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2019年9月

2019年9月26日 (木)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-6)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 

 前回の続き【30】パラグラフからである。

【30】

 〈①資本主義的生産様式における資本の独自な社会的規定性の契機--資本所有--{他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと}--が固定され,したがってまた,利子が剰余価値のうち資本がこの規定性において生み出す部分として現われることによって,剰余価値の他方の部分--企業利得--は必然的に,資本としての資本から生じるのではなくて,資本-利子という表現においてすでにその特別な存在様式を受け取っている,資本の社会的規定性からは分離されて,生産過程から生じるものとして現われる。しかし,資本から分離されれば,生産過程は労働過程一般である。したがって産業資本家は,資本所有者から区別されたものとしては,機能する資本ではなく,資本を度外視した機能者であり,労働過程一般のたんなる担い手,労働者,しかも賃労働者である。つまり利子それ自体が,まさに,労働諸条件の資本としての定在,社会的に対立するものとしての,また,労働に対立し労働を支配する人格的な諸力に変態したものとしての,労働諸条件の定在を表現しているのである。利子は,他人の労働の生産物を取得する手段としてのたんなる資本所有を表わしている。しかし,利子はこの資本の性格を,生産過程そのものの外で資本に属するあるもの,そしてけっしてこの生産過程そのものの独自な規定性の結果ではないあるものとして,表わしている。利子は,このあるものを,労働にたいする対立において表わすのではなく,反対に,労働にたいする関係なしに,ひとりの資本家の他の資本家にたいするたんなる関係として,表わす。つまり,労働そのものにたいする資本の関係にとっては外的でどうでもよい規定として,表わすのである。こうして,利子にあっては,すなわち資本の対立的な性格が一つの自立的な表現を自分に与えるところの,利潤の姿態にあっては,この性格は自分にこの表現を次のような仕方で与える。すなわち,この対立がこの表現では完全に消し去られすっかり捨象されてしまうという仕方で与える。利子は資本家のあいだの関係であって,資本家と労働者とのあいだの関係ではないのである。他方,この利子という形態は,利潤の他方の部分に,企業利得という,さらに進んで監督賃金wages of superintendence〕という質的な形態を与える。資本家が資本家として果たさなければならない,そしてまさに労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する,特殊的な諸機能が,たんなる労働諸機能として表わされるのである。彼が剰余価値を創造するのは,彼が資本家として労働するからではなくて,彼の資本家としての属性から離れて見ても彼が労働をもするからである。だから,剰余価値のこの部分は,もはやけっして剰余価値ではなく,その反対物であり,遂行された労働の等価である。資本の疎外された性格,労働にたいする資本の対立が,[454]現実の搾取過程のかなたに移されるので,この搾取過程そのものはたんなる労働過程として現われるのであって,ここでは機能資本家はただ労働者がするのとは別の労働をするだけであり,したがって,搾取するという労働も搾取される労働も労働としては同じだということになる。搾取するという労働が搾取される労働と同一視される。利子には資本の社会的形態が属するが,しかしそれは中立的かつ無差別な形態で表現されている。企業利得には資本の経済的機能が属するが,しかしこの機能の特定な,資本主義的な性格は捨象されている。〔++)による追記部分終わり〕|

  ①〔注解〕このパラグラフのうち,冒頭から,ほぼ末尾にある,「搾取するという労働が搾取される労働と同一視される。」という文の直前までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1492.22-39 und l494,13-1495.20)から,変更を加えて,取られている。
  ②〔異文〕「資本所有」← 「資本の所有」← 「資本としての所有」〉 (298-301頁)

  〈資本主義的生産様式における資本の独自な社会的規定性というのは、労働に対立して、労働の客体的諸条件が資本の所有として現れることです。そして利子においてこそ、この社会的規定性の契機である資本所有が固定されるのです。利子は資本所有の果実として現われます。だから利子が剰余価値のうち資本がこの社会的規定性にもとづいて生み出すものとして現われるからこそ、それを越える超過分が必然的に企業利得として現われるのです。しかもそれは資本としての資本から生じるのではなくて、資本としての資本は、すでに資本-利子という定式において、その特別な存在様式を受け取っているために、企業利得は、資本の社会的規定性からは分離されて、生産過程から生じるものとして現れるのです。そして資本から分離されれば、生産過程は労働過程一般です。だから産業資本家は、資本所有から区別されたものとしては、機能する資本ではなく、資本を度外視した機能者であり、労働過程一般のたんなる担い手、つまり単なる労働者、しかも賃労働者として現れるのです。
  つまり利子それ自体が、まさに労働諸条件の資本としての定在、社会的に対立するものとしての、労働に対立し労働を支配する人格的な諸力に変態したものとしての労働諸条件の定在を表現するようになるのです。利子は、他人の労働の生産物を取得する手段としてのたんなる資本所有を表しています。しかし、利子はこの資本の性格を、生産過程そのものの外で資本に属するあるもの、そしてけっしてこの生産過程そのものの独自な規定性の結果ではないあるものとして、表しているのです。利子はこのあるものを、労働にたいする対立において表すのではなく、反対に、労働にたいする関係なしに、ひとりの資本家の他の資本家にたいするたんなる関係として、表します。つまり、労働そのものに対する資本の関係にとっては外的でどうでもよい規定として、表すのです。
 こうして利子にあっては、つまり本来は資本の対立的な性格が一つの自立的な表現を自分に与えたものであるところの、利潤のこの姿態にあっては、この性格は自分にこの表現を次のような仕方で与えるのです。すなわち、この対立がこの表現では完全に消し去られてすっかり捨象されてしまうという仕方で与えるのです。利子は資本家のあいだの関係であって、資本家と労働者とのあいだの関係ではないのです。
 他方で、利子という形態は、利潤の他方の部分に、企業利得という、さらに進んでは監督賃金という質的な形態を与えます。資本家が資本家として果たさなければならない、そしてまさに労働者と区別され労働者に対立するものとして資本家に属する、特殊的な諸機能が、たんなる労働諸機能として表されるのです。彼が剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなくて、彼の資本家としての属性から離れて見ても彼が労働をもするからです。だから、剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物であり、遂行された労働の等価なのです。資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立が、現実の搾取過程のかなたに移されるので、この搾取過程そのものはたんなる労働過程として現れるのです。ここでは機能資本家はもやはただ労働者がするのとは別の労働をするだけであり、だから搾取するという労働も搾取される労働も労働としては同じだということになるのです。搾取するという労働が搾取される労働と同一視されるのです。利子には資本の社会的形態が属します。しかしそれは中立的でかつ無差別な形態で表現されています。企業利得には資本の経済的機能が属しますが、しかしこの機能の特定な資本主義的な性格は捨象されてしまっているのです。〉

 【このパラグラフは、一つ前のパラグラフに続くものであり、【28】パラグラフで、企業利得が賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているという第2の理由として、企業利得そのものが、生産的資本の機能から生まれるために、それ自体が労働監督賃金として現れて、賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働になるからだと説明していたものに、関連して追記された【29】パラグラフに続くもので、だからその追記の後半部分である。
 ここではやや難解な論理が展開されている。だから平易な書き下し文も少し展開を変えて書いてみた。大谷氏の訳は、確かにマルクスの原文そのものに忠実なのかも知れないが、ややわかりにくいからである。だから少し丁寧に解読していくことにしよう。
 まず〈資本主義的生産様式における資本の独自な社会的規定性の契機〉というのを、マルクスは説明して一つは〈資本所有〉をあげ、そのあと--を引いて{ }に入れて、〈他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと〉をあげている。この二つはどういう関係にあるのかがもう一つ分かりにくい。マルクスは『経済学批判要綱』では、労働の客体的諸条件が労働から切り離されて資本の所有として現われることを資本の社会的規定性として説明している。そして利子は資本所有の果実として現われるからこそ、利子はこの資本主義的生産様式の資本の独自の社会的規定性の契機を表すものとして存在しているのである。だから〈他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと〉というのは、一見すると機能資本家の機能のように見えるが、そうではなく、利子が資本所有を代表することによって、他人の所有として労働を指揮することも利子によって表現されているのだというのである。それは〈資本-利子〉という観念によって固定化される。「資本-利潤」ではなく、「資本-利子」の関係が社会的に一般化されるということである。資本の一般的定式であるG-G'というその無媒介性は、資本-利子の関係がよりよく表しているわけである。資本主義的生産様式の独自の産物は利子だということになる。そしてそのことによって、企業利得は、利子という表現においてすでに特別な存在様式を受け取っている資本の社会的規定性からは分離されて、たんに生産過程そのものから生じるものとして現れてくると指摘されている。
 そして資本関係から分離されると、資本の生産過程は単なる労働過程一般になり、だから産業資本家は、機能する資本家ではなく、資本を度外視したたんなる機能者であり、労働過程一般のたんなる担い手になること、だから彼は労働者、しかも賃労働者になるのだ、と指摘されている。
 そしてこうしたことは、利子が、労働諸条件の資本としての定在を、すなわち労働に対立して労働を支配する人格的な諸力に変態したものとしての労働諸条件の定在を、表現していることから来るのだと述べている。要するに、労働に対立する社会的規定性は利子に代表される形で、機能資本家からその資本の性格が吸い取られて、そこに残るのはたんなる機能者、あるいは労働過程を担うたんなる労働者にしてしまうというのである。
 しかし利子はこの資本としての対立的な社会的な性格を生産過程の外で資本に属するあるもの、そしてけっしてこの生産過程そのものの独自な結果ではないあるものとして表すのだというのである。この「あるもの」とは何のことはさっぱりわからないのであるが、この「あるもの」は、利子は労働にたいする関係ではなしに、資本家と他の資本家にたいする関係として表す「あるもの」だとも説明されている。労働そのものにたいする資本の関係にとっては外的でどうでもよい規定として自分を表すのだというのである。
 結局、利子においては資本の対立的な性格は消えてしまうとマルクスは指摘している。利子は資本家と資本家とのあいだの関係であって、資本家と労働者とのあいだの関係ではないからである。
 そして他方では、利子と区別された、企業利得は、監督賃金という質的な形態を与えられる。労働者に対立するものとして資本家に属する特殊な諸機能が、たんなる労働諸機能として表される。彼が剰余価値を創造するのは、労働者からそれを搾り取るからではなく、彼も労働するからであり、だから彼が手にする剰余価値は、決して剰余価値ではなく、その反対に、遂行された労働の対価・等価であるということになるというわけである。
 このように資本の疎外された性格、労働に対する資本の対立が、現実の搾取過程のかなたに(つまり利子という独自な社会的的規定性の契機に)移されてしまう。だからこの搾取過程はたんなる労働過程として現れるのである。ここでは機能資本家はただ労働者がするのとは別の労働をするだけであり、だから搾取する労働も搾取される労働も労働としては同じだという驚くべき結果になるわけである。
 利子にはこのように資本の社会的形態が属しているのであるが、しかしそれは中立的でかつ無差別な形態で表現されている。それは特定の資本や労働者ではなく、資本一般に属するものとしてあるからである。こうして他方の、企業利得には資本の経済的機能が属するのであるが、この機能の資本主義的な性格は捨象されてしまっているわけである。こうして資本・賃労働の階級的な対立は雲散霧消し、いつのまにか消え去ってしまうわけである。

 なお注解ではこのパラグラフは61-63草稿から変更を加えて取られていると指摘されている。だからその部分の原文を見ておくことにする。ただし注解で指示されたところ以外の部分も、いま問題になっているところを理解する上で重要と思えるので、長くなるが、関連すると思われる部分をできるだけ紹介することにしよう(ただし草稿集につけられた異文などは煩雑になるのですべて省略する)。

 〈しかし、こうして資本および資本主義的生産の独自に社会的な規定の契機--法的には所有としての資本において、所有の特殊な一形態としての資本所有において、表現されるところの、独自に社会的な規定--が固定され、したがって利子が、過程一般の規定としてのこの規定からは分離されたこの規定において資本が生み出す剰余価値部分として現われるということによって、明らかに、剰余価値の他方の部分、利潤のうち利子を越える超過分、産業利潤は、資本としての資本からではなく生産過程から生ずる価値として現われるのであるが、この生産過程は、資本-利子という表現においてすでにその特殊な存在様式を受け取っているところの、その社会的規定からは分離されている。だが、資本から分離されれば、生産過程は労働過程一般である。資本家としての自分とは区別された産業資本家、資本家すなわち資本の所有者としての自分とは区別された産業家は--つまりただ労働過程における単純な機能者にすぎず、機能しつつある資本ではなくて、資本とは無関係な機能者であり--、したがって労働過程一般の単純な担い手、すなわち労働者である。そうなれば、産業利潤はうまく労賃に変えられて、普通の労賃と一致することになり、これと違うのは、ただ量だけであり、また、資本家がそれを自分自身に支払うのであってだれからも支払ってはもらわないという特殊な支払形態だけだということになる。
 このような、利潤の利子産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、まったく別なものとして示されている。
 利子が表わしているのは、剰余価値の一部分である。利潤のうちの、単なる、特殊な名目のもとに取り出された、分けまえである。資本の単なる所有者のものになる、彼によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、この二つの部分に、転化した姿を与えるところの、質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて固定する。すなわち、利子は、ただ産業家が他人の資本で仕事をする場合にかぎって「たまたま」行なわれる、生産には無関係な分割としては現われない、ということにおいてである。産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利子産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすでに質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに資本および資本主義的生産そのものの本性から生ずる質的な分割として、固定されるのである。単に利潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当がではなく、利潤の二つの特殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規定にたいして関係をもつのである。この独立化は、以前に述べた諸理由は別としても、次のような理由によってますます容易に固定する。というのは、利子生み資本は、歴史的形態としては産業資本以前に出現し、また産業資本と並んでその古い形態のままで存続し、そして産業資本によってその発展の過程ではじめてそれ自身の一つの特殊な形態として資本主義的生産のもとに包摂されるからである。
 それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。
 こうして、剰余価値のこれらの二つの形態にあっては、その本性つまり資本の本質や資本主義的生産の性格は、完全に消し去られているだけではなく反対物に転倒されている。しかし、諸物の主体化、諸主体の物化、原因と結果との転倒、宗教的な取違え、資本の純粋な形態G-G'が、無意味に、いっさいの媒介なしに、表示され表現されるかぎりでは、資本の性格も姿も完成されている。同様に、諸関係の骨化も、この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物にたいする人聞の関係として表示することも、商品の単純な神秘化や貨幣のすでにより複雑化された神秘化におけるのとはまったく違った仕方で作り上げられている。化体は、呪物崇拝は、完成されている。
  こうして、利子それ自体は、まさに、社会的対立と変態とにおける労働条件の資本としての定在を、労働に対立し労働を支配する人的な諸力として表わしている。利子は、主体の活動にたいする関係における労働条件の疎外された性格を要約している。利子は、資本の所有または単なる資本所有を、他人の労働の生産物を他人の労働にたいする支配力としてわがものにするための手段として表示する。しかし、利子は資本のこの性格を、生産過程そのものの外で資本が受け取るものであってけっしてこの生産過程そのものの独自な規定の結果ではないものとして、表示する。利子は資本を、労働にたいする対立においてではなく、逆に、労働にたいする関係なしに、単なる資本家対資本家の関係として、表示する。つまり、労働そのものにたいする資本の関係には外的で無関係な規定として、表示する。資本家たちのあいだでの利潤の分配は、労働者としての労働者にとってはどうでもよいことである。だから、利子にあっては、資本の対立的な性格が自分に一つの特殊な表現を与えるところのこの利潤姿態にあっては、それは、この対立がまったく消し去られていて明瞭に捨象されているところの表現を自分に与えるのである。利子が一般に--貨幣や諸商品などのそれら自身の価値を増殖する能力とは別に、剰余価値をそれらのものから発生するものとして、それらのものの自然的果実として、表示するかぎりでは、したがって極端な形態における資本神秘化の単なる表現であるかぎりでは、--利子が一般に社会的関係としての社会的関係を表示するかぎりでは、利子が表わすものは単に資本家どうしの関係にすぎないのであって、けっして資本と労働との関係ではないのである。
  他方、この利子という形態は、利潤の他方の部分に、産業利潤という質的な形態を与える。すなわち、資本家としてのではなく労働者(産業従事者)としての産業資本家の労働にたいする労賃という形態を与える。資本家が資本家として労働過程で行なわなければならないところの、そしてまさに労働者とは区別された彼にこそ属するところの、特殊な諸機能は、単なる労働機能として示される。彼が剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼、資本家もまた、労働するからである。ちょうど、王として軍隊を名目的に指揮する王が軍隊を指揮するように定められるのは、彼が王位の所有者として指揮し将軍の役を演ずるからではなく、彼が王であるのは、彼が指揮し将軍の機能を行なうからだ、というようなものである。こうして、剰余価値の一部分が利子において搾取過程から完全に分離されるとすれば、他方の部分は--産業利潤において--その正反対物として、他人の労働の取得ではなく自分の労働の価値創造物として、示されるのである。だから剰余価値のこの部分は、もはやけっして剰余価値ではなく、その反対物、実行された労働の等価なのである。資本の疎外された性格、労働にたいする資本の対立は、搾取過程の彼方に、この疎外の現実の行為の彼方にあるので、いっさいの対立的な性格はこの過程そのものからは遠ざけられている。それだから、現実の搾取、すなわち、対立的な性格がそれにおいて実現されはじめて現実に示されるところのものは、まさにその反対物として、労働の素材的に特殊な仕方ではあるが労働の同じ社会的規定--賃労働--に属するものとして、現われるのである。労働という同じ範疇に。搾取する労働がここでは搾取される労働と同一視されているのである。
  このような、利潤の一部分の産業利潤への転化は、われわれが見るように、他の部分の利子への転化から生ずる。一方の部分には資本の社会的な形態--それが所有であるということ--がかかわりをもつ。他方の部分には資本の経済的機能、労働過程における資本の機能がかかわりをもつ、といっても、この機能は、資本がこの機能を行なうさいの社会的な形態、対立的な形態からは解放され抽象されている。さらにこれがいろいろな小賢しい理由によってどんなに正当化されるかは、利潤を監督労働だとする弁護論的な説明についてさらに詳しく見られるべきである。資本家がここでは彼の支配人と同一視されることは、すでにスミスが言っているとおりである。もちろん、いくらかは賃金がはいっている(支配人がこの賃金をもらっていない場合)。資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者(Captain of industry)として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。人間が自分自身の自然や外部の自然や他の人間にたいする自分の関係を宗教的な形態で独立化して、そのためにこれらの観念によって支配されるようになれば、人間は聖職者たちと彼らの労働とを必要とする。しかし、意識の宗教的形態や意識の諸関係の消滅とともに、聖職者のこの労働も社会的生産過程にはいることはなくなる。聖職者とともに聖職者の労働もなくなり、同様に、資本家とともに、彼が資本家として行なうかまたは他の者に行なわせる労働もなくなる。(奴隷制の例を引用文によって詳論すること。)ところで、利潤を監督労働の賃金として労賃に帰着させるこの弁護論は、方向を変えて弁護論者たちに立ち向かうことになる。というのは、イギリスの社会主義者たちは今や正当にも次のように答えたからである。では、君たちは今後はただ普通の支配人の賃金だけを受け取るべきだ。君たちの産業利潤は、名目上ではなく事実上、労働の監督または管理の賃金に帰着させられるべきだ。(もちろん、この愚論とたわごとには、そのあらゆる矛盾をぬきにして相手になることはできない。たとえば、産業利潤は、利子にたいしてであれ、地代にたいしてであれ、逆に上がり下がりする。ところが、労働の監督、すなわち資本家が現実に行なう一定量の労働は、そんなことには関係がないし、労賃の低落にも関係がない。すなわち、この種の労賃は、現実の労賃に逆比例して(というのは、利潤率が剰余価値率によって制約されるかぎりでのことであるが、すべての生産条件が不変のままであるかぎり利潤率はもっぱら剰余価値率によって制約される)上がり下がりするのである。だが、このような「小対立」は弁護論者的俗物の頭のなかでの同一性を解消させはしない。資本家が行なう労働は、彼の支払う労賃が少なかろうと多かろうと、労働者たちの受ける支払が高かろうと低かろうと、絶対に同じままである。それは、一労働日にたいして支払われる労賃が労働そのものの量を変えないのとまったく同様である。それどころではない。というのは、労働者は賃金が高ければより激しく労働するからである。これに反して、資本家の労働は確定した要素であって、それは彼が管理するべき労働量によって質的にも量的にも確定されており、この量にたいする賃金によって定められるのではない。彼が彼の労働を強化することができないのは、労働者が工場で自分の前にあるよりも多くの綿花を加工することができないのと同様である。) そして、さらに彼ら〔イギリスの社会主義者たち〕は次のように言う。管理職は、監督労働は、今ではすべての他の労働能力と同様に市場で買うことができるし、相対的に同様に安価に生産することができ、したがって買うこともできる。管理労働が、自分の資本のであれ他人の資本のであれ資本所有から完全に分離されて、街頭をうろついているということは、資本主義的生産そのものが成就したことである。この管理労働が資本家たちによって行なわれるということは、まったく無用になった。それは、資本から分離されて、産業資本家や貨幣資本家からの見せかけの分離においてではなく、産業経営者などから分離され、あらゆる種類の資本家から分離されて、現実に存在している。最良の証拠は、労働者たち自身によって設立された協同組合工場である。これらの工場は、生産上の機能者としての資本家が労働者たちにとってよけいなものになったのは、ちょうど、資本家自身にとって地主の機能がブルジョア的生産にはよけいなものとして現われるのと同様だ、ということの証拠を提供している。第二に、資本家の労働が、資本主義的過程としての過程から生じ、したがって資本がなくなればおのずからなくなる、というものでないかぎり、それが、他人の労働を搾取するという機能の名称でないかぎり、それが協業や分業などという労働の社会的形態から生ずるのでないかぎり、それは、資本主義的な外皮を脱ぎ去れば、この形態そのものとまったく同様に資本からは独立している。この労働が資本主義的労働として、資本家の機能として、必要だ、と言うことは、次のこと以外のなにごとをも意味してはいない。すなわち、俗物は、資本のふところのなかで発展した労働の社会的生産力や社会的性格を、この資本主義的な形態から、それらの諸契機の疎外、対立、矛盾の形態から、それらの転倒や混同(quid pro quo〕から、切り離して考えることはできない、ということがそれである。そして、まさにこれこそは、われわれが主張するところなのである。
 こういうわけで、利子生み資本において--利潤の利子と〔産業〕利潤とへの分裂において--資本はその最も物的な形態を、純粋な呪物形態を、受け取ったのであって、剰余価値の本性はまったくなくなってしまったことが示されているのである。資本は--物として--ここでは価値の独立の源泉として現われる。地代における土地や労賃(一部は本来の労賃、一部は産業利潤)における労働と同じように、価値創造者として現われる。確かに、労賃や利子や地代を支払わなければならないのは、やはり商品の価格である。だが、商品の価格がそれらのものを支払うのは、商品のなかにはいる土地が地代を、商品のなかにはいる資本が利子を、商品のなかにはいる労働が労賃を、創造するからである。〔これらのものが〕これらの価値部分を創造し、これらの価値部分が、それぞれの所有者または代表者、すなわち土地所有者、資本家、労働者(賃金労働者と産業家)のもとに流れこむのである。だから、一方では諸商品の価格が労賃、地代、利子を規定し、他方では利子、地代、労賃という価格が諸商品の価格を規定するということも、この立場に立てば、理論にとって矛盾ではないのであり、または、もしそれが矛盾であっても、それは同時に現実の運動の矛盾、悪循環なのである。
 利子率は確かに変動するが、しかし、ただ、他の各商品の市場価格と同様に、需要供給の関係に従って変動するだけである。このことは資本に内在するものとしての利子を解消させはしないのであって、ちょうど、商品価格の変動が商品に属する規定としての価格を解消させないのと同じことである。
 こうして、土地、資本、労働は、一方では、それらが地代、利子、労賃の源泉であってこれらのものが商品価格の構成要素であるかぎりでは、価値を創造する諸要素として現われる。他方では、地代、利子、労賃がこれらの価値生産要素のそれぞれの保持者のもとに流れこみ、これらの生産要素によって創造された生産物価値部分をこの保持者のもとに導いて行くかぎりでは、土地、資本、労働は収入源泉として現われ、地代、利子、労賃という諸形態は分配の諸形態として現われる。(俗流経済学者たちが分配形態を実際にただ別の形態の〔sub alia specie〕生産形態としてしか把握せず、他方、批判的な経済学者たちはそれらを分離してそれらの同一性を誤認するとすれば、そこには、われわれがのちに批判的な経済学にたいして見るであろうように、愚かさの帰結があるのである。)
  利子生み資本では資本は価値または剰余価値の独立な源泉として現われるのであるが、それは資本が貨幣または商品としてもっているものである。しかも、資本はそれ自身で、その物的な姿において、この源泉である。もちろん、資本は、このようなその属性を実現するためには、生産過程にはいらなければならない。だが、土地や労働もまたそうしなければならない。
  そこでわかるのは、なぜ俗流経済学は、土地-地代、資本-利子、労働-労賃〔という形態〕のほうを、スミスなどの場合に価格の諸要素(というよりもむしろ価格が分解される諸部分)として見いだされる形態よりも、また一般にすべての古典派経済学者の場合に資本関係そのものが言い表わされる資本利潤という形で現われる形態よりも、愛好するのか、ということである。利潤ではまだ過程にたいする撹乱的な関係が含まれており、剰余価値や資本主義的生産の真の性質が、それらの現象とは区別されたものとして、まだ多少とも認識できるようになっている。こういうことは、利子が資本の本来の所産として示され、それとともに剰余価値の他方の部分、産業利潤がまったく姿を消して、労賃の範疇にはいれば、なくなってしまう。(以下、略)〉 (草稿集⑦(467-476頁)

 ながながと紹介したが、とりあえず、この61-63草稿の内容と関連させて、いま問題になっている部分を解読するうえで気づいた点について少し書き足しておこう。

 (1) まずは本文で〈資本主義的生産様式における資本の独自な社会的規定性の契機--資本所有--{他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと}--が固定され〉と書かれている部分は、61-63草稿では〈資本および資本主義的生産の独自に社会的な規定の契機--法的には所有としての資本において、所有の特殊な一形態としての資本所有において、表現されるところの、独自に社会的な規定--が固定され〉と表現されており、『資本論』の草稿にある〈{他人の所有として労働を指揮する〔commandiren〕こと}〉という一文は、新たに加えられたものであることが分かる。
 (2) 〈しかし,利子はこの資本の性格を,生産過程そのものの外で資本に属するあるもの,そしてけっしてこの生産過程そのものの独自な規定性の結果ではないあるものとして,表わしている。利子は,このあるものを,労働にたいする対立において表わすのではなく,反対に,労働にたいする関係なしに,ひとりの資本家の他の資本家にたいするたんなる関係として,表わす。つまり,労働そのものにたいする資本の関係にとっては外的でどうでもよい規定として,表わすのである〉という部分で〈あるもの〉というのがいま一つハッキリしなかったのであるが、61-63草稿の恐らくそれに該当すると思われる部分は〈しかし、利子は資本のこの性格を、生産過程そのものの外で資本が受け取るものであってけっしてこの生産過程そのものの独自な規定の結果ではないものとして、表示する。利子は資本を、労働にたいする対立においてではなく、逆に、労働にたいする関係なしに、単なる資本家対資本家の関係として、表示する。つまり、労働そのものにたいする資本の関係には外的で無関係な規定として、表示する〉という部分ではないかと思われる。これを見るとあまり〈あるもの〉とは何かなどと詮索する必要がないことが分かる。マルクスがいわんとすることはよく分かるのである。ようするに利子は資本の対立的な性格を表すのだが、しかしそれは生産過程の外で、資本家の他の資本家との関係として、だから労働者とは無関係なものとして、それとは切り離されたものとして表すということである。だから対立的な性格を表しているのに、その対立はまったく中立的なものとして表すことになるわけである。
 (3) 紹介した61-63草稿には今回のテキストで論じられている以外のものも多く論じているが、注目すべきものとしては次のようものもある。
  〈こうして、剰余価値のこれらの二つの形態にあっては、その本性つまり資本の本質や資本主義的生産の性格は、完全に消し去られているだけではなく反対物に転倒されている。しかし、諸物の主体化、諸主体の物化、原因と結果との転倒、宗教的な取違え、資本の純粋な形態G-G'が、無意味に、いっさいの媒介なしに、表示され表現されるかぎりでは、資本の性格も姿も完成されている。同様に、諸関係の骨化も、この諸関係を特定の社会的性格をもつ諸物にたいする人聞の関係として表示することも、商品の単純な神秘化や貨幣のすでにより複雑化された神秘化におけるのとはまったく違った仕方で作り上げられている。化体は、呪物崇拝は、完成されている。〉
  (4) もう一つ、この部分も注目すべきではないだろうか。
  〈だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。〉
  このように支配する労働も生産物の価値にはいる労働だとしているのであるが、果たしてどのように考えるべきだろうか。これについてはさらにこのあと管理・監督労働が考察される中て考えていくことにしよう。
  61-63草稿についてはこれぐらいにしておこう。それ以外にも多くの興味深いことが語られているが、それは各自検討・吟味していただきたい。】

  (以下、続く)

 

2019年9月15日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-5)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【22】パラグラフからである。


【22】

 (われわれがここで利潤というときには,それはいつでも平均利潤のことである。というのは,いろいろな偏倚は,個別的利潤の偏倚であろうとさまざまの生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値分配が,個別資本家のあいだであろうと,さまざまの生産部面の資本家たちのあいだでであろうと,いろいろに変動することは--,われわれにとってここではまったくどうでもよいことだからである。このことは,総じて当面の研究において固持されなければならない。)

  ①〔異文〕「を云[々する]〔v[om]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「個別的〔individuell〕」← 「個々の〔einzeln〕」〉 (290頁)

 〈(ここで私たちが利潤という場合には、それはいつでも平均利潤のことです。というのは、いろいろな偏倚は、個別的利潤の偏倚であろうとさまざまな生産部面の利潤の偏倚であろうと--つまり競争戦等々につれて平均利潤または剰余価値の分配が、個別資本家のあいだであろうと、さまざまな生産部面の資本家のあいだであろうと、いろいろに変動することは--、私たちにとってはここではまったくどうでもよいことだからです。このことは、総じて当面の研究においては固持されなければなりません。)〉

 【このパラグラフは全体が丸カッコに入っている。だから当面の問題とは多少違ったものという意図がマルクスにはあるのであろう。事実、ここでは利潤というのは、平均利潤を意味するということは当面の研究においては固持されるべきだということが確認されているわけである。これはその一つ前のパラグラフで〈すでに見たように,利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき,平均利潤と利子との差額,利潤の他の部分は,利子に対立する形態に,企業利得という形態に,転化する〉と述べられていたことに関連して、書かれているように思える。ここでは〈平均利潤と利子との差額〉とわざわざ〈平均利潤〉という用語を使っているが、しかし当面の研究では、われわれが「利潤」という場合は、「平均利潤」あるいはその率としては、「一般的利潤率」を意味するのだということである。そしてこうしたことは第22章該当部分の冒頭でも述べられていたことである。】


【23】

 ところで,利子純利潤Nettoprofit〕a)であって,これは,再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと,資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと,とにかく資本所有そのものがもたらすところのものである。しかし,後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも,彼が機能資本家であるかぎりでのことではなく,彼が貨幣資本家〔monied Capitalist〕であり,自分の資本をmonied Capital,利子生み資本として,機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手〔lender〕であるかぎりでのことである。貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように,資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提である。すなわち,貨幣は,生産手段へのその転化能力によって,つねに不払労働を支配〔commandiren〕し,したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させる。だから,利子はただ,価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働〔であって〕,現実の生産過程では生産手段の姿態をとる--が,自立的な力〔Macht〕として,生きた労働能力(労働力)に対立しており,不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ,ということの表現でしかないのである。とはいえ,他方,利子という形態では,賃労働にたいするこのような対立は消えてしまっている。というのは,利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく,機能するかぎりでの資本に対立しているのだからであり,貸付資本家はそのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて,再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのであり,他方では,まさに資本主義的生産様式の基礎の上では,賃労働者は生産手段とはなんのかかわりもない(彼らから収奪されて〔expropriirt〕いる)のだからである。利子生み資本は,機能としての資本にたいする所有としての資本である。ところが,資本は,それが[451]機能しないかぎり,労働者を搾取せず,また労働に対立しないのである。/

  ①〔異文〕「再生産過程」← 「生産過程」
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「資本がそれの所有者に」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「自分自身への貸[し手]〔V[erleiher]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「……〔資本としての〕貨幣の定在は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「恒常的な」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「絶えざる」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「同様に」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「転化能力」← 「転化」
  ⑩〔異文〕「絶えざる……である」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「一部分を……に」という書きかけが消されている。
  ⑫〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「すなわち……価値」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「生[きた]……の自立的に……として」という書きかけが消され,さらに「生きた労働の自立的な力に対立するものとして」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「のであり,また,価値がこのような力〔Macht〕であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「の表現でしかない」← 「を表現する」
  ⑰〔異文〕「賃労働にたいする」← 「他人の労働にたいする」
  ⑱〔異文〕「利子生み資本は」← 「利子は」〉 (290-292頁)

 〈ところで、利子は、純利潤です。これは、再生産過程の外にとどまっているたんなる貸し手にであろうと、資本を自分で生産的に使用する資本の所有者にであろうと、とにかく資本所有そのものがもたらすところのものです。しかし、後者のために資本所有がこの純利潤をもたらすのも、彼が機能資本家であるかぎりのことではなく、彼が貨幣資本家であり、自分の資本をmoneyed capital、利子生み資本として、機能資本家としての自分自身に貸し付ける貸し手である限りでのことです。
 貨幣(価値一般)の資本への転化が資本主義的生産過程の恒常的な結果であるように、資本としての貨幣の定在はまた同様に資本主義的生産過程の恒常的な前提です。つまり、貨幣は、生産手段へのその転化能力によって、つねに不払労働を支配し、したがってまた商品の生産過程および流通過程を貨幣の所持者のための剰余価値の生産に転化させます。だから、利子はただ、価値一般--一般的社会的形態にある対象化された労働であって、現実の生産過程では生産手段の形態をとる--が、自立的な力として、生きた労働能力(労働力)に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現でしかないのです。また、価値がこのような力であるのは価値が他人の所有として労働者に対立しているからだ、ということの表現でしかないのです。
 とはいえ、他方、利子という形態では、賃労働にたいするこのよう対立は消えてしまっています。というのは、利子生み資本はそのものとしては賃労働に対立しているのではなく、機能する限りでの資本に対立しているのだからです。貸付資本家は、そのものとしては賃労働者に対立しているのではなくて、再生産過程で現実に機能している資本家に対立しているのです。他方では、まさに資本主義的生産様式の基礎の上では、賃労働者は、生産手段を収奪されているのですから、それとはなんのかかわりもないからです。利子生み資本は、機能としての資本に対する所有としての資本です。ところが、資本というのは、それが機能しない限り、労働者を搾取せず、また労働に対立しないのです。〉

 【ここでは利子は資本所有そのものがもたらすものだということ、利子生み資本の定在、すなわち資本としての貨幣の定在は資本主義的生産過程の恒常的な前提であり、それは生産手段への転化能力によって、不払労働を支配する力をあたえ、剰余価値の生産を可能ならしめる。だから利子は、自立的な力として、生きた労働に対立しており、不払労働を取得するための手段になっているということの表現なのだが、しかし利子という形態では、こうした賃労働にたいする対立は消えてしまっている。というのは利子生み資本は賃労働に対立するのではなく、機能資本に対立するのであり、賃労働者は機能資本家に対立しているのだからである。つまり利子は、剰余価値の生産を前提しているのだが、しかし生産過程からは切り離されたものとして、資本の所有そのものがもたらすものとして現れており、だから資本と賃労働との対立は直接的には、利子や利子生み資本との関係のなかでは現れないということが指摘されている。これが全体の展開のなかでどういう意義と位置づけをもっているのかは後に考えることにしよう。】


【24】

 |306下|〔原注〕a)ラムジは利子を「純利潤net profit〕」と①②呼んでいる。③(同前〔『富の分配に関する一論』,エディンバラ,1836年〕,193ページ。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔異文〕「企業利潤〔profit of enterprise〕」から区別し,また」という書きかけが消されている。
  ② 訂正〕「呼んでいる」--草稿では「区別している」と書かれている。すぐ上の異文注を見よ。
  ③〔異文〕「(同前,193ページ。)」--書き加えられている。〉 (292-293頁)

 〈ラムジは利子を、「純利潤」と呼んでいます。〉

 【ラムジか利子を「純利潤」と呼んでいるというのは、以前、第22章該当個所で〈ラムジは利子率純利潤の率と呼んでいる〉 (231頁)という一文があったことを思い出させる。】


【25】

 〈/306上/他方,企業利得は,賃労働にたいして対立物をなしているのではなく,ただ利子にたいして対立物をなしているだけである。〉 (293頁)

 〈他方、企業利得は、賃労働に対して対立物をなしているのではなく、ただ利子に対して対立物をなしているだけです。〉

 【前のパラグラフでは、利子は賃労働に対立していないことが指摘されていたが、ここでは利子に対立する企業利得も賃労働に対立していないとの指摘がある。】


【26】

 〈第1に,平均利潤を与えられたものとして前提すれば,企業利得の率は,労賃によってではなく利子率によって規定されている。企業利得の高低は利子率に比例する。b)|〉 (293頁)

 〈第1に、平均利潤を与えられたものとして前提しますと、企業利得の率は、労賃によってではなく利子率によって規定されています。企業利得の高低は利子率に反比例するのです。〉

 【これは企業利得が賃労働にたいして対立物をなしているのではなく、利子に対してだけ対立物をなしているだけだ、という根拠を、まず第1に、として挙げているものである。それは企業利得の高低は利子率に反比例するのであって、賃労働に規定されているのではないというのである。もちろん、剰余価値が労賃と反比例の関係にあることは明らかだが、しかしそれが利潤となり、さらにその分割された形態である企業利得となると、それは直接には利子に対してだけ対立物として関係するものになるというわけである。】


【27】

 〈/306下/〔原注〕b)ラムジ「企業の利潤が資本の純利潤によって定まるのであって,後者が前者によって定まるのではない。」(同前,214ページ。〔原注b)終わり〕|

  ①〔注解〕カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.5,S.1798.10-11)を見よ。〔MEGA II/3.5のこの箇所には,ラムジの以下の文が引用されている。〕〉 (293頁)

 【これは利子が企業利得の対立物としてあることの一例としてラムジの言明が紹介されている。彼は企業の利潤(企業利得)は、純利潤(利子)によって定まるのであって、その逆ではない、と述べている。注解では61-63草稿を参照せよ、とあるので一応、それも見ておこう。

  純利潤(利子)の率については、R 〔ラムジ〕は次のように言っている、この率は、「一部には総利潤の率により、また一部には総利潤が利子と産業利潤とに分かれる割合によって定まる。この割合は、資本の貸し手と借り手との競争によって定まる。この競争は、実現が期待される総利潤の率によって影響されはするが、これによって完全に調整されるわけではない。そして、競争がただこの原因だけによって調整されるのではないというわけは、一方では、なんら生産的に充用する目的なしに借りる人々がたくさんいるからであり、他方では、国内の貸付可能な全資本の割合は総利潤のなんらかの変動にかかわりなく、その国の富とともに変動するからである。(206、207ページ)「企業の利潤は資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではない。」(204ページ)〉 (草稿集⑧429頁)】


【28】

 |307上|第2に,機能資本家は,企業利得にたいする自分の権原(請求権)を,したがって企業利得そのものを,自分の資本所有から引き出すのではなく,資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのであり,そしてこのことは,彼が借りた資本で操作し,したがって利子と企業利得とが二人の別な人格のものになる場合には,直接に存在する対立として現われる。企業利得は,再生産過程での資本の機能から発生する。つまり,彼がこの機能を,生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと,媒介するために行なう操作,活動によって,発生する。機能資本の代表者だということは,けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではない。資本主義的生産様式の基礎の上では,資本家は生産過程をも流通過程をも指揮〔dirigiren〕する。生産的労働の搾取は,彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,労働を要費する。だから,彼にとっては彼の企業利得は,利子に対立して,資本所有にはかかわりのないものとして,むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として,現われるのである。そこで,彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してくる〔sich entwickeln〕。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身労賃であり,労働監督賃金wages of superintendence of labour〕であり,普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である。なぜかと言えば,1)その労働が複雑労働だからであり,2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからである。彼の資本家としての機能は,剰余価値すなわち剰余労働,最も経済的な諸条件のもとで,生産することにあるということは,資本家がこの機能をしないでたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに,企業利得は,彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる,という対立のために,完全に忘れられる。利潤つまり剰余価値が[452]分かれる二つの部分の対立的な形態のために,両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ,また,剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在諸条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのである。現実の過程では機能資本家は,賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており,貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,機能資本家によって代表されたものとして,労働の搾取に参加している。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としてのみ,能動的資本家は,労働者を自分のために労働させるという,またはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行なうことができるということ,このことは,再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために,忘れられるのである。じっさい,利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では,労働にたいする連関〔Beziehung〕,それにたいする関係〔Verhältniß〕はなにも表現されてはいない。なぜならば,この関係は,ただ,労働と利潤とのあいだに,またはむしろこれらの二つの部分の合計であり全体であり,統一体〔Einheit〕としての剰余価値とのあいだに,存在するだけだからである。利潤が分割される割合,また,この分割がそのもとで行なわれる別々の権原は利潤を前提し,その定在を前提する。それゆえ,もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば,彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのであるが,これは労働者にとっては,資本家がそのうちの一部分を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と,まったく同じことである。こうして,二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が,ひそかに,利潤の,つまり分割されるべきものの存在根拠に,あとでどのように分割されるかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に,転化してしまうのである。利子は企業利得に対立し,企業利得は利子に対立し,つまり両者は互いに対立し合っているが,しかし労働には対立していないということからは,次のことが出てくる。--企業利得・プラス・利子,すなわち利潤,さらには剰余価値は,なににもとついているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが,利潤は,それのこのような分割がなされる前に,あるいはなされうる前に,生産されるのである。十十)|

  ①〔異文〕「したがって企業利得そのものを,」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本がただ……さいのその怠惰な形態に対立する」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「だということ」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「生産的」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「彼が自分でやるにしても,彼の名で他人にやらせるにしても,」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「……の結果として」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「頭」Hirnkasten←Hirnschädel
  ⑧〔異文〕「取得[する]〔anzueign[en]〕」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「対立的な形態」← 「対立」
  ⑩〔異文〕「機能〔資本家〕が……ときには」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「したがって,資本の労働者たちにたいして……として」と書いたのち,このうちの「資本の」を「資本が」と書きかえ,そのあとこれらのすべてを消している。
  ⑫〔異文〕「資本の」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「もち[ろん]〔natu[rlich]〕……想定する」という書きかけが消され,さらに「もちろん,利潤の生産そのものへの連関を,また,それの発生原因との目に見える関連をもたずに,それ〔利潤〕を前提する」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「つまり資本が……」という書きかけが消され,さらに「同じ資本が……」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「あとで」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「,また,資本がどのようにしてこれ(剰余価値)を……」という書きかけが消されている。
  ⑰〔異文〕「剰余価値の」← 「ものの」
  ⑱〔異文〕「まったく……もとづいていない」という書きかけが消されている。
  ⑲〔異文〕手稿ではここに,++)という標識がつけられた追補が続いている。〔本書本巻〕297ページ9行-301ページ4行を見よ。|〉 (293-297頁)

  このパラグラフも長いので、便宜的に番号を打って箇条書き的に平易に書き直してみよう。

 〈(1)第2に、機能資本家は、企業利得にたいする自分の権原(請求権)を、したがって企業利得そのものを、自分の資本所有から引き出すのではなく、資本が怠惰な所有として存在しているさいのその規定性に対立する資本の機能から引き出すのです。そしてこのことは、彼が借りた資本で操作し、したがって利子と企業利得とが二つの人格のものになる場合には、直接に存在する対立として現れます。
  (2)企業利得は、再生産過程での資本の機能から発生します。つまり、彼がこの機能を、生産的資本のそれであろうと商業資本のそれであろうと、媒介するために行う操作、活動によって、発生するのです。機能資本の代表者だということは、けっして利子生み資本を代表することのような閑職ではありません。資本主義的生産様式の基礎の上では、資本家は生産過程をも流通過程をも指揮します。生産的労働の搾取は、彼がやるにしても、彼の名で他人にやらせるにしても、労働を要費します。だから、彼にとっては彼の企業利得は、利子に対立して、資本所有とはかかわりのないものとして、むしろ非所有者としての--労働者としての--彼の機能の結果として、現れるのです。
  (3)そこで、彼の頭のなかでは必然的に次のような観念が発生してきます。企業利得は--賃労働にたいしてなんらかの対立をなしていてただ他人の不払労働でしかないというようなものであるどころか--むしろそれ自身が労賃であり、労働監督賃金であり、普通の賃労働者の賃金よりも高い賃金である、というような観念です。
  (4)なぜそれが高いかというと、1)その労働が複雑労働だからであり、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだからです。
  (5)彼の資本家としての機能は、剰余価値すなわち剰余労働を、最も経済的な諸条件のもとで、生産することにあるということは、次のことによって完全に忘れ去られます。すなわち、資本家がこの機能をしないでとるたんなる資本所有者である場合にも利子は資本家のものになるのに、企業利得は、彼が自分が機能するための資本の非所有者である場合にも彼のものになる、という対立のためにです。
  (6)利潤つまり剰余価値が分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられ、また、剰余価値の分割は剰余価値の性質やその起源やその存在条件を少しも変えることはできないということが忘れられるのです。
  (7)現実の過程では機能資本家は、賃労働者にたいして他人の所有としての資本を代表しており、貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものとして、労働の搾取に参加しています。ただ労働者に対立する生産手段の代表者としての、能動的資本家は、労働者を自分のために労働させるということ、あるいはこの生産手段を資本として機能させるという機能を行うことができるということ、こうしたことは、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外のたんなる資本所有にたいしてなす対立のために、忘れられるのです。
  (8)じっさい、利潤すなわち剰余価値の二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働にたいする連関、それに対する関係は何も表現されてはいません。なぜならば、この関係は、ただ、労働と利潤とのあいだに、またはむしろこれらの二つの部分(利子と企業利得)の合計であり全体であり、統一体としての剰余価値とのあいだに、存在するだけだからです。利潤が分割される割合、また、この分割がそのもとで行われる別々の権原は利潤を前提し、その定在を前提します。それゆえ、もしも資本家が自分が機能するための資本の所有者であるならば、彼は剰余価値または利潤を全部取り込むのですが、しかしこのことは労働者にとってはまったく無関係であり、それは資本家がそのうちの一部を法律上の所有者としての第三者に支払ってしまわなければならないような場合と、まったく同じことです。
  (9)こうして、二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割根拠が、ひそかに、利潤の、つまり分割されるべきものの存在根拠に、あとでどのように分割されるのかにかかわりなく資本がそのものとして再生産過程から引き出す剰余価値の存在根拠に、転化してしまうのです。
  (10)利子は企業利得に対立し、企業利得は利子に対立し、つまり両者は互いに対立し合っていますが、労働には対立していないということからは、次のことが出てきます。--企業利得・プラス・利子、すなわち利潤は、さらには剰余価値は、なににもとづいているのか? それの二つの部分の対立的形態にだ! ところが、利潤は、そのこのような分割がなされる前に、あるいはなされうる前に、生産されるのです。〉

 【このパラグラフは企業利得は賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているだけだということの説明の第2の理由である。第1には、企業利得の率は、労賃によってではなく、利子率によって規定されていることがその理由としてあげられていた。
  今回は、企業利得そのものが機能資本家の機能そのもの、その労働に支払われるものとして、労働監督賃金として現れることから、それ自体が賃労働として現れるからだということが理由としてあげられている。
  しかしこのパラグラフは長く、それ以外のこともいろいろと言われている。それを順序よくその概要をまとめてみることにしよう。
  まず(1)では、企業利得が利子に対立すること、だから機能資本家は、怠惰なたんなる所有がもたらすものに対立して、企業利得を資本の機能から引き出すことが確認されている。
  次に(2)では、企業利得が資本の機能から発生するということは、それが産業資本であろうと商業資本であろうと、それを行う活動や操作によって発生すること、そしてそのためには、彼がそれをやるにしろ、彼の名で他人にやらせるにせよ、労働を必要とし、だから企業利得はその対価として現れてくることが確認されている。
  (3)では、そうしたことから機能資本家の頭に反映する観念が説明されている。つまり企業利得というのは、賃労働に対立する他人の不払労働からなっているどころか、それ自身が労賃なのだ、ただ監督賃金として、他の労賃より高いだけだ、というものである。ここでマルクスが、こうした観念を、ただ企業利得と利子との対立が、機能資本家の頭に発生する観念として説明していることに注意されなければならない。だからそれを企業利得そのものが監督賃金に転化するとか、あるいはマネージャーが手にする監督賃金は利潤ではなく、労賃の一形態だ、などいう主張は、結局、こうした観念を現実と取り違えているということである。
  (4)ここでは上記のような観念が発生する理由が述べられている。1)その労働が複雑労働だから、だからその賃金も普通の賃金より高いのは当然だということ、2)彼は自分自身に労賃を支払うのだから、だからその賃金が他の一般の労働者の賃金より高いのは当然だ、という理由である。
  (5)機能資本家の機能というのは、つまり彼の労働の内容というのは、労働者を効率的に搾取して、剰余価値すなわち剰余労働を搾り取ることだ、ということが、資本家がこの機能をしないで、たんなる資本所有者であっても利子を得るということや、あるいは彼が自分が機能する場合の資本の非所有者であっても、企業利得を得るということの、こうした対立によって、そうしたことが完全に忘れ去られるのだと指摘されている。
  (6)利潤(剰余価値)の分かれる二つの部分の対立的な形態のために、両方とも剰余価値の部分でしかないということが忘れられる。また剰余価値の分割は剰余価値の性質や起源やその存在根拠を少しも変えることができないということが忘れ去られる、と指摘されている。この部分も極めて重要である。剰余価値がどのように分割され、対立した形態をとろうと、それらが剰余価値にその源泉をもっているということそのものは決して変わることはないのだということである。だからマネージャーの監督賃金が一般の労働者の賃金とますます変わらないように低くなろうと、それが剰余価値を源泉としていること自体は何も変わらないのである。
  (7)ここでは現実の過程が論じられている。つまり機能資本家は、賃労働者に対して他人の所有としての資本を代表していること、そして貨幣資本家は機能資本家によって代表されたものして、労働の搾取に参加しているということである。これも極めて重要なことである。しかしこうした現実は実際は覆い隠されているわけである。つまり機能資本家は、労働者に対立する生産手段の代表者として、自分のために労働者を労働させるということ、あるいはそれによって生産手段を資本として機能させることができるということが、再生産過程のなかでの資本の機能が再生産過程の外でのたんなる資本所有にたいして対立しているということによって、忘れ去られるのだ、と説明されている。
  (8)剰余価値がとる二つの部分が利子と企業利得としてとる形態では、労働に対する連関、関係は何も表現されていないことが指摘されている。というのは労働あるいは労賃と直接関係するのは剰余価値全体だからである。剰余価値、あるいは利潤が分割されるその割合や、それが如何なる権原にもとづくものであるか、というようなことは労働にとっては無関係だからである。
  (9)こうして二つの種類の資本家のあいだでの利潤(剰余価値)の分割の根拠が、いつのまにか、利潤そのものの存在根拠になってしまうわけである。
  (10)つまり企業利得・プラス・利子が利潤である。さらには剰余価値は何にもとづいているか。すなわち企業利得と利子にもとづいている、というように。しかしいうまでもなく、利潤は、このような分割がされる以前に、それ自体が生産されていなければならないのである。
  とまあ、こうしたことが述べられているわけである。】


【29】

 |307下|++)利子生み資本がそういうものとして実証されるのは,ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて,利子を一部分とするある超過分が生産されるかぎりでのことである。とはいえ,このことは,利子生み資本には,利子が,あるいは利子を生むということが,過程にはかかわりなしに,属性として生え込んでいるということをなくしてしまうものではない。労働能力もまた,たしかに,ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ,価値を創造するというそれの力を実証する。このことは,労働能力はそれ自体として,能力として,価値創造活動なのであって,そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなくむしろ過程に前提されているのだということを,排除するものではない。そのようなものとして,労働能力は買われるのである。それを働[453]かせることなしにそれを買うこともできる。資本にしてもそうである。借り手〔borrower〕がそれを資本として使うかどうか,つまり,価値を創造するというそれに固有な属性を過程で実証するかどうかは,借り手の勝手である。彼が代価を支払うのは,どちらの場合にも,この商品に即自的に,可能性から見て含まれている剰余価値にたいしてなのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている。
  ②〔異文〕「るかぎりでの」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「生え込んでいる」eingewachsen←eingewachsen ist
  ④〔異文〕「……という能力〔Vermögen〕」という書きかけが消されている。〉 (297-298頁)

 〈利子生み資本がそういうものとして、つまりそれが貸し出されることによって、利潤の一部を利子として取得するということが、実証されるのは、ただ貸し付けられた貨幣が現実に資本に転化されて、利子を一部分とするある超過分(つまり剰余価値)が生産される限りでのことです。しかしこのことは、利子生み資本には、利子が生え込んでいるということをなくしてしまうわけではありません。労働能力もまた、たしかに、ただそれが労働の過程で実証され実現されるときにのみ、価値を創造するというその力を実証します。しかしそのことは、労働能力はそれ自体として、能力として、価値創造活動なのであって、そのようなものとして過程のなかではじめて生成するのではなく、むしろ過程に前提されているのだということを、排除しないのと同じです。労働能力は、そのようなものとして買われるのだからです。だからそれを働かせることなしにそれを買うこともできるわけです。同じことは資本についてもいえます。借り手がそれを資本として使うかどうか、つまり価値を創造するというそれに固有の属性を過程で実証するかどうかは、借り手の勝手です。彼が代価を支払うのは、どちらの場合にも、この商品に即時的に、つまり可能性からみて含まれている剰余価値にたいしてなのです。〉

 【このパラグラフは、先のパラグラフに関連して、それを補足する形で後で書き継がれたもののようである。
  先のパラグラフでは、企業利得が賃労働に対立しているのではなく、利子に対立しているという第2の理由として、企業利得そのものが、生産的資本の機能から発生するために、それ自体が労働監督賃金として現れてくること、だからそれは賃労働に対立するどころか、それ自体が賃労働になってくるのだ、というものであった。
  今回のパラグラフでは、それに関連して、利子というものは利子生み資本に生え込んでいるものとして現れてくることが指摘されている。本来は利子生み資本は生産的に前貸しされて、剰余価値を創造するという独特の使用価値をもつ商品として、その売り渡しの価格として利子が対価として支払われるのであるが、しかし利子は、実際にその利子生み資本が剰余価値を生み出す形で投下されなくても、支払われるものとしてあるということである。これは労働が、現実に労働過程のなかで実証する過程で、価値あるいは剰余価値を生み出すのであるが、しかしそれが販売される時点では、それはただ前提されたものとして、たんなる可能性でしかないこと、しかし労働力はそうした可能性を持つものとして買われるという例を持ち出して、それと利子生み資本とは同じなのだとしている。だから利子生み資本に利子を支払うのは、それが可能性からみて、剰余価値を創造しうるからであり、可能性から見ての剰余価値に対する支払なのだ、ということである。

  注解によると、〈このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGA II/3.4,S.1487.32-33 und 1488.39-1489.20)から取られている〉とある。しかしそれがどの部分を指すのかいま一つハッキリしない。ここでは二つの部分を指摘しているが、それは恐らく、一つの文章のなかに、長い挿入文があるので、その挿入部分を省略したものを該当するものとして紹介しているのであろうと思われる。そうした判断のもとに、紹介すると、次のような一文ではないかと思われる。

  〈確かに、利子生み資本がそのものとして実証されるのは、ただ、……{この部分に{ }で括られた長い挿入文がある}……貸された貨幣が現実に資本に転化させられて剰余を生産しこの剰余の一部分が利子となるかぎりでのことである。とはいえ、このことは、利子生み資本には、過程からは独立に、利子と利子生みとが属性として固着している、ということを解消するものではない。それは、綿花の有用な属性を実証するためには綿花が紡がれるかどうかして利用されなければならないということが、綿花の綿花としての使用価値を解消しないのと同様である。だから、資本は、利子を創造するというその力を、ただそれが生産過程にはいることによってのみ、[示すのである]。だが、労働能力もまた、価値を創造するというその力を、ただそれが過程のなかで労働として働かされ実現されるときにのみ、実証する。このことは、労働能力それ自体が、能力として、価値創造活動であって、そのようなものとして過程によってはじめて生成するのではなく、過程にたいしてはむしろ前提されている、ということを排除しはしない。労働能力はそのものとして買われる。それを買ってもそれに労働をさせずにおくこともできる。(たとえば、劇場支配人が俳優を買うとしても、それは彼に演技をさせるためではなく、彼の演技を競争相手の劇場から奪い取るためだということがある。)労働能力を買う人が、自分が代価を支払うその属性を、価値を創造するというその属性を、利用するかどうかということは、売り手にも売られた商品にもなんの関係もないのであって、ちょうど、資本を買う人がそれを資本として利用するかどうか、つまり、価値を創造するというそれに固有な属性を過程のなかで働かせるかどうか、ということと同様である。彼が代価を支払うものは、どちらの場合にもそれ自体として、可能性から見て、買われる商品の本性から見て、一方の場合には労働能力に含まれており他方の場合には資本に含まれている剰余価値と、それ自身の価値を維持する能力とである。それだからこそ、自分の資本で仕事をする資本家も、剰余価値の一部分を、利子とみなすのである。すなわち、資本が、生産過程から独立していながら、それを生産過程に持ちこんだために、生産過程から出てくるところの剰余価値とみなすのである。〉 (草稿集⑦460-462頁)】

  (続く)

2019年9月 8日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【18】パラグラフからである。


【18】

 第3に,生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業をするかということは,彼に貨幣資本家〔monied Capitalist〕の階級が特殊的種類の資本家として対立し,monied Capitalが資本の一つの自立的形態として対立し,利子がこの独自な資本に対応する自立的な剰余価値形態として対立するという事情を少しも変えるものではない。質的に見れば,利子は剰余価値であって,この剰余価値は資本のたんなる所有が提供するのであり,資本の所有者は再生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体Capital an sich〕がもたらすのであり,したがって資本がそれの過程から分離されていながらもたらすのである。量的には,利潤のうち利子を形成する部分は生産的資本そのものに関連してではなくmonied Capitalに関連して現われるのであって,剰余価値のこの部分の率,すなわち利子率または利子歩合はこの関係を確立するのである。というのは,第1に,利子率は--それが一般的利潤率に依存するにもかかわらず--自立的に規定されるからであり,また第2に,利子率は,商品の市場価格と同様に,捕捉できない利潤率とは反対に,確定した,一様な,明白な,つねに与えられている割合として現われるからである。もしもいっさいの資本が生産的資本家の手中にあるならば,利子率も,だからまた利子も存在しないであろう。総利潤の量的な分割がとる自立的な形態が,質的な分割を生みだすのである。生産的資本家が自分を貨幣資本家〔monied capitalist〕と比べてみれば,彼を後者から区別するものは,ただ企業利得だけである。すなわち,総利潤のうち,⑤⑥利子率によって経験的に与えられた大きさとして現われる平均利子を越える超過分としての,それだけである。他方,彼が自分を自分の資本でではなく借りた資本で事業をする生産的資本家と比べてみれば,彼はただ貨幣資本家monied Capitalist〕として後者と区別されるだけである。というのは,後者は利子を払ってしまうのではなく自分のふところに入れるのだからである。どちらの面からも,彼にとっては,総利潤のうちで利子と区別される部分は企業利得として現われるのであり,利子そのものは,資本がそれ自体としてもたらすところの,したがってまた,かりに資本が生産的に充用され||305上|なくてもそれがもたらすであろう剰余価値として現われるのである。そして,個別資本家にとっては,このことは実際上正しい。彼の資本が投下の出発点でmonied Capitalとして存在していようと,彼がそれをこれからやっとmonied capitalに転化させなければならないものであろうと,彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか,それとも生産的資本として自分で増殖するかは,彼の勝手である。若干の俗流経済学者たちがやっているように,一般的にそうだと考えるならば,しかもそれを利潤の根拠としてあげるならば,それはもちろんばかげたことである。[449]大量の資本は--貨幣として存在する資本を別とすればすべての資本は--,生産手段の形態で存在するのであって,生産手段を買ってそれを資本として価値増殖する人びとがいないのに総資本をmonied Capitalに転化するということは,もちろん無意味である。これよりももっとひどく無意味なのは,資本主義的生産様式の基礎の上では,資本は,生産的資本として機能しなくても,すなわち利子がたんにその一部分でしかない剰余価値を創造しなくても,利子を生むはずだということ,つまり,資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するはずだということである。もしも資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmonied Capitalに転化させようとするならば,その結果は,ただ,貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と利子率のひどい低落だけであって,この低落はたちまち〔資本家の〕一部分を,それの利子で食っていくことができないようにし,したがって彼らに生産的資本家に逆戻りせざるをえなくさせるであろう。しかし,いま述べたように,個別資本家にとってはこれは事実である。それゆえ,必然的に彼は,自分の資本で事業をする場合でも,自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を,過程を無視して,自分の資本そのものCapitals als solches〕の所産とみなすのであり,また,利子として自立化させられたこの部分に対立させて,総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのである。a)/

  ①〔異文〕「自分の資本の所有者〔Eigner〕である生産的資本家が自分を貨幣資本家〔monied Capitalist〕と比べてみれば」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「monied Capital」← 「可能性から見ての資本Capital der Möglichkeit nach〕」
  ③〔異文〕「補捉できない」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「確定していて……のかたちで〔in festen und〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「平均的」と書き加えたのち,これを消している。
  ⑥〔異文〕「利子率によって経験的に与えられた大きさとして現われる」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「彼が自分の資本をmo[nied Capital]に……できる」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「それを買う」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「総資本をmonied Capita1に転化する」← 「資本の総転化」
  ⑪〔異文〕「利子がたんにその一部分でしかない」--書き加えられている。
  ⑫〔異文〕「しなくても〔ohne〕」--この語を使わない表現を書きかけたが,消している。
  ⑬〔異文〕「貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と」--書き加えられている。〉 (284-287頁)

 〈第3に、生産的資本家の階級に貨幣資本家の階級が特殊的種類の資本家として対立し、moneyed capitalが資本の一つの自立的形態として産業資本に対立し、利子がこの独自な資本に対応する剰余価値の形態として、産業資本の利潤に対立するという事情は、個別の生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業するかということとは何の関係もありません。
 質的にみれば、利子は剰余価値です。ただしこの剰余価値は資本のたんなる所有が提供するものであり、資本の所有者は再生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体がもたらすものとしてそれを取得するのです。だから利子は資本がその生産過程から分離されていながらもたらすものなのです。
 量的には、利潤のうち利子を形成する部分は生産的資本そのものに関連してではなくmoneyed capitalに関連して現れます。だからこの剰余価値のこの部分の率は、つまり利子率や利子歩合は、moneyed capitalとの関係を確立するのです。というのは、第1に、利子率は--それが一般的利潤率に依存するにもかかわらず--自立的に規定されるからです。第2に、利子率は、商品の市場価格と同様に、補足できない利潤率とは反対に、確定した、一様な、明白な、つねに与えられている割合として現れるからです。
 もしいっさいの資本が生産的資本家の手中にあるのでしたら、利子率も、だからまた利子も存在しないでしょう。総利潤の量的な分割がとる自立的な形態(=利子)が、質的な分割を生み出すのです。生産的資本家が自分を貨幣資本家と比べてみれば、彼を後者から区別するものは、ただ企業利得だけです。つまり総利潤のうち、利子率によって経験的に与えられた大きさとして現れる平均利子を越える超過分としての、それだけです。他方、彼が自分を自分の資本でではなく借りた資本で事業をする生産的資本家と比べてみれば、彼はただ貨幣資本家(moneyed capital)として後者と区別されるだけです。というのは、彼は利子を払ってしまうのではなく自分のふところに入れるのだからです。どちらの面からも、彼にとっては、総利潤のうち利子と区別される部分は企業利得として現れるのであり、利子そのものは、資本がそれ自体としてもたらすところのもの、したがってまた、かりに資本が生産的に充用されなくてもそれがもたらすであろう剰余価値として現れるのです。
 そして個別資本家にとっては、このことは実際上正しいのです。彼の資本が投下の出発点でmoneyed capitalとして存在していようと、彼がそれをこれからやっとmoneyed capitalに転化させなければならないものであろうと、彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか、それとも生産的資本として自分で増殖するかは、彼の勝手だからです。
 もちろん、若干の俗流経済学者たちがやっているように、一般的にそうだと考えるならば、しかもそれを(つまりmoneyed capitalを)利潤の根拠としてあげるならば、それはもちろんばかげたことでしょう。大量の資本は--貨幣として存在する資本を別とすればすべての資本は--、生産手段の形で存在するのであって、生産手段を買ってそれを資本として価値増殖する人々がいないのに総資本をmoneyed capitalに転化するということは、まったく無意味です。
 これよりもっとひどく無意味なのは、資本主義的生産様式の基礎の上では、資本は、生産的資本として機能しなくても、すなわち利子生み資本がたんにその一部分でしかない剰余価値を創造しなくても、利子を生むはずだということ、つまり、資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するはずだという戯言です。
 もしも資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmoneyed capitalに転化させようとするならば、その結果は、ただ、貨幣に転化されるべき彼らの資本のひどい減価と利子率のひどい低落だけであって、この低落はたちまち彼らの資本の一部分をその利子で食っていけなくさせるであろうし、だから彼らに生産的資本家に逆戻りせざるを得なくさせるでしょう。
 しかし、いま述べましたように、個別資本家にとってはこれは、つまり彼の資本を何によって増殖するかは、彼の勝手だということは、事実です。だから、必然的に彼は、自分の資本で事業をする場合でも、自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を、過程を無視して、自分の資本そのものの所産とみなすのであり、また、利子として自立化させられたこの部分に対立させて、総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのです。〉

 【このパラグラフは第3の理由が述べられているのだが、パラグラフ全体は、なかなかその展開が分かりにくい。マルクスは何を中心にこの第3の理由として述べているのか、それをしっかり確認することが必要であろう。
 まず冒頭の部分はややわかりにくい。〈生産的資本家が自分の資本で事業をするか借りた資本で事業をするかということは,彼に貨幣資本家〔monied Capitalist〕の階級が特殊的種類の資本家として対立し,monied Capitalが資本の一つの自立的形態として対立し,利子がこの独自な資本に対応する自立的な剰余価値形態として対立するという事情を少しも変えるものではない〉という部分は、しかしその後半部分の展開をみると、どうやら個別の生産的資本家にとっては、資本家階級が二つの対立した形態に分裂しているという事情は、彼が自分の資本で事業をするかそれとも借りた資本で事業をするかという事情には影響はないのだ、ということのようである。
 そのあと〈質的にみれば〉云々と〈量的には〉云々、と対比させて書いているが、しかしここでの質的・量的の考察は、量的分割が質的分割に転回するということとは関連はなさそうである。
 まず質的には、利子は剰余価値であり、それは資本のたんなる所有がもたらすものだということ、だからそれは生産過程の外にとどまっているにもかかわらず資本それ自体がもたらすのであり、だから過程から分離されていながらもたらすものだとの指摘がある。これは利子というものを質的に考察したものだというわけである。それは剰余価値だが、資本の所有そのものがもたらすものであり、だから生産過程から分離されていながらもたらされるものだというわけである。これが利子の質的側面である。
 量的には、利子は生産的資本そのものに関連してではなく、moneyed capitalに関連して現れるという。確かにmoneyed capitalの大小に利子の大小は規定されている。また利子率や利子歩合は、moneyed capitalとしての元本を基準に計算される。だから利子はmoneyed capitalに付随するものとして、〈この関係を確立する〉。ここで〈この関係〉をどう理解するのかはやや分かりにくいが、まあ利子とmoneyed capitalとの関係ということであろうか。そして〈というのは〉と続いている。だから、このあとの第1に、第2にと述べていることは、その前の量的に言えることとして述べている、利子とmoneyed capitalとの関係を確立するということに関連して述べていると考えるべきであろう。量的には利子はmoneyed capitalに関連して現れ、それによって利子とmoneyed capitalとの関連が確立される、というのは第1に、利子率は、一般的利潤率に直接には依存せず、自立的に規定されるからであり、第2に、利子率は、捕捉できない利潤率とは反対に、確定した、一様な、明白な、つねに与えられた割合として現れるからだというのである。ここでは利子率は利潤率と対比させる形でその特徴が述べられている。つまり質的には利子は剰余価値であり、生産的資本家が生産する利潤に依存しているが、しかしそれは生産過程から分離されたまま資本それ自体がもたらすものとしてあるのであり、量的には、生産的資本とは関係なしに、ただmoneyed capitalとの関係のなかだけで現れる。そして利子率や利子歩合は、こうした利子がmoneyed capitalとだけ関連したものとして現れる関係を確定するのだというわけである。そしてその根拠として、第1に利子率は、一般的利潤率に依存しているにもかかわらず、直接には、自立的に規定されるからであり、 第2に利潤率のように捕捉し難いものとしてではなく、確定したものとして現れるからだというわけである。
 次に、自分の資本で事業を行う生産的資本家と借りた資本で事業を行う生産的資本家との区別を論じ、そこから利子が資本がそれ自体としてもたらすものと観念されることが論証されている。
 まずいっさいの資本が生産的資本家の手中にあれば、そもそも利子率も、利子も存在しないことは明らかである。だから総利潤が量的に分割されるのは、事業をする生産的資本家が借りた資本で事業を行う場合であり、利子が自立的な形態をとっている場合である。その場合は総利潤は量的に分割され、それは利子と企業利得という質的分割をもたらすわけである。だから生産的資本家が自分を貨幣資本家と比べるなら、後者を前者と区別するものは企業利得だけである。他方、自分の資本で事業をする生産的資本家が、借りた資本で事業をする生産的資本家と自分を区別するのは、ただ貨幣資本家としてである。なぜなら、彼は利子を支払ってしまうのではなく、それを貨幣資本家として自分自身の懐に入れるからである。だから彼にとっては、どちらの面からも、総利潤のうち利子と区別される部分は企業利得として現れ、利子そのものは、資本がそれ自体としてもたらすところのもの、だからかりに資本が生産的に充用されなくてもそれをもたらすであろう剰余価値として現れるのだと指摘されている。
 そしてこうした観念は、個別資本家にとっては実際上正しいものとして現れるわけである。彼は彼の資本が出発点でmoneyed capitalとして存在していようと、そうではなくこれからmoneyed capitalに転化させなければならないものであろうと、彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか、それとも生産的資本として自分で事業に投下して増殖するかは、彼の勝手である。
 以下、しかし個別資本にとってはそうであっても、総資本の立場からはそうは言えないということが述べられている。実際上は、大量の資本は生産的資本として生産手段の形態にあり、生産的に投下されて価値増殖をするからこそ、moneyed capitalも利子をもたらすわけである。だからすべての資本をmoneyed capitalとして投下するなどということはありえない。資本主義的生産様式は資本主義的生産がなくても進行するなどという馬鹿げたことになりかねない。
 もし資本家のむやみに大きい部分が彼らの資本をmoneyed capitalに転化させるなら、その結果は、ただ貨幣に転化させるべき彼らの資本のひどい減価とひどい利子率の低下であって、それはたちまち彼らの一部分を利子で食っていけなくし、生産的資本家に逆戻りをせざるをえなくさせるであろう、というわけである。
 しかしこうしたことは個別資本家にとっては、彼の資本をどういう形で投下するかは彼の勝手というのは事実だということを否定するわけではない。だから彼は自分の資本で事業に投下する場合も、自分の資本そのものの所産である利子と、その利子に対立させて、総利潤のうち利子を越える部分を企業利得として考えるわけである。
 結局、この第3の理由として言われていることは、このパラグラフの最後に結論的に言われていることであろう。つまり個別の資本家にとっては、彼の資本をmoneyed capitalとして投下するか、それとも生産的な事業に投下するは、勝手であり、だから彼がたとえ自分の資本で事業を行う場合でも、まずは彼の資本を資本それ自体として利子をもたらすものと観念し、次に総利潤のうち利子を越える超過分を企業利得とみなすのだということである。こうしことからも量的な分割が、質的な分割に転回することがいえるのだということである。それが第3の理由である。】


【19】

 |305下|〔原注〕a) 利子企業利得との対立についての浅薄な観念は次のとおり。--
①②「利潤,イコール,貯蓄の生産的充用にたいする報償。正当に利潤と呼ばれるものは,この生産的充用のあいだの監督superintendenceのための活動agency〕にたいする報償である。」(『ウェストミンスター・レヴュー』,1826年1月,107ページ以下。)つまり,ここでは利子は,貨幣等々が資本として充用されることにたいする報償であり,したがって,資本としての資本から発生するのであって,この資本は,資本としてのその属性にたいして報償を受けるのである。これに反して産業利潤は,「この生産的充用のあいだの」,すなわち生産過程そのものでの,資本としての資本の機能にたいするものである。〔原注a)終わり〕|

  ①〔注解〕[次の書への書評]「『機械などの使用が労働階級の幸福に及ぼす影響』,ロンドン,1824年。」所収:『ウェストミンスター・レヴュー』,第5巻,1826年1月-4月,第9号,第4論説,101-130ページ。--筆者はたぶんウィリアム・エリスである。(MEGA IV/7,S.35を見よ。〔MEGA IV/7のこのページには,マルクスの「ロンドン・ノート」のノートⅠの冒頭に書かれた文献リストが収められており,そこには,「1826年1月のための『ウェストミンスター・レヴュー』:機械の影響に関する論評(ウィリアム・エリス氏執筆)」という記載がある。〕)
  ②〔注解〕『ウェストミンスター・レヴュー』では次のようになっている。--「誤解を避けるために,われわれはここで,われわれが利潤という語のなかに含意させているものを説明するにあたって,いくつか注意をしておきたい。ある個人が彼自身の貯蓄を生産的に充用する場合,彼が手に入れる利潤のなかに含まれるのは,彼の資本が彼の特定の事業で受けたかもしれない危険にたいする十分な引当金を控除したあと,彼の時間と技能とにたいする報酬であり,この報酬が監督のための活動と呼ばれうるのである。そして,彼の貯蓄の生産的使用にたいする報酬,それが利子と呼ばれるものである。この報酬全体をわれわれは総利潤と呼ぶことができる。」
  ③〔訂正〕「107」--草稿では「167」と書かれている。〉 (287-288頁)

 〈利子と企業利得との対立についての浅薄な観念は次の通りです。
 「利潤,イコール,貯蓄の生産的充用にたいする報償。正当に利潤と呼ばれるものは,この生産的充用のあいだの監督〔superintendence〕のための活動〔agency〕にたいする報償である。」(『ウェストミンスター・レヴュー』,1826年1月,③107ページ以下。)
 つまり、ここでは利子は、貨幣等々が資本として充用されることにたいする報償と考えられており、だから、資本としての資本から発生するのであって、この資本は、資本としてのその属性にたいして報償を受けとるわけです。これに反して産業利潤は、「この生産的充用のあいだの」、すなわち生産過程そのものでの、資本としての機能に対するものであると考えられています。〉

 【これは原注であり、利子と企業利得との対立についての浅薄な観念の一例としてあげられている。ただ引用文はマルクスによる摘要であり、実際の『ウェストミンスター・レヴュー』の一文の方がおもしろいように思える。そこでは企業利得を〈彼の時間と技能とにたいする報酬〉だとし、〈この報酬が監督のための活動と呼ばれうる〉としている。つまりそれは資本の機能に対して支払われる報酬であり、その機能とは監督のための活動だというわけである。そして他方の利子については〈彼の貯蓄の生産的使用にたいする報酬,それが利子と呼ばれるもの〉だとしている。そして〈この報酬全体をわれわれは総利潤と呼ぶ〉ともしている。】


【20】

 〈/305上/第4に。|〉 (288頁)

 【このパラグラフはマルクスが第4に、と利潤の量的分割が質的分割に転回する第4の理由として書き出そうとして、中断したままになっているものである。大谷氏は訳注で次のように説明している。

  〈エンゲルス版では「第4に。」のあとに「{草稿では空所}」と記されている。草稿では,305ページの上半部に書かれた「第4に。」というこの行のあと,上の原注a)が書かれている下半部とのあいだが約1/3ページの空白となっている。「第4に。」の内容をあとで埋めるために空けておいたのであろう。〉 (288頁)】


 【21】

  |306上|つまり,以上で明らかになったように,利潤のうち機能資本家が借入資本のたんなる所有者に支払わなければならない部分は,利潤のうちの,借入資本であろうとなかろうといっさいの資本そのものCapital als solches〕が利子という名のもとにもたらす部分にとっての自立的形態に転化するのである。この部分がどれだけの大きさになるかは,平均利子率の高さにかかっている。この部分の起源は,もはやただ,機能資本家は,彼が自分の資本の所有者であるかぎり,利子率を規定する競争に加わらない(少なくとも積極的には加わらない)ということに現われているだけである。利潤にたいして別々の権原をもっている二人の人格のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が,こうして,質的な分割になるのであって,この分割が資本および利潤そのものの性質から生じているように見えるのである。というのは,すでに見たように,利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき,平均利潤と利子との差額,利潤の他の部分は,利子に対立する形態に,企業利得という形態に,転化するのだからである。この二つの形態,利子企業利得とは,--ただそれらの対立のうちに存在するだけである。[450]だから,それらは両方とも,剰余価値に関連しているのではなく,ただ別の範疇,項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけであって,むしろそれらどうしが互いに関連しているのである。利潤の一方の部分が利子に転化するので,他方の部分が企業利得の形態で現われるのである。

  ①〔異文〕「利子が……たんなる部分から」という書きかけが消されている
  ②〔異文〕「機能資本家が」← 「所[有者]が〔Eigent[hümer]〕」
  ③〔異文〕「利子という名のもとに」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「いっさいの」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「利子という名のもとに」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「すなわち,資本そのものがまた,……の場合にさえも,もたらすかのように見える部分に」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「この部分の起源は,ただ,……から見て,現われているだけである。」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「,利潤の他の部分」--書き加えられている。
  ⑨〔異文〕「対立する」gegensätzlich←entgegenge[setzte]
  ⑩〔異文〕「に」← 「のもとで」
  ⑪〔異文〕「しかし,……ところでは」という書きかけが消されている。〉 (288-290頁)

 〈以上で明らかになりましたように、利潤のうち機能資本家が借入資本のたんなる所有者に支払わなければならない部分は、利潤のうちの、借入資本であろうとなかろうといっさいの資本がそれ自体として利子という名のもとにもたらす部分であるという自立的形態になるのです。この部分がどれだけの大きさになるかは、平均利子率の高さにかかっています。この部分の起源は、もはやただ、機能資本家は、彼が自分の資本の所有者である限り、利子率を規定する競争に加わらない(少なくとも積極的には加わらない)ということに現れているだけです。
  利潤に対して別々の権原をもっている二つの人格のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が、こうして、質的な分割になるのです。この分割が資本および利潤そのものの性質から生じているように見えるのです。というのは、すでに見ましたように、利潤の一方の部分が一般的に利子の形態をとるとき、平均利潤と利子との差額、利潤の他の部分は、利子に対立する形態、企業利得という形態に、転化するからです。この二つの形態は、利子と企業利得とは、ただそれらの対立のうちに存在するだけです。だから、それらは両方とも、剰余価値に関連しているのではなく、ただ別々の範疇、項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけになり、むしろそれらどうしが互いに関連していることになるのです。すなわち利潤の一方が利子に転化するから、他方の部分が企業利得の形態として現れるのです。〉

 【このパラグラフは、これまで第1に、第2に、第3に、と述べてきたことを受けて、それをまとめるものといえる。もう一度、それぞれの項目について全体をまとめて見ておこう。
 まず【15】パラグラフで、〈なぜ,利子企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が,借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると,そのような分割としての総利潤の分割が,総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか,ということの理由は,いまでは非常に簡単に明らかになる〉と述べ、--

   第一に、〈生産的資本家の多数が,さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという,また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は,時期によって変動するという,簡単な経験的事情からもすでに〔でてくる〉と言われている。
   第二に、〈どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は,どのようにして総利潤の一部分は一般的にgenerally利子として骨化し自立化するか,という研究に帰着する〉と述べ、それは〈歴史的には,資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から,利子生み資本は完成した伝来の形態として存在する〉からであり、だから通俗的観念では〈利子生み資本が,資本そのもの〔Capital als solches〕……と見なされ〉、〈貸し付けられた資本は,それが現実に資本として使用されようとされまいと,利子を生むという事情は,この資本形態の自立性の観念を強固にする〉からだ、というものであった。
   第三に、〈個別資本家にとっては,……彼の資本が投下の出発点で,……彼がそれを利子生み資本として貸し付けるか,それとも生産的資本として自分で増殖するかは,彼の勝手である〉からだ、というものである。もちろん、総資本からみれば、それは必ずしも真実ではないが、個別資本家の立場からはそれは事実なわけである。〈それゆえ,必然的に彼は,自分の資本で事業をする場合でも,自分の平均利潤のうち平均利子に等しい部分を,過程を無視して,自分の資本そのものCapitals als solches〕の所産とみなすのであり,また,利子として自立化させられたこの部分に対立させて,総利潤のうち利子を越える超過分をたんなる企業利得とみなすのである〉。

  こうした理由から、利子というのは、借り入れ資本であろうがなかろうが、いっさいの資本そのものが利子という名で手にするものという自立的形態に転化するので、利潤のうちのそれを超過する部分は企業利得として現れるのだということである。そこからそれらが生産的資本が生み出す剰余価値に関連したものというより、二つの範疇に固定された剰余価値の諸部分、あるいは二つの項目の剰余価値の諸部分というだけになるとしている。つまり利子を差し引いた超過分が、企業利得になるという、通常のありふれた観念である。】

 (続く)

2019年9月 4日 (水)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-3)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


 前回の続き【13】パラグラフからである。


【13】

 しかし,ひとたび,借り入れた資本を用いて事業をする〔act〕かぎりでの生産的資本家にとって,また,自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家〔monied capitalist〕にとって,同じ資本にたいして,したがってまたその資本によって生みだされる利潤にたいして別々の権原をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんに量的な分割が,質的な分割に転回し,その結果,一方の部分である利子が,一つの規定における資本の,それ自体として〔an u. für sich〕帰属する果実として現われ,他方の部分は,反対の一規定における資本の独自な果実として,だからまた企業利得として,現われ,一方は資本所有のたんなる果実として現われ,他方は,たんに資本を用いて機能すること,過程進行することProcessiren〕の果実として,過程進行中の資本としての過程進行中の資本の〔d.processirenden Capitals als processirenden〕果実として,または生産的資本家が行なう諸機能の果実として現われれば,このように,粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し,自立化するということが,総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるをえない。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと,あるいは,貨幣資本家〔monied Capitalist〕が所有する資本が彼自身によって充用されようとされまいと,そうである。どの資本の利潤も,したがってまた資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も,二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に,すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子企業利得とに,分かれる,または,分解されるのである。自分の資本で事業をする資本家も,借りた資本で事業をする資本家と同じように,自分の総利潤を,所有者としての自分,自分自身への資本の自分自身の貸し手〔lender〕としての自分に帰属する利子と,機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割する。この分割(質的な分割としての)にとっては,資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは,どうでもよいことになる。資本の充用者は,自分の資本で事業をする場合にも,二人の人格に,すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに,分裂し,そして彼の資本そのものが,それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において,資本所有,すなわちそれ自体としてan sich利子をもたらす,生産過程の外にある資本と,過程を進行するもの〔processirend〕として企業利得をもたらす,生産過程のなかにある資本とに分裂するのである。

  ①〔異文〕「生産的資本にとって」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「反対の一規定」← 「もう一つの規定」
  ④〔異文〕「違っ[た]〔versch[iednen]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「資本家としての」という書きかけが消されている。〉 (279-280頁)

 〈しかし、ひとたび、借り入れた資本を用いて事業をするかぎりでの生産的資本家にとって、また自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家にとって、同じ資本に対して、よってまたその資本によって生み出される利潤に対して別々の権限をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんなる量的な分割が、質的な分割に転回し、その結果、一方の部分である利子が、一つの規定における資本の、それ自体として帰属する果実として現れ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、だからまた企業利得として現れたわけです。一方は資本所有のたんなる果実として現れ、他方は、たんに資本を用いて機能すること、過程進行することの果実として、過程進行中の資本の果実として、また生産的資本家が行う諸機能の果実として現れたわけです。
  このように、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化するということが、総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ません。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと、あるいは、貨幣資本家が所有する資本が彼自身によって充用さようとされまいと、そうなってくるのです。どの資本の利潤も、したがってまた諸資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も、二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれが特殊的な諸法則によって規定される利子と企業利得とに、分かれます。または、分割されるのです。
  自分の資本で事業をする資本家も、借りた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、所有者としての自分、つまり自分自身への資本の自分自身への貸し手としての自分に帰属する利子と、機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割します。だからこの質的な分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになります。資本の充用者は、自分の資本で事業をする場合にも、二人の人格に、すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに、分裂し、そして彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において、資本所有、すなわちそれ自体として利子をもたらす、生産過程の外にある資本と、過程を進行するものとしての企業利得をもたらす、生産過程のなかにある資本とに分裂するのです。〉

 【ここではこの質的な分割が骨化し、自立化することが指摘されている。そしてそれがそうなれば、その事態は総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ないのだと指摘されている。だからそうなると例え生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであるかどうかということとは関係なしに、すべての資本が生産する利潤は利子と企業利得とに分割されることになる。だからまた自分の資本で事業を行う資本家自身も、二人の人格に分裂する。一つは自分の資本を自分に貸し付ける自分自身と、それを借りて事業を行う自分自身とに分かれるわけである。だから彼は得られた利潤を、一つは貸し付けた自分自身の所有の果実として、利子として受け取り、他方は過程を進行する自分自身、機能する自分自身に所属するものとしての企業利得を取得するのだというわけである。】


【14】

 [447]だから利子は,それが産業家が他人の資本で事業をする場合にだけ「たまたま」生じるような,生産にとってはどうでもよい,総利潤の分割としては現われることはない,というほどにまで固定化する。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ,彼の利潤利子企業利得とに分かれるのであり,だからこれと同時に,産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく,たんに量的な分割が質的な分割になる。それは,ただ,違った人格に分配される利潤の二つの分けまえであるだけではなく,利潤の二つの特殊的範疇なのであって,この二つの範疇はそれぞれ資本にたいして違った関係にあるのであり,つまり資本の違った規定性に関係しているのである。

  ①〔注解〕このパラグラフは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1493.11-23)から,変更を加えて,取られている。〉 (280-281頁)

  〈だから利子は、それが産業家が他人の資本で事業する場合にだけ「たまたま」生じるような、生産にとってはどうでもよい、総利潤の分割として現れることはないほどにまで固定化します。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ、彼の利潤は利子と企業利得とに分かれるのであり、だからこれと同時に、産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく、たんなる量的な分割が質的な分割になります。それはただ、違った人格に分配される利潤の二つの分け前であるだけではなく、利潤の二つの特殊的範疇なのであって、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるのです。つまり資本の違った規定性に関係しているのです。〉

  【ここでも固定化が進む事態が指摘されている。利子と企業利得は利潤の二つの特殊的範疇であり、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるということ、違った規定性に関係しているというわけである。つまり利子は本来は借り入れた貨幣資本への支払を意味するわけであるが、利子範疇が固定すると、それが借り入れられたものかどうかに関係なく、ただ一方の資本の規定性にもとづいてそれが生じてくるように見えるわけである。だから自己資本で事業を行う生産的資本家は、その資本を二つの規定性にもとづいたものとして考え、一つは利子生み資本との規定性によって利子を計算し、他方は生産的資本として企業利得を計算するということになるわけである。これらは同じ資本の二つの規定性であり、しかも一方は(利子生み資本というものは)ただ仮象でしかないものである。しかしそれが一定額の貨幣額であるなら、それはその貨幣額ということそれ自体として利子を生むものと観念されるのであり、だからそれを生産的な事業に投下しても、それが生み出す利潤は、利子と企業利得とに分かれるわけである。
  ところで、この部分はMEGAの注解によれば、61-63草稿から変更を加えて取られているということである。該当する部分をその前後も含めて紹介しておこう。

  〈このような、利潤の利子産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、まったく別なものとして示されている。
  利子が表わしているのは、剰余価値の一部分である。利潤のうちの、単なる、特殊な名目のもとに取り出された、分けまえである。資本の単なる所有者のものになる、彼によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、この二つの部分に、転化した姿を与えるところの、質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて固定する。すなわち、利子は、ただ産業家が他人の資本で仕事をする場合にかぎって「たまたま」行なわれる、生産には無関係な分割としては現われない、ということにおいてである。産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利子産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすでに質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに資本および資本主義的生産そのものの本性から生ずる質的な分割として、固定されるのである。単に利潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当がではなく、利潤の二つの特殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規定にたいして関係をもつのである。この独立化は、以前に述べた諸理由は別としても、次のような理由によってますます容易に固定する。というのは、利子生み資本は、歴史的形態としては産業資本以前に出現し、また産業資本と並んでその古い形態のままで存続し、そして産業資本によってその発展の過程ではじめてそれ自身の一つの特殊な形態として資本主義的生産のもとに包摂されるからである。
  それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦468-469頁)】


【15】

 〈なぜ,利子企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が,借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると,そのような分割としての総利潤の分割が,総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか,ということの理由は,いまでは非常に簡単に明らかになる。|〉 (281頁)

  〈なぜ、利子と企業利得とへの分割という形態における総利潤の分割が、借りた資本を用いて事業をする生産的資本家にとっての質的な分割になると、そのような分割としての総利潤の分割が、総資本および総資本家階級にとっての質的な分割になるのか、ということは、その理由はいまでは非常に簡単に明らかです。〉

 【このパラグラフは次のパラグラフで、これまで述べてきたことを箇条書き的にまとめるための枕詞である。だからこれまで述べてきたことによって、総利潤の量的な分割が、生産的資本家にとって、利子と企業利得という質的な分割になると、それが総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になる理由を、これからもう一度確認しておこうというわけである。】


【16】

 |304上|このことは〔以下のことから〕でてくる。--
  第1に,生産的資本家の多数が,さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという,また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は,時期によって変動するという,簡単な経験的事情からもすでに〔でてくる〕。

  ①〔異文〕「さまざまの割合で」という書きかけが消されている〉 (282頁)

 〈このこと(つまり借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤の量的な分割が質的な分割に転回すると、その質的な分割が、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ)は、以下のことから出てきます。
 第1に、生産的資本家の多数が、さまざまの割合で自己資本と借入資本とで事業をするという、また彼らが事業をするのに用いる資本のうち自己のものと借り入れられているものとの割合は、時期によって変動するという、簡単な経験的事情からもすでに、このことは出てくるのです。〉

 【ここからこれまで述べてきたことを、さらに箇条書き的に番号を打って、述べているように思える。マルクスがここで論証しようとしていることは、平易な書き下し文でも述べたように、「借りた資本で生産する生産的資本家にとって総利潤が利子とその超過分という二つのものに量的に分割すると、それは利子と企業利得というその源泉を異にするものであるかのようなものに、すなわち質的な分割に転回する、そしてその質的な分割が骨化し、自立化して、総資本あるいは総資本家階級にとっての質的な分割になるということ」はどうしてなのか、という問題である。
 そしてその理由として第一にあげられるのは、生産的資本の多くが、さまざまな割合で自己資本と借入資本とで事業を行い、しかもその二つの資本の割合は時期によって変動するという簡単な経験的な事実からもすでにそういうことが言えるのだ、というわけである。つまりそうした質的な分割は、経験的にも実際の多くの生産的資本家にとっては一つの事実だということである。だからそれは総資本家階級にとってのものにもなるのだということであろうか。】


【17】

 第2に,総利潤の一部分が利子という形態に転化することが,総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのである。後者は,ただ,利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかない。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は,どのようにして総利潤の一部分は一般的にgenerally利子として骨化し自立化するか,という研究に帰着するのである。ところが,歴史的には,資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から,利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子資本が生みだした剰余価値の完成した形態として--存在する。だからこそ,いまなお通俗観念〔Volksvorstellung〕ではmonied Capital,利子生み資本が,資本そのもの〔Capital als solches〕,「とりわけすぐれた意味での」資本〔Capital κατ’έξοχήν〕と見なされることになる。だからこそ,他方では,利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのである。貸し付けられた資本は,それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれないが--,利子を生むという事情は,この資本形態の自立性の観念を強固にする。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤にたいして,また利子生み資本が[448]生産的資本にたいして自立性をもって現われる,ということの最良の証拠は,利子は総利潤のたんなる部分であることが,18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって,また彼のあとにヒュームによって)ということであり,また,およそこのような発見が必要だったということである。

  ①〔異文〕「分化する〔sich differenziren〕」← 「分かたれる〔sich vertheilen〕」
  ②〔異文〕「ずっと〔1ange〕」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「完成した伝来の」← 「完成した」
  ④〔異文〕「貸し付けられた」← 「借りられた」
  ⑤〔異文〕「生[産的]〔prod[uctiv]〕」という書きかけが消されている。
  ⑥〔注解〕〔ジョウジフ・マッシー〕『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論……』,ロンドン,1750年〔,49ページ〕。
  ⑦〔異文〕「彼の後に」--書き加えられている。
  ⑧〔注解〕デイヴィド・ヒューム『利子について』。所収:『種々の主題についての小論および論文集』,第1巻,ロンドン,1764年〔,329-336ページ〕。〔田中敏弘訳「利子について」。所収:『ヒューム経済論集』,『初期イギリス経済学古典選書』8,東京大学出版会,1967年,71-80ページ。〕〉 (282-284頁)
 
  〈第2に、総利潤の一部分が利子という形態に転化することが、総利潤の他の部分を企業利得に転化させるのです。後者は、ただ、利子が独自な範疇として存在するようになるときに総利潤のうち利子を越える超過分がとるところの対立的な形態でしかないのです。どのようにして総利潤は利子と企業利得とに分化するかという全研究は、どのようにして総利潤の一部分は一般的に利子として骨化し自立化するか、という研究に帰着するのです。ところが、歴史的には、資本主義的生産様式とそれに対応する資本および利潤の観念が存在するよりもずっと前から、利子生み資本は完成した伝来の形態として--したがってまた利子は資本が生み出した剰余価値の完成した形態として--存在します。だからこそ、いまなお通俗的観念ではmoneyed capital、すなわち利子生み資本が、資本そのもの、「とりわけすぐれた意味での」資本と見なされることになるのです。だからこそ、他方では、利子として支払われるものは貨幣としての貨幣だという観念--これはマッシーの時代まで優勢だった--が出てくるのです。貸し付けられた資本は、それが現実に資本として使用されようとされまいと--もしかするとただ消費等々のために借りられただけかもしれませんが--、利子を生むという事情は、この資本形態の自立性の観念を強固にします。資本主義的生産様式の最初の諸時期に利子が利潤に対して、また利子生み資本が生産的資本に対して自立性をもって現れる、ということの最良の証拠は、利子は総利潤のたんなる部分であることが、18世紀の中葉になってやっと発見された(マッシーによって、またあとにヒュームによって)ということです。またこのような発見が必要だったということもそうでしょう。〉

 【ここでは総利潤の利子と企業利得という二つの部分への質的な分割とその固定化はどうして生じるのかという問題は、どうして総利潤の一部分が利子として骨化し自立化するのかという問題に帰着する、と指摘されている。というのは利子というのは生産的資本家にとっては生産以前に前提されたものであり、彼らにとっては一つの前提であるからである。そうした利子がすでに一つの範疇として骨化して、自立化しているからこそ、彼らの生産した総利潤は利子とその超過分とに分裂し、それが利子と企業利得という二つの範疇へと骨化し自立化するのだからである。そして利子がそれ自体として自立化した存在として現れるということは、利子生み資本そのものが資本主義的生産様式以前にすでに存在していたことからもわかるのだとしている。そもそも利子が総利利潤から分割されたものだということそのものが当初はわからなかったのであり、つまりそれだけ利子範疇は一つの自立した存在をもっていたのであり、しかもそれが支払われるのは、必ずしも生産的投資のためではなく、単に消費等々のために借りられた場合も、利子は支払われる必要があったわけだから、利子は利潤とは無関係であるように歴史的には存在していたわけである。だから利子が利潤の分割されたものだということ自体が18世紀の半ばにようやく発見されたのであり、こうした発見が必要だったということそのものが、利子の骨化と自立性を示しているのだということである。つまり利子の骨化と自立性というのは資本主義的生産様式以前からそれらが存在したこと、しかもそれは必ずしも生産された利潤から支払われるものとして存在したわけではなかったこと、だから資本主義的生産様式のもとで利子が利潤の一部が分割されたものだということそのものが一つの発見であったということ、こうしたことから利子範疇の骨化と自立化という事実が、利子と企業利得という二つの範疇の自立性の根拠であり、それが総資本家階級にとってのものになる理由だというわけである。】

  (以下、「第3」の項目は次回に続きます。)

 

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