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2019年8月 2日 (金)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


  前回の続き第【34】パラグラフからである。


【34】

 〈[437]/298上/3)「商品の価格は絶えざる変動のなかにある。商品にはすべてそれぞれ特殊的な用途がある。貨幣はどんな目的にも役立つ。商品は,同じ種類のものでも,品質が違っている。正貨numéraire〕はいつでも同じ価値をもっているか,もっているはずである。それだから,われわれが利子という言葉で表わす貨幣の価格は,他のどんな物の価格よりも大きい固定性大きい一様性とをもちうることになるのである。」c)以上は,わが友ステューアト。/〉  (240頁)

 【このパラグラフは本文であるが、ほぼ引用文だけなので、平易な書き下し文は省略した。これは冒頭に「3)」とあることから類推するに、これまでの1)と2)との関連で言うなら、利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある第三の理由として挙げられているのだろうと考えることができる。だからこれまでの理由をもう一度、おさらいをしておくと。
  1)は金利生活者の増大であった。それが大きくなれば貨幣の貸し手も大きくなるということから、富裕な国では利子率は低下する傾向があるとされていた。
  2)は信用システムの発展。それによってあらゆる社会のあらゆる階級の貨幣貯蓄が集積されるから。貸付可能な貨幣資本の増大によって利子率は低下する傾向が生じるということであった。
  そしてさらなる理由として3)なのである。しかしここでは利子率が低下する傾向というよりも、むしろ利子率の固定性が言われているように思える。ステューアトは貨幣の価格と商品の価格とを同じようなものとして比較しているが、もちろん、これは正しくない。また彼が貨幣の価格は大きい固定性と大きい一様性をもつというが、そもそも他の一般の商品の価格と比較していることそのものが正しいとはいえないし、利子率が固定性もつというのも正しいとはいえず、一様性をもつということそのものはよいとしても、その理由としているものも正しいとは言い難い。いずれせよ、この「3)」はこれまでの「1)」や「2)」とは違ったものといわざるをえない。大谷氏は訳者注で次のように述べている。

  〈この「3)」は,形式的には,既出の「1)」および「2)」に続くものと見るほかはないのであるが,「1)」および「2)」は「利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落する傾向」についてのものであったのにたいして,この「3)」は,利子率の一様性,固定性,確定性について述べようとしているのであって,内容的には,「1)」および「2)」に続くものではないように思われる。エンゲルス版でこの「3)」を削除しているのもそのためであろう。〉 (240頁)

  だからわれわれもとりあえずはこの「3)」については、正確な解釈は保留しておこう。
  ついでにマルクスはこの引用の最後に〈以上は,わが友ステューアト〉と書いている。エンゲルスは編集の段階でこの部分を削除しているが、これはマルクス特有の皮肉なのであろうか。それともステューアトへの親しみを表現したものなのであろうか。この点、『資本論辞典』によれば「マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる」とある。これを見るかぎりではステュアートを積極的に評価していたといえるだろう。だからこの一文は親愛の情を表したものと考えてもよいように思えるのだが……。しかしこの判断も保留しておこう。

  以下、ついでに参考のために『資本論辞典』のステュアートの項目を紹介しておこう(ただし、最初の経歴などの部分はカット)。
 
 〈ステュアート ジェイムズ Sir James Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……(中略)……
 彼の主著《経済学原理》は,その当時の時論として,また商業資本家あるいは産業資本家の日常的経験を理論化するにとどまっていた重金主義,あるいは重商主義の理論を体系化して,はじめて経済学をつくりあげた地位を占めている,《原理》は一方では,生産様式の歴史的差異に注目した特徴をもつとともに,他方では,時代に制約されて‘重金主義または重商主義の科学的再生産'それらの'合理的表現'にとどまっている.すなわち,彼は,生産様式の歴史的差異を労働の諸形態にもとめ,近代資本主義社会の特徴を,交換価値を生む労働と規定し,このような労働形態は労働者たちが生産手段や生活手段にたいする所有権を失い,これらのものが労働者にあらざるひとつの財産としてその労働者に対立することによっで発生すること,ことに農業におけるそれが,工業における資本主義的生産の前提条件であることをあきらかにした.そしてこのような観点から労働の古代的および中世的形態に対立する労働の近代的形態をあきらかにした.マルクスは,ステュアートのこの側面での経済学への寄与を‘資本の把握のための彼の功績は,一定階級の所有物としての生産諸条件と労働力とのあいだの分離過程が,どのようにしておこなわれるかをしめした点にある' (MWI-9;青木1-48)と高く評価している.しかし彼の交換価値の規定は,明瞭でなく,労働時間による規定のほかに,賃銀・原料も一役演じており,価値と素材内容との分離が完全におこなわれていない.そしてこのことは,価値・剰余価値の発生を生産過程の分析を通じておこなうことを妨げた.彼は,剰余価値を流通過程=交換から,すなわち,資本家がその商品を価値を超えた価格で販売するところから生ずる,という重商主義的見解にとどまっていた.ただしこの通俗的見解は,このような交換から生ずる剰余価値は,なお富の積極的増加であると解釈していたが,ステュアートは,それは商品の販売者の側における利得が購買者の側における損失によって相殺されるために,相対的利潤にすぎず,なんら富の積極的な増加を意味するものでないと解釈した.このことは,当時の支配的な通俗的見解を批判し,それから一歩抜けでていることを示している.他方,ステュアートはこのような相対的利潤のほかに,なにびとにも損失とならず,社会全体にとって,ひとつの価値増加となるような積極的な剰余価値の存在を認めていた.しかしステュアートはこのような剰余価値の性質をそれ以上は研究しなかった.マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる.ステュアートはまた,貨幣の分析においては,‘観念的度量単位説'をとり,その空想的見解はマルクスによって批判されているが,しかし同時に,流通界にある貨幣の数量が商品の価格によって規定されるものであるか,それとも商品の価格が流通貨幣の数量によって規定されるかという問題をはじめて提出し,そして貨幣の‘種々なる本質的な形態規定と貨幣流通に関する一般的法則を発見した'功績もあわせて強調されている.(大野精三郎)〉(505頁) 】


【35】

 /298下/〔原注〕c)経済学原理』,フランス語訳。第4巻,1789年,27ページ〔小林昇監訳『J.ステユアート 経済の原理--第3・第4・第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,230ページ〕。〔原注c)終わり〕/

  ① 〔注解〕ジェイムズ・ステユーアト『経済学原理… … 』,第4巻パリ,1789年。〉 (240頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで引用されたステューアトの一文の典拠を示すだけなので、とくに解説も不要であろう。ただ少し気づいたことだが、小林昇訳や『資本論辞典』では「ステュアート」となっているが、本書では「ステューアト」になっている。どっちが本来の呼び方に近いのであろうか。】


【36】

 /298上/これまでに述べたことから,利子の自然的な率というものがないということは明らかである。しかし一方で,ただ総利潤〔gross profit〕を二人の資本所持者のあいだに違った名目で分けることだけが問題なのだから,(絶えず変動する利子の市場率〔fluctuating market rates of interest〕とは区別される)中位の利子率または利子の平均率average rate of interest〕は,一般的利潤率とは反対に,その限界〔limits〕をどんな一般的法則によっても確定できないものであるのにたいして,〔他方では〕逆に,利子率は,中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと,一般的利潤率とはまったく違って,一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる。利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である。

  ①〔異文〕 「ただ……だけ」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「反対に」← 「異なって」〉 (241頁)

 〈これまで述べたことから、利子の自然的な率というようなものはないということは明らかです。しかし利子率を一般的利潤率と比較しますと、一方では、ただ総利潤を二人の資本所持者のあいだで違った名目で分けることだけが問題なのですから、絶えず変動する利子の市場率とは区別される、中位の利子率または利子の平均率は、一般的利潤率とは反対に、その限界をどんな一般的法則によっても確定できないものです。また他方では、逆に、利子率は、中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと、一般利潤率とはまったく違って、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるのです。利潤率に対する利子率の関係は、ここでは、商品の価値に対する市場価格の関係と同様です。〉

 【このパラグラフは〈これまでに述べたことから〉という文言から始まる。しかしここで〈これまでに〉というのはどこからどこまでを指しているのであろうか。展開からするなら、マルクスが【23】パラグラフで〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉と述べて、「1)」、「2)」、「3)」と展開して、それを受けたものになっているから、そうした記述を指しているように思えなくもない。しかし内容的にはいま一つ納得できない。そしてそうした目で見ると、【30】パラグラフからは問題がさらに展開されて深められているような気がするのである。われわれは【34】パラグラフに「3)」と番号が打たれているために、どうしてもこの「1)」~「3)」が一続きのものと考えざるを得ないのであるが、しかし「1)」、「2)」と「3)」は明らかに同じ問題を論じているとはいえないのである。だから【23】パラグラフで提起された問題は、「1)」、「2)」で終わっており、だから「3)」を無視すれば(だから【34】、【35】パラグラフをないものとすれば)、むしろ全体の展開ははっきりしてくるように思える。そしてそうした展開として考えれば、【30】パラグラフからは新しい問題が論じられ、それはこの【36】パラグラフに繋がっていると考えることができるのである。
  このパラグラフそのものは平易な書き下ろしで容易に理解できる。ただ最後にマルクスが述べていること〈利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である〉というのはどういうことを言いたいのであろうか。これは利子率というのは、その平均率であろうがその都度の市場率であうが、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるが、一般的利潤率は決してそうしたものとしては現れないという関係を見ているわけである。そしてそれは価値の市場価格との関係と同じだと述べているわけである。価値も一見してその大きさといったものは明らかなものとしては現れない。それは本質的なものであって、われわれの目に見えないものである。同じように、利潤率も決して一定の率として見えているようなものではない。とくに一般的利潤率というものは諸資本の競争によって形成されるが、それはさまざまな資本家が直接目にできるものではない。しかし商品の市場価格というものは、常に一定量のものとして、値札として表れ、一見して明瞭なものである。こうした関係をマルクスは同じと見ているわけである。】


【37】

 [438]利子率利潤率によって規定されているかぎりでは,それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって,特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率がどうであれ,それらによって規定されているのではなく,まして個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらない。d) それだからこそ,一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである。といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではないのであるが。|

  ①〔異文〕「独自な」--書き加えられている。〉 (241-242頁)

 〈利子率が利潤率によって規定されているかぎりでは、それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊的産業部門で行われている独自な諸利潤率がどうであれ、それらによって規定されているのではありません。ましてや個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらないのです。それだからこそ、一般的利潤率は、実際に経験的な事実として、ふたたび平均利子率のかたちで現れるのです。といっても、後者は決して前者の純粋な、また確実な表現ではないのですが。〉

 【先のパラグラフからは利子率の特性を一般的利潤率との比較によって明らかにしようとしているように思える。ここでは利子率が利潤率によって規定されているという場合には、それは一般的利潤率によって規定されているのであって、それ以外の利潤率によってではないことが言われている。
  ただそれを受けて言われていることはいま少し検討が必要なように思える。マルクスは上記の指摘をしたあと、それを受けて〈それだからこそ〉と述べて、〈一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである〉と述べている。〈ふたたび……現われる〉というのもいま一つよく分からないのあるが、これは一体どういうことをマルクスは言いたのであろうか。
  〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉などは少なくともそれぞれの資本家たちには経験的な事実としてとらえられるものであろう。一般的利潤率はそうしたものが諸資本の競争によってそれらを平均するものとして形成されるものである。だから一般的利潤率というのは、直接には経験的に捉えることのできないものである。それは特殊な産業部門の独自な利潤率や個別資本の超過利潤という個々別々の特殊な利潤率を平均したものとして一般的なのである。だからそれは本質的なものとして内在的なものであり、経験的な事実としてとらえることはできない。それに対して利子率というのは直接的なものである。利子率が究極的には一般的利潤率に規定されているというのはこれまでにも述べられてきた。一般的利潤率というのは資本主義的生産が発展すれば傾向的に低落するのであるが、同じように利子率も資本主義的生産が高度に発展している国々では低くなる傾向があった。だから利子率はそのかぎりでは一般的利潤率を目に見えるかたちで、経験的な事実として、表現しているものなのだ、とマルクスは述べているわけである。そうした一般的利潤率の表現としての利子率というものは、〈実際に経験的な事実〉として存在しており、そうしたものとしては、〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉がそうであったのと同じだから、だからそれは〈ふたたび……現われる〉ものとマルクスは述べているわけである。もっとも、マルクスは最後に〈といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではない〉とも断ってはいる。】


【38】

 /298下/〔原注〕d)「とはいえ,このような利潤分割の規則rule〕は,それぞれの貸し手や借り手に個々に適用されるべきではなく,貸し手と借り手とに一般的に適用されるべきである。……著しく大きい利得や小さい利得は,巧妙さへの報酬かまたは知識の不足の結果であって,貸し手にはおよそかかわりのないことである。というのは,彼らは一方によって損をするのではないのだから,他方によって得をする必要もないからである。同じ事業に携わる個々の人びとについて述べたことは,事業のいろいろな種類にもあてはまる。もしある事業部門に携わる商人や事業家が,自分たちの借りたものを使って,同じ国の他の商人や事業家があげる普通の利潤よりもたくさん儲けるならば,その特別な儲けは,それを得るのには普通の巧妙さと知識だけで足りたとしても,彼らのものであって,彼らに貨幣を提供した貸し手のものではない。……というのは,貸し手は,普通の利子率の支払いも許さないような悪条件のもとでなにか事業部門を営むために自分たちの貨幣を貸したのではなかったであろうし,したがってまた,自分たちの貨幣からどんな利益が引き出されたとしても,普通の利子率よりも多くを受け取るべきではないからである。」(マッシー,同前,50-51ページ。)〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用のうち,〔7行目の〕「事業のいろいろな種類にもあてはまる。」までは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.22-28)から取られている。〉 (242頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで利子率が一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊な産業部門の諸利潤率や個別の超過利潤等々によって規定されいるのではないというところにつけられた原注であり、マッシーからの抜粋なので、平易な書き下しは省略した。この抜粋では、利子率は個別の事業者の個々の儲けによって規定されているのではないというマッシーの言明であり、マルクスはそれを肯定的に抜粋・紹介している。一部は61-63草稿からとられているらしいから、その本文を見ておくことにしよう。この部分はすでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介したので、それを再録しておこう(但し今回再録するにあたり、MEGAの注解等は煩雑になるので省略)。

 〈利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)〉 (草稿集⑨363-364頁)】


【39】

 〈|299上|借り手〔borrowers〕が差し出す担保〔securities〕の種類によって, 利子率そのものが絶えず違っているということは,たしかに正しい。しかし,これらの種類については,利子率は一様である。だから,このような相違は利子率の固定した一様な姿態をそこなうものではないのである。〉 (242-243頁)

 〈借り手が差し出す担保の種類によって、利子率そのものが絶えず違っているということは、確かに正しい。しかし、これらの種類ごとについては、やはり利子率は一様です。だから、こうした相違そのものは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないのです。〉

 【これは利子率というのは〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉と述べてたことに対して、考えられる異論に対して、前もって反論を加えるというもののようである。つまり担保の違いによって利子率も違うではないか、だから利子率は一様だというのはおかしい、という反論に対して、マルクスは確かに担保の違いによって利子率も違うというのは正しいが、しかしその担保の種類ごとに決まってくる利子率というのは、そのかぎりでは一様なのだと反論している。だからこのことは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないし、それに異論を唱える根拠にはならないと言いたいのである。
 ただここでマルクスは〈利子率の固定した一様な姿態〉と述べているが、その前にも紹介したように、利子率が〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉というのはいいものの、それが〈固定した〉ものというのは果たしてどうなのであろうか。利子率がたとえその平均率であっても、利子生み資本の需給によって変化するし、その需給こそが利子率を規定するものだから、それが固定したものというのは言い難いように思えるのである。だからこの〈利子率の固定した一様な姿態〉というのは、利子率というのは、その時その時に、ある決まった数値として一様に明瞭に決まってくる状態を表していると考えるべきではないだろうか。】

 (続く)

 

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