無料ブログはココログ

« 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2) | トップページ | 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4) »

2019年9月 4日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-3)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


 前回の続き【13】パラグラフからである。


【13】

 しかし,ひとたび,借り入れた資本を用いて事業をする〔act〕かぎりでの生産的資本家にとって,また,自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家〔monied capitalist〕にとって,同じ資本にたいして,したがってまたその資本によって生みだされる利潤にたいして別々の権原をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんに量的な分割が,質的な分割に転回し,その結果,一方の部分である利子が,一つの規定における資本の,それ自体として〔an u. für sich〕帰属する果実として現われ,他方の部分は,反対の一規定における資本の独自な果実として,だからまた企業利得として,現われ,一方は資本所有のたんなる果実として現われ,他方は,たんに資本を用いて機能すること,過程進行することProcessiren〕の果実として,過程進行中の資本としての過程進行中の資本の〔d.processirenden Capitals als processirenden〕果実として,または生産的資本家が行なう諸機能の果実として現われれば,このように,粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し,自立化するということが,総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるをえない。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと,あるいは,貨幣資本家〔monied Capitalist〕が所有する資本が彼自身によって充用されようとされまいと,そうである。どの資本の利潤も,したがってまた資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も,二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に,すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子企業利得とに,分かれる,または,分解されるのである。自分の資本で事業をする資本家も,借りた資本で事業をする資本家と同じように,自分の総利潤を,所有者としての自分,自分自身への資本の自分自身の貸し手〔lender〕としての自分に帰属する利子と,機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割する。この分割(質的な分割としての)にとっては,資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは,どうでもよいことになる。資本の充用者は,自分の資本で事業をする場合にも,二人の人格に,すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに,分裂し,そして彼の資本そのものが,それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において,資本所有,すなわちそれ自体としてan sich利子をもたらす,生産過程の外にある資本と,過程を進行するもの〔processirend〕として企業利得をもたらす,生産過程のなかにある資本とに分裂するのである。

  ①〔異文〕「生産的資本にとって」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「反対の一規定」← 「もう一つの規定」
  ④〔異文〕「違っ[た]〔versch[iednen]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「資本家としての」という書きかけが消されている。〉 (279-280頁)

 〈しかし、ひとたび、借り入れた資本を用いて事業をするかぎりでの生産的資本家にとって、また自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家にとって、同じ資本に対して、よってまたその資本によって生み出される利潤に対して別々の権限をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんなる量的な分割が、質的な分割に転回し、その結果、一方の部分である利子が、一つの規定における資本の、それ自体として帰属する果実として現れ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、だからまた企業利得として現れたわけです。一方は資本所有のたんなる果実として現れ、他方は、たんに資本を用いて機能すること、過程進行することの果実として、過程進行中の資本の果実として、また生産的資本家が行う諸機能の果実として現れたわけです。
  このように、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化するということが、総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ません。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと、あるいは、貨幣資本家が所有する資本が彼自身によって充用さようとされまいと、そうなってくるのです。どの資本の利潤も、したがってまた諸資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も、二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれが特殊的な諸法則によって規定される利子と企業利得とに、分かれます。または、分割されるのです。
  自分の資本で事業をする資本家も、借りた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、所有者としての自分、つまり自分自身への資本の自分自身への貸し手としての自分に帰属する利子と、機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割します。だからこの質的な分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになります。資本の充用者は、自分の資本で事業をする場合にも、二人の人格に、すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに、分裂し、そして彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において、資本所有、すなわちそれ自体として利子をもたらす、生産過程の外にある資本と、過程を進行するものとしての企業利得をもたらす、生産過程のなかにある資本とに分裂するのです。〉

 【ここではこの質的な分割が骨化し、自立化することが指摘されている。そしてそれがそうなれば、その事態は総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ないのだと指摘されている。だからそうなると例え生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであるかどうかということとは関係なしに、すべての資本が生産する利潤は利子と企業利得とに分割されることになる。だからまた自分の資本で事業を行う資本家自身も、二人の人格に分裂する。一つは自分の資本を自分に貸し付ける自分自身と、それを借りて事業を行う自分自身とに分かれるわけである。だから彼は得られた利潤を、一つは貸し付けた自分自身の所有の果実として、利子として受け取り、他方は過程を進行する自分自身、機能する自分自身に所属するものとしての企業利得を取得するのだというわけである。】


【14】

 [447]だから利子は,それが産業家が他人の資本で事業をする場合にだけ「たまたま」生じるような,生産にとってはどうでもよい,総利潤の分割としては現われることはない,というほどにまで固定化する。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ,彼の利潤利子企業利得とに分かれるのであり,だからこれと同時に,産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく,たんに量的な分割が質的な分割になる。それは,ただ,違った人格に分配される利潤の二つの分けまえであるだけではなく,利潤の二つの特殊的範疇なのであって,この二つの範疇はそれぞれ資本にたいして違った関係にあるのであり,つまり資本の違った規定性に関係しているのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1493.11-23)から,変更を加えて,取られている。〉 (280-281頁)

  〈だから利子は、それが産業家が他人の資本で事業する場合にだけ「たまたま」生じるような、生産にとってはどうでもよい、総利潤の分割として現れることはないほどにまで固定化します。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ、彼の利潤は利子と企業利得とに分かれるのであり、だからこれと同時に、産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく、たんなる量的な分割が質的な分割になります。それはただ、違った人格に分配される利潤の二つの分け前であるだけではなく、利潤の二つの特殊的範疇なのであって、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるのです。つまり資本の違った規定性に関係しているのです。〉

  【ここでも固定化が進む事態が指摘されている。利子と企業利得は利潤の二つの特殊的範疇であり、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるということ、違った規定性に関係しているというわけである。つまり利子は本来は借り入れた貨幣資本への支払を意味するわけであるが、利子範疇が固定すると、それが借り入れられたものかどうかに関係なく、ただ一方の資本の規定性にもとづいてそれが生じてくるように見えるわけである。だから自己資本で事業を行う生産的資本家は、その資本を二つの規定性にもとづいたものとして考え、一つは利子生み資本との規定性によって利子を計算し、他方は生産的資本として企業利得を計算するということになるわけである。これらは同じ資本の二つの規定性であり、しかも一方は(利子生み資本というものは)ただ仮象でしかないものである。しかしそれが一定額の貨幣額であるなら、それはその貨幣額ということそれ自体として利子を生むものと観念されるのであり、だからそれを生産的な事業に投下しても、それが生み出す利潤は、利子と企業利得とに分かれるわけである。
  ところで、この部分はMEGAの注解によれば、61-63草稿から変更を加えて取られているということである。該当する部分をその前後も含めて紹介しておこう。

  〈このような、利潤の利子産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、まったく別なものとして示されている。
  利子が表わしているのは、剰余価値の一部分である。利潤のうちの、単なる、特殊な名目のもとに取り出された、分けまえである。資本の単なる所有者のものになる、彼によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、この二つの部分に、転化した姿を与えるところの、質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて固定する。すなわち、利子は、ただ産業家が他人の資本で仕事をする場合にかぎって「たまたま」行なわれる、生産には無関係な分割としては現われない、ということにおいてである。産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利子産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすでに質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに資本および資本主義的生産そのものの本性から生ずる質的な分割として、固定されるのである。単に利潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当がではなく、利潤の二つの特殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規定にたいして関係をもつのである。この独立化は、以前に述べた諸理由は別としても、次のような理由によってますます容易に固定する。というのは、利子生み資本は、歴史的形態としては産業資本以前に出現し、また産業資本と並んでその古い形態のままで存続し、そして産業資本によってその発展の過程ではじめてそれ自身の一つの特殊な形態として資本主義的生産のもとに包摂されるからである。
  それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦468-469頁)】


【15】

 〈なぜ,利子企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が,借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると,そのような分割としての総利潤の分割が,総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか,ということの理由は,いまでは非常に簡単に明らかになる。|〉 (281頁)

  〈なぜ、利子と企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が、借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると、そのような分割としての総利潤の分割が、総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか、ということは、その理由はいまでは非常に簡単に明らかです。〉

 【このパラグラフは次のパラグラフで、これまで述べてきたことを箇条書き的にまとめるための枕詞である。だからこれまで述べてきたことによって、総利潤の量的な分割が、生産的資本家にとって、利子と企業利得という質的な分割になると、それが総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になる理由を、これからもう一度確認しておこうというわけである。】


【16】

 |304上|このことは〔以下のことから〕でてくる。--
  第1に,生産的資本家の多数が,さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという,また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は,時期によって変動するという,簡単な経験的事情からもすでに〔でてくる〕。

  ①〔異文〕「さまざまの割合で」という書きかけが消されている〉 (282頁)

 〈このこと(つまり借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤の量的な分割が質的な分割に転回すると、その質的な分割が、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ)は、以下のことから出てきます。
 第1に、生産的資本家の多数が、さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという、また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は、時期によって変動するという、簡単な経験的事情からもすでに、このことは出てくるのです。〉

 【ここからこれまで述べてきたことを、さらに箇条書き的に番号を打って、述べているように思える。マルクスがここで論証しようとしていることは、平易な書き下し文でも述べたように、「借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤が利子とその超過分という二つのものに量的に分割すると、それは利子と企業利得というその源泉を異にするものであるかのようなものに、すなわち質的な分割に転回する、そしてその質的な分割が骨化し、自立化して、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ」はどうしてなのか、という問題である。
 そしてその理由として第一にあげられるのは、生産的資本の多くが、さまざまな割合で自己資本と借入資本とで事業を行い、しかもその二つの資本の割合は時期によって変動するという簡単な経験的な事実からもすでにそういうことが言えるのだ、というわけである。つまりそうした質的な分割は、経験的にも実際の多くの生産的資本家にとっては一つの事実だということである。だからそれは総資本家階級にとってのものにもなるのだということであろうか。】


【17】

 第2に,総利潤の一部分が利子という形態に転化することが,総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのである。後者は,ただ,利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかない。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は,どのようにして総利潤の一部分は一般的にgenerally利子として骨化し自立化するか,という研究に帰着するのである。ところが,歴史的には,資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から,利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子資本が生みだした剰余価値の完成した形態として--存在する。だからこそ,いまなお通俗観念〔Volksvorstellung〕ではmonied Capital,利子生み資本が,資本そのもの〔Capital als solches〕,「とりわけすぐれた意味での」資本〔Capital κατ’έξοχήν〕と見なされることになる。だからこそ,他方では,利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのである。貸し付けられた資本は,それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれないが--,利子を生むという事情は,この資本形態の自立性の観念を強固にする。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤にたいして,また利子生み資本が[448]生産的資本にたいして自立性をもって現われる,ということの最良の証拠は,利子は総利潤のたんなる部分であることが,18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって,また彼のあとにヒュームによって)ということであり,また,およそこのような発見が必要だったということである。

  ①〔異文〕「分化する〔sich differenziren〕」← 「分かたれる〔sich vertheilen〕」
  ②〔異文〕「ずっと〔1ange〕」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「完成した伝来の」← 「完成した」
  ④〔異文〕「貸し付けられた」← 「借りられた」
  ⑤〔異文〕「生[産的]〔prod[uctiv]〕」という書きかけが消されている。
  ⑥〔注解〕〔ジョウジフ・マッシー〕『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論……』,ロンドン,1750年〔,49ページ〕。
  ⑦〔異文〕「彼の後に」--書き加えられている。
  ⑧〔注解〕デイヴィド・ヒューム『利子について』。所収:『種々の主題についての小論および論文集』,第1巻,ロンドン,1764年〔,329-336ページ〕。〔田中敏弘訳「利子について」。所収:『ヒューム経済論集』,『初期イギリス経済学古典選書』8,東京大学出版会,1967年,71-80ページ。〕〉 (282-284頁)
 
  〈第2に、総利潤の一部分が利子という形態に転化することが、総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのです。後者は、ただ、利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかないのです。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は、どのようにして総利潤の一部分は一般的に利子として骨化し自立化するか、という研究に帰着するのです。ところが、歴史的には、資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から、利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子は資本が生み出した剰余価値の完成した形態として--存在します。だからこそ、いまなお通俗的観念ではmoneyed capital、すなわち利子生み資本が、資本そのもの、「とりわけすぐれた意味での」資本と見なされることになるのです。だからこそ、他方では、利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのです。貸し付けられた資本は、それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれませんが--、利子を生むという事情は、この資本形態の自立性の観念を強固にします。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤に対して、また利子生み資本が生産的資本に対して自立性をもって現れる、ということの最良の証拠は、利子は総利潤のたんなる部分であることが、18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって、またあとにヒュームによって)ということです。またこのような発見が必要だったということもそうでしょう。〉

 【ここでは総利潤の利子と企業利得という二つの部分への質的な分割とその固定化はどうして生じるのかという問題は、どうして総利潤の一部分が利子として骨化し自立化するのかという問題に帰着する、と指摘されている。というのは利子というのは生産的資本家にとっては生産以前に前提されたものであり、彼らにとっては一つの前提であるからである。そうした利子がすでに一つの範疇として骨化して、自立化しているからこそ、彼らの生産した総利潤は利子とその超過分とに分裂し、それが利子と企業利得という二つの範疇へと骨化し自立化するのだからである。そして利子がそれ自体として自立化した存在として現れるということは、利子生み資本そのものが資本主義的生産様式以前にすでに存在していたことからもわかるのだとしている。そもそも利子が総利利潤から分割されたものだということそのものが当初はわからなかったのであり、つまりそれだけ利子範疇は一つの自立した存在をもっていたのであり、しかもそれが支払われるのは、必ずしも生産的投資のためではなく、単に消費等々のために借りられた場合も、利子は支払われる必要があったわけだから、利子は利潤とは無関係であるように歴史的には存在していたわけである。だから利子が利潤の分割されたものだということ自体が18世紀の半ばにようやく発見されたのであり、こうした発見が必要だったということそのものが、利子の骨化と自立性を示しているのだということである。つまり利子の骨化と自立性というのは資本主義的生産様式以前からそれらが存在したこと、しかもそれは必ずしも生産された利潤から支払われるものとして存在したわけではなかったこと、だから資本主義的生産様式のもとで利子が利潤の一部が分割されたものだということそのものが一つの発見であったということ、こうしたことから利子範疇の骨化と自立化という事実が、利子と企業利得という二つの範疇の自立性の根拠であり、それが総資本家階級にとってのものになる理由だというわけである。】

  (以下、「第3」の項目は次回に続きます。)

 

« 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2) | トップページ | 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4) »

『資本論』第3部第5篇の研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2) | トップページ | 『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4) »