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2019年7月14日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10)

『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第73パラグラフからである。

 

【73】

 〈しかし,ここで資本そのものが商品として現われるのは,資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことである。しかし,資本の使用価値そのものは,利潤を生む〔setzen〕ということである。十十)/〉 (209頁)

 〈しかし、ここで資本そのものが商品として現れるのは、資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことです。そして資本の使用価値というのは、利潤を生むということです。〉

 【ここでも資本そのものが商品として現れるとマルクスは明確に述べている。というのはその使用価値が利潤を生むからだというわけである。宇野は利子生み資本というのは、貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではない。資本が商品になるりうるのは、国債や株式などについて言いうるのだと主張する。確かに一般には貨幣の貸し借りの市場を貨幣市場といい、資本市場というのは、国債や株式などの売買市場を意味するのだが、宇野の主張はただこうした常識的な意識をもとにしたものでしかないのである。しかしマルクスの利子生み資本の概念は、貨幣が資本として貸し付けられるというところに眼目があるのである。だからこそ貨幣は資本として商品になるのである。貨幣が利潤を生むという使用価値を持っているから、つまりその価値を維持するだけではなく、増殖して貫流するからこそ、すなわち資本という属性によって、それは商品になるのである。】


【74】

 〈/294下/十十)資本としての貨幣または商品の価値は,貨幣または商品としてのそれらの価値によってではなく,それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量によって規定されている。資本の生産物は利潤である。貨幣が貨幣として支出されるか,それとも資本として支出されるかは,資本主義的生産の基礎のうえでは,ただ貨幣の使い方Anwendung〕の相違でしかない。貨幣(商品)は,即自的に資本なのである(それはちょうど労働能力が即自的に労働であるようなものである)。というのは,1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ,そのままで生産諸条件のたんに抽象的な表現であり,価値としての生産諸条件の定在だからである。また,2)富の対象的諸要素は,資本であるという属性を即自的にもっているからである。なぜならば,それらの対立物--賃労働--が,それらを資本にするものが,社会的生産の基礎として現存しているからである。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は,過程そのものから引き離されて,資本所有そのものに表現されている。この一契機,それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり,またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのであるが,この契機は,もっぱら,資本主義的生産過程そのものからは引き離されて,次のことに表わされているのである。すなわち,貨幣,商品は,即自的に,潜在的にlatent〕,資本であるということ,それは資本として売られることができるということ,また,それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権〔Commando〕であり,したがってまた自分を増殖する価値であるということである{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになる。すなわち,この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり,資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということである。〔十十)による追記部分終わり〕/

  ①〔異文〕このテキスト補足は手稿のこのページの下部に書かれており,原注a)に続くものである。それは++という標識によってこの箇所に関係づけられている。〉 (209-211頁)

 〈資本としての貨幣または商品の価値(価格=利子)は、貨幣または商品としてのそれらの価値 によってではなく、それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量(利子)によって規定されています。資本の生産物は利潤です。貨幣が貨幣として支出されるか、それとも資本として支出されるかは、資本主義的生産の基礎のうえでは、ただ貨幣の使い方の相違でしかありません。貨幣(商品)は、ただ即時的に(可能性として)資本なのです。(それはちょうど労働能力が即時的に(可能性として)労働であるようなものです)。というのは、1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ、そのままで生産諸条件の単に抽象的な表現であり、価値としての生産諸条件の定在なのだからです。また2)富の対象的諸要素は、資本であるという属性を即時的にもっているからです。なぜなら、それらの対立物である賃労働が、それらを資本にするのですが、それが社会的基礎として現存しているからです。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は、過程そのものから引き離されて、資本所有そのものに表現されています。この一契機、それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのですが、この契機は、もっぱら、資本主義的生産過程そのものからは引き離されて、次のように表されているのです。つまり、貨幣、商品は、即時的に、潜在的に、資本であるということ、それは資本として売られることができるということ、また、それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権であり、したがってまた自分を増殖する価値であるということです。{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになります。つまり、この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり、資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということです。〉

 【このパラグラフは下段に書かれているが、先のパラグラフ(【73】)の追記をなしているから本文である。しかしここで書かれていることは、なかなか難しく理解が容易ではない。
  ここではマルクスは、貨幣(商品)は、即時的(潜在的)に資本なのだが、それはどうしてそうなのか、ということを明らかにしようとしている。まず第一に、それは生産諸条件に転化することができるから、そして第二に、富の対象的諸条件(生産手段等)は、資本であるという属性を即時的(潜在的)にもっているから、とまず説明する。しかしそれらを資本にするのは、そもそも社会的基礎としてそうした条件があるからだという。しかもそうした対立的な社会的規定性は、過程そのものから、つまり資本主義的生産過程そのものから引き離されて、ただ貨幣や商品は、潜在的(可能的)に資本であり、資本として売られるという形で表されているというのである。それらが資本であるのは、労働の対象的諸条件が資本として労働に対立し、労働が賃労働になっているからであるが、それは資本所有そのものに表現されているのだとも指摘されている。そしてこの資本所有というのは、資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、この過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのだが、しかし資本所有というのは、それ自体としては資本主義的生産過程そのものからは引き離されて表現されるのだというのである。
  ようするに、ここでマルクスが言いたいことは、貨幣(商品)が資本として売られるということは、資本主義的生産過程を前提するが、それらが資本としてあるということ自体は、資本所有そのものにあるのであって、その限りでは資本主義的生産過程そのものからは引き離されていること、だから利子生み資本としての資本の運動は、生産過程とは直接関係しない資本関係なのだということである。資本が資本であるのは生産過程で剰余価値を生産することである。それがすべての基礎であり、社会的生産の基礎である。しかし貨幣や商品が即時的(潜在的)に資本だという場合、そうした社会的規定性を前提しながらも、しかし直接にはそれとは切り離された関係として表されているのだというのである。
  だからそれらが資本であるというのは他人の労働にたいする指揮権、だからまたそのことによって自分を増殖する価値であるということ、だからそれは他人の労働を取得するための権原、あるいは手段であるが、資本家がそのために何らかの労働をするということではないということだ、とも指摘されている。
  ここでマルクスが述べていることは、利子生み資本が再生産資本家たちとは外的な関係にあるということ、貨幣信用は再生産過程外の信用だということとも関連しているのである(それに対して商業信用は再生産過程内の信用なのである)。その意味では極めて重要な考察なのである。】


【75】

 [430]/294上/さらに,利子と本来の利潤とへの利潤の分割が,商品の市場価格と同様に,需要と供給によって,つまり競争によって規制されるかぎりでも,資本は商品として現われる。しかし,ここでは区別も類似と同様にはっきりと現われている。需要と供給とが一致すれば,商品の市場価格は生産価格に一致する。すなわち,そのとき商品の価格は,競争にはかかわりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現われる。というのは,需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかにはなにも説明するものではないからである。(これらの偏倚は相殺されて,いくらか長い期間について見れば平均市場価格は生産価格に等しい。)需要と供給とが一致すれば,これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり,麻痺させ合うのであって,そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現われる。言い換えれば,その場合には市場価格は,その直接的定在において,(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致する。労賃の場合にも同様である。需要と供給とが一致すれば,それらの規定は相殺されて,労賃は労働能力の価値に等しい。ところが,monied Capita1はそうではない。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく,競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば,のちにもっと詳しく見るであろうように,自然的利子率なるものは存在しないno natural rate of interest〕からである。利子率の自然的な率〔d.natural rate of interest〕というのは,むしろ,自由な競争によって確定されたもののことである。利子率の自然的限界natural limit of the rate of interest〕というものはないのである。競争がただたんに偏倚,変動〔Oscillationen〕を規定するだけではない場合,つまり,競争の相反する諸力が均衡したときに〔bei d, Equipoising〕規定することをやめてしまうのではない場合には,規定されるべきものは,それ自体として無法則なもの,任意なものなのである。(しかしこれについては2でもっと詳しく述べる。)

  ①〔異文〕「本来の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「一致すれば〔decken〕」← 「対応すれば〔entsprechen〕」
  ③〔異文〕「競争がそのような〔……〕として〔……〕場合〔Wo die Conkurrenz als so〕という書きかけが消されている。〉 (211-213頁)

 〈さらに、利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、商品の市場価格と同様に、需要と供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現れます。しかし、ここでは区別も類似と同様にはっきりと現れてきます。
  需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は生産価格に一致します。つまり、その時の商品の価格は、競争には関わりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れます。というのは、需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかには何も説明するものではないからです。(これらの偏倚は相殺されていきます。またいくらか長い期間についてみれば平均市場価格は生産価格に等しくなります。)需要と供給が一致すれば、これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり、麻痺させあうのであって、そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現れます。言い換えれば、その場合には市場価格は、その直接的定在において、(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致します。労賃の場合も同じです。需要と供給が一致すれば、それらの規定は相殺されて、労賃は労働能力の価値に等しい。
  ところが、moneyed capitalはそうではありません。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則はないのです。なぜならば、のちにもっと詳しく見るでしょうが、自然利子率なるものは存在しないからです。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定されたもののことです。利子率の自然的限界というものはないのです。競争がただたんに偏倚や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の相反する緒力が均衡したときに規定することをやめてしまうのではない場合には、規定されるべきものは、それ自体として無法則なもの、任意なものです。(しかしこれについては2(次の章)でもっと詳しく述べます。〉

 【ここでは普通の商品の市場価格が需要と供給によって、競争によって規制されるように、利子生み資本という商品もその需要と供給によってその価格(利子)が規定されるという点でも、それが商品として現れる理由でもあると述べたあと、しかし類似と同時に区別も明確になるとして、普通の商品の場合は需要と供給が一致した場合、商品の市場価格は生産価格に一致すること、その場合は商品の価格は資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れるが、しかし利子生み資本という商品の価格である利子率は需要と供給以外にそれを規制するものはない、とマルクスは指摘している。その理由としてはマルクスは後に詳しく見るといいながら、利子には自然利子率というようなものがないことをあげている。利子率には自然的限界というものはないとも述べている。そして競争がたんなる偏倚や変動を規定するだけではなく、競争の諸力が均衡してもその規制をやめない場合には、そうしたものはそれ自体、無法則なものであり、任意なものだとも指摘している。】


【76】

 利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現われる--資本の前貸は,貸し手から借り手への資本のたんなる移転〔transfer〕として現われ,実現された資本としての還流〔Return〕は,借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転〔Retransfer〕(返済〔repayment〕)として現われる--ように,利潤率は利潤の前貸資本価値にたいする割合によって規定されているだけではなく,利潤が実現される回転時間によっても規定されており,したがって生産的資本が一定の期間にあげる利潤として規定されている,という資本主義的生産様式に内在する規定も,〔利子生み資本では,〕外面的なものとして現われる。利子生み資本の場合には,このことはまったく外面的に,一定の期間について売り手に一定の||295上|利子が支払われるというふうに,現われるのである。

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「利子が」という書きかけが消されている。〉 (213頁)

 〈利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れます。資本の前貸しは、貸し手から借り手への資本のたんなる移転として現れ、実現された資本としての還流は、借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転(返済)として現れます。利潤率が利潤の前貸資本にたいする割合によって規定されているだけではなく、利潤が実現される回転時間によっても規定されているという、資本主義的生産様式に内在する規定も、利子生み資本では、外面的なものとして現れます。すなわち、利子生み資本の場合は、このことはまったく外面的に一定の期間について売り手に一定の利子が支払われるというふうに、現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるということが二点にわたって言われている。一つは資本の前貸しが単なる貸し手から借り手への資本の移転として現れ、実現された資本としての還流も、その逆移転(返済)として現れるからである。本来は資本の前貸しは、それを生産資本に転化し、生産諸条件(生産手段と労働力)に転化することだが、利子生み資本の場合はまったく外面的な単なる資本の移転として現れるだけであり、その還流も本来なら生産された商品資本の実現によって還流するが、利子生み資本の場合は、やはりただ借り手から貸し手への移転(返済)として現れるだけだということである。もう一つは、現実の資本の場合、利潤率は利潤の前貸資本に対する割合だけでなく、資本の回転時間によっても規定されるが、利子生み資本の場合は、資本の回転時間というのは、ただ貸し手と借り手とのあいだの法的約定にもとづいて、ただ外面的に一定期間後に利子が支払われるというような形で現れるわけである。】


【77】

 諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって,ロマン派のA .ミュラーは次のように言っている。--
  [431]「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」(アダム・H.ミュラー政治学要論』,ベルリン,1809年,第2巻,①138ページ。)

  ①〔訂正〕「138ページ」--草稿では「137,138ページ」と書かれている。〉 (213-214頁)

 〈緒物の内的関連を見抜く洞察力をもって、ロマン派のミュラーは次のように述べています。「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」〉

 【このパラグラフは明らかにその一つ前のパラグラフの後半で、回転時間も利子生み資本では外面的なものとして現れることに関連して書かれていることは明らかである。ただここでマルクスが引用しているミュラーの一文は、次のパラグラフで明らかになるように、決して肯定的に引用されているのではない。〈諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって〉という一文は、文字どおりの意味ではなく、マルクス一流の皮肉なのである。マルクスはミュラーは自分は物事の内的関連を見抜く洞察力を持っていると自負しているが、それを皮肉ってこのように述べているわけである。彼は利子の決定では時間が問題になると言いながら、価格の決定では時間は問題にならないと述べているのだが、しかしマルクスは価格の決定でも資本の回転時間は利潤率に影響し、よって商品の価格にも影響するのだと批判しているわけである。つまりミュラーは利子が一定の期間を経て支払われるという外面的な関係には気づいているが、しかし資本の利潤が資本の回転時間にも規定されているという内的な関連には気づいていないことを指摘しているわけである。】


【78】

 彼にわかっていないのは,労働時間流通時間諸商品の価格の規定にはいってくるということ,そしてまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ,しかしまた与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということである。彼の深い洞察は,ここでもまた,いつものように,ただ,表面の砂ほこりを見てこのほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものでもあるかのように言い立てることだけにあるのである。/

  ①〔異文〕「商品の価格の規定にさいして」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「表面の砂ぼこりを見てこのほこりだらけのものを」← 「表面を見てこのまったく表面的なものを」〉 (214頁)

 〈彼(ミュラー)にわかっていないのは、労働時間や流通時間が諸商品の価格の規定に入ってくるということです。またまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ、そしてこの与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということです。彼の深い洞察力は、ここでもまた、いつものように、ただ表面の砂ぼこりを見て、このほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものであるかのように言い立てるだけのことにあるのです。〉

 【この一文はその前のパラグラフと一体のものである。以上で、第21章該当部分の草稿は終わっている。つまりマルクスは利子生み資本ではすべてのものが外面的なものとしてあらわれるという指摘でこの節を締めくくっているわけである。これはこれで留意しておくべきことである。】

 


第21章該当部分(「1)」の部分)全体の構成と内容

 

 まずマルクスはこの章(マルクス自身は恐らく第5章の第1節と考えていたのだろうし、実際にはただ「1)」と番号が打たれているだけだが)を、まずこれからわれわれが平均利潤(率)という場合は、一般的利潤率の形成に商業資本も参加していることが前提されているのであり、その意味ではより完成された姿態で一般利潤率(平均利潤率)を考える必要があるということから書き始めている(【1】)。(しかし後に(【67】)マルクスは利子生み資本の関係を純粋に考察するために、貨幣資本家と生産資本家だけを前提すると述べて、利子生み資本を商業資本に貸し出すケースは除外しているのであるが)。これは要するに、この第5章(篇)は、第4章(篇)を前提としているということを指摘しているものと理解すべきであろう。
 次ぎに(【3】)、マルクスは貨幣は資本主義的生産の基礎上では資本に転化させられうることを指摘する。つまり資本家に労働者から不払労働、剰余価値を引き出して取得する能力を与えることを指摘する。そしてそれが貨幣がもっている使用価値のほかに追加される新しい使用価値だと述べている。貨幣は、商品を購買するという使用価値に、さらに資本として機能するという使用価値を受け取るわけである。{宇野は、貨幣は生産手段や労働力を購買することによって、つまり購買手段という使用価値によって資本になるのであって、だから貨幣そのものに資本として機能するというような使用価値はないと主張している。}
 そしてこのような可能的な資本としての、利潤を生産するための手段としての属性において、貨幣は商品になる、といっても一つの独特な種類の商品になると指摘し、同じことに帰着するが、資本としての資本が商品になるとしている。
 そしてこの最期の一文に注a)を付けて(【4】)、経済人が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきと注記している。そして『銀行法委員会報告』からイングランド銀行は「資本という商品を取り扱う非常に大きな商人ですね?」という一文を紹介している。
 つまり貨幣が資本として機能しうるという使用価値によって商品になるというのは、経済人が考えていることなのである。宇野はマルクス自身が貨幣が資本としての使用価値によって商品になると考えているかに、だから資本としての機能にもとづいて貨幣が商品として販売されることについても、それが貸付であることをマルクスが知らずに販売と捉えているかに論じているが、これはまったく不当な言いがかり以上ではない。貨幣が資本として機能するという属性によって商品になる、すなわち資本としての資本として商品になるというのは、経済人が経験的に抱いている外観なのである。もちろん、彼らはその内的な関連を知らないが、しかし経験的事実として銀行は資本という商品を取り扱う商人だと考えているわけである。
 マルクスはまずそうした当時の(といってもこうした外観は決して当時だけに限られないのだが)経済人たちが抱いていた外観(貨幣が資本として商品になるという)を前提し、事実として受け止め、なぜそれが商品として彼らに捉えられるのかというところから解明しようとしているのである。{ところが宇野は貨幣が資本として商品になるというのがマルクス自身の理解と考えている。だからマルクスが貨幣が商品として販売されるということを指摘していることに対して、それは販売されるのではない貸しつけられるのだなどと言って批判したつもりになっているのである。なんと馬鹿げた難癖であろうか。}
 次ぎに(【6】)、マルクスは100ポンド・スターリングを持っているということが、その所有者に利子を代償として要求する力を与えると指摘する。つまりここでは貨幣の資本としての規定性は、その資本所有そのものに表現されていると後に(【74】)マルクスが指摘していることが先取りされて述べられている。つまり貨幣が資本としての規定性をもつのは、その所有者がそれを資本として手放すということにあるのである。もちろんこのことには資本主義的生産の基礎という社会的な関係が前提されているのであるが、彼の貨幣が資本になるということ自体は、この基礎から切り離された関係として現れてくるのである。彼がその所有する貨幣を資本として支出しなければ、それは現実に資本として機能し、剰余価値を生産することもできないわけだから、彼が、その所有者がそれを資本として支出するということがすべての出発点なのだということである。
 ここにもマルクスは原注をつけている(【7】)。ギルバトからの引用であるが、ただこの引用に関連して、次のパラグラフ(【8】、これは原注ではなく本文であるが)も書かれている。つまりギルバトは「自然的公正の自明な原理」云々と述べていることを受けて、【8】パラグラフが書かれているが、これは若干本題とずれているので、とりあえずは無視しよう。
 だから【6】パラグラフに直接繋がっているのは【9】パラグラフである。しかし、ここでは【6】パラグラフで述べていることがさらに詳しく述べられているだけである。100ポンド・スターリングの所有者をAとし、それを借り入れる機能資本家をBとして論じ、ようするにAが100ポンド・スターリングを資本として支出するということがとにかく出発点であることが確認されているのである。
 そして次から(【10】以降)、話を一転させて、第1には、利子生み資本の特有な流通を考察するとしている。そして第2には、それが商品として売られる独特な仕方、つまり売られる代わりに貸しつけられる、という独特な仕方を論じるとしている。
 ところでここでマルクスが二つのことを考察するしているが、それはどこからどこまでで論じられているのか少し考えてみよう。まず最初の「利子生み資本の特有な流通」については、恐らく【11】パラグラフから始まり、【18】パラグラフまで続いているように思える。そして次の利子生み資本が商品として売られる独特の仕方については、【19】パラグラフから、【42】パラグラフまで続くように思える。関連して最後の部分でプルドンの批判が行われている(【33】~【42】)。そして【43】パラグラフからは利子生み資本を特徴づけるものとしての外面性が考察されている。そして【50】パラグラフからは、一転して利子の考察が始まる。そしてそれが最後まで続いているように思える。だからこの「1)」の全体の構成は大まかには次のようになっていると思える。

(1)利子生み資本の直接的規定、貨幣が資本として商品になる(ブルジョア経済学者や経済人にもとらえられるものとしての利子生み資本)(【2】~【9】)
(2)利子生み資本の特有な流通の考察(【10】~【18】)
(3)利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察(【19】~【42】)
    (プルドン批判【33】~【42】)
(4)利子生み資本を特徴づける外面的な形態(【43】~【49】)
(5)利子の考察(【50】~【78】)
 (利子を貨幣資本の価格とするのは不合理である【67】~【72】)
 (利子生み資本の運動に対して商品の買い手と売り手という単純な諸関係を直接に適用しようとすることは、はじめから馬鹿げたことである。【72】~【74】)
 (利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、需給によって決まるという問題【75】)
 (利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子もまたただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態を取る。【76】~【78】)

 つまりこの「1)」(第21章)は、このように大きくは五つの部分に分けられて展開されているのである。

 全体の大まかな構成に見通しをつけたので、引き続きそれらの細部の検討に入っていこう。以下では、われわれが付けた項目を立てて検討してゆこう。

(2)まず利子生み資本の特有な流通の考察である。マルクスはその運動をG_G_W_G'_G'と表している。ここで利子生み資本に特有な流通は最初のG_Gと最期のG'_G'である。{なぜか、マルクスはそのあいだのG_W_G'を商業資本の運動としているが、これが産業資本の運動G_W(P,A)…P…W'_G'としても良いわけだが、それについては何も言及していない。ただ先にも指摘したように、【67】パラグラフでは、〈前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで,行なわれる〉と述べて、生産的資本家を前提することが述べられている。}ここで利子生み資本の特有な流通として重要なことは、利子生み資本の特有な流通である最初のG_Gも最後のG'_G'も資本の現実の変態の契機、あるいは再生産過程の契機ではないということである。

(3) 次ぎに利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察であるが、この部分は単純な商品流通や現実の資本の流通と比較されるなかで検討されている。
  まずマルクスは商品としての資本に特有な形態である、貸付という形態をとるのは、資本がここでは商品として現れるという、または資本として貨幣が商品になるという規定そのものから出てくるのだと指摘する。
   ただ〈資本が商品として現れる〉とか〈資本としての貨幣が商品になる〉と言っても、それはどういうことかが問題である。それをマルクスは〈ここでは次のような区別をしなければならない〉として、単純な商品流通や資本の流通との比較のなかで明らかにしているように思える。
  まず資本が流通過程では貨幣資本や商品資本という形態をとるが、しかし貨幣資本も商品資本も実際の流通に出てゆくならば、それは単なる貨幣や商品として振る舞うこと、だからそれらが資本としての規定性を受け取るのは、その流通行為によってではなく、それらが資本の再生産過程の一契機であり、資本としての総運動との関連によってであることを指摘する。だから貨幣や商品が資本として現れるのは全過程との関連でそれらが捉えられるかぎりであり、それらの流通過程では決して資本として譲渡されるわけではないこと、現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、ただ生産過程においてであることが指摘されている。
  そしてそれと比較するかたちで、利子生み資本の場合が論じられるのである。つまり利子生み資本では資本の流通過程とは異なり、貨幣や商品は資本として流通過程に入っていくのである。 それが利子生み資本の独特な性格をなしていると指摘されている。
  利子生み資本の場合は、それを第三者に譲渡する人にとっても、それは資本であるし、それを受け取る第三者にとっても資本なのだというわけである。
  {ここでマルクスは追記として貸付や還流にはさまざまな形態がありうることに言及しているが、それはとりあえずはわれわれとしては割愛しよう。}
  次ぎにマルクスは関連させて、この問題で混乱しているプルドンの批判を展開している。
その批判は次の一文に集約されている。

  〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させているものはなにか?
  それは,売る,価格,対象を譲渡する,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現象,それゆえ,売ることが貸すことに転化し,価格が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)  

(4)利子生み資本を特徴づけるのは、それが増殖してその出発点に帰ってくるということではない。それは資本一般の特徴づけである。利子生み資本が利子生み資本として特徴的なのは、そうした出発点への復帰が、その媒介から切り離された、外面的な形態だということである。だから貸付や返済は任意な法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらは現実の資本の運動自身とは何の関係もないものである。取り戻しを条件とする手放し、すなわち貸付と借受が、この独自な形態の運動である。利子生み資本の場合には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との法律上の取引の結果でしかない。それはただ、貨幣の貸付と返済として現れるだけで、その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのである。しかしいうまでもなく、貨幣資本家が彼の貨幣を資本として貸しつけることができるのは、それが現実に資本として運動し循環運動を行うからである。ただそれが利子生み資本の運動ではそれは前提されているが、直接には関係ないものとして消えているのである。

(5)利子の考察。まずマルクスは利子について〈平均利潤のうち機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分〉と規定している。
 ここでもマルクスはまず〈貨幣資本家は,借り手である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉と述べている。そして何を譲渡するかという問いに、〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである〉と答えている。
 そして次ぎにマルクスは〈では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか?〉と問い、借りられた貨幣が生産することのできる利潤の一部分だというマッシーの一文を引いて答えている。そして単純な商品と関連させてこの問題を論じているのであるが、ただマルクスはこうした考察を踏まえて、利子が資本の価格として現れることはもともとは不合理であり(価格の概念からすれば)、資本の貸付を単純な商品の関係と関連させて論じるのはもともとばかげたことなのだとも指摘している。さらに利子と本来の利潤とへの利潤の分割は需要と供給によって決まるということ、その点で単なる商品の価格とは異なることが指摘される。そして最後に、利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子においてもただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態をとるのだと指摘して、この「1)」を終えている。

  こうして全体をみると、この「1)」は、まず最初は利子生み資本の概念が与えられている。そして次ぎに「利子」が考察され、その概念が与えられるという二つの部分に分けることができる。そして全体としては単純な商品や資本の関係と比較・関連させて、利子生み資本に特徴的なものを明らかにするという手法をとっているということができるだろうか。
  「利子生み資本」とは、その所持者が、第三者に貸しつけて、利子をつけて返済を受ける貨幣、または商品のことである。ここでは貨幣(商品)は、その所持者はそれを資本として手放し、それを借り受ける第三者にとってもそれを資本として利用するわけである。だから利子生み資本に特徴的な流通は、貨幣または商品の単なる移転でしかなく、それ自体は再生産過程の契機ではないし、その外部に属し、よって外面的な関係として現れてくるということである。だからまたそれは法的約定によって行われる取引でもある。そしてこの資本としての譲渡ということが、それが商品として現れてくる理由でもある。それは貸付であるが、あたかも貨幣という商品が販売されるかの外観を得るわけである。経済人たちが銀行は資本という商品を扱う商人だとするのもそうした理由からである。だから利子生み資本にもっとも特徴的なのはそれが外面的な関係にあるということである。つまり再生産過程の契機をなさず、その外の関係として、一定の法律的取引として、あるということである。
  しかしそれが資本であるのは、その価値を維持するだけではなく、増殖して、還流してくるからである。その増殖分、生産的資本家が彼が生み出す利潤のうち彼のものではなく、貨幣資本家のものになる部分がすなわち利子である。資本としての貨幣が商品になる関係から利子はこの商品の価格となるのであるが、しかし利子が価格になるというのはもともと価格の概念からして不合理である。利子生み資本は、本来外面的なものであるが、利子についても、ただそれが一定期間に対して支払われるという外面的な形で現れる。
  まあ、ざっと以上のことが語られているわけである。

 

  (以上でエンゲルス版第21章該当部分の草稿の段落ごとの解読は終了する。次回からは第22章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかることにしたい。)

 

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