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2019年8月 8日 (木)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

 

  前回の続き第【47】パラグラフからである。


【47】

 〈/300上/{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}{第2に,債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になる。}{第3に,債務権原の相殺が貨幣の代わりをする。}/

  ①〔異文〕改行して書いた「第1に」という書きかけが消されている。/〉 (250-251頁)

 〈以上のことから、次のようなことが明らかになる。
  第一に、信用の一証明、あるいは一形態。私たちが知っているように、貨幣が購買手段とてではなく支払手段として機能する場合には、商品は譲渡されるがその価値はあとからはじめて実現されます。もし商品が売られてからはじめて支払がなされるとすれば、販売は購買の結果として現れるのではなくて、販売によって購買が実現されるのです。そして、販売が購買の手段になるのです。
  第二に、債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になります。
  第三に、債務権原の相殺が貨幣の代わりをします。〉

 【このパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクスがついでに関連して、書いたものかもしれない。大谷氏はこのパラグラフについて次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では,このすぐまえに,「以上のところから,次のことが明らかになる。〔Es ergiebt sich aus dem Bisherigen Folgendes:〕」と書き,改行してその下に「第1に。〔Erstens:〕」と書いたのちに,この両方を消している。この「第1に」は,すぐあとの「第2に」に対応するものであろう。MEGAはこの異文を記載していない。なお,このパラグラフへのMEGAの異文での,消されている「第1に」は,この「第1に」とは別に,このパラグラフの次行に書かれているものである。つまり,このパラグラフの直前に「第1に」という消されている行があり,さらにこのパラグラフの直後にもう一度,「第1に」という消されている行があるのである。
  エンゲルス版では,このパラグラフのまえに,区切りを示す横線が引かれている。そしてこのパラグラフの最初に,「(あとの仕上げのための覚え書)」と書き入れている。〉 (251頁)

  こうしたマルクスの記述のあとをみると、「第1に」には、〈{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}全体が含まれるようである。最初に考えたのは、〈信用の一証明形態〉として、第一に、第二に、第三に、と続くと思えたのであるが、どうもそうでないらしい。
  また、この〈信用の一証明形態〉についても、大谷氏は次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では「信用の一証明Ein Beweis d.Credits〕」のうちのBeweis d.の上に,挿入記号なしにFormと書かれている。MEGAはこれをBeweisformと読み,EinをEineに変更している(草稿ではEinのままになっている)。だから,このFormの書き加えは,「信用の一証明〔Ein Beweis d.Credits〕」に「信用の一形態〔Eine Form d.Credits〕」を並記した,と見ることも可能であろう。〉 (251頁)

  これは大谷氏のように、並記したと理解する方が正しいような気がする。そもそも「一証明形態」などという用語を読んだ時にすぐに?(ハテナ)と疑問に感じたからである。証明の形態などというのは一体何を言いたいのかと思わざるを得ない。むしろ信用の一つの証明、あるいは信用の一つの形態としてまず第一が論じられ、そのあと第二と第三の問題が論じられていると理解する方がすんなりと理解できるのである。
  しかしこのパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクス自身も最初、〈以上のところから,次のことが明らかになる〉と書き出したものの、それを消しているということはことさらこれまでの展開と関連づけてこのパラグラフの内容を書いたとは言えないと考えたからであろう。マルクス自身はそうした展開としてこれを書いたわけではないのである。ただこれまで書いてきたことと関連して、思いついたことをメモしたという程度のものと理解すべきではないかと思う。】

  以上で「2)」(エンゲルス版第22章該当個所)の草稿のテキストは終わりである。だからもう一度、全体を見渡して、マルクスがこの「2)」をどのように展開しているのかを見ていくことにしよう。

 

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エンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」(草稿では「2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。」)全体の構成

 

  この「2)」全体の構成を考えるために、全体を幾つかの部分にわけて、便宜的に番号を打って、それぞれのテーマを書き出してみよう。

  (1) まず表題を確認しておこう。

  〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  これはマルクス自身によって書かれている。つまりここでは三つのことが考察されることが示されている。(1)利潤の分割。(2)利子率。(3)利子の自然的な率である。ここで(2)と(3)がどのように違うのか、それを区別する意義は何か、そうしたことも問題であろう。

  (2) 【2】--ここではこれから考察する対象についての限定、前提が語られている。

  (3) 【3】~【13】--ここではまず〈われわれのこれまでの前提によれば〉とこれまで考察してきた「1)」(第21章該当部分)を前提すれば、利子は利潤のうちの機能資本家から貨幣資本家に支払われる一部分であるというもっとも直接的な表象にもとづいて利子の規定が行われ、そこからだから利子の最高限界として現れるのは利潤そのものだ、といきなり利子の量的考察に入っている。そしてマッシーからの抜粋を本文として紹介して、こうした利子の規定は、当時のエコノミスト達にとっても表象としてつかまれていたものであることを示唆している。そして利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界とみなされるべきとし、利子は平均利潤に関連づけて説明すべきという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察するとしている。そして一般的利潤率を100と与えられた大きさとして仮定するなら利子の変動は機能資本家の手に残るものと反比例するが、しかし両者はまったく違った事情によって変動することを指摘する。

  (4) 【14】--ここに〈Nb.〉で始まる一つのパラグラフが挿入される。そして〈利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉という自己了解の事項が書かれている。

  (5) 【15】~【22】--ここから産業循環の諸局面に応じて利子率がどのように変化するかが論じられている。そしてそれに幾つかの原注がつけられ、補足的な説明も本文として加えられている。

 (6) 【23】~【29】--ここではまず〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉というテーマが掲げられている。そしてそうした問題として(1)、(2)、(3)と番号を打って抜粋が紹介されているように見えるのだが、しかしテキストの考察でも紹介したが、【34】パラグラフにある(3)は必ずしも同じ問題を論じているとは言いがたい。だからこの(3)はとりあえずは無視して、われわれは論じることにしたい。そうするとこの傾向として語られているのは、一つは金利生活者の増大、もう一つは信用システムの発展である。こうした結果、貸付可能な貨幣資本の増大が生じ、利子率は低落する傾向があるということである。

 (7) 【30】~【33】--この部分は大変長い【30】パラグラフとそれにつけられた原注からなっている。【30】パラグラフでは、まず利子の平均率とか中位的な率というようなものはどんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。だから利子の自然率というようなものは、利潤の自然な率とか賃金の自然な率というような意味では存在しないと指摘する。だから貸付可能な資本の供給とそれに対する需要のみが利子率を規定するのだということである。そしてどうして利子率の限界を一般的な法則から展開できないのか、というとそれは利子の性質のうちにあるとしている。貸付資本も資本であるが、それが現実に資本として機能するのは、一度だけであり、生産資本においてであること、だからその結果として生産された利潤に対する要求権をもつ二人の人物がそれをどのように分けるのかは経験的な事実でしかないからだというのである。そこから質的な分割が、剰余価値の純粋に量的な分割から出てくると結論づける。あとはこれのパラグラフにつけられた原注が続くだけである。

 (8) 【34】~【35】--この部分は、冒頭に「(3)」と番号が打たれ、スチュアートの『経済学原理』からの抜粋があり、一見すると(6)の続きのように思えるのだが、すでに述べたように、論じられている問題が必ずしも同じとは言い難いものである。ここではマルクスは貨幣の価格、すなわち利子率は大きな固定性と大きい一様性をもっているということを肯定的に引用している。そしてこの利子率の固定性と一様性は、あとの展開でも言及されているから、この抜粋部分はまったくどうでもよいものとは言い難いのである。

 (9) 【36】~【46】--ここでは利子率と利潤率(一般的利潤率)との違い、両者の比較検討を通じて、利子率の性質を明らかにし、また同時に利潤率(一般的利潤率)の性質をも明らかにすることが課題とされているように思える。

  (10) 【47】--この最後の部分は、これまでの展開を踏まえて、思いついたことをメモ書きしたもののように思える。だから全体の論旨とは必ずしも関連させて考える必要はないように思える。

  このように全体を見渡すと、いろいろなことが論じらているのであるが、もう少し対象を絞って論じられている重要な項目を挙げてみよう。

  (1) 利子は利潤の分割されたものであり、よって究極的には利潤によって規定されていること、そうした利子の規定は、直接的なものであり、一般的に表象として、当時の経済人や経済実務家、あるいはブルジョア的な理論家によっても捉えられてきたこと。

  (2) 産業循環の諸局面で利子率の変動があること。マルクスは産業循環の諸局面として、沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々をあげているが、利子率は最初の沈静状態では低く、活気増大でもやはり信用はしっかりしており、商品資本の実現とそれが貨幣資本として循環してくることも順調だから、貨幣資本(moneyed capital)への需要がそれほど多くないために低いままである。繁栄に至って、ようやく利子率は徐々に高まり、過剰生産に至って、諸資本は低下した一般的利潤率を利潤量の絶対的増大によって補おうとして加速度的な蓄積と拡大を行うために、貨幣資本(moneyed capital)への強い需要が生じ利子率は高くなる。そして恐慌時には、今度は産業は行き詰まるが、諸資本は諸支払への必要から支払手段の融通を銀行に求め(また支払い手段としての銀行券の退蔵も生まれるから)、利子率は異常に高騰する。そしてまた沈静に至り経済活動は不活発になるがゆえに、利子率も低下する等々である。

  (3) 利子率はどんな法則によっても全然規定できないものである。それは利子の性質にもとづいている。貨幣資本も資本であり、それが貸し出される機能資本も資本である。しかし資本が資本として利潤を生むのは後者の局面だけである。だから利潤を二つの資本家によって分け合う必要があるが、これはただ経験的にやるしかやりようがない。だから利子率は何か法則的に決まってくるというようなものではないのである。ここでは需給の一致は何も意味しない。貨幣資本(moneyed capital)の供給者と需要者による競争がそれを決定するのである。競争そのものが決定するということは、それによって規定されるものは、それ自体として偶然的であり、純粋に経験的であるということ意味する。

  (4) 利子率と一般的利潤率との違いと両者のそれぞれの性質。利子率は貨幣資本(moneyed capital)の需要と供給とによって、貨幣資本家と機能資本家とが相対することによって、その時々に経験的に捉えられる事実であり、確定されたものとして、あまねく一様であり、固定的であるが、一般的利潤率はもっと複雑な過程を経て形成されるものである。それは諸商品の市場価格が生産価格へ平均化される過程を通して、諸資本がある部面から他の部面へと移動することによって、あるいは追加資本の配分が変化することによって、総剰余価値をそれぞれの資本の大きさに応じて按分比されて分割されるように、諸資本が互いに競争する結果として決まってくるものであり、それは諸資本の現実の運動の背後で形成され、けっして経験的にとらえられるものではない。それが経験的に知られるのは資本にとっての利潤の最低限界として意識されるときだけである。

  まあ、ざっとこうしたことが論じられている。ここでは全体としては利子率というものの性質があまねく明らかにされているということができる。

 では全体の流れとして、マルクスはどのように問題を展開しようとしているのであろうか。
 まずマルクスは利子とは何かを直接的な表象として捉え、それは当時の経済実務家たちによっても把握されていたものであることを指摘する。つまり利子とは何か、それは利潤から分割されたものだというのは、直接的な表象としても把握できることなのである。
 そこからマルクスは次ぎに利子率の変化を現実の経済過程のなかに見ている。最初は分析の前提として産業循環のあいだに利子率が通る円環については、産業循環の叙述を前提することはできないといいながら、しかしここで産業循環の諸局面で利子率はどのように変化するかを見ているのである。しかしこれは必ずしも産業循環の考察を踏まえたものというより、そうした産業循環の諸局面における利子率の変化をただ辿っているということに過ぎない。つまりそれぞれの局面に対する利子率の対応を見ているだけで、なぜそうなのかについては一切論じていないといえる。
 そしてこうしてみたように産業循環の諸局面に対応して利子率が変化することを見るなら、利子率は何らかの法則にもとづいてそのように変化しているのかという問題に次ぎにマルクスは移行しているわけである。そしてマルクスは、利子率にはそうした法則性というようなものは何もないのだと喝破している。そしてそれは利子の性質そのものにもとづくものだというのである。そして利子率というのは結局は競争そのものによってただ経験的に決まってくるだけだとしている。
 このように利子率の特性を明らかにしたあと,マルクスはこうした点で利子率は一般的利潤率とは違うということを指摘して、両者を比較・検討して、それぞれの特性をさらに明らかにしようとしている。利子率とは異なり、一般的利潤率は法則的に決まってくるものだとマルクスは考えているわけである。
 だいたい以上が、この章でマルクスが展開しているものである。

  とりあえず以上で「2)」の部分の解読は終了しよう。次回からは第23章該当部分の草稿の解読に取りかかることにする。

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