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2019年7月 7日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第50パラグラフからである。


【50】

 |292上|これまでの考察は,所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるだけである。今度は利子を考察しなければならない。

  ①〔異文〕「所有者と」← 「貸し手と」〉 (197-198頁)

 〈これまでの考察は、所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるものだけでした。今度は利子を考察することにしましょう。〉

 【これまでは利子生み資本の考察を行い、それに固有の運動を考察してきたが、ここからは話を転じて、「利子」の考察に移っている。】


【51】

 貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡す。彼が第三者に譲渡する商品は,資本であって,だからこそ彼のもとに還流する〔returniren〕のであり,売られるのではなくて,一定期間のあいだ貸し付けられるだけである。しかし,その額がただ帰ってくるだけでは,それは貸し付けられた価値額の資本としての還流〔return〕ではなくて,貸し付けられた価値額のたんなる返済であろう。資本として還流する〔returniren〕ためには,ただ前貸された価値額が,運動のなかで自分を維持しただけではなく,運動のなかで自分を増殖し,その価値量をふやしていなければならず,つまり剰余価値を伴って,G+△Gとして帰ってこなければならない。そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である。

  ①〔異文〕「帰ってくる〔Rückkehrung〕」← 「返済[される]〔Rückzahl[ung]〕」
  ②〔異文〕「貸し付けられた価値額の」← 「資本の」〉 (198頁)

 〈貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡します。彼が第三者に譲渡する商品は、資本なのです。だからそれは彼のもとに還流します。それは売られるのではなく、一定期間のあいだ貸しつけられるのです。しかしその額がただ帰ってくるだけでは、それは貸しつけられた価値額の資本としての還流とはいえません。ただ単なる貸しつけられた価値額のたんる返済でしょう。それが資本として還流するためには、前貸しされた価値額が、運動の中で自分を維持するだけではなく、運動の中で自分を増殖し、その価値額をふやしていなければなりません。つまり剰余価値を伴って、G+ΔGとして帰って来なければならないのです。そしてこのΔGこそ利子なのです。これは利潤(平均利潤)のうちの機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分なのです。〉

 【まずここでは利子とは何かを規定している。それは利子生み資本が貸しつけられて、資本として機能する過程での増殖分であり、よって機能資本家が彼が獲得した利潤(平均利潤)のうち、彼の手に留まっていないで貨幣資本家のものになる部分だとしている。それは金額的には平均利潤から企業利得を差し引いたものに該当するが、しかし機能資本家にとってはまず利子支払があり、そして残った部分が自分の取り分(企業利得)となるのであって逆ではない。だからマルクスは利子を説明して〈そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である〉というややまどろっこしい説明をしているわけである。これは生産的資本家に利潤が還流しても、その一部は生産的資本家の手にとどまっていないでそのまま貨幣資本家へと還流してしまう部分として機能資本家には意識されるということなのである。それがすなわち「利子」なのだというわけである。】


【52】

 〈それが資本として彼によって譲渡されるということは,それがG+△Gとして彼に還流させられなければならないということである。{中間の時期に利子は還流する〔returniren〕が,資本は還流しないという形態は,あとでもう一度別に考察されなければならない。}〉 (198-199頁)

 〈それはすでに何度も述べたが、資本として彼(貨幣資本家)によって譲渡されるのです。だからそれはG+ΔGとして彼に還流しなければならないのです。(もちろん、中間の時期に利子だけが還流して、資本は還流しないという形態もありますが、そうしたものはもっとあとで別に考察されなければなりません。)〉

 【ここでも利子生み資本は、あくまでも資本として第三者に譲渡されるということが強調されている。だからそれは利子を伴って還流しなければならないのである。また利子だけが還流して、もとの資本はある一定の時期を待って還流する場合や、あるいは利子と共にもとの資本の一部分ずつが少しずつ還流するというような形態、つまり資本と利子の還流の諸形態そのものはもう一度別に考察するとの断りがなされている。】


【53】

 〈貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,借り手〔Leiher〕である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである。〉 (199頁)

 〈貨幣資本家は、借り手である生産的資本家に何を与えるのでしょうか。前者は後者に実際には何を譲渡するのでしょうか。そして、ただこの譲渡という行為(その内容)だけが、貨幣の貸付を、資本としての貨幣の譲渡に、つまり商品としての資本そのものの譲渡に、するのです。〉

 【貨幣資本家は、生産的資本家に何を与えるのか? との問いが発せられている。それは実際には貨幣を譲渡するのであるが、その貨幣は平均利潤を生むという独特の使用価値をもっている。だから前者は後者に何を譲渡するのか、といえば、それは資本として利潤を生む使用価値を譲渡するわけである。しかしその使用価値の実現というのは、その貨幣を資本として機能させるということであって、新たな増殖された価値として還流させるということである。ただここでマルクスが〈そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と述べている意図がいま一つはっきりしない。これでマルクスは何を言いたいのであろうか。そこで〈ただ譲渡という行為だけが〉というのは、その譲渡の内容、何が譲渡されるかということこそが、〈資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と理解すれば、譲渡の内容、つまり平均利潤を生むという独特の使用価値が譲渡されるという内容が問題であることが分かるのではないかと思う。】


【54】

 資本が貨幣の貸し手によって--monied Capitalの形態で〔--〕商品として手放されるということ,または,彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは,ただこの譲渡という過程〔Prozeβ〕によってのみ行なわれるのである。〉 (199頁)

 〈資本が貨幣の貸し手によって、moneyed capitalという形態で、商品として手放されるということは、あるいはまた、彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは、ただこの譲渡という過程によってのみ行われるのです。〉

 【ここでも先のパラグラフにつづいて、「譲渡」という行為、あるいは過程が強調されている。こうした譲渡の強調にはどういう意図があるのか。これは【53】パラグラフで〈前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? 〉と問いながら、それにはっきりとした回答を与えているようには思えないことや。またそれに続く一文〈ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉も、譲渡が譲渡にするという同義反復のような文章になっていることなど、不可解なことが続く。しかしいずれにせよ平均利潤を生むという独特の使用価値を譲渡するから、それは〈資本としての貨幣の譲渡に〉なるということ、あるいは商品としての資本そのものの譲渡にする〉ということであろう。】


【55】

 普通の販売ではなにが譲渡されるのか? 売られる商品の価値ではない。というのは,この価値はただ形態を変えるだけだからである。この価値は,①現実に〔reell〕貨幣の形態で売り手の手に移る前に,価格として観念的に〔ideell〕商品のなかに存在している。同じ価値,そして同じ価値量が,ここではただ形態を取り替えるだけである。同じ価値,同じ価値量が一度は商品形態で存在し,もう一度は貨幣形態で存在する。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費にはいって行く)ものは,商品の使用価値であり,使用価値としての商品である。

  ① 〔異文〕「〔……〕ではなくて〔nicht〕」という書きかけが消されている。〉 (199頁)

 〈普通の商品の販売では何が譲渡されるのでしょうか? 売られる商品の価値ではありません。というのは商品の価値はただ形態を変えるだけだからです。この価値は、現実に貨幣の形態で売り手の手に移る前に、価格として観念的に商品のなかにあります。同じ価値、そして同じ価値量が、ここではただ形態を取り替えるだけです。同じ価値、同じ価値量が一度は商品の形態で存在し、もう一度は今度は貨幣の形態で存在します。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費に入っていく)ものは、商品の使用価値であり、使用価値としての商品なのです。〉

 【このパラグラフで利子生み資本では何か譲渡されるか、と問うた【53】パラグラフの問いかけに答えるために、まずは普通の商品の販売では何が譲渡されるのかを問題にしている。それは商品の価値ではなく、その使用価値だというのがマルクスの回答である。だからまた利子生み資本としての一定の価値額の譲渡も、それの資本としての使用価値の譲渡なのだというのがマルクスが次ぎにいいたことなのであろう。つまり資本としての使用価値、平均利潤を生むという使用価値を譲渡するのだ、というのがマルクスが言いたいことで、それを強調するための展開なのである。ただこうしたことは利子生み資本そのものの規定で言われてきたことでもあるのであり、今は利子を考察する観点からもう一度問題にするということであろうか。】


【56】

 〈それでは,貨幣資本家〔monied capitaist〕が貸出期間のあいだ譲渡して,借り手〔Leiher〕である生産的資本家に譲る使用価値とはなにか?〉 (200頁)

 〈それでは貨幣資本家が貸出期間のあいだ譲渡して、借り手である生産的資本家に譲る使用価値とは何でしょうか?〉

 【利子生み資本としては、貨幣が独特の商品として第三者に引き渡される。この譲渡は何を譲渡するのか、普通の商品の販売では、価値は譲渡されず、その使用価値が譲渡されるのだが、利子生み資本としての貨幣の場合、商品としての貨幣の譲渡では、譲渡される使用価値とは何か、という問いであるが、これは利子生み資本の概念そのものを考察してきたものにとっては明らかである。それは平均利潤を生むという使用価値である。】


【57】

 〔それは,〕貨幣が資本に転化させられることができ,資本として機能することができる,ということによって,したがってまた,貨幣が自分の元来の価値量を維持し,保存する〔conserviren〕ことを別として,その運動中に一定[424]の剰余価値--平均利潤(それよりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然として,また資本としての資本の機能には外面的なこととして現われる)〔--〕を生むということによって,貨幣が受け取る使用価値〔である〕。

  ①〔異文〕「自分自身を」という書きかけが消されている。〉 (200頁)

 〈利子生み資本においては、譲渡される使用価値というのは、その譲渡される貨幣が資本に転化させられることができ、資本として機能することができるということです。貨幣が自分の元来の価値を維持し、保存するだけではなく、その運動のなかで一定の剰余価値を生むということ、それが商品としての貨幣の使用価値なのです。この剰余価値が平均利潤よりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然のこととして、また資本としての機能にとっては外面的なこととして現れますので、考慮する必要はありません。〉

 【これまでマルクスは「譲渡」ということを強調して、何を譲渡するのかと問うてきたが、それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値が譲渡されるのだということがここで明らかにされている。しかしこれらの考察は果たして利子そのものの考察としてどれだけ必要なものなのかはいま少しよく分からない。】


【58】

 〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家〔monied Capitalist〕は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである。〉 (200頁)

 〈このような、資本としての貨幣の使用価値、平均利潤を生むという使用価値、を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのです。この期間中は、前者は後者に貸しつけた資本の処分能力を譲るのです。〉

 【ここでようやく【53】パラグラフで発せられた問いに対する回答が与えられている。しかしこれはある意味では利子生み資本そのものの概念に含まれることでもあったのではないだろうか。なぜ、ここでそれが再び強調されるのか、それが問題である。しかしそれは先に進む中でおいおい明らかになるのであろう。】


【59】

 このようにして貸し付けられる貨幣は,そのかぎりでは,労働能力が生産的資本家にたいしてもつ地位と次のような類似点をもっている。(ただし,後者は労働能力の価値を支払うのであるが,生産的資本家は貸し付けられた資本の価値を単純に返済するのである。)生産的資本家にとっては,労働能力の使用価値は,労働能力自身がもっているよりも,また労働能力に費やされるよりも,より多くの価値(利潤)をその消費〔Consumtion〕のなかで生みだすということである。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値である。こうして同様に,前貸された貨幣資本の使用価値も,やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現われるのである。|

  ①〔異文〕「交換価値」← 「価値」〉 (200-201頁)

 〈このような利子生み資本がこのよう使用価値を持つものとして貸しつけられるということは、そのかぎりでは、労働能力が生産的資本家に対してもつ地位と次のよう類似点をもっています。(ただし、後者の場合は生産的資本家は労働能力の価値を支払うのであって、それを借り受けるのではありません。それに対して、利子生み資本では、生産的資本家は貸しつけられた資本の価値を単純に返済するのです)。生産的資本家にとっては、労働能力の使用価値は、労働能力自身がもっているよりも、また労働能力に費やされるよりも、より多くの価値(利潤)をその消費の中で生み出すということです。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値です。これと同様に、利子生み資本の場合も、前貸しされた貨幣資本の使用価値も、やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の貸付で譲渡されるのは、貨幣の資本として機能するという使用価値であることが確認されたが、こうした使用価値は、労働力の使用価値との類似点があるということが指摘されている。ただ労働力に対しては生産的資本家はその価値を支払うのだが、利子生み資本の場合はその貨幣額を貸しつけられるだけで、だから彼はそれを一定期間後にはただ返済するだけである。しかし生産的資本家にとっては労働能力の使用価値というのは、それがもっている価値以上の価値を生み出すという能力であり、その使用価値の実現、消費の過程で、資本家は剰余価値を得るのである。だから生産的資本家にとっての労働能力の使用価値というのは、この超過分(利潤)である。それと同じように、利子生み資本の場合も、その貸しつけられる貨幣の使用価値は平均利潤を生むというものであり、生産的資本家はその使用価値を実現して、利潤を得るわけである。】


【60】

 |293上|貨幣資本家〔monied capitalist〕は,じっさい,ある使用価値を譲渡するのであって,そうすることによって,彼が手放すものは商品として手放されるのである。そして,そのかぎりでは,商品としての商品との類似は完全である。1)一方の手から他方の手に移るものは価値である。普通の商品,商品としての商品の場合には,買う人の手にも売る人の手にも同じ価値がとどまっている。というのは,彼らは両方とも相変わらず,自分たちが譲渡したのと同じ価値を,ただし異なった形態で,つまり一方は商品形態で,他方は貨幣形態で,取り戻すのだからである。区別は,ただ貨幣資本家〔monied capita1ist〕のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということであるが,しかし彼は,返済〔repayment〕によってこの価値を保持する〔conserviren〕のである。一方の側だけによって価値が受け取られることができるのであるが,それは,この貸付という取引においては,一方の側だけによって価値が手放されるからである。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され,他方の側ではそれが受け取られて消費される〔erhalte u.consummirt werden〕。しかし,商品としての商品の場合とは違って,この使用価値はそれ自身が交換価値である。すなわち,(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分である。利潤はこの使用価値である。

  ①〔異文〕「彼が譲渡してしまうものは〔das,waserveraussertweg〕」という書きかけが消されている。〉 (201-202頁)

 〈貨幣資本家は、じっさい、ある使用価値を譲渡するのです。そうすることによって、彼が手放すものは商品として手放されるのです。そして、そのかぎりでは、商品としての商品との類似は完全です。なぜなら1)一方の手から他方の手に移るものは価値だからです。普通の商品、商品としての商品の場合には、買う人の手にも売る人の手にも同じ価値が留まっています。というのは、彼らは両方とも相変わらず、自分たちが譲渡したのと同じ価値をただ異なった形態で、つまり一方は商品形態で、他方は貨幣形態で、取り戻すのだからです。区別は、ただ貨幣資本家のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということですが、しかし彼は、返済によってこの価値を保持するのです。一方の側だけによって価値が受け取られることができますが、それはこの貸付という取引においては、一方の側だけによって価値が手放されるからです。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され、他方の側ではそれが受け取られて消費されます。しかし、商品としての商品の場合とは違って、この使用価値はそれ自身が交換価値なのです。つまり、(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分のことです。だから利潤はこの商品の使用価値なのです。】

 【ここでは貨幣資本家が譲渡する商品の使用価値の独特の性質を、普通の商品の売買と比較しながら、明らかにしている。それは確かに普通の商品の売買と類似しているが、しかし明らかに異なる点もあると指摘されている。まず類似点としては、それは商品として手放されるという点である。また手放されるのは商品の使用価値だということも類似している。しかし区別される点は、普通の商品の売買の場合は、価値は手放されないということである。しかし利子生み資本では価値そのものが手放されるわけである。しかしその代わりに手放される価値は、返済という形でもとに戻されなければならない。もう一つの区別は、普通の商品の場合、譲渡される使用価値は、購買者によって個人的に消費されるか、あるいは生産的に消費される。しかし利子生み資本の場合に譲渡される使用価値というのは、平均利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用価値の消費過程というのは、それを資本として機能させるということである。つまりその使用価値というのはそれを資本として機能させることによって生じる利潤こそがそれだとマルクスは指摘しているのである。】


【61】

 〈貸し出される貨幣の使用価値は,資本として機能することができるということ,資本として平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということである。a)/〉 (202頁)

 〈貸し出される貨幣の使用価値というのは、資本として機能することができるということです。つまり平均的事情のもでは平均利潤を生産するということです。〉

 【ここでも基本的には同じことが指摘されている。つまり利子生み資本で譲渡される貨幣の独特の使用価値というのは、それが資本として機能することかできるということである。平均利潤を生むことができるという使用価値なのである。】


【62】

 |293下|〔原注〕a)「利子を取ることの正当さ〔equitableness〕は,人が利潤をあげるかどうかによって定まるのではなく,それ」(借りられるもの)「が正しく使われれば利潤を生むという能力があるということによって定まるのである。」(『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この論題に関するサー・W.ペテイおよびロック氏の意見の検討』,ロンドン,1750年,49ページ。)(この書の匿名の筆者は,J.マッシーである。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用はカール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から取られている。(MEGAII/3.6,S.2125.14-16.)〉 (202頁)

 【これは原注でほぼ引用だけなので、特に平易な書き下しは不要であろう。この原注は【61】パラグラフに〈資本として機能することができる〉ということを、〈平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということ〉という説明と関連して付けられたものであろう。この原注では、利子は貸し出された資本がじっさいに利潤を得るかどうかではなく、それが正しく使われるなら利潤を生む能力があるということによって決まるのだと指摘されている。だから貸し出された貨幣が正当に資本として使用されなくても、しかし借り受けた人は利子を支払う義務を負うわけである。この原注は注解によれば61-63草稿からとられているが、その内容をもう少し長く抜粋して紹介しておこう。なかなか興味深いことが語られているからである。

 利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と関われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と問われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑧363-365頁)】

 (以下、続く)

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