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2019年9月15日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-5)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【22】パラグラフからである。


【22】

 (われわれがここで利潤というときには,それはいつでも平均利潤のことである。というのは,いろいろな偏倚は,個別的利潤の偏倚であろうとさまざまの生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値分配が,個別資本家のあいだであろうと,さまざまの生産部面の資本家たちのあいだでであろうと,いろいろに変動することは--,われわれにとってここではまったくどうでもよいことだからである。このことは,総じて当面の研究において固持されなければならない。)

  ①〔異文〕「を云[々する]〔v[om]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「個別的〔individuell〕」← 「個々の〔einzeln〕」〉 (290頁)

 〈(ここで私たちが利潤という場合には、それはいつでも平均利潤のことです。というのは、いろいろな偏倚は、個別的利潤の偏倚であろうとさまざまな生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値の分配が、個別資本家のあいだであろうと、さまざまな生産部面の資本家のあいだであろうと、いろいろに変動することは--、私たちにとってはここではまったくどうでもよいことだからです。このことは、総じて当面の研究においては固持されなければなりません。)〉

 【このパラグラフは全体が丸カッコに入っている。だから当面の問題とは多少違ったものという意図がマルクスにはあるのであろう。事実、ここでは利潤というのは、平均利潤を意味するということは当面の研究においては固持されるべきだということが確認されているわけである。これはその一つ前のパラグラフで〈すでに見たように,利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき,平均利潤と利子との差額,利潤の他の部分は,利子に対立する形態に,企業利得という形態に,転化する〉と述べられていたことに関連して、書かれているように思える。ここでは〈平均利潤と利子との差額〉とわざわざ〈平均利潤〉という用語を使っているが、しかし当面の研究では、われわれが「利潤」という場合は、「平均利潤」あるいはその率としては、「一般的利潤率」を意味するのだということである。そしてこうしたことは第22章該当部分の冒頭でも述べられていたことである。】


【23】

 ところで,利子純利潤Nettoprofit〕a)であって,これは,再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと,資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと,とにかく資本所有そのものがもたらすところのものである。しかし,後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも,彼が機能資本家であるかぎりでのことではなく,彼が貨幣資本家〔monied Capitalist〕であり,自分の資本をmonied Capital,利子生み資本として,機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手〔lender〕であるかぎりでのことである。貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように,資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提である。すなわち,貨幣は,生産手段へのその転化能力によって,つねに不払労働を支配〔commandiren〕し,したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させる。だから,利子はただ,価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働〔であって〕,現実の生産過程では生産手段の姿態をとる--が,自立的な力〔Macht〕として,生きた労働能力(労働力)に対立しており,不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ,ということの表現でしかないのである。とはいえ,他方,利子という形態では,賃労働にたいするこのような対立は消えてしまっている。というのは,利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく,機能するかぎりでの資本に対立しているのだからであり,貸付資本家はそのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて,再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのであり,他方では,まさに資本主義的生産様式の基礎の上では,賃労働者は生産手段とはなんのかかわりもない(彼らから収奪されて〔expropriirt〕いる)のだからである。利子生み資本は,機能としての資本にたいする所有としての資本である。ところが,資本は,それが[451]機能しないかぎり,労働者を搾取せず,また労働に対立しないのである。/

  ①〔異文〕「再生産過程」← 「生産過程」
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「資本がそれの所有者に」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「自分自身への貸[し手]〔V[erleiher]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「……〔資本としての〕貨幣の定在は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「恒常的な」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「絶えざる」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「同様に」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「転化能力」← 「転化」
  ⑩〔異文〕「絶えざる……である」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「一部分を……に」という書きかけが消されている。
  ⑫〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「すなわち……価値」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「生[きた]……の自立的に……として」という書きかけが消され,さらに「生きた労働の自立的な力に対立するものとして」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「のであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「の表現でしかない」← 「を表現する」
  ⑰〔異文〕「賃労働にたいする」← 「他人の労働にたいする」
  ⑱〔異文〕「利子生み資本は」← 「利子は」〉 (290-292頁)

 〈ところで、利子は、純利潤です。これは、再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと、資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと、とにかく資本所有そのものがもたらすところのものです。しかし、後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも、彼が機能資本家であるかぎりのことではなく、彼が貨幣資本家であり、自分の資本をmoneyed capital、利子生み資本として、機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手である限りでのことです。
 貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように、資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提です。つまり、貨幣は、生産手段へのその転化能力によって、つねに不払労働を支配し、したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させます。だから、利子はただ、価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働であって、現実の生産過程では生産手段の形態をとる--が、自立的な力として、生きた労働能力(労働力)に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのです。また、価値がこのような力であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ、ということの表現でしかないのです。
 とはいえ、他方、利子という形態では、賃労働にたいするこのよう対立は消えてしまっています。というのは、利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく、機能する限りでの資本に対立しているのだからです。貸付資本家は、そのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて、再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのです。他方では、まさに資本主義的生産様式の基礎の上では、賃労働者は、生産手段を収奪されているのですから、それとはなんのかかわりもないからです。利子生み資本は、機能としての資本に対する所有としての資本です。ところが、資本というのは、それが機能しない限り、労働者を搾取せず、また労働に対立しないのです。〉

 【ここでは利子は資本所有そのものがもたらすものだということ、利子生み資本の定在、すなわち資本としての貨幣の定在は資本主義的生産過程の恒常的な前提であり、それは生産手段への転化能力によって、不払労働を支配する力をあたえ、剰余価値の生産を可能ならしめる。だから利子は、自立的な力として、生きた労働に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現なのだが、しかし利子という形態では、こうした賃労働にたいする対立は消えてしまっている。というのは利子生み資本は賃労働に対立するのではなく、機能資本に対立するのであり、賃労働者は機能資本家に対立しているのだからである。つまり利子は、剰余価値の生産を前提しているのだが、しかし生産過程からは切り離されたものとして、資本の所有そのものがもたらすものとして現れており、だから資本と賃労働との対立は直接的には、利子や利子生み資本との関係のなかでは現れないということが指摘されている。これが全体の展開のなかでどういう意義と位置づけをもっているのかは後に考えることにしよう。】


【24】

 |306下|〔原注〕a)ラムジは利子を「純利潤net profit〕」と①②呼んでいる。③(同前〔『富の分配に関する一論』,エディンバラ,1836年〕,193ページ。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔異文〕「企業利潤〔profit of enterprise〕」から区別し,また」という書きかけが消されている。
  ② 訂正〕「呼んでいる」--草稿では「区別している」と書かれている。すぐ上の異文注を見よ。
  ③〔異文〕「(同前,193ページ。)」--書き加えられている。〉 (292-293頁)

 〈ラムジは利子を、「純利潤」と呼んでいます。〉

 【ラムジか利子を「純利潤」と呼んでいるというのは、以前、第22章該当個所で〈ラムジは利子率純利潤の率と呼んでいる〉 (231頁)という一文があったことを思い出させる。】


【25】

 〈/306上/他方,企業利得は,賃労働にたいして対立物をなしているのではなく,ただ利子にたいして対立物をなしているだけである。〉 (293頁)

 〈他方、企業利得は、賃労働に対して対立物をなしているのではなく、ただ利子に対して対立物をなしているだけです。〉

 【前のパラグラフでは、利子は賃労働に対立していないことが指摘されていたが、ここでは利子に対立する企業利得も賃労働に対立していないとの指摘がある。】


【26】

 〈第1に,平均利潤を与えられたものとして前提すれば,企業利得の率は,労賃によってではなく利子率によって規定されている。企業利得の高低は利子率に比例する。b)|〉 (293頁)

 〈第1に、平均利潤を与えられたものとして前提しますと、企業利得の率は、労賃によってではなく利子率によって規定されています。企業利得の高低は利子率に反比例するのです。〉

 【これは企業利得が賃労働にたいして対立物をなしているのではなく、利子に対してだけ対立物をなしているだけだ、という根拠を、まず第1に、として挙げているものである。それは企業利得の高低は利子率に反比例するのであって、賃労働に規定されているのではないというのである。もちろん、剰余価値が労賃と反比例の関係にあることは明らかだが、しかしそれが利潤となり、さらにその分割された形態である企業利得となると、それは直接には利子に対してだけ対立物として関係するものになるというわけである。】


【27】

 〈/306下/〔原注〕b)ラムジ「企業の利潤が資本の純利潤によって定まるのであって,後者が前者によって定まるのではない。」(同前,214ページ。〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.5,S.1798.10-11)を見よ。〔MEGA II/3.5のこの箇所には,ラムジの以下の文が引用されている。〕〉 (293頁)

 【これは利子が企業利得の対立物としてあることの一例としてラムジの言明が紹介されている。彼は企業の利潤(企業利得)は、純利潤(利子)によって定まるのであって、その逆ではない、と述べている。注解では61-63草稿を参照せよ、とあるので一応、それも見ておこう。

  純利潤(利子)の率については、R 〔ラムジ〕は次のように言っている、この率は、「一部には総利潤の率により、また一部には総利潤が利子と産業利潤とに分かれる割合によって定まる。この割合は、資本の貸し手と借り手との競争によって定まる。この競争は、実現が期待される総利潤の率によって影響されはするが、これによって完全に調整されるわけではない。そして、競争がただこの原因だけによって調整されるのではないというわけは、一方では、なんら生産的に充用する目的なしに借りる人々がたくさんいるからであり、他方では、国内の貸付可能な全資本の割合は総利潤のなんらかの変動にかかわりなく、その国の富とともに変動するからである。(206、207ページ)「企業の利潤は資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではない。」(204ページ)〉 (草稿集⑧429頁)】


【28】

 |307上|第2に,機能資本家は,企業利得にたいする自分の権原(請求権)を,したがって企業利得そのものを,自分の資本所有から引き出すのではなく,資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのであり,そしてこのことは,彼が借りた資本で操作し,したがって利子と企業利得とが二人の別な人格のものになる場合には,直接に存在する対立として現われる。企業利得は,再生産過程での資本の機能から発生する。つまり,彼がこの機能を,生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと,媒介するために行なう操作,活動によって,発生する。機能資本の代表者だということは,けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではない。資本主義的生産様式の基礎の上では,資本家は生産過程をも流通過程をも指揮〔dirigiren〕する。生産的労働の搾取は,彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,労働を要費する。だから,彼にとっては彼の企業利得は,利子に対立して,資本所有にはかかわりのないものとして,むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として,現われるのである。そこで,彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してくる〔sich entwickeln〕。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身労賃であり,労働監督賃金wages of superintendence of labour〕であり,普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜかと言えば,1)その労働が複雑労働だからであり,2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。彼の資本家としての機能は,剰余価値すなわち剰余労働,最も経済的な諸条件のもとで,生産することにあるということは,資本家がこの機能をしないでたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに,企業利得は,彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる,という対立のために,完全に忘れられる。利潤つまり剰余価値が[452]分かれる二つの部分の対立的な形態のために,両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ,また,剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在諸条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのである。現実の過程では機能資本家は,賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており,貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,機能資本家によって代表されたものとして,労働の搾取に参加している。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としてのみ,能動的資本家は,労働者を自分のために労働させるという,またはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行なうことができるということ,このことは,再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために,忘れられるのである。じっさい,利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では,労働にたいする連関〔Beziehung〕,それにたいする関係〔Verhältniß〕はなにも表現されてはいない。なぜならば,この関係は,ただ,労働と利潤とのあいだに,またはむしろこれらの二つの部分の合計であり全体であり,統一体〔Einheit〕としての剰余価値とのあいだに,存在するだけだからである。利潤が分割される割合,また,この分割がそのもとで行なわれる別々の権原は利潤を前提し,その定在を前提する。それゆえ,もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば,彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのであるが,これは労働者にとっては,資本家がそのうちの一部分を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と,まったく同じことである。こうして,二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が,ひそかに,利潤の,つまり分割されるべきものの存在根拠に,あとでどのように分割されるかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に,転化してしまうのである。利子は企業利得に対立し,企業利得は利子に対立し,つまり両者は互いに対立し合っているが,しかし労働には対立していないということからは,次のことが出てくる。--企業利得・プラス・利子,すなわち利潤,さらには剰余価値は,なににもとついているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが,利潤は,それのこのような分割がなされる前に,あるいはなされうる前に,生産されるのである。十十)|

  ①〔異文〕「したがって企業利得そのものを,」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本がただ……さいのその怠惰な形態に対立する」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「だということ」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「生産的」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「……の結果として」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「頭」Hirnkasten←Hirnschädel
  ⑧〔異文〕「取得[する]〔anzueign[en]〕」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「対立的な形態」← 「対立」
  ⑩〔異文〕「機能〔資本家〕が……ときには」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「したがって,資本の労働者たちにたいして……として」と書いたのち,このうちの「資本の」を「資本が」と書きかえ,そのあとこれらのすべてを消している。
  ⑫〔異文〕「資本の」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「もち[ろん]〔natu[rlich]〕……想定する」という書きかけが消され,さらに「もちろん,利潤の生産そのものへの連関を,また,それの発生原因との目に見える関連をもたずに,それ〔利潤〕を前提する」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「つまり資本が……」という書きかけが消され,さらに「同じ資本が……」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「あとで」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「,また,資本がどのようにしてこれ(剰余価値)を……」という書きかけが消されている。
  ⑰〔異文〕「剰余価値の」← 「ものの」
  ⑱〔異文〕「まったく……もとづいていない」という書きかけが消されている。
  ⑲〔異文〕手稿ではここに,++)という標識がつけられた追補が続いている。〔本書本巻〕297ページ9行-301ページ4行を見よ。|〉 (293-297頁)

  このパラグラフも長いので、便宜的に番号を打って箇条書き的に平易に書き直してみよう。

 〈(1)第2に、機能資本家は、企業利得にたいする自分の権原(請求権)を、したがって企業利得そのものを、自分の資本所有から引き出すのではなく、資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのです。そしてこのことは、彼が借りた資本で操作し、したがって利子と企業利得とが二つの人格のものになる場合には、直接に存在する対立として現れます。
  (2)企業利得は、再生産過程での資本の機能から発生します。つまり、彼がこの機能を、生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと、媒介するために行う操作、活動によって、発生するのです。機能資本の代表者だということは、けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではありません。資本主義的生産様式の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮します。生産的労働の搾取は、彼がやるにしても、彼の名で他人にやらせるにしても、労働を要費します。だから、彼にとっては彼の企業利得は、利子に対立して、資本所有とはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として、現れるのです。
  (3)そこで、彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してきます。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身が労賃であり、労働監督賃金であり、普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である、というような観念です。
  (4)なぜそれが高いかというと、1)その労働が複雑労働だからであり、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからです。
  (5)彼の資本家としての機能は、剰余価値すなわち剰余労働を、最も経済的な諸条件のもとで、生産することにあるということは、次のことによって完全に忘れ去られます。すなわち、資本家がこの機能をしないでとるたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに、企業利得は、彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる、という対立のためにです。
  (6)利潤つまり剰余価値が分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ、また、剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのです。
  (7)現実の過程では機能資本家は、賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており、貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものとして、労働の搾取に参加しています。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としての、能動的資本家は、労働者を自分のために労働させるということ、あるいはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行うことができるということ、こうしたことは、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために、忘れられるのです。
  (8)じっさい、利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働にたいする連関、それに対する関係は何も表現されてはいません。なぜならば、この関係は、ただ、労働と利潤とのあいだに、またはむしろこれらの二つの部分(利子と企業利得)の合計であり全体であり、統一体としての剰余価値とのあいだに、存在するだけだからです。利潤が分割される割合、また、この分割がそのもとで行われる別々の権原は利潤を前提し、その定在を前提します。それゆえ、もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば、彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのですが、しかしこのことは労働者にとってはまったく無関係であり、それは資本家がそのうちの一部を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と、まったく同じことです。
  (9)こうして、二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が、ひそかに、利潤の、つまり分割されるべきものの存在根拠に、あとでどのように分割されるのかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に、転化してしまうのです。
  (10)利子は企業利得に対立し、企業利得は利子に対立し、つまり両者は互いに対立し合っていますが、労働には対立していないということからは、次のことが出てきます。--企業利得・プラス・利子、すなわち利潤は、さらには剰余価値は、なににもとづいているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが、利潤は、そのこのような分割がなされる前に、あるいはなされうる前に、生産されるのです。〉

 【このパラグラフは企業利得は賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているだけだということの説明の第2の理由である。第1には、企業利得の率は、労賃によってではなく、利子率によって規定されていることがその理由としてあげられていた。
  今回は、企業利得そのものが機能資本家の機能そのもの、その労働に支払われるものとして、労働監督賃金として現れることから、それ自体が賃労働として現れるからだということが理由としてあげられている。
  しかしこのパラグラフは長く、それ以外のこともいろいろと言われている。それを順序よくその概要をまとめてみることにしよう。
  まず(1)では、企業利得が利子に対立すること、だから機能資本家は、怠惰なたんなる所有がもたらすものに対立して、企業利得を資本の機能から引き出すことが確認されている。
  次に(2)では、企業利得が資本の機能から発生するということは、それが産業資本であろうと商業資本であろうと、それを行う活動や操作によって発生すること、そしてそのためには、彼がそれをやるにしろ、彼の名で他人にやらせるにせよ、労働を必要とし、だから企業利得はその対価として現れてくることが確認されている。
  (3)では、そうしたことから機能資本家の頭に反映する観念が説明されている。つまり企業利得というのは、賃労働に対立する他人の不払労働からなっているどころか、それ自身が労賃なのだ、ただ監督賃金として、他の労賃より高いだけだ、というものである。ここでマルクスが、こうした観念を、ただ企業利得と利子との対立が、機能資本家の頭に発生する観念として説明していることに注意されなければならない。だからそれを企業利得そのものが監督賃金に転化するとか、あるいはマネージャーが手にする監督賃金は利潤ではなく、労賃の一形態だ、などいう主張は、結局、こうした観念を現実と取り違えているということである。
  (4)ここでは上記のような観念が発生する理由が述べられている。1)その労働が複雑労働だから、だからその賃金も普通の賃金より高いのは当然だということ、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだから、だからその賃金が他の一般の労働者の賃金より高いのは当然だ、という理由である。
  (5)機能資本家の機能というのは、つまり彼の労働の内容というのは、労働者を効率的に搾取して、剰余価値すなわち剰余労働を搾り取ることだ、ということが、資本家がこの機能をしないで、たんなる資本所有者であっても利子を得るということや、あるいは彼が自分が機能する場合の資本の非所有者であっても、企業利得を得るということの、こうした対立によって、そうしたことが完全に忘れ去られるのだと指摘されている。
  (6)利潤(剰余価値)の分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられる。また剰余価値の分割は剰余価値の性質や起源やその存在根拠を少しも変えることができないということが忘れ去られる、と指摘されている。この部分も極めて重要である。剰余価値がどのように分割され、対立した形態をとろうと、それらが剰余価値にその源泉をもっているということそのものは決して変わることはないのだということである。だからマネージャーの監督賃金が一般の労働者の賃金とますます変わらないように低くなろうと、それが剰余価値を源泉としていること自体は何も変わらないのである。
  (7)ここでは現実の過程が論じられている。つまり機能資本家は、賃労働者に対して他人の所有としての資本を代表していること、そして貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものして、労働の搾取に参加しているということである。これも極めて重要なことである。しかしこうした現実は実際は覆い隠されているわけである。つまり機能資本家は、労働者に対立する生産手段の代表者として、自分のために労働者を労働させるということ、あるいはそれによって生産手段を資本として機能させることができるということが、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外でのたんなる資本所有にたいして対立しているということによって、忘れ去られるのだ、と説明されている。
  (8)剰余価値がとる二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働に対する連関、関係は何も表現されていないことが指摘されている。というのは労働あるいは労賃と直接関係するのは剰余価値全体だからである。剰余価値、あるいは利潤が分割されるその割合や、それが如何なる権原にもとづくものであるか、というようなことは労働にとっては無関係だからである。
  (9)こうして二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割の根拠が、いつのまにか、利潤そのものの存在根拠になってしまうわけである。
  (10)つまり企業利得・プラス・利子が利潤である。さらには剰余価値は何にもとづいているか。すなわち企業利得と利子にもとづいている、というように。しかしいうまでもなく、利潤は、このような分割がされる以前に、それ自体が生産されていなければならないのである。
  とまあ、こうしたことが述べられているわけである。】


【29】

 |307下|++)利子生み資本がそういうものとして実証されるのは,ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて,利子を一部分とするある超過分が生産されるかぎりでのことである。とはいえ,このことは,利子生み資本には,利子が,あるいは利子を生むということが,過程にはかかわりなしに,属性として生え込んでいるということをなくしてしまうものではない。労働能力もまた,たしかに,ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ,価値を創造するというそれの力を実証する。このことは,労働能力はそれ自体として,能力として,価値創造活動なのであって,そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなくむしろ過程に前提されているのだということを,排除するものではない。そのようなものとして,労働能力は買われるのである。それを働[453]かせることなしにそれを買うこともできる。資本にしてもそうである。借り手〔borrower〕がそれを資本として使うかどうか,つまり,価値を創造するというそれに固有な属性を過程で実証するかどうかは,借り手の勝手である。彼が代価を支払うのは,どちらの場合にも,この商品に即自的に,可能性から見て含まれている剰余価値にたいしてなのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている。
  ②〔異文〕「るかぎりでの」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「生え込んでいる」eingewachsen←eingewachsen ist
  ④〔異文〕「……という能力〔Vermögen〕」という書きかけが消されている。〉 (297-298頁)

 〈利子生み資本がそういうものとして、つまりそれが貸し出されることによって、利潤の一部を利子として取得するということが、実証されるのは、ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて、利子を一部分とするある超過分(つまり剰余価値)が生産される限りでのことです。しかしこのことは、利子生み資本には、利子が生え込んでいるということをなくしてしまうわけではありません。労働能力もまた、たしかに、ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ、価値を創造するというその力を実証します。しかしそのことは、労働能力はそれ自体として、能力として、価値創造活動なのであって、そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなく、むしろ過程に前提されているのだということを、排除しないのと同じです。労働能力は、そのようなものとして買われるのだからです。だからそれを働かせることなしにそれを買うこともできるわけです。同じことは資本についてもいえます。借り手がそれを資本として使うかどうか、つまり価値を創造するというそれに固有の属性を過程で実証するかどうかは、借り手の勝手です。彼が代価を支払うのは、どちらの場合にも、この商品に即時的に、つまり可能性からみて含まれている剰余価値にたいしてなのです。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフに関連して、それを補足する形で後で書き継がれたもののようである。
  先のパラグラフでは、企業利得が賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているという第2の理由として、企業利得そのものが、生産的資本の機能から発生するために、それ自体が労働監督賃金として現れてくること、だからそれは賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働になってくるのだ、というものであった。
  今回のパラグラフでは、それに関連して、利子というものは利子生み資本に生え込んでいるものとして現れてくることが指摘されている。本来は利子生み資本は生産的に前貸しされて、剰余価値を創造するという独特の使用価値をもつ商品として、その売り渡しの価格として利子が対価として支払われるのであるが、しかし利子は、実際にその利子生み資本が剰余価値を生み出す形で投下されなくても、支払われるものとしてあるということである。これは労働が、現実に労働過程のなかで実証する過程で、価値あるいは剰余価値を生み出すのであるが、しかしそれが販売される時点では、それはただ前提されたものとして、たんなる可能性でしかないこと、しかし労働力はそうした可能性を持つものとして買われるという例を持ち出して、それと利子生み資本とは同じなのだとしている。だから利子生み資本に利子を支払うのは、それが可能性からみて、剰余価値を創造しうるからであり、可能性から見ての剰余価値に対する支払なのだ、ということである。

  注解によると、〈このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている〉とある。しかしそれがどの部分を指すのかいま一つハッキリしない。ここでは二つの部分を指摘しているが、それは恐らく、一つの文章のなかに、長い挿入文があるので、その挿入部分を省略したものを該当するものとして紹介しているのであろうと思われる。そうした判断のもとに、紹介すると、次のような一文ではないかと思われる。

  〈確かに、利子生み資本がそのものとして実証されるのは、ただ、……{この部分に{ }で括られた長い挿入文がある}……貸された貨幣が現実に資本に転化させられて剰余を生産しこの剰余の一部分が利子となるかぎりでのことである。とはいえ、このことは、利子生み資本には、過程からは独立に、利子と利子生みとが属性として固着している、ということを解消するものではない。それは、綿花の有用な属性を実証するためには綿花が紡がれるかどうかして利用されなければならないということが、綿花の綿花としての使用価値を解消しないのと同様である。だから、資本は、利子を創造するというその力を、ただそれが生産過程にはいることによってのみ、[示すのである]。だが、労働能力もまた、価値を創造するというその力を、ただそれが過程のなかで労働として働かされ実現されるときにのみ、実証する。このことは、労働能力それ自体が、能力として、価値創造活動であって、そのようなものとして過程によってはじめて生成するのではなく、過程にたいしてはむしろ前提されている、ということを排除しはしない。労働能力はそのものとして買われる。それを買ってもそれに労働をさせずにおくこともできる。(たとえば、劇場支配人が俳優を買うとしても、それは彼に演技をさせるためではなく、彼の演技を競争相手の劇場から奪い取るためだということがある。)労働能力を買う人が、自分が代価を支払うその属性を、価値を創造するというその属性を、利用するかどうかということは、売り手にも売られた商品にもなんの関係もないのであって、ちょうど、資本を買う人がそれを資本として利用するかどうか、つまり、価値を創造するというそれに固有な属性を過程のなかで働かせるかどうか、ということと同様である。彼が代価を支払うものは、どちらの場合にもそれ自体として、可能性から見て、買われる商品の本性から見て、一方の場合には労働能力に含まれており他方の場合には資本に含まれている剰余価値と、それ自身の価値を維持する能力とである。それだからこそ、自分の資本で仕事をする資本家も、剰余価値の一部分を、利子とみなすのである。すなわち、資本が、生産過程から独立していながら、それを生産過程に持ちこんだために、生産過程から出てくるところの剰余価値とみなすのである。〉 (草稿集⑦460-462頁)】

  (続く)

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