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2019年7月27日 (土)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続く)

 

  前回の続き第【30】パラグラフからである。


【30】

 /297上/絶えず変動する市場率とは区別される,一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない。g) 需要と供給との一致--平均利潤率を与えられたものとして前提して--はここでは全然なにも意味してはいない。ほかの場合にこの定式を頼りとするときには(そしてそのような場合,そうするのは実際にも正しいのであるが),それは,競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界,または限界を画する大きさ〔the regulating limits,or the limiting magnitudes〕)を見いだすための定式なのである。ことに,競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から[436]発展する諸観念やにとらわれている人びとにとって,競争のなかで表われる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念--たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえ--に到達するための定式なのである。それは,競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法である。平均利子率の場合はそうではない。||298上|貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers〕とのあいだの中位の競争関係が,なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか,あるいは,なぜそれ〔中位の競争関係〕が彼に,総利潤gross profitにたいするこの一定の百分比的分けまえを,総利潤〔gross profit〕のうちの20%とか50%とか,等々を与えることになるのか,その理由は全然ないのである。競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである。a) 通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告(タイトルは調べること)のなかでなによりもおもしろいのは,イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句,たとえば,⑨⑩貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか,「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたってpermanently〕両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっているのを聞くことである。b) 慣習,法律的伝統,等々が中位の利子率の規定に関係がある{この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりはそうである}のは,競争そのものがそれに関係があるのと同様である。それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである。{中位[437]の利子率は,利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも,適法に認められなければならない。}ところで,さらに,なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界〔limits〕を一般的な諸法則から展開することはできないのか,と問う人があるならば,その答えは単純に利子の性質のうちにある。利子はただ平均利潤の一部分でしかない。同じ資本が二重の規定で現われるのである。すなわち,貸し手〔lenders〕の手のなかで貸付可能な資本〔1oanable Captial〕として現われ,機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現われるのである。しかし,それが機能するのはただ一度だけであり,それ自身で利潤を生みだすのはただ一度だけである。それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。この利潤にたいする要求権をもつこの二人の人物がこれをどのように分けるかは,それ自体としては,一つの会社事業をもつさまざまの出資者が共同利潤の百分比的分けまえについて折り合いをつける場合と同じく,純粋に経験的な事実である。本質的に利潤率の規定の基礎となっている,剰余価値と労賃とのあいだの分割では,二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界づけ合っている。そして,それらの質的な区別から,生産された価値の量的な分割が出てくるのである。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということは,あとでわかるであろう。利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。いますぐに見るように,逆に,質的な分割が,剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのである。/

  ①〔異文〕「絶えず変動する市場率とは区別される」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「さえ〔selbst〕」と書き加えたが,これを消している。
  ③〔異文〕「発展する」← 「形成される」
  ④〔異文〕「とらわれている人びとに」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「総利潤のうちの」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「ア・プリオリに」という書きかけが消されている。
  ⑦〔注解〕「通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告」--『銀行法特別委員会報告…… 。1857年7月30日』,--『銀行法特別委員会報告…… 。1858年7月1日』。
  ⑧〔異文〕「月並みな文句,たとえば,」← 「……のような月並みな文句〔solche Gemeinplätze〕」
  ⑨〔注解〕マルクスがここで関説しているのは,『銀行法特別委員会報告……。1857年7月30日』でのサミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言(359-360ページ)である。
  ⑩〔注解〕「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3855号]……資本の使用にたいする価格は,他のどんな商品の価格もそれの供給と需要との変動によって定まるのと同じようにして,決められるべきものです。」
  ⑪〔注解〕「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3866号]私は,高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできないと思います。」
  ⑫〔注解〕「競争の項目」--〔MEGA II/4.2の〕178ページ18-25行への注解を見よ。〔この注解では次のように書かれている。--『経済学批判要綱』は「資本」という部のためのマルクスのプランを含んでおり,それは次の四つの篇に編制されるべきものだった:資本一般,競争,信用,株式資本(MEGA II/1.1の187ページおよび199ページを見よ)。--エンゲルスあてのマルクスの手紙,1858年4月2日。--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』をも見よ。所収:MEGA II/2,S.99,長年にわたる自己了解過程の中心にあったのは,一方では第1篇であり,純粋な姿態における価値および剰余価値についてのこの篇の論述は最終的には『資本論』に結実した。他方では平均利潤および生産価格の理論であって,『1861-1863年草稿』でのこの理論の仕上げは,なにをおいても,「資本一般」と資本の「現実の〔real〕」運動--競争と信用--とのあいだの徹底した分離をマルクスに放棄させることになった。この運動のうちの基本的な事柄は主著〔『資本論』〕に取り入れられ,それより具体的な事柄は,主著とは別のもろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった。これらの特殊研究は書かれなかった。〕
  ⑬〔異文〕「〔……の〕一〔部分〕としての〔als eines〕」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「資本は二重に現われる」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「百分比的分けまえについて折り合いをつける」← 「百分比的分けまえへと分割する」
  ⑰〔異文〕「本質的に」--書き加えられている。
  ⑱〔異文〕「二つのまったく違った要素が……っている〔kommen zwei ganz verschiedne Elemente〕」という書きかけが消されている。〉 (233-238頁)

 〈(1)絶えず変動する市場率とは区別される、一国で支配的な利子(率)の中位的な率または平均率は、どんな法則によっても全然規定することのできないものです。利子の自然的な率というものは、例えば利潤の自然的な率または賃金の自然的な率が存在するというようなこういう仕方では、存在しないのです。平均利潤率が与えられたものと前提すれば、貨幣の貸し手と借り手とのあいだにおける需要と供給との一致というものは、ここでは全然なにも意味しないのです。
  (2)他の場合、こうした需給の一致という定式を頼りにするのは、それはそれで正しいのですが、それは、競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界、または限界を画する大きさ)を見いだすための定式なのです。ことに、競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から発展する諸観念やにとらわれている人々にとって、競争のなかで表れる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念に到達するための定式なのです。もっともその結果が、たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえです。それは、競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法なのです。
  (3)しかし平均利子率の場合はそうではないのです。貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係が、なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか、その理由は全然ないのです。同じことですが、なぜその中位の競争関係が彼に、総利潤にたいするこの一定の百分比的分け前を、総利潤のうちの20%とか50%とか、等々を与えることになるのかについても、その理由は全然ないのです。
  (4)競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的であって、ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのです。
  (5)通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告のなかでなによりもおもしろいのは、イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者や職業的理論家たちが、次のような月並みな文句をしゃべりまくっていることを聞くことです。例えば「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっていることです。
  (6)習慣や法律的伝統、等々が中位の利子率の規定に関係があるのは、競争そのものがそれに関係あるのと同様です。この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりではそうなのです。しかしだからこそ、この問題の考察は、競争の項目で行われるべきことです。{そして実際問題として、中位の利子率は、利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも、適法に認められなければならないのです。}
  (7)ところで、もしさらに、なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な諸法則から展開することはできないのか、と問う人があるならば、単純にそれは利子の性質のうちにあると答えなければなりません。利子はただ平均利潤の一部でしかありません。ここでは同じ資本が二重の規定で現れるのです。すなわち、貸し手のなかで貸付可能な資本として現れ、機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現れます。しかし、それが機能するのはただ一度だけです。それ自身が利潤を生み出すのもただ一度だけです。そして生産過程そのものでは、資本は貸付可能な資本としては何の役割も演じないのです。利潤にたいする要求権を持つこの二人の人物がこれをどのように分けるかは、それ自体としては、一つの会社事業をもつさまざまな出資者が共同的利潤の百分比的分け前について折り合いをつける場合と同じく、純粋に経験的な事実なのです。
  (8)本質的に利潤率の規定の基礎となっている、剰余価値と労賃とのあいだの分割では、二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界付けあっています。そして、それらの質的な区別から、生産された価値の量的な分割が出てくるのです。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということはあとでわかるでしょう。しかし利子の場合にはこのようなことはなにも生じないのです。いますぐ見ますように、逆に、質的な分割が、剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのです。 〉

 【このパラグラフは非常に長いのであるが、内容的には幾つかにわけることができそうである。平易な書き下し文ではそうした意図のもとに改行を入れておいた。それぞれの部分に番号を打って、その内容を吟味しておこう。
  (1)まずここでは一国の支配的な利子の中位的な平均率というようなものは、どんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。そしてこの点で、利潤の自然率とか賃金の自然率というようなものと同じような意味で利子の自然率というようなものは存在しないのだと主張されている。つまりここでは需要と供給の一致というようものは全然なにも意味していないというのである。
  (2)そしてこの需給の一致というものは、他の場合は、われわれが競争に作用されないで、むしろ競争を規定する原則を見いだすために必要な定式なのであり、そうした競争のなかでさまざまな諸観念に捕らわれている人たちに、その内的な関連を示すための、あるいはそうしたものに到達するための方法でもあるという説明がある。
  (3)しかし平均利子率の場合には、まったくそうした定式は意味がないと指摘する。つまり貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係というものが、利子が何%になるとか、あるいは利潤のうちの何%を利子として支払う必要があるということを規制するわけではないと述べている
  (4)次ぎにこれは一般的な形で、競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的なものだ、との指摘がある。だからそれを何か必然的なものとして説明するのは、ただ衒学的な馬鹿話か妄想だけだ、と。
  (5)次はやや話は変わって、そうした実際に衒学的な馬鹿話の例として、議会報告の紹介がされている。
  (6)ここでは習慣や法律的な伝統などが、中位の利子率の規定に関係することがあるという場合について述べている。これは例えば法律上の係争事件で、損害賠償金の計算の時に、一定の利子率にもとづいて計算する必要があるが、そうした利子率のことであろう。しかしこうした問題は競争の項目で考察されるべきだと指摘されている。
  (7)ここからはどうして平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な法則から展開することはできないのか、その理由が説明されている。それはまず利子の性質のうちにその理由があるとされている。利子は平均利潤の一部でしかないこと、しかし同じ資本が二重の規定として現れること、一つは貸付資本、もう一つは産業資本あるいは商業資本である。
しかしそれは実際に利潤を生むのはただ一度だけであり、それが生産過程にあるときである。しかし生産過程にあるときには、貸付可能な資本としては何の役割も演じないこと、だからこの生産される利潤にたいする要求権をもつ二人の人物がこれをどのように分けるかは、純粋に経験的な事実なのだと説明されている。
  (8)次ぎに、ここでは利潤率の規定は、剰余価値と労賃とに、生産された価値が分割されることから決まるが、この分割はまったく違った要素として互いに限界付けあっていること。つまり質的な区別から、その量的な分割が出てくるのだが(そしてそれは地代と利潤との分割にもいいうるが)、利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。むしろ質的な分割が、量的な分割から出てくるとの指摘がある。

  ところで注解⑫は「競争の項目」についての長い説明がある。この注解そのものは別の注解を見よという指示だけだが、大谷氏によるその参照指示された注解の長い紹介がある。
  この注解の主旨は、要するにここでマルクスが〈それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである〉と述べている「競争の項目」とは、最終的には『資本論』が対象としたものとは別に考えられていた、〈もろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった〉ものを指しているのだ、ということである。
  それを説明するために『経済学批判要綱』当時のプランからその変遷を説明して、最終的には当初のプランの「資本一般」が「資本の一般的分析」(『資本論』)へと変遷する過程で、「資本一般」と区別されていた「競争」「信用」「株式資本」などの一部は、「資本の一般的分析」(『資本論』)の中に取り入れられ、それ以外ものはそれぞれの特殊研究として保留されたということである。こうしたプランの変遷過程については大谷氏によって何度も考察されているが、それは佐藤金三郎氏が最初に主張されたことだと大谷氏も指摘している。そこで参考のために大谷氏の生前最後の著書となった『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』に所収された「第13章 書評・佐藤金三郎著『『資本論』研究序説』」から関連する部分を紹介しておこう。

  〈第1部冒頭の「「経済学批判」体系と『資本論』」(1954年)は,『経済学批判要綱』の考証的検討を通じて「プラン問題」に独自の見解を示して論議のその後の流れにきわめて大きな影響を与え,また『資本論』形成史研究と呼ばれる領域を新たに切り開いたものであった。それまでほぼ通説であった久留間鮫造氏に代表される『資本論』=「資本一般」説にたいして,著者の新見解は,『資本論』は依然として「資本一般」ではあるが,「資本一般」の内容は著しく拡充され,「競争」・「信用」・「土地所有」・「賃労働」の諸考察は,「資本一般」としての『資本論』に取り入れられたそれらの基本規定と,『資本論』の外に残されているそれらの「特殊研究」とに「両極分解」した,というものであった。
  著者はその後も研究を重ね,最後のシンポジウム報告(1987年)でその到達点を公開した。そこでは著者は,「両極分解」説を維持したうえで,『資本論』を「資本一般」だとしていた点については,『要綱』ののち「資本一般」の意味がしだいに変わっていった結果,この概念そのものが使われなくなったとし,『資本論』は「資本の一般的分析」と特徴づけられるべきだ,と述べている。当初プランで「資本の一般的分析」に当たるのは,第1篇「資本一般」だけではない。第1部「資本」全体,さらに3大階級の経済的基礎の分析が完了するはずの前半3部もそう見ることができる。だから著者はここで,「『資本論』は「資本一般」ではないと言ったほうがいい」と言い切ったのである。こうしてプラン問題について著者が最後に到達したのは,事実上,当初の「経済学批判」体系は,「競争」~ 「賃労働」の諸項目の「両極分解」を経て,「資本の一般的分析」としての『資本論』に終わった,というプラン「変更説」であった。
  評者(大谷--引用者)はこの結論に同意する。そのうえで,著者のこの結論の含意は,さらに次のように明示されるべきだと考える。すなわち,当初の「資本一般」とは,「多数の諸資本」を捨象した「一つの資本」,「国民的資本」,「社会的資本」という,分析対象の一般性の規定であって,その分析ののちに「多数の諸資本」を前提した諸分析がなされてはじめて「資本の一般的分析」として完了しうるはずのものであったが,それにたいして,「資本の一般的分析」とは,資本の「特殊的分析」・「特殊研究」にたいするもの,すなわち分析・研究の一般性の規定であって,『資本論』は「資本の一般的分析」として完結すべき性格のものであった,ということである。(以下、略)〉(567-568頁)】


【31】

 〈[435]/297下/〔原注〕g)すでにマッシーもこの点については十分に正当に次のように言っている。--「この場合にだれかが疑問とするかもしれないただ一つのことは,これらの利潤のどれだけの割合が正当に借り手のものであり,どれだけが貸し手のものであるかという問題である。そして,これを決定するには,一般の借り手と貸し手との意見によるほかにはなんの方法もない。なぜならば,正も不正も,この点では,ただ一般的な同意が正とし不正とするものでしかないからである。」(同前,49ページ。)〔原注g)終わり〕|〉 (238頁)

  【これは原注であるが、ほぼマッシーからの抜粋なので、平易な書き下し文は不要であろう。これは〈一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない〉という部分に対する原注であり、同じことはすでにマッシーによって指摘されているというものである。】


【32】

 [436]298下|〔原注〕a)たとえば,オプダイク,アルント,等々を見よ。--G.オプダイク経済学に関する一論』,ニューヨーク,1851年,は,5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとする,極度に失敗した試みをやっている。それよりもはるかに素朴なのは,『独占精神と共産主義とに対立する自然的国民経済,云々』,ハーナウ,1845年,のなかでのカール・アルント氏である。そこには次のようなことが書いてある。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことか!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」(同上,124,125ページ。)これは,「森林起源的利子率」と名づけられるのに値いする。そして,その発見者はここに引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「畜犬税の哲学者」の名にも値いさせているのである[420.421ページ]。〔原注a)終わり〕

  ①〔注解〕マルクスはここで,ジョージ・オプダイクの著書『経済学に関する一論』,86-87ページでの次の章句をほのめかしているのかもしれない。--「ある個人が貨幣を他人に貸し付けるとき,よく知られていることであるが,彼はそれのサーヴィスまたは使用にたいして,利子と呼ばれる報酬を受け取る。この報酬は,通常,貸し付けられた額にたいする年率で3%から9%のあいだ--ときとして異常な事情がこの率を短期間のあいだこれらの限度を越えさせることもあるが--のどこかにある。だから,その中間点は約6%である。だが,租税や損失の危険にたいしてさらに1%を差し引けば,貨幣の形態にある資本の平均的な純収入として,年率5%が残る。さて,貨幣と,生産的資本のその他のあらゆる形態とは,それらの所有者たちによって随意に,互いに等しい諸部分が交換されることができるし,また交換されているので,このことから,年率5%は,あらゆる種類の生産的資本の中間的純収入だ,ということになる。また生産的資本と土地とは等しい諸部分が相互に交換されるのだから,このことから,土地の純年間収入はほぼ5%だ,ということになる。」
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1502.23-27)から取られている。〉 (238-239頁)

 〈衒学または妄想だけが偶然的なものを何か必然的なものとして説明しようとする例としてあげることができるのは、たとえば、オプダイク、アルント等々です。オプダイクは5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとして、極度に失敗した試みをしています。それよりはるかに素朴なのは、アルント氏の次のような説明です。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことでしょう!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」これは「森林起源的利子率」と名づけられるのに値するものです。そしてその発見者はここの引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「蓄犬税の哲学者」の名にも値させているのです。〉

 【これは〈競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである〉という一文につけらた原注である。つまり〈衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができる〉例としてオプダイク、とくにアルントの主張を滑稽なものとして紹介している。
  オプダイクについては、注解①が詳しくその主張を紹介している。
  アルントについて、最後にマルクスが〈「畜犬税の哲学者」〉と紹介している文言について、大谷氏は訳者注で、次のように説明している。

  〈「「畜犬税の哲学者」」--アルントはその著書の420-421ページで,犬は,放たれていると人間の交通の余地を狭くし,吠えたり噛んだりすることで公衆を困らせ,狂犬となって人間生活を脅かし,そのエサの消費で人間の食物を制限するのだから,有用な目的なしに犬を飼う人びとに畜犬税を課すのが道理である,と書いている。マルクスはこれを皮肉っているのである。〉 (239頁)

  なお注解②によれば、このアルントについての抜粋は61-63草稿からとられているということだから、その原文も見ておこう(しかしMEGAの注解等は省略)。

  〈「われわれの科学」を「用心深く」発展させるこの同じ人(アルントのこと--引用者)は、次のようなおもしろい発見をしている。
 「財貨生産の自然的な行程では、利子率を--まったく開拓された国々において--ある程度まで調整するべく定められているように見えるただ一つの現象がある。--それは、ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によって増加する割合であって--この生長は、まったくその交換価値にはかかわりなしに(樹木の生長を「交換価値にかかわりなしに」調整するとは、なんとこっけいなことだろう!) 3%ないし4%の割合で行なわれる。--だから、これによれば {というのは、たとえ樹木の交換価値がどんなにその生長によって定まろうとも、その生長はその「交換価値にはかかわりがない」のだから!} 現在それ(利子率)が貨幣の最も豊富な国々で到達している高さよりも低く下がることは、期待できないであろう。」(同前、124、125ページ)
  これは「森林から発生した利子率」と名づけるに値する。そして、その発見者は、はこに引用した「われわれの科学」に関する著作のなかで「畜犬税」の哲学者としても世の注目を浴びたのである。〉 (草稿集⑦483頁)】


【33】

 〈〔原注〕b)イングランド銀行は,バンク・レートbankrate〕を,(もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらであるとはいえ),地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりする。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論,云々』,113ページ。)〔原注b)終わり〕/〉 (239-240頁)

 〈イングランド銀行は、バンク・レートを、もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらではありますが、地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりします。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕〉

 【これは〈イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句〉や〈きまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっている〉という一文につけらた原注である。本文では議会報告の〈サミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言〉が取り上げられていたが、しかし現実の利子率、つまりイングランド銀行のバンクレートそのものは、貨幣市場での支配的な利子率を顧慮しながらも、地金の流出入によって上下させていることを指摘し、これによって利子率の変動を予想しての割引投機が、ロンドンの巨頭たちの取り引きの半分を占めるようになったというヘンリ・ロイの一文が紹介されている。
  イングランド銀行が地金の流出入に応じてバンクレートを上下させたというのは、1844年のピール銀行条例によって、1400万ポンド以上のイングランド銀行券の発行については同銀行の地金保有高に応じて発行するように発行高の上限が制限されたからである。同行の銀行部は他の市中銀行と同じように貸し付け業務を行っていたが、当時の貸し付け業務の主要な内容は、手形の割引業務であり、その割引率を規定するのがバンクレートである。だから銀行業者たちは民間業者が持ち込む手形の割引率をどうするかについて、その時々の利子率の変動を見越して投機的な取り引きを行い、将来利子率が下がると予想すれば、今の相対的に高い利率での割引数を増やし、その反対であれば、今の低い利率での割引を控えようとする等々の操作を行い、それで儲けようとしたということである。そうした投機による取り引きが、取り引きの半分を占めるほどになったというわけである。しかしそれが投機の対象になることを考えても、利子率の変動に何か一定の法則性があるわけではないということである。】

 (続く)

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