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2019年8月30日 (金)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【9】パラグラフからである。


【9】

 〈/301上/そこで生じるのは次のような疑問である。総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか? 言い換えれば,自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家もまた自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて,そういうものとして別個に計算するのは,どうしてなのか? したがってさらに進んで言えば,いっさいの資本が,借りたものであろうとなかろうと,利子生み資本として,総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは,どうしてなのか?〉 (272頁)

 〈そこで生じるのは次のような疑問です。純利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割が質的な分割に転回するということは、どうして起こるのでしょうか? 言い換えれば、自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家も、借り入れた資本を充用する資本家と同様、自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて、そういうものとして別個に計算するのは、どうしてなのでしょうか? さらに進んで言えば、いっさいの資本が、借りたものであろうとなかろうと、利子生み資本として、総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは、どうしてなのでしょうか?〉

  【ここでは「総利潤〔gross profit〕」という用語が出てくるが、ややわかりにくい。最初に出てくる「総利潤」をエンゲルスは「純利潤〔Nettoprofit〕」に変えているが、これはこの方が適切だろうと思う。利子を除いた部分を純利潤というのはわかるが、それを総利潤というのではわけがわからないからである。次に出てくる「総利潤〔gross Profit〕」の場合は、そのままでいいような気がする(エンゲルスはgross ProfitをBruttoprofit(粗利潤)に変えている)。この部分の訳者注で大谷氏は〈マルクスはこの部分でgross Profitという語をしばしば用いているが,エンゲルスはこれをBruttoprofitと訳している。〉(272頁)と指摘している。総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れるというのであるから、これは総利潤を純利潤と利子に分割することを意味するだろうからである。最後に出てくる「総利潤」については、エンゲルスは「純利潤」としているのだが、大谷氏もそれを適切なものとしているのだが、果たしてどうであろうか。むしろこの場合は「総利潤」でよいのではないかと思うのである。この場合は、前貸資本全体が例え借り入れたものであろうとそうでなかろうと、全体を借り入れたものと見なして、つまり利子生み資本の貸し付けと見なして、それが生み出した総利潤を、純利潤(産業利潤)と利子とに分割するということであるから、総利潤を生み出す資本としての自分自身から区別して、利子を計算するということでいいのではないだろうか。ただまあ、ややこしいことはややこしい。
 ところでこのパラグラフは、〈そこで生じるのは次のような疑問である〉という一文で始まっている。これは果たして大谷氏が指摘するように、われわれのパラグラフ番号でいえば【3】パラグラフを受けたものと考えるのが適切であろうか。むしろ( )に括られた【5】~【7】パラグラフを受けたものと考えてよいのではないだろうか。というのはこれらのパラグラフで問題になっているのは、借入資本も自己資本も資本として機能するかぎりでは、それ以外の処分は不可能であり、常にそれは資本として機能させておく必要があるという点では同じであり、だからもし利子率がゼロに近くなればなるほど、両者はほとんど同等の位置に置かれるのだと述べていたポウズンキトの主張を肯定して、それを批判するトゥクを批判していたのだからである。つまり借入資本と自己資本とは資本として機能する限りでは同じだと述べていたのだから、今回のパラグラフではどうして自己資本で生産する資本家も、それをわざわざ借入資本として計算して産業利潤と利子とに分割するのか、という疑問を提示しているわけである。量的分割がどうして質的分割をもたらすのか、という疑問である。もちろん、それに答えようというのが以下の論述であろう。】


【10】

 だれでもわかるように,利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない。たとえば,何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成し,その後,法律的に確定された取決めに従って互いに利潤を分配し合う。また,他の産業資本家たちは,自分の事業を個別的に,共同事業者なしで営んでいる。さて,このあとのほうの資本家たちは,彼らの利潤を二つの部類に分けて一部分を個人利潤として計算し他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって,それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である。だから,この場合には,量的な分割が質的な分割に[444]転回することはない。分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれないのである。

  ①〔異文〕「利潤の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「偶然的な」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「彼らの……を分ける」という書きかけが消されている。〉 (272-273頁)

  〈誰でもわかることですが、利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するわけではありません。例えば、何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成して、その後、法律的に確定された取り決めに従って互いに利潤を分配し合うのに対して、他の産業資本家たちは、自分の事業を個別的に、共同事業者なしで、営んでいる場合、このあとのほうの資本家たちは、彼らの利潤を二つの部類にわけて一部分を個人利潤として計算し、他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって、それは、借りた資本だけで事業をする生産的資本家が、利潤の一部分を、借りたのではない彼の資本に対する利子として計算しないのと同じです。分割が行われるのは、たまたま所有者が複数の法律上の人格からなっている場合であって、そうでない場合には分割は、行われないのです。〉

  【このパラグラフはややわかりにくい。まず最初に、マルクスは〈利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない〉と書き、〈たとえば〉と書き出している。そして共同事業関係を結んで事業を行った生産的資本家たちは、一定の法的な取り決めにしたがって、利潤を分配するが、つまり利潤の量的分割が行われるが、しかしそれが質的に転回して、例えば共同事業関係をむすばないで個別に事業を行う資本家も、彼の個別の事業の利潤と、存在しない共同事業者の利潤というような利潤の分割をしないことをみれば分かると述べている。つまりこの場合は利潤の量的分割は質的な分割に転回しないと言いたいわけである。もし最初の共同事業関係にもとづく利潤の量的分割が、質的分割に転回するなら、個別で事業を行う資本家も、彼のあげた利潤を存在しない共同事業家の分と分けて考えることになるが、そんな馬鹿なことはしないだろうというわけである。
  ただそれに続けて述べていることがいま一つ分かりにくい。〈それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である〉というのであるが、ここで〈それは〉というのは、その直前の〈存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしない〉ということを指していると思える。つまり借りた資本だけで事業をする資本家は、当然、その借りた資本に対する利子として彼は利潤の一部を計算するのであって、最初から存在しない借りたのではない資本に対する利子として計算しないように、もともと存在しない共同事業関係者のための利潤として計算しないだろうということではないか。
  そして結論として〈分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれない〉のだというものである。】


【11】

 この疑問に答えるためには,われわれはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ちどまらなければならない。すなわち,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とが,たんに,法律上別な人格としてだけではなく,再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として,または,その手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行なう人格として,現実に相対しているという想定から出発しなければならない。一方は資本を貸すだけであり,他方はそれを生産的に充用するのである。|

  〔異文〕「同じ」--書き加えられている。〉 (273頁)

  〈この疑問に答えるためには、私たちはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ち止まらなければなりません。つまり貨幣資本家と生産的資本家とが、たんに、法律上の別々の人格としてだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、あるいは、それぞれの手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行う人格として、現実に相対しているという想定から出発しなければならないのです。一方は資本を貸すだけであり、他方はそれを生産的に充用するのです。〉

  【〈この疑問〉というのは、一つは〈総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか?〉ということであり、それと関連して、どうして〈利潤のすべての偶然的な量的な分割が……質的な分割に転回するのではない〉のかという疑問でもある。
 そしてマルクスは、それがどうしなのかを理解するためには、もう一度、利子が形成される出発点に立ち止まる必要があると指摘し、貨幣資本家と生産的資本家とを、たんに法律上の違いだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、互いに相対している現実から出発する必要があるとしているわけである。一方が資本を貸すだけ、他方はそれを借りて生産的に充用するだけ、という現実である。】


【12】

 |302上|借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては,総利潤は二つの部分に分かれる。すなわち,彼が貸し手〔Verleiher(lender)〕に支払わなければならない利子と,総利潤・マイナス・利子,すなわち,利潤のうち彼自身の分けまえをなす,総利潤のうちの利子を越える超過分とに分かれる。一般的利潤率が与えられていれば,あとのほうの部分は利子率によって規定されている。利子率が与えられていれば,一般的利潤率によって規定されている。さらにまた,総利潤,つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも,機能資本家のものになる部分は利子によって規定されている。というのは,利子は(特別な法的な取決めを別とすれば)一般的利子率によって確定されていて,生産過程が始まる前から,したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から,先取りされるのであり,前提されているからである。これまで見てきたように,資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり,より詳しく規定すれば利潤である。ところが,借りた資本で事業をする資本家にとっては,資本の生産物は利潤ではなく,利潤・マイナス・利子であり,利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。だから,利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に,機能するかぎりでの資本の生産物として現われる(彼にとっては現実にそうである)のであり,そして彼は,ただ機能している資本としての資本だけを代表するのである。彼が資本の人格化であるのは,資本が機能しているかぎりでのことである。資本が機能しているのは,それが産業や商業で生産的に投下され,それを用いてその充用者が,彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行なうかぎりでのことである。だから,彼が総利潤〔gross profit〕,粗利潤〔Rohprofit〕のうちから貸し手〔lender〕に支払ってしまわなければならない利子に対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとる。あるいは,それを,この両方を包括するドイツ語の表現で名づければ,企業利得Unternehmungsgewinn〕という姿態をとるのである。もし粗利潤が平均利潤に等しければ,この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されている。もし粗利潤が[445]平均利潤から偏倚する場合には, それと平均利潤マイナス利子との差額は,ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ,ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ,こうしたあらゆる市況によって規定されているのである。ところで,すでに見たように,利潤の率は,生産過程そのもののなかで,ただ剰余価値によって左右されるだけではなく,そのほかにも多くの事情によって,たとえば,生産手段を買うときの価格,平均的方法よりも生産的な方法,不変資本の節約,等々によって左右される。また,生産価格のことは別として,資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか,総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは,特殊的市況にかかっており,また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっている,等々。しかし,いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化する。そして,この量的な分割そのものは,なにが分配されるか,能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか,また,その資本が機能資本として,すなわち能動的資本家としての彼の機能によって,彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか,によって定まるのだから,ますますもってそれは質的な分割に転化するのである。機能資本家は,想定されている場合では資本非所有者である。逆に。資本の所有は彼に対立して,貸し手〔lender〕によって,貨幣資本家〔monied capitalist〕によって代表されている。だからまた,彼が貨幣資本家〔monied capitalist〕に支払う利子は,粗利潤のうちの,資本所有そのものに帰属する部分として現われるのである。これに対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,企業利得として現われるのであって,この利得は,もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行なう諸操作や諸機能から,したがって,彼が企業者として産業や商業で行なう諸機能によって発生するのである。だから,彼にたいして利子は,資本所有の,再生産過程を捨象した資本それ自体Capital an sich〕の,「働かず」機能していないかぎりでの資本の,たんなる果実として,現われる。他方,彼にとって企業利得は,資本それ自体Capital an sich〕の果実,資本所有の果実としてではなく,彼が資本を用いて行なう諸機能の果実として,資本の過程進行Processiren〕の果実として現われるのであり,この過程進行は,彼にとって,貨幣資本家〔monied capitalist〕に対立して,貨幣資本家〔monied capitalist〕の非活動,生産過程への不介入に対立して,彼自身の活動として現われるのである。このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ,すなわち,利子資本それ自体Capital an sich〕の||303上|果実,生産過程を度外視した資本所有の果実であり,企業利得は,過程進行中の〔processirend〕資本の果実であり,したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--[446]この質的な分割は,けっして一方での貨幣資本家〔monied Capitalist〕の,他方での生産的資本家の,たんに主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。というのは,利子は貨幣資本家〔monied capitalist〕の手に,すなわち資本のたんなる所有者であり,したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手〔lender〕の手に流れ込み,企業利得ただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからである。

  ①〔異文〕「・マイナス・」← 「一」〔減算記号〕
  ②〔異文〕「価値量」← 「額」
  ③〔異文〕「確定されていて,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「として」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「この企業利得は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「もろもろの偶然によって規[定され]〔bestim[mt]〕」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「……率から」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「……は別として」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「個別資本家は……できる」という書きかけが消され,さらに「ある特殊的な……できる」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「この資本を用いて」--書き加えられている。
  ⑪〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。〉  (273-278頁)

 このパラグラフはかなり長いので、内容的にわかる限りで、便宜的に番号を打って、幾つかのパラグラフにわけて、平易に書き下ろしてみよう。

 〈(1)借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれます。つまり、彼が貸し手に支払わなければならない利子と、総利潤・マイナス・利子、すなわち、利潤のうち彼自身の分け前をなす、総利潤のうち利子を越える超過分とにです。一般的利潤率が与えられていれば、あとの方の部分は利子率によって規定されています。利子率が与えられていれば、一般利潤率によってそれは規定されています。さらにまた、総利潤、つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも、機能資本家のものになる部分は利子によって規定されています。というのは、利子は、特別な法的な取り決めを別とすれば、一般的利子率によってすでに確定されていて、生産過程が始まる前から、したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から、先取りされているのであり、前提されているのだからです。
 (2)これまで見てきましたように、資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤です。ところが借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分です。だから、利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に、機能する限りでの資本の生産物として現れるのです。(彼にとっては現実にそうなのです)。そして彼は、ただ機能している資本としての資本だけを代表します。彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことです。資本が機能しているのは、それが産業や商業で生産的に投下され、それを用いて充用者が、すなわち彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行う限りのことです。だから、彼が総利潤、あるいは粗利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、利潤のうちの彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのです。あるいは、それを、この両方を包括するドイツ語の表現でいえば、企業利得という姿態をとるのです。
 (3)もし粗利潤が平均利潤に等しければ、この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されています。もし粗利潤が平均利潤から偏倚する場合には、粗利潤と平均利潤マイナス利子との差額は、ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ、ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ、こうしたあらゆる市況によって規定されています。
 (4)ところで、すでに見ましたように、利潤の率は、生産過程そのもののなかで、ただ剰余価値によって左右されるのではなく、そのほかにも多くの事情によって左右されます。例えば、生産手段を買うときの価格、平均的方法よりも生産的な方法、不変資本の節約、等々。また、生産価格のことは別として、資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか、あるいは総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは、特殊的市況にかかっており、また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっています、等々。
 (5)しかし、いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化します。そして、この量的な分割そのものは、何が分配されるか、能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか、また、その資本が機能資本として、すなわち能動的資本家としての彼の機能によって、彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか、によって定まるのですから、ますますもってそれは質的な分割に転化するのです。
 (6)機能資本家は、想定されている場合では資本の非所有者です。逆に、資本の所有は彼に対立して、貸し手によって、貨幣資本家によって代表されています。だからまた、彼が貨幣資本家に支払う利子は、粗利潤のうちの、資本所有そのものに帰属する部分として現れるのです。これに対立して、利潤のうち彼のものになる部分は、企業利得として現れるのです。だからこの利得は、もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行う諸操作や諸機能から、したがって、彼が企業者として産業や商業で行う諸機能によって発生するのです。だから、彼に対して利子は、資本所有の、再生産過程を捨象した資本それ自体の、「働かず」機能していないかぎりでの資本の、たんなる果実として、現れるのです。他方、彼にとって企業利得は、資本それ自体の果実、資本所有の果実としてではなく、彼が資本を用いて行う諸機能の果実として、資本の過程進行の果実として現れるのです。この過程進行は、彼にとって、貨幣資本家に対立して、貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入に対立して、彼自身の活動として現れるのです。
 (7)このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ、すなわち、利子は資本それ自体の果実、生産過程を度外視した果実であり、企業利得は、過程進行中の資本の果実であり、したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--この質的な分割は、けっして一方での貨幣資本家の、他方での生産的資本家の単に主観的な見方ではありません。それは客観的な事実にもとづいています。というのは、利子は貨幣資本家の手に、すなわち資本のたんなる所有者であり、したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込み、企業利得はただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからです。〉

  【このパラグラフは長いのであるが、総利潤の量的な分割が質的な分割に転回することを論証している重要な部分である。それをマルクスはどのような展開によってやっているのかをわかるように、幾つかの部分にわけて番号を打って見たわけである。
 まず(1)の部分では、マルクスは借りた資本で事業を行う生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれる、と直接的な事実を確認している。ここでマルクスは、「生産的資本家たちにとって」を問題にしていることがまず確認される必要がある。つまり質的な分割は、あくまで生産的資本家にとって生じてくる事態なのである。彼が手にするのは総利潤のうち利子を越える超過分である。つまり彼にとっては利子は生産過程の始まる前からあらかじめ差し引かれなければならないものとしてあるということである。利子は、生産過程が始まる前から、利潤が得られる前から、利潤から差し引かれるべきものとして、先取りされているのであり、前提なのである。それが確認されている。
 (2)次に、こうしたことから借り入れた資本で生産する資本家にとっては、彼の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利潤のうちのこの部分は必然的に、彼にとっては、彼が生産的資本家として機能する限りでの資本の生産物として現れるのだと指摘している。そして彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことであり、資本が機能しているのは、それが産業や商業に生産的に投下されて、その充用者である彼が、それに必要な諸操作を行う限りで、彼は資本家であり、資本の人格化なのである。だから彼が総利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのだというわけである。そしてこの両者をあわせた用語として、企業利得という姿態をとると指摘している。
 要するに利子生み資本の貸し手に支払われる利子というのは、利潤の分割されたものであるが、それはその分割された利潤の残りの部分を手にする資本家、生産的資本家たちにとっては、彼らが生産を開始する以前にすでに先取りされているものであり、一つの前提であること、だから彼らが手にするもの(企業利得)は、彼らの生産的活動の果実として現象し、それに対して、利子は不活動の果実、たんなる資本所有の果実として現象するのだということである。利子が利潤を分割して、利子と純利潤(企業利得)とに分かれるのはたんなる量的な分割であるが、それが生産的過程に対する二人の資本家の異なる振る舞いから生じていることから、質的な分割に転回するわけであ。つまり利潤という同じものがただ単に量的に分割されたものにすぎないのに、一方は資本所有の果実として、他方は生産的活動の果実として、それらがまったく異なる源泉から生まれるような仮象が生じているのである。それが質的な分割とマルクスが述べている内容である。
 (3)の部分は企業利得の大きさというのは、利潤率が与えられていれば、利子率によって規定されているのだが、しかし利子率が与えられていれば、結局、その資本の特殊な利潤の状況に左右され、いろいろな特殊的な市況によって規定されているということから、それがますます利子と質的に区別された、利子とは別個の条件に依存するように見えるということを示しているのであろう。
 (4)の部分も企業利得が、それに固有のさまざまな条件に左右されることを指摘している。つまり生産的資本家の努力や狡猾さにかかっていることから、その源泉は利子とはますます質的に区別されたものとして現れるというわけである。
 (5)こうしたことから粗利潤の量的な分割は質的な分割に転化するのだと指摘している。
 (6)次の部分は、われわれの想定では機能資本家は、資本の非所有者であるので、資本の所有は彼に対立して現れ、利子は資本所有そのもの果実として現れること、そしてそれに対して、企業利得は資本それ自体の果実、資本の進行過程の果実として現れると指摘している。そしてそれに対して利子は、彼にとっては貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入の果実として現れるのだとしている。
 (7)最後に、マルクスはこうした質的な分割は、確かに生産的資本家の立場から見てきたが、しかしそれは彼らの主観的な見方などではなく、客観的な事実にもとづいたものなのだと述べている。というのは、利子は貨幣資本家の手に、資本のたんなる所有者であり、生産過程以前にその外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込むものとして前提されており、企業利得はただ彼が機能する資本家として彼のものになるのだからだというわけである。
 以上がこのパラグラフで総利潤の量的な分割が質的な分割に転回するという事実のマルクスの論証である。】

  (以下、続く)

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