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2020年4月

2020年4月11日 (土)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-8)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【31】

 〈|316上|213)資本の蓄積過程を複利の蓄積と考えることができるのは,利潤(剰余価値)のうちの資本に再転化させられる部分,すなわち新たな剰余労働の吸上げに役立つ部分を利子と呼ぶことができるかぎりでのことである。だが,--

  213)草稿ではここに「L」という記号が書かれている。〉 (357頁)

 〈資本の蓄積過程を複利の蓄積と考えることができるのは、利潤(剰余価値)のうちの資本に再転化させられる部分、すなわち新たな剰余労働の吸い上げに役立つ部分を利子と呼ぶことができる限りでのことです。しかし、--〉

 【ここからは、先に見た、プライスに依拠して、スミスの蓄積論を複利の蓄積としたピットや『エコノミスト』の一文の主張〈資本は,貯蓄された資本のすべての部分にたいする複利によって,あらゆるものを独り占めにしていくもの〉といった主張の批判的検討が〈1)、2)〉と行われている。
  まずこのパラグラフでは、こうした資本の蓄積過程を複利の蓄積と考えることができるのは、利潤の一部を資本に再転化させられる部分を、利子と呼ぶことができる限りでだということが、確認されている。もっともこの部分を概念的には利子と呼ぶことなどできないのだが、それを敢えて、そのように仮定しているわけである。そして〈だが,--〉として〈1)、2)〉と続いている。】


【32】

 〈1)すべての偶然的な撹乱を無視しても,再生[468]産過程の進行中に絶えず既存資本の一大部分は多かれ少なかれ減価する。なぜならば,諸商品の価値は,再生産過程においては,それらの生産に最初に費やされる労働時間によってではなく,それらの再生産に費やされる労働時間によって規定されており,しかも,この労働時間は労働の社会的生産力の発展の結果,絶えず減少していくからである。それゆえ,社会的生産力のより高い発展段階では,すべての既存資本は,「貯蓄された資本」(なんというばかげた表現だ!)の長い過程の結果としてではなく,相対的に非常に短い再生産期間の結果として現われるのである。a)/〉 (357頁)

 〈1)すべての偶然的な攪乱を無視しても、再生産過程の進行中に絶えず既存資本の一大部分は多かれ少なかれ減価します。なぜなら、諸商品の価値は、再生産過程においてはそれらの生産に最初に費やされる労働時間によってではなく、それらの再生産に費やされる労働時間によって規定されており、それゆえ、社会的生産力のより高い発展段階では、すべての既存資本は、「貯蓄された資本」(なんというばかげた表現だ!)の長い過程の結果としてではなく、相対的に非常に短い再生産期間の結果として現われるのです。〉

 【ここでは偶然的な攪乱を無視しても、既存資本は常に減価していることが指摘されていてる。これが果たして先のパラグラフとどのように論理的に繋がっているのか、今一つよく分からない。『エコノミスト』からの引用では、〈資本は,貯蓄された資本のすべての部分にたいする複利によって,あらゆるものを独り占めにしていくもの〉とあったが、マルクスが言いたいのは既存の資本は、「貯蓄された資本」の長い過程の結果としてではなく、相対的に非常に短い再生産期間の結果として現われているとしている。というのは、
既存資本の価値は、それが再生産過程で最初に費やされた労働時間によってではなく、それらが現在において再生産される場合に費やされる労働時間によって規定されているのであり、しかも社会的生産力がより高くなれば、この差は大きくなり、既存資本の減価は免れないのだ、というのがマルクスがここで主張していることのようである。
  つまりこの1)では、『エコノミスト』が「貯蓄された資本」のすべての部分に対する複利によって、あらゆるものを独り占めにすると主張したのに対して、社会的生産力のより高い発展段階では、既存資本というのは常に減価していくのだから、複利で増えていくとしても、他方で既存資本そのものが減価していくことを考慮に入れる必要があるということのようである。つまり利潤(これを仮に利子と考えたとして)のすべてを資本に転化し、蓄積すると仮定しても、例え同じ利潤率(利子率)が維持されたとしても、年間取得される利潤=蓄積元本(C+V+p)×利潤率(ただしここでpは前年の利潤で蓄積に回された分) となるが、そのうちCが毎年減ってくなら、利潤は同じ割合で増えていくわけではなく、蓄積元本は(C-c+V+p)となり、Cがcだけ減価するなら、次年度のpもそれに応じて小さくなるわけだから、pも常に同じ調子で複利で増えていくわけではない、と言いたいのであろうか。】


【33】

 /316下/〔原注〕a)ミルケアリ,また彼らの所説へのロッシャーの,人を誤らす注釈を見よ。〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕ジョン・ステユーアト・ミル『経済学原理……』,第1巻ロンドン,1849年,91-92ページ〔末永茂喜訳『経済学原理』,岩波文庫,(1),1959年,151-153ページ〕。
  ②〔注解〕ヘンリ・チャールズ・ケアリ『社会科学の諸原理』,第3巻,フィラデルフィア,ロンドン,パリ,1859年,71-73ページ。
  ③〔注解〕ヴィルヘルム・ロッシャー『国民経済学原理』,第3版,シュトゥットガルト,アウクスブルク,1858年,77-79ページ。〉 (357-358頁)

  【これは先のパラグラフ全体につけられた原注であるが、ここで挙げられているもののすべてに当たって調べることはできなかったが、邦訳のあるジョン・ステユーアト・ミル『経済学原理』については、指摘されている当該部分を参考のために紹介しておこう。

  〈6 〔資本は保存によって維持されるものではなくて、絶えざる再生産によって維持されるものである〕

  いま一度先の根本的公理へ帰ろう。およそ生産されるものはすべて消費される。貯蓄されるものも、いわゆる浪費されるものも、ともにそうである。前者は後者とまったく同じ速さで消費されるのである。通常の用語は、すべてこのことを隠蔽する傾きをもっている。世間の人が一国の古来の富とか、祖先伝来の富とか、その他これに類する表現を口にするとき、このようにして伝えられた富はずっと昔、そのはじめて獲得されたといわれるときにつくられたものであるという考え、また国の資本のうち、その総額に本年中に付け加えられた部分以外の部分は、すべて本年のうち生産されたものにあらずという考えが暗々裏に含まれている。ところが事実は決してそうではないのである。現在イギリスに存在する富の、価値からいって比較的に大なる部分は、最近12ヵ月のあいだに人手をもって生産されたものである。その富の総額は非常に大きいものであるが、10年前にはそのごく小部分が存在していたに過ぎない。国の現存の生産的資本のうちには、農業用建物と工場と少数の船舶や機械とを除けば、10年前のものはほとんど存在しない。しかもこれらのものすらも、その期間内にこれを修理しておくための労働が加えられなかったならば、多くはこれほど保たなかったであろう。もっとも土地はいつまでも存続する。が、土地はいつまでも存続するほとんど唯一のものである。およそ生産される物はすべて死滅する。しかも多くはきわめてすみやかに死滅してしまう。各種の資本の大部分はその性質上長き保存に耐えない。生産された物にして長い生命をもちうるものが若干あるが、それは至ってわずかである。もっともあのウェストミンスター寺院のごときは、時おり修理を加えられて幾世紀も形を保ってきた。ギリシアのある彫刻のごときは、2千年以上にわたって存続しており、ピラミッドはおそらくその2、3倍もながく存続している。しかしこれらのものは、不生産的使用に供せられた物である。橋梁と水道と(ある国々では貯水池と堤防とをこれに加えるべきであろう)を除けば、およそ産業上の目的に供せられた大建造物にして長く生命を保ったものの例は、まれである。このような建造物は、磨減に耐えるものではなく、また長く形を保たせるために必要なほどこれを堅牢に建造するということは経済上の良策でもないのである。資本はある時代から次の時代へと維持されているが、これは保存によるものではなくて、絶えざる再生産によるものである。それの各部分は、しかも一般にそれが生産されるや否やただちに、使用され破壊される。しかしこれを消費する人たちは、その間さらに多くのものを生産することに使用されているのである。資本の増加は人口の増加に似ている。生まれた個人はみな死ぬ。しかし、年々、出生数は死亡数よりも多い。したがって人口は、その成員のただひとりもきわめて近日までこの世に生まれていたわけではなくとも、常に増加するのである。〉(151-153頁)

  ごらんのように、このミルの一文は〈社会的生産力のより高い発展段階では,すべての既存資本は,「貯蓄された資本」(なんというばかげた表現だ!)の長い過程の結果としてではなく,相対的に非常に短い再生産期間の結果として現われるのである。〉というマルクスの言明を裏付けるものになっている。】


【34】

 /316上/2)第3部第3章が論証したように,利潤率は,資本の蓄積とこれに対応する社会的労働の生産力とに比例して低下し,この生産力は,まさに不変資本に比べての可変資本の相対的減少の進展に表わされる。もし1人の労働者が10倍の量の資本を運動させるとすれば,同じ利潤率をあげるためには,剰余価値も10倍にならなければならないであろう。そして,やがては,全労働時間が,じつに1日24時間が全部資本によって取得されても,まだそれには足りなくなるであろう。しかし,この観念がプライス的な累増の根底にはあるのであり,またおよそ「複利であらゆるものを独り占めする資本」の根底にはそれがあるのである。b)/

  ①〔異文〕「労働者が」という書きかけが消されている。〉 (358頁)

 〈2)第3部第3章で一般的利潤率の傾向的低落の法則を解明して論証しましたように、利潤率は、資本の蓄積とこれに対応する社会的労働の生産力とに比例して低下し、この生産力は、まさに不変資本に比べての可変資本の相対的減少の進展に表されます。もし生産力の発展の結果、一人の労働者がそれまでの10倍の量の資本を運動させるとすれば、同じ利潤率をあげるためには、剰余価値も10倍にならなければならないでしょう。そしてそうであれば、やがては全労働時間が、つまり1日24時間のすべてが資本によって取得されたとしても、まだそれでは足らなくなるでしょう。しかし、この観念がプライス的な累増の根底にあるのです。またおよそ「複利であらゆるものを独り占めする資本」の根底にはそれがあるのです。〉

 【1)では、不変資本そのものが常に減価していることが指摘されていたが、ここでは利潤率そのものも低下する傾向にあることが指摘されている。すなわち第3部第3章で明らかになった一般的利潤率の傾向的低下の法則にもとづけば、生産力が高度化し、不変資本にたいする可変資本の割合が減少すれば、当然、利潤率は低下するのだから、もし利潤率を一定に維持しようとするなら、搾取率を高める以外にないのであるが、しかし例え剰余労働時間を引き上げても、それは1日24時間以上にはなりえないのである。だからプライスなどの累増の観念の根底にはこうした労働者への徹底した搾取という考えがあるのだ、というのである。
  つまり1)では、利潤率(利子率)が一定と仮定しても、蓄積元本(C+V+p)のCが常に減っていくのだから、利潤pそのものが同じ利率で複利で増えていかないということを指摘していたが、ここでは利潤率(利子率)そのものも生産力の発展とともに低下するのだから、余計に複利と同じように蓄積が進むわけではないと言いたいようである。ただ彼らが「複利であらゆるものを独り占めする資本」ということの根底にある思想は徹底的に労働者から必要労働時間までをも搾取するという資本の飽くなき欲求を示しているのだということである。】


【35】

 /316下/〔原注)b)①230)「どんな労働も,どんな生産力も,どんな明知も,どんな技術も複利の圧倒的な要求に応じることはできないということは明らかである。しかし,すべての貯蓄は資本家の収入からなされるのであり,したがって現実に絶えずこの要求がなされるのであるが,それと同様に絶えず労働の生産力はこの要求を充たすことを拒むのである。それゆえ,絶えず一種の差引勘定が行なわれるのである231)。」(資本の要求にたいする労働の防衛』,23ページ〔前出安川訳『労働擁護論』,375ページ〕。〔)〕〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用は『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1437.25-30)から取られている。
  ②〔注解〕著者はトマス・ホヂスキン。

  230)『1861-1863年草稿』のノートXVのホヂスキンに関する項目のなかに,以下の引用を含む引用があり,その直前に「複利。」と書かれている。そこでは,ここでの引用の前に次の部分が引用されている。--「だれでもちょっと見ただけで納得するにちがいないのは,単純な利潤は社会の進歩につれて減少するのではなく増加するのだということ,すなわち,以前のある時代に100クォーターの小麦とか100台の蒸気機関とかを生産したのと同じ労働量が,今日ではいくらか,より多くを生産するであろうということである。……また,じっさい,以前よりもはるかに多数の人びとが今日この国で利潤によって豊かに生活しているのが見られるのである。しかしながら,」(MEGAII/3.4,S.1434.)
  231)『1861-1863年草稿』のこの箇所に,MEGAの編集者は次の「注解」をつけている。--「ホヂスキンは彼の著書で,「一種の差引勘定が……なされている」ということで彼がなにを言おうとしているかを,続けて次のように説明している。「資本家が労働者に生計手段をもつことを許すのは,資本家は労働なしではやっていけないからであって,他方,資本家は,まったく寛大にも,この目的のために必要でないものは生産物中のどんな小さな断片でも取り上げてしまうことで満足するのである。」」(MEGAII/3.4,S.3004.) 〉 (358-359頁)

 【これは先のパラグラフにつけられた原注であるが、ホジスキンの著書からの抜粋だけなので、書き下しは省略した。ホジスキンの引用は、複利による蓄積というのは、労働者の労働時間のすべてを吸収しようとする資本の搾取欲を示すものだが、しかしそれには労働者の生理的限界や社会的限界があるので、〈絶えず一種の差引勘定が行なわれる〉のだということのようである。このホジスキンからの引用は61-63草稿から採られているというので、それを見ておくことにしよう。

  〈複利。「次のようなことは、だれでもちょっと見ただけで納得するにちがいない。すなわち、単純な利潤は社会の進歩につれて減少するのではなく増加するのだということ、すなわち、以前のある時代に100クォーターの小麦とか100台の蒸気機関とかを生産したのと同じ労働量が、今日ではいくらかより多くを……生産するであろうということがそれである。……また、じっさい、以前よりもはるかに多数の人々が今日この国で利潤によって豊かに生活しているのが見られるのである。とはいえ、明らかに、どんな労働もどんな生産力も、どんな明敏さも、どんな技術も、複利の圧倒的な要求に応ずることはできない。しかし、いっさいの節約は資本家の収入のうちから(つまり単純な利潤のうちから)なされており、したがって、実際にはこれらの要求は絶えずなされているのであるが、同様に絶えず労働の生産力はこれらの要求を満たすことを拒んでいるのである。②それゆえ、一種の差引勘定が絶えずなされているわけである。」(23ページ〔鈴木訳、63/64ページ〕)   (草稿集⑦374頁)

  ここで下線による強調はマルクスによるものとのMEGAの注解がある。さらに②の部分について大谷氏の訳者注で紹介している次のような注解がある。

  〈②〔注解〕ホジスキンはその著書で、彼の言う「一種の差引勘定が……なされている」ということがなにを意味しているかを、本文に続けて次のように説明している。「資本家が労働者に生計の手段をもつことを許すのは、資本家は労働なしではやって行けないからであって、他方、資本家は、この目的のために〈a〉〔すなわち労賃の肉体的最低限の確保のために〕必要でないものは生産物中のどんな小さな断片でも取りあげてしまうことに非常に寛大な気持で満足しているのである。」(〈a〉この角括弧による挿入句は『全集』版編集者によるもの。〔『剰余価値学説史』『全集』第26巻第3分冊600ページ、注解(78)。〕〉〉 (草稿集⑦374-375頁)

   要するに、このホジスキンの一文は、先のマルクスの反証を裏付けるもののように思われる。ホジスキンも複利の圧倒的な要求など現実には実現不可能であることを指摘しているからである。ホジスキンは貯蓄は結局は資本家の収入からなされるしかなく、資本家の収入は労働者の搾取にもとづくが、だからそれには常に反作用が生じることを指摘している。なぜなら資本家は労働者の労働なくしてやっていけないが、労働者を生かすためにはその最低限の生活を確保する必要があるからだ、というのである。
  マルクスは61-63草稿では、上記のホジスキンの抜粋のあと、さらに次のように続けている。少し長くなるが、ここでマルクスが論じている内容を理解する助けになるので紹介しておこう(MEGAによる注解等は省略)。
 
  〈しかし、じっさい、資本主義的蓄積は利子の資本への再転化以外のなにものでもない。(というのは、ここでわれわれの目的にとっては利子と利潤とは、すなわちこの計算の目的にとっては、同じだからである。)つまり、複利である。今日は資本が1OOである。それは1Oの利潤(または利子)を生む。これが資本につけ加えられれば、11Oで、これが今では資本である。だから、その利子は、単に資本1OOの利子ではなくて、資本100・プラス・利子1O、の利子である。つまり複利である。だから、第二年度の終わりには(100C+10Z)+10Z+1Z=(1OO+10Z)+11Z=121になっている。そこでこれが第三年度の始めの資本である。第三年度には(100C +10Z)+11Z'+12[1/10]Zになる。したがって、第三年度の終わりには資本は133[1/10]である。〉 (草稿集⑦375-376頁、〔11Z'〕のダッシュについては、このあとに続くマルクスの計算のなかに〈ダッシュは利子の利子を表す〉との説明がある。)

  このあとマルクスは〈次のようになる〉と計算を続けて、第1年度から第8年度までの資本に追加される利子分を導き出し、そして次のように述べている。

  〈すなわち、第9年度にはすでに資本の半分よりも多くが利子から成っているのであって、こうして、資本のうち利子から成っている部分は幾何級数的に増大するのである。
  われわれが見たように、2O年間に資本は7倍になるであろうが、他方、マルサスの「極端な」想定に従っても、人口はやっと25年で2倍になりうるにすぎない。だが、ここでは、人口は2O年で2倍になり、したがってまた労働者人口もそうなる、としよう。20年間を平均すれば、1年の利子は3O%に、すなわち〔仮定した〕実際の利子の3倍になるはずであろう。ところが、搾取率は同じであるとすれば、2倍になった人口は20年間に(そしてこの20年間の大きな一部分では人口は労働能力がなく、子供まで働かせても、やっとその半分に労働能力があるだけであるが)以前のたった2倍の労働を、したがってまたたった2倍の剰余労働を、供給することができるだけで、3倍を供給することはできないのである。
  利潤率は(したがってまた利子率も)次のものによって規定されている。
  1、不変な搾取率を前提すれば、使用される労働者の数によって、すなわち充用される労働者の絶対数によって、したがってまた人口の増加によって。この数は増加するにもかかわらず、充用される資本総額にたいするその割合は、資本の蓄積と産業の発展とにつれて、減少する(したがって不変な搾取率のもとでの利潤率は〔低下する〕)。同様に、複利計算と同じ幾何級数をなして〔増加するということ〕は人口については思いも寄らないのである。人口の増加は、産業の発展のある段階では、剰余価値量および利潤量の増加を説明するが、しかし同時にまた利潤率の低下を説明するのである。
  2、標準労働日の絶対的な大きさ〔によって〕。すなわち剰余価値率の増大によって。つまり、利潤率は、標準労働日を越えての労働時間の延長によって増大しうるのである。とはいえ、これにはその肉体的な限界があり、また--やがては--その社会的な限界がある。労働者たちがより多くの資本を動かすのと同じ度合いで同じ資本がより多くの絶対的労働時間を支配するということには、疑問の余地がない。
  3、標準労働日が同じままであるならば、剰余労働は、労働の生産力の発展に比例して必要労働時間が短縮され、労働者の消費にはいる生活手段が安くされることによって、相対的に増大させられることができる。ところが、この同じ生産力の発展が可変資本を不変資本にたいする割合において減少させるのである。たとえば2人の剰余労働時間が、絶対的または相対的〔剰余〕労働時間を20人のそれに等しくするような延長によって、20人のそれにとって代わるということは、肉体的に不可能である。2O人が1日にたった2時間しか剰余労働をしないとしても、彼らは4O剰余労働時間を提供するのであるが、他方、2人の生活時間の全体でも1日にたった48時間にしかならないのである。
  労働能力の価値は、労働者または資本の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない。この生産力上昇は、生活必需品を(直接または間接に)生産しないすべての部門でも可変資本にたいする不変資本の割合を、労働の価値になんらかの変化をひき起こすことなしに、増大させる。生産力の発展は一様ではない。農業よりも工業をより急速に発展させるということは、資本主義的生産の性質上当然なのである。このことは、土地の性質から生ずるのではなくて、土地が真にその性質に適合して利用されるためには別の社会的諸関係が必要である、ということから生ずるのである。資本主義的生産は、その影響が土地をすっかり疲弊させ土地の資質を荒らしてしまってから、はじめて土地に押し寄せる。そのうえに、農業生産物は、--他の諸商品と比べて--、土地所有があるために、より高価に支払われる。というのは、その価値どおりに売られて、費用価格まで押し下げられないからである。ところが、農業生産物は生活必需品の主要な構成部分をなしている。さらに加えて、法則の、競争の結果、もし土地の1/10がより高価に利用されることになれば、残る9/10もやはり「人為的に」この相対的不毛性をくっつけられるのである。
  資本の蓄積が進んでも利潤率は不変であるべきだとすれば、利潤率は実際には増大しなければならないであろう。資本が1Oの剰余労働を与えていたあいだは、その同じ労働者は、複利が蓄積されて充用資本がより大きくなれば、複利の累積につれて3倍、4倍、5倍を提供しなければならないであろうというようなこと、これはナンセンスである。〉 (同377頁-380)

  またマルクスはホジスキンの主張と自身の主張を較べて次のように述べている。

  〈剰余価値率が同じままでも、またそれが高くなってさえも、利潤率が低下することを、私は次のことから説明した。すなわち、可変資本が不変資本にたいしてもつ割合が減少することから、すなわち、生きている現在の労働が充用され再生産される過去の労働にたいしてもつ割合が減少することから、説明した。ホジスキンや、『国民的苦難の根源と救済策』を書いた人は、このような利潤率の低下を、労働者が複利の要求=資本の蓄積に対応することができないということから、説明している。「どんな労働も、どんな生産力も、どんな明敏さも、どんな技術も、複利の圧倒的な要求に応ずることはできない。しかし、いっさいの節約は資本家の収入のうちから(つまり単純な利潤のうちから)なされており、したがって、実際にはこれらの要求は絶えずなされているのであるが、同様に絶えず労働の生産力はこれらの要求を満たすことを拒んでいるのである。それゆえ、一種の差引勘定が絶えずなされているわけである。」〈同前〔『労働の擁護』〕、23ページ〔鈴木訳、613/64ページ〕。〉〉  (同381頁)
  〈蓄積とは一般に--彼ら(ホジスキンら--引用者)によれば--複利を要求するということである--すなわち、同じ労働者により多くの資本が割り当たって、今や、彼に割り当たるであろう資本の大きさに比例して彼はより多くの剰余労働を提供するはずだ、ということである。彼に割り当たる資本は複利に比例してふえて行くが、彼の労働時間のほうは、非常に確定的な限界があって、相対的にも「どんな生産力」によってもこの複利の要求に応じて短縮されえ「ない」のだから、「一種の差引勘定が絶えずなされている」のである。「単純な利潤」は同じままであるか、またはむしろ増大する。(これは、事実上、剰余労働または剰余価値である。)だが、資本の蓄積につれて単利の姿のもとには複利が隠れているのである。〉(同383-384頁)

  まだまだマルクスの展開は続くのだが、あまりにも長くなりすぎるので、興味のある方には直接参照して頂くことにして、以下は割愛しよう。

 マルクスに言わせれば、資本主義的蓄積こそ「複利」そのものだということである。というのは、例えば10%の利潤率が維持されると仮定するなら、100の資本は10の利潤(利子と呼んでもよい)を生み、次の年度(マルクスは年1回転と仮定している)には資本は110(利子分は10)になり、今度はその110が10%の利潤(利子)を生む、そして次の年度には121(利子分21)になり、それが資本になって次の年度にも10%の利潤を生むなら第4年度は133.1(同33.1)になり、第5年度=146.41(46.41)、第6年度=161.051(61.051)、第7年度=177.1561、第8年度=194.87171(94.87171)、第9年度=214.35881(114.35881)等々となって累増していき、第9年度にはついに利子分は元の100の資本以上になるというわけである。つまり利子分は幾何級数的に増大していく(20年間には資本は7倍になるとマルクスは述べている)。だから資本の蓄積こそ「複利」だが、しかしこの資本主義的蓄積には絶対的な限界がある。なぜなら、蓄積の増大に必要な労働力人口そのものがそのようには増大しないからである。例えマルサス的に「極端」に考えても、20年間に2倍になるのがやっとであり、しかもその2倍になった人口増加の一部分はまだ子供であり、すぐには労働力の増大として結果するわけではない、等々というわけである。
  しかもそもそも利潤率そのものが一定のままに保証されるわけではない。なぜなら利潤率は生産力が高度化すればするほど傾向的に低下するからである(マルクスは利潤率を規定するものとして三つの要因を指摘している)。というわけで、資本主義的蓄積は決して「複利」では増大しない、〈これはナンセンスである〉というのがマルクスの結論である。
  マルクスが引用しているホジスキンの著書は匿名で出版されたもので、題名は『一労働者著、「資本の要求に対し労働を擁護す、または職人間における現時の団結に関連して資本の不生産性を証明す」、ロンドン、1825年』というものだったらしい(鈴木鴻一郎訳『労働擁護論』日本評論社・世界古典文庫35)。本文だけなら文庫本にして70頁ほどの小冊子であるが、マルクスはその検討に61-63草稿では324-403頁(草稿集⑦)も費やしている(『剰余価値学説史』だと345-416頁〔全集第26巻Ⅲ〕)。それだけマルクスにとって重要視すべき著書だったということであろう。】


【36】

 〈/316上/剰余価値と剰余労働との同一性によって,資本の蓄積には一つの質的な限界がおかれている。--総労働日がそれであり,生産諸力と人口とのそのときどきに見られる発展がそれであって,この人口は同時に搾取できる労働日の数の限界となるのである。これに反して,剰余価値が利子という無概念的な形態でとらえられるならば,限界はただ量的なものであって,どんな想像力でもあざ笑うようなものになるのである。〉 (359頁)

 〈剰余価値というのは剰余労働によって生み出されます。だから資本の蓄積には一つの質的な限界があるのです。総労働日がそれです。また、生産諸力と人口とのそのときどきに見られる発展がそれです。この人口は同時に搾取できる労働日の数の限界となるのです。これに反して、剰余価値が利子という無概念な形態でとらえられるようになると、限界はただ単なる量的なものになってしまい、どんな想像力でもあざ笑うようなものになるのです。〉

 【剰余価値は剰余労働の対象化されたものであるから、その剰余労働を搾取することによってなされる資本の蓄積には一つの質的限界があるとマルクスは指摘している。これは先のホジスキンの主張をより正確に言い表したものでもあるだろう。そしてこれは絶対的過剰生産について論じていたときにもマルクスが強調していたことと同じであり、その意味では重要である。
  その質的限界というのは、一つは総労働日であり、生産諸力と人口とのその時々に見られる発展がそれだと述べている。そして人口は同時に搾取できる労働日の数の限界となると述べている。もちろん、資本主義的生産は相対的過剰人口を形成することができ、自然人口がそのまま直接蓄積の限界となって現われてくるわけではない。しかし資本の加速度的な蓄積を促す相対的過剰生産期には、まさにこの搾取人口という自然的な、故に資本主義的生産にとってはどうすることもできない「絶対的な」限界が現われて来るわけである。
  ここではマルクスは、プライスのような複利による「資本」の累進的増大という幻想は、まさに剰余価値が利子という無概念な形態で捉えられるから、ただそれが単なる数値に置き換えられてしまうなら、どんな想像力をもあざ笑うかのようなものになるのだと指摘しているわけである。】


【37】

 しかし,利子生み資本では資本物神の観念が完成されているのであって,この資本物神は,自動機関〔Automat〕として或る生来の質によって対象的な富に,そのうえ貨幣として固定されたそれに,幾何級数的に剰余価値を生みだす力を付与するのであり,それゆえにまたこの資本物神は,『エコノミスト』誌が言っているように,あらゆる時代の世界のいっさいの富を正当に自分に帰属し与えられるものとしてすでに長いあいだ割引してきたのである。過去の労働が,ここではそれ自体として現在または未来の生きた剰余労働の一片をはらんでいるのである。ところが,だれでも知っているように,[469]じつは過去の労働の生産物の価値の維持は,そしてそのかぎりではこの価値の再生産は,ただ,それらの生産物と生きた労働との接触の結果でしかないのであり,また第2に,過去の労働の生産物が剰余労働に命令するということ〔Commando〕が続くのは,まさにただ,資本関係,すなわち,過去の労働が生きた労働に対立しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけなのである。|

  ①〔異文〕改行したのちの,「この点に到着したので,われわれは資本主義的〔capit〕……への回顧を……しよう」という書きかけが消されている。〉 (360-361頁)

 〈しかし、利子生み資本では資本物神の観念が完成されています。そしてこの資本物神によれば,その生来の質によって、対象的な富に,貨幣として固定されたそれに,自動機関とて、幾何級数的に剰余価値を生みだす力を付与するのです。だからこの資本物神は,『エコノミスト』誌が言っているように,あらゆる時代の世界のいっさいの富を正当に自分に帰属し与えられるものとしてすでに長いあいだ割引してきたのです。過去の労働が,ここではそれ自体として現在または未来の生きた剰余労働の一片をはらんでいるのです。しかし過去の労働の生産物の価値の維持は,つまりその価値の再生産は,ただ,それらの生産物と生きた労働との接触の結果でしかないのです。また,過去の労働の生産物が現在の剰余労働を支配するということが続くのは,まさにただ,資本関係,すなわち,過去の労働が生きた労働に対立しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけなのです。〉

 【資本物神が完成されている利子生み資本においては、プライスのような幻想を生み出さざるを得ない。しかしこうした資本物神は、結局、過去の労働が生きた労働に対立し、過去の労働の生産物が生きた剰余労働を支配し命令するという資本主義的な生産関係にもとづくものであり、その関係が克服されるとともに無くなるものでもある。】

  以上で、第24章該当部分の草稿のテキストは終わっている。次回は、全体を振り返ってここでマルクスが明らかにしている問題をもう一度確認しておくことにしよう。

  (続く。)

 

 

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