縮させられた,資本の本源的かつ一般的な定式である(短縮された定式)〉が復活している。こうしたことから〈価値を創造するということ,利子を生むということが貨幣の属性であるのは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じ〉ようなものとして現われる。利子は利潤の一部なのに、このことも〈ねじ曲げられ〉、利子こそが資本の本来の果実となり、利潤は企業利得として生産過程と流通過程で付け加わる付加物になる。だから〈ここでは資本物神姿態資本物神の観念とが完成している〉〈資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化〉〈自分自身の価値を増殖するという,貨幣の,商品の能力--最もまばゆい形態での資本神秘化〉に達している。これは利潤や利子の源泉が分からなくなっているということから俗流経済学にとっては〈お誂え向き〉である。
  (2)【7】~【8】では利子生み資本(moneyed Capital)においてはじめて資本は商品になったことが指摘されている。この商品はそのつどの利子率で値付けされた〈確定価格〉をもつ。われわれは利子生み資本において〈純粋な物神形態G_G'を,主体として,売ることのできる物として,得る〉。それは〈生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むことが貨幣資本としてこの形態にある資本に固有なこと〉になるのである。

(2)【9】~【30】われわれが到達した利子生み資本における資本の物象化の完成された形態というのは、まさにブルジョア達が日常的にその意識に反映しているものであることが、具体的な例を上げて明らかにされている。

  まず【9】はその導入部分であり、
  【10】~【11】がルターの紹介。
  【12】~【20】はプライスの思いつきとそれを基にしたピットの減債基金の問題が論じられている。
  【21】~【22】ビットの思いつきにはその先行者(チャイルド)がいたことが指摘されている。
  【23】~【30】ここではプライスの思いつきは現在の経済学にも紛れ込んでいるとして、『エコノミスト』とロマン派のミュラーの主張が取り上げられている。

(3)【31】~【37】この最後の部分は、資本の蓄積過程を複利の蓄積と捉えることに対する批判が取り上げられ、そもそも資本の蓄積を複利の蓄積とすることは、剰余価値を利子という無概念的な形態でとらえ、単なる数量の関係にしてしまうことであるが、しかし現実の蓄積には、再生産過程にもとづく質的な制限があることが指摘されている。そして最後に、過去の労働が生きた労働に対立するのは、資本関係という一定の社会関係の存続する間だけだという指摘 で終わっている。

  しかし全体としては、特に(1)の部分に言えることであるが、61-63草稿から抜粋してつなぎ合わせたという、この草稿の性格から、内容的に重複するものが見られる。その限りではまだまだ未完成な草稿の段階にとどまったものではないかと言えるかも知れない。

  ついでにこの草稿を読んでいて、若干、考えたことを紹介しておこう。
  マルクスは〈資本はいまでは物であるが、物として資本である〉と述べている。この資本が「物」であるということでマルクスは何を言いたいのであろうか。いうまでもなく、物とは直接的なものである。つまりわれわれの目に見える形で存在しているものなのである。ヘーゲルは本質は目に見えないが、その本質がまず最初に目に見えるものとして現われてくるのは物(現存在)としてであると述べている。この場合の物は、まだ本質との関係において反省されておらず、その反省を待って物は現象になるのである。資本というのは価値が主体として運動して自己増殖していく関係そのものであるが、この場合の資本はまだ直接的には目に見えていない。その運動は貨幣や商品や生産諸要素(生産手段と労働力)などを通じて自己を現わしてくるだけで、資本そのもの(関係そのもの)がそれ自体として物としてあるわけではない。しかし利子生み資本(monied capital)においては、貨幣という物そのものがそれ自体として自己増殖する関係を表すものなのである。だからマルクスは〈資本はいまでは物であるが、物として資本である〉というのである。利子生み資本は貨幣という物として存在している。しかし一般的には貨幣そのものはただ価値の直接的な形態であるに過ぎない。その意味では貨幣は価値が物として現われたものである。しかしそれは価値が物として現われたものではあるが、しかし資本としてあるわけではない。資本というのは価値が自分自身との関係を反省しその増殖を比率として持つものなのである。だから貨幣そのものはこうした資本の規定性を持っているわけではない。しかし利子生み資本は貨幣でありながら、単に価値の直接的な形態という規定性だけではなく、それ自体において自己増殖する関係を持っている物なのである。だから利子生み資本においては 〈資本はいまでは物であるが、物として資本である〉と言いうるわけである。

  最後に、利子生み資本において物象化、物神性は完成され、最高度の展相にまで到達しているとマルクスは指摘しているが、そもそも物象化や物神性は、商品や貨幣における物神性や、資本の生産過程における物神性、資本の流通過程における物神性、等々、『資本論』の展開のなかで、その物象化や物神性が重層的に展開し、発展していく過程が論じられてきたわけであるが、それではそれは一体、どのようなものだったのかということについて、実は、マルクス自身が『資本論』の最後のところで(第3部第7篇第48章「三位一体的定式」)、丁度、それについて論じている部分があるので、紹介しておきたい。長文であり、そのまま紹介しても芸がないので、物神性のそれぞれの発展段階にわけて紹介してみよう。それは次のようなものである。

【商品と貨幣の物神性】

  われわれはすで資本主義的生産様式の、また商品生産さえもの、最も単純な諸範疇について述べたところで、つまり商品と貨幣について述べたところで、神秘化的な性格を指摘したが、この性格は、社会的な諸関係、すなわち生産にさいして富の素材的諸要素がそれの担い手として役立つところの社会的な諸関係を、これらの物そのものの諸属性に転化させ(商品)、またもっとはっきり生産関係そのものを一つの物に転化させる(貨幣)。すべての社会形態は、それが商品生産や貨幣流通にまで到達しているかぎり、このような転倒に関与している。

【資本の生産過程における物神性】

  しかし、資本主義的生産様式では、そしてその支配的範疇であり規定的生産関係である資本のもとでは、この魔法にかけられた転倒された世界はさらにいっそう発展する。資本をまず直接的生産過程で--剰余労働を汲み出すものとして--見るならば、この関係はまだ非常に簡単であって、現実の関連はこの過程の担い手である資本家自身に迫ってきて、まだ彼らに意識されている。労働日の限界をめぐる激しい闘争はこのことを適切に証明している。しかし、このような無媒介の部面、すなわち労働と資本とのあいだの直接的過程の部面のなかでさえも、このような簡単なことにとどまってはいないのである。本来の独自な資本主義的生産様式のもとでの相対的剰余価値の発展につれて労働の社会的生産力も発展するのであるが、この発展につれて、この生産力も直接的労働過程での労働の社会的関連も、労働から資本に移されたものとして現われるようになる。それだけでも資本はすでに非常に神秘的なものになる。というのは、労働のすべての社会的生産力が、労働そのものにではなく資本に属する力として、資本自身の胎内から生まれてくる力として、現われるからである。

【資本の流通過程における物神性】

  同時にまた流通過程が介入してきて、この過程の物質代謝と形態諸変換には、資本の、じつに農業資本さえもの、すべての部分が独自な資本主義的生産様式が発展するのと同じ程度で、とらえられてしまう。この流通過程こそは、元来の価値生産の諸関係がまったく背景に退いてしまう部面なのである。すでに直接的生産過程でも資本家は同時に商品生産者として、商品生産の指揮者として、働いている。それだから、この生産過程は彼にとってはけっして単純に剰余価値の生産過程としては現われないのである。しかし、資本が直接的生産過程で汲み出して商品で表わした剰余価値がどれほどであろうと、商品に含まれている価値も剰余価値もまず流通過程で実現されなければならない。そして、生産に前貸しされた価値の回収もまたことに商品に含まれている剰余価値も、流通のなかでただ実現されるだけではなく流通から発生するように見える。この外観は、とりわけ二つの事情によって固められる。第一には譲渡のさいの利潤が詐欺や奸策や専門知識や技能や無数の市況に依存しているということである。だが、次には、ここでは労働時間のほかに第二の規定的な要素として流通期間が加わってくるという事情である。この流通期間は、ただ価値・剰余価値形成の消極的制限として働くだけではあるが、しかし、労働そのものと同様に積極的な原因であるような、また資本の本性から生まれるもので労働にはかかわりのない規定をもちこむかのような、外観を呈する。われわれは、第二部では、当然のこととして、この流通部面をただそれが生みだすいろいろな形態規定に関連して叙述し、そこで行なわれる資本の姿のいっそうの発展を指摘しさえすればよかった。ところが、現実にはこの部面は競争の部面であって、それは各個の場合を見れば偶然に支配されている。だから、そこでは、これらの偶然のなかを貫いてこれらの偶然を規制する内的な法則は、これらの偶然が大量に総括される場合にはじめて目に見えるようになるのであり、したがって、そこではこの法則は個々の生産当事者自身にとっては相変わらず見えもしなければわかりもしないのである。しかし、さらに、現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、いろいろな新たな姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産関係は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである。

【資本の総過程の諸形象化における物神性】

《剰余価値の利潤への転化》
   剰余価値の利潤への転化は、すでに見たように、生産過程によって規定されているとともに流通過程によっても規定されている。剰余価値は、利潤という形態では、もはや、それの源泉である労働に投ぜられた資本部分には関係させられないで、総資本に関係させられるのである。利潤率は固有の諸法則によって規制され、この諸法則は、剰余価値率が変わらなくても利潤率が変動することを許し、またこの変動をひき起こしさえもするのである。すべてこれらのことは、剰余価値の真の性質を、したがってまた資本の現実の機構を、ますますおおい隠してしまう。
《利潤の平均利潤への転化、価値の生産価格への転化》
  さらに、利潤が平均利潤に転化し、価値が生産価格に、すなわち市場価格の規制的平均に転化すれば、なおさらそれはひどくなる。ここでは一つの複雑な社会的過程、諸資本の平均化過程がはいってくるのであって、この過程は諸商品の相対的な平均価格をそれらの価値から引き離し、またいろいろな生産部面での平均利潤(それぞれの特殊な生産部面での個別的投資のことはまったく無視して)をそれぞれの資本による労働の現実の搾取から引き離してしまうのである。ただそう見えるだけではなく、ここでは実際に商品の平均価格はその商品の価値つまりその商品に実現されている労働とは違っているのであり、また、一つの個別資本の平均利潤は、この資本が自分の使用する労働者かち引き出した剰余価値とは違っているのである。商品の価値は直接にはただ労働の生産力の変動が生産価格の低下や上昇すなわちその運動に及ぼす影響に現われるだけで、それが生産価格の最後の限界に及ぼす影響に現われるのではない。利潤はただ付随的に労働の直接的搾取によって規定されるものとして現われるだけである。すなわち、ただ、この搾取が資本家に、外観上この搾取にかかわりなく存在する規制的市場価格のもとで、平均利潤から偏倚した利潤を実現することを許すかぎりで、そのようなものとして現われるだけである。正常な平均利潤そのものは、資本に内在するもので搾取にはかかわりのないもののように見える。異常な搾取は、あるいはまた有利な例外的条件のもとでの平均的な搾取も、ただ平均利潤からの偏差の条件になるだけで、平均利潤そのものの条件ではないように見える。
《利潤の利子と企業利得とへの分裂》
  企業者利得と利子とへの利潤の分裂は(流通を基礎としまったくただ流通から発生するもので生産過程そのものから発生するものではないように見える商業利潤や貨幣取引業利潤の介入はまったく問題にしないでも)、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいする剰余価値の形態の骨化を、完成する。利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからはまったく引き離されてしまって、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく資本家自身の賃労働から発生するものとして現われる。この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立な源泉としての資本から発生するように見える。資本が最初は、流通の表面では、資本呪物として、価値を生む価値として、現われたとすれば、それが今ではまた利子生み資本という姿でその最も疎外された最も独特な形態にあるものとして現われるのである。したがってまた、「資本-利子」という形態は、「土地-地代」および「労働-労賃」にたいする第三のものとしては、「資本-利潤」よりもずっと首尾一貫的でもある。というのは、利潤ではやはりまだその起源を思わせるものが残っているが、それが利子ではただ消えてしまっているだけではなく、この起源にたいする固定した対立形態に置かれているからである。
《地代と土地所有における物象化》
  最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして剰余価値の一部分を次のような一階級の手に引き渡すものとして、現われる。その階級というのは、自分で労働するのでもなければ労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を貸し出すさいの危険や犠牲というような道徳的な慰めになる理由を楽しんでいることもできない階級である。ここでは剰余価値の一部分は、直接には社会関係に結びついているのではなく、一つの自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化との形態は完成されており、内的な関連は決定的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過程のいろいろな素材的要素に結びついたさまざまな生産関係の相互にたいする独立化によって、完全にうずめられているのである。

【経済的三位一体における物神性の完成】

  資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労賃では、すなわち価値および富一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界であって、そこではムッシュー・ル・カピタルとマダム・ラ・テル〔資本氏と土地夫人〕が社会的な登場人物として、また同時に直接にはただの物として、怪しい振舞をするのである。このようなまちがった外観と欺瞞、このような、富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化、このような、物の人格化と生産関係の物化、このような日常生活の宗教、およそこのようなものを解消させたということは、古典派経済学の大きな功績である。というのは、古典派経済学は、利子を利潤の一部分に還元し、地代を平均利潤を越える超過分に還元して、この両方が剰余価値で落ち合うようにしているからであり、また、流通過程を諸形態の単なる変態として示し、そして最後に直接的生産過程で商品の価値と剰余価値とを労働に還元しているからである。それにもかかわらず、古典派経済学の代弁者たちの最良のものでさえも、ブルジョア的立場からはやむをえないことながら、自分たちが批判的に解消させた外観の世界にやはりまだ多かれ少なかれとらわれており、したがって、みな多かれ少なかれ不徹底や中途はんぱや解決できない矛盾におちいっている。これにたいして、他方では、現実の生産当事者たちがこの資本-利子、土地-地代、労働-労賃という疎外された不合理な形態ではまったくわが家にいるような心安さをおぼえるのも、やはり当然のことである。なぜならば、まさにこれこそは、彼らがそのなかで動きまわっており毎日かかわりあっている外観の姿なのだからである。したがってまた、同様に当然なこととして、俗流経済学、すなわち、現実の生産当事者たちの日常的観念の教師的な多かれ少なかれ教義的な翻訳以外のなにものでもなくて、これらの観念のうちにいくらか条理のありそうな秩序をもちこんでくる俗流経済学は、まさにこの、いっさいの内的関連の消し去られている三位一体のうちに、自分の浅はかな尊大さの自然的な、いっさいの疑惑を越えた基礎を見いだすのである。この定式は同時に支配的諸階級の利益にも一致している。なぜならば、それは支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠の正当化理由とを宣言してそれを一つの教条にまで高めるものだからである。〉 (全集第25b巻1059-1064頁)

 (完)

 

 

 

 

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