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2019年10月

2019年10月30日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-10)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【55】パラグラフからである。


【55】

 /311上/企業利得と監督賃金wages of superintendence〕との混同は,もともとは,利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じた。それはさらに,利潤を,[460]剰余価値として--不払労働として--ではなく,資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって,発展させられた。これにたいしては,ついで社会主義者たちの側から,利潤を,理論的にこれが利潤だと称されたものに,すなわちたんなる監督賃金wages of superintendence〕に,実際に縮小すべきだという要求が出された。そしてこの賃金が一方では,多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて,他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになると,b)それが他方では,独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて,すべての熟練労働の賃金と同様に下がってくると,c) この要求は,理論的なごまかしにたいしてまったく不愉快に相対するようになった。しかし,労働者の側での協同組合の発展,ブルジョアジーの側での株式企業の発展につれて,企業利得と監督賃金〔wages of superintendence〕との混同の最後の口実も足場を取られてしまって,利潤は,実際にも--理論的にはこのことは否定できないものだったのであるが--たんなる剰余価値(なんの等価も支払われていない価値,実現された不払労働)として,現われてきたのであり,こうして,機能資本家は労働を現実に搾取し,そして,彼の搾取の果実は,彼が借りた資本で事業をする場合には,利子と,企業利得すなわち利潤のうち利子を越える超過分とに,分かれる,ということが現われてきたのである。d)|

  ①〔異文〕「もちろん……から」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「対立的な形態から」← 「対立から」
  ③〔異文〕「独自に発展した」← 「この独自な」
  ④〔異文〕「実際に……〔現われて〕きた〔stellte sich praktisch〕」という書きかけが消されている。〔stellte sich...darと書こうとしたのであろう。〕〉 (320-321頁)

 〈企業利得と監督賃金との混同は、もともとは、利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じました。それはさらに、利潤を、剰余価値としてではなく、つまり不払労働としてではなく、資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって、発展させられたのです。これにたいしては、ついで社会主義者たちの側から、それなら利潤を、彼らの言う理論にもと づく利潤と称するものに、すなわちたんなる監督賃金に、実際に縮小すべきだという要求がなされました。そしてこの監督賃金が、一方では、多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて、他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになり、他方では、独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて、すべての熟練労働の賃金と同様に監督賃金も下がってくると、こうした社会主義者の要求は、資本家の弁護論者たちにとってますます不愉快なものになっていったのです。
 しかし、労働者の側での協同組合の発展、あるいはブルジョアジーの側での株式企業の発展につれて、企業利得と監督賃金との混同の最後の口実も足場を取られてしまって、利潤は、実際にも、もちろん理論的にはこのことは否定できないものだったのですが、たんなる剰余価値(なんの等価も支払われていない価値、実現された不払労働)として、現れてきたのです。こうして、機能資本家は労働を現実に搾取し、そして、彼の搾取の果実は、彼が借りた資本で事業をする場合には、利子と、企業利得すなわち利潤のうち利子を越える超過分とに、分かれる、ということが現れてきたのです。〉

 【このパラグラフもやや分かりにくい。だから細かく見て行こう。まず〈企業利得と監督賃金wages of superintendence〕との混同は,もともとは,利潤のうち利子を越える超過分が利子にたいしてとる対立的な形態から生じた〉というのは、利子を越える超過分というのは、企業利得ということであろう。だからこの一文は企業利得と監督賃金との混同は、利子と企業利得とに利潤が分割され、両者が対立的な形態をとることから生じたということであろう。この対立から貨幣資本家(所有資本家)と機能資本家との対立が生まれてくるわけである。企業利得と監督賃金との混同は、当然、利潤が機能資本家にとって企業利得という形態をとらなければ、そもそもその混同も生じようがないのだから、これは当たり前のことを言っているといえなくもない。ただマルクスは〈企業利得と監督賃金との混同〉と述べている。つまり企業利得と監督賃金とは異なる、ということがまず前提としてあり、にもかかわらず両者は混同されるということである。あるいは企業利得なのに、あたかも監督賃金であるかにごまかして説明されるという事実を述べているわけである。もちろん、こうした背景には企業利得は、機能資本家が所有資本家に対立して、彼ら自身が資本の機能を果たすための「労働」をするという外観が生じるところから出てきている。そこから機能資本家の労働に対する対価という観念が生じるわけである。そして機能資本家の労働(機能)とは、労働者を監督・指揮して剰余労働を搾取することである。だから彼らの取得する企業利得は、あたかも彼らの労働、すなわち監督・指揮労働に対する賃金として現れてくるわけである。だから彼らは彼らの取得する企業利得を監督賃金だと説明して正当化し、両者を意図的に混同しようとするわけである。
 そして〈それはさらに,利潤を,剰余価値として--不払労働として--ではなく,資本家自身の労賃として説明しようとする弁護論的な意図によって,発展させられた〉とある。もともと利潤というのは資本家の労賃だというのが資本の弁護論者たちの主張であり、そうした弁護論に、こうした利子と企業利得との分裂は、ますますその根拠を与えて、企業利得と監督賃金との混同をますます発展させられたということであろう。
 しかしこうした主張に対して、社会主義者たちは、それなら彼らのいう監督賃金を、もっと実際の賃金の水準に縮小すべきではないのかと批判したわけである。そして、商業マネージャーや産業マネジャーからなる一つの階級が発展し、彼らの賃金が一定の水準と市場価格を見いだし、労働力の生産費を低下させる一般的発展につれて、熟練労働の賃金も下がってくると、ますますこうした社会主義者の要求を正当化させる状況、資本家にとっては不愉快な状況が、生じてきたわけである。
 さらには協同組合工場の発展や株式企業の発展によって、企業利得と監督賃金との混同の最後の足場も取られてしまったと指摘されている。つまり監督賃金は、明確に機能者として生産過程で監督・指揮を行う労働者に支払われ、資本家は明らかに生産過程に足場をなくし、生産過程には不要な存在になったが故に、彼らの手にする所得は、明確に不払労働の搾取にもとづくものであることも明確になり、だから企業利得と監督賃金との混同もできない状況が生じてきたのだということである。
  このパラグラフの理解としては、これで何とか納得が行くが、しかしすんなり行かない何かが残る気がする。というのは、ここでは企業利得は利潤の分割したものであり、不払労働の取得ということが隠しようもないほど理論的にも実際的にも明確になってくるのだ、というのであるが、ということは少なくとも企業利得を取得する機能資本家が、監督・指揮労働を担う人物とは別に存在することを想定している。つまり企業利得と監督賃金との混同ができないということは、企業利得が企業利得として、また剰余価値からの分割分として明確に存在していることを意味している。
  しかしわれわれは【50】パラグラフでは、〈たんなるマネジャーが,機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的なreal機能を行なうことによって,残るのはただ機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう〉と論じていたことを覚えている。つまり機能資本家は生産過程から消えたという話だったのである。
  ところが今回のパラグラフでは、にも関わらず企業利得を取得する機能資本家は依然とし存在し、ただ彼らの取得するものを監督賃金だと言って誤魔化し、正当化するような意図的な混同は、理論的にも実際的にもできなくなったのだと言われるのである。
  ということは【50】パラグラフで〈資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまう〉と言われていたのは、あくまでも直接的な生産過程のなかにはもやはそこで監督・指揮を担う資本家なるものは、その機能をマネージャーに委嘱することによって不必要になるだけで、しかし生産過程を直接監督・指揮するのではないが、その生産過程を資本の生産過程たらしめる資本家(機能資本家)は、依然として存在しているのであり、彼らは企業全体を資本の統一体として統括する存在としてあり、ただ彼らの取得するものは、まさに利潤の分割された企業利得であり、不払労働の取得するものであることは隠しようもないのであり、それまでも監督賃金だなどという誤魔化しはもはや許されるような状況ではなくなったということであろうか。
  ここらあたりはなかなか明確に書かれているわけではないので、ハッキリしないのであるが、とりあえず、こうした理解でこのパラグラフは終えることにしよう。】


【56】

 /311下/〔原注〕b) ホヂスキン「親方も彼らの職人と同じに労働者である。この性格からすれば彼らの利害は,彼らの職人の利害とまったく同じである。しかし,彼らはまた資本家または資本家の代理人でもあるのであって,この点では彼らの利害は,職人の利害と決定的に反対である。」(27ページ〔安川悦子訳『労働擁護論』,『世界の思想』5,河出書房新社,1966年,381ページ〕。)「この国の職人たち〔journeymen mechanics〕のあいだでの教育の普及は,特殊な知識をもつ人びとの数をふやすことによって,ほとんどすべての親方や雇い主の労働や熟練の価値を,毎日減らしている。」(30ページ〔同前訳,386ページ〕。)『資本の要求にたいする労働の防衛,云々』,ロンドン,1825年。〔原注b)終わり〕

  ①〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/34S1449.29-36)から取られている。〉 (321-322頁)

 【これは原注であり、ほぼ抜粋からなっているので、平易な書き直しは省略した。これは上のパラグラフの〈そしてこの賃金が一方では,多数の商業マネジャーや産業マネジャーからなっている一つの階級が発展するにつれて,他のすべての賃金と同様にその一定の水準とその一定の市場価格とを見いだすようになると〉という部分につけられた原注bである。
 まず最初の引用は、親方というのはマルクスがいうところの〈商業マネジャーや産業マネジャー〉ということであろう。彼らも同じ労働者だとしている。そしてこの点では職人(労働者)と利害は一致しているが、しかし同時に彼らは資本家であるかあるいはその代理人でもあるとしている。そしてこの点で利害は対立し反対だとしているわけである。そしてその次の引用では、職人(つまり労働者)のあいだの教育の普及は、特殊な知識をもつ人々の数を増やし、親方や雇い主の労働や熟練の価値を、毎日減らしていると書かれている。だからこの原注でマルクスが注目しているのは、恐らく後半部分の〈教育の普及は,特殊な知識をもつ人びとの数をふやすことによって,ほとんどすべての親方や雇い主の労働や熟練の価値を,毎日減らしている〉というところではないだろうか。つまり監督賃金が多くのマネージャーが存在するようになり、一般の労働者の賃金と同じように、一定の水準と市場価格を見いだすようになるということの例証としてホヂスキンが紹介されていると考えることができる。

  MEGAの注解によるとこの引用は61-63草稿から取られているというので、その原文を見ておくことにしよう。今回はMEGAの原注も併せて紹介しておく。

  最後にホジスキンは資本関係について次のように言っている。
  「(1)(2)親方も彼らの職人と同様に労働者である。この資格においては彼らの利害は彼らの雇い人の利害とまったく同じである。しかし、彼らはまた資本家でもあるか、または資本家の代理人でもあるのであって、この点では彼らの利害は彼らの労働者の利害とは決定的に相反している。」(同前、27頁〔鈴木訳、72頁〕。)「この国の技術職人のあいだでの教育の広範な普及は、特有な知識をもつ人々の数をふやすことによって、ほとんどすべての親方や雇い主の労働や技能の価値を日に日に低下させている。」(30頁〔鈴木訳、78頁〕)

  (1)〔異文〕マルクスはこのパラグラフの二つの引用文に三本の斜線でバッテンのしるしをつけている。これらの斜線は使用済みしるしかそれとも抹消線か、それを明確に確定することはできない。〔本訳書の原本の1450頁と1453頁とのあいだには、ノート第15冊の890頁の縮刷複写が揺入されていて、編集者による右の三本の斜線の実際を知ることができる。〕
  (2)〔異文〕以下の二つの引用文は「引用ノート」の76頁のなかにある。〉  (草稿集⑦401頁)

  この部分に斜線が引かれていたということは、今回の『資本論』の草稿に利用したからであろう。】


【57】

 〔原注〕c)ミル(J.St)『経済学原理』,第2版,ロンドン,1849年,第1巻,①479ページ。「因習的な障害の一般的な緩和や教育の便宜の増加は,不熟練労働者の賃金を引き上げるのではなく,熟練労働者の賃金を引き下げる傾向がある。」〔末永茂喜訳『経済学原理』,岩波文庫,(2),1960年,368ページ〕〔原注c)終わり〕

  ①〔訂正〕「479」--草稿では「463」と書かれている。〉 (322頁)

 【これも平易な書き下しは不要であろう。これは〈独自に発展した労働力の生産費を低下させる一般的な発展につれて,すべての熟練労働の賃金と同様に下がってくる〉という部分につけられた原注cである。ここでは一般的な教育の普及は、不熟練労働の賃金を引き上げるのではなく、熟練労働の賃金を引き下げる傾向があると指摘されている。これも原注b)と同様、例証としての引用であろう。】


【58】

 〈〔原注〕d) 資本主義的生産の基礎の上では,監督賃金wages of superintendence〕をもってする新手のいかさまが発展する。というのは,現実のマネジヤーのほかにも,たくさんの重役が現われるのであって,彼らは実際には,監督superintendence〕を,株主から巻き上げて自分の儲けにするためのたんなる口実にするからである。これについては,〔デイヴィド・モーリア・エヴァンズ〕『ザ・シティ,またはロンドン実業界の生理学取引所やコーヒー店でのスケッチ』,ロンドン,1845年,のなかにおもしろい話が出ている。〉 (322-323頁)

 〈資本主義的発展の基礎の上では、監督賃金をもってする新手のいかさまが発展します。というのは、現実のマネジャーのほかにも、たんさんの重役が現れるのであって、彼らは実際には、儲けを株主から巻き上げて自分たちの儲けにするために、監督を口実にするからです。これについては、〔デイヴィド・モーリア・エヴァンズ〕『ザ・シティ,またはロンドン実業界の生理学。取引所やコーヒー店でのスケッチ』,ロンドン,1845年,のなかにおもしろい話が出ています。〉

 【これは原注であるが、マルクス自身の文章として書かれており、この原注は、第23章該当部分の草稿の最後まで続いている。だから抜粋部分はそのままに、平易な書き下し文をつけておいた。
 ここでは資本主義的発展の基礎上では、監督賃金をもってする新手ないかさまが発展してくると指摘している。要するに、株式企業では、実際に監督・指揮する現実のマネジャー以外にも、さまざまな重役が登場し、しかも彼らは株主から儲けを横取りするために、自分たちも監督という仕事に携わっていることを口実にするからだというのである。そしてそれに関する面白い話があると次のパラグラフに続けている。】


【59】

 銀行家や商人が,八つも九つもの違った会社の役員会〔Direction〕に参加することによって,どんなに儲けるかは,次の例を見ればわかるであろう。「ティモシー・エイブラハム・カーティス氏が破産したとき,破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項に800-900ポンド・スターリングの年収が記載されていた。カーティス氏はイングランド銀行や東インド会社の役員会〔Courts〕に加わっていた〔be associated mit〕ので,株式公開会社〔public company〕にとっては,彼に重役室〔board room〕でお勤めをしてもらうことはまったく好都合だと考えられたのである。」(同前,82ページ。)「重役〔Directors〕の椅子は,毎週の役員会議に出席するだけで,少なくとも1ポンド・スターリングを生むのである。」(同前,81ページ。)破産裁判所の審理が示しているところでは,この監督賃金wages of superintendence〕は,これらの名目上の重役たち〔Directoren〕によって行なわれる現実の監督〔superintendence〕に反比例している。〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕「破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項にunder the head of directoryships〕800-900ポンド・スターリングの年収」--『ザ・シティ……』では次のようになっている。--「あの紳士が破産をしたとき,破産裁判所は彼が重役職から入手した所得のサンプルを提示したが,それはけっしてわずかな額ではなかった。われわれが記憶しているかぎりでは,この項にあげられていた彼の年収は800-900ポンド・スターリングであった。」
  ②〔注解〕ここでマルクスが言及しているのは,『タイムズ』紙の「破産裁判所」の項に定期的に(たいてい毎日)掲載される,個々の商会,会社などが破産するまでの状況の調査である。〉 (323-324頁)

 〈銀行家や商人が、八つも九つもの違った会社の役員会に参加することによって、どんなに儲けるかは、次の例を見れば分かります。「ティモシー・エイブラハム・カーティス氏が破産したとき,破産裁判所に提出された彼の個人貸借対照表には重役職の項に800-900ポンド・スターリングの年収が記載されていた。カーティス氏はイングランド銀行や東インド会社の役員会に加わっていたので,株式公開会社にとっては,彼に重役室でお勤めをしてもらうことはまったく好都合だと考えられたのである。」(同前,82ページ。)「重役の椅子は,毎週の役員会議に出席するだけで,少なくとも1ポンド・スターリングを生むのである。」(同前,81ページ。)破産裁判所の審理が示しているところでは、この監督賃金は、これらの名目上の重役たちによって行われる現実の監督に反比例しているのです。〉

 【さまざまな会社の重役をかねる銀行家や商人は、監督賃金の名目で、莫大な年収を得ていたということである。だからマルクスは彼らが実際に現実の監督をやることが少なければ少ないほど、つまりその監督がただ名目上のものであれあるほど、彼らの監督賃金なるものは大きく、反比例しているのだと指摘しているわけである。この場合の重役たちの監督賃金というのは明らかに企業利得なのであり、それを彼らは監督賃金の名目で受け取り、株主への配当から横取りするのだというわけである。】

 以上でテキストは終わっている。われわれはもう一度全体を振り返って、この部分でマルクスが何をどのように論じ展開しているのかについて考えてみよう。

  (しかしそれは次回に回すことにする。)

 

2019年10月26日 (土)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-9)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【50】パラグラフからである。


【50】

 /310上/監督賃金wages of superintendence〕は(商業マネジャーにとっても産業マネジャーにとっても),||311上|労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも,利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現われるb)。監督賃金wages of superintendence〕の利潤からの分離は,他の場合には偶然的に現われるが,ここでは恒常的である。協同組合工場の場合には監督労働labour of superintendence〕の対立的な性格はなくなっている。というのは,マネジャーは労働者たちから支払われるのであって,労働者たちに対立して資本を代表するのではないからである。株式企業一[459]般--信用制度とともに発展する--は,機能としてのこの監督労働1abour of superintendence〕を,自己資本であろうと借入資本であろうと資本の占有Besitz〕からますます分離していく傾向がある。それは,ブルジョア社会の発展につれて,たとえば裁判官,行政官,等々の機能が,封建時代にこれらの機能を自分に結びつけていた土地所有から分離していくのとまったく同様である。しかし,一方では,たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕に機能資本家が相対する(また信用制度とともに,このmonied capitalそのものが社会的な性格を受け取り,そしてそれの直接的所有者以外の他の諸人格から貸されるようになる)ことによって,他方では,借入れによってであろうとその他の方法によってであろうとどんな権原によっても資本を占有〔besitzen〕していないたんなるマネジャーが,機能資本家としての機能資本家に属する⑥すべての実質的なreal機能を行なうことによって,残るのはただ機能者だけになり,資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまうのである。/

  ①〔注解〕「協同組合工場」--カール・マルクス『国際労働者協会創立宣言』〈暫定宣言〉(MEGA I/20,S.10/ll〔MEW16,S.11-12〕)を見よ。
  ②〔異文〕「アソシエーションに〔もとづく〕すべての〔企業〕では」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「ますます」mehr und mehr←immer mehr
  ④〔異文〕「占[有]〔Bes[itz]〕から」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕に機能資本家が」← 「たんなる資本の所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕が機能資本家に」← 「たんなる所有者である貨幣資本家〔monied Capitalist〕が機能資本家に」
  ⑥〔異文〕「すべての」alle←der die〉 (314-315頁)

 〈商業マネジャーや産業マネジャーにおいては、彼らの監督賃金は、労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも、利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現れてきます。監督賃金の利潤からの分離は、それ以外の場合は偶然的に現れるだけですが、この二つのマネジャーの場合には恒常的です。協同組合工場の場合には監督労働の対立的な性格はなくなっています。というのは、マネジャーは労働者たちから支払われるのであって、労働者たちに対立して資本を代表するのではないからです。信用制度とともに発展する株式企業一般では、機能としてのこの監督労働を、自己資本であろうと借入資本であろうと資本の占有からますます分離していく傾向があります。それはブルジョア社会の発展につれて、例えば裁判官、行政官、等々の機能が、封建時代にこれらの機能を自分に結びつけていた土地所有から分離していくのとまったく同じです。しかし一方では、たんなる資本の所有者である貨幣資本家に機能資本家が相対して、そして信用制度の発展とともに、このmoneyed capitalそのものが社会的性格を受け取り、その直接所有者以外の他の諸人格(銀行等)からそれが貸されるようになることによって、他方では、借り入れによってであろうがそれ以外の方法によってであろうが、どんな権原によっても資本の占有者ではない単なるマネジャーが、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行うことによって、残るのはただ機能者だけになり、資本家は余計な人格として生産過程から消えてしまうのです。〉

 【ここで大谷氏は「Besitz」や「besitzen」を「占有」と訳している。当初は、この翻訳は果たして適切なのかと疑問を持った。因みに全集版の『資本論』では前者を「所有」、後者を「所有者」と訳しており、こちらの方が適切ではないかと思われたのである。
 しかし今回の翻訳文の元になった『経済志林』に掲載された研究論文には、この「Besitz」について次のような訳者注が付けられていた。

 〈13)「占有〔Besitz〕」--ここでのBesitzを「占有」と訳すべきか,それとも「所有」と訳すべきかについては,議論のありうるところである。しかし,草稿の本稿相当部分では「所有(Eigentum〕」という語は頻出するのにたいして,Besitzないしbesitzen という語は,この前に1箇所, Besitzer des Geldes(「貨幣の所持者」と訳してある)という表現があったほかは,このパラグラフに出てくる2箇所だけであり,しかもここではとくに「資本の占有」に下線がつけられていることから見て, Eigentumと区別してわざわざBesitz と書いたのではないかと推測される。この語をどのように理解するかは,かなり重要かつ微妙であるので,ここでは注意を喚起する意味で,あえて「占有」としておく。しかし,この語を純法律的な概念として理解することには問題があろう。なお,ここでのBesitzは,長谷部訳では「占有」,岡崎訳では「所有」となっている。第21-24章相当部分で,ここ以外にBesitzが出てくるのは,次の箇所だけである(Besitzerはほかにもある)「……つまり,それが彼に引き渡されるのは,資本として,すなわち,運動の中で自分を維持し,機能し終えたのちにその最初の引渡人の手に,ここでは貨幣所持者〔Geldbesitzer〕の手に帰ってくる価値としてである。つまり,ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ,その所有者の占有〔Besitz〕から機能資本家の占有〔Besitz〕に移るのであって,支払われてしまうのでも売られるのでもなしただ貸し付けられる,ただ貸されるだけの価値としてである。」(第1稿,S.289;拙稿「「利子生み資本」(『資本論』第3部第21章)の草稿について」,『経済志林』,第56巻第3号,1988年,35ページ。太字--引用者。)〉 (「「利子と企業者利得」(『資本論』第3部第23章)の草稿について」『経済志林』第57巻第1号1989年)

  この訳者注は今回の新本では無くなっているのであるが、やはりこの注は必要だったのではないかと思う。というのは当初の誤訳ではないか、という私の考えを改めさせ、再考せざるを得なかったのは、この訳者注によるからである。
  大谷氏は〈この語を純法律的な概念として理解することには問題があろう〉と書いているが、ここでマルクスが〈資本の占有Besitz〕〉と述べているのは、明らかに大谷氏が第21章該当個所から引用・紹介している〈機能資本家の占有〔Besitz〕〉を意味していると思える。つまり利子生み資本がそれを所有する貨幣資本家の占有から、機能資本家の占有に一時的に移された結果としての「占有」である。機能資本家はその利子生み資本の所有者になるのではない。一時的な占有者になるだけである。そして今問題になっているのは、その機能資本家の占有からも監督労働がますます分離していく傾向なのである。機能資本家が利子生み資本を占有するということは、それを〈資本として,すなわち,運動の中で自分を維持し,機能〉させて増殖させるためである。それが機能資本家が利子生み資本を占有することの内容なのである。しかし監督労働は、そうした資本の占有からもますます分離していく傾向をもつとマルクスはここでは述べているのである。そしてその分離が完成したマネージャーにおいては、資本の占有からは完全に分離し、如何なる権原によっても資本を占有していないとしているのである。にも関わらず、マネージャーは、機能資本家としての機能資本家に属するすべての実質的な機能を行なうことになるから、資本家は余計な人格になって生産過程から消え失せるというわけである。
  これが最終的なこのパラグラフの私の理解である。しかしその前には、大谷氏の誤訳と決めつけて、次のような批判文を書いていた。参考のために恥を忍んでそれを紹介しておこう。

  以下、《 》の部分は最初のノートである。

  《ここで大谷氏は「Besitz」や「besitzen」を「占有」と訳しているが、果たして適切なのかは疑問である。因みに全集版の『資本論』では前者を「所有」、後者を「所有者」と訳しており、こちらの方が適切と思われるので、書き下し文ではそのようにした(しかし今回その部分は訂正した)。というのは機能資本家は資本を所有していないが占有していることは明らかだからである。それは資本の機能者がその機能を果たすためには不可欠な契機である。労働者も生産手段を所有していないが、彼が労働する場合にはそれらを占有して行うのである。労働力が生産過程で生産諸手段と結びつくということは、労働を担う労働者がその労働の過程で、労働対象や労働手段を占有せずして行うことは不可能である。これは労働過程そのものを振り返れば明らかである。マルクスは〈使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである〉(全集23a233頁)と述べて、労働過程を次のように説明していた。

 〈労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然〔天性〕を変化させる。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。……労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。しかも、それは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。〉 (全集23a頁)

 そして人間が労働するということは、自然のなかから労働対象を取り出しそれを加工することであり、そのために使う労働手段は彼の手足の延長である。だから人間が労働するためには、少なくとも労働の対象や手段を占有せずして不可能なことである。しかしそれを彼が所有しているかどうかは彼が如何なる社会関係の下にあるかによるのである。
 大谷氏はあきらかに所有と占有の意味で混乱しているような気がする。
 ここでは株式企業におけるマネジャーは機能資本家の機能をすべて担うことによって、資本家は余計なものになって生産過程から消えるとしているのである。では資本・賃労働の対立的な性格も消えるというのであろうか。確かにそれは資本所有を代表する利子によってその対立的関係が吸収され、しかも資本の生産過程の彼方においてそれを利子は代表するのであるからその限りではそう言いうる。そしてその結果、直接的な生産過程では、ただ単なる労働過程一般を担う労働者だけになってしまう。そしてその労働過程の一般的な機能である監督・指揮労働の担い手であるマネジャーは、だから利潤から完全に分離してしまうとマルクスはいうのである。
 しかしブルジョア的株式会社においてもやはり資本主義的な関係がなくなるわけではない。あるいは、協同組合工場においても、それをとりまくブルジョア的関係と無縁でいられるわけでもない。だからそれらにおいても資本関係は依然として存在するし影響を与えていると考えねばならない。労働者が搾取されている限り、その労働者を搾取する労働という機能は、監督・指揮労働のなかから消え去ることはないであろう。だからその限りでは、機能資本家の機能を代行するマネジャーが資本の人格的担い手であることには違いはないわけである。
 ただここには資本の所有と機能とが分離し、所有資本家である貨幣資本家に機能資本家が相対するという過程がまずある。そしてさらに信用制度と株式企業の発展とともに、機能資本家そのものが、さらに資本家と単なる機能者とに分裂して、資本家という存在そのものが生産過程から無くなるとマルクスは述べているのである。だから残っているのは単なる機能者だけだという。だからマネジャーは機能資本家ではなく、単なる機能者なのであるが、しかし彼らは機能資本家の機能を代行するのだから、その限りでは資本機能の人格的担い手であることをやめないのである。ただ生産過程そのもののなかでは彼らが資本機能の担い手であるということそのものは生産的活動を合理的に行う上では不必要なものである。しかしこうした株式会社でも、労働者の労働が疎外されたものであることまでもなくなるわけではない。彼らは相変わらず生産手段に支配されているのだから、彼らを支配・統制する対立的な管理・指揮労働の契機がなくなるわけではない。その意味ではマネジャーの対立的な性格は依然として残っているわけである。ただそこらあたりはマルクスによって指摘され、強調されているわけではない。ここらあたりはもっと緻密に考えぬく余地がありそうに思える。》

  以上が最初のノートである。マネージャーが「資本の占有」からも完全に分離しながら、しかし機能資本家の機能資本家としての機能を実質的にすべて担うようになる、という点はなかなか微妙であり、理解が困難なところがある。ここらあたりはマネージャーの賃金が企業利得からも完全に分離して、単なる賃金になるということと表裏一体となっていると思うのだが、なかなか微妙なところがあり、難しいところのように思える。

 ところで、MEGAの注解では「協同組合工場」について、マルクスの『国際労働者協会創立宣言』(全集16,S.11-12)を参照するように指示があるので、われわれもそれを見ておくことにしよう。

 〈しかし、所有の経済学にたいする労働の経済学のいっそう大きな勝利が、まだそのあとに待ちかまえていた。われわれが言うのは、協同組合運動のこと、とくに少数の大胆な「働き手」が外部の援助をうけずに自力で創立した協同組合工場のことである。これらの偉大な社会的実験の価値は、いくら大きく評価しても評価しすぎることはない。それは、議論ではなくて行為によって、次のことを示した。すなわち、近代科学の要請におうじて大規模にいとなまれる生産は、働き手の階級を雇用する主人の階級がいなくてもやっていけるということ、労働手段は、それが果実を生みだすためには、働く人自身にたいする支配の手段、強奪の手段として独占されるにはおよばないということ、賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合労働に席をゆずって消滅すべき運命にあるということ、これである。イギリスで協同組合制度の種子を播いたのは、ロバート・オーエンであった。大陸で労働者が試みた諸実験は、事実上、1848年に--発明されたのではなくて--声高く宣言された諸理論から生まれた実践的な帰結であった。〉 (全集16巻9-10頁)

 このあとマルクスは協同労働がどんなにすぐれていようと、それが部分的なときおりの狭い範囲にとどまるなら、大衆を解放することは決してできないこと、だから労働者階級は政治権力を獲得することが偉大な義務となったのだと指摘し、そしてそのための条件をも労働者階級はもちあわせていること、すなわち彼らは多数なのだ、しかしその多数は団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいうこと、だから世界の労働者は兄弟のきずなで結ばれ、このきずなに励まされ、彼らの解放闘争を互いにしっかり支持し合わなければならないと呼びかけている。万国のプロレタリアート 団結せよ! と。】


【51】

 [458]/310下/〔原注〕b)①②資本主義的生産それ自身が,指揮労働〔labour of direction〕がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにした。だから,この指揮労働〔labour of direction〕が資本家によって行なわれることは無用になった。音楽指揮者〔Musikdirektor〕がオーケストラの楽器の所有者であることは少しも必要ではないし,彼が他の楽士たちの「賃金」になにかのかかわりをもつということも指揮者〔Dirigent〕としての彼の機能には属しない。協同組合工場は,資本家が生産の機能者としては余計になったということを証明しているが,それは,資本家自身が,最高の完成に達すれば,地主を余計だと思うのと同様である。資本家の労働が,資本主義的な過程としての過程から生じるものでなく,したがって資本とともにおのずからなくなるものでないかぎりでは,それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは,つまり,それが労働,流通,等々の社会的形態から生じるかぎりでは,この労働は資本とはかかわりがないのであって,それは,ちょうどこれらの形態そのものが,資本主義的な外被を破ってしまえば,資本とはかかわりがないのとまったく同様である。この労働は,資本家的労働として,資本家の機能として必要だ,と言うならば,その意味するところは,資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離し解放して考えることができない,ということにほかならない。貨幣資本家〔monied Capitalist〕にたいしては生産的資本家は労働者ではあるが,しかし資本家としての,すなわち他人の労働の搾取者としての,労働者である。この労働の賃金wages dieser labour〕は,取得した〔appropriated〕他人の労働の量と正確に同じであり,言い換えればそれは,直接に搾取の程度によって定まるのであって,この搾取のために資本家にとって必要な骨折りの程度degree of exertion〕によって,そして彼がジェネラル・マネジャーにたいして(その骨折りthe exertion〕にたいして)代償として支払いをするかもしれない,その骨折りの程度によって定まるのではないのである。〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕ここから,「この労働は,資本家的労働として,資本家の機能として必要だ,と言うならば,その意味するところは,資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離し解放して考えることができない,ということにほかならない。」という文までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1496.38-1497.20)から,変更を加えて,取られている。
  ②〔異文〕「協同組合工場は,資本が……ということを証明している」という書きかけが消されている。〉 (316-318頁)

 〈〔原注〕b)資本主義的生産それ自身が、指揮労働がまったく資本所有から分離して街頭をさまようまでにしました。だから、この指揮労働が資本家によって行われることは無用になったのです。音楽指揮者がオーケストラの楽器の所有者であることは少しも必要ではありませんし、彼が他の楽士たちの「賃金」になにかかかわりをもつということも指揮者としての彼の機能には属しません。協同組合工場は、資本家が生産の機能者としては余計になったということを証明していますが、それは、資本家自身が、最高の完成に達すれば、地主を余計だと思うのと同じなのです。資本家の労働が、資本主義的な過程としての過程から生じるものではなく、したがって資本とともにおのずからなくなるものではないかぎりでは、それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは、つまり、それが労働、流通、等々の社会的形態から生じる限りでは、この労働は資本とはかかわりがないのです。それはちょうど、これらの形態そのものが、資本主義的な外皮を破ってしまえば、資本とはかかわりがないのとまったく同じなのです。この労働は、資本家的労働として、資本家の機能として必要だ、と言うのでしたら、その意味するところは、資本主義的生産様式の胎内で発展した諸形態を俗物はそれらの対立的な性格から分離して解放して考えることができない、ということにほかなりません。
  貨幣資本家にたいしては生産的資本家は労働者ですが、しかし資本家としての、すなわち他人の労働の搾取者としての、労働者です。だからこの労働の賃金は、取得した他人の労働の量と正確に同じです。言い換えればそれは、直接に搾取の程度によって定まるのであって、この搾取のために資本家にとって必要な骨折りの程度によって、そして彼がジェネラル・マネジャーにたいして(その骨折りにたいして)代償として支払をするかもしれない、その骨折りの程度によって定まるのではないのです。〉

 【これは前パラグラフの〈監督賃金wages of superintendence〕は(商業マネジャーにとっても産業マネジャーにとっても),労働者の協同組合工場でもブルジョア的株式企業でも,利潤(利子とは区別されたものとしての)からまったく分離されて現われる〉という部分につけられた原注bである。この原注は大きくは二つの部分に分かれるように思える。今書き下した文ではその部分に改行を入れてみた。改行より前の部分では、機能資本家の諸機能が実質的に労働者によって担われることによって、機能資本家は単なる機能者だけになって、資本家は生産過程から消えるということの追加的な説明になっている。つまりこの機能者の機能というのは、資本の対立的な性格を取り除いた場合の労働や流通、等々の社会的形態だけから生じる機能であり、だからそれらは資本とはかかわりがないのだと説明されている。ただその説明がやや入り組んでいて文章的にややこしいので、少し細かく見て行くことにしよう。
  まず最初の部分はそれほどややこしくはない。資本主義的生産それ自身が指揮労働を資本の所有から分離してしまったので、これを資本家が担う必要がなくなった。つまり生産過過程において資本家は無用になった。これは協同組合工場で証明されている、というものである。これ自体は分かりやすい。ただ次の説明がややこしい。
  まずマルクスは①〈資本家の労働が,資本主義的な過程としての過程から生じるものでなく〉と述べている。資本家の労働が資本主義的な過程(ここに強調の下線が引かれている)としての過程から生じるものではない、というのは資本主義的な対立的関係から不可避に生じてくるようなものでないなら、ということであろう。次に②〈したがって資本とともにおのずからなくなるものでないかぎりでは〉というのは、資本関係がなくなればそれと同時になくなるような性格のものでないなら、つまり資本関係に固有の対立的な関係から生じるようなものでないなら、ということであろう。③〈それが他人の労働を搾取するという機能の別名でないかぎりでは〉というのも同じ主旨であり、資本の対立的性格から生じる機能を担うような性格の労働でないかぎりでは、という意味である。④〈つまり,それが労働,流通,等々の社会的形態から生じるかぎりでは〉というのは、今度は一転して、そうした資本関係から生じるものではなくて、労働や流通そのものの社会的形態から生じるような労働であるなら、ということであろう。⑤〈この労働は資本とはかかわりがないのであって〉。つまりそうした資本の対立的な関係から生じるものではなく、生産や流通の社会的形態そのものから生じるような労働は資本とは関わりはないというのである。⑥〈それは,ちょうどこれらの形態そのものが,資本主義的な外被を破ってしまえば,資本とはかかわりがないのとまったく同様である〉。ようするに資本主義的な外皮を破ってしまえば、というのは資本主義的生産を克服して新しい社会的な生産様式になれば、ということであろう。そうすればそうした生産や流通の社会的形態そのものから生じる労働は資本と関係がないように、資本主義的生産のなかでもそうした将来の社会的生産の物質的な条件が萌芽として形成されているということであろう。だから必要なのは資本主義的生産のなかで形成されてきた将来の社会的生産の諸契機を資本主義的外皮を打ち破って解放することだ、というわけである。俗物どもはこうした関係を理解できないともいう。
 しかし他方で、改行以下の部分では一転して、貨幣資本家に対しては機能資本家は労働者になるが、しかし他人の労働の搾取者としての労働者だと説明する。だから彼らの賃金は彼らが搾取した程度によって定まるのであって、彼自身の骨折りの程度によるのではない、としているのである。〈この労働の賃金wages dieser labour〕は,取得した〔appropriated〕他人の労働の量と正確に同じであり,言い換えればそれは,直接に搾取の程度によって定まる〉というのは、彼らの賃金は労働者から搾り取った剰余価値の量に正確に同じだと述べていることになる。つまりここでは監督労働賃金は剰余価値と一致するというのであるが、もちろん利子などを差し引いたものと考えなければならないのはいうまでもない。少なくともここでは監督労働の賃金を企業利得と同じもの、つまり利潤の分割されたものだとの判断が下されている。つまりここでは一転して、機能資本家の労働者としての現れそのものは、彼の対立的な性格そのものが無くなることを意味せず、よって彼らの賃金は彼が搾取した労働の量に正確に同じだということ、つまり剰余労働から支払われることが指摘されているのである。
 一見すると前半部分で述べていることと、後半部分で述べていることは矛盾しているように思えなくもない。しかしマルクスが言いたい事は次のようなことではないだろうか。要するに、協同組合工場や株式企業においては労働の社会的な結合が一層発展し、その全体を指揮する労働も一労働者によって、生産過程そのものの必要に応じた形でなされるようになるが、しかしそれが依然として資本家的な対立的な外皮のもとになされている現実は決してなくなるわけではない、ということである。われわれはこうした資本主義的生産様式のもとで発展した生産過程や流通過程の社会的な形態そのものと、その資本主義的な形態とを区別して、前者を後者から解放する必要があることを知るべきだということであろう。

 ところでMEGAの注解によれば、この前半の部分は61-63草稿からとられているらしいので、そのもとの文章を見てみる事にしよう。

 〈資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者〔Captain of industry〕として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。人間が自分自身の自然や外部の自然や他の人間にたいする自分の関係を宗教的な形態で独立化して、そのためにこれらの観念によって支配されるようになれば、人間は聖職者たち彼らの労働とを必要とする。しかし、意識の宗教的形態や意識の諸関係の削減とともに、聖職者のこの労働も社会的生産過程にはいることはなくなる。聖職者とともに聖職者の労働もなくなり、同様に、資本家とともに、彼が資本家として行なうかまたは他の者に行なわせる労働もなくなる。(奴隷制の例を引用文によって詳論すること。)ところで、利潤を監督労働の賃金として労賃に帰着させるこの弁護論は、方向を変えて弁護論者たちに立ち向かうことになる。というのは、イギリスの社会主義者たちは今や正当にも次のように答えたからである。では、君たちは今後はただ普通の支配人の賃金だけを受け取るべきだ。君たちの産業利潤は、名目上ではなく事実上、労働の監督または管理の賃金に帰着させられるべきだ。(もちろん、この愚論とたわごとには、そのあらゆる矛盾をぬきにして相手になることはできない。たとえば、産業利潤は、利子にたいしてであれ、地代にたいしてであれ、逆に上がり下がりする。ところが、労働の監督、すなわち資本家が現実に行なう一定量の労働は、そんなことには関係がないし、労賃の低落にも関係がない。すなわち、この種の労賃は、現実の労賃に逆比例して(というのは、利潤率が剰余価値率によって制約されるかぎりでのことであるが、すべての生産条件が不変のままであるかぎり利潤率はもっぱら剰余価値率によって制約される)上がり下がりするのである。だが、このような「小対立」は弁護論者的俗物の頭のなかでの同一性を解消させはしない。資本家が行なう労働は、彼の支払う労賃が少なかろうと多かろうと、労働者たちの受ける支払が高かろうと低かろうと、絶対に同じままである。それは、一労働日にたいして支払われる労貨が労働そのものの量を変えないのとまったく同様である。それどころではない。というのは、労働者は賃金が高ければより激しく労働するからである。これに反して、資本家の労働は確定した要素であって、それは彼が管理するべき労働量によって質的にも量的にも確定されており、この量にたいする賃金によって定められるのではない。彼が彼の労働を強化することができないのは、労働者が工場で自分の前にあるよりも多くの綿花を加工することができないのと同様である。)そして、さらに彼ら〔イギリスの社会主義者たち〕は次のように言う。管理職は、監督労働は、今ではすべての他の労働能力と同様に市場で買うことができるし、相対的に同様に安価に生産することができ、したがって買うこともできる。管理労働が、自分の資本のであれ他人の資本のであれ資本所有から完全に分離されて、街頭をうろついているということは、資本主義的生産そのものが成就したことである。この管理労働が資本家たちによって行なわれるということは、まったく無用になった。それは、資本から分離されて、産業資本家や貨幣資本家からの見せかけの分離においてではなく、産業経営者などから分離され、あらゆる種類の資本家から分離されて、現実に存在している。最良の証拠は、労働者たち自身によって設立された協同組合工場である。これらの工場は、生産上の機能者としての資本家が労働者たちにとってよけいなものになったのは、ちょうど、資本家自身にとって地主の機能がブルジョア的生産にはよけいなものとして現われるのと同様だ、ということの証拠を提供している。第二に、資本家の労働が、資本主義的過程としての過程から生じ、したがって資本がなくなればおのずからなくなる、というものでないかぎり、それが、他人の労働を搾取するという機能の名称でないかぎり、それが協業や分業などという労働の社会的形態から生ずるのでないかぎり、それは、資本主義的な外皮を脱ぎ去れば、この形態そのものとまったく同様に資本からは独立している。この労働が資本主義的労働として、資本家の機能として、必要だ、と言うことは、次のこと以外のなにごとをも意味してはいない。すなわち、俗物は、資本のふところのなかで発展した労働の社会的生産力や社会的性格を、この資本主義的な形態から、それらの諸契機の疎外、対立、矛盾の形態から、それらの転倒や混同〔quid pro quo〕から、切り離して考えることはできない、ということがそれである。そして、まさにこれこそは、われわれが主張するところなのである。〉 (草稿集⑦472-474頁)

  この抜粋した一文には細かく見ていくとやや納得いかない部分も散見できるが(特に前半部分)、しかし今は61-63草稿そのものを解読することが課題ではないので、詳しい検討はやらないことにする。】


【52】

 [459]/311上/イギリスの協同組合工場の公開の収支計算書によって見れば,これらの工場は私的工場主よりも場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず,その利潤--他の労働者の賃金とまったく同じに投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金wages d. managers〕を引き去ったあとの利潤--は平均利潤よりも大きかった。前に(第3部第1章)見たように,剰余価値を与えられたものと前提すれば,利潤率は,剰余価値にはかかわりのない事情から上昇下落しうるのであって,利潤がより高かったことの原因は,これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった。しかし,ここで興味を引くのは,ここでは平均利潤(=利子・プラス・企業利得)が,実際に,そして明瞭に,監督賃金wages of superintendence〕には全然かかわりのない大きさとして現われているという事情だけである。ここでは利潤が平均利潤よりも大きかったので,企業利得も他の場合よりも大きかったのである。

  ①〔注解〕「イギリスの協同組合工場の公開の収支計算書」--マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。
  ②〔異文〕「これらの工場によって実現された」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「いくらか高い」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「利潤」← 「利潤率」← 「利潤」
  ⑤〔異文〕「私有[工場]での」という書きかけが消されている。
  ⑥〔注解〕「前に(第3部第1章)見たように」--MEGA II/4.2,S.94-118〔MEW25S,80-98〕を見よ。
  ⑦〔異文〕「しかし,……なので」という書きかけが消され,さらに「そのように通常のままだった企業利得が」という書きかけが消されている。〉 (318-319頁)

 〈イギリスの協同組合工場の公開された収支計算書によって見ると、これらの工場は私的な工場主よりも、場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず、その利潤は平均利潤より大きかったのです。その利潤というのは、他の労働者の賃金とまったく同じ投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金を引き去ったあとのものです。前に(第3部第1章)見たように、剰余価値を与えられたものと前提するならば、利潤率は、剰余価値にはかかわりのない事情からも上昇下落しえます。これらのイギリスの協同組合でも計算書によれば、利潤がより高かったことの原因は、不変資本の充用上の節約がより大きかったからということでした。しかしここで興味深いことは、平均利潤(=利子・プラス・企業利得)が、実際に、そして明瞭に、監督賃金には全然かかわりのない大きさとして現れているという事情だけです。ここでは利潤が平均利潤よりも大きかったので、企業利得も他の場合より大きかったのです。〉

 【ここでは協同組合工場では、場合によってはほかよりもずっと高い利子を払っても、利潤が大きかったという事実を指摘し、それはマネジャーの賃金が他の労働者と同じ投下可変資本の一部をなしているからだ、つまりここではマネージャーの賃金は、その生産的な価値形成の要素としてのみ見られ、資本主義的な対立的契機から生まれる監督・指揮労働を担うという側面(この側面からはその賃金は剰余価値から支払われ、その場合は他の一般の労働者より高額の複雑労働に対する賃金として現象する)がないが故に、他の私的工場主の場合より利潤(この場合は恐らく企業利得であろうが)が大きかったのだと言いたいのだと思うが、しかしそれが今一つ明瞭にはなっていない。とにかく細かく見ていけば見ていくほど、ややこしくなって混乱してくるような文章なのである。だからここでは、以下、疑問とすることを箇条書き的に書き出してみることにする。

  (1)まず最初の利潤の説明で、〈利潤--他の労働者の賃金とまったく同じに投下可変資本の一部分をなしているマネジャーの賃金wages d. managers〕を引き去ったあとの利潤〉とあるのであるが、そもそも利潤というのは総商品価値から不変資本部分と可変資本部分をとりさったもの、すなわち剰余価値の転化したものである。だからわざわざこうした説明をするということは、本来はマネージャーの賃金は投下可変資本の一部ではなく、剰余価値からも支払われるべきものだが、しかし協同組合工場ではそれは投下可変資本の一部分を形成しているのだと言いたいがためであろうか。そしてだから残された剰余価値のうち企業の取り分である利子を除いた部分(企業利得)は、本来ならそこから支払われる企業主に支払われる賃金部分(マネージャーの賃金)が不要になるために、他の私的企業よりも大きいのだと言いたいのであろうか。
  (2)そしてこれが〈平均利潤よりも大きかった〉とあるのであるが、そもそも平均利潤を考察している第3部第2篇では、利潤はまだ利子には分裂していないのであり、だから当然、平均利潤より大きいか小さいかは利子を除いた利潤ではなく、利子も加えた総利潤でなければならないが、しかし上記の比較は、〈ずっと高い利子を支払ったにもかかわらず〉と書かれており、つまり高い利子を支払ったあとに残ったものを較べてもというニュアンスで書かれている。もし利子を支払って残ったものというなら、それは企業利得であろう。それが平均的なものより大きかったというなら、それはその限りでは整合性があるが、それなら〈平均利潤よりも大きかった〉というのはおかしなことになる。もうそういう意味なら、「平均的な企業利得より大きかった」というべきであろう。
  (3)次に第3部第1章の例であるが、剰余価値を与えられたものと前提して、変化しうるのは利潤率である。利潤率というのは(m/[c+v])であるが、ここで不変資本の価値を小さくすることによって(それが不変資本充用上の節約である)、利潤率を高くすることが可能だということである。ところが、マルクスは〈利潤がより高かったことの原因は,これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった〉と書いている。つまり利潤率ではなく利潤そのものが大きかったというのである。しかし剰余価値は与えられたものと前提しているなら、利潤も同じと考えるべきであろう。変化するのは率なのだからである。そしてマルクスは問題にしているのは利潤率ではなくて、その前の例をみても、その後の部分をみても、明らかに利潤(あるいは企業利得)そのものの大小なのである。だから第3部第1章の例はこの場合は相応しくないといえるのであるがどうであろうか。恐らくエンゲルスはそうしたことも考えて、この部分を削除したのであろう。
  (4)エンゲルスは〈これらのどの場合にも不変資本の充用上の節約がより大きかったということだった〉という部分の〈これらのどの場合にも〉をその前にある〈これらの工場は私的工場主よりも場合によってはずっと高い利子を支払ったにもかかわらず,その利潤……は平均利潤よりも大きかった〉を直接受けたものとして、イギリスの協同組合工場のどの場合にもと理解して、そのように書いている。しかし果たしてマルクスの草稿を読む限りでは、そのように読めるのであろうか疑問である。平易な書き下し文はエンゲルスの解釈にもとづいて書いたが、しかしここもそれほど簡単には言い得ないような気がする。
 (5)エンゲルスは協同組合工場の収支計算書について、これは〈せいぜい1864年までのものである〉とわざわざ注記している。つまりマルクスが注目している事実は、ある限られたものであり、一般的なものとして論じることはできないと暗に示唆しているわけである。だからマルクスがこうした事実に注目して、その根拠がマネージャーの賃金が協同組合工場では投下可変資本の一部分を形成しているからだなどというのは必ずしも確かな裏付けがあるとは言えないのかもしれない。いずれにせよ、このパラグラフそのものは、いま一つはっきりしたものとは言い難い文章なのである。】


【53】

 同じ事実は,いくつかのブルジョア的株式企業,たとえば株式銀行でも見られる。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払った,等々。a)/

  ①〔注解〕「ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払った」--マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。〉 (319頁)

 〈同じ事実は、いくつかのブルジョア的株式企業、例えば株式銀行でも見られます。例えば、ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクは1863年には30%の年間配当を支払い,ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンは15%,ロンドン・フィナンシャルは15%を支払いました,等々。〉

 【ここでマルクスが〈同じ事実〉と述べているのは、協同組合工場で生じている事実のことであろう。ただ今回の場合は、利潤あるいは企業利得の大きさについてではなく、株式の年間配当の高さを挙げている。恐らくマルクスはブルジョア的株式企業では、利潤のほとんどは株式の配当になると考えているのではないだろうか。つまり企業利得が、ほぼ監督賃金として他の一般の労働者の賃金と同じ可変資本の一部分を構成するだけだから、企業の利潤は、すべて利子として現象するといいたいのかも知れない。だから株式企業の配当の高さは、それを示しているのだ、と。
 しかし果たして年間配当が高いのは、株式企業におけるマネージャーの賃金が投下可変資本の一部分を形成して、剰余価値部分から支払われないからだと言えるのかどうかはこれだけではよく分からないのである。今回の場合は、明らかにブルジョア的株式企業であり、そこでの監督・指揮労働には明らかに対立的な性格から生じるものが含まれている。だからそれらの監督・指揮労働の賃金には、これまでのマルクスの説明では、剰余価値からも支払われる部分も含まれるのではないだろうか。もっともマルクスが例にあげているのは銀行であり、剰余価値を生み出すわけではなく、ただその分け前を得るだけにすぎないのではあるが。
 いずれにせよ、この例が、ただちに協同組合工場の例と〈同じ事実〉を示すものだといえるのかどうかは今一つハッキリしない。マルクスは、ある時には、マネジャーの賃金は他の労働者の賃金と同じであるかに言いながら、別のところではそれは剰余価値から支払われると述べたりしている。だからこのあたりはもう一度全体を見渡して再吟味し精査してみる必要がありそうである。】


【54】

 |311下|〔原注〕a)この利潤のうちから,しかし,マネジャ一の賃金,等々のほかに,預金者に支払われる利子が出て行く。高い利潤は,ここでは,預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明される。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクでは1863年に払込資本は1,000,000ポンド・スターリング,預金は14,540,275ポンド・スターリングだった。ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンでは(1863年に)払込資本は600,000ポンド・スターリング,預金は12,384,173ポンド・スターリングだった,等々。〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕マルクスがここで使った原典はつきとめることができなかった。〉 (319-320頁)

 〈この利潤のうちから、しかし、マネージャーの賃金、等々のほかに、預金者に支払われる利子が出て行きます。高い利潤は、ここでは預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明されます。たとえば,ロンドン・アンド・ウェストミンスター・バンクでは1863年に払込資本は1,000,000ポンド・スターリング,預金は14,540,275ポンド・スターリングだった。ユニオン・バンク・オヴ・ロンドンでは(1863年に)払込資本は600,000ポンド・スターリング,預金は12,384,173ポンド・スターリングだった,等々。〉

 【ここでマルクスは〈この利潤〉と述べているが、今一つよく分からない。というのは【53】パラグラフでは〈年間配当〉が問題になっているだけで、〈利潤〉が問題になっているわけではないからである。もっとも配当率はその時々の企業の業績によって決められるが、それは株主の払い込み資本に対する割合を示している。つまり配当率が高いということは、その元になる利潤が高かったということであろう。だから〈この利潤〉というのは、恐らく上記の銀行の総利潤ということであろう。そしてマルクスはここから〈マネジャ一の賃金〉と〈預金者に支払われる利子〉が差し引かれるとしている。しかしこれもやはり疑問である。なぜなら、後にマルクスは銀行の利潤というのは集めた預金に支払う利子よりも高い利子で貸し付けて、その差額を彼らは利潤として取得するのだと述べているからである。つまり銀行の利潤というのは預金者へ支払う利子をすでに差し引いたものなのである。だから利潤からまた利子を差し引くというのは疑問なのである。またここではマネージャーの賃金も差し引くとしている、とするならその前の協同組合工場とは事情が違うわけである。だから〈同じ事実は,いくつかのブルジョア的株式企業,たとえば株式銀行でも見られる〉という冒頭の一文はおかしなことになってくる。協同組合工場ではマネージャーの賃金は投下可変資本の一部を形成しているとマルクスは指摘して、だから彼らの賃金は利潤から支払われるのではない、だから協同組合工場では他の私的企業より利潤が大きいのだと言っていたからである(これは恐らくマルクスが言いたいことだろうと私が考えたことだが)。だからこれだとまったく〈同じ事実〉とは言えないわけである。
  次に問題なのは、〈高い利潤は,ここでは,預金にたいする払込資本の割合が小さいことから説明される〉という部分である。これは株式銀行への出資金(つまり払込資本)は、銀行が運用する貨幣資本(moneyed capital)に占める割合が少なく、その運用資金の多くは預金によって行われているということである。
  だからここから類推するに、マルクスは恐らく次のように考えたのではないだろうか。銀行の運用資金(moneyed capital)には、一つは払い込み資本があり、もう一つは預金がある。銀行はそれらを同じmoneyed capitalとして運用する、そして運用益としての利子を得るわけである。それが銀行の売り上げだが、しかしそこから必要経費を差し引かねばならない。払い込み資本に対しては、配当率にもとづいて配当分を、運用された預金に対しては、その利子分を、それぞれ差し引く必要がある。しかし配当率は預金の利子率よりも高いのが一般的だから、運用資本(moneyed capital)のうち預金の占める割合が高ければ高いほど、運用益から差し引く経費は少なくて済み、よって利潤は高くなるということではないだろうか。
  だからマルクスが〈この利潤のうちから〉と言っているのは、ほぼ運用益のことを意味しているよう気がする。そこから必要経費として、マルクスは〈マネジャ一の賃金,等々のほかに,預金者に支払われる利子が出て行く〉と述べているが、ここに配当が入っていないのは奇妙だが〈等々〉が入っているからそこに含まれていると考えることもできる。少なくとも運用益から〈マネジャ一の賃金〉が支払われるということは彼らの賃金は他の一般の行員(労働者)の賃金とは区別されたものだという認識があるということであろうか。しかしそれだと協同組合企業と〈同じ事実〉とはいえないことになる。どうもここらあたりのマルクスの論証はちぐはぐになっていて、あやふやとしか言いようがない。】

  (続く)

2019年10月17日 (木)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-8)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【35】パラグラフからである。


【35】

 監督および指揮の労働は,直接的生産過程が社会的に結合した〔combinirt〕過程の姿態をとっていて,自立した生産者たちの孤立した労働としては現われないところでは,どこでも必ず発生する。a) しかし,この労働は二重の性質のものである。一面では,およそ,多数の個人の協力によって行なわれる労働では,必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する〔commandirend〕意志に表わされ,また,ちょうどオーケストラの指揮者〔Direktor〕の場合のように,部分労働に関するのではなく作業場の総過程に関する諸機能に表わされる。これは,どんな結合的生産様式〔combinirte Productionsweise〕でも行なわれなければならないような生産的労働である。/

  ①〔異文〕「ところでは,どこでも」← 「すべての形態のもとでは」← 「諸形態のもとでは」
  ②〔異文〕「この労働は」という書きかけが消され,さらに「それは……労働である」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「統一は」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように,」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「さらに……」という書きかけが消され,さらに「さらに,生産手段の管理〔management〕のいっさいが……に属する」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「すべての社会……でも」という書きかけが消され,さらに「すべての社会的……でも」という書きかけが消されている。〉 (304-305頁)

 〈監督や指揮の労働は、直接的生産過程が社会的に結合した過程の姿をとっていて、自立した生産者たちの孤立した労働としては現れないところでは、どこでも必ず発生します。しかし、この労働は二重の性質のものです。一面では、およそ、多数の個人の協力によって行われる労働では、必然的に過程の関連と統一とは一つの指揮する意志に表され、ちょうどオーケストラの指揮者の場合のように、部分労働に関するのではなく作業場の総過程にかんする諸機能に表されます。これは、どんな結合的生産様式でも行われなければならないような生産的労働です。〉

 【ここでは監督や指揮の労働そのものが問題にされる。そしてこの労働は二重の性質をもっているとして、ここではその一面として、労働が結合労働して行われるあらゆる生産様式に一般的に必然的に生じる労働であって、それはオーケストラの指揮者が演じるのと同じ機能から生じているのだとしているわけである。だからそれによって指揮される他の直接的な生産的労働と同じように生産的労働なのだとの指摘もある。だから監督・指揮労働は直接的な生産過程で物質的な労働を担うわけではなく、ただ一般的な精神的な労働を担うだけだとしても、それは生産的労働の一環であり、だからまた価値を形成する労働でもあるのである。
  マルクスは『学説史』のなかでスミスの主張としてではあるが、次のように論じている。

   第一に、A・スミスは、当然に、売ることができ交換することができる商品に固定され実現される労働のうちに、物質的生産において直接に消費されるすべての知的労働を含めている。すなわち、直接的な手工労働者または機械工だけでなく、監督、技師、支配人、事務員など、要するに、一定の物質的生産部面において、一定の商品を生産するために必要な全人員の労働、つまりその労働の協力(協業)が商品の製造に必要な全人員の労働を含めている。事実上、彼らは、不変資本にその総労働をつけ加え、この額だけ生産物の価値を高めるのである。〉 (全集第26巻Ⅰ 176頁)】


【36】

 |308下|〔原注〕a)監督superintendence〕は,ここでは(農民所有者〔peasant proprietor〕の場合には)まったくなくてもよい。」(J.E,ケアンズ奴隷力』,ロンドン,1862年,48[,49]ページ。)〔原注a)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用での括弧〔パーレン〕をつけた挿入はマルクスによるもの。
  ②〔注解〕「なくてもよい」--草稿ではcompensed withとなっているが,ケアンズの原文ではdispenced withである。〉 (305頁)

 【これは〈監督および指揮の労働は,直接的生産過程が社会的に結合した〔combinirt〕過程の姿態をとっていて,自立した生産者たちの孤立した労働としては現われないところでは,どこでも必ず発生する〉という部分につけられた原注「a)」である。引用だけなので平易な書き下しは省いた。この引用では、監督は不要だと述べていることが紹介されているのであるが、〈ここでは(農民所有者〔peasant proprietor〕の場合には)〉とあるように、農奴のような個々別々に分散した労働の場合には、それら全体を管理し指揮する労働は不要だと述べていると考えられる。】


【37】

 /308上/他面では{商業的部門はまったく別として}このような監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕は,直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで,必然的に発生する。この対立が大きければ大きいほど,この監督労働Arbeit d. Oberaufsicht〕は||309上|それだけ大きな役割を演じる。それゆえ,それは奴隷制度のもとでその最高限に達する。a) しかしそれは必然的に,資本主義的生産様式にも内在的なものである。ここでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからである。それは,ちょうど,専制国家では政府が行なう監督〔Oberaufsicht〕や全面的干渉の労働が二つのものを,すなわちすべての共同体組織〔Gemeinwesen〕の性質から生じる一般的事務の遂行と,民衆にたいする政府の対立から生じる独自な諸機能との両方と,そのうちに含んでいるようなものである。/

  ①〔異文〕「geht」という書きかけが消され,さらに「ist」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「それゆえ,」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「も」--書き加えられている。〉 (305-306頁)

 〈他面では、ただ商業的部門はまったく別ですが、このような監督労働は、直接生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで、必然的に発生します。この対立が大きければ大きいほど、この監督労働はそれだけ大きな役割を演じます。それゆえに、それは奴隷制度のもとでその最高限に達します。しかしそれは必然的に、資本主義的生産様式にも内在的なものです。ここでは生産過程が同時に資本家による労働能力の消費過程だからです。
  それは、ちょうど、専制国家では政府が行う監督や全面的干渉の労働が二つのものを、つまりすべての共同体組織の性質から生じる一般的事務の遂行と、民衆に対する政府の対立から生じる独自な諸機能との両方と、そのうちに含んでいるようなものです。〉

 【このパラグラフの前半部分(改行によってそれを示した)では二重の性質を持つ監督・指揮の労働のもう一つの側面が語られている。つまりそれは直接生産者と生産手段の所有者という対立したすべての生産様式に必然的に発生するものだということである。だからそれは奴隷制度のもとでその最高限に達するのだととも指摘されている。
  このように、先のパラグラフ(【35】)も含めて、ここではマルクスは監督・指揮労働の二重性を、資本主義的生産様式に限定せずに、それ自体はもっと普遍性を持ったものであることを指摘している。つまり結合的生産様式と対立的な生産関係において行なわれる労働であれば、それらは不可避に監督・指揮労働を必要とし、またそれは二重の性質を持つようになるのだとしている。
 改行の後の部分では、こうした監督・指揮の労働の二重の性質というものは、専制国家の政府の行う監督や全面的な干渉の労働が二つの性質をもっているのと同じだと述べている。ここで注目すべきは、マルクスは国家というのは、例えそれが専制国家であろうと、一方で共同体組織の性質から生じる一般的事務の遂行という側面をもっていることを指摘していることである。これはマルクスの国家論を考える上で重要な視点であろう。国家は階級対立の産物であるとか、支配階級の暴力的支配の道具に過ぎないなどという評価は、その限りでは一面的なものと言えるだろう。
  ところで、ここでは監督労働を、これまで論じてきた利子と企業利得とへの利潤の量的分割が質的分割に転化する問題との関連においてではなく、すでに指摘したように、労働過程そのものとその対立的な社会的関係から説明している。だからこれ自体は、すでに『資本論』第1部で論じられたことでもあるのである。今、その部分を参考のために紹介しておこう。

  〈同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。
  すべての比較的大規模な直接に社会的また共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。
  まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に従業する労働者の数の増大につれて彼らの抵抗も大きくなり、したがってまたこの抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に大きくなる。資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなく、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって必然的にされているのである。同様に、賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適当な使用を監督することの必要も増大する。さらにまた、賃金労働者の協業は、ただ単に、彼らを同時に充用する資本の作用である。彼らの諸機能の関連も生産的全体としての彼らの統一も、彼らの外にあるのであり、彼らを集めてひとまとめにしておく資本のうちにあるのである。それゆえ、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意志の力として、彼らに相対するのである。
  それゆえ、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特有な諸形態を展開する。資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産の開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maitres)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとづく植民地農場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費〔faux frais de production〕に数える。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能とを同一視する。資本家は、産業の指揮者だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことである。〉  (全集第23巻a434-436頁)】


【38】

 |309下|〔原注〕a)「労働〔work〕の性質が,労働者〔workman〕を(すなわち奴隷を)広い場所に分散させることを必要とするならば,監督者〔overseer〕の数は,したがってまたこの監督supervisionに必要な労働の費用は,それに比例して増大するであろう。」(ケアンズ,同前,44ページ。)〔原注a)終わり〕/

 ①〔注解〕パーレンでくくられた挿入はマルクスによるもの。〉 (306頁)

  【これは監督労働の他の側面として、直接的生産者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式のもとで必然的に出てくるものだとして説明して、〈それゆえ,それは奴隷制度のもとでその最高限に達する〉という一文につけられた原注である。奴隷を分散させて労働させるなら、それを監督する監督者の数を、それだけ必要とし、よってそのための費用は比例して増大するという事実を指摘している。
  この場合、最初に述べられていた結合的生産様式から不可避に生じる監督労働の側面はほとんどなく、ただ対立的な生産様式から必然的に生じる側面だけが現れていると考えることもできるかもしれない。つまり奴隷労働が結合労働の姿態をとっておらず、ただ分散的に行われる場合でも、対立的な生産様式から必然的に生じる監督労働は不可欠になり、しかも分散的であるがゆえにその労働の費用は大きくなるというわけである。】


【39】

 〈/309上/奴隷制度を目の前に見ている古代の著述家たちにあっては,実際的にそうであったように,理論のなかで監督[456]労働labour of superintendence〕の両面が不可分に結びついているのが見いだされるのであって,それは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合とまったく同様である。他方,すぐ次に一つの例で示すことであるが,現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である。|〉 (306頁)

 〈奴隷制度を目の前に見ていた古代の著述家たちにあっては、実際そうであったように、理論のなかでは監督労働の両面が不可分に結びついているのが見いだされます。それは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合とまったく同じです。他方、すぐ次に一つの例で示しますが、現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは、現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同じです。〉

 【こうした監督や指揮の労働の二重の性質は、しかしそれぞれの対立した生産様式を前提して、それを擁護しようという理論家や経済学者たちには、その区別ができず、ただそれらの二つの性質は不可分に結びついたものとしてしか理解できていないことが指摘されている。以下、数パラグラフではその具体例が示されるのであるが、ここでは資本主義的生産様式を絶対的な生産様式とみなす現代の経済学者たちの場合もまったく同じであって、現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働を奴隷制度の根拠として弁護したように、現代の経済学者たちもそれを、つまり監督労働を賃労働制度の根拠として正当化しようとするのだ、と述べている。
  ここで〈現代の奴隷制度の弁護論者たち〉とあるが、これは当初、〈古代の奴隷制度の弁護論者たち〉としたほうが、前後の文脈から適当ではないかと考えた。というのは、次のパラグラフには〈カルタゴの著述家マゴ〉の諸書なるものが出てくるように、当時にも奴隷制度を弁護する理論家がいたわけだからである。
 しかしこの部分はエンゲルス版では〈近代的奴隷制度の弁護諭者たち〉となっている。つまり〈現代の〉というのは〈弁護者たち〉にかかるのではなく、〈奴隷制度〉を修飾する語なのである。〈近代的奴隷制度〉というのは、マルクスの時代やそれ以前の時代からのアメリカ大陸の奴隷制度を指していると思われる。そうであれば、またこの一文は違ったニュアンスになる。アメリカ大陸の奴隷制度を擁護する弁護論者たちは監督労働を奴隷制度の根拠として弁護したように、現代の経済学者たちも、監督労働を賃労働制度の根拠として正当化しているということであろうか。これはこのあと(【45】パラグラフ)にでてくるオコナの演説をみるとそれがよく分かる。
 ついでに当初疑問とした翻訳上の問題も紹介しておこう。〈現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である〉という一文に出てくる〈根拠として弁護する〉とか〈根拠として正当化しようとする〉という言い方は果たして正しい翻訳といえるのであろうかと考えたのである。というのは、これだと近代的奴隷制度が監督労働を根拠に成立していると主張することにならないか、あるいは賃労働制度も監督労働を根拠に成立していると主張することにならないか、そしてその上で監督労働を擁護したり正当化するというようになるわけである。だからここで〈根拠として〉と訳されているのは、むしろ「理由に」というぐらいに理解すべきではないだろうかと考えたのである。そして先の一文は次のように内容的には理解すべきだと考えた。
 「近代的奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度を理由に弁護したように、現代の経済学者たちも監督労働を賃労働制度を理由に正当化しようとするのである。
 しかしこれはすでに紹介したが、【45】パラグラフのオコナの演説をみると、マルクスが〈監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし〉(310頁)たと述べているように、彼は監督労働を根拠に奴隷制度を正当化しているのであり、テキストの翻訳は、マルクスの意図をその限りでは正確に表しているのではないかと考えるようになったのである。】


【40】

 カトーの時代農場管理人〔Vilicus。〕--
  「農場奴隷経済〔Gutssklavenwirthschaft〕(familia rustica)の頂点には管理人〔Wirthschafter〕(vilicus, von villa)が立っていて,受け払いや売買を行ない,主人の指図を受け取り,主人が不在のときには命令も処罰もする。……管理人はもちろん他の奴隷よりも自由だった。マゴの諸書は,彼に結婚や産児や財産所有を許すことをすすめ,カトーは彼を女管理人と結婚させることをすすめた。管理人だけは,行状がよければ主人から自由を与えられる見込があったであろう。その他の点では全員が一つの共同世帯をなしていた。……どの奴隷も,管理人自身も,自分の必要品を主人の計算で或る期間ごとに固定された率で支給され,それで暮らして行かなければならなかった。……その量は労働を基準にしていたので,たとえば,奴隷よりも軽い労働をする管理人は,奴隷よりもわずかな量を受け取った。」b)/

  ①〔注解〕「農場奴隷経済〔Gutssklavenwirthschaft〕」--モムゼンでは「農場奴隷制〔Gutssclavenschaft〕」となっている。
  ②〔注解〕「マゴの諸書」--カルタゴで隆盛をきわめた奴隷制を基礎とする農業についての,とりわけプランテーションについての,カルタゴの著述家マゴの著作。この著作の成立時期はわかっていない。この著作は,類似の構造をもったローマの農業に適合的だったので,紀元前146年のカルタゴの滅亡後まもなく,ローマの元老院の決定にもとづいてラテン語に翻訳された。この著作から伝存しているのはばらばらのもろもろの断片だけである。
  ③〔注解〕「すすめた」--草稿ではrathenとなっているが,モムゼンではriethenである。〉 (306-307頁)

 【このパラグラフは〈カトーの時代農場管理人〔Vilicus。〕--〉という一文以外は抜粋文なので平易な書き下しは省いた。カトーの時代については、ウィキペディアで調べてみると、次のように説明されていた。

 〈カトーもしくはカト(Cato)は、古代ローマのポルキウス氏族に属するプレブス系の家族名。ポエニ戦争の時期に活躍したマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)とストア派を信奉したマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)が特によく知られている。ポエニ戦争とは、共和政ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。ポエニとは、ラテン語でフェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)を意味する。紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。〉

 つまりカトーの時代というのは、紀元前3世紀から同2世紀の頃を指すと考えられる。その当時のローマの農業奴隷制経済において、管理人(彼も奴隷だった)がどういう扱いを受けていたかが書かれているわけである。彼は主人(奴隷所有者)の指図を受け、彼に代わって命令や処罰もした。彼らは他の奴隷より自由だった。彼らは結婚(同じ女奴隷の管理人との)や産児や財産所有が許される場合もあり、行状がよければ自由を与えられる可能性もあったとされている。しかし彼らも奴隷であることには変わりはなく、管理人も奴隷も全員が一つの共同世帯をなしていたし、むしろ管理人は他の奴隷よりも軽い仕事をしているということで、他の奴隷よりわずかな量を受け取って暮らして行かなければならなかったとしている。】


【41】

 /309下/〔原注〕b)モムゼンローマ史』,第1巻,第2版,1856年,809-810ページ。〔原注b)終わり〕/

  ①〔訂正〕「809-810」--草稿では「808-810」と書かれている。〉 (307頁)

 【これは先の引用の出典を示しているだけである。(モムゼンの『ローマ史』については、名古屋大学出版会から『ローマの歴史』4巻本として抄訳が出ているが、調べていない。)】

【42】

 /309上/アリストテレス:“όγάο δεπότης ούκ έν τώ κτάσθαι τούς δούλους, άλλ’έν τώ  χοήσθαι δουλοις "(というのは,主人(資本家)が主人としての実を示すのは,奴隷の獲得{賃労働を買う力〔Macht〕を与える資本所有}においてではなく,奴隷の利用{生産過程での賃労働者の使用}においてだからである。)“έστι δέ  αύτη ή έπιστήυη ούδέν μέγα  έχουσα σεμνόν”(だが,この知識は重大なものでも高尚なものでもない。)“ά γάο τόν δουλον έπίσται δεί ποιείν  δεί ταύτα έπιτάττειν(すなわち,奴隷が仕方を心得ていなければならないこと,主人はそれを命令することを心得ているべきである。)διό  όσος έξουσία μή αύτούς κακοπαθεν,έπίτοπος λαμβάνει ταύτην,αύτοί δέ πολιτεύονται ήφιλοσούσιν.”(それゆえ,主人が自分で骨を折る必要がない場合には監督者Aufseher〕がこの名誉を引き受けるのであって,主人自身は国務に従事したり哲学したりするのである。)c)/

  ①〔注解〕マルクスは,すでに1858年の一冊のロンドン・ノート〔Exzerpte zur politischen ökonomie.Sommer1858.Original:IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.B 46;MEGA IV/15(未刊)所収予定〕でアリストテレスの『政治学』(De republica)からの抜粋を行なったが,そののちあらためてこの著作の第1部を「ノートVII」,ロンドン,1859-1863年〔Heft VII."Political Economy Criticism of".Begonnen am 28、Februar 1859 bis Mai 1863.Original:IISG,Marx-Engels-Nachlaß,Sign.A 49 u,B 91a;MEGA IV/15(未刊)所収予定〕の抜粋部分のなかで抜粋した(238-241ページ)。この抜粋にマルクスが使ったのは,アドルフ・シュタールの2か国語版,ライプツィヒ,1839年である。シュタールのギリシア語のテキストは,イマヌエル・ベッカー編の標準版(ベルリン,1831年:オックスフォード,1837年)とはごくわずかしか異なっていない。通常マルクスは,原典テキストを1行または数行抜粋し,それからそのあとそれぞれにシュタールのドイツ語訳をつけた。彼はときとしてテキストを要約して短縮し,また部分的には原典のテキストを置き換えたりした。シュタールは自分の章番号およびパラグラフ番号をつけたが,また,ベッカーの章番号をも欄外につけている。マルクスは,引用することを容易にするために自分の抜粋ノートにこれらの番号を取り入れた。
  ②〔注解〕このパラグラフでの引用は,アリストテレス『政治学』1,7,11,シュタール版,1,2,13,を解釈して要約したものである。
  ③〔異文〕「賃労働」← 「労働」〉 (307-309頁)

  〈アリストテレス:というのは、主人(資本家)が主人としての実を示すのは、奴隷の獲得(つまり資本主義的生産様式においては、賃労働を買う力を与える資本所有)においてではなく、奴隷の利用(つまり同じく資本主義的生産様式では生産過程での賃労働の使用)においてですから。しかし、この知識は重大なものでも高尚なものでもありません。すなわち、奴隷が仕方を心得ていなければならないこと、主人はそれを命令することを心得ているべきです。それゆえ、主人が自分で骨を折る必要がない場合には監督者がこの名誉を引き受けるのであって、主人自身は国務に従事したり哲学したりするのです。〉

 【これはアリストテレスの『政治学』からの抜粋のようであるが、注解によればマルクスはそれを要約しているということなので、敢えて平易な書き下しをしてみた。テキストではギリシャ語が使われており、そのあとに恐らくマルクス自身の要約と考えられる文章が括弧のなかに書かれている。ギリシャ語の部分を再現するのは難渋した。ギリシャ語の素養はまったくないし、大谷氏が使っている活字には見つからないものがあったからである。だからギリシャ語の部分は完全とは言い難いことをお断りしておく。
  さて、マルクスはアリストテレスが「主人」と書いているところに括弧で「資本家」と書き加え、「奴隷の獲得」という一文にも同じように、「賃労働を買う力を与える資本所有」と書き、「奴隷の利用」にも「生産過程での賃労働者の使用」と書いている。つまりアリストテレスが奴隷制度について述べていることを資本主義的生産に引き較べて論じているわけである。ただそのあとのアリストテレスを要約した一文には、マルクス自身による書き込みはない。しかし敢えて、その内容を資本主義的生産に引きつけて書いてみると次のようになるのかもしれない。「賃労働者は仕事の内容を心得ていなければならないが、資本家は彼らにそれを命令することを心得なければならない。しかし資本家が自分で骨を折る必要がない場合には、それを管理人に委ねるのであり、管理人はその名誉を引き受けるのである。そして資本家はただ国務に従事したり、哲学することによって(?)、自らが社会的な生産においては余計なものであることを証明するわけである。ただついでに付け加えておくと、マルクスは後に〈とはいえ,だからといって,生産的資本家たちが〔「〕国務や哲学に従事」しているわけではないのであるが〉(312-313頁)とも述べている。】


【43】

 /309下/〔原注〕c)アリスト〔テレス〕『政治学』,ベッカー編,第1巻,第7章〔山本光雄訳『政治学』,『アリストテレス全集』15,岩波書店,1969年,19ページ〕。〔原注c) 終わり〕|

  ①〔注解〕アリスト〔テレス〕『政治学。全8巻』および『経済学』。(政治学。)オックスフォード,1837年。(イマーヌエル・ベッカー編『著作集』第10巻。)--アリストテレスについての前パラグラフへの注解①をも見よ。〉 (309頁)

  【このパラグラフも上記のアリストテレスからの抜粋の典拠を示すだけのものである。
   参考のために『アリストテレス全集』第15巻から該当部分(政治学第1巻第7章)の全文を紹介しておこう。

 〈しかしまた以上のことから、或る人々の言っているように、主人の支配と政治家の支配とが同一であることも、凡ての支配が互いに同じであることも、決してないということも明らかである。何故なら後者は自然によって自由である者たちの支配であるのに、前者は自然によって奴隷である者たちの支配であり、また家政術は独裁政治讐あるのに(何故なら凡ての家は一人のものによって支配されるからである)。国政術〔政治家の術〕は自由で互いに等しき者たちの支配であるからである。むろん、主人は知識をもっているから、それで主人と言われるのではなくて、彼が主人たるの性質をもっているから、そう言われるのである、奴隷も、自由人もやはり同様である。しかし、主人の知識も、奴隷の知識もそれぞれあるであろう、そして奴隷の知識というのは、シュラクサイにいた人が教えていたようなものに他ならぬであろう(何故なら、あの地では或る人が報酬をとって、奴隷たちに日常の奉公の仕事を教えるのを常としていたからである)。そしてこのような仕事の学習はもっと広きにわたることもできょう、例えば料理術とかその他こういう種類の高級な奉公の仕事などが学ばれるべきであろう。何故なら奴隷が異なるに応じて仕事も違い、或る奴隷のは他にくらべてより一層尊重すべき仕事であり、また或る奴隷のはより一層生活に欠き得ない仕事であって、諺にも言うように「奴隷の前に奴隷あり主人の前に主人あり」であるからである。だから、ともかくかような知識は凡て奴隷のもつべきものであるが、しかし主人のは奴隷たちの使用を教える知識なのである。何故なら主人の主人たる所以は奴隷を獲得することのうちにあるのではなくて、奴隷を使用することのうちにあるからである。しかしその知識は大したものでもなければ、感心するほどのものでもない。何故なら奴隷が如何にしてなすべきかを知らなければならぬ仕事を、主人はただ如何に命令すべきかを知っているだけでよいからである。それゆえに自分みずから骨折るに及ぼぬ人はみな、支配人にこの役をまかせ、自分自身は国の政治に与かるか、学問にふけるかするのである。しかし奴隷を獲得する術、もちろん私の言うのは正しく獲得する術のことだが、それは先の二つの術〔すなわち主人の術や奴隷の術〕とは別なものである、何故なら、それは一種の戦争術、あるいは狩猟術だからである。ともかく、以上で奴隷と主人については規定されたとしよう。〉(18-19頁、岩波書店1969年)】

 

【44】

 〈/309上/支配Herrschaft〕は,政治の領域でと同じように,経済の領域でも支配者たち(権力者たち)に支配することの諸機能Functionen des Herrschens〕を課するということ,--この諸機能は経済の領域では,(農場管理人〔vilicus〕が行なう売買のほかに)労働能力を消費することを心得ていることに関連している--,このことを[457]アリストテレスはそっけない言葉で述べてから,さらに付け加えて,この監督労働labour of superintendence〕はたいしたことでもない,それゆえに主人は,十分な資力ができさえすれば,このような骨折りをする「名誉」を監督者〔Aufseher〕に任せてしまう,と言っているのである。|〉 (309頁)

 

 〈支配は、政治の領域でと同じように、経済の領域でも支配者たち(権力者たち)に支配することの諸機能を課すということ、このことをアリストテレスはそっけない言葉で述べています。この諸機能は経済の領域では、農場管理人が行う売買のほかには、労働能力を消費することを心得ていることに関連しています。アリストテレスは、それに加えて、この監督労働はたいしたことでもないが故に、主人(奴隷所有者)は、十分な資力ができさえすれば、そうした骨折りをする「名誉」を監督者に任せてしまう、と言っているのです。〉

 【この一文はアリストテレスの先の引用を直接受けて、それを解説する形で書かれている。支配するということは、政治の領域でも経済の領域でも、支配者たちに支配するという諸機能を課すということ、ただこの支配する諸機能である監督労働はたいしたことでもないこと、だから彼らは十分な資力ができれば、その名誉を監督者に任せてしまうのだ、とアリストテレスは言っている、とマルクスは指摘しているわけである。
 つまり監督・指揮労働の他の側面である対立的な生産様式において、支配者の支配するという諸機能は確かに一つの機能であり、その限りでは労働であるが、しかしそれ自体はたいしたものでなく、だからそれらは支配者が十分な資力を持つようになれば、その支配する機能を監督者に任せてしまうのだとアリストテレスの炯眼は指摘しているとマルクスは見ているわけである。】


【45】

 |310上|すべての結合した〔combinirt〕社会的労働の性質から生じる特殊的機能ではなくて,生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立--奴隷制度のもとでのように労働能力が労働者そのものといっしょに買われるのであろうと,労働者自身が自分の労働能力を売るのであってしたがって彼の生産過程が同時に資本による彼の労働の消費過程として現われるのであろうと--から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだすこと,このことは,1859年12月19日ニューヨークの一集会で,合衆国における奴隷制の一擁護者によって,すなわちオコナなる弁護士によって(「南部に正義を」という旗じるしのもとで)行なわれたのにまさるものはない。「さて,皆さん」,彼は盛んな拍手のなかで言った。「黒人が奴隷というこの状態に委ねられているのは,自然によってなのであります。黒人には体力があり,労働をするだけの力があります。ところが,この体力を創造した自然は,統御するgovern〕ための知能をも,労働しようとする意志をも,彼に与えることを拒んだのであります。(拍手)黒人にはこのどちらも与えられていないのであります! そして彼に労働の意志を与えなかったその自然自身が,この意志を強制する主人を彼に授けたのであり,彼が暮らしてこれた〔in which he was capable of living〕風土〔Clima〕のなかで,彼自身のためにも彼を統御する主人のためにも彼を有用な召使いにする主人を授けたのであります。私は,黒人を自然によっておかれた状態のままにしておくということ,彼に自分を統御する主人を与えるということ,これはけっして不正なことではない,と断言します。……また,黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,--このことも,いささかたりとも彼の権利を奪うものではないのであります。」

  ①〔異文〕「ア[メリカ]」という書きかけが消されている。
  ②〔注解〕チャールズ・オコナ[1859年12月20日の合衆国救済大集会での演説]所収:『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』第5822号,1859年12月20日付,5ページ第6欄,および,8ページ第1欄。〔MEGAはこの引用への注解で,『ニューヨーク・デイリ・トリビュン』によってオコナの演説の「原文」を掲げているが,それはマルクスによる引用とはあちこちで違っている。しかし,マルクスの引用でのそれらの箇所はいずれもマルクスが原文をわざわざ変更する必要があったとは考えられない。この演説は「ノートVII」(ロンドン,1859-1863年)に他人の筆跡で抜粋されているとのことであり(MEGAでは未刊),この抜粋が別の掲載紙からのものであった可能性がある。〕〉 (309-311頁)

 〈すべての結合した社会的労働の性質から生じる特殊的機能ではなくて、生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立--この対立が奴隷制度のもとでのように労働能力が労働者そのものといっしょに買われるのであろうと、労働者自身が自分の労働能力を売るのであって、したがって彼の生産過程が同時に資本による彼の労働の消費過程として現れるのであろうと--から生じる機能である限りでの、監督および指揮の労働を、こうした、直接的生産者の従属から生じる機能を、この関係そのものの正当化理由として描き出し、直接生産者の搾取、すなわち彼の不払労働の取得を、資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描き出すこと、このことは、1859年12月19日にニューヨークの一集会で、合衆国の奴隷制の一擁護者によって、すなわちオコナなる弁護士によって(「南部に正義を」という旗印のもとで)行われたものに勝るものはありません。
  「さて、皆さん」、彼は盛んな拍手のなかで言いました。「黒人が奴隷というこの状態に委ねられているのは,自然によってなのであります。黒人には体力があり,労働をするだけの力があります。ところが,この体力を創造した自然は,統御する〔govern〕ための知能をも,労働しようとする意志をも,彼に与えることを拒んだのであります。(拍手)黒人にはこのどちらも与えられていないのであります! そして彼に労働の意志を与えなかったその自然自身が,この意志を強制する主人を彼に授けたのであり,彼が暮らしてこれた〔in which he was capable of living〕風土〔Clima〕のなかで,彼自身のためにも彼を統御する主人のためにも彼を有用な召使いにする主人を授けたのであります。私は,黒人を自然によっておかれた状態のままにしておくということ,彼に自分を統御する主人を与えるということ,これはけっして不正なことではない,と断言します。……また,黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,--このことも,いささかたりとも彼の権利を奪うものではないのであります。」〉

 【後半のオコナの演説部分は引用なので、そのまま紹介した。このパラグラフ自体はとくに問題とするところはないかも知れないが、【39】パラグラフとの関連で、もう一度、マルクスの説明を詳しく検討してみよう。
  マルクスは〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立……から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕を,……この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだすこと〉と述べている。ここで〈この関係そのものの正当化理由として描きだし〉という場合の〈この関係〉というのは、〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立〉にもとづく生産関係のことであり、奴隷制度や賃労働制度のことと考えるべきであろう。つまり対立的関係から生じる監督・指揮労働を、こうした対立的な関係そのものの正当化理由として描いているとマルクスは述べていると考えることができる。だから【39】パラグラフで〈現代の奴隷制度の弁護論者たちが監督労働labour of superintendence〕を奴隷制度の根拠として弁護することを心得ていることは,現代の経済学者たちがそれを賃労働制度の根拠として正当化しようとするのとまったく同様である〉と述べていることは、監督労働を、奴隷制度や賃労働制度そのものの正当化理由として持ち出し、またそれによって監督労働そのものを擁護するということと考えられるのである。
  実際、オコナの演説の内容を見てみると、彼は奴隷は体力があるが、それを統御する知能や意志もない、自然がそれを与えるのを拒んだ、しかし自然は同時に、この意志を強制する主人を彼に与えたのだ、だから黒人をいまの奴隷のまましておき、彼に自分を統御する主人を与えるということは、決して不正ではない、というのである。マルクスは〈黒人に強制して,お返しとして労働させること,彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること,〉という部分に下線を引いているが、黒人を支配し強制する、そのおかえしとして黒人は労働しなければならず、そして黒人がその労働によって社会にとって有用となるのだから、その代償を主人に提供させることは、黒人の権利を奪うものではない、などと厚顔な理屈を述べている。つまりオコナによれば、黒人は自分にはない知能をもつ主人の強制や監督・指揮があってこそ、その労働によって社会に有用なものとなっているのだから、その代償として主人に儲けを提供するのは当然だ、ということになるわけである。つまり監督・指揮労働によって奴隷制度そのものを正当化しているといえるわけである。
  ついでに指摘しておくと、先のパラグラフでは〈この監督労働labour of superintendence〕はたいしたことでもない,それゆえに主人は,十分な資力ができさえすれば,このような骨折りをする「名誉」を監督者〔Aufseher〕に任せてしまう〉とアリストテレスは言っていると指摘されていた。つまりオコナが黒人奴隷に欠けていて、故に自然が主人にそれを与えたというものは、その意味では〈たいしたことでもない〉のであり、だから主人が自らそれを担うのではなく、南部諸州の農園でも恐らくその機能は奴隷の一部かあるいは雇われの貧乏白人に任されたのではないか。つまりその意味ではオコナがいうところの主人の正当化理由もまったく当てにはならないということでもある。】


【46】

 第1に,賃労働者は,奴隷と同様に,自分に労働をさせ自分を統御する〔governiren〕ために,主人〔master〕をもたなければならない。そして,この支配・隷属関係を前提すれば,賃労働者が,彼自身の労賃を生産したうえに,監督賃金wages of superintendence〕,すなわち自分を支配し監督する労働にたいする代償を生産することを強制され,「彼を統御するため,また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能にたいする正当な代償を主人に提供させること」を強制されるということは,当然のことなのである!

  ①〔異文〕「奴隷が」という書きかけが消されている。|〉 (311-312頁)

 〈このオコナの理屈を奴隷と同様に賃労働にも当てはめて考えてみますと、第1に、賃労働者は、奴隷と同様に、自分に労働をさせて自分を統御するために、主人を持たねばなりません。そして、この支配・隷属関係を前提しますと、賃労働者が、彼自身の労賃を生産したうえに、監督賃金、すなわち自分を支配し監督する労働にたいする代償をも生産することを強制され、「彼を統御するため、また彼自身にとっても彼が暮らす社会にとっても彼を有用にするために使用される労働や才能に対する正当な代償を主人に提供させること」を強制されるということは、当然のことになるわけです。〉

 【ここでは〈生産手段の所有者とたんなる労働能力の所有者との対立……から〔生じる機能〕であるかぎりでの,監督および指揮の労働を,こうした,直接生産者の従属から生じる機能を,この関係そのものの正当化理由として描きだし,直接生産者の搾取,すなわち彼の不払労働の取得を,資本の所有者に当然与えられるべき労賃として描きだ〉したオコナの主張をそのまま賃労働と資本との関係に置き換えて、マルクスは論じている。
  ここで気づくのは、マルクスは賃労働者は、自分自身の労賃を生産したうえに、自分たちを支配し監督する労働にたいする代償を生産することを強制されるとしていることである。つまりこうした監督賃金は賃労働者の必要労働を越える部分、すなわち剰余労働から支払われると述べていることになる。その意味では、それは監督および指揮という機能を果すことに対する、つまりその労働に対する対価ではないということになる。そしてその限りでは監督・指揮労働は賃労働とはいえないことになる。これは以前の利子と企業利得とへの利潤の分割との関連で出てきた、労働監督賃金と観念されるものは企業利得の転化したものであり、その限りでは利潤の分割されたものにその源泉をもっているという理解とその限りでは整合する。
 なおここではマルクスは〈第1に,〉と書き出しているが、「第2に、」以降は見当たらない。】


【47】

 資本の対立的性格から,資本の労働支配から発生するかぎりでの,(だからまた,対立にもとづくすべての生産[458]様式と資本主義的生産様式とに共通であるかぎりでの),監督および指揮の労働labour of superintendence u.direction〕は,資本主義的生産様式の基礎上では,すべての結合した〔combinirt〕社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ,混ぜ合わされている。そのようなエピトロポスέπίτροπος〕,あるいはマネジャー,あるいは(封建時代のフランスでそう呼ばれた)レジスール〔regisseur〕の労賃は,このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば,利潤からは完全に分離して,熟練労働〔skilled labour〕にたいする労賃というかたちをとることもある。とはいえ,だからといって,生産的資本家たちが〔「〕国務や哲学に従事」しているわけではないのであるが。

  ①〔注解〕「エピトロポスギリシャ語〕」--監督者,管理人。〉 (312-313頁)

 〈資本の対立的性格から、資本の労働支配から発生するかぎりでの、(だからまた、対立にもとづくすべての生産様式と資本主義的生産様式とに共通であるかぎりでの)、監督および指揮の労働は、資本主義的生産様式の基礎上では、すべての結合した社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ、混ぜ合わされています。そのようなエピトロポス(ローマの監督者、管理者)、あるいはマネジャー、あるいは(封建時代のフランスでそうよばれた)レジスールの労賃は、このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば、利潤からは完全に分離して、熟練労働にたいする労賃というかたちをとるとこともあります。とはいえ、だからといって、生産的資本家が「国務や哲学に従事」しているわけではないのですが。〉

 【ここではまず最初に、対立的性格からうまれる、監督および指揮の労働は、資本主義的生産様式の基礎上では、結合した社会的労働が個々の個人に特殊的労働として課する生産的な諸機能と直接に不可分に結び合わされ、混ぜ合わされていることが指摘されている。
  次にマルクスは、こうした対立的性格から生じる監督・指揮労働というのは、すべての対立的生産様式に共通のものであるとも述べ、だからそれをローマ時代のエピトロポスや封建時代のフランスでよばれたレジスールという名称をわざわざ挙げている。
  そして最後に、こうした監督・指揮労働は事業規模が大きくなれば、利潤から完全に分離して、熟練労働に対する労賃というかたちをとることもあると述べている。これは【32】パラグラフで、〈労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得〉が、〈純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われるのは〉〈ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるのに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金wages d.general manager〕においてである〉と述べていたことに該当する。
  そしてそもそも〈この点についてさらに立入る〉として始められたのが、【35】パラグラフからの〈監督および指揮の労働〉の二重性の考察の分析からなのである。その意味では、ようやくマルクスが〈さらに立入る〉とした〈この点〉がこれから問題になるともいうことができる。
  資本主義的生産様式の基礎上では、対立的な性格から生じるかぎりでの監督・指揮労働と、結合的な社会的労働から発生する監督・指揮労働とが不可分にからまって現われている。だから彼らの手にする労賃は、一方で対立的性格から生まれる剰余価値の一部分であるといえるのと同時に、結合労働から生まれる生産的な監督・指揮労働に対する労働賃金、つまり労働力に対する対価という側面も合わせてもっているともいえるであろう。だから彼らの労賃は熟練労働に対する労賃というかたちをとるが、そこには労働力に対する対価という側面と、剰余価値の一部を資本から与えられるという側面の二つの、二重の要素があるのではないだろうか。そしてこの二重の要素は、マネジャーの職掌がより上級で高給取りか、より下級か平並みかによってその比重は違ってくるともいえる。もっともここらあたりはもう少しマルクスの展開をあとづけてから考える必要があるとは思うので、とりあえず結論は留保しておこう。】


【48】

 〈①(産業資本家たちではなくて)産業マネジャーたち〔d.industrielen managers〕こそ「われらが工場制度の魂」であるa)とは,すでにユア氏が言っていることである。事業の商業的部分について言えば,商業利潤の性質は前の章で論じたので,ここで述べることは不必要である。/

  ①〔異文〕「(産業資本家たちではなくて)」--書き加えられている。
  ②〔注解〕ユアでは次のようになっている。--「おそらく,工場主の商業的観点を補佐するのにふさわしい見識,知識,廉潔さをもち,産業の専門家として工場主の利益のために尽くす,多数の工場マネジャー〔directeurs de factories〕が存在するであろう。実務に携わるこれらの人びとこそ,われらが工場制度の魂なのである。」〉 (313頁)

 〈産業資本家たちではなくて、産業マネジャーこそ「われらが工場制度の魂」であるとは、すでにユア氏が言っていることです。事業の商業的部分について言えば、商業利潤の性質は前の章で論じたので、ここで述べることは不要です。〉

 【このパラグラフは前パラグラフで〈このようなマネジャーに支払うことができるほど事業が大規模に営まれるようになれば,利潤からは完全に分離して,熟練労働〔skilled labour〕にたいする労賃というかたちをとることもある〉と述べていたことを直接受ける形で〈(産業資本家たちではなくて)産業マネジャーたち〉のことを論じているわけである。ただここでは産業マネジャーについて、ユアが言っていることを紹介しているだけである。ただユア自身は、産業マネジャーは〈工場主の商業的観点を補佐するのにふさわしい見識,知識,廉潔さ〉を持った人物でもあるとしているが、マルクス自身は〈産業の専門家として工場主の利益のために尽くす,多数の工場マネジャー〔directeurs de factories〕が存在する〉というところに注目しているように思える。だから補足的に〈事業の商業的部分について言えば,商業利潤の性質は前の章で論じたので,ここで述べることは不必要である〉と述べているのであろう。マルクスの文章だけを読んでいれば、なぜ、ここで急に〈事業の商業的部分〉が問題になるのか不明であるが、ユアの当該部分の主張を踏まえればそれがよく分かる。
 要するに、マルクスが注目しているのは、産業マネジャーこそ工場制度の魂だとユアが指摘していることである。彼らこそ産業に精通し、そこで労働を監督し指揮を担当して、工場制度を工場制度たらしめている者たちだというわけである。その限りでは産業マネージャーは工場制度になくてはならないものであり、生産的な労働を担っていると言えるわけである。】


【49】

 |310下|〔原注〕a) A.ユア,医学博士,『工場哲学』,パリ,1836年,第1巻,68ページ。そこでは,工場主たちのこのピンダロス(同ページ,およびそれ以降)は同時に工場主たちに,彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えている。〔原注a)終わり〕/

①〔注解〕ユアでは次のようになっている。--「この種の教育は,もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが,それが間違いであることは,経験が証明している。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S,2036.1-13 und 2162.24-25)を見よ。
②〔異文〕「……までさえも……ない〔nicht soviel〕」という書きかけが消されている。〉 (313-314頁)

 〈そこでは、工場主たちのこのピンダロスは同時に工場主たちに、彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えています。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフのユアの〈「われらが工場制度の魂」である〉という一文につけられた原注であり、その典拠を示すものであるが、同時にマルクス自身の補足的な文章が付け加えられているので、一応、書き下し文をつけておいた。指摘するまでもないが、ここでマルクスが〈そこでは〉と述べているのは、ユアの著書『工場哲学』では、という意味である。その著書で、ユアは、工場主たちは自分たちが使ってる機構、つまり工場制度については、まったく無知であることを証明している、というのである。
  MEGAの注解では61-63草稿を参照せよとあるので、とりあえずそれを見ておくことにしよう(MEGAの注解等は略)。

 ユア氏自身、「イギリスの工場主は、どんなに知識があっても」、彼らは、「事業の生産活動の領域については、商業活動の領域ほどには」(66ページ)明るくないことを認めている。
 67ページの同所でユアは、「すぐれた機械の構造」について工場主が「無知」であることを語っている。(67ページ。)(そのため彼らは「支配人」に依存する。)ちなみにいえば、これらの「支配人」は、工場の「所有主と異なり、ユアのことばによれば、「われらが工場制度の魂」(68ページ)である。
 さきほどは、ユアは、工場労働者は応用されている機械学や物理学の本質に深い洞察を得る、とわれわれに語ったのであるが、今度、工場主について語るところでは、「この種の教育は、もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが、それがまちがいであることは、経験が証明している」(68ページ)と告げるのである。
 彼は、「工場主の商業的な観点」(67ページ)(技術的な観点と対立する)(六七ページ)について、非常に正確に語っている。〉 (草稿集⑨226-227頁)

 この61-63草稿を見ると、MEGAの注釈は〈工場主たちのこのピンダロス(同ページ,およびそれ以降)は同時に工場主たちに,彼らの大部分は自分たちが使っている機構について少しも理解していないという証明書を与えている〉部分に対して、〈この種の教育は,もろもろの機械のまっただなかで身につけるのがいちばんやさしいと考えるかもしれないが,それが間違いであることは,経験が証明している。」〉という部分を〈ユアでは次のようになっている〉として紹介しているのであるが、しかしむしろユアの主張で紹介すべきはマルクスが〈イギリスの工場主は、どんなに知識があっても」、彼らは、「事業の生産活動の領域については、商業活動の領域ほどには」(66ページ)明るくない〉という部分か、あるいは〈67ページの同所でユアは、「すぐれた機械の構造」について工場主が「無知」であることを語っている〉と述べている部分を紹介すべきではないだろうか。
 なお〈ピンダロス〉については、草稿集⑨の人名検索では次のような説明がある。

 〈ピンダロス(ピンダ ル) Pindaros(Pindar) (前520ごろ~前446ごろ)ギリシアの叙情詩人〉(草稿集⑨90-91頁)

  そして次のような一文がある。

 〈では、工場制度の抒情詩人ピンダロスのユア氏(『工場哲学』)が語る機械制作業場の本質をみるとしよう。〉 (草稿集⑨219頁)

 この後者の引用文から類推できるのは、マルクスが〈工場主たちのこのピンダロス〉と述べているのはユア自身のことを少し皮肉を込めて指していると考えることができる。】

  (続く)

 

2019年10月 5日 (土)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-7)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【31】パラグラフからである。


【31】

 |308上|ここで資本家の意識のなかでは,以前に(第3部第2章で)示唆した,平均利潤への均等化におけるもろもろの補償理由の場合とまったく同じことが行なわれる。剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が,資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて,利潤そのものの発生根拠Entstehungsgründe〕にされ,その(主観的な)正当化理由Rechtfertigungsgründe〕にされるのである。

  ①〔注解〕「以前に(第3部第2章で)」--MEGA II/4.2,S、278.25-281.6〔MEW25,S,218-220〕を見よ。〉 (301頁)

 〈ここで資本家の意識のなかでは、以前に(第3部第2章で)示唆したように、平均利潤への均等化におけるもろもろの補償理由の場合とまったく同じことが行われます。剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が、資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて、利潤そのものの発生根拠にされ、その(主観的な)正当化理由にされるのです。〉

 【〈ここで〉というのは、機能資本家の機能が資本の性格を捨象されて、たんなる機能者になり、賃労働になるということ、そこから搾取する労働も搾取される労働も、労働として同じだと主張されることになるわけである。こうした状態において、資本の意識のなかで、ねじ曲げられて、それが利潤の分岐したものということが忘れられ、搾取する労働に対する正当な賃金であるという、正当化の主張が現れてくるということであろう。
 マルクスは第3部第2章の補償理由について述べているので、われわもそれをもう一度、振り返ってみよう。(全集第25巻a261-264)
 マルクスが「補償理由」として述べていることは、資本主義的生産が発展すると一般的利潤率が形成され、商品の市場価格はその価値にではなく、生産価格に規定されるようになる。これは資本家たちが総利潤をそれぞれの資本の大きさに比例して分け合うということである。そこから資本家たちの間ではさまざまな打算が行われるようになる。回転が比較的遅いために利潤が逃げていく資本はそれを埋め合わせるように価格を設定するとか、危険が高い資本にはその保険費用を価格に上乗せするとか、等々。こうしたことから、彼らは、そうした補償理由が可能なのは、ただ単に、共同の獲物である総剰余価値にたいしてそれぞれの資本に比例して同等な大きさの請求権をもっているということによることを忘れ、〈彼らにとっては、むしろ、利潤の補償理由は、総剰余価値の分けまえを平均するのではなくて利潤そのものを創造するように見えるのである。というのは、利潤は、ただ単に、なにかある動機によって商品の費用価格につけ加えられるものから生ずるように見えるからである。〉(全集第25巻a264頁)。マルクスが〈剰余価値の分配に規定的にはいりこむこれらの補償理由が,資本家的な考え方のなかでねじ曲げられて,利潤そのものの発生根拠Entstehungsgründe〕にされ,その(主観的な)正当化理由Rechtfertigungsgründe〕にされる〉と述べているのは、こうしたことである。
 そしてそうした補償理由と同じことが、今回(労働監督賃金)の場合もまったく同じように行われるのだということである。それは次のパラグラフから説明される。】


【32】

 労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得という観念は利子にたいする企業利得の対立から生じるのであるが,この観念はそれ以上のよりどころを次のことのうちに見いだす。すなわち,実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし,また現実に区分されてもいるということ,またはむしろ逆に,労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では,利潤の不可欠な構成部分として現われるということがそれである。この部分が純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われるのは,すでにA.スミスが正しく見つけだしたように,ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるのに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金wages d.generalmanager〕においてである。

  ①〔注解〕アダム・スミス『諸国民の富……』,パリ,1802年,第1巻,94-97ページ(Adam Smith,"An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations",Cannan-Edition,vol.1,London 1950,pp,50-51.大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,Ⅰ,岩波書店,1969年,132-133ページ〕。--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.2,S,370-373)を見よ。
 ②〔異文〕「それらの……の結果……の事業部門」という書きかけが消されている。〉 (301-302頁)

 〈労働監督賃金としての企業利得という観念は、利子に対する企業利得の対立から生じるのですが、この観念はそれ以上のよりどころを次のことのうちに見いだします。すなわち、実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、また現実に区分されてもいること、またむしろ逆に、労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では、利潤の不可欠な構成部分として現れるということがそれなのです。この部分が純粋に、自立して、一方では利潤(利子と企業利得との合計としての)から、他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分からも完全に分離されて現れるのは、すでにA.スミスが正しく見つけだしたように、ジェネラル・マネジャーに特別な労賃を与えるに十分な分業を許すだけの規模などをもつ事業部門のジェネラル・マネジャーの賃金においてです。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフで説明されている一般的利潤率にもとづく生産価格における補償理由と同じことが、今回の場合も行われるのだ、ということの説明と思われるのであるが、いま一つよくわからない。そもそも補償理由というのは、総利潤(総剰余価値)を資本の大きさに比例して分け合うことから、さまざまな補償理由をあげて、その分け前を分配し合うことから来るのであるが、それが資本家たちには補償理由そのものが利潤を創造するように思えるということであった。
 同じことが行われるのだから、利潤が分割されて利子と企業利得になるのだが、それらが本来は利潤の分割されたものということが忘れられ、利子と企業利得が利潤を構成するものと考えられるようになるわけである。そして同じことは、企業利得が労働監督賃金になり、さらにはマネージャーの賃金になると、それらが利潤が分割されたものということそのものが忘れ去られ、それぞれが独自の起源から生じるかのように観念され、特に労働監督賃金やマネージャーの賃金では、それらの労働そのものが賃金をもたらす理由であるかに観念されるということであろう。そしてそれが彼らが利潤の一部分として企業利得を手にすることの正当化に利用されるということであろう。とにかく、もう少し詳しく、このパラグラフの展開を順序立てて吟味してみよう。
 (1)まずマルクスは労働監督賃金という観念を問題にする。そしてこの労働監督賃金というのは利子に対立する企業利得から生じることを確認している。ここでマルクスは〈労働監督賃金wages of superintendence of labour〕としての企業利得という観念〉を問題にしているが、これは労働監督賃金というのは企業利得がそれに転化した観念だということであり、だから労働監督賃金そのものは企業利得、つまり利潤の分割された一部分だということを確認しているようにも思える。
 (2)しかしこの労働監督賃金という観念は、それ以上のよりどころを見いだすのだという。つまりこれは利子と分割されて企業利得になり、しかも資本の対立的な性格は利子に吸い上げられて、単なる機能者の労働に対する対価という意味で労働監督賃金になったのであるが、それ以上のよりどころということであろう。だからそれはそれが本来は企業利得、すなわち利子と同様に利潤の一部分であるという本質が覆い隠されるだけではなく、あたかも労働の対価であるかの観念が生じるのであるが、さらにそうした観念そのものをより強固にする理由が見いだされるようになる、ということであろう。
 そしてそれは①実際に利潤の一部分は労賃として区分されることができるし、また現実に区分されてもいるというのである。これは一体どういう事態を述べているのであろうか。特定の資本家は利潤の一部分を削って労賃として支払う場合もあることを述べているのであろうか。確かに中小零細業者などでは、資本家たる親方は、労賃を支払うために、自らの収入を削ってまで間に合わせることがないとはいえないが、果たしてそういうことをマルクスは述べているのであろうか。ここらあたりはいま一つよく分からない。②むしろ逆に、労賃の一部分は資本主義的生産の基礎の上では、利潤の不可欠な構成部分として現れる、という理由もあげられている。この場合は、「逆に」とあるから、先の場合とは逆で、労働者の賃金の一部が資本家に盗まれて(だから労働者は労働力の価値以下の賃金を強いられて)、その一部が利潤として取り込まれるということであろう。確かにこうしたことは資本主義的生産の基礎の上ではよくあることではある。
 要するに、ここでマルクスがいわんとしていることは、労賃と利潤とは現実のなかでは、相互に削り取られて一方の一部分となる場合があるということを言っているようである。つまり利潤と賃金といってもその境目は現実にはあやふやであるということであろう。
  だから資本家が自分が自分自身に支払う給与を自分の労働に対する正当な対価であり、賃金なのだ、と主張することを可能にしているということであろうか。
 次に〈この部分が純粋に,自立して〉とある、〈この部分〉が何を指しているのかいま一つよくわからない。その直前の〈労賃の一部分は資本主義的生産様式の基礎の上では,利潤の不可欠な構成部分として現われるという〉部分なのであろうか。しかしそれだとそのあとに続く文章とは繋がらないような気がする。ここはやはり労働監督賃金と観念される企業利得の〈この部分〉ということであろう。つまり労働監督賃金が、さらに純粋に自立して、利潤とも、あるいは企業利得とも完全に分離して現れてくるのは、ジェネラル・マネジャーの賃金だということのようである。つまり労働監督賃金が〈純粋に,自立して,また〔一方では〕利潤(利子企業利得との合計としての)から,他方では利潤のうち企業利得に帰着する部分から完全に分離されて現われる〉ということである。〈純粋に,自立して,また……利潤とも企業利得とも完全に分離されて現われる〉というのは、利潤やその一部分である企業利得とも、つまり不払い労働を取得するという利潤としての性格をますます薄め、純粋に労働に対する対価としての、労賃としての性格を自立的に示すようになったもののことであり、それがジェネラル・マネジャーの賃金だということであろう。マルクスは、ジェネラル・マネジャーの賃金をそのようなものとして捉えているように思える。企業利得が労働監督賃金として観念されるのは、利子がそもそも資本の対立的な性格をすべて生産過程の彼方へと吸い取ってしまい、機能資本家を単なる機能者にしてしまったからである。つまり単なる労働過程一般の担い手にして、ただ資本家の労働を監督・指揮するという特別な労働を担うだけのものにしたからであり、だから労働監督賃金も、他の一般の労働者の賃金と同じ範疇に属するものになったのだということであった。しかしそうした労働監督賃金もやはり利潤から分割された企業利得の転化したものであり、そのかぎりでは企業利得という機能資本家の取得するものの転化したものという観念を引きずっていた。しかしジェネラル・マネジャーになるとそうしたものからも純粋に自立して完全に分離したものとして現れ、そのかぎりではほかの労働者の賃金と同一のものとして現れているのだ、ということのようである。ここらあたりはやや微妙であるが、とりあえず、そのように解釈しておこう。
 ただこれだけではまだ先のパラグラフで述べていた補償理由との関連がいま一つはっきりとはしないのではあるが。
  もう一度復習しよう。補償理由との関連で考えると、まず剰余価値の分配に規定的に入り込む補償理由というのは、資本家たちが自分の資本の大きさに比例した利潤(平均利潤)を得るために持ち出すさまざまな理由が、あたかも彼らの利潤そのものを生み出しているかに考えるということであった。同じように、総利潤が分割されて、利子と企業利得とになるが、しかしそれらは利潤のまったく異なる範疇になり、まったく違った根拠から生じているかのように観念されるようになる。そして企業利得が労働監督賃金と観念され、さらにそれが利潤からも企業利得からも純粋に自立して完全に分離されたものになると、ジャネラル・マネジャーの賃金として現われ、そうなるとそれは純然たる正当な労働に対する対価として、すなわち労働賃金として観念されるようになるのだということであった。だから本来は利潤の分割されたものが転化したものであったのに、そうした本質はまったく忘れ去られ、それは他の一般の労働者の賃金と変わらない単なる労賃であって、労働に対するまったく正当な対価であると、正当化されるようになるということであろうか。
  ここらあたりはなかなか難しい感じがする。補償理由というのは、あたかも生産価格があれこれの理由を付けて形成されるように資本家たちには思え、それが総利潤を各自の資本の大きさに応じてに配分するものであるという本質が忘れられ、そうしたさまざまな理由そのものが利潤の源泉であるかに思われることであった。こうした補償理由が企業利得が労働監督賃金として観念される場合にも生じているとマルクスは指摘しているわけである。そうした理屈からするなら、労働監督賃金もやはり利潤の分割された企業利得の転化したものだが、しかしそうした出自は忘れられ、あたかも監督・指揮する労働そのものがそれをもたらしているかの観念が生じ、資本家たちが企業利得を取得するのを正当化するものとして利用されているということになる。
  しかしマルクスはそれ以上のことを述べているようにも思えるのである。労働監督賃金がジェネラル・マネジャーの賃金になると、それがさらに純粋に自立化し、完全に利潤からも企業利得からも分離して立ち現れてくるというのである。つまりジェネラル・マネジャーの賃金においては、すでにその出自としての利潤のかけらもないとどうやらマルクスは捉えているようなのである。ここらあたりは難しいところであるが、とりあえず、そのような理解のもとに前に進めることにしよう。

 なお、〈A.スミスが正しく見つけだしたように〉という部分につけられたMEGAの注解ではスミスの『諸国民の富……』の参照箇所と関連して61-63草稿の参照箇所が指示されている。それもついでに見ておくことにしよう。

 まず『諸国民の富』から

 〈〔利潤は単なる監督や指揮の賃金ではない。〕資材の利潤というものは、特定部類の労働、つまり監督し指揮する労働の賃金に対する別名にすぎない、と考える人があるかも知れない。けれども、利潤は、労働の賃銀とはまったく異なるものであり、それとは全然異なる諸原理によって規定されているのであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛苦または創意とはなんの比例ももたないものである。利潤は、使用される資財の価値によって全部的に規定され、この資財の大きさに比例して大ともなり小ともなるのである。たとえば、ある特定の地方における製造業の資財のふつうの年々の利潤が一割とし、そこに二つの異なる製造業があって、そのおのおのに20人の職人が各年額15ポンドの率で使用されている、つまり、おのおのの製造場では年額300ポンドだけ経費がかかる、と仮定しよう。さらに、前者の製造場で年々に仕上げられる粗悪な原料はわずか700ポンドしかかからないのに、後者の製造場でそうされる比較的良質の原料は7000ポンドもかかる、と仮定しておこう。このばあい、年々に使用される資本(capital)は、前者ではわずか1000ポンドにしかならないにもかかわらず、後者で使用されるそれは7300ポンドになるであろう。それゆえ、一割という率では、前者の企業家はわずか約100ポンドの年利潤しか予期しないのに、後者の企業家は約730ポンドを予期するであろう。ところが、たとえかれらの利潤にはこれほど大差があるにしても、監督し指揮するというかれらの労働は、いずれもまったく同一またはほとんどまったく同一であろう。多くの大事業においては、この程度の労働のほとんど全部は、主任書記かなにかに委託されている。この主任書記の賃銀は、監督し指揮するというこの労働の価値を適切に表現している。この賃銀をきめるには、かれの労働や熟練ばかりではなく、かれに対しておかれている信任についても多少の考慮がふつう払われているにもかかわらず、かれの賃銀は、かれがその運営を監督する資本に対してけっして規則的な比例をたもたないのであって、しかもこの資本の所有者は、このようにしてほとんどいっさいの労働を免除されているにもかかわらず、なお自分の利潤は自分の資本に対して規則的な比例をたもつはずだ、ということを予期するのである。それゆえ、諸商品の価格においては、資財の利潤は、労働の賃銀とはまったく異なる構成部分をなし、まったく異なる諸原理によって規定されているのである。〉 (岩波文庫187-188頁、一部誤植を訂正)

  ここでスミスは利潤は単なる監督・指揮する労働の賃金の別名にすぎない、という考えを否定し、利潤は資本の大きさに比例して変化するが、指揮・監督する主任書記の賃金は資本の大きさとは比例的な関係をもっていないことを理由にあげている。だから〈利潤は、労働の賃銀とはまったく異なる構成部分をなし、まったく異なる諸原理によって規定されている〉とするのである。だからスミスは監督・指揮する労働の賃金は、利潤とはまったく異なるものであり、だから利潤を監督・指揮する労働に対する賃金だといいくるめることは出来ないのだと述べているわけである。
  マルクスは〈A.スミスが正しく見つけだした〉と述べているが、それは主任書記(マルクスはそれをジェネラル・マネジャーとしている)の賃金は利潤とはまったく違ったものとして現われているということをスミスは正しく見つけだしているということであろう。つまり労働監督賃金が総利潤からも企業利得からも完全に分離して現われるのは、ジャネラル・マネジャーの賃金においてだが、それをスミスは正しくも見いだしていると言いたいのであろう。

 次は『61-63草稿』の参照箇所を見てみよう。

 〈A・スミスは、このように利潤を他人の不払労働の取得に還元したあと、すぐに続けて言う。「資材の利潤は、特殊な種類の労働、つまり監督または指揮という労働の賃金にたいする別名にほかならない、と言う人がいるかもしれない。」(97ページ〔大内・松川訳、(1)、187ページ〕。)そして彼は、監督労働についてのこのまちがった見解を否定する。われわれは、このことには、のちに別の一章で立ち返ることとする。ここで強調しておくべき重要なことは、A・スミスが、利潤の源泉に関する彼の見解と、こうした弁護論的見解との対立を、実に正確に知っており、強調しており、強く力説している、ということだけである。〉 (草稿集⑤69-70頁)

  ここではマルクスはまずスミスが〈利潤を他人の不払労働の取得に還元し〉ているとしている。つまりその限りではスミスは利潤の源泉を正しく言い表しているわけである。そしてそのうえで、スミスは、先の『国富論』からの抜粋にあったように、利潤は特殊な種類の労働、監督または指揮という労働の賃金の別名に過ぎないという主張を否定しているわけである。そしてマルクスがここで〈彼は、監督労働についてのこのまちがった見解を否定する〉というのは、利潤とは監督労働の賃金の別名だという、不払労働の取得を正当化する主張を正しくも間違いだとして否定していると述べているわけである。そしてマルクスは〈A・スミスが、利潤の源泉に関する彼の見解と、こうした弁護論的見解との対立を、実に正確に知っており、強調しており、強く力説している〉というのは、利潤は不払労働の取得であるという彼の正しい見解と、利潤は資本家が行なう監督・指揮の労働に対する正当な賃金だとする利潤を正当化する弁護論的見解とを明確に区別し、対立させ、強調して力説しているということである。
   前回(【30】パラグラフ)紹介した61-63草稿からの長い抜粋のなかで、マルクスは〈資本家がここでは彼の支配人と同一視されることは、すでにスミスが言っているとおりである〉(草稿集⑦471頁)と指摘していた。つまりマルクスはここでは機能資本家と、その機能の一部を担いながらも、しかしその資本家的な性格を抽象されたものとして純粋に現われてきている支配人(ジャネラル・マネジャー)とを区別し、資本家と支配人とは同一視できない、後者が受けとる労賃には他の一般の労働者(搾取される労働)の受け取る労賃と同じ内容が含まれていると考えているわけである。

 なおここでマルクスは〈われわれは、このことには、のちに別の一章で立ち返ることとする〉と書いているが、そこにはMEGAの編集者による注解があり、次のように書かれている。

  〈(3)〔注解〕ノート第15冊、910-919ページ(MEGA 第2部第3巻第4分冊〔『剰余価値学説史』、『全集』第26巻第3分冊、472-488頁〕)およびノート第18冊、1099-1102ページ(MEGA、第2部第3巻第5分冊〔『剰余価値学説史』、『全集」第26巻第3分冊、345-352頁〕)を見よ。 〉

  ついでだから、その部分も参考のために見てみることにしよう。ここで紹介されているノート第15冊の頁数はマルクスが付けた草稿の原頁のようである(MEGAの頁ではない)。ここでは全集版の『剰余価値学説史』の原頁で指示されているものも参照しながら、検討することにしよう。

 まず最初の〈『全集』第26巻第3分冊、472-488頁〉というのは、〈〔四 剰余価値の本質--剰余労働--からの剰余価値の諸転化形態のいっそうの分離。「資本家の労賃」としての産業利潤〕〉という編集者が付けた小項目全体が参照個所になっており、全集版では622-642頁、つまり20頁もある。これを参照個所としてすべて紹介するのは無理なので、今問題になっている部分と関連するもので重要と思われる部分だけを紹介することにしよう。
  この部分は、極めて多くのことが語られている。そしてその一部分(後半部分)は、すでに前回、【30】パラグラフの考察のなかで、そのテキストが61-63草稿から変更を加えて取られているとするMEGAの注解にもとづいて、草稿集⑦から該当する部分を広く紹介したが、その抜粋・紹介した一部分が含まれている(『学説史』の上記の部分は以前紹介した草稿集⑦の452-472頁分がほぼ入っている。しかし以前紹介した抜粋文の後半部分は含まれていない)。ここでは以前紹介したものと重複するが、それを恐れず、次の一文だけを紹介しておこう。

  〈他方、この利子という形態は、利潤の他方の部分に、産業利潤という質的な形態を与える。すなわち、資本家としてのではなく労働者(産業従事者)としての産業資本家の労働にたいする労賃という形態を与える。資本家が資本家として労働過程で行なわなければならないところの、そしてまさに労働者とは区別された彼にこそ属するところの、特殊な諸機能は、単なる労働機能として示される。彼が剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼、資本家もまた、労働するからである。……(中略)……こうして、剰余価値の一部分が利子において搾取過程から完全に分離されるとすれば、他方の部分は--産業利潤において--その正反対物として、他人の労働の取得ではなく自分の労働の価値創造物として、示されるのである。だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物、実行された労働の等価なのである。資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立は、搾取過程の彼方に、この疎外の現実の行為の彼方にあるので、いっさいの対立的な性格はこの過程そのものからは遠ざけられている。それだから、現実の搾取、すなわち、対立的な性格がそれにおいて実現されはじめて現実に示されるところのものは、まさにその反対物として、労働の素材的に特殊な仕方ではあるが労働の同じ社会的規定--賃労働--に属するものとして、現われるのである。労働という同じ範疇に。搾取する労働がここでは搾取される労働と同一視されているのである。
  このような、利潤の一部分の産業利潤への転化は、われわれが見るように、他の部分の利子への転化から生ずる。一方の部分には資本の社会的な形態--それが所有であるということ--がかかわりをもつ。他方の部分には資本の経済的機能、労働過程における資本の機能がかかわりをもつ、といっても、この機能は、資本がこの機能を行なうさいの社会的な形態、対立的な形態からは解放され抽象されている。さらにこれがいろいろな小賢しい理由によってどんなに正当化されるかは、利潤を監督労働だとする弁護論的な説明についてさらに詳しく見られるべきである。資本家がここでは彼の支配人と同一視されることは、すでにスミスが言っているとおりである。もちろん、いくらかは賃金がはいっている(支配人がこの賃金をもらっていない場合)。資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者(Captain of industry)として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。〉  (草稿集⑦470-472頁)

  ここでマルクスは〈もちろん、いくらかは賃金がはいっている(支配人がこの賃金をもらっていない場合)〉と述べている。つまり資本家が取得する企業利得は、いうまでもなく利潤の分割されたものでしかないが、しかしいくらかは労賃も含まれることを認めているわけである。ただそれは普通は支配人が受け取ってしまっているものなのだが、もしそれを受け取るような支配人がいないとするなら、企業利得としての労働監督賃金にはいくらかの賃金がはいっているのだというのである。以下、その理由が述べられている。
  これは後に詳しく考察されるのであるが、生産過程で労働を管理し指揮する労働は、労働過程における一般的な機能を果すものとして、その限りでは生産的であり、価値を形成する労働であり、その限りでは他の搾取される労働がそうであるのと同じ契機があるというのである。だからこうした管理・指揮労働は〈賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働〉なのである。ジェネラル・マネジャー(支配人)が存在すれば、そうした機能は彼らによって担われるというのがマルクスの理解のようである。

  次に〈ノート第18冊、1099-1102ページ〉というのは草稿集⑧426-438頁に該当する。〈『全集」第26巻第3分冊、345-352頁〕〉というのは、〈〔三 総利潤の純利潤と企業者利潤とへの分割に関するラムジの所説。彼の見解における弁護論的要素〕〉という編集者が付けた小項目全体がほぼ参照個所になっており、全集版では459-469頁、つまり10頁分になっている。これもすべて紹介する必要はないと思われるので、今問題になっている部分に関連すると思える部分だけを紹介しよう。
  ここではラムジの主張を批判的に検討しているが、マルクスはまず〈だいたいにおいて、ラムジが産業利潤について言っていることは(ことにまた監督労働について言っていることも)、この労作のなかで提出されたもののうち最も合理的なものである〉(463頁)と述べている。そして次のように続けている。

  〈労働の搾取は労働を必要とする。産業資本家の行なう労働が単に資本と労働との対立によって必要にされているにすぎないかぎり、それは彼の使用する監督係(産業下士官) の費用にはいるもので、すでに賃金の範疇に算入されているのであって、ちょうど、奴隷監督や彼の鞭のために必要な費用が奴隷所有者の生産費の費用に算入されているようなものである。これらの費用は、商業上の費用の大部分とまったく同様に、資本主義的生産の空費に属する。一般的利潤率が問題になる場合には、資本家たちにとって彼ら自身の競争や彼らが互いにだまし合う試みのために必要になる労働は考察のなかにはいらない。同様に、一方の産業資本家が他方の産業資本家とは違って彼の労働者たちから最少の空費で最大量の剰余労働を引き出し、この引き出した剰余労働を流通過程で実現することができるというその技能の大小、その空費の多少も、考察のなかにはいらない。これらの事柄の考察は諸資本の競争の考察に属する。この考察は、一般に、最大可能量の剰余労働を自分のほうにひったくるための資本家たちの競争や彼らの労働を取り扱うものであり、ただこの剰余労働のいろいろな個人資本家たちのあいだへの分配を問題にするだけで、その源泉もその一般的な大きさも問題にしはしないのである。
  そこで、監督労働として残るのは、ただ、何人かの個人の分業や協業を組織するという一般的な機能だけである。このような労働は比較的大きな資本主義的企業では総支配人の賃金によって完全に代表されている。それは一般的利潤率からはすでに引き去られている。その最良の実例を与えるものは、イギリスの労働者の協同組合工場である。というのは、これらの工場は、比較的高い利子を支払っているにもかかわらず、平均よりも大きな利潤を与えているからである。たとえ、総支配人の賃金、それはもちろんこの種の労働の市場価格によって規定されているのであるが、この賃金は引き去られているにしても、である。自分たち自身の総支配人でもあるような産業資本家たちは、生産費の一項目を省き、自分たち自身に賃金を支払うのであり、したがって平均利潤率よりも高い利潤率を得るのである。もし明日にもこのような弁護論者たちの言い草が言質にとられて、産業資本家の利潤が管理監督賃金に制限されるとすれば、明後日は資本主義的生産はおしまいになり、他人の剰余労働の取得もこの剰余労働の資本への転化もおしまいになるであろう。〉 (全集第26巻第3分冊463-464頁)

  ここで注目すべきは、マルクスは〈一般的利潤率が問題になる場合には、資本家たちにとって彼ら自身の競争や彼らが互いにだまし合う試みのために必要になる労働は考察のなかにはいらない。同様に、一方の産業資本家が他方の産業資本家とは違って彼の労働者たちから最少の空費で最大量の剰余労働を引き出し、この引き出した剰余労働を流通過程で実現することができるというその技能の大小、その空費の多少も、考察のなかにはいらない〉と一般的利潤率が問題になる場合と、彼らにとって空費でしかない支配人への支払いを最低限にして如何にして最大限の剰余労働を引き出すかという問題とを対照的に論じ、これらの費用は一般的利潤率の水準そのものを問題にするときには問題にならないが、しかしそれらは諸資本の競争の考察に属する問題であり、そこでは〈最大可能量の剰余労働を自分のほうにひったくるための資本家たちの競争や彼らの労働を取り扱う〉のだとしている。これは剰余価値を取り合うための補償理由が、剰余価値そのものの根拠にされる前パラグラフで論じていたことと関連しているような気がする。
  そして支配人などの管理・監督労働から、剰余価値を最大限引き寄せるという機能を問題にしないなら、〈そこで、監督労働として残るのは、ただ、何人かの個人の分業や協業を組織するという一般的な機能だけである〉と述べていることも重要である。これは協業から不可避に発生する指揮・監督労働のことであり、もし産業資本家の利潤が彼らの賃金に制限されるなら、資本主義そのものはおしまいになる、とも述べている。】


【33】

 〈この点についてさらに立入るまえに,なお次のことを述べておかなければならない。〉 (302頁)

  【これは平易に書き下す必要もないと判断してそれは省略した。ここで〈この点に〉というのは、ジェネラル・マネジャーの賃金では、より純粋に自立化が現れて、利潤や企業利得とも完全に分離したものとして現れてくるという〈〉であろう。そして〈次のこと〉というのは、その直後の【34】パラグラフのことを指すと考えられる。だから【35】パラグラフからは〈この点についてさらに立入る〉ことになると考えられる。】

【34】

 かりに,一つの特殊的種類の資本家が利子だけで生活し,現実の再生産過程の外部にとどまっているということによって,利子生み資本が資本の一つの特殊的形態という自立的姿態を受け取る,ということがなかったならば,利子率はないであろう。すなわち,利潤の一部が利子という形態のもとで量的な規定性と固定した大きさとを受け取ることはないであろう。また,もっぱら量的な分離として発生することを以前に示したあの質的な区別が,この量的な規定性とともに発展することはないであろう。利潤のうちの,資本所有--すなわち,対象的富の,労働にたいするたんなる対立--のたんなる価値実現〔Verwerthung〕としての一部分を測る,そのための基準はないであろう。それゆえ,利潤が二つの部分に分離することはないであろうし,だからまた,この二つの部分が互いに対立して,利子および企業利得という自立的姿態をとることもないであろう。けれども,この二つの部分が互いに対立して骨化し自立[455]化することによって,現実の事態〔Sachverhältniß〕が観念のなかで歪められる〔sich umdrehen〕。利潤(これ自身がすでに剰余価値の転化された形態である)が,前提された統一体Einheit〕として,利子と企業利得とに分れていく不払労働の総額として現われるのではなくて,利子と企業利得とが,加算の結果として利潤,粗利潤を形成する,自立した量として現われる。いまでは自立的に見られたこの二つの部分のどちらにあっても,剰余価値への連関は,だからまた賃労働にたいする資本の現実的関係は,拭い去られているので,利潤そのものにあっても,それがたんなる加算として表わされるという意味で〔so weit〕,すなわち自立的に規定された,また外見上それに前提された,それ以前に与えられていたこれらの量の,あとから得られた和として表わされるという意味で〔so weit〕,同じことが言えるのである。

  ①〔異文〕「種類」←「階級」
  ②〔異文〕「同時に……ない」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「資本の一つの特殊的形態という」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「受け取る」erhielte←wtrde〔…erhalten〕
  ⑤〔異文〕「,粗利潤」--書き加えられている。〉 (302-304頁)

 〈もしかりに、一つの特殊な種類の資本家が利子だけで生活し、現実の再生産過程の外部にとどまっているということによって、利子生み資本が資本の一つの特殊な形態として自立的姿態をとることがなかったなら、利子率もないでしょう。つまり、利潤の一部分が利子という形態のもとで量的な規定性と固定した大きさとを受け取ることはないでしょう。そしてまた、もっぱら量的な分離として発生することを以前に示したあの質的な区別が、この量的な規定性とともに発展することもないでしょう。利潤のうちの、資本所有--すなわち、対象的富の、労働にたいするたんなる対立--のたんなる価値実現としての一部分を測る、そのための基準はないでしょう。それゆえ、利潤が二つの部分が互いに対立して、利子および企業利得という自立的姿態をとることもないでしょう。
 けれども、この二つの部分が互いに対立して骨化し自立することによって、現実の事態が観念のなかで歪められます。利潤(これ自身がすでに剰余価値の転化された形態です)が、前提された統一体として、利子と企業利得とに分かれていく不払労働の総額として現れるのではなくて、利子と企業利得とが、加算の結果として利潤、粗利潤を形成する、つまりそれが自立した量として現れるのです。いまでは自立的に見られたこの二つの部分のどちらにあっても、剰余価値への連関は、だからまた賃労働にたいする資本の現実的関係は、拭い去られているので、利潤そのものにあっても、それがたんなる加算として表されるという意味で、すなわち自立的に規定された、また外見上それに前提された、それ以前に与えられていたこれらの量の、あとから得られた和として表されるという意味で、同じことが言えるのです。〉

 【このパラグラフは二つの部分に分けることができる。前半部分はもし利子やそれを生む利子生み資本がなければ、当然、利子と企業利得という量的分割もなければ質的分割も生じないことが確認されている。
 しかし現実には、そうした分割が生じているわけで、その場合には、それによってそうした事態が観念のなかで歪められて来るとしている。つまり本来は利潤が分割したものとして利子と企業利得とがあるのに、それぞれが自立化し骨化することによって、利潤そのものがそれらの和として捉えられるようになるというのである。そして利子や企業利得の自立した姿態においてはもはや賃労働との対立は消し去られているように、こうしたものの和として捉えられる利潤においても、もはや賃労働との対立は消し去られているのだというわけである。
 この部分は労働監督賃金がマネージャーの賃金になると利潤だけではなく、そこら分離された企業利得からも完全に分離されて現れると論じていた【32】パラグラフを受けて、それをさらに展開しようとする前に、すなわち〈この点についてさらに立入るまえに,なお次のことを述べておかなければならない〉として述べられている。どうしてこのパラグラフを補足的に述べておく必要があるとマルクスは考えたのかはいま一つよく分からないが、少し考えてみよう。
  まず前半部分ではもし利子がないと仮定するなら、利潤が利子と企業利得とに分割することはないし、こうした量的分割が質的な分割に転化することもないだろうというのだが、どうしてこうしたことを--ある意味では当然とも思えることを--確認する必要があるのかということがいま一つ不明である。
  われわれは利子と企業利得の量的分割が質的分割に転化し、骨化し、企業利得が労働監督賃金として観念され、さらにはジェネラル・マネジャー(支配人)の賃金になると利潤や企業利得とも完全に分離されて、普通の労働者の賃金と変わらないものになるということをみてきたのであるが、しかしそもそも監督・指揮する労働というのは、利子を前提しなければならないというようなものではないのである。これは引き続くパラグラフ以下で問題になるのであるが、そうした問題に移る前に、あるいは、利子がなければこれまでわれわれが考察してきたようなこともない、ということを敢えて確認しているのかも知れない。これは自信がないが……。
  後半部分では、しかし現実に利子と企業利得とへの利潤の量的な分割が質的な分割へと固定され、そうすることによって、ただでさえ利潤はすでに剰余価値の転化したものとしては、その源泉たる剰余価値(不払労働)をみえなくさせているものだが、しかしこうした質的分割の固定化は、利子と企業利得が異なる利潤の範疇として捉えられ、利潤そのものがこの両者の和として考えられるようになり、より一層剰余価値との関連が見えなくされているということが確認されている。これはまあこのとおりだし、何の文句もつける必要もないが、どうしてそれをここで確認する必要があるのかがいま一つハッキリしないので、どうもスッキリしないのである。しかしそれはともかく、〈この点についてさらに立入る〉という次のパラグラフからの展開を期待することにしよう。】

 (以下、続く)

 

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