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2019年8月18日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-1)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第23章「利子と企業者利得」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [441]/300上/3)〔利子と企業利得。監督賃金〕

  ①〔訂正〕「3)」--草稿では「4)」と書かれている。〉 (267頁)

  【表題だけなので、平易な書き下ろしは省略する。この部分は草稿では、ただ「4)」と番号が打たれているだけである。ただしこの「4)」は「3)」の誤記であろうと大谷氏は推測している。大谷氏がどうしてマルクスが番号を打ち間違ったのかについてもその理由を推測しているが、その紹介は不要であろう。総じてマルクスはこの第5章(篇)部分については読み返しながら手入れをするということをほとんどしていないのだそうである。だからこの誤記も訂正されずにそのままになっているわけである。マルクス自身は、次の項目をやはり「5)」と誤って番号を打っているが、そのあとの「5)信用。架空資本」と自ら表題を書いた段階では、番号そのものは正しいものになっている。だからマルクス自身は誤記を自覚していたということであろう。本来ならこうした誤記はその時点で訂正されるはずだが、マルクス自身は原稿を読み返して手を入れるという作業をほとんどしていないので、こうしたことになっているのだというのである。なお〈〔利子と企業利得。監督賃金〕〉という表題は大谷氏によってつけられたものである。】


【2】

 利子はもともと,利潤すなわち剰余価値(資本によって取得された不払労働)のうちの,機能資本家つまり産業家または商人が,自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり,資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分にほかならないものとして現われるのであり,そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである。もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば,そのような利潤の分割は生じない。利潤はそっくり彼のものである。じっさい,資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり,彼らは利子率,rate of interestを規定する競争には参加しないのであって,すでにこの点にも,利子の諸範疇--これらはなんらかの利子率の規定なしにはありえない--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されて[442]いるのである。

 ①〔異文〕「を充用する」← 「で仕事をする」
  ②〔異文〕「かぎり」← 「ときに」
  ③〔異文〕「資本の所有者つまり貸し手」← 「彼が充用する資本の所有者」
  ④〔異文〕「支払ってしまわなければならない」← 「支払わなければならない」
  ⑤〔異文〕「彼はまった[く〕…… のままである〔bleibt ga[nz]〕」--という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「所有者たち」← 「所有者」
  ⑦〔異文〕「この点からも」という書きかけが消されている。〉 (267-268頁)

 〈利子というのはもともと、機能資本家つまり産業家または商人が、自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり、彼が取得した利潤つまり剰余価値のうち、資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるのです。そしてもともとそれにほかならないのです。また実際にどこまでもそれにほかならないものなのです。
 もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば、そのような利潤の分割は生じません。利潤はそっくり彼のものです。そして実際、資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり、彼らは利子率を規定する競争には参加しないのです。そしてすでにこの点にも、利子の諸範疇--つまりこれらは何らかの利子率の規定なしにはありえないのですが--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されているのです。〉

 【ここでは前回の「2)」で確認したことが再び確認されている。つまり利子というのは利潤の分割したものだということである。ここでマルクスは利子は利潤のうち資本の貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れると述べている。この「現れる」というのは特徴的である。それはまさに表象として直接捉えられるものなのである。それは何かの分析や考察にもとづいてその本質が解明されるというようなものではなく、資本を借りて生産した機能資本家にとってはそれは彼らが得た利潤からの控除として直接現れているものだということである。マルクスは〈そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである〉と敢えて念を押している。こうした念押しは、やはり利子諸範疇というのは、あくまでも生産過程にとっては外的なものであり、そうしたものにとどまるのだ、と言いたいのであろう。だからまたそうした資本を借りずに、自分の資本で生産する資本家は利潤を分割する必要はなく、利潤をそっくり自分のものにできる。だからまた彼らは利子率を規定する競争に参加することもない。そしてこうしたことが利子の諸範疇が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることを示しているのだというのである。ここで「利子の諸範疇」ということばが出てくる。それらは利子率の規定なしにはありえないとも説明されている。要するに貨幣信用にかかわる諸範疇ということであろう。つまり貨幣の貸し借りに関連するものは、すべて生産的資本それ自体の運動には外的なものなのだというのである。この理解、あるいは観点は、マルクスにとっては一貫しており重要である。】


【3】

 利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capitalの使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」a) じっさい,ただ貨幣資本家〔monied capitalist〕と産業資本家とへの資本家の分離だけが,利潤の一部分を利子に転化させるのであり,そもそもこの範疇をつくりだすのである。そして,ただこの二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。/

  ①〔異文〕「分離」← 「分裂」
  ②〔異文〕「利潤を」という書きかけが消されている。〉 (268頁)

 〈「利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capita1の使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」 実際、ただ貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離だけが、利潤の一部分を利子に転化させ、この範疇を作り出すのです。そして、この二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率を作り出すのです。〉

 【ここでは上のパラグラフ(【2】)で述べていることを、ほぼそのまま論じているトゥクの一文を紹介して、貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離が利潤の一部を利子に転化させ、こうした範疇--この範疇はというのは先のパラグラフに出てくる「利子の諸範疇」のことであろう--をつくりだすと指摘されている。下線による強調はトゥクのそれとは異なっているからマルクスのものであろう。ここでは「貨幣資本家」に対して「産業資本家」が対置されている。「所有資本家」に対しては「機能資本家」が対応している。また「産業資本家」は、先のパラグラフでは〈機能資本家つまり産業家または商人〉と述べているのだから、必ずしも産業家だけではなく商人も入るのであろう。要するに「再生産的資本」あるいは「再生産過程内の資本家」などとあとでも言われているものである。】


【4】

 |300下|〔原注〕a) Th.トゥク物価史』,第2巻,ロンドン,1838年,355,356ページ〔藤塚知義訳『トゥック物価史』,第2巻,東洋経済新報社,1979年,330-331ページ〕〔原注a)終わり〕。/

  ①〔訂正〕「ロンドン,1838年」--草稿では「(ニューマーチ編,ロンドン,1857年)と書かれている。マルクスは,1858年のロンドン抜粋ノートから取り入れるさいに誤ってこのように書いた。〉 (268頁)

 【このパラグラフは先の引用の典拠を示すだけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この『物価史』からの引用はその一部を省略して行われているが、全体を参考のために紹介しておこう。

 〈利子率とは,一定額の貨幣資本(monied capital)の使用にたいして,1年とかあるいはそれより長期または短期の期間について,貸手が満足して受け取り,借手が満足して支払う比例額であると--その収入の収得のための労苦とか,約定された時期に利子や元本が期限どおり償還されるかどうかについての危険とかは考慮にいれないで--定義できるであろう。貨幣資本の所有者がその貸付にたいしてこの率以上に受け取るものはすべて,危険あるいは労苦にたいする報酬という見地から考察されるべきものである。
 この見地からいえば,利子率資本の純利潤をはかる尺度である。資本の使用によって生ずる利得のうちこれ〈純利潤〉を超えるものはすべて,これとは別個の項目のもとに,危険にたいする・あるいは労苦や熟練にたいする・あるいは位置や環境の利益にたいする・代償に分解される。資本の所有者がこれを実際に再生産に使用するときは,彼は,借手の数にたいするその割合が利子率の決定に参加するところの資本家の部類には入らない。利子率になんらか直接の影響を与えるのは,その所有者が自分の貨幣を自ら積極的に使用することを欲せずあるいは使用することができないという部類の資本だけである。〉(330-331頁)下線はトゥクによる強調】


【5】

 /300上/(資本が再生産過程で機能しているかぎり--その資本が産業資本家のものであり,したがって彼はそれをどんな貸し手にであれ返済するという制約が存在しないものと前提しても--,彼が私的個人として自由に処分できるのは,ただ彼が収入として支出することのできる利潤だけである。彼の資本が資本として機能しているかぎり,それは再生産過程に属している。彼はその資本の所有者ではあるが,しかし,この所有は,彼がそれを資本として労働の搾取に使用しているかぎり,別の仕方で彼がそれを処分することを許さないのである。貨幣資本家〔monied capitalist〕の場合もまったく同じことである。彼の資本が貸し出されている--したがってまたmonied Capitalとして働いている--あいだは,それは彼の手に利子を,つまり利潤の一部分をもってくるが,しかし彼は元本を自由に処分することはできない。こういうことは,彼が資本をたとえば1年(またはもっと長い期間)貸し付けて,それにたいしてある期間ごとに利子は受け取るが,資本の返済returnは受けないという場合に,現われる。しかし,返済〔return〕があってもこのことに違いはない。彼は資本を返してもらうが,しかし,自分のためにそれに資本(ここではmonied capital)の働きをさせようとするかぎり,彼は絶えず繰り返しそれを貸し付けなければならない。それが彼の手のなかにあるときには,それは利子を生まず,だからまた資本として働かない。そして,それが利子を生み,資本として働いているかぎり,それは彼の手のなかにはない。ここから,資本を永||301上|久に〔à perpétuité〕貸し付けておくという可能性も生じるのである。それゆえ,トゥクが次のように言っているのは,まったく間違いである。彼は言う。--

  ①〔異文〕「資本としては」という書きかけが消されている。〉 (269-270頁)

 〈(資本が再生産過程で機能しているかぎり、彼が私的個人として自由に処分できるのは、ただ彼が収入として支出することができる利潤だけです。これは例えその資本が産業資本家のもので、だから彼はそれをどんな貸し手にであれ返済しなければならないという制約がないばあいでもそうなのです。彼の資本が資本として機能しているかぎり、それは再生産過程に属しています。だから彼はその資本の所有者ではあるが、しかし、この所有は、彼がそれを資本として労働の搾取に利用しているかぎり、別の仕方でそれを処分することを許さないものです。貨幣資本家〔moneyed capitalist〕の場合もまったく同じことです。彼の資本が貸し出されているあいだは、それがmoneyed capitalとして働いているわけですが、そのあいだは、それは彼の手に利子を、つまり利潤の一部分をもってくるが、しかし彼は元本を自由に処分することはできません。こういうことは、彼が資本を例えば1年間(またはもっと長い期間)貸し付けて、それに対してある期間ごとに利子は受け取るが、資本の返済は受けないという場合に、現れます。しかし、返済があってもこのことに違いはないのです。彼は資本を返してもらいますが、しかし、自分のためにそれに資本(ここでは当然moneyed capitalとしてのそれですが)の働きをさせようとするかぎり、彼は絶えず繰り返してそれを貸し付けなければなりません。それが彼の手のなかにあるときには、それは利子を生まず、だから資本として働かないのです。そして、それが利子を生み、資本として働いているかぎりは、それは彼の手のなかにないのです。ここから、資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じるのです。それゆえ、トゥクが次のように言っているのは、まったく間違っています。彼は言います。--〉

 【このパラグラフの冒頭には「(」がついている。この締めの括弧(「)」)はわれわれのパラグラフ番号では【7】の最後にある。だからそれに付けられた原注である【8】パラグラフも含めて全体が丸カッコに入っているわけである。この点について大谷氏はこの括弧をエンゲルスは編集の段階で削除しているが、それは不適であると次のように述べている。

 〈これに対応する「)」は,本書本巻271ページ20行にある。なお,マルクスは草稿で通常,なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分を角括弧でくくっている(本稿では{}で示している)が,エンゲルスはこの角括弧を大部分単純に削除している。そのために,草稿では文脈が明瞭であるところが,エンゲルス版ではわかりにくくなっている場合がかなりある。ここでは角括弧でなくてパーレンであるが,やはり明らかに,前後から区別されるべき部分である。この部分を除いて読めば,この部分の直後の,「そこで生じるのは次のような疑問である」という文で始まるパラグラフのつながりが明瞭になる。〉 (269頁)

 つまりここでは資本が機能しているあいだは、資本家はそれを処分することはできないということから、同じことは貨幣資本家についても言いうることだと指摘し、それが返済されるまでは自由に処分できないのは当然であるが、それだけではなく、例え返済されたとしても、それが自分のために資本として働かせるためには、常に貸し付けて、moneyed capitalとして働かせていなければならず、それが働いているかぎりでは、彼はそれを自由に処分はできないと指摘し、そこから資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じると指摘している。この資本を永久に貸し付けるというのは、例えば株式を購入する場合は、それは永久に貸し付けるに等しく、配当を利子とし受け取ることになるし、あるいは永久公債のようなものもそうしたものであろう。その場合は利子は年金のように定期的に貨幣利得をもたらすものとして現れるわけである。そうした可能性をここでは論じているわけであるが、確かにこうした問題は本題からすればややずれた問題であろうと思う。だからマルクスは全体を括弧で括ったのであろう。】


【6】

 ボウズンキト氏(『金属通貨,紙券通貨,信用通貨』)の考察によれば(73ページ)--
 「かりに利子率が1%のような低率に引き下げられるとすれば,借入資本も自己資本とほとんど同等の位置にon a per置かれることになるであろう。」〉 (270頁)

 【このパラグラフは、少しややこしいが、前のパラグラフからの続きを考えるなら、恐らくトゥクの言っていることなのだから、最初の部分はその要約であり、鍵括弧の部分はトゥクがボウズンキトの著書から引用している部分の重引であろう。だから平易な書き下しは不要と考えた。ボウズンキトは利子率が低率なら借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれると指摘しているのにたいして、トゥクはそれは間違いだというわけである。それが次のパラグラフで引用されている一文だが、それをマルクスは批判しているわけである。だからマルクスはむしろボウズンキトの主張の方が正しいと考えているのであろう。いずれにせよ最後まで見て、それを判断しよう。】


【7】

 これにたいしてトゥクは次のような評注をつけている。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,[443]ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a) かりに利子がゼロだとすれば,資本を借りた生産的資本家も,自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だon a par〕ということになるであろう。すなわち,両方とも同じ平均利潤を取り込むであろう。そして,借入資本であろうと所有資本であろうと,資本が資本として働くのは,ただ,それが利潤を生産するかぎりだけのことである。返済〔repayment〕という条件は少しもこのことを変えはしないであろう。利子率がゼロに近づけば近づくほど,つまりたとえば1%にでも下がれば,ますます借入資本は所有資本と同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。monied capitalをmonied capitalとして存在させようとするかぎり,それは絶えず繰り返して貸し出されなければならない。しかも現行の利子率,たとえば1%の率で,しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならない。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり,借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は,ただ,一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ,一方はP(利潤)を全部取り込むが,他方はP-Z(利子)を取り込む,ということだけである。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き,したがってますます二つの資本は同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。一方は資本を返済してまたあらためて借り入れ〔leihen〕なければならない。しかし,他方も,彼の資本を機能させようとするかぎり,やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸しなければならないのであって,それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできない。)/

  ①〔異文〕「たえず繰り返し」--書き加えられている。〉 (270-272頁)

 〈これに対して、トゥクは次のような評注をつけています。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a)
 しかし仮に利子がゼロだとすれば、資本を借りた生産的資本家も、自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だということになるでしょう。つまり、両方とも同じ平均利潤を取り込むでしょう。そして、借入資本であろうと所有資本であろうと、資本が資本として働くのは、ただ、それが利潤を生産するかぎりだけのことです。返済という条件は少しもこのことを変えはしないでしょう。利子率がゼロに近づけば近づくほど、例えば1%にでも下がれば、ますます借入資本は所有資本と同等な位置に置かれることになります。moneyed capitalをmoneyed capitalとして存在させようとするかぎり、それは絶えず繰り返して貸し出されなければなりません。しかも現行の利子率、例えば1%の率で、しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならないのです。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり、借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は、ただ、一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ、一方はP(利潤)を全部取り込むが、他方はP-Z(利子)を取り込む、ということだけです。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き、したがって二つの資本は同等な位置に置かれることになります。確かに一方は資本を返済してまたあらためて借り入れなければなりません。しかし、他方も、彼の資本を機能させようとするかぎりは、やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸ししなければならないのであって、それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできないのです。)〉

 【ここではボウズンキトが、利子率が1%のような低いものになれば、借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれるというのに対して、トゥクは、返済という条件があるではないか、それを彼は見落としたのか、それともそれは大したことはないと考えているのかと批判しているのにたいして、明らかにマルクスはボウズンキトの方が正しく、トゥクの方が間違っていると述べている。これは一見するとどうしてなのか、と思うのだが、マルクスがここで言いたいことは、資本にとっては利潤を生産することがもっとも重要なことであるが、それはだからその資本が貸付資本であるか自己資本であるかということは、外的なことなのだということなのである。確かに借入資本の場合は利子の支払があるので、その点が自己資本の場合と異なるが、しかしその利子率がゼロに近くなればなるほど、利潤の生産ということから見れば、だから両者は同等な位置に置かれるというのである。トゥクは資本にとってそれが借り入れかそうでないかということ、だから貸し付けや返済ということは、資本の生産過程における運動にとっては外的なものだという理解がないとマルクスは批判しているわけである。その意味では、この丸カッコに括られた部分も、【2】パラグラフでマルクスが利子の諸範疇は生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであると述べていたことと関連して述べられているわけであるから、それほど全体の議論から外れたものとはいえないであろう。だからまたマルクスも大谷氏が指摘しているように、〈なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分〉というほどではないから、角括弧ではなく、丸カッコで括ったのではないだろうか。】

【8】

 〈|301下|〔原注〕a)Th,トゥク通貨原理の研究,云々』,ロンドン,1844年(第2版),80ページ〔前出玉野井訳『通貨原理の研究』,139ページ〕。〔原注a)終わり〕|〉 (272頁)

 【これはトゥクからの引用の出典を示しているだけだから、とくに解説は不要であろう。】

   (以下、続く)

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