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2019年8月

2019年8月30日 (金)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き【9】パラグラフからである。


【9】

 〈/301上/そこで生じるのは次のような疑問である。総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか? 言い換えれば,自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家もまた自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて,そういうものとして別個に計算するのは,どうしてなのか? したがってさらに進んで言えば,いっさいの資本が,借りたものであろうとなかろうと,利子生み資本として,総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは,どうしてなのか?〉 (272頁)

 〈そこで生じるのは次のような疑問です。純利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割が質的な分割に転回するということは、どうして起こるのでしょうか? 言い換えれば、自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家も、借り入れた資本を充用する資本家と同様、自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて、そういうものとして別個に計算するのは、どうしてなのでしょうか? さらに進んで言えば、いっさいの資本が、借りたものであろうとなかろうと、利子生み資本として、総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは、どうしてなのでしょうか?〉

  【ここでは「総利潤〔gross profit〕」という用語が出てくるが、ややわかりにくい。最初に出てくる「総利潤」をエンゲルスは「純利潤〔Nettoprofit〕」に変えているが、これはこの方が適切だろうと思う。利子を除いた部分を純利潤というのはわかるが、それを総利潤というのではわけがわからないからである。次に出てくる「総利潤〔gross Profit〕」の場合は、そのままでいいような気がする(エンゲルスはgross ProfitをBruttoprofit(粗利潤)に変えている)。この部分の訳者注で大谷氏は〈マルクスはこの部分でgross Profitという語をしばしば用いているが,エンゲルスはこれをBruttoprofitと訳している。〉(272頁)と指摘している。総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れるというのであるから、これは総利潤を純利潤と利子に分割することを意味するだろうからである。最後に出てくる「総利潤」については、エンゲルスは「純利潤」としているのだが、大谷氏もそれを適切なものとしているのだが、果たしてどうであろうか。むしろこの場合は「総利潤」でよいのではないかと思うのである。この場合は、前貸資本全体が例え借り入れたものであろうとそうでなかろうと、全体を借り入れたものと見なして、つまり利子生み資本の貸し付けと見なして、それが生み出した総利潤を、純利潤(産業利潤)と利子とに分割するということであるから、総利潤を生み出す資本としての自分自身から区別して、利子を計算するということでいいのではないだろうか。ただまあ、ややこしいことはややこしい。
 ところでこのパラグラフは、〈そこで生じるのは次のような疑問である〉という一文で始まっている。これは果たして大谷氏が指摘するように、われわれのパラグラフ番号でいえば【3】パラグラフを受けたものと考えるのが適切であろうか。むしろ( )に括られた【5】~【7】パラグラフを受けたものと考えてよいのではないだろうか。というのはこれらのパラグラフで問題になっているのは、借入資本も自己資本も資本として機能するかぎりでは、それ以外の処分は不可能であり、常にそれは資本として機能させておく必要があるという点では同じであり、だからもし利子率がゼロに近くなればなるほど、両者はほとんど同等の位置に置かれるのだと述べていたポウズンキトの主張を肯定して、それを批判するトゥクを批判していたのだからである。つまり借入資本と自己資本とは資本として機能する限りでは同じだと述べていたのだから、今回のパラグラフではどうして自己資本で生産する資本家も、それをわざわざ借入資本として計算して産業利潤と利子とに分割するのか、という疑問を提示しているわけである。量的分割がどうして質的分割をもたらすのか、という疑問である。もちろん、それに答えようというのが以下の論述であろう。】


【10】

 だれでもわかるように,利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない。たとえば,何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成し,その後,法律的に確定された取決めに従って互いに利潤を分配し合う。また,他の産業資本家たちは,自分の事業を個別的に,共同事業者なしで営んでいる。さて,このあとのほうの資本家たちは,彼らの利潤を二つの部類に分けて一部分を個人利潤として計算し他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって,それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である。だから,この場合には,量的な分割が質的な分割に[444]転回することはない。分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれないのである。

  ①〔異文〕「利潤の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「偶然的な」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「彼らの……を分ける」という書きかけが消されている。〉 (272-273頁)

  〈誰でもわかることですが、利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するわけではありません。例えば、何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成して、その後、法律的に確定された取り決めに従って互いに利潤を分配し合うのに対して、他の産業資本家たちは、自分の事業を個別的に、共同事業者なしで、営んでいる場合、このあとのほうの資本家たちは、彼らの利潤を二つの部類にわけて一部分を個人利潤として計算し、他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって、それは、借りた資本だけで事業をする生産的資本家が、利潤の一部分を、借りたのではない彼の資本に対する利子として計算しないのと同じです。分割が行われるのは、たまたま所有者が複数の法律上の人格からなっている場合であって、そうでない場合には分割は、行われないのです。〉

  【このパラグラフはややわかりにくい。まず最初に、マルクスは〈利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない〉と書き、〈たとえば〉と書き出している。そして共同事業関係を結んで事業を行った生産的資本家たちは、一定の法的な取り決めにしたがって、利潤を分配するが、つまり利潤の量的分割が行われるが、しかしそれが質的に転回して、例えば共同事業関係をむすばないで個別に事業を行う資本家も、彼の個別の事業の利潤と、存在しない共同事業者の利潤というような利潤の分割をしないことをみれば分かると述べている。つまりこの場合は利潤の量的分割は質的な分割に転回しないと言いたいわけである。もし最初の共同事業関係にもとづく利潤の量的分割が、質的分割に転回するなら、個別で事業を行う資本家も、彼のあげた利潤を存在しない共同事業家の分と分けて考えることになるが、そんな馬鹿なことはしないだろうというわけである。
  ただそれに続けて述べていることがいま一つ分かりにくい。〈それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である〉というのであるが、ここで〈それは〉というのは、その直前の〈存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしない〉ということを指していると思える。つまり借りた資本だけで事業をする資本家は、当然、その借りた資本に対する利子として彼は利潤の一部を計算するのであって、最初から存在しない借りたのではない資本に対する利子として計算しないように、もともと存在しない共同事業関係者のための利潤として計算しないだろうということではないか。
  そして結論として〈分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれない〉のだというものである。】


【11】

 この疑問に答えるためには,われわれはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ちどまらなければならない。すなわち,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とが,たんに,法律上別な人格としてだけではなく,再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として,または,その手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行なう人格として,現実に相対しているという想定から出発しなければならない。一方は資本を貸すだけであり,他方はそれを生産的に充用するのである。|

  〔異文〕「同じ」--書き加えられている。〉 (273頁)

  〈この疑問に答えるためには、私たちはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ち止まらなければなりません。つまり貨幣資本家と生産的資本家とが、たんに、法律上の別々の人格としてだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、あるいは、それぞれの手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行う人格として、現実に相対しているという想定から出発しなければならないのです。一方は資本を貸すだけであり、他方はそれを生産的に充用するのです。〉

  【〈この疑問〉というのは、一つは〈総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか?〉ということであり、それと関連して、どうして〈利潤のすべての偶然的な量的な分割が……質的な分割に転回するのではない〉のかという疑問でもある。
 そしてマルクスは、それがどうしなのかを理解するためには、もう一度、利子が形成される出発点に立ち止まる必要があると指摘し、貨幣資本家と生産的資本家とを、たんに法律上の違いだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、互いに相対している現実から出発する必要があるとしているわけである。一方が資本を貸すだけ、他方はそれを借りて生産的に充用するだけ、という現実である。】


【12】

 |302上|借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては,総利潤は二つの部分に分かれる。すなわち,彼が貸し手〔Verleiher(lender)〕に支払わなければならない利子と,総利潤・マイナス・利子,すなわち,利潤のうち彼自身の分けまえをなす,総利潤のうちの利子を越える超過分とに分かれる。一般的利潤率が与えられていれば,あとのほうの部分は利子率によって規定されている。利子率が与えられていれば,一般的利潤率によって規定されている。さらにまた,総利潤,つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも,機能資本家のものになる部分は利子によって規定されている。というのは,利子は(特別な法的な取決めを別とすれば)一般的利子率によって確定されていて,生産過程が始まる前から,したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から,先取りされるのであり,前提されているからである。これまで見てきたように,資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり,より詳しく規定すれば利潤である。ところが,借りた資本で事業をする資本家にとっては,資本の生産物は利潤ではなく,利潤・マイナス・利子であり,利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。だから,利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に,機能するかぎりでの資本の生産物として現われる(彼にとっては現実にそうである)のであり,そして彼は,ただ機能している資本としての資本だけを代表するのである。彼が資本の人格化であるのは,資本が機能しているかぎりでのことである。資本が機能しているのは,それが産業や商業で生産的に投下され,それを用いてその充用者が,彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行なうかぎりでのことである。だから,彼が総利潤〔gross profit〕,粗利潤〔Rohprofit〕のうちから貸し手〔lender〕に支払ってしまわなければならない利子に対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとる。あるいは,それを,この両方を包括するドイツ語の表現で名づければ,企業利得Unternehmungsgewinn〕という姿態をとるのである。もし粗利潤が平均利潤に等しければ,この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されている。もし粗利潤が[445]平均利潤から偏倚する場合には, それと平均利潤マイナス利子との差額は,ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ,ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ,こうしたあらゆる市況によって規定されているのである。ところで,すでに見たように,利潤の率は,生産過程そのもののなかで,ただ剰余価値によって左右されるだけではなく,そのほかにも多くの事情によって,たとえば,生産手段を買うときの価格,平均的方法よりも生産的な方法,不変資本の節約,等々によって左右される。また,生産価格のことは別として,資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか,総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは,特殊的市況にかかっており,また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっている,等々。しかし,いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化する。そして,この量的な分割そのものは,なにが分配されるか,能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか,また,その資本が機能資本として,すなわち能動的資本家としての彼の機能によって,彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか,によって定まるのだから,ますますもってそれは質的な分割に転化するのである。機能資本家は,想定されている場合では資本非所有者である。逆に。資本の所有は彼に対立して,貸し手〔lender〕によって,貨幣資本家〔monied capitalist〕によって代表されている。だからまた,彼が貨幣資本家〔monied capitalist〕に支払う利子は,粗利潤のうちの,資本所有そのものに帰属する部分として現われるのである。これに対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,企業利得として現われるのであって,この利得は,もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行なう諸操作や諸機能から,したがって,彼が企業者として産業や商業で行なう諸機能によって発生するのである。だから,彼にたいして利子は,資本所有の,再生産過程を捨象した資本それ自体Capital an sich〕の,「働かず」機能していないかぎりでの資本の,たんなる果実として,現われる。他方,彼にとって企業利得は,資本それ自体Capital an sich〕の果実,資本所有の果実としてではなく,彼が資本を用いて行なう諸機能の果実として,資本の過程進行Processiren〕の果実として現われるのであり,この過程進行は,彼にとって,貨幣資本家〔monied capitalist〕に対立して,貨幣資本家〔monied capitalist〕の非活動,生産過程への不介入に対立して,彼自身の活動として現われるのである。このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ,すなわち,利子資本それ自体Capital an sich〕の||303上|果実,生産過程を度外視した資本所有の果実であり,企業利得は,過程進行中の〔processirend〕資本の果実であり,したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--[446]この質的な分割は,けっして一方での貨幣資本家〔monied Capitalist〕の,他方での生産的資本家の,たんに主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。というのは,利子は貨幣資本家〔monied capitalist〕の手に,すなわち資本のたんなる所有者であり,したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手〔lender〕の手に流れ込み,企業利得ただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからである。

  ①〔異文〕「・マイナス・」← 「一」〔減算記号〕
  ②〔異文〕「価値量」← 「額」
  ③〔異文〕「確定されていて,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「として」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「この企業利得は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「もろもろの偶然によって規[定され]〔bestim[mt]〕」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「……率から」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「……は別として」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「個別資本家は……できる」という書きかけが消され,さらに「ある特殊的な……できる」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「この資本を用いて」--書き加えられている。
  ⑪〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。〉  (273-278頁)

 このパラグラフはかなり長いので、内容的にわかる限りで、便宜的に番号を打って、幾つかのパラグラフにわけて、平易に書き下ろしてみよう。

 〈(1)借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれます。つまり、彼が貸し手に支払わなければならない利子と、総利潤・マイナス・利子、すなわち、利潤のうち彼自身の分け前をなす、総利潤のうち利子を越える超過分とにです。一般的利潤率が与えられていれば、あとの方の部分は利子率によって規定されています。利子率が与えられていれば、一般利潤率によってそれは規定されています。さらにまた、総利潤、つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも、機能資本家のものになる部分は利子によって規定されています。というのは、利子は、特別な法的な取り決めを別とすれば、一般的利子率によってすでに確定されていて、生産過程が始まる前から、したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から、先取りされているのであり、前提されているのだからです。
 (2)これまで見てきましたように、資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤です。ところが借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分です。だから、利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に、機能する限りでの資本の生産物として現れるのです。(彼にとっては現実にそうなのです)。そして彼は、ただ機能している資本としての資本だけを代表します。彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことです。資本が機能しているのは、それが産業や商業で生産的に投下され、それを用いて充用者が、すなわち彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行う限りのことです。だから、彼が総利潤、あるいは粗利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、利潤のうちの彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのです。あるいは、それを、この両方を包括するドイツ語の表現でいえば、企業利得という姿態をとるのです。
 (3)もし粗利潤が平均利潤に等しければ、この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されています。もし粗利潤が平均利潤から偏倚する場合には、粗利潤と平均利潤マイナス利子との差額は、ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ、ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ、こうしたあらゆる市況によって規定されています。
 (4)ところで、すでに見ましたように、利潤の率は、生産過程そのもののなかで、ただ剰余価値によって左右されるのではなく、そのほかにも多くの事情によって左右されます。例えば、生産手段を買うときの価格、平均的方法よりも生産的な方法、不変資本の節約、等々。また、生産価格のことは別として、資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか、あるいは総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは、特殊的市況にかかっており、また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっています、等々。
 (5)しかし、いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化します。そして、この量的な分割そのものは、何が分配されるか、能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか、また、その資本が機能資本として、すなわち能動的資本家としての彼の機能によって、彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか、によって定まるのですから、ますますもってそれは質的な分割に転化するのです。
 (6)機能資本家は、想定されている場合では資本の非所有者です。逆に、資本の所有は彼に対立して、貸し手によって、貨幣資本家によって代表されています。だからまた、彼が貨幣資本家に支払う利子は、粗利潤のうちの、資本所有そのものに帰属する部分として現れるのです。これに対立して、利潤のうち彼のものになる部分は、企業利得として現れるのです。だからこの利得は、もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行う諸操作や諸機能から、したがって、彼が企業者として産業や商業で行う諸機能によって発生するのです。だから、彼に対して利子は、資本所有の、再生産過程を捨象した資本それ自体の、「働かず」機能していないかぎりでの資本の、たんなる果実として、現れるのです。他方、彼にとって企業利得は、資本それ自体の果実、資本所有の果実としてではなく、彼が資本を用いて行う諸機能の果実として、資本の過程進行の果実として現れるのです。この過程進行は、彼にとって、貨幣資本家に対立して、貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入に対立して、彼自身の活動として現れるのです。
 (7)このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ、すなわち、利子は資本それ自体の果実、生産過程を度外視した果実であり、企業利得は、過程進行中の資本の果実であり、したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--この質的な分割は、けっして一方での貨幣資本家の、他方での生産的資本家の単に主観的な見方ではありません。それは客観的な事実にもとづいています。というのは、利子は貨幣資本家の手に、すなわち資本のたんなる所有者であり、したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込み、企業利得はただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからです。〉

  【このパラグラフは長いのであるが、総利潤の量的な分割が質的な分割に転回することを論証している重要な部分である。それをマルクスはどのような展開によってやっているのかをわかるように、幾つかの部分にわけて番号を打って見たわけである。
 まず(1)の部分では、マルクスは借りた資本で事業を行う生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれる、と直接的な事実を確認している。ここでマルクスは、「生産的資本家たちにとって」を問題にしていることがまず確認される必要がある。つまり質的な分割は、あくまで生産的資本家にとって生じてくる事態なのである。彼が手にするのは総利潤のうち利子を越える超過分である。つまり彼にとっては利子は生産過程の始まる前からあらかじめ差し引かれなければならないものとしてあるということである。利子は、生産過程が始まる前から、利潤が得られる前から、利潤から差し引かれるべきものとして、先取りされているのであり、前提なのである。それが確認されている。
 (2)次に、こうしたことから借り入れた資本で生産する資本家にとっては、彼の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利潤のうちのこの部分は必然的に、彼にとっては、彼が生産的資本家として機能する限りでの資本の生産物として現れるのだと指摘している。そして彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことであり、資本が機能しているのは、それが産業や商業に生産的に投下されて、その充用者である彼が、それに必要な諸操作を行う限りで、彼は資本家であり、資本の人格化なのである。だから彼が総利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのだというわけである。そしてこの両者をあわせた用語として、企業利得という姿態をとると指摘している。
 要するに利子生み資本の貸し手に支払われる利子というのは、利潤の分割されたものであるが、それはその分割された利潤の残りの部分を手にする資本家、生産的資本家たちにとっては、彼らが生産を開始する以前にすでに先取りされているものであり、一つの前提であること、だから彼らが手にするもの(企業利得)は、彼らの生産的活動の果実として現象し、それに対して、利子は不活動の果実、たんなる資本所有の果実として現象するのだということである。利子が利潤を分割して、利子と純利潤(企業利得)とに分かれるのはたんなる量的な分割であるが、それが生産的過程に対する二人の資本家の異なる振る舞いから生じていることから、質的な分割に転回するわけであ。つまり利潤という同じものがただ単に量的に分割されたものにすぎないのに、一方は資本所有の果実として、他方は生産的活動の果実として、それらがまったく異なる源泉から生まれるような仮象が生じているのである。それが質的な分割とマルクスが述べている内容である。
 (3)の部分は企業利得の大きさというのは、利潤率が与えられていれば、利子率によって規定されているのだが、しかし利子率が与えられていれば、結局、その資本の特殊な利潤の状況に左右され、いろいろな特殊的な市況によって規定されているということから、それがますます利子と質的に区別された、利子とは別個の条件に依存するように見えるということを示しているのであろう。
 (4)の部分も企業利得が、それに固有のさまざまな条件に左右されることを指摘している。つまり生産的資本家の努力や狡猾さにかかっていることから、その源泉は利子とはますます質的に区別されたものとして現れるというわけである。
 (5)こうしたことから粗利潤の量的な分割は質的な分割に転化するのだと指摘している。
 (6)次の部分は、われわれの想定では機能資本家は、資本の非所有者であるので、資本の所有は彼に対立して現れ、利子は資本所有そのもの果実として現れること、そしてそれに対して、企業利得は資本それ自体の果実、資本の進行過程の果実として現れると指摘している。そしてそれに対して利子は、彼にとっては貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入の果実として現れるのだとしている。
 (7)最後に、マルクスはこうした質的な分割は、確かに生産的資本家の立場から見てきたが、しかしそれは彼らの主観的な見方などではなく、客観的な事実にもとづいたものなのだと述べている。というのは、利子は貨幣資本家の手に、資本のたんなる所有者であり、生産過程以前にその外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込むものとして前提されており、企業利得はただ彼が機能する資本家として彼のものになるのだからだというわけである。
 以上がこのパラグラフで総利潤の量的な分割が質的な分割に転回するという事実のマルクスの論証である。】

  (以下、続く)

2019年8月18日 (日)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-1)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第23章「利子と企業者利得」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [441]/300上/3)〔利子と企業利得。監督賃金〕

  ①〔訂正〕「3)」--草稿では「4)」と書かれている。〉 (267頁)

  【表題だけなので、平易な書き下ろしは省略する。この部分は草稿では、ただ「4)」と番号が打たれているだけである。ただしこの「4)」は「3)」の誤記であろうと大谷氏は推測している。大谷氏がどうしてマルクスが番号を打ち間違ったのかについてもその理由を推測しているが、その紹介は不要であろう。総じてマルクスはこの第5章(篇)部分については読み返しながら手入れをするということをほとんどしていないのだそうである。だからこの誤記も訂正されずにそのままになっているわけである。マルクス自身は、次の項目をやはり「5)」と誤って番号を打っているが、そのあとの「5)信用。架空資本」と自ら表題を書いた段階では、番号そのものは正しいものになっている。だからマルクス自身は誤記を自覚していたということであろう。本来ならこうした誤記はその時点で訂正されるはずだが、マルクス自身は原稿を読み返して手を入れるという作業をほとんどしていないので、こうしたことになっているのだというのである。なお〈〔利子と企業利得。監督賃金〕〉という表題は大谷氏によってつけられたものである。】


【2】

 利子はもともと,利潤すなわち剰余価値(資本によって取得された不払労働)のうちの,機能資本家つまり産業家または商人が,自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり,資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分にほかならないものとして現われるのであり,そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである。もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば,そのような利潤の分割は生じない。利潤はそっくり彼のものである。じっさい,資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり,彼らは利子率,rate of interestを規定する競争には参加しないのであって,すでにこの点にも,利子の諸範疇--これらはなんらかの利子率の規定なしにはありえない--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されて[442]いるのである。

 ①〔異文〕「を充用する」← 「で仕事をする」
  ②〔異文〕「かぎり」← 「ときに」
  ③〔異文〕「資本の所有者つまり貸し手」← 「彼が充用する資本の所有者」
  ④〔異文〕「支払ってしまわなければならない」← 「支払わなければならない」
  ⑤〔異文〕「彼はまった[く〕…… のままである〔bleibt ga[nz]〕」--という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「所有者たち」← 「所有者」
  ⑦〔異文〕「この点からも」という書きかけが消されている。〉 (267-268頁)

 〈利子というのはもともと、機能資本家つまり産業家または商人が、自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり、彼が取得した利潤つまり剰余価値のうち、資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるのです。そしてもともとそれにほかならないのです。また実際にどこまでもそれにほかならないものなのです。
 もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば、そのような利潤の分割は生じません。利潤はそっくり彼のものです。そして実際、資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり、彼らは利子率を規定する競争には参加しないのです。そしてすでにこの点にも、利子の諸範疇--つまりこれらは何らかの利子率の規定なしにはありえないのですが--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されているのです。〉

 【ここでは前回の「2)」で確認したことが再び確認されている。つまり利子というのは利潤の分割したものだということである。ここでマルクスは利子は利潤のうち資本の貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れると述べている。この「現れる」というのは特徴的である。それはまさに表象として直接捉えられるものなのである。それは何かの分析や考察にもとづいてその本質が解明されるというようなものではなく、資本を借りて生産した機能資本家にとってはそれは彼らが得た利潤からの控除として直接現れているものだということである。マルクスは〈そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである〉と敢えて念を押している。こうした念押しは、やはり利子諸範疇というのは、あくまでも生産過程にとっては外的なものであり、そうしたものにとどまるのだ、と言いたいのであろう。だからまたそうした資本を借りずに、自分の資本で生産する資本家は利潤を分割する必要はなく、利潤をそっくり自分のものにできる。だからまた彼らは利子率を規定する競争に参加することもない。そしてこうしたことが利子の諸範疇が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることを示しているのだというのである。ここで「利子の諸範疇」ということばが出てくる。それらは利子率の規定なしにはありえないとも説明されている。要するに貨幣信用にかかわる諸範疇ということであろう。つまり貨幣の貸し借りに関連するものは、すべて生産的資本それ自体の運動には外的なものなのだというのである。この理解、あるいは観点は、マルクスにとっては一貫しており重要である。】


【3】

 利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capitalの使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」a) じっさい,ただ貨幣資本家〔monied capitalist〕と産業資本家とへの資本家の分離だけが,利潤の一部分を利子に転化させるのであり,そもそもこの範疇をつくりだすのである。そして,ただこの二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。/

  ①〔異文〕「分離」← 「分裂」
  ②〔異文〕「利潤を」という書きかけが消されている。〉 (268頁)

 〈「利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capita1の使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」 実際、ただ貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離だけが、利潤の一部分を利子に転化させ、この範疇を作り出すのです。そして、この二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率を作り出すのです。〉

 【ここでは上のパラグラフ(【2】)で述べていることを、ほぼそのまま論じているトゥクの一文を紹介して、貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離が利潤の一部を利子に転化させ、こうした範疇--この範疇はというのは先のパラグラフに出てくる「利子の諸範疇」のことであろう--をつくりだすと指摘されている。下線による強調はトゥクのそれとは異なっているからマルクスのものであろう。ここでは「貨幣資本家」に対して「産業資本家」が対置されている。「所有資本家」に対しては「機能資本家」が対応している。また「産業資本家」は、先のパラグラフでは〈機能資本家つまり産業家または商人〉と述べているのだから、必ずしも産業家だけではなく商人も入るのであろう。要するに「再生産的資本」あるいは「再生産過程内の資本家」などとあとでも言われているものである。】


【4】

 |300下|〔原注〕a) Th.トゥク物価史』,第2巻,ロンドン,1838年,355,356ページ〔藤塚知義訳『トゥック物価史』,第2巻,東洋経済新報社,1979年,330-331ページ〕〔原注a)終わり〕。/

  ①〔訂正〕「ロンドン,1838年」--草稿では「(ニューマーチ編,ロンドン,1857年)と書かれている。マルクスは,1858年のロンドン抜粋ノートから取り入れるさいに誤ってこのように書いた。〉 (268頁)

 【このパラグラフは先の引用の典拠を示すだけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この『物価史』からの引用はその一部を省略して行われているが、全体を参考のために紹介しておこう。

 〈利子率とは,一定額の貨幣資本(monied capital)の使用にたいして,1年とかあるいはそれより長期または短期の期間について,貸手が満足して受け取り,借手が満足して支払う比例額であると--その収入の収得のための労苦とか,約定された時期に利子や元本が期限どおり償還されるかどうかについての危険とかは考慮にいれないで--定義できるであろう。貨幣資本の所有者がその貸付にたいしてこの率以上に受け取るものはすべて,危険あるいは労苦にたいする報酬という見地から考察されるべきものである。
 この見地からいえば,利子率資本の純利潤をはかる尺度である。資本の使用によって生ずる利得のうちこれ〈純利潤〉を超えるものはすべて,これとは別個の項目のもとに,危険にたいする・あるいは労苦や熟練にたいする・あるいは位置や環境の利益にたいする・代償に分解される。資本の所有者がこれを実際に再生産に使用するときは,彼は,借手の数にたいするその割合が利子率の決定に参加するところの資本家の部類には入らない。利子率になんらか直接の影響を与えるのは,その所有者が自分の貨幣を自ら積極的に使用することを欲せずあるいは使用することができないという部類の資本だけである。〉(330-331頁)下線はトゥクによる強調】


【5】

 /300上/(資本が再生産過程で機能しているかぎり--その資本が産業資本家のものであり,したがって彼はそれをどんな貸し手にであれ返済するという制約が存在しないものと前提しても--,彼が私的個人として自由に処分できるのは,ただ彼が収入として支出することのできる利潤だけである。彼の資本が資本として機能しているかぎり,それは再生産過程に属している。彼はその資本の所有者ではあるが,しかし,この所有は,彼がそれを資本として労働の搾取に使用しているかぎり,別の仕方で彼がそれを処分することを許さないのである。貨幣資本家〔monied capitalist〕の場合もまったく同じことである。彼の資本が貸し出されている--したがってまたmonied Capitalとして働いている--あいだは,それは彼の手に利子を,つまり利潤の一部分をもってくるが,しかし彼は元本を自由に処分することはできない。こういうことは,彼が資本をたとえば1年(またはもっと長い期間)貸し付けて,それにたいしてある期間ごとに利子は受け取るが,資本の返済returnは受けないという場合に,現われる。しかし,返済〔return〕があってもこのことに違いはない。彼は資本を返してもらうが,しかし,自分のためにそれに資本(ここではmonied capital)の働きをさせようとするかぎり,彼は絶えず繰り返しそれを貸し付けなければならない。それが彼の手のなかにあるときには,それは利子を生まず,だからまた資本として働かない。そして,それが利子を生み,資本として働いているかぎり,それは彼の手のなかにはない。ここから,資本を永||301上|久に〔à perpétuité〕貸し付けておくという可能性も生じるのである。それゆえ,トゥクが次のように言っているのは,まったく間違いである。彼は言う。--

  ①〔異文〕「資本としては」という書きかけが消されている。〉 (269-270頁)

 〈(資本が再生産過程で機能しているかぎり、彼が私的個人として自由に処分できるのは、ただ彼が収入として支出することができる利潤だけです。これは例えその資本が産業資本家のもので、だから彼はそれをどんな貸し手にであれ返済しなければならないという制約がないばあいでもそうなのです。彼の資本が資本として機能しているかぎり、それは再生産過程に属しています。だから彼はその資本の所有者ではあるが、しかし、この所有は、彼がそれを資本として労働の搾取に利用しているかぎり、別の仕方でそれを処分することを許さないものです。貨幣資本家〔moneyed capitalist〕の場合もまったく同じことです。彼の資本が貸し出されているあいだは、それがmoneyed capitalとして働いているわけですが、そのあいだは、それは彼の手に利子を、つまり利潤の一部分をもってくるが、しかし彼は元本を自由に処分することはできません。こういうことは、彼が資本を例えば1年間(またはもっと長い期間)貸し付けて、それに対してある期間ごとに利子は受け取るが、資本の返済は受けないという場合に、現れます。しかし、返済があってもこのことに違いはないのです。彼は資本を返してもらいますが、しかし、自分のためにそれに資本(ここでは当然moneyed capitalとしてのそれですが)の働きをさせようとするかぎり、彼は絶えず繰り返してそれを貸し付けなければなりません。それが彼の手のなかにあるときには、それは利子を生まず、だから資本として働かないのです。そして、それが利子を生み、資本として働いているかぎりは、それは彼の手のなかにないのです。ここから、資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じるのです。それゆえ、トゥクが次のように言っているのは、まったく間違っています。彼は言います。--〉

 【このパラグラフの冒頭には「(」がついている。この締めの括弧(「)」)はわれわれのパラグラフ番号では【7】の最後にある。だからそれに付けられた原注である【8】パラグラフも含めて全体が丸カッコに入っているわけである。この点について大谷氏はこの括弧をエンゲルスは編集の段階で削除しているが、それは不適であると次のように述べている。

 〈これに対応する「)」は,本書本巻271ページ20行にある。なお,マルクスは草稿で通常,なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分を角括弧でくくっている(本稿では{}で示している)が,エンゲルスはこの角括弧を大部分単純に削除している。そのために,草稿では文脈が明瞭であるところが,エンゲルス版ではわかりにくくなっている場合がかなりある。ここでは角括弧でなくてパーレンであるが,やはり明らかに,前後から区別されるべき部分である。この部分を除いて読めば,この部分の直後の,「そこで生じるのは次のような疑問である」という文で始まるパラグラフのつながりが明瞭になる。〉 (269頁)

 つまりここでは資本が機能しているあいだは、資本家はそれを処分することはできないということから、同じことは貨幣資本家についても言いうることだと指摘し、それが返済されるまでは自由に処分できないのは当然であるが、それだけではなく、例え返済されたとしても、それが自分のために資本として働かせるためには、常に貸し付けて、moneyed capitalとして働かせていなければならず、それが働いているかぎりでは、彼はそれを自由に処分はできないと指摘し、そこから資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じると指摘している。この資本を永久に貸し付けるというのは、例えば株式を購入する場合は、それは永久に貸し付けるに等しく、配当を利子とし受け取ることになるし、あるいは永久公債のようなものもそうしたものであろう。その場合は利子は年金のように定期的に貨幣利得をもたらすものとして現れるわけである。そうした可能性をここでは論じているわけであるが、確かにこうした問題は本題からすればややずれた問題であろうと思う。だからマルクスは全体を括弧で括ったのであろう。】


【6】

 ボウズンキト氏(『金属通貨,紙券通貨,信用通貨』)の考察によれば(73ページ)--
 「かりに利子率が1%のような低率に引き下げられるとすれば,借入資本も自己資本とほとんど同等の位置にon a per置かれることになるであろう。」〉 (270頁)

 【このパラグラフは、少しややこしいが、前のパラグラフからの続きを考えるなら、恐らくトゥクの言っていることなのだから、最初の部分はその要約であり、鍵括弧の部分はトゥクがボウズンキトの著書から引用している部分の重引であろう。だから平易な書き下しは不要と考えた。ボウズンキトは利子率が低率なら借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれると指摘しているのにたいして、トゥクはそれは間違いだというわけである。それが次のパラグラフで引用されている一文だが、それをマルクスは批判しているわけである。だからマルクスはむしろボウズンキトの主張の方が正しいと考えているのであろう。いずれにせよ最後まで見て、それを判断しよう。】


【7】

 これにたいしてトゥクは次のような評注をつけている。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,[443]ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a) かりに利子がゼロだとすれば,資本を借りた生産的資本家も,自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だon a par〕ということになるであろう。すなわち,両方とも同じ平均利潤を取り込むであろう。そして,借入資本であろうと所有資本であろうと,資本が資本として働くのは,ただ,それが利潤を生産するかぎりだけのことである。返済〔repayment〕という条件は少しもこのことを変えはしないであろう。利子率がゼロに近づけば近づくほど,つまりたとえば1%にでも下がれば,ますます借入資本は所有資本と同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。monied capitalをmonied capitalとして存在させようとするかぎり,それは絶えず繰り返して貸し出されなければならない。しかも現行の利子率,たとえば1%の率で,しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならない。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり,借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は,ただ,一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ,一方はP(利潤)を全部取り込むが,他方はP-Z(利子)を取り込む,ということだけである。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き,したがってますます二つの資本は同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。一方は資本を返済してまたあらためて借り入れ〔leihen〕なければならない。しかし,他方も,彼の資本を機能させようとするかぎり,やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸しなければならないのであって,それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできない。)/

  ①〔異文〕「たえず繰り返し」--書き加えられている。〉 (270-272頁)

 〈これに対して、トゥクは次のような評注をつけています。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a)
 しかし仮に利子がゼロだとすれば、資本を借りた生産的資本家も、自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だということになるでしょう。つまり、両方とも同じ平均利潤を取り込むでしょう。そして、借入資本であろうと所有資本であろうと、資本が資本として働くのは、ただ、それが利潤を生産するかぎりだけのことです。返済という条件は少しもこのことを変えはしないでしょう。利子率がゼロに近づけば近づくほど、例えば1%にでも下がれば、ますます借入資本は所有資本と同等な位置に置かれることになります。moneyed capitalをmoneyed capitalとして存在させようとするかぎり、それは絶えず繰り返して貸し出されなければなりません。しかも現行の利子率、例えば1%の率で、しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならないのです。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり、借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は、ただ、一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ、一方はP(利潤)を全部取り込むが、他方はP-Z(利子)を取り込む、ということだけです。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き、したがって二つの資本は同等な位置に置かれることになります。確かに一方は資本を返済してまたあらためて借り入れなければなりません。しかし、他方も、彼の資本を機能させようとするかぎりは、やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸ししなければならないのであって、それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできないのです。)〉

 【ここではボウズンキトが、利子率が1%のような低いものになれば、借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれるというのに対して、トゥクは、返済という条件があるではないか、それを彼は見落としたのか、それともそれは大したことはないと考えているのかと批判しているのにたいして、明らかにマルクスはボウズンキトの方が正しく、トゥクの方が間違っていると述べている。これは一見するとどうしてなのか、と思うのだが、マルクスがここで言いたいことは、資本にとっては利潤を生産することがもっとも重要なことであるが、それはだからその資本が貸付資本であるか自己資本であるかということは、外的なことなのだということなのである。確かに借入資本の場合は利子の支払があるので、その点が自己資本の場合と異なるが、しかしその利子率がゼロに近くなればなるほど、利潤の生産ということから見れば、だから両者は同等な位置に置かれるというのである。トゥクは資本にとってそれが借り入れかそうでないかということ、だから貸し付けや返済ということは、資本の生産過程における運動にとっては外的なものだという理解がないとマルクスは批判しているわけである。その意味では、この丸カッコに括られた部分も、【2】パラグラフでマルクスが利子の諸範疇は生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであると述べていたことと関連して述べられているわけであるから、それほど全体の議論から外れたものとはいえないであろう。だからまたマルクスも大谷氏が指摘しているように、〈なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分〉というほどではないから、角括弧ではなく、丸カッコで括ったのではないだろうか。】

【8】

 〈|301下|〔原注〕a)Th,トゥク通貨原理の研究,云々』,ロンドン,1844年(第2版),80ページ〔前出玉野井訳『通貨原理の研究』,139ページ〕。〔原注a)終わり〕|〉 (272頁)

 【これはトゥクからの引用の出典を示しているだけだから、とくに解説は不要であろう。】

   (以下、続く)

2019年8月 8日 (木)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-7)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(最終回)

 

  前回の続き第【47】パラグラフからである。


【47】

 〈/300上/{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}{第2に,債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になる。}{第3に,債務権原の相殺が貨幣の代わりをする。}/

  ①〔異文〕改行して書いた「第1に」という書きかけが消されている。/〉 (250-251頁)

 〈以上のことから、次のようなことが明らかになる。
  第一に、信用の一証明、あるいは一形態。私たちが知っているように、貨幣が購買手段とてではなく支払手段として機能する場合には、商品は譲渡されるがその価値はあとからはじめて実現されます。もし商品が売られてからはじめて支払がなされるとすれば、販売は購買の結果として現れるのではなくて、販売によって購買が実現されるのです。そして、販売が購買の手段になるのです。
  第二に、債務証書(手形など)が債権者にとっての支払手段になります。
  第三に、債務権原の相殺が貨幣の代わりをします。〉

 【このパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクスがついでに関連して、書いたものかもしれない。大谷氏はこのパラグラフについて次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では,このすぐまえに,「以上のところから,次のことが明らかになる。〔Es ergiebt sich aus dem Bisherigen Folgendes:〕」と書き,改行してその下に「第1に。〔Erstens:〕」と書いたのちに,この両方を消している。この「第1に」は,すぐあとの「第2に」に対応するものであろう。MEGAはこの異文を記載していない。なお,このパラグラフへのMEGAの異文での,消されている「第1に」は,この「第1に」とは別に,このパラグラフの次行に書かれているものである。つまり,このパラグラフの直前に「第1に」という消されている行があり,さらにこのパラグラフの直後にもう一度,「第1に」という消されている行があるのである。
  エンゲルス版では,このパラグラフのまえに,区切りを示す横線が引かれている。そしてこのパラグラフの最初に,「(あとの仕上げのための覚え書)」と書き入れている。〉 (251頁)

  こうしたマルクスの記述のあとをみると、「第1に」には、〈{信用の一証明形態。われわれが知っているように,貨幣が購買手段としてではなく支払手段として機能する場合には,商品は譲渡されるが,その価値はあとからはじめて実現される。もし商品が売られてからはじめて支払いがなされるとすれば,販売購買の結果として現われるのではなく,販売によって購買が実現されるのである。そして,販売が購買の手段になるのである。}全体が含まれるようである。最初に考えたのは、〈信用の一証明形態〉として、第一に、第二に、第三に、と続くと思えたのであるが、どうもそうでないらしい。
  また、この〈信用の一証明形態〉についても、大谷氏は次のような訳者注を書いている。

  〈草稿では「信用の一証明Ein Beweis d.Credits〕」のうちのBeweis d.の上に,挿入記号なしにFormと書かれている。MEGAはこれをBeweisformと読み,EinをEineに変更している(草稿ではEinのままになっている)。だから,このFormの書き加えは,「信用の一証明〔Ein Beweis d.Credits〕」に「信用の一形態〔Eine Form d.Credits〕」を並記した,と見ることも可能であろう。〉 (251頁)

  これは大谷氏のように、並記したと理解する方が正しいような気がする。そもそも「一証明形態」などという用語を読んだ時にすぐに?(ハテナ)と疑問に感じたからである。証明の形態などというのは一体何を言いたいのかと思わざるを得ない。むしろ信用の一つの証明、あるいは信用の一つの形態としてまず第一が論じられ、そのあと第二と第三の問題が論じられていると理解する方がすんなりと理解できるのである。
  しかしこのパラグラフ全体は鍵括弧に入っており、マルクス自身も最初、〈以上のところから,次のことが明らかになる〉と書き出したものの、それを消しているということはことさらこれまでの展開と関連づけてこのパラグラフの内容を書いたとは言えないと考えたからであろう。マルクス自身はそうした展開としてこれを書いたわけではないのである。ただこれまで書いてきたことと関連して、思いついたことをメモしたという程度のものと理解すべきではないかと思う。】

  以上で「2)」(エンゲルス版第22章該当個所)の草稿のテキストは終わりである。だからもう一度、全体を見渡して、マルクスがこの「2)」をどのように展開しているのかを見ていくことにしよう。

 

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エンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」(草稿では「2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。」)全体の構成

 

  この「2)」全体の構成を考えるために、全体を幾つかの部分にわけて、便宜的に番号を打って、それぞれのテーマを書き出してみよう。

  (1) まず表題を確認しておこう。

  〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  これはマルクス自身によって書かれている。つまりここでは三つのことが考察されることが示されている。(1)利潤の分割。(2)利子率。(3)利子の自然的な率である。ここで(2)と(3)がどのように違うのか、それを区別する意義は何か、そうしたことも問題であろう。

  (2) 【2】--ここではこれから考察する対象についての限定、前提が語られている。

  (3) 【3】~【13】--ここではまず〈われわれのこれまでの前提によれば〉とこれまで考察してきた「1)」(第21章該当部分)を前提すれば、利子は利潤のうちの機能資本家から貨幣資本家に支払われる一部分であるというもっとも直接的な表象にもとづいて利子の規定が行われ、そこからだから利子の最高限界として現れるのは利潤そのものだ、といきなり利子の量的考察に入っている。そしてマッシーからの抜粋を本文として紹介して、こうした利子の規定は、当時のエコノミスト達にとっても表象としてつかまれていたものであることを示唆している。そして利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界とみなされるべきとし、利子は平均利潤に関連づけて説明すべきという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察するとしている。そして一般的利潤率を100と与えられた大きさとして仮定するなら利子の変動は機能資本家の手に残るものと反比例するが、しかし両者はまったく違った事情によって変動することを指摘する。

  (4) 【14】--ここに〈Nb.〉で始まる一つのパラグラフが挿入される。そして〈利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉という自己了解の事項が書かれている。

  (5) 【15】~【22】--ここから産業循環の諸局面に応じて利子率がどのように変化するかが論じられている。そしてそれに幾つかの原注がつけられ、補足的な説明も本文として加えられている。

 (6) 【23】~【29】--ここではまず〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉というテーマが掲げられている。そしてそうした問題として(1)、(2)、(3)と番号を打って抜粋が紹介されているように見えるのだが、しかしテキストの考察でも紹介したが、【34】パラグラフにある(3)は必ずしも同じ問題を論じているとは言いがたい。だからこの(3)はとりあえずは無視して、われわれは論じることにしたい。そうするとこの傾向として語られているのは、一つは金利生活者の増大、もう一つは信用システムの発展である。こうした結果、貸付可能な貨幣資本の増大が生じ、利子率は低落する傾向があるということである。

 (7) 【30】~【33】--この部分は大変長い【30】パラグラフとそれにつけられた原注からなっている。【30】パラグラフでは、まず利子の平均率とか中位的な率というようなものはどんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。だから利子の自然率というようなものは、利潤の自然な率とか賃金の自然な率というような意味では存在しないと指摘する。だから貸付可能な資本の供給とそれに対する需要のみが利子率を規定するのだということである。そしてどうして利子率の限界を一般的な法則から展開できないのか、というとそれは利子の性質のうちにあるとしている。貸付資本も資本であるが、それが現実に資本として機能するのは、一度だけであり、生産資本においてであること、だからその結果として生産された利潤に対する要求権をもつ二人の人物がそれをどのように分けるのかは経験的な事実でしかないからだというのである。そこから質的な分割が、剰余価値の純粋に量的な分割から出てくると結論づける。あとはこれのパラグラフにつけられた原注が続くだけである。

 (8) 【34】~【35】--この部分は、冒頭に「(3)」と番号が打たれ、スチュアートの『経済学原理』からの抜粋があり、一見すると(6)の続きのように思えるのだが、すでに述べたように、論じられている問題が必ずしも同じとは言い難いものである。ここではマルクスは貨幣の価格、すなわち利子率は大きな固定性と大きい一様性をもっているということを肯定的に引用している。そしてこの利子率の固定性と一様性は、あとの展開でも言及されているから、この抜粋部分はまったくどうでもよいものとは言い難いのである。

 (9) 【36】~【46】--ここでは利子率と利潤率(一般的利潤率)との違い、両者の比較検討を通じて、利子率の性質を明らかにし、また同時に利潤率(一般的利潤率)の性質をも明らかにすることが課題とされているように思える。

  (10) 【47】--この最後の部分は、これまでの展開を踏まえて、思いついたことをメモ書きしたもののように思える。だから全体の論旨とは必ずしも関連させて考える必要はないように思える。

  このように全体を見渡すと、いろいろなことが論じらているのであるが、もう少し対象を絞って論じられている重要な項目を挙げてみよう。

  (1) 利子は利潤の分割されたものであり、よって究極的には利潤によって規定されていること、そうした利子の規定は、直接的なものであり、一般的に表象として、当時の経済人や経済実務家、あるいはブルジョア的な理論家によっても捉えられてきたこと。

  (2) 産業循環の諸局面で利子率の変動があること。マルクスは産業循環の諸局面として、沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々をあげているが、利子率は最初の沈静状態では低く、活気増大でもやはり信用はしっかりしており、商品資本の実現とそれが貨幣資本として循環してくることも順調だから、貨幣資本(moneyed capital)への需要がそれほど多くないために低いままである。繁栄に至って、ようやく利子率は徐々に高まり、過剰生産に至って、諸資本は低下した一般的利潤率を利潤量の絶対的増大によって補おうとして加速度的な蓄積と拡大を行うために、貨幣資本(moneyed capital)への強い需要が生じ利子率は高くなる。そして恐慌時には、今度は産業は行き詰まるが、諸資本は諸支払への必要から支払手段の融通を銀行に求め(また支払い手段としての銀行券の退蔵も生まれるから)、利子率は異常に高騰する。そしてまた沈静に至り経済活動は不活発になるがゆえに、利子率も低下する等々である。

  (3) 利子率はどんな法則によっても全然規定できないものである。それは利子の性質にもとづいている。貨幣資本も資本であり、それが貸し出される機能資本も資本である。しかし資本が資本として利潤を生むのは後者の局面だけである。だから利潤を二つの資本家によって分け合う必要があるが、これはただ経験的にやるしかやりようがない。だから利子率は何か法則的に決まってくるというようなものではないのである。ここでは需給の一致は何も意味しない。貨幣資本(moneyed capital)の供給者と需要者による競争がそれを決定するのである。競争そのものが決定するということは、それによって規定されるものは、それ自体として偶然的であり、純粋に経験的であるということ意味する。

  (4) 利子率と一般的利潤率との違いと両者のそれぞれの性質。利子率は貨幣資本(moneyed capital)の需要と供給とによって、貨幣資本家と機能資本家とが相対することによって、その時々に経験的に捉えられる事実であり、確定されたものとして、あまねく一様であり、固定的であるが、一般的利潤率はもっと複雑な過程を経て形成されるものである。それは諸商品の市場価格が生産価格へ平均化される過程を通して、諸資本がある部面から他の部面へと移動することによって、あるいは追加資本の配分が変化することによって、総剰余価値をそれぞれの資本の大きさに応じて按分比されて分割されるように、諸資本が互いに競争する結果として決まってくるものであり、それは諸資本の現実の運動の背後で形成され、けっして経験的にとらえられるものではない。それが経験的に知られるのは資本にとっての利潤の最低限界として意識されるときだけである。

  まあ、ざっとこうしたことが論じられている。ここでは全体としては利子率というものの性質があまねく明らかにされているということができる。

 では全体の流れとして、マルクスはどのように問題を展開しようとしているのであろうか。
 まずマルクスは利子とは何かを直接的な表象として捉え、それは当時の経済実務家たちによっても把握されていたものであることを指摘する。つまり利子とは何か、それは利潤から分割されたものだというのは、直接的な表象としても把握できることなのである。
 そこからマルクスは次ぎに利子率の変化を現実の経済過程のなかに見ている。最初は分析の前提として産業循環のあいだに利子率が通る円環については、産業循環の叙述を前提することはできないといいながら、しかしここで産業循環の諸局面で利子率はどのように変化するかを見ているのである。しかしこれは必ずしも産業循環の考察を踏まえたものというより、そうした産業循環の諸局面における利子率の変化をただ辿っているということに過ぎない。つまりそれぞれの局面に対する利子率の対応を見ているだけで、なぜそうなのかについては一切論じていないといえる。
 そしてこうしてみたように産業循環の諸局面に対応して利子率が変化することを見るなら、利子率は何らかの法則にもとづいてそのように変化しているのかという問題に次ぎにマルクスは移行しているわけである。そしてマルクスは、利子率にはそうした法則性というようなものは何もないのだと喝破している。そしてそれは利子の性質そのものにもとづくものだというのである。そして利子率というのは結局は競争そのものによってただ経験的に決まってくるだけだとしている。
 このように利子率の特性を明らかにしたあと,マルクスはこうした点で利子率は一般的利潤率とは違うということを指摘して、両者を比較・検討して、それぞれの特性をさらに明らかにしようとしている。利子率とは異なり、一般的利潤率は法則的に決まってくるものだとマルクスは考えているわけである。
 だいたい以上が、この章でマルクスが展開しているものである。

  とりあえず以上で「2)」の部分の解読は終了しよう。次回からは第23章該当部分の草稿の解読に取りかかることにする。

2019年8月 4日 (日)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-6)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【40】パラグラフからである。


【40】

 中位の利子率は,どの国でも,かなり長い期間について,不変の大きさとして現われる。なぜならば,一般的利潤率は--特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらず,といっても一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのではあるが--ただかなり長い期間に変動するだけだからである。そして,一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率〔d.average rate〕または普通の利子率common rate of interest〕)の多少とも不変な性格に現われるのである。

  ①〔異文〕「相対的な」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「多少とも」--書き加えられている。〉 (243頁)

 〈中位の利子率は、どの国でも、かなり長い期間について、不変の大きさとして現れます。なぜなら、一般的利潤率はただかなり長い期間に変動するだけだからです。もちろん、特殊的諸利潤率の不断の変動にもかかわらずにです。といってもそうした特殊的利潤率の変動は、一部面での変動は他の部面での反対の変動によって相殺されるのですが。そして一般的利潤率の相対的な不変性がちょうど中位の利子率(平均利子率または普通の利子率)の多少とも不変な性格に現れるのです。〉

 【先のパラグラフでは利子率の「固定性」に疑問を呈したが、ここでは中位の利子率の固定性が言われている。中位の利子率、あるいは平均利子率については、【20】パラグラフで次のように言われていた。

(利子の平均率を見いだすためには,1)回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。) 〉 (228頁)

  つまりマルクスがここで問題にしている中位の利子率(平均利子率)というのは、一つの産業循環を通して平均した利子率のことを意味しているのである。確かにこうしたものなら一定の固定性を持っていることは明らかであろう。一つの回転循環のあいだにおいて、一般的利潤率は傾向的に低下するが、それ自体は、恐慌時を除いては、急激に変化するようなものではない。そうしたことが平均利子率の多少とも不変な性格として現れるのだ、というわけである。】


【41】

 しかし,絶えず動揺する利子の市場率について言えば,それは,商品の市場価格と同様に,各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられている。なぜならば,貨幣市場〔money market〕ではすべての貸付可能な資本〔loanable capital〕がつねに総量として機能資本に対立しており,したがって,一方では貸付可能な資本〔loanable Capital〕の供給の割合,他方ではそれにたいする需要が,そのつどの利子の市場価格を決定するからである。ますますそういうことになってくるのは,信用制度の発達とそれに結びついたその集積とが貸付可能な資本〔1oanable Capital〕に一般的社会的な性格を与えるようになるからである。これに反して,一般的利潤率はいつでもただ傾向として,特殊的諸利潤率の均等化の運動として,存在するだけである。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動である--とは,ここでは,利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって,利潤が平均〔1evel〕よりも高い[439]部面に④資本を投じていくということである。あるいはまた,追加資本〔additional Capital〕がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということである。それは,それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動である。

  ①〔異文〕「市場率について」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「すべての」alles←das gesammte
  ③〔異文〕「,……〔全体〕として〔als das〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「追加」と書いたのち,消している。〉(243-244頁)

 〈しかし、絶えず動揺する利子の市場率についていえば、それは商品の市場価格と同様に、各瞬間に固定的な大きさとしてつねに与えられています。なぜなら、貨幣市場では、すべての貸付可能な資本がつねに総量として機能資本に対立しており、したがって、一方では貸付可能な資本の供給の割合、他方ではそれにたいする需要が、その都度の利子の市場価格を決定するからです。ますますそういうことになってくるのは、信用制度の発達とそれに結びついた利子生み資本の集積とが貸付可能な資本に一般的社会的な性格を与えるようになるからです。これに反して、一般的利潤率はいつでもただ傾向として、特殊的諸利潤率の均等化の運動として、存在するだけです。資本家たちの競争--この競争そのものがこの均等化の運動ですが--とは、ここでは、利潤がかなりながいあいだ平均よりも低い部面からは資本家たちが資本を引き揚げていって、利潤が平均より高い部面に資本を投じていくということです。あるいはまた、追加資本がこれらの部面のあいだに配分される割合が違ってくるということです。それは、それらのいろいろな部面への資本の供給の不断の変動です。〉

 【先のパラグラフでは中位の利子率(平均利子率)というものの固定性が一般的利潤率の変動の緩慢さの表現であるという指摘があったが、今度は、一転してむしろ両者の違いが指摘されている。
  つまり利子の市場率は絶えず動揺するが、しかしそれぞれの各瞬間にはある固定的な大きさとして常に与えられている。しかし一般的利潤率というのは、そうではなく、ただ一つの傾向として存在するだけだというのである。利子の市場率が、各瞬間には一定の固定的な率として決まってくるというのは、貸付可能な資本が一つの総量として、機能資本家に対立して、その需要と供給によって決定されるからである。信用制度の発展とそれに結びついた貸付可能な資本の集積とがそれに一般的社会的な性格を与えることになるとも指摘されている。
  一般的利潤率が特殊的利潤率の均等化の運動として、一つの傾向として存在しているだけだ、という指摘も重要である。またここでの一般的利潤率を形成する資本家たちの競争についても詳しい説明がある。それは特殊的利潤率がかなりながいあいだ平均よりも低い部面から資本家たちが資本を引き揚げて、高い部面へと投じていく運動のことであり、あるいは追加資本がこれらの部面に配分される割合が違ってくるということだ、つまりそれらのいろいろな部面への資本の供給が変動することだ、という説明がある。】


【42】

 すでに見たように,利子生み資本は,商品とは絶対的に違った範疇であるにもかかわらず,独特な種類の商品Waare sui generis〕となるのであって,それゆえに利子は,〔すなわち〕これはまたこれで〔商品の〕価格とはまったく違っている利子生み資本の価格は,商品の場合にその市場価格がそうであるように,需要と供給によってそのつど確定されるのである。それだから,それ〔利子〕の市場率は,絶えず変動する〔variiren〕にもかかわらず,商品のそのつどの市場価格とまったく同様に,つねに確定した一様なものとして現われる。貨幣資本家たち〔monied Capitalisten〕はこの商品を供給し,機能資本家たちはそれを買い,それにたいする需要を形成するのである。このようなことは,一般的利潤率への均等化の場合には生じない。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合,それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視する),その均等化は,生産の拡大または縮小によって,すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって,均等化が生じるのであり,この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介される。そのようにして引き起こされる,諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって,一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的諸利潤率の偏倚は修正される。この過程は,利子生み資本とはちがって,生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現われないし,またけっしてそういうように現われることはできない。この過程が現われるかぎりでは,それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化とのうちに現われるだけであって,平均利潤の確定として現われるのではない。一般的利潤率は,実際には,総資本が生産する剰余価値によって,生産的資本の価値にたいするこの剰余価値の割合によって,そして競争によって,といってもここでは,ただ,特殊的生産諸部面に投下された資本がそれそれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争によって,規定されている--つまり一般的利潤率は,実際には,需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った,それよりもずっと複雑な諸原因からその規定を汲み出す〔--〕のであり,したがって,一般的利潤率は,けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではない。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は,それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないもの〔matter of guessing〕である。しかし,それらの利潤率が現われるかぎりでは,現わ[449]れるものはそれらの利潤率の一様性ではなくて多様性なの||300上|である。ところが,一般的利潤率そのものは,ただ利潤の最低限界〔Minimum limit〕として現われるだけで,現実の利潤率の経験的な姿態としては現われないのである。

  ①〔異文〕「一般的利潤率への均等化の場合には」←「……の確定の場合には〔bei der Festsetzung der〕」
  ②〔異文〕「縮小」Verkürzung←Contrac[tion]
  ③〔異文〕「そのようにして引き起こされる,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「特殊的諸利潤率は絶え[ず]」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「修正される〔rectificirt」」 ←「縮小される〔reducirt〕」
  ⑥〔異文〕「や商業資本」--書き加えられている。
  ⑦〔異文〕「市場価格の」--書き加えられている。
  ⑧〔異文〕「る。そしてこれは,ただ……ような,絶えざる過程である。」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「平均利潤の確定として現われるのではない」--書き加えられている。
  ⑩〔異文〕「……規定されているのではない」という書きかけが消されている。
  ⑪〔異文〕「生産的」--書き加えられている
  ⑫〔異文〕「ここでは,」--書き加えられている。
  ⑬〔異文〕「の経験的な姿態」--書き加えられている。〉 (244-246頁)

 〈すでに見ましたように、利子生み資本は、商品とは絶対に違った範疇です。にもかかわらず、それは独特な商品となるのです。だから利子は、これはこれで商品の価格とはまったく違っているのですが、利子生み資本の価格となり、商品の場合にその市場価格がそうであるように、需要と供給によってそのつど確定されるのです。だから、それらの利子の市場率は、絶えず変動するにもかかわらず、商品のそのつどの市場価格とおなじように、つねに確定した一様なものとして現れるのです。
  貨幣資本家たちはこの商品を供給し、機能資本家たちはそれを買い、それに対する需要を形成するのです。
  しかしこのようなことは一般的利潤率への均等化の場合には生じません。もしある部面の商品の価格が生産価格よりも低かったり高かったりすれば(この場合、それぞれの事業に特有な変動や産業循環の局面の相違に関連する変動は無視します)、その均等化は、生産の拡大または縮小によって、すなわち市場にいろいろな生産的資本によって投じられる商品量の増大または縮小によって、均等化が生じます。この増減は特殊的な生産部面または事業部門に関しての資本の流入または流出によって媒介されます。そのようにして引き起こされる、諸商品の平均的市場価格の生産価格への均等化によって、一般的利潤率または平均利潤率からの特殊的利潤率の偏倚は修正されるのです(つまりそれらは生産価格で販売することによって平均利潤を得るようになるわけです)。この過程は、利子生み資本とは違って、生産的資本や商業資本そのものが買い手にたいしては商品であるというようにはけっして現れないし、またけっしてそういうように現れることはできません。この過程が現れるかぎりでは、それはただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化ということのうちに現れるだけで、平均利潤の確定として現れるのではないのです。一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する剰余価値によって、そして競争によって、規定されています。もっともここで競争によって、というのは特殊的生産諸部面に投下された資本がそれぞれの相対的な大きさに比例してこの剰余価値から等しい配当を引き出そうとする運動であるかぎりでの競争を意味しますが。--つまり一般的利潤率は、実際には、需要と供給との関係によって規定される利子の市場率とはまったく違った、それよりずっと複雑な諸原因からその規定をくみ出すのです。だから一般的利潤率は、けっして利子率がそうであるような仕方での明白な与えられた事実ではないのです。いろいろな生産部面における特殊的諸利潤率は、それ自身多かれ少なかれ推測の域を出ないものです。しかし、それらの利潤率が現れるかぎりでは、現れるものはそれらの利潤率の一様性ではなく多様性なのです。ところが、一般的利潤率そのものは、ただ利潤の最低限界として現れるだけで、現実の利潤率の経験的な姿態としては現れないのです。〉

 【このパラグラフは結構長いものにとなっている。しかし全体としては一般的利潤率の性格を明らかにするところに主眼があるように思える。
 それを明らかにするために、まずマルクスは利子生み資本の場合を取り上げる。それは商品とは絶対に違った範疇なのに、商品となるのであり、だから利子も商品の価格とはまったく違ったものであるのに、利子生み資本の価格になることを指摘し、商品の市場価格がそうであるように、利子生み資本の価格である利子も、そのつどの需要と供給によって確定された、一様なものとして現れる。貨幣資本家たちがこの商品(利子生み資本)を供給し、機能資本家たちがそれを買い、需要を形成する、と。ここまではいわば一般利潤率を論じるための、その比較のための考察である。
 だからそこからマルクスは話を一転させて、一般的利潤率への均等化の場合には、こうしたことは生じないと論を転じている。ここで「こうしたこと」とは何を指すのかというと、(1)一つは貨幣資本家が利子生み資本を供給し、機能資本家がその需要を形成するいうようなことである。(2)あるいはそうした過程を経て、利子率が一様なものとして確定されるというようなことである。こうしたことが一般利潤率の均等化では生じないとマルクスは指摘するわけである。
 (1)だからまず一般利潤率の均等化の場合はそれはどのようにして生じるかが説明される。その均等化は、ある部面の商品の価格が生産価格よりも高ければ、その部面の生産が拡大され、低ければ縮小されるということを通じて、商品の供給が調整されて、その部面の商品の市場価格が生産価格へ均等化されることによってである。このことによって、その部面の特殊的利潤率の平均利潤率あるいは一般的利潤率からの偏倚が修正されるわけである。だからこの過程は、利子生み資本のように貨幣資本家と機能資本家という二つの資本家が対峙して、一方が売り手、他方が買い手として現れるようなものではない。この過程は、ただ商品そのものの市場価格の変動とそれの生産価格への均等化というかたちで現れるだけである。
 (2)よってこのことから言えることは、一般的利潤率は、実際には、総資本が生産する総剰余価値を、生産的資本の、それぞれの相対的大きさに比例して配分を受け取るというような競争によって、形成され規定されているのである。だから一般的利潤率というのは、その需要と供給によって規定される利子とは違って、それよりずっと複雑な諸原因から規定されているわけである。だからこそ、一般的利潤率は、利子率のような一様で明白なかたちで与えられるような事実ではないのである。それぞれの生産部面の特殊的利潤率も、そのかぎりでは推測の域を出ないものではあるが、しかしそれらの利潤率は一つの経験的な事実としては多様ものとして現れてくる。しかし一般的利潤率の場合は、そうした現実の経験的姿態としては現れないのである。それは諸資本にとって現れてくる場合は、利潤の最低限界としてに過ぎない、とまあざっとこういうことが述べられているわけである。
 ここで注目すべきは、マルクスは一般的利潤率は「現れる」ことそのものを否定していないことである。それは「現れる」ということは何らかの形で資本家たちによって経験的・感覚的につかまえられるわけである。それはどういう場合かをマルクスは述べている。それは利潤の最低限界としてだ、というのである。つまり資本家たちにとって一般的利潤率は自分たちの獲得しなければならない最低限界の利潤率として意識されているということである。もちろん、部分的にはそれよりも低い利潤率で生産する資本家も存在するだろうし、それよりも高い利潤率で生産する資本家もあるだろうが、しかしそれは資本家たちが彼らの生産を維持しつづけるために必要最低限の利潤率として意識されるというのである。そうでないと彼らはその生産を積極的に続ける動機がなくなるわけである。】


【43】

 このような利子率利潤率との相違を強調するにあたっては,われわれ自身二つの事情を無視している。すなわち,1)利子生み資本と伝統的に受け継がれた一般的利子率との歴史的先在,2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は,利潤率〔に及ぼす影響〕に比べればずっと大きいということ,この二つである。xx)/

  ①〔異文〕「一般[的]〔allgemei[nen]〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「直接的」--書き加え.られている。
  ③〔異文〕改行して書かれた「これまで述べたところから次のことが明らかになる。第1に」という書きかけが消されている。〉 (246-247頁)

 〈このような利子率と利潤率との相違を強調するにあっては、私たちは二つの事情を無視しています。すなわち、1)利子生み資本そのものが歴史的に資本主義に先行する存在であったことや、一般的利子率もその意味では歴史的に伝統的に受け継がれたものが先行していたという事情です。2)世界市場が一国の生産諸条件にはかかわりなく利子率の確定に及ぼす直接的影響は、それが利潤率に及ぼす影響と比べればずっと大きいということです。この二つが無視されているのです。〉

 【このパラグラフでは、これまで利子率と一般的利潤率との相違を論じてきたことについて、一つの前提を論じておくべきとマルクスが考えたのであろうか。一つは利子生み資本そのものが資本主義以前のはるか昔から存在したものであったこと、そしてそのために一つの伝統的な一般的利子率というようなものも存在していたという事情を無視しているというわけである。もう一つは世界市場の影響の無視である。とくに利子率への影響は、本当は利潤率へのその影響に比べればずっと大きいのだが、そうしたこともわれわれは無視して論じてきたのだというのである。】


【44】

 /300下/xx)①②2%とか3%とか5%とかをあげるということは,1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係になる。平均利潤は,直接に与えられたものとしては現われないで,矛盾する諸変動の平均結果として現われる。利子率はそうではない。利子率は,その一般性においては毎日確定されている事実であって,この事実は,産業資本や商業資本にとっては,彼らの操作のさいの計算上の前提および項目〔item〕として役立ちさえもするものなのである。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも,取引所報告が,あれこれの資本についてではなく,貨幣市場にある資本すなわち貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのである。

  ①〔異文〕挿入されたこのパラグラフは手稿のこのページの末尾に書かれており,xx)によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフの以下の部分は,もろもろの変更を加えて,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1461.5-19,35-38 und l462.40-1464.2)から取られている。〉 (247-248頁)

 〈2%とか3%とか5%とかの利子をあげるということは、1000ポンド・スターリングという貨幣額のどれでもがもつ一般的な関係です。しかし平均利潤は、直接に与えられたものとしては現れないで、矛盾する諸変動の平均結果として現れます。利子率はそうではありません。利子率は、その一般性においては毎日確定されている事実であって、この事実は、産業資本や商業資本にとっては、彼らの操作のさいの計算上の前提および項目として役立ちさえもするものです。気象報告が気圧計や温度計の示度を記録する正確さも、取引所報告が、あれこれの資本についてではなく、貨幣市場にある資本、つまり貸付可能な資本について利子率の高さを記録する正確さの上には出ないのです。〉

 【このパラグラフは、そしてそれは【46】パラグラフまで続くのだが、【43】パラグラフの最後に「xx」なる記号を付けて関連づけられて、書かれたもののようである。これは草稿の300原頁の下段の途中から始まっている。MEGAの注記によれば300頁の末尾に書かれているということである(末尾に書かれているにしては、やや長いのだが)。ということは、マルクスは明らかに300頁の下段に原注を書くスペースを開けた上で、補足を書いているということである。そして原注は書かれなかったわけである。
 このパラグラフはその関連づけられた【43】パラグラフそのものが、その前に展開してきた利子率と利潤率との相違を強調した記述に対して、いわばその前提をなすものとしてわれわれの論述の限定を論じたという、やや補足的な記述であるのに対して、それに関連して論じられたものであり、利子率と平均利潤率の相違をさらに論じたものになっている。つまり利子率というのは、その一般性において毎日確定されている事実であり、その正確さは気象報告の気圧や温度を記録する正確さをも上回るほどのものである。しかし平均利潤率というのは、直接与えられたものとしては現れないで矛盾する諸変動の平均的な結果として現れるだけである。利子率の場合は、産業資本や商業資本にとっては、彼らが運動する上での前提であり、計算上の項目として常に意識しているものである。しかし平均利潤率というのは、彼らがより高い利潤を求めて運動する結果として、その彼らの一連の競争の背後に形成されるものであり、直接的なものとして彼らが意識できるようなものではないのである。彼らがそれを意識するのは、常に自分があげる利潤率が平均的なそれよりも低いもの、彼らにとってはもはや生産を維持するにカツカツの利潤率として意識されるものである。だから彼らにとっては最低限界としてのそれなのである。】


【45】

 〈貨幣市場ではただ貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers)とが相対するだけである。商品は同じ形態を,すなわち貨幣という形態をとっている。資本がそれぞれ特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてとるすべての特殊的姿態は,ここでは消えてしまっている。資本は,ここでは,自立的な交換価値の,貨幣の,無差別な,自分自身と同一な姿態で存在する。特殊的諸部面の競争はここではなくなる。すべての部面が貨幣の借り手Geldleiher〕としてみなひとまとめにされており,また資本も,すべての部面にたいして,その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対している。資本はここでは,生産的資本がただ特殊的諸部面のあいだの運動と競争とのなかでだけ現われるところのものとして,階級の共同的な資本として,現実に,重みに従って,資本への需要のなかで現われるのである。(?) 他方,貨幣資本(貨幣市場での資本)は現実に次のような姿態をもっている。すなわち,その姿態で貨幣資本は共同的な要素として,その特殊的な充用にはかかわりなしに,それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに,資本家階級のあいだに,配分されるのである。そのうえに,大工業の発展につれてますます貨幣資本は,それが市場に現われるかぎりでは,個別資本家,すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によって代表されるのではなくて,集中され組織されて,現実の生産とはまったく違った仕方で,①社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現われるのである。したがって,需要の形態から見れ[441]ば,この資本には一階級の重みが相対しており,同様に供給から見ても,この資本は,大量にまとまったen masse〕貸付可能な資本として〔現われる〕のである。

  ①〔異文〕「社会的」--書き加えられている。〉 (248-249頁)

 〈貨幣市場では、ただ貸し手と借り手とが相対するだけです。ここでは商品は同じ形態を、つまり貨幣という形態をとっています。資本がそれぞれの特殊的生産部面または流通部面で投下されるのに応じてそのすべての特殊的姿態は、ここでは消えてしまっています。資本は、ここでは、自立的な交換価値の、貨幣の、無差別な、自分自身と同一な姿態で存在します。特殊的諸部面の競争はここではなくなります。すべての部面が貨幣の借り手としてみなひとまとめにされており、また利子生み資本も、すべての部面にたいして、その充用の特定の仕方にはまだかかわりのない形態で相対しています。利子生み資本はここでは、階級の共同的な資本として、生産部面のあいだの運動と競争とのなかでだけあらわれるところのものとして、現実の重みに従って、資本への需要のなかで現れるのです。(?)
 他方、貨幣市場での貨幣資本(moneyed capital)は、現実には次のような姿態を持っています。すなわち、その姿態で貨幣資本(moneyed capital)は共同的な要素として、その特殊的な充用にはかかわりなしに、それぞれの特殊的部面の生産上の要求に応じていろいろな部面のあいだに、資本家階級のあいだに、配分されるのです。そのうえに、大工業の発展につれてますます貨幣資本は、それが市場に現れるかぎりでは、個別資本家、つまり市場にある資本のあれこれの断片の所有者にとって代表されるのではなくて、集中され組織されて、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本を代表する銀行業者の統制のもとに現れるのです。だから、需要の面から見れば、この資本には一階級の重みが相対しており、同様に供給の面から見ても、この資本は、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるのです。〉

 【これは【42】パラグラフで利子率と比較しての一般利潤率の特徴が述べられていたが、それに関連して、この両者の相違の強調には一定の限られた前提があるという【43】パラグラフに関連して、展開されているものである。そしてその関連したものとしては、今度は【44】パラグラフも今回の【45】パラグラフもむしろ利子率の特徴が述べられているように思える。
  今回のパラグラフでは、貨幣市場では貸し手と借り手が相対するだけで、その背後にある事情はそこでは消えてしまっていることが指摘されている。だからそこでは貨幣資本は社会的資本を代表する銀行業者によって統制されたものとして、需要の形態では一階級の重みが相対し、供給からみれば、大量にまとまった貸付可能な資本として現れるわけである。】


【46】

 以上は,なぜ一般的利潤率は,固定した利子率と並んで,消えかかるまぼろしのようなものとして現われるのか,ということのいくつかの理由である。この利子率は,その大きさから見ればたしかに変動しはするが,しかしこのことは,それがすべての借り手にとって一様に変動し,それゆえにまた借り手にたいしてつねに,固定した与えられたものとして相対することを妨げないのであって,それは,ちょうど,貨幣の価値変動が,すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同様である。商品の市場価格が毎日変動しても,このことは市場価格が日々値付けされることを妨げないが,利子率も同様であって,それは同様に規則正しく貨幣の価格として値付けされるのである。なぜならば,ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからであり,したがってその価格の確定は①他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからであり,したがって利子率はつねに一般的利子率として,これこれの貨幣にたいしてこれこれとして,現われるからであるが,これにたいして,利潤率は,同じ部面のなかでも,また諸商品の市場価格が同じでも,違っていることがありうるのである。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って〔違いうる〕。というのは,特殊的利潤率は,商品の市場価格によって決まるのではなく,市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからである。)そして,利潤率はさまざまの部面のなかで,ただ不断の変動,諸過程によってのみ均等化されるのである。〔「xx)」による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕「他の」--書き加えられている。〉 (249-250頁)

 〈以上、私たちは一般利潤率は、どうして固定した利子率とは違って、消えかかるまぼろしのようものとして現れるのか、ということの幾つかの理由を見てきました。確かに利子率は、その大きさはいろいろと変動はしますが、しかしこのことは、すべての借り手にとって一様に変動し、それゆえにまた借り手に対してつねに、固定した与えられたものとして相対することを妨げないのです。それはちょうど、貨幣の価値の変動が、すべての商品にたいして貨幣が同じ価値をもっていることを妨げないのと同じです。商品の市場価格が日々変動したとしても、このことは市場価格が日々値付けされることを妨げません。同じように利子率も、日々変動しますが、そのことは規則正しく貨幣の価格としてそれが値付けされることを妨げないのです。というのは、ここでは資本そのものが商品--貨幣--として供給されるからです。だからその価格の確定は、他のすべての商品の場合と同様にその市場価格の確定だからです。だから利子率はつねに一般的利子率として、これこれの貨幣にたいしてはこれこれとして現れます。
  これに対して、利潤率は、同じ部面のなかでも、また諸商品の市場価格が同じであっても、違っていることがありえます。(個別諸資本が同じ商品を生産するさいの諸条件に従って利潤率は違いうるのです。というのは、特殊的利潤率は、商品の市場価格によって決まるのではなく、市場価格と費用価格との差額によって決まるのだからです。)そして、利潤率のさまざまな部面のなかで、ただ不断の変動、諸過程によってのみ均等化されるのです。〉

 【これも追記部分の最後の部分であるが、ここでは利子率は日々変動しても、つねに一定の率として確定され、一様に固定的に貨幣の借り手に相対していること、しかし利潤率はそうではなく、それは例え市場価格が同じ場合でも、あるいは同じ商品を生産する部面でも違う場合がありうること、そしてそうした利潤率がさまざまな部面のなかでの不断の変動や諸過程を通じて均等化されることが指摘されている。】

  (続く)

2019年8月 2日 (金)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-5)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 


  前回の続き第【34】パラグラフからである。


【34】

 〈[437]/298上/3)「商品の価格は絶えざる変動のなかにある。商品にはすべてそれぞれ特殊的な用途がある。貨幣はどんな目的にも役立つ。商品は,同じ種類のものでも,品質が違っている。正貨numéraire〕はいつでも同じ価値をもっているか,もっているはずである。それだから,われわれが利子という言葉で表わす貨幣の価格は,他のどんな物の価格よりも大きい固定性大きい一様性とをもちうることになるのである。」c)以上は,わが友ステューアト。/〉  (240頁)

 【このパラグラフは本文であるが、ほぼ引用文だけなので、平易な書き下し文は省略した。これは冒頭に「3)」とあることから類推するに、これまでの1)と2)との関連で言うなら、利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある第三の理由として挙げられているのだろうと考えることができる。だからこれまでの理由をもう一度、おさらいをしておくと。
  1)は金利生活者の増大であった。それが大きくなれば貨幣の貸し手も大きくなるということから、富裕な国では利子率は低下する傾向があるとされていた。
  2)は信用システムの発展。それによってあらゆる社会のあらゆる階級の貨幣貯蓄が集積されるから。貸付可能な貨幣資本の増大によって利子率は低下する傾向が生じるということであった。
  そしてさらなる理由として3)なのである。しかしここでは利子率が低下する傾向というよりも、むしろ利子率の固定性が言われているように思える。ステューアトは貨幣の価格と商品の価格とを同じようなものとして比較しているが、もちろん、これは正しくない。また彼が貨幣の価格は大きい固定性と大きい一様性をもつというが、そもそも他の一般の商品の価格と比較していることそのものが正しいとはいえないし、利子率が固定性もつというのも正しいとはいえず、一様性をもつということそのものはよいとしても、その理由としているものも正しいとは言い難い。いずれせよ、この「3)」はこれまでの「1)」や「2)」とは違ったものといわざるをえない。大谷氏は訳者注で次のように述べている。

  〈この「3)」は,形式的には,既出の「1)」および「2)」に続くものと見るほかはないのであるが,「1)」および「2)」は「利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落する傾向」についてのものであったのにたいして,この「3)」は,利子率の一様性,固定性,確定性について述べようとしているのであって,内容的には,「1)」および「2)」に続くものではないように思われる。エンゲルス版でこの「3)」を削除しているのもそのためであろう。〉 (240頁)

  だからわれわれもとりあえずはこの「3)」については、正確な解釈は保留しておこう。
  ついでにマルクスはこの引用の最後に〈以上は,わが友ステューアト〉と書いている。エンゲルスは編集の段階でこの部分を削除しているが、これはマルクス特有の皮肉なのであろうか。それともステューアトへの親しみを表現したものなのであろうか。この点、『資本論辞典』によれば「マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる」とある。これを見るかぎりではステュアートを積極的に評価していたといえるだろう。だからこの一文は親愛の情を表したものと考えてもよいように思えるのだが……。しかしこの判断も保留しておこう。

  以下、ついでに参考のために『資本論辞典』のステュアートの項目を紹介しておこう(ただし、最初の経歴などの部分はカット)。
 
 〈ステュアート ジェイムズ Sir James Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……(中略)……
 彼の主著《経済学原理》は,その当時の時論として,また商業資本家あるいは産業資本家の日常的経験を理論化するにとどまっていた重金主義,あるいは重商主義の理論を体系化して,はじめて経済学をつくりあげた地位を占めている,《原理》は一方では,生産様式の歴史的差異に注目した特徴をもつとともに,他方では,時代に制約されて‘重金主義または重商主義の科学的再生産'それらの'合理的表現'にとどまっている.すなわち,彼は,生産様式の歴史的差異を労働の諸形態にもとめ,近代資本主義社会の特徴を,交換価値を生む労働と規定し,このような労働形態は労働者たちが生産手段や生活手段にたいする所有権を失い,これらのものが労働者にあらざるひとつの財産としてその労働者に対立することによっで発生すること,ことに農業におけるそれが,工業における資本主義的生産の前提条件であることをあきらかにした.そしてこのような観点から労働の古代的および中世的形態に対立する労働の近代的形態をあきらかにした.マルクスは,ステュアートのこの側面での経済学への寄与を‘資本の把握のための彼の功績は,一定階級の所有物としての生産諸条件と労働力とのあいだの分離過程が,どのようにしておこなわれるかをしめした点にある' (MWI-9;青木1-48)と高く評価している.しかし彼の交換価値の規定は,明瞭でなく,労働時間による規定のほかに,賃銀・原料も一役演じており,価値と素材内容との分離が完全におこなわれていない.そしてこのことは,価値・剰余価値の発生を生産過程の分析を通じておこなうことを妨げた.彼は,剰余価値を流通過程=交換から,すなわち,資本家がその商品を価値を超えた価格で販売するところから生ずる,という重商主義的見解にとどまっていた.ただしこの通俗的見解は,このような交換から生ずる剰余価値は,なお富の積極的増加であると解釈していたが,ステュアートは,それは商品の販売者の側における利得が購買者の側における損失によって相殺されるために,相対的利潤にすぎず,なんら富の積極的な増加を意味するものでないと解釈した.このことは,当時の支配的な通俗的見解を批判し,それから一歩抜けでていることを示している.他方,ステュアートはこのような相対的利潤のほかに,なにびとにも損失とならず,社会全体にとって,ひとつの価値増加となるような積極的な剰余価値の存在を認めていた.しかしステュアートはこのような剰余価値の性質をそれ以上は研究しなかった.マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる.ステュアートはまた,貨幣の分析においては,‘観念的度量単位説'をとり,その空想的見解はマルクスによって批判されているが,しかし同時に,流通界にある貨幣の数量が商品の価格によって規定されるものであるか,それとも商品の価格が流通貨幣の数量によって規定されるかという問題をはじめて提出し,そして貨幣の‘種々なる本質的な形態規定と貨幣流通に関する一般的法則を発見した'功績もあわせて強調されている.(大野精三郎)〉(505頁) 】


【35】

 /298下/〔原注〕c)経済学原理』,フランス語訳。第4巻,1789年,27ページ〔小林昇監訳『J.ステユアート 経済の原理--第3・第4・第5編--』,名古屋大学出版会,1993年,230ページ〕。〔原注c)終わり〕/

  ① 〔注解〕ジェイムズ・ステユーアト『経済学原理… … 』,第4巻パリ,1789年。〉 (240頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで引用されたステューアトの一文の典拠を示すだけなので、とくに解説も不要であろう。ただ少し気づいたことだが、小林昇訳や『資本論辞典』では「ステュアート」となっているが、本書では「ステューアト」になっている。どっちが本来の呼び方に近いのであろうか。】


【36】

 /298上/これまでに述べたことから,利子の自然的な率というものがないということは明らかである。しかし一方で,ただ総利潤〔gross profit〕を二人の資本所持者のあいだに違った名目で分けることだけが問題なのだから,(絶えず変動する利子の市場率〔fluctuating market rates of interest〕とは区別される)中位の利子率または利子の平均率average rate of interest〕は,一般的利潤率とは反対に,その限界〔limits〕をどんな一般的法則によっても確定できないものであるのにたいして,〔他方では〕逆に,利子率は,中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと,一般的利潤率とはまったく違って,一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる。利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である。

  ①〔異文〕 「ただ……だけ」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「反対に」← 「異なって」〉 (241頁)

 〈これまで述べたことから、利子の自然的な率というようなものはないということは明らかです。しかし利子率を一般的利潤率と比較しますと、一方では、ただ総利潤を二人の資本所持者のあいだで違った名目で分けることだけが問題なのですから、絶えず変動する利子の市場率とは区別される、中位の利子率または利子の平均率は、一般的利潤率とは反対に、その限界をどんな一般的法則によっても確定できないものです。また他方では、逆に、利子率は、中位の利子率であろうと利子率のそのつどの市場率であろうと、一般利潤率とはまったく違って、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるのです。利潤率に対する利子率の関係は、ここでは、商品の価値に対する市場価格の関係と同様です。〉

 【このパラグラフは〈これまでに述べたことから〉という文言から始まる。しかしここで〈これまでに〉というのはどこからどこまでを指しているのであろうか。展開からするなら、マルクスが【23】パラグラフで〈利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向〉と述べて、「1)」、「2)」、「3)」と展開して、それを受けたものになっているから、そうした記述を指しているように思えなくもない。しかし内容的にはいま一つ納得できない。そしてそうした目で見ると、【30】パラグラフからは問題がさらに展開されて深められているような気がするのである。われわれは【34】パラグラフに「3)」と番号が打たれているために、どうしてもこの「1)」~「3)」が一続きのものと考えざるを得ないのであるが、しかし「1)」、「2)」と「3)」は明らかに同じ問題を論じているとはいえないのである。だから【23】パラグラフで提起された問題は、「1)」、「2)」で終わっており、だから「3)」を無視すれば(だから【34】、【35】パラグラフをないものとすれば)、むしろ全体の展開ははっきりしてくるように思える。そしてそうした展開として考えれば、【30】パラグラフからは新しい問題が論じられ、それはこの【36】パラグラフに繋がっていると考えることができるのである。
  このパラグラフそのものは平易な書き下ろしで容易に理解できる。ただ最後にマルクスが述べていること〈利潤率にたいする利子率の関係は,ここでは,商品の価値にたいする市場価格の関係と同様である〉というのはどういうことを言いたいのであろうか。これは利子率というのは、その平均率であろうがその都度の市場率であうが、一つの一様な、確定された、一見して明らかな大きさとして現れるが、一般的利潤率は決してそうしたものとしては現れないという関係を見ているわけである。そしてそれは価値の市場価格との関係と同じだと述べているわけである。価値も一見してその大きさといったものは明らかなものとしては現れない。それは本質的なものであって、われわれの目に見えないものである。同じように、利潤率も決して一定の率として見えているようなものではない。とくに一般的利潤率というものは諸資本の競争によって形成されるが、それはさまざまな資本家が直接目にできるものではない。しかし商品の市場価格というものは、常に一定量のものとして、値札として表れ、一見して明瞭なものである。こうした関係をマルクスは同じと見ているわけである。】


【37】

 [438]利子率利潤率によって規定されているかぎりでは,それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって,特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率がどうであれ,それらによって規定されているのではなく,まして個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらない。d) それだからこそ,一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである。といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではないのであるが。|

  ①〔異文〕「独自な」--書き加えられている。〉 (241-242頁)

 〈利子率が利潤率によって規定されているかぎりでは、それはつねに一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊的産業部門で行われている独自な諸利潤率がどうであれ、それらによって規定されているのではありません。ましてや個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤によって規定されているのではなおさらないのです。それだからこそ、一般的利潤率は、実際に経験的な事実として、ふたたび平均利子率のかたちで現れるのです。といっても、後者は決して前者の純粋な、また確実な表現ではないのですが。〉

 【先のパラグラフからは利子率の特性を一般的利潤率との比較によって明らかにしようとしているように思える。ここでは利子率が利潤率によって規定されているという場合には、それは一般的利潤率によって規定されているのであって、それ以外の利潤率によってではないことが言われている。
  ただそれを受けて言われていることはいま少し検討が必要なように思える。マルクスは上記の指摘をしたあと、それを受けて〈それだからこそ〉と述べて、〈一般的利潤率は,実際に経験的な事実として,ふたたび平均利子率average rate of interest〕のかたちで現われるのである〉と述べている。〈ふたたび……現われる〉というのもいま一つよく分からないのあるが、これは一体どういうことをマルクスは言いたのであろうか。
  〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉などは少なくともそれぞれの資本家たちには経験的な事実としてとらえられるものであろう。一般的利潤率はそうしたものが諸資本の競争によってそれらを平均するものとして形成されるものである。だから一般的利潤率というのは、直接には経験的に捉えることのできないものである。それは特殊な産業部門の独自な利潤率や個別資本の超過利潤という個々別々の特殊な利潤率を平均したものとして一般的なのである。だからそれは本質的なものとして内在的なものであり、経験的な事実としてとらえることはできない。それに対して利子率というのは直接的なものである。利子率が究極的には一般的利潤率に規定されているというのはこれまでにも述べられてきた。一般的利潤率というのは資本主義的生産が発展すれば傾向的に低落するのであるが、同じように利子率も資本主義的生産が高度に発展している国々では低くなる傾向があった。だから利子率はそのかぎりでは一般的利潤率を目に見えるかたちで、経験的な事実として、表現しているものなのだ、とマルクスは述べているわけである。そうした一般的利潤率の表現としての利子率というものは、〈実際に経験的な事実〉として存在しており、そうしたものとしては、〈特殊的産業部門で行なわれている独自な諸利潤率〉や〈個別資本家がそれぞれの特殊的事業部面であげるかもしれない超過利潤〉がそうであったのと同じだから、だからそれは〈ふたたび……現われる〉ものとマルクスは述べているわけである。もっとも、マルクスは最後に〈といっても,後者はけっして前者の純粋な,または確実な表現ではない〉とも断ってはいる。】


【38】

 /298下/〔原注〕d)「とはいえ,このような利潤分割の規則rule〕は,それぞれの貸し手や借り手に個々に適用されるべきではなく,貸し手と借り手とに一般的に適用されるべきである。……著しく大きい利得や小さい利得は,巧妙さへの報酬かまたは知識の不足の結果であって,貸し手にはおよそかかわりのないことである。というのは,彼らは一方によって損をするのではないのだから,他方によって得をする必要もないからである。同じ事業に携わる個々の人びとについて述べたことは,事業のいろいろな種類にもあてはまる。もしある事業部門に携わる商人や事業家が,自分たちの借りたものを使って,同じ国の他の商人や事業家があげる普通の利潤よりもたくさん儲けるならば,その特別な儲けは,それを得るのには普通の巧妙さと知識だけで足りたとしても,彼らのものであって,彼らに貨幣を提供した貸し手のものではない。……というのは,貸し手は,普通の利子率の支払いも許さないような悪条件のもとでなにか事業部門を営むために自分たちの貨幣を貸したのではなかったであろうし,したがってまた,自分たちの貨幣からどんな利益が引き出されたとしても,普通の利子率よりも多くを受け取るべきではないからである。」(マッシー,同前,50-51ページ。)〔原注d)終わり〕|

  ①〔注解〕この引用のうち,〔7行目の〕「事業のいろいろな種類にもあてはまる。」までは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.22-28)から取られている。〉 (242頁)

 【このパラグラフは先のパラグラフで利子率が一般的利潤率によって規定されているのであって、特殊な産業部門の諸利潤率や個別の超過利潤等々によって規定されいるのではないというところにつけられた原注であり、マッシーからの抜粋なので、平易な書き下しは省略した。この抜粋では、利子率は個別の事業者の個々の儲けによって規定されているのではないというマッシーの言明であり、マルクスはそれを肯定的に抜粋・紹介している。一部は61-63草稿からとられているらしいから、その本文を見ておくことにしよう。この部分はすでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介したので、それを再録しておこう(但し今回再録するにあたり、MEGAの注解等は煩雑になるので省略)。

 〈利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)〉 (草稿集⑨363-364頁)】


【39】

 〈|299上|借り手〔borrowers〕が差し出す担保〔securities〕の種類によって, 利子率そのものが絶えず違っているということは,たしかに正しい。しかし,これらの種類については,利子率は一様である。だから,このような相違は利子率の固定した一様な姿態をそこなうものではないのである。〉 (242-243頁)

 〈借り手が差し出す担保の種類によって、利子率そのものが絶えず違っているということは、確かに正しい。しかし、これらの種類ごとについては、やはり利子率は一様です。だから、こうした相違そのものは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないのです。〉

 【これは利子率というのは〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉と述べてたことに対して、考えられる異論に対して、前もって反論を加えるというもののようである。つまり担保の違いによって利子率も違うではないか、だから利子率は一様だというのはおかしい、という反論に対して、マルクスは確かに担保の違いによって利子率も違うというのは正しいが、しかしその担保の種類ごとに決まってくる利子率というのは、そのかぎりでは一様なのだと反論している。だからこのことは利子率の固定した一様な姿態を損なうものではないし、それに異論を唱える根拠にはならないと言いたいのである。
 ただここでマルクスは〈利子率の固定した一様な姿態〉と述べているが、その前にも紹介したように、利子率が〈一つの一様なuniform〕,確定された,一見して明らかな大きさとして現われる〉というのはいいものの、それが〈固定した〉ものというのは果たしてどうなのであろうか。利子率がたとえその平均率であっても、利子生み資本の需給によって変化するし、その需給こそが利子率を規定するものだから、それが固定したものというのは言い難いように思えるのである。だからこの〈利子率の固定した一様な姿態〉というのは、利子率というのは、その時その時に、ある決まった数値として一様に明瞭に決まってくる状態を表していると考えるべきではないだろうか。】

 (続く)

 

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