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2019年12月

2019年12月26日 (木)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-3)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【7】

 〈moneyed Capitalにおいてはじめて資本は商品になったのであって,この商品の自分自身を増殖するという質は,そのつどの利子率で値づけされた確定価格をもっているのである。〉 (336頁)

 〈利子生み資本(moneyed Capital)においてはじめて資本は商品になったのです。この商品の自分自身を増殖するという質(使用価値)は、その都度の利子率で値付けされた確定された価格をもっているのです。〉

 【このパラグラフからやや問題が変わっているような感じがする。ここでは利子生み資本においてはじめて資本は商品になったという指摘がある。この点は、宇野弘蔵の批判するところであるが、宇野は国債や株式のような架空資本になってはじめて資本は商品になるのだというのであり、貨幣の貸し出しの段階ではまだ資本が商品になったとはいえないというのであるが、こうした宇野の主張の間違いをここで指摘する必要はないであろう。それはまた別途必要ならやることにしよう。いずにせよ、われわれは、マルクス自身は、利子生み資本(moneyed capital)において、はじめて資本は商品になったのであり、その価格は利子率によって確定的に値付けされたものとしてあると考えていることを確認しておこう。】


【8】

 〈79)利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれに関係のない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を [463]前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を,主体として,売ることのできる物として,得るのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっているのである。じつに貨幣こそは,そこではもろもろの使用価値としてのもろもろの商品の区別が消え去っており,したがってまたこれらの商品やその存在諸条件から成っているもろもろの生産的資本の区別も消え去っている形態,資本が〔es〕自立的な交換価値として存在する形態なのである。資本の訓実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われる。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣資本としてこの形態にある資本に固有なことなのである。

①〔注解〕「トーコス〔τόκος〕」--生み出されたもの,利子。

  79)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「それゆえ,利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれにかかわりのない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を得たのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっており,資本は自立的な交換価値のたんなる定在として,自立化された価値として存在するのである。資本の実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われ,それゆえ貨幣資本の,すなわち資本の過程から分離された資本の,たんなる所有者に属するものとして現われる。G_W_GはここではG_Gになり,しかも,資本の形態がここでは無区別な貨幣形態であるように--じつに貨幣こそは,使用価値としての諸商品の相違が消え去っている形態であり,したがってまた,これらの商品の存在条件から成っている生産的諸資本の相違,生産的諸資本の特殊的な形態そのものも消え去っている形態である--,この資本が生み出す剰余価値も,つまり剰余貨幣も,なにがそれになるのか,またはなにがそれであるのかを問わず,貨幣額そのものの大きさで測られた特定の率において現われるのである。利子が5%〔ならば〕,資本としての100は105である。このように〔それは〕,自己を増殖する価値の,または貨幣を創造する貨幣の,まったく明白な形態〔である〕。同時に,まったく無思想な形態〔である〕。不可解な,神秘化された形態〔である〕。資本の展開では,われわれはG_W_Gから出発したが,G_G'はこのG_W_Gの結果でしかなかった。いまやわれわれは,G_G'を主体として見いだす。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣というこの純粋な形態にある資本に固有なことなのである。われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。」(MEGA II/34,S.1464.)〉  (336-338頁)

 〈利子生み資本として、しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において、資本は、その純粋な物神形態G_G'を、主体として、売ることの出来る物として、得るのです。(ここではわれわれに関係のない他の利子生み資本諸形態--例えば国債とか株式などの諸形態--はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものです。)
  利子生み資本において、資本がはじめて商品になると言いうるのは、それは、第1には、資本が絶えず貨幣として存在することによってです。この貨幣という形態では、資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっています。じつに貨幣こそは、そこではもろもろの使用価値としてのもろもろの商品の区別が消え去っており、したがってまたこれらの商品やその存在諸条件からなっているもろもろの生産的資本の区別も消え去っている形態であり、資本が自立的な交換価値として存在している形態なのです。資本の実体的な過程では、貨幣形態は、すぐに消えてしまう形態です。しかし貨幣市場では、資本はつねにこの形態で存在するのです。
  第2に、資本によって生み出される剰余価値も、ふたたび貨幣の形態にあって、資本そのものに属するものとして現われます。成長が樹木に固有であるように、貨幣を生むことが貨幣資本としてこの形態にある資本に固有のことになるのです。〉
 
 【先のパラグラフから利子生み資本(moneyed capital)において、資本がはじめて商品になるのは、資本物神がもっとも最高の段階まで出来上がっているからだということを説明することに話が転じているようである。つまりまさに宇野の主張を批判するものともいえる。しかもマルクスはここで〈われわれに関係のない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するもの〉だと述べている。つまり宇野がはじめて資本が商品になるという国債や株式などの架空な有価証券の類は、それらは確かに今日では資本市場を構成するものではあるが、しかしそれは貨幣市場で貨幣が商品として売買されるという利子生み資本を前提したものなのだとマルクスは指摘しているのである。そしてマルクスは、利子生み資本では、資本はその純粋な資本物神の形態にあり、主体として、売ることのできる物として、存在しているからこそ、それは商品になるのだとここでは指摘しているわけである。そしてその理由として、マルクスは二つのことを挙げている。一つは資本が貨幣の形態であるということである。それは資本の実体的な過程が消えてしまった存在形態にあるからである。第2に、資本が生み出す剰余価値も、貨幣が貨幣を生むという形態で存在しているからだと述べている。生長が樹木に固有であるように、貨幣資本は貨幣を生むことが固有なものとして存在しているからだというのである。つまりmoneyed capitalというのは、その貨幣形態で資本の実体的な区別が消えてしまった一般的な形態にあり、しかもそれ自体が同じ一般的な貨幣形態としての剰余価値を生むものとしてあるから、だからそれは主体として、売ることのできる物として、存在できるのだとマルクスは指摘しているわけである。これはまさしく利子生み資本ではまだ資本は商品になったとはいえないと主張する宇野に対する反論といえるだろう。

  この部分には、かなり長い大谷氏の訳注がある。

  〈79)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「それゆえ,利子生み資本として,しかも利子生み貨幣資本としてのその直接的形態において(ここではわれわれにかかわりのない他の利子生み資本諸形態はこの形態からさらに派生したものであってこの形態を前提するものである),資本は,その純粋な物神形態G_G'を得たのである。それは,第1には,資本が絶えず貨幣として存在することによってであって,この貨幣という形態では,資本のすべての規定性は消えてしまって資本の実体的な諸要素は目に見えなくなっており,資本は自立的な交換価値のたんなる定在として,自立化された価値として存在するのである。資本の実体的な過程では,貨幣形態は,すぐに消えてしまう形態である。貨幣市場では,資本はつねにこの形態で存在するのである。第2に,資本によって生み出される剰余価値も,ふたたび貨幣の形態にあって,資本そのものに属するものとして現われ,それゆえ貨幣資本の,すなわち資本の過程から分離された資本の,たんなる所有者に属するものとして現われる。G_W_GはここではG_Gになり,しかも,資本の形態がここでは無区別な貨幣形態であるように--じつに貨幣こそは,使用価値としての諸商品の相違が消え去っている形態であり,したがってまた,これらの商品の存在条件から成っている生産的諸資本の相違,生産的諸資本の特殊的な形態そのものも消え去っている形態である--,この資本が生み出す剰余価値も,つまり剰余貨幣も,なにがそれになるのか,またはなにがそれであるのかを問わず,貨幣額そのものの大きさで測られた特定の率において現われるのである。利子が5%〔ならば〕,資本としての100は105である。このように〔それは〕,自己を増殖する価値の,または貨幣を創造する貨幣の,まったく明白な形態〔である〕。同時に,まったく無思想な形態〔である〕。不可解な,神秘化された形態〔である〕。資本の展開では,われわれはG_W_Gから出発したが,G_G'はこのG_W_Gの結果でしかなかった。いまやわれわれは,G_G'を主体として見いだす。生長が樹木に固有であるように,貨幣を生むこと(トーコス〔τόκος〕)が貨幣というこの純粋な形態にある資本に固有なことなのである。われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。」(MEGA II/34,S.1464.)〉 (336-337頁)

  これは一つのパラグラフ全体をそのまま抜粋したものである。これを読むとマルクスは、今回のパラグラフを、この61-63草稿のパラグラフをかなり圧縮してではあるが、そこから纏めたものであることがよく分かる。だからまたこの61-63草稿の一文は、今回のパラグラフを理解する上で重要な意味を持っているといえるだろう。

  ここでマルクスは方法論的に興味深いことを次のように述べている。

  〈われわれが表面で眼前に見いだす,だからまたわれわれが分析において出発点とした,不可解な形態を,われわれはふたたび過程の結果として見いだすのであって,この過程では,資本の姿態は次第にますます疎外されたものになり,資本の内的な本質への連関がますますないものになっていくのである。〉

  つまり資本関係の物象化・外面化というのは、われわれが貨幣市場で見いだす直接的な現象なのであり、われわれにとって奇妙なものとして見えたものなのである。今ではその奇妙なものとして見えたものが、実は何なのかが説明され、しかもそれが何故にそうした奇妙な姿をもってわれわれに見えているかも説明されたと言うわけである。この部分は『資本論』の草稿では採用されていないが、マルクスの方法を理解する上で重要な部分といえる。】


【9】

 〈90)利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなる,というようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,または再生産過程のなかにありさえすれば(それが,産業利潤とは別に,所有者としての機能資本家のために利子をもたらすかぎりでは),それが寝ていようと起きていようと,家にいようと旅をしていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。こうして,98)利子生み貨幣資本では{そしてすべて資本はその価値表現から見れば貨幣資本であり,言い換えれば,いまでは貨幣資本の表現として意義をもつ},貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されているのである。

①〔訂正〕「1000」--草稿では「1100」と書かれている。
②〔注解〕「いまでは胸に恋を抱いている」--ゲーテの『ファウスト悲劇第1部』,「ライプツィヒのアウエルバハ酒場」での一節〔池内紀訳『ファウスト第1部』,集英社,1999年,99-100ページ〕の言い換え。

  90)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなるというようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,--または生産過程のなかにありさえすれば(すなわち,それが,利潤とは別に,産業家のために利子をもたらすかぎりでは)--,それが寝ていようと起きていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。」(MEGA II/3.4,S,1521-1522.)
  98)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み貨幣資本では,貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されている。」(MEGA II/34S.1522.)〉  (338-339頁)

 〈利子生み資本では、資本の運動がG_G'という形で短いものに宿約されています。媒介過程は省略されています。だから例えば1000という資本は、それ自体としては1000ですが、ある期間のうちに1100に転化する一つの物として、固定されています。それはちょうど、葡萄酒を穴蔵に入れておけば、ある期間ののちにはその使用価値もよくなる、というようなものです。資本はいまでは物ですが、しかし、物として資本なのです。貨幣はいまでは胸に恋を抱いています。貨幣が貸し付けられさえすれば、または再生産過程のなかにありさえすれば、つまりそれが産業利潤とは別に、所有者としての機能資本家のために利子をもたらす限りでは、それが寝ていようと起きていようと、家にいようと旅をしていようと、夜であろうと昼であろうと、それには利子が生えるのです。こうして、利子生み貨幣資本では(そしてすべての資本はその価値表現から見れば貨幣資本であり、言い換えれば、いまでは貨幣資本の表現として意義を持ちます)、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されているのです。〉

 【ここでは利子生み資本では資本そのものが物になり、しかも一定期間には子を生む物になっているという資本物神の究極の姿が述べられている。だからこれは貨幣蓄蔵者の願望が実現しているのだというのである。すべての貨幣額が資本として意識され、よってある期間が経てば利子を生む物として意識される。だから自分の資本で生産する産業家は、彼の得る利潤とは別に、所有資本家としての彼のために利子をも得るわけである。こうした現実こそ、あらゆる貨幣は資本として利子を得るものだ、という意識が一般化していることを示しているわけである。それをマルクスは貨幣はいまでは胸に恋を抱いているとロマンチックに述べている。

  この部分の大谷氏の訳注を見てみよう。
 
  〈90)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,資本の運動が短いものに縮約されている。媒介過程は省略されており,こうしてたとえば1000という資本は,それ自体として1000であるが,ある期間のうちに1100に転化する一つの物として,固定されている。それは,ちょうど,葡萄酒を穴蔵に入れておけば,ある時間ののちにはその使用価値もよくなるというようなものである。資本はいまでは物であるが,しかし,物として資本である。だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。貨幣はいまでは胸に恋を抱いている。貨幣が貸し付けられさえすれば,--または生産過程のなかにありさえすれば(すなわち,それが,利潤とは別に,産業家のために利子をもたらすかぎりでは)--,それが寝ていようと起きていようと,夜であろうと昼であろうと,それには利子が生える。」(MEGAII/3.4,S,1521-1522.)〉 (338頁)

  これは61-63草稿の一つのパラグラフ全体を抜粋したものであるが、マルクスはここからほぼそのまま抜き書きして『資本論』の草稿としたことが分かる。ここでは『資本論』の草稿として採用する上で、省略された部分を書き出してみると次のようになる。

  〈だから,それは他のすべての商品と並んで特殊的商品として売られることができる。あるいはむしろ,いまでは貨幣,商品が資本として売られることができるのである。これは,最も自立化された形態における資本の現象である。〉

  この一文も宇野を批判する上では重要であろう。それ以外では、部分的にマルクスは書き直しているが、それほど問題とする必要はないように思える。

  次の訳注。

  〈98)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み貨幣資本では,貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されている。」(MEGAII/34S.1522.)〉 (339頁)

  これは短いが一つの独立したパラグラフとして書かれている。その前後のパラグラフとも直接的な関連はなさそうにみえる。】


  (次回に続く。)

2019年12月23日 (月)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-2)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

【3】

 G_G'。--ここに見られるのは,資本の本源的な出発点である貨幣であり,また,両極G_G'に短縮された定式G_W_G',より多くの貨幣をつくりだす貨幣である(つまり,G_G+ΔG)。それは,一つの無意味な要約に収縮させられた,資本の本源的かつ一般的な定式である(短縮された定式)。29)それは,完成した資本,生産過程と流通過程との統一,したがって一定の期間に一定の剰余価値を生むものである。利子生み資本の形態では,これが直接に,生産過程および流通過程の媒介なしに現われている。商人資本では,利潤は交換exchange〕から出てくる{だからまた,収奪利潤}ように見え,したがっていずれにせよ,からではなくて社会的な関係から出てくるように見える35)資本および利子では,資本が,利子の,自分自身の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。37)物(貨幣,商品,価値)がいまでは物として資本であり,また資本はたんなる物として現われ,生産過程および流通過[462]程の総結果が,物に内在する属性として現われる。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。それゆえ,43)利子生み資本では,この自動的なautomatisch物神,自分自身を増殖する価値,貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物の(貨幣の)それ自身にたいする関係として完成されているのである。

  ①〔注解〕「収奪利潤〔profit upon expropriation〕」--前パラグラフへの注解③を見よ。

  29)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「これこそは,完成した資本--これによれば資本は生産過程と流通過程との統一〔である〕,したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすものである。利子生み資本の形態では,この規定が,生産過程および流通過程の媒介なしに,残っているだけである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)
  35)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。一「とにかく,資本および利子では,資本が,利子の,自分の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として完成されている,ということだけは明らかである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)
  37)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「だが,いずれにせよこの形態は,それ自体として見るならば(じっさいには,貨幣は周期的に,労働を搾取し,剰余価値を生む手段として譲渡されるのである),物がいまでは物として現われ,また資本がたんなる物として現われ,資本主義的生産過程および流通過程の総結果が,物に内在する属性として現われる,という形態である。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。」(MEGA II/3.4,S.1455.)
  43)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,この自動的な物神,自分自身を価値増殖する価値,貨幣をもたらす貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物(貨幣,商品)のそれ自身にたいする関係として完成されているのである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)〉  (332-334頁)

 〈G-G'。--ここに見られるのは、資本の本源的な出発点である貨幣であり、また、資本の定式G-W…P…W'-G'を、その両極G-G'に短縮したものです。つまりこれは直接的にはより多くの貨幣をつくりだす貨幣を意味しています。つまりG+ΔG。それは一つの無意味な要約に収縮されたものですが、資本の本源的かつ一般的な定式なのです(短縮された定式)。それは、むしろ完成された資本、つまり生産過程と流通過程とが統一されたもの、したがって資本の循環がわれわれに語ったように、一定の期間に一定の剰余価値を生むということをあらわしています。利子生み資本の形態では、これが直接に、生産過程および流通過程の媒介なしに現れているのです。商人資本では、利潤は交換から出てくる(だから収奪利潤)ように見え、したがっていずれにせよ、物からではなく社会的な関係から出てくるように見えます。資本および利子では、資本そのものが、利子の、自分自身の増加の、神秘的かつ自己創造的な源泉として現れているのです。物(貨幣、商品、価値)がいまでは物として、そのまま資本です。資本はたんなる物として現れ、生産過程および流通過程の総結果が、物に内在する属性として現れています。そして、貨幣を貨幣として支出しようとするか、それとも資本として賃貸ししようとするかは、貨幣の所持者、すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいです。それゆえ、利子生み資本では、この自動的な物神、自分自身を増殖する価値、貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのです。この形態ではもはやその(つまり利子=剰余価値の)発生の痕跡を少しも帯びてはいないのです。社会的関係が、物の(貨幣の)それ自身にかんする関係として完成されているのです。〉
              
 【ここでは、利子生み資本はG-G'の定式が示すように、Gが直接ΔGを生むという形で、つまり直接自己を増殖する貨幣(価値)として示されている。剰余価値ΔGが創造される実際の媒介過程(資本の生産過程と流通過程)が捨象された直接的なものとして現れている。物としての資本が価値(貨幣=資本=物)を生むという、つまり物が物を生むという物神崇拝が完成されているわけである。

   大谷氏が訳注で紹介している61-63草稿の箇所について見ておくことにしよう。

  〈29)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「これこそは,完成した資本--これによれば資本は生産過程と流通過程との統一〔である〕,したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすものである。利子生み資本の形態では,この規定が,生産過程および流通過程の媒介なしに,残っているだけである。」(MEGAII/3.4,S.1454.)〉 (332頁)

  この一文は、利子生み資本では無媒介に自己を増殖する価値として現れていることを、商人資本と比較しながら論じた文章のなかの一文である。だからその前と後のパラグラフも含めて抜粋しておこう。(大谷氏の引用個所は【  】で示す。)

  資本が流通過程で現われるかぎりでは、ということは普通の見方にたいしては特にただこの操作だけを任された資本種類としての商人資本において現われるのであるが、そのかぎりでは利潤は一般的な詐取という漠然とした観念をいくらかは伴っている。もっと詳しく言えば、商人は産業資本家から、あるいはまた消費者からも、詐取するのであって、ちょうど産業資本家が労働者から詐取したり生産者たちどうしが互いに詐取し合ったりするようなものだ、というわけである。いずれにせよ、利潤はこの場合には交換から説明される。つまり、社会的関係からであって、物からではない。
  これに反して、利子生み資本では呪物は完成されている。【これこそは、できあがった資本--したがって生産過程と流通過程との統一--であり、したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすのである。利子生み資本という形態には、ただこの規定が、生産過程および流通過程という媒介なしに、残っているだけである。】資本と利潤では、まだその過去への回想がある。といっても、利潤と剰余価値との相違によって、すべての資本の一様な利潤--一般的利潤率--によって、資本はすでに非常に暗くされ、暗い物になり神秘になるのではあるが。
  利子生み資本ではこの自動的な呪物、自分自身を価値増殖する価値、貨幣をつくる貨幣は完成されていて、それはもはやその発生の痕跡をとどめてはいない。社会的な関係は、物(貨幣、商品)のそれ自身にたいする関係として完成されている。〉 (草稿集⑦406-407頁)

 次の訳注。

  〈35)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「とにかく,資本および利子では,資本が,利子の,自分の増加の,神秘的かつ自己創造的な源泉として完成されている,ということだけは明らかである。」(MEGA II/3.4、S.1454.)〉 (333頁)

  この一文は先に紹介した草稿集⑦からの抜粋に直接続くパラグラフに含まれている。そのパラグラフ全体を紹介しよう。(【  】は大谷氏が抜粋した部分。)

  〈利子およびそれの利潤にたいする関係についてのこれ以上の研究は、ここに属すべきものではない。利潤がどんな割合で産業利潤と利子とに分かれるかという研究も同様である。【とにかく、資本と利子では資本が利子の、自分の増殖の、神秘的で自己創造的な源泉として完成されている、ということだけは明らかである。】だから、この形態では資本は観念にとっても特別に存在するのである。それは特にすぐれた資本である。〉  (草稿集⑦407頁)

 次の訳注。

  〈37)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「だが,いずれにせよこの形態は,それ自体として見るならば(じっさいには,貨幣は周期的に,労働を搾取し,剰余価値を生む手段として譲渡されるのである),物がいまでは物として現われ,また資本がたんなる物として現われ,資本主義的生産過程および流通過程の総結果が,物に内在する属性として現われる,という形態である。そして,貨幣を貨幣として支出しようとするか,それとも資本として賃貸ししようとするかは,貨幣の所持者,すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。」(MEGA II/3.4,S.1455.)〉  (333頁)

  これについてはそれに続くパラグラフを紹介した方がよいかもしれない。

  〈ここには元本としての資本が果実〔fructus〕としての自分自身にたいしてもつ関係があり、そして資本の生む利潤は資本自身の価値で計られるのであって、しかもその価値はこの過程によって失われないのである。(資本の本性にふさわしいこととして。) それゆえ、表面的な批判が、ちょうどそれが商品の存在を欲していながら貨幣に挑戦するのとまったく同様に、今やその改革者的な知恵をもって利子生み資本に立ち向かい、現実の資本主義的生産には手を触れることなしにただその諸結果の一つだけを攻撃するのはなぜなのか、ということは明らかである。このような、資本主義的生産の立場からの利子生み資本にたいする攻撃は、今日では「社会主義」として膨れ上がっているのであるが、それはさらに資本そのものの発展契機としてたとえば一七世紀にも見いだされるのであって、そのとき産業資本家は、まず第一に、当時はまだ自分よりも優勢だった古風な高利貸に対抗して自分を主張しなければならなかったのである。
  資本の、利子生み資本としての完全な物化転倒倒錯状態--といってもそこにはただ資本主義的生産の内的な性質、その倒錯状態が最も明瞭な形態で現われているだけなのだが--、それは「複利」を生むものとしての資本であって、そこでは資本は一個のモロク神として現われるのであって、このモロク神は、全世界を自分のための当然の犠牲として要求するとはいえ、奇異な運命〔fatum〕のために、彼の本性そのものから生ずる彼の正当な要求がけっして充たされることなく絶えず妨害されるのを見るのである。〉  (草稿集⑦408-409頁)

 次の訳注。

  〈43)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「利子生み資本では,この自動的な物神,自分自身を価値増殖する価値,貨幣をもたらす貨幣が完成されているのであって,それはこの形態ではもはやその発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。社会的関係が,物(貨幣,商品)のそれ自身にたいする関係として完成されているのである。」(MEGA II/3.4,S.1454.)〉  (333頁)

  この一文については、29)に関連して紹介したもの(草稿集⑦406-407頁)の中に含まれていた。】


【4】

 〈49)貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は可能的に〔δυνάμει〕,このような自己を増殖する価値として存在するのであり,そのようなものとして貸し付けられる(これがこの独特な商品にとっての販売の形式なのである)。57)価値を創造するということ,利子を生むということが貨幣の属性であるのは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を売るのである。そしてさらにそれ以上である。すでに見たように,現実に機能する資本そのものが,機能資本としてではなく,資本それ自体として(moneyed capita1として)利子を生むのだ,というように現われるのである。

  49)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられる。〔それは〕商品,だがまさにこの属性によって商品としての商品から区別され,したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔なのである〕。」(MEGA II/3.4,S.1457.)
  57)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「価値を創造するということ,利子を生むということがそれら〔貨幣または商品〕の内在的な属性であることは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を産業資本家に売るのである。」(MEGA II/3.4,S.1459.)〉  (334-335頁)

 〈貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただ、この転化の無内容な形態だけが現れています。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造するということになります。貨幣は可能的に、このように自己を増殖する価値として存在するのであり、そのようなものとして貸し付けられるのです。これがこの独特な商品にとっての販売の形式なのです。価値を創造するということ、利子を生むということが貨幣の属性であるのは、梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じです。そして、このような利子を生む物として、貨幣の貸し手は自分の貨幣を売るのです。そしてさらにそれ以上です。すでに見たように、現実に機能する資本そのものが、機能資本としてではなく、資本それ自体として、つまりmoneyed capitalとして、利子を生むのだ、というように現れるのです。〉

 【ここでも利子生み資本の概念そのものが資本物神の完成されたものだという説明がなされている。つまり貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられるのだが、それによって利子を生むということが貨幣の属性になり、だから現実に機能する資本そのものが、貸し付けられた資本でなくても、機能資本としてではなく、moneyed capitalとして利子を生むものとして現れてくるというわけである。

 ここでも大谷氏の訳注を見ておこう。

  〈49)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「貨幣の資本への現実の転化に代わって,ここではただ,この転化の無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように,ここでは貨幣の使用価値は,交換価値を創造するという,しかも貨幣自身に含まれる交換価値よりも大きい交換価値を創造することになる。貨幣は自己を増殖する価値として貸し付けられる。〔それは〕商品,だがまさにこの属性によって商品としての商品から区別され,したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔なのである〕。」(MEGA II/3.4,S.1457.)〉 (334頁)

  これに関しては、この引用文が含まれるパラグラフ全体を紹介しておこう(大谷氏の引用箇所は【  】で括ってある)。

  〈資本の現実の生産過程における貨幣のどの場所変換も、貨幣の労働への転化であれ、完成商品の貨幣への転化(生産行為の結び)であれ、貨幣の商品への再転化(生産過程の更新、再生産の再開)であれ、再生産の一契機を表わしている。貨幣の場所変換は、貨幣が資本として貸される場合には、つまり資本に転化させられるのではなくて資本として流通にはいる場合には、一方の手から他方の手へ同じ貨幣の引き渡し以外のなにものをも表わしてはいない。所有権は引き続き貸し主の手にあるが、占有は産業資本家の手に移っている。しかし、貸し手にとっては、貨幣の資本への転化は、彼がそれを貨幣として支出せずに資本として支出する瞬間から、すなわちそれを産業資本家の手に渡す瞬間から、始まるのである。(彼がそれを産業家にではなく浪費家に貸しても、あるいはまた家賃を支払うことができない労働者に貸しても、それが彼にとって資本であることに変わりはない。質屋の歴史のすべて。)確かに、他方の人はそれを資本に転化させる。しかし、それは、貸し手と借り手とのあいだで行なわれる操作とは別のところで行なわれる操作である。貸し手と借り手とのあいだの操作ではこの媒介は消え去っており、目には見えず、直接にそのなかに含まれてはいない。【貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただその無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、すなわちそれ自身に含まれているよりも大きな交換価値を創造するという使用価値となる。貨幣は自分を価値増殖する価値として貸される。商品〔として〕、だが、まさにこの属性によって商品としての商品から区別され、したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔として〕、貸される。】〉  (草稿集⑦410-411頁)

  次の訳注

  〈57)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「価値を創造するということ,利子を生むということがそれら〔貨幣または商品〕の内在的な属性であることは,梨の実を生産することが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして,このような利子を生む物として,貨幣の貸し手は自分の貨幣を産業資本家に売るのである。」〈MEGAII/3.4S.1459、)〉  (334頁)

  これはかなり長いパラグラフの途中の文章を抜粋したものである。だからそのパラグラフ全体を抜き書きしておこう(【  】は大谷氏の抜粋部分)。

  〈利潤とは区別されたものとしての利子は--単なる資本所有の価値を表わしている。すなわち、貨幣(価値額、商品、どんな形態にあってもかまわない)それ自体の所有を資本の所有となし、したがって商品または貨幣それ自体をば自分を価値増殖する価値となしている。労働条件が資本であるのは、もちろん、ただそれらが労働者にたいして彼の非所有として、したがってまた他人の所有として機能するかぎりでのことである。しかし、それらがそのようなものとして機能するのは、ただ労働にたいする対立においてのみである。労働にたいするこれらの条件の対立的な定在がこれらの条件の所有者を資本家となし、そして彼の所有するこれらの条件を資本となすのである。ところが、貨幣資本家Aの手のなかでは、資本は、それを資本となすところのこのような対立的な性格をもってはいないのであり、したがってまた貨幣所有を資本所有として現われさせはしないのである。貨幣または商品がそれによって資本となるところの現実の形態規定は消え去っている。貨幣〔資本家〕Aはけっして労働者に相対しているのではなく、ただ別の一資本家Bに相対しているだけである。AがBに売るものは、実際には貨幣の「使用」である。すなわち、貨幣が生産的資本に転化させられれば生みだすであろう諸作用である。だが、使用は、実際には、彼が直接に売るものではない。私が商品を売るならば、私は一定の使用価値を売るのである。私が商品で貨幣を買うならば、私は貨幣が商品の転化形態としてもっている機能的使用価値を買うのである。私は商品の使用価値をその交換価値とともに売るのでもなければ、貨幣の特殊な使用価値を貨幣そのものとともに買うのでもない。だが、貨幣としては貨幣は--それが貨幣の貸し主の手のなかでは行なわない資本としての転化および機能よりまえには--、それが商品(貨幣の素材的実体たる金銀)としてもっているかまたは商品の転化形態たる貨幣としてもっている使用価値よりほかには、どんな使用価値ももってはいない。実際、貨幣の貸し手が産業資本家に売るもの--この取引で起こることは、ただ、前者が後者に特定の期間を限って貨幣の所有を引き渡すということだけである。彼は一定期間その所有権を手放し、それとともに産業資本家は一定期間の所有を買ったのである。それだから、彼の貨幣は、それが手放されるまえに、資本として現われるのであり、貨幣または商品の単なる所有が--資本主義的生産過程から分離されて--資本として現われるのである。それが譲渡されてからはじめて資本として実証されるということは、少しも事柄を変えないのであって、ちょうど、綿花が紡績業者に譲渡されてからはじめて綿花の使用価値が実証されるということが綿花の使用価値を変えないのと同じであり、あるいはまた、肉の使用価値は肉が肉屋の店から消費者のテーブルの上に移ってからはじめて実証されるのと同じである。それゆえ、貨幣は、それが消費のために支出されないときに、商品は、それが再び所有者の消費に役だつのではないときに、それらの所有者を資本家となすのであり、それ自体として--資本主義的生産過程から切り離されて、また、それらが「生産的」資本に転化する前に--資本なのである。すなわち、それ自身を価値増殖し、維持し、増大させる価値なのである。【価値を創造すること、利子を生むことがそれらの内在的属性であることは、梨の実を結ぶことが梨の木の属性であるのとまったく同じである。そして、このような利子を生む物として、貨幣の貸し手は彼の貨幣を産業資本家に売るのである。】それが自分を維持するから、それが自分を維持する価値だから、産業資本家は任意に契約された期間ののちにはそれを返すことができるのである。それが年々一定の剰余価値、利子を創造するので、またはむしろどの期間にもそれには価値が生えるので、産業資本家もこの剰余価値を年々またはその他契約によって定められた各期間に貸し主に支払うことができるのである。貨幣は資本としては賃労働とまったく同様に毎日剰余価値を生む。利子はただ利潤のうちの特別な名称のもとに固定された一部分にすぎないのであるが、この利子が、ここでは、生産過程から切り離された資本そのものに、したがって資本の単なる所有に、貨幣および商品の所有に[起因するもの]として現われるのであり、労働との対立を与えるので、このような所有に資本主義的所有の性格を与えるところの諸関係から切り離されて単なる資本所有に、したがって資本に固有な、独特な剰余価値創造物に[起因するもの]として現われるのである。他方、産業利潤は、逆に、借り手が彼の生産的な資本充用によって(または別の言い表わし方では、彼の資本家としての労働によって--つまり資本家としての機能がここでは労働だとされ、じつに賃労働とさえも同一視されるのであるが、それというのも、現実に生産過程で機能する産業資本家は、実際に、所有の機能から切り離されて生産過程の外にくっつけられている怠惰で無為な貨幣の貸し手にたいして活動的な生産能因として現われ労働者として現われるからである)、すなわち労働者たちを搾取することによって、借入資本を用いて手に入れる単なる付加分として現われるのである。〉  (草稿集⑦414-416頁)】


【5】

 〈65)次のこともねじ曲げられる。--利子は利潤の一部,すなわち機能資本が労働者から搾り取る剰余価値の,一部でしかないのに,いまでは反対に,利子が資本の本来の果実,本源的な果実として現われ,利潤はいまでは企業利得という形態に転化して,たんに生産過程および流通過程でつけ加わるだけの附属品,付加物として現われる。72)ここでは資本の物神姿態と資本物神の観念とが完成している。73)われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。利子を生む姿態は,資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿態である。自分自身の価値を増殖するという,貨幣の,商品の能力--最もまばゆい形態での資本神秘化。|

  65)「次のこともねじ曲げられる。〔Es verdreht sich auch dies:〕」--岡崎訳では「これもまたねじ曲げられる」,長谷部訳では「このこともねじ歪められる」とされているが,diesはこれに続く部分を指すものと考えられる。
  72)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「この形態では,いっさいの媒介が消え去っており,資本の物神姿態は,資本物神の観念と同様に,完成している。」(MEGA II/3.4,S.1460.)
  73)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。」(MEGA II/3.4,S.1460.)〉 (335-336頁)

 〈次のこともねじ曲げられます。利子は利潤の一部分、すなわち機能資本が労働者から搾り取る剰余価値の、一部分でしかないのに、いまでは反対に、利子が資本の本来の果実、本源的な果実として現われます。他方で、利潤はいまでは企業利得という形態に転化して、たんに生産過程および流通過程でつけ加わるだけの付属品、付加物として現われるのです。ここでは資本の物神姿態と資本物神の観念とが完成しています。私たちがG-G'で見るのは、資本の無概念的な形態、最高の展相における、生産諸関係の転倒と物象化です。利子を生む姿態は、資本自身の再生産過程に前提されている資本の単純な姿態です。自分自身の価値を増殖するという、貨幣の、商品の能力--もっともまばゆい形態での資本の神秘化です。〉

 【利子においては、それが利潤の一部、機能資本が労働者から搾り取った剰余価値の一部分だということがわからなくなるだけではなく、逆に、利子こそが資本の本来の果実であり、本源的なものであるかに現われてくる。そして利潤は企業利得として単なる付属品や付加物として現われてくる。こうした資本諸関係の転倒と物象化が明らかにされている。自分自身を増殖するのが、貨幣や商品自身の能力として現われるわけである。

  以下、大谷氏の訳注について。

  〈65)「次のこともねじ曲げられる。〔Es verdreht sich auch dies:〕」--岡崎訳では「これもまたねじ曲げられる」,長谷部訳では「このこともねじ歪められる」とされているが,diesはこれに続く部分を指すものと考えられる。〉 (335頁)

  因みに、新日本出版社の新書版や上製版では次のようになっている。

 〈次のこともまた、歪曲されている。……〉 (新書版・第10分冊665頁、上製版・第3巻a665頁)

 つまりこの限りでは、大谷氏の説に沿った翻訳になっているわけである。次の訳注。

  〈72)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「この形態では,いっさいの媒介が消え去っており,資本の物神姿態は,資本物神の観念と同様に,完成している。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (335頁)

  この一文は、すでに紹介したものの一部分である。そこでは私はマルクスが法律的所有と経済的所有とを区別して論じていることに注目して、興味深い指摘として紹介したのであるが、今回の大谷氏の抜粋文はその直前でマルクスが述べている部分である。すでに紹介したものであるが、もう一度、紹介しておこう(【  】は大谷氏が抜粋している部分)。

  〈こうして、利潤ではなくて、利子が、資本そのものから、したがって単なる資本所有から流出する資本の価値創造物として現われ、したがって、資本によって独自に創造される収入として現われる。それだから、それは俗流経済学者たちによってもこの形態で把握されるのである。【この形態では、いっさいの媒介は消え去っており、そして資本の呪物姿態資本呪物の観念とともに完成している。】この姿態が必然的に生まれるのは、資本の法律的所有がその経済的所有から切り離されて、利潤の一部分の取得が、利子という名のもとに、生産過程からまったく切り離された資本それ自体または資本所有者のもとに流れこむということによってである。〉  (草稿集⑦416-417頁)

  次の訳注。

  〈73)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「われわれがG_G'で見るのは,資本の無概念的な形態,最高の展相〔Potenz〕における,生産諸関係の転倒と物象化である。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (335頁)

  この一文も実は、先に紹介したパラグラフに続くパラグラフの中の一文なのである。上記の抜粋文に続くパラグラフを紹介しておこう(【  】は大谷氏の抜粋部分)。

  〈資本を価値の、価値創造の、独立な源泉として説明しようとする俗流経済学者にとっては、当然、この形態は、掘出し物であって、この形態では利潤の源泉はもはや判別できなくなっていて、資本主義的な過程の結果が--この過程から切り離されて--独立な定在を得ている。G-W-G'にはまだ媒介が含まれている。【G-G'において、われわれは、資本の無概念的な形態、生産関係の最高度の転倒と物化とをもつのである。】〉  (草稿集⑦417頁)

  大谷氏と翻訳がやや違っている。大谷氏が〈最高の展相〔Potenz〕における〉と訳している部分は、草稿集ではただ〈最高度の〉と訳されているだけである。いずれにせよG-G'という定式は、利潤の源泉はもはや何の痕跡もみられず、資本の生産関係の転倒と物象化が最高の段階にまで仕上げられているということであろう。】

【6】

 |313上|78)資本を価値,価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては,もちろんこの形態はお誂え向きであって,この形態では,利潤の源泉はもはや認識できなくなっており,資本主義的生産過程の結果が--過程そのものからは切り離されて--自立的な定在を得ているのである。

 78)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「資本を価値,価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては,もちろんこの形態はお読え向きであって,この形態では,利潤の源泉はもはや認識できなくなっており,資本主義的過程の結果が--過程からは切り離されて--自立的な定在を得ているのである。」(MEGAII/3,4,S.1460.)〉 (336頁)

 〈資本を価値、価値創造の自立した源泉として説明しようとする俗流経済学にとっては、もちろんこの形態はお誂え向きです。というのは、この形態では、利潤の源泉はもはや認識できなくなっており、資本主義的生産過程の結果が、過程そのものから切り離されて、自立的な定在を得ているからです。〉

 【こうした資本関係の転倒と物象化は、利潤を資本全体から説明しようとする俗流経済学にとっては好都合である。利潤が剰余労働の産物であることはまったく見えなくなっており、利子は物として資本から生え出てくるように見えるのだから、利潤は資本全体から、だから不変資本部分(生産手段)からも生み出されるのだという彼らの主張を裏付けるように見えるからである。

  この部分の大谷氏の訳注78)については、すでに紹介した(訳注73)のところで)。こうして見ると、マルクスがこの草稿を書く上で、大谷氏が指摘するように、以前書いた61-63草稿を横において、そのあちこちからほぼそのまま抜き書きして切り貼りするような形で書き上げていることがよく分かるのである。】

(次回に続く。)

 

2019年12月13日 (金)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読(24-1)

『資本論』第5篇第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」の草稿の段落ごとの解読


    今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第24章「利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [461]|312上|4) 利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化。

 ①〔訂正〕「4)」--草稿では「5)」と書かれている。〉 (329頁)

  【この表題はマルクス自身によるものである。マルクスは番号を打ち間違っている。大谷氏は、今回の草稿の特徴を次のように述べている。

  〈マルクスが本稿部分を執筆するときに『1861-1863年草稿』によったその依存の程度はきわめて大きく,しかもそれは,第5章のこれ以前の三つの節に比べてはるかに高い。大きく利用されたのは,第1に,『1861-1863年草稿』のノートXVのなかの「収入とその諸源泉」(MEGA編集者が与えたこの表題が不適切であることには本書本巻の74-75ページで触れた)の部分である。マルクスは,ノートで50ページを超えるこの部分の全体を見返しながら本章収録部分を執筆したのであり,とくに,第2パラグラフは,「収入とその諸源泉」のなかに散在する7箇所の記述を,大きく手を加えることをしないままで一つに集めたものとなっている。第2に,本章収録部分の約3分の1を占める,プライスとミュラーとについての記述は,『1861-1863年草稿』のノートXVIIIに,「資本主義的生産における貨幣の還流運動」を中断して書かれた「複利」に関するまとまった記述によっている。そのほか,この二つの部分以外に『1861-1863年草稿』から取られたものが若干あり,この草稿ではじめて書き下ろされたと見なすことができる箇所はわずかである。〉 (326頁)

  だから大谷氏は、61-63草稿の関連する該当個所を訳者注のなかで紹介している。それらについては、われわれもやはり61-63草稿そのものに帰って、それを確認した上で、それらの抜粋部分と関連するものも含めて紹介し、検討していくことにしたい。だからその必要からも、これまでは大谷氏の訳者注については、ほぼエンゲルスの編集上の手入れを指摘するものであったために、煩雑を避けるために、すべてテキスト上には反映させてこなかったのであるが、今回は、エンゲルスの編集上の手入れを指摘するものは同じ扱いにするが、それ以外のものについては、特に大谷氏が61-63草稿の参考箇所を示しているものについては、テキスト上にもそれを残すことにした。15)とか20)のように片側括弧付きの数字がそれである。エンゲルスの編集の内容を指摘するものについては引き続き省略したので、片側括弧付きの数字が連続したものでないのはそのためである。ただ18)はエンゲルスの編集の手入れを示したものであるが、この場合は、エンゲルスの訂正は正しいものと思われる(マルクスが間違っている)ので、反映させた。
  そうした事情もあって、61-63草稿等からの抜粋が長々と続くことになって、大変読みにくくなってしまった。これは私自身のノートという性格からくるものであり、ご堪忍頂きたい。】


【2】

 〈①3)利子生み資本において,資本関係はその最も外面的で最も物神的な形態に到達する。ここでは,われわれは,G_G',より多くの貨幣を生む貨幣,自分自身を増殖する価値を,これらの極を媒介する過程なしにもつのである。商人資本,G_W_G'では,少なくとも資本主義的運動の一般的な形態がある。といっても,この形態は純粋に流通部面にとどまっており,したがって利潤も収奪利潤〔Profit upon expropriation〕として現われるのであるが。いずれにせよ,この形態は一つの過程を,反対の段階の統一を,だからまた,商品の買いと売りという二つの反対の段階に分かれる運動を,表わしている。15)このことは,G_G',すなわち利子生み資本の形態では消えてしまっている。たとえば,1000ポンド・スターリングが貨幣資本家〔monied Capitalist〕によって貸し出され,利子率が5%だとすれば,1000ポンド・スターリングという価値は,資本としては18)1050ポンド・スターリング(=C+C/i,ここでCは資本であり,iは利子率である)である。20)1000ポンド・スターリングの価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な量ではないのである。それは,量関係であり,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。そして,すでに見たように,すべての生産的資本家にとっては,彼らが自分の資本で機能しようと借りた資本で機能しようと,資本そのものが,このような直接に自分を増殖する価値として,24)現れるのである。

  ①〔注解〕ここから本書339ページ3行目までは,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1451.1-1464.34)から取られている。
  ②〔異文〕「……における媒介なしに」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」--〔MEGA II/4.2の〕320ページ5行への注解を見よ。〔この注解は次のとおり。--「「譲渡利潤〔Profit upon alienation〕」--マルクスはこの表現をジェイムズ・ステユーアトから取った。『1861-1863年草稿』でマルクスは「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」という概念も使った。--MEGA II/3.2,S.334.12-13 und 345.28を見よ。〕

  3)〔大谷氏による訳者注--以下説明は省略〕この一文については『1861-1863年草稿』の次の諸記述を参照されたい。
  【資本の純粋な物神形態】「利子生み資本において--利子と利潤〔すなわち企業利得〕とへの利潤の分裂において--,資本はその最も物的な形態を,純粋な物神形態を受け取ったのであり,剰余価値の本性がまったく失われてしまったことが示されているのである。ここでは資本が--物としての資本が--,価値の自立的な源泉として現われる… …。」(MEGA II/3.4,S.1497.)
  【物神崇拝の完成】「剰余価値のこの二つの形態〔利子と産業利潤(企業利得)〕においては,資本の本性が,つまり資本の本質および資本主義的生産の性格が,完全に消し去られているだけではなく,反対物に転倒されている。しかし,諸物象の主体化,諸主体の物象化,原因と結果との転倒,宗教的な取り違え〔quid pro quo〕,資本の純粋な形態G_G'が,無意味に,いっさいの媒介なしに,表示され表現されるかぎりでは,資本の性格および姿態もまた完成されている。同様に,諸関係の骨化も,この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物象にたいする人間たちの関係として表示することも,商品の単純な神秘化と貨幣のすでにより複雑化された神秘化とにおけるのとはまったく違った仕方でつくりあげられている。化体は,物神崇拝は,完成されている。」(MEGA II/3.4,S.1494.)
  【資本関係の外面化】「非合理的なものは,地代の形態においては,資本そのものの関係がそれを表現しているようには,表明されていない,または形象化〔gestalten〕されていない。……利子生み資本についてはそうではない。ここで問題なのは,資本に疎遠な関係ではなくて,資本関係そのものであり,資本主義的生産から生じる,またこの生産に独自な,資本そのものの本質を表現する関係であり,資本が資本として現われるような資本の姿態である。利潤は,過程進行中の資本にたいする連関を,剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする連関を依然として含んでいる。利子生み資本においては,利潤におけるのとは違って,剰余価値の姿態は疎外されて異様なものになっており,直接にその単純な姿態を,したがってまたその実体とその発生原因とを認識させなくなっている。利子では,むしろ明示的に,この疎外された形態が本質的なものとして定立されており,現存するものとして表明されている。それは,剰余価値の真の本性に対立するものとして--自立化され,固定されている。利子生み資本においては,労働にたいする資本の関係は消し去られているのである。」(MEGA II/3.4,S.1489-1490.)
  【資本の絶対的な外面化の形態】「一方で,利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿態では,利潤がへてくる多くの転化,媒介が消し去られており,認識できなくなっており,したがってまた資本の本性もそうなっているとすれば,また,この姿態に最後の一筆を加えるその同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ,したがって利潤を剰余価値の一つの特殊的形態--この形態は,地代が土地に連関させられるのとまったく同様に,素材的に弁別される生産用具としての資本に連関させられる--にする,ということによって,この最後の姿態がさらにいっそう固定されるとすれば,他方では,数多くの目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿態が,さらにいっそう外面化された形態に,あるいはむしろ,絶対的な外面化の形態に到達するのは,利子生み資本において,利潤と利子との分裂において,資本の単純な姿態としての,つまり資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿態としての利子生み資本においてである。それにおいては,一方では資本の絶対的な形態,つまりG_G'が表現されている。〔つまり〕自己を増殖する価値〔である〕。他方では,純粋な商業資本ではまだ存在している中間項が,つまりG_W_G'〔の〕Wが脱落した。それは,ただ,Gの自分自身にたいする関係,Gが自分自身で測られるという関係にすぎない。それは,過程の外に--過程の前提として,しかも,それがこの過程の結果であり,ただこの過程のなかでのみ,ただこの過程によってのみ資本だという,そのような過程の前提として--明示的に取りだされ,分離された資本である。」(MEGA II/3.4,S.1487.)
  15)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「G_W_G'にはまだ媒介が含まれている。G_G'では,われわれは資本の無概念的な形態,生産関係の最高の展相における〔in der höchsten Potenz〕転倒および物象化をもつのである。」(MEGA II/3.4,S.1460.)
  18)〔E〕「1050ポンド・スターリング(=C+C/i,ここでCは資本であり,iは利子率である)」→ 「C+Cz'--このCは資本でありz'は利子率つまりここでは5%=5/100=1/20である--であって,1000+1000×1/20=1050ポンド・スターリング」
  20)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「1000ポンド・スターリングの価値のある商品の価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な数〔Zahl〕ではない。それは単純な商品ではなくて,力能を高められた〔potenzirt〕商品である。単純な量ではなくて,量関係である。それは,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。」(MEGA II/3.4,S.1476.)
  24)「現われる」--草稿では,stellt sichとなっているが,エンゲルス版でのようにstellt sich…darとあるべきところであり,darの単純な書き落としであろう。MEGA版では編集者がdarを補っている。〉 (329-332頁)

 〈利子生み資本において、資本関係はその最も外面的で物神的な形態に到達します。ここではわれわれはG_G'、つまりより多くの貨幣を生む貨幣、自分自身を増殖する価値を、これらの両極を媒介する過程なしに持つのです。商人資本のG_W_G'では、少なくとも資本主義的運動の一般的な形態があります。といっても、この形態は純粋に流通部面にとどまっており、したがって利潤も収奪利潤として現れるのですが。いずれにせよ、この形態は一つの過程を、反対の段階の統一を、だからまた、商品の買いと売りという二つの反対の段階に分かれる運動を、表しています。こうしたことはG_G'、つまり利子生み資本の形態では消えてしまっています。例えば、1000ポンド・スターリングが貨幣資本家によって貸し出され、利子率が5%だとすれば、1000ポンド・スターリングの価値は、資本としては1050ポンド・スターリングになります。つまり資本はけっして単純な量ではないのです。それは、量関係であり、剰余価値としての自分自身にたいする元本、与えられた価値という関係です。そして、すでに見たように、すべての生産的資本家にとっては、彼らが自分の資本で機能しようと借りた資本で機能しようと、資本そのものが、このような直接に自分を増殖する価値として、現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本においては、資本はそのもっとも外面的な関係に達していると指摘されている。すなわち自己増殖する価値としての資本がまったく過程を捨象した形であらわされているわけである。G_G'というのは、われわれが『資本論』第1部第4章で貨幣の資本への移行において最初に現れた資本の最も表面的で直接的な姿であった。つまり自己増殖する価値としての貨幣が、すなわち資本なのである。それがこの利子生み資本の形態において再現されているわけである。

  大谷氏はこの部分を理解するためとして、注3)において、61-63草稿からそれぞれ表題をつけて四つの抜粋を紹介している。それをわれわれも見て行くことしよう。

 〈3)この一文については『1861-1863年草稿』の次の諸記述を参照されたい。
 【資本の純粋な物神形態】「利子生み資本において--利子と利潤〔すなわち企業利得〕とへの利潤の分裂において--,資本はその最も物的な形態を,純粋な物神形態を受け取ったのであり,剰余価値の本性がまったく失われてしまったことが示されているのである。ここでは資本が--物としての資本が--,価値の自立的な源泉として現われる……。」(MEGA II/3.4,S.1497.)〉

  この大谷氏の抜粋は、抜粋された内容そのものは確かに、このパラグラフに関連しているが、しかし前後でマルクスが論じていることは必ずしも関連していない。というのはマルクスはこのあと次のように続けているからである。

  (資本は--引用者)地代における土地や労賃(一部は本来の労賃、一部は産業利潤)における労働と同じように、価値創造者として現われる。確かに、労賃や利子や地代を支払わなければならないのは、やはり商品の価格である。だが、商品の価格がそれらのものを支払うのは、商品のなかにはいる土地が地代を、商品のなかにはいる資本が利子を、商品のなかにはいる労働が労賃を、創造するからである。〔これらのものが〕これらの価値部分を創造し、これらの価値部分が、それぞれの所有者または代表者、すなわち土地所有者、資本家、労働者(賃金労働者と産業家)のもとに流れこむのである。だから、一方では諸商品の価格が労賃、地代、利子を規定し、他方では利子、地代、労賃という価格が諸商品の価格を規定するということも、この立場に立てば、理論にとって矛盾ではないのであり、または、もしそれが矛盾であっても、それは同時に現実の運動の矛盾、悪循環なのである。〉草稿集⑦474-475頁)

  ごらんの通り、マルクスは資本-利子、土地-地代、労働-労賃、という三位一体について述べており、スミスの商品の価格の構成説や分解説の根拠を説明しているのである。
  ここで注目すべきは、マルクスは労賃のなかに〈一部は本来の労賃、一部は産業利潤〉と書き、〈労働者(賃金労働者と産業家)〉と書いていることである。というのは、大谷氏が抜粋しているその直前で、マルクスは第23章とほぼ同じように機能資本家が、一方で利子が資本の社会的規定性を吸い上げるために、資本の生産過程は単なる労働過程になり、機能資本家はたんなる機能者になり、さらには賃労働者になるとし、企業利得は監督賃金になること、生産過程は資本の搾取過程ではなくなり、搾取するものも搾取されるものも労働者としては同じになると論じていたからである。
  つまりこの大谷氏が紹介している上記のマルクスの一文は、マネージャー等の監督賃金は産業利潤からなり、彼らは労働者にはなるが、その本質は産業家だと考えていることを示しているのである。しかし産業利潤という性格も、産業資本家という性格も利子によって社会的関係が吸収されてしまうために、監督賃金や産業労働者になり、剰余価値の本性そのものがまったく失われ、物としての資本が価値の自立的な源泉として現われてくるのだと述べているわけである。だから物としての資本だけではなく、物としての土地も労賃と同様に価値の源泉として現われ、三位一体の定式が生まれてくると続くわけである。

  〈【物神崇拝の完成】「剰余価値のこの二つの形態〔利子と産業利潤(企業利得)〕においては,資本の本性が,つまり資本の本質および資本主義的生産の性格が,完全に消し去られているだけではなく,反対物に転倒されている。しかし,諸物象の主体化,諸主体の物象化,原因と結果との転倒,宗教的な取り違え〔quid pro quo〕,資本の純粋な形態G_G'が,無意味に,いっさいの媒介なしに,表示され表現されるかぎりでは,資本の性格および姿態もまた完成されている。同様に,諸関係の骨化も,この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物象にたいする人間たちの関係として表示することも,商品の単純な神秘化と貨幣のすでにより複雑化された神秘化とにおけるのとはまったく違った仕方でつくりあげられている。化体は,物神崇拝は,完成されている。」(MEGA II/3.4,S.1494.)〉

  この大谷氏の抜粋は、利潤の量的な分割が、質的な分割に転回するという文脈のなかで書かれている。その一つ前のパラグラフを抜粋してみよう。

   〈それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦469頁)

  また大谷氏が抜粋している、その直後のパラグラフも紹介しておこう。

  〈こうして、利子それ自体は、まさに、社会的対立と変態とにおける労働条件の資本としての定在を、労働に対立し労働を支配する人的な諸力として表わしている。利子は、主体の活動にたいする関係における労働条件の疎外された性格を要約している。利子は、資本の所有または単なる資本所有を、他人の労働の生産物を他人の労働にたいする支配力としてわがものにするための手段として表示する。しかし、利子は資本のこの性格を、生産過程そのものの外で資本が受け取るものであってけっしてこの生産過程そのものの独自な規定の結果ではないものとして、表示する。利子は資本を、労働にたいする対立においてではなく、逆に、労働にたいする関係なしに、単なる資本家対資本家の関係として、表示する。つまり、労働そのものにたいする資本の関係には外的で無関係な規定として、表示する。資本家たちのあいだでの利潤の分配は、労働者としての労働者にとってはどうでもよいことである。だから、利子にあっては、資本の対立的な性格が自分に一つの特殊な表現を与えるところのこの利潤姿態にあっては、それは、この対立がまったく消し去られていて明瞭に捨象されているところの表現を自分に与えるのである。利子が一般に--貨幣や諸商品などのそれら自身の価値を増殖する能力とは別に、剰余価値をそれらのものから発生するものとして、それらのものの自然的果実として、表示するかぎりでは、したがって極端な形態における資本神秘化の単なる表現であるかぎりでは、--利子が一般に社会的関係としての社会的関係を表示するかぎりでは、利子が表わすものは単に資本家どうしの関係にすぎないのであって、けっして資本と労働との関係ではないのである。〉 (草稿集⑦469-470頁)

  見られるように、これらの一文はすでに第23章該当部分で見たものと合致した内容になっている。

 【資本関係の外面化】「非合理的なものは,地代の形態においては,資本そのものの関係がそれを表現しているようには,表明されていない,または形象化〔gestalten〕されていない。……利子生み資本についてはそうではない。ここで問題なのは,資本に疎遠な関係ではなくて,資本関係そのものであり,資本主義的生産から生じる,またこの生産に独自な,資本そのものの本質を表現する関係であり,資本が資本として現われるような資本の姿態である。利潤は,過程進行中の資本にたいする連関を,剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする連関を依然として含んでいる。利子生み資本においては,利潤におけるのとは違って,剰余価値の姿態は疎外されて異様なものになっており,直接にその単純な姿態を,したがってまたその実体とその発生原因とを認識させなくなっている。利子では,むしろ明示的に,この疎外された形態が本質的なものとして定立されており,現存するものとして表明されている。それは,剰余価値の真の本性に対立するものとして--自立化され,固定されている。利子生み資本においては,労働にたいする資本の関係は消し去られているのである。」(MEGAII/3.4,S.1489-1490.)

 この一文はかなり長いパラグラフの途中から抜き出されている。しかもその抜粋の仕方はややおかしいし、一部省略されている。大谷氏の引用の仕方では続き具合がよく分からなくなっている。大谷氏が引用している冒頭部分の直前の文章と大谷氏が〈……〉として省略した部分も含めて全体を紹介しておこう。大谷氏の抜粋部分は【  】で示す。

 〈地代--、および土地-地代という関係は、利子、資本-利子〔という関係〕よりもずっと不可思議な形態として現われることがありうる。しかし、【非合理的なものは、地代という形態では、資本そのものの関係がそれを表現しているようには、表明されていない。または、形成されていない。】土地そのものが生産的(使用価値に関して)であり、生きている生産力(使用価値に関して、または使用価値の産出のために)でさえあるので、場合によっては、迷信的に使用価値と交換価値とが混同され、物が生産物に含まれる労働の独自に社会的な形態と混同されることがありうる。その場合には非合理性はその原因をそれ自身のうちに見いだす。というのは、地代そのもの〔sui generis〕は資本主義的過程そのものとはなんの関係もないからである。もう一つの場合には「啓蒙された」経済学は、地代が労働にも資本にも関係がないという理由から、地代が一般に剰余価値の一形態であることを否定することができ、地代は単なる価格付加で土地所有者は土地所有の独占によってこの価格付加をすることができるのだと説明することができる。【利子生み資本はそうではない。ここで問題にされるのは、資本に無縁な関係ではなくて、資本関係そのものであり、資本主義的生産から生ずる、この生産に独自な、資本そのものの本質を表わす関係であり、資本が資本として現われるところの資本の姿である。利潤は、過程進行中の資本にたいする関係を、剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする関係を、やはりまだ含んでいる。利子生み資本においては、利潤におけるのとは違って、剰余価値の姿は疎外されて異種的になっており、直接にその単純な姿を、したがってまたその実体と発生原因とを認識させなくなっている。利子ではむしろ明瞭にこの疎外された形態が本質的なものとして定立されており、現存しており、表明されている。それは、剰余価値の真の本性に対立するものとして--独立化され、固定されている。利子生み資本では労働にたいする資本の関係は消し去られている。】〉(草稿集⑦462頁)

 このように続き具合が分かれば、大谷氏による抜粋の冒頭、マルクスが〈非合理的なもの〉と言っている意味が分かるであろう。地代には不可思議なものはあるが、資本関係のような非合理的なものとしては表明されていない、利子生み資本では、資本関係そのものによって、その非合理性が際立っているのだというわけである。

  【資本の絶対的な外面化の形態】「一方で,利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿態では,利潤がへてくる多くの転化,媒介が消し去られており,認識できなくなっており,したがってまた資本の本性もそうなっているとすれば,また,この姿態に最後の一筆を加えるその同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ,したがって利潤を剰余価値の一つの特殊的形態--この形態は,地代が土地に連関させられるのとまったく同様に,素材的に弁別される生産用具としての資本に連関させられる--にする,ということによって,この最後の姿態がさらにいっそう固定されるとすれば,他方では,数多くの目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿態が,さらにいっそう外面化された形態に,あるいはむしろ,絶対的な外面化の形態に到達するのは,利子生み資本において,利潤と利子との分裂において,資本の単純な姿態としての,つまり資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿態としての利子生み資本においてである。それにおいては,一方では資本の絶対的な形態,つまりG_G'が表現されている。〔つまり〕自己を増殖する価値〔である〕。他方では,純粋な商業資本ではまだ存在している中間項が,つまりG_W_G’〔の〕Wが脱落した。それは,ただ,Gの自分自身にたいする関係,Gが自分自身で測られるという関係にすぎない。それは,過程の外に--過程の前提として,しかも,それがこの過程の結果であり,ただこの過程のなかでのみ,ただこの過程によってのみ資本だという,そのような過程の前提として--明示的に取りだされ,分離された資本である。」(MEGAII/3.4,S.1487.)〉 (329-330頁)

  この一文は、その前で大谷氏が〈【資本関係の外面化】〉と題して抜粋していた文章も含まれる長いパラグラフの冒頭の部分である。出来うるなら、この長いパラグラフ全体(草稿集⑦459~464頁)を検討すべきだと考える。そこには当面している問題以外にも極めて興味深い指摘もある。よって長くなるが参考資料として紹介しておこう(しかしMEGAの注解等は省略する)。【  】で括った部分は大谷氏によって紹介された部分である。

  〈【利潤が資本主義的生産において与えられたものとして前提されて現われるところの最終の姿では、利潤が経てくるいろいろな転化や媒介が消し去られて認識できなくなっており、したがってまた資本の本性もそうなっているならば、また、この姿に最後の仕上げを与えるのと同じ過程が利潤の一部分を地代として利潤に対立させ、したがって利潤を剰余価値の特殊な一形態となし、この形態は、ちょうど地代が土地に関係させられるのとまったく同様に、素材的に特殊な生産手段としての資本に関係させられるということによって、この最後の姿がさらにいっそう固定されるならば、そのとき、一団の目に見えない中間項によってその内的な本質から分離されたこの姿は、利子生み資本において、利潤と利子との分裂において、資本の単純な姿--資本がそれ自身の再生産過程に前提されている場合の姿--としての利子生み資本において、さらにいっそう外面化された形態に、またはむしろ絶対的な外面化の形態に、到達するのである。一方では、利子生み資本では資本の絶対的な形態、G-G'、自分を価値増殖する価値が表現されている。他方では、純粋な商業資本、G-W-G'ではまだ存在している中間項Wがなくなっている。それは、ただ、Gの自分自身にたいする関係であり、Gが自分自身で計られるという関係である。それは、過程の外に--過程の前提として、といってもそれはこの過程の結果であり、ただこの過程のなかでのみ、ただこの過程によってのみ、資本なのであるが--明言的に取り出され、分離された資本である。】確かに、利子生み資本がそのものとして実証されるのは、ただ、{利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって、貨幣が「浪費者」に貸される場合、すなわち消費のために貸される場合がそれであるが、この場合は〔ここでは〕無視することにする。とはいえ、同じ場合は、支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる。どちらの場合にもそれは貨幣として貸されるのであって、資本として貸されるのではないが、その所有者にとっては単なる貸すという行為によって資本となる。第二の場合、すなわち割引やさしあたりは売れない商品を担保としての貸付〔の場合には〕、それは、資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものでありうる。この転化過程の促進が--その一般的本質から見た信用におけるように--再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本である。これに反して、それがただ債務の支払に役だつだけで、再生産過程を促進することなく、おそらくはそれを不可能にするかまたは狭めるかするかぎりでは、それは単なる支払手段であり、借り手にとってはただ貨幣であるだけであって、貸し手にとっては実際に資本の過程からは独立な資本である。この場合には利子は、収奪に基づく利潤のように、資本主義的生産--剰余価値の生産--そのものからは独立な事実である。貨幣のこの二つの形態、商品を消費するための商品の購買手段としてのそれと債務の支払手段としてのそれとにあっては、利子は、収奪に基づく利潤とまったく同様に、資本主義的生産において再生産されるものだとはいえ資本主義的生産からは独立な、以前の生産様式に属する利子形態である。貨幣(または商品)が生産過程の外でも資本であることができ、資本として売られることができるということ、そして、こういうことは、貨幣が資本に転化させられないでただ貨幣として役だつにすぎないようなより古い諸形態にあっても起こりうるということは、資本主義的生産の本性にあることなのである。利子生み資本の第三の古い形態は、資本主義的生産がまだ存在していないで、利潤が利子の形で取りこまれ、資本家が単なる高利貸として現われる、ということに基づいている。これには次のことが含まれる。1、生産者はまだ独立に彼の生産手段を用いて労働しており、生産手段はまだ彼とともに労働してはいない(この生産手段に奴隷が属する場合でもそうであって、奴隷はここでは家畜と同様に一つの特殊な経済的範疇をなしてはいないか、またはせいぜい素材的な相違、すなわち口をきかない道具と感情をもち物を言う道具という相違があるだけである)ということ。2、生産手段はただ名目的にだけ彼のものであるということ、すなわち、彼は、なんらかの偶然のために、自分の商品を売ることによって生産手段を再生産することはできないということ。それだからこそ、利子生み資本のこれらの形態は、商品流通があり貨幣が流通しているすべての社会形態で見られるのであって、そこで行なわれているものが奴隷労働であるか農奴労働であるか自由な労働であるかを問わないのである。最後にあげた形態では生産者は彼の剰余労働を資本家に利子の形で支払うのであって、それだから利子は利潤を含んでいるのである。ここでは全資本主義的生産が、その利点なしに、すなわち、労働の社会的諸形態とそこから生ずる労働の生産力との発展なしに、存在する。これは、農民のもとで非常に優勢な形態であるが、農民といっても、すでに彼らの生活手段や生産用具の一部分を商品として買わなければならず、したがって彼らとは別にすでに都市工業が存在するのであり、彼らはさらに租税や地代を貨幣で支払うなどしなければならないのである。} 貸された貨幣が現実に資本に転化させられて剰余を生産しこの剰余の一部分が利子となるかぎりでのことである。とはいえ、このことは、利子生み資本には、過程からは独立に、利子と利子生みとが属性として固着している、ということを解消するものではない。それは、綿花の有用な属性を実証するためには綿花が紡がれるかどうかして利用されなければならないということが、綿花の綿花としての使用価値を解消しないのと同様である。だから、資本は、利子を創造するというその力を、ただそれが生産過程にはいることによってのみ、[示すのである]。だが、労働能力もまた、価値を創造するというその力を、ただそれが過程のなかで労働として働かされ実現されるときにのみ、実証する。このことは、労働能力それ自体が、能力として、価値創造活動であって、そのようなものとして過程によってはじめて生成するのではなく、過程にたいしてはむしろ前提されている、ということを排除しはしない。労働能力はそのものとして買われる。それを買ってもそれに労働をさせずにおくこともできる。(たとえば、劇場支配人が俳優を買うとしても、それは彼に演技をさせるためではなく、彼の演技を競争相手の劇場から奪い取るためだということがある。)労働能力を買う人が、自分が代価を支払うその属性を、価値を創造するというその属性を、利用するかどうかということは、売り手にも売られた商品にもなんの関係もないのであって、ちょうど、資本を買う人がそれを資本として利用するかどうか、つまり、価値を創造するというそれに固有な属性を過程のなかで働かせるかどうか、ということと同様である。彼が代価を支払うものは、どちらの場合にもそれ自体として、可能性から見て、買われる商品の本性から見て、一方の場合には労働能力に含まれており他方の場合には資本に含まれている剰余価値と、それ自身の価値を維持する能力とである。それだからこそ、自分の資本で仕事をする資本家も、剰余価値の一部分を、利子とみなすのである。すなわち、資本が、生産過程から独立していながら、それを生産過程に持ちこんだために、生産過程から出てくるところの剰余価値とみなすのである。地代--、および土地-地代という関係は、利子、資本-利子〔という関係〕よりもずっと不可思議な形態として現われることがありうる。しかし、【非合理的なものは、地代という形態では、資本そのものの関係がそれを表現しているようには、表明されていない。または、形成されていない。】土地そのものが生産的(使用価値に関して)であり、生きている生産力(使用価値に関して、または使用価値の産出のために)でさえあるので、場合によっては、迷信的に使用価値と交換価値とが混同され、物が生産物に含まれる労働の独自に社会的な形態と混同されることがありうる。その場合には非合理性はその原因をそれ自身のうちに見いだす。というのは、地代そのもの〔sui generis〕は資本主義的過程そのものとはなんの関係もないからである。もう一つの場合には「啓蒙された」経済学は、地代が労働にも資本にも関係がないという理由から、地代が一般に剰余価値の一形態であることを否定することができ、地代は単なる価格付加で土地所有者は土地所有の独占によってこの価格付加をすることができるのだと説明することができる。【利子生み資本はそうではない。ここで問題にされるのは、資本に無縁な関係ではなくて、資本関係そのものであり、資本主義的生産から生ずる、この生産に独自な、資本そのものの本質を表わす関係であり、資本が資本として現われるところの資本の姿である。利潤は、過程進行中の資本にたいする関係を、剰余価値(利潤そのもの)が生産される過程にたいする関係を、やはりまだ含んでいる。利子生み資本においては、利潤におけるのとは違って、剰余価値の姿は疎外されて異種的になっており、直接にその単純な姿を、したがってまたその実体と発生原因とを認識させなくなっている。利子ではむしろ明瞭にこの疎外された形態が本質的なものとして定立されており、現存しており、表明されている。それは、剰余価値の真の本性に対立するものとして--独立化され、固定されている。利子生み資本では労働にたいする資本の関係は消し去られている。実際には利子は利潤を前提しており、利潤の一部分でしかない。そして、どのように剰余価値が利子と利潤とのあいだに、種類の違う資本家たちのあいだに、分かれるかということは、実際賃金労働者にとってはまったくどうでもよいのである。利子は明瞭に資本の所産として、分離されて、独立に、資本主義的過程そのものの外に、定立されている。それは資本としての資本に帰属する。それは生産過程にはいって行き、それゆえにそこから出てくる。資本は利子をはらんでいる。資本は利子を生産過程から取り出すのではなくて、それをそのなかに持ちこむのである。利潤のうち利子を越える超過分、資本がはじめて生産過程から受け取り、機能資本としてはじめて生産する剰余価値量は、それだから、即自的資本対自的資本資本としての資本に帰属する価値創造物としての利子とは対比的に、産業利潤(企業者利潤、生産過程が強調されるか流通過程が強調されるかに従って産業的または商業的)としての特殊な姿を受け取るのである。こうして、剰余価値の源泉をいくらかは思い出させる剰余価値の最後の形態もまた、単に疎外された形態においてのみではなく、それとは正反対に考えられた形態において区別され把握されるのであり、したがってまた、ついには資本と剰余価値との本性も、資本主義的生産一般の本性も、まったく神秘化されてしまうのである。利子に対立する産業利潤は、過程外の資本に対立する過程内の資本を、所有としての資本に対立する過程としての資本を、表わしており、したがってまた、資本の単なる人格化としての、資本の単なる所有者としての資本家に対立する機能資本家としての、稼動中の資本の代表者としての資本家を表わしている。こうして、彼は、資本家としての自分自身にたいして、労働する資本家として現われ、したがってまたさらに、単なる所有者としての自分にたいして、労働者として現われる。したがって、過程にたいする剰余価値の関係がなお固持されるかぎりでは、それはまさに、剰余価値の概念そのものが否定されるような形で現われ、行なわれるのである。産業利潤は労働に分解されるとはいえ、他人の、支払われない労働にではなく、賃労働に、資本家のための労賃に、分解されるのであって、これによって資本家は賃金労働者といっしょに一つの範疇に属するのであるが、およそ労賃には非常な相違があるので、ただ、より高い支払を受ける種類の賃労働者に属するだけである。〉 (草稿集⑦459-464頁)

 ここでは私自身のただ個人的な問題意識から興味深いと思った点を指摘しておこう。
  (1)〈利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって、貨幣が「浪費者」に貸される場合、すなわち消費のために貸される場合がそれであるが、この場合は〔ここでは〕無視することにする。とはいえ、同じ場合は、支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる。どちらの場合にもそれは貨幣として貸されるのであって、資本として貸されるのではないが、その所有者にとっては単なる貸すという行為によって資本となる
  ここで興味深いのは、浪費者に貸される場合や支払いをするために貸される貨幣は、貸主にとっては利子生み資本である(だから一定期間後には利子をつけて返済される必要がある)が、資本として貸されるのではない、それはどちらも貨幣として貸されるのだ、と述べていることである。
  これはいわゆる「流通手段の前貸か資本の前貸か」という論争問題に関連して興味深い指摘ではないだろうか。特に支払いするために貸される貨幣は、資本として貸されるのではなく、貨幣として貸されるのだ、ということをどのように理解するかが問題であろう。
  例えば資本の循環を考えた場合、G-W…P…W'-G'で最初のG-Wを資本は信用で行い、あとでW'-G'で回収したGで返済する約束する(そういう手形を切る)。ところが何らかの事情でW'-G'の実現が遅れ、その間に、最初のG-Wのさいに手渡した手形の満期が来たので、その支払いのために、繋ぎの資金として銀行から貸し付けを受ける場合、この場合は資本家はW'-G'で回収したGを今度は銀行に返済することになる。この銀行による貸付は当然銀行にとっては利子生み資本であるが、それは単なる支払いのための貸し付けだから、先のマルクスの説明からいうなら、資本の貸付ではなく単なる貨幣の貸し付けになるといえるが果してどうであろうか、という問題である。
  もしこれが資本の貸し付けではなく、単なる貨幣の貸し付けだというなら、同じ過程を想定してG-WのGを先の場合は資本家は信用取り引きで行なったのであるが、そのGを銀行からの貸し付けで調達したとしよう、この場合も資本家はW'-G'で還流したGを銀行に返済するのである。この最初に銀行から借りたGは、当然、単なる貨幣の貸し付けではなく、資本の貸し付けであろう。しかし貸し付けたGはどちらも資本の循環の始発のGであることに違いはないのではないか、どうして一方は単なる貨幣の貸し付けになり、他方は資本の貸し付けになるのか、という問題である。
  しかしわれわれはマルクスがその前に〈利子は単なる譲渡であることができ、なんら現実の剰余価値を表わす必要はないのであって〉と述べていることを忘れてはいけない。つまりマルクスが〈支払をするために貨幣が貸されるときにも生ずることがありうる〉というの場合、そこで貸された貨幣に対して支払われる利子は剰余価値を表していない場合のことを述べているということである。「支払い」といっても何のための支払いかが問題なのである。先にわれわれが例として紹介した場合は、どちらも銀行から借りた貨幣を返済する時に支払われる利子は剰余価値から支払われることは明らかであり、だからマルクスが上記の抜粋文で述べているケースに合致するとは言えないのではないか、という問題もある。いずれにせよ、ここで結論を出すことは避けておこう。
  (2)〈第二の場合、すなわち割引やさしあたりは売れない商品を担保としての貸付〔の場合には〕、それは、資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものでありうる。この転化過程の促進が--その一般的本質から見た信用におけるように--再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本である
  これも同じ問題意識であるが、ここでは手形割引や売れない商品を担保にした貸し付けの場合は、資本の貸し付けだと述べていることが興味深い。それは〈資本の流通過程に、商品資本の貨幣資本への必然的転化に、関係するものであり〉、〈転化過程の促進が……再生産を促進し、したがってまた剰余価値の生産を促進するかぎりでは、貸された貨幣は資本〉だというのである。ということは(1)で見た場合の最初のG-Wの過程で切った手形を銀行で割り引いてもらい支払いのための現金を先取りする場合は、確かに支払いのための貨幣の貸し付けだが、資本の流通過程を促進するためのものだから資本の貸し付けととらえるべきということになる。果たしてどうであろうか。
  (3)〈これに反して、それがただ債務の支払に役だつだけで、再生産過程を促進することなく、おそらくはそれを不可能にするかまたは狭めるかするかぎりでは、それは単なる支払手段であり、借り手にとってはただ貨幣であるだけであって、貸し手にとっては実際に資本の過程からは独立な資本である。この場合には利子は、収奪に基づく利潤のように、資本主義的生産--剰余価値の生産--そのものからは独立な事実である
  この場合はどういうケースを想定しているのであろうか。資本家の事業が実際には事実上破綻しており、そのためにただ債務だけが残った場合、その債務を支払うための貨幣の貸し付けは、ただ単なる支払い手段であり、そこから得られる利子も、ただ資本家が事業を停止して、自分の資産を投げ打って得たものであり、だから収奪にもとづく利潤のような資本主義的生産から独立した事実だということであろうか。
  以上、個人的な興味で書いてみたが、それ以外にもなかなか面白い部分があるが、あまりにも横道に逸れそうなので、これぐらいにしておこう。

  次に大谷氏の訳注15を紹介しておこう。

  〈15)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。「G_W_G’にはまだ媒介が含まれている。G_G'では,われわれは資本の無概念的な形態,生産関係の最高の展相における〔in der höchsten Potenz〕転倒および物象化をもつのである。」(MEGAII/3.4,S.1460.)〉 (331頁)

  この抜粋そのものには何も付け加える必要ないが、マルクスは大谷氏が抜粋している一つの前のパラグラフで次のような興味深いことを述べている。

  〈こうして、利潤ではなくて、利子が、資本そのものから、したがって単なる資本所有から流出する資本の価値創造物として現われ、したがって、資本によって独自に創造される収入として現われる。それだから、それは俗流経済学者たちによってもこの形態で把握されるのである。この形態では、いっさいの媒介は消え去っており、そして資本の呪物姿態資本呪物の観念とともに完成している。この姿態が必然的に生まれるのは、資本の法律的所有がその経済的所有から切り離されて、利潤の一部分の取得が、利子という名のもとに、生産過程からまったく切り離された資本それ自体または資本所有者のもとに流れこむということによってである。〉 (草稿集⑦416-417頁)

  ここで私が注目したのは、マルクスは貨幣資本家あるいは所有資本家の所有というのは、法律的所有であり、それに対して機能資本家は経済的所有者だと考えていると思えることである。株式会社では、所有資本家は株主に代表され、それに対して株式会社の経営者は機能資本家であるとされていても、それには有力な反論があった。というのは株式会社の経営者には会社の所有権はないのだから、彼らは会社を支配することはできないのではないか、という疑問があったからである。しかし確かに彼らには法律的所有権はないが、しかしマルクスのこの記述によれば、彼らは経済的所有者であり、よってまた支配権を有しているとも考えることができる。つまり株式の所有者は資本の法律的所有者であるが、経済的な所有者とは言い難いこと、それ対して株式企業の一般に経営者といわれる人たちは、法律的所有者ではないが会社(資本)の経済的所有者であり、それにもとづいて労働者を支配し、搾取して利潤を生み出しているわけである。だから経済的所有とは現物資本の実際的な所有者であり支配者なのであり、それに対して株主やその社団法人は、株式会社の法律的所有者でしかないということである。

  次の大谷氏の訳注をみよう。

  〈20)『1861-1863年草稿』には次の記述がある。--「1000ポンド・スターリングの価値のある商品の価値は,資本としては1050ポンド・スターリングである。すなわち,資本はけっして単純な数〔Zahl〕ではない。それは単純な商品ではなくて,力能を高められた〔potenzirt〕商品である。単純な量ではなくて,量関係である。それは,剰余価値としての自分自身にたいする元本,与えられた価値という関係である。」(MEGAII/34,S.1476.)〉 (331頁)

 これは結構長いパラグラフの途中の文章を抜き書きしたものである。だからパラグラフ全体を抜粋しておこう。(大谷氏が抜き書きしている部分を【  】で括っておいた。)

 〈さらに言っておきたい別の事情は、貨幣を借りた産業資本家にとっては利子は費用のなかにはいる、ということである。この費用は、ここでは、前貸しされた価値を意味するものである。たとえば1000ポンドの資本は、1000ポンドの価値の商品としてではなく、資本として彼の生産にはいる。だから、1000ポンドの資本の利子が年間10%だとすれば、それは1100の価値として年生産物のなかにはいる。だから、ここでは次のことがはっきり現われている。すなわち、この価値額(およびそれを表わす諸商品〉は生産過程のなかではじめて資本になるのではなく、資本として生産過程の前提をなしており、したがって単なる資本としてのそれに帰属する剰余価値をすでに体内にもっているのである。借り入れた資本で仕事をする産業資本家にとっては、利子または資本としての資本は彼の費用のなかにはいるのであって、それが資本であるのは、ただ、それが剰余価値を生む(したがってたとえば1000の商品としてのそれが資本としては1100に値する、すなわち1000+[1000/10’],C+C/Xに値する)かぎりでのことである(*)。利子が生産物のなかに現われるかぎりでは、これは確かに単なる商品として計算された前貸資本の価値を越える超過分ではあろうが、しかし資本として計算された商品の価値を越えるものではないであろう。彼はこの剰余価値を支払わなければならないのであって、これは彼の前貸に属し、商品を生産するために彼が行なった支出に属するのである。自分の資本で仕事をする産業資本家はどうかと言えば、彼は資本にたいする利子を自分自身に支払わなければならないのであって、これを前貸しされたものとみなすのである。実際、彼が前貸ししたものは、ただたとえば1000ポンドの価値ある資本だけではなく、資本としての1000ポンドの価値なのであって、この価値は、利子が五%ならば、1050ポンドなのである。これはまた彼にとってはけっして無用な反省でもない。なぜなら、この1000ポンドは、もしそれを彼が生産的に使用しないで貸し出すとすれば、彼に資本として1050をもたらすであろうからである。だから、彼がこの1000ポンドを資本として自分自身に前貸しするかぎりでは、彼は自分に1050ポンドを前貸しするのである。人はだれかに頼って損失を償わなければならないが、自分自身によってそうするであろう! 【1000ポンドの価値のある商品の価値は資本としては1050ポンドである。すなわち、資本はけっして単純な数ではない。それは単純な商品ではなくて自乗された商品である。単純な大きさではなくて大きさの関係である。それは、剰余価値としての自分自身にたいする、元本としての、与えられた価値としての関係である。Cの価値はC(1+[1/n])1(1年を表す)またはC+[C/X]である(**)。等式 a(のx乗)=n においてxが単純な計算方法では把握または展開できないのと同じように、自乗された商品、自乗された貨幣、資本も展開できないのである。利子においては、利潤の、資本によって生産された剰余価値の、一部分が、資本家によって前貸しされたものとして現われるのであるが、それとまったく同様に、農業生産にあっては、もう一つの部分、地代がそういうものとして現われる。それがこの場合には異様に非合理に見えることがより少ないのは、地代がここでは土地の年価格として現われ、こうして土地が商品として生産に関与するからである。「土地の価格」には確かに資本の価格におけるよりも大きな非合理性があるとはいえ、この形態そのものにそれがあるのではない。なぜならば、土地はここではある商品の使用価値として現われ、地代はその商品の価格として現われるからである。(非合理性は、労働の生産物ではないもの--土地--が価格を、したがって貨幣で表わされた価値を、したがってまた価値をもつものとされ、したがって対象化された社会的労働とみなされる、ということにある。) つまり、外的な形態から見れば、どの商品の場合とも同じに、使用価値および交換価値としての二重の表現であり、交換価値は、観念的に価格として、使用価値としての商品が絶対にそうではないものとして、表現されている。これに反して、1000ポンドが1050ポンドに等しいという表現、または50ポンドが1000ポンドの年価格だという表現では、同じものが同じものに、交換価値が交換価値に関係させられているのであって、交換価値がそれ自身とは別なものとしてそれ自身の価格であるとされ、言い換えれば交換価値そのものが貨幣で表現されているのである。〉 (草稿集⑦444-446頁)
 (*)読者から、草稿集のテキストの〈すなわち 1000+[1000/10],C+C/Xに値する〉という部分は、〈1000+[1000×10/100],C+C×[X/100]に 値する〉に訂正すべきで「マルクスの式は間違っている」という指摘があった。ただこれはマルクスの草稿であり、草稿集の編集者の訂正もないことから、そのまま掲載し、掲載者の注(*)として、その指摘を紹介することにした。
  (**) 同様に、〈C(1+[1/n])1(1年を表す)またはC+[C/X] 〉の部分は〈C(1+[n/100])1 (1年を表す)またはC+[C×X/100] 〉に訂正すべき、「マルクスの式は間違っている」との指摘があった。 

  なお注解③によれば、〈収奪利潤Profit upon expropriation〉という語について、〈〔MEGAII/4.2の〕320ページ5行への注解を見よ〉とある。そしてその注解については、次のような紹介がある。

 〈この注解は次のとおり。--「「譲渡利潤〔Profit upon alienation〕」--マルクスはこの表現をジェイムズ・ステユーアトから取った。『1861-1863年草稿』でマルクスは「収奪利潤〔Profit upon expropriation〕」という概念も使った。--MEGAII/3.2,S.334.12-13 und 345.28を見よ。〉

 このように61-63草稿の参照箇所も指示されているので、それらも見ておくことにしよう。

 最初の参考箇所では、マルクスはステュアートの『経済学原理』の一文を引用して次のように述べている。

  〈したがって、この譲渡に基づく利潤は、商品の価格がその実質価値よりも大きいということ、または、商品がその価値よりも高く売られるということ、から生ずるのである。一方の側における利得は、この場合、つねに他方の側における損失を伴う。全体の資財にたいする追加は少しも生じない。利潤すなわち剰余価値は、相対的なものであって、「当事者たちのあいだにおける富の均衡の動揺」に解消される。ステュアート自身は、このようにして剰余価値を説明することができるという考えをしりぞけている。「当事者たちのあいだにおける富の均衡の動揺」についての彼の理論は、それが剰余価値そのものの性質と源泉とにはほとんどふれていないにしても、いろいろな諸階級への、利潤、利子、地代といういろいろな諸項目への、剰余価値の分配を考察するさいに重要であることには変わりがない。〉 (草稿集⑤7-8頁)

 後者の参照箇所では、重農学派の位置づけに関連して次のように述べている。

 〈重農主義体系のその他の人々、とくにテュルゴーの場合には、この外観は完全に消え去り、重農主義体系は、封建社会の枠のなかに浸透して行く新しい資本主義社会として現れる。したがって、これは、封建制度から抜けだしつつある時期のプルジョア社会に対応している。それゆえ、出発点は、主として農業の行なわれている国フランスであり、主として工業、商業および海運の行なわれている国イギリスではない。このイギリスでは、当然、生産物が一般的な社会的な労働の表現--貨幣--としてはじめて価値を受け取り商品になるところの流通に目が向けられる。それゆえ、価値の形態ではなく、価値の大きさと価値増殖が問題であるかぎり、ここでは、譲渡に基づく利潤profit upon expropriation〕、すなわちステュアートが描写した相対的利潤が手近にあるものである。だが、生産部面そのものにおける剰余価値の創造が証明されるべきだとすれば、さしあたり、剰余価値が流通とは独立に現われる労働部門、農業に、引き戻されなければならない。それゆえ、この第一歩は、主として農業が行なわれている国で踏みだされることになったのである。重農学派に類似の考えは、断片的には彼らより前の古い著述家たちに、たとえば部分的にはフランス自体においてポアギュベールに、見いだされる。重農学派によってはじめて、その考えは画期的な体系となる。〉 (同19-20頁)

  これらはまあ紹介するだけでよいであろう。】

  (以下、続く)

 

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