無料ブログはココログ

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月

2019年11月 6日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 今回は、全体のまとめと補完である。

 われわれはまず全体の展開を探るために、とりあえず、順序に沿って、その主な内容を確認していくことから始めよう。

(1)【2】~【8】利子とは何か
  まずマルクスは利子とはそもそも何かという問題から始めている。それは借りた資本で生産する機能資本家が利潤のうち貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるということを確認している。だから借入資本ではなく自分の資本で生産する資本家の場合は、利子率を規定する競争には参加しない。この点でも利子諸範疇は生産的資本それ自体にとっては外的なものであることを示しているというのである。そしてこうしたことは経済学者や経済実務家にとって直接目にすることであることを示すために、トゥックの一文を紹介している。
  次にマルクスは(  )に入れてではあるが、資本は生産過程で機能しているかぎりは、それは再生産過程に属していて、それを別の形で処分することはできないが、それは貨幣資本(monied capital)についても同じことが言えると指摘する。つまりそれは利子を得るためには、常に貸し付けておかなければならないというわけである。その意味では利子率が非常に低い場合は、借入資本も自己資本とほとんど同じ位置に置かれるとしたボウズンキトの主張を肯定し、それを批判したトゥクを批判している。

(2)【9】~【12】総利潤のたんなる量的分割がどうして質的分割に転回するのか
  総利潤の利子と企業利得とへの純粋に量的な分割が、どうして質的な分割に転回するのか、とマルクスは問題を提起し、利子というのは借入資本で生産する生産的資本家にとっては、総利潤(粗利潤)から前もって支払ってしまわなければならないものとして現れ、だからそのあと残る利潤は、彼の機能する限りでの生産物として現れる。そしてこの両者はまったく異なる事情によって規定されているかのように見える。なぜなら利子は平均利子率によって与えられており、生産的資本家にとっては所与のものとして現れ、他方の企業利得は彼自身の機能資本家としての機能によって規定されている。つまり後者は商品の市況や不変資本の節約やあるいは彼自身のずるさの大小にもかかっている。だからこの二つはまったく違った源泉から生じているかに見えるわけである。だから純粋な利潤の量的な分割は、質的な分割に転回するのである。これは何か資本家の主観的な見方というようなものではなく、客観的な事実にもとづいているのである、と説明している。

(3)【13】~【21】質的分割の骨化
  そしてこうして生じた質的分割は、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化する。そうなると生産的資本家によって充用される資本が例え借入資本ではなくても、彼は自分の総利潤を、所有者としての自分に帰属するものとしての利子と、機能資本家としての自分に帰属するものとしての企業利得とに分割するようになる。利子と企業利得とへの分割が、総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのである。それは以下のような理由による。
  第1に、生産的資本家の多数が、さまざまな割合で自己資本と借入資本とで事業をし、その割合が時期によって常に変動するという経験的事実。
  第2にどのようにして総利潤が利子と企業利得とに分化するかというのは、どのようにして総利潤の一部分が利子として骨化し自立化するかという問題に帰着するが、利子は歴史的には資本主義的生産様式とそれに対応する利潤の観念が存在するずっと前から、利子生み資本の伝来の形態のもたらすものとして存在していたからだ。
  第3に、質的には利子は剰余価値であるが、量的にはmonied capitalに関連して現れる。そして利子率がこの関係を確立する。というのは利子率は一般利潤率に依存するが(つまり剰余価値に依存するが)、それ自体として自立的に規定されるからである。利潤率が補足できない存在であるのとは対照的に、利子率は、商品の市場価格とおなじように、確定した、一様な、明白な、常に与えられている割合として現れるからである。そしてそれに対して企業利得は、こうした経験的に与えられる利子を越える超過分として与えられるのである。
  ようするに利子が借り入れ資本であろうがなかろうが、いっさいの資本そのものが利子という名で手にするものという自立的形態に転化するので、利潤のうちのそれを超過する部分は企業利得として現れるのだということである。そこからそれらが生産的資本が生み出す剰余価値に関連したものというより、二つの範疇に固定された剰余価値の諸部分、あるいは二つの項目の剰余価値の諸部分ということだけになる。つまり利子を差し引いた超過分が、企業利得になるという、通常のありふれた観念が生じるのである。

(4)【22】~【24】利子という形態では賃労働に対する対立は消えている
  利子は資本所有そのものがもたらすものだということ、利子生み資本の定在、すなわち資本としての貨幣の定在は資本主義的生産過程の恒常的な前提であり、それは生産手段への転化能力によって、不払労働を支配する力をあたえ、剰余価値の生産を可能ならしめる。だから利子は、自立的な力として、生きた労働に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現なのだが、しかし利子という形態では、こうした賃労働にたいする対立は消えてしまっている。というのは利子生み資本は賃労働に対立するのではなく、機能資本に対立するのであり、賃労働者は機能資本家に対立しているのだからである。

(5)【25】~【29】企業利得は賃労働にではなく利子に対立している。労働監督賃金。
  他方では利子に対立する企業利得も実は賃労働に対立していない。というのは企業利得は利子にだけ対立しているのだからである。なぜなら、第1に、企業利得の高低は利子率に反比例するから。もちろん剰余価値が労賃と反比例の関係にあることは明らかだが、しかしそれが利潤となり、さらにその分割された形態である企業利得となると、それは直接には利子に対してだけ対立物として関係するようになるからである。第2に、企業利得そのものが機能資本家の機能そのもの、その労働に支払われるものとして、つまり労働監督賃金として現れるからである。だから企業利得は、賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働として現れるのである。

(6)【30】~【34】労働監督賃金
  利子が資本-利子という表現においてすでにその特別な存在様式を受け取っていることに対応して、企業利得は、資本の社会的規定性から分離されて、ただ生産過程から生じるものとして現れる。しかし資本から分離されれば生産過程は労働過程一般である。だから産業資本家は、資本の担い手として機能するものですらなく、資本を度外視した機能者であり、労働過程一般の単なる担い手、つまり労働者、賃労働者になる。こうして利子という形態は、資本の社会的規定性を吸い上げてしまい、利潤の他方の部分に、企業利得という、さらに進んで監督賃金という質的な形態を与える。資本家が資本家として果たさなければならない、そしてまた労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する特殊な機能が、たんなる労働諸機能として表される。剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなくて、彼が単に労働をするからであり、だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価として現れる。資本の搾取過程は、たんなる労働過程として現れるので、搾取する労働も搾取される労働も労働としては同じだということになってしまう。
  労働監督賃金という観念はそのよりどころを次のことに見いだす。すなわち、実際には、利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、あるいは逆に、労賃の一部分が利潤の不可欠な構成部分として現れるからである。そして労働監督賃金が純粋に自立して現れると、利潤とも、企業利得とも完全に分離して、ジェネラル・マネジャーの賃金として現れる。

(7)【35】~【49】監督・指揮労働の二重性
  監督および指揮の労働は、直接的生産過程が結合した過程の姿態をとっているところでは必ず発生する。しかしこの労働は二重の性質のものである。一面では、それは多数の個人の協力によって行われる労働では必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する意志に表されねばならないことから生まれる。だからこれはどんな結合的生産様式でも行われなければならない生産的労働である。
  多面では監督労働は、直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで必然的に発生する。だからそれは資本主義的生産様式にも内在的なものである。なぜならそこでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからである(このあとマルクスはこの対立的性質の監督労働について、古代の奴隷制や中世の封建制の下での諸例を上げて説明している。またこうした対立から生じる監督・指揮労働をこの対立的関係そのものを正当化する理由として描き出す擁護論の批判を行っている)。
 資本主義的生産様式の基礎上では、監督・指揮労働の二重性は、不可分に結び合わされ、混ぜ合わされている。

(9) 【50】~【54】協同組合工場と株式企業におけるマネジャー。資本家の生産過程からの消滅
  労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも、マネジャーの監督賃金は、利潤からまったく分離されて現れる。協同組合企業では、監督労働の対立的な性格は消えている。株式企業では、単なるマネジャーが、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行うことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう。
  このことは資本家の労働というのは、それが他人の労働を搾取するという機能の別名ではないかぎりでは、つまりそれが労働、流通、等々の社会的形態から生じるかぎりでは、資本とはかかわりがないこと、もし資本主義的外皮を破ってしまえば、資本とは関わりがないものとして現れるということを意味している。
  しかし資本主義的生産様式の基礎上ではこの対立的な性格そのものは無くすことはできない。そして実際、マネジャーの監督賃金は取得した他人の労働の量と正確に同じであり、この搾取のための資本家にとっての骨折りの程度、あるいはそれを代行するマネジャーの骨折りの程度によって決まってくるのではない。

(10) 【55】~【57】企業利得と監督賃金との混同
  企業利得と監督賃金との混同は、もともと資本家の利潤を資本家自身の労賃として説明しようとしてきた資本の弁護論的な意図のもとに発展させられた。しかし、監督賃金が、一方では商業マネジャーや産業マネジャーからなる一階級が発展し、またすべての賃金と同様にその一定の水準と市場価格を見いだすようになり、そして他のすべての賃金と同じように、生産力の発展とともにすべての熟練労働の賃金と同様に下がってくると、弁護論者たちにとって不愉快な事態に直面することになった。すなわち協同組合や株式企業の発展につれて、企業利得と監督賃金との混同の最後の口実が失われ、資本家の手にする企業利得は、明瞭に不払い労働の取得として現れてくる。

(11) 【58】~【59】監督賃金による新手のいかさま
  資本主義的生産の基礎の上では、監督賃金をもってする新手のいかさまが発展する。というのは、現実のマネジャー以外にもさまさまなただ名ばかりの重役が現れるからである。彼らは一人でさまざまな企業の重役として名を連ね、監督賃金の名目で、株主から自分の儲けを巻き上げている。

  まあ、以上がこの部分(マルクスが間違って「4)」と番号を打った部分、エンゲルス版の第23章)のざっとした内容である。全体のまとめはこれぐらいにしておこう。

  次にこの部分で取り扱われている監督・指揮労働と労働監督賃金という問題について、少し考えをまとめてみたい。監督・指揮労働の二重性そのものは『資本論』第1巻でも出てくるものである。今回の場合も、マルクスは監督・指揮労働を、一面では結合労働から必然的に生じるものとして説明し、その限りでは生産的労働だと述べている。だからこの面では、監督・指揮労働は価値形成労働であり、他の賃労働と同じ側面を持っているわけである。
  他方で、それは対立的な生産様式から必然的に生まれてくるものだとも説明している。そしてこの面ではそれは搾取するための労働であり、だから監督労働は剰余価値から支払われるとしているのである。
  だから資本主義的生産様式のもとでは、監督・指揮労働のこの二つの性質は、結合した形で現れ、混ぜ合わせられて現れてくると述べているのだから、監督・指揮労働の賃金も、やはり二つの側面を持ったものとして現れてくると考えるべきであろう。すなわち、それは生産的労働の側面では、価値を形成し、よってまた剰余価値をも生み出すのであり、その限りでは他の賃労働と同じ、労働力の価値の実現形態としての賃金という側面を持つのである。
  しかし他方の対立的関係から必然的に生じる監督・指揮労働という面では、それは搾取する労働であり、よってそれに支払われる監督労働の賃金は、その搾取の程度に照応するとマルクスは述べている。つまりそれは剰余価値から支払われるのである。資本主義的生産様式における労働監督賃金にはこうした二つの要素が含まれていると考えるべきであろう。しかし同時に、われわれは監督労働にかこつけて、新手のいかさまが生まれてくるというマルクスの指摘にも注意する必要がある。つまり現代の株式企業の重役連中は大なり小なりこうした新手のいかさま達なのであり、彼らは資本家としての本性を監督・指揮の名のもとに隠して、資本家としての企業利得を監督賃金の名目で手にするのである。だから彼らの給与は賃金ではなく、企業利得と考えるべきであろう。
  問題は協同組合企業や株式企業の発展によって、生産過程から資本家が消滅し、生産過程にはただ機能者だけが存在するようになるとマルクスが指摘していることである。そうなるとこの場合の監督賃金は果たしてどうなるのかということになる。協同組合の場合は、対立的性格がなくなるのだから、それは生産的労働の側面だけで評価され、よってその賃金は他の一般の労働者のそれと基本的には変わらないと考えるべきだが、しかしブルジョア的株式企業においては、資本主義的外皮は依然として存在しており、よってそこでの監督・指揮労働には対立的な関係から必然的に生じる契機があることは間違いない。よって、彼らの手にする監督賃金には、彼らの搾取のための労働、その搾取の程度に応じた報償、つまり剰余価値からの支払があることは明らかであろう。ただそれが生産過程に直接結びついたものであればあるほど、生産的労働の側面が強くなり、よってまた直接生産者を監督・指揮するマネジャーの賃金は、他の一般の労働者とそれほどの相違もなくなるのもまた事実である。そして重役になればなるほど彼らは直接の生産過程からますます離れて、ただ対立的な関係に規定されるか、あるいは資本主義的関係そのものから生じるさまざまな資本機能の担い手としての役割の比重がますます増えるのであり、それに応じて彼らの賃金(給与)は剰余価値からの支払、よって企業利得という性格が強まると考えるべきであろう。
 結合的生産様式から必然的に生まれてくる監督・指揮労働というのは、直接的生産過程が結合した過程の姿態をとっているところで必然的に発生するとマルクスは述べている。つまりそれは例えば工場などの直接的な生産過程において、多数の個人の協力によって行われる労働において必然的に過程の関連と統一が一つの指揮する意志によって表される必要から生じるのである。だから現実に例えば工場を監督する職長や工場長のような職種には妥当するが、それ以外の現場を指揮することのほどんどない管理職などには、こうした生産的労働としての側面はほとんどないと考えるべきであろう。またマルクスは労働、流通、等々の社会的形態から生じるかぎりでは、それは資本とは関わりのないものとして現れるとも述べている。流通におけるそうした過程を担う労働というのは、例えば製品を輸送する労働や、製品を保管し管理する労働等が入るであろう。こうした労働もそれらを監督・指揮する労働が必要な場合は、やはりその監督・指揮労働も生産的労働であろう。こうして見た場合、マルクスがいうところの結合的生産様式から必然的に発生する監督・指揮労働というものは極めて限られたものと考える必要があるのではないだろうか。
 それに対して、対立的な関係から必然的に発生する監督・指揮労働というのは、今日の株式会社ではかなり幅広く存在するのではないだろうか。そもそも流通に携わる商業労働の多くは不生産的であり、当然、それを監督・指揮する労働も、けっして生産的とはいえないであろう。いわゆるサラリーマンの労働の多くはほぼこうした不生産的な労働であり、よってそれらを監督・指揮する労働(管理職の労働)もまた不生産的であり、彼らの賃金は利潤、あるいはそこからの分け前に依存している。さらには株式会社の重役連中のほとんどは、監督賃金の名で利潤のうちから株主への配当を横取りし、かすめ取る新手のいかさまであり、彼らの手にする給与は、本質的には企業利得と考えるべきであろう。


◎〔補完〕大谷氏の第23章部分の考察の紹介

  最後に、この章を終わるにあたり、その補完として、大谷氏が新本の第23章該当部分の草稿の翻訳を紹介する前に、この部分の草稿について自身の考察を行なっているので、それを紹介することにしたい。そこには翻訳者だからこそ分かる詳細な草稿の情報が入っており、それはそれで草稿を理解する上で、役立つのではないかと思うからである。ただこの部分は私自身のノートをほぼそのまま紹介することになる。

  大谷氏はその前文で〈草稿の訳文にはいる前に,草稿のこの部分で重要な意味をもっているにもかかわらずエンゲルス版では見えにくくなっている三つのキー概念について,簡単な整理をしておいた。〉(253頁)と述べている。そして三つのキー概念として、〔1 「マネジャー」と「監督指揮労働」と「労働監督賃金」〕という項目を立てている。

  そこで大谷氏は草稿ではエンゲルス版よりはるかに統一的な像が得られるように感じられると次のようにその理由を述べている。

  〈第23章部分で内容的にきわめて重要な事柄の一つに,資本主義的生産の発展そのものによって「指揮労働が資本所有から分離して街頭をさまようまで」になり,「残るのは機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう」という事態の指摘,言い換えれば,資本主義的生産そのものが,「労働監督賃金としての企業利得という観念」の現実的根拠=口実を掘り崩していくことの指摘がある。この点についてマルクスが何度も繰り返して使っているキー概念は,そのような「機能者」たる,現行版での表現での「管理者 〔Dirigent〕」,彼が行なう「労働」,そしてそれにたいする「賃金」,この三つであるが,草稿によると,これらの概念について,エンゲルス版でよりもはるかに統一的な像が得られるように感じられるのである。
 草稿でマルクスは,きわめて多くの語を英語で記している。エンゲルスは,彼の編集原則から,それらのほとんどをドイツ語に置き換えなければならなかった。もちろん彼はこの作業を恣意的に行なったわけではない。……けれどもエンゲルスは,機械的に一つの英語の語句に一つのドイツ語の語句を対応させるということをせず,文脈に応じて適切な訳語を選択した。その結果,草稿では同じ語が使われているところで,いくつかの異なった表現が見られることになり,マルクス自身がそのような言い換えをしているかのような外見が生じている。
 この外見は,内容上の理解に本質的な障害をもたらすものではないが,草稿でのマルクスの用語法にはある種の一貫性があり,それに注目することによって事柄をより直截にとらえることができるように思われるので,さきの三つのキー概念について,ここで,草稿とエンゲルス版との対応を概括的に見ておくことにしたい。〉 (254頁)

●マネジャーについて

  〈(1)まず第1に,エンゲルス版でDirigentとなっている語が,草稿では一貫して英語でmanagerと書かれていることが注目される。現在,現代企業におけるmanagerの経済学的規定が問題になっているが,マルクスは,すでにスミスがこの特殊な「労働者」を発見していることに注意を促したうえで,これを一貫してmanagerと呼んでいたのである。しかも彼は,後出の引用②に見られるように,アリストテレスにおける「エピトロポス」および封建フランスのregisseurと並べて,当時のイギリスでの「マネジャー」をあげ,それらの全部を一括してmanagerと呼んでいる。このことからわかるのは,マルクスがこの表現を,たんに当時のイギリスのいわゆる「マネジャー」にとどまらず,「監督労働」に従事する特殊な「労働者」一般を概括するのに適切なものと見ていたということである。〉 (255頁)

 以下、大谷氏はこの用語を含む文章をすべて拾って紹介しているのであるが、それは後の段落ごとの解読と重複するところがあると思えるので、ここでは摘要を省略する。ただ気づいたことをメモ書きするだけにとどめよう。
 ここでは大谷氏は第23章部分だけではなく、第27章部分からも一つだけ抜粋しているが、とりあえず問題になるのは、このマネージャーに支払われる賃金が果たして利潤からの控除なのか、それとも他の労働力と同様にその労働力の価値に対する対価なのかということである。マルクスは〈利潤からは完全に分離して、熟練労働にたいする労賃というかたちをとることもある〉とか〈利潤からまったく分離されて現れてくる〉等々と述べている。これを果たして如何に理解するかである。もともとは利潤だったのが、そこから分離されて、労賃という仮象をとるということなのか、それともそれはそもそも利潤ではなくなって、労働力の価値に対する対価であり、ただそれが熟練労働に対するものだというだけなのか。それが問題なのである。そこらあたりは大谷氏の引用を詳細に検討してもいま一つマルクスの意図は読み取りきれないところがあるように思える。しかしこの問題については段落ごとの解読のなかでも吟味検討していくことにしたい。

●「監督労働」、「指揮労働」、「監督および指揮労働」、「監督および指揮」

 大谷氏の説明を抜粋しておこう。

〈マルクスは本章部分では(引用は別として),「監督」にあたる語としては,5箇所でOberaufsichtを使っているほかは,その他の19箇所のすべてでsuperintendenceを使っている。「指揮」には,1箇所でLeitung,4箇所でdirectionをあてている(このほか「監督者」にAufseherをあてているところが2箇所ある)。さらに具体的に見ると,4箇所で「監督労働」labour of superintendence,2箇所で「監督および指揮の労働」labour of superintendence und direction,2箇所で「指揮労働」labour of directionと言っており,1箇所ある「監督および指揮の労働〔Arbeit der Oberaufsicht und Leitung〕」および3箇所ある「監督労働〔Arbeit der Oberaufsicht〕」というドイツ語の表現は,それぞれlabour of superintendence und directionおよびlabour of superintendenceに完全に対応するものであると考えることができる。要するに,マルクスはここでは,マネジャーが行なう労働にたいして,labour of superintendence und directionという特徴づけを行なっているのである。〉 (258頁)

  これに対してエンゲルスは英語表現をすべてドイツ語に書き換えるのではなく、場所によって異なった訳語をあてていると指摘している。

●「労働監督賃金」、「監督賃金」

〈(3)最後に,そのような「労働」にたいする「賃金」であるが,これにたいしては,「労働監督賃金〔wages of superintendence of labour〕」が2箇所,「監督賃金〔wages of superintendence〕」が9箇所で用いられている。この「監督〔superintendence〕」とはもちろん「労働の監督」にほかならないから,「監督賃金」は,労働を監督するという労働にたいする賃金,つまり「労働監督賃金」の短縮形にすぎない。エンゲルスはこれらにたいして,最初に「労働監督賃金〔wages of superintendence of labour〕」が出てくるところで,「監督賃金〔すなわち英語で言う〕wages of superintendence of labour」としたのち,5箇所でAufsichtslohn,5箇所でVerwaltungslohn,1箇所でAufsichts-oder Verwaltungslohn(監督賃金または管理賃金)としている。〉 (259頁)

●大谷氏のまとめ

〈以上を概括すると,マルクスは1abour of superintendence and directionを行なう者をmanagerという語で言い表わし,彼が受け取る賃金をwages of superintendence of labourと表現していた,と言うことができる。これらとは異なるいくつかの表現があるにしても,それらはほとんどすべてこの三つの基本的概念の言い換えにすぎず,そこには,マルクスが弁別すべきニュアンスを込めて使い分けた形跡はまったくないと言えるように思われる。〉 (259頁)

〔2 Kommandoという語について〕

〈Commando(commandiren)という語は,一般的には,「指揮」と言っても,Direktion(dirigieren)ないしLeitungよりもはるかに強い意味をもっている。すなわち「支配」の契機を含んでいるのである。
……
  要点は,commandは,なんらかのauthorityによって,すなわちなんらかの力によって絶対的に指揮・支配することを意味し,したがってここでは,なにを,どうすることを命令するのかという,指揮の内容には力点がないのにたいして,directのほうは,なにを使ってどのようにやるべきかを命令することそれ自体を意味し,したがってここでは,なんのauthorityによって,なぜ命令できるのかというところには力点がない,ということである。〉 (260頁)

〔3 労働監督賃金についてのA.スミスの見解〕

  ここではマルクスがスミスが正しく見つけ出したとしているマネジャーの賃金というのは利潤の別名だということを紹介している。

〔4 草稿の当該部分の項目番号について〕

  ここではこの第23章該当部分に、マルクス自身は「4)」と項目番号を打っただけで何の表題も書いていないが、この番号そのものは誤記だったということと、しかし「5)信用。架空資本」、「6)先ブルジョア的なもの」というところでは番号が正しいものになっているのがどうしてか、という問題について大谷氏は一定の推定を行っている。つまり5)では正しい番号になっているのに、どうしてその前の誤記を訂正しなかったのか、ということについて、大谷氏は、〈マルクスはこの第5章では推敲らしいこと(読み返しながら手入れをすること)をほとんどしていないことが想起されるべきであろう。〉(264頁)と指摘している。抜粋ノートの場合は何度も読み返し、抜粋ノートの抜粋ノートまで作っているほどなのに、本文の草稿は一度書いたらそのまま読み返しも手入れもしていないというのは驚くべきことである。

〔5 「3)」における「利子および企業利得」の考察の要点〕

  ここでは大谷氏の『図解・社会経済学』からこの章の内容を示すものを紹介しているが詳しくは省略する。また注1)では有井行夫の『株式会社の正当性と所有理論』を参考文献として次のように紹介している。

  〈1)資本のシステムは,株式会社という自己の新たな形態を生みだし,そこで自己の本性をみずからさらけ出すようになること,これがここでの指摘のかなめである。本書第2巻第7章で見る,エンゲルス版第27章に使われた草稿部分では,さらに進んで,株式会社でのこのさらけ出しが資本のシステムの行方にとってもつ意味が明らかにされる。これらの論点をきわめて厳密に,また全面的に解明したのは,有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』(青木書店,1991年,新版;桜井書店,2011年)である。〉  (266頁、下線は大谷氏よる傍点による強調)

  この有井氏の著書は読んだことがあるが、ノートを録っていないからか、ただ難解な代物だったという印象があるだけで、まったく何も残っていない。一度キッチリ取り組む必要があるのかも知れない。

  以上で大谷氏の考察のノートの紹介は終わりである。

 (完)

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »