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2020年3月

2020年3月27日 (金)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-7)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【23】

 /315上/ドクター・プライスの見解が183)現代の経済学に無思慮に紛れ込んでいる様子は,『エコノミスト』からの次の箇所が示している。--

  ①〔注解〕「地代は盗みではない……」,所収:『エコノミスト』,ロンドン,第413号,1851年7月19日,796ページ。--『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.5,S.1748.15-20)から取られている。

  183)「現代の経済学に」マルクスは,はじめbei modernen Oekonomist[en](経済学者たち)と書きかけたのち,Oekonomistの末尾のstをeに直してOekonomieとした。そのさい同時にmodernenをmodernerに変更すべきところを忘れたために,bei modernen Oekonomieとなっている。なお,『1861-1863年草稿』では,「現代の相対的に批判的な経済学者たちに〔bei modernen,und relativ kritischen Oekonomen〕」となっている。〉 (351-352頁)

 〈ドクター・プライスの見解が現代の経済学に無思慮に紛れ込んでいる様子は、『エコノミスト』からの次の箇所が示しています。〉

 【これは書き下すほどのものでもなかったし、解説も不要であろう。ここからこれまでのプライスの主張とそれに影響されたピットの減債基金の問題から、同じようにプライスの見解がどのように影響を及ぼし、さまざまな経済学的な主張に紛れ込んでいるかを示すところに問題意識が移っているように思える。
  ところでこの箇所も61-63草稿から直接採られている。ほとんど変わらないが、一応、61-63草稿から当該部分を抜粋しておこう。

  〈どんなにプライスの見解が現代の相対的に批判的な経済学者たちのなかに無思慮に紛れこんでいるかは、たとえば『エコノミスト』からの次のような文章が示している。〉 (草稿集⑧333頁)

  これを見ると、大谷氏も指摘しているが、61-63草稿にある〈現代の相対的に批判的な経済学者たちのなか〉がテキストでは〈現代の経済学〉に書き換えられている。つまり〈相対的に批判的な〉という修飾が削られている。例え〈相対的〉なものとはいえ〈批判的〉であるという評価はやや評価しすぎだったということであろうか。】


【24】

 185)資本は,貯蓄された資本のすべての部分にたいする複利によって,あらゆるものを独り占めにしていくものなのであって,人びとが所得を引き出してくる世界の富はすべてずっと前から資本の利子になっているほどである。186)……すべての地代①②(土地の)は,いまでは,以前に土地に投下された資本にたいする利子の支払いである。」188)b)/

  ①〔異文〕「(土地の)」--書き加えられている。
  ②〔注解〕「(土地の)」--括弧でくくった挿入はマルクスによるもの。

  185)『1861-1863年草稿』では,このまえに次の部分が引用されている。--「イギリスで,土地がその権利や特権のすべてとともに何度も何度も繰り返し売買された(だからまた,彼が非常にお利口に結論しているように,「それにたいして支払われる貨幣に代わるたんなる代表物となった」)ことがなかった事例がある--こういうことは信じかねるが--とすれば,われわれは……地代として支払われるそれぞれの6ペンスが,土地が売られることのなかったそのような場合に地主によって貯蓄されそして土地に再投資された資本の代表物であることを……疑うものではない。……」
  186)『1861-1863年草稿』では,この「……」にあたる部分,つまり「土地は或る場所では他の場所でよりも価値があるとしても」が書かれている。
  188)『1861-1863年草稿』では,このあとに次のように書かれている。--「同じ作り話的な観念をもってすれば,『エコノミスト』は,無数の年月のあいだに実現されうる労働はすべて,これまでに蓄積された資本に支払われるべき利子を代表するにすぎない,と言うこともできたであろう。私がこの箇所を引用するのは,ただ,蓄積=複利という作り話的な観念のためにすぎない。それとは別に,ついでながら,『エコノミスト』の同号は次のように述べている。すなわち,「共同団体〔a corporate body〕としての」社会それ自体〔the community as such〕は「……土地(共同財産としての)への権利を主張するのであって,その権利をけっして手放さない」。資本を土地の購入に支出する人は「じつは,狭義かつ固有の動産に属する利益のうちのいくらかを,社会〔the community〕に没収され引き渡すのである。」(同前)」〉 (352-353頁)

  【これは一応、『エコノミスト』からの引用なので、書き下しは不要であろう。ところで、大谷氏も訳者注で指摘しているが、61-63草稿では『エコノミスト』からの引用はもっと長いものになっている。大谷氏の指摘と重複することになるが、全体をつかむためにも紹介しておこう(赤字がテキストに抜粋された部分)。

  〈「イギリスではどんな場合でも土地が、その権利や特権のすべてとともに、何度も何度も繰り返し売買されるようなことはなかった(それだから、彼〔プライス〕が非常に賢明に結論しているように、「それにたいして支払われる貨幣に代わる単なる代表物となった」)とすれば--われわれには信じかねることだが--、われわれは……6ペンスの地代がすべて、資本を代表するものであり、それは、土地が売られることのなかったそのような場合には、地主によって貯蓄されそして土地に再投資されたものであるということを……疑うものではない。……資本は貯蓄された資本の各部分にたいする複利によってあらゆるものを取りこんでしまうのであって所得が引き出される世界の富はすべてずっと前から資本の利子になっているほどであるたとえ土地はある場所では他の場所でよりも価値があるとしても、地代はすべて、今では、以前に土地に投ぜられた資本にたいする利子の支払である。」(『エコノミスト』、1851年7月19日。)同じ作り話的な観念でもって、『エコノミスト』は、無限の年月のあいだに実現されうる労働はすべて、これまでに蓄積された資本に支払うべき利子を表わすにすぎない、と言うこともできたであろう。私がその文章を引用するのは、単に、蓄積=複利という作り話的な観念のためであるにすぎない。それとは別に、ついでの話として〔by the by,und en passent〕、『エコノミスト』の同前号は、次のように述べている。すなわち、「一つの法人団体〔a corporate body〕の」ような共同社会〔community〕は「土地(共同財産としての)の権利を主張し、けっしてその権利を引き渡さない」。資本を土地の購入に支出する人は誰でも、「実は、厳密にかつもっぱら可動的な財産〔動産〕に属する利益のいくらかを、その共同社会に没収され引き渡すのである。」(同前)〉 (草稿集⑧333頁)

  このように、ここではマルクスは『エコノミスト』からの引用文を紹介するのは、〈単に、蓄積=複利という作り話的な観念のためであるにすぎない〉と述べている。だからマルクスの問題意識は、ただ複利というプライス的な観念が紛れ込んで、それを蓄積と同義に捉えて誤って論じていることを示すだけであろう。だからその詳しい詮索は不要と考える。
  もともと『資本論』の草稿における(第24章該当個所での)プライスの複利についての記述は、草稿集⑧の329~336頁にわたって論じられているもの(MEGAの編集で〈[複利]〉と項目が付けられている)からほぼそれを書き写したものである(今回掲載するわれわれのパラグラフの【30】がその最後の部分にあたる)。このMEGAの付けた項目には注解がついており、〈マルクスは、ノート第14冊で複利を論じているところで「プライスの幻想には収入とその諸源泉とに関する篇のなかで立ち返ること」という注記をしている(〔MEGA、第2部第3巻第4分冊、〕137ページ〔『資本論草稿集』⑦、291ページ上段〕を見よ)。彼はここではじめてそれに立ち返っており、複利についてのプライスの見解の自分の評価を、わずかな言語の変更を加えて『要綱』(MEGA、第2部第1巻第2分冊、707ページ)から採っている。〉(草稿集⑧329頁)とある。つまりこの草稿集⑧の一文は『要綱』から採ったものだというのである。この⑧が翻訳出版された時点では、『要綱』の翻訳は出版されていなかったから、邦訳の頁数は示されていないが、これは草稿集②734~735頁に該当する。しかし61-63草稿と較べると頁数をみればわかるが、かなり少ないものである。〈わずかな言語の変更を加えて『要綱』(MEGA、第2部第1巻第2分冊、707ページ)から採っている〉と注解はいうが、それは⑧の329~330頁には当てはまるが、それ以下のもの、つまり前回(24-6)掲載分(【19】~【22】)と今回(24-7)掲載分(【23】~【30】)については、『要綱』にはない。これらは⑧で、つまり61-63草稿で新たに書かれたものであろう。】


【25】

 /315下/〔原注〕b)『エコノミスト』,1851年7月19日。193)194)この箇所と次のルターとを比べてみられたい。同前。195)「つまりこの地上には,悪魔に次いでは,守銭奴の高利貸にまさる人類の大敵はいない。なぜなら,彼は,万人の上に神として君臨したがっているのだからである。トルコ人や戦争屋や暴君も悪人ではあるが,それでも彼らは,人びとを生かしておかなければならないし,自分が悪人であり敵であることを認めないわけにはいかない。また彼らはおそらく,時にはいくらかの人びとを憐れむこともあろう。いやむしろ,そうせざるをえない。しかし,高利貸の欲張りめとなると,こいつが望むのは,いっさいを独り占めにできるように,彼の力の及ぶかぎり,全世界(「世界中のすべての富〔all the wealth in the world〕」)を飢餓と渇きと苦境と窮乏のうちに滅びさせることであり,また,だれもが自分を神として受け入れて,永遠に自分の奴僕であればいい,ということなのである。そこで彼の心ははずみ,それで彼の血は沸き立つ。同時に,貂の毛皮襟の上着,金の鎖や指輪や衣服を身につけ,口もとをぬぐい,自分を高貴な信心深い人に,すなわち神自身よりもはるかに慈悲深く,聖母やすべての聖徒よりもはるかに親切な人に見せかけて,賞賛されようとするのである。」196)〔原注b)終わり〕/

  ①〔訂正〕「1851年」--草稿では「1859年」と書かれている。
  ②〔注解〕マルティン・ルター『牧師諸氏へ,高利に反対して,戒め』,ヴィッテンベルク,1540年。--『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3,4,S,1536.6-19)から取られている。
  ③〔異文〕「同前。」--書き加えられている。
  ④〔注解〕「(「世界中のすべての富」)」--括弧でくくった挿入はマルクスによるもの。

  193)ここに太い鉛筆で「(」が書かれている。
  194)この注の以下の部分は,『1861-1863年草稿』にはない。
  195)この引用には出典がつけられていないが,前出のルターからの引用と同様に,ルターの『牧師諸氏へ,高利に反対して……』,ヴィッテンベルク,1540年,からのものであり,『1861-1863年草稿』の「損害賠償としての利子」という表題のもとに同書からなされている引用の後半に,ここで引用されている部分が含まれている(MEGA II/3.4,S.1536)。なお,そこでマルクスは,ルターからのこの引用のあとに,次のようにコメントしている。--「きわめて生彩に富んだ仕方で,同時に一方では古風な高利の性格が,他方では資本一般〔Capita1 überhaupt〕の性格が,次のような言葉で適切に表現されている。--「架空の差損〔lnteresse Phantasticum〕」,貨幣や商品に「生まれながらに生え込んだ損害〔Schadewacht〕」,一般的な有益な文句,「他の人びととは同じ」ではない高利貸の「信心深い」外貌,奪われるのに与えるかのような外観,引き入れられるのに出て行かせるかのような,外観,等々!」(1.c.,S.1537)
  196)ここに太い鉛筆で「)」が書かれている。〉 (353-354頁)

 【これは原注であり、先のパラグラフの引用の出典を示すものであり、『エコノミスト』出版年が書かれている。と同時に、それに追加して、61-63草稿にはない一文があり、ルターとの比較を指示している。つまり先の『エコノミスト』の一文と、ここで紹介されているルターの一文とを較べてみよというわけである。ルターの一文は、注解によれば61-63草稿から採られている。それは大谷氏も指摘しているように、全体はかなり長いものであり、高利貸しの卑劣さと罪深さが描き出されている。その全文を紹介しておこう(マルクスの抜粋している部分は赤字で示す)。

 〈さて、ここでは世俗的に法律的にこの間題について話すことにするが(神学はこの次まで残しておかなければならない)、あなたパルツァーは今後私に100グルデンについて、あらゆる入費を含めて損害がそれにつけ加えたいっさいのものを引き渡す義務がある。{彼が入費と言っているのは、借り主自身が支払うことができなかったために生じた裁判費用などのことである。}……それゆえ、あなたが元金も損害もいっさいを私に返済するということは、理性からも自然の法からも正当である。……このような損害を法律書はラテン語でInteresse利子〕と呼んでいる。……この損害についてはなおもう一つのことが起こりうる。もし、あなたパルツァーがミカエル祭の日までにこの100グルデンを私に返さないのに、私のほうには買いものがあって、私自身や私の子供たちのために、庭とか、畑とか、家とか、私に大きな利益や食料をもたらすであろう原因になるようなものを私は買うことができるかもしれないとすれば、私はそれを断念するよりほかはなく、あなたは、あなたの怠慢と居眠りで私に損失と妨害を加え、私がもはやそのような買いものをすることができないようにするわけである。私はあなたにそれを貸した。そのために、あなたは、私がこちらでは支払ができずあちらでは買うことができず、したがって両方で損をしなければならないという二重の損害を私に与えている。つまり、起きた損害と逃げた利得という二重の損失duplex,interesse,damni emergentis et lucri cessantis〕というものである。……ハンスが100グルデンを貸して損害を受けたのでその損害の正当な賠償を要求する、ということを聞くと、彼らはとびこんできて、どの100グルデンについてもこのような二重の損失、すなわち支払のための失費と買いそとなった庭という損失の賠償を要求する。それは、ちょうど、100グルデンには自然にこのような二重の損失が根づいているかのようであるこうして100グルデンがあれば彼らはそれを貸してそれにたいして彼らが受けてもいないこのような二重の損害を計算するのである。……それゆえ、だれがあなたに加えたのでもなく、したがって証明も計算もできないあなたの虚構の損害を隣人の貨幣で償うあなたこそは、高利貸なのである。このような損害を法律家たちは、真実のではない架空の損害non verum,sed fantasticum interesse〕と呼んでいる。各人が自分に加えられたと想像する損害……。それゆえ私が支払うことも買うこともできなかったので損害が生ずるかもしれない、と言ってもだめであろう。それは、偶然事を必然事にしEx contingente necessatinm〕、存在しないものを存在しなければならないものにし、不確実なものを確実なものにすることである。このような高利は短い年月のあいだに世界を食い尽くすのではないだろうか〔?〕……貸し主の意志によらないで彼を襲った偶然の不幸ならば、彼はその償いを受けなければならない。しかし、商業では逆であり正反対であって、そこでは、貧しい隣人を相手に損害をでっちあげ、こうして、なんの心配も危険も損害もなしに他の人々の労働によって生活し、金持ちになり、自分はなにもしないでぜいたくをしようとする。私が炉辺に坐していて私の100グルデンに国じゅうで私のために稼がせ、しかも、それが貸した貨幣であるために、なんの危険も心配もなしにそれを財布のなかに確保するとすれば、愛する友よ、だれかこれを望まない人があるだろうか? そして貸した貨幣について言われること、それは、貸した穀物やぶどう酒やそれに類する品物についても、それらに二重の損害が生ずるかもしれないというように理解されるであろう。しかし、このような損害は品物に自然に根づいているのではなくて偶然に生ずるかもしれないのであって、それゆえ、それが生じて証示されるより前に損害として計算するわけにはゆかないのである。……高利は存在せざるをえない、だが、高利貸には禍いあれ。……すべての賢明な理性的な異教徒もまた高利を悪いものとしてひどく叱責してきた。アリストテレスの政治学は、高利は自然に反する、と述べているが、その理由は、高利はそれが与えるよりも多く取るのを常とする、ということである。高利によっていっさいの徳行の基準、すなわち、同じものに同じもの、算術的同等〔aequalites arithmetica〕など、と呼ばれる基準は、廃棄される。……だが、他の人々から取り上げ、盗み、奪う者は、あきましい生活をするのであり、あえて言えば、盗賊と呼ばれて、絞首刑に処せられるのが常であるが、高利貸はりっぱな盗賊なのであり、しかも椅子に腰掛けているので、世人は彼らを腰掛け泥棒と呼ぶのである。……異教徒は、理性によって、高利貸は四重の盗人で人殺しだと考えることができた。ところが、われわれキリスト教徒は、彼らがもっている貨幣のために彼らを拝まんばかりに敬っている。……他人の食物を吸い取り、奪い、盗む者は、人を飢死させ滅ぼす者がするのとまったく同じに、大きな人殺しを(その力の及ぶかぎりで)するのである。しかも、高利貸は、こんなことをしながら安らかにその椅子に坐っているのであるが、むしろ彼は絞首台にのせられて、自分が盗んだグルデン貨の数ほどの烏に食われるほうがよいのである。もしもそんなにたくさんの烏がつつき分け合うことができるほどの肉が彼についているならば。……商人や高利貸は叫ぶであろう、証文どおりに約束を守るべきだ、と。これにたいしては法律家たちはすぐさま十分に答えてきた。悪しき約束においてはIn malis promissis〕。こんなふうに神学者は言う、悪魔に与えた証文のようなものは、たとえそれらが血で封印され書かれていようとも、無に等しい、と。なぜならば、神と法と自然とに反するものは無だからである。それゆえ、そうすることのできる君主が新たに介入して、証文を破棄し、それを顧慮しなければよいのである。……だから、この地上には、悪魔に次いでは、守銭奴の高利貸にまさる人類の敵はない。なぜならば、彼は万人の上に神として臨もうとしているからである。トルコ人や武人や暴君も悪人ではあるが、彼らは人民を生かしておかなければならないし、自分たちが悪人であり敵であるということを認めなければならない。しかも、ときには幾らかの人々を憐れむこともあろうし、また、じっさい憐れむにちがいない。ところが、高利貸の欲張りはどうかと言えば、彼は、全世界をできるだけ飢えと渇きと悲しみと苦しみとに陥れていっさいを自分ひとりの手に収めようとし、そして、各人が神の手から受け取るように彼から受け取って永久に彼の奴僕になるようにしようとする。そこで彼は胸をおどらせ、それは彼をさらに元気づける。同時に、ゆるやかな外套、金ぴかの鎖や指輪や衣服を身につけ、口をぬぐい、自分を高貴な信心深い人に見せかけて賞賛されようとする。すなわち、神自身よりもはるかに慈悲深く、聖母やすべての聖徒よりもはるかに親切な人に見せかけようとする。……〉 (草稿集⑦533-536頁)

  なおこの抜粋した長いパラグラフのあとにもう一つ同じルターからの抜粋のパラグラフがあり、そのあと大谷氏が指摘しているマルクスの一文がパラグラフを変えて書かれている。
  ところでマルクスが先の『エコノミスト』の一文とルターの一文とを読み比べてみよ、という意図は、高利貸しが如何に社会に寄生してそれをしゃぶり尽くすものであるかを歴史を越えて、指摘されてきたということであろうか。というか、中世社会でのそうしたものが、ブルジョア社会で再び姿を変えて、資本主義的諸関係のもとで現われている、ということを示そうとしているのかも知れない。】


【26】

 /315上/197)利子生み資本というその属性において,資本には,およそ生産されることのできるいっさいの富が属するのであって,資本がこれまでに受け取ったものは,すべて,ただ,「あらゆるものを独り占めにする」,資本の食欲への分割払いでしかない。資本の生来の諸法則に従って,資本には,およそ人類が供給することのできるいっさいの剰余労働が属するのである。〔まさに〕200)モロク〔である〕。

  197)『1861-1863年草稿』には,このパラグラフはない。
  200)モロクについては,『1861-1863年草稿』に次の記述がある。--「利子生み資本としての,資本の完全な物象化,転倒,狂妄状態〔Verrücktheit〕--といっても,ここにはただ,資本主義的生産の内的な本性,その狂妄状態が,最も明瞭な形態で現われているにすぎない--は,「複利」を生むものとしての資本であり,そこでは資本は一個のモロクとして現われるのであって,このモロクは,全世界を自分のための当然の犠牲として要求するとはいえ,不可思議な運命によって,彼の本性そのものから生じる彼の正当な諸要求がけっして充たされることなく絶えず妨害されるのを見るのである。」(MEGA II/3.4,S.1455-1456.)
  「ヘブライ語ではMolek。旧約聖書に登場するフェニキアおよびパレスチナで崇拝されたセム族の神。名は「王」を意味する。子供を人身御供として焼き殺す残忍な犠牲式によって祀られたという。」(『ブリタニカ国際大百科事典』から。)〉 (354頁)

 〈利子生み資本というその属性において、資本には、およそ生産されることのできるいっさいの富が属するのであって、資本がこれまでに受け取ったものは、すべて、ただ、「あらゆるものを独り占めにする」、資本の食欲への分割払いでしかないのです。資本の生来の諸法則に従って、資本には、およそ人類が供給することのできるいっさいの剰余労働が属するのです。まさに利子生み資本とはモロクなのです。〉

 【これは本文であり、よって【24】パラグラフに直接続くものであるが、原注のルターの一文にこそもっともその内容が紹介されているような気がする。実際ここで〈「あらゆるものを独り占めにする〉と引用する形で述べられているものは、ルターの一文から採られている。61-63草稿にはこの一文はないということだから、『資本論』の草稿として新たに書かれたものであろう。

  朝日新聞2019年1月22日付け電子版は次のように報じています。

  〈国際NGO「オックスファム・インターナショナル」は21日、2018年に世界で最も裕福な26人の資産の合計が、経済的に恵まれない世界人口の下位半分(約38億人)の資産合計とほぼ同じだとする報告書を発表した。……同団体がスイス金融大手クレディ・スイスのデータなどをもとに推計したところ、経済的に恵まれない世界人口の下位半分の資産合計は1兆3700億ドル(約150兆円、18年4~6月期)。米経済誌フォーブスの長者番付と比べた結果、上位26人の資産合計とほぼ同じだった。また、下位半分の資産合計は対前年比で11%減ったのに対し、超富裕層約1900人の資産合計は18年3月までの1年間で12%増えていた。〉

  まさに資本の貪欲な性格は現代の世界資本主義の現実でもある。現代のモロクも世界の貧困層を犠牲にますます膨れ上がっているわけだ。】


【27】

 最後になお「ロマン派の」ミュラーの次のたわごとを。--
201)「ドクター・プライスの言う複利の,または人間の自己加速的な諸力の,非常な増大は,この202)巨大な[467]作用を生みだすためには,何世紀にもわたって分割も中断もされない一様な秩序を前提する。資本が分割されて,それぞれ別々に成長を続けるいくつもの枝に細分されれば,諸力の蓄積の総過程はふたたび新たに始まることになる。自然は,力の累進を,平均的にほぼ各個の労働者に分配される約20年ないし25年の行路に分割した。この期間が過ぎれば,労働者は彼の行路を去るのであって,いまや彼は労働の複利によって得られた資本を新たな1人の労働者の手に渡すか,たいていの場合には何人かの労働者または子供たちのあいだに分配するかしなければならない。これらの人びとは,自分たちの手にはいる資本から本来の複利を引き出せるようになる前に,まずこれを生かすこと,または充用することを学ばなければならない。さらに,市民社会が獲得する巨額の資本は,どんなに激しく動く共同体のなかでも,多年にわたってしだいに堆積していき,労働の直接的拡張のためには充用されないで,むしろ,相当の額が集積したときに他の個人や労働者や銀行や国家に借入金という名で引き渡され,ついでその受領者は,この資本を現実に運用することによって,そこから複利を引き出すのであって,その提供者に単利を支払うことをたやすく引き受けることができるのである。最後に,205)もしもただ生産または節約の法則だけが妥当するのであれば人間の諸力やその生産物があのように大きく累進的に増えていくかもしれないというその累進にたいしては,消費や欲求や浪費の法則が反作用するのである。」c)/

  201)以下のマルクスの引用にはミュラーの原文と異なるところがあるが,ミュラーの原文は,『1861-1863年草稿』のMEGA版での「注解」に記載されている(MEGA II/3.5,S.1748-1749 und 3028)。
  202)「巨大な〔ungeheuer〕」--『1861-1863年草稿』では,「法外な〔unermeßlich〕」となっている。〉 (354-355頁)

 【これもほとんどが引用なので、書き下しは省略した。大谷氏は冒頭の〈ドクター・プライスの言う複利の,または人間の自己加速的な諸力の,非常な増大は,……〉の部分はミュラーの原文とは異なるところがあると指摘し、原文は61-63草稿の注解に記載されているとしている。61-63草稿にはミュラーの原文との違いはそれ以外にも幾つかの注解で指摘されている。よって61-63草稿の当該部分を注解も含めて紹介しておこう。マルクスによる強調個所にも若干の違いがある。

  最後になお「ロマン派の」ミュラーの次のようなたわごとがある。
  「ドクター・プライスの言う複利の、または人間の自己加速的な力の、非常な増大は、このような巨大な作用を生みだすためには、何世紀にもわたって分割も中断もされない一様な秩序を前提する。資本が分割されて、それぞれ別々に成長を続けるいくつもの枝に細分されれば、諸力の蓄積の総過程は再び新たに始まることになる。自然は、諸力の累進を、平均的にほぼ個々の労働者に分配される約2O年ないし25年の行路に分割した。この期間がすぎれば、労働者は彼の行路を去るのであって、今や彼は労働の複利によって得られた資本を新たな1人の労働者の手に渡すか、たいていの場合には何人かの労働者または子供たちのあいだに分配するかしなければならない。これらの人々は、自分たちの手にはいる資本から本来の複利を引き出せるようになる前に、まずこれを生かすこと、また充用することを学ばなければならない。さらに、市民社会が獲得する巨額の資本は、どんなに激しく動く共同体のなかでも、多年にわたってしだいに堆積して行き、労働の直接的拡張のためには充用されないで、むしろ、ある程度の額が集積したときに他の個人や労働者や銀行や国家に借入金という名で引き渡され、次いでその受領者は、この資本を現実に運用することによって、そこから複利を引き出すのであって、その提供者に単利を支払うことをたやすく引き受けることができるのである。最後に、ただ生産や節約の法則だけが妥当するものとすれば人間の諸力やその生産物があのように大きく累進的にふえて行くであろうというその累進にたいしては、消費や欲求や浪費の法則が反対に作用する。」(A・ミュラー『政治学要論』、ベルリン18O9年第3部、147-149ページ。)

  ①〔注解〕 ミュラーの原文では次のようになっている。--「……周知のようにドクター・プライスによって算定された、あのような、非常な加速度で成長を続ける一連の複利……。複利のこのような非常な増大は……」
  ②〔注解〕「中断もされない一様な秩序〔ungebrochene gleichförmige Ordnung〕」--ミュラーの原文では「中断もされない一様な充用〔ununterbrochene gleichförmige Anwendung〕」となっている。
  ③〔注解〕「過程〔Process〕」--ミュラーの原文では「進展〔Progreß〕」となっている。
  ④〔注解〕「個々の労働者」の強調はマルクスによるもの。
  ⑤〔注解〕「充用され〔verwendet〕」--ミュラーの原文では angewendet となっている。
  ⑥〔訂正〕「この資本を現実に運用することによって〔indem er das Captial in wirkliche Bewegung sezt〕」--このうち最後の sezt の語を除いた部分は、用紙の損傷のために判読困難である。
  ⑦〔注解〕ミュラーの原文では次のようになっている。--「さらにまた、人間の本性に同じように深く刻印されている消費や欲求や浪費の法則が反対に作用するであろう」
  ⑧〔訂正〕「第3部」--手稿では「第2巻」となっている。〉 (草稿集⑧335頁)

  このミュラーの論じていることは、マルクスが〈たわごと〉と述べているように、まともに取り上げてその内容を論じるほどのものではないが、それに対するマルクスのコメントは次の本文のパラグラフ(【29】)で論じられている。】


【28】

 /315下/〔原注〕c)A.ミュラー『政治学要論』,ベルリン,1809年,第3部,147-149ページ。〔原注c)終わり〕

  ①〔訂正〕「第3部」--草稿では「第2巻」と書かれている。〉 (355-356頁)

  【これは先のミュラーからの抜粋の典拠を示すだけで、61-63草稿では抜粋のあとに書かれていたものを原注にしたものである。だから特に解説も不要であろう。】


【29】

 /315上/これよりももっと身の毛がよだつような208)たわごとをわずかばかりの行数でまとめることは不可能である。労働者と資本家,労働能力の価値と資本の利子,等々のこっけいな混同は別としても,複利の受け入れは,なかんずく,資本が「貸し出され」てそれが「次に複利を」生むということから説明されると言うのである。211)

  208)『1861-1863年草稿』では,ここに「またわれとわが身を食い尽くすような」という句がある。
  211)『1861-1863年草稿』では,このあとに次の記述がある。--「この「洞察力」,というよりはむしろこの「たわごと」の並外れた浅薄さは,たとえば〔次のとおりである〕。「諸物の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる」(同前,137-138ページ)。ミュラーがここで述べているのは流通時間のことである。彼は利子では流通時間を規定的なものと見ており,商品の価格ではこれをそのようなものとは見ていないのだから,その洞察力たるや,外観にしがみついて,これの基礎から推論するのはご免,ということにあるのである。この同じ男はわれわれにこう言っている。「都市の生産は,1日1日の巡回〔Turnus〕に縛りつけられているが,これにたいして田舎の生産は1年1年の巡回に縛りつけられている。」(同前,179ページ。)彼が「都市の生産」と言っているのは,農業と対立している工業〔Manufactur〕のことである。資本主義的に経営されていない農業--彼が言っているのはこれのことだ--は,もちろん,1年の巡回に縛りつけられている。これに反して大工業は(固定資本の充用の結果として)12-15年という巡回に,運輸産業のいくつかの部門(鉄道,等々)では20年という巡回に縛りつけられている。」(MEGA II/3.5,S.1749.)〉 (356頁)

 〈これよりももっと身の毛がよだつようなたわごとをわずかばかりの行数でまとめることは不可能です。労働者と資本家、労働能力の価値と資本の利子、等々のこっけいな混同は別としても、複利の受け入れは、なかんずく、資本が、「貸し出され」てそれが「次に複利を」生むということから説明されるというのです。〉

 【これは先のミュラーからの抜粋に対するマルクスのコメントであるが、大谷氏も訳注で指摘しているが、61-63草稿には次のパラグラフの間に続いて書かれた一文がある。よって、とりあえず、61-63草稿から同じ部分をテキストの次のパラグラフ(【30】)の前までの部分を紹介しておこう(赤字はテキストとして利用された部分である。訳文は大谷氏のものとは若干の違がある)。

  〈これ以上に身の毛がよだつような、また自分自身夢中になっているようなたわごとを、わずかばかりの行数でまとめることは不可能である。ただ一つ--、労働者と資本家、労働能力の価値と資本の利子、等々のこっけいな混同は別としても、複利の減少は、なによりもまず第一に、資本が「貸し出され」て「それから複利を」生むということから説明されるべきだ、と言っているだけである。このような「洞察力」、というよりはむしろ「たわごと」の異常な浅薄さが〔現われているのは〕、たとえば「物の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる」(同前、137-138ページ)〔というような議論である〕。ミュラーがここで述べているのは流通期間のことである。彼は利子では流通期間を規定的なものと見ており、商品の価格ではこれをそのようなものとは見ていないのだから、〔彼の〕洞察力は、外観にしがみついてこれの基礎から推論するのをやめるということにあるのである。この同じ男はわれわれにこう言っている。「都市の生産は、一日一日の移り変わりに縛りつけられているが、これにたいして田舎の生産は一年一年の移り変わりに縛りつけられている。」(同前、178ページ。)彼が「都市の生産」と言っているのは、農業と対立しているマニュファクチュアのことである。資本主義的に経営されていない農業--この農業についても彼は論じている--は、もちろん、一年の移り変わりに縛りつけられている。これに反して、大きなマニュファクチュア(充用固定資本の結果としての)は12-15年という移り変わり、運輸業のいくつかの部門(鉄道など)では20年という移り変わりに縛りつけられている。〉 (草稿集⑧335-336頁)

 ここで気づくのは、61-63草稿では〈複利の減少は〉となっているのが、大谷訳では〈複利の受け入れは〉となっていることである。61-63草稿のこの部分にMEGAの注がついていて次のように書かれている。

 〈〔訂正〕「複利の減少は……説明されるべきだ〔die Abnahme des Zinseszins soll ……erkiärt wsrden〕」--手稿では soll die Abnahme des Zinseszins…erkiärt werden となっている。〉 (草稿集⑧336頁)

  つまり〈複利の減少〔die Abnahme des Zinseszins〕〉という部分には何の訂正もない。しかし〈複利の減少〉だといま一つ意味不明なのは確かである。だからやはり大谷氏の翻訳の方が適切ではないかと思われる。

  ここでマルクスが言いたいことは、ミュラーの言っていることは、複利というのは、まず資本を貸し付けて、それから「複利」が問題になる、というごく当たり前の浅薄な認識をご大層に言っているということである。とにかくミュラーの主張は、複利についてあれこれ言っているが、その内容はさまざまな混乱や混同がまでこぜになっていて、ただ表面的な外観にしがみついているだけの浅薄なものだということであろう。

  ついでに指摘しておくと、ここでミュラーの主張していることの一部は、『資本論』の他のところや、原注で言及されているものもある。それらについて見ておくことにしよう。
  まず〈「都市の生産は、一日一日の移り変わりに縛りつけられているが、これにたいして田舎の生産は一年一年の移り変わりに縛りつけられている。」(同前、178ページ。)〉という一文は、第2部第2篇「資本の回転」の原注22[a]で引用されているが、その原注がついている本文は次のような一文である。

  〈ただ、次のことだけは明らかである。このような、連続的な、いくつもの回転を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、このような循環にょって、周期的な恐慌の一つの物質的な基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の活況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。資本の投下される時期は非常に種々さまざまである。とはいえ、恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなしている。したがってまた-- 社会全体として見れば--多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである22[a]。〉 (全集第24巻226頁)

  そして原注22[a]ではミュラーの上記の一文のあと、〈これは工業や農業についてのロマン派の素朴な見解である〉(同)というマルクスの一文が付けられている。
  次に〈「物の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる」(同前、137-138ページ)〉という一文については、第3部第5篇第21章のなかで次のように言及されている(ここでは大谷氏の翻訳された草稿から紹介しておこう。ただしMEGAの注解等は省略する。全集版では第25巻a446頁である)。

 〈諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって,ロマン派のA.ミュラーは次のように言っている。--
  「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」(アダム・H・ミュラー『政治学要論』,ベルリン,1809年,第2巻,138ページ。)
   彼にわかっていないのは,労働時間流通時間が諸商品の価格の規定にはいってくるということ,そしてまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ,しかしまた与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということである。彼の深い洞察は,ここでもまた,いつものように,ただ,表面の砂ほこりを見てこのほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものでもあるかのように言い立てることだけにあるのである。/〉 (214頁)

  これらについてもただ紹介するだけで良いだろう。】


【30】

 わがミュラーのやり方は,どの分野でもロマン主義に特徴的なものである。ロマン主義の内容は,212)事物の最も表面的な外観から汲み取ってきたもろもろのありふれた偏見から成っている。次いで,この間違った陳腐な内容が,それをごまかす表現の仕方によって「高め」られ,詩化されることになるのである。|

  212)「事物の最も表面的な外観から汲み取ってきたもろもろのありふれた偏見から〔aus Alltagsvorurtheilen,abgeschöpft v.d.oberflächlichsten Schein d.Dinge〕」--『1861-1863年草稿』では,「きわめて通俗的なもろもろのありふれた偏見から,もろもろの表面の外観から汲み取ってきた陳腐なものから〔aus den vulgarsten Alltagsvorurtheilen,aus dem Schein der Oberfläche geschöpften Trivialitäten〕」となっている。〉 (356-357頁)

 〈わがミュラーのやり方は、どの分野でもロマン主義に特徴的なものです。ロマン主義の内容は、事物のもっとも表面的な外観から汲み取ってきたもろもろのありふれた偏見からなっています。ついで、この間違った陳腐な内容が、それをごまかす表現の仕方によって「高め」られ、詩化されることになるのです。〉

 【この部分も61-63草稿からほぼそのまま採用されたものであり、先に紹介したものに改行せずに続けて書かれている。原文を紹介しておこう。

  〈わがミュラーのやり方は、どの分野でもロマン主義に特徴的なものである。ロマン主義の内容は、きわめて通俗的なもろもろのありふれた偏見やもろもろの表面の外観から汲み取ってきた陳腐なものから成っている。次いで、このまちがったくだらない内容が、それをごまかす表現の仕方によって「高め」られ、詩化されることになるのである。〉 (草稿集⑧336頁)

  これについても、特に解説の必要はないであろう。】

 (続く)

 

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