無料ブログはココログ

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10) »

2019年7月12日 (金)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-9)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第63パラグラフからである。


【63】

 〈[425]/293上/では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」である。b)/〉 (203頁)

 〈では、生産的資本家は何を支払うのでしょうか? だからまた、貸し出される資本の価格というのは何でしょうか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」です。〉

 【ここでようやく利子の考察に入っている。生産的資本家が支払うものは何か、生産的資本家は彼が買った商品に対して、支払うのだからそれはその商品の価格だというわけである。そしてそれは彼が借りた資本の使用によって得られた利潤の一部であり、利子だというわけである。】


【64】

 〈/293下/〔原注〕b)同前。「富者たちは,……彼らの貨幣を自分では使わないで……それを他の人びとに貸し出し,これによって他の人びとは利潤をあげ,こうしてあげた利潤の一部分を所有者のために保留する。」(同前,23[,24]ページ。)〔原注b)終わり〕|〉 (203頁)

 【これは原注なので、平易な書き出しは省略する。これは〈同前,23[,24]ページ〉とあるので、マッシーの著書からとられていることが分かる。MEGAの注解はないが、これもやはり61-63草稿から取られているようなので、原文を示しておこう

  〈富裕な人々が「彼らの貨幣をみずから使わずに、それを他の人々に貸しだすのは、他の人々が、それで利潤を得て、得られる利潤の一部を所有者のためにとっておくから、である。しかし、一国の富が多くの人々の手に分散され、また均等に配分されていて、そのために、多くの人々にとっては、〔借り入れる〕貨幣を事業に用いても、二家族を扶養するのに足りるだけのものが残らないならば、ほとんど借り入れはなされえない。というのは、2万ポンド・スターリングは、それが一人の人のものである場合には、その利子で一家族を養えるので、貸し付けられるかもしれないが、もし2万ポンド・スターリングが10人の人のものであれば、その利子では10家族を養えないので、それが貸し付けられることはありえないから、である。(23、24ページ。)〉 (草稿集⑨362-363頁)】


【65】

 〈/293上/普通の商品の買い手が買うものは,それの使用価値である。彼が支払うものは,その商品の交換価値である。貨幣の借り手〔Leiher〕が買うものも,やはり,貨幣の資本としての使用価値(使用)である。しかし,彼はなにを支払うのか? たしかに,商品の場合とは違って,その価格または価値ではない。貸し手と借り手とのあいだでは,買い手と売り手とのあいだでとは違って,価値の形態変換は,したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在しもう一度は商品の形態で存在するということは,行なわれない。手放される価値と取り戻される価値との同一性は,ここではまったく別の仕方で現われる。価値額(貨幣)は,等価なしに渡されてしまって,ある期間ののちに返され,返済される。貸し手が,自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは,ただ,こうした仕方,つまり,貸し手は実際にいつでも同じ価値の所有者であって,この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうである,という仕方ででしかない。{単純な商品の場合の関係との次のような違いが明らかになる。ここでは,貨幣はつねに買い手の側にある。ところが,貸付の場合には貨幣は売り手の側にある。売り手は貨幣をある期間譲渡し,手放すのであり,資本の買い手はそれを商品として受け取るのである。しかし,こういうことが可能なのは,ただ,貨幣が資本として機能し,したがってまた前貸されるかぎりでのことである。}借り手が貨幣を借りる〔leihen〕のは,資本としてであり,自分を増殖する価値としてである。しかし,それが資本であるのは,どの資本でもその出発点で,その第1の前貸の瞬間にそうであるように,まだやっと即自的にでしかない。その使用によってはじめてそれは増殖され,資本として実現されるのである。ところが,借り手はそれを実現された資本として,つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として,返済しなければならない。そして,このあとのほうのものは,ただ彼によって実現された利潤の一部分でしかありえない。ただ一部分だけであって,全部ではない。というのは,使用価値は借り手にとっては,それが彼のために利潤を生産することだからである。そうでなければ,貸し手の側での使用価値の譲渡は行なわれなかったであろう。しかし,利潤が全部借り手のものになるわけにはいかない。もしそうなるとすれば,彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり,前貸された貨幣を貸し手に資本として,実現された資本として,還流させるのではないということになるであろう。というのは,それが実現された資本であるのは,ただG+△Gとしてのみだからである。〉 (203-204頁)

 〈普通の商品の買い手が買うものは、それの使用価値です。彼が支払うものは、その商品の交換価値です。貨幣の借り手が買うものも、やはり、貨幣の資本としての使用価値(使用)です。しかし彼は何を支払うのでしょうか? たしかに、商品の場合とは違って、その価格または価値ではありません。貸し手と借り手とのあいだでは、買い手と売り手とのあいだでと違って、価値の形態変換は、したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在し、もう一度は商品の形態で存在するといったことは、行われません。手放される価値と取り戻される価値との同一性は、ここではまったく別の仕方で現れます。価値額(貨幣)は、等価なしに渡されてしまって、ある期間の後に返され、返済されます。貸し手が、自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは、ただ、こうした仕方、つまり、貸し手はじっさいにいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもはやりそうだ、という仕方ででしかないのです。{単純な商品の場合の関係とは次のような違いが明らかになります。単純な商品の売買の場合は、貨幣はつねに買い手の側にあります。ところが、貸付の場合には貨幣は売り手の側にあるのです。売り手は貨幣をある期間譲渡し、手放すのですが、資本の買い手はそれを商品として受け取るのです。しかしこういうことが可能なのは、ただ、貨幣が資本として機能し、したがってまた前貸しされる限りでのことです。}借り手が貨幣を借りるのは、資本としてであり、自分を増殖する価値としてです。しかし、それが資本であるのは、どの資本でもその出発点で、その第一の前貸しの瞬間にそうであるように、まだやっと即時的にそうであるだけなのです。その使用によってはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのです。ところが、借り手はそれを実現された資本として、すなわち価値・プラス・剰余価値(利子)として、返済しなければなりません。そして、このあとのほうのもの(プラス・利子)は、ただ彼によって実現された利潤の一部でしかあり得ないのです。ただ一部であって、全部ではありません。というのは、使用価値は借り手にとっては、それが彼のために利潤を生産することだからです。そうでなければ、貸し手の側での使用価値の譲渡は行われなかったでしょう。しかし、利潤が全部借り手のものになるわけにはいきません。もしそうなるとすれば、彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として、還流させるのではないということになるでしょうから。というのは、実現された資本であるのは、ただG+ΔGとしてのみだからです。〉

 【ここでもやはり普通の商品の売買と、利子生み資本の貸出との相違が指摘されながら、利子生み資本に固有の問題が何かを明らかにしようとしている。やはり長文であるから、まとめるために、箇条書き的に書き出してみよう。
  (1)普通の商品の買い手が買うのは商品の使用価値であり、彼が支払うのは商品の交換価値である。
  (2)利子生み資本の場合、貨幣の借り手が買うものも、やはり、その商品(貨幣)の使用価値である。つまり資本としての使用価値(使用)である。
  (3)しかし貨幣の借り手は何を支払うのか? 明らかに、普通の商品の場合とは違って、その商品の価値ではない。
  (4)利子生み資本の場合には、普通の商品の買い手と売り手とのあいだとは違って、価値の形態変換は生じない。つまり価値があるときには貨幣の形態であり、もう一度は商品の形態であるというようには現れない。
  (5)利子生み資本の場合、手放される価値と取り戻される価値との同一性は、まったく別の仕方で現れる。すなわち価値は等価なしに渡されてしまい、ある期間ののちに返され、返済されるという形で現れる。
  (6)貸し手が自分が手放した貨幣と同じ価値を取り戻すのは、ただこうした仕方、つまり貸し手は実際にはいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうなのだ、という仕方でである。
{(7)利子生み資本の場合と単純な商品の場合との違いは、後者の場合は貨幣はつねに買い手の側にあるが、前者の場合は売り手の側にあるということである。}
  (8)借り手が貨幣を借りるのは、資本としてである。
  (9)しかしそれが資本であるのは、それが現実資本として前貸しされる瞬間である。だからそれが資本であるというのは即時的にそうだというに過ぎない。実際には、それが使用されてはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのである。
  (10)借り手はそれを実現された資本として、つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として返済しなければならない。
  (11)彼が返済するあとほうのもの(・剰余価値(利子))は、彼によって実現された利潤の一部分である。それは利潤の一部であって全部ではない。なぜなら、借り手にとっての使用価値は、彼のために利潤を生産するということだから、そうでなければ、そもそも貸し手の側からの使用価値の譲渡は行われなかったであろう。
  (12)他方で、彼が生み出した利潤がすべて彼のものになるわけではない。もしそうなれば、彼は使用価値の譲渡にたいして何も支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として還流させることにはならないからである。実現された資本というのは、ただG+ΔGとしてのみだからである。
  結局、ただ箇条書きに書き直したに過ぎないが、全体としては何もむずかしいことは言っていないので、これぐらいにしておこう。】


【66】

 〈貸し手も[426]借り手も,両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし,ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は,同じ貨幣額が2人の人にとって二重に資本として定在することによっては,2倍にはならない。それが両方の人にとって資本として機能することができるのは,利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は利子と呼ばれる。|〉 (205頁)

 〈貸し手も借り手も同じ貨幣額を資本として支出します。しかし、実際には、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能するのです。利潤は、同じ貨幣額が二人の人の手で二重に資本として定在するということだけでは二倍にはなりません。だからそれが両方の人にとって資本として機能することができるためには、利潤が分割されることによるほかにはないのです。そして貸し手のものになる部分は利子と呼ばれるのです。〉

 【同じ貨幣額が、貸し手にとっても資本であり、その借り手にとっても資本である。しかし実際に資本として機能するのは貸し手の手のなかでだけである。だからそれが資本として機能し、利潤を生産するのは貸し手のなかだけの話である。それが資本として二重に存在するからといって利潤が二倍になるわけではない。だから両方の人にその同じ価値額が資本として機能することができるのは、結局、一方の側で現実に資本として機能して生産した利潤を分割することによるしかない。貸し手のものになるものを利子といい、借り手のものになるものが企業利得というわけである。】


【67】

 〈|294上|前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家〔monied Capitalist〕と生産的資本家とのあいだで,行なわれる。〉 (205頁)

 〈前提によれば、全取引は二つの種類の資本家のあいだで、つまり貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで、行われます。〉

 【このようにマルクスは利子生み資本の考察では、全取引は二つの種類の資本家のあいだで行われるものとして前提している。貨幣資本家と生産的資本家である。だから貨幣資本家というのは貨幣を貸しつけて利子を得ることを目的にした資本家である。だから本来的貨幣資本家というものには銀行などそれを媒介する機関はとりあえずはより具体的な内容規定を持ったものとして捨象されていると考えるべきだろう。他方、利子生み資本を借り受ける資本家としては生産的資本を前提している。つまり現実に貨幣資本を生産資本に転化して剰余価値を生産する資本家である。だから剰余価値を生まず、その分け前を受け取るだけの例えば商業資本家などは捨象されているのである。マルクスは利子生み資本の概念を考察するときには、それは平均利潤を得るという使用価値を譲渡するということから説明し、その平均利潤の成立には商業資本も参加することが前提になっているかに論じていたが、しかしここでは利子生み資本をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした前提が必要だと考えているように思える。】


【68】

 資本がここではそれ自身商品として現われるとすれば,この場合,忘れてはならないのは,資本は資本として商品なのだということ,言い換えれば,ここで問題になっている商品は資本なのだということである。それゆえ,ここで現われるすべての関係は,単純な商品の立場から見れば,または資本の立場から見ても,資本がその総過程で商品資本として機能するかぎりでは,不合理であろう。貸付借受であって販売購買ではないということが,ここでは,商品--資本--の独自な性質から出てくる区別である。また,ここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないということも,そうである。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している。a) 資本としての資本が自分を[429]表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。②したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。それゆえ,価格が商品の価値を表わすように,利子はmonied Capitalの価値増殖を表わすのであり,だからまた,monied capita1にたいして貸し手〔Ausleiher〕に支払われる価格として現われるのである。/

  ①〔異文〕[貸付と借受〔Verleihen und Borgen〕」← 「貸し〔Leihen〕」
  ②〔異文〕「したがってまた……によってのみ,測ることができる」ist daher auch nur meßbar←kann daher auch nur gemessen〉 (205-206頁)

 〈資本がここでは商品として現れるとするなら、この場合、忘れてならないのは、資本は資本として商品なのだということです。言い換えれば、ここで問題になっているのは資本なのだということです。だから、ここで現れるすべての関係は、単純な商品の立場から見れば、または資本の立場から見ても、資本がその総過程で商品資本として機能する限りでは、不合理でしょう。貸付と借受であって販売と購買ではないということが、ここでは資本という商品の独自な性質から出てくる区別なのです。またここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないといこともそうです。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば、それは価格の不合理な形態であって、商品の価格の概念とはまったく矛盾しています。資本としての資本が自分を表明するのは、その価値増殖によってです。その価値増殖の程度は、それが資本として量的に実現される程度を表明しています。この剰余価値または利潤の率または高さは、ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができます。したがってまた、利子生み資本の価値増殖の大小も、利子の高さを、前貸資本の価値と比較することによってのみ、測ることができます。それゆえ、価格が商品の価値を表すように、利子はmoneyed capitalの価値増殖を表すのです。よってまた、貸し手に支払われるmoneyed capitalの価格として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本では資本が商品になるということが強調されている。この点、宇野は次のように批判する。「マルクスは間違っている。貨幣が商品になるのであって資本が商品になるのではない」と。しかし貨幣が商品になるのは、その貨幣の資本としての使用価値によって商品になるのである。だからここで重要なのは資本が資本として商品になるということなのである。この資本として商品なのだということが、貸付と借受という独自の行為を生み出すのだからである。また支払われるものが商品の価格ではなく利子であるということも資本が商品になるということから生まれてくるのだからである。貨幣が商品になるということだけでは、何故に貨幣が商品になるのか分からなくなる。それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値をもつからであろう。つまり資本だからである。だからこそマルクスは資本として商品になることを強調しているのである。
  ここでは利子がどうしてmoneyed capitalの価格として現れるのかを説明している。というのは利子は前貸資本の増殖分であり、借り手が貸し手に支払うものだから、だから貨幣を資本として商品にして譲渡する貸し手に支払うわけだから、だから商品としてのmoneyed capitalのそれは価格なのだということである。】


【69】

 〈[426]|294下|〔原注〕a)ここでは,価格は,使用価値としてなんらかの仕方で働くなんらかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だというその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されているのであるが,価格の概念から見れば,価格は,この使用価値の交換価値を貨幣で表わしたものなのである。〉 (206頁)

 〈ここでは、価格は使用価値として何らかの仕方で働く何らかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だということになりますが、これはその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されています。これは価格の概念からすれば不合理です。なぜなら、商品の価格とは使用価値の交換価値を貨幣で表したものだからです。〉

 【これは〈もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している〉という一文につけられた原注であるが、すべてマルクス自身の文となっている。だから一応平易な書き下し文をつけておいた。つまり利子を利子生み資本の価格だという場合、それは使用価値として何らかの仕方で働くものにたいして支払われる一定の貨幣額というような内容になるが、これではまったく抽象的で無内容なものに還元されているし、商品の価格の概念からすれば不合理以外の何ものでもないというわけである。】


【70】

 〈①②「通貨に適用される価値という術語には三つの意味がある。……第2には,後日受け取られるべき同一額の通貨と比べての,現実に手にしている通貨。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また利子率は貸付可能資本〔loanable capital〕とそれにたいする需要との割合によって,規定されている。」(R.トランズ商業信用に影響を及ぼす1844年の銀行特許法の運用について』,第2版,ロンドン,1847年,5[,6]ページ。〔)〕゜(下方)/

  ①〔注解〕このパラグラフについては,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIを見よ。(MEGAIV/8,S.212.15-22.)
  ②〔注解〕トランズでは次のとおり。--「価値という術語は,通貨に適用されるときには,三つの異なった意味がある。……現実に手にしている通貨が,将来のある日に受け取られるべき同一額の通貨と比べられることがある。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また,利子率は貸付可能資本とそれにたいする需要との割合によって,規定されているので,それは利子率が下落または上昇するのに応じて上昇または下落すると言ってよい。」〉 (206-207頁)

 【これは原注a)の続きである。この原注a)は次のパラグラフまで続いている。このパラグラフはトランズの著書からの抜粋だけだから、平易な書き下しは不要であろう。トランズは価値という述語が通貨に適用されると三つの異なる意味がある、と述べて、利子を通貨の価値としているわけである。そして利子率は貸付可能資本の需給によって規定されるとも指摘している。】


【71】

 /294下/(資本の価格としての利子というのは,もともと〔de prime abord〕まったく不合理な表現である。ここでは一つの商品が二重の価値をもっている。すなわち,まず第1にある価値をもち,次にはこの価値とは違った価格をもっている。他方では,価格とは価値の貨幣表現〔monetary expression of value〕なのである。)貨幣資本は,さしあたりは,ある貨幣額にほかならない。または,一定の価値量の価値が貨幣額として固定されたものにほかならない。もし商品が資本として貸し付けられるとすれば,その商品は,ただ,ある貨幣額の仮装形態でしかない。というのは,資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく,綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからである。それゆえ,資本の価格は,トランズ氏の言うように通貨としての,ではないにしても,貨幣額としての資本に連関する。いったいどうして,ある価値額は,それ自身の貨幣形態で表わされている価格のほかに,ある価格をもつのか? 価格とは,商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのだから。(そして市場価格の場合もやはりそうであって,市場価格と価値との相違は,質的ではなく,ただ量的であるだけであって,ただ価値量に連関するだけである。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは,名辞矛盾〔contradictio in terminis〕である。「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である。」(トゥク通貨原理の研究』,77ページ。〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,『世界古典文庫』,日本評論社,1947年,135ページ。〕)交換価値そのものが(利子が)資本の使用価値になる{このことによって,資本は,交換価値を生みだす使用価値をもつ労働能力と同一視される}という主要な「混乱」〔Haupt“confusion”〕(事柄そのもののうちにある)がトゥクにはわからないのである。〔原注a)終わり〕|

  ①〔異文〕この挿入は手稿のこのページの最後に書かれており,原注a)への補足となっている。この部分は標識oによってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔訂正〕「(」--草稿では欠けている。
  ③〔異文〕「表[現]〔Ausdru[ck]〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「貨幣資本〔Das Geldcapital〕」← 「資本〔Capital〕」〉 (207-208頁)

 〈(資本の価格としての利子というのは、もともとまったく不合理な表現です。というのは、利子生み資本においては、一つの商品が二重の価値を持っています。まず第一にそはある価値を持ちます。それは一定の貨幣額なのですから。次ぎにその価値とは違った価格(利子)をもっています。価格というのは、本来は価値の貨幣表現なのですから、だからここでは一つの商品が二重の価値をもつことになってしまいます。)貨幣資本は、さしあたりは、ある貨幣額です。または、一定の商品量の価値が貨幣額として固定されたものです。もし商品が資本として貸しつけられるとすれば、その商品は、ただある貨幣額の仮装形態でしかありません。というのは、資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく、綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからです。だから、資本の価格は、トランズ氏の言うように通貨としての、ではないにしても、貨幣額としての資本に関連します。いったいどうして、ある価値額は、それ自身の貨幣形態で表されている価格のほかに、ある価格を持つのでしょうか? 価格とは、商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのですから。(市場価格の場合もやはりそうであって、ただ価値量に関連するだけです。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは、名辞矛盾(=概念矛盾)です。トゥクは「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である」と書いていますが、交換価値、つまり利子が資本の使用価値になる、そしてこのことによって、資本は交換価値を生み出す使用価値をもつ労働能力と同一視されますが、こうした事柄そのものにある混乱が彼には分からないのです。〉

 【これは原注a)に関連づけて追加された一文のようであるが、ようするに「利子」が「価格」というのは、価格の概念からしても不合理だということがいろいろと述べられている。またトゥクもこの点では混乱していることが指摘されている。まあ、こうしたこと自体にはそれほど理解の困難さはないから次ぎに行こう。】


【72】

 [429]/294上/このことからも明らかなように,貨幣によって媒介される交換,つまり買い手と売り手という単純な諸関係を直接にこの場合に適用しようとすることは,じつにはじめからばかげたことである。根本前提は,貨幣が資本として機能するということ,したがってまた資本(即自的な)として,第三者に引き渡されることができるということなのである。

  ①〔異文〕「買い手と売り手という単純な諸関係」← 「諸商品と〔……〕との諸関係」
  ②〔異文〕「(即自的な)」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「貸し付けられる」という書きかけが消されている。〉 (208-209頁)

 〈このことから分かりますように、貨幣によって媒介される交換、つまり買い手と売り手という単純な諸関係を、直接この場合(利子生み資本の場合)に適用しようとすることは、実に、はじめから馬鹿げたことなのです。根本前提は、貨幣が資本として機能するということです。だからまた即時的資本として第三者に引き渡されることができるということなのです。〉

 【ここでもマルクスは、貨幣が商品として販売されるのはそれが資本として機能するからだと強調している。だからこそその販売は貸付になり、その購買は借受になるわけである。根本前提は貨幣が資本として機能するということであり、貨幣が即時的な(潜在的な、可能的な)資本として第三者に引き渡されるということなのである。】

  (以下、続く)

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10) »

『資本論』第3部第5篇の研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10) »